弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2024年4月 1日

話術

人間


(霧山昴)
著者 徳川 夢声 、 出版 白楊社

 話す前に、念入りに草稿をつくり、これを十分頭脳に納め込んでおいて、壇に立ったら草稿は見ない。草稿を卓上に置いておくと、とかく草稿に頼りがちになり、自然に朗読調となって、コトバのもつ生命力がぬけてしまうおそれがある。また、視線が常に下へ注がれがちとなって、聴衆の注意力を散漫にしてしまう。
 ただし、統計表など、大きな数字や細かい数字が必要なときは、その数字を小さな紙片に書いておいて、堂々とこれを読む。すると、聴衆は、正確な数字だと思う。あまりにスラスラと大きな数字を言うと、デタラメを言っていると疑われることがある。
私も若いころは話す前に、きちんと原稿をつくっていました。でも、今では基本的につくりません。目の前の聴衆の顔を見ていると、今、ここで、何を話したらいいのか、自然に頭のなかに話す内容が沸き上がってきます。それに従って話すようにしています。
舞台に出る前は食事しない。
 どんなに空腹でも、お菓子を食べるか、サンドイッチを軽く食べるだけにしておく。本格的な食事は、舞台がすんでから。胃袋が満腹になっていると、頭脳が思うように働かなくなる。そうなんですよね。腹3分目くらいにとどめるべきです。
 舞台に上がったら、原則として水は飲まない。ノドがかわいたからといって水を飲むと、かえってかわきが烈しくなり、声を枯らしやすくなってしまう。
 演説をしてノドがかわくというのは、声帯その他の器官が充血して熱くなっているということなのだから、そこへにわかに冷たいものを流し込んだら、いけないに決まっている。せいぜい、ぬるま湯にしておく。飲み出すと習慣になるので、飲まないでしゃべる癖をつけておく。
 演説するときの格好は、ずっとそのままだと、見あきてしまう。そこで、演説の進行にしたがって、適当に形を変えていく。要は、見た目がギコチなくないよう、ごく自然に見えるように心がける。
 童話の読み方がうまくなりたいと思う人は、目の前に子どもが聞いているつもりで、話すように読む。恥ずかしがらずにかなり大きな声で読む。読むというより語る。漫然と読んでもダメ。いろんな想像力を総動員し、神経を働かしながら読むのが肝心。
 司会者が「5分間以内で...」と注意したときには、きっちり5分間で終わること。それを10分間も15分間もしゃべるのは罪悪でしかない。
 5分間というのは非常に短い時間のような気がするが、実のところかなり長い時間である。たいていの話は、5分あれば、まとまるものである。
徳川夢声とは何者か...。
 大正末から昭和の初め、映画館で上映される映画はカラー(総天然色)となっていたが、実は声も音楽も出ない無声映画だった。そこで活動弁士(かつべん)が登場する。その第一人者が徳川夢声。
 活弁は、映画の始まる前、5~10分間で、本日これからの映画のあらましを語る。これを前説(マエセツ)と言った。
 音声の出る、トーキー映画が本格的に日本で上映されはじめたのは、1931(昭和6)年のこと。アメリカ映画「モロッコ」が一番目のトーキー映画。
 野次は黙殺すべし。聞こえてはいるが、いっこうに平気だと見られるようにする。
話し手の眼を見る。眼以外のところを見てはいけない。
 気持ちや感情を眼にこめて相手を見る。そのとき、何かをしながら聞いてはいけない。
 さすが、戦前の著名な活動弁士(カツベン)の語る話術です。大いに参考になりました。
(2003年2月刊。1800円+税)

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2024年4月 2日

宝塚に咲いた青春

社会


(霧山昴)
著者 玉井 浜子 、 出版 青弓社

 宝塚歌劇団の女性が自死した事件について、劇団側は、なかなか事実関係を公表せず、遺族側の要求に真剣に向きあっていないという印象があります。解決が長引けば、ますますタカラヅカの印象・評判が低下していくだけなのではないかと思うのですが...。在籍している多くの若い女性たちの努力と苦労を生かす方向での早期解決を期待するばかりです。
 この本は戦前・戦後のタカラジェンヌの回想録です。昔も先輩には逆らえなかったこと、イジメがあっていたことが暴露されています。
 「あんた、生意気や」
 「感じ悪いなあ」
 「夜ウチとこの部屋へいらっしゃい」
 こう言われたら、一日中、生きた心地がしなくなる。何の根拠もなく決めつけられる。自分たちが上からされたことを繰り返して、いわば報復していたのだろう。
 夜お部屋へ来いというのは、最大のイジメ。6畳一間に上級生が5人か6人座っていて、入っていくと中央に座布団が1枚置いてある。入り口に座ると、真ん中へ来いと言われる。座布団を動かそうとすると、そこへ座りなさいというので、座布団の上に座ると、とたんに罵声をあびる。
 「なんや、あんた、上級生が座布団に座ってへんのに、一人で座ってええのんか」
 「生意気やで」
 「顔上げてみいや」
 「それなら、さあ、もう1枚お敷きあそばせよ」
 口答えできず、目を上げることも足を崩すことも不可能な姿勢のまま、上級生たちがあきるのを待つだけ。やっと解放されて自室に戻ると、心配した同級生が待っている。座布団の枚数がどれくらいイジメられたかのバロメーター。普通は3枚か4枚、最高は6枚。6枚の上に正座するのは難しいうえに、ずっとイヤミを言われる。情けないやら悔しいやらで、心のなかは煮えくり返るような思い。
 しかし、反省しているようなしおらしい態度を保ち続けるのは、苦しい演技力。
 そんなタカラジェンヌたちが1948(昭和23)年6月には3日間、ストライキをぶって休演したというのです。
 戦前も松竹歌劇団はターキーを団長としてストライキを敢行しています。やっぱりやるべきとき、たたかわなければいけないときには、ストライキも何でもやってみることなんですよね。
 
(1999年11月刊。1400円+税)

