弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2007年3月26日

ブドウ畑で長靴をはいて

世界(フランス)

著者:新井順子、出版社:集英社インターナショナル
 ロワール地方にはたくさんのシャトーがあります。ブロワ城や有名なシュノンソー城もロワール河の支流シェール川沿いにあります。そのシェール河近くに日本人女性がワイン畑のオーナーとなり、無農薬でブドウを栽培してワインをつくっているのです。すごーい。日本女性をまたまた見直しました。
 1ヘクタールに6000本のブドウの樹が植わり、8ヘクタールのうち2ヘクタールは休耕地になっているから、6ヘクタールだと3万6000本。これを一本一本、手で剪定していく。一本の樹に5分から15分かかる。
 ブドウの赤ちゃんに「元気に育ってね。たくさんお世話するからね」と話しかける。ブドウの樹は人間よりずっと頭がいいから、フランス語でも日本語でも分かる。
 ブドウの樹は6月ころ花を咲かせ始める。気がつかないほど小さな白い花がプチプチ咲く。とても愛らしい。花が咲いて100日後にブドウの収穫が始まる。花が咲くと、その年の収量を調整するため芽かき作業をする。一本の樹から多くて10房までとした。ゴメンナサイネと謝りながら、残酷にもブドウの芽を摘んでいく。
 ワイン用の樹は小さく育て、皮を厚く実を小粒にして糖度を上げていく。
 8月は放っておいてもブドウが熟成するので、ワイナリーはバカンスをとる。
 ブドウジュースを樽に移し替えるとすぐに発酵が始まる。
 「チチチチ・・・・」
 木樽に耳を当てていると、発酵の始まった音が聞こえてきた。ワインが息をしはじめ、発酵が健全に動き出した証拠だ。音で確認できる。
 足踏み作業は醸造の大切な過程だ。水着の上にTシャツを着て、素足で開放桶に飛びこむ。ズボボボーと足がブドウの粒の中に沈んでいく。踏むというより、まるで底なし沼でもがいているようだ。それも酸欠状態で。笑いごとではない。桶の中にいる人間は要注意だ。ときどき桶から顔を出して息継ぎする。
 著者はスポーツ・ウーマンでもあります。19歳から29歳までの10年間、空手にいそしみ、3段をとっています。お稽古事にもいろいろ手を出しました。料理、華道、茶道、着付け教室、そしてワインスクールに通うようになったのが、彼女の運命を決めたのです。
 一級テイスターに合格第1号でした。なにしろ、1時間で15アイテムのワインをブラインド・テイスティングで14アイテム以上の銘柄を正解しないと合格できないというのです。よほど繊細な舌をもっているのでしょうね。私などは、これがまったくダメです。コンビニの安ワインの方を高級ワインよりおいしいと思ってしまうほどの舌でしかありません。残念です。年に4000本から6000本のワインをテイスティングしたというのですから、さすがプロを目ざす人は違います。
 彼女は、ワインは自分でお金を出して飲みなさいとすすめています。
 生徒の前に3つのコップがおかれる。どれも一見すると、タダの水。一杯を飲む。なんともない。2杯目、うむ、なんかある。3杯目、いよいよ何かある。3杯目のコップに何も感じなかったら鑑定家のプロになる資格はない。2番目のコップには、1リットルあたり1ミリグラムの砂糖が入っており、3番目のコップには3ミリグラムの砂糖が入っていた。これが分からないような舌では、まるでつかいものにならない。うーむ、厳しいんですね。恐らく私はダメでしょうね。
 丹精こめてブドウの樹を育て、心をこめてワインをつくっている姿が写真と文章でしっかり伝わってきます。実にうらやましい。生き生きした笑顔が輝いています。一度、彼女のワインを飲んでみたくなりました。
 庭にチューリップの花が50本ほど咲いています。まだまだ、これからが本番です。ピンクに白いふちどりのあるチューリップの花に気品を感じます。クロッカスの白い花、青紫色のムスカリの花が並んで咲いてくれました。お互いにひきたてあっています。まさに春到来です。雨戸を開けて庭を見るのが毎朝、楽しみです。

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2007年3月23日

世界をリードするオンリーワン中小企業

社会

著者:木村元紀、出版社:洋泉社
 日本の中小企業は、世界市場でも大いにがんばっているのですね。この本を読んで、そのことを知って、なんとなくうれしい気分になりました。
 私は年2回の人間ドッグで胃カメラを飲んでいます。私の場合、麻酔の注射をうってもらいますので、すぐに意識が薄れて痛みも何もなく、いつのまにか検査は終わっているという感じです。ところが、胃カメラのような長いチューブを喉から差し込むのではなく、小型カプセルを飲み込むだけ、しかも身体の中から生中継できるというのです。驚いてしまいます。いえ、もう実用化されているというんですよ。すごいですね。
 飲み込んで排泄されるまでの7〜8時間にわたって、体内の様子を撮影でき、リアルタイムでモニターできる内視鏡なのです。「ノリカ・3」は、大きさが23×9ミリ。照明用の発光ダイオード(LED)を3種類そなえ、解像度の高いCCDカメラで一秒間に30コマの動画が撮影できる。電池は不要。無線で体外から電力を供給する。
 患者はコイルを埋めこんだベストをつけて大きな固定子とし、体中に入るカプセル全体を小さな回転子とする。患者の着るベストは、撮影した画像の受信、電力の無線伝送の役割も果たす。これはスゴーイ、そう思いました。体の外から体内で電気を起こさせたり、遠隔操作するというのです。まさしく逆転の発想です。
 さらにすすんだものには、中央内部の二重構造になったカプセルの内筒の中央部分に 360度回転するレンズが付いている。
 痛みを感じさせない超極細注射針。注射で痛みを感じるのは、針先か神経の末端である痛点にあたるから。この痛みを感じさせない注射針は、毎日、インシュリンを注射しなければいけない糖尿病患者を大きく励ますものだ。
 実は、アメリカは中小企業の比率が高い国だ。従業員数は比率でみると、日本と変わらない。むしろ、大企業から独立した企業が多い。アメリカのGDPは日本の3倍。中小企業の数は3.5倍、個人事業主は6倍近い。
 いまの日本の国内企業の最大の問題は後継者。創業者は、今や65〜70歳となっている。どこも跡継ぎがいないと頭を痛めている。弁護士会でも、今、この問題に取り組もうとしています。中央では中小企業庁とタイアップし、福岡では商工会議所との提携を考えています。

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団塊世代の定年と日本経済

社会

著者:樋口美雄、出版社:日本評論社
 団塊世代とは、狭義には1947年から49年までの3年間に生まれた人のこと、人口にして691万人、就業者数にして539万人。他の世代に比べて2〜5割も多く、日本の全人口の5.4%、全就業者数の8.6%を占める。
 団塊世代の出生数は806万人。もっとも出生数が多かったのは1949年で270万人。2003年に生まれた子どもは112万人だったから、その2.4倍である。団塊世代が生まれた出生地は、東京都49万人、北海道46万人、福岡35万人、大阪32万人、愛知32万人、となっている。あれー、福岡って多かったんですね。筑豊や大牟田に炭鉱があったせいでしょうね。1950年時点で734万人となり、1975年には、711万人だった。その後の30年間に172万人が死亡している。
 アメリカは、日本と少し事情が異なる。アメリカのベビーブームは1946〜1964年の18年間。長期にわたって毎年350〜400万人が生まれた。イギリス、イタリア、フランスは日本と同じ3年間がベビーブームだった。
 団塊世代の女子が生んだ子どもは676万人。単純にいうと、自らの世代よりも130万人少ない子どもを残したことになる。
 これから退職一時金として5.5兆円、年金給付1.4兆円の合計7兆円の退職給付が毎年支給される。
 団塊世代の未婚率は、最近の世代に比べると低い。団塊世代を世帯主とする世帯は、 2000年時点で、夫婦と子ども世帯(子どもは平均2人)が4割以上と、もっとも多い。子どものいない夫婦のみ世帯と、離婚や死別などによる単独世帯があわせて3割もある。
 東京圏の団塊世帯数は、この5年間で2万世帯増加し、持家率も6ポイント上昇している。団塊の世代は、その上の世代に比べて、三大都市圏とりわけ首都圏に偏在して居住している。
 1980年代後半までは、日本の純家計貯蓄率は世界最高だったが、その後、低下し続け、今では絶対的にも相対的にも高いとはいえない。日本人は、以前は貯蓄好きだったがもはや貯蓄好きとはいえない。
 また、日本人は以前は借金嫌いだったが、近年は借金好きになっている。むしろ、日本人はG7加盟国の中でもっとも借金好きなのである。
 あれれ、日本人って、すっかり変わってしまったんですね。
 実は、私も来年、ついに還暦を迎えることになりました。ええーっ、そんなー・・・、と叫びたい気分です。先日、鏡を見て自分の顔を眺めたとき、眉毛に白いものを見つけて驚きました。初めは、何か糸くずがついていると思ったのでしたが・・・。まだ気はしっかり20代なんですが、お腹の出っぱりを見ると、そうでもないのを実感させられます。

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トヨタ・レクサス惨敗

社会

著者:山本哲士、出版社:ビジネス社
 レクサスを運転していて、とても腹が立ちました。ええっ、この車は運転する人間をバカにしていると思いました。なにしろ、ひどいときには10分おきに「販売店からのお知らせがあります」というアナウンスが流れるのです。これでは、まるでレクサス様の奴隷のようなものです。せめて車のなかのプライベート空間くらい、自分の好きなように放っておいてほしいのです。にもかかわらず、次から次へコマーシャルを流しこみ、ご主人様はレクサス様であるなどというご託宣を並べたてられた日には、ストレスがつのるばかりです。
 この本を読んで、レクサスが日本で売れないわけが分かりました。レクサス(トヨタ)は勘違いしているのです。
 販売店からの案内というのは、テレマティクスというのだそうです。
 テレマティクスとは、移動中の自動車でも家庭や職場と同じようにインターネットを介して情報やコンテンツを楽しんだり、メールをやりとりできるようになるというビジネスモデルのこと。実際には、トラブルの双方向データ通信、タイヤやオイル交換データの告知といった程度、そして、それに毛の生えた余計な情報提供があるだけ。自動車会社には、これによって顧客情報が常に得られ、顧客との関係が継続することで顧客の囲いこみができるという思惑がある。
 私は車内では一人静かにシャンソンを聞いて楽しみたいのです。それを途中で遮られたくなんかありません。そして、今は、NHKフランス語講座のCDを聞いて、同じテンポで発音する訓練をしています。その邪魔をしてほしくはありません。
 アメリカではレクサスは大いに売れた。すでに年間25万台をこえ、年間30万台に達しようとしている。アメリカでレクサスは通算100万台売れるまで10年を要したが、その後、通算200万台を4年で達成している。アメリカの自動車市場のうち高級車市場のシェアは、1990年代の8%から現在は11.4%にまで伸びており、レクサスは断然トップの 14%を占める。
 アメリカ・レクサスのユーザーたちは巨額の資産をかかえる富裕層ではなく、年収10万ドルの層だ。2001年、アメリカでは年収10万ドル世帯が10年前の10%から14%へと伸びた。この層は、社会への自己主張がクルマを選ぶのではなく、有用性、性能、資産価値などで信頼できるブランドを自分のために求めるよう、はっきりと変わってきた。
 アメリカ・レクサスは、日本トヨタのモノづくりにまったく相反して、アメリカの自動車市場に対してもまったく相反する世界をつくり上げたことによって大成功をおさめた。
 レクサスを扱う店に行くと、そこが自分のとってパブリックな空間で、自分が自然にプライベートな存在になれることを好んで、アメリカ人はレクサスのディーラーショップに通いつめる。
 アメリカ・レクサスは、オーナーたちに生活の快感をもたらすシステムを設計し、構築した。アメリカでレクサスが成功したのに対して、ヨーロッパではマイバッハが成功をおさめている。マイバッハの価格は4000万円とか5000万円、マイバッハのセールスセンターは、一日に一人しか予約を入れない。一人にだけ徹底する完全予約制だ。
 日本のレクサスは高級車ではない。レクサスを販売する営業マンの教育のためにエアラインの客室乗務員を呼んで人材研修を行ったことを著者は痛烈に批判しています。レクサスに求められている最高のサービスが何百人もの客を数人で対応しているエアラインの客室乗務員から学べるとトヨタが考えているとしたら、それこそ笑止千万だ。
 日本の富裕層は、レクサスのクルマとしての素晴らしさを理解しているが、見せびらかしたい相手である一般大衆層のほうがレクサスを高級車として認知していないために、買おうとしないわけである。
 クラウンやマジェスタなどトヨタの上級車のオーナーがレクサスに乗り換えただけ。外国車からの乗り換えは1割ほどしかいなかった。
 クルマは、今や単なるモノではないという指摘はあたっているように思います。レクサスがアメリカで売れているのに、日本でなぜ売れないのか、その分析は鋭いと思いました。

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2007年3月22日

淀殿

日本史(戦国)

