弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2005年6月 6日

平家物語図典

著者:五味文彦、出版社:小学館
 平家物語、つまり源平合戦の様子やその当時の人々の生活が絵巻物によって解説されていて、大変わかりやすい本になっています。
 日本の弓は、本来は木製だった。日本の馬は、今の体高160センチをこえるサラブレッドより15センチ以上も低かった。でも、それはアジアの草原馬からみて平均的なもので、日本の馬だけが低かったのではない。ということは、蒙古の馬もサラブレッドほどの体高はなかったということでしょうか・・・。大鎧などの武具を着装した騎兵は体重をふくめて100キロを超えるので、それを乗せる馬は気性が荒くなければ、とてももたなかった。明治以前の日本には去勢の技術はありませんでした。
 壇ノ浦合戦で最終的に源氏に敗れた平家は安徳天皇以下、三種の神器とともに入水した、というのは知っていました。しかし、それをしたのが平清盛の妻時子であり、それが平家の宿敵、後白河法皇へ一矢を報いるための時子の強い意志にもとづくものであるという解説を読んで、なるほど、そうだったのかと思わず膝をうってしまいました。
 平氏も源氏も、その一族のなかは決して一枚岩ではなかったということも語られています。それぞれの一門内で激しい抗争があっていたのです。
 庶民の生活も少し紹介されています。料理は必ずしも女性の仕事ではなく、魚肉を切り分けたり盛りつけをするのは男の仕事でした。まな板で鯉を切り分けている夫の手もとを眺めながら、頬づえをついて、あれこれ注文をつけている妻の姿が絵に描かれています。日本の女性は平安時代の昔からたくましかったことがよく分かります。
 カラー写真を眺めているだけでも楽しい図解・平家物語です。

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2005年6月 3日

「ソニー本社 6階」

著者:竹内慎司、出版社:アンドリュース・プレス
 かつて日本を代表する超優良企業であったソニーも、いまや莫大な借金をかかえて哀れな状態に転落しています。
 この本は、残念なことに読みやすくはありませんが、ワンマン社長のもとでゴマスリ、無能経営陣がいかにして会社をダメにしていったか、体験を通じて明らかにしています。
 サラリーマンの心得。上司と意見を異にしたときにはすぐに反論しない。どうしても納得いかないときは、時間をおいておもむろに切り出す。それでも上司が考えを変えないなら、引き下がる。自分が正しいと思うことを主張し続けるより、上司の心証を害さないことの方を重視すべき。上司から検討を指示されたら、3つの選択肢を提示する。
 著者はソニーの大失敗のひとつに、アメリカの映画会社(コロンビア・ピクチャーズ)を買収したことをあげています。これで、少なくとも1000億円の損失をソニーにもたらしました。ワンマン社長の弊害を象徴するビデオがある。社長が出席する会議のため1回きりしか上映しないビデオのために1000万円をかけてビデオがつくられた・・・。なんと、なんと、開いた口がふさがりません。ワンマン社長に対して意見する人は誰もいない。会議で社長が発言すると、皆ペコちゃん人形と化した。プチ・マスゲーム状態だった。うーん、ひどい・・・。
 ソニーがかかえた1兆5千億円もの借金、2900億円という赤字はまことに莫大なものがあります。しかし、ワンマン社長は、やめるときに16億円もの退職金を手にしたというのです。現場では1円以下のコストダウンに必死になっているというのに、雲の上のトップはケタはずれのムダづかい、そして私腹を肥やしているのです。こうしてみると、資本主義社会って、ホント狂っているとしか言いようがありませんよね・・・。

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完全図解・大冒険術

著者:かざまりんぺい、出版社:誠文堂新光社
 大人になった今、私はアウトドア生活は、とても耐えられそうもありません。でも、小学生のころはカエルを捕まえて、平気で両足をもいでザリガニ釣りのエサにしたり、お尻にストローをつっこんで空気を入れてパンパンにお腹をふくらませて池面に浮かべるなんてことをしていました。そうそう、近所に背の高い雑草の茂る広いヤブがあって、そこに秘密基地をつくり、チャンバラゴッコなどをしていました。子どもは、周囲にうじゃうじゃいましたから、いつも群れをつくって野外で遊んでいました。
 この本には、飲める水のつくり方、火の起こし方、鳥や魚の捕まえ方、その調理法が原始的材料をつかってできることが図解されています。眺めているだけで知識がつき、また、子ども心に戻れます。鍋や釜なしでも料理がつくれるというのです。竹筒を鍋の代用にしたり、ご飯を炊くこともできます。石を燃やして石焼き料理にしたり、焼き石料理というのもできます。なるほど、なるほど・・・。災害時のサバイバル術を身につけるのにも役に立ちそうです。

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驚異の古代オリンピック

著者:トニー・ペロテット、出版社:河出書房新社
 古代オリンピックは紀元前776年から紀元後394年までの1200年のあいだ、4年に1度、1回も欠かさずギリシアのオリュンピアで開催されました。当時の人にとってオリンピックを見ないで死ぬなんて、大変な不幸でした。
 選手はみな全裸で出場します。肉体をさらけ出すのを恥ずかしがるのは野蛮人だけ。生まれたままの姿で戦うのは、社会階級を脱ぎ捨てることの象徴でもあります。
 ただし、協議への参加が認められるのはギリシア人の血を引く自由民の男性だけで、女性や奴隷、外国人の参加は認められていませんでした。
 映画「ベン・ハー」に出てくる戦車競技はかなり正確に再現されたものであり、これはオリンピックの2日目に開かれた。オリンピック3日目には、ゼウスの祭壇に雄牛100頭のいけにえを捧げる儀式がとり行われた。当時、肉はとても高価なものだったので、庶民の大半にとっては、いけにえの儀式は肉を味わう唯一のチャンスだった。
 私がオリンピックに関心をもったのは、1964年の東京オリンピックだけです。なにしろ、このとき私は高校1年生でした。日本の女子バレーボールの決勝戦などを興奮しながらテレビで見ていた記憶があります。それ以降、私はテレビは見ませんし、見るスポーツ全般に関心をなくしましたので、オリンピックなるものは大晦日の紅白歌合戦と同じで、世間でなんかやってるな、という感じで、まったく関心がありません。
 まあ、こんな変わり者がいてもいいんじゃないでしょうか・・・。おまえは一体何が楽しみなんだ。まさか私にそんなことは訊きませんよね。ほれ、いま、あなたが読んでいるこの文章こそが、私の楽しみなんですから・・・。本を読み、文章を書くこと。そして、昼間の明るいうちには花と生きものの世話をすること。これが私のなによりの生き甲斐なんです・・・。まあ、そうは言っても、オリンピックを見て楽しむのを否定しているわけではありません。人それぞれ、好き嫌いはあり、その多様性をお互いに認めあって、この世は成り立っている。このことを確認したいだけです。くれぐれも変わり者は抹殺せよ、なんて思わないでくださいね。今度はオリンピックは北京であるんでしたっけ・・・。交通渋滞が心配です。今でもすごいんですから、いったいどうなるんでしょうか・・・。

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ラブホの経営学

著者:亜美伊 新、出版社:経済界
 ラブホテル業界は低迷状態にあり、斜陽産業とまで言われていると聞いて驚きました。なぜなのでしょうか・・・。
 著者は、ラブホテルが利用者の満足する空間ではなくなったから、圧倒的にオシャレな空間となり、以前のようなセックスの匂いが消えたからと言います。そうなのでしょうか・・・。ラブホテルはシティホテル化しているがそれは、オシャレなだけで、まるで個性がなくなったと指摘しています。値引き競争が激しい割には利用者は増えていません。
 ラブホテルは日本固有の文化であり、世界中どこをみても、こんなものはないというのにも驚かされました。アメリカにもイタリアにも、そしてフランスにもラブホテルはありません。最近、やっと台湾や韓国にポツポツできているだけだというのです。
 著者はラブホテル専門の建築設計家として、30年間に1638のラブホテルをデザインしました。すごい数です。そのデザインしたラブホテルが写真で紹介されています。中世ヨーロッパ風あり、ホワイトハウスやエンパイヤステートビルあり、はたまたスペース・シャトルありの奇抜な外観。そして、内側を見ると白い2頭だての馬車あり、銀河鉄道「999」、ポップコーン屋台、ボクシングの部屋など、とんでもなく奇想天外の部屋があります。大人の遊園地のような、わくわくするような部屋が客に受けたといいます。ラブホテルの部屋は男女の愛のドラマを演じるための劇場。だから、部屋のデザインも思いっきり非日常空間であることが望ましいということです。なんと1泊30万円の部屋をつくったところ、利用者がひっきりなしにあったそうです。
 ラブホテルでいちばん大切な要素は淫靡さ。ふだんは味わえない淫靡でエロスの空間。どこか妖しげな雰囲気。これから味わうこと、体験することへの期待。行く前からドキドキする。抑えきれないドキドキ感。心の噴出するエロスを大切にする。なーるほど・・・。
 ラブホテルは入るときよりも、出るときの方を重視する。いかに出やすい環境をつくるかが重要になる。いかに出やすいかでお客のリピート率が上がる。さりげなく出れる。しかも堂々と出ることができて、なおかつ人目に触れない環境。これががポイントだそうです。ふむ、ふむ。
 かつて、ラブホテルの出口に焦点をあててずっとカメラを構え、車のナンバーで持ち主を調べあげ、「不倫の証拠をつかんだ。公表されたくなかったら、お金を支払え」という脅迫文を送っていた男の刑事弁護人になったことがあります。ところが、不倫カップルをふくめて、ほとんど脅迫は成功しなかったというのに驚きました。
 ラブホテルの従業員をしていたら、もとの会社の同僚が昼間から上司の男性と一緒に何度も入ってくるのを見た。窓口で顔をあわせるシステムでなくて良かった。そんな話を聞いたこともあります。
 この本によると、「言い訳テレフォン」というのがあるそうで、笑ってしまいました。家庭にばれないように電話をかけるとき、バックにマージャン店の雰囲気やパチンコ台の音、また新幹線の音がカセットテープから5分間だけ流れるような仕掛けがあるというのです。すごい知恵です。
 ラブホテルは10億の資金があれば安定的な経営ができるそうです。つぶれかかったラブホテルを2.5億円で買い、少し改装したとして5億円で経営できる。年の利回り23.5%の利益が確実に得られるおいしい商売だ。著者は強調しています。
 ラブホテルのことを少し知って、久しぶりに行ってみたくなりました。ご一緒にいかがですか。もちろん、現地調査にですよ・・・。

