弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(明治)

2020年9月16日

幕末維新と自由民権運動


(霧山昴)
著者 江島 香 、 出版 柳川市

コロナ禍によって水郷・柳川の川下りもさっぱりのようです。
その柳川が幕末から明治にかけてどのように動いていたのかを明らかにした本です。
私は柳川における自由民権運動の状況を知りたくて、本書を購入しました。というのも、明治時代、代言人そして弁護士の人数において、筑後地方は福岡・北九州と互角の勝負をしていたのです。要は、それほど自由民権運動が盛んだったということです。いったい、なぜなのか...、とても興味があります。
本書を読んで、その謎が解けたというところまではいきませんでしたが、自由民権運動が活発だったこと、内部では激しい対立・抗争があっていたことを知りました。
自由民権運動が始まったのは、明治7年(1874年)1月に、民撰議院設立の建白書を提出したことから。明治10年代、国会開設を求める運動は全国に広がり、2100をこえる結社が結成された。
明治13年(1880年)、柳川の城下町を中心とした結社である協集社、三池郡の盍簪社が結成された。その前の明治8年、大阪に愛国社が設立されたが、自然消滅し、明治11年9月に再興大会が開かれた。
明治11年5月に、福岡の向陽社が主導して、九州連合会は福岡会を開いた。明治12年10月には久留米まで九州連合会が開かれ、柳川からも参加した。
三池郡の盍簪社(こうしんしゃ)は、永江純一(のち福岡参議会議員そして衆議院議員)や、陸軍大将による立花小一郎などが参加していた。明治13年4月に、公同社と改称した。
福岡では明治12年12月、向陽社が主導して筑前共愛会が成立した。
明治13年には、旧柳川城下に協集社という結社が成立していた。そして、同年3月、大阪で開かれた愛国社は国会期成同盟と改称された。
明治政府は明治14年10月に明治23年に開設すると発表した。
明治14年ころ、主権論争がたたかわれた。永江純一らは主権は国民にあるが、君民統治と主張し、由布九郎たちは主権は天皇にあると主張した。そして、この意見の違いから、有明会は分裂した。
明治15年、集会条例など政府の規制が強まり、運動は萎縮した。そして、同年、柳河改進党が結成された。明治18年、九州改進党が解党したのを受け、柳河改進党も解党した。
明治19年後半から、大同団結運動が盛り上がった。同年7月、福岡県全域を基盤とする政談社が設立された。
明治22年3月、大同団結運動の中心人物だった後藤象二郎が黒田清隆内閣の大臣として入閣したため、この大同団結運動は一時混乱した。
明治22年2月に熊本で開かれた旧九州改進党大会には九州全域から2800人もの参加があった。ところが、会の性格をめぐってもめて、大同団結どころか、大会から退場する人々がいた。そして、大同派と非大同派という派閥が生じてしまった。非大同派の永江純一たちは政談社を退社した。
永江純一は江戸時代には庄屋、明治になってからは戸長をつとめている。野田卯太郎は、みやま市の農家の出身。この二人が福岡県会議員になったのは、明治19年のこと。非大同派は、政治経済をふくめた地域社会の発展を重視していた。そして、二人とも徳富蘇峰に近い立場だった。
明治21年2月、外務大臣に就任した大隈重信は、条約改正に取り組んだが、そのなかの一つに外国人判事の大審院任用があった。もちろん、これには猛烈な反対運動がおきた。
うひゃあ、知りませんでした。日本の大審院判事に外国人判事をおくなんてことを大隈重信たち当時の偽政者が考えていただなんて...。とんでもないことです。
幸か不幸か、大隈重信は馬車に爆弾を投げつけられて負傷し、この条約改正は中止され、辞職した。
福岡そして南部の筑後地方には自由民権運動参加した人の層が厚い(熱い)ことをひしひしと感じさせます。それが、代言人そして弁護士を志向する若者をひきつけていったと言えないものでしょうか...。本文400頁もの力作です。
(2020年3月刊。1500円)

