弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

フランス

2022年11月16日

村の公証人


(霧山昴)
著者 ニコル・ルメートル 、 出版 名古屋大学出版会

 近世フランスの地方に住む公証人テラードたちの生活を記録した家政書を紹介した本です。ときはアンリ4世からルイ13世のころ、1600年前後ですから、日本では関ヶ原合戦(1600年)の前後にあたります。つまり戦国時代の末期で、江戸時代初期のころのフランスです。
 場所はフランスの中心部のバ・リムーザン地方、その北部のフレスリーヌの村です。
 主人公のピエール・テラード1世は1559年に生まれ、1628年に69歳で亡くなりました。
 ピエールは村の公証人であり、書記であり、魔術師(シャーマン)だった。
 ピエールは、文字を書く技量に熟達した。文字を自在に書くことで、農村の名士をして頭角をあらわした。そして、隣人やイトコたちに貸付を繰り返して所有地を広げていった。貸し付けたのは金銭だけでなく、穀物や家畜もあった。1601年4月から翌1602年12月までに114回の貸付けを行っていて、このうち77回はライ麦の貸付けだった。
 この当時、宗教戦争の終結は、多数の農民が借金の重圧に押しつぶされて没落する事態を生み、所有地の集積を促進した。借金で首が回らなくなった債務者たちは財産を失った。ただし、彼らは先祖伝来の所有地の上で暮らし、自分たちの土地を耕し、その地は依然として、彼らの家名を冠している。彼らは追い出されることはなかった。それでも所有者としての地位は喪失した。収穫物折半による土地賃貸借が、この地方ではあたりまえ。家畜と農具を提供するのは土地所有者。家畜は投資目的で運用する。土地は、3分の1が耕作地で、3分の2が雑草地や放牧地。牧畜は重要性が高い。高地の荒野では羊の群れだけが生きていけるので、ここでは羊が圧倒的に多い。
 ここでは狼との戦いは、ありふれた現実である。しかし、危険はそれだけではない。家畜伝染病も怖い。1頭のメス牛は、数頭のメス羊よりももうかる。ソバは、ライ麦のような麦角病はなく、貴重な自家消費用穀物だ。
 家名を安定化するため、兄弟経営団を更新する。災難をできるだけ避けるには、複数の人数が得策だという打算にもとづいている。
 女性は、慣習法によって、まったく自由に相続人を指定する権利をもっている。用益権を自らの手元に留保しながら、自分の全財産を一人の相続人に譲渡することもできる。
 農民の世界では、夫婦財産制が非常に普及していた。原則として、新婦(妻)は、遺言により持参金を譲渡できる。これが、家族集団内における新婦の力の要因となっている。
 新婦に持参金は、しばしば婚家の借金返済に充当される。そして、婚姻関係が解消されると、持参金は原則として「妻」側に返還される。
 新しい家庭の懐(ふところ)に入った持参金は、災厄の折に利用できる資本としての価値しかない。家族にとって新婦の持参金とは、危機的な財政難を立て直したり、それまでの債務の相殺を容易にしたり、ときには土地の購入に投資するのに、とりわけ有用だった。
 潤沢な持参金をそなえを娘であれば、相続人の妻の座は射程のなかにある。
 2番目の結婚から生まれた娘たちは母親の権利と父親の遺留分だけである。
 職業訓練は、子どもたちの出生順による。長男は文字を書く訓練をし、公証人の官職を継承して共有財産を管理しなければならない。次男も文字を書く訓練をし、長男の代わりを務める可能性と家族集団に奉仕すべく司祭になる可能性に備える。三男以下は、意欲と適性があれば文字を習うが、それは破局的な人口減少が起きたとき、自分に財産の相続権が生じるかもしれないからだ。娘たちは、文字の習得をしないが、この措置もタブーでなくなるのは遠くない。
 読み書きができることは、法律専門家になるためだけでなく、聖職につく条件でもある。司祭になるのは、個人の意向より、一家の決断が優先する。その全権は家長に委ねられている。
 公証人は、人口1000人から1500人につき1人の割合でいる。公証人は、家庭や村落における社会の安全装置だった。
 344頁もの大作ですが、近世フランスの公証人であり、農民である人の記録から、この当時のフランス人の生活の全体像が浮かびあがってくる気がしました。少々値がはりましたが、読んでなるほどと思いました。やはり、いつだって読み書きは必須なんだねと実感もしました。
(2022年5月刊。税込6380円)