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2005年6月 2日

御家騒動

著者;福田千鶴、出版社:中公新書
 この本を読むと、日本人って、実に裁判が好きな民族なんだなとつくづく思います。殿様に能力がなかったら、ことをオーバーに言いたててまで幕府に書面で殿様を交代させる裁きを求めるのです。そんなことはちっとも珍しいことではありませんでした。幕府の方も、御家騒動があったら待ってましたとばかりにお家断絶(改易)ということではなく、なんとかお家を存続させようとあの手この手をつかいました。
 これって、なんだか、これまでの私たちの常識と違いますよね。この本によると、将軍家光の寛永末年(1644年)までの御家騒動80件のうち、そのため改易されたのは18件でしかありません。10万石以上だと、堀(越後福島)、最上(出羽山形)、生駒(讃岐高松)の三家のみだったのです。幕府が御家騒動を大名統制の口実として利用したという説は成り立たない。これが、この本の結論です。うーん、そうだったのか・・・。まいりました。
 いま福岡の裁判所は上ノ橋(かみのはし)門から入って左側のところにあります。そこに栗山大膳の屋敷がありました。そうです、黒田騒動の立て役者です。寛永9年(1632年)、筑前福岡藩の黒田家を揺るがす大騒動が勃発しました。主君黒田忠之はまだ30歳にもならぬ若さでした。藩主は側近を重用するばかりですから、当然のことながら家老の大膳たちは面白くありません。
 忠之は大膳を手討ちする手はずをととのえたものの、大膳が病気を理由として出仕せずに失敗します。ついに大膳の屋敷を兵力で取り囲みました。このとき大膳の屋敷に立て籠もった将兵は600人ほど。鉄砲200挺、大砲も6門ありました。一触即発の状態でしたが、幕府が調停に入り、大膳は退去に応じました。この退去の様子がすさまじいのです。火縄に点火した状態の鉄砲20挺、大膳は棒を突きたてた侍50人と、火縄に点火した鉄砲250挺、槍100本とともに退出しました。まさに武装集団そのものです。大膳は陸奥盛岡の南部家にお預けとなったものの、五里四方歩行自由の身でした。もちろん、黒田家は安泰です。黒田騒動のとき、あやうく市街戦が始まるほどの状況だったというのを、私ははじめて知りました。
 対馬宗家の重臣柳川調興との紛争も興味深いものがあります。宗家の主君(宗義成、30歳)は要するに凡愚だったようです。一つ年長の柳川調興はすこぶる怜悧(賢い)と朝鮮通信使からも評価されていました。しかし、国書書き替えが発覚してからも、結局のところ宗家は安泰で、柳川の方が津軽へお預けとなったのです。お家大事というか、幕府は秩序維持を重視したのです。
 承応4年(1655年)には、久留米の当主・有馬忠頼が参勤途上の船中で小姓に殺害されたそうです。幕府は病死の届けを認めて、3歳の子に遺領相続を認めました。
 肥後人吉の相良家でも寛永17年(1640年)にお下(した)の乱が起き、人吉城の三の丸が焼け落ちるほどの戦闘がありました。これは、なんと主君の相良頼寛が重臣の相良清兵衛が従わないとして、幕府老中に訴え出たというのです。まるであべこべですよね。何十人もの死傷者が出たというのに、清兵衛は弘前藩に配流されただけで命は助かっています。将軍お目見えを許された身だったからです。
 17世紀の前半までは、主家が滅亡しても、すぐに従臣の家が滅亡するという観念はなく、主家の代わりに従臣が立つことも認められていたというのです。
 江戸時代についての常識が、またひとつ化けの皮をはがされた思いがしました。

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2005年6月 1日

全裏手口!オレオレ事件簿

著者:日名子 暁、出版社:廣済堂出版
 オレオレ事件とヤミ金融の舞台裏がよく分かる本です。それにしてもホント大勢の人がコロッと騙され、大金を簡単に送金してしまうものですね。驚いてしまいます。それだけ人間関係が希薄になったということでしょうか。お年寄りは信じこみやすいと同時に、会話に飢えているという指摘もあります。電話は夜かかってくるのではなく、昼間、それも午後2時から4時ころが多いといいます。
 この本に宮城県警の巡査長(47歳)が交番に保管されていた書類をもとにオレオレ詐欺を働いたという事件が紹介されています。ホンモノに言われたら信じるのも当然です。
 でも、たいていは20代の若者がアルバイト感覚でやっているんです。若者向けの就職情報誌に「固定給50万円プラス歩合給」とか「自由出勤、学歴不問、固定プラス歩合100万円」という広告をのせていたのです。素人を集めてマンションの一室で教室を開いて特訓します。あとはいろんな名簿をつかって、数うちゃあたる式で電話をかけまくります。一度あたったら何度もしゃぶり尽くす。騙されやすい人はやはりいるのです。
 ただ、東北はだましやすいけど、九州は東北に比べるとヤミ金はやりにくいという話が紹介されています。カネを借りたら返すという常識が東北では今も生きているけど、九州ではそれが通用しないというのです。うーん、そうでもないように思うのですが・・・。
 ヤミ金の回収にあたる人間は脅し文句を並べたてるわけですが、脅して相手がビビれば、ザマァみろと気分よくなる。脅す快感を一度知ると、それは病みつきになるとあります。私も、以前、サラ金の元店長から同じ話を聞きました。家庭でムシャクシャしたことがあると、朝からガンガン回収の電話で怒鳴りまくる。そうすると、気分がすっきりするというのです。やられた方は大変なストレスを感じるのですが・・・。
 取立にあったり変な督促を受けたとき、弁護士に相談してもらえれば役に立つことが、この本にも書かれています。警察に通報したことのある客にはK、弁護士に相談したことのある客にはBなどのマークをつけて、要注意人物だとしているのです。弁護士が出てきたら上の本部にまわし、深追いはしません。警察の手入れを受けたとき、証拠隠滅のやり方を具体的に書いた危機管理マニュアルまであるそうです。
 オレオレを働く若者たちはゲーム感覚でやっていて犯罪意識は薄く、割のいいアルバイト、ちょっと危ないかなという気軽さでやっているようです。そして、彼らをつかう暴力団は90%以上をピンハネするのです。
 金持ちのジイちゃんたちから騙しとったお金をつかえば景気回復につながる。だからオレたちはいいことをしてるんだ。そう言って開き直った若者がいたそうです。初めて聞く言葉ではありません。インチキ詐欺商法の連中はいつもこのように自分を正当化します。天下の野村証券だって同じことをしてきて、あんなに大きくなったじゃないか。そう言われると、なるほどそうかもしれないと思ってしまいます。

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2005年6月30日

北京原人物語

著者:ノエル・T・ボアズ、青土社
 北京原人の発掘された頭骨は第二次大戦中、日本軍が北京を占領していたときに行方不明となり、今も謎のままです。
 この本によると、北京協和医学院に保管されていた頭骨等を当時の院長がたいした価値はないと考えてぐずぐずしているうちにアメリカ海兵隊の手に渡り、そこでいいかげんに扱われ、そのうち中国人に竜骨という精力剤として粉々になっていったのだろうということです。真相は分かりませんが、残念なことです。たしかなことは、日本軍が北京を占領することがなかったら、行方不明になることもなかったということです。
 この本が面白いのは、その所在を探る前半部分よりも、北京原人とは何だったのか、どういう生活をしていたのかを検証している後半部分です。発掘風景の写真がたくさんあり、それをコンピューターで三次元復元しています。発掘当初はダイナマイト発破をかけたり乱暴な作業だったようですが、途中からは精密な発掘作業だったことが写真をみて、よく分かりました。
 北京原人は、洞窟にすみついていたハイエナから火をつかって獲物の肉を脅して横取りしていたとしています。北京原人は開けた場所に木の枝を組みあわせた小屋で生活していたというのです。それは洞窟のなかで常時、火をつかって人間が生活していた残存物がないことが根拠になっています。
 北京原人の頭骨が分厚いところから、男同士が争うような状況で生活していたのではないかという推測もなされています。それほど平和な生活環境ではなかったというのです。獲物をめぐってか、女性をめぐってか、激しい争いがあり、頭部を保護するために頭骨が厚くなっているのです。うーん、そういうことなのかなー・・・。ちょっと意外でした。
 北京原人は言葉を話せず、それほど手先が器用でもなかった。しかし、両面加工した石器をつくっていたし、火を使いこなしていた。なにより、氷河時代を何十万年も生き抜いてきた。そして、現生人類へ進化するうちに絶滅していった。
 著者は、このような仮説をたてています。

