弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

中国・日本史(戦前)

2019年11月27日

満鉄全史


(霧山昴)
著者 加藤 聖文 、 出版  講談社学術文庫

日露戦争(1904年)で日本がロシアに辛勝したあと、ポーツマス講和条約(1905年)で、ロシアは東清鉄道南部支線を日本へ譲渡した。これがあとの満鉄となる。
ところが、日本政府内部では、この鉄道がどのような果実をもたらすものか、誰も分かっていなかった。すなわち戦略的な位置づけや基本的合意のないまま、満鉄という組織だけが出来あがっていった。
南満州での権限拡張に陸軍は熱心だった。そして、満州各地に領事館を設置していた外務省も熱心だった。
後藤新平は、1906年11月に満鉄総裁に任命された。満鉄は、単なる鉄道会社の範囲をこえて、多角経営をすすめた。1907年11月には「満州日々新聞」を発行したが、あわせて英字新聞まで発行した。また、ホテル経営にも進出し、「ヤマトホテル」を沿線主要都市に建設していった。さらには、調査部を設置した。
第二代総裁の中村是公(ぜこう)は夏目漱石を満州に招き、広報マンたらしめようとした。二人は学友だった。漱石が満州に着いたころ、満州では野球が盛んで、観戦している。
関東軍のはじめは、満鉄沿線の警備にあたる独立守備隊と、関東州に駐在する1個師団のあわせて1万人ほどの軍隊でしかなかった。
松岡洋右は、満鉄の理事・副総裁・総裁として11年にもわたって在職した。
松岡と張作霖は、根本的なところで思惑が違ったものの、表面的には利害が一致していたので、両者は手を結んだ。原内閣のとき、張作霖を利用しつつ、満州における日本の権益を拡張するという方針が定まり、これが1920年代の基本路線だった。満鉄の松岡総裁は積極的に張作霖を支援し、張作霖の中央政界進出を側面支援した。
ところが、これによって張作霖の政治権力が強大になってくると、満鉄ひいては日本は、満州を好き勝手にすることができなくなるというジレンマに陥った。
日本は、張作霖の性格や能力はある程度理解していたものの、その存在を支える漢人の社会的要請をまったく理解せず、あくまで一個の道具としてしか見ていなかった。
そのため、思いどおりになるとみていた張作霖の自我と自負の強さを直面すると、反感が大きく増幅され、ついに抹殺へとつながっていった。
1928年6月4日、関東軍の高級参謀だった河本大作大佐が主謀した張作霖爆殺事件が起こされた。このとき27歳だった張学良は、満鉄包囲計画を立てた。
1931年9月に始まった満州事変は、関東軍の単独・独走ということではなく、関東軍と満鉄の二人三脚によって進められていった。
満州事変の当初は、満鉄首脳部は関東軍への協力に消極的だった。それが180度方針転換したのは1931年10月のこと。1930年度、満鉄社員は3万4000人もいた。
満鉄と関東軍の蜜月時代は長くは続かなかった。
両者の立場は逆転した。ただし、満鉄は依然として満州国随一の巨大企業。満州国がひとりだちするには、満鉄の経済力と人材が必要不可欠だった。
満鉄に関する詳細な通史です。勉強になりました。
(2019年8月刊。1180円+税)

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