弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ドイツ
2024年11月26日
ナチスと大富豪
(霧山昴)
著者 ダ―フィット・デ・ヨング 、 出版 河出書房新社
大金持ちって、ホント、あくまでもえげつないことをする人たちだと改めて実感させられました。ヒトラー・ナチスにうまくとり入り、ナチスへの入党もためらいません。
まず、ユダヤ人経営者を追い出し、ユダヤ系企業を安価で乗っ取ります。そして自分のものにした工場で戦車や武器・弾丸をどんどんつくって儲けます。工場に人手が足りなくなったら強制(絶滅)収容所の「囚人」を死ぬまで酷使します。
ヒトラーが自殺し、ナチスが敗北した戦後は、ナチスに協力させられたのは強制なので、真意ではなかったと強弁し、自分の責任は決して認めません。酷使した元「囚人」に対する賠償も拒否し続け、いつのまにかナチス時代のように繁栄し、再び大富豪に返り咲きます。そこでは、あくまでお金がすべての世界です。
そして「賢い人」は、マスコミ取材を一切拒否して、自分の姿が世間から見えないようにします。この本は、そんな彼らの実相をトコトン明らかにしています。
この本でもう一つ詳明に明らかにされているのは、ゲッペルスの妻マグダの行状です。マグダは大富豪の妻だったのです。ところが、大富豪と離婚すると、ナチスに憧れ、ついにゲッペルスと結婚し、6人の子をもうけたのです。ヒトラーの自殺のあと、ゲッペルス夫妻はベルリンの首相官邸の地下室で6人の子どもを青酸カリで死なせたあと、自分たちも自殺しました。
ところが、マグダには、もう一人、別れた大富豪との間に男の子がいたのです。この子はナチス軍に入り、戦後まで生きのびました。
マグダは恋多き女性だったようです。夫以外の男性と次々に関係を結び、夫とは離婚しようとしますが、ヒトラーが許さなかったのでした。ナチスの理想的なカップルとして売り出していたので、それが壊れては困るとヒトラーは考えたようです。妻の浮気に対抗して、ゲッペルスも女優を愛人としました。
ヒトラーが政権を握る前、ナチスには選挙資金が枯渇していました。それを救ったのがドイツの経営者たちでした。
民主主義を葬り去るための資金提供に、大物実業家たちは何の抵抗も感じていなかった。1933年2月のことです。ゲッペルス(当時35歳)は、日記に「300万ライヒスマルク(今の2000万ドル)もの選挙資金が集まった。やったぞ!これで資金はととのった」と書いた。このなかにはIGファルベン社(40万ライヒスマルク)も含まれている。
ドイツ人実業家たちは計算高く、無節操な日和見主義者にすぎず、自分の事業を拡大するためなら手段を選ばなかった。ゲッペルスは、作家、劇作家、ジャーナリストの道に進もうとしたがうまくいかず、発足まもないナチ党に1924年に入党した。弁が立ち、派手な演説に長(た)け、ヒトラーに対して絶対的な忠誠を示したので、一気に出世を遂げた。
ゲッペルスは情報の力についてよく把握していた。ゲッペルスは、いつも他人(ひと)より優位に立つことを求めていた。
ゲッペルスの取り柄は、機転がきくところと、ヒトラーへの忠誠心だけだった。
マクダをめぐるゲッペルスのライバルは、ほかでもないゲッペルスが崇拝するヒトラーだった。マクダとゲッペルスが結婚した(1931年)とき、ヒトラーは花婿付添人をつとめた。
ユダヤ人実業家たちは、とんでもない低額で企業をナチスに加担した起業家に譲り渡さなければならなかった。それはロスチャイルド家でも同じだった。2100万ライヒスマルクもの保釈金を支払って、ようやくアメリカに移住できた。いまのお金で3億8500万ドルに相当する保釈金です。
ベルリン郊外のヴァンゼーで開かれた会議(ユダヤ人問題の最終的解決をテーマとする)について、ゲッペルスは日記に次のように書いた。