2020年5月29日

日本史からの問い


(霧山昴)
著者 三谷 博 、 出版 白水社

著者は私と同じ団塊の世代です。東大闘争のとき、私と同じ駒場寮で生活していましたが、まったく関わっていないようです。
著者は1968年4月に東大に入学(私は1967年4月入学です)し、6月から紛争が勃発して、やがて授業がなくなり、麻雀に走ったようです(「何もしなかった」ともありますので、よく分かりませんが...)。
同じ部屋の全共闘の先輩が「東大解体」を主張したので、東大を壊したあと、どうするのか問うと、「京大に入る」と先輩は答えたとのこと。とんでもない答えです。大学解体を叫んだ全共闘とそのシンパは多かったのですが、東大を中退した人はごく少数でしかありません。
私自身は、せっかく苦労して入った東大を中退するなんて考えたこともありません。むしろ、どうやって社会に還元できるかを真面目に議論していました。これは、今でも間違っているとは考えていません。それにしても、今、全国の大学の卒業式の大仰さには強い違和感があります。なんだか「特権階級」意識を共有する儀式のように思えてならないのです。
それはともかくとして、駒場寮の食堂や屋上で開かれた代議員大会について「共産党系の団体が主催」としたり、「ストライキ解除のための集会」と書いたり、「歴史家の常道に反し、一切当時の記録を見てない」と書いて活字にする神経は信じられません。これは「記憶の誤り」以前の良心の問題ではないかと私は思います。
以上のような著者の記述を批判しつつも、明治維新についての著者の指摘には、大いに目が開かされ、勉強になりました。
まず、著者は、明治維新について、世界の革命史学で注目されることはほとんどないが、これは、19世紀の世界で起きた、もっとも大規模な革命の一つだったと強調しています。
明治維新は革命であったが、その犠牲者はわずか3万人にとどまった。フランス革命では、内戦で40万人、対外戦争で115万人、あわせて155万人の犠牲者が出たのに比べて、2桁少ない。20世紀のロシア革命や中国革命と比べると、3桁は違っている。
明治維新のなかで、長州は当初は関与していなかった。王政復古クーデターのなかの5大名にも長州はいない。
徳川権力の打倒は王政復古によっては決まらなかった。徳川幕府の崩壊と新政府の樹立にともなく内乱は東北のみ限定された。その結果、死者は1万4千人にとどまった。
武士の解体は、人口の6%を占めた武士の3分の2が官職を失い、さらに全員が家禄を定額の国債と引き換えに奪われた。これは、世界史上まれにみる大規模な階級変動だった。
明治維新は、世襲・身分制を廃止した。これも革命の根拠とする一つである。
明治政府で政策決定を実際にしたのは2等官以下であり、西南内乱(西南戦争)までに高等官の20%は庶民出身になっていた。
明治維新は外発的な革命であり、いかなる内部的予兆もペリー到来の前に見出すことはできない。
著者は、江戸時代の日本の政治構造を次のように説明します。
国の頂上に、江戸に本拠を構える徳川氏の「公儀」と、京都の「禁裏」の二つの政府がある。そして、国の基礎単位は2百数十の大名の「国家」だった。このような一つの国家の頂上に2人の君主とその政府が併立するというのは世界史に珍しい。他には18世紀後半のベトナムにみられるだけ...。このような分権的構造が国家体制の解体を容易にし、かつ君主が2人いたために片方が権威を失ったとき、ただちに他方に権力を集中できたのだ。
明治維新とは、どういうものだったのか、果たして革命だったのか、大いに考えさせられる刺激的な本です。
(2020年3月刊。2500円+税)

