弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2024年3月 3日

西部戦線、異状なし


(霧山昴)
著者 レマルク 、 出版 新潮文庫

 ご承知のとおり、戦争文学の古典です。昨年(2023年)9月に75刷になっています。初版は昭和30年(1955年)9月ですから、私が小学生のころに刊行されています。前に一度読んだことがあると思うのですが、最近誰かが紹介していましたので、改めて読んでみました。
 ウクライナへのロシアの侵攻が止まらないうえに、イスラエルによるガザ地区ジェノサイドも現在進行形です。毎日、小さい胸を本当に痛めています。
 地震災害は天然自然が起こすものなので、根本的には止められず、対処法を考えるしかありません。でも、戦争は人間が始めたものですから、必ず止めることができるはずです。
 武力には武力で対抗するという考えに取りつかれている人のなんと多いことでしょう。日本の軍事予算は5兆円でも多すぎるのに、8兆円へとふくれあがってしまいました。5年間で43兆円、しかも、その内容はかの不要不急かつ未完成というか危険なオスプレイを大量購入するだけでなく、トマホークを400発もアメリカから買わされます。とんでもない税金のムダづかいです。
 戦争が始まったら、前途ある青年が大量に殺し、殺され、容易に終わらせることが出来ません。そして、戦争のかげで軍需産業とそれに結びついた自民党などの「政治屋」たちがぬれ手にアワでもうけるのです。嫌ですね、嫌ですよ...。
 兵隊がもっとも喜ぶのは、うまい食事と、休息。
 戦線に背を向けて帰ってくると、戦線の恐ろしさは消えてしまう。僕らは、戦線の恐ろしさを下等な残酷なシャレ(洒落)で茶化してしまう。軍隊新聞にも出ているような兵隊の面白いユーモアなるものは、みんな大嘘だ。ユーモアを持っていなければ、生きていられないからだ。ユーモアがなければ、僕らの体は長続きしない。
 「考えてもみろよ。俺たち、みんな貧乏人ばかりだ。敵のフランス兵だって、たいてい労働者や職人、下っぱの勤め人だ。俺は前線に来るまで、フランス人なんか一度だって見たことがない。向こうのフランス兵だって、俺たちと同じことだろう。奴らだって、俺たちと同じように、何がなんだかさっぱり知りゃしねえんだ。つまり、無我夢中で俺たちも奴らも戦争に引っぱり出された」
 「これは、戦争でトクをする人間がいるからにう違えねえな」
 「それに、将軍たちだって有名になる。戦争のおかげだ」
 「そうか、戦争の裏には、戦争でトクしようと思ってる奴が隠れてるんだな」
 僕らが兵士になったのは、感激と善良なる意思によってだ。けれども、兵士になって受けた訓練によって、僕らは心の中から、そんなものを追い出すように、あらゆる迫害を受けた。
 僕らは、戦争のおかげで、何をやろうとしてもダメにされちゃった。僕らは、もう青年ではなくなった。世界を席巻しようという意思はなくなった。僕らは世界から逃避しようとしている。
僕らは18歳だった。僕らは、仕事と努力と進歩というものから、まったく遮断されてしまった。僕らは、もうそんなものを信じてはいない。信じられるものは、ただ戦争あるのみだ。
 僕らは波に圧倒された。この波は、僕らを乗せて、僕らを残酷にし、追いはぎをさせ、人殺しをさせ、悪魔にする。
 僕らはお互いに対する感情を一切失ってしまった。僕らは他人から見ると、誰がなんだか分からなくなっている。僕らは、まったく感情のない死人になっていた。それが魔術によって、危険な魔法によって、なお走り、かつ人を殺すことが出来るのだ。
 レマルクがこの本をドイツで出版したのは1929(昭和4)年1月のこと。そして、同年のうちに日本で訳書が刊行された。これって、すごいですよね。でも、残念なことに日本は軍部ファシズム体制をつきすすんでいって破滅を迎えてしまいました。
 400頁ほどの文庫本ですが、訳文がとても読みやすくて、スイスイと、重たい内容の割には読めました。戦争の非人間的な本質を分かりやすく暴いている古典小説です。改めての一読をおすすめします。
(2023年9月刊。850円+税)