「実に残酷な措置が施されることになる。そうなれば、ユダヤ人という人種が生き残る道はほぼ絶たれるだろう」
いま、イスラエルはガザ地区でかつての自分たちがされたことをアラブ人住民にしています。どちらも許せません。
ドイツ人の男性は兵士にとられてしまったため、労働力が著しく不足していた。それを埋めるのが「東方労働者」(ソ連やポーランドの人々)であり、強制収容所の「囚人」たちだった。
奴隷労働に関して、ドイツ企業はSSの運営する強制収容所と連携していた。囚人たちは「奴隷以下」の扱いを受けた。
戦後、1970年の西ドイツの資産トップの大富豪4人は、いずれも元ナチ党員だった。
そして、そのなかに、ドイツの右派、極右の政治団体に大口献金していた。ナチス時代の自分の行為をまったく反省していないというわけです。
ドイツ敗戦後の連合軍によるニュルンベルク裁判にかけられた実業家は一人だけで、それも有罪にはなったけれど、刑期が短縮されて、すぐに出所してきて、やがて西ドイツ一の大富豪になった。
BMW、ポルシェ、エトカー(プリン)など、日本でも有名な大企業の裏の歴史が暴かれている本でもあります。知らなかったことがたくさんありました。ぜひ、ご一読ください。
(2024年5月刊。3960円)
2024年10月20日
アウシュヴィッツの小さな厩番
(霧山昴)
著者 ヘンリー・オースター、デクスター・フォード 、 出版 新潮社
ナチス・ドイツ軍の電撃作戦は有名です。ところが、実は、この作戦を支えていたのは汽車でもトラックでもなく、馬だったのです。すると、ドイツは大量の馬を確保する必要があります。そこで、アウシュヴィッツ収容所でも馬を生産・育成していました。その厩番(うまやばん)にユダヤ人の男の子が使役されていたのです。まったく知りませんでした。
ドイツ軍は戦車やトラック、戦闘機に使うガソリンを少しでも多く必要としていた。そのうえ、ロシアの鉄道は広軌なので、ドイツの列車をそのまま乗り入れることはできなかった。そのため、ドイツ軍は、すべての占領地で兵士や武器、食料を運搬する馬車を引く馬を大量に必要としていた。
ドイツ軍は囚人より馬のほうをずっと貴重だと考えていた。なので、馬そして仔馬に何かあったら厩番の生命はないものと考えるほかはない。
メスの馬2頭とオスの種馬の世話をさせられた。著者は馬の餌として与えられたクローバーも食べた。貴重な栄養源だった。クローバーって、生のままでも食べられるんですね...。
たんぽぽも花が咲く前に摘みとったら食べられる。花が咲いたら驚くほど苦くなって、食べられない。
馬の交配にも立ち会い、介助していたとのこと。大変危険な作業だった。オス馬は気が荒く、けったり、かみついたりしてくるので、怪我だらけになった。
馬の尻尾も危険。馬の毛はヤスリのように固く、ざらついている。
囚人が収容所から逃亡すると、ドイツ兵は、その報復として脱走者1人あたり10人を無差別に殺した。著者も危うく銃殺されそうになりました。
薬のないときの銃創の治療法は、傷口に尿をかけるもの。もし、ばい菌が入ったら、鼻水で傷を覆ってしまえばいい。
ドイツが敗戦し、アメリカ軍が収容所に入ってきて、解放した。ブーヘンヴァルト強制収容所にいて解放された2万1000人もの人々を保護して食べさせた。少しずつ、少しずつ、食べていった。一度にたくさん食べてしまうと、身体不調となって死に至る危険性は強かった。だから、収容所に入れられていた人々が、「もっと」「もっと」と求められても、少しずつしかもらえなかった。
当時16歳だった著者は、体重35キロ、身長は13歳の少年並みだった。ナチス・ドイツが大量の馬を必要としていて、その馬を養成していたユダヤ人の少年がいるのは、とても珍しいことだと思います。