2020年5月 6日

はたらく浮世絵


(霧山昴)
著者 橋爪 節也・曽田 めぐみ 、 出版  青幻舎

浮世絵師の三代歌川広重が描いた大日本物産図会です。
なるほど、写真でなくても、こんなに当時の職業の実際が生き生きと描けるのかと驚嘆しました。なにしろ驚くほど写実的なのです。まるで、目の前で本当にたくさんの人々が、それぞれの職業を営んでいるかのようです。
大日本物産図会は、明治10年(1877年)の第1回四国勧業博覧会に出品された各地の名産品を描いた錦絵のそろいもの。
明治10年というと、西南戦争があった年です。ですから、薩摩の名産品はありません。
描いた三代歌川広重は天保13年(1842年)に船大工に生まれた、本名は後藤寅吉という。三代広重が浮世絵師としてデビューした翌年、明治となり文明開化がすすんだ。当時は写真が普及していないことも幸いして、三代広重は浮世絵師として順風満帆だった。
団扇(うちわ)をつくって売る店の内部が描かれています。それも、団扇づくりにみんなで励んでいる店の奥のほう(バックヤード)を前景とし、店先に客がむらがっているのを後景にするという珍しい配置図です。なので、そうか、こうやって明治の初めに団扇をつくっていたのか、その製造工程がよく分かります。
菅笠(すげがさ)をつくっている店の店内を描きつつ、店先を洋鞄(カバン)を手にもち、洋傘を差し、洋靴をはき、洋帽をかぶった和服の男性が歩いていく絵もあります。まったく奇妙な絵です。ザンギリ頭をたたいてみれば、文明開化の音がする...より、少しだけあとの世相をあらわしています。
駿河国(静岡)では、ミツマタの皮を原料とする「駿河半紙」をつくっていた。全体に赤褐色を帯び、裂けやすいという欠点があったが、安価なため重宝されていた。
生糸をつくるための蚕の養殖の絵もあります。当時、ヨーロッパでは微粒子病が流行していて、日本産の蚕紙(さんし)に対する国際的な需要が高まっていた。
当時の日本は、ジャパン・ブルー(藍染の青)であふれていた。日本に藍染の衣類が多いことが分かる。
土佐の浜辺で、漁師とその妻たちが集合し、カツオをさばいて商品化している。
対馬でとれるなまこは古くから珍重されていたということで、海上でのなまことりの状況も描かれています。このなまこは清(中国)へ輸出されていました。
北海道では、ラッコの猟も描かれています。このころ、ラッコの毛皮に対する需要は高く、ロシア帝国の南下政策を支えた一因でもあった。
熊の胆(い)をとるため、雪深い加賀の山中で猟師が斧で冬ごもり中の熊をおびき寄せて殺す絵もあります。
カラフルな浮世絵のオンパレードです。当時の世相を楽しく学ぶことができました。明治初めではありますが、江戸時代の人々の生活が描かれている気がしました。
(2019年12月刊。2300円+税)

2020年2月 6日

明治天皇という人


(霧山昴)
著者 松本 健一 、 出版  新潮文庫

明治天皇は負けん気がつよくて、怒ると瞬間湯わかし器のようにカッと熱くなり、「勅語案を机上になげうつ」ような直情的な行動に出る人だった。
明治天皇は、感情をはげしくあらわにする人だった。
明治天皇は、明治憲法制を発表する勅語案を枢密院開院式の前日に伊藤博文がもってきたのに激怒した。自分にただ「朗読」させようというのは誠実さを欠いている。もう、明日の開院式には出ない、と言いながら勅語案を机にほうり出した。
伊藤博文からすれば、明治憲法草案をつくり上げるのに手間どっていたので、この大変さを誰がわかってくれるのか・・・ということだったであろう。いずれにしても、明治天皇のほうが折れ、何事もなかったように開院式当日には勅語を読みあげた。
明治憲法は「不磨の大典」とされたが、斎藤隆夫議員は大正4年の時点で、それを次のように批判した。
明治憲法は、極端なる君主独裁政治を実現することができるものだから、これは「不磨の大典」にしてはいけないと・・・。
たとえば、議会は立法に参与することが「許されて」いるだけで、立法権は天皇にあった。
「天皇は帝国議会の協賛をもって立法権を行う」(5条)
日清戦争のとき、明治天皇は戦争になることを望んではいなかった。
「今回の戦争は、朕(ちん)、もとより不本意なり」
「これは朕の戦争にあらず」
明治天皇は日清戦争のとき、数えで43歳だった。
明治天皇は、日清戦争が軍部主導ですすめられ、国家主体でないことに不安をおぼえていた。軍部が独走することへの不安だった。
日清戦争は、明治国家と天皇にとって初めての対外戦争だった。
天皇は伊藤博文は信頼していたが、陸奥宗光を嫌っていた。
また、尾崎行雄が大臣になるときも、かつての国事犯を大臣にして果たして大丈夫かと明治天皇は大隈重信に疑問をぶつけた。
明治天皇は自らが北朝の系譜にあるにもかかわらず、南朝が正当性をもっていると裁断した。それは、明治天皇は「忠臣」としての楠本正成を好きだったからだ・・・。
日露戦争についても、明治天皇は開戦に乗り気ではなかった。というのも、ロシアは世界第一、二位の陸軍力をもち、日本との軍事比は5対1とも10対1とも言われていたから、もし負けたら、祖宗にも国民にも申し訳がたたないと心配していたから。
伊藤博文は、日露戦争について、陸海軍のどちらも「必勝を期す」ことができない、それくらいの危険を賭した戦争だと考えていた。
明治天皇は1912年に59歳で亡くなった。糖尿病が悪化し、腎臓病で顔や手足にむくみが出ていた。
明治天皇の人間的側面に光をあてた面白い本でした。
(2014年8月刊。940円+税)