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2005年6月29日

ゴリラ

著者:山極寿一、出版社:東京大学出版会
 ゴリラには、ほかの動物にはない特徴がある。それは、ゴリラのなかに人類の由来と未来を見ることができるということ。挨拶するとき、人間は手のひらをあわせるが、ゴリラは手の甲で触れあう。
 ゴリラはストレスに大変弱い。ゴリラの孤児を収容して育てる施設がある。しかし、人間と違って、ゴリラは孤児にすらなれない。ゴリラの赤ん坊は、生まれて1年間は母親から手厚い保護を受け、その後はシルバーバックや年上の子どもたちの密接なつきあいを通して成長する。母親や世話をしてくれるシルバーバックから引き離されると、たとえ乳離れしていても、急速に衰弱して死んでしまうことが多い。
 ゴリラの保護は地元の理解なしにはありえない。ゴリラの密猟は、自然公園と公園に雇用された仲間に対する恨みからなされることがある。
 また、カメルーンでは、年間500頭以上のゴリラはブッシュミートとして、牛肉より1.6倍も高価な肉資源である。しかし、ゴリラは4年に1度しか出産せず、成熟するのに十数年かかる。だから、回復不能な打撃を受けることになる。
 今のところ、ゴリラはアフリカ大陸全体で11万頭ほど生育しているとみられている。しかし、いつ絶滅しないとも限らない。ゴリラの天敵は、ヒョウ。ヒョウを恐れる習性がゴリラの行動に影響し、メスはオスを保護者として頼ることになる。
 ゴリラ学者って大変だなとつくづく思ったのは、ゴリラの糞をじっくり調べるというのが基本となるということです。もちろん、臭いもあるのです。でも、ゴリラは菜食主義者ですから、それほど臭くはないのでしょう。といっても、大変やっかいな作業にはちがいありません。
 私は、ゴリラやチンパンジーの本はたくさん読みました。人間とは何かを知るうえで、ゴリラやチンパンジーなどとの違いを認識することは欠かせないことです。でも、知れば知るほど、人間との違いが分からなくなるというのも現実です。ゴリラの生態を紹介する写真がたくさんありますので、それを眺めるだけでも楽しい本です。

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2005年6月28日

持続可能な都市

著者:福川裕一、出版社:岩波書店
 東京に行くたびに超高層ビルが増えているなと思います。芝あたり、新橋あたり、続々と建ち並んでいます。モノレールの沿線もすごいものです。いえ、国会議事堂のすぐ近くにもすごいビルが建っていて驚きました。国政の中心たる国会議事堂を毎日、足元に見おろしながら仕事をしている人たちがいるのです。どんな気持ちなんでしょうか・・・。ただし、さすがに皇居を見おろす超高層ビルは少ないようです。
 この本では和歌山城の天守閣(67メートル)を見おろす20階建ビル(80メートル)がまず槍玉にあがっていますが、古都京都の駅ビルとタワーも問題だと私は思います。景観との調和が考えられたものとは、とても思えません。駅ビルのホテルに泊まりましたが、細長くて迷路のような通路でした。いかにもゴチャゴチャした超近代的ビルです。古都らしさを残すという発想がまったくないのに改めて呆れてしまいました。
 和歌山では、デベロッパーが中高層ビルでは経済的な採算がとれないと主張し、自治体が同調したということです。そんな超高層ビルに入りたがるのは、いったい誰なのか。
 仕上がりのよい超高層タワービルに入居したがっているのは、ひとフロアーだけ借りられたらよい小企業や3〜4フロアーを借りたい法律事務所である。彼らは大きなフロアーを要求しているのではなく、超高層ビルの提供する建物のイメージによって自社のイメージアップを狙っている。
 うーん、なるほど、もうかっている法律事務所は超高層ビルに入居したがるのですね。9.11で狙われたWTCにも法律事務所がたくさん入っていました。そうなんです。超高層ビルは、偉ぶったり、優位性の誇示だったり、単なる虚栄心をみたす存在なのです。
 東京の都区部だけで、20階以上の超高層のマンションやビルが5年間で200棟ほど建つといいます。大変なラッシュです。私はこの本を読んで驚きました。規制緩和のかけ声のなかで、超高層ビルを建てるについて環境影響評価(アセスメント)手続が必要ないとされたというのです。
 イギリスでは、反対に、公共住宅について超高層ビルを建てるのをやめてしまったそうです。子どもの健全な心身の成長に悪い影響があるからです。そのことは既に実証ずみのところなのです。同じ面積の土地に75戸を建てるより、低層型かそれとも中層型とオフィス・商店を混在させた町づくりの方がよほど住みやすいものになるという研究成果があります。私もそうだろうと思います。人が居住するには、せいぜい5階建てくらいがいいということです。車が入ってこれない、歩いて動きまわれるのが真のコミュニティです。その意味では、ショッピングセンターは、コミュニティではありません。営利目的の企業が人々の購買意欲をかきたてる。人工的に人々を自然のサイクルから引き離し、時間を忘れさせ、天候の変化にも気づかせない。人並みにお金を使うことのできない人は排除される。ショッピングモールが与えるのは自分の住む土地そして隣人への愛着ではなく、煩わしさのない匿名性でしかない。
 なるほど、と思いました。わが町にもデパートがなくなり、銀座通り商店街はシャッター通りとなって閑古鳥が鳴いています。ただひとつのショッピングモールのみ人が集まっていますが、町全体はさびれていく一方です。

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2005年6月27日

スパイのためのハンドブック

著者:ウォルフガング・ロッツ、出版社:ハヤカワ文庫
 イスラエルにモサドというアメリカのCIAをしのぐ秘密諜報部があるというのは有名です。そのエジプト駐在員として大活躍し、エジプト政府に逮捕され、第三次中東戦争のときに5000人のエジプト人捕虜と交換に釈放されたという大物スパイが自分の体験をふまえて、スパイになる方法を一般人に向けて書いた本です。面白い内容ですが、私には、とてもスパイはつとまりそうにもないと実感しました。
 嘘に熟達していなければ、スパイとして決して成功しない。
 著者は捕まるまで5年間もちこたえたが、一般に現地工作員の平均稼働年数は3年間。ゾルゲは日本にどれくらいいたんだったっけ・・・。
 二重スパイに転向する工作員の大部分は、短期間に大金をつくるつもりでそうするが、その富を楽しむほど長生きした者はほとんどいない。
 スパイになりたいと思う人は多いが、いくじなし、ひっこみ思案の人、あるいは決断力のない人がこの業界に入る余地はない。規則は破るしかない。この仕事につく者はおのれの才覚だけをたよりに生き、そして生き続けるしかない。
 著者は元ナチス軍にいたドイツ人ビジネスマンを装いました。そこで、ロンメル・アフリカ軍団にいたことにするため、ことこまかいことまで記憶するよう100回も書いて努力したそうです。
 人生の盛りを情報部で過ごし、たびたび不愉快な目にあい、毎日のように自由や生命を失うような危険に直面した。その代償としてもらうわずかな手当では、いざというときのための貯金さえできない。しかし、そのいざという日は、情報部を退職するときに必ずやってくる。
 捕まったときは、相手がどの程度知っているか探りだそうとせよ。黙りこくってはいけない。相手と議論し、論争し、弁明せよ。英雄的沈黙を守ろうとしてはいけない。話し続けよ。もっとも大切なことは、相手に話し続けさせること。黙秘権の行使ではダメなんですね・・・。
 相手に悪口雑言をぶつけて怒らせよ。腹をたてた人は、自分のいうことに注意しなくなる。相手が具体的な証拠をつきつけてくるときは、十分な予備知識がある。ともかく殴ってくるときは、彼らの知っていることは少ない。全部知っていることはまずない。
 大きな嘘に小さな真実を混ぜる。ほんの少し真実を提供して相手に確かめさせ、それを手のこんだ嘘で飾りたてて違った方向に導くのだ。
 なるほど、なるほどと思いました。スパイになるのは大変ですし、スパイを続けるのはいかにも非人間的な大変な苦労をともなうようです。

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2005年6月24日

スウェーデンの中学校

著者:宇野幹雄、出版社:新評論
 コペンハーゲンには一度だけ行ったことがあります。落ち着いたすごくいい町でした。
 団塊世代の日本人男性が日本で大学を卒業したあとスウェーデンの大学に入り、卒業後、公立中学校の教員になります。その20年以上の体験をふまえてスウェーデンの教育状況が紹介されていますが、日本との違いも分かって面白い本です。
 中学校の生徒会は国会と呼ばれ、イジメをなくす委員会、快適委員会、授業委員会の3つから成っている。ということは、スウェーデンでも生徒のイジメはあるということ。
 スウェーデンの学校には、何らかの理由で学校の生徒名簿に名前がのらない生徒がいる。
 スウェーデンの高校・大学に入学するときには入学試験はない。たとえば中学3年の春学期の成績による内申書のみで、学力試験はない。だから受験塾もない。
 中学校には、中間テストとか期末テストとか、まったくない。しかも、一週間に同一クラスで2科目以上の試験をしてはならないという不文律がある。
 スウェーデンの中学校には、3年間のうちに合計5週間の労働実習がカリキュラムのなかに組みこまれている。生徒に給料は出ないけれど、何かプレゼントすることはある。
 日本では、わずか1週間の実習をする県が2つ(兵庫県と富山県)あるけれど、まだまだ。スウェーデンに学ぶところは大きいと思いました。

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古代エジプト人の世界

著者:村治笙子、出版社:岩波新書
 古代エジプトの神殿や墓の内部に描かれた絵やヒエログリフ(文字)をカラー写真で紹介しながら、その意味が解説されています。
 ヒエログリフは音と意味と両方をあらわす文字ですから、いってみれば漢字のようなものです。ロゼッタ・ストーンを解読したシャンポリオン以来の研究がすすみ、いまでは何が描かれているのか、だれの墓なのかすぐ分かります。それにしても、今から4000年とか5000年も前のことが手にとるように分かるなんて、すごいことですよね。
 手にとってながめるだけで4000年前の人々と「対話」できるのです。定価1000円の新書ですが、ずしりとした重みを感じてしまいました。

