弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2016年1月 1日

ブラックホール・膨張宇宙・重力波

宇宙

(霧山昴)
著者  真貝寿明 、 出版  光文社新書

 光陰、矢の如しです。一年の過ぎるのが本当に早いです。人生の折り返し点をとっくに過ぎている今、この先、地球と宇宙そして人類がどうなっていくのか、ちっぽけな存在である私の死後、いったい意識が消失したあと、何が待ち受けているのか・・・。ぜひ、知りたいところです。
 ブラックホールとは、光さえも脱出することができない重い天体。だったら、ブラックホールなんか私たちは見えないはず。ところがブラックホールは観測されている。なぜ?
 実は、ブラックホールそのものが見えているわけではない。それでも、ブラックホールの存在が分るのは、ブラックホールに吸い込まれているガスの分子同士がぶつかりあってX線などの電磁波を強力に放射するから。ガスが「明るく光る」ため、ブラックホールに吸い込まれていく姿が見える。だから、ブラックホールは、天文学的には「明るい天体」とも言える。ええっ、そうなんだ・・・。
 銀河系の中心部分にも、超巨大なブラックホールが存在している。太陽の実に300万倍以上の質量と見積もられている。
 ここで、クエスチョン。鏡を手にもって自分の顔を見ている人が、光速で動いたとすると、鏡に顔は映るのか?
 その答えは、鏡に顔は映る。なぜなら、光速で人間が動いていたとしても、光はその人から見て光速で動くから。
 なんとなく、分ったようで分らない話です。
 時間の進み方は、観測する人によって変わる。ロケットの速度が速ければ速いほど、地球の1秒に比べてロケットの1秒は遅くなる。だから未来に行くタイムマシンは可能だ。光速に近いロケットで宇宙のどこかに飛び、そして戻ってくればよい。浦島太郎の話は竜宮城が光速近いスピードで移動していたとすれば、ありうる。ただし、過去に戻るタイムマシンは不可能。
現時点での宇宙像は次のとおり。宇宙は何らかのメカニズムによって誕生し、インフレーションと呼ばれる急激な真空の膨張を起こした。インフレーションは、当時の地平線スケールをはるかに超える大きさまで引き延ばし、現在我々が観測している範囲を超えてほぼ一様な宇宙を実現した。インフレーションは、膨張領域同士が衝突する現像で終了し、高温高密度の「火の玉」となり、ビックバン宇宙モデルに引き継がれる。火の玉は、宇宙の膨張にしたがって温度を下げ、宇宙全体の大規模構造ができていった。宇宙は現在なお加速膨張を続けている。
 重力波とは、時空に生じた「ゆがみ」が波となって伝わる現象である。これまで地球上で重力波をとらえたことはない。重力波は、とてつもなく弱い波だから。
 そこで、日本は岐阜県神岡の山中に長さ3キロのトンネルを2本掘って、大型低温重力波望遠鏡「カグラ」を建設中である。人工的に重力波を作り出すことはできない。宇宙でつくられる重力波を観測するしかない。
 連星パルサーの発見により、重力波の存在が間接的にせよ確かめられた。
 重力波の観測が現実すると、中性子星の軌道パラメーターが分るだけでなく、これまで不明だった原子核の状態方程式が決まり、ブラックホールが形成される直接の証拠を得ることになる。また、銀河中心のブラックホールの形成過程や初期宇宙の解明、あるいは重力理論の検証にもつながっていく。
 宇宙に涯があるといいます。では、その外側は、いったいどうなっているのでしょうか・・・。暗黒かつ真空の世界なのでしょうか?
宇宙の話ほど、ロマンをかきたて、日頃のこせこせした悩みを忘れさせるものはありません。


(2015年9月刊。900円+税)

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2016年1月 2日

会計士は見た

社会

(霧山昴)
著者  前川 修満 、 出版  文芸春秋

ソニー、東芝、スカイマークなど、世にも名高い超大企業が次々に大きく揺らいでいます。なぜ、そうなったのか、公認会計士が公表された企業決算書を読んで鋭く指摘しています。大塚家具では創業者の父親は従業員を大切にしてきたことがよく分りました。パートは正社員数の1割未満しかいない。ほとんど正社員で運営されている。たとえ実績が悪化しても、従業員を解雇せずに切り抜けようとしてきた。
 「お客様への対応は、ちゃんと教育を受けた正社員にのみ行わせる」
 「縁あって入社した従業員は、簡単にクビにはしない」
 大塚家具は無借金経営できた。誠実かつ堅実な経営をしてきた。企業者である父親は、従業員と家具をこよなく愛する社長だった。娘との争いが続いていましたが、これからどうなるのでしょうか、、、。
 ヤマダ電機に対抗していたコジマは、大塚家具と同じく、ほとんどの従業員が正社員だった。ヤマダ電機は、成長期にパートを増やしたが、同時に正社員も増やした。それに対して、コジマは、正社員を減らしてパートを増やしたため、従業員の士気が低下してしまった。
ケーズデンキは、「がんばらない経営」をモットーにしている。ポイント制をとらず、社員に売上ノルマを課さない。社員に無理はさせない。あえて一等地にも出店しない。
ケーズデンキの社員は平均年齢32歳、平均勤務年数6.5年、平均給与は426万円。そして、ヤマダ電機は、29歳、4.8年、370万円。これに対してコジマは、28歳5.6年、383万円。
結局、従業員を切り捨てる企業よりも、大切にする社会のほうが、長い目で見て、大きく伸びるということなんですね・・・。
目先の株主への高配当を最優先するような企業だったら、つぶれても仕方のないことだと改めて思いました。

(2015年12月刊。1200円+税)

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2016年1月 3日

カルフォルニア先住民の歴史

アメリカ

(霧山昴)
著者  野口 久美子 、 出版  彩流社

 西部劇は大好きな映画でした。いつもインディアンが悪者というか敵役で登場してくることに何の違和感もありませんでした。映画の始まりに、大草原の彼方から主人公が馬に乗って登場するのを見て心を躍らせたものです。
 大学生のころは、マカロニ・ウエスタンです。ここでは、悪役は町のボスたちであり、インディアンではありませんでした。
 そして、弁護士になって、「ダンス・ウィズ・ウルブズ」をみて、インディアンのなかで生活する白人がいたことを知りました。
 実は、インディアンこそアメリカの先住民であり、遅れてきた白人は、侵略者だったことに遅まきながら気がついたのです。そこで加害者と被害者が逆転したのでした。
 15世紀末のアメリカ先住民は500万人から1000万人いた。ところが、20世紀の初めには、その40分の1でしかない24万人まで減少した。
 2015年現在、アメリカ内に322ある先住民保留地は、全国土の2.3%を占めるにすぎない。アメリカの歴史は、その土地に脈々と社会を継承してきた先住民の大きな犠牲の上に構築されてきたのだ。
2014年現在、カルフォルニア州には109の先住民の「部族」が存在する。「部族」は、部族を基盤としながらも、その内実は、多様な歴史的経験のなかで、部族の文化的、社会的境界を大幅に脱構築して組織された集団である。
 現在、カルフォルニア州内には100の先住民保留地があり、そこに109の連邦承認部族、1つの州承認部族が存在し、78の部族が連邦政府による承認を求めている。 
 日本人女性(研究者)がカリフォルニアにあるトュールリヴァー部族に長く通って、その歴史を明らかにした本です。その粘り強い調査には大変な苦労があったと思われますが、こうやって日本に住む私たちが、居ながらにしてアメリカ先住民のことを知ることが出来るわけです。本当にありがたいことです。

(2015年8月刊。3500円+税)

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2016年1月 4日

リベンジ・ポルノ

司法

(霧山昴)
著者  渡辺 真由子 、 出版  弘文堂

 リベンジポルノとは、恋人や配偶者と別れた腹いせに、交際中に撮影した相手の性的画像や動画をインターネット上に公開し、拡散する行為。
 このようなリベンジ・ポルノは、実は昔からあった。30年前に女優の裸体写真が出まわった。性的な内容を撮影したいという欲求は、もともと多くの人が内に秘めている。その実現を可能にする道具を与えられたとき、欲求は開花する。
 ネットに載せた画像には、他人にも「保存」が可能だという特徴がある。
 日本よりアメリカで、このリベンジポルノによる被害は先行している。
女子高校生にとって、恋人と性交する関係に至ることは、「同級生より一歩先に大人になった」ことを意味する。そのような自分を自慢したい心理が働く。
 自分に自信のない女の子は、良い評価がほしいから、自分からわざと、そそるような画像を撮ってしまう。恋愛まっただなかの少女たちは、後先を考える余裕がない。いつか別れるかもとか、先のリスクは自分のこととして考えられない。
 10代の少女の恋愛は、あくまでもピュアなのだ。もっと好きになってほしい。浮気や自慰を防止したいという理由で少女たちは撮影に応じている。相手が自分を裏切るはずはないと信じるから撮影に応じる。
 リベンジポルノが発生したとき、撮らせた側は、まさに被害者である。
 撮らせたあなたが悪いときめつけたら、被害者として名乗り出ようとは思わなくなる。加害者が顔見知りであることが多いのも、周囲に相談できない理由の一つになっている。
 ガラケーをもち、スマホに縁のない私ですので、リベンジポルノの世界にも無縁なのですが、小さいころからスマホに慣れ親しんでいるという社会環境も、この問題の背景にあることがよく分る本でもありました。
 被害者に非はなく、被害者が責められる社会はおかしい。私もそう思います。もっと、深く考えるべきなのですよね・・・。

(2015年11月刊。1300円+税)

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2016年1月 5日

帰蝶

日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  諸田 玲子 、 出版 PHP研究所

 織田信長の正妻は、明智光秀の従妹であり、斎藤道三の娘だったというのです。知りませんでした。織田信長の正室、つまり正妻です。
帰蝶は、斎藤道三(どうさん)の娘の濃姫(のうひめ)である。これまでの通説によると、本能寺の変のずっと以前に早世したが、離縁されたと考えられていた。ところが、近年そうではなくて慶長17年(1612年)に78歳で亡くなったという記載が見つかった。別の資料にも、信長の一周忌の法要を信長公夫人がとりおこなったと書かれている。
では、帰蝶は本能寺の変に至るときに明智光秀といかに関わっていたのか、そして本能寺の変が起きたあと、いかなる行動に出たのか、誰もが知りたいところです。
そのあたりを小説として、女性の立場でこまやかに丁寧に描いた小説です。
私は安土城には二度のぼったことがあります。やはり織田信長の「天下布武」という発想を知るためには、ぜひ一度は安土城の跡地に立つ必要があると考えました。
広い大手門の坂道をのぼっていき、あとは曲がりくねっています。天守閣を再現した博物館が近くにあって、当時をしのぶことも出来ます。
信長の周囲にいた女性たちが、栄光と恐怖の背中あわせに生きていたことを偲ばせる小説でした。
作家の想像力というのは、本当にたいしたものです。
(2015年10月刊。1700円+税)