2024年1月31日

マゼラン船団、世界一周500年目の真実


(霧山昴)
著者 大野 拓司 、 出版 作品社

 マゼランはスペイン船団を率いて世界一周したことであまりにも有名ですが、マゼラン本人はポルトガル出身の航海士。39歳のときに出発し、41歳のとき戦死した。ポルトガル語では、フェルナン・デ・マガリャンイスという。
 マゼラン自身は航海の途中に、フィリピンで亡くなっているので世界一周したわけではない。残った線団員はわずか18人だった。ただし、途中で脱落した船団員17人が別に帰還したので、35人は世界一周を果たした。
 そうは言っても、マゼランが出発したとき、5船には総勢265人(237人から280人まで諸説あり)だったのですから、1割強しか世界一周を果たすことができなかったのです。5船は、いずれも中古船で、つぎはぎだらけの老朽船。
 多くの船員を襲ったのは壊血病。ビタミンGの欠乏によるもの。新鮮な野菜や果物不足によるものだが、当時は原因がまだ分かっていなかった。
 マゼランたちが目ざしたのは海外領土の獲得とスパイス(香辛料)。とりわけ珍重されたのがクローブやナツメグ。「ナツメグ1グラムは金1グラム」とまで言われるほど希少で貴重な商品だった。
 マゼランはフィリピン内部の勢力争いに自ら乗り込み、マスケット銃を2.3発ぶっ放せば地元民はたちまち四散して逃げ出すと甘く見込んで、わずか60人で敵陣に乗り込んだ。しかし、敵は1500人(3000人とも)という大群で、マゼランを集中攻撃したので、たちまちマゼランは戦死し、遺体も運び去られたまま。このときの「敵」・首長ラプラプは、今に至るまでフィリピンの「民族の英雄」として尊崇され、大きな銅像が建立されている。
 ちなみに、フィリピンは、世界に冠たる船員派遣大国。世界の商船の乗組員160万人のうち、4分の1、40万人を占めている。海運界に限ると、なんと70%もの依存率。
スペインは1998年12月アメリカに2000万ドルでフィリピンの主権を売り渡した。これは、今日の価格に換算すると680億円になる。
 著者は私と同世代、元朝日新聞記者で、マニラ支局長もつとめています。いろいろ知らないことが多くありました。
(2023年11月刊。2700円+税)

2023年12月23日

海賊たちは黄金を目指す


(霧山昴)
著者 キース・トムスン 、 出版 東京創元社

 海賊の書いていた日誌をもとに、その海賊生活を再現した異色のノンフィクションです。
 海賊7人の日誌をもとにカリブの海賊のありのままの世界を描くと本のオビにあります。
 いったい、海賊がこんなに詳しい日誌を書くものだろうかという疑問を抱きましたが、実は海賊といっても学問のある若者もいたというのです。これもまた驚きです。そして、内容は日誌というから無味乾燥かと思うと、さにあらずです。血沸き、肉踊る、海賊たちの活劇が展開していくのです。もちろん、海賊の多くは哀れな末路をたどり、しばり首になったり、早々に処刑されてしまいます。
 海賊を裁く裁判において、法廷には被告人側弁護人がいない。1696年より前は、被告人が弁護士を雇うことは禁止されていた。そのうえ、被告に不利となる証拠は裁判が始まるまで本人には伏せられていた。予備知識なしでそれに接したら、人は正直な反応を見せるというのが理由だった。
「率直で誠実な弁護」をするのに特別な技術は必要としない。もし被告人が助けを必要としたら、判事がその面倒をみることになっていた。いやあ、それはないでしょう。
 被告人が死刑に処せられるときは、「マーシャルズ・ダンス」をさせられる。特別な巻き方をしたロープを使うと、首を絞められても頸骨が折れず、海賊は首を吊られたまま絞首台で激しく暴れる。それがダンスをしているように見えることから名づけられた。うひゃあ、これって、いかにも残酷ですよね...。
 海賊は捕虜にした人間すべてに、かたっぱしから質問をぶつけるのが習いだった。生まれ故郷、都心そして地方のこと。その結果、各地の製造業、資産、防衛施設、軍事力、弱点といった情報が、いかなる諜報組織がまとめる調書にもひけを取らないほど充実する。海賊船は、いわば海に浮かぶ国政調査局なのだ。
 壊血病は、ずっと早くから医学界では認知された。皮膚がウロコ状になったり、病斑が浮き出たりする病気で、船乗りたちが一度に数カ月もの長旅に出るようになった15世紀から発症した。崗や船の難破そして戦闘人上に、この病気で命を落とす人々が多かった。その治療に柑橘類が有効だとイギリス海軍が突きとめたのは1796年のこと。それからは船旅をする人は、ライム果汁に1.5オンスの砂糖で甘味をつけたものを毎日とるようになった。
 スペイン人という共通の敵を前にして、イングランド人から成る海賊たちと、現地のクナ族とが手を結んだ。ジャングル内の道なき道を進んでいくとき、お互いに疑心暗鬼に陥っていた。ひょっとして現地民のクナ族はスペイン人に引き渡そうとしているのではないか...。
しかし、クナ族の王は、海賊の力を借りて、スペイン人に連れさられた自分たちの娘(プリンセス)を奪還しようとしていた。実は、娘とスペイン人は相思相愛の関係だった...。
海賊たちのモットーは、「短いながらも愉快な人生」というもので、「絞首刑になるために生まれてきた」という本のタイトルどおりの人生だった。
陸(おか)の厳格な階級社会とは異なり、海賊の暮らしは平等主義が基本。船長の選出や罷免は投票によって民主的に決められる。
遠征に出発するときには、契約書が作成され、そこには「労働災害」に対する補償まで細かく定められていた。
海賊船には船医が乗っていた。船医がいないときには船大工が船医を代行する。
この本は、1680年から1682年までの2年間の海賊の生活を明らかにしている。詳しい日誌を書いた1人は、優秀な数学者であり航海士だ。英語、ラテン語そしてフランス語を流暢に託した(リングロース、27歳)。もう1人は、28歳の博物学者(ウィリアム・ダンロア)。
船員雇用契約書には、武器を常にきれいに保ち、いつでも戦闘にのぞむ用意をととのえていない者は捕獲物の取り分を失うとともに、船長や仲間の決める懲罰を受ける。敵船に乗り込む仲間の援護射撃が必要なときに銃のぜんまいがさびて撃てなかったら、その者はただではすまないと明記されていた。
報酬に関しては、「犠牲なくして報酬なし」と定められていた。まずは船医や船大工という技術職にその職能にみあった報酬を渡し、残ったものを、みんなで山分けする。船長や上級船員は、その階級にあわせて追加報酬があった。
そして、「労働災害」で左腕を失った者は奴隷5人、右腕を失ったら奴隷6人を受け取ることになっている。
ジャマイカで船に乗っていた海賊17人が副総督モーガンの邸宅に招待され、豪華な夕食をとることになった。そして、モーガンは、彼らの武勇伝を熱心に耳を傾け、聞き入った。海賊たちは、酔って、いい気分になって次から次へ武勇伝を語り出した。そして、翌朝、全員が手錠をかけられて海事裁判所へ連行された。判事席にはモーガンがすわっていて、ただちに有罪を宣告し、その日のうちに全員が処刑された。
こんな話って、本当に実話なのでしょうか...。まあ、ともかく、海賊の実態を知ることのできる本として、最後までドキドキしながら仏検(フランス語の試験)のあと、素速く読み通しました。
(2023年7月刊。2700円+税)