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緑の島に吹く風

著者:吉村和敏、出版社:知恵の森文庫
 カナダ東岸にある「赤毛のアン」の舞台、プリンス・エドワード島の写真と話が満載の楽しい文庫本です。残念ながら、私はまだ行ったことがありません。ぜひ一度は行ってみたいと思っています。
 ところが、写真家と巡るプリンス・エドワード島の旅というツアーを企画したところ、大当たりのつもりが、なんと9人の申し込みしかなかったというのです。驚きました。応募したのは全員女性でした。それはやっぱりねと思うのですが、それにしても、わずか9人だったとは・・・。よほど宣伝が足りなかったのでしょう。
 広い平原にポツンと建っている白い木造の教会はすがすがしさを感じさせます。川にそって、おとぎの国のような建物が並んでいます。紫色のルピナスが一面に咲き広がるお花畑があるなんて・・・。ルピナスはわが庭にも咲いてくれますが、何万本と咲いたら、それはそれは壮観な眺めです。
 冬になると一面の雪景色です。クリスマスツリーを玄関のところに飾り、建物全体を電飾で埋めている光景が紹介されています。今では、日本でもイルミネーションをする家をあちこちで見かけるようになりましたが、さすがに、この島では雪景色との取りあわせが絶妙です。ほんわか心が温まる気がしてくる写真です。
 しかし、なんといっても圧巻というか、心をホンワカさせてくれるのは、赤ちゃんアザラシの写真です。生後10日目という赤ちゃんアザラシの可愛い顔といったらありません。丸くて黒い大きな瞳が、こちらを「何してるの?」と見つめます。たれ目で笑っている赤ちゃん、ひっくり返って気持ちよさそうに氷原の上に寝ころんでいる赤ちゃんがいます。チョコンチョコンと手でつついて、現地の人がゴロンと半回転させても、その赤ちゃんはまだ眠っていたというのです。もちろん触っちゃいけないのでしょうが、ついつい触りたくなってしまう、そんな吸引力のある写真です。

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2005年6月23日

イノベーションの経営学

著者:ジョー・ティッド、出版社:NTT出版
 本文450頁の部厚いビジネス書です、ずっしり重量感があります。
 イギリスのサセックス大学の学者集団によるマネジメントのテキストです。
 マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」(1848年)が引用されています。久しぶりに読みましたが、現代ビジネス指南テキストで再会するというのは意外でした。
 「生産の絶えまない変革・あらゆる社会状態の止むことのない変化、永遠の不安定・・・。以前に確立された国内の古い産業のすべては、すでに破壊されたか、もしくは日々破壊されつつある、それらは新しい産業によって駆逐され・・・新しい産業の製品は、われわれの家庭ばかりか、世界の隅々において消費されている。国内の生産物によって満たされていた昔の欲望の代わりに、新しい欲望が現われ、・・・諸国民の知的な創造力が共有の財産となる」
 おやおや、これが今から160年ほど前に書かれた文章だとはとても思えませんよね。この本でも、不確実性と国際化とイノベーションが決して新しい現象ではないという例証として引用されています。
 ところで、イノベーションとは何でしょうか?
 この本は、いくつかの定義を紹介しています。
 イノベーションとは、機会を新しいアイデアへと転換し、さらにそれらが広く実用に供せられるように育てていく過程である。
 イノベーションとは、飛躍的な技術進歩を商業化すること(画期的イノベーション)のみを意味するのではなく、技術的ノウハウを少しずつ変化させ、実用化すること(改善もしくは漸進的イノベーション)をも包含する言葉である。
 企業機密がもれるのは、人から人へ話が伝わったりして防ぎようがない。しかし、蓄積された暗黙知は永く持続するし、とくにそれが特定の企業や地域と一体化しているときには、模倣することは困難である。
 日本の自動車産業のもつ優れた特質も、やがてアメリカの自動車製造企業に模倣され、両者の生産性の差は解消されていった。
 「コアの硬直性」が凝り固まってしまうと、それを取り除くためには、トップ経営者の入れ替えが必要になることがある。なるほど、だから、創業者オーナーだって追放するしかないことがあるんですね。
 世界最大の携帯電話機メーカーであるフィンランドのノキア社は、11の国で4万4000人を雇用しているが、その半分はフィンランド人。成長率が高かったので、ノキア社のスタッフの半分は勤め始めて3年以下、平均年齢32歳。売上げの9%が研究開発に費やされ、3分の1のスタッフがデザインと研究開発に従事している。
 稼働中のロボットの労働者1万人あたりの数は、イギリス21台、アメリカ33台、ドイツ69台に対して、日本は338台(1995年)。
 イノベーションの本質は学習と変革であり、それは時として破壊的でリスクが高く、コストがかかる。イノベーションを成し遂げるためには、このような慣性を克服するためのエネルギーと、物事の秩序を変えるのだという強い意志が必要である。
 イノベーションに内在する不確実性と複雑性によって、多くの有望な発明が外の世界に出る前に死んでしまう。だから、もともとのアイデアを擁護し、組織のシステム内を通り抜けるための支援に、エネルギーと熱意を注ぎこむ覚悟をもった、カギとなる個人またはグループが不可欠である。ゲートキーパーが必要だということです。十分に理解できたわけではありませんが、なかなか勉強になりました。

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2005年6月22日

半島を出よ

著者:村上 龍、出版社:幻冬舎
 今から6年後の福岡。北朝鮮の特殊戦部隊兵士9人が開幕戦が進行中の福岡ドームを武力占拠します。そして、2時間後に484人の後続の特殊部隊が来て、ドーム周辺を制圧し、シーホークに本部を構えるのです。
 福岡市内でほとんど物語は進行しますので、地名が次々に登場しても土地勘が働き、具体的なイメージが湧きやすい小説です。近未来の日本でいかにも起こりそうな状況設定ですし、いろんなオタク族の描写が微に入り細をうがつものですので、ついつい引きずられてしまいます。話のテンポも速く、上下2巻本で920頁もありますが、一気に読みとばせます。
 6年後の日本と福岡の状況が、殺伐としたものとして描かれています。
 ホームレスが4倍に増え、自殺者は9万人(今は3万人)、失業率は9%(今の2倍)、若い世代の犯罪率が異様に増加し、治安悪化は著しい。公園にはホームレスがいて、NPO法人が管理している建前だが、実はギャング団が支配している状況にある。
 朝鮮労働党の3号庁舎の内部の様子もことこまかく描写されていますが、巻末の参考文献リストで、相当の裏付け取材がなされていることが分かります。私も、その大半は読みました(残念なことに映像の方は全然見ていません。なんとか私も見たいものです)が、脱北者から直接体験談を聞いているところに迫力の違いを感じます。
 特殊戦部隊兵士は身体のなかに正確な時計を持つことを要求される。訓練を続けるうちに、睡眠が5時間と言われたら、就寝してきっちり5時間後に目を覚ますようになる。
 家柄が良く頭が抜群に良くてスポーツも万能という少年少女は、北朝鮮ではまず特殊部隊の兵士になる。訓練は過酷をきわめ、3年から6年の訓練期間を終えると、鋼のような身体と全身が凶器であるような格闘能力をもつ最強の兵士ができあがる。
 特殊部隊への入隊を認められるのは、核心成分と呼ばれる特権層の子どもたちだけであり、衣食住に加えて医療や教育でも最優遇されているので、金正日への忠誠心は揺らぐことがない。
 特殊部隊に福岡が制圧されても、東京の政府は無為無策で、九州を切り離してテロ部隊の状況を阻止しようとするだけ、危機管理の甘さを露呈させます。ところで、アメリカ軍の動きがまったく出てこないところが不思議で、奇妙な感じです。自衛隊の動きもなく、ただ大阪から警察の特殊部隊(SAT)がやって来て逆に全滅させられてしまうのです。アメリカ軍はやっぱり日本国民を見捨てる存在でしかない、ということを言いたいのかしらん・・・。
 自民党右派がもともと反米であるにもかかわらず、ブッシュ政権に忠誠を示すために自衛隊をイラクに送ったなんていう記述は、読み手をがっかりさせてしまいます。自民党右派が反米だなんて、少なくとも私は聞いたこともありません。アメリカ追従の程度を競っているのが自民党右派だと思うのですが・・・。
 やがて、北朝鮮から12万人の反乱軍が船でやって来るという緊張した状況になり、その受け入れに福岡市当局は協力します。軍資金の確保のために、福岡市内の金持ちが次々に重犯罪人として逮捕連行され、酷い拷問の末に財産放棄書にサインさせられます。
 また、特殊部隊のなかからテレビに出ているうちにスターのようにもてはやされる将兵が出てきます。うーん、ありそうですよね。
 やがて、得体の知れないオタク族の若者たちが実にさまざまな武器、弾薬をシーホークに持ちこんで爆発させていくところは、まるでハリウッド製のアクション映画だし、現実離れしています。まあ、そうでもしないと、結末を迎えることができなかったということなんでしょう・・・。