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2016年1月 6日

ザ・ブラック・カンパニー

社会

(霧山昴)
著者  江上 剛 、 出版  光文社

  マックじゃありませんが、ハンバーガー店がブラック企業であり、そこで働く人々が過労死したり、その寸前の状況にあることを告発している本です。
 日本のマックも身売り話が出ているようですが、私はマックを食べないことを自慢にしている者の一人です。いえ、マックだけではありません。化学調味料と促成ホルモン材漬けの牛肉なんか食べたくないということです。
ハンバーガー店の店長が店内で過労死してしまった。なにしろ、店内に寝泊まりせざるをえないという過酷な労働条件。そして、売上高を確保するためには、店長自身が商品を買い取るしかない。パート従業員の賃金だって、人件費割合を削減するためには、店長が自腹を切っている。
 あまりにも長い拘束時間、ノルマに追われて精神的余裕をなくし、過酷なストレスにさらされたら、過労死しなくても、いずれ病気になるのは必至だ。しかし、本社だけではぬくぬくとしている。
 そんな商社こそ、ブラック企業そのものです。そして、理不尽な客がいて、トラブルになったり、フェイスブックやツイッターで店の悪評が書きたてられたり・・・。いやはや、大変な職場ですね。
 そして、マックに対抗する独立系のハンバーガーのチェーン店があると思うと、実はアメリカのファンド会社の支配下にある会社であり、社長以下、いつでも首のすげ替えは出来るというのです。強欲なアメリカ資本の言いなりになってはたまりません。
 過労死するまで働かされるなんて、ゴメンですよね。
 ハンバーガー店という典型的なブラック企業の実情が、面白い読み物として生き生きと書かれています。マックなどのハンバーガー店の内情を知りたいという人には必読です。

 
       (2015年11月刊。1500円+税)

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2016年1月 7日

動物翻訳家

生物

(霧山昴)
著者  片野 ゆか 、 出版  集英社

 日本の動物園がリニューアルしつつあり、そのなかでの飼育担当者の奮闘ぶりを描いた傑作です。登場する動物は、ペンギン、チンパンジー、アフリカハゲコウそしてキリンです。
 動物園は旭山動物園ではなく、埼玉県こども動物自然公園、日立市かみね動物園、秋吉台自然動物公園サファリランド、そして、京都市動物園です。
 かつて動物園は絶大な人気を集めるスポットの一つだった。ところが、1990年ころ、転機が訪れた。退屈そうな動物の姿を見るのに人々が飽きてしまったのです。入場者が激減して、存続の危機にさらされるのでした。
 ペンギンは、ほとんど絶滅を危惧されている。ところが、日本では、動物園での繁殖に成功し、全国に2600羽のフンボルトペンギンがいて、世界の半数を占めている。
ペンギンは大食い。一日に体重とほぼ同じだけの魚が必要。
 ペンギンは、夫婦とその子どもたちで成り立っている。ペンギンの社会にボスはいない。
ペンギンのクチバシはナイフ並みの切れ味。ペンギンが人間になつくことはないし、またその必要もない。ペンギンは、強く、賢く、環境適応能力の高い動物だ。
ペンギンキャンプ。1人2食付で8000円。定員20人。5月末の土曜日に、テントでペンギンヒルズで一晩を過ごす。午前3時すぎがもっとも面白い。うひゃあ、そんな企画があるのですね。
 チンパンジーは、人間の言葉を確実に理解している。チンパンジーは50年ほど生きる。
ジョーに出演しているチンパンジーの子どもも、5歳か6歳になると人間への反抗心が芽生えてきて、人間による制御が難しくなり、ショーを引退する。
 飼育員は、朝夕、必ずリーダー以下、全員に声かけする。かならず一対一でコミュニケーションをとるのだ。不公平間を与えない。そして、仲間の前で叱ってはいけない。ささいなことでも、ともかく褒める。
 アフリカハゲコウは自分で狩りをする鳥ではない。大空を自由に飛べるようにしたところ、エスケープして、和歌山まで飛んで行った。どうやって連れ戻すのか・・・。すごい忍耐です。
 キリンは、1頭につき1000万円以上もして、海外から譲り受けることが不可能になっている。
 キリンはとくに怖がりの動物。細心の注意が求められえる。
動物園には子どもが大きくなって久しく行っていません。今度、孫が大きくなったら行きたいと思います。大変興味深い話が満載の本でした。
 
       (2015年10月刊。1500円+税)

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2016年1月 8日

日本の社会保障、やはりこの道でしょ!

社会

(霧山昴)
著者  都留民子、唐鎌直義 、 出版  日本機関紙出版センター

 日本もアメリカも福祉国家と呼ぶべきではない。
 アメリカは公的年金だってまともじゃないし、公的な健康保険制度もない。日本は、生存権が十分に保障されていない。生活保護は受給すべき人の1.5%のみ。それなのに自民党は保護基準をさらに10%も下げるという。
 イギリスのブースは、調査によって、貧困の原因は飲酒や家計の浪費ではなく、雇用の問題だと明らかにした。ヨーロッパの福祉国家は、医療は無料、教育費も幼稚園から大学まで無料、住宅は公共住宅が住宅手当が社会保障として支給される。
 日本の総世帯4900万世帯のうちの1204万世帯(5%)は実質的生活保護基準以下の収入で生活している。ところが現実に生活保護を受けている世帯は127万世帯(176万人)でしかない。今の日本には、表面化していないだけで、膨大な量の貧困層が存在している。
 この点は、地方都市で30年以上も弁護士として生活している私の実感にぴったり合致します。それも年々ひどくなってきているように思います。
 この本では大学で教えている体験から、現代の大学生の貧困、アルバイトに追われる日々にも言及されています。
 私の大学生のころ、国立大学の授業料は月1000円でした(奨学金は月3000円)。それが今では年間40万円とか50万円というのです。とんでもないことです。
 フランスやイギリスでは、失業しても、働いているときとほとんど変わらない生活を送ることができる。失業保険は1年半も支給される。なんでもいいから働けというのはやめている。
 大阪では、生活保護を申請すると、市役所が北新地での夜の仕事を斡旋している。うひゃあ、と、とんでもないですよね。
 アベノミクスなんて、とんでもないまやかしですが、いまなお幻想もっている日本人が少なくありません。だまされたと気がついたときには手遅れのことが多いのですが、勘違いしているのは男性に多いですね。
 その不満が排外的なヘイトスピーチに流れているようです。悲しいですね。もっと、自分の周囲と足元をよく見てほしいです・・・。
 ズバリ本音トークの本でした。一読の価値があります。

(2015年9月刊。1400円+税)

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2016年1月 9日

真田信繁

日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  平山 優 、 出版  角川迸書

 真田幸村についての本格的な研究書だと思いました。真田幸村は昔からマンガ本その他で身近な存在でしたが、この本を読むと知らないことだらけでした。
 大坂冬の陣のとき、家康方の大名家臣には、関ケ原合戦以降、14年間も大規模な戦争が起きていなかったために、実戦経験のないものが多数を占めていた。そのため、戦場での駆け引きや出頭らの指揮の命令に従う要諦など、多くの点で経験に欠け、ややもすると暴走する者が少なくなかった。大名やその家臣たちは、それぞれの立場や思惑をかかえて大きな戦場にのぞんだ。そして、そこで、功績をあげ、自分たちの身上を上昇させていこうと考えていた。ここに、真田丸に攻撃を仕掛けてきた寄せ手たちが、思わぬ不覚をとった背景がある。
 真田丸や惣構に向けて、東軍の情勢は、とりわけ先手衆が功を焦り、面子を競いつつ攻め寄せる事態となった。これに釣られて後方の軍勢も先行を焦って続々と前に出てきてしまい、前田利常ら大将の命令も無視された。これが各軍の指揮系統を麻痺させ、混乱に拍車をかける結果となった。
 真田信繁が守る真田丸とその背後の惣構の連携により、東軍は甚大な打撃を蒙り、敗退した。前田、井伊、越後衆らが大敗を喫し、多大な損害を受けた。
 真田丸の戦闘で大敗を喫したことに、家康は大きな衝撃を受けた。そこで家康は穏やかに真田信繁を調略しようと試みた。真田昌幸・信繁父子は、家康が調略工作に置いて破格の条件を提示し味方につけて難局を打開すると、約束を反古した経緯をそれまで嫌というほど見せつけられてきた。それで、失敗に終わった。
外国人宣教師たちは、大坂冬の陣を徳川方の雅色が悪かった合戦だと認識していた。
大坂城の濠が埋め立てられて無惨な状況になったにもかかわらず、牢人衆たちは大坂を去ろうとせず、小屋掛けして居座り続けていた。そればかりか、全国から、豊臣家に奉公を望むものが方々から流れ込んできて、太閣在世中よりも人数が多いと言われたほどになった。豊臣方は、大坂城下に立札を出し、仕官は受け付けないと告知していたものの、実際には新参者の牢人たちを優遇していたので、彼らは妻子を連れて居座るようになった。冬の陣のときよりも多数の牢人たちが集まり、大坂方の動きは活発化していった。
 大坂方に味方する牢人が増えたのは、冬の陣における徳川方の作戦と、秀頼の主張に正当性が認められていたから・・・。
 牢人たちは、和議によって赦免されても召しかかえてくれる大名はまったくなかったので、大坂を去ることが出来なかった。牢人問題は豊臣方の責任事項であり、その召し放ちこそ和睦時の約束だった。
 家康は豊臣氏を滅ぼす気はまったくなく、あくまで国替えに応じさせて徳川将軍体制下に組み込むことで問題を解決しようと考えていた。そのため、東北、北陸、畿内のみに動員をかけ、西国大名には待機を指示していた。
大坂方には、牢人して時節を待っていただけあって、年齢は経ていても実践経験のある者が非常に多かった。
大坂夏の陣における東軍で目立ったのは、大した理由もないのに軍勢がいきなり崩れ、陣形を乱したばかりか、算を乱して逃げ崩れることになる。これを「味方崩」と呼んだ。味方崩が重大な事態を招いたのは、一部の兵卒が逃げ崩れ、味方の軍勢に逃げ込むことからであった。これは東軍の兵士たちの多くが実戦経験に乏しい者たちで占められていることから起きたこと。
 大坂夏の陣のとき、死戦を覚悟していた越前松平忠直軍の抜け駆けによって、東西両軍が望まない形で開戦することになってしまった。東軍は、兵力こそ15万を数えたというが、各軍勢は大名単位で思いおもいに活動している。家康・秀忠の指示は届きかねる状況だった。
家康は豊臣氏を最初から潰すつもりなどなかったし、大坂の陣が勃発したあとも、なんとか戦争を回避しようと秀頼の説得につとめていた。
家康は、兵糧の欠乏と寒気に悩まされ、戦闘での敗退などで諸大名が徳川から離反することを恐れていた。他方、豊臣方は、玉薬などの欠乏に悩まされ、これ以上籠城戦は困難になりつつあった。このようにして、双方の思惑が一致して、和睦は成立した。このとき、双方で問題となったのは、大坂城に籠城した牢人たちを、どう扱うかという問題だった。
敵方からも称賛された信繁は当時から大いに注目され、5月8日の首実験には多くの武将が見物にやってきた。
このようにして信繁は幸村として、軍記物のなかで大活躍するようになっていった。
 大変新鮮な切り口の幸村についての本です。NHKドラマ「真田丸」の時代考証を担当する著者の語りは明快です。
(2015年10月刊。1800円+税)

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2016年1月10日

特攻―戦争と日本人

日本史(戦前)