2022年9月19日

ザ・ナイン


(霧山昴)
著者 グウェン・ストラウス 、 出版 河出書房新社

 フランスでナチス・ドイツに対するレジスタンス活動をしていた女性が次々にナチスに捕まり、強制収容所に入れられました。この本のメインは、強制収容所に入れられた9人の女性たちが共に脱出して、生きてフランスに帰りついたという奇跡的な実話を紹介しているところです。
 彼女たちは20歳から29歳。ユダヤ人ではありません。若さと団結の力で死を乗りこえて生還したのです。彼女らはとても幸運だったと言えますが、その幸運を勝ちとる涙ぐましい努力もあり、単に運が良かったというだけではありません。
フランスでレジスタンス活動に身を投じているうちに逮捕され、収容所で囚われの身になっていた女性9人が、ソ連軍の侵攻によってナチス敗戦間近の1945年4月15日、強制収容所からの移動中に脱出を決行。連合軍との前線を求めてさまよう逃亡の旅は、いかにも危険にみちています。そこを知恵と工夫、そして、それを支える固い友情の絆、苦境さえ笑い飛ばすユーモア、そして時に歌声。何より生きのびようとする強い意思があったのでした。まったく知らない話です。
 リーダー役をつとめるエレーヌは、ソルボンヌ大学出身の技術者。5ヶ国語を話した。最年少のジョゼは20歳で、養護施設の出身。美しい歌声で聴く人をうっとりさせた。
 偵察役をつとめる人、勇敢さで優る人、グループの調停役の人。いろんな個性の若い9人の女性が助けあいながら脱出行を遂げていく様子が見事に紹介され、心を打たれます。しかも、それが悲愴感があまりなく、むしろ読んでほっこりしてくるのです。
 収容されたのは、女性専用のラーフェンスブリュック強制収容所。アウシュヴィッツほどではありませんが、ここでも大勢の人々が「焼却処分」されています。少なくとも4万人が犠牲になったとのこと。
 この本に紹介されるソ連兵(女性)のエピソードはすごいです。
 ナチスから「散弾銃女」と呼ばれた彼女らには英雄のオーラがあった。自分たちの兄弟を殺すための銃弾はつくれないと、軍需工場での労働を拒否した。自分たち捕虜は、ジュネーブ条約の下、軍需品の製造を強制されないはずだと主張したのだ。収容所当局は、その罰として、また抵抗手段として、彼女らを何日も屋外に立たせて、水も食糧も与えてなかった。それでもソ連兵たちは挫(くじ)けない。ナチス親衛隊は怒り、そして驚嘆した。結局、ナチス親衛隊のほうが折れて、ソ連兵たちは、厨房での仕事を与えられた。うひゃあ、すごいですね。そんなことがあったなんて、ちっとも知りませんでした。『戦争は女の顔をしていない』に通じる話です。
 ある日曜日の午後、点呼広場で点呼されているとき、赤軍兵士たちが、ぱりっとした服装で、一糸乱れぬ行進で広場に入ってきた。そして広場の中央までくると、兵士たちは赤軍の軍歌をうたいはじめた。大きく澄んだ声で、次々と、何曲も歌った。
いやあ、すごい、すごすぎますね。人間の尊厳を感じさせられます...。
ソ連兵たちは、クールで、排他的で、寡黙なエリート集団だった。
そして、もう一つ。強制収容所にいる女性たちのあいだで大人気だったのは、料理レシピとその口頭での解説。強制収容所のなかでは、誰もが空腹であり、飢えていた。しかし、また、だからこそレシピを聞くと、つかのまの慰めを見出した。話は材料のリストに始まる。順を追って料理の作り方を説明していく。規則的で体系的なレシピは、たとえ一時的であっても、安心をもたらした。つらい話はならない。食べ物に関する思い出話なら、それほど辛い気持ちにならず、人間らしさを取り戻すことができた。
強制収容所がアメリカ軍やソ連軍によって解放された直後の数日で、多くの被収容者が死亡した。ベルゲン・ベルゼン収容所だけで1万5千人も亡くなった。なんとか生きながらえてきた人が、解放されたとたん、安堵のうちに死んでいった。
収容所でナチスの将校の前で裸にさせられたことが、いつまでもトラウマになったという女性がいます。
「私は、自分の体が好きではない。男に、それもナチスの男に、初めて見られたときの視線の跡がいまだに残っているような気がするから。私は、それまで一度も他人の前で裸になったことはなかった。乳房がふくらみ、体が変わり始めたばかりの少女だったのに...。以来、私にとって、服を脱ぐことは、死や憎しみを連想させるものになった」
とてつもない勇気と必死に生きる意思を、そして人間らしいとは何かを感じさせる、元気に出る本でした。
(2022年8月刊。税込3135円)

