弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2010年11月 2日

トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか

社会

著者:羽根田治ほか、出版社:山と渓谷社

 大雪山系の旭岳からトムラウシ山へと縦走する4泊5日のプラン(15万2000円)は、ツアー登山を扱う会社にとって募集すれば、すぐに定員一杯となってしまう人気商品である。参加者15人だと総売り上げは228万円となる。諸経費を差し引いても利益率は悪くない。
 耐風姿勢は冬山登山に必須の技術であり、体ごと飛ばされそうな風が吹いているときは腰を屈めるようにして姿勢を低くし、踏ん張った両足と雪面に突き刺したピッケルの3点で体を保持するのが基本だ。そのとき、風に背中を向けるのではなく、風上側を向くのが正しいとされている。風の強弱を読みつつ、耐風姿勢と歩行を繰り返しながら前進していくのは、習得すべき冬山登山技術の一つである。
 低体温症の引き金の一つとなる“濡れ”をシャットアウトしたことが、低体温症に陥らずにすんだ大きな一因となった。ただし、参加者の装備に、これといった手落ちは認められない。防寒具にしろ雨具にしろ、誰もがしっかりしたものをひととおりは持っていた。しかし、それを十分に活用していたかどうかは別の話。
 低体温症とは、体温が35度以下に下がった病態。1912年4月に起きたタイタニック号の遭難事件の1500人をこえる死者の死因は、冷たい海水に浸ったための低体温症。このとき氷山の浮いた海水温は2度だった。1902年1月の八甲田山で青森連隊210人のうち199人が死亡したのも低体温症だった。
 人間の熱をつくる場所は、筋肉、とくに骨格筋にある。外気温が下がり続けると、身体の熱産生を増やさなければならないので、全身の筋肉を不随意に急速に収縮させて熱を作り出そうとする。これが、震えである。この筋肉の収縮エネルギーが熱になるが、体温の下降速度が早まれば、震えも大きくなっていく。身体の中心温度を一定に保ちたいから、身体表面温度を犠牲にしても脳や心臓などの内臓の温度は下げないようにする。
 登山行動中に低体温症になったときには、それを回復させる熱をつくるエネルギー(食料補給)が十分でなければ熱をつくることができず、低体温症は進行する。
 登山中の低体温症は、濡れ、低温、強風などを防ぐことが不十分なときには、行動してから5~6時間で発症し、早ければ2時間で死亡する。低体温症の症状が発症し、震えのくる34度の段階で何らかの回復措置をとらないと、この症状は進行して死に至る。34度の段階で震えが激しくなったころには、既に脳における酸素不足で判断能力が鈍くなっている。
 低体温症の症状は、早期から脳障害を発症する。運動機能、言語、精神状態が症状として現れやすいのでその段階で的確な手当てをしないと、以後、急激に症状は悪化する。
 初日から遭難当日までの栄養摂取は決して十分なものではなかった。中高年登山者は若い人より荷物の軽量化のため、持つ食料の量が少ない。
 悪天候時の行動には、多くのエネルギーを消費するため、晴天時よりご飯・パンなどの炭水化物をとる必要がある。軽量化を重視したインスタント食品はカロリーが少なく、強風に耐えるだけの運動エネルギーと低体温に対する熱エネルギーになるだけのものがなかった。防寒・暴風対策の装備以前に、この問題が低体温症の第一の要因になった。
 体温を下げる最大の要素は「風」である。当時、風速25メートルだった。過去の低体温症による遭難例に共通しているのは、強風下での行動である。
 ペットボトルや水筒のお湯で湯たんぽをつくり、脇の下や股間部を温めることが必要である。身体をさすったくらいでは足りない。熱源が必要なのである。体温を上げるには、温風が最適である。
 正しい対処法は、できるだけ着衣を多くしたうえで、じっとしていること。本件では避難小屋へ戻るか、早めにビバークすべきだった。
 ツアー登山の実情、そして低体温症の怖さがよく分かる本でした。私もハイキング程度ではありますが、たまに山に登りますので、関心をもっていた事故でした。大変参考になる本です。
(2010年8月刊。1600円+税)

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2010年11月 1日

ミミズの話

生き物

 著者 エイミィ・スチュワート、 飛鳥新社 出版
 
 日曜大工ならぬ、日曜ガーデナーの私にとって、日曜日の午後からの庭いじりは無上の喜びです。買った当時は石ころだらけだった庭も、今ではふかふか黒々とした土で覆われています。EMボカシを利用した生ごみ処理の産物をたくさん混ぜこんでいますので、ミミズも大発生します。ですから、モグラもいますし、それを狙ってでしょうか、ヘビも庭に棲みついています。モグラと顔を合わせることは滅多にありませんが、ヘビのほうは年に何回か出会ってしまい、お互いすぐにこそこそと逃げ隠れします。今までのところ、最近のクマのような被害に、は遭っていませんが、蛇にだけ噛まれたくはありませんよ・・・・。
 ミミズを手にしたときぬるぬるしたものを感じる。これは、ミミズがストレスを受けたときに出す粘液である。うへーっ、ミミズもストレスを感じるのですか・・・・。
1エーカーの土地に、ダーウィンは5万匹以上のミミズがいるとしたが、今日では100万匹と推計されている。ナイル川流域のミミズは、1エーカーあたり1000トンにもなる糞を堆積し、エジプトの農地を驚くほど肥沃な土地にするのに貢献している。土壌の表層10センチは、毎年、ミミズの消化管を通過する。
シマミミズの寿命は2~3年。シマミミズが1年間に産む卵包の数は10数個から数百個とされている。通常は、1個の卵包から2、3匹の幼ミミズが生まれる。
 地下で起きていることの大部分の鍵を握っているのはミミズである。ミミズがちっぽけでか弱い生きものだなんて、とんでもない。実は、ミミズの領分である地下の世界では、ミミズは最大級の生きもの。言ってみれば、ゾウ、クジラ、巨大なのである。
 ミミズは土壌圏の微小動物によって引き起こされる寄生虫性の細菌の病気にかかることはほとんどない。これって、考えてみたら不思議なことですよね。
 ミミズが恐れるのは、鳥、モグラ、マウス、ラットといった動物である。
ミミズは皮膚で呼吸し、眠らない。ミミズにも原始的な脳がある。
ミミズは生殖器近くにある短くて頑丈な剛毛を使い、交接相手をしっかりと捕らえあう。さらに、ねばねばの粘液を多量に分泌することによって、お互いの身体を固定しやすくする。ミミズの交接の完了には数時間かかるが、この間、ミミズは周囲の環境にまったく無頓着になる。ミミズの性的欲望は光の恐怖をしばらく忘れさせるほどに強い。うむむ、なんとなんと、これには恐れ入り屋の鬼子母神ですよ。
 ミミズは体節を30回も40回も切断されても、なお再生することができる。頭部、中央部、尾部をそれぞれ別のミミズから取ってきて、その順に縫合すると、1匹のミミズになる。
 ふえーっ、こ、これって、まるでロボットではありませんか・・・・。驚きましたね。
ミミズのからだの全長にわたって、各体節に潜在的な生殖細胞が存在しているおかげで、生殖器官を完全に切除しても、また再生させることが可能なのである。
ミミズにも好き嫌いがある。オレンジやタマネギの皮はミミズは絶対に口をつけない。
 森にミミズが入ってくると、ハタネズミやトガリネズミがいなくなって、マウスが増えてくる。ミミズのせいで、地表性の鳥や動物が森から追い出されてしまう。
高窒素の化学肥料はミミズにとって、きわめて有害である。だから、ゴルフ場に使用すると、芝生は青々とするし、大ミミズは死んでくれて、一石二鳥である・・・・。
 土壌の撹乱ほどミミズが嫌うことはない。不耕起栽培はミミズを元気に活動させる。
ミミズは、土壌中の物質を何でも取り込んでしまう驚くべき能力を備えている。高濃度のDDTを体内組織に取り込んでもなお生きていられる。ところが、そんなミミズの特性によって、ミミズを食べた小鳥が被害にあった。ミミズは住環境に、なかなかうるさい。
ミミズという身近な生き物を多角的な視点から捉えた面白い本です。
 
(2010年月刊。1700円+税)
今月はフランス語検定試験(仏検)を受けます(準1級)ので、目下、過去問を見直しているところです。語学は日々やっていないとすぐに忘却の彼方へ散っていきます。毎朝、仏作文、聞きとり(ディクテ)そして音読をしています。ボケ防止には最高です。

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2010年11月30日

バンコク燃ゆ

東南アジア

 著者 柴田 直治、 めこん 出版 
 
 タックシンと「タイ式」民主主義というサブタイトルがついています。著者は朝日新聞社の前アジア総局長で、タイにも駐在していました。私もタイのバンコクには一度だけ行ったことがあります。微笑みの国、仏教徒の多い寛容な国というイメージをもっていましたが、実はなかなか政争の激しい国なんですね・・・・。
 バンコクには3万2000人の日本人が住んでいる。これは外国の首都の中では一番である。タイに進出している日系企業は7000社。小中学生2500人の通う日本人学校は世界最大級の規模だ。タイを訪れる日本人旅行者は毎年120万人ほど。私の依頼者の一人が長期出張で今バンコクにいて、裁判手続を目下のところ見合わせています。先日、インターネット電話で話しましたが、声は鮮明ですし、料金もかからないというので驚きます。
 タックシンは、タイの憲政史上、最強の政治家であり、歴代宰相のなかできわめて特異な存在である。タックシンは1949年生まれですので、私と同じ団塊世代。
タックシンは警察士官学校に進んで、キャリア警察官になった。そして、警察官のかたわらケータイ電話を扱う企業を起こして成功し、警察を退職。途上国では給料が安いから公務員の副業はあたりまえのこと。
 タックシンが本気で貧富の格差是正を考えていたとは思われない。持てる層から税を取るということはしなかった。タックシン自身が「持て」側の代表だったから。貧困層や農村部への施策は、より少ないコストでより多くの票を集める手段と考えていたのではないか。タックシンは、直接的な収賄をする必要がないほど金を持っていた。そして、タックシンの経済政策の相当部分が自分自身の利益に直結していた。
 都市中間層や教育のある人々のなかにタックシンを生理的に嫌う雰囲気がある。それは、敵とみると逃げ道を残さずに痛めつける攻撃性、資金の豊かさや権力の強大さを隠そうともしない傲慢さがタックシンにはある。都市中間層からすれば、タックシン政権の貧困削減策は、単に人気とりのばらまき政策であり、都市部のインフラ整備などに回すべき政府資金=自分たちの納めた税金が浪費されているという認識である。逆に、貧困層や地方の農民にとっては、タックシン政権は初めて彼らに目を向けてくれ面倒をみてくれた政府だった。
 タックシンは軍事費を削り、将軍クラスが握る闇の利権にも手をつけた。それで、軍の中に大きな不満を生んだ。クーデターの大きな要因は、「軍の都合」である。クーデターの後、軍事費は2倍以上となった。膨張した予算をもとに、将軍たちは兵器リストをつくってショッピングに励んだ。タイの軍は、戦闘集団というより、官僚組織や利益擁護集団の色彩が強い。
 日本政府はタックシンには冷たく、クーデターを起こした軍には温かった。これも、いつものように日本は利権を優先させるわけなのですね。タイの表玄関のスワンナプーム国際空港の総工費1550億バーツのうち730億バーツを円借款でまかなった。日本の援助としても最大規模。ターミナルビルも、日本企業中心の共同体が受注した。
 タイのメディアは裏を取って確認する習慣がない。うへーっ、これって怖いですよね。日本のマスコミがそんなにすぐれているとは思えませんが、少なくとも裏を取ろうとはしていますよね・・・・。
 タックシン政権は、いろいろのグループから構成された。そのなかの有力な集団の一つは、1970年代に学生運動に没頭した活動家たちだった。だから、反対派は、その点をっとらえて、「反主制」というレッテルを貼りたがる。
 タイ騒動の内情をつぶさに知ることの出来る本でした。
 
(2010年9月刊。2500円+税)

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2010年11月29日

倭王の軍団

日本史(古代史)