(霧山昴)
著者  栗原俊雄 、 出版  中公新書

 1944年3月、陸軍航空部隊は組織的な「特攻」に踏み出した。後宮(うしろく)淳大将が航空総監・航空本部長に就任してからのこと。後宮は東条英機首相とは陸軍士官学校17期の同期で、東条とは関係が深かった。このころ東条は権力の絶頂期にあり、首相、陸相、軍需相そして参謀総長まで兼任していた。
 これって、まるでナチス末期のヒトラーと同じですね・・・。権力集中は権力失墜の一歩手前です。アベ首相も同じようになるでしょう。
 東条の意を受けた後宮は、着任して早々、「体当たり攻撃」の計画を指示した。
 本当に無責任ですよね。自分は安全なところにいて、自らは死地に出向くことはなく、全と有為の青年を死に追いやるのですから・・・。
命令された今西六郎師団長(少将)は内心、特攻作戦に反対だった。
 「体当たり部隊の編制化は、士気の保持が困難で、統御に困り、かえって戦力が低下するだろう」
フィリピン戦線ではじめられた特攻は、兵士が死ぬことを前提とするもの。この特攻隊を最初に送り出したのは、大西瀧治郎・海軍中将だった。
 パイロットがひとりだちするのには膨大な時間がかかる。300飛行時間程度では、なんとか飛べるくらい。毎日3時間とんでも100日(3ヶ月)かかる。
 ミッドウェー海戦のとき、日本軍は一挙に216人もの搭乗員(パイロット)を失った。致命的だった。
 航空機の生産量は、日本は最大時(1944年)に2万8180機だった。これに対してアメリカは、その4倍の10万725機だった。
 フィリピン戦線で初の神風特攻隊の隊長となった関大尉は、不満だった。
 「日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら、体当たりせずとも、敵母艦の飛行甲板に500キロ爆弾を命中させる自信がある・・・」
 そして、初めての特攻隊を送り出した猪口参謀、玉井副長、中島飛行長は戦死することなく、戦後を生きた。関大尉は23歳で死ぬことを迫られた。
 わすれてはならないことは、この特攻作戦が昭和天皇によって認可されていたということ。
 昭和天皇は、特攻作戦を聞いて、「よくやった」という、「お褒めの言葉」をもらした。これが、特攻遂行のエネルギーになった。昭和天皇は、特攻を褒めたたえたのだ。
 特攻作戦によって昭和天皇が停戦に動くどころではなかった。それどころか、昭和天皇が喜んだということなら、もはや特攻は中止されるはずもない。
 特攻機は、アメリカ軍の主力艦を一隻も沈めていない。アメリカ軍の迎撃能力の向上、そして特攻機のパイロットの心理状態が効果をあげることを許さなかった。
 昭和天皇は、戦艦「大和」の出動について、戦後、「まったく馬鹿馬鹿しい戦闘であった」と語った。この無謀な作戦の犠牲になった4000人が、これを知ったら、どう思うだろうか・・・。そして、まぎれもなく「特攻」であった大和艦隊の戦死者は誰も特進の対象とはならなかった。
戦後まで生き残り、自民党の参議院議員までなった源田実は、「特攻で死んだ人々は、ほとんどすべて満足感をもって死んでいる」と書いた。いったい、どこに「満足感」の根拠があるのか・・・?
 自民・公明による安保法制法は日本を戦争する国へ推進しようとしています。戦争は不合理、狂気がひとり歩きしてしまいます。走り出す前に止めなくてはいけません。今なら、まだ十分まにあいます。
 ご一緒に戦争法反対の声をあげましょう。運用させることなく法を廃止させなければなりません。

(2015年8月刊。820円+税)

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2016年1月11日

老人に冷たい国・日本

社会

(霧山昴)
著者  河合 克義 、 出版  光文社新書

 いつのまにか私も年金をもらうようになりましたので、立派な老人の一人です。
 日本という国は、アメリカ製の軍艦や飛行機などは超大金を出して惜しみなく買うくせに、福祉となると一変してケチケチです。本当に老人に冷たい国だと思います。
 孤立は、貧困と切っても切り離すことができず、貧困が孤立を生み出している。家計が苦しくなると、交際費が縮小する。親族、近隣そして友人関係が切れると、孤立化を生み出している。家計が苦しくなると、交際費が縮小する。親族、近隣そして友人関係が希薄化し、また切れてしまう。関係が切れると、孤立化をもたらし、その人の問題は親族にも地域にも友人にも分らないという状態を生む。こうして問題が潜在化する。
 ひとり暮らしの高齢者が日本全国に600万人いる。そのうち300万人は生活保護基準以下の生活をしている。生活保護を受けている一人暮らしの高齢者は70万人いるので、残り200万人あまりが生活保護を受けずに生活している。
 2000年以降、孤立死・餓死がそれ以前よりも増加している。
 2000年4月に介護保険制度がスタートしてから、それまでの高齢者福祉の行政サービスは大部分が民間事業者に委ねられた。こうした変化のなかで重大な問題は、行政による高齢者問題の把握力を低下をもたらしたことである。
 このシステムは、比較的生活が安定している高齢者にとっては身近な制度となったが、自分から声を上げない人々にとっては、制度との距離が大きくなった。
 高齢者の生活基盤が脆弱なために、親族・地域から孤立し、ひっそり亡くなっていく人が後を絶たない。それは高齢者だけの問題ではない。日本の社会、社会保障・社会福祉制度は大切なものを欠落させているのではないか。
 緊急に対応すべきは、国民生活に一定のミニマム基準が設定され、各制度がその基準を下まわらないように全体的に調整することである。
 先進国のなかで、日本ほど「老人に冷たい国」はない、とつくづく思う。
 アメリカは果たしてどうなのかと疑問に思いますが、ヨーロッパ各国と比べて福祉が遅れていることは間違いありません。自民・公明の政権は、軍事予算を5兆円以上にどんどん増やす一方で、福祉予算を大きく減らしています。守るべきは「国」ではなく国民生活です。優先順位が間違っているのだと私は思います。


(2015年7月刊。760円+税)

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2016年1月12日

はしっこに、馬といる

生物(馬)

(霧山昴)
著者  河田 桟 、 出版  カディブックス

 沖縄県にある与那国島にウマと暮らす女性の話です。
 馬語を話せるというのです。すごいですね。この本を読んでいると、なぜだか不思議に心がほんわり、温まってきます。詩を読んでいるような気分で、とても分かりやすい文章でウマの生態がやさしく描かれています。 
 ウマと一緒に暮らすと言っても、ウマは夜は森の中で仲間の野生馬たちと過ごします。
 与那国島には野生のようにして生きている与那国馬という体高120センチほどの小さなウマたちがいる。与那国馬は、数百年ものあいだ、この島の草を食べ、この島の水を飲み、台風の暴風雨に耐え、冬の雨や強風にもまけずに生きてきた。
 この本には、ウマ百態とも言うべきウマのスケッチがたくさんあって、ほのぼのとした雰囲気に包まれています。
ウマたちは、順位をはっきりつけることによって群れとして平和に暮らしている。
 著者はウマと一緒に暮らすといっても、ごはんの青草をあげ、手入れをする以外には、何もせず、ただそばにいるだけ。動きもゆっくりで、ぼうっとしていて、空気みたいな存在。だから、ウマたちも「なにもないヒト」と認知している。
 このヒトは身内だというウマに認めてもらうために一番大切なのは、毎日、そばにいること。
 ウマは、「なにも起こらない」おだやかな状況に幸福を感じる生き物。
 ウマは、警戒心の強い、群れで生きる動物。身内なのか、そうでないのかによって、相手にたいする反応はずいぶん違う。
 ウマは変化に敏感な生き物。いつもと違う感じが何かあると、すぐに気がついて緊張する。そして嫌そうな顔をする。
ウマは、からだをぴったりくっつけあうことに心地よさを感じない動物。いつでも逃げられるように、からだを自由に動かせるように、ある程度の距離があるほうが安心する。
ウマは、常にこころとからだの言葉が一致している。
ウマは、群れから離れたくない、ひとりで前にすすみたくない不安なことがあったら逃げ出したい生き物。
ヒトが馬語を話そうと思ったら、何をするかより、はるかに大切なのは、タイミング。
ウマに馬語で話しかけると、必ず何か答えてくれる。
カディと名づけられた与那国馬の写真をみてみたいものです。心安まる、いい本でした。ありがとうございます。

(2015年5月刊。1700円+税)

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2016年1月13日

ルポ・コールセンター

社会

(霧山昴)
著者  仲村 和代 、 出版  朝日新聞出版

  私のお客さんにもコールセンターに勤めているという人が男女、何人もいました。
  話を聞くと、実にすさまじくて、大変な精神労働だと感じました。一人の男性は、明らかに顔色が悪くて、そんなにストレスがあるのなら、早くやめたほうがいいんじゃないですかと言ったほどでした。
  沖縄にはコールセンターがたくさんあるようです。
  あるコールセンターで働く人の3~4割は男性。ほとんどが20~30代。パソコン操作が必要だから、だ。
  コールセンターは個人情報の宝庫。情報管理のため、センター内に私物持込みは制限されている。ケータイは持込み禁止。
  このコールセンターにかかってくるのは、忙しいときには1日10万件、暇なときでも1日5千件近い。ここでは、一時間当たり8.5件。つまり、1件のコールを7分で処理するのが、コールセンターの目標。しかし、なかなかそうはならない。目標を上回っているのは、上位10人だけ。
フロアに40人いるオペレーターの9割はパートかアルバイト。仕事の厳しさに耐えられず、1ヶ月で3割がやめていく。残った人でも、1年で1割がやめる。だから、慢性的な人不足が続いている。
  オペレーターには、10人に1人の割合でスーパーバイザーがつき、そのうえに大きな班をまとめるマネージャーがいる。スーパーバイザーも非正規社員であることはオペレーターと同じ。
  クレーマーに耐えるコツは、「自分が怒られているんじゃない。何か別のことに怒っていると思うと、気にならなくなる」ということ。
  このコールセンターでは、昔はなるべく早く電話を切るようにしていたが、今はより丁寧に応対するように変えた。早く電話を切っても、次のクレームにつながり、結果として、一人の客にとられる時間が、かえって長くなることが多かったから。
  ふむふむ、これはよく理解できます。
かかってくる電話は、フツーの内容が8割、怒っているのが1割5分。そして残り(5分)は、あげ足とりみたいなもの。
  オペレーターの仕事は、「ありがとう」と言われるものではなく、見返りがほとんどない。
  自給1100円は、沖縄では高いほうだ。
  コールセンターを営む上位30社の売上高の合計全額は前年比6.1%増で、金額にして8628億円ほど。
  いずれの会社も、正社員の割合はせいぜい2割以下。
  日本の企業のために海外にもコールセンターができている。たとえば、中国の大連にコールセンターを置いておくと、人件費が安くてすむ。またアメリカでもコールセンターをインドやフィリピンに設置して、アメリカで深夜にあたる時間帯で対応させる、ただし、日本の客の求めるサービスの質は高いので、いいかげんな対応はできない。
  どうやら大連のコールセンターは撤退したようです。
  沖縄には、いくつものコールセンターが進出し、人材の奪いあいになっている。
  コールセンターの労働は、感情労働である。一つは、人と接することが不可欠なこと、第二に、他人のなかに何らかの感情変化を起こすこと。
コールセンターでの労働組合の組率は低い。平均23%、でしかない。
  食品会社「カルビー」は、事前の「お客様相談室」をもっている。みんな6年以上つとめていて、10年をこす人も少なくない。カルビーは、「客のニーズを探る場所」と位置づけている。これって、すごいことだと思いました。
  電話をめぐる状況は大きく変わりつつある。コールセンターにわざわざ電話をかけてくる人はどんどん減っている。
 弁護士も「感情労働」の一つですよね。「お客様を大切に」といっても、限度があります。
  社会の一断面を知らせてくれる面白い本でした。
  