著者:福田千鶴、出版社:ミネルヴァ書房
 淀殿とは、豊臣秀吉の側室の一人。秀吉の愛妾となって秀頼を産み、秀吉の死後は、秀頼とともに大坂城にあって、大坂冬の陣、夏の陣を引き起こし、ついに豊臣家を滅亡に導いた。このような定説に真っ向から挑戦した本です。
 淀殿の本名は、浅井茶々(ちゃちゃ)。
 殿と様には違いがある。「殿」付けで呼ばれるより、「様」付けで呼ばれる人物の方が格上であった。淀殿というのは江戸時代になってからの呼称。その生存中には、「様」付けで呼ばれていた。
 天下人たる豊臣秀吉は、一夫多妻の婚姻形態をとっていた。明治になるまで、天皇家においては、制度的に后(正妻・嫡妻)が一人とは限られなかった。后以外にも女御などの別妻や多くの女官(侍妾)がいた。摂関家も同じく一夫多妻制だった。天皇を超越する権威と権力をもった天下人秀吉の妻が一人でなければならい理由はない。
 著者は、秀吉の妻は少なくとも5人いたとしています。有名な醍醐の花見のとき、御輿に乗って現れた女性、すなわち、政所(杉原寧)、西の丸(浅井茶々)、松の丸(京極龍子)、三の丸(織田氏)、加賀(前田摩阿)です。
 秀頼は茶々(淀殿)が秀吉以外の男性と密通して生まれた子だという説がありますが、著者は否定します。秀吉の身近にいた寧が秀頼を秀吉の子であることを疑っていなかったこと、秀吉の嫉妬深く残忍な性格からして、茶々がもし密通していたら、それが発覚したときには生命の保障はない。だから、そんなことはありえない。なるほど、ですね。
 寧と茶々の二人は、個々の問題で対立する場面はあったが、重要なことは、二人とも豊臣家の後家として連携することを基本として考え、常に行動していた。
 秀吉は、第一番目が寧であり、第二番目が茶々であるという序列を強く意識しており、この順序を崩すことはなかった。
 秀吉が残忍なことは秀次とその関係者の処刑の件で知っていましたが、もうひとつあったのですね。天正 17年(1589年)2月25日夜、聚楽城の表門(南鉄門)に誰かが落首を貼り出しました。
 大仏の功徳もあれや鑓かたな
 釘かすがいは子だからめぐむ
 などです。子種がないと思われていた秀吉に子ができたことが大仏の功徳として嘲笑されたのです。秀吉は自尊心を大きく傷つけられ、直ちに報復の行動に出ました。
 番衆17人を処罰。3日にわたって、一日ずつ鼻を削ぎ、耳を切ったうえで、逆さ磔に処していったのです。このようにして合計して113人が処刑されました。
 もっとも、秀吉は人気回復の手もうちました。金賦(くばり)です。金6千枚、銀2万5千枚を諸大名や寺社に分配したのです。
 そして、懐妊した茶々のために御殿を新造しました。茶々は御新造様になったわけです。
 茶々が淀に在城していたから淀殿と呼ばれていたというのは誤りだ。正しくは、淀在城を機に茶々が「淀」を号として用いたため、死後に号の「淀」に敬称の「殿」をつけて「淀殿」と呼ぶようになり、近代になってからは「君」をつけて「淀君」と呼ぶようになったものである。
 茶々は初めての子「鶴松」を亡くしても秀吉の正妻としての地位は失わなかった。
 慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が62歳で死んだ。秀頼はわずか7歳だった。茶々は、大坂城が灰燼に帰す日まで、17年間、秀頼とともに大坂で暮らした。
 このころの大坂は人口20万。経済的にも文化的にも、日本でもっとも繁栄した活気ある大都会だった。家屋も二階建てだった。
 慶長16年の二条城会見で、成人した秀頼を見た家康は、徳川の天下の行く末について不安を感じた。それから4年後、豊臣家は完全に滅亡させられた。
 大坂夏の陣で、茶々は秀頼とともに自害した。その様子について、伊達政宗は手紙に次のように書いた。
 大坂城は本丸をみずから焼き、秀頼とお袋(茶々のこと)は翌日まで天守下の丸の蔵に生き残っていたところ、公方様が千姫を引き取り、秀頼には腹を切らせ、お袋は成敗した。
 著者は、茶々について、家康の保護下に入ることを拒み続け、何としてもわが子を天下人にするという自己主張を貫き通した茶々の姿には、男にもひけをとることのない精神力の強さと、戦国女性ならではの意地を見る思いだ、としています。なるほど、そういう見方ができるのですね。
 ところで、この本には再三、「武功夜話」が引用されています。偽書だという説もあるわけなのですから、その点のコメントなしに引用されているのにひっかかりました。どうなんでしょうか・・・。

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2007年3月20日

証券詐欺師

アメリカ

著者:ゲーリー・ワイス、出版社:集英社
 振り込め詐欺の黒幕が暴力団だということは、五菱会事件における暴力団山口組との結びつきが明らかになって、今では広く知られています。
 先物取引や株式取引の仕手戦その他のインチキ取引でも暴力団が絡んでいると思われますが、その確証はまだまだ十分とは言えません。
 この本は、アメリカの証券業界(ウォール街)における詐欺商法がマフィアの資金源となっていたことを明らかにしています。読めば読むほど、おぞましい手口です。こうやって、日本でもアメリカでも、お人好しで無知・善良な市民が大金を欺しとられているのですね。
 ノドから手が出るほど金に飢えているルイスのような人間が、大金を手に入れるには、お金は既にたっぷり持っているかのような見てくれが肝心だ。腕時計はプラチナ仕上げのロレックス・プレジデンシャル。文字盤の周囲にダイヤがはめこまれた逸品だ。1万  7000ドルはする。スーツも一着2000ドルするのを仕立てた。
 しゃべり口調はニューヨークの下町なまり丸出しだが、物腰は丁寧で、そつがなく、辣腕ブローカーというそぶりはみじんも見せない。初めて会う人は、その整った身なりと、物腰に上品さを感じる。
 狙ったお客と話すときには、物理的な接近が親近感を生む。親近感は大金を引き出すのに必要不可欠だ。財布の口をこじ開けるのにつかうのは舌先三寸のみ。
 小企業の超低位株を扱う証券会社をチョップハウスという。外から見る限り、普通の証券会社と何ら変わらない。バケツショップとは無認可営業のブローカーのこと。
 1990年代のアメリカにおいて、チョップハウスの詐欺行為は前代未聞のスケールで、しかも公然と行われた。その収益は年間100億ドルにのぼると見積もられた。
 チョップハウスとバケツショップは、ウォール街の公然の秘密だった。
 マスコミの餌食になるな。世間の注目を浴びるのは禁物。
 ボールドルームは、普通は役員室を意味する。しかし、いわゆるクズ株を商うチョップハウスでは、ブローカーや電話勧誘係が詰めている大部屋だ。
 朝7時から夜11時まで休みなしで働く。電話をじゃんじゃんかけまくる。
 これはセールスの電話じゃないと、真っ先に告げる。「今日お電話したのは、いずれこちらからとっておきの情報をお知らせできるよう、お宅様がどういった投資に関心がおありか、うかがおうと思いまして」と言う。簡単な仕事だ。要は、相手の心を開かせ、話を聞く気にさせて、ブローカーに受話器を渡せばいい。
 相手が興味がないとか言ったら、さっさと電話を切る。そして30秒してもう一回電話をかける。
 「さっきは失礼しました。こんな有利な話をお知らせしておきながら、あっさり引き下がるなんて、どうかしてましたよ。絶好のチャンスです。・・・」と、とにかく相手が買う気になるまでしゃべりまくる。
 いやあ、これって日本でもまるで同じ手口ですよね。というか、アメリカの手口をそのまま日本に輸入したのですね。
 投資家連中のお間抜けぶりは不治の病だ。個人投資家なんてのは、馬鹿ばっかりだ。
 顧客リストは、大手会社のそれを横流ししてもらう。
 電話一本で、相手が何者かもわからないのに、100万ドルを見ず知らずの人間にほいほい送ってくれるんだ。売っては買い、売っては買いをどんどん差し引いていく。残高が3万ドルまでいったところで、あとはごっそり手数料の形でパクってしまう。
 あれあれ、これも日本の先物取引のだましの手口そのものですね。
 3000人に電話して、2000人は引っかかる。こんな楽な商売って他にない。名簿にはずいぶんお金をつかった。数千人分だと1万ドルかかることもある。ひとりあたり2ドル払ったこともある。
 ブローカー何人かで組んでワラントの相場を操縦した。それで、誰をもうけさせ、誰をカモにするかは、ルイスの胸三寸だった。誰もが得をする。そんなバカな話があるはずもない。お金には必ず出所がある。
 ルイスはお客を無名人と有名人の2種類に分けた。狙いはセレブから何百万ドルもの大金を引き出すことにある。彼らをおびき寄せるには、餌がいる。取引で損をかぶるのは常に無名人で、セレブは常に勝ち組にまわる。
 客なんて特別扱いにされたい奴ばっかり。あんたがいちばん大切な客だって持ち上げとけばいい。
 本気で大もうけできると信じている連中のお金を巻き上げるから、ときには後ろめたくなることもある。そんなときには、何を今さらくよくよしているんだ、ほいほいお金を送ってくるような間抜けが相手なんだから、気にすることなんかないと、自分に言い聞かせるんだ。
 こうやってルイスは20歳で巨額のお金を手にします。そして、それにマフィアが目をつけ、ルイスの上前をはねるのです。一度マフィアに頼ったら、もう抜けることは出来ません。
 マフィアは刑務所暮らしをなんとも思っていない。受刑という代償を払うからこそ地位と権力と自由をほしいままにできる。だから、誰かが他人様から盗んだお金を平然と巻き上げる。
 ウォール街にひしめくブローカー業者は、特定のファミリーに牛耳られてはいない。ウォール街で重要なのは個人対個人の関係、つまり、どのマフィアとどのブローカーがつながっているかだけ。
 チョップハウスで働く若者やマフィアを潤していたマネー・ロンダリングは、主にロシア出身のユダヤ人とイスラエル人の手で行われていた。
 バケツショップは、客からお金をただ取りするだけで、株を仕入れてもいない。書類もあまりつくられない。書類がなければ犯罪の証拠もないから、取り締まりようもないということだ。
 この本を読むと、マフィアがアメリカからなくなったなんてとんでもないということがよく分かります。それは、まるでウォール街全体をマフィアが裏から動かしているように見えてくるほどです。日本の株式市場の仕手戦にも暴力団の影が見え隠れしていますので、アメリカも日本も同じことなんでしょうね。それでも、ホントいやになりますよね。

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変貌する財界

社会

著者:佐々木憲昭、出版社:新日本出版社
 日本経団連の分析。これがサブ・タイトルの本です。どうせ、固くて紋切り型の分析だろうと、まったく期待せずに読みはじめたところ、どうしてどうして面白い。いえ久しぶりに知的興奮を覚えてしまったほどです。いやあ、そういうことだったのか。なーるほど。ついつい、何度も膝をうってしましました。
 わずか20頁の序章に、この本の要約がなされています。その部分だけでも読む価値があります。もっとも、それを読んだら、もっと詳しいことが知りたくて、やっぱり本文も読みたくなると思いますが・・・。
 日本経団連は、1002年5月に旧経団連と日経連が合同して発足した。役員の人数は13人から30人へと増えた。
 経団連の役員を出している大企業の正規従業員数は、1970年に4万人超だったのが2006年には1万5千人と、36年間で3分の1に減っている。
 ちなみに、日本の企業の正規従業員は、1997年にピークで3812万人だったが、2006年には3340万人。472万人も減っている。これに対して、非正規雇用者は、1997年に1152万人だったのが、2006年には1663万人となった。511万人も増加している。
 海外に進出した日本企業は、進出先で1980年の72万人から2002年の 341万人へと現地雇用を5倍近く増大させた。日本企業の海外での雇用の63%はアジア地域である。
 経団連の会長・副会長企業1社平均の輸出・海外売上高は、1970年に1761億円、2006年には3兆776億円となった。36年間で17.5倍となった。巨大企業ほど、海外市場への依存度が高い。経団連役員の所属企業は、国内市場から海外市場へと販売先を大きくシフトさせている。海外売上依存率が一番高い企業は日本郵船で82.5%。次いで本田技研工業80.4%、キャノン75.5%、ソニー70.7%、トヨタ自動車 68.0%、松下電器産業 1.4%。
 最近、アメリカと日本の貿易摩擦の話が聞かれない。なぜか?
 日本の輸出先に大きな変化が起きたから。1980年にアメリカ向け24.2%、アジア向け28.1%(うち中国向け3.9%)。ところが2005年には、アジア向け   48.4%(うち中国向け13.5%)。アメリカ向けは22.6%に低下している。
 アメリカ自身の貿易収支が、1990年代以降、対日赤字より対中・対アジア赤字のほうが大きくなった。2004年におけるアメリカの対日貿易赤字は756億ドル。これに対して対中国貿易赤字は1619億ドル、東アジア全体の貿易赤字は2225億ドル。なーるほど。
 日本企業の海外現地法人数は、1981年の2631社から、2004年の     1万2890社へと5倍に増えている。
 日本経団連の役員を構成している巨大企業の発行済み株式のうち、すでに3割が外国資本の手中にある。日本経団連トップクラスの巨大企業ほど、その株式を外国資本によって保有されるようになっている。
 外国人株主比率が一番高いのは、オリックスで57.33%。なんと、あの政商の宮内義彦の会社ではありませんか。道理で、いつもアメリカの要求どおりに何でも規制緩和しろ、自由化しろと声高に叫びたてるわけです。2番目は、日本経団連会長のキャノンで 51.73%。続いてソニー48%、武田薬品41%、三井不動産37%、日立製作所 36%、住友商事 34%、住友化学30%、イトーヨーカ堂30%。トヨタ自動車も 23%。役員企業26社の平均をみると29%という高さ。
 今や、株主10位以内に外資の入っていない企業のほうが例外となっている。うむむ、そうだったんですかー・・・。
 日本経団連のなかで指導的な役割を果たしている役員の所属する多くの企業が、外資によって株式の主要な部分を保有され、少ない企業の経営を直接支配されるに至っている。こうして、日本経団連企業の多くは、アメリカを中心とする多国籍企業の強い影響を受け、日本経団連は、全体として日米多国籍企業の共同の利益代表としての生活をいっそう強めている。
 日本経団連の御手洗会長は就任挨拶で、官や国への安易な依存心を持つな、と述べた。ええーっ、じゃあ、自分たちはどうなんですか?巨大企業は、税金を大幅に引き下げてもらい、銀行のように法人税を一円も払っていないうえに、ガッポガッポと補助金を国に出させているじゃありませんか。よく言うよ。ホント、そんな気がします。
 小泉首相(当時)は、奥田会長(当時)に対して、日本経団連の献金は一番透明だ。企業が政治家や政党へ協力することを禁止したら、税金で活動するしかなくなってしまうと語った。えーっ、そんな、バカな。企業献金なんて、アメリカでも認められていないものですよ。投票権もない企業が政党へ献金するということは、営利本位の企業が政治を左右して、弱者を切り捨てるということになるだけです。
 税金で政党を支えているのは、既に現実です。例の政党助成金です。国民一人あたり 250円支払ってうみ出されている政党助成金をつぎこんで自民党のCMやホームページがつくられている。国民ごまかしのイメージ作戦の資金源は、実は国民が負担している。これを知ってホント腹が立ちました。
 民主党も日本経団連に対して10億円もらおうと必死だということです。
 自民党も民主党も、日本経団連の丸がかえだということがよく分かります。
 政党が国民の税金から成りたっているなんて、よくよく考えたら、ホントおかしなことです。やっぱり政党助成金なんて、すぐに廃止すべきだとつくづく思いました。