2019年12月13日

三条実美


(霧山昴)
著者 内藤 一成 、 出版  中公新書

三条実美(さんじょう・さねとみ)は公家出身でありながら、明治維新のあと18年間も政権の頂点にあった。なぜ、そんなことは可能だったのか・・・。
ひ弱で、定見のない公家(くげ)のお坊ちゃんだという偏見をもって三条実美をみていましたが、本書を読んで私は少し考えを改めました。
三条実美が亡くなったのは1891年2月、55歳だった。生前に正一位を明治天皇が直接、病床の三条に叙した。生前に正一位に叙せられたのは、男性だと、奈良時代以来、1121年ぶりのこと。
三条実美は、安政の大獄により無念の死を遂げた父(三条実萬)の後継者として幕末の京都政局に登場し、攘夷を唱え、朝廷権威の確立を目ざした。その後、公武合体を志向し、やがて倒幕を辞さない王政復古論者となった。七郷落ちで京都を離れて、長州、ついで大宰府で辛酸の日々を過ごした。
明治維新のあと、三条は明治新政府の指導者に推された。これは公家出身であると同時に、王政復古の象徴的存在として評価されたからだった。
三条は、政治的手腕でいえば、岩倉具視や木戸孝允・大久保利通・大隈重信・伊藤博文らに遠く及ばない。しかし、三条は徳望をもって彼ら群臣の上に立つという能力をもっていた。
三条が輔相・右大臣・太政大臣をつとめた18年間は苦難の連続だった。
明治8年の政変は、皇族・華族・民権派など、応範な不平層を背景に、島津久光・板垣退助らが政府の主導権をにぎろうとした脱権闘争だった。三条実美は反対派の圧力に屈することなく、断固たる態度をとって明治政府の一大脅威だった島津久光を完全に除去した。島津久光は左大臣に就任したあと、太政大臣の惨状を弾劾する上奏分を天皇に提出した。
島津久光が明治政府を牛耳ろうとしていたというのは、初耳でした。知らないことは多いものですね...。
三条は、1873年1月、海外視察に出かけている岩倉具視に宛てて、留守政府の当面の問題として4つを指摘していた。一は島津久光の問題。二は大蔵省問題。三は台湾問題。そして、最後の四が朝鮮問題だった。朝鮮進出をどうするかは最後であり、その前に台湾問題があって、当時もっとも大きかったのは島津久光問題だった。これも知りませんでした・・・。
明治維新のころ、明治天皇はまだ満15歳の少年だった。
1869年、明治新政府は、官吏公選によって人事を刷新した。3等官以上の上級官吏によって公選が行われた。三条は49票を獲得して、輔相に任じられ、議定には岩倉具視、徳大寺実則・鍋島直正が、参与には大久保利通・木戸孝允・副島種臣・東久世通禧・後藤象二郎・板垣退助がそれぞれ当選した。
小さな選挙だったでしょうが、官吏公選というのがあったというのも初耳でした。まことに世の中、知らないことばかりです。とても面白く、最後まで読み通しました。
(2019年2月刊。840円+税)