 いよいよ4月、まさしく春らんまんです。
 桜は満開、チューリップも全開です。
 今年は桜の開花が例年より遅いかなと思っていましたが、3月末に一気に満開となりました。ソメイヨシノのほんのりピンク色の花びらを見ると、心が浮き立ちます。
 庭のあちこちにチューリップが全開しています。雨戸を開けると、元気なチューリップを眺めることができ、生きる元気をもらっています。
 さあ、今日も一日がんばろうという感じです。

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2024年4月 3日

軍服を着た法律家

日本史(江戸)


(霧山昴)
著者 佐々木 憲治 、 出版 風詠社

 映画に見る軍事法廷と日本、こういうサブタイトルのついた本です。この本に出てくる映画のほとんどを残念ながら私は見ていません。著者は、全部みているわけですので、相当なオタクというべきでしょう(敬意を表しているつもりです)。
 この本が取りあげている軍事法廷とは、軍法会議と軍律法廷です。
 まずは軍法会議。軍法会議の対象となるのは、①入隊中、②召集兵、③退役軍人、④予備役。原則として民間人は対象外。ところが例外はある。①敵対国の外国人、②身分を明らかにせず敵対行為をした不法な戦闘員、③軍属、④戦場の民間人が軍法を破ったり、戦争犯罪を犯した容疑があるとき。
 軍法務官(リーガル・オフィサー)は軍の中では傍流。
 原則として上官の命令には従う義務がある。そして命令は憲法以下の法令に違反しない限り、一般的に合法なものと推定されている。これは自衛隊員も同じで、上官の命令が違法なものだったら、その命令は当然に無効なので従う義務はなく、むしろ違法な命令には拒否しなければならない。そして、命令が合法だったときに従わなかったら、抗命罪として処罰の対象となる。
 昔、チリのアジェンデ大統領に対するピノチェト将軍の反乱において、反乱出動を拒否した兵士は、列の外に出され、その場で射殺されていくというショッキングな映像を見た覚えがあります。
 これは、もちろん違法な命令なのですが、抗命罪として裁判もなく即時死刑が執行されたというものなので、二重の意味で間違いです。ところが、クーデターに成功したピノチェト将軍は、長くチリの大統領として軍事独裁を強行し続けました。恐ろしい現実です。
 アメリカ軍には、敵と遭遇して戦闘を開始するときについて定めた「交戦規定」ROEがあり、公表されている。ところが、自衛隊にも「部隊行動基準」というROEに相当するものがあるが、こちらは非公開とされている。その理由は敵に手の内をさらすことになるからというもの。
 自衛隊員は「敵」と殺し、殺されるという訓練を重ねているわけですが、そんな実態が国民に知られたら困るということなんでしょう。いかにも日本政府の考えそうな姑息(こそく)なやり方です。国民に事実を知らせたくない、知ってほしくないという、間違った姿勢そのものです。
 軍法会議の弁護人について、被告人は民間の弁護士を雇うことができるけれど、多くの場合、軍の法務官が弁護人をつとめる。軍法務官は、一方で軍事司法をつかさどるJAGに属し、任務として軍事司法の独立を保ちつつ、弁護人としての職責を果たすが、他方ではJAGという軍事組織の中の組織人でもある。上層部にあらがうか否かは、軍法務官の弁護人としての矜持(きょうじ)に支えられている。まあ、一般的には無理ですよね。
 日本の自衛隊にも法務官が存在する。また、自衛隊には警務隊という部隊が存在する。いわば自衛隊内の警察官。ただし、懲戒処分には関わらない。
 アメリカ軍には、軍法会議のほかに軍事委員会という軍事裁判所がある。9.11同時多発テロに際して設置された。たとえば、戦争行為の一環として召集され、自国軍の軍事作戦を阻もうとする戦争法規に違反した敵戦闘員を「戦争犯罪人」として審理するための法廷。
 アフガニスタンのタリバン戦闘員を捕獲して、キューバのグァンタナモ海基地に送り、同基地に軍事委員会が設置された。
 東京裁判とは別に、トルーマン大統領の命令によってマッカーサー元助が設置した軍事法廷があったが、これが軍事委員会。有名な映画『私は貝になりたい』は、この軍事委員会を扱っている。BC級戦犯を審理した軍事委員会における裁判を扱った映画だ。
 いやあ、そうだったんですか...。ちっとも知りませんでした。
 軍法会議と似ていて違うものに軍律会議がある。これは、軍律に違反した一般国民・敵国人・第三国人等を審判するため特設された法廷。自国の軍人・軍属の規律の維持を目的とする軍法会議と異なり、軍律会議は審判の対象が専ら戦争犯罪やスパイ容疑の敵国の軍人であって、法律に基礎を置かない軍事行政機関。いわば簡易かつ便宜的な法廷。
 いやあ、よくぞ丹念に調べあげたものです。驚嘆するほかありません。
(2022年12月刊。1650円)