2023年11月10日

アントンが飛ばした鳩


(霧山昴)
著者 バーナード・ゴットフリード 、 出版 白水社

 ポーランドに住むユダヤ人が、ゲットーに入れられ、強制収容所に入れられながらも生きのびることが出来ました。それは幸運だったことによりますが、写真技術を身につけていた点も有利に働きました。
この本がとても読みやすいのは、30扁のショートストーリーから成りたっているということです。そして、一つ一つの物語が関連して大きな流れとなっていくのですが、全体としては、7歳のユダヤ人の子どもが世の中の大きな流れのなかで、ひとつひとつにぶつかって考えていく様子がとても素直に描かれていて、感情移入が容易なのです。
 子どもだって、状況によっては嘘をつくしかない場合もある。要求の多い、不公平な大人の世界とうまくやっていかなければならないのだから。子どもだって自分で自分を守るため、その場しのぎをしなくてはいけないんだ...。
 7歳のとき親がバイオリンを習わせようと決めた。7歳では、本人に選ぶ権利なんかあるはずもない。嫌で嫌で仕方なかったバイオリンの練習も、やっているうちに上達し、いろんな音楽を弾けるようになり、ちょっとした集まりで披露させられるようになった。
 強制収容所に入れられるときには、もちろんバイオリンは持ち込めなかった。でも、ひそかにバイオリンを隠してくれていた人がいて、戦後、そのバイオリンに再会することができた。
 子ども時代に起きたことを人がすべてを覚えているわけではない。でも、いつまでたっても忘れられない出来事もある。
 廃館になった映画館でコンサートが開かれ、バイオリンを演奏することになった。寒い寒い日で、著者は失敗を重ね、不出来そのものだった。でも聴衆からは大きな拍手が鳴りやまなかった。なぜか...。それは、ひどく寒かったから、手を叩けば、ちょっとは温まるから。なので、演奏に向けられた拍手ではない。むしろ、その逆。でも。手を叩いていたら、違ってきた...。これは、戦後、生きのびた人がコンサートのことを語ってくれたときのコトバだ。
 ゲットーで、人々は至るところで死んでいった。ナチスの兵士に射殺され、また餓死していった。
「おお神よ、あなたはどこにおられるのですか?あなたの子どもに何が起きているのか見てください」
神は眠っているか、休暇をとって、どこかへ行って留守だった...。
著者がゲットーをひそかに脱出して、生きた鶏を手に入れて自宅に戻っていく途中、鶏が騒ぎ立てるので、ついに殺してしまった。
母親は、ユダヤ教の定めによらず死んだ鶏を食べようとはしなかった。
「戦争中でも平時でも、私たちユダヤ人は律法を守る民なの。でなければ、ユダヤ人として生きていくのをやめるってことなの...」
いやはや、なんとかたくななことでしょう。
著者は写真館で助手として働くようになった。そのうち、ポーランド地下組織の求めに応じてひそかに写真の複製をつくるようになった。証明写真だったり、ドイツ軍関係者の顔写真だったりした。
写真館にはナチス親衛隊の制服を着た若者が来て、ユダヤ人だと知りながら、食料を渡してくれたり、いろいろ便宜をはかってくれるようになった。著者たちは「ユダヤ人SS」と呼んで受け入れた。
強制収容所に入れられて以来、鏡で自分の顔を見たことがなかった。鏡にうつっているのはやつれた灰色の顔、どこからどう見ても他の顔だった。
戦後、親になったドイツ人の若い女性にユダヤ人虐殺の話をすると、
「あなたの話が本当に起きたことだとは知っているわ。でも、私には、なぜ人がそんなに非人間的になれるのか、理解できないのよ」
と返ってきた。
同じユダヤ人の子ども同士だったのに話をそらした人は、著者に対してこう言った。
「覚えていたくなかった。みじめな少年時代だったから。いつだって腹を空かしていた。昼食時間には、きみのような金持ちの子が分厚いサンドイッチやおいしそうなロールパンにかぶりつくのを眺めていた。眺めているのは辛かったんだ。本当に忘れたかったし、忘れたつもりでいたいんだ」
そうなんですね、ユダヤ人の家庭にもやはり貧富の差はあり、朝食も昼食もとれない子どももいたというわけなんです。
ユダヤ人の大量殺害、絶滅収容所とガス室の噂が広まりだしたころ、ユダヤ人の父親は、それを信じようとはしなかった。そういうことを言う連中は、不吉なことを言いふらしてパニックを広め、ユダヤという哀れな民族の士気をくじこうとしているんだと非難した。そして父はこう言った。
「ナチスどころか、チンギスハーンだって、そんなことをしないんだろうよ。20世紀なんだぞ、文明社会が許すわけがない」
そうなんですよね。文明社会が許すはずがないことを、ヒトラー・ナチスはあえて宣言し、「善良な」ドイツ人がそれを実行していったのでした。
いま原発(原子力発電所)が3.11大爆発を起こしたことを忘れて、いかにも「処理」して安全になったかのような自民・公明政権の言うのを盲信する日本人のなんと多いことでしょうか。マスコミも同じ穴のムジナです。「風評被害」と言い、中国はけしからんと大合唱しています。でも、そのときデブリのことはまったく頭にありません。放射能の固まりを人間が扱えるはずはありません。そして、それをいったい日本のどこに置くというのですか...。
「アンダーコントロール」されているのは原発ではなく、日本人の頭ではありませんか。
読みやすいホロコーストの本です。著者は2016年、92歳でニューヨークで亡くなりました。
(2023年4月刊。3500円+税)