2019年9月23日

へぼ侍


(霧山昴)
著者 坂上 泉 、 出版  文芸春秋

西南戦争に参加した大坂商人出身の兵士の物語です。なかなか面白く、読ませました。
主人公の志方錬一郎の志方家は、三河以来の徳川家臣。大坂東町奉行所与力として数代前から大坂に土着していた。御役目をこなすかたわら、剣術の志がある武士や町人に指南する道場を営み、祖父の代には大塩平八郎の乱の鎮圧で武功をあげるなど、商都大坂にあって珍しく尚武の家柄だった。
当代不在で御一所の混乱を迎えた志方家は、かつての与力や同心が市中の行政や治安維持の任務を遂行するなか、当面は得られたはずの役目も秩禄も失った。
それで、錬一郎は、部屋住み丁稚として商家に入った。そして、寺子屋に通って読み書き算盤を教わり、商人として身を立てる最底限の知恵を仕込まれ、ついには手代にまで引き立てられた。
大坂が大阪になったのは、徳川の世で「天下の台所」として繁栄したのが明治に入って大きく陰ってきたことから、せめて縁起だけは担ごうと、「土に返る」という文字を避けてのこと。ええっ、これって本当のことですか・・・。
大坂鎮台は、紀州徳川家がかつて編成した銃兵を主力とする壮兵600人をもって遊撃兵第一大隊を編成。その旗下に、府下徴幕の壮兵のみの小隊が編成された。
錬一郎たちは、プロミア陸軍で制式採用された最新式のツンナール銃をあてがわれた。スナイドル銃と同じく元込め式だ。
田原坂の激戦が終わろうとしているころ、錬一郎たちの第一大隊は熊本の南に位置する宇土半島に上陸した。このころから、犬養記者が同行取材する。
薩摩軍は、危ういと思うとすぐに逃げる。決して猪突猛進して全滅するような愚は犯さない。
そして、戦場となった村で錬一郎は、かの有名な「西郷札」に出会います。
「日本通用 金壱圓 承恵社」
一応は紙幣の体裁をとっているが、用いられているのは布で裏打ちしたらしき和紙。インクも粗末で、既に薄れはじめている。正貨との当換など実際になされる可能性は薄く、まるで玩具。
ところが、錬一郎は大坂商人らしく、この西郷札を大量に入手し、それを大坂に持ち込んで、お金に換えようという。縁起物として、物好きな金持ちに買いとってもらうというもの。
まあた負けたか 八連隊(やれんたい)
それでは勲章 九連隊(くれんたい)
敵の陣営も 十連隊(とれんたい)
大阪鎮台  へぼ鎮台
西南戦争をめぐる状況についてよく調べてあり、それを一つのストーリーにまとめあげた筆力に感嘆しました。
(2019年7月刊。1400円+税)

2019年9月12日

幕末維新像の新展開


(霧山昴)
著者 宮地 正人 、 出版  花伝社

江戸時代の人は「鎖国」のなかでも世界情勢を必死でつかもうとしていた。
オランダからの毎年の「蘭国風説書(ふうせつがき)」を入手し、長港に入港する清国商船から「唐国風説書」を入手しようとしていた。
1860年3月3日の桜田門外の変は、国内の政治的雰囲気を180度逆転させ、井伊直弼(いいなおすけ)亡きあとの幕府トップは、将軍=譜代結合のもとで粛清路線を貫徹させる自信を喪失し、公武合体の再構築のための和宮降嫁政策と開港開市の延期交渉、そして遣欧使節団派遣政策にシフトせざるをえなくなった。
そのうえで、1861年2月からのロシア艦隊対馬占拠という領土侵犯事件になんら対処しえない幕府は国内の批判をさらに浴びて、1862年1月15日の坂下門外の変による老中首座・安藤信正の失脚後、幕府は政治的イニシアチブのとれない「死に体」と化してしまった。
1866年6~8月の第二次長州「征代」の「官軍」完敗は、国内の政治的雰囲気を決定的に変え、幕府の軍事的能力の欠如が白日のもとに暴露された。
1867年10月、幕府は大政奉還をしたが、まだ慶喜ベースで進められていた。このままでは実態としては幕府体制の存続となると判断した西郷と大久保は、岩倉と連携し、尾張・越前・土佐・芸州の4藩を引き入れて、12月9日、王政復古クーデターを決定した。
1868年1月3~6日の鳥羽・伏見戦争が薩長両藩の奮闘で勝利したあと、薩長同盟が核となった維新政府に進化していった。
五箇条のご誓文を出したときに明治天皇は17歳だった。1877年2月に始まった西南戦争が、9月に西郷以下の自刃により終結したことから、武装蜂起による「有司専制」政府を打倒することは不可能なことが明白となった。
天皇の勅令が機能しないのは、明治7年の佐賀の乱でも、明治10年の西南戦争でも一貫している。
明治天皇が肉食をはじめた。肉を食べたら穢(けが)れるというのが江戸時代の人々の考えだった。すると、肉食をした天皇を崇拝できるのか、という問題が起きた。ようやく、明治20年代になって、近世的な朝廷から近代天皇制へ確立していった。
明治初めから10年代に各県で新聞が確立していった。これには活版印刷機の普及が背景にあった。在地でお金を出して情報を手に入れようとする層が出てきた。これがあって初めて自由民権運動が出てくる。自由民権運動は、雑誌と新聞なしでは起こらなかった。
末尾に著者は「竹橋事件」について触れています。西南戦争のあと、1878年8月の近衛砲兵の反乱事件です。近衛連兵隊の兵卒たちは、志願兵で徴兵兵卒のなかのエリート。彼らが今の政権は、わが祖国をなんら代表していないとの怒りから武器をもって反乱に立ち上がったのです。自由民権運動の影響を受けていました。弁護士になってまもなくのころ、この事件を知って、私はひどく感動しました。明治の若者に今を生きる私たちは学ぶべきところがあります。武装反乱ではなく、声を上げ、行動すべきだということです。
明治維新をめぐる、大変知的刺激にみちた本でした。
(2018年12月刊。2000円+税)

