弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年3月14日

指揮官の決断

著者:山下康博、出版社:中経出版
 明治35年1月、八甲田山の雪中行軍が敢行された。青森歩兵第5連隊210名のうち、生き残ったのは11名のみ、しかも元の健康体で社会復帰できたのは3名だけだった。そして、実は、このとき同時に、もう一つの雪中行軍隊がいた。弘前歩兵第31連隊の37人である。この37人は、3日間、八甲田山中を歩き続け、1人の落伍者も出さずに、無事に全員が青森に生還した。
 新田次郎の「八甲田山死の彷徨」(新潮文庫)であまりにも有名な八甲田山の雪中行軍の実際が描かれています。生き残った弘前隊には新聞記者(東奥日報)が1人加わっていました。ですから、写真もよく残っています。
 青森の1月は新雪の時期。雪は軟らかく、人が踏み込めば、胸まで雪に沈んでしまう。一歩まちがえば、窒息死する危険性は高い。寒冷地で凍傷におかされる危険の第一歩は汗をかくこと。
 私が、この本を読んで初めて知ったことは、当時の日本軍は、ロシア軍が青森に上陸することを想定して対策を講じようとしていたということです。これには驚きました。ロシア軍の想定上陸先は北海道ではなかったのです。ロシア軍は、陸奥湾に侵攻して青森に上陸するか、太平洋側の八戸に上陸すると想定していました。そこで、青森第5連隊の雪中行軍は、酷寒の八戸港に上陸したロシア軍に対し、物資輸送と救援隊の派遣のため八甲田山の豪雪をおかして青森との中間にある十和田湖(三本木原)に急行し、これを迎え撃つという想定のもとに行われた。今からすると、まるで荒唐無稽の話ではあります。
 遭難した青森隊は、案内人をつけるように地元からすすめられて、断った。どうせ、お金ほしさだろうという理由で。行軍してまもなく、前途に大いなる不安を覚えた。そこで、山口大隊長は幹部を集めて進退を協議した。このとき、将校は慎重論をとったが、見習士官や長期伍長たちは軍の威信を全面に押したてて強硬に進軍を主張した。山口大隊長も、ついに進軍を決した。将校たちも部下の強硬論をはね返すだけの勇気はなかったのです。これが悲劇をうみました。いつの世にもカラ威張りの強硬論が幅をきかします。今の自民党若手代議士のタカ派がまるで同じです。
 青森隊は、行軍初日から、いきなりひどい寒気のなかを13時間にわたって峠をのぼりおりした。隊員のなかには、出発前夜のふるまい酒で夜明かしに近い状態も少なくなかった。この日、最高気温がマイナス8.5度。凍傷者の発生は、最低気温が異常に低いことより、最高気温が低く、風力が激しいという条件下で多い。人間の体温は28度以下になると蘇生が困難な状態に陥り、20度以下になると死をもたらす。
 弘前隊は、行軍の途中で青森隊の死者2人を発見し、歩兵銃も発見した。しかし、たとえ戦友が負傷しても、それを介護してはならない。自分の任務に向かって突進せよ。この精神で何もすることなく、そのまま行軍し、脱落者を出さなかった。
 そして、弘前隊の教訓は日露戦争で中国大陸における戦闘のときに生かされた。しかし、弘前隊の福島隊長は、このとき戦死してしまいました。
 八甲田山の死の雪中行軍の実情と、そこから何を教訓として学ぶべきか、実によく分かりました。

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2006年3月13日

明仁さん、美智子さん、皇族やめませんか

著者:板垣恭介、出版社:大月書店
 左でも右でもない、ただガラの悪さでは天下一品。宮内庁長官からこのように評された元宮内庁記者が愛をこめて皇室の内情をさらけ出した本です。とても真面目な面白い本です。
 皇族やめませんか、と言われても自分の意思だけでやめるわけにいかないのが、日本の皇族です。イギリスの国王で、女性への愛を貫くために国王の地位を投げ捨てた人がいましたね。でも、イギリスと違って女王を認めない日本では、明仁さんはそうはいきません。常陸宮がまだ義宮と呼ばれていたころ、嫁さん探しがなされた。もちろん、家系の正しい人であることが条件だ。ところが、宮内庁長官はこう言った。
 家系の正しい人といったって、こっちだってお妾さんの子の孫だよ。そんな固いことは言えませんや。
 なるほど、大正天皇は明治天皇が典侍に生ませた子だったのです。有名な話です。
 ミッチーブームは、私が小学生のころのことで、今でも鮮明に覚えています。この美智子人気を良からず思っていたのが昭和天皇の妻の良子(ながこ)皇后。宮中で反対運動を展開した。その片棒をかついだのは秩父宮勢津子(会津藩主松平容保の孫)、高松宮喜久子(徳川慶喜の孫)、良子の実妹大谷智子(東本願法主夫人)、勢津子の母で東宮教育参与の松平信子らだった。
 良子は、美智子妃を平民だからという一点で、最初から無視していた。旅行するとき、見送りに並んでいるなかで美智子妃の前だけは素通りし、あえて無視した。美智子妃について、「あの人は外からきたお人だから」と一言で片づけた。
 その良子も、昭和天皇の母親の貞明皇后とは気があわなかったという。良子が、万事おっとりした姫様育ちで、いささか気働きに欠けたからだ。
 良子皇后の還暦祝いがあったとき、美智子妃は欠席したそうです。こんな状況を知るとその気持ちはよく分かりますね。宮内庁長官が次のように語ったそうです。
 皇族てぇのは、われわれ庶民と違って残酷なところがあるんだ。貴人に情なし。
 美智子妃の父親である正田英三郎が、宮中での集まりのとき、高松宮に深々とお辞儀をしたのに、高松宮はフンという顔でそっぽを向いた。高松宮は、正田家そのものに好意をもっていなかった。
 この本を読んで、美智子妃が、まだ幼い3人の子どもを連れて外出したとき、「ほかほか弁当」を4個買って食べたというのを知って驚きました。皇室の衛生管理の厳しさを聞いていた私には、あの添加物だらけの弁当を買って食べるなんて、とても信じられませんでした。もちろん、宮内庁当局は「今後は慎むように」と注意しました。ところが、美智子妃は、「国民のみなさんと同じものを、なぜ私や子どもたちが食べてはいけないのですか」と反論したそうです。むむむ、おぬし、やるな・・・。そんな気になりました。
 美智子妃はテニスするとき、「あっ、やばい」「よし、やるぞ」という掛け声をかけていたとのこと。なんだか親しみを感じる言葉ですね。法曹界との対抗試合も盛んにやられていたようです。近く発刊される福岡県弁護士会の会報に、そのころの写真がのっています。
 昭和天皇は、自衛の戦争まで否定している日本国憲法には反対だった。だから、占領中、マッカーサーにあったとき、軍隊不在の不安を訴えていた。これに対してマッカーサーは、陛下、日本は東洋のスイスになればいいんだから、となだめていた。昭和天皇の言葉は、なるほどと分かりますが、マッカーサーの言葉は意外でした。
 2004年10月、秋の園遊会のとき、米長邦雄元名人が、日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが自分の仕事だと言ったとき、明仁天皇は、すかさず、強制になるということでないことが望ましいと答えました。すっかり米長のアテは外れてしまった。
 私も、この言葉を新聞で知り、明仁天皇はなかなかの人物だと見直しました。
 皇族という「商売」を続けるのも実に大変なことなんだとつくづく思います。

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2006年3月10日

戦陣訓の呪縛

著者:ウルリック・ストラウス、出版社:中央公論新社
 終戦までの日本人捕虜は3万5000人。ドイツ軍捕虜が94万5100人、イタリア軍のそれ49万600人に比べると、はるかに少ない。ただし、終戦による日本軍捕虜は160万人以上いる。
 アメリカ軍は真珠湾攻撃を受けてから、数千人のアメリカ人に日本語を習得させはじめた。そして、強制収容所から引き抜いてきて、数千人の日系2世を捕虜の尋問に活用した。
 パールハーバー攻撃のとき、特殊潜水艇に乗っていた10人の1人、酒巻和男海軍大尉は潜水艇の故障により海に投げ出されて、泳いでハワイの海岸に上陸して捕まった。
 残る9人は全員死亡して、「九軍神」として祭られた。アメリカ政府は赤十字を通じて酒巻捕虜の存在を通知したが、日本海軍は対応に困った。戦死公報を出さず、家族にも知らせなかった。士官名簿には予備役と書きこまれたが、海軍将校の間では公然の秘密となっていた。戦後、酒巻は日本に帰国し、東京裁判に証人として召喚された。トヨタに入社し、ブラジル・トヨタの社長にまでなった。捕虜第1号だった。
 戦陣訓は、天皇の承認を経て1991年1月8日に東条英機陸軍大臣によって公布された。日本兵は捕虜になってはならないと命じられた。ただ、海軍は戦陣訓のような規則は公布しなかった。
 日本軍においては戦闘で死亡した兵士に比べ、捕虜となった兵士の割合は、海軍で3.0%、陸軍で2.3%しかいない。投降を決心したら、投降するまでに友軍に殺されないよう気をつけなければいけなかった。
 日本兵は全員が日記をつけていた。ここには兵士たちの内面の心理や倫理観が読みとれた。軍務に関する指令や作戦などの貴重な情報もあり、まさに宝の山だった。
 日本軍当局は、日本語を理解できる白人などいないだろうし、アメリカ軍は日系2世なんて信用していないし、太平洋の戦地に送りこんではこないだろうとタカをくくっていた。しかし、真実は、多くの日系2世が太平洋の戦地に送りこまれ、死んだ日本兵や捕虜の日記を翻訳してアメリカ本国へ送っていた。
 捕虜になった日本兵をソフトに優しく扱うと、成績良好で、いとも簡単に軍事情報を話しはじめるのだった。日本兵は機密情報の必要性について十分に教育されていなかった。日記をふくむ文書情報の管理は手薄だった。捕虜となった日本兵はまさか戦場で、日本語のうまいアメリカ軍兵士と遭遇するなど、想像もしていなかった。
 捕虜たちは、自分の国を裏切ったみじめな存在だと考え、無意識のうちに、より人間的な結びつきを求めるのだった。捕虜がアメリカ兵と同様に扱われている事実、そして、共通する人間性という認識は、大いなる感銘を与えた。このことが、アメリカ側の情報収集を促進することになった。
 1944年3月に、古賀峯一連合艦隊司令長官たちを乗せた輸送機のうち古賀司令長官をのせた1番機は台風にあって遭難し、2番機は太平洋に突っこんだ。3番機のみ無事に到着した。2番機に乗っていた福留中将は現地のゲリラに捕まった。しかも、機密文書まで押収されてしまった。ゲリラと人質交換の交渉が成立して福留中将は無事に日本へ帰国できたが、文書はアメリカ軍の手に落ちた。このとき、海軍省は、福留中将は潔白であると裁定し、何の処分も行わなれなかった。日本軍部のご都合主義を典型的に物語る話です。
 捕虜になったらいけないと定めた「戦陣訓」なんて、本当に非人道的なものです。そもそも戦争を始めること自体が人命軽視ではありますが・・・。

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テクノストレス

著者:クレイグ・ブロード、出版社:新潮社
 テクノ依存症患者は仕事の効率を高めようとして、絶えず自分を駆り立てる。彼は自分の限界を認めようとしない。やがて疲労が精神をむしばみ、考え方が硬直しはじめる。自分ではそれと意識せぬうちに、能率は低下し、誤りを犯すことが多くなる。
 テクノ依存症患者は自分が踏み回し続けるハツカネズミになっていることに気が付かない。気がつくだけの洞察力をすでに彼らは失っている。
 制御と予知可能性を何よりも重視するテクノ依存患者は、抑えもきかず、どこでどうなるかも分からない欲望の力をもてあます。テクノ依存症の犠牲者は、自分の要求を感じとる力を失い、あるいは自分が要求を抱いているのかどうかさえ、分からなくなってしまう。
 他者に愛着を感じないテクノ依存患者は、いかなる人間関係を築くこともむずかしい。心の通いあった、長続きする関係をつくることは、とうてい不可能である。
 これはアメリカ人が書いた本です。いつのことか分かりますか。なんと、今から20年以上も前のアメリカ社会について書いた本なのです。ですから今は、もっとひどくなっていると考えるべきでしょう。
 一日中パソコンに向かってインターネットにはまっていたり、ゲームをしていたり、株取引をしていたら、そんな人が増えたら、この社会は人間が住むところではなくなってしまうでしょう。うるおいとゆとりのある人間社会にするためには、何が本当に必要なのか、今こそ考えるべきときではないでしょうか。

