法律相談センター検索 弁護士検索
2022年12月 の投稿

私が出会った日本兵

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 方 軍 、 出版 日本僑報社
 日本人が一人で外国人と接するときは、きわめて普通。アメリカ人やアルゼンチン人など他の国の人々と同じように、親切で、気軽に声をかけあい、相手への理解を示し、自然で、同情心や正義感を持ち合わせている。しかし、集団になると、国籍をもった「日本人」に変わる。何をするにも集団の意志に従い、あるいは別の人の顔色をうかがいながら行動するようになる。
 1931年から1945年までに合計450万人の日本兵が中国の土地を踏んだ。この14年間に、中国で殺され、負傷し、捕虜になったのは154万人。中国で投降した日本人兵士は128万人。これに対して、中国の一般民衆の死傷者は3120万人で、軍隊の死傷者は380万人。日中戦争で中国側が蒙った経済損失は6千億ドル。
 ドイツは戦争賠償金として1千億マルクを支払った。これに対して、日本は18ヶ国に対して6566億円しか支払っていない。ケタ違いに少ない。
 日本の満蒙開拓団31万人は、東北(満州)の荒れ地を開墾してやった…。とんでもない嘘です。既に中国人(満州人も漢人もいた)が開拓して農地にしていたところに、関東軍などが有無を言わさず安く買いたたいて占拠し、現地農民を追い出したのです。フェイク・ニュースに乗せられてはいけません。
 八路軍は平素から訓練を積んでいて、勇敢で頑強、夜戦に強く、移動は風のように速かった。八路軍は巧妙に立ち回って日本軍の気勢をそいだ。少ない人数で、もっと規模の小さい日本軍の部隊をやっつけ、すぐに他の場所に移動していく。
 情報は戦争の分野でも、経済の分野でも重要なカギを握る。
 中国大陸で日本軍は本当に残虐な行為をしたのか…。そんなことはしていない、してほしくもない。そんな思いと、残虐に加担した兵士たちは一切口を閉じたままだった。なので、国内にいた日本人に対して日本軍の残虐行為が語られ、明らかにされることはなかった。
 中国に渡った日本軍兵士だったという人たち300人にインタビューしてこの本に成果となってあらわれたのでした。今から20年以上前に刊行された貴重な本です。中国の人々と仲良くするためにも、日本人が中国で残虐な行為をした事実から目をそむけてはいけないと、つくづく思います。
(2000年8月刊。税込2090円)

