弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(古代)

2025年6月13日

魏志倭人伝の海上王都、原の辻遺跡


(霧山昴)
著者 松見 裕二 、 出版 新泉社

 魏志倭人伝に邪馬台国が登場しますが、その途中に「一支(いき)国」があります(正確には、原文は「一大国」と書いています)。もう一つ「伊都国」のほうは、三雲・井原遺跡が該当するとされています。
 この「一支国」は壱岐島(いきしま)とみられていて、そこに原(はる)の辻遺跡があります。
 私も前に壱岐に行ったとき、この遺跡に関わる「一支国博物館」を見学しました。
壱岐島は博多港(福岡市)から高速船に乗ると1時間で着きます。倭人伝によると、対馬国が「千戸あまり」に対して、「一支国」は「三千家あまり」となっています。「戸」と「家」と使い分けがされていますが、1万人ほどの人口だとみられています。
原の辻遺跡は100ヘクタールの範囲あるとされていて、まだ全部の発掘調査はなされていません。集落を取り囲む環濠が堀りめぐらされているが、幅は2メートル、深さも1~2メートルという小規模なもの。防衛というより排水機能に重点がある。
 ここには国内最古の船着き場の遺跡がある。渡来人が最先端の中国式技術「敷粗朶(しきそだ)工法」によってつくられている。しかし、これは実用的なものではなく、セレモニースポットとみられている。
 ここで、人面石が発掘された。目の上には、細い線で刻まれた眉(まゆ)が描かれ、目と目の間には鼻も表現されている。口は裏面まで貫通している。偶像崇拝の祭器として使われたのではないか...。
 「一支国」は国境の島として有事に備えた武器や防具が多数出土している。
 ガラス製のトンボ王も副葬品として出土している。クド石と呼ばれる石製支脚が大量に発見されている。
 カラカミ遺跡からは鉄製品が数多く出土した。鉄の加工を得意とする鍛治専門集団が集落内に存在していた。ベンガラの焼成炉も発見されている。
 また、イエネコの骨が出土した。渡来人がネズミの害から防ぐため、大陸から連れてきたとみられる。ペットではないだろう。ネコは古墳時代からと考えられていたが、それより500年も古く、弥生時代からヒトとともにいたことになる。
 イエネコの骨もネズミの骨も発見されたのでした。
 原の辻遺跡はまだ85%も未調査であり、そこに「王墓」が見つからないか、期待されています。ぜひ、新しい博物館に行ってみましょう。
(2025年3月刊。1870円)

2025年4月15日

継体大王と地方豪族


(霧山昴)
著者 若狭 徹・埼玉県さきたま史跡の博物館 、 出版 吉川弘文館

 継体大王とは不思議な存在です。「万世一系の天皇」という神話を疑わせる存在でもあります。
 このころ、まだ天皇とは呼ばれず、大王でした。有力豪族集団のなかで、それらに支えられつつも、頭ひとつ飛び抜けた存在だったのです。私はまだ行っていませんが、このさきたま史跡には、ぜひ一度現地に行ってみたいと思っています。埼玉県行田(ぎょうだ)市にある有名な古墳群です。ここの稲荷山古墳からは文字を刻んだ鉄剣が発見されましたが、そこに「ワカタケル大王」という雄略天皇の名前が刻まれていたのでした。
 そして、最大の古墳である二子山(ふたごやま)古墳はレーダン調査によって、継体大王のころにつくられたことが判明したのです。
 継体大王の当時といえば、八女市にある全長132メートルの岩戸山古墳が有名です。ここは、筑紫君(ちくしのきみ)一族の本拠地であり、熊本県南部の八代地域を地盤とする火(肥)君(ひのきみ)一族とともに大和政権に抗して、磐井(いわい)の乱を起こしましたが、あえなく敗れてしまいました。でも、子孫が根絶やしされたのではないようです。
 磐井は、北部九州の有力豪族であったが、王権に反発して新羅(しらぎ)と謀(はか)り、朝鮮半島との交易を担う外港を封鎖した。同じく北部九州の火君とも連合して、新羅征討軍を率いた近江(おろみ)毛野臣(けなのおみ)を阻んだ。
 また、このとき胸肩(むなかた)君一族は、筑紫君一族とは距離を置いたそうです。
 そして、継体大王が死んでまもなく、武蔵国造である笠原直(かさはらのあたえ)一族で反乱が起きたのでした。一族内部で、国造の地位をめぐる抗争が勃発したのです。
 継体大王は5世紀的な手続きにのっとって即位した5世紀的な大王。その前の倭の五王と本質は変わらない。
 政権継承の安定化のため、継体大王は初めて大兄(おおえ)制を敷いた。これは、王位継承者を事前に指定する制度。
継体大王の墓と推定される奈良の今城塚(いましろつか)古墳には、埴輪(はにわ)が大量に樹立されていたとのこと。内側と外側に二重に円筒埴輪列があって、墳丘に2000本、内堤に4000本、あわせて6000本もの円筒埴輪が樹立されたとみられている。しかも、大型品は高さが80~90センチ、超大型品となると、高さ130センチというのです。数といい、高さといい、すごいです。そして、人物から家や鳥や動物など、レパートリーもさまざま。人物埴輪は全身像というのも、すごいです。
継体大王は、地方の有力豪族たちに支えられていたというのを初めて認識しました。ところが、九州の磐井も、武装国造も反乱したのです。結局、どちらも押さえ込むことが出来て、天皇(大王)制は続いていったのでした。
 継体大王のころの日本の状況をさらに深く認識できました。
(2025年2月刊。2300円+税)