2023年11月 8日

少女ダダの日記


(霧山昴)
著者 ヴァンダ・プシヴィルスカ 、 出版 角川新書

 1944年9月、ポーランドで起きたワルシャワ蜂起のなかでナチス・ドイツ軍の砲弾に傷つき死亡した14歳の少女の日記です。ユダヤ人ではありませんが、同時代のオランダで隠れ住んでいたアンネ・フランクの日記を思い出せるものがありました。
 ダダが日記を書くのは、ものを書くのが好きだから。
 姉は、夢なんかみないほうがいい、よけいな幻滅をあじわうばかりだからだという。しかし、ダダは違った。夢はみなければいけない。「なにか」が思いどおりにならないとしたら、夢のうち、夢のうちだけなりと、せめて、その望みがかなうといいから...。そうなんですよね。苦しい現実の中にあっても、夢をみて、希望を失わないことって、本当に大切なことだと思います。私も、毎晩のように夢をみています。なかには心がじわっと温まる夢もあるのです。
 夢みることのできる者は、さいわいだ。幸福は誰にとっても同じものなどではない。お金があれば幸福だという者もあるだろうし、自分が美しいというので幸福に感じている者もあるだろう。しかし、ダダはこんなものはすべて幸福なんかではないと考える。幸福とは何か、もっと別のもの。もっと大きなもの、美しいもの、もっとありがたいものなのだ。
 ユダヤ人が目の前で殺されている。なんのため、なんのために、ユダヤ人はこんな目にあわなければならないのだろうか。ユダヤ人であって、ほかの民族ではないという、そのためなのだ。ただそれだけ。それだけのために、こんなにも苦しめられていいものだろうか。こんな野蛮なことがあってもいいものだろうか...。涙は乾いて消えて...、それっきり、もう二度と戻ってはこない。
 人間が同じ人間の首を吊るというようなことが、こうしてまるで日常茶飯事のように、平気でおこなわれている。むごい、ひどい、恐ろしいこと。こんな地獄に終わりが来るなどとは、とても信じられない気がする。早く終わってくれればいいと私だって思っている。それなのに、ときには、戦争が終わるなんて決してないという気がしてしまう...。
わたしたち若者、若者こそ祖国ポーランドを盛り立てる礎(いしずえ)なのだ。だからこそ、私たち若者は理想を持たなければいけない。けれど、実際には...。
 戦争は世界を破滅させる。人間を滅ぼし、殺してしまう。恐怖をいっぱいにまき散らし、生活という生活、喜びという喜びの息の根を止めてしまう。
ドイツ人ほど恐ろしい国民はいない。でも、この恐ろしい凌辱に対して、私たちは報復しなければならないのだろうか。復讐はぜひとも必要なのだろうか...。
 たとえ悲しみのどん底にいても、喜びと笑いは決して失ってはならない。人は生きるために、最後のさいごまで、不幸や災厄とたたかうように出来ている。
ダダは、ナチス・ドイツ軍の砲弾の破片にあたって重傷を負ったとき、出血多量で亡くなる前、父親にこう言った。
 「おとうさん、もう逃げなくたっていいじゃない」
 泣けてきましたね。これって、まだ14歳の少女の言葉なんですよ。
 ワルシャワ蜂起で立ち上がったのはポーランド軍。イギリスは上空から飛行機で支援物質を投下しましたが、まったく足りません。すぐ近くまで来ていたソ連軍は補給待ちと称して市内でのナチス・ドイツ軍との戦闘には参入せず、ポーランド軍を見殺しにしてしまいました。どうやらスターリンが指示したようです。
 ワルシャワ蜂起の悲劇的な結末は知っていましたが、こんな少女の日記があったことを初めて知りました。
(2023年4月刊。960円+税)