2022年3月16日

黒人と白人の世界史


(霧山昴)
著者 オレリア・ミシェル 、 出版 明石書店

フランスは奴隷制と植民地制度を、おそらくもっとも高度に強力に推進した国。
フランス革命のあと、画期的な人権宣言をしたフランスは、別の顔をもっていたのです。
そして、2001年のトビラ法(トビラという国会議員が法務大臣になって制定した法律)は、学校では歴史の学習指導要領に大西洋地域の奴隷や奴隷貿易についての教育を導入するよう義務づけた。
戦前の日本が中国大陸や朝鮮半島から人々を強制的に連行して日本国内の鉱山等で労働させていた事実を学校で教えるよう義務づけたようなものです。佐渡金山で強制連行してきた朝鮮人等を労働させていた事実は、地元の史書にも明記されている史実なのに、自民党政府は躍起となって否定しようとしています。まさしく恥ずべき政府というほかありません。
モンテスキューは、黒人奴隷制に反対する立場から、皮肉をこめて次のように言っている。
「この人たちが人間であると想像するのは、我々にとっては不可能だ。なぜなら、人間だと認めれば、我々自身がキリスト教徒ではないと思い始めるだろうから...」
アメリカ征服の初期には、ヨーロッパ人は自分たちを「キリスト教徒」と定義すれば、現地のインディアンと区別するのに十分だった。ところが、次第に混血児が増えてくると、白い色は支配階級の印になっていった。
非白人は、次のように分類された。ムラートは、白人と黒人の混血。メスティーソは白人とインディアンの混血、カルトロンは黒人の血が4分の1、オクタロンは黒人の血が8分の1。いずれも、社会の上層部に上ることを妨げられた。
奴隷制の極端なまでの暴力は高くつく。それによって引き起こされる反抗や反乱を抑止して労働強制する体制を維持するだけでも、大変な代償だ。表面的には繁栄していても、奴隷制は身体的暴力や法律によって絶えず再構築しなければならない脆弱な制度だった。そのため、奴隷制は非常に利益が上がっていても、その擁護者でさえ急速に廃止を受け入れざるをえなかった。
紀元後1世紀のローマ帝国には、200万人の奴隷がいた。同じ時期の漢王期にも100万人の奴隷がいた。日本でも少なくとも10世紀までは奴隷がいたとされている。これって、平安時代の日本に奴隷がいたということですよね。「安寿と厨子王」も奴隷の話だったということでしたっけ...。
インドでは、1860年にイギリスが禁止するまで900万から1000万人の奴隷がいた。
2016年ですら、本質的に奴隷とみられる人が世界中に2500万から4600万人いる。
7世紀から19世紀にかけて、1700万人のアフリカ人がアフリカ東部ルートで売られた。さらに1200万人が大西洋地域に売られ、900万人が北アフリカに送られた。
奴隷は、生産はするが、再生産のサイクルには貢献できないので、親族とみなされない。これは人間性からの永久追放に相当する。
奴隷は子どもを持ったとしても、親の資格は与えられない。子孫を持つこともできない。奴隷である父親や母親は、自由な子に対して親権を行使できない。
奴隷は象徴的かつ決定的に排除されると同時に、慣れ親しんだ人、召使であり、犬のように割り当てられた立場にとどまる。
奴隷制をつくり出すのは戦争だ。また、奴隷売買は商業経済の一部でありうる。
奴隷船には500人から600人が積み込まれた。2ヶ月半の航海で18%から11%の死亡率。反抗や逃亡の試みは日常茶飯事。乗組員の6倍の奴隷がいた。あまり残酷に扱って商品を死なせてはいけないし、反抗する力をもたせてもいけなかった。水と食事は最小限に抑え、病気を避ける必要があった。
目的の港に到着すると、男女各1人、子ども1人で4人か5人でひとまとまりとして売られる。これは実際の家族関係でないことが多い。
アメリカ独立宣言の起草者の一人であるトマス・ジェファーソンは、奴隷制を肯定し、奴隷を厳罰化する法律をつくった。
「博物学の観点から、赤い人種と黒い人種は、肉体と精神のあらゆる完成度において白人に劣っている」とジェファーソンは書いた。
人種とは、あいまいな概念で、ほとんど無意識であるため、奴隷制よりもさらにいっそう暴力を生み、本来は筋道をつけるべき社会関係を常に攪乱する。つまり、人種は奴隷制のあとを引き継ぐとしても、奴隷制に相当するものではない。
ニグロの家族をつくること、自由労働者を再生産し定住させることは、解決不能な矛盾だ。住民の定着・増加と奴隷労働は両立しない。
奴隷制は人種差別から生まれたのではない。正確に言えば、人種差別が奴隷制に由来するものだった。
奴隷と人種との関係をふくめて、いろいろ考えさせられる本でした(難解なところも多々ありましたが...)。
(2021年12月刊。税込2970円)