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2005年6月21日

市民の司法は実現したか

著者:土屋美明、出版社:花伝社
 共同通信の現役の記者が司法改革の全体像をあますところなく描いた画期的な労作です。460頁もある大部の本ですが、自分の書いた新聞の特集(連載)記事をもとにしていますから、重複はあるものの、大変読みやすい内容となっています。はっきり言って、日弁連で出した本よりも視点がスッキリしていて全体像をとらえやすい本です。
 著者は司法制度改革審議会の63回の審議をほとんど毎回モニターテレビを通して傍聴し、すべての検討会に顔を出し、推進本部の顧問会議は毎回傍聴したといいます。すごいことです。ですから、書かれた内容には臨場感があります。
 今回の司法改革について、著者は、当初の予想をはるかに超え、法科大学院の創設など司法の基盤そのものに変革を迫る大規模な具体的成果として結実したとみています。現段階では評価に値する実りをもたらしたのではないかというのが著者の考えです。これは私も同感です。本当に市民のためのものに結実させるか、これからの取り組みにもかかっていますが・・・。
 著者は、裁判員制度・刑事検討会と公的弁護制度検討会の委員をつとめられました。共同通信の現役記者(論説委員)として、ただ1人の委員でした。穏やかで誠実な人柄と高い能力・識見を評価されてのことだと思います。政府の都合のいいように取り込まれるだけだという批判を受けるのを承知で委員になるのを承諾したということです。私は、著者の果たした役割を高く評価しています。
 著者は弁護士(会)についても辛口の提言をくり返しています。
 これまでは少人数の貴族制社会で生きてきたかもしれないが、これからは多人数の大衆社会になる。だから、従来型の発想をしていたのでは社会の動きから取り残される。
 日弁連にしても、会長(任期2年)、副会長(同1年)ら執行部と事務局という態勢、そしてボランティア的な組織のままで、やっていけるのか。
 これまでと同じことを漫然とくり返していたら機能不全に陥ることは目に見えている。日弁連事務局を強化し、組織体制を整備するべきではないか。うーん、そうなんですよね。でも、あまりに事務局体制が強大なものになってしまったら、地方会の意見が十分に反映されるのだろうかという心配もあったりして、難しいところです。
 いまの司法試験は2004年に受験生4万3,367人で、合格したのは1,483人ですから、合格率は3.42%でした。私のときは受験生が2万人ちょっとで、合格者は500人でした(合格率は2%そこそこ)。
 法科大学院で教える弁護士は専任で360人。非常勤講師をふくめると600人にのぼります。
 いまは司法修習生は1人あたり年300万円ほどの給与が支給されています。これが、2010年11月から貸与制に切り替わります。著者はこの点について賛成のようですが、私は弁護士養成に国が税金を投入してもいいと考えます。医師だって自己負担で養成しているじゃないかという反論がありますが、むしろ私は医師養成も国費でやってよいと思うのです。要は、公益に奉仕する人材の育成と確保です。無駄な空港や港湾建設などの大型公共事業に莫大な税金を投入している現状を考えると、よほど意味のある税金のつかい方だと私は確信しています。
 法科大学院を終了しなくても新司法試験を受けられる予備試験が2011年から始まる。これによって、特急コースができてしまうのではないかと著者は心配しています。なるほど、予備試験は法科大学院終了と「同等」レベルのものとすることになっています。しかし、超優秀の人は、それも難なくパスしてしまうことでしょう。何百人もの法科大学院を経ないで新司法試験に合格して弁護士となる人がうまれるのは必至です。彼らには人生経験が不足しているといっても、そんなものはあとからついてくるといって迎え入れるところは大きいと思います。
 この予備試験を太いパイプとして残せという声は案外、弁護士のなかにも多いのです。とくに苦労した人に多いように思います。私は、それでいいのか疑問です。
 丙案というおかしな司法試験の制度がありました。成績順位が524番だった受験歴4年の人が落ち、1066番だった3年の人が合格したのです。2004年度から廃止になって良かったと思います。
 裁判官の高給とりは有名です。具体的には、官僚トップの各省庁の事務次官と同じ給料(月134万円)をもらっている裁判官が230人、検察官は60人いるのです。
 上ばかり見ているヒラメ裁判官が多いというのは誤解だ。組織のなかで、もっとも自由なのは裁判所だ。最高裁や高裁がどう思うかなんて、おおかたの裁判官は考えていない。
 このような藤田耕三元判事の意見が紹介されています。しかし、残念ながら、事実に反すると私は考えています。事実を見つめて自分の頭でしっかり考えるというより、先例を踏襲し、現状追認の無難な判決を書いて自己保身を図る裁判官があまりに多いように思うのです。
 2000年に全国の地裁で有罪判決を受けた外国人は、7,454人いて、そのうち法廷通訳人がついたケースも6,451人となっています。これは、10年前の4.4倍です。裁判所に登録されている法廷通訳人は50言語、3,656人となています。中国語1,574人、英語510人、韓国語369人、スペイン語261人、ポルトガル語134人、タイ語107人、フィリピン語94人、ペルシャ語63人、ベトナム語52人、フランス語51人の順です。
 ちなみに、著者は、ごく最近知ったのですが、私と同じ年に大学に入ったのでした。父親の病気のため生活保護を受けていた家庭から高校、大学へ通い、アルバイトをしながら授業料免除と奨学金で卒業したというのです。まさに頭が下がります。
 私の場合は、決して裕福とは言えませんでしたが、基本的に親の仕送りに頼っていました。もちろん家庭教師その他のアルバイトはしていたのですが、セツルメント活動に打ちこむだけの余裕はありました。
 それはともかく、司法改革とは何か、どのような議論がなされたのかを知る貴重な資料的価値のあるものとして、みなさんにぜひ一読されるよう、おすすめします。

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2005年6月20日

「子どもたちのアフリカ」

著者:石 弘之、出版社:岩波書店
 表紙にアフリカの子どもの素敵な笑顔の写真が載っています。でも、頁をめくると、とても笑顔で読める内容ではありません。心が凍りつくような情景描写が次から次に続きます。私は福岡までの電車のなかで読みはじめたのですが、それまでの眠気が嘘のようにさめて、背筋をピンと伸ばして厳粛な気持ちで読みすすめました。
 次世代を担う子どもたちの今から、アフリカの未来を考える。オビにはこう書かれています。この内容ははるか遠いアフリカの国の話しであって、日本とは関係ないと考えてはいけないと思います。エイズ、少年兵、奴隷、いずれも日本にも決して無関係ではありません。
 アフリカのエイズ患者は2500万人。2003年だけで300万人が新しく感染し、220万人が死亡した。アフリカの成人の7.5%はエイズであり、なかには成人の4割ほどがエイズ感染者という国まである。これによって、アフリカの平均寿命は1975年に47歳だったのが、今では40歳になった。
 栄養不足人口は33%、就学率は42%でしかない。親をエイズで失った孤児が増えている。スワジランドでは、妊婦の4割がエイズ感染者。エイズの母親から生まれた子どものうち、20%は母体内で、15%は母乳を通じて感染する。
 アフリカのエイズ感染の9割近くは無防備な異性間交渉が原因。アメリカや日本のような先進国では抗エイズ薬のおかげでエイズと共存して生活できる。アメリカではエイズによる死亡者は70%も減少した。しかし、アフリカでは、抗エイズ薬の投与を受けているのは70万人にすぎず、残る330万人は放置されている。
 アフリカには処女とセックスするとエイズが治るという迷信が広くある。また、病気は身体の汚れた状態で、清浄な処女とセックスすれば浄化されるという間違った観念があり、迷信をはびこらせる原因にもなっている。
 アフリカの少女は、生後1週間から初潮までに女性性器を切除されている。毎年200万人が切除され、アフリカ大陸の女性の3人に1人くらいの割合になる。女性に被害者意識はあまりなく、むしろ女性の方が熱心な支持者になっている。
 アフリカには少年兵が多い。イラン・イラク戦争のとき、2000人のイラン少年兵が手をつないでホメイニ師を讃える歌をうたいながらイラク国境の地雷原に突きすすんでいった。あちこちで地雷が爆発して子どもたちが死んでいったあとを正規軍が進んでいった。生き残った少年兵は1割しかいなかった。子どもは頭が空っぽで、つねに命令に従うから司令官が好んでつかう。戦闘の前にはハッシッシやアヘンなどを与えるし、万一つかまったときのために青酸カリのカプセルも与えてある。
 子どもは奴隷としてもつかわれている。たとえばチョコレート。子ども奴隷のおかげで人件費が安上がりになっている。
 世界には、考えなければいけないことがこんなに多いのか、思わず襟をただしてしまう厳粛な内容です。いかにも厳しい現実ですが、決して目を逸らしてはいけないと思い、最後まで読みとおしました。

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2005年6月17日

僕の叔父さん、網野善彦

著者:中沢新一、集英社新書
 網野善彦は私の好きな歴史学者です。ともかく視点が目新しくて、問題提起が刺激的なのです。いつもハッと眼を見開かされます。
 『無縁・公界・楽』(平凡社)や『異形の王権』など、いくつも読みました。日本の歴史を底辺に生きる人々の生活からとらえすことを学ばされた気がします。百姓を農民ではなく、海辺で働く漁民や、船乗りをふくめるものという提起もあったと思います。
 ただ、私は、宗教学者としての中沢新一をなんとなくうさん臭い人物と思ってきました。中沢新一の本を読んだのは、これが初めてです。「コミュニストの息子」として育ったことの悲哀も語られていて、案外、まじめな人物だったんだなと見直しました。

