弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2020年4月 1日

裁判官も人である

司法


(霧山昴)
著者  岩瀬 達哉 、 出版  講談社

 井戸謙一元裁判官は、裁判官には3つのタイプがあるといいます。
一番多い(5~6割)のは一丁あがり方式で処理する。次に多い(3~4割)のが杜撰処理する。そして、1割にも満たないのが真実を見きわめようとして当事者の主張に耳を傾ける裁判官。これは46年間になる私の弁護士生活にぴったりの感覚です。たまに、人格・識見・能力ともに優れた裁判官に出会うことがあり、本当に頭が下がります。でも、普段は信用のおけない裁判官に対処するばかりです。ええっ、と驚く判決を何度もらったことでしょうか...。
青法協の会員だった裁判官が次々にやめていった「ブルーパージ」は、決して「過去の遺物」ではない。その影響は今に引き継がれている。多くの裁判官を心理的に支配してきたし、今も支配している。つまり、既存の枠組みをこえることにためらい、国策の是非が問われる裁判において、公平かつ公正に審理する裁判官が少なくなった。当時も今も、ほどほどのところで妥協すべきという空気が、常に裁判所内にはびこっている。
平賀書簡問題のとき、札幌地裁の臨時裁判官会議は、午後1時に始まって、午前0時ころまで延々12時間にわたって議論された。しかも、平賀所長は当事者だからはずし、所長代行の渡部保夫判事もあまりに平賀所長寄りなので司会からはずされた。そして、裁判官会議は平賀所長を「厳重注意」処分に付すという結論を出した。これはこれは、今では、とても信じられない情景です。
最高裁の判事と最高裁調査官とのたたかいも紹介されています。滝井繁男判事と福田博判事の例が紹介されています。最高裁調査官は最高裁判事をサポートするばっかりだと思っていましたが、実は意見が異なると、最高裁判事を無視したり足をひっぱったりしていたのですね。ひどいものです。
また、矢口洪一最高裁元長官が陪審制の導入に積極的だったのは、長官当時に冤罪事件が次々に発覚したことから、裁判所の責任のがれのための「口実づくり」だったというのも初めて認識しました。それでも私は裁判員裁判の積極面を評価したいと考えています。
「ブルーパージ」のあと、若手裁判官が気概を喪い、中堅裁判官に覇気がなくなった。部総括(部長)に負けないで意見を述べる気概のある裁判官が減り、部総括にしても、部下の意見を虚心に受けとめるキャパに欠ける人が増えている。これまた、私の実感と一致するところです。
こんな裁判所の現状を打開する試みの一つが裁判官評価アンケートです。これはダメな裁判官を追放するというより、ちょっぴりでもいいことをした(している)裁判官を励まし、後押しをしようというものなんです。
ぜひ、あなたもその趣旨を理解して、ご協力ください。
(2020年1月刊。1700円+税)

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2020年4月 2日

人は愛するに足り、真心は信ずるに足る

人間


(霧山昴)
著者 中村 哲・澤地 久枝 、 出版 岩波書店

先日、惜しくもアフガニスタンで殺害された中村哲医師がまだ60歳台のころ、澤地久枝さんと対談したのが本になっています。
中村哲医師は本当に偉大なことをなし遂げた日本人です。ノーベル平和賞が授与されて当然だと思いますが、その死によってかなわなくなりました。
中村医師は国会で証言したことがあります。
9.11の直後、2001年10月13日の衆議院において、中村医師は「自衛隊派遣は現地にとって有害無益だ」ときっぱり言い切ったのです。それに、自民党の亀井善之議員がかみつき、発言の取り消しを求めたのでした。当時も今も、軍事力に頼っていても何も解決しないことは明らかです。亀井議員は安倍首相と同じで、軍事力にたよってこそ平和は維持できるという間違った考えに固執しているようです。
中村医師が帽子をかぶって髭(ひげ)を生やしているのは、そうしないと目立つからなんだそうです。お国柄ですね。
中村医師の母親は火野葦平(あしへい)の妹で、玉井金五郎は祖父になる。
中村医師の父は、若松港で働く沖仲仕(おきなかし)争議があったとき、全協(日本労働組合全国協議会)から派遣されていたオルグだった。
中村医師自身は、自分のことを、決してコミュニストではないどころか、どちらかというと保守的な人間だと評しています。そして、中村医師は西南学院に入って、プロテスタントとして洗礼も受けています。また、若いころは強迫神経症、森田神経症、つまり赤面恐怖にかかっていたとのことです...。
中村医師が、妻子とともにアフガニスタンで7年間も生活していたことを知りました。
そりゃあ、奥様はさぞかし大変だったことと推察します。だって、幼い子どもたちを見知らぬ、コトバもよく通じないところで、よくぞ子どもたちを育てたものだと驚嘆します。
タリバンというのは、アドラッサという寺子屋方式の学校で学んでいるタリバンと呼ぶ。なので、タリバンとはアメリカのCIAがターゲットとしているものと、二つあることになる。
タリバンは、実際はアフガニスタンの地域共同体のかなめなのだ。農民とタリバンとは、はっきり区別できるものではない。
アフガニスタントは基本的に地域自治の社会だ。そして、自給自足100%だったのが、いまは半分以下となっている。
アフガニスタントの「テロリスト」たちは農村部ではなく都市出身で、訓練を受けている。自分の生きる根拠を失った人々。これが、極端な行動に走りやすく、手段を選ばない行為に走りやすくなる。
いちばん多いときには、ペシャワール会の24人もの日本人スタッフがアフガニスタンにいた。
中村医師は、アフガニスタンは代役というのがきかない社会だと断言します。
正直いって、今後も現地スタッフが育つことは望み薄いようです。
この本の対談の時点で、中村医師たちが掘った用水路のおかげで60万人の農民が暮らせるようになったのでした。これって、実にすばらしいことですよね、60人ではありません。60万人なのです。砂漠に川から用水路へ水を通して、麦や米などのとれる農地にしたのです。すばらしいです。
中村医師の亡きあとも、ペシャワール会には、ぜひ現地での活動を続けてほしいものです。
(2020年1月刊。2100円+税)

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2020年4月 3日

夜は歌う

朝鮮


(霧山昴)
著者 キム・ヨンス 、 出版 新泉社

民生団事件、すなわち1930年代の中国・満州を舞台として、そこにいた朝鮮人の民族主義者(独立派)、共産主義者と中国共産党のあつれきをテーマとする小説です。民生団事件は中国共産党の恥部、暗黒の歴史の一つと言えるものですが、それが小説とし再現されています。これは大変重たいテーマですが、単なる歴史解説書とか弾劾本ではなく、じっくり読ませる小説となっています。
当時の満州は、もちろん日本が支配していました。そして、日本軍は現地の討伐軍を配下としながら、抵抗勢力を野蛮に武力でもって鎮圧していくのです。
日本軍の指揮する討伐隊は住民50人あまりを集団虐殺し、村に火を放った。
満鉄調査部には東京帝大卒で、共産主義者として活動していたところを逮捕・起訴され、転向して日本を逃れてきたという人間もいた。これは歴史的事実です。
1933年1月26日、コミンテルン駐在の中国共産党代表団は、満州の共産党員へ「1.26指示書簡」を送った。すなわち、日本軍の討伐によって深刻な危機に瀕していた抗日闘争の情勢からみて、各民族間の葛藤こそが根底的な問題であるとみなし、日本に対抗しうる統一戦線の結成を要求した。
 抗日民族統一戦線の樹立は、抗日という目標のもと、各派、各党、各民族を結合するものであると同時に、いったん抗日民族統一戦線に加わった者は、右傾、派閥主義、民族主義といった名目で、いつでも粛清されうることを意味していた。そして、派閥主義とならんで民生団が指導部に入りこんでいるとして粛清の対象となった。
満州の北間島は朝鮮人を主体とする抗日武装勢力が活動していたのに、中国人幹部が乗り込んでくることになったのです。民生団は日帝のスパイ組織であり、朝鮮人共産主義各派は、この民生団の片腕だと決めつけられ、粛清の対象となっていきました。民生団とみなされた元朝鮮共産党のメンバーに対して自白が強要されたのです。
党組織、革命政府、遊撃隊、群衆団体の70%が民生団員と認定され、6ヶ月もしないうちに、60余名のなかで生き残ったのは、わずか1人だけという大惨事が起きた。
なかには、一族を連れて逃げる党員もいた。遊撃区の人民はほとんどが朝鮮人だったので、逃げるのは100%が朝鮮人だった。当然、彼らは民生団とみなされ、捕まると拷問され自白を強要されて処刑された。
著者は、まだ50歳の若さですが、現代韓国文学の第一人者とみられています。詩人としてデビューし、たくさんの話題作を出しているとのこと。
日本語に訳されたものもあるそうですが、私は初めて読みました。しっかり考えさせられる小説です。
(2020年2月刊。2300円+税)

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2020年4月 4日

ルイス・フロイス

日本史(戦国)


(霧山昴)
著者 五野井 隆史 、 出版 吉川弘文館

ヨーロッパ人宣教師としては、フランシスコ・ザビエルに次いで知名度の高いフロイスの伝記です。私にとってフロイスは、戦国時代の日本人とは、どんな人々だったのか、現代日本人と共通するところ、違うところ、具体的に教えてくれる、大変貴重な存在です。
ザビエルたちが1549年に鹿児島に上陸してから最後の1643年までの100年近くに300人ものヨーロッパ人宣教師が日本にやってきました。その布教は数万人もの日本人キリスト教信者となっています。現代日本を上回るほどの多さだと思います。
ルイス・フロイスは、戦国争乱の真最中の1563年にキリスト教を日本に広めるためにやってきた。以来、フロイスは日本に31年間いて、日本人の文化・習俗にもっとも精通した外国人となった。フロイスによる『日本史』は膨大な書物となっている。
フロイスが生まれたのは1532年ころ、ポルトガル王国の都リスボン。フロイスの家族に関する情報は何もない。フロイスが改宗ユダヤ人であった可能性は否定できないが、そうであったという明確な証拠はない。
フロイスは17歳のとき、イエズス会に入った。そして、王室の書記官として若きフロイスは嘱望されていた。
フロイスは、文筆に長け、言語能力が高く、理路整然と話し、表現力と説得力が際立っていた。文才あふれる文書作成者であり、難しい事態に巧に対応できる器量人だった。
フロイスは日本に来て、日本人を次のように高く評価した。
「日本人は、男であれ、女であれ、現世の利益のために洗礼を受けるような国民ではない。日本人ほどコンタツを尊び、崇め、日本人ほどこれを活かす人々がこの世界に他にいるかどうか知らない」
フロイスは織田信長に何回か会うことができました。フロイスの信長評は次のとおりです。
「長身で、やせており、ひげは少なく、声が良く通る。過度に軍事的鍛錬にふけり、不撓不屈の人だ。正義と慈悲の所業に心を傾け、不遜で、こよなく名誉を愛する。決断ごとは極秘とし、戦略にかけては、はなはだ巧緻にして、規律や家臣たちの進言には、ほとんど(わずか)しか従わない。諸人は、異常なことに、絶対君主に対するように服従している。優れた理解力と明晰な判断力をそなえている」
ちょうどフロイスの事蹟をたどりたいと思っていたところでした。さあ、フロイスも読みましょう...。
(2020年2月刊。2300円+税)

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2020年4月 5日

船原古墳、豪華馬具と朝鮮半島との交流

日本史(古代)