2022年3月13日

輝ける闇の異端児、アルチュール・ランボー


(霧山昴)
著者 井本 元義 、 出版 書肆侃侃房

ランボー没後130年。
アルチュール・ランボーが生きたのはパリコミューンが誕生したころ。ヴィクトル・ユーゴ―も生きていた。ランボーは、コミューン兵士にもぐり込んだ。しかし、コミューン兵士のなかで、ランボーは挫折を味わった。澱んだ空気の充満する兵舎の中で、ランボーは詩を書けなかった。
1871年5月、ランボーはコミューン兵舎から逃げ出した。残った兵士たちは政府軍に虐殺された。
パリの詩人たちの前でランボーは自作の詩を朗読し、賞賛の歓声を受けた。ポール・ヴェルレーヌの紹介だった。しかし、ランボーは誌人たちとなじめなかった。
著者は私とフランス語をともに学ぶ仲間です。先に上梓していた『ロッシュ村幻影』を大幅に修正し、再構成してまったく新しい本となり、贈呈をうけました。
アルチュールは、幼少のころから教会に反抗し、神を愚弄し憎悪していたと言われている。そして、最期のとき、アルチュールは弱りきった肉体のかすかな力で、それでも必死の力で反抗した。何のために己は存在して生きてきたのか。俺は神を信じない。しかし、神が存在するなら、それを激しく憎む。そして、己の存在をも憎む。しかし、司祭は、アルチュールの中に深い信仰心を見た。
なかなか不可解なやりとりです。これが神への信仰の本質なのでしょうか...。宗教心の乏しい私には理解できません。
(2022年1月刊。税込1650円)

2021年12月21日

私はイスラム教徒でフェミニスト


(霧山昴)
著者 ナディア・エル・ブガ 、 出版 白水社

それは、二人だけで楽しむ大人のゲーム。子どもたちの目の届かないところ、二人だけの世界で、自分たちのセクシュアリティをつくりあげていく。このゲームに敗者はいない。そう、夫婦のセックスのことです。
厳格なムスリムと同じように、正統派のユダヤ教徒も肌に触れることを性的な行為とみなしているので、男女のあいだでは握手をしない。
出産するときに多くの血を流すのでユダヤ教徒では、生理中と同じように出産後の女性もまた不浄とみなされる。男の子を生んだら7日間、女の子なら14日間は一切の性交渉が禁じられる。正統派ユダヤ教徒は、シーツに開けた穴からしか性関係を結ばない。ええーっ、ウソでしょ、そんな...、信じられません。
著者はフランスで活動しているイスラム教徒の女性です。助産師で、セクソローグで、ラジオのパーソナリティーで、2人の子をもつ母親でもあります。
イスラム教徒は、イスラムの名において女性がおとしめられ、過小評価され、抑圧され、服従させられている。著者は、このことを厳しく批判しています。
神のメッセージは明快で、精神的な自由と社会的な解放を結びつけると説き、この点でなんら男女を区別していない。精神面で、イスラムのメッセージでは男女をまったく区別していない。女性たちは自分の場所を取り戻すのに、父親や夫、兄に許可を求める必要など、まったくないのだ。コーランは、明確に一夫一妻が理想だとしている。
著者の仕事は、女性たちの選択に寄りそうこと。もちろん、イスラムの教義を敬う。けれど、教義は硬直したものではない。解釈があっての教義だ。
イスラムにおいて、女性の性欲、興奮、快楽は認められているだけでなく、好ましいものとみなされている。男性は、相手が満たされているかどうかに気を配らなければならない。
セックスは、要は楽しむこと。これが著者の考え。
イスラムの女性がスカーフを被るのは、イスラムの教義にとっても信仰にとっても、それほど重要な位置を占めているものではない。著者がスカーフを被っているのは、自分の意思によるもので、被らされているのではない。自分の意思で選択しただけのこと。スカーフは、信仰の道具の一つなのだ。
若者に向けてラジオで性のことを率直に語るイスラム教徒の女性であり、セクソローグ(性科学医)の本です。いったい日本にもセクソローグって存在しているのでしょうか...。
大胆かつ有益な、よりよい生き方を示す大切な本だと思いました。
(2021年9月刊。税込2420円)