 著者 西川 寿勝・田中 晋作 、 出版 新泉社
 
 巨大古墳時代の軍事と外交というサブタイトルのついた本です。古墳から出土した、たくさんの武器・武具の写真があります。なるほど、軍団がいて不思議ではないと思わせます。『古事記』『日本書紀』に登場する応神天皇と仁徳天皇については、実は同一人物の伝説とする見方があり、実は両人とも存在していないという有力学説もある。中国の史書に登場する倭の五王についても、讃と珍については、どの天皇とも決めがたいままだし、この五王の陵墓も定まっていない。
 うへーっ、日本の古代って、まだ分からないことだらけ、なのですね・・・・。
 古代日本の軍団については、史料がないため、その実態はほとんど判明していない。石母田正は、律令初期の軍政について、その大きな特徴は伴造軍(ばんぞうぐん)から脱却し、国造軍(こくぞうぐん)としたことにあると強調した。国造軍とは、国司を頂点とする国単位の行政組織に徴兵・編成・運用までの権限が与えられていたこと。伴造軍とは、有力な豪族の私軍のこと。
 遣隋返使は、日本に軍団なしと報告した。
壬申の乱(672年)は、皇族や畿内の有力豪族を二分する政争であったが、その勝敗は国造軍の動向によって決まった。
律令期の軍団の特質は、兵員の入れ替えや補填のシステムを完成させたところにある。国造が戸籍を管理し、平時に役務と訓練をおこない、有事になると必要数に応じた兵士を送り出す組織をつくっていた。
軍団の主力武器は打刀(うちがたな)だったと復元されている。打刀とは、刀を下にして腰に佩帯(はいたい)する大刀(だいとう)で、古墳時代は直刀(ちょくとう)、中世以降は刃反(はぞ)りがつく湾刀(わんとう)だった。反(そ)りのない直刀や剣は衝撃を吸収できない。手をしびれさせず、そぐように斬るには高い習練が必要だった。
しかし、著者は打刀は主力兵器にならないという考えです。
鉄砲の普及以来の主力兵器は、古代にさかのぼっても刀剣ではなく弓矢であり、矢合戦が戦闘の普遍的な姿だった。
疾走する騎馬による投射戦が発達しなかったのは、馬の頭が邪魔になって、正面を狙えないから。下を短く、上を長く傾けずに持つ日本の長弓を馬上で構えたとき、馬の頭をはさんで反対側は常に死角となる。そこで、馬を静止させた騎射では、馬を横向きにして敵と対峙する。
 巨大古墳時代においても、戦争は弓矢による戦いが主流だったと考えるべきである。
 日本列島には、当時の朝鮮半島と違って、堅牢な防禦施設をもった城塞がみられないという特徴がある。
巨大古墳の発掘を宮内庁が許さないというのは本当におかしなことです。一般人の立入はともかくとして学術調査は認めるべきです。古代日本に騎馬民族が中国そして朝鮮半島から渡ってきたのではないかという指摘がかつてありました。それを知って、私など、胸がワクワクしたものです。ロマンを感じました。
もっともっと古代日本のことを知りたくなる本です。
 
(2009年2月刊。1600円+税)

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2010年11月28日

キャンバスに蘇るシベリアの命

日本史(近代)

 著者 勇崎 作衛、 集英社 出版 
 
 終戦後、多くの日本軍将兵がソ連軍によって中国からシベリアに強制連行され、抑留されて働かされました。
 著者は、中国で病院の衛生兵として働いていて、22歳でシベリアに送られました。幸い3年後に無事に日本へ帰国できたのですが、その3年間の苛酷な生活を、なんと65歳になってから油絵を始めて絵描きだしたのです。87枚の絵は酷寒のシベリアでの労働の苛酷さ、非人間的状況を如実にうつしとっています。
 寒冷期になると、収容所の周囲は雪だけで食べるものがなくなる。監視のソ連兵の残飯捨て場に出かけてガラの骨、キャベツの芯、芋の皮などを一所懸命に探してスープにして食べた。支給される食事で足りない分のカロリーをこうやって補った。
 日本兵は、ひどい消化不良と衰弱に加え、寒さのため身体は冷えきって全員が下痢を患っていた。ところが我慢できずに排便しようとして隊列を乱すと、ソ連兵がムチを鳴らして追い立てるのだ。
 冬のシベリアは零下40度。冷蔵庫の製氷室よりも寒い。外での作業で本気を出したら、生きて日本に還ることは出来なかった。
 日本兵の体力検査は、ソ連の女軍医が尻の皮をつまんで引っぱることで決まった。皮下脂肪の厚さで、重労働、軽作業の等級が決まった。シベリア抑留生活のむごさを描いた絵画集は前にも紹介しましたが、こうやってビジュアルになると、その苦労が視覚的にもよく伝わってきます。
 『夢顔さん、よろしく』という本に出てきた近衛首相の息子がシベリアで死んでいったことも改めて実感できました。後世に語り伝えられるべき悲惨な歴史的な事実です。
 
(2010年8月刊。2400円+税)

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2010年11月27日

平安朝の父と子

日本史(平安時代)

 著者 服藤 早苗、 中公新書 出版 
 
 まず第一番に驚いたのは、平安朝の貴族の男性は料理が出来たということです。とりわけ、魚や鳥などの動物性食料は、男性が料理するのが古来からの日本の伝統であった。
そして、蔵人の頭(くろうどのとう)は妻が出産するについて、産休をしっかりとっていた。
 うひゃあ、本当でしょうか・・・・。驚きです。
 平安時代には、妹のことを「弟」と書くのは少なくなかった。「オト」と読み、本来なら男女関係なく年下のキョウダイのこと。なんだか間違いますね。
平安初期、9世紀のころには、天皇のキサキは、摂関期に比べて、はるかに多かった。嵯峨天皇のキサキ数は20数人、子どもは50人もいた。
父親が幼児期のときから子育てに参加すると、子どもの知能指数は5以上あがるという研究成果がある。
 10世紀中ごろ、女御や更衣の生んだ子どもたちは7歳まで父の天皇に会うころはなかった。
平安中期、貴族の子息は12~16歳で元服という成人式を迎える。平安前期の9世紀は、上層貴族から庶民層まで16歳が元服年齢だった。その後、天皇から次第に元服年齢が若くなり、上層貴族にも浸透していく。
 男子は、大人になれない下人的隷属者をのぞいて、どんな庶民でも一般的に大人名を付けてもらえるのに対し、女子は朝廷と正式に関係を持つ者しか大人名前は付けられなかった。そして、父の存在が大変に重要だった。
 菅原道真は、突如として大宰府に左遷された(901年)。大宰府の配所に同行したのは男女児二人。成人していた長男は土佐に、次男は駿河に、三男は飛騨に、四男は播磨に流された。妻と成人女子は都に残され、幼少二人の同行が許された。そして、男児は配所で亡くなったが、栄養失調ではないかとされている。道真本人も配流後2年で亡くなる。これも、やはり栄養失調だったのであろうか・・・・。
一夫多妻妾を認める平安中期の貴族層にあっては、妾や数度の関係しかもたなかった女性が出産したとき、女性が強い意志表示をしないかぎり、男性は父としての自覚をもたず、認知さえしなかった。
父の認知がない子どもは、「落胤」(らくいん)と呼ばれた。身分秩序の固定化と、いまだ母の出自・血統を重視する双系的意識のもと、父は子を認知することさえ不可能の場合があった。
父に認知されない「落胤」者は、貴族層にとってさげすみの対象だった。天皇の孫でも、母の出自・血統が低いと、貴族の正式の妻になることさえ難しかった。父の認知によって子は父の血統や身分的特権を継承できるが、母の出自・身分の格差が大きいと、認知さえもらえなかった。
しかし、院政期になると、父系制が定着し、母の出自はあまり問題にならなくなる。
『今昔物語集』では、親が子を「不孝」するとあり、父母が子を義絶することを「不孝」といった。現在の勘当と相違し、さらに「ふきょう」という語は現代では使用されていないようである。貴族の日記類では、「不孝」は、文字どおり親に子が孝養を尽くさない意である。
平安時代の父と子の関係については、知らないことも多く、大変勉強になりました。
 
(2010年2月刊。760円+税)

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2010年11月26日

豊かさの向こうに

アメリカ

 著者 V.A.ギャラガー、 出版、連合出版  
 
 著者は、アメリカ人はマフィアの妻のようなものだと言います。
アメリカ人の多くは、極貧にあえぐ人々がいる一方で、自分たちがたくさんの物を持っていることがどんなことかを本当は知りたくない。そしてメディアが偏っていて、簡単な真実すら伝えていないことも信じたくない。
 ハイチで人々に正当に選ばれた大統領のアリスティド政権を崩壊させるため、アメリカとカナダとフランスは巧妙に工作した。アメリカに誘拐され、フランスに連れて来られたアリスティドは、マスコミからなぜかと問われたとき、三つの理由があると答えた。
民営化、民営化、そして民営化。民営化とは、政府が所有する企業を資本家に売ることである。
郵政民営化の嵐を経験した私たち日本人にとって、この指摘はとても重要だと思います。アメリカの言いなりになって、なんでも民営化していったら、権力を持たない貧しい人々は大変な痛い目にあうということです。
 ユニセフは、今こそ深刻な貧困に終止符をうつための絶好の機会だとする。なぜなら、世界の繁栄は、史上かつてないレベルにまで達している。ところが、今日、全世界で5億人もの子どもが、これは発展途上国の子どもの実に40%に相当する、毎日1ドル以下で生き延びようとしている。貧困のせいで、助かるはずの子どもが毎年、何百万人も亡くなっている。そして、何千万人もの子どもが飢えに苦しみ、学校に行くことも出来ず、危険な児童労働の搾取を受けている。すべての子どもが最低生活水準を達成するために必要な金額は年800億ドル。これは全世界の収入の0.3%にも満たない。
 IMF(国際通貨基金)の構造調整政策は、国際的な危機や根強い不均衡に各国が対応するために作られた政策である。だが、この政策は、多くの国々での飢餓や暴動を引き起こすきっかけとなった。その恩恵は富裕層に偏り、底辺の人々はかえって貧しくなった。
 ウォルマートなどの大規模小売業者の自由な出店を認めるNAFTAの条項により、メキシコの2万8千もの中小企業が倒産した。NAFTA以降、アメリカでは3万8千人以上の小規模農業経営者が破産ないし廃業した。また、アメリカ国内の繊維アパレル産業において78万人分の雇用が失われた。
 アメリカは、1946年に陸軍米州学校(SOA)を設立した。今、フォート・ベニングにある米州学校は、ラテンアメリカ22ヶ国の5万5千人以上の士官、士官候補生、下士官、政府職員を訓練してきた。その卒業生は、暗殺、拷問、虐殺を指示したり、関与してきた。
 ラテンアメリカでの主要な残虐行為にかかわった66人の将校のうち46人が米州学校で訓練をうけていたことが判明している。
 囚人の恐怖や弱みを観察しろ。囚人をたたせ、眠らせず、孤独にして、裸のままにし、ネズミやゴキブリを独房に入れ、粗末な食べ物を与え、死んだ動物を食べさせ、水をかけ、温度を変えろ。
 これが拷問マニュアルの一端です。いやはや、アメリカって、とんだ文明国ですね。
 この本は、訳者の一人である川人博弁護士から贈呈を受けました。世界の現実、そのなかで果たしているアメリカの負の役割が如実に描かれています。あまり知りたくはないけれど、知らなければいけない現実です。
 
(2010年9月刊。2200円+税)

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2010年11月25日

中国河北省における三光作戦

中国

 著者 松井 繁明・田中 隆 ほか、 大月書店 出版 
 
 日本軍が中国で展開した残虐な作戦行動の一つを現代日本の弁護士たちが現地調査をして解明した労作です。
 1942年5月、日本軍の北支那方面軍の第110師団163歩兵連隊第一大隊が一つの村を包囲して奇襲攻撃し、民兵や村人が逃げ込んだ地下の坑道に毒ガスを投入して
1000人を殺戮した。これは日本軍による三光作戦、粛正掃蕩作戦の典型的な事例である。
 1942年5月1日から6月20日までの日本軍の「掃蕩」作戦によって、冀中区全体で八路軍1万6000人が犠牲になった。主力部隊は35%減少(3分の2になった)、兵員は半数近くに減少した。区以上の幹部の3分の1が犠牲となり、死傷した人民は5万人に達した。このように中国側の被害が大きかったのは、日本軍の作戦規模が大きかったというだけでなく、中国側が「掃蕩」を事前に十分予期していなかったからでもある。
 1941年12月に太平洋戦争が始まり、日本軍の抗日根拠地に対する大規模な「掃蕩」の可能性は減ったという判断が中国側に生まれていた。
日本軍の「掃蕩」作戦は、それまで八路軍に協力的でなかった地主層の態度さえ変化させた。日本の掠奪・暴行は地主に対しても例外ではなかったので、その差益は大いに損なわれた。そして、その後には、日本軍による重い税負担が待っていた。
人々は、八路がいれば八路を恨み、八路がいなければ八路を想う」と皮肉をこめて言っていた。
結局、日本軍の「掃蕩」は表面的には抗日根拠地に打撃を与えることは出来たが、中国民衆の心をとらえることは決して出来ず、むしろ反対の効果をもたらした。
 1940年8月、八路軍は華北一帯で日本軍の根拠地や鉄道線などを攻撃する大規模な攻勢を展開した(百団大戦)。朱徳の総指揮のもとで40万人を動員したこの攻勢によって、日本軍は多大の損害を蒙った。この百団大戦によって、北支那方面軍の八路軍認識は一変した。それまでの八路軍軽視から、八路軍を主敵とする抗日根拠地への粛正掃蕩作戦を前面化するに至った。村民を無理やり従わせている軍隊なら、追い払えばことがすむが、村民と深く結びついている軍隊となると、村そのものを掃蕩の対象とするしかない。北支那方面軍の思考はこのように転換した。なるほどそうだったんですか。偶発的な虐殺ではなく、意図的だったのですね。
2001年9月末、小野寺利孝・松井繁明・田中隆など弁護士6人のほか日本人研究者たちが三光作戦の現地に出向き、被害者らから聞き取り調査を行いました。被害にあった村には、地下道がはりめぐらされていたのです。幅1メートル、高さは人の背丈ほど。地下道は、それぞれの民家とつながっていたし、隣村の地下道ともつながっていました。
 八路軍は、この地下道による戦い、地道戦というそうです、初めは否定的にみていたようですが、あとで有効なものと認めて戦略的な地位を与えています。その地下道の構造が図解されています。ベトナムのクチにある地下道に潜ったことがありますが、それと同じようなものです。
 三光作戦とは、日本軍が中国で展開した残虐な作戦行動をいいます。やきつくす(焼光)、殺しつくす(殺光)、奪いつくす(搶光)という言葉によります。これは、北支那方面軍の司令官であった岡村大将が、焼くな、犯すな、殺すなという「三戒」を非難をこめてもじってつくった言葉だといいます。そして、この日本軍による三光作戦は、中国の民衆に莫大な被害をもたらしました。にもかかわらず、その実態を多くの日本国民は知りません。知らされていないのです。そんな状況で、日本の弁護士たちが減知に出かけて日本軍の残虐な行為による被害にあった人々から聞き取り調査をしたというのは、大変意義深いものがあります。少し古い本ではありますが、百団大戦などに関心をもっていたので、積ん読になっていて、未読だった本書を引っぱり出して読んだのでした。現地にまで出かけた日本の弁護士と学者の労苦に少しはこたえたいと思いました。 
(2003年7月刊。3400円+税)

