弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(明治)

2022年12月29日

秋山真之

(霧山昴)
著者 田中 宏巳 、 出版 吉川弘文館

 日露戦争におけるロシアのバルチック艦隊を東郷平八郎の連合艦隊が撃破したときの参謀として名高い秋山真之の実像に迫った本です。
 著者によると、秋山真之の功績は、海軍大学校での兵術講義と日露戦争における作戦計画の二つにあるとのこと。
 兄の秋山好古(よしふる)は陸軍大将として、日露戦争のときは騎馬兵を率いていました。
 秋山真之は、若いときアメリカに留学しています。そこで、米西戦争を実地に視察して学び、また、兵理学を深く研究したようです。ヨーロッパにもまわって秋山兵学を確立したのでした。そして日本に戻ってからは海軍大学で講義しはじめました。
 艦隊決戦というけれど、それは海戦の始まりであって、文字どおりの決戦はその後の追撃戦であり、その主役は魚雷である。つまり大艦巨砲主義はとらない。駆逐艦や水雷艇の担当する魚雷が勝敗を決するというのです。これには驚きました。
 日露海戦のとき、秋山真之は37歳。
 このころの日本の軍艦を動かしていたのは、日本の和炭、つまり筑豊や三池炭鉱の石炭。しかし、これでは大型化高速化した艦艇の需要をまかなえなかった。もっと火力の強い粘結炭が必要で、そのため日本はイギリスのカーディフ炭を高く(和炭の8~10倍)買い付けていた。海軍は通常航行用には和炭、高速を求める戦闘用にはイギリス炭を使うというように使い分けてていた。
 日本海海戦の前、日本のマスコミは、ずっと南の海域で日本海軍は迎え撃つと予測していた。バルチック艦隊が北上して朝鮮海峡に来ることが分かっていても、旗艦「三笠」では、司令部で議論百出してなかなかまとまらなかった。それは小説に描かれるような格好のよいものではなかった。
 戦艦・巡洋艦ではロシア側に分があり、駆逐艦・水雷艇では日本側が圧倒的な優位に立っていた。結局、水雷攻撃で勝負は決まった。ここのところが、後世に誤って伝わっている。なーるほど、そうだったんですね...。
 秋山兵学も絶対ではなく、飛行機や潜水艦が出現してから、脱皮する必要があったのに、新しい思想は構想されなかった。
 シーメンス事件の調査委員会で秋山真之は花井卓蔵弁護士(国会議員)と激しい議論を繰り返した(当時、ともに45歳ころ)。
 秋山真之は、日蓮宗の信徒から、最後は大本教信仰へ移り、享年51歳で亡くなりなった。これまた知りませんでした。大本教といったら、戦前、軍部からひどく弾圧されましたよね。いろいろの発見がある本でした。
(2009年10月刊。税込2200円)