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2007年3月19日

10歳の放浪記

社会

著者:上條さなえ、出版社:講談社
 ボロボロ泣けてきました。だって、わずか10歳の少女が父親と二人して一泊100円の簡易宿泊書を泊まり歩いたり、食べるものにも困った状況のなかで、けな気に生きていくのですよ。タダで映画館に入って、マティーニにあこがれたり、パチンコ店の店員から玉を大量放出してもらい、それをヤクザの兄ちゃんが高く買ってくれ、そのお金で夕食を買って父親の待つ宿泊所へ戻ります。父親は妻に捨てられ、やけになって酒浸りなのです。
 そんななかでも彼女のえらいところは、決して希望を失わず、少女らしい夢を抱き続けたことです。私より少し年下の団塊世代の女性です。私は読んだことがありませんが、今では立派な児童文学作家となっています。
 1960年の秋から翌年の秋までの1年間、わたしと父はホームレスだった。わたしは10歳で、父は43歳だった。
 今夜はここに泊まるしかないんだ。駅のベンチで寝るよりは、ずっとずっと天国だよ。 おとうちゃん、明日はご飯を食べられる?
 父は、明日は明日の風が吹くさ、としか答えてくれなかった。
 子どもって悲しいよね。大人に決められたら逆らえないし、どんなにいやなことだって、がまんしなくちゃならないんだもん。
 うーん、そうなんですよね・・・。そう言われると、本当に返す言葉はありませんね。
 母はわたしに約束した。一つお泊まりしたら迎えに来ることを。
 お母ちゃん、本当に一つお泊まりしたら、お迎えに来るんだよね。
 ええ、だから、いい子にしててね。
 次の日、私は午前八時半に家を出て、バス停に向かった。昨日は、何か母に急用ができたんだとわたしは思った。だから、今日はきっとわたしを迎えに来てくれる。
 バスは一日三本。午前九時、午後三時、午後五時。わたしはその時間になると、バス停に出かけて母を待った。
 十日過ぎても、母は迎えに来なかった。それでも、一日三回、雨の日もわたしはバス停に立って待った。他にすることもなかった。
 二十日たっても、バス停に母はあらわれなかった。わたしは、とぼとぼとおじさんの家に帰った。
 わたしがたまたまバス停に行けなかったとき、突然、母が姿をあらわした。やっと迎えに来てくれたのだ。夜、わたしは母と一つの布団に入った。でも、母はわたしが期待したような言葉はかけてくれなかった。
 あなたのお父さんのせいよ。
 母はひとことそう言うと、長旅を疲れたのか、すぐに寝息をたてた。
 それでも、わたしは幸せだった。広い八畳間に一人で寝る怖さから解放されて、ぐっすり眠った。
 ほんと、このくだりはいじらしいですね。私も小学生低学年のころ、田舎のおじさんのところに泊まりに行って、広い八畳間にひとり(本当はすぐ上の兄も一緒だったと思うのですが・・・)寝て、怖い思いをしたことがあります。自宅にいる両親が火事にあって二人とも死んでしまって天涯孤独の孤児になってしまったら一体どうしよう、これからどうやって生きていったらいいんだろうと真剣に心配したのです。そのことを、ついこのあいだのことのように、私は今もはっきり覚えています。といっても、翌朝になると、そんな心配はすっかり忘れて、また一日中、魚つりしたりして楽しく遊んだのですが・・・。
 父がわたしにクリスマスのプレゼントとしてくれたのは、十円玉一枚だった。そんな父と早く別れたいと思った自分を、わたしは冷たい人間だと思った。
 映画館に入るときには、「あのう、お父さんが中にいるんですが、探していいですか?」と切符切りの女性に言う。すると、簡単に映画をタダで見れた。
 わたしは、映画に出てくるマティーニを大人になったら飲みたいと思った。その夢のために、今この生活に耐えようと思った。父が「死のうか」と言ったとき、わたしは、「やだ。まだマティーニを飲んでないもん」と首をふった。
 お金がない。パチンコ店の前を通ると、パチンコ玉が5コ落ちていた。わたしは台の前にすわってはじいた。台のうしろからニキビのたくさんある若い男が「どうしたの?」ときいた。わたしが「お父さんが病気で」とこたえると、そのうち、まるで台が壊れたように玉が出てきた。それを景品に換えるとヤクザの兄ちゃんが、45円で買ってくれた。
 結局、わたしは父からすすめられて養護学園に入ることになった。
 今はすべてをあきらめてがまんするけど、いつかきっと幸せになるんだと心に誓った。
 わたしは自分の子ができたら、こんなかわいそうなことはしないと思った。
 学園ではいじめにもあった。でも、いじめなんてなんでもない。それより、帰る家のない、明日泊まる所や食べることの心配をする生活のほうがどれだけ大変かと、子ども心に思っていた。毎日、寝るところがあり、三度の食事があり、勉強できる日々に感謝した。
 やっぱり子どもから夢を奪ってはいけませんね。この本を読んで、つくづくそう思いました。私も一度だけ絵本を出版しました(残念なことに、例のごとく、ちっとも売れませんでした。私のせいではありませんが、その出版社は倒産し、先日も、破産管財人の弁護士から破産手続が終了したという報告書が送られてきました)。
 著者は、小学校教員を経て37歳で児童文学を書いて、昨年10月までは埼玉県教育委員長もつとめました。すごいですね。見事にたちあがったのですね。拍手を送ります。
 先日、マサイの男性と結婚した日本人女性の本を紹介しましたところ、著者よりメールをいただきました。近く福岡でも公演する企画があるということです。詳しくは著者・永松さんのHPをご覧下さい。http://massailand.com

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2007年3月16日

人と動物の美術館

世界(アフリカ)

著者:吉野 信、出版社:オフィスアイ・イケガミ
 チーターの子どもたちが広々とした草原で寝ころがったり、追いかけっこして、じゃれあっています。屈託なげで、伸び伸びとして、いかにも楽しそうです。
 氷上でホッキョクグマの若者2頭が押しあって遊んでるうちに、片方が尻餅をついてしまいました。もう一方は、あれれと驚いています。
 インドでは、草原の一本道の上で雄クジャク同士で争っています。一方は地上をけって舞い上がり、地上にいるクジャクを威嚇します。
 アフリカ、ケニアのカンムリヅルはオスが派手なディスプレイを草原で始めました。
 ケニアの大草原にアフリカゾウの一群がいます。ゾウは女系家族なのですね。親ゾウに囲まれて、小さな仔どもゾウが2頭います。まだキバが小さくて可愛らしい。
 ケニアのマサイ族の男性は精悍な顔つきで、いかにも頼もしそう。割礼の儀式を終えた修行中のマサイの若者は、顔中に白い顔料を塗りたくっている。広い草原に顔だけ白い5人のマサイの若者が並んで立つと不気味だ。
 生命の躍動を感じさせる人間と動物の写真が満載の写真集です。思わず息を呑む見事な写真がオンパレードなので、ついつい何度も頁をめくり返してしまいました。

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千年、働いてきました

社会

著者:野村 進、出版社:角川ワンテーマ21・新書
 世界最古の会社は日本にある。創立578年。えっ、いつのこと。西暦578年です。これはなんと、飛鳥時代なのです。うむむ、そんな・・・。
 大阪の金剛組という建築会社で、飛鳥時代から、寺や神社を建てつづけてきたのです。ですから、創業1400年をこえています。すごーい。
 ところが、この日本最古、いえ世界最古の会社が最近、破産申立したというのです。しかし、周囲が助けました。なんとか金剛組は存続することができました。
 金剛組の創業者はコリアンです。といっても、聖徳太子(実在の人物なのか疑問もあるようですが・・・)に招かれて朝鮮半島の百済からやってきた3人の工匠のうちの一人でした。
 日本には、ほかに創業1300年の北陸の旅館、1200年の京都の和菓子屋、
1100年の京都の仏具店、1000年の薬局という店がある。創業100年以上だと 10万社以上あると推定されている。
 ヨーロッパの最古の企業は1369年設立のイタリアの金細工メーカー。創業640年。これより古い日本の企業は100社ほどある。
 韓国には三代続く店はない。中国の最古の店は337年前に設立された漢方薬の北京同仁堂。
 日本の10万軒をこえる創業100年以上の老舗のうち、およそ4万5000軒が製造部門。ここに日本の老舗の特質がある。職が尊ばれるのは、アジアでは日本くらい。
 1グラムの純金を太さ0.05ミリの線にすると、3000メートルになる。コンピューターの集積回路の接合部に金の極細線がつかわれている。太さは10マイクロメートル。人の髪の毛は80マイクロメートルなので、その8分の1の太さだ。これを日本の田中貴金属がつくっている。
 ケータイの折り曲げ部分に使われている銅箔(どうはく)は、日本企業であるメーカー2社で世界のシェアの9割を占めている。
 捨てられた不用のケータイを集めたゴミの山には1トンあたり280グラムの金がふくまれている。日本で採掘されるもっとも品質の高い金鉱でも1トンから60グラムの金しかとれないから、その4〜5倍も金がとれることになる。つまり、ケータイのゴミの山は、まさに金鉱そのものなのだ。
 また、ケータイには、1キロあたり200〜300グラムの銅もふくまれている。これと同じ量を天然の銅鉱石から得るためには10キロが必要となる。
 農林業関係者からひどく嫌われているカイガラムシは、真っ白なロウを分泌する。これは光沢があり、化学的にも安定している。これが、防湿剤や潤滑剤そしてカラーインクの原料として有望なのだ。老舗の会社が、研究・開発をすすめているのです。
 同族経営・非上場には強みがある。社長が替わらない。株主の顔色をうかがわずにすむ。だから、長期的な視野で研究開発にのぞめるし、ハイリスク・ハイリターンのテーマに長期間、資金を投入することができる。むしろ、同族経営・非上場でないと、画期的な独自の研究開発はとても不可能だ。
 長生き、元気で若く、女性の支持がある。この三つにマッチする商品は絶対売れる。女性がダメというものは絶対に売れない。
 うまくいっている老舗は、不思議なことに三世代同居という経験をつんでいる。
 日本人が昔からものづくりを大切にしてきたこと、そのためには必ずしも血縁ばかりを重視せずに伝統を絶やさないよう工夫してきたことなどの分かる、とても面白い本です。

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江戸時代のロビンソン

江戸時代

著者:岩尾龍太郎、出版社:弦書房
 「ロビンソン・クルーソー」は有名ですが、実は私は全文を読み通したことがありません。なにしろ岩波文庫で上下800頁もあるというのです。しかし、そこには17世紀末の世界情勢がじつに色々と書きこまれているそうです。ヨーロッパでは、この手の航海記が昔から人気を集めていました。
 ところが、海国日本では数多くの漂流民をうんだ割には、海洋文学と言えるものはほとんどありません。現代日本社会では、冒険そのものに対する眼差しが冷ややかなのです。
 冒険心の抑圧、冒険物語の不在は、幕藩体制が固まった近世以降、きわだっている。
 しかし、そこは昔から記録好きの日本人です。漂流記録そのものは、判明しているだけでも300あります。眠っている古文書には少なくとも、その10倍はあるとみられています。
 1610年、徳川家康が三浦按針(ウィリアム・アダムス)につくらせた按針丸は太平洋を渡ってメキシコにたどり着いた。1613年、伊達政宗がつくらせた支倉六右衛門派遣船サン・ファン・バプティスタ号は太平洋を往復した。家光がつくらせ江戸にあった長さ62メートル、1000トン級の巨大軍船「安宅丸」は、1682年に解体された。そのころ徳川光圀が蝦夷探検用につくらせた「快風丸」も光圀の死後に放棄された。
 当時、海外の人々は、日本人を見て、ヒツポン、ひつほん、カツポン、じつぽん、じわぽん、ヤーパンなどと呼んでいた。
 船が漂流をはじめたとき、捌(は)ね荷、捨て荷をした。これは廻船の任務放棄だったので、そのとき、髻(もとどり)を切って海神にささげる。もはや、荷主や船主に対して責任を負える主体であることを止め、ざんばら髪の異形の者となって冥界をさまようのだ。
 和船には、構造的欠陥があったが、案外、沈まない強度も持っていた。
 日本人の漂流者は、生魚を食べるので、壊血病になるのは、欧米の漂流者よりも少なかった。
 徳川吉宗の治世のとき。静岡(新居)の船「大鹿丸」が九十九里浜沖で遭難した。無人島(鳥島)に12人が上陸し、食糧はアホウドリを主とし、魚を釣って生きのびた。20年後の1739年(元文4年)、そのうち3人が生き残って帰還し、吹上御所で将軍吉宗の上覧を仰いだ。
 さらに、その数十年後、土佐の長平が同じ鳥島で13年間、そのうち1年半は孤独な生活を過ごした。そこへ、大阪の肥前船が漂着し、11人がやって来た。この11人のうち9人が10年後に生還した。
 彼らは、漂着物を気長に待って、つぎはぎだらけの船をこつこつ造り上げた。木材を流木だけで調達した。鉄具は不足していた。製鉄のための風箱(ふいご)も自力でつくった。
 造船のノウハウを知っているものは少なかった。三尺の模船(ひながた)をつくり、これを皆で検討しながら、手探りで造船を続けた。すごいですね。
 南方の島に漂流していった孫太郎は、こう語った。
 世の中は、唐も倭も同じこと。外国の浦々も、衣類と顔の様子は変われども、変わらぬものは心なり。けだし、今日に通用する至言ですね。
 1813年から1815年にかけて、484日間、太平洋を漂流した記録があるそうです。船長(ふなおさ)日記です。
 もっと現代日本人に知られていい話だと思いました。

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2007年3月15日

硫黄島の兵隊

日本史(現代史)