2019年8月21日

日本人の明治観をただす


(霧山昴)
著者 中塚 明 、 出版  高文研

少なくない現代日本人は、朝鮮半島で日本(軍と政府)がひどいことをしていたことをきちんと認識していないと思います。その原因の一つが、日本がやったこと(事実)が正しく知らされていないことです。たとえば、朝鮮半島への日本(軍)の侵略(武力攻撃)の第一歩となった江華島事件です。1875年(明治8年)9月に起きました。日本の軍艦「雲揚」が永宋島(いま仁川空港があるところ)にある砲台と戦闘して占領し、破壊して大砲を奪ったという事件です。
日本軍のほうから砲台を攻撃して始まったにもかかわらず、日本政府の公式発表では、日本は飲料水を求めていただけなのに、朝鮮側が不法にも攻撃してきたので、やむなく反撃したと書き換えたのです。
日本は、明治8年の段階で、既に朝鮮半島を支配する野望をもっていたのでした。ところが、日本政府の公式発表は、「国際法もわきまえない遅れた朝鮮」だと決めつけ、ことさら「朝鮮の後進性」を強調することで、日本の侵略の事実をおおい隠そうとしたのです。
これって、まるで現代日本の徴用工問題でとっている安倍政権のやり方そのものではありませんか・・・。
明治の日本政府が発行した1円以上の紙幣には神功皇后の像が印刷された。「三韓征代」の立役者を紙幣にのせた意味は大きい。大和政権つまり日本は、あたかも古くから挑戦を征服・支配していたかのような話は、この神功皇后が立役者として必ず登場してくる。
日清戦争は1894年(明治27年)7月25日、朝鮮仁川の沖合で日・清領海軍の衝突から始まったとされている。しかし、実は、日本軍が最初に軍事行動を起こし第一弾を発砲したのは7月23日早朝、ソウルの朝鮮王宮に向かってのことだった。ソウルの景福宮を占領し、朝鮮国王を事実上とりこにしたのだった。この日本軍による王宮占領の真相が明らかにされないよう、またしても日本政府は事実を改ざんした。
日本軍は朝鮮王宮を占領し、国王を事実上とりこにし、国王の実父である大院君をひっぱり出して政権の座につけた。しかし、大院君は、日本の意図に強く抵抗したのです。
日本軍は、朝鮮王宮を占領する前に、清国に通じる電線を切断していた。王宮占領の事実が清国に伝わらないようにするためだ。
このようにして、日本人の大多数は、少し前の私のように、明治以降の日本が朝鮮・勧告で何をしたのかについて無知なだけでなく、朝鮮半島における古代からの歴史を何も知らず、しかし偏見だけは根強くもっているという状況が生まれた。
いま私たちは神功皇后の「神話」を乗りこえなければいけないのです。勇気をもって、目を大きく見開き、そして、日本が世界のなかで信頼される存在たりうるよう小さな努力を積み重ねていきましょう。
この本で卒寿となった著者は、そのことを強く呼びかけています。
(2019年5月刊。2200円+税)

