弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2021年7月 2日

シルクロード全史(下)


(霧山昴)
著者 ピーター・フランコパン 、 出版 河出書房新社

17世紀から18世紀にかけてイギリスは最大級の成功をおさめたが、その理由はいくつもある。ほかのヨーロッパ諸国に比べて社会や経済の不平等が少なかったこと、最下層の労働者たちのカロリー摂取量が大陸と比べてはるかに多かったこと、経済成長にともなって労働の効率が格段に上がったこと、生活様式の変化も重要だった。
イギリスには、独創性に富む人材が多く存在した。出生率がヨーロッパの大半の国よりも低かったのは、一人あたりの収入に重大な影響を与えた。大陸に比べて、少ない人数で資源や資産を分けることができた。そして最強の切り札は、海に取り囲まれているという地理的条件。守るべき陸上の国境がないため、イギリス軍事費は、大陸の国々に比べて非常に低く抑えることができた。
第二次世界大戦の前、イギリスは戦争という脅しでドイツを牽制し、東の隣国への攻撃をふみとどまらせようとした。ところが、ヒトラーは、最強の手札が配られたと瞬時に判断した。それは並はずれた度胸が必要なゲームだった。
1932年に、ソ連の輸入品の50%近くがドイツからだった。それが6年後には、5%以下にまで落ち込んだ。スターリンとヒトラーの利害が一致したのは、ポーランドを分けあうということだった。スターリンは、すでに「ポーランド軍事組織のスパイ網の一掃」を名目に、ポーランドの内政に干渉し、数万人を逮捕し、5分の4以上は銃殺していた。
ソ連社会は、スターリンの圧制の下、数年間にわたって自滅の道を突きすすんでいた。
1917年の革命の英雄たちをはじめとする大勢の人々が、ヴィシンスキー検察官の下で、ファシストの犬、テロリスト、ならず者、害虫などと罵(ののし)られ、そして殺された。知識人や文化人が虐(しいた)げられた。101人の軍高官のうち、10人を残して全員が逮捕された。91人のうち9人以外は銃殺された。このなかには5人の元帥のうちの3人、大将2人、空軍幹部全員、各軍管区のすべての長、ほぼすべての師団長が含まれていた。赤軍は崩壊した。この状況のなかでスターリンには一息つく時間が必要だった。ヒトラー・ドイツの不可侵条約の提案は天の恵みだった。
なあるほど、そういうことだったのですか...。
一方のヒトラーにとって、最大の弱みは国内の農業だった。ドイツは食糧自給ができないため、輸入に大きく頼っていた。餓死する国民をひとりも出さないためには、ウクライナの穀倉地帯が「必要」なのだ。ロシア南部とウクライナの農業は、急成長していた。
ヘルベルト・バッケはヒトラーに対して、カギはウクライナにあると強調した。ゲッペルスも、ソ連を攻撃する狙いが小麦とその他の穀物を中心とする資源であると理解していた。戦争の開始は、穀物とパンのためであり、豊富な朝食と昼食、夕食のためだと明言した。目ざすべきは、ドイツとヨーロッパのすべての人々を養ってあまりまるほどの、黄金の小麦がゆらめく東の広大な農地の占領だった。
切迫した現実があった。ドイツでは、食糧をはじめとする必需品が急激に不足していた。ソ連からの穀物輸送だけでは、慢性的な供給不足を解消できなかった。1941年の夏には、ベルリンの店は品薄で、野菜が売られている店はめったに見かけないとゲッペルスは日記に書いた。ドイツ民族が食べていくためには、数百万人が餓死することは避けられない。次のようにナチスの内部文書に明記された。
「すべてはソ連南部の小麦畑の獲得にかかっている」
ソ連侵略の前に出された、ヒトラー・ナチスの軍隊の内部指令は次のとおりだった。
「完膚なきまでに、敵を全滅させる。あらゆる行動において、鉄の意思をもって、無慈悲かつ徹底的であらねばならない」
スラブ民族への侮蔑、ポルシェビズム(共産主義)への憎悪、そして反ユダヤ主義で一貫していた。
ヒトラー・ナチスがソ連領内に進攻する徴候はたくさんあり、スターリンに届いていた。しかし、スターリンは、まだヒトラーが牙をむく段階には至っていないと、ひとり合点していた。
チモシェンコ元帥(国防人民委員)、ジューコフ将軍(ノモンハン事件のときのソ連軍最高司令官)の二人が、ドイツへの先制攻撃を提案したとき、スターリンは、「頭がおかしくなったのか」と言ってとりあわなかった。
ドイツ軍はソ連領土内に侵攻して華々しい成果をあげた。しかし、それも束の間、今では必要な量の食糧すら確保できなくなっていた。
大量のロシア人捕虜が餓死したのは、ナチス・ドイツの自国民優先(ファースト)からだった。
スターリンのソ連には、やがて、ロンドンとワシントンから、戦車や航空機、兵器そして物資が投入されるようになった。流れが決定的に変わったのは、1942年の夏、ドイツ軍のロンメルが、アフリカ北部のエル・アラメインで大敗したこと。スターリングラードでも、1942年秋にはドイツ軍が苦境に立たされていた。
イランの共産化を阻止するため、アメリカのCIAは、イランの各方面に気前よく大金をばらまいた。イランの武器のほとんどは、アメリカの防衛産業から購入されている。まさしく、他人の殺しを金もうけのために利用しているわけ...。ああ、嫌ですね、嫌です。よく調べてあることに驚嘆しました。大変勉強になりました。
(2020年11月刊。税込3960円)