(霧山昴)
著者 甲斐 孝司、岩橋 由季 、 出版  新泉社

古賀市から盗掘されていない遺物埋納坑が発見されました。2013年3月のことです。船原(ふなばる)古墳のすぐ脇の土坑(どこう)です。
今は、すごいんですね。掘る前に三次元計測とX線CTを使って、地中にどんなものが、どんな状態で埋まっているのか、具体的に予測できるのです。
土坑の幅も深さも80センチしかないので、人間一人がやっとの空間です。そこでどうやって調査するのか...。2本の木杭を地表面に置いて、ロープで足場板を支える空中ブランコ方式が採用されました。そして、地中のものを掘り出すのには液体窒素で瞬間的に氷結させ、掘り出したものを医療用ギプスでとり上げるのです。6ヶ月間で遺物ブロック500点を取り出しています。あとは、九州歴史資料館(小郡市)の室内でじっくり発掘していきます。
すると、見事な金具が次々に発見されていくのでした。
金銅(こんどう)製歩揺(ほよう)付飾金具。唐草文を透彫(すかしぼり)した六角形の金銅板の中心にドーム状の台座があり、そこから支柱が立っている。支柱からは、傘骨状に8本の吊手が広がり、そこに歩揺がつく。そして六角形のコーナーごとに金銅板と一体となっているやや小ぶりの支柱が立ち、四本の吊手に歩揺がつく。きわめて精巧なつくりで、まるでシャンデリアのよう。そして、ガラスで装飾された金銅製辻金具と雲珠。鉛ガラスは緑色。見事な形と色です。
馬の頭を守るための馬冑(ばちゅう)、その他の馬具も見事なものです。そして、武器・武具も発見されました。
そこで、いったいこんな豪華な副葬品のある前方後円墳(船原古墳)の被葬者は誰なのか、が問題となります。
それまで有力な首長を輩出してこなかったこの地域において、6世紀末から7世紀初頭ごろに急に頭角をあらわし、前方後円墳を造営できるだけの力をえることができた人物で、高度な技術によって生産された貴重な国産馬具や船来の新羅系馬具を多く入手できるだけのつながりをヤマト王権や朝鮮半島と有していた。
遺跡には感動があると書かれていますが、まさしくそのとおりです。カラー図判があって、目がさめる美しさに驚かされます。
(2019年12月刊。1600円+税)

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2020年4月 6日

英国貴族、領地を野生に戻す

イギリス


(霧山昴)
著者 イザベラ・トゥリー 、 出版  築地書館

1558年、自分が王位を継承したことをエリザベス一世が知ったのは、大きなオークの木の下に座っていたときだった。このオークの古樹が枯れたとき、現在のエリザベス女王は、そこにオークの若木を植えた。
庶民にとって、オークは生計の手段であり暮らしを支えるものだった。ドングリはブタの餌になり、パンをつくるのにも使われた。樹皮は皮をなめすのに使えたし、刈った枝は、冬は家畜の飼料になり、薪にもなった。おが屑は肉や魚をくん製にするのに使い、没食子からはインキをつくった。そして、木材で炭をつくり、それを使って鉄を精錬した。
オークは、イギリスのどんな郷土樹種よりも多様の生物を支えており、その中には亜種をふくめて300種をこえる地衣類や膨大な種類の無脊椎生物が含まれている。また、キバシリ、ゴジュウカラなど、シジュウカラ科の野鳥に巣と食べ物を提供する。
成熟したオークは毎年70万種の葉をつけるが、秋には簡単に分解されて、地面に栄養たっぷりの小山をつくる。その地面には、色とりどりのさまざまなキノコが生える。
オークが生態系としての本領を発揮するのは、樹齢が高くなり、盛りをすぎて幹に空洞ができはじめてからだ。心材が腐るにつれて栄養分がゆっくりと放出され、幹に新しい生命を吹き込む。木の空洞に巣をつくるコウモリや鳥の糞も養分となる。そして、落ちた枝がさらに根に養分を提供する。この循環プロセスに重要なのはキノコ類だ。
樹齢900年以上のオークがイギリスには118本あり、その大半は貴族の所有する庭園にある。オークという木が、こんなに大切な役割を果たしていることを初めて知りました。
著者は農業経営に見切りをつけ、農場を農業から解放した。すると、農地が生き物であふれかえるようになった。
14世紀の初め、イギリスにはダマジカのいる鹿狩り庭園が1300ヶ所以上あった。現在、イギリスには野生のダマジカが12万8000頭いる。賢いメスのシカはオークの木の下で冬に備えてカロリーをため込む。オスのシカは、冬が来るころには、疲れ果てて、餓死しかけていて、一番弱いものから死んでいく。自然は、こうやって不必要な個体を排除する。餓死というのは、自然界の重要な要素で、基本的な自然のプロセスなのである。
南ヨーロッパの乾燥した地方にある乾いたマツの森とは違って、イギリスには唯一の例外であるヨーロッパアカマツを除いては、火のつきやすい樹種はないし、稲妻が発生しても消防車が発動することはない。
乳牛の生涯は過酷である。3~4回も出産し、1日平均22リットルの牛乳を1日365日分泌し続けたあと、5歳から6歳のころ廃牛処理加工場行きとなり、その肉はドッグフードかミートパイにするくらいの価値しかない。
ところが、農場で放任して育てたウシは、最長なんと21歳という高齢まで生きた。母ウシは次の子ウシが生まれたあとでさえ、家族の絆は強い。
ウマにぜいたくな餌を与えすぎると病気になってしまう。ウマは胃が一つしかないので、感染しやすい。
フンコロガシが糞の中に含まれる寄生虫を食べ、糞そのものを速やかに処理することで寄生虫による伝染を防ぎ、その結果、化学合成された駆虫剤を家畜に与える必要も減る。フンコロガシが健康的な牧草の成長を促進することによって、家畜産業は年に3億6700万ポンドの節約になっている。
世界で生産される食料は、すでに100億人に食べさせるに十分なのだ。ところが、13億トンに及ぶ食べ物が毎年廃棄されている。先進工業国は、年に6億7000万トンもの食べ物をムダにしている。
ヨーロッパの倍の面積をもつアメリカにいるグリズリーが1800頭しかいないのに対して、ヨーロッパには1万7000頭のヒグマがいる。
オオカミは1万2000頭で、アメリカの2倍近い。ヨーロッパ23ヶ国にはあわせて9000頭のオオカミヤマネコがすんでいる。
一匹のチョウの羽ばたきは聞こえない。だが、チョウも何万匹も集まると、まるで滝しぶきか、迫りくる気象前線のようなざわめきが生まれる。アフリカの乾いた大地から1万5000キロにも及ぶ距離をチョウが渡ってやってくる。触角の先端にある太陽コンパスを使っているらしい。
ナイチンゲールが鳴き、ビーバーが川をせき止める。環境復元によってさまざまな大自然の営みがすすんでいく。見事なものです。
自然環境をできる限り保存するというのは、いま大切な取り組みだと思いました。アマゾンの大森林も、ぜひ残したいものです。
(2020年1月刊。2700円+税)

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2020年4月 7日

病気は社会が引き起こす

社会


(霧山昴)
著者  木村 知 、 出版  角川新書

 今や全世界がコロナ・ウイルスの恐怖に震えています。この情勢にぴったりの本です。ですから、もちろんコロナ・ウイルスのことを論じた本ではありません。その前に起きたインフルエンザ大流行をきっかけに病気の原因と対策を考えてみたという本です。
 著者はカナダ生まれの外科医です。この本には、なるほど、なるほどと思うところが多々ありました。
カゼのクスリは、カゼを治す効力はもっていない。そもそも、自己防衛反応ともいえる発熱や咳を、解熱剤や鎮咳薬で無理に抑えこもうとするのが間違い。そんな薬はカゼに効かないばかりか、むしろ各成分による副作用のほうが、よほど心配だ。
医師はカゼを治すことはできない。カゼへの対処法は服薬ではなく、休息だ。熱、ノドの痛み、鼻汁、咳、痰といった不愉快なカゼの症状は、ウイルスを排除するための免疫反応の結果、つまり自分で自分を守るための自己防衛反応とも言える。発熱で体温を上げて、ウイルスの活動をおさえる、鼻づまりで、さらなる異物の侵入を防ぐ。鼻汁とくしゃみと咳で異物を体外に排除する。このような自浄作用である症状を薬でなくそうとすること自体がナンセンスなのだ。カゼのときくらい、ゆっくり休める社会に日本も変わっていくべきときではないか...。
インフルエンザかどうかではなく、体調不良のときには、自分自身の安静のためにも、周囲への感染拡大を防ぐ意味でも、何をおいてもまず休む。これが大切だ。職場や学校は、そのように休むべき人を積極的に休ませるという体制を早急につくりあげなければならない。なるほど、これが一番大切なことですよね。発想を切り換える必要がありますね。
アメリカには日本のような国民皆保険制度はない。アメリカの保険未加入者は2810万人で、全国民の9%に近い。しかも保険に加入していても、保険会社が保険金の支払いを拒否する事例が少なくない。病気になっても十分な医療が受けられなかったり、高額な医療費のため家屋を手放さざるをえなくなるなど、医療をめぐる格差問題は深刻だ。
マイケル・ムーア監督の映画『シッコ』(2007年)は、アメリカの医療制度がいかに金持ち優遇のシステムなのかを白日のもとにさらけ出している内容で、見ているとゾクゾク寒気がしてきました。日本はアメリカのようになってはいけないのです。
日本の生活保護制度の運用における最大の問題点は、微々たる不正受給問題よりも、本来なら受給して然るべき境遇の人が支給されないまま放置されていること。生活保護費が高いのではなく、年金や最低賃金が低すぎるのだ。
本書で指摘されていることは、しごくあたりまえのことだと思いますが、そのあたりまえのことが残念ながら見過ごされていると思いました。
(2019年12月刊。840円+税)

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2020年4月 8日

歴史としての日教組(上)

社会


(霧山昴)
著者 広田 照幸 、 出版 名古屋大学出版会

戦後日本の教育をダメにしたのは日教組だと右翼が言い、アベ首相も国会でそんな野次をたびたび飛ばしました。それほど日教組は戦後日本の教育界に影響力をもっていたのでしょうか...。この本は、日教組の実態を学術的に究明しようとした本格的な研究書です。上巻だけで300頁あります。
日教組くらい実像とかけ離れたイメージや言説がおびただしくつくられ、巷間に流布している組織は珍しい。妄想に満ちた一方的で過剰な読み込みがある。
そもそも日教組は単組の連合体組織なので、日教組中央の統制力は決して強くない。個々の組合員のレベルでは、多様な考え方の組合員がいるのは当然である。
1989年に反主流派の単組の大半が離脱したあとの日教組は、総評の解体後につくられた連合に加入し、それまでの対決型の運動方針から穏健な対話路線へと、運動のあり方の見直しを模索するようになった。
1995年には、いわゆる文部省と日教組との歴史的和解が成立した。
右翼や保守派は、日教組について、上から下まで徹底管理された、思想的にも一枚岩の組織像をつくりあげた。しかし、それは、日教組の実態から著しくかけ離れていた。
1950年代に共産党系が日教組執行部の多数派になった事実はない。
1989年の日教組分裂時まで、執行部三役は、すべて非共産党系であった。そして、中央委員のなかで共産党系とそのシンパの占める比率は3割だった。
日教組は、全逓や国労とは違って、共産党の影響力は大きくなかった。
1950年の地方公務員法は日教組が法人格を得る道をふさいだ。日教組などの全国的な連合組織は、労働組合法の保障する労働組合でも、地方公務員法が規定する職員団体でもない、任意団体になった。ところが、日教組は労働組合であると同時に職能団体であることを内外から期待された。
自民党と文部省が日教組攻撃の材料として「倫理網領」を論じるときに「日教組の方針を解説したもの」としている「解説」なるものは、日教組の情宣部が独断で作成したものにすぎず、いかなる日教組の機関が承認したものでもなかった。
日教組は共産党系の勢力の支配下にあったことは一度もない。日教組の主流派にとって共産党系の勢力は、連携のパートナーであり、同時にうっかりすると過激な方向に引きずられたり、内部をかき回されたりしまいかねない油断のならない相手でもあった。そして、日教組の主流派は、共産党系の勢力を敵視していたのでもない。また、日教組の主流派は、特定の政党の指導下にあったわけでもない。
たくさんの資料を分析して導き出された結論ですので、大いなる説得力があります。
(2020年2月刊。3800円+税)