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江戸の海外情報ネットワーク

著者:岩下哲典、出版社:吉川弘文館
 鎖国というけれど、海外に開かれていたのは長崎だけではない。北海道の松前氏はアイヌとの貿易を介してロシアや中国東北部(山丹)の文物を入手していた。
 薩摩藩は、朝鮮からの密貿易船のための朝鮮通詞まで養成していた。
 ペリー来航については、1年前に、オランダ商館から長崎奉行を通じて幕府老中に通告されていた。幕府の対応は、この予告情報にもとづいて、それなりに心がまえをもってなされた。
 徳川家康に慶長7年(1602年)ベトナムからの象が献上された。
 その5年前、慶長2年に大阪城の秀吉にルソン総督から象が献上されている。秀頼とともに秀吉は象を見物し、瓜と桃を手ずから象に与えたという。
 大分豊後のキリシタン大名大友宗麟にも、カンボジアの象が献上された。
 もっと以前には、応永15年(1408年)に、スマトラ島の有力華僑から室町4代将軍足利義持に黒象が献上されている。
 慶長7年から126年ぶりの享保13年(1728年)、象が日本に渡来した。徳川吉宗の時代である。長崎にベトナム産の象(オス、メス各1頭)が上陸した。しかし、まもなくメス象は病死し、オス象のみが江戸へのぼった。
 文政4年(1821年)には、ラクダも渡来した。文久3年(1863年)には、横浜にサーカスの象が上陸した。
 このように、江戸時代は、鎖国といっても、決して完全に閉ざされた国ではなかったのです。

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ヨーロッパとイスラーム

著者:内藤正典、出版社:岩波書店
 共生は可能か、というサブタイトルがついています。デンマークの漫画家がマホメットをテロリストのように描き、それがデンマークの新聞にのり、ヨーロッパ各地の新聞に転載されました。イスラム教信者の人々が怒るのはもっともです。日本人だって、天皇が凶悪な殺人鬼のように描かれたら、怒り出す人は多いのではないでしょうか。
 ところが、ヨーロッパの人々は、概して、それは表現の自由の範囲内のことではないか、言論弾圧はしたくないし、問題にする方がおかしいと言って平然と開き直っています。本当に言論の自由の範囲内なのでしょうか・・・。
 麻生太郎外相が講演会で、日本の植民地だったから台湾は教育程度が高くなったと講演しました。これって、台湾の人が聞いて許せるでしょうか。私なら絶対に許せません。
 麻生太郎が居酒屋で知人に対して同じことを言ったのなら、私は許します。ところが、日本国の外務大臣の肩書きをつけて、公開の場所で公衆に対して放言したのですよ。日本が中国・台湾・朝鮮半島を侵略して植民地としたことは反省すべきことではありませんか。しかし、そんな麻生外相の発言に対して手を叩いて賛同する日本人が少なくありません。最近は、若者に増えているようです。自虐史観から抜け出せ、などと叫んでいます。しかし、歴史の真実に目をふさいではいけません。
 ムスリムはキリスト教徒を敵視しなかった。イスラム王朝の支配下におくときには、庇護を与える代わりに人頭税の支払いを求めた。必要経費を払った安全と一定の自由を享受するのだから、不平等だと感じていなかった。
 ところが、キリスト教徒は過去1000年以上にわたってムスリムを敵視してきた。ヨーロッパの社会は、中東・イスラム世界に対して、たえず恐怖と嫌悪を抱き続けてきた。ムスリムによる統治は、宗教の相違を承知のうえで共存を可能にするものだったが、キリスト教のヨーロッパはそれを理解しなかったし容認もしなかった。
 フランスには500万人のムスリムが住み、ヨーロッパで最多。ドイツには300万人のムスリムがいて、そのうちトルコ出身だけで260万人いる。ヨーロッパ全体には
2000万人のムスリムがいる。
 衛星放送のおかげで、母国トルコとヨーロッパの距離は近づいた。しかし、その結果、ヨーロッパ在住のトルコ系移民とドイツ社会の心理的・文化的距離は、逆に遠くなっていまった。
 少なくとも友人になるためには、相手を知り、相手が何を考えているかを洞察する能力が必要だ。これが他者への思いやりだ。ドイツ人一般にその能力が欠けているわけではない。しかし、相手がトルコ人だと、この能力は働かない。それがドイツ人だ。
 これはドイツに住む、成功したトルコ系移民の言葉です。うーむ、そうなのかー・・・。日本でも同じことが言えそうだな、ついそう思ってしまいました。アメリカ白人なら尊重するのに、黒人とか同じアジア系の人に対しては、いわば見下してしまう傾向が日本人にはあるように思います。
 イスラム教には、金銭や商売をいやしいものとする考えがまったくない。そして、強者が弱者を救済するのは、あらゆる人間関係の基本をなす道徳とされる。
 フランス語の会話教室に毎週かよっていますが、そこで初めてマホメットをテロリストに擬している漫画を見ました。日本の新聞には転載していないから、それまで見たくても見ることができませんでした。ところが、インターネットの画面では簡単に見ることができるのですね。これまた、便利なようで、怖いことですよね。

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2006年3月 8日

食品の裏側

著者:阿部 司、出版社:東洋経済新報社
 怖い本です。つい目をそらしたくなってしまいました。でも、毎日の生活の基本である食べもののことですから、目をよーく見開いて、最後まで読み通しました。
 著者は理学部化学科を卒業し、食品添加物の専門商社に長く勤めてきました。食品添加物を売り歩くセールスマンでした。でも、あるとき、自分の家で子どもたちがミートボールを美味しそうに食べるのを見てガク然としたのです。「そんなもの、食べたらいけない」こう叫んだといいます。
 スーパーの特売用ミートボールは何からつくるか。牛の骨から削りとる、肉とも言えない端肉。そのままだとドロドロだし、水っぽくて味もない。そこで卵をうまなくなった廃鶏のミンチ肉を加えて増量し、ソフト感を出すために組織状大豆たんぱくを加える。そして、ビーフエキス、化学調味料を大量に加えて味をつける。歯ざわりを滑らかにするため、ラードや加工でんぷんも投入する。機械で大量生産するので、作業性を良くするために結着剤や乳化剤も加える。色をよくするために着色料、保存性を上げるために保存料とPH調整剤。色あせを防ぐために酸化防止剤をつかう。これでミートボールができあがる。いや、まだまだある。ソースは、氷酢酸を薄め、カラメルで黒くして、化学調味料を加えてソースもどきをつくる。ケチャップの方は、トマトペーストに着色料で色をつけ、酸味料を加えて、増粘多糖類でとろみをつけ、ケチャップもどきをつくる。これで、やっと商品になる。結局のところ、添加物を30種類ほどつかっている。つまり、本来なら産業廃棄物となるべきクズ肉を、添加物を大量に投入して「食品」に仕立てあげたということ。こんなミートボールは、自分の子どもには決して食べさせたくない。それが著者の出発点でした。
 添加物商社の3大お得意さまは、明太子、漬物、ハム・ソーセージ。
 明太子。これは添加物で、どうにでもなるもの。ドロドロに柔らかく、粒のない低級品のタラコでも、添加物の液に一晩漬けるだけで、たちまち透き通って赤ちゃんのようなつやつや肌に生まれ変わる。身も締まって、しっかりした硬いタラコになる。
 ハム。100キロの豚肉のかたまりから、130キロのハムをつくる。肉用ゼリー液を豚肉のかたまりに注射器で打ち込む。
 コーヒーフレッシュは、植物油に水を混ぜ、添加物で白く濁らせ、ミルク風に仕立てたもの。だから使い放題にできるのだ。
 一般に日本人が摂取する添加物の量は1日平均10グラム、年間4キロ。日本人の食塩摂取量は1日12グラムなので、それと同じくらいということになる。
 コンビニのおにぎり。甘みを出しておいしくするためアミノ酸などの化学調味料や酵素が加えられ、保存性を高めるためにグリシンが入っている。フィルムがするっと抜けるために、乳化剤や植物油をつかう。こうやって10種類ほどの添加物がつかわれている。
 このようにして日本人の舌は、今や完全に化学調味料に侵されてしまっている。味覚が麻痺して天然の味が分からなくなっている。
 食品を買うときには、必ずひっくり返して裏を見よう。台所にないものが少ないもの、台所にないカタカナがぞろぞろ書いてあるようなものは買うのを避けよう。
 加工度が高くなればなるほど添加物は多くなる。安いものには飛びつかないこと。安いのには理由がある。うーん、毎日の食生活にはかなり気をつけているつもりでしたが、本当に怖いことだと改めて反省させられました。

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2006年3月 7日

21世紀の特殊部隊

著者:江畑謙介、出版社:並木書房
 主としてアメリカ軍の特殊部隊がつかっている特殊装備が紹介されています(下巻)。
さまざまな小火器、通信機が紹介されていて、驚きます。
 携帯式翻訳機(フレーズレター)には、アフガニスタン作戦用のものがあり、パシュトン語、ダリー語、ウルドゥー語、アラビア語の1500のフレーズがおさめられていて、電子合成語でフレーズを発音することもできるそうです。
 防寒用の下着は4層になっていて、マイナス40度まで耐えられる。
 防弾チョッキはケブラーというアラミド系の人造繊維をアメリカのデュポン社が開発し、世界の90%を占めている。この防弾チョッキは14〜16層で構成され、ナイロン製より50%も軽い。3キログラムほどの重さ。20層とすると6キロの重さになって、長時間の着用と敏捷な動きが難しくなる。
 シークレットサービスや要人のつかう防弾チョッキは2キロほど。ただし、防弾チョッキの耐弾性が高まると、命令した衝撃による身体への外傷性障害(ブラント・トラウマ)が問題となる。やはり、身体は打撃を受けるのである。
 飛行機、ヘリコプター、船などについても、特殊装置の概説があります。
 先日、天神の映画館で「ジャーヘッド」というアメリカ映画を見ました。アメリカによる湾岸戦争のとき、砂漠地帯へ侵攻したアメリカ海兵隊の兵士の生活を紹介しています。
 海兵隊の新兵教育とその訓練過程については、ずい分前に見たベトナム戦争のときの映画「ハンバーガー・ヒル」とまるで同じでした。要するに人間をバカそのものにして、何も考えず、ためらいなく人を殺す殺人マシーンに仕立てあげるのです。そのしごきはすさまじく、軟弱な私にはとても耐えられそうにありません。
 湾岸戦争のとき、狙撃兵として出動を命じられ、イラク軍の幹部を殺そうとしたとき、突然、「撃つな」と命令されます。空爆で片づけるからだというのです。
 人間が人間を殺すことがいかに大変なことかということ、同時に、空爆によって大量無差別にイラクの市民が殺害された現実が描かれています。
 アメリカが世界の憲兵だなんて、とんでもありません。それはアメリカの勝手な思いあがりでしょう。世界の各国、各民族はアメリカのために生きているわけではありません。アメリカのおかげで平和が保たれているのではありません。むしろ逆ですよね。世界中で起きている戦争に戦争にアメリカが関わっていないものがあるでしょうか・・・。私は絶対にアメリカによる世界支配なんて許しません。