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2024年4月 4日

大江戸トイレ事情

司法


(霧山昴)
著者 根崎 光男 、 出版 同成社

 ヨーロッパでは畑の肥料として糞尿をまいたら、大根などの野菜を生(ナマ)で食べるなんて人々の衛生観念から考えられもしませんでした。ところが、日本では、同じように育てた大根を生でも食べているのを見て、ヨーロッパ人が驚いたということです。
 私の子どものころ、農村地帯に行けば、畑の一隅に肥料とするための糞尿ためがあちこちにありました。間違って、そこに足を突っ込んでしまうという悲劇も日常茶飯事に起きていました。私も経験したような気がします。表面は乾燥しているので、地面そのもので区別がつかないのです。
 江戸時代の初期には、町の糞尿は邪魔物でしかなかった。ところが、江戸中期以降、生鮮野菜を育てて江戸に供給する必要から、肥料として江戸の糞尿が注目されるようになった。つまり糞尿が下肥として商品価値を帯びるようになった。
 すると、糞尿を引き取りたい江戸周辺の農村ではお金を出して確保するようになった。でも、値段が上がるのは困る。そこで、農村側は下肥値段の値下げを運動として取り組んだ。そこに、一部の農民が抜け駆けをして、少しでも下肥を多く確保しようとする。なので、都市と農村側とでは、ずっとその交渉が続いた。
 その交渉のあいだに立ったのが町奉行所であり、関八州取締役だった。関八州取締役というのは、ヤクザを取締って治安を維持するという仕事だけではなく、下肥(糞尿)の取引にも介在していたのですね。
 昔は、百姓は「モノ言わない存在」というイメージでしたが、実のところ、どうしてどうして、町や奉行所に対して、自分たちの要求を通そうとして、いろいろ運動していたのです...。もちろん、そこでは、読み書きが出来ることが必須でしたが、そこは心配なかったのです。寺子屋はあるし、従来物と呼ばれるテキストを学ぶと、当局への嘆願書や訴状の見本があるのですから...。
 江戸時代、江戸には各所に公衆便所が設置されていました。朝鮮通信使が江戸に来たときには臨時の便所が設置されました。
 そして、この公衆便所には落書きもあれば、なんと広告まで貼られていたのでした。
 ちなみに、便所の周辺に赤い実をつける南天の木がよく植えられていますが、それは、「南天」が「難転」、つまり「難を転じる」から、火難よけになると信じられていたからだというのを初めて知りました。
 京阪では、人糞の売却代金は家主の収入で、小便のほうは借家人の収入とされた。
 ところが、長屋の共同便所を管理している江戸の家主は、その糞尿の売却代金の全部を自分の収入としていた。
 当時の江戸の人口は、町人が50万人、武家たちが50万人、合計100万人をこえていた。すると、糞尿(下肥)の代金総額は3万5千両を超えるものだった。たいした金額ですよね、驚きました。
 よくぞここまで調べあげたものだと感嘆しながら読みすすめました。
(2024年1月刊。2400円+税)

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2024年4月 5日

悩める平安貴族たち

日本史(平安)


(霧山昴)
著者 山口 博 、 出版 PHP新書

 テレビを見ていないので、なんとも言えませんが、紫式部という女性には、昔からすごく関心があります。『源氏物語』には、私も何度か挑戦しました。もちろん原文ではありません。
 平安時代の男性の生き甲斐は、出世と恋と富の三つ。そして女性は、「書く」ことに生き甲斐を見出していた(もちろん、すべての女性ではありません)。
 紫式部は『源氏物語』を書くことにより、ともすれば落ち込む心を励まし、清少納言は『枕草子』を書きつづることにより、個人臭は強烈だが、宮仕えの実相を明らかにした。
日記を書いた女性もいる。紫式部は物語だけでなく日記も書いている。菅原孝標(たかすえ)の娘は『更級(さらしな)日記』と4本の物語を書いた。
 私も「書く」ことに生き甲斐を見出しています。今は、昭和のはじめに東京で生活していた亡父の生きざまを活字にしていますが、いろんな資料を入手するたびに新鮮な驚きがあり、毎日ワクワクして生きています。
 清少納言は結婚し、離婚した。そして、28歳ころ、藤原道隆(関白内大臣)の娘であり中宮(天皇の妻)の定子(ていし)の私的女房として、定子が死ぬまで8年のあいだ仕えた。
 女房社会を謳歌するには、歌を詠(よ)むことがとても大事だった。
 紫式部にとって、華麗な貴族の生活はなじめない世界だった。紫式部の世界観は「世は憂し」だった。そうなんですか...。
 紫式部は、和泉式部についてはいささかの文才を認めたが、清少納言に対しては徹底的に批判した。才能ある女性同士のサヤ当てなのでしょうか...。
女性の棒給は男性の半分と規定されていた。ただし、定年はなく、終身雇用が建て前だった。
 平安時代の貴族にとって、自分を性的に解放して生きるのは自然なことであり、何ら非難すべきものではなかった。その後も、この伝統は脈々と生きています。和泉式部には30人から40人ほどの愛人(男性)がいた。一夜のうちに男性から男性へと渡り歩き、誰の子をはらんだか分からなくなった女房は、和泉式部だけではなかった。
 節度をわきまえた「色好み」は、人格的欠陥ではなく、当時の貴族の身に備えるべき条件だった。光源氏のモデル説のある藤原実方(さねかた)は、20人以上の女性と関係があり、清少納言もその1人だった。そうなんですか...。
藤原道長や道隆の棒給は、年収にして3億円から4億円。そのうえ、地方官から、鳥など山のように贈り物があった。これに対して、中・大流貴族の生活は苦しかった。
 右大臣までつとめた藤原良相(よしみ)は、自邸の一角に邸宅を建て、藤原氏の「窮女」「居宅なき女」を収容した。
平安時代の貴族は男性も女性も短歌がつくれなかったら評価されなかったようです。これって、向き不向きを考えると、結構きびしい条件となりますよね。
(2023年11月刊。1100円+税)

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2024年4月 6日

モサド・ファイル2

アメリカ


(霧山昴)
著者 マイケル・バー・ゾウハー 、 出版 早川書房

 イスラエルのガザ侵攻がいつまでたっても終わりません。私は直ちに停戦し、イスラエルは軍隊を速やかに撤退することを求めます。ガザ地区のハマスを支持しているわけではありません。ともかく戦争をやめてほしいのです。
 暴力には暴力を、力には力を、こんな単純な発想では、いつまでも復讐の連鎖反応は止まりません。
 イスラエルは、その国の存立を守るため強力に武装し、また、スパイ活動を強化しています。本書では、そのほんの一端が女性スパイに焦点をあてて紹介されています。
ユダヤ人大虐殺に関与したナチスの将校アイヒマンをアルゼンチンが逮捕・連行するとき、モサドは、そのなかに女性も1人だけ工作員に加えていた。
 アイヒマンを逮捕し監禁していたところ、連行する飛行機の都合で、10日間ほど、夫婦として何ら変わりのない日常生活を送っていることを演出しなければならなかった。
 アイヒマンは投薬され、パイロットの制服を着せられてイスラエルの機内にこっそり運び込まれました。そしてイスラエルへ連れ去られ、世紀の裁判が始まったのです。その状況を再現した映画はみました。
 この本を読むと、モサドの工作員には女性もたくさんいて、重要な役割を果たしてきたことがよく分かります。まあ、国家としては必要な期間なのでしょうが、すべては平和を守るため、戦争にならないようにするためであってほしいと心から願います。
(2023年11月刊。3300円)