2021年11月28日

サンソン回想録


(霧山昴)
著者 オノレ・ド・バルザック 、 出版 図書刊行会

フランス革命を生きた死刑執行人の物語。
サンソン家は17世紀末から19世紀半ばにかけて、6代にわたって死刑執行人をつとめた家系。経済的には豊かだったが、最後の6代目は、生活に困窮したあまり、ギロチンを質し入れてしまい、執行人を罷免された。3代目のころは、工場労働者の100倍の収入があった。
5代目のシャルル・アンリは、フランス革命期だったことから、生涯に3000人を処刑した。シャルル・アンリの直属の上司にあたる革命裁判所長フーキエ・タンヴィルが処刑されるとき、「おまえも同類なので、いずれは処刑される」と言い放ったが、サンソンを死刑にしろという声はおきなかった。というのも裁判の審理にはまったく関与しておらず、受刑者に対して、できる限りの温かい配慮をしてきたことが広く知られていたからだろう。
バルザックは、死刑制度は人間の本性に反するものなので、廃止されるべきだと繰り返し述べた。
国をあげて死刑制度を維持しているのはG7のなかで日本のみ。遅れすぎですね...。
サンソンは、次のように言った。
「あらゆる人生のなかで最悪なのは、常に自分自身を忘れるように追い込まれる人生である。これが社会が私サンソンに用意した状態なのだ」
サンソン一族は、イタリアから渡来したのではなく、ノルマンディー地方の出が定説。
当時、拷問は「問い質し」と呼ばれていた。
このころ親殺しは死刑と決まっていた。ところが、その処刑に先立って手首が切断された。この慣例は、直接に悪事を働いた部位をまず罰するという考え方による。革命期に一時廃止されたが、ナポレオン時代に復活1832年の刑法改正まで続いた。
私は国家の刑罰制度としての死刑は廃止すべきだと考えています。
(2020年10月刊。税込2640円)

2021年10月27日

ナチスが恐れた義足の女スパイ


(霧山昴)
著者 ソニア・パーネル 、 出版 中央公論新社

アメリカ人がイギリスに協力してナチス統治下のフランスに潜入してスパイとして大活躍していたという実録ものです。その名は、ヴァージニア・ホール。伝説の諜報部員ですし、戦後まで奇跡的に生きのびて栄誉も受けているのですが、一般に広く知られているとは言えません。それには、フランスのレジスタンス運動内部の対立、そしてイギリスから派遣された工作員同士でも、やっかみと足のひっぱりあいがあったことも影響しているようです。
スパイ(特殊工作員)として行動するには信頼できる協力者を獲得しなければいけませんが、信頼できる相手と思って頼っていると、ドイツ側との二重スパイだったりするのです。ほんのちょっとした油断が生命を失うことに直結してしまう、あまりに苛酷な世界です。フツーの人だったら、神経がすり減ってしまいます。
そして、スパイをして入手した情報をイギリスに報告できたとしても、その情報を受けとって評価し、対応する側がきちんとしないと意味がありません。たとえば、戦前の日本にナチス党員を装って潜入したソ連赤軍スパイのゾルゲの場合には、せっかくの貴重な情報をスターリンはあまり重視しなかったという話もあります。こうなると、まったく猫に小判ではありませんが、宝のもち腐れです。
でも、ヴァージニア・ホールの場合には、イギリスの特殊作戦執行部(SOE)からは、幸いにも高く評価され、求めた軍需物資やお金、そして薬などが大量に飛行機で運ばれフランスに投下されたとのこと。
そのとき一番必要なのは無線機でした。ですから、この無線機をめぐっては、、ナチス側も無線探知車を使って発信元を必死で探りあて、イギリスから送り込まれた多くの無線技士がナチスに捕まり、死に至ったそうです。
ヴァージニア・ホールがフランスに潜入した当時のフランスは、ドイツが北半分を占領したばかりで、フランス人はあきらめムード、そしてイギリスもどうせそのうちドイツに降伏するだろうという冷ややかなあきらめムード一杯で、とてもレジスタンスなんて無理という雰囲気だったとのこと。なるほど、ですね。フランスがドイツに占領された直後からフランス人がずっとずっとレジスタンスをしていたのではないようです。
フランスのある地方では、住民の少なくとも1割が直接ドイツのために働いていて、密告したらもらえる賞金(上限10万フラン)を得ようとレジスタンスの位置情報を売っていた。フランス解放のために命をかけようとする住民は、せいぜい2%しかいなかった。ところが、連合軍のノルマンディー上陸作戦が近づいたころになると、フランス全土で武器をもってレジスタンスが立ち上がっていた。やはり、そのときどきの情勢が、こんなに国民を動かすのに違いが出てくるのですね。今の日本をみていると、ナチス占領当初のフランスのように思えてなりません。やがて、日本だって、きっと多くの日本人が目をさまして立ち上がってくれるだろうと心から祈るように願っています。
秘密の生活を送るということは、一瞬たりともリラックスできないということであり、常にもっともらしい説明を考えていなければならなかった。生きのびた人々には、生まれながらの狡猾(こうかつ)さと、高度に発達した第六感が備わっていた。
ヴァージニア・ホールはモーザック収容所から12人もの収容者を脱走させることに成功しました。この収容所は私も行ったことのあるベルジュラック近郊にあるようです。私は、サンテミリオンのホテルに3泊したとき、かの有名なシラノ・べルジュラックの町へ列車に乗って出かけたのです。
収容所に差し入れたイワシの缶詰は、再利用可能な金属になる。ドアのカギの型をとるのには、パンを使う。車椅子の年老いた神父を慰問のため収容所に入れたとき、その神父は衣服の下に無線機(送信機)を入れて持ち込んだ。さらに、収容所の衛兵を買収し、また反ナチス運動にひっぱり込んだ。そして、最後はアルコールに睡眠薬を混入して、衛兵を眠り込ませ、ついに収容所から12人が脱走。もちろん、受け皿の隠れ家も用意していて、そこに2週間ほど潜伏したあと、無事に国外へ脱走できた。いやはや、たいしたものです。
ヴァージニア・ホールの最良の協力者の一人は、娼婦の館の経営者である女性でした。娼婦たちも、ナチス軍の情報を集めて協力したのです。残念ながら、これは、戦後、あまり評価されることはありませんでした。
370頁の大作をじっくり味わい尽くしました。それにしても、私にはスパイ稼業なんて、とてもつとまりそうにありません。拷問されたら、いちころで「転向」してしまうでしょうし、あれこれ「自白」してしまうでしょう。なので、必要以上のことは知らないようにしているつもりなのです...。
(2020年5月刊。税込2970円)