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2006年3月 6日

金沢城のヒキガエル

著者:奥野良之助、出版社:平凡社ライブラリー
 いやー、面白い。ホント、おもしろい本です。たくさん本を読んでいると、ときどき、これっていう本にぶちあたります。そんな本です。カエルの本ですが、人間の生き方まで考え直させる、そんな素晴らしい本です。
 カエルはわが家の庭にもたくさんいます。小さなツチガエルと梅雨時のミドリガエルです。この本に登場するのは、大きなヒキガエルです。昨年、金沢城を見物してきましたが、金沢城内にまだ金沢大学があったころ、大学教授が10年のあいだ、夜な夜な城内を徘徊し、夜行性のカエルたちの生態を調べあげたのです。うーむ、学者ってすごーい・・。
 ところが、ヒキガエルたちは、最後には絶滅してしまったのです。メダカも今や絶滅の危機に瀕していると言いますが、カエルの世界も安穏としておれない世の中になってしまいました。みんな人間のせいなのです。罪深い人間です。いつまでも万物の霊長なんて威張ってはおれないはずなのですが、てんで、その自覚に乏しいのが人間です・・・。
 著者は、金沢城本丸跡付近にいるヒキガエルのうち1526匹について個体識別し、 10年間も観察しました。
 ヤマカガシはカエルを専門に食べるヘビだ。だから、ヤマカガシを見たらカエルはすくんで動けなくなる。そんな話がある。そこで、著者は生まれてまもない小さなヤマカガシをヒキガエルの前に置いた。すると、どうだろう。ヒキガエルはのそのそと歩いてヤマカガシをのぞきこみ、ぺろっと舌をくりだして頭から呑みこんでしまった。カエルがヘビを食べるなんて、ええーっ、そんな・・・。
 カエルの個体を識別するため、4本の足から1本ずつ、計4本を切り落とす。カエルは前足に4本、後足に5本の指をもっている。だから、左前足、右前足、左後足、右後足の順に切りとった指の番号をならべて4桁の数字をつけ、それを個体番号とするのだ。カエルの足を切り落とすとき、そのたびにカエルは目をつむり痛そうな顔をする。最後には全身からうっすらと毒液をにじませる。相当こたえているようすだ。だから、いつも、ゴメンネ、と声をかけて切ったと著者は弁明する。
 ヒキガエルは自分の繁殖池をだいたい決めて、めったに変えない。ヒキガエルは乾燥に適応していったグループで、オタマジャシから変態して上陸するや、繁殖期以外は一生、水の中には入らない。ヒキガエルは日没後に活動し、雨がふると時間にかまわず出てくる。
雨が降ってヒキガエルが活動をはじめるのは、降雨とともに地表にあらわれる好物の餌を求めてのことである。
 ヒキガエルは虫やミミズ、ナメクジやカタツムリなどを食べている。ミミズの一匹でものみこむと、満足してねぐらに帰り、当分、地面に出てこない。ヒキガエルは信じられないほど無欲で、わずかな餌で満足し、蛙生の大半を寝て暮らしている。
 蛙は口からは水を飲まず、体表から土のなかの水分を吸収している。だから、ねぐらの土が湿ってさえいれば水分は補給できる。ヒキガエルは乾燥に強く、体重が半分になっても死なない。
 変温動物のカエルは身体の芯まで冷えきって代謝はほぼ止まってしまうから、冬眠中はほとんどエネルギーを使わない。ヒキガエルの一年のなかで、冬眠の4ヶ月ほどが一番安全な時期でもある。
 ヒキガエルの繁殖は交尾とはいわず抱接という。メスが産み出した卵に体外でオスの精子をかける。そのため、オスがメスの背中に乗り前足でしっかりと抱きかかえる。オスの前足は前年秋から太くなりはじめ、繁殖期にはポパイの腕のようにたくましくなる。そのうえ、前足の指の背側に黒いざらざらしたかさぶたのようなものが発達して、メスに抱きついたときのすべり止めの役を果たす。メスは、卵でお腹がふくらんでいる以外に変わりはない。オスはメスの2〜3倍もいるので、抱接できないオスは多い。
 オスは昂然と頭を高くかかげてメスを待つ。しかし、お互いにまったく没交渉で、それぞれただひたすらメスの来るのを待つ。オス同士でのナワバリ争いというものはない。カエルは動いているものにとびついて抱きつく。相手がオスだったとき、そのオスは鳴いて間違いだと教える。これをリリースコールという。おい、はなせよ、というわけ。
 ヒキガエルは夏は夏眠、秋にちょっと働いてすぐに冬眠。春に10日ほど繁殖に精を出したらすぐに春眠する。
 ヒキガエルのオスは3歳で成熟し、最高11歳まで生きる。メスは4歳で成熟して卵を生み、最高9歳まで生きる。オタマジャクシから子ガエルになって上陸したあとの夏に 97%の子ガエルは死んでしまう。
 ヒキガエルはケンカしない。餌をとる場所も寝る場所も共有。他の個体に干渉せず、勝手に生きている。ほぼ完全な個人主義者の集まりが、ヒキガエルの社会である。オス同士も争うことはない。
 ヒキガエルにも障害をもつものがいる。著者の観察したなかに3本足のカエルがいました。でも、立派に8年間は生きのびたのです。あくせくせずに生きているカエル社会の話です。人間社会も参考とすべきではないでしょうか。
 実は、この本は私が大学生時代のころの観察をもとにしたものなのです。そのころの様子も軽妙なタッチで描かれています。公務員削減などで人間社会にうるおいがなくなっていることの問題点も指摘されています。ちょっと気分転換したいと思うときに読む本として、おすすめします。

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2006年3月 3日

ナポレオン戦争全史

著者:松村 劭、出版社:原書房
 ナポレオンは兵站支援システムの名人だった。作戦開始に先立って計画される兵站計画は、補給処と交付所の作戦配置および補給所要の見積りがきわめて優れていた。兵士と兵站段列は、4日分の非常用糧食を携行していた。そして、主補給基地と中間補給基地はもちろん、作戦部隊に随伴する前方段列にも所要の補給品を準備し、持続的に追送していた。
 ナポレオン軍は驚くほど迅速に機動した。1805年、フランス北部海岸から西部ヨーロッパを横断したウィーン、アウステルリッツに至る800キロの戦略的機動は、20万の兵力が1日平均20〜25キロの移動を5週間続けた。これは、ジンギス・カーン軍の速度に匹敵する。
 ロシア会戦のときは、これがうまくいかなかった。輸送用の四輪荷車の通過可能な道路網がなかったのも一因だ。ナポレオンが準備した兵站支援能力では越冬が困難だったので、ロシアに対する勝利は年内であることが絶対条件となっていた。
 ナポレオンは敵に弱点を示して決戦に誘いこみ、各個に撃破するのが得意だった。二つの敵の間に主力を配置し、ナポレオン軍を挟撃しようとするように敵を誘致して、各個に撃破する。これを内戦作戦という。やむなく内戦態勢になるのではなく、自分から求めて内戦態勢に入る。だから、当然、最悪事態になることを覚悟し、ひそかに秘密の対策も講じていた。不利な態勢と見せかけて、不敗の態勢をとっていたのだ。もっともワーテルローでは失敗した。
 ナポレオンは、ジャコバン党の活動家になり、フランスに対抗するコルシカ国民革命の独立運動に身を投じた。このため、フランス軍は、砲兵中尉だったナポレオンを罷免した。ナポレオンはコルシカ島に生まれたイタリア人である。
 フランス革命のあと、ジャコバン党とジロンド党の対立抗争のなか、ナポレオンは砲兵大尉として復職に成功した。そして、英国派が故郷コルシカの財産を奪ったので、ナポレオンはフランス派に転向した。
 ロベスピエールに認められたナポレオンは1793年9月に大佐となり、トゥーロン包囲戦に砲兵指揮官として参加し、功績をあげ、准将に昇任した。1795年8月にロベスピエールが失脚すると、ナポレオンも軍職を剥奪され、牢獄に入れられた。その後、軍隊から追放され、投身自殺しようとして、セーヌ河畔を放心状態で徘徊したこともあった。このとき、昔の友人が救ってくれた。王党派の反乱にナポレオンが見事に対処した功績で、中将に昇任する。
 1796年3月、28歳のナポレオンはイタリア正面軍司令官に任命された。
 それ以降のナポレオンの戦った戦闘がすべて図解されています。もう少し詳しい解説があると良いという不満が残りましたが、概観することはできます。図解についても、通常の軍史ものよりも簡略すぎて、ナポレオン軍の動きが、もうひとつ分かりにくいという弱点があります。
 ナポレオンの一側面を知ることのできる本でした。

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「戦火のなかの子どもたち」物語

著者:松本 猛、出版社:岩崎書店
 いわさきちひろの絵は何度みても、いつ見ても本当にいいですよね。眺めているだけで、心がほんわか、身体全体がじわーっと温まってくる気がします。
 いわさきちひろは1973年夏、55歳で亡くなりました。この本は、ちひろの長男猛が絵本の制作過程を紹介したものです。絵も素晴らしいのですが、絵本がどうやって出来上がっていくのか、その過程の試行錯誤が紹介されていますので、とても興味深いものがあります。
 「戦火のなかの子どもたち」は、直接的には日本におけるベトナム反戦のたたかいに呼応して出来上がった本です。ちひろは、自分の少女時代の第二次大戦の惨禍の経験をふまえて絵を描いています。
 ベトナムに一度も行ったことがなくても、ベトナムの写真やポスターを参考にしながら、ちひろはベトナムの子どもたちを生き生きと描きました。
 戦争の悲惨さを描くのに、その残虐ぶりを直接的に絵に再現するのではなく、あくまで可愛い子どもの姿を描くことによって、そんな子が殺される戦争の悲惨さを浮きぼりにする。これがちひろの絵です。
 絵本をつくるときには、原画を広い8畳の和室に並べて、ストーリー展開を考えていきます。絵本になったときの印象を確認し、構成と言葉を考えていくのです。絵本が完成していく様子が図解されて、手にとるように分かります。
 ちひろは絵本の画面の流れをどうつくるかに腐心した。前ページの絵に出てくる風の余韻を残し、次に登場する少年の絵の印象をしっかりしたものにするためには、たとえ一枚の絵としての力が減少しようとも、この場面を強くしすぎるわけにはいかない。このように考えるのです。
 自分は、どんなにかわいい子どもたちが犠牲になったかを伝えるために、できるだけかわいい子どもを描く。
 「戦火のなかの子どもたち」の主題は傷ついた子どもの心だった。
 花の好きなちひろには、たくさんのシクラメンが届けられた。アトリエのなかにはシクラメンの花で一杯、あふれるほどだった。
 国会議員で忙しい夫をかかえ、大家族で暮らすちひろは、絵を描くときには出版社の確保した宿舎にカンヅメになったりしていた。
 子どもたちの愛らしい、生き生きとした絵に強く心が魅かれます。あのころの輝く瞳をいつまでも忘れたくないものです。

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植物のこころ

著者:塚谷裕一、出版社:岩波新書
 クローン人間というのは不気味ですが、クローン植物は身近にありふれています。ヒガンバナは有名です。この本によって、キンモクセイもクローンだというのを知りました。ニホンスイセンも、シャガもそうなのです。シャガはわが家の庭にもたくさん咲いています。いえ、どんどん延びて広がり、まるで雑草です。でも、シャガの花は可愛いですよ。
 冬から春にかけては庭仕事が楽しい季節でもあります。雑草も少し勢いがありません。蚊はいませんし、太陽もちょうどいいくらいです。夏のカンカン照りはたまりませんよね。
 黄水仙とクロッカスが咲いています。あっ、そうそう、チューリップの芽がぐんぐん伸びています。
 風が強いところや、常に何かに擦られたり触られたりするような環境下では、植物は背が低くなり、花も早く咲くことが多い。毎日なでていたら小さいうちから花が咲いたというのも、この現象の一つであって、ストレスが昴じて急いで種子をつけようとしたわけだ。それを、なでられて気持ちがいいから、恩返しに早く花を咲かせた、などというのは、あまりに人間中心的な、都合のいい解釈である。
 熱帯の森には、シロアリとアリが非常に多い。アリは森のごみ掃除を引き受けている。アリと共生する植物がたくさんいて、それをアリ植物と呼ぶ。アリ植物は、川のそばとか台地の上など、土地からの栄養補給が乏しいところに多い。そういうところでも昆虫はたくさんいるから、アリはせっせとほかの昆虫を餌につかまえてきては、食べかすをアリ植物に与えている。
 なんという融通無碍な植物という生き方。オビに書かれた文句のとおりです。私たち人間も見習いたいものです。
 春はもうすぐです。沈丁花の花が咲いています。チューリップの花は、植えたのが全部咲くと500本をこえるはずです。写真でお見せしたいほど、それは見事なものです。私は、毎年、チューリップの花に囲まれて春を満喫する幸せを楽しんでいます。あなたも一度、わが家の庭を見にきてください。もちろん見物料なんかいりませんよ・・・。