2020年10月24日

モーツァルトは「アマデウス」ではない


(霧山昴)
著者 石井 宏 、 出版 集英社新書

生前のモーツァルトの名前はアマデウスであったことはないし、アマデウスと呼ばれたこともない。モーツァルトが自らをアマデウスと名乗ったことは一度もない。
アマデウスとは神の愛を意味する。
晩年のモーツァルトは、故郷もなく(ザルツブルグを嫌い、また嫌われていた)、ウィーンを脱出することもかなわず、父には敵対視され、最愛だった姉にも嫌われ、妻にも背かれて、帰るねぐらがなかった。
モーツァルトの栄光は、アマデーオという名前と共にあった。モーツァルトは、「ぼくは、もうあまり長く生きられない感じがしている。まちがいなく、ぼくは毒を盛られたのだ」と手紙に書いた。
そして、例のサリエリは、その32年後、精神病院に入っていて自殺を図り、自分がモーツァルトを毒殺したと「告白」した。しかし、モーツァルトの死のとき、サリエリはすでに宮廷楽長に昇進しており、この地位は終身職だったから、その身は安泰であり、今さらモーツァルトに焼きもちを焼いたり、狙ったりする必要はなかった。
モーツァルトは、まだ字も読めないうちに音譜を読み、単音はもとより和音も正確に聴き分ける絶対的音感をいつのまにか身につけ、さらにどんな音楽も簡単に覚えてしまう超絶的な記憶力を生まれもっていた。また、すらすらと自在に作曲する天賦の才能まで備えていることを父親は発見した。
モーツァルトは文字どおり生まれつきの天才音楽家だったのですね...。
モーツァルトの短い一生でどんなことが起きていたのかを知ることのできる新書です。
(2020年2月刊。880円+税)

2020年1月18日

戦場のコックたち


(霧山昴)
著者 深緑 野分 、 出版  創元推理文庫

ノルマンディー上陸作戦に参加したアメリカ陸軍のパラシュート歩兵連隊を舞台とする戦争物語です。著者は、まだ若い(36歳)日本人なのに、ノルマンディー上陸作戦をめぐる作戦過程が実によく描写されています。たいしたものです。実は、前の『ベルリンは晴れているか』も同じように細部まで迫真の描写でしたが、私には、いささか違和感がありました。本書の方は、すっと感情移入できたのですが、この両者の違いがどこから来るのか、よく説明できません。
ノルマンディー上陸作戦といっても、主人公は海から攻める部隊ではなく、パラシュート部隊ですので、空からフランスに降下してドイツ軍と戦うのです。
そして、主人公は最前線で機関銃を構えるのではなく、後方で管理部の下で調理するコックなのです。配給品が消えてなくなる謎ときをしたり、失敗に終わったマーケットガーデン作戦に参加して惨々な目にあったりします。
その描写が実にうまいのです。まるで従軍していたかのように話が展開していきます。
そして、ドイツ軍の最後の反撃、アルデンヌの戦いに巻き込まれていくのでした。
さらに、ユダヤ人を強制収容していた絶滅収容所にも出くわすのです。
ノルマンディー上陸作戦に参加したアメリカの若い兵士の気分をよくつかんでいるなと思いながら、500頁をこす大部な文庫本に没頭したのでした。
(2019年8月刊。980円+税)