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2010年11月24日

西太平洋の遠洋航海者

アジア

 著者 B・マリノフスキ、講談社学術文庫 出版 
 
 戦前の1922年に出版された本です。ニューギニア諸島の風習がよく観察されています。呪術の本質は、人の善意に仕えるものでもなければ、また悪意に仕えるものでもない。ただ単に、自然の諸力を制御するための想像上の力である。
著者はニューギニアに住み込んで観察しました。そして、次のように述べています。
 村を歩きまわって、いくつかの小さな出来事、食事のとり方、会話、仕事の仕方などの特徴ある形式が繰り返し目にうつったら、すぐにそれを書きとめるべきだ。印象を書き集め整理するという仕事は、早いうちに始めるべきだ。なぜなら、ある種の微妙な特色ある出来事も、新鮮なうちは印象が深いけれど、慣れてしまうと気づかなくなってしまうから。他方、その地方の実態を知らないと気がつかないこともある。
 海外に出かけたとき、初めての印象を記録しておくのはとても大切なことだというのは、私の実感でもあります。二度目には、目が慣れてしまっているため、かえって見落とすことが多いものなのです。
 ニューギニアでは、信じがたいほど幼いうちに性生活の手ほどきを受ける。成長するにしたがって、乱婚的な自由恋愛の生活にはいり、それが次第に恒久的な愛情に発展し、その一つが結婚に終わる。こうなるまで、未婚の少女は、かなり好きなことをする自由をもつと一般に考えられている。
 集落の少女たちは、群れをなしてほかの場所に出かけていき、そこでずらりと並んで、その土地の少年たちの検査を受け、自分を選んだ少年と一夜を共にする。また、訪問団が他の地区からやって来ると、未婚の少女たちが食物を持ってくる。彼女たちは、訪問客の性的欲求を満足させることも期待される。
 これって、日本でも昔、同じことがあっていたようですよ・・・・。
普通の生活でも、不義密通は絶えず行われている。とくに畑仕事や当易のための遠征のように、ことが目立たないとき、または部族のエネルギーと注意が作物の取入れに集中しているときに、ひどい。
 結婚は、私的にまた公的な礼儀をほとんどともなわない。女は夫の家に出かけていき、一緒になるだけ。あとで一連の贈物交換があるが、これも妻を買うお金と解釈することは出来ない。
 妻の家族の側が贈与しなくてはならないこと、それも家庭の経済にひびくほどにすること、さらに、妻の家族は夫のためにあらゆる奉仕をすることが重要な特徴になっている。
結婚生活では、女性は夫に忠実であることを期待されるが、この規則はそれほど厳密に守られもしないし、強要もされない。あらゆる点で妻は大きな独立を保有していて、夫は妻を尊敬の念をもって手厚く遇さなければならない。もし、そうしなければ、妻は夫をおいて実家に帰るだけのことである。夫は、贈物や説得によって妻を取り戻そうとする。しかし、もし妻がその気なら、永久に夫を捨てることが出来るし、結婚する相手は、いつでも見つかる。
 部族生活のなかでの女の地位は非常に高い。畑仕事は女たちの受け持ち(義務)であると同時に特権でもある。
クラとは、部族間で広範に行われる交換の一形式である。一つの品物は、常に時計の針の方向に回っている。クラの品物の移動、取引の細部は、すべて一定の伝統的な規則と習慣によって定められ、規制されている。クラの行事は、念の入った呪術儀礼と公的な儀式をともなう。腕輪と首飾りという二種のヴァイグァを交換するのがクラのおもな行為である。どの財宝も、一方向にのみ動き、逆に戻ることなく、また、とどまることなく、一周するのに原則として2年から10年くらいかかる。
 有力者のしるしは富めることであり、富のしるしは気前のよいことである。気前の良さは善の本質であり、けちは最大の悪である。
 過去将来を通じて、食物の量の多いことが、一番の重大事である。おれたちは食うだろう。吐くまで食うだろうというのが、ごちそうのときの喜びをあらわす決まり文句である。
20世紀はじめのニューギニアの風習がよく分かる本です。ところ変われば品変わる、ですが、女性の地位など、現代と共通するところもあるように思いました。
 
(2009年2月刊。1600円+税)

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2010年11月23日

くにおの警察官人生

司法(警察)

 著者 斉藤 邦雄、 共同文化社 出版 
 
 2004年、北海道警の裏金問題を初めに告発したのは、元警視長で元道警の釧路方面本部長でもあった原田宏治氏でした。著者は、原田氏に続いて裏帳簿を提供して告発を裏付けた弟子屈(てしかが)警察署の元次長です。まことに勇気ある人々です。心より敬意を表します。
 このお二人が趣味のサイクリングで仲間だったことは、本書を読んで初めて知りました。著者は私と同じ団塊世代です。警察学校の教官を2回も経験していますので、警察官として優秀であったことは間違いありません。
 この本は、「市民の目フォーラム北海道」のホームページにブログ「くにおの警察日記」を連載していたのを一冊の本にまとめたものですので、肩のこらない、大変読みやすい内容になっています。
 裏金づくりに加担させられ、ニセ領収書を作成した口止め料として、北見警察署に着任早々、防犯課長から毎月3千円をもらった。1973年のことである。裏金づくり、そしてその利用は古くからあり、また広い範囲で根づいていた。このことが、体験をふまえことこまかに具体的に紹介されています。
裏金を使うのは、あくまでも上層部の特権である。書類をもっともらしく作らなければならないのは、下っ端の庶務係だった。いやはや、すまじきものは宮仕え、ですよね。
 暴力団組長に捜査情報を流し、かつ暴力団組長とゴルフで遊びまくる。そんな警察官が全国優秀警察職員表彰を受けることがある。なんとなんと、そんなこともあるのですか・・・・。
 いま、新しい裏金づくりの手口がある。物品が納められていないのに納入されたことにして代金を支払い、業者にそのお金を管理させる、いわゆる「預け」。このほか、業者に事実とは異なる請求書を出させて別の物品を納入させる「差し替え」などである。民間企業を巻き込む手口は、止まるところを知らず、エスカレートする一方である。
 警察官の仕事の大変さも知ることのできる本でした。
 
(2010年8月刊。1600円+税)

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2010年11月22日

貧乏人が犬を飼っていいのか?

 著者 吉澤 英生、  三五館 出版 
 
 私は犬派です。猫派ではありません。これは、幼いころから我が家にずっと犬がいたからだと思います。猫は飼ったことがありません。子どもたちが小さいころ、柴犬を飼っていました。申し訳ないことに、管理が悪くてジステンバーで死なせてしまいました。罪滅ぼしに、今も納骨堂に愛犬マックスの遺骨を納めて、たまにお参りします。夫婦二人きりになった今は、あちこち旅行をしたいから、犬を飼うのは我慢しています。
 この本を読んで、犬を飼うとはどういうことなのか改めて認識させられました。もっと早くに読んでおくべきだったと反省しました。
 日本で飼われている犬は1232万頭(2009年)。1994年は907万頭だったから、1.35倍も増えている。保健所が殺処分している犬は1970年代には100万頭をこえていたが、今は8万頭にまで減った。私の子どものころは、犬捕りの車が街中をまわっていました。ゴミ収集車のように犬を集めていたのです。もちろん、殺処分するのです。なんだか野犬って可哀想だなあと見ていました。
 小学一年生のとき、同じ市内で引っ越しをしたとき、家財道具を積んだトラックのうしろを走ってきた愛犬がいつのまにかはぐれてしまって、大泣きした覚えがあります。茶色の大型犬でした。写真が残っていますが、長い毛の優しい目つきの犬でした。
「癒されたいから、犬を飼いたいんですけど・・・・」
 経験上、犬を癒しの道具のように思っている人に限って、用がなくなると、犬を捨ててしまう人が多い。癒しとは、一緒につくりあげていくものなんだから、初めから犬に「癒されたい」なんて要求するのは間違っている。そんなワガママに犬をつきあわせないでほしい。うむむ、そうなんですか・・・・まいりました。
 犬に服を着せる必要なんかない。ましてや、靴下なんて、最悪。典型的な「ニセモノの犬好き」でしかない。犬の足元を覆うと、滑ってしまって、うまく立てなかったり、すべったりする怖れがある。
犬は本来、プライドの高い動物なのである。プライドのない犬は、いじけている。あるいは、空威張りしている。プライドの高い犬は褒められ慣れている。だから、犬をきれいに保って、「あなたは可愛いねえ」と誉めながら育てることが大切だ。
 犬のプライドを保つのに何より重要なのは、飼い主の気持ちである。プライドのない人が犬を飼っていて、犬にだけプライドを求めるのは無茶というほかない。犬は、飼い主が世界で一番えらくて、二番目は自分だと思っている。自分の飼い主は誇り高い人物で、その人に飼われているからこそ、自分もまた誇りを子って生きられる。これが、犬にとっての理想の生き方である。
 犬は飼い主が朝、家を出ていくと、再び会えるとは思っていない。だから、夕方、飼い主が帰ってくると、うれしくて、うれしくて、飛び跳ねて喜ぶ。生き別れて数十年も連絡の途絶えていた家族が帰ってきたときの感情に近い。
反面、犬は非常にしたたかである。「ごめんなさい」「かわいそう」という気持ちを持つと、それは必ず犬にも伝わる。犬はしたたかなものだから、すぐさまつけあがる。「あっ、これは何をやっても許されるな」と思って飼い主をなめてかかる。飼い主がなめられたら終わり。これは飼い主にとっても、犬にとっても実に不孝なことである。たとえ犬を間違って蹴ってしまったとしても、「ごめん」と謝るのではなく、しらんぷりする。「そんなところにいたおまえ(犬)が悪い」という態度を平然ととる。そして、二度とあやまって蹴らないようにする。犬に謝ってはダメ。
 犬が悪さをしたとき、我慢する飼い主がとても多い。しかし、それは間違い。我慢するのは、人間ではなく犬の役割。犬には我慢するという役割がある。犬は小さいときに我慢することを覚えさせないといけない。耳掃除や爪切り、そして体を拭いたり、ブラシをかけたり、そのときにはおとなしくしていること。そこで犬が嫌がるそぶりを見せても、途中でやめてはいけない。犬は自分を成長させてくれる人を尊敬して好きになる。賞罰をはっきりつけて、怒るときには怒る、可愛がるときには徹底して可愛がる人のほうになつく傾向がある。
 犬を叱るのは非常に難しい。叱るときにやってはいけないのが、中途半端に叩くこと。
 何回も叩くのも良くない。やるなら一発だけ手がつけられないくらい逆上しているふりをして叩くのが一番効果的だった。
犬をショーウィンドーに入れて展示すると、常に人の目にさらされるので、犬は大変なストレスをかかえてしまう。
犬を抱いたとき、動きが素早くて食欲旺盛で、抱いたとき、しっかりした固い感じがする犬ならいい。ふにゃっとしてたら、生命がないということである。犬は母親を見てから買うこと。犬の性質は母親に負うところが多く、もし母親を見せられないような犬であれば買ってはいけない。
犬は犬以上でも、犬以下でもない。欠点のない犬はいない。
犬が生涯で一番の不安は、お産のとき、やはり誰かにそばにいてほしいと思うことがあるのだろう。
 著者は、自分の店をペット・ショップとは呼びません。ペットショップと犬屋とは異なる。著者の青山ケネルではショーウィンドーのない本屋として有名である。
 犬について、本質的なところを知りました。タイトルはともかくとして、内容はすごくいい本でした。

(2010年9月刊。1400円+税)
 日曜日、年に二度の一大難行苦行がおわりました。フランス語検定試験(準一級)を受けたのです。もう10年以上も受け続けていますので、これまでの過去問を2回繰り返して復習し、「傾向と対策」もみっちり勉強しました。緊張の3時間が終わり、大学の構内を歩くときにはすでに薄暗くなっていて、落ち葉を踏みしめながら帰路につきました。大甘の自己採点によると76点(120点満点)ですから、口頭試問に進めると思います。
 毎朝のNHKラジオ講座は「カルメン」です。朝から魔性の女性に心ひかれる男性の気分にすっかり浸っています。

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2010年11月21日

手塚治虫の描いた戦争

日本史(近代)