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2006年3月 2日

人間の暗闇

著者:ギッタ・セレニー、出版社:岩波書店
 ナチスのつくったユダヤ人絶滅収容所のひとつ、トレブリンカ収容所の所長だったシュタングルに女性ジャーナリストがインタビューしました。70時間にも及ぶロングランのインタビューです。そして、関連する人々も取材しています。私は見ていませんが、映画「ショアー」の原作本といえる本です。
 絶滅収容所と強制収容所は違うもの。絶滅収容所は占領下のポーランドに4ヶ所だけもうけられていた。ここでは、生き残るチャンスはなかった。ユダヤ人とジプシーをただ殺害するだけの目的で建設された。強制収容所はナチスの新秩序に抵抗する人間を拘束して再教育するための刑務所的施設としてつくられた。再教育の不可能な囚人はスパイなどとして処刑されたが、大半の囚人は比較的短期間のうちに保釈された。1941年に巨大な奴隷市場がつくられたが、生き残るチャンスはまだあった。これに対して絶滅収容所から生還したのは、わずか87人のみ。
 ユダヤ人とジプシーの大量虐殺は、ヨーロッパ中の劣等種族を抹殺するというナチス・ヒットラーの巨大な構想の第一歩にすぎなかった。ナチスは、それをロシアでまず始め、1941年から1944年までの間に700万人の市民を虐殺した。ついで、ポーランドで、非ユダヤ系ポーランド人300万人を殺害した。
 シュタングルはトレブリンカの前にゾビボール絶滅収容所の所長でもあった。ここで、1942年5月から1943年10月までのあいだに25万人のロシア人、ポーランド人、ユダヤ人、ジプシーが殺された。そして、1943年10月14日、数百人の囚人による武装蜂起が起こった。これらの25万人は、収容所に着いてわずか数時間のうちに跡形もなく殺害された。周辺に住む人々が知らない、気がつかないはずはなかった。夜ともなると、空が真っ赤に燃え上がり、たとえ30キロ離れていても、あたりにはくさい臭いが漂っていたのだから。甘いような、なんとも言えない臭いだった・・・。
 シュタングルがトレブリンカ収容所長だったあいだに90万人が殺されています。その殺害に責任があるとして、終身刑を宣告されました。死刑ではなかったのですね・・・。シュタングルは確信的な古参のナチ党員でしたが、妻はナチ嫌いでした。
 シュタングルは、自分は何ひとつ不正なことはしていない。常に命令に従い、命令以外のことはしてこなかった。個人的に誰かを傷つけたこともない。起こったことはすべて戦争の悲劇であり、世界中どこでも同じだった。このように答えました。同じようなセリフを日本の軍人たちも言っていましたね・・・。
 なぜ、あんな残酷な方法をとる必要があったのか? この問いに対して、シュタングルは次のように答えました。
 いきなり殺すわけにはいかなかった。大量の人間を制御する必要があった。それがあって初めて実行できたのだ。何百万もの人間、男性、女性、子どもを殺害するために、ナチスは単なる肉体的な死がかりではなく、精神的な死と社会的な死を与えた。それは単に犠牲者だけにではない。殺人を行った加害者に対しても、また、それを知っていた傍観者に対しても。そして、さらに、ある程度まで当時、考えたり感じたりすることのできたすべての人間に対して・・・。
 ナチスは現実から目を閉ざしがちな人間心理を巧みに利用して、大量殺人システムをつくりあげた。ヨーロッパ東西のユダヤ人に格差があることに注目した。西側のユダヤ人は現実を把握する能力が高く、事実を知れば抵抗するかもしれないという心配があった。だから、いろいろの偽装工作がなされ、到着した犠牲者は欺かれた。ガス室へと続く回廊に裸で5列に整列させられ、抵抗することなく殺されていった。
 東ヨーロッパから移送されてきたユダヤ人には偽装工作は不要だった。ある種の集団暗示だけで事足りた。犠牲者は到着後2時間以内に全員殺された。この2時間のあいだ、息つく間もなく何も考えさせないようにしていた。これは何千人という人間を殺害するために注意深く計画され、巧妙に利用された時間だった。
 シュタングルにとって、収容所に到着した犠牲者は、もう人間とは思えなかった。物体だな。物以外の何物でもなかった。ただの肉片の塊に過ぎなかった。
 トレブリンカ収容所でも武装蜂起が起きた。その中心人物、ゼロ・ブロッホは、皆の勇気を引き出す言葉と自信と力を与えることのできた人物だった。
 当時、ユダヤ人を匿ったり助けたら、すぐに射殺された。それでも救助しようとする人が収容所の周辺に少数ながらいた。
 強制収容所の看守をしていた人間が、仕事を嫌がって転属願いを当局に出したらどうなったか。多くは処刑されたり、強制収容所へ送られた。
 トレブリンカ駅の駅長がポーランド抵抗組織のメンバーであり、ドイツ軍の動静を観察するために送りこまれた人物であることが紹介されています。この駅長は、収容所に入る列車と人間をずっと数え続けたのです。そして、120万人が殺されたと証言しています。
 コルチャック先生と子どもたちはトレブリンカ収容所で殺されましたが、それはシュタングルの着任する前のことでした。
 シュタングルはアメリカ軍に逮捕され、収容所に入れられましたが、そこからやすやすと脱走しました。アメリカ軍は、むしろナチスに理解を示し、逆にその犠牲者に対しては共感に乏しかったのです。シュタングルはローマに逃げ、そこから教会の力を借りて南米に逃走します。小説「オデッサ・ファイル」があるように、ナチス高官の逃亡を助ける組織としてオデッサの名前は有名ですが、その存在は確認できないとされています。むしろ、ナチス高官の逃亡を助けたのは、赤十字とバチカン・ルートだというのです。
 カトリック教会はボルシュヴィズムに対して大きな不安を抱いていた。教皇ピウス12世は個人的にドイツを好んでおり、反ユダヤ主義的な考え方の持ち主だった。教皇が沈黙したことによって、戦後のナチ戦犯の逃亡にローマの司教らが手を貸す事態を招いた。
 そして、逃亡に成功したシュタングルはブラジルで本名をつかって生活していたのです。サンパウロのオーストリア大使館にも本名で届け出しています。その生活は、あまりゆとりのあるものではなかったようです。いろいろと深く考えさせられる本でした。

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2006年3月 1日

ジャンヌ・ダルク復権裁判

著者:レジーヌ・ペルヌー、出版社:白水社
 ジャンヌ・ダルクが処刑裁判によって破門・火刑に処せられてから25年たって、復権のための尋問が開かれました。フランス国王シャルル7世の命令によります。1450年のことです。しかし、教会裁判の結論を破棄することは国王の裁判所ではできませんでした。
 1450年4月15日、フランス西北部のフォルミニーの戦闘で、イギリス軍はフランス軍に完敗しました。かつてのアザンクールの戦い(シェークスピアの「ヘンリー5世」で有名です)のお返しをフランスは果たしたのです。
 1452年5月から、教会による調査が始まりました。そこでは、ジャンヌが処刑されたただ一つの理由は、彼女が男の服装を再度着用したことだということが明らかになった。
 そして、被告ジャンヌに弁護士がおかれなかったことは、法規に違反するとされた。
 教会による復権裁判が始まったのは、1455年11月7日。裁判に出頭した証人の尋問調書が残っています。
 ジャンヌは、たった1人で被告席にすわり続けていた。審理の最後まで、指導者も、助言者も、弁護士もいなかった。
 ジャンヌは非常に用心深い答弁をしたので、陪席者たちは感嘆していた。
 あるイギリスの高官がジャンヌの牢獄に入ってきて、暴力で彼女をものにしようとした。これが彼女が男の服装に戻った理由だとジャンヌから聞かされた。
 一緒にいた兵士たちに屈しないためでなければ、彼女は男の服装をすることもなかっただろうと言われていた。
 ジャンヌは火刑台に連行され、柱にしばられながらも、神や聖者への讃辞や信仰に支えられた嘆きの言葉をはき続け、その死の間際には、高い声で「イエズス様」と最期の叫びを残した。
 ジャンヌの遺骸の灰は集められたうえ、セーヌ川に捨てられた。
 復権裁判における証人尋問が終わったのは1456年5月14日。判決は1456年7月7日に下された。処刑裁判の判決は無効であるとして、破棄された。オルレアンの町では、町主催で7月21日に祭典が開かれた。15世紀の裁判なのに、こんなに詳しく過程が分かるというのも、本当に不思議な気がします。
 先日、ジャンヌ・ダルクの遺骨を称するものが残っているので、DNA鑑定にかけて真偽を科学的に調査するという新聞記事を読みました。セーヌ川にすべて捨てられたわけではなく、火刑台に残っていた骨を拾って持ち去った見物人がいたというのです。ジャンヌの残っている衣類と照合するのだそうです。いったいどういう結果が出るのでしょうか・・・。

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2006年3月31日

久留米藩難から新選組まで

著者:松本 茂、出版社:海鳥社
 オビに次のように書かれています。
 動員数十万人ともいわれる宝暦の大一揆、幕末有数の海軍国だった久留米藩、九州の士族反乱の先駆け「久留米藩難」、久留米出身の新選組隊士、西郷隆盛自死の真相など、トピックで読むふるさとの歴史。
 私は、母が久留米(高良内)の出身であり、母の伝記をその江戸時代生まれの祖父の代から読みものとしてまとめようと考えて少しずつ筆をすすめています(このところ少し中断していますが・・・)ので、興味をもって読みすすめました。ただ、自由民権運動、そして代言人の活躍の部分の記述があまり見当たらないのが残念でしたが、改めていろいろ知ることができました。
 関ヶ原のあとに柳川城主となった田中吉政は三河国岡崎の城主だったこと、このとき久留米を支城としたことを知りました。また、そのあとに久留米城主となった有馬豊氏が丹波福知山から来たというのも初耳でした。さらに、関ヶ原までの久留米城主だった毛利秀包(ひでかね)は、妻引地(大友宗麟の七女)とともに熱心なキリシタンだったそうです。
 久留米藩の農民一揆は、その規模の大きさでは全国有数です。享保一揆は享保13年(1728年)に起きましたが、5700人余の農民が立ち上がって増税を撤回させ、一人の犠牲者も出しませんでした。
 次の宝暦一揆は、宝暦4年(1754年)に起きましたが、総参加者は10万人以上とみられています。今回は成果は半分だけで、一揆参加者のうち37人が死刑となりました。庄屋も7人がふくまれています。弾圧した藩主の方は日本数学中興の祖といわれる関孝和の高弟7人の筆頭格という数学の大家であったそうです。
 ただ、この本では旧来の百姓一揆についての見方にとらわれている気がしました。百姓はひたすら忍従し窮乏していた、だから一揆を起こして反抗した、としています。しかし、最近の研究によると、必ずしもそうではなかった。年貢の取り分も百姓は相当なものを確保していたし、むしろ自分の権利(既得権)を侵害されることへの怒りから権力に刃向かったというものです。これは「七人の侍」に出てくる、ずるい百姓たちの姿に通じるものです。
 久留米藩難というのは、明治になって久留米藩の有志たちが明治政府から処罰された事件です。久留米藩は倒幕の戦いに従軍しています。遠く函館の戦闘にも参加しているのです。ところが、幕府が崩壊したあとは新政府の政策に反発した若者たちがいたのです。
 西南戦争のころ、今の明善高校あたりに久留米軍団病院があり、官軍の負傷者の治療にあたっていたようです。そのなかには乃木希典少佐もいました。
 ところで、この西南戦争のとき、西郷隆盛は自決する寸前、桐野利秋から撃たれ、自首できなくなったんだという説が紹介されています。裁判を受けて自分だけで罪をかぶって、他の若者の助命を願うという考えだったというのです。さもありなんと思いました。

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護憲派のための軍事入門

著者:山田 朗、出版社:花伝社
 陸上自衛隊の中核的な機動打撃力は戦車1000両、自走砲500両、装甲車1300両。とくに注目すべきは新型の90式戦車。これは、イラク戦争で使用されたアメリカ陸軍のM1A2エイブラムス戦車、イギリス陸軍のチャレンジャー2戦車と同水準の性能を有している。120ミリ砲を装備し、50トンの重量で、最高速度は時速70キロ。IT化がすすんで、乗員は3名のみ。90式戦車は1両8億円で、車体・砲塔は三菱重工業が生産している。
 海上自衛隊の中核的な戦力は護衛艦54隻、潜水艦16隻、P3C対潜哨戒機97機。イージス艦として知られる「こんごう」型護衛艦は4隻。新型イージス艦は建造費が1隻で1500億円ほどもする。
 航空自衛隊の中核的戦力は、367機の戦闘機。うち203機はFー15J戦闘機で、これは、アメリカ空軍の主力戦闘機と同型機。
 「おおすみ」型輸送艦は、強力な上陸作戦用兵器であり、LCACと呼ばれる輸送用エアクッション艇を2隻搭載している。LCACは、「おおすみ」の艦尾のドック型出入り口から海上に出て、海上を40ノット(75キロ)の高速で疾走し、陸上に上陸部隊を送りこむ。LCACの積載能力は50トンで、これは90式戦車1両をそのまま積める能力があるということ。
 自衛隊は660機もの各種ヘリを保有している。ヘリコプター搭載護衛艦は4機のヘリコプターをのせる。対潜哨戒ヘリ3機、掃海・輸送用ヘリ1機。海上自衛隊の護衛艦53機のうち34隻がヘリ搭載艦。
 いったいこのような軍隊は本当に日本国民を守るものなのでしょうか。誰から何を守るというのですか。軍隊は、誕生して以来、自分たち軍人の特権的生活と軍事産業を守るものであり、常に国民は犠牲にされてきた。これが歴史の真実ではないでしょうか。人殺しの技術しか身につけていない軍人が威張りちらす社会なんて、私はゾッとします。
 北朝鮮の「脅威」を宣伝したいアメリカと、あいまいな「核兵器」とミサイルによって威嚇を実現したい北朝鮮は、自分の都合のいいように情報を切りとって、さかんに情報戦を展開している。両者が重なりあって北朝鮮の「脅威」は実態よりも大きくイメージされているので、この「脅威」を過大視してはならない。
 私も、まことにそのとおりだと思います。