2019年8月 6日

敗北者たち

(霧山昴)
著者 ローベルト・ゲルヴァルト 、 出版  みすず書房

第一次世界大戦と、それが終わったあとのヨーロッパの状況を詳しく紹介しています。
第一次世界大戦では1000万人近くが死亡し、2000万人以上が負傷した。そして、そのあとに暴力的な激変が続いた。その凄惨な殺戮(さつりく)の様子が読んでいて気分が悪くなるほど語られていて、人間の狂気はこんなにまで落ちるものかとおぞましく、絶望感すら覚えます。京都のアニメーション会社での大量殺人事件を一気に拡大した感があります。
ロシア革命に至るとき、ケレンスキーは、軍の最高司令官であるコルニーロフ将軍から革命を「守る」ために、ギリシェヴィキの助けを借りた。ボリシェヴィキの指導者たちを監獄から解放し、武器と弾薬を与えた。このとき、ちょうど組織づくりの天才であるトロツキーが亡命先のアメリカから帰還したこともボリシェヴィキに有利に働いた。レーニンは土地の国有化とあわせて、戦争からの撤退を公約として、国民の好評を博した。
第一次大戦においてドイツ軍は初期こそ華々しく勝利したものの、援軍がなく、無理に無理を重ね、病気と攻勢による大損失で弱体化してしまった。形勢がドイツの不利に転じたことが明白になると、兵士の士気も民間人の戦意も、急激に低下した。
ロシア内戦は、300万人以上の命を奪うという規模と激しさだった。
食糧供給の危機を打開するため、レーニンは銃をつきつけた食糧徴発を断行した。名の知れたクラーク、富裕者を少なくとも100人は絞首刑にせよ(必ず吊るせ、民衆に見えるように)というのがレーニンの指令だった。
いかに内戦時であったとしても、これはいけませんよね。
もっとも、レーニンの赤軍兵が敗退したときには、公開での絞首刑があり、捕虜になった赤軍兵士は生きたまま焼かれた。このような状況も一方ではあったのでした・・・。
1919年7月16日、捕えられていたツァーリの一家は地下室で全員が殺害された。レーニンの指令による。
ロシア内戦で赤軍が勝利したのは、ボリシェヴィキの悪のほうが白軍という悪よりもましだというのがロシア国民の大方の見方となったことによる。
ローザ・ルクセンブルグは、1871年に棄教したユダヤ人材木商の末娘として生まれた。
ミュンヘンは、ヴァイマル・ドイツのどこよりも強固にナショナリスティックで、反ボリシェヴィキ的な都市だった。そして、このバイエルンの首都はナチズム誕生の地となった。
ムッソリーニは、第一次大戦前は、名うての社会主義者だったが、急進的ナショナリストに転向した。ムッソリーニは戦線で負傷したのではなく、梅毒にかかっていた。
ヒトラーは、しがない税関役人の息子であり、バイエルン軍の伝令兵として西部戦線に従軍し、上等兵(伍長は誤り)として退役した。ヒトラーは社会主義に関心をもったことがあったが、すぐに極右に「転向」した。
ヴェルサイユ条約によってドイツ陸軍は最大で10万人、そのうえ戦車や軍用機、潜水艦の保有は禁止された。また、海軍は、1万5000人に削減され、大型軍艦の新建設も禁止された。丸腰にされたも同然である。
ドイツ軍は、第二次大戦のとき、惨憺たる敗戦を迎えるまで、無益な戦闘を続け、そのため戦争の最期の3ヶ月間で150万人もの兵士が戦死した。
日本が満州によって中国を支配することになったとき、それについてヨーロッパ各国が激しく抗議することがなかったことから、イタリアのムッソリーニは、日本と同じことを真似するようにした。
第二次世界大戦の始まった状況を見るときに忘れてはいけないのが、その前の第一次世界大戦の状況だということがよく分かり、私には、とても興味深い記述でした。
400頁もある、ぎっしり詰まった本格的な歴史書です。
(2019年2月刊。5200円+税)

2018年9月 5日

ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅(下)