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2020年4月 9日

兵器を買わされる日本

社会


(霧山昴)
著者 東京新聞社会部 、 出版 文春新書

読むほどに腹の立ってくる本です。コロナで大変な日本なのに(全世界がそうですが、それはともかくとして...)、医療崩壊を喰い止めるために医療費を増大させる必要があることは明白なのに、軍事予算を削って、医療・福祉にまわすという政策が出てきません。せいぜい一世帯にマスクを2個、郵便で送り届けますというピンボケ策です。
真相を隠し、責任転嫁を図って政権を維持することしか頭にないアベ首相をいただく日本国民は不幸です。最大の災難は、とんでもない首相から来ているとしか言いようがありません。
日本はアメリカから最新鋭のステルス戦闘機F35を105機購入する。すでに決まっている42機とあわせると147機。1機120億円として、105機で1兆2600億円。
安倍首相ほど、トランプ大統領にこびへつらうことに心血を注いできた指導者はおそらく世界中を探してもいないだろう。
これは、アメリカのワシントン・ポストの記事です。いやはや、とんでもない「愛国者」です...。
2019年度の防衛予算は5兆2574億円で、防衛費は5年連続で過去最大を更新し続けている。
今年(2020年度)も、コロナ・ウィルス対策で予算組み替えするかと思うと、何もせずに、同じように軍事優先、医療福祉の切り捨てのままでした。驚くべき冷酷さです。
増大する日本の防衛費にアメリカの関係者が群がっている。要するに、日本の軍事予算の増大は、日本を守るためというより、トランプ大統領を支えているアメリカの軍需産業のためなのです。本当に嫌になってしまいます。
日本はヘリ空母「いずも」をもっているが、実は、海上自衛隊は慢性的な人員不足。空母の運用には人員確保が難しい。現場はほしいと言っていないのに、トップダウンで空母化が押しつけられているだけ。
基地騒音公害で周辺住民に巨額の賠償金が支払われている。地位協定によるとアメリカも分担金を支払わなくてはいけないはずなのに、アメリカは分担金を払っていない。そして安倍政権はアメリカに対して支払えと請求してはいない。恥ずかしい限りです。
イージス・アショアは、安倍首相がトランプ大統領に買わされたもの。イージス・アショアは、日本の防衛のためではなく、アメリカ本土を守るためでしかない。ハワイとグアムのアメリカ軍基地を守るためのシステムだ。
いやはや、何ということでしょう...。日本を守るための軍事予算といいつつ、実は自分たちの政権を維持するため、そして日本の軍需産業のためというのです。やり方が汚ないですよね。ホントに腹がたちます。プンプンプン...。
(2019年12月刊。850円+税)

 今年は満開の桜をいつまでも眺めて楽しめます。出勤途中、横手にある小川の土手の桜並木を見ると、心がほっこりします。
 庭のチューリップは盛りをすぎ、白をベースとした黄色のアイリスの花が加わりました。シャガの白い花も咲きそろっています。ジャガイモが芽を出して、茎が伸びていて楽しみです。周囲の雑草をとってやります。 そしてアスパラガスがいつものところに毎日1本、2本と収穫できます。電子レンジで1分間、チンすると、春の味を楽しめます。
 コロナさえなければ、春らんまんを思う存分に楽しめるのですが...。

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2020年4月10日

未完の時代

社会


(霧山昴)
著者 平田 勝 、 出版 花伝社

全学連の輝ける委員長だった著者は、共産党の要請を受け、辛じて籍だけあった東大文学部生として東大闘争に関わるようになったのでした。
著者は駒場寮のとき寮委員長にもなっていますが、その寮委員仲間には東大学長にもなった政治学者の佐々木毅がいました。
著者は東大闘争について、安田講堂攻防戦ばかりが世間のイメージとして定着しているが、この安田講堂攻防戦は、東大紛争の本筋と解決する道からは大きくズレた、一部の孤立した学生の動きであり、大学への権力の介入を許しただけの妄動だったとしています。私も、まったく同感です。
2日間にわたる安田講堂攻防戦は、一日中、テレビで実況中継として放映され、大変な高視聴率でしたが、それこそ政府・自民党の狙うところでした。
東大闘争は七学部代表団と加藤一郎総長代行らの東大当局とのあいだで確認書を取りかわして決着しましたが、その成果は大きいものがありました。政府・自民党は、確認書をしきりに攻撃したのですが、東大当局は今に至るまで、一応、確認書は守ってきています。
東大闘争のなかで、全共闘とそのシンパの学生は、しきりに「自己否定」と言っていました。民青系が民主的インテリゲンチャ論を展開すると、全共闘はせせら笑っていたのです。
でも、全共闘のメンバーもシンパ層も、東大生をやめたというのは私の知るかぎり何人もいませんでした。そして少なくない人たちが権力に取り込まれ、企業戦士になっていきました。
「自己否定」という言葉からは、自己のありように対する厳しい自己反省を含む倫理的ニュアンスがある。しかし、全共闘の実際の行動からすると、自己否定の論理とは、そうしたものとは全く違って、言葉には酔っていたが、自己の感情を絶対化し、自己否定や自己批判を、暴力をもって他人に押しつけるという、むしろ「自己肯定」の論理に立つものであった。自分の感情にだけ「誠実」であればそれでよいのか、このように問いかけた東大の教官がいたが、そのとおりだと思う。
この分析も、私の実感にぴったりあうものです。
私のクラスにいた全共闘のメンバーもシンパも、「自己否定」どころか、自分を絶対視しているとしか私には感じられませんでした。
そして、さらに大きな問題は暴力の問題です。全共闘のメンバーやシンパだった人は、自分たちがひどい暴力を振るっていたことをあまり語りませんし、反省の弁を聞くことがほとんどありません。しかし、当時、全共闘に対峙していた側の一員だった私にとって、全共闘の暴力は決して見過すことのできない重大問題です。
もし全共闘が暴力をともなわない単なる論理の問題であったのなら、自己の内部にあるエリート性の否定としての「自己否定」であり、精神運動として一定の意味はあったと思われる。しかし、現実には、全共闘の論理には暴力がともなっていた。全共闘は暴力の魔力に取りつかれていたと思う。本当に、そのとおりです。
東大闘争が収束したあとしばらくして連合赤軍の「総括」の名のもとの大量リンチ殺害事件が発覚しましたが、全共闘の「敵は殺せ」という暴力の論理の行きつく先だったと私は思います。
全共闘のメンバーが万一「革命」に成功して政権を握ったとしたら、スターリンの恐怖政治、毛沢東による文化大革命発動という恐るべき悲惨な事態が日本でも起きたことでしょう。
全共闘の暴力に対して、無抵抗主義、ガンジーのような非暴力で対処するというのは、非現実的だったと著者は主張していますが、私も同感です。全共闘の暴力に対して、民青も「クラ連」も、そして多くの一般学生もヘルメットをかぶり、ときにゲバ棒をもって対峙して、全共闘の暴力を克服して確認書を勝ちとり、授業再開にこぎつけたのでした。
全共闘のシンパ層は、授業が実際に再開されると、なだれをうって授業に出席しました。私は、それが悪いというのではありません。学生として授業に出るのは当然だからです。ですから、せめて暴力を振るっていたことだけは反省してほしかったのです。
全共闘の暴力に対抗して、多くの東大生が立ち上がりましたが、それだけでなく「外人部隊」の応援も受けています。それは事実ですし、必要だったと思います。宮崎学の本に出てくる「あかつき戦闘隊」も実際に存在しました(あまりに誇張されすぎていますが...)。
また、共産党が大量のゲバ棒、毛布、弁当をはじめとして、大金を投入したのも事実のようです。それは政府、自民党、財界側からも同じように資金が投下されていたこととあわせて考えるべきものだと思います。
著者は東大闘争の過程で共産党の宮本顕治書記長から直接、闘争指導を受けていたことも明らかにしています。これまた、すでに活字になっていることでもあります。
最後に、この本は、民青を舞台とする「新日和見主義事件」に触れています。共産党は、この事件の詳細を明らかにしていませんが、民青の発展を大きく阻害した残念な事件だったことは間違いありません。私も70年代の遅くない時期に民主連合政府が実現できると信じて活動していましたので、それがぐーんと遠のいてしまったわけです。ただ、学生セツルメントが1970年代に急速に低下し、やがて消滅していったことは、「新日和見主義」事件とはまったく関係がありません。やはり、学生の質・関心に大きな変化があったのです。
いま、アベ政権に代わる政権を目ざしているなかで、反省材料の一つになる本だと思いました。貴重な歴史証言の一つとして私は一気に読みあげました。著者の今後ますますのご健勝を祈念します。
(2020年4月刊。1800円+税)

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2020年4月11日

みんなの寅さん

人間


(霧山昴)
著者 佐藤 利明 、 出版 アルファベータブックス

すごい本です。映画『男はつらいよ』の全作品がぎっしり詰まっています。
史上最大のボリュームとありますが、なにしろ本文2段組みで650頁もあるのです。圧倒されます。
この本のもとになったのは文化放送のラジオ番組です。2011年(平成23年)4月から2016年9月までの5年間に、701回も放送された「みんなの寅さん」です。
著者は、当初はラジオ番組の構成作家として裏方をつとめていたのですが、やがて、パーソナリティとして登場しました。そして、娯楽映画研究家であり、「寅さん博士」という称号も付与されたのです。なるほど、この本を読むと、さすが「寅さん博士」と声をかけたくなります。
著者は、映画の撮影場面にも潜入(もちろん許可を得て)し、山田監督にインタビューもしています。
著者は小学1年生の夏休みに第5作『望郷編』を父親と一緒に銀座松竹でみたそうです。ほとんど男性客、それもおじさんたち。寅さんの一挙手一投足に場内が割れんばかりの笑いに包まれていたとのこと。
そうなんです。私も何度も体験しましたが、満員の映画館で、みんなが声を出して大笑いするなんて、本当に心の癒される瞬間なのです。それが1時間以上しっかり続くのですから、もうその満足感たるや空腹を忘れてしまうくらいの充足感がありました。
第1作から第7作までは年3作のペースで映画はつくられていて、その後は、盆と正月の年2回、第42作から年1回、正月のみとなったのでした。すごい大量生産です。
マンネリだ。マンネリだという批評家もいたようですが、落語と同じで、ストーリーが分かっていてもいいんです。楽しませてくれたら...。それに、寅さん一家は同じ顔ぶれでも、女優さんは毎回変わるし、寅さんの失恋のしかたも、相手の女優さんによって微妙に変わるのですから...。
私自身は、マンネリしたなんて思ったことは一度もありません。もっとも弁護士になってからは、さすがに年2回必ずみることはできないこともありました。正月はともかく、お盆のころは見逃したことが何回かあります。
渥美清は本当に偉大な役者でしたが、1996年8月に惜しくも亡くなって、第49作は幻の映画になってしまった。『寅次郎花へん』というタイトルも決まっていて、西田敏行、田中裕子が予定されていた。
それで、最終作は第48作『寅次郎紅の花』となり、浅丘ルリ子のリリーさんの話でした。
実は、第5作の『望郷編』は、山田洋次監督が「完結編」のつもりで力を入れたものだった。ところが、これが今までを上回るヒットしたもので、終わるに終われなくなった...。いやあ、良かったです。第5作で終了にならずに。
寅さんシリーズをくり返しみてしまうのは、映画にあふれている「多幸感」に浸りたくなるからだ...。本当に、そうなんですよね。みていると、幸せ一杯になりますものね。
戦前、ラジエーター製造工場で働いていた田所少年は手を抜くこと、サボることにかけては天下一だった。それで、田所少年は「電気時計さん」と呼ばれた。工場の電気時計はよく止まるので、「不良」と書かれていた。それと同じということ。
そして浅草のストリップ劇場でコントするとき、渥美清は舞台に出る直前に、焼酎を飲んで勢いをつけていた。アドリブを連発して、満場の観客を大笑いさせた。
さすが、ですね。よくぞこんなところまで調べたものです。
渥美清は1954年、6時間に及ぶ手術で右肺を摘出し、2年間、病院で療養生活を送った。26歳から28歳までのころ。ここで人間観察をしていたのですね...。そこで体重51キロとなり、タバコと酒を断った。そして、「丈夫で長持ち」のキャッチフレーズで売り出したが、内心は、丈夫でありたいということだったろう。
おばちゃん役の三崎千恵子さんは2012年2月、90歳で亡くなった。実は、私は、30歳台のころNHKで三崎千恵子さんと一緒に出演したことがあります。甘い話にだまされないようにというテーマでした。「おばちゃん」は、私だって投資話には関心があるのよね...、と私に話しかけてくれたことを覚えています。
いやあ、感動的ないい本でした。650頁、3800円もします。人生の良き伴侶として、買って読んで、書棚に飾るだけの価値があります。もちろん、DVDもいいですけど...。
(2019年12月刊。3800円+税)