2022年12月 8日

日清・日露戦史の真実


(霧山昴)
著者 渡辺 延志 、 出版 筑摩選書

 一般に公刊されている日清戦争そして日露戦争の戦史は、実は本当の戦争の推移は書かれていない、つまり、都合の悪いことは書かないことになっていることを明らかにした本です。どうしてそれが判明したかというと、公刊戦史の前にあった草案が掘りおこされ、両者を見くらべることが出来たからです。
 公刊戦史は、失敗した軍事行動は書かない、成果をあげていない行動はつとめて省略するという編集方針によって書かれている。そして、日本軍の準備不足を暴露するようなことも書いてはいけないし、国際法に違反するようなことも書かないほうがよい、とされました。
 日清戦争のとき、清軍(中国軍)の将軍たちの戦意は乏しかった。平壌まではどうにか日本軍はたどり着いたが、兵糧は限界に達していて、もはや戦えなくなるのも目前だった。
 清軍(中国軍)は平壌に立てこもっていたが、ついに白旗を揚げた。そして、平壌から逃げだした。日本軍は白旗をあげた清軍に対して捕虜にするつもりだった。清軍のほうは、そんな常識を知らないので、白旗を揚げたあとは中国のほうへ引き揚げるつもりだった。決して日本軍をだましたりオチョクルつもりではなかった。あくまで任意撤退するつもりで、白旗をあげたのだった。
 清軍は、戦意に乏しく、情報収集の能力も乏しかった。そして前線の戦地からの威勢のいい報告は敵(日本)軍の兵力を大幅に過大な数量としていた。
日本軍は乏しい食糧を持たず、現地で「敵」から奪ってまかなうことになっていた。ひどい軍隊ですよね。なので、日本軍の兵士たちが略奪にいそしんだのは当然です。
日本軍の食糧を運ぶため近くの村々から人々を追いたてて使ったりするが、この人々はまったく協力的でなかった。お金を支払おうとすると、韓貨でしか支払えず、その韓貨は重たくて大きく持ち運びに不便だった。これも現地の人々による抵抗の一環なんでしょうね。
 日本軍に都合の悪いことがほとんど伏せられた「公刊戦史」なるものが、いかにインチキくさいものであるか、よくわかる本です。司馬遼太郎の『坂の上の雲』を呼んだ人にとっては必読の書です。
(2022年7月刊。税込1760円)

2022年4月26日

リーダーたちの日清戦争


(霧山昴)
著者 佐々木 雄一 、 出版 吉川弘文館

日清戦争について、大変勉強になりました。
その一は、日清戦争で敗北したことから、中国(清)は欧米の列強からたちまち狙われてしまったことです。
その二は、日本の支配層は一枚岩でなく、計画的・意図的に日清戦争を始めたわけではないということです。明治天皇は中国(清)を相手に戦争を始めてしまったことに恐れおののいていました。さらに、明治天皇は陸奥宗光を信用できない男だとして嫌っていたというのです。
その三は、日清戦争では、そのあとの日露戦争とちがって、戦死者よりも戦病死者が圧倒的に多かったということ、日本軍の戦死傷者は千数百人だったのに、戦病死者は1万人をこえた。日露戦争では、総率された近代軍同士の全面衝突があったので大量の戦死傷者が出たが、日清戦争では、それがなかった。日清戦争のときには兵站(へいたん)や衛生への配慮が十分ではなかった。
その一に戻ります。日清戦争を通じて、それまで東洋の大国と考えられていた清の評価は大きく下落し、ヨーロッパ列強は清への進出意欲を高めた。清は東アジアにおいて圧倒的な存在感のある大国だったが、日清戦争の敗北によって、つまりアヘン戦争でもなく、アロー戦争でもなく、地位を大きく低下させた。
その二。かつての学説の通説は、朝鮮進出を早くから日本は目ざしていたので、明治政府と軍は、計画的・必然的に日清戦争を起こしたというものだった。しかし、今や、日清戦争は、日本政府内で長期にわたって計画・決意されたものではないというのが通説的地位を占めている。たとえば、伊藤博文や井上馨は、清との紛争や対立はなるべき避けようとしていた。伊藤博文は、対清協調と朝鮮独立扶持を一貫して主張していた。また、明治天皇は大国の清と戦って勝てるのか不安であり、できることなら戦争を避けたいと考えていた。開戦に前のめりになっている陸奥宗光外相を信用せず疑惑の目を向けていた。天皇は開戦したあと、「今回の戦争は、朕(ちん)、もとより不本意なり」と言っていた。
日清戦争のとき、清は一元的に強力な国家の軍隊を有してはいなかった。人数や外形はともかく、指揮・訓練などの点で問題をかかえていて、本格的な対外戦争を遂行するのに、十分な内実を備えていなかった。すなわち、清軍は、十分に訓練され明確に統率された軍隊ではなかった。
日清戦争とは何だったのか、改めて考え直させてくれる本です。
(2022年2月刊。税込1980円)