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日本の戦争力

著者:小川和久、出版社:アスコム
 著者は日米安保条約を肯定していますが、私はアメリカにあまりにも従属的なこの条約は一日も早く廃棄し、両国が対等な立場に立った友好条約を結び直すべきだと考えています。この考えはベトナム反戦を叫んでいた学生時代から変わりません。
 日本が意識的に主体的に日米同盟をコントロールしてきたことはなく、今日の経済的な繁栄は、あくまで結果論にすぎない。
 この点も、私は著者と意見が異なります。平和憲法をもっていたために、日本は内外ともに安心して非軍事的な経済成長に専念することができたのです。それは単なる結果論では決してありません。
 日本の防衛費は年間5兆円弱。これはダントツのアメリカに次ぐロシア、イギリスとあまり変わらず、中国、フランスと並んで世界有数の額。しかし、日本の防衛費の4割以上は人件費で占められている。これを除くと、せいぜい「中ぐらいの国」の軍事力でしかない。
 海上自衛隊は対潜水艦戦では世界のトップクラスだけど、それ以外の能力は備わっていないに等しい。航空自衛隊も防空戦闘能力は世界トップクラスの実力をもっている。
 自衛隊はパワー・プロジェクション(戦力投射)能力がまったく欠落している。
 アメリカの同盟国のうち、アメリカと軍事的に対等な国など存在しない。すべて片務契約であり、不平等な同盟である。
 日本はペンタゴン最大のオイルターミナルである。神奈川県鶴見にアメリカ軍第2位の燃料備蓄量がある。佐世保は第3位。弾薬についても同じく、アメリカ軍が広島に置いている弾薬12万トンは、日本の陸海空自衛隊のもっている量よりも多い。
 アメリカ海軍の艦艇に母港を提供している国は日本だけ。世界最大最強の艦隊であるアメリカ第七艦隊は、日本がその全存在を支えている。
 日本は1991年の湾岸戦争のとき、130億ドル(1兆6500億円)を拠出した。これは湾岸戦争の戦費610億ドルの2割以上。しかし、クウェートから感謝されることはなかった。
 それだけではない。アメリカ軍を支える戦略的な根拠地として、日本は軍事面でも世界最大の貢献をした。ロジスティックスのことだ。たとえば、湾岸地域に展開した57万のアメリカ軍の燃料と弾薬の8割以上は、日本から運ばれたものだった。
 2003年3月に始まったイラク戦争においても、日本はアメリカ軍の戦略的根拠地として大いに後方支援の役割を果たした。
 アメリカは、韓国には「じゃあ、出ていくぞ」と脅し文句が言える。しかし、日本には言えない。日本に代わって戦略的根拠地を提供できる同盟国なんて、世界のどこにもいない。万一、日本が日米安保条約を解消する方向で動いて、アメリカ軍基地がなくなったら、アメリカは世界のリーダーの地位から転落してしまう。それほどまで、日米同盟は重い。
 日本は在日アメリカ軍の駐留経費を75%負担している。あっ、だからアメリカ軍のグァム移転にともなって日本政府は75%の支払いを求められているのですね。
 日本はアメリカ軍のために毎年6000億円を負担している。これは、一つの県の予算くらいの規模だ。
 日本は平和憲法の下で平和主義だから、対テロ戦争をたたかわなければいけない。ただし、対テロ特殊部隊だけを整備・増強するのは物事の順序をわきまえていない。まず軍事力をつかう、ということではない。私も、この点は賛成します。
 著者は、アメリカのイラク占領は、2003年4月のバクダッド陥落の時点から間違っていたと断言しています。この点も、まったく同感です。
 自衛隊にパワー・プロジェクション能力がないというのは、言われてみればなるほどそうだろうなと私も思います。つまり、日本は、戦後、そんな海外侵略に走るなんていうことは絶対にない、と国の内外に宣言したのです。今もますます大切になっている憲法9条です。なくすなんて、とんでもありません。

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2006年3月30日

眼の誕生

著者:アンドリュー・パーカー、出版社:草思社
 本書は目から鱗の物語である。しかも、二重の意味で。訳者は、あとがきにこう書いてます。私も、なるほどそうだと得心がいきました。
 カンブリア紀のはじまった5億4300万年からの500万年間に、節足動物を主とした多様な動物が爆発的に登場した。これはカンブリア紀の爆発と呼びならわされている。
 その原因は何なのか、この本は見事に解き明かしています。
 それは何か。そうです。眼なのです。
 生物が太陽光線を視覚信号として本格的に利用しはじめたこと、眼を獲得したことによって、食う、食われるという関係が激化し、身体を装甲で固める必要性がうまれた。眼の獲得が文字どおりの鱗つまり装甲を生んだ。
 これが光スイッチ説です。読みすすめていくと、本当に賛同できる考えです。まだ40歳にならないイギリスの若手学者の書いたものですが、なるほどとうなずき、感嘆しました。
 ウサギの眼は立体視できない。食べられる側にあるウサギは捕食者の餌食にならないことが先決である。周囲にさえぎるもののない、周囲360度が見渡せる場所が理想的。ウサギの眼は全水平方向を見渡せる位置についている。
 これに対して、補食動物は獲物との距離を正確に測れるかどうかが、食えるか飢えるかを左右する。生きている動物を食べるためには、狩りをしなければならない。狩りには、距離の見積もりが欠かせない。
 トンボの複眼は1000個ほどの個眼から成っているが、すべての個眼が同じというわけではない。複眼には個眼面が他より大きい部分が1、2ヶ所ある。そこが照準器にあたる部分だ。これは、眼の最上流に位置しており、空中を見渡し、上空を飛ぶ獲物を見つけるのにつかわれる。獲物となる虫が見つかると、トンボはその虫が飛んでいる高度まで上昇し、複眼の前方に位置する「照準器」にとらえて追跡する。
 カンブリア紀が始まると、捕食者たちはまず、獲物に照準を合わせるという行動に出た。眼という照準器で獲物をとらえていた。視覚とは、光を利用して物体を認知して分類する能力、つまり見る能力である。
 複眼が形成されると、この世で初めて眼を享受した動物が誕生し、世に解き放たれた。地球史上初めて動物が開眼した。眼の出現とともに、動物の外観が突如として重要になった。開眼により、世界は一変する。あらゆる動物が、視覚に適応するための進化を迫られた。もたもたしていれば食われてしまうし、獲物におくれをとってしまう。
 このように、カンブリア紀の爆発は、視覚が突如として進化したことでひきおこされた。
 混乱状態が続いていたのは、カンブリア紀初頭の、せいぜい500万年間だけだった。すべての生物が視覚に適応し終えて「爆発」がおさまると、混乱にかわって安定が訪れた。化石によると、眼が存在したのは、5億9300万年前のことで、それ以前ではなかった。眼が進化するには、100万年もあれば十分だった。基本的な光受容は像を結ばないので、眼とは呼べない。眼が誕生するのは、光受容細胞が本格化して「網膜」を形成したとき、である。
 動物進化におけるビッグバンというべきカンブリア紀の爆発と呼ばれる出来事をもたらした起爆剤は、いったい何だったのか。それを刻明に明らかにした本です。私はその面白さに引きずりこまれ、電車のなかで我を忘れて一心に読みふけりました。
 アノマロカリスはまったく奇怪な生き物です。奇妙奇天烈としか言いようがありません。380頁もある大部な本ですが、頭休めにもなる面白い本でした。

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2006年3月29日

ファルージャ、栄光なき死闘

著者:ビング・ウェスト、出版社:早川書房
 ほとんど全編が戦争映画を見ているかのような描写です。映画と違うのは、ホンモノの殺しあいなのです。屈強で陽気な海兵隊アメリカの若者が次々に敵に殺されていきます。その敵とはいったい誰なのか・・・。
 この本はアメリカ軍の従軍記者が海兵隊に同行、密着取材して書いたものですから、その敵とは、当然、イラク人になります。では、どんなイラク人が敵なのか。もちろん、アメリカ軍と一緒に闘っている新生イラク軍の兵士ではありません。敵であるイラク武装勢力というのは、いったい誰なのか・・・。
 注意深くこの本を読んでいくと、それは要するにアメリカ軍の占領を許せないと怒っているフツーのイラク市民であり、若者であることが次第に分かってきます。
 これまでイラクにおいて、アメリカ兵は2300人以上が戦死しました。これに対して、イラクの人々は10万人も戦死したという推測があります。
 ファルージャでの戦闘の発端は、アメリカの軍事請負会社のアメリカ人社員4人が襲われ、黒こげになって橋に吊された事件にある。これはブルックリン橋の惨劇と呼ばれる。
 アメリカ軍が市街戦に臨むのは、26年前のベトナム戦争におけるフエ市での戦闘以来のこと。平たんな土地が続くイラクでは、ハイウェーが問題だった。アメリカ兵の戦死者の68%がIED(即製爆発物)によるものだった。道路をすすむアメリカ兵は誰もがIEDを恐れている。IEDは簡単につくれる。榴散弾をつくるために金属片をひとまとめにしたものに、ガレージのシャッターの開閉リモコンや携帯電話で遠隔操作する発火装置をつければよいのだ。スイッチを押す人間は、一ブロックほど離れた屋根の上にいればいい。
 武装勢力には、司令官や副司令官といったきちんとした階級制度はない。むしろモスクを中心に近所の連中が地元のリーダーの下に集まったギャングの集団のようなものだ。道路や横丁を知りつくりている彼らは、家並みを利用した防衛ラインを構築するより、走りまわって戦う方が得意だ。
 アメリカ軍の50口径機関銃やマーク19の殺傷力は恐るべきものがある。厚さ2フィートの壁は貫通できないが、砲弾がコンクリートの壁にあたったときの衝撃は大変なもので、巻きおこる砂塵と飛び散るコンクリートの破片は、かつてこういう攻撃を見たことのない武装勢力を驚かすに十分で、彼らはクモの子を散らすように逃げ出す。
 戦闘は山火事のようなものだ。消し止めたかと思うと、火は通りをこえて飛び火し、次のブロックに燃え移る。戦闘がピークに達したときには、あちこちに散らばったライフルを持った海兵隊員300人が、10ヶ所で数百人の武装勢力を相手にしていた。
 アメリカの海兵隊は、司令官も兵士も同じリスクの下に動いている。マティス少将は3回撃たれた。配下の2人の連隊長はIEDで負傷していた。
 イラク人たちは、銃撃戦が終わると、何事もなかったかのように表に出てきて、それぞれのやりかけの仕事に戻っていく。T字路で8人のアメリカ海兵隊員が死んだが、待ち伏せをしていた連中はどこかへ消えてしまった。
 武装勢力の大半はカフィエやTシャツや長袖のシャツを着て、ズボンをはき、ゴム草履や運動靴を履いていた。黒の忍者服を着た者もなかにはいたし、数は少ないが警察の青い制服を着た者もいた。
 アメリカ軍のマティス少将には、ファルージャを占領することで武装勢力を鎮圧できるとは思えなかった。イラク軍が自分たちで戦わない限り、武装勢力は善良な市民を装い、時機を待つだけだ。
 イラク軍は、たとえば400人のイラク人と17人のアメリカ特別軍事顧問からなり、海兵隊と一緒に前線にいて、なかなか善戦する。しかし、イラク軍では、脱走兵や行方不明者が増えている。数ヶ月間かけて大事に育てあげたイラク兵が持ち場を放ったらかして逃走するのは珍しくない。大隊長が倒れたり、警察署長が形勢不利とみて逃亡したりすると、イラク人の部下はみなそれに続く。逃亡したら、命だけは助かるからだ。
 武装勢力側には指揮命令系統といったものは存在しないし、装備も最低限のものしかない。しかし、彼らはアメリカ軍相手によく戦うし、イラク人警備隊を圧倒する。
 イラク兵たちが戦場のまっただなかで制服を脱ぎ、普段着に着替えている現場を見た。全部で50人ほど。兵士たちは、ファルージャの兄弟たちと戦うことを拒否し、同時に兄弟たちが彼らの武器を盗むことにも反対なのだと言った。これはアメリカ人の戦いであり、自分たちには関係のないことだ。自分たちはただ家に帰りたいだけなのだ、と。
 出動した海兵隊員55人のうち21人が負傷した。うち7人は入院が必要だった。
 海兵隊員に犠牲者が増える一方で、ファルージャのテロリストたちは、イタリア人の首をはねたり、日本人5人、トルコ人3人、アメリカ人1人を誘拐したりしていた。
 ファルージャのティーンエイジャーたちは、みなゲーム感覚でアメリカ兵に立ち向かうよう教えこまれている。興奮した導師の説教を村のモスクで開き、彼らのアドレナリンが騒ぎ出すのだ。
 海兵隊のなかの狙撃兵は、毎日10人から20人の武装勢力を射殺していった。標的は魚と同じ獲物なのだ。人間とは思わないことにしている。狙撃兵は3倍率のスコープ付きM16を支給される。夜は、サーマル・スコープ付きの7.62機関銃がスナイパー・ライフルにとって変わる。
 海兵隊員みんなが同じように残忍な戦いができるわけではない。銃をうつのをためらう隊員は、銃弾を拾い集めて隊員に再分配する係りにあてられる。
 1ヶ月のファルージャでの戦いで、150回の空爆が行われ、75軒の一般民家と2つのモスクが破壊され、100トンの爆弾が落とされた。市民の犠牲者は300人から600人と推定された。
 武装勢力を形成しているのは、さまざまなグループで、そのなかには権力奪回をねらうバース党員、イスラム過激派、犯罪者、元軍人、情報部員、過激派スンニ派導師、異教徒の侵略者に対報復や戦いを挑む若者などだ。
 アメリカ軍はパイオニアUAVを使って建物の上空を旋回しながら攻撃の対象を確認する。発着をラジコンでコントロールでき、昼夜を分かたず地上の目標物を撮影できるカメラを搭載している。軍隊の末端組織までこれを活用している。
 こいつ死んだまねしてやがる。ふりをしているんだ。
 そう叫んで、海兵隊員が男の頭に2発うちこんだ。
 ようし、これで本当に死んだな。
 このシーンをテレビ映像がとらえて問題になりました。
 武装勢力の実力は、開戦前とまったく同じだ。
 イラクでは3年たっても戦争状態が続いています。日本の自衛隊は市街戦に巻きこまれる前に一刻も早くイラクから撤退すべきです。アメリカ軍はイラクへ根拠なく侵攻していった占領軍にほかなりません。そんなアメリカ軍のうしろにくっついていて、日本にいいことなんかひとつもありません。