著者:手塚治虫、出版社:朝日文庫

 いやですよね、戦争って、本当に・・・。手塚治虫って、正真正銘、マンガの神様ですね。この本を読んで、改めてそう思いました。
 手塚治虫には戦争体験があります。まさしく危機一髪のところで命拾いをしたという体験があり、その体験が色濃く投影されています。いずれも、しみじみ考えさせられる場面になっているのですが、そのアプローチがともかく多様なのです。その点、ほとほと感嘆してしまいます。
 戦争で殺されてしまった人々が、殺された当時の姿でよみがえって、私たちを忘れないでおくれと迫ってきます。本当に、そうですよね。死んだ人たちは何も言えないのですから、生きている私たちが声をあげて戦争反対、戦争につながる一切の行為をひとつひとつつぶしていかなくてはいけません。
 世の中、ともすれば、勇ましい声がまかりとおってしまいます。北朝鮮やっつけろ、中国に負けるな、という声が最近もかまびすしいですよね。でも、現に日本は沖縄だけでなく、首都東京もアメリカに占領されてしまっているような現実もあるわけじゃないですか。なんで、そちらは問題にしないで、いいんでしょうか・・・。
 アメリカ兵が日本人を無法に傷つけ、殺しても、その大半は処罰もされません。高速道路だって、私用でもアメリカ兵はタダ。住居の水道光熱費、家賃みんなタダ。首都にある横田基地にアメリカの将兵が降り立っても、日本政府にはだれが何のために来ているかも知らされない。
 アメリカの高官は、アメリカ軍は日本を守るために日本にいるわけではないと一貫して高言しています。なのに、一方的に、アメリカは日本を守るために日本に基地を置いていると思い込んでいる私たち日本人・・・。
 なんてお人よしの日本人が多いのでしょうか。手塚治虫のマンガは、戦争を防ぐには、武力によらない外交の力が必要だ、そのためには、国民がそのことに自覚と自信をもつことだと訴えています。
 日本人が、戦争をふり返るのは8月だけだというのはまずいんじゃないですか・・・。
(2010年7月刊。800円+税)

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2010年11月20日

ニッポンの海外旅行

日本史(近代)

 著者 山口 誠、 ちくま新書 出版 
 
 20代の海外渡航者が最多を記録したのは1996年(平成8年)であり、この年には463万人の20代が日本から海外へ飛び立った。12年後の2008年には、262万人となり、
43.4%も減少した。なかでも、20代前半の女性の減少率は5割であり、半減した。1972年(昭和47年)、日本人の海外出国者数は初めて年間100万人の大台を突破した。このとき、3.5人に1人は20代の若者であり、そのうちの女性の45%は20代だった。
 『地球の歩き方』は1976年(昭和51年)に初登場したが、そのときは文庫本サイズの非売品だった。市販されたのは1979年(昭和54年)のこと。300頁をこえる分厚い本だった。私は、今もこの本は参照しています。
 日本の観光旅行には二大特徴がある。第一に、伊勢参りのような団体旅行が主流であり続けた。第二に寺社参詣のような大義名分を掲げる旅行が主流である。なるほど、そうですね。当会でも、裁判所訪問を大義名分に掲げて海外旅行を重ねている弁護士グループがあります。
 1980年代の半ばに登場した旅行情報誌が、旅行業界の勢力図を一気に塗り替えた。1985年に495万人だった日本人の海外渡航者は5年後の1990年には、1100万人へと倍増した。平均して国民の11人に一人が毎年、海外へ旅行するようになった。多くの日本人にとって、海外旅行は一生に一度の大イベントではなくなり、国内旅行よりも安い海外旅行が語られるようになった。1990年には、大学生の3人に1人が卒業旅行で海外へ旅立った。
ところが、今やリクルートの旅行情報誌『ABロード』は2006年10月号で休刊となり、その機能をインターネット上に移した。インターネットは、「孤人旅行」を加速している。なぜか・・・・。
どこへ行っても同じような「買い・食い」体験をする、定番化した「歩かない」個人旅行は、どこでも同じことを繰り返す海外旅行でもあり、1~2回行けば飽きてしまう。
スケルトン・ツアーの一極化とカタログ型ガイドブックの躍進によって、「買い・食い」中心の孤人旅行が日本人の海外旅行の基本形となった。
「歩かない」個人旅行が主流となり、旅先の日常生活と接点を持たない孤人旅行が海外旅行の基本形となって久しい現状では、若者は魅力を感じないだろう。
「歩く」旅を改めて提起する必要があると著者は強調しています。
 この夏の私のブルゴーニュをめぐる旅は、まさに「歩く」旅でした。そのとき、いくらかフランス語を話せるのが最大の利点になりました。政治を語ったりするような難しい話はできませんが、ホテルやレストラン、そして、タクシーに乗るくらいは不自由しないのです。弁護士になって以来、36年も朝のNHKフランス語講座を聴き、年2回のフランス語検定試験を受けていますが、あきらめずにフランス語の勉強を続けていて良かったと心から思っています。
 
(2010年7月刊。780円+税)

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2010年11月19日

毛沢東(上)

中国

 著者 フィリップ・ショート、 白水社 出版 
 
 長征までの毛沢東が語られています。何回もの危機に見舞われ、権力を握るまでの過程は決して平穏な道ではなかったことがよく分かります。
毛沢東が40歳のとき、1943年12月12日紅軍首脳部が通道(県渓鎮)で会合を開いた。これが、毛沢東が至高権力を握る第一歩となった会議である。
毛沢東は、共産党主義者になってからの12年間に、冷遇されたことが6回あった。一度目は、信念が揺らいだ1924年。二回目は1927年の秋収蜂起の失敗のあと。三回目は1928年、特別委員会書記の座から追い落とされたとき。四回目は、1929年に朱徳とゲリラ戦術をめぐる争いをしたとき。五回目は、1932年1月の華東山で。六回目は、1932年寧都で。
1935年1月、紅軍が遵義で行軍を停止したとき、毛沢東はやっと共産党指導部でゆるぎない地位についた。3ヶ月前に出発したとき8万6千人だった紅軍は、遵義についたときには3万人に減っていた。通道は第一歩であり、遵義と1935年表の一連の会議は、毛沢東が権力を獲得する第一段階だった。1935年10月、長征は終わった。このときも歌苦闘と一緒に出発して残った者は5千人に満たなかった。
毛沢東は身近な同士から分かりにくい人物だった。ものすごいかんしゃくと、無限の辛抱強さが同居していた。頑固な意志と、極度の細やかさ。公的なカリスマと、私的な執拗さ。毛沢東は騾馬のように頑固で、自尊心と決意の鋼鉄の棒がその性質を貫き通していた。何年も見守りつつ待ち続けるが、いずれは自分の思いどおりに事を運ぶ。
1934年12月の会議の前には、1932年に毛沢東は軍の指揮を解かれていた。1934年12月の時点では、周恩来のほうが毛沢東より優位にあり、おとなしく毛沢東に権力を譲る気はなかった。夜遅くまで続いた激論の末、ドイツ人のオットー・ブラウンは軍事顧問の職を解かれた。真の敵が周恩来だということで、毛沢東に何らの迷いはなかった。周恩来こそが競争相手だった。しかし、遵義で正面切って周恩来を攻撃したら、指導部は分裂してしまい、そうなったら毛沢東に勝ち目はない。だから、毛沢東は、もっとも弱いところに攻撃を集中した。それが、ブラウンと博古だった。そして、本当の政敵である周恩来には、面目を保てるような逃げ道を用意してやった。うむむ、すごい権謀術数ですね。
周恩来は、毛沢東より5歳年下で、見事な策士であり、冷静で決して過剰には陥らず、常にその状況が提供するものから最大の利益を引き出そうとした。最終的な勝利のためなら、いくらでも変わり身を遂げることができた。周恩来にとっては、最終的な勝利こそが唯一の価値ある目標だった。
毛沢東は政治局常務委員会に入り、周恩来の主席軍事顧問となった。
毛沢東は、裕福な一家に生まれた。父親の財産は銀3千両にものぼり、小さな村では一財産だった。毛沢東は、自分の父親をまったく許す気はなく、人々の前で厳しく糾弾した。毛沢東は一度も海外に出かけていない。英語ができなかった。毛沢東のマルクス主義は、常にアナキスト的な色彩を残していた。
1930年に、AB団騒動が発生した。紅軍内部にスパイがいるとして、粛清運動が始まった。AB団員だという糾弾は、毛沢東の戦略に異議を述べるあらゆる人物を打倒する棍棒と化した。粛清は血みどろとなり、毛沢東の反対者たちは消え去った。AB団粛清では、江西省で毎月80~100人が銃殺され、福建省では6千人以上の党員や高官が処刑された。粛清の猛威にあって結束を固めたため、それに耐えた人々は緊密な規律・そして鉄の意志を持つ、異様に士気の高い軍団となった。
知らなかった毛沢東の一面を認識しました。 
(2010年7月刊。2800円+税)
 依頼者の一人に僧侶をしている方がおられ、先日、お守り札をいたdかいました。秋田の事件がありましたので……ということです。ありがたく頂きました。
 殺された津谷(つや)弁護士は20年前にアメリカの先物取引調査のために一緒したことがあり、それ以来のつきあいでした。事件の前々日に、東京での日弁連の会議でも元気な顔を見たばかりでしたので、今でも信じられない重いです。
 離婚事件の暴力(DV)夫は本当に怖いですね。これまで以上に気をつけなければいけないと思っています。

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2010年11月18日

刑務所の中の中学校

司法

 著者 角谷 敏夫、 しなのき書房 出版 
 
 読んでいるうちに胸がきゅんと締めつけられ、心臓が燃えたち、目から涙があふれ出て止まらなくなりました。
「きみの田舎では、正月にはどんな料理を食べますか?」
「帰ったことがないから、分からない」
子どものころの正月の話をする生徒は誰もいない。年賀状を出すところもなければ、年賀状が来ることもない。小学校も満足に通っていない。中学校は中退した。そんな彼らが、今、刑務所にいながら中学校の勉強を必死になってするのです。人間って、本当に変わるものなんですよね。この本には、いくつもの感動があります。
 自分はどんな存在なのかな。何のために生きているのかな。なぜ本を読んだり、勉強したりするのか、本当にそんなことが生きるうえで必要なのか・・・・。そんな疑問を胸に抱いている若い人には絶好の本です。
 最近、テレビの番組にもなったようですね。私は観ていませんが・・・・。テレビ映像もいいでしょうが、この学校で30年間も実際に教えていた人の書いた本を読むのもいいものですよ。人間って、まだまだ捨てたものじゃないと実感させてくれ、明日に生きる力を分け与えてくれます。
 長野県松本市立旭町中学校の桐分校は、全国で唯一の刑務所の中にある中学校。松本少年刑務所のなかにあり、そして中学校ではあるが、そこに学ぶ生徒は未成年とは限らない。それどころか60歳をはるかに超える生徒までいる。
桐分校のスタートは1955年(昭和30年)のこと。以来、55回生までの卒業生が691人いる。ここは全国の義務教育未終了の受刑者の中から希望者を募集する。そして、中学校の第三学年に編入学させる。1年間の勉強で卒業が認定されると、卒業証書が渡される。この間、刑務作業は免除される。
この中学校では大変な猛勉強をします。1年間で中学3年間分の勉強をするのですから、大変です。朝は8時から夕方4時半まで、1日7時間の授業を受けます。夜は10時まで勉強します。なんと1日10時間の勉強です。そして、夏休みも冬休みもありません。英語ももちろんあります。教師は、教員免許をもった法務教官7人と旭町中学校の教諭1人があたります。
生徒は、年齢にかかわらず、詰襟の学生服、夏はワイシャツ。入学者は、このところ減ってきて、1年に7~8人くらい。年齢は、17歳から67歳まで。このところ日本人だけでなく、外国人受刑者も増えてきた。入るためには面接を受ける。そのとき重視されるのは学力ではなく、本人の勉学意欲の確認。しかし、意思がないという生徒を説得することもある。うむむ、すごいですね・・・・。
入学式の当日から授業は始まる。教科書は中学3年生用のものが無償で配布される。
梅雨が明けるまで、なんとか持ちこたえられれば、1学期が乗り越えられる。そうすると、翌年3月の卒業までたどり着ける。6月には中間テスト、工場対抗ソフトボール大会。7月には七夕、8月にはプールで水泳。9月には運動会がある。そして、10月には遠足まであるのです。しかも、手錠も捕縄もなく・・・・。付き添いの職員が緊張する一日です。遠足は、決して事前には知らされません。当日の朝、初めて知らされます。朝、机の上にブレザー、スラックスそしてネクタイが並べられ、朝食のあと、今日は遠足だと告げられるのです。そして引率の教師が宣言します。
 「今日、ぼくは手錠も捕縄も持っていきません。ただ一つの武器を持っていきます。それは『信頼』です」
 いやあ、すごい言葉ですね。胸がじーんとしてきます。そして、なんと、開所以来、一度も逃走事故はないのです。すごいですよね。うれしくなります。
 2月の遠足は本校にあたる旭町中学校を訪問します。音楽交流授業で本校の中学生たちと心を通いあわせるのです。いいですね・・・・。
 そして、3月。あっというまに一年間がたち、卒業式を迎えます。卒業したら、クラス会や同窓会もありません。しかし、やがて卒業生がこの桐分校に誇らしげにやって来ることがあるのです。これって、うれしいですよね。
 桐分校は犯罪の道から更生の道への架け橋である。桐分校には、学びと教育と人間の原点がある。そうですよね。一人でも多くの人に、この本が読まれることを心から願います。とりわけ若い人々に・・・・。著者は私と同じ団塊世代です。お疲れさまでした。今後とも、お元気にご活躍ください。
 
(2009年2月刊。1600円+税)