2022年3月17日

西南戦争のリアル、田原坂


(霧山昴)
著者 中原 幹彦 、 出版 親泉社

1877(明治10)年の西南戦争で最大の激戦地だった田原坂の戦いについて、現地の発掘状況も踏まえた本です。92頁と薄い冊子ですが、写真や地図が豊富で、よくイメージをつかむことができます。
まず名称ですが、戦争とは、国家間の武力による闘争をさすコトバなので、本当は西南戦役(せんえき)か西南役(えき)と呼ぶのが正しいとのこと。この本は通例にしたがい、西南戦争といいます。そして、英訳は「薩摩反乱記」となっていることが多いそうです。これも、「西南内戦」が適切だとされています。いずれも知りませんでした。
政府軍は熊本と福岡の境の豊前街道上野の南関に本営を置いた。ここから熊本城に至るコースは3つあったが、北の山鹿コースと南の吉次峠コースは、熊本まで数十ヵ所の難所があるのに、田原坂は抜けたらもう一つ向坂の難所があるだけなので、田原坂コースが選ばれた。
当時は自動車がありませんので、馬や牛に頼れないところでは人力しかありません。そして、重たい大砲を運び上げるには、この田原坂を人力でのぼっていくしかなかったのです。
田原坂の戦いは3月4日から20日までの17日間。この17日間のうち6日間、雨が降った。そして最終日の3月20日は大雨だった。「雨は降る降る、人馬は濡れる」という歌のとおりでした。
動員した兵力は薩摩軍が5万人、政府軍は全国から集められた8万人。政府軍の戦費は4157万円で、国家予算の7割に匹敵する巨額だった。
そして田原坂の戦いに政府軍はのべ最大8万人を動員し、死傷者が3000人、戦死者1700人だった。これは政府軍の前線死者の25%で、1日あたり100人だった。薩摩軍のほうは数千人規模で、実数は不明。
政府軍は田原坂の戦いで、548万発、1日32万発もの銃弾(砲弾ふくむ)を消費した。薩摩軍のほうは無駄撃ちせず、政府軍10発に対して1発と、銃弾を惜しみ、必要に応じて猛射した。
薩摩軍が17日間も持ちこたえて激戦になったのは、第一に地形、第二にその将士が一丸となって決死の覚悟で守り抜く気魂があったから。
田原坂は険しい坂道で、トンネルのようであり、細く曲がりくねった険しい山道で、兵略上、守りやすく攻め難い地勢である。薩摩軍は、私学校党の精鋭とここにそろえて死力を尽くし、堅固な陣地を両崖の十数ヵ所に築いた。両軍の距離は、わずかに5、6メートルとか20メートルというほど近接していた。
そして、薩摩軍は150人の集団抜刀で攻撃してきたので、政府軍は当初たちまちやられていった。政府軍は狙撃隊で対抗したが、1週間で全滅。その後、東京警視抜刀隊200人が活躍した。この抜刀隊には元東北諸藩士で構成されたというイメージがあるが、必ずしも正しくない。出身地が判明している45人のうち東北地方出身者は14人、薩摩藩出身者も16人いた。
この本には、薩摩軍にいた兵士のうち政府軍に投降した兵士のみからなる政府軍部隊(231人)が存在していたとのこと。途中から、薩摩軍は集団投降者が続出していたようです。田原坂の現地には何度か行ったことがありますが、この冊子を読んで、もう一度行ってみたいと思いました。
(2021年12月刊。税込1760円)