(2015年10月刊。1200円+税)

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2016年1月14日

沈まぬアメリカ

アメリカ

(霧山昴)
著者  渡辺 靖 、 出版  新潮社

  軍事力で世界を思うままに支配しようとしてきたアメリカも、今やさっぱりです。もちろん、今でも軍事力は世界一です。でも、軍事力だけでは何も変わらないどころか世の中をかえって悪くしてしまうという実例が、最近のイラクであり、シリアです。IS(イスラム国)の暴挙なふるまいは、アメリカが生み育てたものでしかありません。ここは、やっぱり日本国憲法9条の出番ではないでしょうか・・・。
  著者は日本の大学を出てアメリカのハーバード大学に入って、今は慶應大学で教授をしています。そのためでしょうか、アメリカのいいところを紹介する本です。たしかにアメリカにもいいところはたくさんあります。それは、わが日本にもいいところがたくさんあるのと同じようなものです。
  でも、軍事力に頼るばかり、社会保障制度は不備だらけ、銃の規制はできず、今や排外交主義にこり固まっていて、移民排斥を叫ぶ大統領候補の評価が高いだなんて、そんな遅れたアメリカのどこを学べというのでしょうか・・・。
  アメリカの人口は増大しつつあり、2050年までに1億人以上は増える見込みだ。労働力も40%は拡大する。
  シェール革命の成果によって、アメリカは世界最大の自然ガス産出国となった。2014年には、39年ぶりにアメリカは世界最大の産油国になった。
  ハーバード大学の学費は年間4万ドルから6万ドルに値上がりした。600万円というのは明らかに高い。わが日本でもアベ政権は年間50万円に引き上げようとしている。とんでもないことだが、アメリカは一桁ちがう。ところが、アメリカでは収入によって免除される。年に1万3千ドルで学生は勉強できる。これだったら130万円ということなので、日本の2~3倍です。
それでも高いですけどね・・・。ちなみに、アメリカの大学院は、授業料免除が一般的。
アメリカの大学は、今ではアブダビやドバイなどに分校をかまえているところが増えている。日本からアメリカへの留学生は、1997年の4万7000人をピークにして、2014年には1万9000人だから、6割減となっている。
  アメリカの大学に在学する留学生の出身国・地域は、220以上、90万人に達する。もとから移民大国だが、現在も毎年70万人もの移民を受けいれている。難民認定者も7万人と、世界最大だ。
世界最大のメガチャーチは、アメリカではなく、韓国にある。ソウルにある聖霊派のヨイド純福音協会だ。信者数は100万人である。アメリカのメガチャーチの影響は、アメリカ国外へと及んでいる。
  私の嫌いな、偽善そのもののアメリカにも一つくらいはいいところがあっていいのです。
  アメリカ社会の一断面を切り取った本です。
  
(2015年10月刊。1600円+税)

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2016年1月15日

天皇陛下の私生活

日本史(戦前)

(霧山昴)
著者  米窪 明美 、 出版  新潮社

  1945年の1月1日から12月31日までの昭和天皇の日常生活を丹念に解明しています。戦前は現人神(あらひとがみ)ということで、天皇は神様そのものという存在だったわけですが、実際には不自由な生活が明らかにされています。たとえば、不自由という点では、なにより親子一緒に自由に暮らせないというのが信じられません。
昔は、生まれてまもなく里子に出し、丈夫な子どもに育つようにしていたのです。そして、子どもたちが大きくなってからも、親である天皇夫婦と一緒に生活することはなかったのです。なんという非人間的な生活でしょうか・・・。
ちなみに戦前は、皇居と言わず、宮城(きゅうじょう)と呼んでいたのですね。戦後の昭和23年(私の生まれた年です)から、皇居と呼ぶようになりました。
1945年1月、天皇は43歳、皇后は41歳だった。ということは、9年前の2,26事件のとき、天皇は34歳だったわけです。反乱軍を許せないと昭和天皇が怒ったのも分かる気がします。
そして30代を戦争指導者として日夜、戦争指導に没頭していたというわけです。ですから、沖縄戦でもう一回勝ってから終戦交渉しようなんていう発想をして、たくさんの罪なき日本人を死に至らせてしまったわけです。
その反省を今の天皇は体をもってあらわしているのだと思います。ですから、制度は別として、私は今の天皇を人間として心から尊敬しています。
昭和天皇は、不器用なうえに、唱歌も下手だった。私も音痴ですが、手先は不器用というわけではありません。
皇居での天皇夫婦は、洗面所は供用だが、風呂とトイレは各別に専用のものがあった。トイレが別なのは、水洗トイレであっても、医師が毎回検便していたのです。尿検査もありました。健康も厳重に管理されていたわけです。トイレで自由に水に流せないのは警察の留置場と同じです。ちなみに、これは、今も続いていると承知しています。皇族も大変なんですよね・・・。
昭和天皇は、毎朝、消毒済の新聞を隅から隅まで読んだ。広告に至るまで目を通していた。これは折り込み広告のことではないでしょうね・・・。
昭和天皇は猫舌だったからいいようなものの、天皇の食べる料理は、車で5分もかかる大膳寮でつくったあと、毒見役もいたりして、すっかり冷めていた。こりゃあ、たまりませんね。まるで目黒のサンマの世界です。そして昭和天皇は、このサンマが大好きだったそうです。
昭和天皇は身長165センチ(私と同じです)、体重64キロ(私は68キロもあって、ダイエットに挑戦中です)だったのが、戦争中は56キロにまで落ち込んでしまいました。
天皇家は、いわば神道の本家のような存在なのだが、敵国アメリカのリンカーン大統領のブロンズ像が室内にあったり、クリスマスをみんなで祝ったりしていた。
昭和天皇は、アルコールが体質的にまったく飲めなかった。それで宴会のときには湯冷ましを酒に見せかけて飲んでいた。
終戦前に皇居はアメリカ軍の空襲によって2度も家屋が焼失している。2回目は、陸軍参謀本部からのもらい火で皇居が炎上した。
昭和天皇は一時は退位も考えていたようです。当然だと私は思います。
日本史の一駒として知っておくべき話だと思いながら読み通しました。

(2015年12月刊。1400円+税)

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2016年1月16日

真田丸の謎

日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  千田 嘉博 、 出版  NHK出版新書

 大坂の陣では、火縄銃だけでなく、多くの大砲が使われた。徳川方はイギリスから購入した最新式のカルバリン砲などの大砲で鉄壁の大坂城を砲撃した。当時の砲弾はまだ炸裂弾ではないので致命的な打撃を与えることはできなかったが、それでも大坂方を威嚇して戦意をくじく効果は十分にあった。とりあけ、大坂城の北側にある備前島から大坂城天守を目標として撃ち込まれた砲弾は、城内の人々、実質的に豊臣方の総大将であった淀殿を恐怖させることには成功した。
 真田丸の戦いは、大阪冬の陣(1614年)における最大の激戦として知られる。これまで真田丸は南北220メートル、東西180メートル程度とされてきた。しかし、実は、それよりはるかに大きなスケールだった。
真田丸は、単なる砦や馬出しというレベルではなく巨大な要塞だった。 
真田丸は、本体とその北側にある小曲輪(くるわ)によって構成される、二重構造だった。真田丸は、あらゆる敵の攻撃を想定し、どのような状況になっても、真田丸単体で生き残れるように設計されていた。つまり、一個の独立した域を想構の外側に新たに築いた。そんなイメージで捉えるべきものだ。
 真田信繁(幸村)の武名があがったのは、大坂冬の陣における真田丸での活躍があったからで、大坂城に入った段階では、大坂方の中での信頼度は低かったのも当然である。
真田信繁には、孤立無援の「死地」とも言える真田丸において、「敵襲を防ぎきることができる」という確信があったのではないか・・・。
 真田丸は方形で、前面は深さ6~8メートルの水堀、後方(北側)は、深い谷に守られた複雑な地形だった。真田丸は、近づくことさえ難しい、きわめて堅固な砦だった。ここに3000兵が籠もっていた。そこへ井伊直孝、松平忠直、前田利常の軍勢が攻めかかってきたが、彼らは数千人もの被害を出して敗退していった。
 著者は、真田丸が三光神社あたりではなく、明星学園を中心とした位置にあったとしています。もちろん、今は何も残っていません。
 それでも一度、現地に行ってみたいと思います。よく調べてあると感心しました。
(2015年11月刊。780円+税)

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2016年1月17日

人間・始皇帝

中国

(霧山昴)
著者  鶴間 和幸 、 出版  岩波新書

 西安郊外にある兵馬俑博物館に二度行くことができました。その壮大なスケールは、まさに度肝を抜くものがあります。
 日本の博物館にやってくるのはせいぜい数十個の立像です。それでも相当の迫力はありますが、現地で8000もの立像に接すると、そのものすごい物量には思わず息を呑んでしまいます。まさしく地下に大軍団が勢揃いしているのです。
 どうして、こんな大軍団を地下につくったのか、またつくれたのか、世界の七不思議のひとつではないのでしょうか。この本は、秦の始皇帝の実像に迫っています。
 始皇帝は、その名を趙正といい、13歳にして即位した。まだ小男子と呼ばれる子どもにすぎなかったから、国事は大臣に委ねられた。
 秦では、庶民においては、子どもか大人かの判断は実年齢よりも身長を基準にした。男子は150センチ、女子は140センチ以下が子どもであった。また、17歳になったら一人前の男子として扱われた。
 始皇帝陵の地下宮殿の深さは30メートルある。ところが15メートルも掘ると地下水が浸透してくる。そこで、地下深くに排水溝を設けた。そして地下宮殿が完成すると、この排水溝は埋めて地下ダムとした。
 すごく高度な水利技術が発達していたのですね。それにしても、ユンボなどの重機がない時代に、どうやって地下30メートルまで掘り下げることが出来たのでしょうか・・・。
 始皇帝が親政を始めるきっかけとなった内乱の起きたころ、ハレー彗星があらわれていた。
 始皇帝が33歳のとき暗殺未遂事件が起きた。暗殺者は荊軻である。
 秦の法律では、戦場で逃げた兵士の歩数の違いが処罰に反映し、異なっていた。
 湖南省にある古井戸から15万枚という大量の木簡が発見された。
 皇も帝と同じく、天を意味している。大臣たちは帝より皇を選んだ。秦王はそれに対して帝号にこだわり、皇と帝を組み合わせて皇帝という称号を自ら選んだ。
 秦は軍事ではなく、祭祀を通して統一事業を浸透させていこうとする立場だった。中央で統一を宣言するだけでは、とうてい治まりきれないほど秦帝国の領域は広大だった。そこで、始皇帝は自ら何度も地方を巡行していたのだ。始皇帝は全国を統一したあと、5回も地方巡行している。
 始皇帝は、秦帝国の周縁に 夷を置き、中華と蛮夷の世界を対置させた帝国を築き上げようとした。
 秦皇帝では、行政文書、度量衡、車軸の規格の一元化などが進められ、違反した官吏は法で厳しく罰せられた。
 始皇帝は天文の動きをかなり重視していた。皇帝も庶民も変わらず、古代の人々にとって、天文は日常の生活と結びついていた。
 始皇帝陵は、3キロ離れた驪山(りざん)の乙地点を中心とした視界に入る連峰と一体化した景観をもっていた。2200年前の北極星の位置が真北だった。
 偉大な始皇帝の業績を最新の研究成果をもとにしてたどることのできる新書です。