2021年10月 8日

ドレフュス事件


(霧山昴)
著者 アラン・パジェス 、 出版 法制大学出版局

1894年10月、ドレフュス大尉が逮捕された。これがドレフュス事件の始まり。ドレフュスは、ユダヤ人の軍人。ドイツにフランスの軍事機密を売り渡していたという容疑。ドレフュスは3回、軍事裁判で有罪を宣告された。ドレフュスを弁護して、「私は告発する」を新聞紙上で大々的に書いたエミール・ゾラも有罪となった。ところが、真犯人の士官エステラジーのほうは、あとで逮捕されたが、軍法会議で無罪となり、イギリスへ逃げた。
ドレフュスは有罪となり、陸軍士官学校の校庭で公に軍籍を剥奪され、仏領ギアナの悪魔島に送られた。
真犯人を突きとめたピカール少佐(やがて中佐)は、解任されてチュニジアへ左遷された。その後任のアンリ少佐(これまた中佐に昇任)は、ドレフュス有罪の証拠をねつ造。それがバレて、独房で自殺した。
このころ、パリ市内には、「気送速達」というシステムがあったそうです。市内の地下にある下水道を利用して、気送管の中に薄い便せんか葉書を瞬時に送ることができました。こんなことがあったなんて、知りませんでした。
ドレフュスを有罪とした「証拠」である書面について、筆跡鑑定がなされました。私は今でも筆跡鑑定は科学的な根拠に乏しいと考えていますが、この当時は、まかり通っていたようです。
ある鑑定士はドレフュスの筆跡ではないが、それはドレフュスが故意に自分が書いているのに、自分が書いたものではないと思わせるようにしたからだ、なんて、とんでもない鑑定書を書いて、それが採用されたというのです。これでは、まるで神がかりのようなマンガです。
ドレフュスは悪魔島で快適に過ごしている、食事も専用の献立が準備されているという、見てきたかのようなキャンペーンがはられた。真実は、地面にアリやクモがはいまわるような小屋に閉じ込められ、散歩なし、足には鉄の輪をはめてベッドにしばりつけられていた。
真犯人のエステラジー少佐は、その日暮らし、たくさんの借金をかかえて追い詰められ、ドイツ大使館にいくらかの軍事情報を売って苦境を脱しようと考えた。亡命先のイギリスでは「伯爵」と名乗っていたが、貧窮の末に亡くなった。
ドレフュス有罪を叫び続けた側は、「ユダヤ組合」説を考え出した。お金持ちのユダヤ人たちは、彼らと同じユダヤ人裏切り者ドレフュスの無罪放免を得るため、莫大な資金をつかって国際的な組合をつくっているというもの。
昔も今も、ユダヤ人の陰謀、国際的謀議が展開されるのですね。
反ユダヤ主義は、今でも根深いものがありますが、これって、やはり日頃の生活のうっぷん晴らし、またユダヤ人の財産をとりあげて毎日の苦しい生活を少しでも楽にしようという発想から、間違った(事実誤認の)考えに毒されて、自己の行為を正当化するものです。
ドレフュス事件は、10年以上もフランスの世論を二分して激しく議論が展開されたのでした。この本は昔の本の復刻版ではありません。
(2021年6月刊。税込3740円)