(霧山昴)
著者 ラウル・ヒルバーグ 、 出版  柏書房

この下巻だけでも、上下2段組みで420頁超という大著です。
著者は1926年にオーストリア・ウィーンで生まれたユダヤ人で、アメリカに脱出し、アメリカ兵としてヨーロッパ戦線に出かけ、戦後はドイツにおけるアメリカ軍の尋問担当教授でした。その後、アメリカのコロンビア大学で学び、ヴァーモント大学で政治学を教えています。この本の初版は1961年に刊行されました。
著者は、ハンナ・アーレントより前にユダヤ人の無抵抗・文書や口頭による請願のほかは危機的に服従するだけというユダヤ人のとった態度を強調していた。
ユダヤ人評議会がゲットーを存続させるために行ったあらゆることは、結局のところ、ドイツ人をユダヤ人絶滅という目標に近づけることを助けた、と指摘した。
600万人ものユダヤ人がなぜヒトラー・ナチスに抵抗せずに、易々と羊のように殺されていったのか・・・。
何世紀にもわたって、ユダヤ人は生き残るためには抵抗を避けなければならないと学んできた。繰り返し、彼らは、攻撃を受けた。十字軍、コサックの襲撃、ツァーリの迫害などを耐え忍んだ。このような危機の時代には、多数の犠牲者が出たが、潮が引いたあとにあらわれる岩礁のように、常にユダヤ人の共同体は再生した。つまり、ユダヤ人を抹殺することはできない。この考えが律法のような力を持つほどになっていた。
2000年間に学んだことをユダヤ人は忘れることは出来なかった。考えを切り替えることが出来なかったのだ。
ユダヤ人は、「登録」、「移住」、「風呂」、「吸入」という言葉に騙された。
ユダヤ人指導者は、犠牲者たちが切迫した死に直面しているという明白な証拠がなければ、ドイツの命令を拒絶できないという主張に確執していた。
デンマークのコペンハーゲンではユダヤ人の99%以上が生き残った。
ポーランドのワルシャワはユダヤ人の99%近くが亡くなった。
ドイツ人官僚はユダヤ人絶滅のため仕事の成就に向けて突進した。最小限ではけっして満足せず、常に最大限のことを行った。
イタリア人のように口実に頼ることはしない。ハンガリー人のように見せかけの措置をとることはしない。ブルガリア人のようにぐずぐずすることもなかった。
虐殺したナチス・ドイツの側の記録では、ユダヤ人の反応パターンの特徴は、抵抗がほとんど欠落していたこと。もし、ユダヤ人が何らかの組織をもっていたら、何百万人は救われていただろう。実際には、自分たちにふりかかる災難に、これほどまでに無頓着だった民族はいないだろう。
ユダヤ人の多くは逃亡を無益だと考えていた。
ハンガリーのユダヤ人が他のほとんどの国のユダヤ人と違うところは、たんに中産階級であるというのではなく、大部分は唯一の中産階級であり、ハンガリーのすべての専門職と商業の活動の主力であったことである。1930年代のハンガリーの開業医と弁護士半分以上がユダヤ人、貿易業者とジャーナリストの3分の1がユダヤ人だった。ユダヤ人は通常の経済生活にとって真に欠くべからざる存在だった。
ブタペストには全部で3万の商店があったが、ユダヤ人の営業所は1万8千であり、その閉鎖は、「かなりの支障」をひきおこした。
ヨーロッパに住んでいた何百万人ものユダヤ人を絶滅する過程で何が起きていたのかをあますところなく実証していった画期的な労作です。
ながく積ん読く(つんどく)状態にあったのを、この猛暑のなかで、ついに完読しました。決して忘れ去ってはいけない歴史です。かのアベ君に頭を押さえつけてでも真っ先に読ませたいのですが、残念ながら無理でしょうね・・・。図書館で借りてご一読をおすすめします。
(1997年11月刊。1万9千円+税)

2018年8月28日

ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅(上)