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2006年3月28日

文盲

著者:アゴタ・クリストフ、出版社:白水社
 「悪童日記」は衝撃の書でした。戦時下における、すさまじいとしか言いようのない悪童の生活が生き生きと描かれています。なんとも憎めない存在なのです。でも、こんな悪ガキが身近にいたら、たまりません。わたしは、もちろん日本語で読みましたが、実はフランス語でも読んだのです。NHKラジオ講座にとりあげられたからです。
 「悪童日記」は、実に分かりやすい短い文章から成る小説です。NHKの朗読も良かったのですが、ネイティブのフランス人でなく、ハンガリーからの難民女性が高等教育を受けたこともなく、フランス語で書いた小説だと知り、これくらいなら、わたしもフランス語で小説を書けるかもしれない。そんな幻想とも言うべき思いにかられてしまいました。
 この本は「悪童日記」を書いた著者の自伝です。なるほど、と思える文章がいくつもありました。
 私は読む。病気のようなものだ。手当たりしだい、目にとまるものは何でも読む。新聞、教科書、ポスター、道ばたで見つけた紙切れ、料理のレシピ、子ども向けの本。印刷されているものは何でも読む。
 わたしも、著者とまったく同じで、完全な活字中毒です。活字が身近にないと不安でなりません。わたしのカバンの中には、いつも少なくとも4冊の本を入れています。うち2冊は大部の本で、残る2冊は新書か文庫です。
 私はフランス語を30年以上前から話している。20年前から書いている。けれども、いまだにこの言語に習熟してはいない。私はフランス語もまた、敵語と呼ぶ。別の理由もある。こちらの理由の方が深刻だ。つまり、この言語が、私のなかの母語をじわじわと殺しつつあるという事実である。
 わたしもフランス語を学びはじめて38年になります。でも、いつまでたっても敵語と呼べるほどには上達しません。続けているだけが取り柄のようなものです。
 人はどのようにして作家になるか。まず、当たり前のことだが、ものを書かなければならない。それから、ものを書き続けていかなければならない。たとえ、自分の書いたものに興味をもってくれる人が一人もいなくても。たとえ、自分の書いたものに興味をもってくれる人など、この先一人も現れないだろうという気がしても。
 人はどのようにして作家になるかという問いに、私はこう答える。自分の書いているものへの信念をけっして失うことなく、辛抱強く、執拗に書き続けることによってである、と。
 わたしも、このブログを夜、ひとり食卓のテーブルに向かって書きながら、いつも思っています。いったい誰が読んでくれるのか。ひょっとして、誰もよんでいないものを、ただ自分の思いを吐き出しているだけなのではないか、と。でも、ときどきトラック・バックがついてきますので、どうやら世の中の誰かは気がついて読んでくれているらしいと気を取り直します。いったい彼女は読んでくれているのだろうかとも思ってしまいます。でも、こればかりは押し売りするわけにはいきません。毎日ひたすら書き続けていくしかありません。きっと、そのうち読んでほしい人の目にとまることもあるでしょうから・・・。
 あっ、忘れました。うれしいニュースが最近ありました。なんと遠く北海道からメールが届き、高校生に対する法教育の教材として私の文章を使ったということでした。「失われた革命」について書いた文章です。光栄でした。たまにはこういうこともあるんだ、少しは世の中の役に立っているんだと、自分を少しほめてやりました。

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2006年3月27日

観光都市 江戸の誕生

著者:安藤優一郎、出版社:新潮新書
 江戸に住む人々が今日の日本人と同じく観光が大好きであり、成田山参りもそこから始まったことを知ることができました。
 山本一力の「峠越え」(PHP研究所)を前に紹介しましたが、そこに出てくる出開帳(でがいちょう)は、江戸で江の島の弁財天の出開帳を苦労して成功させる話から始まります。珍しく成功した話だと思っていましたが、この本を読んで、江戸時代に寺社の経済活動として広く行われていたものであることを知りました。
 開帳には、居開帳(いがいちょう)と出開帳の2つがある。居開帳は、その神仏を所持する寺社で開帳するもの。出開帳は、地代を支払って他の寺社(宿寺、やどでら)の境内を借り、開帳するもの。諸国の寺社が多額の臨時収入を期待した江戸開帳とは出開帳のこと。江戸開帳を実現するには、江戸を直轄地とする幕府の許可が必要だった。たとえば、成田山新勝寺の場合、居開帳なら直属の支配者である佐倉藩の許可が必要であり、深川永代寺での江戸開帳には、それに加えて幕府の許可も必要だった。
 江戸出開帳の7割が隅田川をはさむ本所・深川・浅草エリアの寺社を宿寺としておこなわれた。もっとも多い宿寺は本所の回向院で、次いで深川永代寺、浅草寺となる。回向院での出開帳は幕末までの200年間に166回が記録されている。
 幕府は江戸開帳を年間20件以内に制限していた。開帳が許可されるためには実に煩雑な手続を必要とした。しかし、江戸開帳による臨時収入があまりにも魅力的なものだっただけに、寺社は、何かと理由をつけて開帳しようとした。
 安永7年(1778年)の回向院での善光寺出開帳への人出は、一日あたりなんと27万人近く、60日間で160万人をこえたというのですから、半端な人気ではありません。
 浅草寺の文化4年(1807年)の本尊開帳による収入は2628両、支出は528両で、差し引き2100両の利益があった。今のお金で2億円以上となる。1年間のお賽銭が3000両ほどだったので、開帳の威力のほどが分かる。
 神仏の開帳に加えて、寺社が所持する宝物のうち人の関心をひくようなものを公開して集客力を強化した。たとえば、泉岳寺は寛政8年(1796年)に居開帳をしたが、そのとき赤穂浪士の遺品も陳列している。大石内蔵助は合図用の呼子笛、大石主税の討ち入り時の着衣と頭巾というもの。このようにして開帳は、神仏だけでなく、奉納物や見世物の評判で人々を集めるようになった。見世物、芝居、馬の曲芸などの興行が非常に多かった。
 成田山への参詣旅行は、江戸市民に大変人気のある観光旅行だった。成田山は江戸での出開帳を企画した。1泊で江戸まで行けるのに、3泊4日の行程で、出発時に130人の行列が江戸・深川に到着するころには1000人もの大名行列にふくれあがっていた。江戸の繁華街を大きな幟を何十本も立ててにぎにぎしく巡回していった。その開帳行列は人々の目を引き、江戸市民の度肝を抜いて話題性は高かった。
 江戸時代に10回もおこなわれた出開帳によって、成田不動は江戸市民のなかにしっかりと根づいた。
 柳川藩の浅草下屋敷内にあった太郎稲荷は麻疹にかかった若殿様をなおしたということで、霊験あらたかということで人々が殺到した。
 江戸には専門の観光案内人がいた。昼の案内料は銭250文(1万円弱)、夜だと  130文が相場だった。観光ガイド業が成り立つ江戸だった。
 江戸時代を観光という側面から知ることのできる、楽しい本でした。

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2006年3月24日

朝鮮通信使の旅日記

著者:辛 基秀、出版社:PHP新書
 江戸時代に鎖国はなかった。
 徳川幕府は、朝鮮王朝と琉球王朝を「通信の国」、オランダと清を「通商の国」と呼んでいた。
 文禄・慶長の役に参加していない徳川家康は朝鮮王朝との国交を回復するのに支障がなかった。初めのころは、日本へ拉致された7万人といわれる朝鮮人を連れ帰る目的があった。
 江戸時代初めに朝鮮通信使が多いのは、国内支配がまだ必ずしも盤石とはいえない状況下で、徳川幕府が国際的に認知されていることを諸大名に誇示する意味があった。朝鮮王朝にとっても、中国で明が衰え、清がとって代わろうとする時代にあって、日本との善隣友好は自国の安全と平和のために必要なことだった。
 朝鮮王朝からの通信使を迎えるのに徳川幕府が費やした額は100万両をこえることもあった。なにしろ、一番少ないときで最後(12回目)の336人、だいたい500人ほどの大行列でやってきて、日本国内をねり歩いた。人々が見物のために群がった。
 朝鮮通信使は朝鮮音楽を奏でる楽隊を同行させていたので、日本の民衆に大変な人気を呼んだ。沿道各地の民衆は、それを真似て、自分たちで衣装や楽器をつくり、秋祭に唐人行列、唐人踊りとして繰り出した。
 全国各地に朝鮮通信使の姿をかたどる人形が残っているのに驚きます。北は青森県弘前市、宮城県仙台市、山形県米沢市、福島県郡山市、長野県中野市など、朝鮮通信使が通ってもいないところにまで人形があるのです。ビックリします。昔から日本人は本当に好奇心旺盛で、モノマネが上手なのですね。今どきの韓流ブームと同じです。
 室町時代(1954年)、釜山に入った日本人は6000人をこえた。秀吉の死によって侵略戦争が終わり、釜山には日本人町がつくられた。常時500人、多いときには1000人もの対馬藩のエリートが滞在した。すべて男性だった。
 第一次の朝鮮通信使504人のうちに、1割の元日本兵がいた。この日本兵たちは秀吉による侵略戦争に反旗をひるがえして朝鮮にとどまった人々で、降倭と呼ばれていた。日本が二度と再び朝鮮を攻めはしないことをインフォーマルにも確認したかったためのものと思われる。ちっとも知りませんでした・・・。
 日本各地に朝鮮通信使の影響が今なお生き生きと残っているのです。そのことに改めて驚かされます。

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大江戸飼い鳥草紙

著者:細川博昭、出版社:吉川弘文館
 江戸時代にもペットブームがあった。それは大名だけでなく、生活に余裕のできた庶民のあいだにも広がりをみせていた。
 「南総里見八犬伝」の作者、滝沢馬琴もそのひとりである。馬琴は長編小説のほか、長く詳しい日記を書いて残した。そのなかに、鳩やカナリアを飼い、繁殖させていたことも書かれている。馬琴は一時期、70羽の小鳥を飼った。鳩に執着し、8種17羽を飼っていたこともある。そして、カナリアは20年にわたって飼い続けている。
 この本によると、ヒヨドリはヒナから飼うと、実によく馴れる鳥だということです。しかも、カラスを除くと、とび抜けて頭がよく、人間をきちんと認識するのだそうです。ヒヨドリはヒーヨピィーヨと毎朝けたたましい声でわが家の周辺を飛びまわっています。かなりあつかましい小鳥だと思いますが、頭がいいなんて知りませんでした。わが家のサクランボの実は、毎年、ヒヨドリのエサになっています。サクランボの桜の木は既に満開を過ぎました。いつも3月半ばには満開になるのです。
 江戸や大阪には鳥を販売する鳥屋があり、また好んで鳥の繁殖をする者もいた。長崎から外国の鳥も日本に入ってきていた。
 鳥屋は、幕府によって店の数が制限され、勝手な商売は禁止されていた。といっても、江戸の市中には、40軒から60軒の鳥屋がいた。
 日本で古くから芸をする鳥として知られていたのはヤマガラ。吊した丸い輪の中を通り、再びとまり木に戻る「輪くぐり」などの芸を見せた。
 小鳥のさえずりや羽色の美しさを競う「小鳥合」はウズラとウグイスが主だった。
 江戸時代初期のブームは、庶民がウズラを飼いはじめたこと。
 鳥の実用的な飼育書や解説書が次々に出版されている。
 当時の庶民の数は、江戸で50万人、大阪で35万人前後。それなのに、江戸で15万頭、大阪で10万頭ほどの犬が飼われていた。これって、かなり比率が高いですよね。
 江戸の庶民生活って、案外、ゆとりがあったようです。

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ゴッド・ブレス・ミー

著者:福田慶一郎、出版社:新風社文庫
 ゲイの人たちは、どこかでみんな孤独なのだ。
 ゲイ仲間からうつされたHIV感染者の勇気ある告白の本です。エイズ患者に対する偏見は一般社会だけでなく、エイズ治療専門病院にもあることを告発しています。
 ゲイの仲間を見つける場所を、ゲイの専門語で発展場と呼ぶ。それは、トイレ、ポルノ映画館、夜の公園、ゲイ専門のサウナ、ゲイビーチなど。これらは、その場限りの性処理の場だ。
 ゲイの人たちの社交場は、いわゆるゲイバー。ここには、恋愛の道程を楽しみたいか、仲間たちとの会話を楽しみたい人たちが集まってくる。そこは、ふだんの生活で自分を偽って生きていることからたまったものを吐き出し、同じ悩みをもった人同士が何のためらいもなく素の自分を出せる場でもある。
 ゲイの世界で一晩を共にする相手を見つけるのはたやすい。しかし、だからこそ何が幸せなのかが分かりにくい。
 女性との結婚を選んで子孫を残したとしても、その後、キッパリとゲイの道から足を洗った人はいない。
 ゲイだけにわかりあう特殊な視線がある。一度、二度、三度と視線がからみあい、数秒のあいだに視線の会話をかわす。一度目の視線は互いを確認しあうもの、二度目の視線での会話は互いがゲイであることを確認し、三度目で互いが好感をもったことを共有しあう。
 なるほどと、これを読んで思いました。愛する者同士のひらめきなんでしょうね。一目ぼれの・・・。
 エイズという病は、体調の悪さと、もう一つ精神的な痛みを伴う。
 エイズウィルスに感染したとしても、決して性欲が消え去るものではない。ゲイの人たちの感染者に、その意識が薄らいでいる。少しずつ、少しずつ感覚が麻痺しつつある。それは確かだ。本当に怖いのは、感染しているにもかかわらず、検査も治療もせず、いまだに多くの人とのフリーセックスを楽しんでいる人たちだ。なるほど、本当にそうですよね。
 エイズ感染者の勇気ある体験告白記です。