(2024年8月刊。2100円+税)
2024年8月30日
ナチス逃亡者たち
(霧山昴)
著者 ダニ・オルバフ 、 出版 朝日新聞出版
ナチス・ドイツの体制を支えていた幹部たちは、敗戦と同時に逃亡し、身分を偽って世界各地で生きのびました。南アメリカの各国は、ナチ残党を喜んで受け入れたことで有名です。アイヒマンは偽名で生活していましたが、ドイツから妻も息子たちも呼び寄せて家族で楽しく暮らしていたのです。
この本は、アイヒマンのような逃亡者ではなく、スパイとして暗躍した人間たちを追跡しています。
ナチス時代と同じく反共精神ではアメリカのCIAと共通するということで、その下でスパイになって働く人間もいましたが、逆にソ連のスパイになった人間も少なくはなかったのです。そして、二重スパイも多数いました。
ナチス・ドイツの情報機関にいて、戦後はアメリカ(CIA)と協力して活動したゲーレン機関のお粗末な内情も明らかにしています。ゲーレンはアメリカに売り込むときには誇大妄想的なところがあった。この本では、ゲーレンは、しぶとい出世主義者でしかなく、有能とは言えないと冷たく突き放した評価をしています。
アメリカは使えると思えば、リヨンのゲシュタポ隊長だったクラウズ・バルビーをスパイとして使いました。バルビーは数千人に及ぶフランス人の処刑・拷問に責任のある男なのです。
なぜ、人はスパイになるのか...。それは単純に金銭のみではない。もちろん金銭は大事だ。それとともに、冒険がもたらすスリルそして、二つの強大な政治勢力を操ることで得られる満足感も動機の一つだった。うむむ、なるほど、そうなんでしょうね。
ドイツ敗戦後、ボンにいる政府幹部で、ナチ狩りをしたり、ドイツの暗い過去に光を当てたいと思う者はほとんどいなかった。支配層のエリートたちは、無傷とは言えない人物と関係して信用を危くしたくはなかった。フリッツ・バウマー検事長の熱意と実行力がなかったら、ドイツだって今の日本と同じようなへっぴり腰でのぞんでいたことでしょう。やはり、誰か歴史を動かす原動力となる人は必要なのですね。
(2024年5月刊。3600円+税)
2024年8月28日
関心領域
(霧山昴)
著者 マーティン・エイミス 、 出版 早川書房
映画をみて、原作本を読みました。でも、全然、印象が違います。
なにしろ、映画では、アウシュヴィッツ絶滅収容所は高い塀の向こうにあるだけ、煙が見え、ときどき不気味な音が聞こえてきますが、内部の様子はまったく見えません。
ところが、本ではゾンダーコマンドのリーダーが登場して作業の状況も自分たちの心理状況も語って教えてくれるのです。
映画でも、臭いは感じることができませんが、本では収容所の周囲に住む人々からの苦情が紹介されます。この町では、夕方6時ころから夜10時ころまで誰も食べ物が喉を通らない。風向きが変わって、南から強く吹くから。臭いのせい。これに対して収容所側は伝染病でやられた豚を殺処分して焼却していると説明します。
ドイツ軍が東部戦線でソ連軍と対決中で、スターリングラード攻防戦の最中です。マンシュタイン将軍(ナチス)とジェーコフ将軍(ソ連)が話のなかで登場してきて、当初は楽観的だったのに、ついにナチス軍は降伏してしまうという状況です。ユダヤ・ボリシェヴィズムは年内に打ち砕かれるだろうというナチス収容所側の予想が見事に外れてしまうのです。
ゾンダーたちは、厚みのある革のベルトを使って残骸をシャワー室から死体保管庫まで引きずっていく。ペンチとのみで金歯を引き抜き、裁ちばさみで女性の髪を切り取る。イヤリングや結婚指輪をもぎ取る。そのあと、滑車装置に7体ずつ積み上げ、口を開けた焼却炉まで持ちあげる。最後に灰をすりつぶし、その粉塵はトラックに積んでヴィスワ川にまかれる。