2021年10月21日

明治維新の歴史


(霧山昴)
著者 梅田 正己 、 出版 高文研

1936年生まれの著者は、いわゆる学者ではなく、出版・編集に関わってきた人です。なので、読者である私が知りたいことが明治維新について書かれています。
たとえば、1868年1月3日から5日にかけて起きた鳥羽伏見の戦いは、幕府軍1万5千に対して、薩長を主体とする新政府軍側は5千。3対1だった。しかし、新政府軍側が圧勝した。なぜか...。第一に、武器の差。新政府軍側はアメリカ南北戦争の終結によって放出された新式のライフル銃を大量に購入していて、訓練していた。幕府軍側でも、直轄軍5千はフランスからの援助で近代化されていたが、訓練が十分でなかった。そして、士気・戦意に違いがあり、実戦経験の有無も大きかった。なにしろ長州藩のほうは、四ヶ国艦隊との戦争など、場数を踏んでいた。この実戦経験のあるなしは戦場では大きかった。なーるほど、そうだっただろうと私も思います。そう簡単には人を殺せないからです。一度それをこえてしまったら、もう歯止めがなくなるようですが...。
アメリカで南北戦争が終ると、大量の小銃が放出された。それをグラバー邸で、有名なグラバーが購入して長州藩に売りつけた。
明治天皇が皇位を継承したのは、まだ15歳のときだった。倒幕勢力は天皇について、「玉(ぎょく)」と称していた。つまり、利用できるだけは利用しようというのです。心から尊崇していたというのでは決してありません。
大政奉還の儀式は1867年10月12日から17日までの6日間にわたって京都・二条城において続いた。そして、この儀式を徳川慶喜は一貫して自ら取り仕切った。これによって、改めて自らの存在の大きさを天下に印象づけようとした。ところが、このあいだに朝廷から「討幕」の密勅が下された。つまり、大政奉還という形で天皇に最大の恭順の意を示した慶喜に対して、討伐せよとした...。
江戸時代、天皇は御所内に禁足されていた。その天皇が、1063年3月11日、ついに加茂の上、下(しも)社に行幸した。
明治時代について大変勉強になりました。
(2021年3月刊。税込2640円)

2021年9月15日

日本近代の出発


(霧山昴)
著者 佐々木 克 、 出版 集英社

明治天皇は明治17(1884)年ころには、明確に自分の意見を述べ、政府要人に対する好みもはっきりしていて、個性派の天皇になりつつあった。たとえば、キリスト教信者と疑った森有礼(ありのり)を伊藤博文が文部省御用掛(大臣)に任命しても、明治天皇は「病気」と称して1ヶ月も面会しなかった。また、黒田清隆は薩摩閥のナンバー1だったが、酒が入ると人物が一変し、トラブルが多かった。井上馨(かおる)に対してピストルを出して追い返そうとした。
明治憲法の草案として、夏島草案というのがあるのを始めて知りました。夏島というのは、金沢の夏島ですが、今の横須賀市夏島町です。このころ、天皇と議会が同等の権力をもつということは認められない、議会は天皇の相談(諮問)機関であるべきだという考え方に対して、伊藤博文は、立憲政治を主張した。それは、天皇の国家を統治する大権は、憲法の規定する範囲内にのみある、つまり、立憲政治の根本は君主権の制限にある、そして、行政の中心には、天皇ではなく総理大臣にあることを強く主張した。
国会開設運動が最高潮に達したのは1880(明治13)年。このころ建白・請願に署名した人は32万人に近い。この当時、20歳から50歳までの人口は770万人なので、その4%にあたる。これはすごい比率だ。つまり、運動に共鳴した多数の民衆がいた。自由民権運動は、一種の文化革命だった。
1874(明治7)年から1884(明治17)年までの11年間に、全国1275もの結社があった。埼玉に29社、神奈川県に100社が活動していた。
このころ、新聞の購読料は高かった。東京日日新聞は1ヶ月85銭。日本酒が11銭、巡査の初任給は6円のとき。ところが、新聞は一般の庶民も読むことができた。新聞縦覧所が各所にあって、立ち読みすることができた。ちなみに、当時の人々は、声に出して読んでいたようです。黙読する週刊はありませんでした。つまり、新聞は広く一般に読まれていたのです。
そして、演説会は、民衆のものでした。義太夫より演説のほうが面白いと言って、人々は聞きに集まった。1881年9月10日、大阪・道頓堀の戎座(えびすざ)で板垣退助らが弁士となって開かれた政談演説会は、1枚5銭の傍聴券5000枚が前日までに売り切れた。
演説会の話がつまらなければ居眠りしたり、ヤジったり、面白ければ熱狂して沸く、弁士も聴衆の反応にこたえて、話をより過激な論調にしたり、臨席している警察官をからかったりする。まさに弁士と聴衆とが一体となって盛り上げる。自由民権の生き生きとしたパフォーマンスがあった。
有名な五日市憲法草案は、このような状況の中でつくられたものなんですね。学習や討論の積み重ねが結実したものだったのです。明治とは、どんな時代だったのか、改めて考えさせられました。
(2021年1月刊。税込1600円)