(2015年10月刊。800円+税)

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2016年1月18日

山と河が僕の仕事場

生物

(霧山昴)
著者  牧 浩之 、 出版  フライの雑誌社

  宮崎県高原(たかはる)町で、猟師であり毛鉤釣り職人として生活する著者の素敵な日々を写真とともに紹介する本です。とても面白く、一心に読みふけりました。
  神奈川県川崎市に生まれ育ったシティボーイが南九州の山地でシカやイノシシを狩り(ワナと鉄砲)、川や海で釣りをし、また、フライフィッシングの毛鉤を手づくりするのです。
  都会っ子なのに、すごい才能があるんですね、驚嘆しました。
  フライフィッシング用の毛鉤の材料としては、キユウシュウシカの毛皮が大変良い。
  罠にかかったシカを殺すとき・・・。いざ止め刺しをしようというとき、ものすごい罪悪感に襲われた。生きている獣を自らの手で殺そうとしているのだ。それでも意を決し、長柄の剣鉈を構えてシカとの間合いを始める。シカの胸元に狙いを定め心臓を一刺ししようとした瞬間、シカは殺気を感じて激しく逃げ回った。油断すると、こちらが怪我をする。「ごめん」シカの心臓に狙いを定めて剣鉈で一気に突いた。
  シカは足をばたつかせたかと思いと、そのまま眠るように動かなくなった。剣鉈を抜くと、真っ赤な血が湯気を立てながら流れ出した。
  捕獲した獲物は素早く適切な処理を施さないと、肉に臭みが生じて美味しくいただけなくなる。血液は時間とともに凝固するので、仕留めた獲物はすぐに血抜きする。血抜き処理が遅れると、肉の中に血液が残留し、臭みが残って、鉄臭い味が出てしまう。血抜きが終われば、自宅の作業場へ運んで、内臓の摘出にとりかかる。
  シカは作業場の梁から頭を下にして吊るし、内臓が傷つかないように注意しながら腹部を開いていく。肛門と膀胱を剥離するときは、とくに慎重に行う。内臓を摘出したら、腹腔内を冷たい水道水で冷やしながら、血液などの汚れをしっかり落とす。
  血抜きから内臓摘出までは30分以内、遅くても1時間以内には終わらせる。
  肉を食べるというのは、本来、このようにとても大変なことなのだ。しっかり、血抜きしたシカの心臓を、にんにくと一緒に炒めたハツ焼き。猟師の特権とも言うべく、酒のあてに最高。
  ストーブの上で、イノシシのカシラを焼く。これだけは誰にもあげたことがない。
  カラー写真があります。本当においしそうです。
  シカもイノシシも畑を荒らす害獣なのです。一定の駆除はやむえません。
  山と川を駆けめぐる生活は、とても充実していて、うらやましい限りです。でも、私にはとてもマネできそうにもありません。それで、本を読み、写真を眺めて想像に浸ることにします。
  山と川と人がつながる暮らし。それは、人生で今が一番楽しいと思える毎日。
  著者のこの言葉が素直にうなずけます。奥さんの弘子さんが写真に登場してこないのが残念でした。
  山と川好きのみなさんに、ぜひ読んでほしい本です。
  
(2015年12月刊。1600円+税)

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2016年1月19日

日航機事故の謎は解けたか

社会

(霧山昴)
著者  北村行孝・鶴岡憲一 、 出版  花伝社

 30年も前の夏の悪夢のような出来事でした。520人が乗ったジャンボジェット機が墜落して、助かったのは女性ばかり4人のみ。
 月に1回以上、飛行機に乗っている私にとって、とても他人事とは思えない惨事でした。
 アメリカ軍のミサイルに追撃されたという説に私も心が惹かれた時期があります。それほど、謎に満ちた事故でした。そして、今でも救出が遅れたことには大いなる疑問があります。
 本書は、ボーイング社の修理ミスによって発生した大事故だったことを論証しています。
 それにしても、アメリカ言いなりに動く日本政府に腹立たしさを覚えてなりません。
 このジャンボジェット機が迷走している様子を奥多摩でカメラで撮った人がいた。その写真をもとに画像を解析すると、垂直尾翼面積の58%を失った状態で飛んでいたことが判明した。
 修理ミス部分の隔壁破断面に披露亀裂が発生した。かろうじて持ちこたえていたリベット接合部が、事故発生の8月12日午後6時24分すぎ、客室与圧と外気圧の差が0.59気圧にまで高まった段階で耐え切れずに一気につながって、長大な亀裂となった。
 尻もち事故後の修理において、直径4.5メートルのドーム状をしたアルミ合金製の圧力隔壁の下半分に損傷が目立ったため、上半分は既存のものを使い、下半分を新しいものに取り換えた。このとき、本来なら一枚板でつながらなければならない修理箇所を2枚にしてしまった。
 圧力隔壁の修理において、気密性が強く求められることから、強度よりも気密性を優先させて、1枚の板をわざわざ2枚に切りわけて1枚を隙間埋めに使った。
3年間の調査のなかで、275機の機体から1054件の亀裂が発見された。このうち事故機と同じB747の亀裂が714件と68%も占めた。与圧による疲労亀裂に弱い機種であることが明らかになった。
 そして、航空機整備が「金のかからない整備」になっていった。
 B747は、機首部を2階建てにしたため洋ナシ状の断面となり、不均等な複雑な力を受けがちである。
 私も2階部分の座席にすわったことがありますが、あまり乗り心地のいいものではありませんでした。やはり、洋ナシ型よりも真円形のほうが強度があるのですね・・・。
 それにしても、「格安」で飛んでいる飛行機の安全性はどうなっているんでしょうか。安かろう、悪かろうでは困りますよね。乗り物は、快適性の前に安全性です。心配性の私はいつも祈る思いで飛行機を利用しています。
 なんでも安ければいいという社会風潮は、ぜひ改めてほしいと痛切に思います。

(2015年8月刊。2500円+税)

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2016年1月20日

日露戦争と大韓帝国

日本史(明治)

(霧山昴)
著者  金 文子 、 出版  高文研

1904年に始まった日露戦争ですが、正確には、いつ、どこで戦争が始まったのか、はっきり知りたいところです。
1897年10月12日、朝鮮第26代国王・高宗は自ら皇帝に即位し、国号を「大韓」と宣布した。それから1910年8月の「併合条約」によって滅亡するまでの13年間を大韓帝国と呼ぶ。
日清戦争は、1894年(明治27年)7月23日、日本軍による朝鮮の王宮・景福宮の占領から開始された。
日本は、朝鮮から鉄道敷設権を奪った。これは日露戦争で活用された。また、朝鮮の電話線も日本軍の統制・管理の下に置いた。
1895年10月、日本軍は王宮に侵攻して朝鮮王妃(閔妃)を虐殺した。なぜ、王妃を殺す必要があったのか?
日本に対して電話線の返還と日本軍の撤兵を要求する朝鮮の国権回復運動の中心に王妃がおり、ロシアに接近しようとしていると、日本政府・軍首脳が見ていたから。
王妃(閔妃)殺害事件は、大本営と日本政府の意を受けた特命全権大使(三浦梧楼)が企てた謀略・謀殺事件だった。その結果は、朝鮮国王をロシアの保護下に追い込むことになり、日本はロシアと朝鮮における権益を分けあわなければならなくなった。
日露戦争は、日本のロシアとの戦争であるのみならず、日本が大韓帝国の利権をひとつひとつ奪っていくための侵略戦争であった。
日露戦争は、日清戦争と同じように、日本軍によるソウル占領から開始された。そして、この日本の軍事行動の開始はすぐにはロシアに伝わらないように細工された。つまり、韓国や中国からロシアに通じる電話線は日本軍の諜報員によって切断された。
伊藤博文は、たとえロシアが日本の主張をすべて受けいれたとしても、今、つまりロシアの開戦準備が整わないうちにロシアと戦争しなければならないと率先して主張した。決して伊藤は対露協調論者でも、平和主義者でもない。むしろ、ロシアのほうは当時、日本と戦争までしようとは考えていなかった。
1904年1月、日本の最高首脳部(伊藤、山県、桂、山本、小村)は、ロシアの譲歩が通知される前に開戦しなければならないと合意した。
1904年2月8日、ロシアの小型砲艦「コレーツ」が日本の軍艦を砲撃したことから戦争が始まったというのは正しくない。「コレーツ」には、まったく戦意はなかった。日本軍が水雷を発射したので、「コレーツ」はやむなく応戦しただけ。ところが、日本軍は事実を書きかえてまで、「コレーツ」が先に砲撃したと発表し、これによって世界に誤報が広まった。
日本軍は、旅順と、仁川奇襲作戦を成功させるために、開戦前に日本の通信線を違法に敷設し、ロシアの通信線を違法に切断していた。
日露戦争における日本軍の最初の武力行使は、1904年2月6日未明より開始された第三艦隊による韓国の占領と馬山電信局の占拠であった。しかし、これは公言できることではなかったので、鎮海湾の占領と馬山電信局の占拠は公刊戦史から消され、なかったことにされた。
「勝った、勝った」とされることの多い日露戦争ですが、実は、日本軍はあとがない状況だったのです。弾薬も人員もなかったのでした。
日露戦争の真実を明らかにした本として一読の価値があります。
(2014年10月刊。4800円+税)

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2016年1月21日

古代の日本と東アジアの新研究

日本史(古代史)