2023年10月25日

中世ヨーロッパ全史(上)


(霧山昴)
著者  ダン・ジョーンズ 、 出版  河出書房新社

 上巻は5世紀のローマ帝国から、13世紀の十字軍までを扱っています。
 ローマ帝国は、3世紀初めの最盛期には45万人の常備兵がいて、海軍が別に5万人いた。ローマ兵は、入隊して10年はつとめる。
 ローマ帝国はいくつもの戦いで敗北したが、重要な戦いで負けたことはほとんどない。
 ローマ帝国では、ラテン語が公式言語。ラテン語の学習はエリート教育で基礎科目だったラテン語の実践的な知識なしに、政治家や官僚としてのキャリアを積むことなど考えられなかった。
 ラテン語はローマ法とつながっていた。ゴート族の族長で軍司令官であるアラリックはローマ帝国と戦った。410年前、アラリックのゴート族はローマ軍を破り、ローマ町を略奪した。
 次にフン族に追われてヴァンダル族がローマにやって来た。そして、ついにフン族がアッティラに率いられてローマに侵攻してきた(452年)。アッティラが453年に死去すると、フン族の帝国はたちまち自滅。
 6世紀、腺ペストが大流行し、死者は数百万人いや数千万人という。541年から543年のこと。
 イスラム教の創始者ムハンマドは632年に死亡した。7世紀から8世紀にかけてアラブ人による帝国が設立した。ムハンマドはメッカの中心的部族であるクライシュ族の出身。ムハンマドが本格的に説教を始めたのは613年。権力と富がクライシュ族に不当に集中していたことに対する不満は大きかった。
 中世を通して、スペインにはイスラム教徒が暮らしていた。イスラム教徒の総督がモロッコに追放されたのは、15世紀の末のこと。今のフランスに君臨するメロヴィング朝の政権が最盛期を迎えたのは、5世紀から6世紀にかけて。
 フランク王国のカールが亡くなったあと、ヴァイキングが到来するようになった。当時のパリの人口は、せいぜい数千人規模。ヴァイキングの襲来は、6世紀の半ばにかけて巨大火山の噴火が起きて、世界的に気温が低下し、凶作となったことにもよる。885年、パリはヴァイキングに襲われたが、11ヶ月も持ちこたえた。カロリング朝にとって、半世紀近くも続いたヴァイキング襲撃は致命傷になった。
ヴァイキング司令官のロロはとりわけ残酷で、フランス王からノルマンディーをもぎとった。10世紀、修道院には金と資産が流れ込み、宗教共同体はうまみのあるビジネスの場となっていた。
 裕福な人は、お金で他人に苦行をやらせ、罪の赦しを乞わせて罪滅ぼしができた。サンディアゴ・デ・コンポステーラ。この巡礼道の修道院は、うるおった。巡礼は、最高のビジネスチャンスをもたらした。
 十字軍戦士の第一波は、ポピュリスト的な扇動家に駆り立てられた狂信者ばかりで、大した訓練も受けておらず、ほぼ制御不能だった。1096年夏にヨーロッパを東へと向かった。そして奇跡的に勝利し、小規模な植民地をつくり上げた。
 ヨーロッパの商人にとって、十字軍世界は魅力的なビジネスチャンスの場だった。やがて十字軍都市は破滅に追いやられていった。
 370頁もある通史です。勉強になりましたが、読み通すのには苦労しました。
(2023年5月刊。4290円)