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「不器用な技術屋iモードを生む」

著者:中野不二男、出版社:NTT出版
 いま携帯電話は耳にあてて聞いて話す道具というより、画面を見る道具になってしまいました。歩きながら画面に夢中になっている人の姿はどこにでも見かけます。
 iモードが誕生して6年がたちました。携帯電話は今や単なるケータイと言った方がピッタリきます。だって、電話というより持ち歩きのできる超小型のパソコンそのものなんですから・・・。ケータイとは違いますが、i−podにも驚きました。単なるウォークマンではないのですね。7000曲も入っていて、画面を見ながら選曲できますし、歌詞まで読めるのですから、すごいものです。
 iモードが誕生するについては、松永真理の「iモード事件」も面白く読みました。熊本で仕事をしていた彼女を、人脈で掘り起こしたんですね。
 この本は、技術屋サイドから見たiモードの開発物語です。私には技術的なことはさっぱり分からないのですが、とても興味深く読みました。技術屋の世界って、事務系とは一味も二味も異なる世界なんだなとつくづく思いました。
 携帯電話がまだ珍しかった時代に、私はそれを持ち歩いていたことがあります。ポケットに入るなんてものではありません。大きさは小城羊羹の1本分くらいです。手にとると、ずしりと重たいのです。バッテリーも同じくらいかさばっていました。ともかく貴重品ですから、大切に扱っていました。今ではケータイが普及しすぎて、公共の場所から公衆電話がなくなりつつあって困ります。要するに、自分のケータイをつかって相手方とダイレクトに交渉したくないときには公衆電話をつかいたいのです。そんなの非通知にすればいいじゃないかと言われるかもしれませんが、自分のケータイにいろいろ入ってくること自体がいやなのです。ケータイの送受信歴がまったく消えないというのも嫌ですよね。
 この本で圧迫面接という手法があるというのを初めて知りました。たたみこむように質問していって相手を追いこみます。質問に対して正確な答えをするかどうかは問題ではなく、圧迫をはねつけて、正面切って答えたり、うまくすり抜けたりする機転のはやさを見るための手法ということです。ほとんど嫌がらせのような手法です。私は体験がありませんが、面接のとき、相手の能力を知るひとつの手法なんだろうなと思いました。

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私のかかげる小さな旗

著者:澤地久枝、出版社:講談社
 著者は旧満州(中国東北部)から16歳の多感な少女のときに日本へ引き揚げてきた。それまで1年あまりの難民生活も体験している。だから、戦争を憎む気持ちが人一倍強い。そして、あくまで人間を大切にするヒューマニストである。
 1947年、東京に出てきた。空襲の焼け跡がそのまま残っていた。いま最高裁のある場所には、米軍のカマボコ住宅が整然とならび、白とグリーンの仮設住宅が鮮烈に日に映えていた。日本人メイドの胸に抱かれた白人の子どもたちは丸々とよく太っていた。
 アメリカによるベトナム侵略戦争がたたかわれていたとき小田実と一緒にベ平連(「ベトナムに平和を!市民連合」)の活動をした。そして、いま「安保条約をやめて、日米平和友好条約を!」という市民運動をすすめている。
 著者は憲法9条2項の意義を訴えている。過去の戦争のほとんどが、自衛を大義名分としてたたかわれたものである。「自衛」という表現には、実は何の歯止めもない。すべての軍隊は、自国の平和、独立、安全を守り、自衛する建前で存在する。しかし、「自衛」は拡大解釈される。日米が第二次世界大戦を始めたときだって、だれも侵略戦争とは言わず、自存自衛のためのいくさと言っていた。
 戦後うまれの人には、憲法は空気のように感じられるかもしれない。しかし、戦争を放棄し、国の交戦権を否認した憲法によって日本はアメリカやロシアのような軍拡競争による国家財政破綻の危機をまぬがれ、一人の戦死者も出さず、他国のだれも殺傷しない戦後の半世紀を生きてきた。
 わたしは政治に絶望したり、グチを言うことはやめることにした。政治はわが手で、という考えに立っている。声をあげよう。 
 74歳の著者は今、「九条の会」の呼びかけ人の一人として、すべての日本人に呼びかけている。著者よりは二まわりほど若い私も、負けずに声をあげていくつもりだ。

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2005年6月16日

住民が主人公を貫く町

著者:山田兼三、出版社:あけび書房
 私は山田町長の古くからのファンです。くたびれている同世代の男たちが多いなかで、いまも元気モリモリでがんばっていますから、畏敬の念を禁じえません。といっても、一度も会ったことはありません。前の「南光町奮闘記」を読んで、その謙虚・誠実な人柄と小さな町を町民が住んでよかったと思える町づくりをすすめる実行力に感嘆して以来、尊敬しています。
 残念ながらまだ行ったことはありませんが、いまや南光町はヒマワリの町として全国的にも有名です。なにしろ40ヘクタール、200万本のヒマワリが7月から8月にかけて、ずっと咲き続けるというのです。いつか、ぜひ見に行きたいと思っています。
 山田町長が誕生したのは25年前。1980年10月のことです。当時32歳のよそ者の青年です。そんな人がいきなり立候補して当選できるはずがありません。もちろん、本人も当選するなんて夢にも思っていません。立候補しただけで使命は果たした。そんな思いから気楽に選挙戦をすすめていたそうです。ところが、案に相違して当選してしまいました。真っ青になったそうです。それほど同和問題で荒れた町だったのです。
 当選した山田町長に寄せられた町民の要望は、「暴力・暴言を許さない宣言の町・南光町」の看板をはずしてほしいということでした。いかにも暴力・暴言がはびこっている町と受けとられて恥ずかしいというのです。さっそく看板は塗りかえられ、「花と小鳥の町・南光町」そして今は「ひまわりの郷・南光町」になっています。
 ヒマワリの花は私の家の庭にも植えています。大輪の花だと、咲いているのは10日間ほどでしかありません。わが家のヒマワリは小ぶりの花を次々に咲かせるものです。でも、大輪の花の方が何万本と植えたときには見映えがよいのです。そこで南光町では、8ヘクタールのヒマワリ団地をいくつもつくり、種をまく時期を順次ずらし、見物人を7月上旬から8月中旬までずっと魅きつける工夫をしています。稲作をする田んぼを、集落が話し合ってヒマワリ栽培の団地として提供するわけです。オレんところは今年は稲をつくるなんて誰かが言い出したら、みっともありません。集落内の十分な話し合いが不可欠です。そのおかげで、多い日には観光バスが80台、600台収容の駐車場が満杯になるそうです。年間15万人の観光客が5千人足らずの町民人口の町に押し寄せるのですから、たいしたものです。
 南光町では子ども歌舞伎も復活させました。小学生があこがれて子ども歌舞伎クラブに次々に加入しているそうです。地域の伝統文化を守り育てているのに感心します。
 山田町長の偉いところは、何事も町長を先頭に取り組んでいるところです。たとえば、町が工事を発注するときには、入札の直前に町長室で関係職員を集めて入札金額を決め、その場で町長自身が金額を書きこみ、その足で入札会場にのぞむというのです。おかげで贈収賄事件は山田町長の24年間に一度も起きていません。
 山田町長は議会に対して事前の根まわしを一切しません。議会の審議は質問時間の制限が一切ありません。ボス議員を特別扱いすることもなく、すべて全議員を対象として話をすすめるのです。その結果、ときに議案が否決されることもあります。しかし、山田町長は、それはそれでよいことと割り切っています。町長と議会は一定の緊張関係が必要なのです。なかなかできることではありませんよね。私はつくづくその政治姿勢に感心します。
 山田町長は共産党の町長ですが、宮内庁から秋の園遊会に招待されて、紋付袴姿で奥さんとともに出席しました。モーニング姿の出席者が多いなかでとても目立ち、天皇や皇后をはじめ皇族から相次いで声をかけられたそうです。世の中、本当に変わりました。
 そんな山田町長も、この10月で南光町が消滅しますので、任期満了となります。町民のためのきめ細かな施策をやれる小さな町や村をつぶしてしまう平成の市町村大合併って本当に住民のために良いことなのか、私には大いに疑問です。

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2005年6月15日

「メディア裏支配」

著者:田中良紹、出版社:講談社
 TBS(東京放送)のディレクターとして長年テレビ番組をつくる側にいた人が、日本のメディアを信用してはいけないと声を大にして叫んでいる本です。日本のメディアがいかに当局に操作されているか、この本を読むと改めて背筋が凍る思いです。
 わかりやすい報道には嘘がある。世の中に起こることは単純であるはずがない。国民が日本のメディアと向きあうときに大切なのは、「正しい報道」という呪縛から解き放たれること。この世に「正しい報道」などありえない。
 テレビの視聴率主義は人間から思考力を奪っている。どこを見ても分かりやすい話ばかりだと人間は考えなくなる。いつの時代にも国策推進に協力するのが日本のメディア。国民はメディアの言うことを信じるのをやめて、自分の頭で考えて判断しなければいけない。小泉首相には驚くほど金と人脈がない。しかし、メディアの力がそれを補っている。小泉首相のパフォーマンスは、中曽根や細川とはまったく質が異なる。殿様が町に降りてきて町人姿に変身し、横丁のあんちゃんとしてふるまっている。メディア、とりわけテレビメディアの効用を計算し尽くしている。
 視聴率を上げるノウハウは、女性に受け入れられるよう、複雑なものはダメ、なるべく白黒がはっきりした話がよい。上品なものもダメ。お高く止まっているものはもっとも嫌われる。
 視聴率は、番組の質とはおよそ関係がない。テレビは操作する。たとえば、「街の声」と称して街頭インタビューを放映するとき、はじめと最後の人物をいれかえるだけで、まったく逆の印象を与えることが可能。
 司法記者クラブほど、徹底した情報管理の下に置かれ、それに抗することのできない無力な記者クラブは他にない。えーっ、そこまでひどいのかしらん・・・。私もずっと司法記者クラブとはつきあってきたのですが・・・。
 私は、テレビは、動物を主人公とするドキュメンタリー以外はほとんど見ません(あとでビデオで見ます)。歌番組もバラエティーショーもクイズ番組も、私にとっては時間のムダでしかありません。どうして、世の中の大勢の人々があんなつまらないものを見て自分の時間を浪費するのか、不思議でなりません。
 そんなことを言うので、いつも私は奇人変人あつかいされています。でも、世の中を変えるのは奇人変人、そして凡人なのですよね・・・。私はそう思って、こうやって毎夜、書評をしこしこと書きつづっています。