撤退戦

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 斎藤 達志 、 出版 中央公論新社
 防衛大学校から陸上自衛隊に入り、現在は防衛省防衛研究所で戦史を研究する著者による古今東西の撤退戦を分析し、検討した労作です。
 ヒトラーのダンケルク撤退戦のときの停止命令とスターリングラードの包囲からの脱出拒否命令の対比は興味深いものがあります。ダンケルクのほうは、なぜかドイツ軍先鋒の戦車部隊が突然に進撃をやめ2日間も停止してしまいました。そのおかげで、イギリス軍のほとんどとフランス軍の多くが海峡を渡ってイギリスに逃げきることができました。イギリスは大小の船をかき集めて海峡を渡って35万人もの将兵を救いだしたのです。
 なぜヒトラーが突然の停止命令を出したのか、その理由があれこれ推測されていますが、私は、ヒトラーが個人的なやっかみから、ドイツ軍の将軍たちにあまりに勝ち過ぎてヒトラー以上に名声をかちとったらまずいと思ったからではないかという説が一番ありうることではないかと考えています。
 そして、スターリングラードのほうは、ヒトラーが1942年11月の時点で、「理性的」な軍事的判断が出来なかったから、パウルス大将の脱出許可を求める要請を無下に却下してしまったのではないかと考えています。もちろん、ゲーリング国家元帥が、空軍による補給は出来るなどと安請合したということも要因の一つだったとは思いますが…。ともかく、パウルス大将にしても参謀長にしても、ヒトラーを最後まで信じようとして、結局は破滅したというのが事実経過です。
 パウルスはソ連に抑留されたあと、1944年8月、ドイツ本国向けラジオ放送で、ヒトラー打倒の国民運動を起こすよう呼びかけたとのこと。やはり、よほど悔しかったのでしょうね。ともかく、スターリングラードでは将校2500人を含む9万1000人のドイツ軍兵士がソ連軍の捕虜となりました。そのうち、どれだけの人が生きてドイツに戻れたのでしょうか…。
 朝鮮戦争のときのマッカーサー将軍も実は事実を直視する力に欠けていました。CIAなどが、中国軍が大々的に参入してきているという情報をあげ、また中国人捕虜も中国軍の内情を詳細に話しているのに、マッカーサーは、中国軍の本格的参入はないと、かたくなに否定しとおしたのです。信じられません。
 朝鮮戦争に介入した中国軍は名称こそ義勇軍でしたが、実際には完全な正規軍。ただし、アメリカ空軍によって制空権をうばわれていたことから夜間だけ進軍した、それも山岳・森林地帯で浸透し、南下していったのでした。
 この本には、中国軍の総司令官を「林彪将軍」としていますが、もちろん間違いです。彭徳懐将軍です。林彪は朝鮮への出兵に消極的で、病気を口実に総司令を断っています。単なる誤植とは思えないところが残念です。
 ビルマのインパール作戦はあまりにも無残な結果を参加した日本軍将兵の身にもたらしたわけですが、初めから合理性のない無謀な作戦でした。
 沖縄戦について、この本では、牛島司令官が撤退せずに首里にとどまっていたら、5月までに抵抗終了したか、降伏して終了したのではないか、それで戦死傷者もうち止めになった可能性があるとしています。なるほど、そうなのでしょうね、きっと。
 アメリカ側の研究者からは、沖縄にこだわらず、早く本土へ王手をかけるべきだった、そうしたら、もっと早く戦争が終わって、戦死傷者は日米双方とも少なくてすんだのではないかという意見も出ています。これまた、私も納得できるところです。皆さん、どう思いますか?
(2022年8月刊。税込2970円)

秋山真之

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 田中 宏巳 、 出版 吉川弘文館
 日露戦争におけるロシアのバルチック艦隊を東郷平八郎の連合艦隊が撃破したときの参謀として名高い秋山真之の実像に迫った本です。
 著者によると、秋山真之の功績は、海軍大学校での兵術講義と日露戦争における作戦計画の二つにあるとのこと。
 兄の秋山好古(よしふる)は陸軍大将として、日露戦争のときは騎馬兵を率いていました。
 秋山真之は、若いときアメリカに留学しています。そこで、米西戦争を実地に視察して学び、また、兵理学を深く研究したようです。ヨーロッパにもまわって秋山兵学を確立したのでした。そして日本に戻ってからは海軍大学で講義しはじめました。
 艦隊決戦というけれど、それは海戦の始まりであって、文字どおりの決戦はその後の追撃戦であり、その主役は魚雷である。つまり大艦巨砲主義はとらない。駆逐艦や水雷艇の担当する魚雷が勝敗を決するというのです。これには驚きました。
 日露海戦のとき、秋山真之は37歳。
 このころの日本の軍艦を動かしていたのは、日本の和炭、つまり筑豊や三池炭鉱の石炭。しかし、これでは大型化高速化した艦艇の需要をまかなえなかった。もっと火力の強い粘結炭が必要で、そのため日本はイギリスのカーディフ炭を高く(和炭の8~10倍)買い付けていた。海軍は通常航行用には和炭、高速を求める戦闘用にはイギリス炭を使うというように使い分けてていた。
 日本海海戦の前、日本のマスコミは、ずっと南の海域で日本海軍は迎え撃つと予測していた。バルチック艦隊が北上して朝鮮海峡に来ることが分かっていても、旗艦「三笠」では、司令部で議論百出してなかなかまとまらなかった。それは小説に描かれるような格好のよいものではなかった。
 戦艦・巡洋艦ではロシア側に分があり、駆逐艦・水雷艇では日本側が圧倒的な優位に立っていた。結局、水雷攻撃で勝負は決まった。ここのところが、後世に誤って伝わっている。なーるほど、そうだったんですね…。
 秋山兵学も絶対ではなく、飛行機や潜水艦が出現してから、脱皮する必要があったのに、新しい思想は構想されなかった。
 シーメンス事件の調査委員会で秋山真之は花井卓蔵弁護士(国会議員)と激しい議論を繰り返した(当時、ともに45歳ころ)。
 秋山真之は、日蓮宗の信徒から、最後は大本教信仰へ移り、享年51歳で亡くなりなった。これまた知りませんでした。大本教といったら、戦前、軍部からひどく弾圧されましたよね。いろいろの発見がある本でした。
(2009年10月刊。税込2200円)