2023年9月26日

灰色の地平線のかなたに


(霧山昴)
著者 ルータ・セペティク 、 出版 岩波書店

 バルト三国の一つ、リトアニアの15歳の少女がスターリンのソ連によって母国を追い出され、シベリアまで追いやられて辛じて生きのびたという実話にもとづくストーリーです。
リトアニアと日本の結びつきですぐに思い出されるのは、1940年、リトアニアの首都カウナスにいた日本人外交官・杉原千畝(ちうね)がナチスドイツのユダヤ人迫害の前に、6千人ものユダヤ系難民に対して、日本を通過するためのビザを発給し、アメリカなどへの亡命を助けたことです。スターリンは、ヒットラーと手を結んで、このバルト三国をソ連の領土とし、そこの知識人たちを邪魔者扱いにしてシベリアに追放したのでした。
 ソ連の秘密警察NKVDが突然、リストにあがった知識人の家に乗り込み、20分の猶予で有無を言わさず連行していきます。行先は告げられません。入れられたのは貨車、家畜運搬用です。1両に何十人も詰め込まれ、トイレは床にあいた穴を利用するしかありません。水と食料も満足には与えられません。途中で死んでくれたら、手間が省けてちょうど良いとNKVDは考えている様子。著者は母と姉の三人、いつも一緒に行動することにします。貨車には、外から「泥棒と娼婦」とペンキで表示されていることを知らされます。
列車は、ついにシベリアにたどり着き、そこの収容所での生活が始まります。
 NKVDは、著者たちに署名を迫ります。ソ連に対する国家反逆罪で有罪であることを認めること、犯罪者として25年の刑に服することです。
 とても認めるわけにはいきません。でも、認める人がついに続出します。どうしたらいいのでしょうか...。
リトアニアの人々がシベリアへ大規模な追放されたのは、1941年6月14日に始まった。追放されたリトアニア人は、10年から15年という年月をシベリアで過ごした。1953年にスターリンが死亡すると、ソ連の政策が変わり、シベリアで生きのびていたリトアニア人の1956年までに解放され、故郷に戻ることができました。
 しかし、故郷のリトアニアにはソ連の人々が勝手に占有していたのです。そして、不平不満を口にしようものなら、NKVDの後身であるKGBによって逮捕・投獄されかねません。だから、人々はシベリアでの体験を表向きに語ることは許されなかったのです。
バルト三国は、このソ連支配の時代に人口の3分の1以上を喪ってしまいました。
 この本は、いろんな人の実体験を総合した創作ですが、最後に登場するサチデュロフ医師は実在した医師とのこと。この医師が北極圏の収容所を訪れ、壊血病などで生命の危機に頻していた多くの人々をギリギリのところで救ってくれたのです。
お盆休みに400頁ほどの大作を必死の思いで読みすすめました。ヒットラーのナチスも絶対に許せませんが、スターリンの悪虐さもヒットラーに匹敵するものがあると実感させられました。いずれも、同時代の人々は強力なプロパガンダによって、この二人の「悪魔」を救世主であるかのように「敬愛」していたのです。まことに宣伝の力は恐ろしいです。
 アメリカのトランプ前大統領が自分本位の政治をして、一般国民に対して、いかにひどいことをしたか、客観的に明らかだと思うのですが、トランプ支援層には、まったく目に入らないそうです。同じことは、日本でも、自民・公明の大軍拡政治に「仕方ない」と多くの国民が思わされている現実があります。真実を見抜く目をもちたいものです。
(2012年1月刊。2100円+税)

2023年9月22日

隠れ家と広場


(霧山昴)
著者 水島 治郎 、 出版 みすず書房

 オランダはナチス・ドイツの占領下で強制収容所へ10万7000人のユダヤ人が移送されたが、そのうち生還した人は1割にもみたず5000人ほどでしかなかった。オランダ国内での死亡者を加えると、ユダヤ人犠牲者は10万4000人にのぼる。
 オランダでは、ユダヤ人住民の7割強がホロコーストの犠牲になった。ベルギー40%、フランス25%に比べて、とびぬけて高い率だ。なぜなのか、オランダは寛容な国ではなかったのか・・・。この疑問を解明しようと実態に迫る本です。
 アムステルダムは、17世紀にはカトリック教徒たちにとって「隠れ家の町」だった。そして、20世紀、アンネたちユダヤ人にとっても「隠れ家の町」だった。
 アムステルダムに本格的にユダヤ人が初めて流入したのは、ポルトガル系ユダヤ人たちだった。哲学者スピノザの父親もそうで、貿易商だった。
 18世紀末、アムステルダムのユダヤ人は2万人をこえ、市の総人口の1割を占めた。ポルトガル商人の流れを引くセファルディムに対し、東方からやってきたユダヤ人(アシュケナージム)には貧困層が多かった。アムステルダムでユダヤ人は、貿易業、商業のほか出版業でも活躍した。
 非ユダヤ人のオランダ人画家レンブラントは、ユダヤ人も好んで描いている。
 アンネ・フランク一家が「隠れ家」に潜む前、アンネたちは、メルウェーデ広場を駆けめぐって遊んでいた。1939年6月12日、アンネの10歳の誕生日に、父オットーが撮った写真には着飾った9人の少女が肩を組んで一列になって笑顔でうつっている。アンネは、仲良しのハンネ、サンネと三人並んでいる。近所の人からは忌々(いまいま)しい「少女ギャング」ともみられていたという。よほど活発、恐いもの知らずの元気な女の子たちだったのでしょう。
 ところが、1940年5月のドイツ占領で平和な日は突然に終わった。アムステルダムに7万人のユダヤ人が住んでいたが、自殺者が激増した。脱出していくユダヤ人たちも多かったが、アンネ一家は潜伏することにした。
 オランダでは、ほとんどのユダヤ人がユダヤ人登録に応じた。これはベルギーやフランスで登録拒否者が多かったのに比べて特異。この住民台帳をもとに、ナチス・ドイツと当局はオランダのユダヤ人を死への強制移送が可能だった。
 この本では、ユダヤ人の子どもたちの一部がひそかに逃亡ルートに乗って安全な場所に匿われたことを明らかにしています。それでも助かったのは1割ほどで、9割の子どもたちは殺害されたようです。
 映画にもなった「シンドラーのリスト」は私も知っていましたが、別に「カルマイヤーのリスト」なるものがあるそうです。初めて知りました。ドイツ人法務官としてオランダのユダヤ人認定を審査する責任者だったカルマイヤーがユダヤ人認定を取り消す判定を下し、その結果、2659人の「ユダヤ人」が救われたとのことです。シンドラーが救ったユダヤ人は1200人ですから、その2倍以上というわけです。
どんな方法だったかというと、洗礼証明書によって、祖父母や父母が実はキリスト教徒であり、ユダヤ人の家庭で養子として育てられていただけだと判定したのです。この証明書は精巧にできた偽造文書もあったようですが、周囲の反ナチ的な人々とともに「客観的」な証拠によってユダヤ人でないと判定していったのでした。ただ、カルマイヤーには陰の部分もあるようです。
 アンネ・フランクは1929年6月12日生まれ、オードリー・ヘプバーンは同年5月4日生まれ。二人はひと月しか離れていない。「アンネの日記」が映画化されるとき、オードリーにアンネ役の打診があった。オードリーは悩んだ末に断った。「アンネのことは私の姉妹に起きたようなもの。私は自分の姉妹の人生を演じるなんて出来ない。あまりに身近すぎる」
 オードリー・ヘプバーンはユニセフの親善大使として活動するなかで、「アンネの日記」の一部を朗読した。オードリー・ヘプバーンがアンネ・フランクとほとんど同じころに生まれていたというのは初めて知りました。いろいろ発見と驚きのある本でした。
(2023年6月刊。3600円+税)