 日曜日、庭に出ると、なんとジャーマンアイリスが今にも咲きそうで驚きました。ああ、もう5月が近づいていると感じました。青紫色の華麗な花です。アイリスの黄色い花も咲いています。チューリップはまだ咲いています。今はピンクの花が優勢です。スノードロップの白い花の近くにシャガの白い花びらも見えています。足もとに土筆(つくし)を見つけました。
 夕方6時半まで明るいので、がんばって庭の手入れをしました。

2025年3月11日

采女、なぞの古代女性


(霧山昴)
著者 伊集院 葉子 、 出版 吉川弘文館

 采女(うねめ)は、律令で定められた女官。地方の行政組織である郡から、上級の役職である長官(大領)、次官(少領)の姉妹または娘が選ばれて都に赴き、朝廷に仕えた、地方エリート層出身の女性。条件は、形容端正であることと、13歳以上30歳以下であること。ただし、定年はなく、生涯現役で働くことも出来た。また、親や自分の病気などを理由として退任することも可能だった。
采女を選ぶのは、中央から任命されて赴任してきた国司。采女の名簿は天皇にまで報告された。中央の大貴族ほどの出世は難しかったが、才覚と能力次第では、女官組織の管理職にもなれた。ウネメの語源は不明。
采女は、出仕したあと天皇の傍らに仕えて、さまざまな用向きを処理した。『日本書紀』には、雄略天皇の時代に、子どもを育てながら宮廷で働く采女がみえる。
 皇室の新しい建物ができたときには、それを言祝(ことほ)ぐ宴(うたげ)が広くおこなわれた。この新室の祝いは、単なる宴会ではなく、神事であった。古代社会において建築・造営は高度な技術を駆使した重要なものだった。
 これまで、采女は、地方豪族から服属の証として朝廷に「貢進」された、いわば人質として考えられてきた。
 日本古代は、男女の格差が少ない社会である。男女個人がそれぞれ財産をもち、処分もできた。夫婦や親子であっても財産の保有は別々であり、男女とも父方母方双方から財産を相続できた。父方と母方とを区別する考えもなかった。
権力においても、政治から女性を排除する社会通念は乏しかった。したがって、女性を「みつぎもの」として扱う社会観は共有しにくい。
渡来人の活用は、倭国が先進国である朝鮮半島諸国を追い抜く原動力だった。繰り返し工女の渡来を求めたのは、新しい技術を摂取するため。
 河内の倭飼部は、乗馬の風習が朝鮮半島から伝来してきたこととあわせて、渡来系の氏族だったことを裏づけている。
 古代日本では、男女の性的関係が始まったときから、それは婚姻だと認識された。
 万葉集には「女郎」が登場するが、イラツメと読まれた。
 郎女と女郎は、成り立ちも意味も異なっている。郎女はイラツメと読み、男性を指す郎子の対義語。万葉集には、郎女も女郎も混在している。
 女郎は、江戸時代の初めには、身分ある女性を指すコトバとして通用していた。もともとは女性への敬称である「女郎」が、今日では遊女の別称となり、定着してしまった。
 ところが、中国では女郎は年若い女性のことで、遊女の代名詞にはならなかった。
 中国で采女(サイジョ)は、宮女の代名詞だった。「日本書紀」に記された采女(ウネメ)の姿は、中国の采女(サイジョ)とは、まったく異なる。
 日本では、豪族の女性たちが男性とともに政治的行動を担い、役割を果たしていた。古代東アジアの「女郎」に、日本で近世以降にイメージされる「遊女」の意味は、まったくない。
 古代の日本では、推古天皇をはじめ8代6人の女帝が誕生し、統治した。女帝は普通のことで、その存在を排除する通念は乏しかった。
 采女の正体に迫ったという気にさせる本です。
 
(2024年9月刊。1870円)

2024年8月24日

古墳


(霧山昴)
著者 松木 武彦 、 出版 角川ソフィア文庫

 日本全国、いたるところに古墳があり、その数、なんと16万基。これには驚きました。
 数だけではありません。その規模も相当のものです。長さ525メートル、高さ40メートルとなると、エジプトのピラミッドや中国古代の皇帝陵に匹敵します。
 いったい、なんで、日本全国にそんなに古墳が多くあるのか、古墳は何のためにつくられたのか、この文庫本を読んで、少し分かった気がしました。
 筑紫野市にある五郎山古墳は装飾古墳です。あの世への旅が絵になっています。死者は舟であの世へ渡ります。鳥が先導し、馬がお供します。楯や弓や矢筒で守護してもらいます。それは、山鹿市の鍋田横穴墓群も同じです。石室の壁に絵が描かれています。
 山口県柳井市の茶臼山古墳には、埴輪(はにわ)が頂上にずらりと並んでいます。楯、矢筒(靭)、家、など。
奈良の明日香村の石舞台古墳には私も行きました。今では、なんともでかい巨石が地上にむき出しですが、かつては一辺50メートルという大型方墳だった可能性が高いそうです。その巨大さは巨石の下に入ってみないと実感できません。ぜひ現地まで足を運んでみてください。
 熊本の和水(なごみ)町の江田船山古墳は大刀が出土したことであまりにも有名です。
前方後円墳は、6世紀が終わって7世紀の飛鳥(あすか)時代に入ると、なくなってしまう。それからは、巨大な古墳ではなく、個人向けの華美なものになったようです。
 5世紀になると、実用性の高い鉄製のよろい、かぶとが副葬品として出土しています。やはり戦争していたのですね...。
 古墳の最後、7世紀後半の大王のためのものは八角形墳だというのも初めて知りました。たくさんの古墳がカラー写真で紹介されています。現地にまで行った古墳がほとんどないことを改めて知って愕然(がくぜん)としました。
天皇陵の一般公開、少なくとも学者の発掘調査はすぐにでも認めてほしいと私は思います。それによって万世一系という神話も化けの皮がはがされると思います。
(2024年6月刊。1650円)

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