2021年8月19日

テンプル騎士団全史


(霧山昴)
著者 ダン・ジョーンズ 、 出版 河出書房新社

神の教えと剣(つるぎ)に生きた男たち。巡礼者でありながら戦士。貧者でありながら銀行家。それがテンプル騎士。
テンプル騎士団は、11世紀から14世紀にかけて、中世ヨーロッパと聖地に存在していた多くの修道会の一つ。知名度の高さは群を抜いていて、どの修道会よりも物議をかもした。
テンプル騎士団の設立は1119年。当初こそ貧しかったものの、やがて国王や教皇らと親しい関係を築いた。戦費調達を助け、国王の身柄解放のためのお金を貸し付け、王国政府の財務管理を請け負い、徴税し、城塞を建設し、町を治め、軍隊を訓練し、貿易摩擦に介入し、ほかの騎士修道会と暗闘をくり広げ、政治的な抹殺もいとわず、特定の者を王位につける手助けもした。当初こそ貧しかったものの、テンプル騎士団は、ついに強大な組織となり、中世後期まで存続した。
14世紀はじめ、突如、テンプル騎士団の総長以下が逮捕された。男色と異端の温床として迫害され、拷問を受け、見せしめの裁判にかけられ、自白させられ、集団で総長以下は火あぶりの刑に処せられた。そして、テンプル騎士団の全財産が没収された。
1307年10月から11月にかけて、フランス王フィリップ4世の命令によってジャックド・モレー総長以下、数百名のテンプル騎士団のメンバーが逮捕され、容赦ない拷問にかけられた。テンプル騎士団に入団するとき、背中やへそに口づけし、三度キリストを否認し、十字架に唾棄する。これを自白させられた。テンプル騎士団のメンバーは拷問に耐えられず、とりあえず自白し、教皇の赦しを得ようと考えた。
ところが、当初はフランス王の強引さを嫌っていた教皇も、自白による証拠をたっぷり見せつけられ、ついにテンプル騎士団を有罪と信じるようになり、フランス王の要求を受け入れても仕方ないと考えるようになった。こうやって、テンプル騎士団の逮捕されたメンバーは、1307年から3分の1が耐えられずに5年内に死亡した。
テンプル騎士団は無罪だという陳情が始まると、フィリップ4世は、急いで54人を火あぶりの刑に処した。すると、それを見て、恐怖のあまり、たちまち陳情団のメンバーは腰くだけになった。
人間は拷問に弱いものです。フィリップ4世はテンプル騎士団を亡きものにし、その全財産の没収を図った、つまり明らかな冤罪事件だったのです。
テンプル騎士団の残った全財産は聖ヨハネ騎士団に譲渡されたというのですが、フィリップ4世が損したはずはありません。テンプル騎士団を抹殺したフィリップ4世は同じ1314年、わずか46歳で亡くなり、フィリップ4世のに逆らえなかった教皇のクレメンス5世も病気で亡くなった。
テンプル騎士団は聖地回復を目ざす十字軍の戦闘のなかで目ざましい役割を果たした。テンプル騎士たちは、「人を殺すなかれ」ではなく、キリスト教の敵を殺すこと(殺人)が認められていた。
博愛主義をモットーとしているはずの宗教が異なる宗教の信徒を殺してもいいとしていること、さらには、同じキリスト教であってもカトリックとプロテスタント同士で平気で殺しあってきたことを知るにつけ、どうしても私はキリスト教を信じることができません。
テンプル騎士団の総長は選挙で選出されていた。これはローマ教皇と同じですね。
イスラム教徒の戦術は長い年月をかけて磨かれ、電光石火の奇襲を得意としていた。丸兜をかぶり、腰に矢羽の入った矢筒をぶら下げた騎兵が突然あらわれ、突進してくる。ぎりぎりまで近づいたかと思うと、馬の手綱を引き、ぐるりと回って、退却しながら矢を一斉に放つ。相手は不意打ちを受け、血を流し、混乱に陥る。こうした攻撃が波のように押し寄せ、騎兵たちは矢羽を雨あられのように降らせたかと思うと姿を消し、馬を代えて、新たな攻撃をしかけに戻ってくる。
400キログラムほどの軍馬を、片手が手をつかわず見事に操り、疾走する馬の上から重たい弓を引き、非常なまでの正確さで、敵の馬の首や頭、わき腹など、あちこちに狙いをつけて放つ。機動性の高い小グループで行動し、次々と押し寄せて敵に一息つく間も与えない。至近距離での戦闘では、矢を背中に吊り下げて剣を振るい、槍を突き刺す。
これに対して重要なことは、奇襲に遭遇しても、規律を乱さず反撃に出ること。当初の十字軍は、これが出来なかったようです。
テンプル騎士団は軍事能力と諜報能力を駆使し、イスラム教徒の軍団、そしてモンゴル軍団と互角に戦ったようです。しかし、その戦闘は無慈悲なもの。負けたら殺されるか、捕虜は奴隷として売られるか...。
本文のみで440頁という部厚い本ですが、この有名な騎士団の顛末(てんまつ)を知りたくて夏休みに一気読みしました。最後まで当初の期待が裏切られることはありませんでした。
(2021年4月刊。税込5390円)