五感のうちで唯一、ゾンダーがある程度まともに保持しているのは味覚。ほかの感覚は、ひどいダメージを受けて死んでいる。触覚もおかしい。ゾンダーが、どんなものを見て、どんな音を聞いて、どんなにおいを嗅いでいるかを考えたら、食べ物の味くらいはまともに感じる必要があると納得してもらえるだろう...。
ゾンダーは言う。もう死を恐れてはいないが、死ぬことは恐れている。死ぬ瞬間が怖いのは、苦痛を感じることになるから。いろいろ見てきた経験上、60秒もたたずに死に至ることはない。たとえ、首(うなじ)を撃たれても、本当に死ぬまでに必ず60秒くらいはかかってしまう。
ゾンダーコマンド、特別労務班は収容所で一番悲しい人間である。それどころか、世界の歴史のなかで一番悲しい人間だ。
映画のほうは死が至るところにある絶滅収容所に隣接する庭にプールがあって、子どもたちが楽しく泳ぎ、草も花も野菜もふんだんにある庭園、そして、人々は憩うのです。
実に恵まれた環境なので、所長夫人は夫の転勤を断乎として阻止します。人間の本性が、こんなに使い分けの出来る生物であることが私は不思議でなりませんでした。
(2024年5月刊。2500円+税)
2024年7月11日
キンダートランスポートの少女
(霧山昴)
著者 ヴェラ・ギッシング 、 出版 未来社
チェコ人の子どもたちが、ナチス・ドイツの侵攻直前に集団でイギリスに疎開して助かったという話の当事者が語った本です。
先日、天神の映画館(KBCではなく、キノ・シネマ)でみた映画「ワン・ライフ」のパンフレットで紹介されていたので、至急とり寄せて読みました。
チェコにいた1万5千人ものユダヤ人の子どもたちがヒトラーのユダヤ人絶滅政策によってホロコーストで殺害され、強制収容所から生還できたのは、わずか100人だけでした。
ところが、ロンドンで村の仲買人をしていた30歳のニコラス・ウィントン(愛称はニッキー。元ユダヤ人)が、チェコに入ってユダヤ人の子どもたちをイギリスに集団疎開させる事業に取り組んだのです。大変な事務手続がいります。輸送費用もかかります。子どもたちを引き受けてくれるイギリス人家庭も探さなくてはいけません。それをニッキーは仲間と一緒にやったのです。
ヒトラー・ナチスがチェコを併合する前の3ヶ月間にニッキーはやり遂げたのです。でも、最後の列車の便に乗っていた子どもたち250人は列車に乗り込んだものの、ついに引きずりおろされ、死に追いやられてしまいました。ニッキーは、自分たちの努力で助けた669人の子どもの存在を誇るというより、むしろ助けられなかった250人の子どもに申し訳なく、罪の意識を感じてしまい、戦後ずっと自分たちの行動とその成果を封印して生きていたのです。
それが、1988年2月にイギリスのテレビ番組で取り上げられ、ついに世の中にニッキーたちの取り組みが知れ渡りました。助かった669人の子どもたちが、先日の映画では子や孫たちが増えて6000人になったとされていました。「シンドラーのリスト」や日本人外交官「センポ・スギウラ」の話とまったく共通します。
私は、ガザに侵攻したイスラエル軍の蛮行は、まさしく「ユダヤ人虐殺」と同じようなもので、立場を変えて「虐殺」が進行していて、今も止まっていないことを思い、涙が止まりませんでした。
この本には、なぜチェコのユダヤ人の子どもを受け入れたのかと問われたイギリス人の答えが紹介されています。
「私は自分が世界を救うことができないことも、戦争を止めさせることができないことも分かっていたけれど、人を一人助けることはできると思ったんだ」
ニッキーはイギリスで棟の仲買人として安楽な生活をしていたのです。しかし、チェコに行って子供たちが危ないと思ったら、救助活動しなくてはいけないと思って行動を開始したのでした。もちろん、一人でやれることではありません。大勢の仲間と一緒にやったことです。