著者:越村敏雄、出版社:朝日新聞社
 硫黄島は、「いおうじま」と呼ぶと思っていましたところ、昔は、「いおうとう」と呼んでいたそうです。アメリカによる占領を経て、アメリカ軍の呼び方が広まった、というわけです。
 1945年2月からの1ヶ月間の戦いで、日本軍は2万1000人のうち助かったのは1000人のみ。戦死者2万人です。今も、その遺骨の大半は島に眠っています。日本政府は技術的困難を理由として本格的な遺骨収集を放棄しています。
 対するアメリカは参加した将兵は11万人、上陸したのは6万1000人。そのうち戦死者6800人、戦傷者2万1800人、死傷者の合計2万8000人でした。
 アメリカ海兵隊の168年間の経験のなかで、もっとも苛烈な戦いだった。
 穴掘り作業は、まさしく噴火口の中で穴を掘るようなものだった。熱気をおびた亜硫酸ガスが、十字鍬で掘り起こした窪みから、猛烈に噴き出した。
 この島は、全島、どこを掘っても、強い熱気と亜硫酸ガスが噴き出た。海中に浸って、足の爪先で砂を掘ってみても、熱い地熱を感じた。
 1000人ほどしか島民が住めなかった理由の一つは水にあった。雨はきわめて少なく、4、5月にくる雨期が終わると、雨はめったに降らない。
 ウグイスとメジロは島にふんだんにいた。人が近寄っても、まるで無視する。気ままについばみ、気のはれるまで歌って生きている。
 断崖の岩盤はおそろしく硬い。下痢患者の打ち込む十字鍬(くわ)は、はね返って歯がたたない。岩の割れ目を見つけて十字鍬を打ち込み、わずかずつ切り崩した。のみもつかって石屋のように岩を剥がした。削岩機も何もないから、すべて人の手で作業する。
 硫黄と塩が身体に蓄積されてくると、猛烈な下痢が蔓延した。やせこけた身体は恐ろしい速さで衰弱した。重労働と不眠が容赦なく拍車をかけ、この島独特の栄養失調症になる。
 夜となく昼となく残忍に苦しめるのは、すさまじい喉の渇きだった。しかし、それを癒すものは、塩辛い硫黄泉しかない。
 異様な臭いの立ちこめる生ぬるい塩水を飲むしかない。それを飲んでも清涼感は味わえない。どろりとして後味が悪く、口腔から鼻にかけて、強い吐き気を誘う硫黄の臭みがむんと籠もって、いつまでも離れようとしない。それが染みついた喉や舌が、飲みこむ瞬間に拒絶反応を起こして震える。そのあとは、通りみちに刺すような辛みが、震えるような吐き気と一緒に残る。これがまた、喉の渇きをかきたてる。
 どの兵隊も、目尻や鼻や唇の両端が食い入るようにへばりついたハエの塊で黒い花が咲いたようになった。盛ったばかりの飯と味噌汁は一瞬のうちに真っ黒になった。全島がハエの島と化した。明るい間じゅう、真っ黒に渦巻くハエのなかでの生活である。日がくれると、島を覆うすさまじいハエの群れは一斉に木の葉や草葉の裏にとまり、姿を消す。
 37度あまりの熱で、日に10回ほどの下痢症状は、この島では健康体である。それより健康なものは、ここでは異常だった。
 硫黄島に補給などのために飛んできた飛行士が見たのは、まさしく人間ではない、火星人だった。どの兵士もまっ黒で、皮膚につやがなく手も足も骨と皮ばかりにやせ細っていた。そのため頭が大きく見え、眼がギョロギョロと輝いていた。
 この本の著者は、まさしく奇跡的に助かっています。日本の飛行機が補給物資を島に届け、本土への帰路に負傷兵をのせていったのです。著者がなぜそのなかに選ばれたのかについては何も書かれていません。
 最後に、著者の次のような言葉が紹介されています。
 戦争を知らないで一生を終えたら、これほど幸せなことはない。これから同じような死に方をくり返すとすれば、彼らの死は徒労でなくて、何でありましょう。
 まったく同感です。強い共鳴を覚えました。

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2007年3月14日

モーツアルトの手紙

世界(ヨーロッパ)

著者:高橋英郎、出版社:小学館
 モーツアルトが肉親に対して茶目っ気たっぷりのスカトロジックな手紙を書いていたのは、前にも本を読んで、少しは知っていました。この本は、モーツアルトの手紙を父親のものを含めて系統的に並べていますので、その人間性と心理状況がよく分かります。写真や図版もありますので、500頁で大判の本ですが、すらすらと読みすすめることができました。
 モーツアルトは、幼いころから、誰からも愛される性格だった。親しい人たちに、「ぼく好き?」と質問を連発したのも、ぼくはきみを好きなんだから、きみだってぼくを好きだよね、という愛の相互確認だった。
 父親は手紙にこう書いています。
 坊主は誰とでも、とくにお役人たちと大変うちとけてしまい、まるでもう生まれたときからの知りあいのようだ。
 文豪ゲーテは14歳のとき、7歳のモーツアルトの演奏を聞いて強い印象を受けたそうです。同時代の人たちなんですね。
 啓蒙派学者のヴォルテールは10歳のモーツアルトに会えなかったのを残念がった。
 モーツアルトは、姉ナンネルと、ふだん口笛で応答していた。
 激しい仕事に没頭するほど、遊び心を求めるのは、晩年に三大シンフォニーを書きながら、奔放卑猥なカノンを乱発したことから明らかである。モーツアルトは、常にバランスをとっていた。
 そうなんですよね。天才じゃなくても、常に精神のバランスをどうとるか、考えておく必要がありますね。私は、読書に没頭することと、土いじり(ガーデニング)です。花を育てて、咲くのを見てると、心が洗われます。
 モーツアルトは、マリア・テレジア女帝からは冷遇された。わざわざ、無用な人間を雇うなという回状までまわされた。うむむ、いつの世にも反対派はいるものなんですね。
 恋はモーツアルトにとって生きる原動力だった。作品と並ぶ、最優先事項なのだ。
 モーツアルトの母親までもが、夫に対して、息子顔負けのスカトロジーたっぷりの手紙を書いていたなんて知りませんでした。ここでは、その引用はやめておきます。
 南チロル出身のきわどいジョーク好きの母親の血を、息子であるモーツアルトが受けついだのだ。著者は、このように分析しています。なーるほど、ですね。日本人には、とても考えられません。
 モーツアルトはある人を訪ねたとき、モーツアルトではないかと訊かれて、いえ、トラツォームと言いますと答えた。これはモーツアルトを逆に呼んだ名前ふざけたわけだ。私も、子どものころ、自分の名前を友だち同士で逆さ読みしていたことを思い出しました。
 モーツアルトは大きくなると、大事なことは父親に相談せず、父親の意見に逆らっても独断でことをすすめた。息子として、父親に見切りをつけていた。
 モーツアルトのスカトロジックな手紙文から、フロイドを引用して、いい年をして、幼児性があるなどと論評する人がいるが、それは間違っている。モーツアルトには、感性の無限の開放があった。類い稀な人間が存在していることに気づくべきだ。
 この著者は、そのように主張しています。なるほど、そういうことなんでしょうね。それにしても、とても引用できない内容ではあります。一言でいうと、ウンコとオナラのオンパレードなのです。
 モーツアルトは父親に対して、次のような手紙も書きました。
 ぼくの色恋沙汰については、もう忘れてください。もうだいぶ以前に心から後悔しました。傷ついてこそ叡智が生まれます。ぼくはまだ若い。でも、若い歳月を、乞食のような境遇で無為に過ごすとすれば、とても悲しいことであり、損失でもあります。
 モーツアルトの音楽が心打つのは、その生活の不安定感からくる真情がある。
 モーツアルトは一日、せいぜい3〜4時間しか作曲していない。モーツアルトは、推敲にこだわるタイプではなかった。
 モーツアルトは秘密結社フリーメイソンに加入した。フリーメイソンの盟友が、モーツアルトにお金を貸して、その生活を支えた。モーツアルトの遺体はフリーメイソンの黒の装束に包まれた。ミサもあげられることなく、共同墓地に埋葬された。25年ごとに掘り返される貧民墓地だった。
 この本を読んで、私はモーツアルトは、短いけれど豊かな人生を送ったのだと思いました。

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2007年3月13日

企業舎弟・闇の抗争

社会

著者:有森 隆、出版社:講談社α文庫
 この本を読むと、日本社会の隅々にまで暴力団がいかにはびこっているのかを知らされ、ホント、嫌になってしまいます。そのうえ、暴力団の繁栄を支えているのが、実は、大銀行などれっきとした金融機関だというのですから、この世の中どうなっているのか、腹立たしい限りです。どうりで暴力団ひとり景気がいいわけです。税金だって払っていないのでしょうからね。
 企業舎弟とは、企業経営者の仮面をかぶった暴力団の弟分のこと。そんな経営者が率いている企業をフロント企業と総称する。表向きは一般の会社であり、役員はヤクザではない。働いている人も普通のサラリーマンである。だから、暴力団が関係しているとは、一見しては分からない。だけど、もうかったお金を裏で暴力団に上納し、その有力な資金源となっている。
 会社が厄介なトラブルに巻きこまれたとき、暴力団が登場して会社を守る。これをケツ持ちという。ケツ持ちとは、カネで雇われた用心棒ではない。上納金を受け取る権利のこと。ケツ持ちが出てきたとき、初めて会社の正体が分かる。
 日本における経済ヤクザの代表選手が東の石井、西の宅見。稲川会二代目会長の石井進(故人)と、山口組のナンバーツーだった宅見勝(内部抗争で殺された)。
 関西裏社会のドン、許永中が狙い定めた相手を籠絡する手口は、二段階に分かれる。最初に大金をつかませ、相手を金縛りにしてしまう。そして、引き出した資金の一部をキックバックして、相手(個人)にもうまい汁を吸わせる。その手法は単純明快だ。
 住友銀行からイトマン・グループへの融資は5549億円にのぼった。このうち少なくとも、3000億円が仕手資金や不動産の購入資金の名目で闇の勢力に流れた。大銀行が5500億円もの巨額のお金を焦げつかせても倒産しなかった秘訣は、政府が税金を投入したことにあります。そして今、大銀行は空前の利益をあげているにもかかわらず、一円の法人税もおさめていないというのです。ホントに間違った政治ですよね。そして、大銀行は税金を国におさめないかわりに、自民党などへ多額の政治献金をしているのです。
 エースとは、裏世界が表世界へ送り込んだ切り札のこと。企業に喰らいついたエースは、手形の乱発、無担保融資、会社資産の売却など、あらゆる手段をつかって企業の資産を外に持ち出す。持ち出した資金の受け手は、もちろん裏世界の人間だ。喰いものにされた企業は借金漬けになって破綻する。
 料亭の女将への巨額融資が焦げ付いて問題になったことがありました。1991年のことです。このとき、国内信販の副社長が興銀に女将(尾上 縫)に紹介した。
 尾上の架空預金証書は、合計40通、7425億円分が偽造された。大きすぎて、とても考えられない金額です。
 1993年8月、和歌山市で阪和銀行副頭取が射殺された。
 1994年2月、富士写真フィルムの専務が刺殺された。
 1994年9月、住友銀行の名古屋支店長が自宅マンション前で射殺された。
 企業に対するテロ事件は、ほとんどが未解決。捜査当局は、もう2人か3人、死者が出ないと銀行は本当のことをしゃべらないと語った。
 これらの死によって、関西の金融機関は闇社会への2000億円の融資の回収を断念した。なんと、なんと、許せませんよね。銀行は、それほど裏社会とダーティな結びつきがあるというわけです。
 殺害犯人は今も捕まっていません。外国からきたプロのヒットマンではないか。日本の闇の勢力が金で雇ったのではないかと推測されています。
 国内信販は、バブル期に不動産融資にのめり込み、そのため、不良債権の山を築いた。
 暴力団のからむ瑕疵物件に、楽天の名前がたびたび登場する。
 楽天KCは、私の法律事務所も日頃ちょくちょく相手方となるクレジット会社です。こんな暗い過去があるということを初めて知りました。
 それにしても、日本の大銀行がこんなにまで暴力団と密接に結びついているのを知るのは不愉快きわまりありません。

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2007年3月12日

きよのさんと歩く江戸六百里

江戸時代

著者:金森敦子、出版社:バジリコ
 山形の鶴岡に住む女性(きよの)が江戸・伊勢・奈良・京都見物の旅に出かけました。文化14年(1817年)のことです。31歳のきよのさんは、夫と2人の子どもを自宅に残し、同伴者の男性と荷物持ちの下僕と三人の旅です。
 夫も、その前に25歳のとき、長野・名古屋・伊勢・京都・四国・江戸・日光の124日間の旅をしています。だからでしょうか、妻の旅行には同行しませんでした。
 きよのさんは鶴岡の裕福な商家の家付き娘でしたから、この旅行に思う存分にお金をつかうことができました。普通は一日一朱というのが旅費の目安です。一両あれば16日間の旅が出来るという時代でした。
 江戸も後期になると、多くの女性が関所手形も持たずに旅立つのが普通になっていた。きよのさんは、108日間の旅の記録を残しました。それを解説つきで再現したのが、この本です。本当に昔から日本の女性って強かったんですよね。それがよく分かる旅の本です。
 江戸時代、宿場の飯盛女が売春することを禁じるお触れが何度も出されている。禁止しても守られなかったからこそ、何度も繰り返し禁令が出された。宿場の繁栄を飯盛女が担っているという現実があった。
 きよのさんたちには、彼女らは自分の身を売ることで家族を養っているのであって、賤しいことをしているという意識は少なかった。売春をやっきになって取り締まろうとしたのは為政者である。
 きよのが江戸で一番楽しみにしていたのは歌舞伎の見物だった。当時の芝居は明け方から日没まで上演していた。だから芝居茶屋を通して飲食し、用便もしていた。きよのさんたちは、5人で一両二朱もかけている。
 江戸では鶴岡藩の上屋敷の元締役所を訪れ、数々の御馳走を受けている。これは、きよのさんの商家が藩に多額の献金をしていたから。
 きよのさんは吉原に出かけて、遊女を見物している。また、江戸の呉服屋で、一七反もの買い物をし、さらに日本橋で本を一冊も購入した。俳諧と狂歌の本だ。
 きよのさんは現金をもち歩いたのではなく、前もって送金していた。
 江ノ島では210文もかけて、お昼に魚料理を食べた。
 伊勢参宮では、御師宅で豪華な食事の接待を受けた。一人一人に見事な鯛や伊勢海老が出て、お酒も飲み放題。伊勢見物には専用の案内人がついた。奈良でも京都でも、きよのさんは旅籠屋の主人に頼んで案内人(ガイド)つきで見物した。
 きよのさんは南禅寺門前の茶屋で名物の豆腐を食べ、お酒を飲んだ。これは私も経験しました。
 江戸時代といっても、封建制度の中で忍従を強いられた女性ばかりではなかった。
 きよのさんはいたるところでお酒を飲み、五重塔のてっぺんまで勇ましく登っていった。誰もきよのさんを非難することはなかった。きよのさんが江戸の吉原を見物し、大坂新町で遊女をあげても奇異とは思われなかった。
 いやあ、実に自由奔放な旅行です。現代人にきよのさんを真似できる人がどれだけいるでしょうか・・・。