2023年8月27日

スペイン市民戦争とアジア


(霧山昴)
著者 石川 捷治・中村 直樹 、 出版 九州大学出版会

 スペイン内戦は、1936年7月に始まった。フランコ将軍らが人民戦線政府に対して軍部クーデターを起こしたことによる。このとき、陸軍の半分、空軍と海軍の多くは政府を支持していた。この内戦は、人々の予想に反して長期化した。
 1939年1月にバルセローナが陥落し、4月1日、フランコは内戦終結を宣言した。それから1975年までフランコ独裁体制が続いた。
2年8ヶ月に及んだ内戦のなかで、フランコの反乱軍側はドイツ・イタリアのナチ・ファシスト政権から強力な支援を受けた。アメリカ・イギリス・フランスが「中立」と称して不干渉政策をとって政権側を支援しないなか、世界55ヶ国から4万人をこえる人々が「国際義勇兵」として政権側を支援した。
 スターリンのソ連軍も政権側を支援したが、アナキストたちと内部で衝突するなど、反乱軍に対抗する陣営は一枚岩ではなかった。
 この本で、著者は、スペイン内戦は、市民戦争に該当すると定義づけています。
そして、アジアからもかなりの人々がスペイン市民戦争に参戦したのです。日本人としては、北海道出身のジャック白井が有名です。アメリカに渡ってレストランで働いた経験を生かしてスペインではコックとして活躍していましたが、激戦の最中に戦死してしまいました。
 このジャック白井と同じマシンガン部隊にいたというジミー・ムーンさんに著者はロンドンで出会って話を聞いています。そして、スペインに渡ったイギリスの元義勇兵とパブで話し込んだ実感から、彼らは特別の人ではなく、ごく普通の人、正義感の強い、率直な市民・労働者だということを確信しました。ただし、一緒にスペインに渡った仲間の3分の1は戦死したし、イギリスに戻ってからは政治上、職業上の差別待遇を受けたということも判明したとのこと。なーるほど、ですね。
 国際義勇兵は、国際旅団を結成して、フランコ側の反乱軍と戦った。アメリカのヘミングウェイ、イギリスのジョージ・オーウェル、フランスのアンドレ・マルローやシモーヌ・ヴェイユなど、あまりに著名な文化人が参加した。幸い、これらの人々は全員、死ぬことはなかった。ただ、写真家キャパの恋人ゲルダは事故死した。
 スペイン市民戦争のなかで、共和国側の人々は70万人が死亡した。戦死したのは30万人で、残る40万人はフランコ派に捕えられて、処刑された。フランコ派による逮捕・処刑の続く日々を描いたスペイン映画をみたことがあります。朝鮮戦争の最中に起きたような同胞同士の殺し合いに似た、寒々とした状況です。
 日本政府は1937(昭和12)年12月1日、フランコ政権を正式に承認した。翌2日、フランコ政権は「満州国」を承認した。
フランコが死んだのは1975年11月。それから、すでに48年たち、スペイン社会も大きく変わった(らしい)。でも、いったいファシスト政権との戦いの意義を再確認しなくてよいのか、考えなおす必要があるように思えてなりません。
著者の石川先生から、最近、贈呈を受けました。ありがとうございます。
(2020年8月刊。1800円+税)