(霧山昴)
著者 ラウル・ヒルバーグ 、 出版  柏書房

ヒトラー・ドイツによってヨーロッパのユダヤ人が絶滅されていく過程をきわめて詳細に明らかにした大部の書物の上巻です。長いあいだ課題図書として「積ん読(ど)く」状態にしていましたが、箱から取り出して読みはじめました。なにしろ上下2段組みで上巻の本文だけで515頁もありますし、内容が重すぎますので読み飛ばしも容易ではありませんでした。
ヨーロッパ各国でユダヤ人はヒトラー・ドイツの要求の下で移送・絶滅の道をたどっていったわけですが、イタリアではそうではなかったのですね。イタリアの国王は「ユダヤ人に限りない同情」を感じていると高言し、イタリアにはユダヤ人の運命に動揺している「2万人もの意気地ない人間がいる」とムッソリーニが言ったとき、国王は、「自分もその一人だ」と答えたのでした。
イタリアでは、比較的多数のユダヤ人が官吏や農民として生計を立てていた。イタリアのユダヤ人社会は、2000年の歴史をもっていた。イタリア・ユダヤ人はイタリア人の隣人と疎遠にはならなかった。彼らはイタリアの言語や文化を吸収した。小さなユダヤ人共同体が、芸術・科学・商業・政治の各分野で多くの地位の高い個人や目立った人々を生み出していた。
ユダヤ人の非常に多くが軍の教授であるばかりか、政府の最高のレベルで公僕として活動していた。首相・外相・国防相・蔵相・労働相・法相・教育相にユダヤ人が就いていた。
イタリアのファシストは、有言不実行だった。イタリア人は、心のなかでは、ドイツ人やドイツの生活様式をひどく嫌っていた。
問題はイタリアには存在しない。ユダヤ人は多くないし、例外はあるが、彼らは害にはならない。ヒトラー・ドイツはイタリアではユダヤ人絶滅を思うように進めることが出来なかった。
フランスにいたユダヤ人はイタリアのように安全ではなかった。1939年末、フランスのユダヤ人は27万人。パリだけで20万人以上のユダヤ人がいた。そして、フランス人はドイツ支配下においてユダヤ人絶滅のための「移送」を「効率良く」すすめていった。
ヒトラー・ドイツがユダヤ人絶滅する必要があるとしたときの「理由」に一つが、「ユダヤ人はコレラ菌だ」というものでした。その「伝染力と浸透力」を考えたら、絶滅するほかないとしたのです。
ヨーロッパで迫害されたユダヤ人たちは、迫害者に対する他国のユダヤ人組織による報復行動を拒絶した。それは、状況をいっそう悪化させないためだった。
なるほど、これがヒトラー・ナチスによるユダヤ人の絶滅策が粛々と進んでいった要因の一つなのですね。
ユダヤ人は暴徒が来ることを知ると、共同墓地に避難し、群がり祈りながら死者の衣服を身につけて殺害者たちを待った。屈従である。ユダヤ人にとって、反ユダヤ主義的な法令への屈従は、常に生きることと同等だった。暴力に対するユダヤ人の反応は、つねに苦難軽減への努力と屈従だった。
いやはや、これはとても理解できない反応です。
ポーランドにおけるユダヤ人評議会は、ユダヤ人の苦しみをやわらげようと、ゲットーにおえける大量死に歯止めをかけるという見込みのない努力を最後まで続けた。同時に、ユダヤ人評議会はドイツ人の要求に素直に応じたし、ドイツ人の権力者へのユダヤ人社会の恭順を呼びかけた。こうしてユダヤ人指導者たちは、ユダヤ人を救いもしたし、滅ぼしもした。
ユダヤ人のアンナ・ハーレントはユダヤ人評議会の屈徒を厳しく批判したため、戦後のユダヤ人社会から激しく非難されたのです。でも、どうなんでしょうか・・・、銃殺される寸前にユダヤ人は羊のように従順でおとなしく、ジプシーたちは騒々しく抵抗したと聞くと、無神論者の私なんか、湧き上がる疑問を抑えることができませんでした。
ゲットーのユダヤ人組織のなかでも、本部のユダヤ人たちはブーツを履いて快適な事務室で執務していたようです。また、ゲットーにも金持ちのユダヤ人たちの生活区画があったとのこと。なかなか疑問は絶えません。
ポ^ランドのワルシャワ・ゲットーにおけるユダヤ人の武力衝突は、2000年におよぶユダヤ人の服従政策の歴史のなかの突然変異だった。
ユダヤ人からなる評議会は、ドイツ政府との完全な協力という方針にすべてを賭けていた。ええっ、そんなのが「生き残る方策」としてありえたのでしょうか・・・。
なぜ、我々は黙っているのか。
なぜ、森に逃げるように叫ばないのか。
なぜ、抵抗を呼びかけないのか。
私にも、この「なぜ」は、その実行できなかった理由がとても理解できません。「2000年の屈従の歴史」と言われても・・・、という感じです。
ユダヤ人評議会のリーダーたちは、このように考えたのでしょう。
ワルシャワ・ゲットーに38万人のユダヤ人がいる。ナチス・ドイツに抵抗すると、その少数者のために多数者が犠牲になることは目に見えている。6万人を移送したとしても、38万人すべてを移送することはないだろう。では、しばらく様子見て見よう。ともかく、今は武力行動はやめておこう・・・。
そして、もう一方では、ドイツ人は報復しても、数万の命であって、まさか30万人ではないだろう、という見方もありました。現実には、このどちらも甘すぎたのでした。ユダヤ人絶滅策は、文字どおり実行されたのです。なんと難しい思考選択でしょうか・・・。
(1997年11月刊。1万9千円+税)