(霧山昴)
著者  上田 正昭 、 出版  藤原書店

 古代の天皇制と中世そして現代の天皇制とを同じものと捉えることは出来ないという指摘に目を見開かされる思いがしました。当代一の歴史学者の指摘には思わず驚嘆されるばかりです。さすが、さすがの内容です。
 そもそも天皇制という用語は、1931年(昭和6年)のコミンテルンの「31年テーゼ」草案で初めて登場したもの。これに絶対君主制という概念規定を与えたのは、翌年「32年テーゼ」だった。ええっ、そ、そうだったんですか・・・。
 近代日本に創出された天皇制が、古来の伝統にもとづくものであるといっても、天皇制が古代から連綿と受け継がれてきたというのは、歴史の実相とは大いに異なる。
 大宝元年(701年)の大宝令は、対外的には「明神御宇日本天皇」といい、対内的には「明神御大八洲天皇」と称した。古代天皇制は、神祗・太政官八省のトップに天皇が君臨していた。
 中世と近世の王道としてのありようと、律令性や明治憲法下の王道イコール覇道であった時代の天皇制とを混同するのは歴史的ではない。
 ヤマトにも二つある。九州の山門郡(築後)のヤマトは山の入り口や外側の意味。
 しかし、畿内のヤマトは、山の入り口とか山の外側という意味ではなく、山々に囲まれたところ、山の間、山のふもとの意味だ。
 日本という国号は、7世紀後半から使われているもの。天平9年(737年)までは、大倭国が正式なヤマト国名だった。
 大王を称していた倭国の王者が天皇と呼ばれるようになった早い例は、天智天皇7年(668年)の船王後の墓誌銘。その前の5世紀の中葉の倭国の王者は「大王」と称していた。
スメラミコトというとき、「統(す)べる」が語源ではなく、モンゴル語で、最高の山を意味する「スメル」という同源の言葉であり、至高を意味する。「最高のミコト」が天皇だった。なんとなんと、モンゴル語起源の言葉だったとは・・・。
女性が古代の王者だったのは、女王・卑弥呼とその宗族の台与の女王二代に確認できる。
 奈良時代は、7代の天皇のうち4代が女帝だった。奈良時代は女帝の世紀とも呼ばれる。
 平安朝の桓武朝廷において、百済王氏は有力な氏族だった。百済王氏が桓武朝廷と深いまじわりをもっていたことは、百済王氏出身の女人で、桓武朝廷の後宮に入ったものが少なくとも9人いることからも分かる。
 唐使が来日したのは、わずか9回のみ。これに対して、遣渤海使は15回だった。
 平安京には、渡来系の氏族が多数居住していた。
さすが学者の考えは深いものがあります。日本と朝鮮半島の国々、そして中国とは古代のむかしから切っても切り離せない密接な関係があったことがよく分りました。古代の文明は日本発祥ではなく、日本は中国・朝鮮から伝来してきたものを受け入れ、消化してきたのですよね。

(2015年10月刊。3600円+税)

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2016年1月22日

ザ・カジノ・シティ

アメリカ

(霧山昴)
著者  デヴィッド・G・シュワルツ 、 出版  日経BP社

 日本にもカジノを導入しようという動きがあります。例によって自民・公明が推進勢力です。全国いたるところにパチンコ店があるギャンブル大国ニッポンにカジノを導入したら、日本もアメリカ並みの犯罪大国になってしまうのを恐れます。カジノなんてタバコと同じで、百害あって一利なしです。カジノも、アメリカをダメな国にした理由の一つだと私は考えています。
この本は、ラスベガスにカジノ・ホテルを導入したホテル王、ジェイ・サルノの一生を明らかにしています。ジェイ・サルノは病的なギャンブラー狂でした。
ジェイ・サルノは、想像力を極限まで高め、ホテルの顧客をいかに喜ばせるかをいつも考えている男だった。ホテル王としての夢を実現するための資金集めの苦労、それにつけ込むマフィアとの攻防、マフィアを阻止しようとする政府機関(税務当局)の戦いが紹介されている本です。
ジェイ・サルノは病的としか言いようのないギャンブル癖、1日15時間にも及ぶ絶え間のない食事、同じほど激しい女性への欲望も遠慮なく描かれている。
ジェイ・サルノの根底にあった哲学は、「自らを甘やかすのに後ろめたさを感じる必要はない。それは、むしろ祝福すべきものだ」
ジェイ・サルノの時代は長続きしなかった。カジノ産業はマフィアの黒い資金から訣別し、ウォールストリートから資金を導入するようになった。カジノが良いビジネスになることに気がついたのだ。
ジェイ・サルノはユダヤ人。ユダヤ人に対しては、さまざまな形の社会的制約があった。ホテル・ビジネスは映画産業と並んでユダヤ人が入り込みやすい業界だった。
頭のいいユダヤ人は、弁護士や銀行家、医師になり、古い壁を打ち破って法律事務所や証券会社で大金を稼いでいた。
虔敬なユダヤ教徒は、埋葬時にシンプルな白の埋葬布を身にまとう。これは、死によって生前の富や特権が完全に無に帰すことを表すものだ。また、埋葬は死の翌日に行われる。
ところが、宗教を毛嫌いしていた父親の意向を尊重して、ジェイ・サルノの死後、非宗教的な葬式を子どもたちは行った。「宗教的な人間は馬鹿だ」と考えていた人間を宗教的に見送るのは偽善的だと考えたからだ。
しかし、葬式とは、死んだ者のためというより、残されたもののためになされるものだ。あとになって、子どもたちは後悔した。
カジノは人間性を損なうものだということを明らかにした本でもあります。
(2015年11月刊。1900円+税)

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2016年1月23日

鯨分限

江戸時代

(霧山昴)
著者  伊東 潤 、 出版  光文社

 江戸時代、鯨をとっていた新宮・太地(だいち)の分限(ぶげん)に育った男の物語です。
 豪快です。『巨鯨の海』に続く、鯨とりの様子が熱く語られています。思わず、手に汗を握る痛快小説です。といっても、かなり史実に即しているので、迫真性があります。
 太地の捕鯨は、10月を年度初めとし、翌年7月半ばまでの10ヶ月間を操業期間とする。 10月から2月までの、南に向かう上り鯨をねらったものを「冬漕(こ)ぎ」、5月から7月にかけての北に向かう下り鯨をねらったものを「夏漕ぎ」と呼ぶ。
 太地では、鯨組の経営全般を担当する太地家当主を大旦那、山見を司る和田家当主を山旦那、船団を指揮する采配役を沖合ないし沖旦那と呼び、この三人が事業と創業の中核を担う。これを太地鯨組の三旦那体制といい、明確に責任範囲が区分されていた。もちろん、最終責任は大旦那の太地家当主にある。
 沖待ちとは、鯨が来る前に流し番と呼ばれる船を四方に出し、いずれかの船が鯨を発見すると、沖待ちしていた船団が、迅速に捕獲態勢に入る漁法のこと。
 日没(まぐみ)になると、つい先ほどまで濃藍色(こあいいろ)だった海面が、黒檀を敷いたように海面が黒々となる。
 物ゆうとは、太地方言で海が荒れること。
 夷(えびす)様とは、大きな富をもたらす鯨に対してつけられた尊称。
 納屋仕事とは、鯨の解体や搾油、鯨船の建造と修理、捕鯨具の製作と保守などを行う部署。勢子船の艪は八丁で、水主は左右4人ずつの8人。
 最後尾の艫押(ともおし。舵取り役)が舵の役割を果たす艫艪(ともろ)を受けもち、取付(とりつき)という雑用係の少年が脇艪という艫艪の相方(あいかた)を担う。
 勢子船の乗員は、刃刺、刺水主(さしかこ)、水主、艫押(ともおし)、取付、炊事係の炊夫(かしき)をあわせて、一艘あたり13人、最多で15人ほど。
 勢子船の側面には、さまざまな意匠が施されている。その絵模様は、一番船が鳳凰、二番船が割菊、三番船が松竹梅、四番船が菊流し、五番船が橧扇と決まっており、一目で何番船か分るようになっている。
 船団の先頭を切るのは、勢子船と比べて速度の遅い網船。網船は三組六艘から成り、それぞれ横腹に一から六の番号が大書きされている。
 十六艘の勢子船が従うのは、四艘の持双(もっそう)船、五艘の橧船、道具船(だんぺい)等の補助船。網船をふくめると、三十余艘、総勢300人が漁に携わる。
 これに陸上勤務の者を加えると、一頭の鯨にかかわる人数は500人をこえる。それでも捕獲に成すると、優に利益が出る。これが鯨漁のうま味である。
 銀杏(いちょう)とは、鯨の尾羽のこと。鯨が潜水するとき、沖旦那が刃刺は、振り上げられた尾羽の微妙な動きから、鯨の進行方向を察して先回りする。
 もおじとは、海面に浮かんでくる水泡のことで、その下で鯨は息を沈めている。
 横一列に並んだ勢子船は、中央の船を基点に内側に折れて、半円形をつくり、その中に鯨を入れて網代にまで誘導する。一番船は、全体の指揮をとるべく、一艘だけ半円陣の前に出る。刃刺の補助役の刺水主が身を乗り出し、砧(きぬた)と呼ばれる木槌のようなもので、舷側に貼りつけられた張木(はりぎ)を叩く。その原始的な音響が、いやか上にも気持ちを高揚させる。それは鯨にとって極めて嫌な音らしく、先ほどまで悠然と泳いでいた鯨が、とたんに泳速を上げる。
 潮声とは、息を吹き出すときに鼻から漏れる音のこと。怒ったり、慌てたりしているときには、天地を鳴動させるほど大きくなる。
 漁の最中に水主たちが会話するのは厳禁。刃刺の声が聞こえなくなるから。
 鯨油は食用と灯火用だった。灯火用につかうと、木蠟よりも鯨蠟のほうが臭いがきつくないので好まれた。
 明治の世まで生きていた太地の鯨とりのスケール大きいお話です。感嘆、驚嘆しました。

(2015年9月刊。1700円+税)

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2016年1月24日

戦国のゲルニカ

日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  渡辺 武 、 出版  新日本出版社

 大坂夏の陣で何があったのか、「図屏風」に描かれた絵を詳細に読み解いた本です。すごいです。5071人もの人物が表情豊かに描かれています。「真田丸」の主人公・真田幸村(信繁)も当然のことながら描かれています。
いったい誰がこんな詳細きわまりない絵を描けたのでしょうか。とても想像だけで描いたとは思えません。そして、すべてはオールカラーなのです。あちこちに首をとられた将兵の身体が地面にころがっています。そして、女性が襲われ、人さらいに連れられていっています。まさしく、戦争というものの悲惨さが如実に示されています。
ここには勇壮な合戦絵巻というより、戦争(合戦)の残酷さがよくも描かれています。
大阪城天守閣の元館長によるものですので、その解説はなるほどと思わせます。
5月7日、決戦の日の真田隊は、真田幸村自身をはじめ多くの将兵が家康の本陣を目指して捨て身の突撃を繰り返したため、一時は家康本陣のシンボルたる金扇(きんおうぎ)の大馬印を倒して家康を避難させる事態にまで至った。
幟(のぼり)、旗指物(はたさしもの)、鎧具足(よろいぐそく)などを赤一色で統一した「赤備えの真田隊」の奮戦振りはひときわ目立った。「真田、日本一の兵(つわもの)」と東軍の将兵たちも賛嘆を惜しまなかった(「薩藩旧記」)。真田幸村が越前兵に討ち取られたとき、数えの49歳だった。
豊臣家の馬印が平成びょうたんだというのは、江戸時代も後期の寛政年間(18世紀末)の創作であって、本当は金びょうひとつだった。この「屏風」もそのとおり正確に描かれている。この「屏風」は、合戦の現場を生々しく描いているところに特色がある。
合戦の現場は一人ひとりが必死の殺し合い。敵の首ひとつを取るのも容易なことではなかった。殺すか、殺されるかで、まさしく修羅場だった。
徳川軍の内部でも、各部隊の軍功争いは熾烈だった。そして、各人の高名争いは、さらに切実だった。参戦した将兵のうち、実際に高名をあげられたのは、少数でしかない。それで、敗走する将兵を襲って首を取る「追い首」、武器をもたない非戦闘員の避難民を襲って首を取る「偽首(にせくび)」も横行した。さらには、「味方討ち」さえ起きていた。
この「屏風」には、婦女暴行やら略奪の生々しい状況も描かれている。目立ちにくいところに、ひっそりと描きこまれているのだ。
「真田丸」を楽しみに見ようという人にとっては必読の本であり、「屏風」は必見(私も残念ながらまだ見ていません)だと思いました。
(2015年11月刊。1900円+税)