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2020年4月12日

絢爛たる影絵、小津安二郎

人間


(霧山昴)
著者 高橋 治 、 出版 岩波現代文庫

映画監督・小津(おづ)安二郎は巨匠と呼ばれ、どこにいても、ひと眼でその存在が分かる巨体だった。
映画づくりの現場の仕事には、一種いいようのない間がある。監督が本番を指示する。助監督が復唱する。撮影・照明・録音・技術の名で呼ばれる各部門の責任者がその復唱を確認する。
小津だけが弟子に冷たかった。小津組からは監督が出ていない。
昭和24年、『晩春』 第一位
昭和26年『春秋』 第一位
昭和28年『東京物語』 第二位
小津のように3回にわたってベストテンの上位を独占した例はない。『キネマ旬報』の算定方式によれば、小津が断然ベストテンの最高点者に浮かび上る。
小津は演出家として、人の心を読む天性の力をもっていた。画面を演出するばかりでなく、セットの中の対人関係の演出も長(た)けていた。
小津組のOKとNGの差がどこにあるのか、よく分からない。あれは小津にしか分からなかったのだ。みんな、そんな不思議な納得をした。
「人間ってものはな、感情をモロに出すことは滅多にないんだ。逆に勘定のバランスをとろうとする。この場面だって同じだ。頼むから、科白(せりふ)の先読みをしないでくれ。来て座る。出そうな涙をこらえている。だから客に悲しみが伝わる。お前さんみたいに悲しみをぶら下げたチンドン屋みたいな顔で来られたんじゃ、全部ぶちこわしだ...」
小津安二郎あっての原節子であり、原あっての小津だった。原には、小津以外にこれぞ原節子という仕事はなく、小津の戦後の傑作はことごとく原によって作り得たものだった。
小津が杉村春子に求めたのは、さり気なさだった。
「一番難しいのは、さり気ないってことなんだよ。さり気なさをさり気なく出せるようになりゃ、役者も監督も一人前だ」
「客を食いつかせて来さすには、常に何かが隠れているという不安を与えていなければならない。ああ、そういうことですか、よく分かりましたと客が思ったとき、客は離れる。感動も共感も薄れて、二度と食いつかない」
小津は、なまなかな大学卒ではとうてい及ばぬほどの教養人だった。小津には、大学、高等専門学校で学び得た機会を自ら放棄したコンプレックスがあった。
小津は一見すると非常に日本的だが、実は大変西洋的だった。
徹底的な合理主義者の面をもっていた。
小津が好んだのは、トンカツ、うなぎ、油っこいラーメンであって、茶漬ではなかった。
小津は金銭には実に潔癖な男だった。
名指しで下手だと言われるようになれば、小津組では合格の域に達していた。見込みのない人間には、小津は批評もしなかった。
その風貌(ふうぼう)からは想像もできないが、小津は意外に臆病で細心な面をもっていた。
戦時中、見るも無残な国策映画だけは、小津はつくらなかった。
小津は、満60歳の誕生日に世を去った。
小津の死に接して、あたりはばからず号泣したのは、杉村春子と原節子だった。
小津安二郎と言えば、笠智衆と原節子の『東京物語』ですよね。私はテレビでしか見たことはありません。そして、山田洋次監督が、そのオマージュとして『東京家族』をつくってくれました。こちらは、もちろん映画館でみました。
小津安二郎という大監督の人間性を徹底追及した、興味深い文庫本です。
(2010年9月刊。1280円+税)

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2020年4月13日

夢の正体

人間


(霧山昴)
著者  アリス・ロブ 、 出版  早川書房

 毎晩のように夢を見ています。さすがに司法試験に失敗したといった夢は見なくなりましたが、どこかの山小屋教室のようなところで合宿しているというのは時々みます。女性にモテモテという願望を反映した夢を見ることもあり、これって夢だよねって思うことがあります。
 夢をみるとき、新しい情報を既存の知識の網に組み込んでいく。そのとき、脳は最近の経験の山をふるいにかけて、長期保存のために、もっとも重要な記憶を選びだしている。
睡眠は、細胞の修復にとって、もっとも重要な時間となっている。眠っているあいだ、脳のなかの老廃物を排出する働きを促すグリンバティック系が活発に活動する。
睡眠不足は、心筋梗塞や脳卒中のリスクを上昇させ、免疫システムを弱める。慢性的な睡眠不足は高血圧のリスク因子となり、一晩の徹夜だけでも、血圧上昇の原因となることがある。
食欲も影響する。睡眠不足は、空腹を刺激するホルモンのグレリンの数値を急激に上げ、抑制するレプチンを減少させる。
若年層では、1日の睡眠時間が6時間以下の人の肥満率は、そうでない人の7倍になっている。睡眠時間が5時間以下の人は7~8時間眠っている人に比べて糖尿病の発症率が2倍以上になっている。
うつ病の人の睡眠の変化で最も大きいのは、夢を思い出せなくなること。睡眠サイクルの適切なタイミングで起こされると、健康な人は80~90%の確率で夢を報告できる。ところが、うつ病患者では、50%にまで低下する。さらに、思い出せる夢は、それほど鮮明でなく、短くなり、伴う感情は乏しく、登場人物も少ない。
うつ病の人は、最初のレム睡眠が早く来て、長く続く。最初のレム睡眠は45分ほどで訪れ、20分くらい続く。一般的には、夢はレム睡眠を重ねるほどに楽しいものになっていき、朝に悪夢で苦しむことは少なくなる。ところが、うつ病の人は、逆の経過をたどり、感情の薄い夢から始まり、だんだん苦しいものになっていく。
暴力を受けた女性は、そうでない女性に比べて、2倍の悪夢をみていた。
人は、夢のなかでトラウマを処理している。夢の源泉の多くは、その人の生活にあり、現在と過去の経験の糸がからみあって夢となる。
夢は、トラウマを乗りこえさせてくれる以上の役割を果たし、苦しいときに安らぎを与えてくれることがある。
南北戦争のとき、寂しさをかかえた兵士は、家族の夢をみて、生きのびる決意をあらたにしていた。
本書では「明晰夢(めいせきむ)」なるものが実験・分析の対象になっています。自分が夢をみていることを自覚しながらみる夢のことです。
それにしても夢の研究というのは、一晩中、不眠不休であることを意味します。盆と暮だけ業務していればいいというものではないのです。私なんか、たっぷり8時間は眠っていたいのですが...。ですから、夢を研究しているという人には、大変な苦労があります。でも、そのご苦労のおかげで、いろいろ夢のことを知ることができるわけです。
(2020年2月刊。2300円+税)

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2020年4月14日

ギデオンのトランペット

アメリカ・司法


(霧山昴)
著者 アンソニー・ルイス 、 出版 現代人文社

1963年3月、アメリカ連邦最高裁判所は、貧困のため弁護人を雇えない人は、その人のために弁護人が付せられない限り、公正な事実審理は保証されえないと判決した。つまり、被告人には弁護人の援助を受ける権利があることを明示したのです。
そして、9年後の1972年に、連邦最高裁は、たとえ軽罪事件の被告人であっても、現実に自由の剥奪(拘禁刑)の結果をもたらす場合には、弁護人の援助が憲法上必要であると判断した。
次に、弁護活動の質が問題になりました。おざなりの、ただ弁護人が法廷にいるだけでない、効果的な援助を受ける権利が被告人には保障されなければならないという判決にすすんでいったのです。アメリカでは、そのため州が公設人弁護人事務所を設立しています。
日本でも、ときに手抜き弁護が問題になることがあります。記録を読まない、公判当日に被告人に法廷で会うだけの弁護人、そういう弁護人が今でもたまにいるようで、残念です...。
クラレンス・ギデオンは1962年1月、アメリカ連邦最高裁に書面を送った。自分の事件で訴訟救助を求めたい、自分の刑事裁判で、弁護人を求めたのに裁判長が却下したという内容です。このときギデオンは51歳。ギャンブラーの白人男性で、前科がいくつもあった。容疑は窃盗目的の不法侵入罪。店内からビールなどを持ち出すために店内に侵入したというものだった。
それまでの連邦最高裁の判例では、弁護人が要求されるのは、弁護人なしに審理がなされたら、「基本的公正の否定」に値する場合に限るとして、「特別な事情」が必要だとされていた。
ギデオンの事件は、それを打ち破る可能性があった。連邦最高裁はギデオンの求めに応じて、エイブ・フォータス弁護士を弁護人として任命した。
フォータスはユダヤ人の52歳の弁護士で、30人の弁護士をかかえる、支配階層ではない法律事務所に所属していた。
ギデオン事件では、ベツ事件で示した連邦最高裁判決にいう「特別な事情」のないことは明らかで、それでも弁護人がいたら有益だったことは明白だった。
ギデオン事件で、被告人・弁護側が勝ったら、刑務所が空っぽになってしまう。こんな「予想」がたてられた。
これは、もっとも強烈な感情的反対論だった。
当時、2500人の弁護士がアメリカ連邦最高弁護士会員になるための会費として25ドル(今は200ドル)を支払わなくてはいけなかった。
今から57年も前のアメリカ連邦最高裁判所が弁護人なしの刑事法廷はありえないとする画期的な判決を示したのです。それを直後に本にまとめたものを、今回、田鎖麻衣子弁護士(二弁)が翻訳しています。アメリカの判決の変遷のところは、前提となる知識のない私には少し難しかったのですが、それでも、一人の男が連邦最高裁判所に書面を送ったことから、弁護人がつくようになったというのは真実です。その過程を学ぶことのできる貴重な本です。
今では、日本は被告人国選弁護制度だけでなく、被疑者国選弁護人制度までありますので、あとは弁護人の質の問題になっているのでしょうね。
私は被疑者弁護人(国選)になったら「毎日面会」を心がけています。出張のため行けない日もありますので、「原則として毎日面会」をしています。
現代人文社から贈呈を受けましたが、大変勉強になりました。ありがとうございます。
(2020年3月刊。3600円+税)

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2020年4月15日

五色の虹

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 三浦 英之 、 出版 集英社

満州に建国大学なるものがあったこと、その卒業生たちが戦後、とくに韓国では大活躍したことなど、初めて知る話ばかりでした。
建国大学は、日本政府が満州国の将来の国家運営を担わせるべく、日本そして満州全域から選抜した「スーパーエリート」の養成所だった。日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの学生が6年間、異民族と共同生活を送った。それは「五族協和」の実践でもあった。
建国大学では日本人学生は定員の半分まで、残り半数は中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの各民族に割りあてられた。そして、建国大学の学生には言論の自由という特権が付与された。それは、日本政府を公然と批判する自由を認めていた。
建国大学の設立には、参謀本部の石原莞爾(かんじ)大佐が深く関わっていたとのことです。そして、石原大佐の意を受けて、関東軍参謀本部の辻正信大尉も具体的に関与しています。
1学年の定員は150人、修学期間は、前期3年と後期3年の計6年間。全寮制を基本として、授業料は全額を官費でまかない、学生には月5万円の「手当」が支給される。学問、勤労実務、軍事訓練の3つが教育指針となっている。
建国大学は1945年8月の満州国崩壊とともに消え去った。開学して、わずか8年間存在したのみだった。建国大学の出身者は1400人。2010年の時点の生存者は350人。
戦後、日本人学生の多くはシベリアに抑留された。そして日本に帰国したあとも、あまり良い処遇を受けていない。
中国人やロシア人、モンゴル人は日本帝国主義への協力者とみなされ、自己批判を強要された。ところが、韓国では、姜栄勲のように軍幹部から首相になった人がいる。政府や軍、警察、大学、主要銀行などの主要ポストを建国大学出身者が握っていて、政財界には建国大学出身者のサークルのようなものがつくられていた。なぜか...。
建国大学出身者は、語学力に優れ、国際感覚を身につけているうえ、当時の韓国でもっとも求められていた軍事知識を有していたから...。
中国人学生たちは、建国大学のなかで、反満抗日運動の組織をつくって活動していたようです。
建国大学の卒業生たちを訪問してまわる旅の様子も興味深いものがあります。中国、韓国、台湾、そしてカザフスタンです。埋もれていた歴史を掘り起こす作業が、どんなに大変なのか、少し分かりました...。
(2016年8月刊。1700円+税)