2017年3月15日

シリア難民

(霧山昴)
著者 パトリック・キングズレー 、 出版  ダイヤモンド社

地中海を今、史上最大の難民がオンボロ船に乗って、ヨーロッパへ渡っている。
2014年から2015年にかけて地中海をこえた人は120万人。シリア、アフガニスタン、イラクからヨーロッパをめざす人々は、2016年から2018年にかけて300万人をこえた。
2014年にイタリアに到着した難民は17万人。前年の3倍だった。
イタリアに代わって、ギリシャがヨーロッパ最大の「難民の玄関口」になった。
2015年、85万人もの人々がトルコ沿岸を出発し、その大部分がバルカン半島を北上して、北ヨーロッパの国々を目ざした。
レバノンは人口450万人という小国なのに、2015年には120万人ものシリア難民を受け入れている。レバノンに住む人の5人に1人はシリア難民となっている。
密航業者は、難民にヨーロッパ移住をすすめる極悪人とみられているが、その実態は、ヨーロッパに行きたいという人々の強い希望につけこんでボロもうけをする悪徳業者にすぎない。難民のほとんどは、自分の意思で船に乗っている。
ゾディアックというゴムボート1隻に150人ほどがすし詰めされる。定員30人ほどのボートだ。ゾディアックも木造船も大差はなく、どちらも「浮かぶ棺桶」だ。
料金を1人1000ドルとして、1隻のゾディアックに100人を乗せたら、1回の旅で10万ドルの売上となる。いろいろの経費を差し引いても、密航業者は4万ドルを手にできる。
シリア内戦が長引いて、多くの人が友人から借金し、また給料をためて資金を確保している。トルコからエーゲ海をこえてギリシャに渡る費用は1000ドル。リビアから渡る費用の半分以下だ。
シリアの人々が、なぜヨーロッパを目ざし、中東にとどまらないのか。それは、現実的ではないから。中東諸国に避難したシリア人は既に400万人。そのうち200万人はトルコ、120万人がレバノンにいる。ヨルダンに60万人。エジプトに14万人。帰る国がない人間には、失うものなんて何もない。そうなんですね・・・。
難民と移民とに区別はあるのか・・・。
難民には保護を受ける権利があるが、移民にはない。難民には故郷を逃げなければならない十分な理由があるが、移民にはない。しかし、この分類は正しくない。そして、難民と移民を見分けるのなんて簡単だというのは誤解だ。実際には、どんどん難しくなっている。両者には多くの共通点があり、人々の多くは両方にあてはまる。
イスラム教徒であろうと、キリスト教徒であろうと、ユダヤ人であろうと、そんなのは重要ではない。みんな人間なんだから・・・。
難民を門前払いすることはできない。この現実を認めることが、危機を管理するカギだ。道理にかなった長期的な対策は、莫大な数の難民を安全にヨーロッパに到達できる法的メカニズムを整備することだ。
ヨーロッパは100万人の難民を受け入れなければならない。人口450万人の小国レバノンが難民を受け入れているのに、世界でもっとも豊かな大陸(人口5億人)に出来ないはずはない。
シリア難民をつくり出したシリア内戦は、アメリカとロシア、そしてイギリスやフランスなどの軍事大国の政策的な誤りが、そのあと押しをしているのだと思います。日本だって、その一人でしょう。そうすると、欧米諸国そして日本は、そのツケを自分たちも払うしかないと私も思います。
日本は米英などの軍事行動を金銭的に支えているのですから、難民を受け入れるしかない。それがいやなら、軍事行動をやめさせるよう全力を尽くすべきだと思います。
(2016年11月刊。2000円+税)

2016年9月10日

イスラム過激派 二重スパイ

(霧山昴)
著者  モーテン・ストーム 、 出版  亜紀書房

 デンマーク生まれの白人青年が若いころ非行に走ったあげく、ある日突然回心してアッラーの教えに救いを見出し、イスラム教徒になります。そしてアフリカにまで渡ってイスラム過激派の一員として活動していくのですが、その活動にも疑問を感じて再び回心し、今度は捜査機関に協力するようになるのでした。
初めはデンマークの警察、そしてイギリス、最後はアメリカのCIAまで登場してきます。
一匹狼のような危険人物を逮捕するのには役に立つことでしょうね。でも、ウサマ・ビン・ラディンの暗殺が平和をもたらすはずもなく、もたらさなかったのと同じで、たとえアウラキー人を暗殺したところで、イスラム過激派が消えてなくなるわけではありません。
 アメリカもイギリスもお金のつかい方をまったく間違っている、私はそう思います。何人かのスパイを操作するために何千万も何億円も支出するくらいなら、砂漠の緑化作業をすすめたほうが、よほど効果的なお金のつかい方です。
 ところが、そんな大金は実はCIAをはじめとするスパイの秘密捜査に従事する人々の高額の飲み食いにまで使われているようです。なあんだ、「生命をかけて」過激派とたたかっている振りをして、自分たちも甘い汁を吸っていたのか、、、。だから、びっくりするほど高いお金をかけて要人の暗殺ごっこが止められないのですね。
CIAなどの高官も、 たまに自爆犯人に殺られてしまうことがあるわけですが、これも自分たちが無人機をつかって平気で違法な要人暗殺を次々にやっていることへの仕返しなのです。こんな暴力の連鎖こそ一刻も早く打ち切りたいものです。スパイに頼らない、平和維持活動をみんなで模索したいものですよ。
 500貢もの大作です。二重、三重スパイとして活動していた若者の無事を願わずにはいられません。
(2016年7月刊。2700円+税)