2021年7月11日

明治14年の政変


(霧山昴)
著者 久保田 哲 、 出版 インターナショナル新書

1877(明治10)年の西南戦争は、近代日本における最大かつ最後の内戦だった。4年後の1881(明治14)年10月、近代日本を方向づける政変が起きた。
明治10年代、議会開設要求が高まり、政府内部でも将来的な議会開設に肯定的になっていった。そして、明治14年3月、参議の大隈重信が即時の議会開設を求める意見書を提出した。
同年7月、北海道開拓使の官有物を破格の安値で五代友厚(黒田清隆と同郷)へ破格の安値で払い下げられるとスクープ報道がなされた。これは肥前出身の大隈重信が情報をメディアにリークした、大隈は薩長政府の打倒を企てているという陰謀論が広まった。
そして、同年10月、御前会議が開かれて、大隈を政府から追放すること、開拓使による官有物の払い下げが中止となった。また、国会開設の勅諭が出され、9年後の議会開設が宣言された。
明治維新の三傑とは、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通。木戸孝允は明治10年5月、43歳で病死した。西郷隆盛は同年9月、城山で死んだ。大久保利通は明治11年5月、暗殺された。
大隈重信は、明治14年に43歳だった。伊藤博文は、同じく40歳。井上馨は45歳。黒田清隆は40歳。岩倉具視は56歳。井上毅は政変のフィクサーと評されるが、37歳だった。福沢諭吉は46歳。
私は、最近、歴史を語るとき、その人が、そのときに何歳だったか絶えず注意しておくべきだと考えるようになりました。年齢は、発想とか行動力に深くかかわるものだからです。
明治14年ころ、天皇親政の実現を企図する宮中グループなるものが存在していたのですね...。もちろん、薩摩グループがあることは、初歩的知識として知っています。それでも、そのなかで、どれほどの力をもっているかについてまで詳しくは知りませんでした。
明治14年5月、政変の前の参議は、薩摩4人で、長州と肥前が各2人だった。
伊藤博文の最大の関心は薩長の連携による政府の基盤強化だった。宮中グループが政治に関与しようと画策しており、在野では自由民権グループが言論による政府打倒を目ざしていた。
明治11年8月、竹橋事件が勃発した。近衛砲兵大隊の兵士が反乱を起こしたのだ。その日のうちに鎮圧され、翌年までに55人が処刑された。
福沢諭吉は政治に無関心ではなく、政府内の人間と積極的に交流していた、そして慶應義塾は、明治11、12年ころ、学生数の減少により深刻な経営危機に陥っていた。明治12年7月、福沢が国会開設を求める本を刊行すると、すさまじい反響があった。福沢の想像以上に、「大騒ぎ」となってしまった。
開拓使官有物の払い下げ批判は薩長藩閥政府批判となり、議会開設・憲法制定要求へと展開していった。
三菱という資金面での後ろ盾、福沢という理論面での後ろ盾を得た大隈が、自由民権グループと連携して薩長藩閥を打倒し、イギリス流議会を開設することで政府の実権を握ろうとしているという陰謀論が流布していった。このとき明治天皇は、それまでの大隈の努力に同情する気持ちがあり、罷免の強行ではなく、辞任するという形をとって、大隈の名誉を守ろうと配慮した。
明治14年の政変によって、政府を去ったのは、大隈重信だけでなく、大勢いた。ただし、政府にとどまった人も少なくはなかった。
明治時代の政府部内の微妙な力関係の変化は理解するのが、なかなか困難ですね...。
(2021年2月刊。税込1012円)