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2024年4月 7日

「東京の下町」

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 吉村 昭 、 出版 文春文庫

 昭和の初めころの東京の下町の様子がよく描かれています。
 先日、90歳を過ぎた山田洋次監督が寅さん映画がつくられたころと今の時代との違いを説明していました。映画が撮影されたころはみんなそこそこ貧しかったけれど、まじわりあいがありました。今では、富める人はタワーマンションにこもっていて、貧しい人は死ぬほどこき使われたり、バラバラにされていて交流がありません。昔の下町にあった長屋的な交流の場は失われてしまいました。本当に残念です。
 若者が未来に夢をもてず、結婚せず、子どもが産まれない(少子化)状況が深刻化するばかりです。そんな今こそ、寅さん的笑いが必要なんじゃないかと山田監督は訴えています(と私は理解しました)。
 たとえば映画です。かつて浅草6区には映画街がありました。両側にずらりと映画館が並ぶ長いストリートがあったのです。
 江川劇場、遊楽館、万成座、三友館、千代田館、電気館、金竜館、富士館、帝国館、大都劇場、東京倶楽部、大勝館などなどです。そして、当時の写真をみると、映画街のメインストリートが歩く人々で見事に埋め尽くされています。呼び込みする係員もいたそうですが、呼び込みなんてするまでもありませんでした。また、エノケン一座が公演し、歌手の淡谷のり子が「雨のブルース」を歌った松竹座、「あきれたぼういず」が出演していた花月劇場もありました。
 私の生まれ育った町にも、小さな映画館がたくさんありましたし、旅役者が劇を演じる芝居小屋もありました。
 嵐寛寿朗の「鞍馬(くらま)天狗」の映画のなかで、主人公が馬に乗って悪漢どもから杉作少年を救出に駆けつける場面では、館内が総立ちとなり、騒然とした雰囲気のなか、「早く、早く」と声がかかり、拍手が鳴り、主人公が悪漢どもを次々に切り倒していくのです。そのシーンはまさしくクライマックスでした。
 大人も子どもも、館内一丸となっていました。この一体感のなかで、少年は助かったという満足感に浸りながら家路に着いたのです。こんな感動を今の子どもたちに味わせたいものだと本当に思います。
 1927(昭和2)年に東京に生まれた著者による東京の下町情景は、戦後生まれの私にもまだ十分に体験として分かるところがあり、うれしくなりました。
(2018年6月刊。770円+税)

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2024年4月 8日

極東のシマフクロウ

生物


(霧山昴)
著者 ジョナサン・C・スラート 、 出版 筑摩書房

 本のタイトルからすると、なんだか恋愛小説かもしれないと思わせますが、内容はタイトルどおり、世界一大きなフクロウを探してアメリカ人の大学院生がロシアの辺境の地でシマフクロウを保全するため捕獲しようとする話です。いやはや大変な苦労をともなう作業です。よくぞ極寒の地での生活に耐えられたものだと驚嘆しました。
 シマフクロウを捕獲するのは、その個体が次々にどのような状況になっているのか識別し、比較するためには欠かせません。遠くから観察しているだけでは足りないのです。
 シマフクロウの羽衣の色は、周囲の樹皮の黒や茶色、灰色に溶け込み、ほとんど区別がつかない。たしかに気のウロにいるシマフクロウの写真がありますが、遠くから見たら、とても見つけられそうにありません。
この本の舞台はロシアですが、日本の北海道にも、100つがいのシマフクロウが生息しているとのことです(2022年現在)。これは1980年当時の5倍で、それは保護する努力が実ったからだそうです。たいしたものです。
 日本では、19世紀に500つがいがいたのが、1980年当時には20つがいにまで減ったのでした。もちろん、人間による開発という名の自然破壊の結果です。
 シマフクロウのつがいは、声を合わせて歌う。シマフクロウのデュエットは、たいていオスが始動する。オスがまず、短く、苦しげにホーという声を絞り出す。するとメスは、すぐにホーと、オスより低い音色で鳴き返す。フクロウは一般にメスのほうが声が高いので、珍しいこと。
 次にオスが、さっきより長めで少し高めのホーという声を出し、メスはこれにも鳴き声で応える。この四つの音による泣き交わしは3秒で終わり、その後は1分から2時間までの一定の間隔をあけてデュエットが繰り返される。2羽の声は美しくシンクロし、シマフクロウのつがいによるデュエットを聞いた人の多くが、歌っているのは1羽だと勘違いしてしまう。
 シマフクロウは、200ヘルツという低い周波音域でホーと鳴き、それはカラフトフクロウの鳴き声の周波音域とほぼ同じで、アメリカワシミミズクの2倍の低さだ。シマフクロウの声はあまりに低く、マイクで拾うのは難しい。シマフクロウが低い周波数で鳴くのは目的にかなっている。周波数の音声は、密林ではより伝わりやすく、数キロも離れた遠くからでも聞きとることができる。木があまり繁らず、ひんやりとした爽やかな空気が音波の伝達を容易にする冬と春の初めは、とくにそうだ。
 シマフクロウのデュエットには、なわばりの宣言と、つがい同士の絆(きずな)を確認するという二つの意味がある。つがいがもっとも活発に鳴き交わすのは、2月の繁殖期である。この時期は、1回のデュエットの時間が長くなって、何時間も続き、ときには一晩中続くこともある。
 オスが木と声を絞り出すときには、喉の白い部分が大きく膨らみ、直立したぼさぼさの大きな羽角(うかく)が、シマフクロウが身体を動かすたびにコミカルに揺れる。
シマフクロウは季節的な移動を行わず、夏の暑さにも、冬の霜にも耐えて、同じ場所に留まる。なので、デュエットを聞いたら、そのつがいは、森のその場所に伝え住み着いているということ。
 シマフクロウは長生きする。野生のなかには25年以上生きていた例がある。デュエットするつがいは、毎年、同じ場所に住み続けている可能性が高い。
 シマフクロウは、横穴型のうら(木の側面にできた樹洞)を利用した巣穴を好む。それは、暴風雨から身を守る効果が高いから。
 メスが巣についているとき、オスはたいていどこか近くでメスを見守っている。
 メスはオスに比べて尾羽に白い部分が多い。これは性別を判断するうえで、信頼性の高い基準だ。
 シマフクロウは、胸元の薄い黄褐色の羽毛により濃い色の横縞(しま)が転々と入っていて、それがこの鳥を木の一部のように見せている(擬態)。まるで、木の大きなコブに命が宿り、復讐心を燃やしているかのようだった。
 一般に、シマフクロウのつがいの片方が死ぬと、生き残った一羽は、その場所に残り、新しいパートナーを呼び寄せるために鳴き声を上げる。
 シマフクロウを捕獲するためには苦労する。真っ先にワナを変えた。シマフクロウを仕掛けたわなで捕まえてみると、驚くほどおとなしかった。あちこち突き回されても、呆然として横たわっているだけで、ほとんど抵抗しない。人間の側の安全のために拘束ベストを着せた。
 身体を計測し、血液を採取し、個体識別用の足環(あしわ)をつける。
 捕まえたシマフクロウには名前をつける。なわばりと性別で、たとえばファータ・オスというように。
 シマフクロウは、冬は中核エリアから離れない。メスは巣について離れず、オスは巣の側で見張りをし、パートナーに食べ物を届ける。
 春には、シマフクロウの関心は隣接するなわばりとの関心に向かった。
 いやはや、鳥そしてひいては人間の安全に生息できる環境を守るための努力というのはこんなに苛酷なことも求められるものなのか...。粛然たる思いがしました。
(2023年12月刊。3300円)