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2007年3月 9日

トビウオは何メートル飛べるか

生きもの(魚)

著者:加藤憲司、出版社:リベルタ出版
 まず、答えから。トビウオは、最大400メートルも飛べるそうです。飛行速度は時速55キロ。7〜8秒間は飛べます。羽を鳥のようにバタバタさせるのではなく、長短4枚の羽を目一杯に広げてグライダーのように滑走する。
 サンマもトビウオの仲間なので、1メートルくらいは飛びはねる。
 ただし、この本はトビウオのことだけを書いてた本ではありません。魚類全般についての百科全書みたいなものです。
 魚は、高齢になっても成長は止まらない。コイは養殖すると70年以上も生きる。一般に魚の体温は、ほとんど周辺の水温と同じ。しかし、カツオとマグロなど外洋を広く回遊する魚は、恒温動物のように周囲の水温よりも10度以上高い体温を保っている。
 氷点下の海にすむコウリウオは体液の中に凍結防止物質があり、不凍液状態になっている。すごーい。
 キンギョは水温が10度以下の冬にはエサをあまり食べない。5度以下になると冬眠状態になる。冬眠前にたっぷりエサをやって脂肪を蓄えさせる。それで冬の3ヶ月の寒さに耐え、春になってたくさんの良質な卵を産む。
 魚屋で魚を買うときには、目玉を見る。眼球の表面に張りがあり、濁りのないものが新鮮。目が血走って濁っているものは鮮度が落ちている。エラブタを開けて、中のエラが鮮やかな赤い色をしているものは間違いない。
 ほとんどの魚にはウキブクロがある。これが肺の原型となっている。
 魚の目の水晶体は球形でとても固い。人に比べて、はるかに近視。
 コイの口ヒゲには味蕾(みらい)があり、エサを探すときの味覚センサーになっている。コイは、甘い、塩辛い、酸っぱい、苦いの四感覚を識別できる。
 水中で暮らす魚は主な呼吸はエラでしており、鼻は呼吸につかっていない。
 サケやマスの鼻の穴に栓を詰めてしまうと、母川に回帰する割合はぐっと低くなる。
 魚は泳ぎながら眠っているそうです。戦争中、行軍の兵士が歩きながら眠っていたという話を思い出します。人間にとっての極限状態に追いこまれたのですね。
 他の先進諸国が食糧自給率を向上させているのに、日本は低下する一方だ。日本の漁獲量は半減している。水産物の国内自給率は60%になってしまった。
 なんでもアメリカ頼みの日本です。自動車を輸出できたらいい。農産物なんて海外から輸入すればいいんだ。政府はこんな考えのようです。それでは日本の将来が本当に心配です。安心して食べられるものは、やっぱり近くでとれた農産物ですよね。
 私は釣りが好きでした。風のない穏やかなクリークの水面をじっと目つめ、ウキがピョコピョコ沈んでいくのを見るのが何より好きでした。これは、幼いころ父がフナ釣りに連れていってくれたことから来た好みでもあります。短気な父に釣りは似合っていたのでしょう。ゆったりかまえているように見える釣り人には、実は短気な人が多いというのは逆説的真実です。

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雷神の筒

日本史(中世)

著者:山本兼一、出版社:集英社
 織田家鉄炮頭(てっぽうがしら)橋本一巴(かっぱ)の物語。
 火縄銃が種子島に伝来して11年。織田鉄炮衆は200挺もそろえていた。先日読んだ本によると、火縄銃が種子島に初めて伝来したのか、本当のところは確証はなく、そのころ、九州各地に一斉に鉄炮が伝来してきたのではないかということでした。要するに、海の彼方から西洋製の鉄炮が伝来してきたというわけです。種子島の沖には川より流れのはやい黒潮があり、それに乗れば種子島から堺までわずか4日。種子島は海の宿場町。奄美・琉球はもとより台湾、福建、浙江はては呂宋やポルトガルの連中までやってくる。
 先日の新聞に、種子島では、この新説に対して大いに異論を唱えており、近くシンポジウムを開くとのことです。
 この本では鉄炮となっています。鉄炮一挺の相場は10年でずいぶん下がって、銭50貫文。米にして百石(こく)。武具というより、珍奇な玩具のたぐい。そんな高価な鉄炮を集めて喜んでいるのは、九州の大名のほかは足利将軍義輝くらいのもの。九州では実戦に鉄炮がつかわれ、大隅国では鉄炮による初の戦死者も出た。
 日本人は器用ですから、伝来してきた鉄炮を分解して、たちまち大量生産をはじめました。近江の国友村は、琵琶湖の北東にある小さな村だが、数十軒の鉄炮鍛冶がある。この国友村こそ、鉄炮製造の一大メッカだった。さまざまな大きさと形の鉄炮が試作されていった。
 世界で最初に黒色火薬を発明したのは、おそらく10世紀の中国人。硝石に硫黄と炭を粉にして混ぜると、すばやく着火、燃焼する。
 火薬をつくるうえで欠かせない塩硝は尿にふくまれる硝酸アンモニウムと珊瑚を焼いた炭酸カリウムを硝化菌というバクテリアのはたらきで硝酸カリウム(硝石=塩硝)に変成させた。
 鉛玉がそろえられないため、陶製の玉(陶弾)をつくった。土を選び、釉薬を加減して硬く焼きしめると鉛玉と同じように発射できた。甲冑(かっちゅう)への貫通力もある。
 織田軍と武田軍の長篠の戦いのとき、三段撃ちは実戦と違うという指摘がなされています。鉄炮は、設楽原に1000挺、鳶ヶ巣山を襲った別働隊に500挺。あわせて1500挺と推測しています。
 ただ、この本は従来の通説にしたがって今川義元が敗死した田楽狭間(でんがくはざま)について、狭い谷としていますが、これは間違いと思われます。実際には小高い丘の上に今川義元の本陣はあり、織田軍は、そこへ正面突破をかけたのです。小説であっても歴史物を書く以上、学説の動向をきちんとふまえておかないといけません。
 日本は明に日本刀を輸出した。一振(ふり)、二振の単位ではなく、束にして一把(ぱ)、二把の単位で数えた。値のいいときは、日本で一振八百文から一貫文の刀剣が明では五貫文で売れた。享徳2年(1453)から天文16年(1547)までのあいだに、113万8000振の日本刀が中国に輸出された。
 鉄炮伝来以来の戦(いくさ)の変容と、それを担った鉄炮衆の存在に目が見開かされる面白い小説でした。

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我ら、マサイ族

世界(アフリカ)

著者:S.S.オレ.サンカン、出版社:どうぶつ社
 1971年に出版された本です。現在のマサイ族にそのまま通用するか分かりませんが、先にマサイ族と結婚した日本人女性の本を読んだので、この本も読んでみました。
 少年たちは割礼式を受けると、青年として一つの入社組(エイジ・グループ)に組織される。青年が下級青年から上級青年へ昇級するときには、エウノトと呼ばれる青年昇級式がある。
 予言師は、戦争と襲撃を支配している。
 マサイは、他のマサイを殺したときだけ、殺人の罪に問われる。マサイ以外の人を殺しても、マサイの社会では、その咎を受けることはない。殺人の罪に対しては、男を殺したときには49頭の牛で償われるべきだと考えられている。
 女を殺したときの定めはない。それは、日常また戦争において、マサイが女を殺すことは伝統的にありえないとされていることによる。男が女を殺すと、不幸に見舞われ、社会的立場をなくしてしまうと考えられている。
 男が誤って女を殺したときには、贖罪の儀式をして、自らの汚れを拭って清める。そして、賠償として48頭か28頭の羊が死者の父親か親族に支払われる。
 父親が死ぬと、まず長男が父親の遺産と債務のすべてをいったん引き継ぐ。あとで、遺産と債務を弟や異母兄弟に配分する。
 母親の遺産は、末息子が全部を相続する。これは母親の老後の面倒をみるのは末息子の義務とされていることによる。
 息子のなかで遺産の相続人として明示されているのは、長男と末息子の二人だけ。ほかの息子には相続権が明示されていない。しかし、たいてい、父親から数頭の牛を生前に分与してもらっている。娘には相続権がない。娘しかいないときには、娘に私生児をうませて、男の子が生まれたら、その子を自分の実子とみなして相続人とする。
 マサイは、野生動物の肉を口にすることを禁止されている。マサイが食べるのは家畜肉のみ。
 戦いで捕虜になって連れていかれたときを除いて、マサイの女性は、他民族の男性とは結婚しない。マサイの男は、他民族の女性と結婚する。ただし、マサイの男性は、女性に割礼を施す習慣のない民族とは通婚しない。
 マサイの妻は、夫と同じ年齢集団に所属する男性のなかから好きな男性を選び、寝床を共にし、子どもをもうけることが許されている。このような婚外交渉によって生まれた子どもは、彼女の夫の子どもとして社会的に認知される。ただし、マサイの女性は、男性を厳しく選択しているし、十分な交際をして愛をたしかめない限り、男性と同衾することはない。
 マサイ族のことを、少しですが、知ることができる本です。

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2007年3月 8日

古代史の流れ

日本史(古代史)

著者:上原真人、出版社:岩波書店
 列島の古代史・全8巻の第8回目の本です。大宝2年(702年)の遣唐使が自らの国を「日本」と名乗るまで、日本列島に形成されていた国は、東アジア世界では「倭国」と認識されていた。
 政治連合(倭国連合)全体を「ヤマト政権」、その盟主として中枢を担った政治勢力を「ヤマト王権」と呼んで区別する。
 ヤマト王権は、畿内南部地域を基盤とする。「やまと」の地域には、三輪山の西麓を中心に古墳時代前期でも古い段階の巨大な前方後円墳が集中している。
 箸(はし)墓古墳(280メートル)、西殿塚古墳(234メートル)、外山茶臼山(とびちゃうすやま)古墳(208メートル)、メスリ山古墳(250メートル)、行灯(あんどんやま)古墳(242メートル)、渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳(310メートル)の順に3世紀中葉すぎから4世紀中頃にかけて営まれた。これはヤマト政権の盟主、すなわち倭国王の墓ということになる。
 箸墓古墳は、260年前後に造営された。卑弥呼の没年は247年前後なので、箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性はきわめて高い。そうすると、卑弥呼の後継者である壱与の墓として西殿塚古墳が考えられる。
 うむむ、ここまでしぼって特定されているのですねー・・・。
 ヤマト政権の盟主墓は、奈良盆地東南部から同北部の佐紀古墳群をへて大阪平野へ移動している。大阪平野への倭国王墓の移動は、大阪平野の勢力が倭国王の地位についた結果にほかならない。
 5世紀の後半に、畿内の王と地方の首長との関係が大きく変化した。それまで「王」と称していた倭国王が5世紀後半になって、「大王」を称するようになった。
 地方の首長層は、直接、畿内の大王に仕えるのではなく、大王の下で特定の職掌を分担する中央豪族とその職掌を通じて密接につながっていた。
 6世紀の継体王統は、近江・尾張など畿内東辺の勢力が大きな役割を果たした。それまで畿内南部の大和・河内の勢力に押さえられていた摂津の勢力が、畿内東辺の勢力と提携して王権を掌握した。
 ところが、継体は、即位してから20年間も大和に入ることができず、山背など淀川水系を転々としていた。大和に入ることができたのは、それ以前の王統の血を受け継ぐ仁賢大王の娘・手白香皇女と結婚し、入り婿の形でヤマトの王統につながることができたから。
 古墳時代の倭国には夫婦合葬の風習はなかった。渡来人集団では夫婦合葬だったが、倭人集団では違った。妻は死ぬと、里方の父の墓などに合葬されるのが一般的だった。つまり、同族関係が合葬の原理だった。
 うへーっ、そうなんですか・・・。昔の日本では、夫婦は死んだら別々のお墓に入っていたのですか・・・。知りませんでした。最近、そういうのが増えているそうですが、先祖がえりなのですね。
 8世紀末ころの日本の人口は540〜590万人程度だった。
 天平7年(735年)ころ、五位以上の位階をもつ官人は、天皇に親しく仕えつつ国政を領導する「マヘツキミ」で、8世紀はじめに150人いた。ところが、天平末年から人数が増えて200人ほどになり、その後は300人台で推移した。
 奈良朝では、事務決裁は口頭でなされていた。下級者が文書内容を読申し、上級者が口頭で「宣」を下す。これが読申公文(どくしんくもん)という、律令制本来の決裁方式だった。ところが、文字文化が浸透していったので、決裁者が文書を黙読し、次々に決裁を下していく新しい方式に変わった。これを申文刺文(しんぶんしぶん)という。どちらも私の知らない用語でした。古代史の研究は相当すすんでいるようです。