2021年3月28日

漫画、秩父困民党


(霧山昴)
著者 つねよし 、 出版 同時代社

とても良くできた歴史マンガです。映画『草の乱』でも紹介された秩父事件がマンガになったのです。
映画では秩父困民党(こんみんとう)の会計長をつとめた井上伝蔵が主役でした。この井上伝蔵は秩父事件のあと逃亡に成功し、なんと北海道に渡って、そこで自然死したのです。
秩父事件とは、明治17年(1884年)11月に、埼玉・群馬・長野3県の民衆数千人が鉄砲などの武器をもち軍隊組織をつくって蜂起した事件です。その目標は、高利貸しへの負債延期、村費の軽減、学校の休校、雑収税の減免など。
この当時、松方(まつかた)デフレで生糸や米などの農産物価格が暴落し、民衆の生活は破滅的な状況に陥っていた。ところが、高利貸は暴利をむさぼり、裁判所は差押を頻発していた。
そこへ、自由民権運動として自由党が進出して、それを人々が受け入れはじめた。しかし、先鋭化する運動に恐れをなした自由党の指導部は解党を決議する。それに納得できない人々は困民党を結成した。
下吉田村(秩父市)の東京神社に数千人が結集し、秩父市の中心部へ武器をもって押し出していった。マンガは、その過程は丁寧に描かれていて、人々の取り組みの様子がよく分かります。ちなみに、江戸時代の百姓一揆では、百姓側も当局側も鉄砲を武器として使用することはなかったそうです(猟銃は村にありましたが...)。それが、明治10年の西南戦争で変わったのだと思います。
当局側は警察だけでなく軍隊まで出動させて鎮圧にあたると、素人集団はたちまち敗退してしまうのでした。
4千人近くが逮捕され、3600人もの人々が罰せられた。総理を名乗った田代栄助(51歳)ほか8人が死刑となった。100人が収監され、うち30人が獄死した。そして、指導者の一人だった落合寅市(35歳)が服役中に憲法発布恩赦で出獄すると、「秩父事件」の復権を訴えはじめて、ようやく秩父事件の積極的な意義が広く知られるようになったのです。
いやあ、本当によくできた歴史マンガです。登場人物の描きわけも見事だと思いました。
(2021年2月刊。税込2530円)

2021年1月24日

囚われの山


(霧山昴)
著者 伊東 潤 、 出版 中央公論新社

八甲田雪中行軍遭難事件は1902年(明治35年)1月23日、陸軍の青森歩兵第五連隊第二大隊が雪中行軍演習したとき、折からの天候悪化により、道に遠い199人の犠牲者を出した史上空前の遭難事件。新田次郎の『八甲田山、死の彷徨』など、映画化(三國連太郎も出演)もされている(残念なことに私はみていません)。
120年も前の大事件を歴史雑誌編集者が売れる雑誌をつくろうと企画し、現地取材中に今もなお解明されていない謎を発見し、それに迫っていくというストーリーです。
著者の本は、『義烈千秋、天狗党西へ』、『巨鯨の海』、『峠越え』など、どれも読ませるものばかりですが、この本も、ぐいぐいと引きずり込まれてしまいました。
謎解きの要素も大きい本なので、ここでネタバレをするのはやめておきますが、軍の人体実験ではなかったのか、という点は、なるほど、そうだったのかもしれないと思いました。というのも、この陸軍による雪中行軍は2年後の日露戦争に向けて、厳冬の満州での大規模会戦の予行演習であったことが今では明らかになっていることだからです。
この青森歩兵連隊は、日露戦争のとき、満州大平原においける黒溝台作戦に従事しているのですが、八甲田山での雪中行軍で大量遭難した経験をふまえて、防寒対策をきちんとしていたため、凍死者を出すことはなかったというのです。
日露戦争のとき、青森歩兵第五連隊は、黒溝台の戦いに投入された。このとき、氷点下27度といった酷寒の中の戦いだったが、日本軍は寒冷地対策が万全だったため、凍傷者は出したものの、1人の凍死者もださなかった。うひゃあ、そうだったのですか...。
八甲田山で死んでいった兵士のおかげで、日本は日露戦争を勝ち抜けた。無駄死ではなかった。八甲田山では、限界に来ていた者や身体に不調を来して動けなかった者が実は生き残れた。逆に歩けるほど元気だった者は、体力を使いきって生命を失ってしまった。低体温症によって、正常な判断を下せなくなった者が続出した。酷寒のなか、ほぼ全員が手指の自由を失った。このため、雪濠の掘削どころか、排尿も排便もできなくなり、そのまま垂れ流したので、ズボンの中が凍りつき、性器部分も凍傷になり、あとで生存者の多くは切断手術を受けた。いやあ、これほどまでだったとは...。知りませんでした。
「山落とし」とは、猟師たちが冬山に入って遭難しかかったときに襲われる症状の一つで、低体温症の初期段階をさす。その症状はさまざまで、身体の震えがとまらなくなる者、嘔吐、頭痛、めまいなど...。
この本に、ソ連時代のロシアで起きた遭難事件の真相を解明しようとする『死に山』(河出書房新社)が紹介されています。このコーナーでも前に書評をのせました。
八甲田山の兵士大量遭難事件は陸軍による人体実験だという指摘は、そうかもしれないと思います。戦前の陸軍が、兵士なんて、いくらでも替りがいると考えていたことは間違いありません。そんな「真実」を発掘し、読みものに仕立てあげた著者の筆力には、今さらながら驚嘆させられます。
(2020年6月刊。1800円+税)