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2006年3月23日

元アイドル

著者:吉田 豪、出版社:ワンマガジン
 私はテレビを全然見ないし、芸能界にも歌謡曲にもまったく興味がないので、アイドルと言われてもちっともピンと来ない。でも、活字になると、好奇心から読んでみたくなる。この本を読むと、アイドルの世界、そしてその生活がいかに苛酷なものか、すこしばかり想像できる。
 元アイドルは人間不信に陥る人が少なくないし、自律神経失調症になる人が多い。芸能界にはイジメるのが好きな人がいる。わざわざ追いかけてきて嫌味を言ったり、ドラマでわざとセリフ変えてみたり、裏と表がすごい人だとか・・・。
 こいつら、いつか散弾銃でブッ殺してやりたいと思った。嫌な連中を全員一ヶ所に集めて爆弾で殺してしまったら、どんなに気持ちいいことだろう、なんて考えてしまう。
 それで、20歳のときに自律神経失調症で具合が悪くなってしまった。
 学校でいじめにあったアイドルが意外なほど多い。目立つ存在だったので、ねたまれたのだろう。オーデション受けているうちに分かってきたことは、どんなドラマでも主役って、最初から事前に決まっているということ。その裏には、お金がからんでいたり、プロダクションとテレビ局の関係とか、汚いものがいっぱいある。
 アイドルの睡眠時間が2時間というのはウソではない。恋愛する暇もない。撮影で8時間、完全徹夜ということもあった。4日目ぐらいから座るのも危険になる。寝ちゃうから。そうすると、顔どころか、精神的にもボロボロになる。
 人生で何を消したいかといったら、あの2〜3年間を消してしまいたい。
 仲間の集まりに顔を出さないと悪口を言われて無視されるって恐怖心から、何があっても電話ひとつですぐ飛んでいった。だから、遊んでいたのに、それがまたストレスになっている部分もあり、すべてが悪循環になっていた。
 芸能界って、取り替えのきかない世界だと思われているけれど、実は簡単に取り替えできるところ。あの人がいなくなったら無理だと思われるくらいの人が姿を消しても、結局は、何ごともなく芸能界はすすんでいく。
 タレント仲間も嫌い、スタッフも嫌い、ファンも嫌いっていう状態になる。もう人間が全部嫌になってしまう。
 23歳のとき、ジャックダニエルを泣きながら1本飲んでしまったら、翌日、お婆ちゃんみたいに肌がシワシワになっていた。病院に行ったら、内蔵がおかしくなっていて、それが全部顔に出てきていたことが分かった。
 元アイドルの人は、大体、自律神経をおかしくしたり、自殺を考えるくらい追いこまれたりしている。
 セスナに乗ってゲロを吐いたときも、カメラの前では元気に笑顔で手を振って、下向いて吐いてまた出てきて手を振る、そんな感じで仕事を続けた。
 給料は、せいぜい6万円とか10万円。脱いだら3倍というので脱いだら、なんと15万円に上がっただけ。
 衣装代は自腹で、寮費も給料から引かれてしまう。デビューして貧乏になっちゃった。
 服は自前で、同じ服を2度と着たらダメ。お金を払いながらアイドルやってる感じ。給料は7万円。服は母に買ってもらってた。全部で1000万円にはなる。芸能活動でペイなんかできない。
 すさまじい世界ですね・・・。

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2006年3月22日

働く過剰

著者:玄田有史、出版社:NTT出版
 かつての大学新卒の採用といえば、学生が特段の専門的な知識を身につけて卒業してくることを、採用する企業は長く求めてこなかった。むしろ、学卒者自身が知識で事前に武装するよりは、無地のキャンパスであることを望んだ。採用後に企業色に染めやすいことを求め、何らかの思考的な色づけを持った人物を回避するというのが、企業側の態度と言われてきた。
 即戦力志向とは、つまるところ、育成軽視の別表現にすぎない。即戦力偏重は競争力の低下につながる。アメリカの業績優良企業は、すべて即戦力重視といった素朴な先入観とは、あまりにかけ離れている。日本でも、不況下において成長している中小企業ほど、実は能力開発に積極的な場合が多い。
 偏った人間は何があっても、どこに出しても恥ずかしくないように、絶対に一人前にする。だから、将来そいつが独立したいとか、もっと別の世界で働きたいというのなら、気持ちよく送り出してやる。そんなやつがいる方が、後輩にこっても目標になっていい。
 30代男性ホワイトカラーの多くが、長時間働いていることの弊害として、職業能力の開発が困難となっている事実を指摘する。
 女性の活用が業績に結びつく。アメリカでは、女性の割合が高いほど、業績が高くなっている。日本でも女性の比率が高い会社ほど、高利益をあげている。
 非正社員に対する「使い捨て」意識が潜んでいる会社や経営者には、情報漏えいなどのきついしっぺ返しがくるだろう。そもそも正社員でも非正社員でも、社員が退職するときに、その会社や職場の責任者がどのように立ちふるまっているかは、人材の育成に限らず、むしろ職場の良好な雰囲気の育成にきわめて重要な意味をもつ。コンビニをみると、経営がうまくいっているお店ほど、店長がフリーターの育成に熱心に取りくんでいる。
 団塊世代は、日本の労働者史上、長期雇用とそのもとでの年功賃金の恩恵を一番に受けた世代であり、そして最後の世代になるだろう。正社員希望の傾向は、実のところ、若者のあいだできわめて強い。若者の正社員へのこだわりは、弱まるどころか、むしろ強まっているのが実際だ。雇われて働くのではなく、自らの力で独立して働こうという志向は若者のなかで急速に衰えつつある。独立というリスクのある働き方を多くの若者が希望しなくなるなかで、きわめて特異な存在であることが、若きIT長者への注目を集めている。
 ニートは、共通して人間関係に疲れている。ニートは、不透明で閉塞した状況のなか、働くことの意味を、むしろ過剰なほどかんがえこんでしまっていたりする。ニートが象徴するのは、個性や専門性が過剰に強調される時代に翻弄され、働く自分に希望がもてなくなり、立ち止まってしまった若者の姿だ。
 ニートが増えたのには、個性発揮や専門性重視を過度に求めすぎた時代背景がある。ナンバーワンになるのは難しいが、オンリーワンになるのだって簡単ではない。そんな現実のなかで、やりたいことがないので働けないと考え、自己実現の幻想の前に立ち止まってしまったニートを、時代の犠牲者と呼んでも言い過ぎではない。
 ひきこもる若者を引き出すには、生活のリズムをつかむこと。とにかく朝6時半に起きて、みんなで朝の散歩をする。それが、すべての始まりだ。身体を動かす。そして、それを継続する。仕事に一番大事なのは、なんといっても継続できる力だ。そして、たくさん失敗する体験を積むこと。小さいころから、負ける経験をたくさんすることが大切。親から期待されたという経験がない状態で育ってきたことが、積極的にやりたいことがない若者をうんでいる。
 いろいろ大いに勉強になる本でした。さすがは学者です。

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2006年3月20日

お客さん、お会計すんでませんよね

著者:井崎弘子、出版社:新風舎
 スーパーでの万引事件を国選弁護人として弁護することがコンスタントにあります。覚せい剤の使用事件と同じくらいに多いのではないでしょうか。
 財布に何万円か入っているのに、主婦が2千円足らずの食料品の万引をくり返すというケースは決して珍しくありません。たいていは妻を無視する無理解な夫へのあてつけのようです。いえ、万引する行為自体がスリルという快感を覚えているのだろうと思われるケースもあります。
 私が腰を抜かすほど驚いてしまったケースは、30代の既婚男性が女性下着のみを万引していたというものです。彼は捕まるまでに、なんと段ボール箱に20箱ほども貯めこんでいました。狭いアパートの室内に積み重ねていたのです。女性下着を見ながらマスターベーションしていたようですが、なぜ終わったらすぐに捨ててしまわなかったのか、不思議でした。警察は、女性下着を庁舎3階の大講堂の床一面に広げ、その写真を証拠として提出しましたが、それは壮観でした。
 万引しようともくろんでいる怪しい人物の目の動きは自然ではない。きょろきょろと周囲をうかがっている。商品をあまり吟味せずにカゴに入れる。カゴの中を見ずに周りを見る。もっているバッグの口は、きっちり閉まっていない。
 万引を見つけたときには、相手の話をよく聞く。説諭にマニュアルはない。もしマニュアルどおりにやると、自分の心からの言葉でないから、相手の心にひびかない。
 説諭には慣れというものはない。大事なのは、相手の話をよく聞くこと。そして、気持ちをこめて話すこと。本人が万引の理由を言いはじめたときには、言葉を止めてしまうような質問をはさまず、最後まで聞く。理由をしっかり話させることによって、相手の気持ちをほぐす効果があるし、心を開いてくれる。
 結構多いのが内部犯行。スーパーの店員の万引、そしてレジ係の横領。店員がペアになって万引することがある。
 レジ係の不正で多いのは、返品の利用。いかにもお客さんが返品に来たかのように自分で返品の操作をする。レジで架空の返品代をうち、たとえば3000円を、自分のポケットに入れてしまう。
 内部犯行だと思うときには、関係者全員に面接する。そのとき、店員の手の動きでかなり分かる。手がよく動く人はやましいところがない。疑われることを怒っている人は、自然と拳を握りしめているし、大げさにかぶりをふるったりする。反対に、怪しいと思う人は手を机の下に隠したままでしゃべる。怪しい人はあまり話さない。
 レジの犯罪は案外多く、ひとつのスーパーで年間10人はいる。
 私も、スーパーのレジ係の横領事件を担当しました。返品を利用したのですが、2年ほどで2000万円もの横領額になっていました。そのお金はパチンコ代に消え、さらに莫大な借金をかかえてしまったのです。弁護士の実務にも役立つ本でした。

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不思議な数 πの伝記

著者:アルフレッド・S・ポザマンティエ、出版社:日経BP社
 円周率π(アメリカ式にはパイ。ヨーロッパではピー)の話。2πrとかπr2 というのを思いだしますよね。なつかしく、また嫌な思い出として・・・。
 3.14159 ここまでは私も覚えています。この本には、なんと10万桁まで紹介されています。27頁もつかい、びっしり小さな数字で埋めつくされています。東大の金田康正教授が1兆2411億桁まで計算したのが世界最高だそうです。日立のSR8000というスーパーコンピューターをつかって計算しました。1秒に2兆回の計算ができるスパコンですが、600時間もかかったそうです。
 そんな計算に意味があるのか、という疑問を抱くでしょうが、コンピューター精度と計算手順を検証するために有効だということです。
 πの数字を暗唱した世界最高記録は日本人の原口證氏です。2005年7月に8万3,431桁を13時間かけて暗唱しました。気の遠くなる数字です。いろんな言語によるπの数字の覚え方も紹介されています。
 19世紀ドイツの大数学者ガウスもπの計算をしましたが、このときダーゼという暗算の名手を手伝わせました。まだコンピューターのない時代ですから、コンピューターがわりに人間が暗算したわけです。ダーゼは、頭の中で8桁どうしの掛け算を45秒でできた。40桁どうしを掛けるには40分かかり、100桁どうしの掛け算には8時間45分かかったそうです。映画「レインマン」のダスティン・ホフマンを思い出しました。
 5世紀中国、天文学者で数学者でもあった祖沖之もかなり詳しいπの計算をしています。さすがは中国ですね。西洋文明に負けてはいません。
 不思議な話があります。
 紙を一枚用意して、定規で全体に等間隔で平行な直線を引く。そして針を何度も紙の上に落とす。すると、針が定規で引いた線に触れる確率はπとほとんど同じだ。
 ちょっと信じられませんよね。いったい、この確率とπとにどんな関係があるというのでしょうか。単なる偶然の一致にすぎないのでしょうね・・・。
 アインシュタインは1879年3月14日生まれ。3月14日はπの日。3.141879はπの近似値だ。
 地球の赤道にそってロープを巻きつけたとする。それから、ロープの長さを1メートルだけ延ばす。そして同じく赤道にそってロープを巻きつける。地表面からロープはどれくらい離れるか。答えは16センチ。赤道の上を身長1.8メートルの人間が歩いたとして、頭は足よりどれだけ余計にすすむか。答えは11.3メートル余計にすすむ。
 赤道に巻きつけたロープを1メートルだけ長くして、一点をひっぱると、その一点は地表からどれだけ高くなるか。答えは、122メートル上空になる。ふーん、そうなんだー・・・。ちょっと浮世ばなれした不思議な話題が、いくつも紹介されている本でした。