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2010年11月17日

私たちが子どもだったころ、世界は戦争だった

世界史

著者:サラ・ウォリス、スヴェトラーナ・パーマー、出版社:文芸春秋

 大変貴重な労作だと思いました。今の日本にも、たとえば北朝鮮に先制攻撃しろと勇ましく叫ぶ人は少なくないわけですが、実際に戦争になったときに何が起きるのか、想像力が欠けているように思われます。この本は、子どもとして戦争の悲惨さを体験した手記が集められています。それも、対立する陣営に所属する子どもたちが書いていますので、実によく置かれた深刻な状況が分かります。今の日本で、一人でも多くの人に読んでほしいものだと私は思いました。
 手記といっても、立派な個人日記帳に書いた子だけでなく、読んだ本の余白にびっしり書き込んだ子もいるのです。そして、戦時下に飢え死にした子、特攻隊になって海のもくずと消えてしまった青年など、手記を書いた子が戦後まで生き残ったとは限らないのです。
 たとえば、ナチス・ドイツのイデオロギーに心酔していた子どもが次第に厳しい現実に直面させられていく様子。ナチスの残虐な支配の下でレジスタンスに身を挺する子どもの生活。この本は、それら両面から紹介していますので、人間社会の複雑さを理解する一助にもなります。
 18歳の東大生(一高生)は、12月8日の開戦日の翌日、次のように日記にしるしました。
 どうも皆のように戦勝のニュースに有頂天になれない。何か不安な気持ちと、一つは戦後どうなるのか、資本主義がどうなるかも気になる。友人は戦争が始まってサッパリしたというが、とてもそんな気持ちにはなれない(8月9日)。
 戦争?戦争が何だ。そんなものにうつつをぬかすから、犠牲者が出るのだ。人間、戦争なんかに精力をつかうほど馬鹿げたことはない。
 現在、皇恩の下にこの帝国に生活して豊かに生きることのできる僕は、御召とあれば赴くことを否むものではないし、戦争などに押しつぶされるほど弱い心ではないつもりだ。しかし、僕は断固として反戦論者として自らを主張する。戦争を除くことに努力するつもりだ(12月15日)。
 すごいですね。こんなことを日記に書いていたのですね・・・。
 今日、戦争についてパパと話した。この状況では、ドイツは戦争に勝てない。この事実を直視しようとしないのは、弱さの表れというものだろう。
 もうドイツに勝ち目はないとだれもが思っている。パパは、敗戦がそんなに絶望的なことだとは考えていない。アメリカの監督の下、ドイツは西側諸国によって共和国につくり変えられるだろうとパパは信じている。パパもママも平和になることだけを望んでいる  (1944年1月2日)。
 だけど、ドイツがアメリカの家来になるのだろう。それくらいなら死んだほうがましではないか・・・。本当に、この戦争は、とてつもなく無意味で狂っている。ドイツ人がすでに敗北を確信しているのに、前線ではまだみんなが殺されているのだから。それでも脅えているのは、あの狂ったヒトラーの意思の深さが予見できるのだからだ。ヒトラーは、自分自身の国の将来に対して、あまりに無責任だ(1944年7月25日)。
 ああ、神よ。あなたは、どうして許しておられるのですか? やつらは神は常に中立の立場におられるなどと言うのを。
 私たちを破滅させようとする者たちになぜ天罰をおくだしにならないのですか?
 私たちが罪人で、彼らが正しい者たちなのですか?
 それが真実なのですか?
 あなたは聡明なお方ですから、そうではないことぐらい、きっとわかっておられるはずです。私たちは罪人ではなく、彼らは決してメシア(救世主)ではないことぐらい!
(1944年8月)。
 これは氏名不詳の少年の最期の言葉です。
 1944年8月6日、ナチス・ドイツは最後のユダヤ人の強制移送を始めた。6万7千人あまりの青年男女がアウシュヴィッツに送られ、半数以上はガス室に直行させられた。この少年の日記は、終戦後に発見されたものです。
 1945年4月12日。ベルリンのみんなが自分の意見をあけすけに口にしていることには、まったく驚いてしまう。ほとんどが反ナチスの意見だ。ゲシュタポの恐怖にもかかわらず、もう誰もが意見を言うことを恐れていない。他人を密告する人間は、もう一人もいないからだ。そんなことをしたら、あとでアメリカ軍かソ連軍に捕まって処刑される、と誰もが思っている。
 ただ、理解できないことは、それならどうしてドイツ人は、ナチスの圧政にもっと前から抵抗しなかったのか、ということだ。単に親衛隊が怖かったからだろうか。ドイツ国民は臆病者ばかりなのだろうか。きっとそうなのだろう。ドイツ国民がこれほど無神経になったのは、空襲の恐怖のせいもあるかもしれない。今では、誰もがナチスを憎み、ナチスの支配が終わってくれたらと願っている(1945年4月12日)。
 ナチス・ドイツに加担した子ども、その被害にあったユダヤ人やポーランドの子どもたち、日本人で反戦思想の持ち主でありながら、特攻隊員となって戦死した大学生。さまざまな子どもと青年の手記によって戦争の残酷さが身にしみて伝わってきます。
 一人でも多くの人に読んでもらいたい本です。
 あとがきに、戦争中にも、実に多彩な青春があり、思春期があった。戦時下で大人になるとはどういうことなのか、読者は、あの戦争の意味を多面的にとらえることができるという指摘があります。まったく同感です。
(2010年8月刊。1900円+税)

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2010年11月16日

脱・「子どもの貧困」への処方箋

社会

著者:浅井春夫、出版社:新日本出版社

 10月に盛岡で開かれた日弁連の人権擁護大会で素晴らしい劇をみました。東京の若手弁護士たちが関わっていることは分かっていましたが、その迫真の演技に、まさか弁護士が演じているとは思えません。ところが、あとでパンフレットを見てみると、ほとんど弁護士が演じていたのです。すごい、すごいと一人で興奮してしまいました。
 といってもストーリーの内容は悲惨です。離婚した母親。職場や地域でいじめにあって、うつ病。住まいはゴミ屋敷と化します。二人の子どもたちは満足に食事をとらせてもらえなくて心身ともに発育不良。社会に出ても、なかなか落ち着けない。そんな苦労話のなかで、弁護士との接点が少しだけ明るい話として登場してきます。いやあ、本当に、世間の風は冷たいよね。思わず、涙ぐんでしまいました。この劇の骨子を提供しているのが、この本です。日本の悲惨な現実を改めて認識させられました。
 子どもの貧困は、現代日本の政策によって緩和されるどころか、つくり出され深刻化している。子どもを養育する大人が複数から一人親になることで、生活の貧困化が急激にすすむ現実がある。「子どもの貧困」は、個人・家族の責任だけに帰する問題ではなく、社会が生み出す問題として考えなければならない。
 今の日本の現実の一例。
○ 給食がないので、夏休み明けに10キロも痩せてくる中学生がいる。
○ ほとんど給食だけで暮らしている子どもがいる。
○ コンビニ弁当、カップラーメン、冷凍食品、お菓子など、まったく手づくりの食事をとったことのない子どもがいる。
○ カッパや傘がなく、雨が降ったら無断欠席する子どもがいる。
 うへーっ、これが金持ちニッポンで子どもたちの置かれている現実なのですね・・・。
 子どもを虐待する親の特徴。
 第一に、自己評価の低下サイクルに陥っている。 
 第二に、親は自らの行為を虐待であると思わないか、認めようとしない。
 第三に、社会的に孤立している。
 第四に、ストレス解消法を知らない。
 第五に、子育ての間違いに気がついておらず、「体罰」を「しつけ」と考えている。
 そうなんですか・・・。
 1990年から2008年までの18年間で、高校三年生の性交経験率は、5分の1から半数へ急増した。性被害・加害経験の多さも、「生徒の性」を考えるうえで避けて通れない。
 民主党政権の子育て支援政策は、現金給付に力点を置くという特徴がある。しかし、現金給付は、子どものために、そのお金が使われるという保障はない。親の生活費の補填に回る可能性は高い。
 いまの日本の現実に対して、政府は、「子どもの貧困」との戦争について「宣戦布告」する決意が問われている。
 子どもの貧困率14.2%を半分に削減する目標と、達成年度を明確にして提示すべきである。
 食生活の貧困は、食事内容の貧しさとなって現れる。それは子どもに必要な栄養価を満たすことなく、身体的な発達への影響や病気へとつながりやすい。
 食生活の貧困は、家庭だんらんを奪うことと同じである。子ども期には、食べたいものが食べられる権利の保障がなくては、安心・安全の生活とはいえない。
 すべての子どもがおなかを空かして悲しんでいることのない社会を今の日本で実現できないはずはない。すべての子どもたちが腹一杯に食べることができ、きちんと学校で勉強ができて、いじめにもあわない。そんな社会になったら、安全な社会を維持する経費が、今よりもずっとずっと安くなる。
 物事は、すべて視点を変えてみる必要がありますよね。日本の現実を知るうえで、いい本でした。ぜひ、あなたも、ご一読ください。
(2010年8月刊。1700円+税)

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2010年11月15日

バカボンのパパよりバカなパパ

社会

 著者 赤塚 りえ子、 徳間書店 出版 
 
 今ではほとんどマンガ本を読むことはない私ですが、大学生のころまでは週刊マンガをよく読んでいました。『おそ松くん』は愛読していましたし、シェーという奇声とパフォーマンスは私も何回もしたことがあります。そんなわけで赤塚不二夫は、とても身近な存在なのです。その愛娘である著者がマンガ家である父親をどう見ていたのか、ぜひ知りたいところなので、早速よんでみました。天才の娘であることは喜びなのか苦痛なのか。どうなんでしょう・・・・?
 この本を読むと、赤塚不二夫が天才的才能を持っていることを改めて確認できると同時に、単なる女好きの凡人ではないのかという気にもさせます。それにしても、娘はいいものですよね。父に可愛がられたあげく、イギリスに渡って自らの芸術的才能を花開かせることができたのです。そして、父母が離婚したあと、なんとか父親と再び折り合いをつけることが出来たのでした・・・・。
 「なんでマンガを描いたの?」
 「マンガはな、お金をかけないで、監督も俳優も美術も全部ひとりで出来るんだ」
 なーるほど、そうも言えるのですね・・・・。赤塚不二夫は、早くから分業システムを導入していた。仕事量が増えるにつれ、さらに合議制をフジオ・プロに取り入れていった。
 ギャグマンガは、毎回新しいネタを一から作らなければならない。赤塚不二夫は一人だけのアイデアでは限界があると早くから悟り、マンガのアイデアを練るために、アシスタントや担当編集者も交えて「アイデア会議」を開いた。それは、初めから雑談から入る。雑談のなかの何かちょっとした事柄からアイデアが飛び出して、どんどん広がっていく。このアイデア会議には3時間かける。絵を描き始めるのが昼からで、終わるのが夜中の3時。12、3頁の作品にかける時間は、アイデアを含めて15、6時間ほど。
 1970年代の前半には、アシスタントだけで、40人を数えた。うへーっ、す、すごい人数ですね・・・・。
 赤塚不二夫は、多いときには週刊・月刊あわせて12本の連載を抱えていた。容赦なく迫る締め切りに向かって、毎日違うマンガを描いていた。平日は週刊誌、週末は月刊誌をやっていた。1日4時間足らずの睡眠時間だった。
 しかし、赤塚不二夫は、どんなに忙しくても、呑みに出かけた。しかし、そこでもアイデアをつかんでいたのだ。
 ハチャメッチャな人生を送った赤塚不二夫ですが、何事にも真剣だったようです。そんな真面目さがなければ、あんなふざけたマンガなんて描けませんよね。
 私も赤塚不二夫には、お世話になりましたという感謝の気持ちで一杯です。
 
(2010年6月刊。1600円+税)

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2010年11月14日

ふるさと子供グラフティ

社会

 著者 原賀 隆一、 クリエイト・ノア 出版 
 
 これはこれは、とても懐かしい絵のオンパレードです。思わず見とれてしまいました。手にとってニンマリ。幼かったころの楽しい思い出の数々が脳裏によみがえってきます。著者は私より年下の団塊世代ですから、子ども時代は、お金がなくても豊かな自然があり、同じ年頃の友達がわんさかいて、群れをなして集団遊びに打ち興じていました。もちろん、ボス支配などもあり、いじめもあっていたのですが、なにしろ子どもの数は多いので、たくさんのグループがあり、テレビもゲーム機も何もないような時代ですから、みんなで遊びを作り出しながら楽しんでいました。そういう意味で、現代の子どもたちは不幸ですよね。お金があっても、楽しく遊べる仲間が身近にいないというのですから・・・・。
 著者は高校の同級生と結婚し、奥様がスタッフ兼、経理兼、妻だというのです。うらやましいような・・・・。
50年以上も前の子どもたちの遊びが楽しく図解されています。ああ、なるほど、こんな遊びをしていたよね。生まれ育った地域は少し違うのですが、同じような遊びをしていたことを知って喜びをともにしました。
 ここになかったのは「パチ」の遊び方です。近くの社宅に行くと、子どもたちが、メンコを山のように積み重ねて、ひらりと一番上の一枚を飛ばすと勝ちとなり、全部のメンコをもらえるのです。それこそ神技でした。どさっという音がしたのではダメなのです。まさしくひらりと軽やかな音をたてると一番上のメンコが一枚だけ音もなくすーっと空を飛んでいくのです。すごい、すごいと感嘆していました。
 ラムネん玉(ビー玉)遊びもよくしていました。きらきら輝くビー玉を手に持って遠く離れたビー玉にうまく当てるのです。私はこれは得意でした。
だるまさんがころんだ。六文字。三角ベース(野球)・・・・。いやあ、子どものころの遊びって、たくさんありましたね。なつかしさ一杯の楽しい絵本です。ぜひ、あなたも手にとって眺めてみてください。すっかり気分が若返ること、うけあいです。
(2009年11月刊。2000円+税)