2019年7月14日

陸軍参謀、川上操六


(霧山昴)
著者 大澤 博明 、 出版  吉川弘文館

日清戦争において日本軍の作戦を指導した川上操六について書かれた本です。
日清戦争について、この本を読んでいくつも新しい事実認識をすることができました。
中国(清)は日本に負けたわけですが、中国の当局(権力者たち)は、相変わらず日本を小国と馬鹿にしていた。そして、日本が李鴻章と示しあわせて戦争を始めたのであり、中国が連戦連敗だったのも、李がわざと日本軍に負けるように言いふくめていたからで、下関で李が襲撃されたのは、日本とひそかに通じていることを覆い隠すための芝居であり、日本に中国が支払う償金のうち4千万両は李が手にすることになっている。そんな李は「売国の臣」だ・・・。いやはや、世の中を見る目がない人は、どこにでもいるものですね。
日本軍が清軍に勝ったのは清軍が予想以上に弱かったからで、日本軍の強さを証明したものではないという評価が日本軍の内部にあり、ヨーロッパでも同じように考えられていた。
ロシア陸軍は、このころ日本上陸作戦を検討中で、大阪占領を対日作戦の要(かなめ)としていた。
ロシア軍が日本上陸作戦を考えていて、その目標が大阪だったというのに驚きました。1904年の日露戦争は間近だったのですね・・・。
日清戦争において日本軍は旅順で捕虜となった清軍兵士や一般市民まで虐殺しています。これは日本側でとった写真でも明らかな事実です。のちの南京大虐殺事件のミニ版が日清戦争のときに始まっていたのです。ところが、日本軍の蛮行は、清軍が捕虜となった日本軍兵士をなぶり殺したことへの復讐でもあったのです。こうなると、戦争は人間を鬼に変えるという格言のとおりで、残念な歴史の真実です。
日清戦争の末期、日本軍は限界につきあたりはじめていた。武器も幹部も兵士も不足していた。そして兵站(へいたん)線も困難な状況に直面した。そして、日清戦争の末期には、新しく戦場に送り出せる師団も装備もなかった。そのうえ、朝鮮民衆のテロ行為によって軍用電信はしばしば不通となった。
歴史は知らないことだらけです。それが面白いのですが・・・。
(2019年2月刊。1900円+税)

2019年2月 2日

江戸東京の明治維新

(霧山昴)
著者 横山 百合子 、 出版  岩波新書

眼が大きく開かされる思いのする本です。知らないことだらけで、明治の庶民の毎日の生活を始めて実感できた気がしました。
明治初年の東京には、町方人口の7~8割が、その日稼ぎの人々だった。
下層民とは、①畳や建具はもっているが、三度の食事のうち二度が粥(かゆ)である「上」、②カマドと湯釜、タンスなどは持っているが、サツマイモや粥を日に二度食べるのがやっとの「中」、③畳、建具もカマドもない「下」。
そして、江戸から明治になって物もらい(窮民)が大量に発生した。品川、千住、四ッ谷、板橋そして本所海辺あたりに散在している物もらいや無宿非人が1万余人もいた。
路上には床店(とこみせ)が立ち並んでいた。間口が一間から二間ほどの小さな家とも小屋ともつかない建物。この床店から上がる利益をめぐって、幕府一町、請負人一床所地主(家守層)一床商人という重層的な分配構造が形づくられていた。やがて路上から追われた床商人たちは、明治10年代になると、共同で付近の店舗を借り受け、密集した商いの場をつくり出していった。
新吉原遊廓では遊女たちによる放火が多かった。遊女の処遇が過酷だったから。1849年に起きた放火事件は、遊女16人によるもので、すぐに発見されるよう表通りからも目に着く2階の格子に放火し、直ちに名主の下に自首して抱え主の非道を告発したものだった。
明治になって解放令が出たあと、遊女かしくと竹次郎の連名による嘆願書が紹介されています。そこでは、7歳で身売りして新吉原の遊女になったかしくが、「遊女いやだ申候」として、解放のうえ結婚することを認めてほしいと東京府に願い出たのでした。口頭指示で却下されたようですが、それでも、このような書面が残っていたこと自体が驚きです。
江戸が明治に変わったころ、下層市民はどのように生きていたのかを知ることのできる貴重な労作です。この本は、明治初めに生きていた市民の生活の実情を知るため、広く読まれてほしいと思いました。
(2018年11月刊。780円+税)

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