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2024年4月 9日

ガザとは何か

ヨーロッパ


(霧山昴)
著者 岡 真理 、 出版 大和書房

 イスラエルのガザ侵攻がいつまでたっても終わりません。本当に心配です。
 アメリカの国会議員(共和党)がガザに原爆を落としたらいいなんて、とんでもない発言まで飛び出しています。アメリカがイスラエルに停戦を要求しない(できない)ところに停戦が実現しない理由があるように思われます。
 すでに死者は3万人をこえ、その半数近くが子どもと言われていますし、人道支援も微々とるものにとどまっているため、餓死者が続出する心配が現実化しています。
 この本は昨年10月の2つの大学での講演録をまとめたものです。わずか40日という異例のスピードで緊急出版されました。
 今、イスラエルがガザ地区でやっていることは、ジェノサイド(大量殺戮(さつりく))にほかならない。
 ところが、今の日本のマスコミ報道の多くはハマスのテロ攻撃が原因だったとして、ジェノサイドに加担しているような状況にある。
 イスラエルはパレスチナ人に対してアパルトヘイトをしている。イスラエルという国は特定の人種の至上主義にもとづく、人種差別を基盤とする国家である。
ガザ地区は、西岸とともに1967年以降、50年以上にわたって、イスラエルの占領下にある。そして、2007年から、イスラエルによって完全に封鎖されている。物資も人間も、イスラエルの許可する物しか搬入・搬出、入域・出域はできない。袋のねずみ状態にされているガザ地区に対して、イスラエルは海から空から陸からの大規模な軍事攻撃をこの16年間に4回も繰り返している。つまり、ガザの人道危機は、今回の出来事で始まったことではない。
ガザの人口は230万人。その7割が難民。ガザの人々の4割は14歳以下の子ども。ガザの平均年齢は18歳。
 イスラエルはガザ攻撃で白リン弾を使っている。白リン弾は、空気に触れているかぎり鎮火しない。骨に達するまで肉を焼き尽くす。一度吸い込んだら、肺を内側から、体の中から焼き焦がしていく。
 シオニズムは、はじめユダヤ人のなかで人気がなかった。正統派ユダヤ教徒はシオニストはもはやユダヤ人ではないと考えた。
 シオニズムを推進した人々は、同化ユダヤ人で、非宗教的な人々だった。
 シオニズムのプロジェクトは、パレスチナの民族浄化を本質的かつ不可避に内包していた。ユダヤ国家イスラエルの建国は、レイシズムにもとづく植民地主義的な侵略である。ユダヤ人が祖国をもった結果、パレスチナ人は第二のユダヤ人、いわば現代のユダヤ人にされてしまった。
ガザ地区自体が一つの大きな難民キャンプみたいなもの。その面積は東京23区の総面積の6割ほどでしかない。ガザの失業率は46%で世界最高。著者は、ほぼ失業している。ガザの住民の6割は満足に食事がとれない。乳幼児の過半数が栄養失調。糖尿病がガザの風土病になっている。
 ハマースは、イスラーム主義を掲げる民族解放の運動組織。
 イスラエルは、主権をもったパレスチナの独立国家など、つくらせるつもりは初めからなかった。
 イスラエル軍は、パレスチナ人のデモ隊員を攻撃するとき、意識して若者の足を積極的に狙え...。
 イスラム教では、自殺を宗教的に最大のタブーとしている。それでも、自殺者が毎年2万人ほどもいて、とりわけ若い人に自殺が増えている。
 地獄とは、人々が苦しんでいるところのことではない。人が苦しんでいるのを誰も見ようとしないところのことだ。
ガザは、巨大な実験場。イスラエルの最新式兵器の性能を実践で実験するところ。
ガザについて、「天井のない世界最大の野外監獄」だとよく言われる。しかし、今の状況は監獄どころではない。囚人が無差別に殺される、なんて監獄があるはずもない。
私たちに出来ることはまず、正しく知ること。少しずつ学んでいく。これを継続する。
イスラエルに即時停戦、そして撤退を強く求めます。
(2024年3月刊。1400円+税)