でも、肝心なことは誰かが口火を切って動き出す必要があるということです。
ウクライナもガザも戦火を止める必要があります。尖閣諸島が中国にとられないように日本が軍備を増強するのは仕方がない。そんなことを考えている問題ではないのです。むしろ、日本(政府)の行動こそ戦争を招いている。それを一刻も早く日本人みんなが自覚すべきだと、映画をみて、本を読んで痛切に思いました。
(2008年5月刊。2500円+税)
2024年7月 3日
ナチ親衛隊(SS)
(霧山昴)
著者 バスティアン・ハイン 、 出版 中公新書
最近、たて続けにナチスに関わる映画を2つみました。「関心領域」は、この本にも登場するアウシュヴィッツ収容所のヘス所長の一家を淡々と描いています。この新書によると、ヘスは、回想録のなかで、自分のことを「意思のない、常に礼儀正しい、命令に従うだけの者」としているが、実際には、強制収容所の司令官として無制限の権力を振るい、収容者の生死を左右し、親衛隊であげた「業績」(いかに効率よくユダヤ人を大量殺害したか)を誇りにしていた。
映画では、壁の向こうで大量虐殺が進行しているのに、ヘス一家はプールもある豪勢な家で安穏と過ごしていたのです。ユダヤ人犠牲者から奪った宝石や衣服など身を飾りながら...、です。いかにもおぞましい生活なのですが、壁の向こうで進行中の人道に反する大量虐殺の事実は、見ようとしなければ、まったく見えてこないわけです。
もう一つの映画は「ワン・ライフ」です。こちらは、ナチス・ドイツの侵攻直前のチェコから子どもたちをイギリスに連れ出して救出したという実話を映画にしたものです。一人の証券マンが、事実を知ってやむにやまれぬ思いで現場に行って、600人以上の子どもたちの救出に成功したのです。現在進行形のガザの現実を重ねあわせて、涙の止まらない思いでした。
ヒムラーが最終的に第三帝国のナンバー2になった(なれた)のは、競争相手から繰り返し過小評価されていたこと、外見がぱっとせず、人目を引くことがなかったこと、そして、常にヒトラーに対してへりくだった態度をとっていたから。なーるほど、そういうこともあるのですね。
ヒトラーは、「アーリア人」の厳密な定義づけをむしろ避けた。「アーリア人」とは、「ユダヤ人」とは正反対の存在だと定義するだけだった。人間は、そんなに簡単に定義づけられるものではないということです。
親衛隊の隊員は優秀な人種から選抜されるということだったが、ナチスの医師の多くは「人種検査」を行う能力も動機も欠いていた。「人種検査」は客観的と称していたが、実際は恣意的なものだった。
親衛隊は「エリート集団」のはずだったが、実際にはそうではなかった。隊員の出身の多様性は特徴的だった。
ヒトラーの無二の友人だったエーミール・モリスは、曾祖父がユダヤ人だったが、「名誉アーリア人」として親衛隊に迎え入れられた。
親衛隊員は、自分たちの残忍性を隠すべきこととは思っていなかった。
国防軍の将校になるために必要だったアビトゥーア(大学進学資格試験)は親衛隊の将校には不要だった。
武装親衛隊の「英雄行為」は、軍事上で見込みのない戦争を長引かせた、だけだった。
ユダヤ人大量殺害に手を染めた親衛隊は、心を病んでいった。彼らの目は、海底に横たわって死んでいるタイの目に生き写しだ。彼らの人生は終わった。これで育成される部下は、神経病者か荒くれ者だ。
戦争を生きのびた親衛隊は武装隊員で60万人、一般隊員でも15万人もいた。
1963年から1965年まで続いたアウシュヴィッツ裁判では、刑は軽かったが、アウシュヴィッツ収容所の実態を広く世界に知らせたという点で大きな意義があった。そうなんですね、広く知られてはいなかったわけです。まあ、想像を絶する残酷な世界だったわけですから...。