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2020年4月16日

証言・治安維持法

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 NHK・Eテレ特集・取材班 、 出版 NHK出版新書

2018年8月18日にEテレで放送された番組「治安維持法10万人の記録」が本になったのです。戦後の治安維持法の犠牲者(検挙された人)がまだ存命し、証言したというのにも驚きました。
なんと103歳の杉浦正男さんが、27歳の印刷工だったとき、治安維持法に反していると警察にひっぱられ、柔道場で殴る、蹴るの拷問を受けたことを証言したというのです。仲間にレーニンの本とか吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』という本を貸して読ませたのが「犯罪」だといいます。
この吉野源三郎も治安維持法の「目的遂行罪」で検挙されていたのですね...。
当時、陸軍の予備隊として兵役中だったのですが、1年半も陸軍刑務所に入れられ、軍法会議にかけられました。この獄中、吉野は自殺を図ったとのこと。出獄して、2年のあいだ失業したあと、1937年に児童向け文庫として出版したのが『君たちはどう生きるか』でした。
治安維持法が成立したのは1925年(大正末期)で、主として当時の日本で急速に影響力を伸ばしつつあった共産党を取り締まるためにつくられた。
治安維持法による検挙者は、20年間で、のべ6万8千人をこえる。
1927年の検挙者は20人だったのに、翌1928年には3426人となった。一気に150倍。これは、1928年3月の「三・一五事件」で1600人あまりが逮捕されたことによる。これには1926年に共産党が再建されていたことが背景となっている。
当時の共産党の幹部で、あとで転向し、戦後は右翼として暗躍した三田村四郎を義父とする女性も証言しています。三田村四郎は転向声明を出したものの、治安維持法が戦後に廃止されるまで獄中にいたとのことです。
特高警察官として「活躍」した人の子どもも登場します。
1928年の「三・一五事件」で検挙した1600人のうち、共産党員は400人あまりで、全体の7割は釈放せざるをえなかった。これをなんとかするために、「目的遂行罪」を導入した。この目的遂行罪こそ、共産党の取り締まりだけでなく、広く検挙を正当化した。そして、そこに裁判所のチェック機能は働いていなかった。
治安維持法は、その効果として、刑罰を課すという前に、検挙そのものが、与える社会的な影響が期待されていた。
1933年の検挙者は1万5千人に近かった。ところが、翌1934年には4千人となり1935年には1785人にまで激減した。
日本で、1928年から1938年までに治安維持法違反で無期懲役を言い渡された人は1人だけなのに、朝鮮では39人。懲役15年以上の刑についても、日本が7人なのに、朝鮮は48人だった。朝鮮では、治安維持法違反は共産主義運動をしたからではなく、独立運動をしたことがあたるとされていた。
いやはや、天下の悪法であることが、いくつもの証言を通じて嫌になるほどよく分かりました。
(2019年1月刊。900円+税)

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2020年4月17日

ザ・ボーダー(上)

アメリカ


(霧山昴)
著者 ドン・ウィンズロウ 、 出版  ハーバーBOOKS

アメリカと南米の麻薬カルテルの暗躍ぶりを、これでもかこれでもかと延々と詳細に書きつづっている小説です。文庫本なのですが、上巻だけでも765頁、ほとほと疲れてしまいます。
アメリカには、メキシコや南米各国から、麻薬がとうとうと流れ込んでいるようです。
アメリカの国務省とCIAはメキシコ政府と麻薬カルテルの協力関係の維持を消極的にせよ支持する。これに対して、司法省と麻薬取締局は断固としてカルテルのヘロイン密輸を阻止したい。
アメリカでは、麻薬取締法の厳しさから、暴力をともなわない違反者にも最低30年の刑そして終身刑を科した。その結果、200万人以上が、その大半はアフリカ系アメリカ人とヒスパニック系アメリカ人が刑務所暮らしをしている。
ドラッグマネーがアメリカから毎年メキシコだけでも何百億ドルも流出している。その多くはメキシコ国内の投資に流れる。メキシコ経済の7~12%は、ドラッグマネーで成りたっていると言われている。同時に、アメリカにまた戻ってきて、不動産や投資に注ぎ込まれるお金も少なくない。いったん銀行に預けられ、その後、合法的なビジネスに使われる。これが麻薬戦争の裏に隠された薄汚い真実だ。「ヤク中」が腕に注射を1回うつたびに全員がもうかる仕組みになっている。全員が投資家であり、カルテルなのだ。
刑務所や監獄は、答えではない。刑務所のなかでもヤクを続ける。むしろ有効なのは、薬物裁判所か・・・。逮捕したら、判事が強制的にリハビリ施設に送り込むようにしたらいい。
メキシコ人は、テキサス経由でニューヨークにヘロインを持ち込み、たいていはアッパー・マンハッタンかブロンクスにあるアパートメントや自分の家にいったん保管する。そのあと、工場でダイム袋に小分けして売人に売る。売人はたいてい組織のチンピラで、買ったヤクを市内で売りさばくか、州北部やニューイングランドの小さな町に運ぶ。ヤクを卸すカルテル側の人間が工場にいることはめったになく、彼らはヤクを持ち込むときだけ現れ、すぐにその場を立ち去る。工場で働いているのは、ヘロインを小分けする地元の女や、日銭めあての下っ端マネージャーだ。
このようにしてヤクは次から次に流入する。
メキシコの警察がカルテルに手なずけられているのは、すぐにお金になびくからではない。それだけの支配力をカルテルはもっている。賄賂は、もらうか、もらわないかではない。もらうか、もらわないなら一家皆殺しなのだ。このやり方なら、買収した警察官であっても信用できるし、裏切られることはない。
しかし、ニューヨークのギャングは警官を殺したり、ましてやその家族を脅したりはしない。正気のギャングなら、そんなことをしたら、怒れる3万8千人の警官を敵にまわすことになる。もし生きて逮捕されても、アイルランド人やイタリア人の検事やユダヤ人の判事から州で最悪の刑務所に送られ、死ぬまでずっとそこで過ごすことになる。もっとまずいのは、ビジネスが立ちいかなくなることだ。
そんなわけで、黒人のギャングもラテン系のギャングも警官を殺そうとはしない。それよりビジネスを大事にする。なので、メキシコ人もニューヨーク市警の警官の買収には慎重になる。警官が裏切らないという保証がないからだ。
今では、ドラッグはマンハッタン島の中央と南部の核家族世帯や近隣の労働者世帯のほか、多くの警官、消防士、市役所職員にも広がっている。
マンハッタンやブルックリンでは、ドラッグの商売は主にギャングの仕事で、公営住宅やその周辺での売買は、黒人とラテン系のギャングが仕切っている。そこに新規参入の余地はない。
まあ、あきれてしまうというか、心底から震えるほど恐ろしい現実世界が展開していく本です。
(2019年7月刊。1296円+税)

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2020年4月18日

ブッシュマンの民話

アフリカ


(霧山昴)
著者 田中 二郎 、 出版 京都大学学術出版会

アフリカ原住民ブッシュマンに長いあいだ密着取材した成果が本になっています。
ブッシュマンは南アフリカ共和国の隣のボツワナにあるカラハリ砂漠に住む狩猟採集民です。今ではブッシュマンのなかから大学に入り、学者も生まれているようですが、砂漠と草原地帯で上半身裸で生活している人々もまだいるようです。
カラハリ砂漠といっても灌木の混じる平原もあるようです。
ブッシュマンは、5万年ほど前からここに住みついているとのこと。
ブッシュマンは野生動物の狩猟(これは男性の仕事)と植物採集(女性の仕事)という100%自然にのみ依存した生活を送っている。なので、長くて3週間から4週間したら10キロから20キロ先の場所へ移動する。一緒に生活する集団は10人から多くて50人ほど。
大きな獲物はめったにとれないが、とれたらキャンプにもって帰ると、居合わせた全員に分配される。大きな獲物の狩りに成功すると、解体にとりかかり、肉を細切りにして、手近のアカシアの枝にかけて日干しする。軽くして持って帰るためだ。
主食は植物性食物で、これは女性の仕事。男女とも、平均して1日に3時間から4時間は外出労働をしている。
ブッシュマンは動物の肉は大好物だ。でも、毒矢をつかった弓矢による狩猟の効率はそれほど良くない。大きなレイヨウ類が仕留められるのは、平均50人のグループで1ヶ月に1回くらい。
ブッシュマンの摂取カロリーの80%が植物に依存している。水は雨季以外にはほとんどなく、必要な水分はスイカ、メロン、草の根などに完全に依存している。井戸があるという話は出てきません。スイカの糖度は非常に低いが、生のままでも食べられるので、重要な水資源となっている。ダチョウの卵は水筒としても貴重だ。
ブッシュマンは、歌と踊りが大好きだ。ゲムズボック・ダンスは楽しみのためだけでなく、治療のためにも行われる。悪霊を退治して病気を治し、社会にはびこった邪悪なものを取り去って、社会に平安と安寧をもたらす。
少女が初潮を迎えると、小屋の中に寝かされ、その小屋の周囲を女性たちが専用の小さなエプロンだけをつけて、エランド・ダンスを踊ってまわる。おっぱいとお尻をあらわにして強調し、少女の健やかな成長と安産、多産を祈願する。
ブッシュマンにとって、すべてをつくったのはガマと呼ばれる精霊かカミサマ。民話に登場する動物たちは、どれも人間の姿をしていて、場面に応じて獣や鳥の姿に変身し、その習性を顕現する。
ブッシュマンにとって、ライオンは太陽とならぶ悪の代表格だ。人々もライオンには太刀打ちできず、かまれたり、かみ殺されたりする。
日本の昔話にウサギとカメの競争する話があるが、ここでは、ウサギの代わりにリカオンが登場する。ウサギはいたずらばかりする動物として民話によく登場する。ウサギが悪知恵をつかってライオンを殺し、ライオンの皮をかぶってライオンに化けるという話もある。
すごいですね。カラハリ砂漠に住み込んで民話を採集して、それを活字にしていったのです。そんな学者の根気強さには、ほとほと感心します。
(2020年1月刊。2800円+税)

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2020年4月19日

日本プラモデル、世界との激闘史

社会


(霧山昴)
著者  西花池 湖南 、 出版  河出書房新社

 日本のプラモデルは世界中から注目されているようですが、それでも日本の厚いファンで支えられているようです。そして、プラモデルに戦前の日本やドイツの戦車や戦艦などに日本人の人気があるのは、ドイツではまったく考えられないという指摘には、はっと驚かされました。
実は、私も中学生くらいまでは兵器モデルを愛好していましたし、雑誌『丸』を読んで軍事知識を仕入れていたのです。同世代の津留雅昭弁護士(故人)も私と同じようなことを言っていましたが、私より格段の軍事オタクでした。しかし、それも世間に反戦・平和を愛好する人々が増えてくると、軍事モデルは退潮していったようです。
プラモデルが発展したのは戦後のことです。初めはアメリカで盛んで、ここでも日本はアメリカの物真似からスタートしています。
現在、世界の模型の三大市場は、アメリカ、日本、中国だ。日本の模型市場は、ずっと日本の模型メーカーが支配していた。ところが、今では中国やロシア、そして東欧の模型メーカーの製品が押し寄せている。ただし、日本では、模型市場を日本の模型ファンが支えている。しかも、コアなファンが実に多い。
日本には、世界が呆れ、憧れもする部厚いオタク層が存在し、彼らのキャラクターへの愛が模型市場を隆盛させている。
「ロボット鉄人28号」は1960年に売り出され、累計で500万個も売れた。
静岡には、今なお老舗のプラモデルの会社が4社もある。
戦車のタミヤが「パンサー」や「ロンメル戦車」を売り出し、人気を集めた。そして「怪獣」キャラクターものが全盛となった。
1966年(昭和41年)の「サンダーバード」シリーズは、日本のプラモデル史上空前のメガヒットとなった。私が高校3年生のころのことです。テレビで私も「サンダーバード」はみていました。ところが、ブームが去ると、模型メーカーが次々に倒産していったのです。
1975年(昭和50年)には、スーパーカー・ブームが起きた。最盛期には、月に200万個も売れた。
「宇宙戦艦ヤマト」は1983年(昭和58年)までに、テレビアニメ3本、映画4本がつくられ、10年ほど人気は続いた。私も、長男が大好きだったので、これはよく覚えています。
コンピューターによるCAD/CAMの時代になる前は、優秀な金型(かながた)職人がプラモデル生産を支えていた。
このように日本でコアのファンがたくさんいるとしても、それはたいてい40歳以上の層であって、少年ファンを取り込めていない。今では、男子小学生で模型をつくったことがあるのは、わずか5%ほどでしかない。模型をつくる子はかつてのように多数派ではなく、「変わった趣味」扱いされるようになっている。いやあ、そ、そうなんですか。世の中、ずいぶん変わりましたよね...。
日本のプラモデルの変遷を知ることができましたし、なつかしく思い出しました。
(2019年12月刊。1600円+税)