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2024年4月10日

日本の武器生産と武器輸出

社会


(霧山昴)
著者 綾瀬 厚 、 出版 緑月出版

 いま、自民・公明政権は戦闘機を海外へ輸出できると閣議決定し、すすめようとしています。軍事産業を振興させることによって日本の産業を活性化する狙いもあるとみられますが、人殺しの兵器をどんどんつくって海外へ輸出して国を成り立たせようというのでは戦後、営々として築き上げてきた「平和国家・日本」という金看板を汚してしまいます。「戦争する回ニッポン」という、昔の、戦前の看板を復活させて、いいことは何ひとつありません。
 この本を読んで驚いたのは、第一次世界大戦が起きたあと、ロシアから日本へ武器輸入の要請が来て、日本がロシアへどんどん武器を輸出していたということです。まったく知りませんでした。ドイツの東部戦線で対決していたロシア軍は、兵器・装備の不足のため劣勢を余儀なくされていた。その結果、日本は大正4年におよそ1億円近い武器・弾薬をロシアへ輸出した。日本政府は、ロシアへ大量の武器・弾薬を輸出するため官民合同による兵器生産体制の確立を急いだ。
 次は、日本の武器輸入です。満州事変の前後ころ、日本は海外から武器を輸入していました。1930(昭和5)年は、イギリス、スイス、ドイツ、でした。1931年もトップはイギリスで、フランス、アメリカと続きます。1932年になると、フランス、イギリス、ドイツと、フランスが一番になりました。これは、イギリスに対日警戒感が強まったことがあるようです。
 イギリスは、この当時、世界最大の武器輸出国。武器を輸出して、相手国との経済的かつ軍事的関係の強化を図り、それによって覇権主義を徹底し、国際秩序の主導者としての位置を占めていた。
 それにしても、現代日本のマスコミの批判精神の欠如は恐ろしいと思います。
 戦闘機を海外に輸出するなんて、「平和な国ニッポン」という最大のブランドを汚すものでしょう。海外からの観光客を呼び込むのにも障害になるのは明らかでしょう。
 先日、政府は沖縄の諸島にシェルターをしてくるという方針を発表しました。正気の沙汰ではありません。いったいミサイルが飛んできたとき、シェルターがどれほど役に立つというのでしょうか...。そんな問題点をきちんと指摘もせず、シェルターの構想を恥ずかし気もなく、そのまま報道しているだけというマスコミの姿勢に私は納得できません。
 シェルターに2週間とじこもっていたら自分と自分の家族だけは助かる。そんなバカなことはないでしょう。
 戦前・戦後の日本の武器生産と武器輸出の事実を刻明に明らかにした労作です。
(2023年12月刊。3300円)

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2024年4月11日

小鹿島、賤国への旅

韓国


(霧山昴)
著者 姜 善奉 、 出版 解放出版社

 著者の両親は、日本の植民地時代にハンセン病を発症し、父親は小鹿島(ソロクト)に強制収容されました。そして、脱走して、母親と出会い、1939年に著者が生まれました。
本書は著者の20代までの自伝です。日帝支配下の小鹿島の状況、解放後の様子、そして、そこで過ごさなければならなかった人たちの歴史を伝え残しているものです。ですから、振り返りたくもない自身の苦痛にみちた過去がさらけ出されています。
 小鹿島は、韓国の南端、全羅南道高興郡の港街である鹿洞(ソクトン)の海岸端に立つと、目と鼻の先に見える小島である。
 韓国のハンセン病の病歴者とその家族の精神的支柱は、キリスト教の篤(あつ)い信仰。小鹿島には、キリスト教(プロテスタント)の教会が5つ、カトリックの聖堂が2つある。
 ハンセン病の患者たちが組をつくって街に出て物乞いをして歩いている状況が登場します。映画『砂の器』にも、親子で物乞いをしてまわる状況がありましたよね、その場面をつい思い出しました。
 物乞いでも、稼ぎのいい者もいれば、悪い者もいる。物乞いも技量がものを言う。
 1日に何十里も歩いた。ときにはなにもくれない人もいたけれど、くれる人のほうが多かった。
 ハンセン病の患者は結びつきを何より求めた。それは肉体的にお互いを頼りにし、体調が悪ければ世話をしあうため、そしてもっとも重要なのは、死んだときに死後の処理をしてもらうためだった。
 さつま芋は、島で唯一の補充食料だった。そして冬の間食として、とても重要だった。
 芋の蔓(つる)を干したものは、特別なおかずとして正月やお盆、来客のあったとき、結婚式の披露宴には必ず出た。とった芋の蔓を十分にゆでてから、しっかり干して保管し、ナムルにするときには、またもや水に浸しておいてから絞り、豚の脂(あぶら)で炒(いた)める。最上のおかずだ。
 繁殖力の強いウサギが主に肉食の対象となった。ウサギの肉にもち米とニンニクを入れて煮たり、ウサギの肉にウルシの皮を入れて煮て、薬として食べた。
 島には監禁室があった。監禁室での監禁は、園長の特権だった。裁判も弁論もなく入れられた。その罪名は、時間外点灯、殺人、逃走、姦淫(かんいん)、命令不服従などだった。小鹿島のハンセン病者たちは、まるでハエ叩きで叩かれて死ぬハエのような命だった。
 小鹿島は言葉どおりに賤国である。そして、そこから出てもなお賤国市民のままであった。
 これは本書の最後に出てくる著者の言葉です。大変な苦労を重ねながら、生き抜いてこられたのです。心より敬意を表します。この本を読んで初めて韓国におけるハンセン病歴者の状況の一端を知りました。
(2023年2月刊。2500円+税)