2016年1月29日

第二次世界大戦 1939-45(中)

(霧山昴)
著者  アントニー・ビーヴァ― 、 出版  白水社

 第二次世界大戦が進行していくなかで、ヨーロッパ戦線と日本を取り巻く太平洋戦線とが結びついていて、独ソ戦と独英戦も連結していたことを改めて認識しました。
よくぞここまで調べあげたものだと驚嘆するばかりです。世界大戦の激戦が、双方の陣営の動きに細かく目配りされていますので、総合的な視野でとらえることが出来ます。
1940年夏に起きた中国の百団大戦は、日本軍を震えあがらせた。それまで中共軍を見くびっていた日本軍は考えを改めされられた。
ところが、この百団大戦について、毛沢東は心中ひそかに恨んでいたというのです。日本側の支配する鉄道や鉱山に相当の打撃を与えたけれど、共産党側にも多大の犠牲を強いた作戦であり、結局、国民党に漁夫の利を得させたから。
スターリンは、毛沢東とは、日本軍という眼前の敵と戦うことより、国民党から支配する地域への蚕食にむしろ関心を示す男だと悟った。
そして毛沢東は、党内に残るソ連の影響の残滓を払拭するのに努めていた。
共産党は阿片の製造・販売に手を染めていた。1943年にソ連は、中国共産党がアヘン販売した量は4万5千キロ、6000万ドルに達するとみた。
1939年8月のノモンハン事件におけるソ連軍の勝利は、日本に「南進」政策への転換をうながし、結果的にアメリカを捲き込むうえで、一定の役割を果たしただけでなく、スターリンが在シベリアの各師団を西方に移動させ、モスクワ攻略というヒトラーの企図を挫くことにもつながった。
 独ソ不可侵条約の締結は、日本に激震を走らせ、その戦略観に多大の影響を及ぼした。日独間の相互連絡は欠如していた。日本は、ヒトラーがソ連侵攻を開始するわずか2ヶ月間に、当のスターリンと日ソ中立条約を結んだのである。
 日本は1941年12月の真珠湾攻撃を事前にドイツに伝えてはいなかった。ゲッペルス宣伝相によれば晴天の霹靂であった。ところが、この知らせを受けたヒトラーは至福の歓喜に包まれた。アメリカが日本軍の対応に忙殺されたら、太平洋戦争のせいでソ連とイギリスに送られるべき軍需物資が先細りなると期待したからだ。
 しかし、米英軍のトップは、「ジャーマン・ファースト」(まずはドイツを叩く)方針が合意されていた。これをヒトラーは知らなかった。
 1941年12月11日、ヒトラーはアメリカに宣戦布告した。ただし、ドイツ国民の多くは、宣戦布告したのはアメリカであって、ドイツではないと考えていた。ヒトラーのアメリカに対する宣戦布告は、ドイツ国防軍のトップに何ら助言を求めることなくヒトラーの独断でなされた。
 しかし、当時、ヒトラー・ドイツ軍はモスクワを目前にしながら一時的撤退を余儀なくされていた。この時期にあえてアメリカ相手の戦争を始めるというヒトラーの判断は、軽率のそしりを免れない。アメリカの工業力の凄みを一顧だにしない総統閣下に、ドイツの将軍たちはみな狼狽した。
ヒトラーはいきなり対米戦争を決断した。おかげでドイツ海軍は、いくら攻撃をしたくても、肝心のUボートが当該海域に一隻もいないという状況に陥った。
ヒトラーの反ユダヤ主義は、もはや強迫観念の域に達していた。ヒトラーは、真珠湾攻撃がアメリカの国民感情に与えた衝撃の大きさを見誤った。
アメリカで自動車を大量生産していたフォードは、1920年以降、極端な反ユダヤ主義を信奉し、ヒトラーは、フォードに勲章を贈りその肖像画を飾っていた。
ユダヤ人がガス室で流れ作業のように陸続と殺されているなんて話をドイツ市民の大半は当初信じなかった。しかし、いわゆる「最終的解決」のさまざまな局面において、多くのドイツ人が関与し、また産業界や住宅供給面で、ユダヤ人資産の没収の役得にあずかった人々があまりにも多かったため、ドイツ国民の半数には至らぬまでも、かなりの数のドイツ人が実際には今、何か進行しているのか、相当正確に把握していたことは確かである。
 衣服に必ず黄色い星印のワッペンを付けることが義務化されたときには、ユダヤ人に対してかなりの同情が寄せられた。ところが、ひとたび強制収容が始まると、ユダヤ人たちは、仲間であるはずの市民から、人間と見なされなくなっていく。ドイツ人たちは、ユダヤ人の運命をくよくよ考えなくなった。これは単に目をつぶるというより、事実の否定によほど近い行為だった。
 ドイツ人の医師たちが、ユダヤ人の死体に加工処理を施して、石鹼や皮革に再生させようとした。身の毛もよだつ真実でも、それを語るのは作家の義務である。そして、それを学ぶのは、市民たる読者の義務なのだ。
日本軍がインドネシアを占領すると、オランダ人とジャワ人の女性は日本軍のつくった慰安所に無理やり放り込まれた。慰安所での一日あたりのノルマは午前が兵士20人、午後が下土官2人、そして夜は上級将校の相手をさせられた。そうした行為を無理強いされた若い慰安婦が脱出を測ったり、非協力的だったりすると、当人はもとより両親や家族にも累が及んだ。
日本軍が強制的に性奴隷とした少女や若い女性は10万人に達すると推計されている。
 占領国の女性を日本軍将兵のための資源とする政策には、日本政府の最上層部の明確な承認があったはずである。
アメリカ陸軍は、ヨーロッパ本土でドイツ国防軍を相手として、いきなり頂上決戦にのぞむ前に、どこかで実戦経験を積んでおく必要があった。連合軍総体としても、海峡越えの侵攻をいきなり試みる前に、敵前強襲上陸作戦にどのような危険がともなうか、アフリカで具体的に学べてよかった。
 1942年11月のガダルカナル島の戦いで日本軍がアメリカ軍に惨敗した。気象条件は天と地ほども違うが、ちょうどスターリングラードの戦いと同時期だった。日本軍の無敗神話につい終焉が訪れた。太平洋戦争に心理的転換点をもたらした。
 スターリングラードの戦いにおいて勇敢なソ連軍兵士のなかでも、もっとも勇敢だったのは、若き女性のパイロットたちも若い女性兵士たちだった。彼女らは夜の魔女と呼ばれた。そして、狙撃兵にも女性兵士が活躍した。
 第二次大戦の実際を知るには必読の本だと思いながら、520頁もの大部の本を読み進めました。