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2016年1月25日

金魚

生きもの(魚)

(霧山昴)
著者  岡本信明・川田洋之助 、 出版  角川ソフィア文庫

可愛い金魚がオンパレード。写真満載の文庫本です。
熊本県長洲町には有名な金魚の館があります。筑後地方のみやま市も金魚産地のようです。知りませんでした。
日本産金魚は33品種。金魚はフナ。学名は金色のフナ。室町時代(1502年)に中国から渡来した。それから今日まで500年余にわたって、日本の文化的背景や美意識によって改良され、愛玩されてきた。金魚は日本が世界に誇る平和の象徴の一つ。金魚は、まさしく生きた伝統工芸品とも言える。
金魚の祖先であるフナは、現在も盛んに変異を生み出す進化途上にある生きもの。 
改良された金魚は、特段に目立つ色やゆったり泳ぐ体形になっているため、厳しい自然の中では淘汰され、生きていけない。
すきあれば、金魚はフナの色や形に戻ろうとする。それで、品種の維持・管理に手を抜けば、どんどん先祖返りしようとする摂理が常に働いている。
金魚の起源は、古代の中国。晋(265~420年)の時代にフナの中に赤い色をしたフナを見つけたという文献がある。金魚が中国より日本に渡来したのは室町時代の1502年(文亀2年)、大坂の堺。ワキン(和金)。その後、別に琉球を経由した琉金も渡来した。
明治38年に開かれた金魚の品評大会の番付表が写真で紹介されています。大相撲そっくりの番付表です。当時の金魚人気のすごさを表しています。
当初、金魚は特権階級のステータスシンボルだった。しかし、やがて、庶民にも広く愛される存在になった。
金魚のオスとメスの見分けかたが写真で紹介されています。肛門の形が丸ければメス、細いだ円形ならオスなのです。素人にも見分けられるのでしょうか・・・。
金魚の寿命は毎日きちんと世話していたら15年ほど。犬や猫と同じ。ギネスブックに記録されているのは43年。なんという長寿の金魚でしょう・・・。
そして、なんとなんと、「どんぶり」でも金魚を飼えるというのです。意外に生命力があるのですね、金魚って・・・。
楽しい金魚の話が満載の文庫本です。

(2015年7月刊。920円+税)
 日曜日、大雪のため交通機関が大きく乱れているなかで、フランス語の口頭試問を受けてきました。この一週間は、ずっとそれが頭にあり、緊張していました。思うように単語が出てきませんので、頭の中をフランス語モードにするため、3日間は車中で本を読まず、アイフォンでCDを聴いていました。NHKラジオ講座のCDです。
 本番は3分前に2問を渡され、1問を選んで3分間スピーチをします。日本は亡命者をもっと受け入れるべきかを選択しました。私は賛成なのですが、いったいこれをフランス語で3分間どう話せばいいのでしょうか。日本語を考えて頭の中がまとまらないうちに、3分間たってしまいました。あと4分間、フランス人の質問を受けて答えます。本当にいつも冷や汗をかいてしまいます。ぐったり疲れました。

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2016年1月26日

ぼくらの民主主義なんだぜ

社会

(霧山昴)
著者  高橋 源一郎 、 出版  朝日新書

 朝日新聞の「論壇時評」が本になっています。私は「朝日」の読者ではありませんので、初めて読みましたが、同感、共感することばかりの「時評」でした。
 「なんだか、この職場、暗いですね」
 「労働運動がなくなったからね」
 「労働運動って、何ですか?」
 「みんなで上を向くことかな」
 いまや、ストライキとか労働運動っていう日本語は残念なことに死語に等しいですよね。私が弁護士になったばかりには1週間の交通ストライキがあり、大変でした。そして、労働組合とか「連合」というものの存在感も、ほとんどなくなってしまいました。本当に残念です。ですから、労働三権、労働者の団結権、団体行動権、団体交渉権なんていうのも、聞くことがほとんどなくなりました。本当に、そんな日本でいいのでしょうか・・・。
 派遣社員とパート・アルバイトばかりの職場。たまにいる正社員は過労死寸前だなんて、おかしくありませんか。そして、経営者はカルロス・ゴーンの年俸10億円、オリックスの宮内義彦の退職金50億円なんて、間違ってませんか・・・。
 世界で入学入試の試験をやっている国は、ほとんどない。ええっ、ホントですか・・・?
 日本のパパやママは、世界の平均の2~3倍もお金を払わされている。
 いまどきの大学生は、アルバイトの拘束力が強くて、テスト前でも休めない。だから、ゼミでコンパや合宿をしようと思ってもなかなか出来ない。
 親からの仕送り額は16年間で、3割以上も激減し、奨学金は有利子の学生ローンになっている。そのうえ、就職先は正社員ではなく、非正規労働。夢も希望も奪われている。
 軽井沢スキーバスの事故も、そんな大学生たちが、少しでも安く楽しみたいと考えたものなのです。彼らを責めるわけにはいきません。社会のしくみがおかしくなっているのです。
 今の政治は、みんな無知でいようぜ、楽だから、というメッセージが蔓延している。政治家のレベルは低い方が好ましいし、それを意識下で熱望している。
 アベ首相の支持率が4割をこえるという現実は、現実を知らされず、知らないで、幻想に踊らされ、イメージだけで自分の考えをもっていると思い込まされた人々が、それだけ日本人に多いということを意味しているのでしょうね。本当に怖い世の中になっています。
 それでいいのかと警鐘を鳴らしている本です。手軽に読めて、気が重くなってしまう本でした。

(2015年10月刊。780円+税)

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2016年1月27日

兵士たちの戦場

日本史(戦前)

(霧山昴)
著者  山田 朗 、 出版  岩波書店

 この本は、851点もの戦争体験者の回想録(単行本)のうち100人ほどの兵士の体験などを再構成したものです。
 全体像は分からなくても、戦場のリアルはひしひしと伝わってきます。戦争というのが、いかに理不尽なものか、不合理の極致であることがよくよく分ります。
 1937年に始まった日中戦争は、1938年に入っても、終息の兆しは見えなかった。日本の政府も軍当局も、国共合作にまで至った中国軍民の抗日意識の高揚を見誤っていた。
 日本が中国に深く侵入すればするほど、中国だけではなく、欧米諸国との対立を強め、諸国の対中国支持を増大させた。そして、そのことが、ますます戦争を泥沼化させるという悪循環に落ち込んだ。日中戦争中といえども、列国の権益である上海の共同租界に日本軍は踏み込むことも出来ない。
 1939年当時の中国にいた日本軍は70万人。ただし、日本軍は分散配置されて、広大な占領地を維持するのが精いっぱいの状態だった。これに対して、中国軍は1939年11月ころから全戦線において冬季攻勢を展開した。 中国大陸に日本軍が70万人いたと言っても、蒋介石軍と組織的な戦闘を支えているのは、全体の半分ほど。残りの半分は、占領地の警備兵だった。これを日本軍は、高度分散配置と呼んだ。太平洋の孤島にばらまかせた守備隊と同じような状態だった。
 1949年8月から12月まで、中国の華北で、105個団(連隊)、40万の大兵力で三次にわたって「百団対戦」と呼ばれる大攻勢をかけてきた。「百団大戦」において、日本軍が恐れたのは、八路軍の迫撃砲の集中射撃、兵士の密集突撃、正確な狙撃だった。
ゼロ戦は航続力と攻撃力は強大。しかし、パイロット用の防弾鋼板や燃料タンクの防弾装置を欠いていた。 
 日本軍は、中国で偽札を使った経済謀略戦をすすめた。このとき、45億円(45億元)の偽札が印刷され、30億元が中国で使われた。大半は、中国での日本軍の物資購入のときに使われた。ところが、インフレをねらった偽札が、インフレによってほとんど無価値になってしまった。
 中国戦線において長期の警備駐留は、日本軍将兵の軍紀を次第に頽廃させていった。
 中隊長から事実上の死刑宣告を受けた軍曹は思い余って、その日の夜、中隊長室に手榴弾を投げこみ、中隊長を即死させた。軍曹は軍法会議で死刑となり、銃殺された。
 別の中隊では、中隊長の大尉が微発した物資を中国人商人に売り払って大金を貯め込んでいた。この大尉はついに、不法蓄財を追及され、陸軍一等兵に降格されたあげく、自決を強要された。
 私も亡き父の戦争体験談を生前に少し聞いて活字にしたことがありますが、聞き手のほうが当時の状況をよく調べておかないと、話がかみあわないと思いました。それでも、聞き出さないよりはましなのですが・・・。
 過酷すぎる状況は、思い出したくないということもあって、話がはずまないのです。その点、この本は、よくまとめられていて、さすがは学者だと感嘆しました。
 日本の自衛隊が海外へ行ってアメリカ軍の下働きさせられて「戦死」させられようとしています。戦後が終わり、戦前になろうとしているのです。その意味で、本書は戦争の悲惨な状況を知るという点で意味があります。


(2015年8月刊。2800円+税)

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2016年1月28日

戦う民意

社会


(霧山昴)
著者  翁長 雄志 、 出版  角川書店

 沖縄県知事の翁長(おなが)氏の語りは明快です。そして、真心がこもっています。
 沖縄県民には、「魂の飢餓感」がある。それは、大切な人の命と生活を奪われたうえ、差別によって尊厳と誇りを傷つけられた人々の心からの叫びだ。
 「辺野古から、沖縄から日本を変える」ことは、単に日本政府と対立するということではない。基地問題を解決しなければ、日本が世界に飛躍できない。沖縄の民意を尊重せずして、日本の自立はない。沖縄のためになることは日本のためになり、さらには世界のためになる。
 日米両政府の強大な権力に勝てそうにないからといって、相手の理不尽な要求に膝を屈し、そのまま受け入れてよいのか。もしそうなら、一人の人間として、この世界に生きる意味が薄らいでしまう。主張する権利。これは、人間の誇りと尊厳を賭けた闘いでもある。
 なんと格調高いコトバでしょうか・・・。目を大きく見開かされます。
 普天間基地は、米軍に強制収容されて出来た基地。沖縄は今日まで、自らの意思で基地を提供したことは一度もない。米軍の占領下に、住民が収容所に入れられているときに無断で集落や畑がつぶされ、独立後も、武装兵の銃剣とブルトーザーで強制接収され、住民の意思とは無関係に、次々に基地がつくられていった。
 いま政府が言っているのは他人の家を盗んでおいて、長年すんで家が古くなってから、「おい、もう一回、土地を出して家をつくれ」と言っているようなもの。これこそ理不尽な要求だ。これを認めるのは、日本の政治の堕落である。
沖縄から基地がなくなれば、沖縄経済は発展するというのは間違いありません。
今や新都心として発展している地区は、かつて米軍住宅があったところ。そこに170人が働いていたが、今では1万8千人が働いている。商業施設の売上高は600億円。税収は6億円だったのが97億円にふえた。
私も行きましたが、大変にぎわっている地区です。かつての激戦地でもあります(シュガーヒル)。
沖縄に米軍基地があるのは、日本にとって百害あって一利なしなのです。アメリカにしても、日本を守るための基地ではないし、万々一、攻撃の対象でもあったら大変なことなのです。
翁長氏は54歳のとき胃がんで胃の全摘手術を受けたということも紹介されています。自民党出身の翁長氏ですが、本土の自民党とは違うんだという意気高い言葉に大いに励まされました。