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2006年3月17日

金大中救出運動小史

著者:鄭 在俊、出版社:現代人文社
 民団中央本部の団長を歴任した権逸氏について、著者は厳しく指摘しています。
 彼は日帝の傀儡満州国で検事をつとめ、祖国の独立・解放を目ざして活動する人々を捕まえて刑罰を加える、日帝の走狗だった。民族叛逆罪に該当する人物だ。解放後も日本官憲と親しく内通し、朴正煕 政権の忠実な下僕だった。
 民団中央本部のなかでは、外交官の大使よりKCIA(韓国中央情報部)から来た公使が実権をふるっていた。民団組織内では、KCIAから大使館に赴任してきた領事、参事、書記官という肩書きの情報部要員がやたらと権勢を誇り、彼らの言動が絶対的影響力を発揮していた。
 朴正煕 政権は、在日韓国商工人および資産家からさまざまな名目で金品をしぼりあげた。その金額は、韓国政府が民団に支出する10億円の数倍になるだろうと言われた。しかし、在日同胞の金をしぼりあげる役割はKCIA要員だけではなかった。同郷出身の与党国会議員らがさまざまな縁故で芋づる式に人脈をとどり、ときには民団中央本部の幹部が手先となって、在日一世の事大主義的思想と情緒を巧みに利用した。多くの在日資産家は、権力ににらまれたときの恐ろしい「不運」を予防する対策として、あるいはソウルで困ったことが生じたときに逆に利用する打算から支出に応じていた。
 金大中事件が発生したのは1973年(昭和48年)8月8日午後1時すぎ、東京九段のホテル・グランドパレス22階です。このころ、私は横浜で弁護士をしていました。白昼堂々、日本において、国際的にも有名な韓国人政治家を拉致するKCIAには驚き、かつ日本人として怒りを覚えました。
 著者は金大中救出運動を日本において全力をあげて取り組みました。そして、金大中が大統領に就任したとき、就任式にも招待されたのです。ところが、意外なことに金大中は著者をまったく無視し、冷遇します。なぜ、なのか・・・。
 金大中は671頁にも及ぶ長大な自伝を発刊していますが、そこに在日韓国人による救出運動について一言もふれていないとのこと。著者は、そのことに怒っています。私も、その怒りは理解できます。いったい、どういうことなのでしょうか・・・。
 金大中は大統領になって、自分の拉致事件の真相を知ることができたはずです。個人的には、その詳細を知ったことでしょうが、その真相を国民に広くオープンにすることはしませんでした。なぜなのでしょうか・・・。これも韓国現代史の謎のひとつだと私は思います。

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八犬伝の世界

著者:高田 衛、出版社:ちくま学芸文庫
 「八犬伝」は小学生のころ、胸をワクワクさせながら読んでいた記憶があります。最近、「八犬伝」全集を買って読もうとしたら、現代語訳ではなかったので、これはしまったと思って本棚に飾ったままになっています。
 この本は、「八犬伝」について、見事に分析し、評価しています。さすがは学者です。たいしたものだと、ほとほと感心してしまいました。
 「八犬伝」は、本当に息の長い本です。たとえば、八犬士の所在と名前が出そろうのは、初版(文化11年、1814年)が出てから13年目の文政10年(1827年)のことです。八犬士が全員めでたく会同するのは25年目の天保10年(1839年)のことというのです。まったくもって、気の遠くなるような話です。
 江戸城を築いた太田道灌は管領扇谷定正の重臣であった。扇谷定正は、道灌の高い評判をねたんで、自分の館に招き入れて謀殺した。
 「八犬伝」において八犬士は相互に位階的に対等である。これが特徴のひとつ。だから、八犬士がすわるときも、たとえば八畳の座敷に八人の団坐(まとい)の席が円環状に配してある。大八を除く七犬士たちは、それぞれに物語に主役であり、脇役ではない。
 「八犬伝」の読者は、江戸時代すでに北は松前(北海道)から、南は筑前(福岡)、薩摩(鹿児島)に及んでいました。馬琴は読者サービスとして、「八犬伝」の意義を解説する本まで出しているそうです。
 「八犬伝」は中国の「水滸伝」をもとにしています。私も「水滸伝」を読みましたが、同じように胸をドキドキさせながら読んだ記憶があります。それでも、単に日本と中国という、お国柄の違いというだけではない違いを感じました。
 「八犬伝」をぜひ再び完読してみたい。そんな気にさせる分厚い文庫本でした。

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狼の帝国

著者:ジャン・クリストフ・グランジェ、出版社:創元推理文庫
 パリに住むアンナは不可解な記憶障害に苦しんでいた。高級官僚である夫は、アンナに脳の生検をすすめる。そのころ、パリの街で不法滞在のトルコ人女性たちが何人も殺された。その死体の顔はひどい損傷があった。なぜか・・・。
 昨年、久しぶりにパリに行ってきました。英語はまったく話せない私ですが、フランス語の方はなんとか日常会話には不自由しませんので、外国に行くならやっぱりフランスです。12年前にノートルダム寺院すぐ近くのカルチェ・ラタンのプチ・ホテルに1週間泊まったこともあります。ゆっくりパリの良さを味わうことができました。この本は、そのパリの裏側、怖い面を教えてくれます。
 テロリストの力はひとつだけ。それは秘密だ。やつらは気のむくままにどこでも攻撃する。それを止めるにはひとつしか方法がない。ネットワークに入りこむことだ。やつらの脳に入り込むんだ。それをやって初めて、すべてが可能になる。
 トルコ人の起源は中央アジアの草原にさかのぼる。その祖先はアジア人のように切れ長の目をして、モンゴル族と同じ地域に住んでいた。たとえば、フン族はトルコ人だった。こうした遊牧民族は中央アジア全体に広がり、10世紀ころ、キリスト教徒のいたアナトリアに押し寄せた。
 ヘロインを液体にする。麻薬をプラスチック梱包材の気泡に詰める。液体になった最高級のヘロインを梱包材に隠れて送り、空港の貨物区画で受けとるのだ。
 推理小説なので、詳しい内容を紹介できないのが残念です。パリにトルコ人による暗黒街があること、フランス警察の一部がそれにつるんで甘い汁を吸っていること、美容整形が意外なほど発達していることなど、この本を読みすすめていくうちに分かります。
 それにしても、技術の発達が人間の心を野蛮な方向におしすすめるとしたら残念です。でも、ホリエモンやそれをもてはやしているマスコミを見ていると、暗い気持ちになるのも事実です。
 パリの暗黒街の話なんて他人事(ひとごと)だと思うと大きな間違いです。日本でも、そして福岡の中洲でも、裏で支配して甘い汁を吸っているのはヤクザなのです。残念なことに暴力追放のかけ声を唱和するだけでは決してなくならないのがヤクザです。

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2006年3月16日

パチンコ、30兆円の闇

著者:溝口 敦、出版社:小学館
 パチンコ業界については、これまでに何冊も本を読みましたが、この本を読むと、最新のIT化の波に乗って大変な状況にあることを知り、驚かされます。
 パチンコ業界の売上は30兆円。これは、自動車産業41兆円、医療関係31兆円に匹敵する規模です。中央競馬3兆円、競輪1兆円、競艇1兆円、宝くじ1兆円、ゲームセンター6千億円、テレビゲーム・ゲームソフト5千億円です。
 30兆円の売上は、全国で1万6千店です。パチンコ店ひとつで年間20億円の売上。従業員総数は33万人。関連業種を含めると40万人。アメリカのカジノ産業の従業員は36万人なので、ほとんど同じ。アメリカのカジノにおいてスロットマシーンで遊ぶ客は平均7千円つかうのに対し、日本のパチスロは平均1万3千円。
 1995年には、年2900万人がパチンコして遊んだ。それが2003年には1200万も減って1740万人になった。だけど売り上げは30兆円のまま。ということは1人あたりの投資金額が増えて、射幸性が高くなっている。パチンコ店の業界ナンバー1、2位の店の売り上げは1兆円前後。
 換金の仕組みは、法的にあいまいであり、警察のさじ加減ひとつなので、警察はいいようにパチンコ店を扱える。
 パチンコ店をつくるのに10億円はかかる。でも、銀行が借りてくれと列をなすほど。といっても、パチンコ店が過当競争に入っているのも事実。警察官は、生活安全課に行きたがる。警察署長は異動するたびに500万円ほどの餞別が入ってくる。3回動くと家が建つ、と言われているほど。警察はパチンコに関するかぎり、上から下まで握っている。パチンコ店は警察のいい子にならなければ、営業停止だって喰らいかねない。
 警察OBはパチンコ業界に再就職する。警察OBは一県あたり1000人もパチンコ業界に再就職している。業界の序列では、一番に警察が偉く、次にパチンコ台のメーカーが偉い。その下がパチンコ店。
 パチンコ店は小作人、パチンコ台メーカーが地主。そして、その上に悪代官の警察がいる。パチンコ台は、遠隔操作されている。ファンは、パチンコで遊んでいるつもりでも、実は業界にいいようにもてあそばれている。
 私は国選弁護人として、体感機をつかっていたことがバレた若者の事件を2件やりました。体感機は、低周波治療機に他の部品を組みあわせてつくったものです。1セットで 100万円前後するのですが、たしかに当たる確率はいいそうです。でも、それだからこそ、パチンコ店も異常な気配に気がつきやすいのです。
 パチンコ、スロットマシーン攻略法でだまされたというケースも扱いましたが、この本によると、そんな攻略法なんて存在しないということです。
 パチンコ台の性能を検査する保通協という組織があります。そこでは、職員96人のうちの3分の1、32人が警察出身者です。会長は、つい最近まで元警察庁長官でした。ここは試験検定料だけで年に16億円あまりもかせいでいます。
 うーむ、すごい。パチンコ店の表と裏を眺いてしまって、なんだか暗い気分になってしまいました。

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2006年3月15日

白バラの祈り

著者:フレート・グライナースドルファー、出版社:未来社
 いま上映中の映画「白バラの祈り」の完全版シナリオが本になっています。
 1943年2月18日、ミュンヘン大学でゾフィーは反ナチのビラをまきました。それが見つかり、ゲシュタポに連行され、裁判にかけられます。なんと裁判で死刑が宣告され、4日後にはギロチンにかけられてしまいました。ビラを大学にまいた、それだけで、たった4日間の裁判によってギロチン刑とは・・・。とても信じられません。
 この本は、旧東ドイツの秘密警察の文書保管所にあったゾフィーの尋問調書によって取調べ状況を刻明に再現したという点に価値があります。
 ゾフィーは普通の女子大生であったようです。ヒトラーユーゲントのメンバーにもなっています。ゾフィーは婚約しており、彼はドイツ軍大尉で、東部戦線にいました。ゾフィーの弟もドイツ軍兵士です。
 ゾフィーは、ナチが精神障害をもつ子どもたちを毒ガスで処理したことを知って、大変なショックを受けました。それを尋問官に問いただすと、彼らには生きる価値がないという答えが返ってきました。なんということでしょうか・・・。尋問官は、ユダヤ人殺害も子ども殺しも、すべて嘘だと言いはります。
 そして、ゾフィーに対して、兄を信頼して単に手伝っただけじゃないのか、と甘い声でささやきかけます。助命しようという良心があったのでしょう。でも、ゾフィーは、きっぱり断わりました。それは真実ではないと言い切ってしまいます。
 ゾフィーの国選弁護人は、被告人であるゾフィーと目を合わせようともしません。彼の言葉は次のとおりです。
 長官、私はなぜ人間にこのようなことができるのか、まったく理解できない。私は兄の被告ハンス・ショルに対して適正な刑を求める。妹の被告ゾフィー・ショルには、やや穏やかな刑を望む。彼女は、まだ若い娘だから。
 ゾフィーは、法廷で堂々と自分の信念を貫きます。裁判官に向けた彼女の言葉は次のようなものです。
 私がいま立っている場所に、もうすぐあなたが立つことになるでしょう。
 この言葉を聞いていた傍聴席の人は怒りというより、困惑と不安にさいなまれていました。直ちに判決が言い渡されます。死刑の宣告です。ハンス・ショルが叫びます。
 今日はぼくたちが処刑されるが、明日はおまえたちの番だ。
 ゾフィーの方は、恐怖政治は、もうすぐ終わりよ、と言いました。
 法廷内にいた司法実習生が、すぐに恩赦の嘆願書を提出するよう両親にすすめます。しかし、直ちに却下されるのです。
 最後の面会のときの父娘の会話が紹介されています。父は、すべては正しいことだった。おまえたちを誇りに思っているよと呼びかけます。ゾフィーは、私たちは全責任を引き受けたわ、と答えました。もう、おまえは二度とうちには帰ってこないのね、という母に対して、ゾフィーは、すぐに天国で会えるわよ、と答えたのです。
 ゾフィーは、1943年2月22日の午後5時、ギロチンにかけられました。
 このとき死刑になったのは、7人です。そのほかにも、13人が懲役刑に処せられています。
 ゾフィーの死後、さらに戦争は2年以上も続き、何百万人もの人々が殺されていきました。でも、決っして、ゾフィーたちの行動が無駄で終わったというわけではありません。ドイツでは、このように反ナチのために生命をかけて闘った人々を思い出させる映画がくり返し製作・上映されます。日本ではそれがほとんどないのが、本当に残念でなりません。

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