あの夏のソウル

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 イ ヒョン 、 出版 影書房
 1950年6月25日、朝鮮戦争が始まった。
 私も大学生のころは、なんとなくアメリカが先に北朝鮮に仕掛けた、あるいは故意に隙(スキ)を見せて北朝鮮軍を引き寄せて始まった戦争ではないかと疑っていました。でも、今では金日成が毛沢東の反対を押し切り、スターリンから同意を取り付け、その援助を受けて「赤化統一」の名のもとに南侵して始めた戦争だというのが歴史的事実として動かない事実となっています。だから、当初、北朝鮮軍はたちまち南下して、釜山あたりだけを残して韓国の大半を占拠した(できた)のです。
 朝鮮戦争で残念なのは、双方とも民間人を相当に虐殺しているということです。刑務所に収容されている人を虐殺したり、避難中の人々を殺害したり、どちらの陣営もしているということです。この本(小説)にも、その事実が反映されています。悲しい現実です。武器を持った内戦というのは、なかなか歯止めがきかないものなのでしょうね…。
 北の人民共和国は、地主と親日派の人々を厳しく断罪した。
 南のほうも、アカは裁判なしで処刑し、道にさらして当然…。
 北朝鮮軍が侵攻してくるとまもなく、首都ソウルは陥落寸前となった。李承晩大統領は、ラジオでは首都ソウルを死守すると言いながらも、いち早くソウルを抜け出した。いつの世も、いつの支配者も、国民を置きざりにして、我が身の安全が最優先なのですよね…。
 ソウルには、「われらの偉大なる指導者、金日成将軍万歳。朝鮮民族の親愛なる友、スターリン大元帥万歳」というスローガンが大書された。
 ところが、まもなくアメリカ軍に制空権を奪われ、ソウルもいたるところにアメリカ軍の爆撃機が爆弾を落としてまわっている。
 そしてアメリカ軍が仁川に上陸したあと、戦局は急転回し、北朝鮮軍は、ほうほうの体で後退していった。
 去年の夏に避難しないでソウルに残っていた人たちは、国家反逆罪の嫌疑がかけられた。「日常生活を送ってください」という韓国政府のことばを信じてソウルにとどまったというのに、それ自体で疑われる理由になった。
 生きるために人民軍に協力したのであれ、信念をもって参加したのであれ、人民共和国の世で明るい太陽を見て息をしていたという理由だけで、アカという疑いをかけられた。アカだと目をつけられたら、それだけで、その場で命を失った。裁判を経て処刑される人たちは、それでも死を準備する時間くらいは持てるのだから、まだましと思えるほどだった。
 朝鮮半島に生きる人々にとって、戦争は歴史ではなく、日常である。この言葉は重たいです。朝鮮戦争のなかで翻弄される学生たちの悲惨な状況がよく描かれていて、他人事(ひとごと)とは思えませんでした。
(2019年3月刊。税込2420円)