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2024年4月12日

記者狙撃

社会


(霧山昴)
著者 中村 梧郎 、 出版 花伝社

 戦場では、たくさんの記者が狙撃されて亡くなりました。
 ベトナム戦争が終わったのは1975(昭和50)年4月30日のこと。私が弁護士になった翌年のことです。メーデーの会場でアメリカ軍がサイゴン(現ホーチミン市)からみじめに撤退していく状況を刻々と知らされたことを覚えています。
 その4年後、中国がベトナムに侵略戦争を仕掛けました。それを主導したのは、復活してまもなく中国の最高指導者となった鄧小平です。ベトナムがカンボジアのポルポト政権を崩壊させたことを恨みに思って、「ベトナムに懲罰を支えてやる」と高言したのでした。アメリカと長期の戦争でベトナム側は反撃できないだろうと見込んでのこと。中国はベトナムとの国境地帯に、北京以外の全軍区から60万人もの兵を動員しました。
 1979年2月17日未明、中国軍12個師団(6~10万人)がベトナムへ侵略を開始した。
 対するベトナム軍は軍の精鋭部隊はカンボジアに投入していて、正規軍では対応しなかった(できなかった)。地元の山岳地帯を熟知している地方軍、民兵、公安警察。いわば補助部隊で対戦した。ベトナム側は空軍も戦車部隊も出動させなかった。
 中国軍の戦法は朝鮮戦争のときと同じ人海戦術。進軍ラッパをプープー鳴らし、先頭の兵隊が赤い大きな軍旗を振りまわし、ワーッと喚声をあげ、「突撃」と叫んでやって来る。中隊規模の100人ほどの兵士が1列横隊で進軍して来る。これで敵を脅して戦意を喪失させようというのです。時代錯誤そのものです。
 対するベトナム軍は、タコつぼを握って分散して待ちかまえる。そして、「なるべく殺すな。手や足を狙って動けなくせよ。ほかの兵隊が負傷兵を担いで退がることになるから、戦力が著しく減退する」、こんな戦法で大きな成果をあげた。
 著者が高野功記者とともに中越戦争の最前線のランソンに出向いたのは1979年3月7日のこと。ランソンからほとんど撤退していた中国軍の一部がランソン市内に潜んでいたのです。行政委員会(市役所)の建物の2階から小銃で狙撃するチームと、前方の川の対岸の機関銃部隊という2重の攻撃隊形で日本人ジャーナリストを待ち伏せしていた。著者は、このように推測しています。
 殺された高野記者はベトナムに常駐している赤旗新聞の特派員でした。ベトナム戦争そして、中越戦争をいち早く報道する日本人ジャーナリストが邪魔だったのです。
 高野記者を狙った銃弾は頭部に命中し、即死でした。
 高野記者は1943年生まれで、当時35歳。1人娘(5歳)は、パパの死が理解できず、「パパはどこにいるの?」と言って葬式のときも探していたそうです。
 高野記者は4年でベトナム語を習得し、ベトナム語の達人になっていたとのこと。たいしたものです。
 なお、三菱樹脂事件で有名な高野達男氏が高野記者の兄だということを、私はこの本を読んで初めて知りました。私が大学生のころの事件で思想・信条による採用差別は許されないという画期的な判例を勝ちとった(と思います)人です。なにより画期的なのは会社と和解して復職し、子会社の社長まで務めていたということです。私も高野達男氏の話を聴いたことがありますが、闘士というよりいかにも穏やかで、知的な人でした。
 高野記者と行動をともにしていて、一瞬の差で生死を分けた著者が40年後に現場に戻った話も出てきます。そして、そのとき負傷したベトナム軍の兵士たちが無事だったことを知るくだりは感動的でした。
 ベトナム戦争そして中越戦争に関心のある人には必読の本です。
(2023年10月刊。1700円+税)

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2024年4月13日

人生のマイルストーン

アメリカ


(霧山昴)
著者 中嶋 照夫 、 出版 幻冬舎

 女性5人、男性4人の9人、その平均年齢はなんと68.7歳。
 70歳目前の「ジジ・ババたち」によるキャンピング・カーでのアメリカ縦横断旅行(43日間)の体験記です。夫婦2人で、とか、日頃から気のあった仲間で出かけたというのではありません。こんな大胆な旅行を思いついた人が新聞で同好の士を募ったのです。
 そのときのキャッチコピーは、「気力、体力、知力を使い果たす前に、生涯の大旅行をしよう」というもの。そして募集したときの条件は3つ。①協調性があること、②ペアで参加できること、③好奇心旺盛であること。ここには健康であることは条件になっていませんが、当然のことだからでしょうね。胃腸が丈夫なことというのもありません。
募集人員は最大7人としていたところ、20人ほどから申し込みがあったそうです。1ヶ月半もアメリカ旅行するというのですから、金銭的にも余裕のある人じゃないとダメですよね。
呼びかけた側にとっての一番重い課題は仲間意識の醸成。出発前のミーティングで10回ほど顔を合わせただけというのですから、不安は大きかったと思います。それでも、みなさん、なんとかうまく折り合ったようです。
大型キャンピングカーの運転は大変でした。というのも、アメリカの太平原はひたすら単調なのです。高速で1時間走ってもまったく風景が変わりません。
私も昔、アメリカのアイオワ州のトウモロコシ畑を車で走ったことがあります(もちろん私が運転したのではありません)。延々、はるかに見渡すかぎりのトウモロコシ畑が何時間走っても続くのです。いいかげんうんざりしました。
そこで、運転者は眠気防止の薬を服用しました。そんな薬があるのですね、知りませんでした。コーヒー1杯分のカフェインの錠剤。100錠入っていて8ドル。午前1錠、午後1錠を服用した。1錠あたり4時間の覚醒作用があるとのことで、実際には1~2時間の薬効だったとのこと。それでも効果はあったようです。
キャンピングカーによって移動しても泊まるところは、専用パーク。治安上も、これが1番とのことです。
そして、キャンピングカーにトラブルが発生したとき...。
アメリカ人は予想以上に親切だったことが紹介されています。困った人を見つけたら、集まってきて、みんなで力をあわせて助けてくれる。それは無償であり、対価を求められることはなく、まったくの善意。アメリカ人にも善人は多いのですね...。
アメリカ人に肥満が多いこと、そしてタトゥーを身体のあちこちに入れている人が多いことも紹介されています。
キャンピングカーは調理できるので、スーパーで食材を買い込んで、「豪華な」食事も楽しんだようです。カップラーメンですますというものではありませんでした。いいですね。やっぱり旅行の楽しみの一つは、美味しいものを楽しく語らいながら食べることにありますからね。
ともあれ、2022年5月4日に日本を出発し、6月15日に9人全員が無事に帰国できました。良かった、よかったです。そして、写真も旅行体験記もある本書が作成されたのです。
たいした老人(ジジ・ババ)パワーです。どうやら私とほとんど同じ世代のようですね。まだまだ団塊世代も元気なんですよ。これからも皆さん、お元気にご活躍してくださいね。
(2024年2月刊。1600円+税)