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2020年4月20日

「良い生き物」になる方法

生物


(霧山昴)
著者 サイ・モンゴメリー 、 出版  河出書房新社

読んで楽しくなるというか、生き物はみんな人間と同じように意思も感情もあるんだなと、つくづく思ったことでした。
この本に登場する動物の多様さにも目を開かされます。犬、エミュー、豚、タランチュラ、オコジョ、キノボリカンガルー、ミズダコです。タランチュラを手のひらに乗せ、海中の大ダコの頭をなでまわしたり、びっくりぎょうてんです。
豚が賢いのは、前に読んだ女性が三匹の豚を飼って食べた話『買い喰い』(内澤旬子。岩波書店)で知っていました(この本はとても面白く、一読をおすすめします)。瀕死に近い状態の仔豚をひきとって育てたのです。1年で体重110キロのたくましい大きな豚になりました。
豚は人間を一人ひとり見分けるだけでなく、長いあいだ憶えている。
食べ物は手あたり次第に食べるのではなく、ちゃんと注意深くより分けて、一口ずつ上手に食べる。
お腹を撫でてやると、気持ち良くなって寝転ぶ。子どもたちとも、すぐ仲良しになる。
クリストファー(この豚の名前)は、石けんの入った湯を愛し、子どもたちの小さな手で耳のうしろを撫でられるのを愛した。仲間を愛した。誰とでも仲良くなった。
5年たつと体重は320キロになった。まさしく巨体ですね...。
タランチュラをふくめてクモは猫のように清潔好きで、牙をくしの歯のように使って、足の手をていねいにすき、身体をきれいに保つ。
人間は、ヘビと違って、クモに対する恐怖を生まれつき備えてはいない。
水族館の実験によれば、タコは人間を見分けられる。
著者はアテナ(ミズダコの名前)は、その頭を著者に撫でさせた。撫でていると、アテナの体の色が警戒色の赤から、リラックス状態を示す白色に変化した。
うひゃあ、タコも人間を見分けられるんですね...。
タコは玩具で遊ぶのが好きで、その多くは、人間の子どもが使う玩具だ。
タコが人間と親しくなりたいと思うのは、一緒に遊びたいからだ。
タコの腕は、いろんなことを同時にできる。タコのニューロンの5分の3は脳ではなく、腕にある。つまり一本一本の腕に脳があるようなものなのだ。その脳が刺激を求め、刺激を楽しんでいる。
犬の話も大変面白いのですが、ここでは割愛します。
最後にこの本に登場してくる生き物たちの写真がついています。本文には出て来ませんが、「カナダマニトバ州のヘビ営巣地ナルキッソス・スネーク・デンズで1万8000匹のヘビと遊ぶ」というキャプションのついた著者の写真もあります。ヘビを何匹も手にしてうっとりしている感じの写真です。いやあ、これは常人には出来ませんよね...。
「バターン死の行進」を生き抜いてアメリカ軍の将官となった父親とは意見があわず、ユダヤ人と結婚して、母親とも疎遠になった著者ですが、生き物への愛情ははんぱではありません。面白すぎる本なので、一気に読了しました。
(2019年10月刊。1750円+税)

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2020年4月21日

東ドイツ史、1945-1990

ドイツ


(霧山昴)
著者 ウルリヒ・メーラート 、 出版 白水社

メルケル首相は東ドイツの出身です。コロナ・ウィルスについてのドイツ政府の取り組みをテレビで語っているのをみました。もちろん、私は日本語訳です。
いやあ、日本のアベ首相とは比べものになりませんでした。コロナの脅威を自分がどう受けとめているか、首相として国民に何を訴えたいのか、よく伝わってきました。アベ首相は危機にある国のリーダーとして、まったく失格です。だって、自分の言葉で国民に訴えようという姿勢がありません。そして、メルケル首相は専門家の意見をよく聴いています。アベ首相は専門家に相談することなく、政治的に決断したと言うばかりです。これでは困ります。
その東ドイツが1945年から1990年まで、どんな国だったのか素描が提供されている本です。
東ドイツの書記長ウルブリヒトが政治的に生き残ることができたのは、ひとえにソ連の政治警察の責任者で、スターリン死後のモスクワの政治局内における有力者であったベリヤが解任され、東ドイツで蜂起が起きたから。
1954年に逃亡者は18万4000人だった。ところが翌1955年には25万2000人が東ドイツを脱出した。ただし、1953年には33万1000人ではあった。
1958年2月、ウルブリヒトは、党指導部内のライバルたちの解任に成功した。
1958年から59年にかけて、東ドイツ市民が実感できる経済の安定化が進んだ。
1961年8月、ベルリンの壁がつくられた。このころ、5万人の東ベルリン市民が西側で、1万2000人の東ベルリン市民が東側で働いていた。壁が出来たあと、700人の東ドイツ市民がここで命を落とした。
1965年、ウルブリヒトの「皇太子」と呼ばれていたホーネッカーの周囲には、若者文化にまるで理解のない党員ばかりだった。このころ、テレビや冷蔵庫、洗濯機は、もはや手に届かない家財ではなくなっていた。車(トラバント)も、手に入れて休暇を過ごせるようになっていた。
1971年6月、ホーネッカー時代が始まった。ドイツ社会主義統一党(SED)の大会で、人民の経済的水準と文化的生活水準をさらに向上させることが主たる使命だと宣言された。
ホーネッカーの時代、広範囲に張りめぐらされたシュタージの網が、SEDの指導要求に対する、いかなる異議申立の芽も摘みとった。シュタージの専従職員は9万1000人。それまでの2倍となった。そのうえ、非公式な協力者は、10万人から18万人にまで増えた。教会の職員も、その5%はシュタージの非公式協力者として登録されていた。
1975年には、350万人が東ベルリンと東ドイツに旅行に訪れた。4万人もの東ドイツ市民が「家族面会」の口実で西に行っている。
東ドイツでは、内政でも外交でも、あらゆることが現状維持だった。
東ドイツにある、いろんな組織に属していることは、多くの人々にとって、わずらわしい人生を送らなくてすむための年貢のようなものだった。ピオニール団があり、労働組合があり、独ソ友好協会がそうだった。
1986年、SEDの党員数は230万人、最高の水準だった。しかし、1988年、SEDはソ連の情報誌「スプートニク」を発禁処分とした。
1989年、東ドイツ内の非公式グループが今や公共の場にあらわれるようになった。
1989年、「私たちを出せ」というスローガンが、突如として、「私たちは、ここに留まる」に変わった。このころには、東ドイツは東側陣営のなかで、すっかり孤立していた。
1989年10月、SEDの政治局会議が開かれ、突然ホーネッカー書記長の解任が議題となった。参加者はわが身だけでも助かりたいという期待をもって、ホーネッカーを激しく攻撃した。翌11月、国境が解放された。これはSEDの権力が瓦解したことの表れだった。
1990年8月、東ドイツの人民会議は、圧倒的多数で、連邦共和国に加盟することを決議した。
東ドイツという国は、何が支えていたのか、どうやって、崩壊していったのかが分かる本です。
(2019年10月刊。1600円+税)

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2020年4月22日

5人の子をもつ「泣き虫先生」が議員になった

人間


(霧山昴)
著者 大脇 和代 、 出版 ウィンかもがわ

読んで、ホッコリ、じわんと心の温まる本です。著者は私より少しだけ年長の団塊世代で、29年間の中学校の教員生活(教科は国語)のあと、姫路市議会議員(共産党)として4期16年つとめ、病気(パーキンソン病)のため引退し、これまでを振り返ったのが本書です。アメリカに住む長女宅にしばらくいて本書を書き上げたとのこと。お疲れさまでした。
もちろん市議会議員としての議会報告をふくめた取り組みも面白いのですが、私が何より心を打たれたのは中学校で教えていたときの担任としての取り組み、教え子たちと体を張っての教育実践レポートです。若さで、真剣に子どもたちにぶつかっていった様子がまざまざと想像できて、ついつい涙がこぼれそうになってしまいました。
著者は、大阪での大学生活のときには親の言いつけどおり、政治的な活動からはまったく遠ざかっていて、ノンポリ学生で通していたのでした。ところが、中学校の教員となってから、同僚に誘われ共産党に入りましたが、ともかく教員生活と5人の子育てに明け暮れていました。
中学3年生を初めて担任として受けもち、張り切って教室にのぞむと、みんなが選んだ委員長Y君は、「ぼくと先生は水と油や。3年なんて受験だけや、ややこしいことはしたくない」と堂々とみんなの前で宣言した。著者のふくらんだ風船はパチンと破られた。
それでも毎日毎日、全力投球。お昼は弁当を出席順に個人面談と称して一緒に食べながら話す。生徒の誕生日には寄せ書き。清掃も、生徒とともに雑巾かけ。夏休みには山のぼり。応援合戦。そして秋の文化祭の合唱コンクールでは、生徒から「4時半からの早期練習」が提案され、必死の思いで早過ぎると止めに入った。「そんなことしたらクビになるかもしれない」と言うと、「そのときは、ぼくらが教育委員会に嘆願書を出す...」。それでも必死の説得で、なんとか1時間だけ繰り下げることになり、当日、本当に全員が集合し、合唱コンクールでは見事に優勝した。
いやはや、なんという素晴らしさ。中学生たちも、やるものですね。しかも、そのなかで、二人いた不登校の女子生徒たちも学校に出てきたのでした。
 生徒の感想文...。大脇先生は何でも「やりたがり」だから2組の生徒が大めいわく。それでも、なんてたのしいクラス。すばらしい仲間、すばらしくおかしい先生。みんなから愛されていた先生。先生と2組、いつもいつも、いっしょだった。
 この表現力のすばらしさにも私は心が震えました。
 もう一つ。3年B組の話です。
 「ワイはワルやで。修学旅行もこの格好で行かしてもらうさかい」
 S君は、ラッパズボンに、短い学ラン姿。修学旅行の前、S君は、「ワイはこれが似合うんや。みんなも言うとる」と言い、みんなの意見を聞こうと提案した。 S君が「男のことは男しか分からんから、女は出してくれ」と言うと、女子たちは皆、教室を出ていった。そして、男子全員はS君の言いなり。著者は涙があふれ、教室を飛び出し、女子のいる図書室へ。話を聞いた女子が「泣かんとき、わたしらSに言うたる」と走って出ていった。そして翌日、S君は、次の日、普通の制服で登校した。修学旅行も普通に近い服で参加した。
これだけ生徒と格闘しようとする大人の女性を見たら、中学生の女の子たちも心を固めたのでしょう。すると、その迫力に男の子なんてタジタジになったに違いありません。
 さらに、著者がすばらしいのは、この感動あふれる実践を歌詩にまで昇華させたことです。「生命(いのち。生徒)輝け」という歌になっています。
 「先生、助けて、試験がこわい 勉強しても 分からへん 落ちたら どうしたらええんやろ わたし 必死で頑張ってるけど みんな 頑張ったら おんなじや 
聞いてほしい 先生の思い あなたに会えて知った 揺れる心と 溢れるエネルギー 先生は あなたが 好き 誰も みんな 悩んでいるのは 自分が分かるまで とても苦しい 求め続けよう みんなと一緒に」
 中学2年生の生徒の作文...「大脇先生は、とても熱心で、感情豊かな先生ですね。先生が自分がすぐ泣いてしまうのを悩んでいますが、それは先生の心が美しく純粋な証拠だと思います。だから別に悩む必要はありません」
 中学2年生の男の子にこのように教師が慰められるなんて、夢のような話ですよね。
 これを読んで、私も、生意気盛りの中学生のとき、新任の女教師をクラスみんなでいじめて泣かせたこと、また、年輩の男性教師の授業ボイコットを扇動したあげく、職員室に謝罪に行ったことを思い出しました。中学生のときは生徒会の役員もしていたりはしたのですが、先生を泣かせたり、授業ボイコットなんかも率先してやっていたのです。そんなことをしていただなんて、自分でも信じられませんが、思い出しました。
 もう一つ。私が今もこうやって文章を書き続けてモノカキと自称しているのは、中学2年生の担任(今岡先生というベテランの女性教師)が、私の詩を読んで「あら、あなた、文章うまいのね。才能あるわね」とほめてくれたことによります。そうか、自分も作文かけるんだと自信がもてたのです。教師の一言がとてつもない大きな影響力があるものなのです。今でも今岡先生には心から感謝しています(といっても、申し訳ないことに、面と向かって感謝したことは一度もありません)。
 さて、4期16年の議員生活です。議会報告を出し、気がついたことを議会に問題提起すること。この二つを愚直なまでにやってきたことがよく分かります。本当にお疲れさまというほかありません。
 著者とともに歩んできた配偶者を亡くされても、5人の子どもさんたちが立派に成長されているようですので、今後とも引き続き、健康に留意されての無理なきご活躍を期待します。
 楽しい本(堂々500頁もあります)をまとめていただいたことに心から感謝します。
(2020年3月刊。1500円+税)