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2005年6月14日

「大学のエスノグラフィティ」

著者:船曳建夫、出版社;有斐閣
 いまの大学生には五月病というのはないそうです。そのかわり小児病が広がっています。大学に入ってすぐにオリクラ(オリエンテーションクラス合宿)があり、講義が始まるまえからシケ長(試験対策の長)が決まり、彼(女)を中心にして講義毎にシケタイ(試験対策委員)を決め、シケプリ(試験対策プリント)を用意する慣行が確立しています。講義はたくさんありますから、クラス員のほとんどが何かのシケタイになります。シケタイになると、その講義には必ず出席して、シケプリをつくらなければなりません。
 もちろん、私の学生のころにはそんなシステムはありませんでした。そもそも、2年生の6月まで授業があったあとは翌年3月まで授業がありませんでした。それまでだって私はサークル(セツルメント)活動に忙しくて、語学の授業以外はまともに大学の授業には出ていなかったのです。ゼミなるものにも一度として出たことがありません。だから、大学教授というのははるか彼方に仰ぎ見て、マイクを通して声を聞く存在でしかありませんでした。肉声で身近に教授の声を聞いて議論するなんて、考えたこともありませんでした。そのかわりセツルメント活動にうちこんでいましたから、そこで大学の何たるかは精一杯学んだと思っています。といっても、今となっては、もう少し真面目に勉強しておけばよかったかなという後悔もチョッピリしています。その反省が今の読書意欲のバネにもなっているのです。
 船曳ゼミに入るのはなかなか難しそうです。応募者が50人くらいもいて、試験をしたあと面接をして12人ほどに絞るのです。ここで手抜きをすると、あとでひどい目にあうという反省の弁を著者は語っています。ストーカーがうまれたりするのです。
 船曳ゼミでは、学生にレポートを用意させて自分で朗読させるという方法もとられています。人前で堂々とスピーチするという訓練にもなるというのです。なるほど、と思いました。読みあわせというのは非能率的なようで、案外な効果があるというのは私も実感します。読みとばせないことから、しっかりと脳が働き、思考もまとまってきます。夏目漱石の小説は朗読するのに適した文章だということです。私も一度チャレンジしたいと思います。
 東大教授の一日がこまごまと紹介されています。学生の身の上相談、進路相談、成績証明書づくりなど、実にさまざまな雑務が押し寄せてくることが手にとるようによく分かります。東大教授の生態とふくめて、教授であることの意義が淡々とありのまま、何のてらいもなく語られますので、読み手の頭にすっと入ってきます。本当に素直な文章です。
 著者は私と入学年が同じです。著者は東大闘争(東大紛争とは、私も当事者の一人ですから呼びたくありません)のときは何をしていたのか、まさかノンポリではないだろうけど・・・。そう思って読んでいくうちに、著者は全共闘の活動家だったことが分かりました。当時、教授会にも乱入したことがあるようです。大学の知識人である教師を「お前はー」と罵倒したことがあると書かれています。
 私は著者とは反対側で活動していました(もちろん、いわゆるぺーぺーの一兵卒です)。この本は全体的に何の違和感もなく共感したり、なるほどと感心したり読みすすめていったのですが、ただ一点だけは、そうかなー、といささか異和感がありました。すなわち、大学教授なるものは社会を導く警告者であるというのはまったくの幻想にすぎないという著者の認識です。実際、なるほどそうかもしれません。しかし、やはり大学の外にいる私には、ぜひ社会に対して声をあげて警告する役割を大学教授とりわけ東大教授には果たしてほしいと切に願います。自分の現場ではないところにでも名前を貸す種類の抗議声明発表のプロは効力を失い、自己満足でしかないと著者は言っていますが、私は言い過ぎではないかと思います。まだ、それだけの効果は東大教授の肩書きにはあります。大学と専門分野の狭い枠にとどまってほしくはありません。日弁連という「抗議声明発表のプロ」にいる身として、この点は強調しておきたいと思います。
 東大教授の肩書きにあこがれる人が多い現実があります。それは勲章がほしくなるのと同じことでしょう。私も年齢をとりましたから、そのように思う人の気持ちがよく分かるようになりました。それでも、20歳のころに議論していたことをどこかでなんとか忘れないようにしたい。そういう思いも強くあります。それが、私に1968年の駒場の状況を再現する小説をライフワークとして長年にわたってとりくませる原動力(エネルギー)にもなっています。

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2005年6月13日

正義のリーダーシップ

著者:本間長世、出版社:NTT出版
 エイブラハム・リンカンは56歳のときに暗殺されました。いまの私と同じ年齢です。リンカンは暗殺された当日も、激戦だった南北戦争が終わった直後ですから、早朝から忙しく、昼食はリンゴひとつたべたきりでした。こんなとき大勢の人がいるなかへ出るのは危ないという注意も受けたようですが、リンカンはフォード劇場で大評判の喜劇を夫人と一緒に見に出かけました。喜劇を楽しんでいる最中、ハンサムな若いアイドル俳優(ジョン・ウィルクス・ブース、26歳)に背後から懐中ピストルで頭部を撃たれ、ほとんど即死状態でした。爆笑と大きな拍手の音が響いた瞬間だったそうです。暗殺犯は足首を骨折しながらも劇場から逃げきり、のちにヴァージニアで取り囲まれ、射殺されました。そのころまでゴリラとかヒヒというアダ名がついていたリンカンは、たちまちのうちにアメリカ建国の神様のような存在になっていきます。私も訪れたことがありますが、ワシントンのリンカン記念堂内にある巨大なリンカン座像には神々しいほどの威厳が感じられます。
 著者はリンカンについて、衆に抜きんでて大きなことを達成しようという強烈な野心の持ち主だったことを強調しています。単に謙虚な弁護士がたまたまの偶然で政治家になり、大統領の席に坐ったというのではないのです。
 リンカンは開拓者の出身でありながら、そのことを誇りにしていたのでもなく、肉体労働も好んではいませんでした。当時、台頭しつつあった会社企業界の利益のもっとも強力なもののために仕事をする弁護士として卓越した手腕を発揮し、成功をおさめたのです。
 リンカンの父親は開拓地の農民で大工でした。両親ともに字が読めず、父親はやっと自分の名前が書ける程度でした。
 リンカンは奴隷制廃止論者というより、黒人をアフリカに送り返す運動に熱心でした。リンカンの生まれ育った周囲に黒人はあまりいなかったからでもあります。リンカンは南北戦争が始まってから、ようやく元奴隷の黒人たちを北軍の兵士とすることを認めました。このとき、リンカンは黒人をアメリカからアフリカに送り返すプランを放棄したということになります。結局、19万人ほどの黒人兵士が北軍に加わりました。
 「アンクル・トム」がアメリカ国内で200万部以上売れるという大ベストセラーになったのはリンカンが大統領のときのことです。著者のストウ夫人はリンカン大統領と面談していますが、リンカンはお得意のジョークを連発して、ストウ夫人とその娘を死にそうなほど笑わせたそうです。
 当時の大統領選挙の立会演説会の様子が紹介されています。現代の私たちにはとてもの想像できないほどのすごさです。最初に話す者が1時間語り、そのあと相手が1時間半話す。それから先に話した者が30分間語るというのです。これを7回やりました。人口9千人の町に1万人の聴衆が詰めかけました。第1回目はリンカンは押されっ放しでタジタジとなってしまいました。リンカンは作戦を変えて、2回目は挽回します。聴衆は、もっとも少ないときで1200人、一番多いときには2万人の聴衆でした。いったい、マイクもない時代に、2万人の人にどうやって声を届かせたのでしょうか。それにしても3時間の演説を2万人の聴衆が立ったまま聞いていたとは・・・。
 南北戦争は、ザ・シヴィル・ウォーと通常いわれますが、ウォー・ビトウィーン・ザ・ステイツという呼び方もあるそうです。この戦争による戦死者は60万人をこえています。南部連合は26万人、北部ユニオンは36万人の戦死者を出しています。大変な人数と比率です。歴史上きわめて有名なゲティズ・バーグ演説はわずか272語でしかありません。しかし、リンカンが想いを凝らし、文章を練り上げてまとめたものです。リンカンは、息子が病気にかかって妻が心細がっているのを振り切って前日のうちに出かけました。ゲティズ・バーグに到着し、それから演説内容を練りに練ったのです。ラテン語系の語よりもアングロ・サクソン系の簡潔な語を多く使い、ギリシャ以来の修辞学の骨法にかなった名文を、ラテン語もギリシャ語も学んだことのないリンカンがつくりあげました。それが、あの有名な、人民の、人民による、人民のための政治です。
 リンカンは、高い、よく通る声で演説したようですが、強いケンタッキーなまりを感じとった聴衆がいたそうです。アメリカ民主主義の原点を知るためには、リンカンをよく知らなければいけないと改めて思いました。

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2005年6月10日

王の墓と奉仕する人びと

著者:国立歴史民俗博物館、出版社:山川出版社
 いくつか面白いことを知りました。
 古代エジプトの王は犬をペットとして飼っていて、飼い犬が死んだら犬の名前の石碑をたてたお墓を自分のお墓のそばにつくっていた。
 エジプトでは、死者の心臓と真理の女神マアトとを天秤(はかり)にかけるが、心臓が重いか軽いかは問題ではなかった。真理とのバランスがとれるかどうかが重要だった。これがつりあってはじめて、生前、不正な行為をしていなかったことが証明される。それによって死者は再生・復活できる。もし、釣り合いがとれていないと怪物に心臓を食べられ、死者は再生・復活できない。
 奈良県明日香村のあたりには、村人が亡くなると、各戸から女性が1人でて、死者を出した家へ泣きに行く習俗がある。韓国や中国で「哭き女」と呼ばれる女性のいることは知っていましたが、日本にも同じような習俗が今もあるとは・・・。驚きました。奈良に渡来人が多かったことの名残でしょうか・・・。
 卑弥呼について、当時の中国は当初、まさか女性だとは知らなかったのではないかと指摘されています。だから、中国からの使節を卑弥呼に会わせなかったというのです。
 古代には女性天皇が何人もいますが、そのころは男も女も同じ衣服を着ていた。ところが、820年に男性天皇だけが中国ナイズされた衣服を着るようになった。このようにも指摘されています。うーん、そうだったのか・・・。