2023年8月10日

ヒトラー


(霧山昴)
著者 ハンス・ウルリヒ・ターマー 、 出版 法政大学出版局

 アドルフ・ヒトラーは、人生の最初の30年間を、社会の片隅で無名の人間として過ごし、自伝における自己賛美とは逆に、職業教育や市民教育にほとんど真面目に取り組まなかった。ヒトラーは「目的のない生活」を過ごしていた。
 実際に政治的な「修業」をせずに、あれほど短期間のうちに大衆の指導者にのぼりつめた者はめったにいない。ヒトラーは準備がないまま突如としてドイツ帝国の首相となり、ごく短期間のうちに、並外れた個人的な権力まで拡大することができた者もまれだ。
 歴史によってヒトラーがつくられ、ついでヒトラーが歴史をつくった。
 ヒトラーは、思いやりと愛情に満ちた母親よりも、暴君的な父親からより多くの性格を受け継いだようだ。母親のあふれんばかりの愛情と寛大さが、若いヒトラーの、自分を過大評価し、無駄な努力はしない傾向を助長したように思われる。
 ヒトラーの幼少期で確実なのは、学業不振。数学と博物学では「不可」をとった。教師は、ヒトラーを「なまけ者」と判断した。地理と歴史も「可」だった。ヒトラーは、16歳で学校とおさらばし、それを喜んだ。
 ヒトラーはウィーンの芸術アカデミーには「デッサン不可、学力不足」と評価され、入学できなかった。オーストリアで徴兵検査を受けると、「不適格、身体虚弱」と判定された。
 ヒトラーは、バイエルン軍に志願し、兵役に就いた。ヒトラーは陸軍1等兵に昇進したが、伍長への昇格は断った。そして、伝令兵として行動した。
 1920年3月に除隊したヒトラーは、職業政治家となり、集会で演説するようになった。ヒトラーは、演説のテクニックに磨きをかけ、劇的に語った。聴衆の気分を感じとり、それをあおるかのように、初めは落ち着いて控え目な口調で、それから徐々に高揚し、ときに半狂乱になるほど聴衆の心をつかんだ。
 ヒトラーの演説は演劇のようで、身振・手振りや表情が発声と合ったとき、聴衆に向かってこれまで以上に激しく言葉をたたきつけるとき、声と身体は一体となって話に独特の効果を与えた。ヒトラーの仰々しいパフォーマンスと演説の政治的な内容は深く結びついて、互いに補いあった。その演説の力は、ヒトラーのカリスマ性を確立した。客席の前に、ヒトラーは嘘と欺瞞の世界をつくり出した。
 煽動家ヒトラーにとって、効果だけが重要だった。平和を愛する政治家とすら自己演出して納得させ、現在の悪に対する解決策を示し、漠然とした約束にすぎないが、よりよい未来を人々に期待させた。
ミュンヘンの社交界にデビューするとき、ヒトラーは、信じられないことに恥ずかしがり屋で、控え目な人物だった。おずおずと遠慮がちに肘掛け椅子にすわった。
 こんな描写を読むと、チャップリンの乞食紳士を連想させます。
ヒトラーには声の魔力と情熱があり、その振る舞いは素朴な印象を与え、教養ある社交界を魅了した。周囲はヒトラーを天才とみなし、反ブルジョア的な性格を称賛した。ヒトラーは猫をかぶっていたのでしょうね。
 1923年、ナチス党員は短期間のうちに10倍にふくれあがり、5万5000人を超えた。党員は、中産階級の人々が多かった。他の階級に属する人々も、ナチスの過激なプロパガンダや枚済のレトリックに心が動かされた。初期のナチス党の3分の1は労働者だった。
ヒトラーは1924年、9ヶ月間の収監生活を送ったが、それはホテルに滞在したようなものだった。35歳の誕生日を刑務所で迎えたヒトラーの前に、贈り物や花が山のように積み上がった。
ヒトラーは時流を読むのが得意だった。刑務所で執筆した『わが闘争』はつぎはぎだらけのお粗末な作品。この本は1925年7月に第一巻、翌26年12月に第二巻を刊行した。それほど売れなかったが、1930年の普及版は1932年に9万部も売れた。そして、翌33年末には100万部の大台をこえた。
 ヒトラーの憎悪は、国際主義、平和主義、民主主義に向けられた。この三つの仮想敵は、いずれも、マルクス主義とボルシェヴィズムへの挑戦と結びついていた。
 自信があって経験も豊富で、ヒトラーの上辺(うわべ)だけの魅力を見抜くような同年代の女性とは、明らかにうまくいきそうもなかった。
 ヒトラーは欺瞞の名手であり、大勢の聴衆の前での議論は避けた。質問に対して答弁しなければならないときには、のらりくらりとかわした。
ナチス党内の権力ゲームにおいては、互いに競いあわせて漁夫の利を得、忠実な取り巻きをつくろうとした。1931年末のナチス党員は80万人になった。
 「指導者は、まちがえてはならなかった」
 1932年のころ、総選挙でナチス党は200万票も失い、党の金庫は空(カラ)っぽ、だった。
 ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に指名したとき、ヒトラーはすぐに「お払い箱」になるだろう、多くの人がそう考えていた。このとき、ヒトラーは、まじめな政治家という印象を与え、不信感をもつヒンデンブルク大統領に取り入るべく、全力を尽くした...。
 ヒトラーの任命は、形式的には合法に見えても、憲法の精神に大きく反していた。1933年1月30日、ヒトラーは独帝国首相に就任した。
1934年4月までに数百人のユダヤ人大学教員、4000人ものユダヤ人弁護士、300人の医師、2000人の公務員が退職していった。
「本が燃やされるところでは、最後には、人間も燃やされる」
これはハインリヒ・ハイネのコトバ。まったく、そのとおりですよね。
ヒトラーの生い立ち、権力を握る過程でのエピソードなど、ヒトラーの真実に迫る本だと思いました。一読を、おすすめします。
(2023年4月刊。3800円+税)

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