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2020年4月23日

シークレット・ウォーズ(上)

アメリカ


(霧山昴)
著者 スティーブ・コール 、 出版 白水社

9.11(2001年)以降、アフガニスタンとパキスタンを舞台として、アメリカのCIAがISIとともに展開した「見えざる戦い」を記述した本です。
CIAに対するアフガニスタン反政府勢力への支援は、パキスタンの主要スパイ機関、三軍総合情報局(ISI)を通じて行われていた。
アフガニスタン反政府勢力側の内部で仲間割れが起きたのは、それは勝利を予感して、もたらされるであろう利権をめぐって争いを始めたのだ。
インドに比べてパキスタンは人口も少なく、産業基盤も弱かった。このギャップを補おうと軍はインドによる軍事進攻への対抗策として核兵器を開発した。長年の悲願であるカシミール係争地域の獲得を狙って、ISIはイスラーム主義ゲリラに極秘裏に武器を与えて、訓練を施し、インド領カシミールへ潜入させ、警察署の爆破、誘拐、インド軍駐屯地を攻撃した。
およそ2万5千人から成るISIはパキスタン軍幹部の指揮下にあった。
9.11には、タリバンも、その他のアフガン人も加わっていなかった。ハイジャック犯はサウジアラビア人かその他のアラブ人だった。事件を企画したハーリド・シェイク・ムハンマドはパキスタン人で、クウェートに長年居住し、アメリカのノースカロライナ州の大学で学んでいた。ムッラー・ムハンマド・オマルが事前にテロの企てを知っていたかどうかは判然としていない。
9.11のあと、CIAのテロ対策センターは、2000人の常勤職員をかかえるまでになった。無秩序ともいえる急拡大だ。テロリズム分析室だけでも25人が300人へと膨れあがった。
アメリカは戦闘終結後のアフガニスタンについて、確固とした方針をもちあわせていなかった。ブッシュ政権は国家建設にも平和維持にもほとんど興味を示さなかった。
オサマ・ビン・ラディンとムッラー・ムハンマド・オマルは逃亡した。
アフガニスタンの各都市は地域有力者の手に委ねられることになり、その多くはCIAの協力者だったが、職権乱用、内部分裂、能力の欠如がはびこっていた。
アメリカは、ソ連軍と戦うㇺジャーヒディーンに対して、2000基以上の赤外線誘導式携帯型対空ミサイル、スティンガーを提供していた。そして、アフガン内戦が始まると、このミサイルを買い戻そうとした。CIAは、ISI職員などを通じてスティンガーを1基8万ドルで買い戻していった。
アフガニスタンでは、カネがすべて。政治もカネ、戦争もカネ、政府だってカネのため。
2003年に、ブッシュ大統領のもとの国家安全保障会議がアフガニスタンについて議論をしたのは2回のみ。これほどまでの無関心は、イラクに対する進攻と占領、戦後アフガニスタンの安定性に対する過信、加えてこれ以上の復興への関与は避けたいというブッシュ政権の希望があったから。
2004年7月17日、ネーク・ムハンマドはラジオでのインタビューに答えるため、衛星電話で通話をしていた。この通話はタスクフォース・オレンジをはじめとする組織によって、いとも簡単に傍受された。これを受けて、CIAのプレデター無人機が上空からヘルファイア・ミサイルを発射し、ムハンマドは殺害された。
恐ろしいことですね、電話で話していると場所を察知されて、上空からミサイルを撃ち込まれる世の中なんです...。でも、肝心なことは、こうやって暗殺しても、世の中の大勢は変わらないということです。
タリバンの自爆犯には若年者が多く、12歳とか13歳もいた。車を運転したこともない若者が爆弾を搭載した古いカローラに乗って、ためらうことなく路上で猛スピードで突っ込んでいく。タリバンは、自爆犯の遺族に2000ドルから1万ドルの見舞金を支給している。
タリバン政権が崩壊したあとのアフガニスタンでは、アヘンの原料となるケシの栽培が25%増加し、2006年には、生産量が一気に増えた。
2008年の1年間で、アフガニスタン戦争で死亡したアメリカ人は155人。前年より3割増。
2008年、タリバンによるIED攻撃は3867回にも達し、前年比5割増。
アフガニスタンで中村哲医師が殺害されてしまいましたが、それでも軍事力に頼らない解決を地道に探っていくしか、平和への道はないと私は考えます。
(2019年12月刊。3800円+税)

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2020年4月24日

法医学者が見た再審無罪の真相

司法


(霧山昴)
著者 押田 茂實 、 出版 祥伝社新書

DNA鑑定など、法医学者として多くの刑事事件に関与した体験をもとにしていますので、大変説得力があります。
この本の最後のところに、裁判官が間違った判決を出したことが明らかになっているのに、冤罪として無罪になっているにもかかわらず、有罪判決を書いた最高裁判事が「勲一等」「旭日大綬章」といった勲章を受章したままになっているが、本当にそんなことでいいのかと著者は怒りを込めて疑問を投げかけています。私もまったく同感です。無実の人を十分な審理をせずに誤った判決を下したとき、その裁判官に授与された勲章は国があとで取り上げるべきではないかと私は思うのです。
そこで思い出すのは、最高裁長官だった田中耕太郎です。裁判の当事者の一方と秘密裡に会い、合議の秘密をもらしたうえ、判決内容まで指示され、そのとおりにしたことが明らかになったのです。ひどいものです。砂川事件の最高裁判決は田中耕太郎がアメリカ大使から受けた指示のとおりになったのです。
裁判の独立をふみにじった、こんなひどい男はまさに日本の司法の恥です。ところが、客観的に明らかになっても、今の最高裁は何の措置も講じようとはしません。これでは、要するに同じ穴のムジナだと言うほかありません。司法の堕落です。
著者の鑑定結果と刑事判決が一致しない判決が10件以上もあるということです。これにも驚きます。つまり裁判官は法学者の鑑定を無視した判決をいくつもしているわけで、決して「例外」ではないのです。
先日の大崎事件の最高裁判決にも驚かされました。最高裁の裁判官にはあまりにも謙虚さが欠けていると思います。
弁護士生活46年になる私にとって、裁判不信は刑事裁判に限りませんが、刑事は死刑判決だったり、長期に刑務所に拘留されますので、民事以上に深刻だと思います。
(2014年12月刊。800円+税)

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2020年4月25日

デジタルで読む脳、紙の本で読む脳

人間


(霧山昴)
著者  メアリアン・ウルフ 、 出版  インターシフト

 たった一文字でも音読するときは、視覚野にある特定のニューロングループのネットワーク全体を活性化し、そのネットワークは同じくらい特定の言語ベースの細胞グループのネットワーク全体に対応し、そのネットワークは特定の調音運動神経細胞グループのネットワーク全体に対応する。すべてがミリ秒の精密さ。基本的にこれら三つの原理の組み合わせが読字回路の基礎となる。この回路は、二つの脳半球、脳半球それぞれの四つの葉(前頭葉、側頭葉、頭頂葉、後頭葉)。そして、脳の五つの層すべて(最上部の終脳とその下に隣接する間脳から、中間層の中脳、そして下位の後脳と髄脳まで)からの入力を取り入れる。
本を読むという行為には、意識を変える側面があり、それを通して、私たちは、希望をなくしてやけになったり、秘めた感情に恍惚とし身を焦がしたりし、それが何を意味するのか、感じられるようになる。
私たちは孤独でないことを知るために本を読む。過去20年間で若者たちの共感が40%低下し、この10年でも最も急激に低下している。この共感喪失の主な原因は、若者たちがオンライン世界を渡っていくには、どうしてもリアルタイムでじかに話す関係から注意をそがれてしまうことにある。現代テクノロジーのせいで、私たちは互いに距離を置くことになる。共感は、他者を掘り下げて理解することでもあり、異なる交代どうしのつながりが強まっている世界では欠かせないスキルなのだ。
活字の字を読むとき、運動皮質が活性化する。それは文字どおり、皮質の跳躍に近い。共感には、知識と感情の両方を必要とする。
現代の若者は、自分が何を知らないかを知ろうとしない。知識が発展するためには、私たちは絶えず背景知識を増やす必要がある。デジタル刺激がひっきりなしに続けば続くほど、ごく幼い子どもでさえ、機器を取り上げられたときに退屈と倦怠感を訴える。注意過多、恒常的注意力分散、注意力不足が起きる。
デジタル機器に取りかこまれているということは、注意散漫の世界に生きていることを意味する。同じストーリーであっても、活字本で読んだ学生のほうが画面で読んだ学生より筋を時系列順に正しく再現できるという実験結果がある。デジタルに慣れて、脳の新奇性中枢がピカピカの新しい刺激を処理すると報酬を与えられるようになり、いつのまにか中毒ループに入ってしまう。これは、持続的な努力と注意に対する報酬を得たい前頭前皮質にとってマイナスだ。私たちは長期的な報酬を求め、短期的なものをあきらめるよう、自分を訓練する必要がある。
読解力達成度のもっとも重要な予測因子のひとつは、親が子どもに読み聞かせをする量だ。子どもに毎日、読み聞かせをし、毎晩、物語を読むことを儀式化する。子どもに自分たちの文化への準備をさせ、生涯の教訓を教える物語だ。あらゆる文化に見られる普通の道徳律は、物語で始まる。私たち人間は物語を話す種(しゅ)なのである。
4年生の読解レベルと学校での落ちこぼれには相関関係がある。アメリカ州当局の刑務局は、将来的に必要になる刑務所のベッド数を、4年生の読解力の統計をもとに見積もっている。
流暢な読みをするには、言葉の働きだけでなく、言葉がどういう感情を生むかについても、知る必要がある。共感と視点取得は、感情と思考の複雑な識別の一部であり、その二つが合わさると、より深い理解が促される。バイリンガルの成人のほうが、モノリンガルの成人よりも、話し言葉の柔軟性をはるかにたくさん身につけていることが実験の結果、判明した。
やっぱり人間にとって、とくに子どもにとって必要なのはデジタル機器ではなく、昔ながらの親による本の読み聞かせなのだということが改めてよく分かりました。
(2020年2月刊。2200円+税)