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2007年3月 7日

朝鮮通信使をよみなおす

朝鮮

著者:仲尾 宏、出版社:明石書店
 朝鮮王朝がはじまったのは1392年。日本では足利義満が南北朝の抗争をおさめた年。李成桂(イソンゲ)将軍が衰えていた高句麗王朝を倒し、太祖として即位した。
 それ以来の日本と朝鮮との往来をたどった本です。いわば朝鮮通信使に関する百科全書のような内容となっています。
 室町時代、朝鮮から5回の通信使が派遣され、3回が京都にやってきた。世宗国王のときのこと。日本から、60回以上もの日本国王使が漢城(今のソウル)を訪れ、交隣関係は密接かつ多様になっていった。
 江戸時代はじめ、京都の相国寺(しょうこくじ)に西笑承兌(せいしょうじょうたい)という禅僧がいた。承兌は秀吉の朝鮮出兵の前線基地の名護屋城にまで出かけた。承兌は、朝鮮から回答兼刷還使が来日したとき、「朝鮮の使臣は日本に有益に非ず。薄侍すべし」と進言していた。ところが、その承兌は、朝鮮からやって来た松雲大師の詩文や書を見て、次のように言って舌をまいて感嘆した。
 句々奇なり、言々妙なり。欣然にたえず。筆跡もまた麗し。予、私宝となすは快然たり。 徳川家康は朝鮮との国交回復を図った。それは家康が秀吉から1万5000人の陣立てを命じられたものの、朝鮮へ出兵することがなかったことも幸いしている。しかし、家康はすんなり謝罪する意思をもってはいなかった。さすが老獪な政治家ですよね・・・。
 朝鮮から連行されてきた被虜人のうち、第一回使節とともに帰国したのは、わずか  300人に過ぎなかった。このとき、大名や日本人のあるじが手放さなかったり、日本人と結婚したり、子どもの誕生・養育、また帰国後の生計の見通しがたたないことを理由として断る者も多かった。
 朝鮮通信使がやってきたとき、黒田家では三代の藩主(忠之、光之、継高)が検分を口実に博多湾にある藍島まで出かけて朝鮮使節を見物している。
 貝原益軒は、秀吉の朝鮮出兵について、貪(むさぼ)る兵、驕(おご)れる兵、忿(いか)れる兵と酷評した。
 徳川吉宗は、朝鮮伝来の人参生草や種子の採種、播種、栽培によって、享保から元文年間にかけて人参の国産化を実現した。これによって対馬藩の朝鮮貿易は決定的なダメージを蒙った。
 雨森芳洲(あめのもりほうしゅう。1668〜1755)は、釜山に渡って3年間、朝鮮語を学んだ。そのころ釜山には10万坪の倭館がおかれ、対馬の役人・商人が常駐して外交事務や藩と私の貿易に従事していた。10万坪というと、長崎の出島の25倍の広さだ。雨森芳洲は次のように言った。
 朝鮮は弱く、その人は愚かなり、と人は言う。しかし、これはまことの強弱智愚を知らない言葉だ。朝鮮の人は古今の記録をも多く覚え、物事ふかく思慮するものだから、日本国よりその智は10倍だ。秀吉の朝鮮出兵のとき、乱世に慣れた日本軍は緒戦には勝ったものの、帰陣のときにははなはだ難儀した。
 朝鮮人は手詰の戦いは日本人に及ばずとも、久を持するの謀りについては、日本人はかえって相手にもならない。お互いの文化、歴史、風俗の違いをよく知り、それを尊重しつつ、無用な紛争や誤解をさけ、偏見や侮りを捨て去ることが大切だ。
 なーるほど、そうなんですよね。まったく同感です。
 このところ、日本社会の排外主義と自民族優越意識がひどくはびこっている。
 著者はこのように嘆いています。本当にそのとおりです。それぞれの民族には固有の文化があり、優劣つけがたいのです。それぞれ違って、みんないい。金子みすずの詩を思い出します。

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2007年3月 6日

私の紅衛兵時代

中国

著者:陳 凱歌、出版社:講談社現代新書
 中国では団塊世代は大災害よりひどい大変な苦難を蒙った世代です。著者は、団塊世代より少し下の世代になります(1952年生まれ)が、大変な苦しみを味わったことには変わりません。
 背が高くバスケットをしていたことから著者は中国軍にひろわれ、ようやく地獄からはい上がることができました。その苦難の歩みが淡々と語られています。
 中国の党と軍の高官の子弟は、優越感に浸りきっていた。父親の功績を誇り、生まれながらの革命家を自任した。その多くは傲慢で偏執、相手をとことん追い詰めた。敵ばかりつくっていた。良い友人にはなれなかった。
 毛沢東への愛は、心からというより、既に一種の習慣になっていた。
 毛沢東は破壊を求めた。紅衛兵に対して求めたものは三つ。忠誠と反逆そして憎悪だ。
 たとえば、クラス討論のなかで一人の生徒が「毛沢東も人間だ」と言ったところ、クラス中から囂々たる非難を浴びた。
 毛沢東は、高等教育を終えていなかった。若いころ、有名教授に冷たくあしらわれ、それ以来、毛沢東は知識人に対して偏見をもち、傷つけられた自尊心が反逆の形でふくれあがり、それは生涯、消えなかった。
 毛沢東は、本を読みすぎると身を滅ぼすことになると言った。毛沢東は、教育をろくに受けなかった古今東西の著名人を列挙したうえ、卑しい者がもっとも聡明であり、高貴な者がもっとも愚かであると言った。これによって教育制度すべての破壊がはじまった。
 著者の父は、19歳のときに(1939年)国民党に入っていた。これが文革のなかで問題となった。1939年の中国においては、国民党も抗日戦争をたたかっていた。
 子どもがゲームをやりだすと、大人よりも一生懸命にやるものだ。子どもにとっては、ゲームこそが人生そのものだから。
 著者と同じ学校に劉少奇の息子と彭真の息子がいた。文革が始まると、それぞれ自宅に住めなくなった。彭真の息子は学校にあった天井の低い平屋に移り住んだ。劉の息子のほうは、校舎の掃除道具を入れていた物置き部屋だった。
 著者は紅衛兵の一員として、実の父親に対する糾弾会に参加し、父親の肩を手で突き、身体を倒しました。今も、そのことを悔恨の情を抱きながら思い出します。
 父は避けようとしたが、途中でやめ、腰をさらに深く曲げた。周囲の人々は快感で熱く火照った視線を著者に送った。逃げることも出来ず、ヒステリックに何かを叫んだ。
 著者14歳、父50歳のときのことです。父を突き倒そうとしたとき、強くて威厳のあった父が、本当は弱い存在にすぎないと気がついた。14歳で、もう父を裏切ることを知ったことになる。そのあと、本をほとんど全部燃やした。
 文革とは、恐怖を前提とした愚かな大衆の運動だった。それは、本来のイデオロギーや理想とは無縁だった。暴力が際限もなくエスカレートしていったのは、他人に劣るのを恐れたからだ。
 人々は競争をくり返し、はりあい、自分が集団に忠実なことを必死に証明しようとした。集団に属さなければ、自分の存在が確認できなかった。証明してもらわなければ、自分が自分でないことになる。
 1967年。これは、私が上京して大学に入った年です。文革は退潮期にあり、紅衛兵は流行していなかった。
 自分は、ただの愚かな大衆の一人だった。文革中は、法など存在しなかった。
 1968年12月。東大闘争がヤマ場にさしかかっていたころです。知識青年が農村へ行き、貧農と下層農の再教育を受けるのは、大いに必要なこととされた。
 この10年間で2000万人をこえる青少年が農村へ向かった。下放運動には、積極的な文化的意義など何もない。それは進歩ではない。若者が時間を浪費してしまっただけ。
 文革が終わり、10年間おさえつけられ、社会の底辺ではいつくばって耐えてきた優秀な人材が一斉に大学の門をたたいた。1977年と1978年の入学者には、その後の中国のあらゆる分野を左右する逸材がそろった。著者もその一人です。
 著者の映画としては「さらば、わが愛。覇王別姫」が印象に残っています。著者の監督した映画ではありませんが、「芙蓉鎮」は私の好きな中国映画の一つです。これも文化大革命による若者の悲劇をテーマとしています。文革の後遺症の大きさは想像以上のようです。
 庭の桜が8分咲きになりました。いえ、ソメイヨシノではありません。サクランボの桜です。薄いピンク色ではありますが、むしろ白い花といってよいでしょう。ですから、ソメイヨシノのようなあでやかさはありません。地味な白さです。それでも、五月には、たくさんのサクランボの実がなることでしょう。早咲きのチューリップが7本咲いています。赤と黄の昔ながらのチューリップです。春到来を実感させてくれます。地植えのヒヤシンスも青紫色の花を咲かせてくれました。

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2007年3月 5日

タケ子

著者:稲光宏子、出版社:新日本出版社
 私はそのニュースを聞いたとき、耳を疑いました。参議院選挙で自共対決となって、共産党が自民党に逆転せり勝ったというのです。田中角栄首相のとき、1973年6月のことでした。共産の沓脱(くつぬぎ)タケ子70万票、自民の森下泰68万票。いやあ、世の中は変わるものなんだなあと、つくづく思ったことでした。それまで、自民党支配は永遠に続くものと思いこんでいたのです。
 この本は、そのタケ子の若いころの奮闘記、いわば青春編というものです。
 沓脱タケ子は医者でした。3期16年間の議員生活のなかでは、横山ノックや西川きよしというタレント候補とも互角にたたかったのですから、たいしたものです。どうして、そんなに大阪で人気があったのか、この本を読んでその秘密が少し分かった気がしました。
 もうひとつ、今では遠い昔話となった気がしますが、日本には占領軍命令によるレッドパージがありました。そのレッドパージがどのようにしてすすめられたのか、それに対して当事者がどんなたたかいをすすめたのか、その様子が手にとるように分かる本でもあります。ぐいぐいと引きずられ、一気に読み上げてしまいました。読んで元気の出てくる本としておすすめします。
 タケ子は1922年(大正11年)に現在の大阪府阪南市に生まれた。母子家庭に育ったタケ子は、戦争中は典型的な軍国少女だった。女学校でも女子医専でも学生報国隊の熱血隊長として頑張っていた。
 何ごとにつけ、着手するからには徹底的にきわめないとおさまらない性質、負けず嫌いでエネルギッシュな一途さは、幼女のころからだった。
 タケ子は終戦の前の年に結核療養所に医師として着任した。そのころは戦争中であったから大変な食糧難であり、栄養を必要とする結核患者は次々に死んでいった。入院患者 400人のうち、1年間に150人が死んだという記録が残っている。そんな悪条件のもと、タケ子は医師として必死に働きはじめた。
 終戦後、結核療養所は国立病院となった。そのなかで労働組合づくりがすすめられ、医師のタケ子は青年部長に就任した。
 やがて逆コース現象がはじまった。1949年3月のドッジプランによる官公庁の人員整理、1950年7月のマッカーサー書簡による共産党員と支持者の首切りがすすめられた。レッドパージである。この年6月に朝鮮戦争が始まった。7月から8月にかけて、下山事件、三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、反共宣伝キャンペーンがけたたましくかなでられた。今では、これらはいずれもアメリカ軍などによる謀略とされています(もっとも全容が解明されたというわけではありません)。
 タケ子たち18人も病院当局から免職通告を受けました。さあ、どうするか。ここからが、実は、この本のハイライトです。すごいんですよ。結核患者と連帯して不屈のたたかいを粘り強くすすめていくのです。本当に、そのバイタリティには感心してしまいます。
 当局側の手先のように動いている人たちのなかにまで支持者が大勢いました。やはりタケ子たちの日頃の献身的な診療態度が魅きつけたのですね。
 それにしても、当時の結核患者というのは若い人だったことを知って、実は、驚いてしまいました。てっきり、おじいさんやおばあさんばかりが患者だと思いこんでいたのです。昔は、若者も結核にかかって早や死にしていたのですね。残念なことです。
 このあとタケ子はどうするのだろう。ぜひ続編を読みたくなるような最後でした。続編を待っています。

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2007年3月 2日

再発見、江戸の数学

江戸時代

著者:桐山光弘、出版社:日刊工業新聞社
 ええーっ、日本人って、昔から数学が好きだったんですかー・・・。つい、そんな叫びをあげてしまいました。江戸時代に数学(和算)が流行していて、ゼロまでつかわれていたというんです。ホンマかいな。そんな気すらしてきます。
 数学は暗記するのではなく、考えるのが楽しいもの。しかも、それが日本人に向いている。著者の訴えたいところは、ここにあります。
 江戸時代初期に出版された数学の入門書には、ゼロのところに、0または令という記号、漢字が入れられていた。鎖国中の日本人も必要に迫られてゼロを発見していたのだ。円周率も、3.16と表されている。ただ、増補改訂版は3.1416としている。
 江戸時代の数学書の三大ベストセラーは、塵却記、算法闕疑(けつぎ)抄、改算記である。
 本の中で、読者に出題し、正解ものせている。問題を「好」(このみ)といい、それに対する回答は「員数」と言った。
 徳川吉宗は、享保8年(1723年)、全国の大名に対して、寺子屋設置令を出した。この結果、11代将軍・家斉の時代には日本国民の識字率は70%に達してた。
 江戸時代になっても、キリスト教の宣教師はまだ日本にいたが、彼らは、故国イタリアに出した手紙において、日本人が数学好きであることを強調していた。
 和算で有名な関孝和の師匠は、実は、イエズス会の宣教師だった。こんな話が紹介されています。本当でしょうか。
 江戸初期に数学が盛んになった理由の一つとして、暦がおかしいということもあった。
 この改暦のとき、関孝和の一番弟子である建部賢弘は、太陽の動きは円運動であるとし、その直径(天径)を算出している。うむむ、これはすごーい・・・。
 江戸時代の数学家(算者または算勘者と呼ばれていた)の大切な仕事に測量があった。税金を取るためには、田んぼの広さを決める必要がある。そのためには測量が欠かせない。
 にっちもさっちもい(ゆ)かない、という言葉がある。これは漢字では二進も三進も行かないと書く。その意味は、二でも三でも割れないということ、つまり、どうしようもない状態を表している。
 江戸時代に10年間の複利計算もしていたそうです。すごいですよね。
 私は高校1年の終わりころ、数学の才能がないと悟って、理科系から文科系に乗りかえました。微分・積分については何とか分かったのですが、図形をつかった応用問題にまるで歯がたたなかったのです。
 今では、早いとこ文科系に移ってよかったと本心から思っています。やはり、人間、向かないものは向かないのですよね。

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地底の太陽

朝鮮(韓国)