ナチ親衛隊(SS)の実像を手軽に読んで知ることのできる新書です。戦争が起きると、こんなひどいことがまかり通るのですね...。日本も、自民・公明政権がどんどん戦争準備をすすめていて、かえって戦争を招こうとしているのですが、本当に心配です。軍備増強より教育・福祉を充実させましょう。
(2024年4月刊。1100円)
2024年6月30日
島原城まるわかりブック
(霧山昴)
著者 吉岡 慈文(監修) 、 出版 長崎文献社
島原城下には武家屋敷の並ぶ通りがあります。道の真ん中に清らかな水の流れる水路が走っています。落ち着いて散策できるので、おすすめです。知覧(ちらん)や角館(かくのだて)ほどの規模ではありませんが...。
島原城の近くには、有名な戦国時代の合戦場があります。「沖田畷(おきたなわて)の合戦」があったところです。天正12(1584)年、佐賀の戦国大名・龍造寺隆信が大軍を率いて島原半島に攻め込んできました。迎え撃つ有馬晴信は鹿児島の島津氏に援軍を頼みます。このとき、島津軍の策略にはまって、大将の龍造寺隆信が首を討たれ、佐賀の軍勢は惨敗を喫したのでした。島津勢の強さは待ち伏せ戦法にもあります。
そして、島原城を築いた松倉重政はキリシタンを厳しく取り締まり、過重な年貢徴収をすすめ、島原・天草一揆の原因をつくり出しました。
ただ、この重政は、ルソン島(フィリピン)に使節を派遣していたそうです。そして、その子の松倉勝家の治世下に大一揆が始まるのでした。
原城跡には2度か3度、私は行ってみましたが、ここに3万人からの百姓たちが一家一村あげて生活していて、ほとんど皆殺しの憂き目にあったかと思うと、感慨深いものがあります。それはキリスト教信仰だけの問題ではなく、生存そのものが脅かされていたから大一揆は起きたと私は考えています。
大一揆の原因をつくった勝家は、切腹させられたのではなく、責任をとらされ、大名として異例の斬首の刑に処されました。
島原は、平成になってからも噴火し、大規模な火砕流が起きて大災害となりましたが、寛政4(1792)年にも「島原大変、肥後迷惑」と今でも語り伝える大災害が起きました。死者1万人とも言われています。
島原城下をゆっくり散策し、そのあと温泉に浸るというコースは、おすすめです。
(2024年3月刊。1200円+税)
2024年6月21日
「悪の凡庸さ」を問い直す
(霧山昴)
著者 田野大輔・小野寺拓也 、 出版 大月書店
ナチスによるユダヤ人大虐殺の仕掛け人の一人、アイヒマンについて、アンナ・ハーレントは裁判を傍聴して「凡庸な役人」に過ぎなかったとしました。本書は、果たしてそうなのか、議論しています。興味深い対話が続きます。
アイヒマンは、無名どころか、アイヒマンの名は1930年代後半から、しばしば新聞などで言及されていて、ユダヤ人問題に関する権力者として広く知れ渡っていた。アイヒマンは、「ユダヤ人の皇帝」と呼ばれて恐れられていた。
アイヒマンは、アルゼンチンで敗残者として生きていたのではない。西ドイツの平均賃金を上回る給与を得て、家族とともに高級保養地でバカンスを楽しむゆとりをもっていた。1952年にオーストラリアから妻と3人の息子を呼び寄せ、1955年には四男ももうけている。
アイヒマンは本名のままで世界観に関する論議をし、ナチスの第三帝国時代の内輪話をして、社交の中心にいた。
アイヒマンは録音されたインタビューのなかでユダヤ人の大量虐殺があったことをはばかることなく認め、それについて何の後悔もしていないと言い放った。
アルゼンチンで、逃亡中の身でありながらアイヒマンが長広舌をふるったのは、重要人物としてスポットライトを浴びる快感にあらがうことができなかったから。