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2020年4月26日

「フランスかぶれ」ニッポン

フランス


(霧山昴)
著者 橘木 俊詔 、 出版 藤原書店

フランスをこよなく愛する日本人は少なくないと思いますが、私もその一人です。
毎日毎朝、フランス語を勉強しています。恥ずかしながら、もう50年になります。それだけの裁月をかけている割には、ちっともうまく話せないのが残念です。
著者はエクサンプロヴァンスに3ヶ月も滞在したことがあるそうです。私も40代の初めに1ヶ月近く大学寮で寝泊まりしました。ポール・セザンヌの描いたサンヴィクトワール山がよく見えました。今から10年前にもう一度行ってみました。落ち着いたいい町です。
フランスの小説が日本に与えた影響は大きいが、かなりの割合で不倫を扱っているので、日本ではおおっぴらに語ることのできるテーマではなかった。
マルクスやエンゲルスもバルザックの愛読者だったし、最近のピケティは、『ペール・ゴリオ』のなかから得られた統計情報を、庶民の生活水準にてらしあわせて、人々がいかに苦しい経済生活をしていたか数字で証明しようとしている。
文芸誌『スバル』(漢字は昴です)の主幹は森鴎外であり、編集者は石川啄木など。寄稿者は啄木24歳、北原白秋24歳、木下杢太郎23歳、高村光太郎26歳という若さだった。みんな若いですね...。
フランス映画もいいものがたくさんありますよね。戦前の映画『天井桟敷の人々』は傑作だと思いますが、間接的に戦争中のナチスへの抵抗の姿を示した映画でもあるんですね...。アラン・ドロンよりもフランスではジャン・ポール・ベルモンドのほうが演技も人気も上だということです。
フランスでは哲学がリセ(高校)の必須科目になっていて、バカロレア(高卒資格試験)の必修科目です。初日の午前中に3時間の自由記述の難問です。
関東大震災のときに憲兵隊(甘粕事件)から虐殺された大杉栄は、アナーキストとして活動していましたが、父親は軍人で、本人も陸軍幼年学校に入っていました。フランス語を勉強していて、フランス語はペラペラでした。ベルリンで開かれる国際アナキスト大会に参加要請されてパリに行き、メーデーの会場で話をしたら逮捕されて、有名なラ・サンテ監獄に収監されたのでした。そして、日本へ強制送還されて2ヶ月後に虐殺されてしまったのです。
ファッションそしてフランス料理の世界でも日本人が数多く活躍していることも紹介されています。この本を読んで、私の下手なフランス語も引き続き続けて、なんとかモノにしたいと改めて強く思ったことでした。
(2019年11月刊。2600円+税)

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2020年4月27日

ツバメのひみつ


(霧山昴)
著者 長谷川 克 、 出版 緑書房

ツバメの平均体重は20グラム、スズメは、それより少し重くて24グラム。なんだか見かけと違った印象です。ツバメは足がとても短い(1センチ)。
ツバメは高度に特化した飛翔性能を有する。地球上には、70種をこえるツバメがいるが、日本には5種しか生息していない。
ツバメのオスは、メスより尾羽が長い。オスは尾羽にある白い斑が大きく、喉の赤さが際立っている。そして、背中の青い金属光沢も強い。そして、さえずっているツバメは、だいたいがオス。メスへの求愛のために鳴いている。
メスは子育てに尽力し、夜間に抱卵しているのはメス。オスのツバメも抱卵するが、短時間のみ。ただし、ヨーロッパのツバメではオスは抱卵しない。
ツバメは成鳥になってからの平均寿命は1年半ほど。平均生存率は50%。
同じ巣を同じカップルのツバメが使っているように見えても、実は、毎年、メンバーが入れ替わっていることが多い。
ツバメは朝起きて、夜に眠る。1日の大半を食事に費やしている。ツバメは平均時速40~60キロ。
ツバメのメスは、自分の夫が魅力に欠けるときには、浮気して子をつくる。それでも、ツバメの子の97%は、巣の世話をしているオスの子。ヒトの婚外子が3%なのと、あまり変わらない。
ツバメの親は、色がもっとも赤く鮮やかな口をしているヒナに、好んでエサを与える。また、もっとも激しくエサをねだるヒナが優先的にエサをもらえる。
ヒナは、卵から孵化したあと、20日ほどで巣立ちする。それでも、親は、巣立ち後も、しばらくは子の世話を続ける。そのほうが子の生存率は高まる。新潟県上越市で200羽のヒナに足環をつけたところ、帰ってきたのは、わずかに8羽だった。
ツバメの発祥の地は、ヒトと同じアフリカ。
ヨーロッパのツバメは、牛舎のなかで集団的に繁殖する。牛舎だと天敵にやられて全滅する危険は小さい。
東南アジアでは、ツバメを釣って食べる地方がある。
ツバメは地球規模で減少している。日本でも体感として10年前の10分の1になっている。
ツバメは冬のあいだ、南方の地域でどんな生活をしているのかも知りたい...です。
(2020年3月刊。1800円+税)

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2020年4月28日

平成重大事件の深層

社会・司法


(霧山昴)
著者 熊﨑 勝彦 (鎌田 靖) 、 出版 中公新書ラクレ

東京地検特捜部長として高名な著者をNHK記者だったジャーナリストがインタビューした本です。8日間、のべ25時間に及ぶロングインタビューが読みやすくまとめられています。
「これは墓場までもっていく」といった場面がいくつかあり、いささか物足りなさも感じました。要するに自民党政治家の汚職事件です。
ゼネコンなどが大型公共工事で談合していることは天下周知の事実なわけですが、途中に「仲介人」が入っていたら刑事事件として立件できない、著者はこのように弁解しています。一見もっとものようにみえますが、本当に「仲介者」を攻め落とせないのか、そこに例の忖度(そんたく)が入っていないのか、もどかしい思いがしました。
登場するのは、リクルート事件、共和汚職、金丸巨額脱税事件、大手ゼネコン汚職事件、証券・銀行の総会屋への利益供与事件、大蔵省汚職事件です。
スジの良い情報をとれば、捜査は半分成功。
厳正な捜査を貫くことが捜査の基本だが、そのなかで国民目線でものを見ていくことも重要。国民の視点をつねに留意する。捜査というのは、途中で後戻りする勇気も合わせもたないとダメ。
事件捜査は、離陸がうまくいっても、肝心なことはうまく着陸できるか...。
金丸信副総裁への5億円ヤミ献金事件では、金丸信を実情聴取もせず、上申書のみで、罰金20万円で終わらせた。これに国民は怒った。怒った市民が検察庁の看板をペンキで汚すと、同じ罰金20万円だった。
著者は、この金丸副総裁の件を罰金20万円でよかったと今も考えていると弁明しています。とんでもない感覚です。金丸信は、現金10億円を隠していたのです。いったい何という政治家でしょうか...。これが自民党の本質ですよね。
ゼネコン汚職事件について、談合が過去形であるかのように語られているのも納得できません。
高度成長期に建設業界が長いあいだ公共事業で潤っていたことが明らかになった。その旨味(うまみ)を、談合をとおして特定業者に分配する構造が浸透していた。
さらに、談合は受注側だけじゃなくて、発注者側も加担している。つまり官製談合もはびこっていた。このような隠れた社会システムのなかで、建設族とか運輸族とかの族議員や地方自治体の長らが幅を利かせていた。
これって、今もそのまま生きているように私には思えるのですが...。
レストランの奥の部屋にゼネコン4社の談合担当者が集まり、全部で現金1億円をトランクに入れ、それをまるごと仲介者に手渡した。そして仲介者が仙台市長に渡した。
今も、同じことがされているのじゃないのでしょうか...。
物足りなさもたくさんありましたが、特捜検事の苦労話としては面白く読みました。
(2020年1月刊。980円+税)

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2020年4月29日

南仏プロヴァンスの25年

フランス


(霧山昴)
著者 ピーター・メイル 、 出版 河出書房新社

コロナ・ウィルスによる深刻な被害で世界中が大変なことになっている今、旅行どころではありませんが、旅行に出かけるとしたら、南仏プロヴァンスは絶対におすすめです。
だって、年間300日は麗らかに晴れて、夏だと夜10時ころまで明るいのですから、観光にはもってこいです。そのうえ、食べるものが美味しく、ワインも高価でなくても最高の味わいなんです。
夕食をとろうと、夜6時にレストランに入ろうとしても早すぎます。早くても夜7時から。夜といっても、午後の7時や8時はまだ真昼間なんです。店内ではなくて、道路に面したテラスにテーブルがセットされていて、道を行きかう人々を眺め、眺められながら、2時間かけて、ゆっくり美味しい料理とワインを楽しむことができます。そんな夢のような生活を過ごした著者が描き出した『南仏プロヴァンスの12か月』は世界的な大ヒットとなり、空前のプロヴァンス・ブームを生んだのでした。
私が初めてそんなプロヴァンスの一つ、エクサン・プロヴァンスに4週間ほど滞在したのはまだ30歳代のことでした。外国人向けのフランス語夏期集中講座に参加したのです。学生寮に泊まってフランスでの独身生活を謳歌しました。
プロヴァンスの人々は、地球上のどこよりも特典に恵まれた環境に生きていると信じきっていて、他所へ移る意思はない。
プロヴァンスの人々は、時間にせかされる今様のせせこましい風潮を嫌い、当然のことながら政府を信用することなく、「パリの出来そこない」と言って見下している。
フランス人が会話を彩る仕種(しぐさ)は、ほれぼれするほどだ。指、掌、腕、眉毛の自在な動きと声の抑揚によって論点を強調し、発言の内容を敷衍(ふえん)する話術が絶妙だ。
プロヴァンスではロゼが圧倒的な人気だ。見た目がいいし、料理は相手を選ばない。
プロヴァンスでは昼の食事がことさら重んじられている。商店はどこも、正午から午後2時まで休みをとる。週末の昼食は常にもまして大切とされ、とりわけ日曜は平日なら2時間の昼休みが3時間をこすのもざら。
ワイン・フェスティバルのとき市場(マルシェ)の屋台を冷かして食べ歩く。火を通さないソーセージ、ピザを一かけら、山羊のチーズを一口、さらにリンゴのタルトの甘い香りが鼻をくすぐる。そして、パスティス(食前酒)。フランス人は、1日にグラス2千万杯、年間に1億3千万リットルのパスティスを飲む。パスティスの滑らかな喉越しは、憂いを払ってくれる。
ああ、またまた南仏プロヴァンスの陽光を浴びながら、歩道のテラスでパスティスそしてキール・ロワイヤルを飲みながら、美味しいフランス郷土料理を味わいたくなりました。困った本です。でも手放せません...。
(2019年11月刊。1700円+税)

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2020年4月30日

我が家に来た脱走兵

社会


(霧山昴)
著者 小山 帥人 、 出版 東方出版

50年前、私が大学生のころ、アメリカはベトナムに大量(最高時50万人)の兵隊を送り、ジャングルでベトナム解放民族戦線(ベトコン)と戦っていました。
アメリカのベトナム侵略戦争です。アメリカには共産主義が東南アジアに広まったら困るという「ドミノ理論」があるだけで、客観的には何の大義もありませんでした。要するに、アメリカの軍需産業がもうかる一方で、前途有為のアメリカ人青年が5万5千人も無駄に戦死させられたのです。そして、ベトナムでは何百万人もの罪なき人々が無残に殺されました。そんなベトナム戦争に疑問をもつアメリカ人青年がいて当然です。
ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)は、そんなアメリカ人青年がアメリカ軍から脱走してきたときの受け皿になっていました。この詳細は『となりに脱走兵がいた時代』(思想の科学社)で詳しく紹介されています。
この本は脱走兵の一人、19歳のキャルを3日間だけ京都の実家に迎えたNHK記者が、47年ぶりに再会したことを紹介しています。
キャルは北海道からソ連へレポ船で渡り、スウェーデンにたどり着きました。やがて結婚して子どもまでもうけたのですが、ついにアメリカに戻ったのでした。そして、麻薬中毒患者になったり、CIAに脱走当時のことを全部話したりしたのですが、今はホームレス支援の生活をしているのです。
脱走兵のなかにはCIAが送り込んだスパイもいました。これは、『となりに脱走兵がいた時代』にも紹介されています。
この本を読んで、見も知らないアメリカ人青年の脱走兵を受け入れた日本の家庭がたくさんあったことに改めて深く感動しました。ナチス・ドイツの支配するベルリンでもユダヤ人をかくまったドイツ市民が何百人もいたというのと同じことなのでしょうね...。やっぱり、いつの時代にも勇気ある人はいるものなんですよね。
著者がNHK記者だったこともあり、当時の映像が残っていて、それが毎日放送(テレビ)で2015年に放映されたとのことです。みてみたいです。
(2020年2月刊。1500円+税)

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