(2015年7月刊。3300円+税)

2015年10月 7日

「走れ、走って逃げろ」

(霧山昴)
著者  ウーリー・オルレブ 、 出版  岩波少年文庫

 第二次大戦前、ポーランドに住んでいたユダヤ人の少年が苛酷すぎる状況を生きのびていく実話です。私は、この本を読む前に、映画『ふたつの名前を持つ少年』をみていました。
 ひとつの名前は愛を、もうひとつは勇気をくれた。
 1942年、ポーランドのワルシャワにあったゲットー、ユダヤ人の居住区から8歳の少年が逃げ出した。どこへ行けば安全なのか・・・。
 ユダヤの少年は、本当の名前スルリックからユレク・スタニャックというポーランドの名前に変える。そして、キリスト教徒らしく祈りの作法を教えてもらう。それでも、ユダヤ人の割礼は隠せない。裸になったときに、それを見せられて、通報される。そして、逃げる、逃げる。森へ逃げて、子どもたちの集団に入り、また一人きりで生きのびる。
 わずか8歳か9歳の少年が、森の中で一人きりで過ごすという状況は、信じられません。
 助けると思わせてゲシュタポ(ナチス)に連れ込む農民がいたり、重傷の少年をユダヤ人と知ると手術もせずに放置する医師がいたり、ひどい人間がいるかと思うと、なんとかして少年を助けようとする大勢の善良な人々がいるのでした。そんなこんな状況で、ついにユダヤの少年は戦後まで生きのびることができました。でも、右腕を失っていたのですが・・・。
 少年役が、ときどき表情が違うのに、違和感がありました。あとでパンフレットを買って読むと、なんと性格の異なる一卵性の双子の少年を場面に応じてつかい分けていたというのです。なーるほど、と納得できました。
 いかにも知的で可愛らしい少年ですから、本人の生きようとする努力とあわせて、視た人に助けたいと思わせたのでしょうね・・・。
 逆にそう思われなかったり、チャンスを生かせなかった無数の子どもたちが無惨にも殺されてしまったのでしょう。戦争は、いつだって不合理です。安倍首相による戦争法は本当に許せません。
 この本は、映画の原作本です。もっと詳しいことが判りますし、子ども向けになっています(団塊世代の私が読んでも面白いものですが・・・)。
 なにしろ、森の中で、どうやって生きのびろというのか、私にはとても真似できそうもありません。子どものうちに、こんな本を読んだら今の自分の生活がぜいたくすぎることを少しは反省するのでしょうか・・・?
 でも、戦争を始めるのは、いつだって大人です。子どもは、その犠牲者でしかありません。

(2015年6月刊。720円+税)

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