アイヒマンにはユダヤ人の遠縁も何人かいて、就職に際して便宜を図ってもらったこともある。
ナチス機構のなかで大学出でもないアイヒマンが出世するには、ユダヤ人政策において業績をあげるしかなかった。アイヒマンは、自分はユダヤについての知識を豊富にもっていると周囲に信じさせるだけの演技力を身につけていた。
アイヒマンは無能ではなかった。アイヒマンの知性は、ナチスのような不法国家においてのみ評価される類のもの。アイヒマンは単純な命令受領者ではなかった。
アイヒマンは、法規や命令を遵守(じゅんしゅ)するだけの杓子(しゃくし)定規(じょうぎ)な官僚ではなかった。むしろ、前例を打破して、目ざましい成果を上げるクリエイティブな組織者として名を馳(は)せていた。
アイヒマンのユダヤ人に対する個人的な憎悪は希薄だった。仕事で実績を上げて名声をえたいという出世欲や功名心がアイヒマンを突き動かした。
アイヒマンは中央官庁にいて、事務仕事をしているだけではなかった。東欧各地の現場で、ユダヤ人銃殺に直接従事していたし、頻繁にユダヤ人殺戮現場を視察して指示を出していた。
アイヒマンという人間の本質特質に触れた思いのする本でした。フツーの人が、自分の欲望を満足させるため、信じられないほどの極悪・非道なことができるし、するものだということが、改めてよく分かりました。
(2024年1月刊。2400円+税)
2024年3月26日
戦史の余白
(霧山昴)
著者 大木 毅 、 出版 作品社
著者の本は、どれも実によく調べてあって、いつも驚嘆しながら読み進めています。今回も知らなかったことがいくつもありました。
まず、ロンメル将軍(ドイツ)です。北アフリカでロンメル将軍の率いるドイツ軍はイギリス軍と戦闘し、結局、最終的にはドイツ軍は敗退しますが、途中までドイツ軍がイギリス軍を圧倒していました。1941年から1942年にかけてのことです。
このとき、ロンメル将軍は驚くべきことに194年6月22日からソ連へ侵攻する「バルバロッサ」作戦のことを知らされていなかったというのです。そんな重大なことを知らないので、ロンメル将軍は北アフリカ戦線にもっと兵力を増強してくれと国防軍本部へ要求し、拒否されていたのでした。だから、イギリス軍との戦闘は、国防軍本部の了解なしのロンメル将軍の独断専行ですすめられました。それでも途中まで大きな成果をあげたので、その限りでヒットラーから賞讃されたのでした。
次は、ヒトラー・ドイツによるコーカサス石油獲得作戦です。
ドイツはイギリスから海上封鎖されて石油の確保に苦労していました。そこで、ヒットラーはソ連領のコーカサス油田を狙ったのです。この油田を制圧したら、ソ連は石油不足になり、ドイツは有利になると考えました。そこで、戦闘軍団(A軍集団)に技術者集団を随伴させたのです。
ところが、ソ連は焦土作戦を敢行して、ドイツ側の技術者の活躍を封じ込めてしまいました。ドイツ軍がわずかに石油基地を確保したとしても、パルチザンの攻撃と破壊工作にさらされ、ほとんどモノにはならなかったのでした。ヒトラーの石油の夢は実現しなかったのです。
ドイツの国防軍のトップとヒットラーがそりがあわなかったことは、ヒトラー暗殺計画(ワルキューレ計画)があったことでも明らかです。この暗殺計画が失敗したあとヒトラーは、国防軍幹部を親ヒトラーで固めることに成功しました。
ところが、この本によると、ヒトラーの面前で「ドイツ式敬礼」(右手を高々と掲げ、「ハイル・ヒトラー」と呼ぶこと)をしなかった将軍がいて、しかもヒトラーの軍事上の指示を受け入れなかったというのです。それでも何の処罰も受けなかったといいます。信じられません。