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2010年11月13日

波浮の港

司法

 著者 秋廣 道郎、 花伝社 出版 
 
 楽しい本です。子どもの時代の楽しくも切ない思い出がたくさん詰まった本なのです。
 波浮(はぶ)の港と言えば、伊豆の大島のことです。著者は大島の名家に生まれ育ったのですが、5歳のときに父を亡くしました。そのときのエピソードが心を打ちます。
 通夜や葬式の日に、近所の人は、父を失った幼い私を哀れんで、「みっちゃん、可哀想ね」と来る人来る人いうので、それがたまらなく厭だった。それで、(近所の)史郎ちゃん、六ちゃん(いずれも著者の子分である)を連れて、お葬式の日に波浮の港へ泳ぎに行ってしまった。そして、ひどく怒られた記憶が残っている。しかし、誰かは定かではないが、「みっちゃんも辛いのよ」と庇ってくれた人がいた。その言葉の優しさが今も忘れられない。
 そうなんですね。5歳には5歳なりのプライドというものがあるのですよね・・・・。
大島の三原山に日航機の木星号が墜落したのは、著者が小学3年生のとき。早速、三原山の現場へかけのぼり、スチュワーデスと思われる女性の死体を見たというのです。この木星号の墜落事件についても松本清張が本を書いてますよね。よく覚えていませんが、アメリカ占領軍と日本の財閥をめぐって何か略謀の臭いのある事件だと描かれていたように思います・・・・。
 小学生の著者たちは、なかなかおませだったようで、美空ひばりを本気で好きになったり、美人の先生が男性教師とデートするのを子どもながら嫉妬し、木の上からおしっこかけて邪魔しようとしたりしています。
 著者の家は旧家で名望があったとはいえ、小学生のころから家業の牛乳屋の牛乳配達をしていました。そのおかげで小柄な身体つきですが、頑強な身体になったそうです。
著者は、小学校も中学校も一学年一クラスの中で育ちました。9年間も一緒だと、その性格はもちろん、その家庭の様子も手にとるように分かる。ごまかしや格好付けのできない世界だった。なるほど、だから、いじめられる側にまわると悲惨なんですよね・・・・。
教師には恵まれたようです。伊豆の大島は都内からすると一級の僻地なので、若い新任の教師も多かったのでした。
 小学二年生のときに髄膜炎にかかって長く自宅療養しているなかで、著者は孤独との戦いを余儀なくされ、いろいろ考えさせられたのでした。そのころ、大島の三原山は投身自殺の名所となっていました。漁船の遭難事故も多く、人の死と向きあう日常生活があったのです。著者自身も大島での子ども時代に九死に一生を得る体験を二度もしています。
当時の写真だけでなく、素敵なスケッチがあり、また、漫画チックな著者たちのポートレートもあって、終戦後間もない大島における子ども時代が彷彿としてきます。
 著者は先輩にあたりますが、私と弁護士になったのは同じ年で、一緒に横浜で実務修習を受けました。運動神経が抜群で、ボーリング試合での成績がいつもとても良いのに感嘆していました。これからも、どうぞ元気で頑張ってください。よろしくお願いします。
  
(2010年10月刊。1500円+税)

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2010年11月12日

日本人のための戦略的思考入門

社会

 著者 孫崎 享、 祥伝社新書 出版 
 
 たとえ争点を抱えていても、隣国と戦争しないことが最大の国益である。
まさしく卓見です。私は、この指摘こそ現代日本のマスコミの多くが忘れ去っている肝心なことだとつくづく思いました。
ところが、国家間は摩擦の中で、国家戦略の中心が広範な利害から離れて、小さい問題に集中しがちだ。その中で、相手より優位に立つ、相手をやっつける、相手にいい思いをさせないという考えにとらわれてしまう。
北朝鮮との関係で、日本にとって何がもっとも大切なことか。よく考えてみると、それは何よりも交戦する可能性を排除することである。
今、北朝鮮は「窮鼠」である。「窮鼠に噛まれない」知恵、これが戦略の要である。
いやあ、まったくそのとおりです。大賛成です。戦争をあおり立てる人たちが現にいますが、戦争になったら両国に住む無数の罪なき人々が殺され、また死なずとも悲惨な境遇に叩き落されてしまうことでしょう。絶対に避けるべきことです。
 いま戦争状態にないことこそ、最大の共通利益である。これを維持し拡大することが最大の戦略である。まったく、そのとおりです。よくぞ言ってくれました。
今、日本の安全保障政策は、アメリカに追随するのみと言ってよい。そのとおりですね。
 今日の日本は、すべてアメリカの許容範囲内で動いている。安全保障に関する論議はほぼすべてアメリカの政府と学者のオウム返しである。独自の思索はまずない。日本人の国際政治の場での発言の知的水準は低い。日本は技術と経済の巨人だが、軍事と政治のピグミーだ(ハーマン・カーン)。
 核兵器の出現によって、各国の戦略は一転した。国際紛争の解決は外交の手段によってのみ為されるという見識である。
日本の防衛大綱には、ミサイル防衛が日本の防衛の柱になっているが、これはアメリカ以上に不可能なものである。
 多くの日本人は、日米安保条約によって日本の領土が守られていると思っている。中国が尖閣諸島を攻撃したときどうなるのか? 多くの日本人は、日米安保条約があるから、アメリカは即、日本と共に戦うだろうと思っている。アメリカ政府の要人は、そんな印象を振りまいてきた。日本の外務省幹部も「アメリカが絶対に守ってくれる」と言ってきた。これって、本当なのか?
 1996年、時の駐日大使モンデールは、アメリカ軍は安保条約によって尖閣諸島をめぐる紛争に介入を義務づけられるものではないと発言した。中国が尖閣諸島を攻撃したと想定したときを考えてみる。中国は、当然に占拠できると見込む戦力でくる。これに自衛隊が対応する。このとき、アメリカ軍は参戦しない。自衛隊が勝てばそれでいいが、負けたとき、管轄権は中国に移る。そのとき、安保条約は適用されない。つまり自衛隊が勝っても負けても、アメリカ軍は出る必要がない。日本人の多くは、日米同盟があるから、アメリカは領土問題で日本の立場を強く支持していると思っている。しかし、実際は違う。竹島では韓国の立場を支持し、尖閣諸島では日中のどちら側にもつかないと述べている。そして、北方領土は安保条約の対象外だ。そうなんですよね。アメリカが日本を無条件で守ってくれるなんて、幻想もいいところでしょう。
 中国の海軍増強は続く。この中、日米同盟の強化を説く人は、だから同盟を強化しなければいけないと主張する。しかし、アメリカはそんな甘い国ではない。自分の国の国益を考える。アメリカは日本要因で米中戦争に突入することを極力避ける。今後ますますこの傾向が強まるだろう。それは、国として当然の選択である。
日本人の多くは、アメリカの核の傘によって日本は守られていると信じている。しかし、論理的に考えて、アメリカが「核の傘」を日本に与える可能性はない。北朝鮮の核兵器に対してはアメリカの抑止が働くが、中国に対してはそうではない。
 1952年、アメリカのダレス長官は、日本がアメリカを守る義務を果たせない以上、アメリカが日本を守る義務は持っていない。間接侵略に対応する権利は持っているが、義務はないと述べた。アメリカの政治家や学者は、ホンネで言えば、日米関係について、従属関係における虚構の同盟とみている。
この本の著者は外務省に長くいて、いくつかの国の日本大使を歴任したあと、防衛大学校の教授もつとめています。ですから、いわゆる革新系の学者ではないのです。そのような経歴の人が言うのですから、説得があります。
この本は日本の安全を考えるうえで必読の基本的な文献だと思いました。一読を強くおすすめします。 
(2010年9月刊。800円+税)

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2010年11月11日

ラオス、豊かさと「貧しさ」のあいだ

アジア

 著者 新井 綾香、 コモンズ 出版 
 
 20代の女性が日本での農業経験もないのに、ラオスの農村で米づくりにも関わった奮闘記です。たいした勇気と、その頑張りに敬服・感嘆しました。やっぱり若さというのはすごいものですね。
 ラオスは人口630万人、面積24万平方キロ。面積は日本の本州と、人口は北海道と同じくらい。ラオ族が全体の6割を占めるが、モン族やアカ族など49の少数民族がいる。
 国民一人あたりの国内総生産は859ドル(8万円)、102ドル以下で暮らす国民が7割を占める。しかし、ラオスの森は「お金のいらないマーケット」。村人の食卓にのぼるものは、森のキノコ、野生動物、昆虫、自生の野菜など。田んぼでは、米のほか、カエル、イナゴ、ウナギ、ナマズ、ドジョウ、タニシ、香味野菜など20種もの食材がとれ、村人の食生活を支えている。農村に住む世帯は、自然から手に入れるものを現金に換算すると年間280ドルに達し、世帯収入の55%を占める。
しかし、ラオスの地方で生活するのは大変厳しい現実もある。著者は、寄生虫やデング熱に何度もかかり、ストレスから、蕁麻疹や不整脈にもなった。うひゃあ、やっぱり大変なんですね・・・・。
 ラオスで米というと、もち米を指す。雨季の稲作では、化学肥料は投入されていない。ラオスの成人男性は1ヶ月に20キロの米を食べる。日本人の4倍にあたる。そして、村には、貧困層が竹の子やキノコなどの村産物を持って米と交換しに来た場合には断ってはいけないという暗黙の了解がある。なーるほど、ですね。
 村人は、一つの種類の稲だけに頼らず、生育期間の異なる複数の苗を植えている。不安定な天水依存のもとで稲作を営んできたリスク分散の知恵である。
近年になって起きた貧困をつくり出している変化の多くは、「貧困削減」の名のもとで進められている開発事業による。
 うむむ、なんということでしょう。大いなる矛盾です。巨大開発事業や投資事業から村人が得られるプラス面は限定的である。ラオスの村人は、いま、さまざまな大規模開発事業に振り回されている。
世界銀行などによる大型ダムの建設支援、中国企業によるセメント工場の建設、日本やベトナム、タイの企業による植林など、さまざまな開発事業が「貧困削減」という名目で行われている。これらの大型開発事業は、村人が長年築いてきたセーフティーネットを奪い、マイナスの影響を与える危険性が高い。うむむ、考えさせられますね。
 ラオスの農村に入り込んで、生活した体験にもとづく指摘なので、重みがあります。いろいろ考えさせてくれる、そして元気の出る本でもありました。この若さと元気を分けてもらいたいものです。
 
(2010年6月刊。1700円+税)
 庭の手入れをしようとしていると、目の前を長いものがするすると通り抜けていきます。どきっとしました。そうなんです。長さ1mほどの若々しい蛇でした。犬走りをバツが悪そうに身をよじりながら、やがてシャガの茂みに入って行きました。蛇とは長く共存関係にありますが、何度見ても身震いさせられます。もっとも、先方は先祖代々棲みついてきた場所に入り込んできた迷惑な新参者だと思っていることでしょう。
 庭にアスパラガスの株を3つ植えつけました。10年ほど収穫出来ていた株が枯れたので、新しいものを植えたのです。来春が楽しみです。

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2010年11月10日

手記・反戦への道

日本史(近代)

 著者 品川 正治、 出版 新日本出版社  
 
 松山への出張の帰りに読みはじめ、飛行機のなかでも涙を流しながら一心不乱に読みふけってしまいましたので、雨雲のなかでのひどい揺れを気にすることもなく福岡空港に無事着陸したのでした。
著者の講演は直接きいたことがありますし、別に書かれている本も読んでいましたが、戦前の学校生活そして中国大陸での生死紙一重の戦争体験記を読んでいると、身体中が震えてしまいます。
著者が擲弾筒を発射して敵の中国軍に命中させたとき、国を侵略軍(日本軍のことです)から守るために起ち上がった中国人を何人も殺したわけです。そして、ついに、著者は中国軍の砲撃を受け、直撃こそ免れたものの、血だらけとなり、部隊全滅と日本へ伝達される憂き目にあったのでした。しかし、砲の破片が身体に入ったままではあっても、なんとか生命だけは助かり、終戦を迎えることができました。この終戦時に、反戦思想の故に前線をたらいまわしにされていた隊長と一緒に行動するなかで、捕虜となって飢え死に寸前に日本へ無事に帰りついたのです。ところが、日本で著者の帰りを待ちわびていたはずの恋人は戦災で亡くなっていました。その嘆きは深いものがありますが、その日は著者が生死をさまよっていたのと同じ日だったというのも偶然とは言えない一致でした。
 著者が学征出陣するきっかけとなった京都の三高での生活も興味深いものがあります。18歳ころというのは、何も考えていないようで、深く人生を考えるものだということを、我が身を振り返っても言えることだと思いました。
 それにしても、西田哲学をはじめとして、いつ兵隊にとられて死ぬかもしれないという状況の下で、必死になって学問を深めようとするものなんだと痛感しました。私自身は19歳から20歳にかけて大学二年生として東大闘争を経験しています。そのころから、セツルメント活動をふまえて、それなりに人生をいろいろ考えていました。著者のように、いつ兵隊にとられて戦場で死ぬかもしれないという切迫感こそありませんでしたが、真剣に生き方を模索する学生は多かったものです。
 この本は、著者の青春そして多感な恋愛記でもあります。そちらのほうも大変興味深く読みすすめていきました。なかなか思い切った決断をしたものだと感嘆させられたことです。 一読に価する本としておすすめします。 
(2009年2月刊。1600円+税)