2020年11月13日

日清戦争論


(霧山昴)
著者 原田 敬一 、 出版 本の泉社

日本の戦前を司馬遼太郎の史観で語ることを厳しくいさめる学者の本です。
1894年6月に、朝鮮への出兵が閣議決定されると、日本各地で義勇軍を派遣する動きが起きた。旧士族層を中心とし、国権派そして民権派まで加わった。
ええっ、そんな動きがあっただなんて...、ちっとも知りませんでした。
そして、義勇軍運動が中止に追い込まれたあとは、軍夫志願となった。岩手県では、兵士も軍夫も区別せず同じ扱いで送り出した。
日清戦争を契機として、日本国民の思想状況は大きく変化した。戦争の大義名分は、福沢諭吉が「文明と野蛮の戦争」と設定し、「宣戦の詔勅」も、「文明戦争」の枠で国民を説得した。そして、挙国一致が実態化していった。戦争こそが日本国民を創った。
日清戦争は4種類の戦争の複合戦争である。一つは、朝鮮王宮の景福宮における朝鮮軍との戦闘、狭義の日清戦争、東学党の旗の下に結集した朝鮮民衆との戦争、そして、台湾征服戦争。このとき、日本は、軍事的勝利、外交的敗北、そして民衆的敗北をした。
日清戦争に参加した軍隊と軍夫は合計して40万人。そのあとの日露戦争のときには100万人。対外戦争の勝利という見せかけに日本国民は酔っていた。
日清戦争のとき、日本の敵は清(中国)だけでなく、朝鮮国もあげられていた。
日清戦争の直前に朝鮮との戦争があり(7月23日戦争)、それにより日本は朝鮮政府の依頼(書面はない)によって清国軍を駆逐するという大義名分を得たと陸奥宋光外務大臣は発表した。
日清戦争により、日本は軍夫7000人をふくむ2万人の、清(中国)は2万4000人の、朝鮮は3~5万人の戦没者を出した。
勝海舟は、このころ枢密顧問官だったが、日清戦争の開戦後、この戦争には大義名分がないとする漢詩をつくった。つまり、日本政府の指導層にも、伊藤首相らのすすめる日清戦争を批判する人たちがいた。
日清戦争で派兵された軍隊は17万4017人、これに対して限りなく軍隊に近い軍夫は15万3974人。あわせて32万8000人。清国軍は、35万人なので、ほぼ匹敵していた。
日清戦争の実態に一歩踏み込もうという意欲の感じられる本でした。
(2020年4月刊。2500円+税)

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