このザウケン将軍はヒトラー免官されることもなく、装甲兵大将に進級し、第2軍司令官に就任しました。そして、ドイツ降伏後はソ連軍の捕虜となり、10年間の抑留生活のあと、ドイツ・ミュンヘンに居をかまえて画家となって、1980年に88歳で亡くなったのでした。いわば天寿をまっとうしたわけです。
歴史については複眼的視点が必要だと、いつも思っていますが、この本を読むと、もっともっと事実を知り、また想像力を働かせる必要があるようです。
いろいろ面白い裏話が満載の戦史の余白でした。
(2024年2月刊。2200円)
2024年3月12日
溺れるものと救われるもの
(霧山昴)
著者 プリーモ・レーヴィ 、 出版 朝日文庫
アウシュヴィッツ絶滅収容所に入れられながら奇跡的に生きのびたイタリア人の作家による深い洞察文です。思わず姿勢を正しました。知らなかったことがたくさん書かれていました。
ユダヤ人は強制収容所でやすやすと殺されるばかりではなかった。反乱が起きていたこと。それは、トレブリンカ、ソビボール、ビルケナウで起きている。そして、驚くべきことに成功したのもある。トレブリンカでは、ほんのわずかだけど、生きのびた人がいる。
いずれにせよ、反乱は起きた。それは決意を固めた、肉体的にはまだ無傷の少数者が、知力をふりしぼり、信じられないほどの勇気をふるい起こして準備したものだった。そして、その代償は恐ろしいほど高いものになった。
それでも、それは、ナチの収容所の「囚人」たちが反乱を試みなかったという主張が誤りであることを示すのに今も役立っている。
ユダヤ人たちがシャワー室だと騙されて入ったガス室に、特別部隊(ゾンダーコマンド)が立ち入ったとき、全員死んでいるはずなのに、16歳の娘が生きているのを発見した。娘の周囲に、たまたま呼吸できる空気が閉じ込められていたのだろう。ゾンダーコマンドは、彼女を隠し、体を温め、肉のスープを運び、問いかけた。しかし、彼女は瞬間・空間の感覚を失っていた。いま自分がどこにいるかも分からなかった。さあ、どうするか...。しかし、彼女は虐殺現場の目撃者。生かしておくわけにはいかない。
医師が呼ばれ、医師は娘を注射で蘇生させた。そこにSSの兵士がやってきて、状況を知った。このSS兵士は自分では殺さず、部下に娘を射殺させた。そして、このSS兵士は戦後、裁判にかけられ死刑となり絞首刑が執行された。
ドイツに住んでいたユダヤ人がなぜ殺される前にドイツを脱出しなかったのか...。彼らはほとんどが中産階級で、おまけにドイツ人だった。秩序と法を愛していた。体質的に国家によるテロリズムを理解できなかったのだ。
最悪のもの、エゴイスト、乱暴者、厚顔無恥なもの、スパイが生きのびたというのが現実。
ユダヤ人である著者は前から宗教(ユダヤ教)を信じていなかったが、アウシュヴィッツを体験したあとは、さらに信じなくなっていた。
収容所で死んだ人の多くは、その優秀さのために死んだ。
収容所でドイツ語を知らなかった「囚人」の大部分は入所して1日から15日のうちに死んでいった。情報不足のためだ。ドイツ語を知っていることは生命線だった。
ナチのSS部隊のメンバーとゾンダーコマンドのメンバーはサッカー試合を楽しむことがあった。両者は、対等か、ほとんど対等のような関係でサッカーを戦うことができた。
「おまえたちは我々と同じだ。誇り高きおまえたちよ。我々と同じように、おまえたち自身の血で汚れている。おまえたちもまた、我々と同じように、兄弟を殺した。さあ、一緒に試合をしよう」
人間とは、混乱した生き物である。人間は極限状態に置かれれば置かれるほど、より混乱した生き物になる。
SSにとって、「囚人」は人間ではなかった。牛やラバと同じ存在でしかなかった。とは言っても、すべてのSSが疑問なく任務を遂行していたわけでもないようです。
人間性について、人間とはいかなる存在なのかを深く考えさせられる本でした。
(2023年11月刊。840円+税)