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2010年11月 9日

信長が見た戦国京都

日本史(戦国)

 著者 河内 将芳、 出版 洋泉社歴史新書  
 
 この本を読んで最大の収穫があったと思ったのは、本能寺の変についての見方です。著者は次のように述べています。
 信長は光秀に殺されたというよりもむしろ、京都に殺されたといったほうがよいのではないかと思われる。御座所の本能寺に信長が6月3日まで滞在していることが明らかなうえ、その御座所の警固もほとんどなきに等しい状態であったならば、光秀でなかったとしても、信長を討ち果たすこと自体は、それほど困難ではなかったと考えられる。信長の無防備さについては、当時から「御油断」とか「御用心なし」と指摘されていた。信長にとって、京都はそれだけ安全な場所と認識されていたことを意味する。しかし、それは、あくまで信長の認識であって、実際に京都が信長にとって安全だったのかどうかとは別問題であろう。
 信長には元亀争乱以降に身につけていった自らの武力への自信と、その武力を後ろ盾とした支配に対する過信というものがあった。信長が予期もしないほどに「御油断」していたところにこそ、このとき信長が京都で死ななければならなかった最大の原因があったように思われる。
 本能寺の変のあと、京都の人々は光秀のことを主君を殺した謀判人とはとらえていなかった。しかし、ふたたび戦乱の世になることを恐れ、当時、洛中でもっとも安全だった「禁中」(内裏)の中へ逃げ込み、避難小屋を建てて日々を過ごしていた。
 戦国時代の京都は、今と違って天皇の住まいである内裏のすぐそばまで麦畑が迫っていた。かつての市街地には麦畑などの農地の中に上京と下京という二つの市街地が浮かんでいた。左京を洛陽、右京を長安といった。洛陽の中だから、洛中という。
 信長は本能寺をずっと利用・宿泊していたのではない。むしろ、もっと多くは、日蓮宗寺院である妙覚寺を利用していた。信長は洛中に拠点を構えるという意思が薄かった。信長は、延暦寺焼き打ちなどによって京都の人々から恐れられる存在となった。しかし、恐れられる存在となったことは、信長とその軍勢にとって、また京都の人々にとっても決してプラスに働くことはなかった。
 暴力への反動、そして過信した「独裁者」への哀れな末路を思い起こさせる貴重な指摘です。これだから、本を読むのは止められません。
(2009年2月刊。1600円+税)

 秋は春咲きの球根を植え付ける季節です。せっせと庭を掘り返して、チューリップなどを飢えています。これまで畳3枚分ほど、250本は植えたと思います。目標は500本ですので、まだまだです。チューリップ以外にも、ラナンキュラスやフリージア、クロッカスなども植えつけます。周囲にビオラを植えました。パンジーよりも小さな花で、可憐さに惹かれる花です。
 初夏に植えていたピーマンが実をつけていました。すごく固かったのですが、ゆでると美味しくいただけました。日本の食糧自給率はもっと高めるべきですよね。

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2010年11月 8日

秘境に学ぶ幸せのかたち

東南アジア

 著者 田淵 俊彦、 講談社 出版 
 
 テレビ東京の「世界秘境全集」ディレクターによる秘境体験記です。テレビ東京は開局45周年記念番組として「封印された三蔵法師の謎」を放映しましたが、その番組制作にも著者は関わっています。
すごい人です。初めて秘境を訪れたとき、著者は26歳でした。それから20年間、世界各地の秘境をめぐったのです。なんと79ヶ国ですよ。すご過ぎますよね・・・・。
 南米のアマゾン。ジャングルの民は、食べるだけ作るから保有はしない。その日に、食べる量のマンジョーカだけを畑から抜いて、ファリーニャを作る。ため置きをするという発想は彼らにはない。
 ワニは尻尾(しっぽ)の部分を食べる。分厚いウロコの下から現れたのは、雪のように真っ白な肉である。他の部位は骨と筋だけで、とても食べられたものではない。肉をざっくりと塊に切り分け、塩と黒ゴショー、酢そして最後にパプリカという唐辛子で味付けをする。それから、高温の油で一気に揚げる。鶏肉に似た弾力があって美味しい。アマゾンの貴重な贈り物である。
むひょう、ワニって、本当に美味しいのでしょうか・・・・。信じられません。
秘境の人々は、食に対する知識が驚くほど豊富である。森にいる動物や植物の生態をすべて知り尽くしている。
 チチカカ湖周辺の人々は、ツンタを土につけて食べる。ツンタとは、チチカカ湖の水にジャガイモを1ヶ月間つけて発酵させたもの。水で煮込んで戻したツンタを土につけて食べる。といっても、どの土でも食べられるというものではない。いやあ、そうでしょうよ。土を食べるなんて、ぞっとしますね。美味しいものとは、とても思えません・・・・。
 カナダのイヌイットはアザラシ狩りに関して、いろいろの決まりがある。子どもとメスは狙わない。一発で仕留めなければならない。仕留めたばかりのアザラシの口には、末期の水を注いでやる。すぐに解体してやらなければならない。これらは自分たちの命を支えてくれる動物を敬う気持ちからなる。
 アザラシの解体を始めると、初めに肝臓を取り出して食べる。生の肝臓には、ビタミンが豊富に含まれている。野菜の不足する北極圏では、ビタミン欠乏症になりやすいから、それを防ぐためだ。むかし、本多勝一の本に同じような描写がありましたね。
 中国の雲南省の山深い村には、背負い婚が残っている。略奪婚、そこから発展した背負い婚。男女が出会う機会の少ない場所ならではの結婚のかたちである。略奪婚は、式をあげる費用がないほど貧しい地域で多く行われていた。ふむふむ、なるほど、ですね。
 ブータンで修行中の少年僧は裸に毛布一枚だけをまとって眠る。どんなに寒い日であっても、袈裟を着たまま眠るのは許されない。これも修行なのである。うへーっ、ぞっとしてきます。私は寒さに弱いので、これではたまりません。
 チベットには鳥葬がある。死んだ者の家族は、死体から手足を切り離し、服を裂いて内臓を取り出し、頭蓋骨を砕く。これは、鳥が食べやすいようにということだけではない。鳥が空に舞い上がるのと同時に、死んだものの魂も天に昇ることのできるようにとの願いが込められている。外国人には見せられない儀式だが、子どもは必ず現場に立ち会わせる。人間は死と無縁では生きられない。死はいつやってくるか分からないが、やってくるのは確かだ。だから、死を恐れるべきではない。このような死に関する太古からの教えを子孫に伝授するのだ。うーん、なりほど、でも、そう言ってもですね・・・・。その情景を想像して、またそれを思い出して、夜、眠れなくなりました。といっても、実は、すぐに深い眠りに入ったのですが・・・・。
 すごい本です。秘境に生きる人々から私たち日本人はたくさん学ぶところがあると思いました。そうはいうものの、私は、こんな体験記を読むだけで十分です。とても自分自身が秘境に出かけるなんていう勇気はありません。ワニに食べられたくもありませんし・・・・。

(2010年8月刊。1700円+税)
 庭の一角にシュウメイギク(秋明菊)のクリーム色と言うよりほとんど純白の花が咲き誇っています。その隣には鹿の子斑のホトトギスの花がひっそりと咲いています。不如帰の花が咲くと秋の深まりを感じます。急に寒くなりました。この冬は寒気が例年より強くなるそうです。お互い、風邪などひかないようにしましょう。

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2010年11月 6日

はまゆう

司法(警察)

 著者 小坪 哲成、 海鳥社 出版 
 
 タイトルも何のことやら見当がつかず、冴えないセピア色の昔の街頭風景写真をつかった表紙で、手にとって読みはじめたとき、正直言って期待していませんでした。ところが、案に相違して、この本はとても面白いのです。
 私より少し若い著者は、今年、60歳で警察を定年退職しました。福岡県警で40年あまりを勤めあげた、その経験がこの小説に見事に結実しています。
 暴走族特別捜査班長時代には、「鬼班長」として暴走族から恐れられていたといいますが、その文体はきめ細かく、読み者の心をつかむ秀逸な文章になっています。私も職業柄、警察小説を多読していますし、元警察官の書いた本もたくさん読んでいますが、この本は、ピカイチの部類に入ると私は思います。なんといっても、捜査の現場にいたことのある体験を生かした描写には圧倒的な迫真力があります。オビに、「実際の捜査現場を、リアルに再現した“本当の”警察小説。容疑者との根くらべ。ひたすら脚を使った地道な捜査。わずかな手がかりを頼りに、倦むことなく犯人を追う―」とあります。
 実際の捜査現場は、こんなものなんだろうな、大変だなと思いつつ読みすすめていきました。殺人事件が起きます。その犯人が迷宮入りするなかで警察官を志望する二人の青年。警察のなかで鍛えられ、やがてひょんなことから、犯人の目星がつきます。しかし、どうやって口を割らせるか・・・・。思案のしどころです。そこは足を使うしかない。聞き込みにまわります。
 捜査とは、そ・う・さ、である。「そ」とは犯罪現場では、掃除をするように、小さなごみ一つでも見逃さない。なぜ、それがそこにあるのか、自分で納得できるまで追及する。「う」とは、嘘をつかないこと。「さ」とは、最後まであきらめないこと。
 これって、弁護士の仕事にも通じる大切なことです。
(2010年8月刊。1300円+税)

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2010年11月 5日

カネミ油症

司法

 著者 吉野高幸、 海鳥社 出版 
 
 カネミ油症は古くて新しい食品公害事件です。ふだんはテレビを見ない私ですが、宿泊先のホテルで日曜日の朝、たまたまテレビを見ていましたら、カネミ油症の特集番組があっていて、著者も登場していました。カネミ油症の被害者が今なお大量に存在して苦しんでいること、原因企業であるカネミ倉庫が治療費をこれまで負担してきていたのに、経営難から負担を打ち切ろうとしていることがテーマとなっていました。
この本は、カネミ油症の弁護団の事務局長として長く奮闘してきた著者が、カネミ油症事件とその裁判について振り返ってまとめたものです。ハードカバーで260頁もあります。読むのはしんどいな、でもせっかく買ったので読んでみようかなと渋々ながら重い気持ちで読みはじめました。ところが、なんとなんと、とても分かりやすい文章で、すらすらと読めるではありませんか。これには日頃、著者に接することも多い私ですが、すっかり見直しました。ええっ、こんな立派な分かりやすい総括文が書けるなんて・・・・(失礼!)、と改めて敬服したのでした。
 カネミ油症裁判で何が問題だったのか、どんな意義があるのか、実務的にもとても明快に紹介されています。とりわけ若手弁護士にはぜひ読んでほしいと思いました。
カネミ油症が初めて世間に報道されたのは、1968年10月のことです。私は大学2年生であり、東大闘争が始まっていました。初めは「正体不明の奇病が続出」という記事でした。翌1969年7月現在、届け出た患者は西日本一円で1万4320人といいますから、大変な人数です。それはカネミライスオイルを使ったからで、その原因は製造過程で金属腐食があってPCBが製品に混入したからだということが判明しました。
 PCBは「夢の工業薬品」と言われていましたが、PCBを食べた例は世界のどこにもなく、したがって治療法がありません。このことが被害者を絶望のどん底に突き落としました。
 1970年11月16日、被害者300人はカネミ倉庫と社長、そして国と北九州市を被告として損害賠償請求訴訟を提起しました。
 このとき、弁護団は訴訟救助の申立をしました。印紙代として必要な数百万円の支払いの猶予を求めたのです。また、弁護士費用についても、法律扶助協会(今の法テラス)に支給を求め、300万円が認められました。
 弁護団は訴訟費用を被害者に負担させないという方針をとっていました。だから、大カンパ活動を始めました。支援する会は200万円ものカンパを集めました。そして、1971年11月にPCBを製造したメーカーである鐘化を被告として追加しました。
 裁判では1973年夏に、原告本人尋問がありました。長崎県の五島にまで出かけ、裁判官が出張尋問したのです。朝9時に現地の旅館前に集合し、「平服でげた履きの裁判所関係者は三班に分かれて出発」し、「各家庭で本人尋問が始まった」と記事にあります。
 一人の裁判官が40時間にわたり、40人をこえる被害者や証人から各家庭で証言に耳を傾けた。すごいですね。裁判官が被害者である原告本人の自宅にまで出向いて、その訴えに耳を傾けたのです。
 原告弁護団は、損賠賠償を請求するのに個別に逸失利益を算定するのではなく、包括一律請求方式を採用した。請求額は死者2200万円、生存患者1650万円(いずれも弁護士費用こみ)を請求した。これは患者の苦しみに個人差はないという考えにもとづく。たしかに被害者の苦しみについて簡単には格差はつけられせんよね。
 裁判の最終弁論は、1976年6月に3日間おこなわれた。2日間が原告、残る1日が被告の弁論に充てられた。うひゃーっ、す、すごいですね。今どき、そんなもの聞きませんね。
 判決に向けて、弁護団は大変な努力を重ねたことが紹介されています。なんと、判決前の6ヶ月間、そのためにずっと大阪に弁護士(今は大分にいる河野善一郎弁護士)が滞在していたというのです。熱の入れ方が違います。いったい、その間の生活はどうしていたのでしょうか・・・・?
 弁護団は判決直後に大阪のカネカ本社で3日連続の交渉、東京の厚生省で交渉をすすめるほか、大阪で強制執行できる準備を着々とすすめていきました。
 1978年3月10日の判決は、残念ながらカネカとカネミ倉庫の責任は認めたものの、国と自治体の責任は認めませんでした。しかし、原告弁護団はカネカの高砂工場で、工場内に積まれていた岩塩1万トンあまりを差し押さえました。執行補助者が岩塩に「差押」とスプレーで書いている写真があります。大阪本社では社長の机や椅子も差し押さえました。ところが、カネカには現金や預金がまったくありませんでした。そこで、強制執行妨害(不正免脱)罪として、弁護団は大阪地検特捜部に告発したのです。これは起訴猶予となりましたが、これ以降は、カネカも現金か小切手を用意するようになりました。
 原告弁護団は、カネカの強制執行停止申立書を高裁受付で待ちかまえ、その不備を発見して受理させなかった。すごいですよね。受付で申立書を点検するなんて・・・・。そして、そもそも執行停止すべきでないと裁判所に申し入れたのです。裁判所は、結局、1人300万円を超える部分については執行を停止するとの決定を下しました。ということは、逆に言えば一人300万円までは執行できるということです。
判決後のカネカとの本社交渉では、執行停止が認められなかった20億円のほか6億円を上乗させることが出来ました。
ともかく、あきれるばかりのすごさです。交渉というのは、このようにすすめていくものなのですね。さらに、原告弁護団は、第一陣訴訟に加わっていない被害者について、仮払い仮処分を申立して、一人150万から250万までの支払いを認めさせたのでした。これによって、カネカによる被害者の分断工作を封じてしまったのです。
1984年3月、福岡高裁は国の責任を認める画期的な判決を下した。1985年2月に、小倉支部でも同様に国と自治体の責任を認める判決を出した。
ところが、1986年5月、福岡高裁(蓑田速夫裁判長)は国と自治体の責任を認めないという判決を下したのです。私は、こんな冷酷非道な判決を下す裁判官がいるなんて、信じられませんでした。たとえ裁判官が温厚な顔つきをしていても、決してそれに騙されてはいけないと思ったものです。
危険性は予測できなかったから、行政に落ち度はなかったとしたのです。まるで行政追随の非情な判決です。これでは裁判所なんかいりませんよ・・・・。
最高裁で口頭弁論したあと、和解交渉に入ります。カネカには責任がないことにしながら、カネカは21億円を支払う。これまで被害者が仮払金として受け取っていたものは返す必要がないというものです。この和解で一応私の決着はついたのですが、あとで、訴訟を取り下げたところから、さらに新しい問題が発生します。仮払金を受け取っていたのが根拠がなくなったので、返せといわれたのです・・・・。いやはや、いろいろあるものです。裁判がいかにミズモノであって予測しがたいか、そのなかでどんな知恵と工夫をしぼるべきか、しぼってきたか、手にとるように分かる本になっています。
ぜひぜひ手にとってお読みください。裁判闘争の実際を知りたいと思うあなたに強くおすすめできる本です。 
(2010年10月刊。2300円+税)