 梅雨のようなお盆でした。雨がやんだとき庭に出て少し雑草を抜きました。カボチャのツルが伸びているのをひっぱったら、雑草の中から大きなカボチャがころがり出てきました。これは植えたのではありません。生ゴミを庭に埋めたところタネから自生したのです。放っておいたら、ぐんぐんツルを伸ばしていきました。実は、四方にツルが伸びていたので、カボチャがゴロゴロとれるかなとは思っていました。
 さて、問題は味のほうです。前に、自生したスイカを食べたら、形も色もスイカなのに、ちっとも甘くないということがありました。今度のカボチャは、まあまあの味で、ほっとしました。でも、最近のカボチャって、すごく甘いですよね。それに比べると甘さが足りませんが、文句は言えません。
 今、サツマイモの葉が茂っています。秋が楽しみです。

2021年4月 3日

フランス人の私が日本のアニメで育ったらこうなった


(霧山昴)
著者 エルザ・ブランツ 、 出版 Du Books

久しくフランに行っていませんが、10年前までは、毎年夏になるとフランスに1~2週間は行っていました。最大40日間(40代初め)、そして還暦前祝いで2週間、南仏めぐりをしました。そのとき驚いたのは、パリではなく地方の都市にマンガ本専門の店があることです。マンガ本というのは、まさしく日本のマンガ本です。もちろんセリフはフランス語です。ワインのうんちくを傾けた有名なマンガ本(名前をド忘れしてしまいました)は、私にとってフランス語の勉強になりますので、すぐに購入しました。
最近、NHKラジオのフランス語教室(応用編)でドロテという女性が日本のマンガ、アニメを紹介していると放送していましたが、この本にもドロテが登場するのです。
この本の著者はフランス人女性のマンガ家です。なるほど絵はまったく日本のマンガそのもので、何の違和感もありません。著者の夫もマンガ家だそうです。とてもカッコ良く描かれています(もちろん、本人も...)。
好きなマンガ家は高橋留美子だとのことです。フランスで人気ナンバーワンといいますが、私は読んだ覚えがありません。
著者は、まったく日本のマンガに毒されてしまった、夢見る乙女だったようです。13歳のとき、すでに将来はマンガ家になると親に宣言したというのです。それを実現したのですから、すごいです。
フランスのコミック市場は、2018年に600億円。日本は4414億円。フランスの年間総売上部数4400万部のうち1700万部は日本マンガ。フランスで売られるコミックの4割近くは日本のマンガ。
いまフランスで人気があるのは、「ワンピース」や「進撃の巨人」など。少年向けのコミックが人気。そして著者のように、フランスで日本流のマンガを描く人も数多く出ている。
著者は池田理代子の「ベルサイユのバラ」にもはまったようです。そして、この「ベルバラ」は、なんと実写映画化されているんですね...。知りませんでした。
著者の娘12歳も息子9歳も、マンガやゲームに夢中のようです。
「こねこのチー」(こなみかなた)がフランスの子どもに大人気なんだそうです。これまた、知りませんでした。どんなストーリー展開なのでしょうか...。フランスって、日本に次いでアニメ・マンガ大好きな国なんですね。たしかに日本のマンガの質が高いことは認めます。
「家裁の人」や「ナニワ金融道」などは弁護士にとっても必読文献だと、私は本気で真面目に考え、若い人にすすめています。
フランスを知ることにもなる面白いマンガ本でもあります。
(2019年12月刊。税込1320円)

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