著者:金 石範、出版社:集英社
 済州島4.3蜂起のあと、日本に脱出してきた人々には、前にもまして苛酷な現実が待ちかまえていた・・・。
 済州島は、今や日本からも気軽に行ける観光地となっているようです。残念ながら、私はまだ済州島に行ったことがありません。その済州島は朝鮮戦争の始まる前、苛酷な戦場となっていました。
 済州島は自然も人間も焦土化、廃墟と化する。山にたてこもるゲリラ部隊が、仲間を裏切ったとして処刑し、また、拉致した警部幹部を身内がピストルで射殺した。ゲリラ司令官は討伐隊に殺された。討伐隊によって村民500人が虐殺され、全村が焼却されて廃墟と化した無男村があった。
 ときは、日本で松川事件が起きたころ。今ではアメリカ軍もからむ謀略事件とみなされている松川事件も、当時は多くの国民が共産党のしわざだと思いこまされていた。
 逆コースの政治弾圧の流れのなかで、日本でも朝連組織や民族学校が閉鎖されていった。このころ、日本社会が暗い気分におおわれていた。
 アメリカ支配下に李承晩独裁国家が軍警暴力によって成立した。やがて6月25日に朝鮮戦争が始まる。
 日本と韓国の暗いつながりを実感させる、鬱々とした重い雰囲気の小説です。
 私も「火山島」(文藝春秋、全7巻)を読みました。衝撃の内容です。息つく間もなく手に汗を握って、展開を追っていきました。いえ、決して心躍るという内容ではまったくありません。むしろ逆なのです。ともかく、ぐいぐいと力まかせに引きずりこまされ、目をそむけることもできずに読みすすめていきました。平和な日本にいては、とうてい想像できないような苛酷な現実がそこにはありました。それを日本でも引きずって生きる人々がいたわけです。

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腐蝕生保

社会

著者:高杉 良、出版社:新潮社
 生命保険会社のドロドロした内実が、これでもか、これでもかと暴き出され、本当にいやになるほどです。でも、この先いったい主人公はどうなるんだろう、どうするのかという思いに負けて、ついつい読みすすめてしまいます。さすがは企業小説の大家だけあります。たいした筆力です。上下2巻あり、1巻が400頁という大部の本をあっという間に読み終えてしまいました。
 生保の社長がアメリカ視察に行く。ゴマスリ幹部が、社長の愛人も現地で同行するように手配します。まるで、会社の私物化です。それでも、そんなゴマスリ幹部は社長の覚えが目出たくて、どんどん出世していくのです。
 そんなー・・・と思いつつ、これが企業の現実のようです。苦言を呈する輩は、どんどん閑職へ飛ばされていき、ワンマン社長の周囲にはイエスマン重役しか残りません。やる気のある若手はそんな上部の腐敗ぶりに嫌や気がさし、さっさと他の会社へ転職していきます。そんな勇気も自信もない人は、うつ病になったりします。ノルマに追われるのです。 生保レディは、契約とってなんぼの苛酷な世界に生きています。そこでは、やる気のあるレディーを確保し、成績をあげることのみが数字で追求されています。生保レディーは、また入れ替わりが極端に激しい世界でもあります。
 苛酷な競争が強いられるなか、架空契約、色仕掛け、なんでもありの世界が生まれます。
 自爆とは、業績をあげるため、あるいはノルマを達成するために、架空契約をつくって保険料を自腹を切って支払うこと。
 イラクではありませんが、自爆は日本の生保業界では昔から横行しているのです。
 ノルマを達成しきれない営業所の責任者はついに夜逃げし、自殺に走ってしまいます。まさしく悲劇です。でも、その悲劇を踏み台にしてのし上がっていく幹部もいます。企業犯罪とまではいきませんが、こんな企業の実態をそのまま是認していいとはとても思えません。鳥肌が立ってしまうほどの迫真の経済小説です。

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2007年3月 1日

十七歳の硫黄島

日本史(現代史)

著者:秋草鶴次、出版社:文春新書
 硫黄島の戦闘が体験者によって刻明に再現されています。地獄のような地底で凄惨な逃避行を続けていく執念を読んで、腹の底から唸り声がわきあがってきました。感嘆、驚嘆、なんと言うべきでしょうか。よくぞここまで思い出して書きとめたものだと感心するばかりです。なかでも、地底の臭いの描写が私にはもっとも印象的でした。
 出征の前の晩。祖母はこう言った。
 死ぬでないぞ。死んで花実が咲くものか。咲くなら墓場はいつでも花盛りだ。
 著者は17歳の通信員。薄暗い壕内に寝起きする。通信科の隅にはバケツの水が用意されている。水番がいつも見張っている。一度に小さな茶碗に一杯だけ飲める。これは雨水。しかし、硫黄ガスの臭気と室温を溶かしこみ、ゴミや微生物も見え隠れしている。そんな水を一度でいいから思い切り飲みたいと願っていた。
 壕内の衛生状態は日一日と悪化した。微生物や虫の繁殖はものすごい。蚊とハエ、蛾は昼夜なくとび回り、のみとしらみもどんどん増えている。排泄物の累積に厠もたちまち満杯となる。
 アメリカ軍は上陸本番の前、2月18日に海岸線に緑、赤、黄、碧(あお)の小旗を立てた。部隊ごとの上陸地点を示す目印だ。
 アメリカ軍が本格的に上陸したのは2月19日。午前10時までに1万人が上陸した。それまで日本軍は一切反撃しなかった。突如として日本軍のラッパが鳴って反撃が始まった。著者は、この様子をずっと見ていたのです。
 彼我の距離は1キロ足らずの地に、双方あわせて5万をこす人間の殺戮戦がくり広げられた。10時間に及ぶ膠着戦だった。1分経過するごとに3人が死に、1メートルすすむたびに1人が死んだ。
 2月24日、早朝摺鉢山の山頂に再び日章旗が翻っていた。
 そして翌25日早朝、またもや摺鉢山に日の丸が朝日を浴びて泳いでいた。
 ええーっ、本当でしょうかー・・・。
 硫黄島攻防戦におけるアメリカ軍の総被害の7割は2月27日までのもの。あとは局地戦に移った。
 日本軍は、この1週間、飲まず喰わずで、兵器以外に手にしたものはない。
 壕内に霊安所がある。眼前に青紫色のあやしげな炎のようなものが立ち昇った。そしてすぐに消えた。ローソクのような燃え方に似て、ボボーッと燃えては消え、ボボーッと燃えては滅している。自分のまわりで消えては燃え、灯っては消えている。まるで蛍の一群のようだ。燐に取り巻かれてしまった。
 死が近い者はうわ言をいった。
 「今日は休みだよな。面会人が来ることになっているんだ。もう駅に着いているかなあ」
 「まだ戦争、やってんのかい?もうやめようって、みんなが言ってるよ」
 そうなんですよね。私は、このセリフを紹介するだけでも、この本の書評をのせる価値があると思いました。
 著者は、短かく見ても一週間、長くみたら半月は水一杯も口に入れていませんでした。それでも運よく、缶詰をあけて食べ、サイダーを飲むことができました。
 自分の傷口に丸々と太った真っ白い蛆(うじ)がいた。口中に入れると、ブチーッと汁を出して潰れた。すかさず汁を吸いこんだ。皮は意外に強い。一夜干しでもあるまいに。しばらくその感触を味わった。
 うえーっ、そ、そんなー・・・。これって正気の沙汰ではありませんよね。まさしく地獄のような地底での話です。
 木炭も食べました。軟らかそうで、うまそうだ。急に甘味を思い出し、思わずかじりついた。・・・。すごーい。
 5月17日まで島内を逃げまわり、気を失っているところをアメリカ軍の犬に見つけられ、捕虜収容所のベッドに寝ているところで目がさめたのです。まさしく九死に一生、奇跡的に助かったわけです。
 あの戦争からこちら60年、この国は戦争をしないですんだのだから、おめえの死は無駄じゃねえ、と言ってやりたい。
 著者の言葉です。本当にそのとおりです。この60年の日本の平和を守ってきた日本国憲法(とりわけ9条2項)を変えるわけにはいきません。

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2007年3月30日

決定で儲かる会社をつくりなさい

社会

著者:小山 昇、出版社:河出書房新社
 私と同世代、つまり団塊世代の社長が自分の実践にもとづいて書いたビジネス書です。なかなか説得力があります。
 お客様アンケートには、普通を除き、大変よい、悪い、大変悪いにする。普通があると多くのお客がこれにマルをつける。それではアンケートをとる意味がない。なーるほど、ですね。アンケート項目は少ないほうがいいわけですので、これから私も普通はなくします。
 やりたいことを決めるより、やらないことを決めると、うまくいく。やらないことを先に決める。仕事でも遊びでも同じ。
 なーるほど、ですね。実は、私も同じです。カラオケしない、ゴルフしない、テレビは見ない、二次会に行かない。こうやって自分の時間を確保しています。
 接待は、するのもされるのも基本は新宿で、かつ自分の行きつけの店とする。支払いは先方もちでも。店に喜ばれるのは自分。社員がお客様を接待するときには先方の行きつけの店で、ボトルの2本でもお客様の名前で入れるようにする。そうすると喜ばれる。お客様の喜ぶところにお金をつかうのが接待の基本。
 ふむふむ、なるほど、そういうことなんですかー・・・。
 経理担当者と社長の違いは何か。経理は正確でなければいけないが、社長はアバウトでいい。その代わり早く知ることが大切だ。そうだったんですか。そう言われたら、そうですよね。
 支払手形は発行しない。受取手形もダメ。手形ほど怖いものはない。会社にとって、手形は麻薬以外の何者でもない。
 この本を読んで大変勉強になったのは、銀行とのつきあいの点です。私も長いあいだ銀行と取引しているのですが、地元の信用金庫などは私の事務所に対して一応の敬意を払ってくれますが、都市銀行となると、ハナにもひっかけられません。いつも悔しい思いをしています。
 銀行から融資を受け、毎月きちんと返済する実績をつくることは、経営の安定をはかるうえで、とくに大切なこと。昨年、複数の銀行から融資を受けた。どうしてもお金が必要だったというのではない。借入金額のキャパシティを広げるためのこと。金利が下がったので、月々の返済金利額を固定して、借入額を増やした。
 銀行は常に過去の実績に対して融資する。支店長が会社にやってくるのは、挨拶に名を借りた融資のための基礎情報の収集のため。社内の雰囲気が明るいか、社員は元気そうか、などを見ている。たとえば、赤字企業の社員は一般に来客に挨拶しないものだ。
 こちらから、毎月、銀行に出かけていって支店長に挨拶する。毎月の定期訪問で注意深く観察を積み重ねると、次第に銀行の状況も察しがつくようになる。
 銀行訪問は、午前中がいい。午後2時以降は、銀行は忙しい。また、月末や月初め、そして5日、10日は外す。一行につき1回20分まで。銀行に内情を話すときは、悪いことを先に話し、よいことは後に話す。人間は最後に聞いたことが印象に残るから。
 銀行からお金を借りるときには、根抵当権ではなく、抵当権で借りるほうがよい。担保は金融機関がもうけるための仕組み。ただでさえ、借り主は不利な構造だ。
 銀行は晴れの日には傘を貸す。しかし、雨の日になったら傘を返せと言い出す。銀行を自社のチェック機関にする仕組みをつくりあげる。銀行に判断を仰ぎ、自分のチェック機関にする。なにしろ銀行は同業他社をたくさん見ている。その事業が伸びるかどうか、融資しても大丈夫かどうかを常に考えている。冷静かつ客観的に判断するという点では銀行に勝るところはない。
 この会社の定着率の高さは驚異的です。2004年から2006年まで、3年間で28人の新卒社員が入社し、辞めたのはたった1人だけというのです。信じられません。
 こちらの指示に対して、即座に行動できない人はダメ。どんなに成績が優秀でも採用しない。社長と同じ価値観を共有でき、素直な人材、こんな人を採用する。優秀な人間は、とかく他人の話を聞かないもの。
 ふむふむ、なーるほど、なーるほど、いろいろ弁護士としても教えられること大でした。

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自分を護る力を育てる

社会

著者:宇都宮英人、出版社:海鳥社
 著者は熊本出身で、いまは福岡で弁護士をしています。高校時代から空手を始め、京都大学空手部の副監督。そして子供たちに空手を教える日の里空手スクール代表として、長く大活躍中です。英語・中国語など語学も堪能な、異才の弁護士です。
 この本は2冊目。著者より贈呈を受け、早速よみました。長く空手道にいそしんできた著者による実践的な護身術の心構えの本です。被害者だけでなく加害者にならないようにという複眼的な思考法が説かれている点がユニークです。
 身を護るとは、生命、身体、自由を侵害しようとするなど、人の尊厳を脅かす行為に対して、被害者にも加害者にもならないようにすること。他人の尊厳を脅かす行為を自らしないことが、自分の尊厳を脅かす行為を防ぐことになるだけでなく、自分の尊厳を脅かす行為を防ぐことが、他人の尊厳を脅かす行為をしないことにも結びつく側面がある。
 人の尊厳とは、生命、身体、自由など、人としてかけがえのないものであり、また、代わりのきかないもの。侵すことも、侵されることもできないもの。人としての価値を構成するのが人の尊厳。人としての尊厳は個人にしかなく、会社などの法人にはない。
 他人を脅かさないだけでなく、自分をも脅かさない。護身には、自分から自分を護るという側面がある。
 護身に必要な力は、人の尊厳に対する認識力、想像力、判断力、行動力、勇気、集中力、自己制御力、コミュニケーション力という言葉が連なる。
 このような力を生み出す源泉として、からだ、ことば、心という三つの要素が重要だ。
 現実の危険に対する回避行動は、どんな危険が生じているかを瞬時に把握し、その危険に対応する必要がある。護身において求められる身体技術は、瞬時に劇的な行為をとること。なるほど、そのために日頃から訓練しておくわけですね。
 相手からの身体拘束を弱めるには、息を吐き、リラックスした状態になることが必要。それで自分の身体がいくらか小さくなり、相手の身体との間に隙間が生まれ、拘束が弱まる。この小さな空間が生まれることで、技を仕掛けやすくなる。
 自分がリラックスすることで、相手方の力が弱められる。こちらが力を入れれば相手方に力が入るし、こちらが力を抜くと相手方の力も抜けるという相関関係にある。
 相手方の身体的・精神的なバランスを崩すのは、静的な力ではなく、力の落差である。
 空手の技法をことばで表現すると、次のようになる。短い時間と距離で、身体の力を抜いた状態と力に満ちた状態との転換を可能にし、その落差によって顕在化される身体のエネルギーを相手方の特定部位に伝えて相手方を崩したり、相手方に打撃を与える技術。そして、その時間と距離とを限りなくゼロに近づけていくのが技術の目標。
 空手の本質は、護身にある。
 さすが、空手道に40年以上も精進し、長く子どもたちに接しているだけのことはあるとつくづく感服しました。