平頂山事件を考える

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 井上 久士 、 出版 新日本出版社
 最近、「歴史戦」というコトバを見聞することがあります。見慣れないコトバですが、サンケイ新聞などの右翼が好んで使うコトバです。日本は中国で何も悪いことなんてしていない、不当な言いがかりから日本の名誉を守るということのようです。彼らは「南京大虐殺はなかった」とか、「従軍慰安婦なんていなかった」などと叫んでいます。
 そして、平頂山事件については、抗日ゲリラや匪賊が撫順炭鉱や満鉄社員を虐殺したので、日本軍が反撃に出て、抗日ゲリラに通じていた住民を殺害しただけのこと、こう言います。
 しかし、平頂山事件は、戦闘行為に巻きこまれた住民の死亡事件ではない。「歴史戦」論者は、史実をまったく無視して、デタラメなことを吠えているだけ。まともに信じてはいけない。
 1932年9月、撫順炭鉱が抗日ゲリラ部隊の大群から襲撃された。大刀会(秘密結社)のメンバーを中心として、遼寧民衆自衛軍を名のる2千人ほどの部隊だった。
 その報復として日本軍が起こしたのが平頂山事件。9月16日、撫順守備隊を中心とし、憲兵隊、防備隊、警察などを総動員して、平頂山の住民を追い立て、1ヶ所に集合させて機関銃で掃射のうえ刺突してトドメを刺すという大虐殺事件。この住民大量虐殺は、意図的かつ計画的なものだった。
多人数の要員を確保し、輸送車両や機関銃、ガソリンや重油などの大々的な事前準備を要する攻撃であって、その場の咄嗟(とっさ)の判断でできることではない。
なぜ平頂山の住民が日本軍から虐殺されたかというと、抗日ゲリラが来るのを知っていながら日本軍に通報しなかったこと、それは襲撃に加担したも同然なので、この村を処分する、つまり、村民を殺害し、村の建物を焼却し尽くすという方針を決めた。
出動した守備隊員は住民虐殺を前もって伝えられていた。
集落の周囲を包囲して、住民の脱出を防ぎながら、「記念写真を撮(と)る」、「大刀会から住民を守る」、「砲撃演習をおこなう」などと住民を騙して、全住民を崖(ガケ)下の窪(クボ)地に追い込んだ。
 「いまから陛下がお前たちにお金をくださるから、みなひざまずいて感謝するように。写真を撮ってからお金を渡す」と説明した。そして布で覆われた三脚の上の写真機なるものは、実は機関銃で、それから虐殺が始まった。
虐殺の前に、住民のなかにいた朝鮮人十数人は外に出され、難を逃れた。
重機関銃1挺と軽機関銃3挺による機銃掃射が始まった。そのあと、「まだ生きている奴がいる」と言いながら、日本兵は銃創で一人ひとりを刺突していった。全住民を虐殺するのに2時間以上かかった。
ところが、日本軍が去ったあと、まだ生きていた数十人がその場から逃げだした。
そして、重油で遺体を焼却し、崖にダイナマイトをしかけて土砂を崩して遺体を隠した。遺体の処理にあたったのは朝鮮人で、崖にダイナマイトを仕掛けたのは、中国人の炭鉱労働者。殺された平頂村の村民も撫順炭鉱で働いていた炭鉱労働者が多かった。
当時の平頂山の住民は400世帯、3000人なので、犠牲者は少なくとも2300人ということになる。責任者である撫順守備隊の川上精一中隊長(大尉)は戦犯容疑者として逮捕される日(1946年6月)、日本に戻っていて、自宅で青酸カリで自決した。
そして直接的実行犯の井上清一中尉は何ら処分されないどころか、1934年には、「満州事変論功行賞」として功五級金鵄(きんし)勲章を授与された。
そして、日本の敗戦後、平頂山事件の裁判が始まった。1946年12月、瀋陽(旧奉天)で起訴され、1948年1月3日、判決が宣告された。国共内戦が激化していたので、控訴はまもなく棄却された。撫順炭鉱の次長だった久保孚(とおる)など7人が死刑となり、4月19日、7人全員の死刑が執行された。つまり、実際に虐殺を指揮して実行した日本軍の川上中隊長や井上小隊長などが責任を問われず、そのかわりに民間人が責任をとらされた。
井上中尉は1969年まで生きて大阪で病没した。GHQは戦犯として日本から中国へ送還できたはずだが、それはしなかった。南京大虐殺事件ではそうしたのに、平頂山事件では、しなかった。
歴史の重たい事実の一端を知ることができました。
(2022年8月刊。税込1760円)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.