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2010年11月 4日

歩いて見た太平洋戦争の島々

日本史(近代)

著者:安島太佳由、出版社:岩波ジュニア新書

 太平洋戦争を美化しようという声は戦後一貫してありますが、戦跡の写真と、その体験記を読むと、なんとまあ無謀な戦争に日本が突入したのか、信じられません。
 たとえば、クリント・イーストウッド監督によって映画になった硫黄島です。
 硫黄島にいた日本軍は2万1000人。そこにアメリカ軍7万人が上陸した。1ヶ月の戦闘によって、日本軍は2万人をこえる戦死者を出し、アメリカ軍は6800人の死者と2万人の負傷者を出した。
 そして、今なお、日本兵1万1000人の遺骨が地中にあり、回収されていないのです。
 兵隊さんを二度と殺してはいけない。一度目は戦死。二度目は、彼らの存在を忘れて見殺しにすることによって。
 水のない島で、地中深く、50度以上にもなるなかで潜んで殺されていった日本兵の無念さを思うと、涙が出てきます。
 最近も、慰霊祭に参加していた中学生が草むらで鉄のかたまりを見つけて放り投げて遊んでいたところ、それは不発弾でした。こんなことが、今も硫黄島には起きています。
 日本政府の責任でなんとかすべきではないでしょうか。幸い、少し動きが出ているようです。
 次はガダルカナル島。ここには、次のような生命判断があった。立つことのできる人間の寿命は30日間、身体を起して座れる人間は、3週間、寝たきり起きられない人間は1週間、寝たまま便をするものは3日間、ものを言わなくなったものは2日間、またたきしなくなったものは、明日。
 このようなガダルカナル島で悲惨な体験をした兵士の存在が日本人に知られることを恐れた軍部は、彼らを次の戦場へと送り込んだ。天皇陛下の皇軍は、最後まで勇猛果敢に戦い、お国のために戦死していったことにし、餓死などはなかったことにしたかったのだろう。
 ジャワの天国、ビルマの地獄、生きて還れぬニューギニア。
 このニューギニアの戦場は、生きて還れぬどころか、「死んでも還れぬ」場所だった。
 戦場では、死は特別のものではなく、日常ですらあった。
 一ヶ月近くのものは、すでに完全な白骨。全身にウジ虫がわいているのは数日前、まだ息があるのではと思えるものは、昨日、今日。
 ニューギニアのビアク島では、今でも、掘れば、すぐに日本兵の白骨死体が出てくる。割れた頭蓋骨に、白い歯がそのまま残る顎の骨が土の中から出てきた。
 なんということでしょうか。日本政府は直ちに遺骨収拾団を公費で派遣すべきです。そして、その結果を国民に報告する必要があると思います。人間の生命を粗末にしてはいけません。
 兵士といえども人間なのです。国の命令で仕方なく遠い戦場に行かされて亡くなった人々を放っておいていいわけがありません。読んでいて日本政府の無為無策にますます腹が立ってしまいました。
(2010年4月刊。940円+税)

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2010年11月 3日

ガサコ伝説

社会

 著者 長田 美穂、 新潮社 出版 
 
 大学生のとき以来テレビを見る習慣のない私は、芸能情報にもまったく疎いのですが、もちろん山口百恵も森昌子も野口五郎も知っています。といって、彼らの歌を聴いたことはありません。私は歌謡曲は好きではないのです。そんな私でも、芸能界の内幕話を本で読むのは好きなのです。つまり、活字を通して何でも知りたいのです。
 『月刊平凡』という雑誌がかつてあった。私は読んだことが在りませんし、興味もありませんでしたが、一世を風靡した雑誌であったことは間違いありません。
 昭和20年代後半の発行部数は100万部。『月刊平凡』は1955年には141万部を記録した。それも常に完売していて、回し読みされていた。ええーっ、驚きますね。そう言えば、私も大学生時代、寮生活のなかでマンガ週刊誌の回し読みの恩恵にあずかっていました。いの一番に読むのをガマンすれば、やがてただで読めるのです。
 『月刊平凡』の編集担当としてガサコこと折笠光子は名を売っていた。そのガサコは、高卒で、アルバイトとして平凡出版に入社してスタートを切った。なんということでしょう・・・・。
 ガサコの父親は、新興宗教の神様だった。愛娘が芸能界に入りたいというのを許さなかった。勘当だと声を張りあげた。それでも粘る娘に負け、ついに二つの条件を出して認めた。
 一つ、女であることに甘えて泣き言をいうな。
 二つ、みんなに可愛がられる女の子になれ。
さすがは神様ですね。ガサコが平凡出版に入社したのは1960年。このころ、白黒テレビの普及率は44.7%だった。
坂本九を連れてきたのはガサコだった。あの九ちゃんもでしたか・・・・。
大スターに時間を割いてもらうためには、編集者もまた自分の時間を割いて、少しでも彼らのそばに身を置き、心を開いてもらう必要がある。スターも人間であり、編集者もまた人間だ。忙しい売れっこになればなるほど、スターの立場が編集者より強くなる。スターを前にすると、編集者は時に芸者になる覚悟を迫られる。
1960年の御三家とは、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の三人。そうですね。この三人は輝いていましたね。1968年にGSブームが到来すると、御三家は姿を消した。1971年、野口五郎、南沙織がデビューした。1970年代、『花の中三トリオ』は、森昌子、桜田淳子、山口百恵。『平凡』はガサコ。『明星』は篠山紀信の写真。
 『明星』はGSブームに乗った。逆に、『平凡』は、低速を続けた。
山口百恵は、デビュー前、森昌子の見習いとして、昌子の実家に下宿していた。ええっ、ウソでしょう・・・・。
 山口百恵は、別に正妻を持つ父親の子として生まれ、母の手一つで育てられた。家族を豊かにしたいと芸能界にはいった百恵は、最初からプロ根性の塊だった。なるほど、すごいものですね。そして芸能界から完全に姿を消してしまったのですから、偉いものです。
ガサコは、アイデアの冴えで売るタイプの編集者ではない。時間と体力をかけて相手から信頼を得て、何かと融通を利かせてもらう、人たらしタイプの編集者だった。だから、スケジュールだけおさえて、「どうしよう?」とカメラマンに相談し、撮影プランを決めることになる。
 ガサコは1997年8月、57歳で病死した。『平凡』は今や消え去ってしまった。
 日本の戦後史の一つのエピソードとして、大変面白く読み通しました。
 
(2010年8月刊。1600円+税)

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2010年11月 2日

トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか

社会

著者:羽根田治ほか、出版社:山と渓谷社

 大雪山系の旭岳からトムラウシ山へと縦走する4泊5日のプラン(15万2000円)は、ツアー登山を扱う会社にとって募集すれば、すぐに定員一杯となってしまう人気商品である。参加者15人だと総売り上げは228万円となる。諸経費を差し引いても利益率は悪くない。
 耐風姿勢は冬山登山に必須の技術であり、体ごと飛ばされそうな風が吹いているときは腰を屈めるようにして姿勢を低くし、踏ん張った両足と雪面に突き刺したピッケルの3点で体を保持するのが基本だ。そのとき、風に背中を向けるのではなく、風上側を向くのが正しいとされている。風の強弱を読みつつ、耐風姿勢と歩行を繰り返しながら前進していくのは、習得すべき冬山登山技術の一つである。
 低体温症の引き金の一つとなる“濡れ”をシャットアウトしたことが、低体温症に陥らずにすんだ大きな一因となった。ただし、参加者の装備に、これといった手落ちは認められない。防寒具にしろ雨具にしろ、誰もがしっかりしたものをひととおりは持っていた。しかし、それを十分に活用していたかどうかは別の話。
 低体温症とは、体温が35度以下に下がった病態。1912年4月に起きたタイタニック号の遭難事件の1500人をこえる死者の死因は、冷たい海水に浸ったための低体温症。このとき氷山の浮いた海水温は2度だった。1902年1月の八甲田山で青森連隊210人のうち199人が死亡したのも低体温症だった。
 人間の熱をつくる場所は、筋肉、とくに骨格筋にある。外気温が下がり続けると、身体の熱産生を増やさなければならないので、全身の筋肉を不随意に急速に収縮させて熱を作り出そうとする。これが、震えである。この筋肉の収縮エネルギーが熱になるが、体温の下降速度が早まれば、震えも大きくなっていく。身体の中心温度を一定に保ちたいから、身体表面温度を犠牲にしても脳や心臓などの内臓の温度は下げないようにする。
 登山行動中に低体温症になったときには、それを回復させる熱をつくるエネルギー(食料補給)が十分でなければ熱をつくることができず、低体温症は進行する。
 登山中の低体温症は、濡れ、低温、強風などを防ぐことが不十分なときには、行動してから5~6時間で発症し、早ければ2時間で死亡する。低体温症の症状が発症し、震えのくる34度の段階で何らかの回復措置をとらないと、この症状は進行して死に至る。34度の段階で震えが激しくなったころには、既に脳における酸素不足で判断能力が鈍くなっている。
 低体温症の症状は、早期から脳障害を発症する。運動機能、言語、精神状態が症状として現れやすいのでその段階で的確な手当てをしないと、以後、急激に症状は悪化する。
 初日から遭難当日までの栄養摂取は決して十分なものではなかった。中高年登山者は若い人より荷物の軽量化のため、持つ食料の量が少ない。
 悪天候時の行動には、多くのエネルギーを消費するため、晴天時よりご飯・パンなどの炭水化物をとる必要がある。軽量化を重視したインスタント食品はカロリーが少なく、強風に耐えるだけの運動エネルギーと低体温に対する熱エネルギーになるだけのものがなかった。防寒・暴風対策の装備以前に、この問題が低体温症の第一の要因になった。
 体温を下げる最大の要素は「風」である。当時、風速25メートルだった。過去の低体温症による遭難例に共通しているのは、強風下での行動である。
 ペットボトルや水筒のお湯で湯たんぽをつくり、脇の下や股間部を温めることが必要である。身体をさすったくらいでは足りない。熱源が必要なのである。体温を上げるには、温風が最適である。
 正しい対処法は、できるだけ着衣を多くしたうえで、じっとしていること。本件では避難小屋へ戻るか、早めにビバークすべきだった。
 ツアー登山の実情、そして低体温症の怖さがよく分かる本でした。私もハイキング程度ではありますが、たまに山に登りますので、関心をもっていた事故でした。大変参考になる本です。
(2010年8月刊。1600円+税)

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