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虫を食べる文化誌

著者:梅谷献二、出版社:創森社
 オオツチグモを食べるカンボジアの少女の写真があります。うえっー、という感じです。でも、日本人も昔から虫を食べてきました。長野の弁護士からザザムシの缶詰をプレゼントされたことがあります。川虫をつくだ煮にしたものです。美味しいものではありませんが、まずいとも思いませんでした。イナゴのつくだ煮も食べたことがあります。ハチノコは美味しいと思いました。なにしろミツバチなのですから・・・。
 アリを食べるのはアリクイもいますし、分かります。でも、ゴキブリを食べるとは・・・。だけど、ゴキブリはシロアリと祖先を共有するそうです。イギリスでも、中国でもタイでも食べていた(いる)というのです。そして、イギリスには、ゴキブリを家の守護神として大切に扱い、引っ越しのときには何匹か連れていく地方もあるそうです。本当でしょうか・・・?
 ロシアでは養鶏場で生じる大量の排泄物でイエバエを増殖し、それをニワトリのエサに還元する一連のプラントを完成したそうです。ここまでくると、なるほどと思います。
 小さい虫では、針の穴を抜けられるほど小さいのに、ちゃんと飛ぶことができるのがいます。アザミウマタマゴバチといいます。虫の世界は奥が深いのです。

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塔と仏堂の旅

著者:山岸常人、出版社:朝日新聞社
 瀬高の清水寺には立派な五重の塔があります。奈良の法隆寺の五重塔は8世紀にたてられたものですが、心柱(しんばしら)は地面から塔の頂上まで1本で突き抜けています。ところが、12世紀に建てられた京都府加茂町の浄瑠璃寺の三重塔は1階部分には心柱がありません。
 この本には、塔内部の構造が写真とともに図解されていますので、素人なりによく分かります。よくぞ複雑な構造物をコンピューターもない時代に建てたものだと感服します。
 10世紀に建てられた京都・山科の醍醐寺の五重塔もまことに優美な姿です。安定した荘重なプロポーションだと紹介されていますが、まったくそのとおりです。見ているだけで、心がなごみ、うたれます。
 16世紀に建てられた奈良の根来寺大塔(多宝塔)は、四角い建物のなかに円筒形の建物がはさまれた感じです。はじめて、こんな形の塔があるのを見ました。100年ほどもかけてつくられたというので、私は二度びっくりしてしまいました。日本の建築は、時間をかけてつくるのが本来の姿だったというのです。うーん、そうなのか・・・。そう言えば、知人がたてた1億円の豪邸を見学しに行ったことがあります。そこは一人の大工さんが1年半ほどかけ、材料選びからじっくりコツコツとつくりあげていったという説明でした。そうなんですねー・・・。
 会津若松市にあるさざえ堂という建物の奇抜さにも驚かされました。内部に螺旋状の階段があって、上りながら2周すると最上階に至るというのです。
 堂塔の構造が部品の名称とともに解説されています。いろんな工夫がなされていることがよく分かります。京都や奈良をゆっくり散策してみたくなりました。ご一緒にいかがですか・・・。

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2005年6月 9日

難民キャンプの子どもたち

著者:田沼武能、出版社:岩波新書
 ベイルートのパレスチナ難民キャンプの子どもたちは手製の銃を持って兵隊ごっこをしています。一番のリーダーは本物の銃を持っています。ですから、兵隊ごっこは、やがて本物の兵隊の訓練に化けるのかもしれないのです。
 サラエボの難民施設の子どもは、心のケアのために画用紙に絵を描かせると、黒く塗りつぶし、自分の顔にまで黒い絵の具をつけました。あまりに恐ろしい体験をすると、描く絵も暗いものになるのです。
 エチオピアの難民キャンプは飢えのため、文字どおり骨皮筋衛門となった少女、そして人体模型のように肋骨が透けて見える少年がいます。1日20人の子どもたちが死んでいきました。
 ザイールの難民キャンプではあまりにも大量の難民が出たので、両親とはぐれた子どもたちが続出し、写真をとって親を見つけ出す作業がすすめられていました。
 13歳で少年兵にさせられたリベリアの男の子はゲリラから両腕をナタで切り落とされて道端に放置されているところを国連職員が通りかかって救出しました。でも、両親がなくて、アフリカでどうやって生きていくのでしょうか・・・。
 子どもたちが著者にいま一番ほしいものとして白い紙に書いたのはPEACE ONEでした。ぼくたちは、平和がいちばん、なのだということです。ホント、そう思います。
 世界中の難民キャンプが紹介されています。カラー写真だし、子どもの笑顔もいくらかはありますので、辛い状況を子どもたちがなんとか乗りこえようとしていることを知って、チョッピリ心が救われます。

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2005年6月 8日

「かあさん、おかたをたたきましょ」

著者:國房 魁、出版社:新日本出版社
 歌いたくなる写真集の第2弾です。子どもたちの生き生きと輝く笑顔に、つい吸いこまれそうになってしまう、そんな素敵な写真集です。2500円という値段ですが、心身のリフレッシュ剤になりますから、決して高くはありません。ぜひ、買って頁をめくって、子どものころを思い出してみて下さい。
 第1集は「ドンと鳴った花火だ」でした(出版社は同じ)。どうしたらこんなに生命に光り輝く子どもたちの笑顔が撮れるのか、素人カメラマンを志す私には不思議でならない写真が満載でした。
 桜の木の下をランドセルを背負った子どもたちが一列になってにぎやかに通学しています。先頭はちょっとおませなお姉ちゃん。続くは、ひょうきん族のお兄ちゃん。みんな、ランドセルからって学校に行くのが嬉しくてたまらない。そんな気持ちがストレートに伝わってきます。
 秋の夕暮れどきです。日が沈むまで、まだ少し間があります。刈り入れの終わった田んぼで女の子たち5人組が遊び終わって、これから家に帰るところです。前の子の肩に両手をかけて汽車汽車シュッポシュッポと駆け出しました。健康ではち切れそうな笑顔を田んぼにふりまいて、一列になって走っていきます。
 春の小川で、男の子たちが網をもって底をすくいます。どじょっこ取ったぞ。男の子の弾ける笑い声が聞こえてきそうです。野球帽のツバをうしろにまわした、ヤンチャ盛りの男たちが素足になって遊んでいます。
 村の夏祭りに出かけるハッピ姿の三姉妹がいます。頭にキリリとはち巻きを締めているのが、いかにも粋です。でも夏は、やっぱりスイカ。井戸でよく冷やした赤いスイカを庭にゴザを敷いてガブリとかぶりつき、タネを口の中からペッペッと上手に吐き出します。ゆでたトウモロコシなら、かぶりついて、きれいに食べ尽くします。
 童謡の歌詞と見事に溶けあった写真集です。どうぞ、あなたも手にとって童心ワールドへ・・・。

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2005年6月 7日

南極って、どんなところ?

著者:柴田鉄治、出版社:朝日新聞社
 南極大陸の昭和基地で越冬生活した人にとってのいちばんのお土産品は、なんとキャベツだそうです。キャベツの葉をなまでかじる。これが涙の出るほどうれしいことなのです。
 新鮮な野菜に飢えているからです。といっても、最近は、野菜を室内で生産できる設備もあるようです。そう言えば、宇宙ステーション(このところ、その話題がなぜかマスコミには出てきませんね・・・。これも例のアポロが月まで本当に行ったのかどうか疑われていることに関連があるのでしょうか・・・)でも、野菜づくりが課題になっていましたね・・・。
 南極大陸の大きさは日本の33倍、しかし、インド大陸の4倍でしかありません。冬はマイナス45度。しかし、夏の昭和基地には雪がなく、天気のいい日には布団を屋外に出して干すそうです。南極大陸はどこの国の領土でもないと思っていましたが、なんと7ヶ国も領土宣言をした国があるそうです。日本は、もちろん領土宣言なんかしていませんが、40人もの越冬隊員がいるそうです(女性も、最高4人)。
 アザラシとペンギンは潜水するときには正反対の行動をとるそうです。アザラシは潜水する直前に息を吐き出し、ペンギンは逆に息を吸いこみます。アザラシは潜るときには楽でも、浮上するときに必死に泳がなくてはいけません。ペンギンは息を吸って浮力があるので潜るのに必死だけど、浮上するのは楽々なのです。初めに楽をするアザラシと、後で楽をするペンギンという違いがあるのです。面白いですね。
 南極大陸では隕石がよく見つかります。なんと、アメリカが発見した1万個を抜いて、日本は1万6千個も発見し保有しているというのです。月隕石が9個、火星隕石も6個もっています。月隕石や火星隕石というのは、小惑星の衝突を受け、クレーターができるときに地表から跳ね飛ばされた岩石です。300万年前に火星から飛び出して、数万年前に地球に落ちてきたというのです。300万年近くも惑星のあいだの宇宙空間を漂っていたというとんでもないスケールの話に、ボー然としてしまいました。
 南極大陸に取り残され、冬を生き抜いたカラフト犬のタロとジロの話も出てきます。今でもはっきり覚えています。1959年1月のことです。私は小学生でした。
 南極大陸の氷が地球の温暖化によって溶けつつあるという報道もあります。良好な自然環境を子孫にきちんと伝え残すのも私たちの責務のひとつではないでしょうか・・・。

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