(2015年12月刊。1400円+税)

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2016年1月29日

第二次世界大戦 1939-45(中)

ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  アントニー・ビーヴァ― 、 出版  白水社

 第二次世界大戦が進行していくなかで、ヨーロッパ戦線と日本を取り巻く太平洋戦線とが結びついていて、独ソ戦と独英戦も連結していたことを改めて認識しました。
よくぞここまで調べあげたものだと驚嘆するばかりです。世界大戦の激戦が、双方の陣営の動きに細かく目配りされていますので、総合的な視野でとらえることが出来ます。
1940年夏に起きた中国の百団大戦は、日本軍を震えあがらせた。それまで中共軍を見くびっていた日本軍は考えを改めされられた。
ところが、この百団大戦について、毛沢東は心中ひそかに恨んでいたというのです。日本側の支配する鉄道や鉱山に相当の打撃を与えたけれど、共産党側にも多大の犠牲を強いた作戦であり、結局、国民党に漁夫の利を得させたから。
スターリンは、毛沢東とは、日本軍という眼前の敵と戦うことより、国民党から支配する地域への蚕食にむしろ関心を示す男だと悟った。
そして毛沢東は、党内に残るソ連の影響の残滓を払拭するのに努めていた。
共産党は阿片の製造・販売に手を染めていた。1943年にソ連は、中国共産党がアヘン販売した量は4万5千キロ、6000万ドルに達するとみた。
1939年8月のノモンハン事件におけるソ連軍の勝利は、日本に「南進」政策への転換をうながし、結果的にアメリカを捲き込むうえで、一定の役割を果たしただけでなく、スターリンが在シベリアの各師団を西方に移動させ、モスクワ攻略というヒトラーの企図を挫くことにもつながった。
 独ソ不可侵条約の締結は、日本に激震を走らせ、その戦略観に多大の影響を及ぼした。日独間の相互連絡は欠如していた。日本は、ヒトラーがソ連侵攻を開始するわずか2ヶ月間に、当のスターリンと日ソ中立条約を結んだのである。
 日本は1941年12月の真珠湾攻撃を事前にドイツに伝えてはいなかった。ゲッペルス宣伝相によれば晴天の霹靂であった。ところが、この知らせを受けたヒトラーは至福の歓喜に包まれた。アメリカが日本軍の対応に忙殺されたら、太平洋戦争のせいでソ連とイギリスに送られるべき軍需物資が先細りなると期待したからだ。
 しかし、米英軍のトップは、「ジャーマン・ファースト」(まずはドイツを叩く)方針が合意されていた。これをヒトラーは知らなかった。
 1941年12月11日、ヒトラーはアメリカに宣戦布告した。ただし、ドイツ国民の多くは、宣戦布告したのはアメリカであって、ドイツではないと考えていた。ヒトラーのアメリカに対する宣戦布告は、ドイツ国防軍のトップに何ら助言を求めることなくヒトラーの独断でなされた。
 しかし、当時、ヒトラー・ドイツ軍はモスクワを目前にしながら一時的撤退を余儀なくされていた。この時期にあえてアメリカ相手の戦争を始めるというヒトラーの判断は、軽率のそしりを免れない。アメリカの工業力の凄みを一顧だにしない総統閣下に、ドイツの将軍たちはみな狼狽した。
ヒトラーはいきなり対米戦争を決断した。おかげでドイツ海軍は、いくら攻撃をしたくても、肝心のUボートが当該海域に一隻もいないという状況に陥った。
ヒトラーの反ユダヤ主義は、もはや強迫観念の域に達していた。ヒトラーは、真珠湾攻撃がアメリカの国民感情に与えた衝撃の大きさを見誤った。
アメリカで自動車を大量生産していたフォードは、1920年以降、極端な反ユダヤ主義を信奉し、ヒトラーは、フォードに勲章を贈りその肖像画を飾っていた。
ユダヤ人がガス室で流れ作業のように陸続と殺されているなんて話をドイツ市民の大半は当初信じなかった。しかし、いわゆる「最終的解決」のさまざまな局面において、多くのドイツ人が関与し、また産業界や住宅供給面で、ユダヤ人資産の没収の役得にあずかった人々があまりにも多かったため、ドイツ国民の半数には至らぬまでも、かなりの数のドイツ人が実際には今、何か進行しているのか、相当正確に把握していたことは確かである。
 衣服に必ず黄色い星印のワッペンを付けることが義務化されたときには、ユダヤ人に対してかなりの同情が寄せられた。ところが、ひとたび強制収容が始まると、ユダヤ人たちは、仲間であるはずの市民から、人間と見なされなくなっていく。ドイツ人たちは、ユダヤ人の運命をくよくよ考えなくなった。これは単に目をつぶるというより、事実の否定によほど近い行為だった。
 ドイツ人の医師たちが、ユダヤ人の死体に加工処理を施して、石鹼や皮革に再生させようとした。身の毛もよだつ真実でも、それを語るのは作家の義務である。そして、それを学ぶのは、市民たる読者の義務なのだ。
日本軍がインドネシアを占領すると、オランダ人とジャワ人の女性は日本軍のつくった慰安所に無理やり放り込まれた。慰安所での一日あたりのノルマは午前が兵士20人、午後が下土官2人、そして夜は上級将校の相手をさせられた。そうした行為を無理強いされた若い慰安婦が脱出を測ったり、非協力的だったりすると、当人はもとより両親や家族にも累が及んだ。
日本軍が強制的に性奴隷とした少女や若い女性は10万人に達すると推計されている。
 占領国の女性を日本軍将兵のための資源とする政策には、日本政府の最上層部の明確な承認があったはずである。
アメリカ陸軍は、ヨーロッパ本土でドイツ国防軍を相手として、いきなり頂上決戦にのぞむ前に、どこかで実戦経験を積んでおく必要があった。連合軍総体としても、海峡越えの侵攻をいきなり試みる前に、敵前強襲上陸作戦にどのような危険がともなうか、アフリカで具体的に学べてよかった。
 1942年11月のガダルカナル島の戦いで日本軍がアメリカ軍に惨敗した。気象条件は天と地ほども違うが、ちょうどスターリングラードの戦いと同時期だった。日本軍の無敗神話につい終焉が訪れた。太平洋戦争に心理的転換点をもたらした。
 スターリングラードの戦いにおいて勇敢なソ連軍兵士のなかでも、もっとも勇敢だったのは、若き女性のパイロットたちも若い女性兵士たちだった。彼女らは夜の魔女と呼ばれた。そして、狙撃兵にも女性兵士が活躍した。
 第二次大戦の実際を知るには必読の本だと思いながら、520頁もの大部の本を読み進めました。

(2015年7月刊。3300円+税)

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2016年1月30日

芥川賞・直木賞をとる!

社会


(霧山昴)
著者  高橋 一清 、 出版  河出文庫

 モノカキを自称している私の野望は何か一つの文学賞をとることです。
 この一年は、40年前の司法修習生の生態を描く小説に挑戦してきました。
 今ようやく最終校正を終えて、編集者に手渡そうとしています。これから編集のプロから見て不要な叙述を削ったり、足りないところを加筆する作業を経て、春には出版にこぎつけたいと願っています。文庫本となった「法服の王国」に刺激を受けての小説です。ぜひ、本になったときにはお読みください。
 私の本の話はさておき、この本は、芥川賞や直木賞をとらなくても本を書くことの意味と、本を書くときの心得をきっちりおさえていて、大変参考になりました。
 芥川賞は、時代の歯車をまわす作品に与えられるもの。直木賞は、あとあとまでエンタテイメント作家として作品を生み出し、世の中に楽しみを与えてくれる作家の作品に与えられるもの。
 うむむ、こんな違いがあるのですね・・・。 知りませんでした。
 最後の一字まで書き込み、読みこむ作家であること。やっぱり、手抜きはいけないのですよね。推敲に推敲を重ねなくてはいけません。
 作家は創作の現場を見せたりはしない。
 土日必死で書く「土日作家」ほど、生活のための正業には、ちゃんと向かい合っている。
 松本清張は、1日に3時間、電話に絶対に出ない時間をつくっていた。その間、本を読んでいた。旺盛な執筆をしている作家ほど、読書をしている。
小学校、中学校の教師と作家を両立させている人は非常に少ない。具体的な言葉のもちあわせは、作家の読書量と正比例する。語りを豊かにするのに、類語辞典にまさるものはない。これは、大いに反省しました。今度、私も買ってきましょう。
 作家として、生かせない経験はない。作家にとって、ムダなものは何ひとつない。
 私の知らないことが書いてあると読者を喜ばせるのがエンタテイメント小説。今日を生きている者の愛と苦悩を書き、まるで私のことが書いてあるみたいと読者を共感させ喜ばせてほしいのが芥川賞と純文学
多くの作家がペンネームを用いているのは、親がつけた名前とは違う名前を名乗ることによって、自分ではない何者かになり、存分に筆をふるうため。
私もペンネームは高校生のころをふくめて、少なくとも四つはもっています。想像力を自由に働かせたいからです。ペンネームは必須です。
出し惜しみしている作品は弱い。そこに書き手の全てが込められている必要がある。
私もモノカキを脱出して作家になりたいと思い、こうやって毎日、書評を書いて日々精進しているつもりなのですが・・・。


(2015年12月刊。760円+税)

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2016年1月31日

「日本会議」の実態、そのめざすものⅡ

社会


(霧山昴)
著者  菅野 完 、 出版  立憲フォーラム

いま、アベ首相のいる首相官邸は日本会議に乗っとられているという表現が少しもオーバーではない。首相補佐官をふくむ25%のうち、神道政治連盟に22人、日本会議に16人が所属している。
日本会議が目ざすものは、皇室中心、改憲、靖国神社参拝、愛国教育、自衛隊海外派遣。日本会議は、「昔ながらの街宣右翼と変わらない」「なんら新規性のない古臭い主張」を、確実に政策化、現実化している。
ちなみに、日本会議の会長は、最高裁長官だった三好達です。最高裁元長官の看板が泣きますよね・・・。そして、日本医師会の横倉義武会長も代表委員の一人です。情けないですね・・・。これでは医師会の社会的評価が低下しているのも当然ではないでしょうか・・・。
日本会議は、宗教団体の連合体として発足したようなもの。ところが、今では「生長の家」はなぜか抜けている。ところが、長崎大学で「生長の家学生会」のメンバーとして活動していた人物たちが、日本会議の中枢にすわっている。椛島有三は、長崎大学で活動していたリーダーだった。百地章、日大教授など「生長の家学生運動」出身者が中心にいる。
日本会議に所属する国会議員は289人もいて、国会議員の4割を占める。
日本会議はテレビに出ない。会合のあいだ、会員は写真をとることが許されていない。
日本会議に「抵抗」している日本の有力な人物に天皇と皇太子がいる。これでは「皇室回帰」はおぼつかない。天皇夫婦も皇太子も、戦争の歴史が正しく伝えられることを望んでいる。逆説的に、今や皇室が日本の自由民主主義の最良の盾となっている。
知らないことがたくさんありました。わずか30頁もない薄っぺらな冊子ですので、ぜひご一読ください。

(2015年11月刊。100円+税)

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