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徳川光圀

江戸時代

著者:鈴木暎一、出版社:吉川弘文館
 有名な「水戸黄門」の主人公の素顔を追求した本です。葵の印籠ですべてが解決するなんて、映画(ビデオ)のなかだったらいいのですが、現実にそんなものがあったら困りますよね。文句があっても、権力者の言いなりになれっていうことですからね。
 光圀は光国だったこと、少年時代はほとんど非行少年だったこと、隠居したあと側近を自ら手討ちした(殺した)ことなどを知りました。人生いろいろあるものなんですね。
 光圀は徳川家康の孫なんですね。知りませんでした。父の頼房は、家康の末子(11男)だったのです。父頼房も、壮年期になるまでは、豪気というより奔放・無軌道の一面があった。まだ戦国時代の風潮が残っていた。
 父頼房は光圀を世継ぎ(世子)と定め、気骨ある武人、武将に育てあげることに心を砕いた。しかし、光圀は勝ち気で強情な少年だった。馬術とともに水泳を得意とした。光圀は、17歳ころまで、父の期待を裏切ること甚だしい品行不良の少年だった。
 言語道断の歌舞伎人と評された。
 脇差しは前へ突出して差し、挨拶の仕方や殿中を歩く姿は軽薄・異様。着物はいろいろ伊達に染めさせ、びろうどのえりを巻き、長屋へ単身出かけて厩(うまや)番や草履取りとも気軽に色好みの話をし、三味線を弾いている。
 なーるほど、かなりの不良青年だったようですね。光圀が遊里から朝帰りするとき、酔っぱらいが刀をふりまわしているのにぶつかった。水戸家出入りの旗本の子だったので、一喝しておさめた。こんなエピソードも紹介されています。
 18歳になって、光圀はすっかり反省し、行状を改めました。それからは学問に精励したのです。
 光圀はなかなかの美男子で、もてたとのこと。色白にして面長、額ひろく切れ長の眼で鼻梁の高い美男だった。登城の日、その姿を見ようと大勢の人が押しかけ、人垣が崩れかかって騒動になったこともあるそうです。
 光圀はずっと江戸に住んでいた。36歳のときに初めて水戸へ下った。以後、10回、藩主として水戸に下っている。えーっ、そんなに少ないのですかー・・・。驚きました。
 光圀は生涯ほとんど旅行らしいものをしていない。水戸から鎌倉・江ノ島そして江戸へ17日間かけて旅行したのが、生涯唯一の旅らしい旅だった。要するに、「水戸黄門漫遊記」なるものは、まったく架空の話なのです。
 光圀はずっと光国でした。この圀という字は、唐の則天武后がつくった則天文字の一つです。ほかの字は廃されたのに、なぜか、この圀の字だけ日本に生き残ったのです。
 光国が光圀としたのは、56歳のときのこと。
 光圀は蝦夷地探検を試みた。苦しい藩財政に利益をもたらす目論見があったようだ。探検のため性能のよい大船(快風丸)を建造した。全長27間、幅9間。千石船をはるかにしのぐ規模の巨船だった。
 光圀67歳のとき、小石川の藩邸で能興行中に、腹心を手討ち(刺殺)した。かねがね、その高慢ぶりに注意を与えていたが、問答の末、もう堪忍なりがたく成敗した、というのです。やっぱり、殿様って怖いですね。
 光圀が大日本史の編纂にとりかかったのは30歳のとき。73歳で死んだときも、まだ完成はしていませんでした。歴史を書くというのは、すごく息の長い事業なんですね。

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2007年3月29日

身近な野菜のなるほど観察記

著者:稲垣栄洋、出版社:草思社
 洋食に欠かせないキャベツ。この取り合わせは、実は日本独特のもの。欧米には生のキャベツを食べる習慣がない。生のキャベツはウサギが食べるものと決まっている。
 キャベツには消化酵素のジアスターゼや胃腸の潰瘍を治すビタミンUなど、胃腸障害に効く成分がたくさん含まれているから、腹一杯たべても安心していい。
 キャベツは江戸時代に日本へ入ってきたときには、食用ではなく観賞用だった。キャベツを庭で育てたことがあります。毎朝の青虫とりが大変でした。とってもとっても、翌朝みるとたくさんの青虫がついているので、さすがにゲンナリしました。
 キャベツはアブラナ科。レタスはキク科。レタスを包丁で切ってはいけない。変色してしまうから。
 タマネギを切ると涙が出るのは、虫に食べられて細胞が破壊されたときに、刺激物質を瞬時につくって虫を撃退しようとしているのだ。涙が出ないようにするためにはタマネギを冷たくするか、縦切りにしたらよい。
 エンドウを漢字で書くと豌豆。だから、エンドウマメというと、豌豆豆となってしまう。エンドウを日本にもってきたのは遣唐使。
 アスパラガスはユリ科。アスパラガスは茎のみで光合成をしている。アスパラガスの代表的な有効成分はアスパラギン酸。疲れをとり、スタミナをつけてくれる。アスパラガスは3年目から次々に芽を出す。土のなかに細い芋のような貯蔵根があり、そこにエネルギーを蓄えている。アスパラガスには雄株と雌株があり、雄株のほうがよい。雄株は実をつけないのでエネルギーの消耗が少なく、太い芽をたくさん出すことができる。
 春分の日。春うららかな一日でした。庭に顔を出した2本目のアスパラガスを採って食べました。1本目は細すぎたので遠慮しました。泥をのけて電子レンジに入れてチンして食べてみたところ、春の香りが口いっぱいに広がりました。
 タケノコは一日に1〜2メートル伸びることができる。生長点をいくつも持っているので、そんなことが可能なのだ。タケノコは体内にジベレリンという生長促進ホルモンを多く含んでいる。
 ゴボウの根を食べるのは日本人だけ。ゴボウはキク科の植物。海外では、ゴボウは、花のほうが知られている。中国人でさえ、ゴボウの根を薬用とはしたが、食べることはしなかった。ふーん、そうなんですか・・・。ゴボウ天うどんって、おいしいですよね。あのシャキシャキした歯ごたえが何ともいえません。
 カボチャは、もともと熱帯原産。カボチャは保存がきくので、冬に食べることができる。
 ビールにエダマメはあっている。エダマメはアルコールの分解を助けるビタミンB1やビタミンC、肝臓の負担を減らすメチオニンなどを含んでいるから。
 今や、日本の大豆の自給率は10%にならない。
 トウモロコシは、収穫後もさかんに呼吸を続けるので、糖分を消耗してしまう。トウモロコシの糖度は、収穫したあと、急激に低下し、わずか一日で半減してしまう。
 トウモロコシは、イネ、ムギと並んで世界の三大作物。世界で栽培されているトウモロコシの多くは家畜の餌として利用されている。
 トマトの葉は有毒。トマトの赤い色素リコピンには発ガン抑制の効果もある。
 ピーマンは未熟な果実であり、それだからこそ苦み物質をもっている。ピーマンはトウガラシの一種である。
 トウガラシは日本は唐の国の唐辛子だが、韓国では倭の国から来たので、倭辛子と呼ばれている。トウガラシは種子を運んでもらうパートナーとして動物ではなく鳥を選んだ。鳥には辛さを感じる味覚がないので、トウガラシを平気で食べる。
 メロンは果物ではなく、野菜。甘やかして水をやりすぎると果実が水っぽくなる。そこで、水を制限して厳しい環境に追いこむと、懸命に果実に栄養分を集めだす。その結果、メロンは甘くなる。
 スイカは中心ほど甘くなっている。中心部が一番甘いのは、動物や鳥に残さずに食べてもらうための工夫なのだ。
 ニンニクは強い殺菌作用をもつので、弱い毒として人間の体に刺激剤となる。ニンニクの毒を排除しようと人間の体内の免疫力は高まり、防御態勢に入る。そして、人間のさまざまな生理作用が活性化されるのだ。
 なーるほど、身近な野菜についても知らないことだらけでしたね。

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2007年3月28日

少年審判制度が変わる

司法

著者:福岡県弁護士会子どもの権利委員会、出版社:商事法務
 全件付添人制度の実証的研究というサブ・タイトルのついた本です。福岡県弁護士会が全国に先駆けて発足させた全件付添人制度の意義を、諸外国との対比もふまえて明らかにした画期的な労作です。
 この全件付添人制度がスタートしたのは2001年2月、春山九州男会長のときでした。春山会長の積極果敢な働きがなければ実現出来なかった偉業です。
 制度発足前の議論の焦点は二つありました。担当弁護士が確保できるのか、収支見通しは大丈夫なのか、という点です。いずれも深刻な議論となりました。
 福岡県弁護士会は国選弁護人の登録率が83%、当番弁護士の登録率も65%と全国的にみて大変高い率を誇っています。そのベースの上に当番付添人の登録率は51%となっています。全国水準をはるかに上まわる高率を誇っています。最近新規に入会してくる会員は全員登録するのが当然という状況です。
 付添人として出動した弁護士には10万円が支払われますが、これは少年の負担はありません(扶助付添人が適用されたとき)。この10万円は、法律扶助協会本部から3万円、日弁連の当番弁護士財政基金から3万円、扶助協会福岡県支部から4万円という負担となっています。県支部4万円は、福岡県弁護士会の基金から支出されていますが、そのため当会の会員は月5000円が会費に上乗せされています。
 この制度によって、2003年度に福岡県内で1296人の少年に観護措置決定がされたが、そのうち780人に弁護士付添人がついた。福岡家裁本庁では534人の少年のうち410人に弁護士付添人がついた(77%)。
 付添人の活動によって、家裁に送致されてから審判までの間に少年の要保護性が減少し、少年院送致はなく、社会内処遇が選択される比率が高まっている。
 多くの審判官や調査官が少年の更生のために熱心に職務を遂行していることは認めるが、外部チェックのない組織は独善に陥る危険性もあり、健全に発展するのが難しいことは社会の常識でもある。
 弁護士が付添人として少年審判に関与し、裁判所が恣意的判断に陥らないようチェックし、処分の決定基準そのものに付添人の意見が繁栄されることには大きな意義がある。
 福岡県弁護士会では、付添人活動のレベルアップのための研修会もひんぱんに行われている。月報にも、その苦労話が毎回のように紹介されています。必ずしも成功談ばかりではなく、頭の下がるような話のオンパレードです。
 審判書を少年本人や保護者に読んでもらうことは、たいていの場合、大きな意味がある。付添人はその点にも留意して活動している。
 470頁、4400円と、ズシリと重たい本ですが、少年事件の適正手続の実現と少年の更生に向けた環境づくりのために福岡県弁護士会の先進的な取り組みを詳細に分析・評価している貴重な本として、広く読まれることを願っています。

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2007年3月27日

日本は略奪国家アメリカを棄てよ

アメリカ

著者:ビル・トッテン、出版社:ビジネス社
 ついに母国アメリカの国籍を捨ててしまった元アメリカ人による警鐘の書です。うんうん、大きくうなずきながら最後まで一気に読んでしまいました。
 著者は1941年生まれのアメリカ白人です。私がまだ大学生のころの1961年に日本にやってきて以来、日本に住んでいて、日本で会社を経営しながら、京都に住み、ついに2006年に日本へ帰化しました。在日38年目のことです。
 著者は、その前、アメリカに帰国するとき、要注意人物としてブラックリストにのせられ、空港では徹底した身体検査を受けたといいます。テロ防止法の対象者とされたわけです。ひどい話ですね。アメリカ政府を単に批判したというだけなのに・・・。
 日本政府は在日米軍基地を維持するために、年間5000億円を負担している。在日アメリカ軍兵士1人あたり1400万円。日本政府が日本国民1人あたりにつかっている社会保障費はなんと、その100分の1の13万円でしかない。にもかかわらず、アメリカ軍が日本を守ってくれる保障は何もない。
 日米安保条約があるから、アメリカは日本を守ってくれるというのは、実は脳天気な幻想に過ぎない。
 つい最近、福岡県内の築城基地にアメリカ軍がやってきて演習をはじめました。ついに本土が沖縄なみになったわけです。
 アメリカ軍の公務中による民間人への損害賠償について、日米地位協定では、アメリカだけに責任があるときの賠償金は、アメリカが75%、日本が25%を負担することになっている。アメリカだけに責任があっても、日本は賠償金を分担させられる。いかにも不平等な協定である。これには、私もまったく同感です。
 アメリカでは、低所得層の家庭に生まれた子どもが、所得の上位5%の階層へと行ける確率はわずか1%。残る99%は、そのまま低所得層にいるか、せいぜい中所得層に上がるのが現状だ。それに対して、上位5%の階層に生まれた子どもが成人してもそのままの階層に属することができる確率は22%。まるで違う。
 アメリカでは、貧しい家に生を受けた人は、生涯貧しい。いつも解雇に怯え、公共料金の支払いを危惧し、医療保険にも入れない。努力すれば幸せになれるという夢や希望は、微塵もない。ところが、裕福な家に生を受けた人は生涯、裕福な人生を送ることができる。そして、生涯、快適に安全に人生を満喫するために、一度得た権利を決して手放そうとはしない。
 アメリカの二大政党というのは、実は表面だけで、その実体は一党支配に思える。共和党も民主党も、政策は似たり寄ったりである。表向きは違う顔をした政党だが、資産党ないし富裕党という、一つの大政党しか存在していない。
 資産党(富裕党)の中に、共和派と民主派という二つの派閥があって、政権交代は単なる派閥争いにすぎない。そして、いずれの派閥(党)も、戦争が好きだ。クリントンになって以降の民主党は、民主党という看板を掲げた共和党になったという実感をもっている。
 資本主義とは、資本家の所得や富を最大限にするためのシステムである。たしかに清算や消費は増大するが、地球環境に余計な負荷がかかってしまう。山や海、川は汚染され、ゴミは増え、石油などの地下資源は一層すくなくなっていく。資本主義はまったく不完全なシステムだ。
 私は昨年、突然、花粉症になってしまいました。今年も、目や鼻がやられてしまいました。鼻の詰まりがひどいのです。人間って、鼻で息をしていることを、しみじみ実感させられてしまいました。この花粉症にしても、単にスギ花粉の大量発生だけでなく、ディーゼル黒煙など、大気汚染がバックグラウンドに必ずあると私は考えています。そうでないと、昔から花粉はあったのに、なんで、現代人が大量に花粉症にかかって悩まされているのか、十分な説明がつかないと思います。いかがでしょうか?

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