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2024年4月14日

美貌のスパイ、鄭蘋如

中国


(霧山昴)
著者 柳沢 隆行 、 出版 光人社

 父が中国人、母は日本人という、美貌の娘が中国側のスパイとなり、25歳にして日本軍から銃殺されたという実在の女性の足跡を詳細にたどった本です。
父と母が知りあったのは日本です。大勢の中国人留学生が日本にやってきました。そして、そのなかには日本人女性と知りあい結婚して、中国に渡った人たちがいました。父親となった中国人が留学したのは法政大学です。私の亡父も法政大学ですが、かなり後輩になります。
中国に戻ってから、父親のほうは国民党員として活動しはじめ、結局は、司法部で活躍します。母親のほうは、士族の末娘として生まれ、行儀見習いの奉公先で中国人留学生と出会って恋に落ち、親の反対を押し切って、中国に渡ったのでした。
 父親は中国での弁護士資格を取得し、検察官として働くようになります。
 そして、問題の彼女は三姉妹の二女として生まれました。彼女は、上海法政学院(4年制の大学)に入学します。
 満州事変に始まる日本軍の侵略行為に対して彼女は愛国心(もちろん中国が祖国です)に燃える学生の一人として行動するようになります。1932(昭和7)年1月の第一次上海事変のころのことです。
 そして、彼女は当時の中国を代表する人気月刊画報誌「良友」の表紙全面を飾ったのでした。たしかに間違いなく美人です。しかも、いかにも知性にあふれています。
 1937年8月、第二次上海事変が起きるなか、法政学院3年生の彼女は、CC団に加入します。CC団とは、蔣介石の国民党の組織の一つです。CC団は「中統」とも呼ばれます。スパイ活動を主任務の一つとする組織です。国民党には、「中統」と「軍統」の二つがありました。
「軍統」のほうが、よりテロなどのファシスト的活動を得意としていますが、この二つとも、蔣介石に絶対的忠誠をつくす点ではあまり変わりがありません。そして、彼女は、「中統」CC団のスパイとして、日本軍の「大上海放送局」で働いたこともあります。
 また、彼女は近衛文麿首相の子どもである近衛文隆に接近し、親密な交際をするまでになります。周囲が危険を察知して、急遽、文隆は日本に強制的に帰国させられ、関係は打ち切られてしまうのでした。
 結局、「中統」を裏切り日本側についた人間を処刑する手伝いをするのに彼女は失敗してしまいました。そして、日本軍に出頭するのです。まさか銃殺されるとは思っていなかったのでしょう。
 しばらく監禁されたあと、広い何もない荒野原で銃殺されてしまいました。1940年2月も半ばのことです。どうやらその遺体は今でも見つかっていないようです。現場付近が大々的に開発されたことであまりにも変わってしまったからです。
 歴史の悲劇の一つがここにもあると思いました。
(2010年5月刊。2500円+税)

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2024年4月15日

眠っている間に体の中で何が起こっているのか

人間


(霧山昴)
著者 西多 昌規 、 出版 草思社

 私は幸いなことに寝つきは良く、夜中に1度か2度、目が覚めてトイレに行くことはよくありますが、それでも再びすぐ眠り込んでしまいます。なので、朝6時にパッチリ目が覚めて起き上がることができます。前は夜12時前に寝るようにしていましたが、最近は1時間早くして夜11時までには寝ています。やっぱり年齢(とし)を取ったせいです(いま75歳)。
 この本を読むと、私たちの体は眠っているあいだも、それぞれの器官は休むことなく機能していることがよく分かります。
 睡眠は、日中にどれだけ元気よく活動しているかの反映でもある。なので、昼間からダラダラと横になっているのは、睡眠が浅くもなるし、あまり良くない。
 睡眠は脳だけでなく、体すべてに影響を支える重要きわまりない生活習慣。
生体リズムが脳にしかないというのは間違い。胃腸や肝臓、心臓、腎臓、皮膚、筋肉など、あらゆる末梢の組織に生体リズム、つまり時計遺伝子がインストールされている。
 朝、光を浴びると、活動のアクセル役である交感神経が活発になる。副腎は、伝わった生体リズムをもとに、表面の副腎皮質からストレスホルモンであるコルチゾルを分泌する。分身の細胞はこのコルチゾルをキャッチして、「朝が来た」と1日の始まりを認識し、脳も体も活動モードに入る。
 交感神経は「日中の自律神経」で、副交感神経は「夜の自律神経」。
ホルモンは、全身いたるところでつくられている。成長ホルモンは、睡眠不足の影響を受けやすい。
寝不足は男性の精力を低下させる。睡眠障害をもつ男性は、健康な睡眠をとっている人と比べて、精子濃度が29%も低い。日本で不妊治療を受けている患者は47万人にのぼるが、日本人の睡眠時間が短いことと無関係ではない。
慢性的な睡眠不足は、サイトカインを活性化させ、人間の体を慢性炎症の状態にする。慢性炎症はがんが生じる可能性がある。
食道や胃・腸などの消化管は、睡眠中に動きがゆっくりになるとはいえ、活動を停止して休んでいるわけではない。1日を通しての胃酸の分泌のピークは、午後10時から午前2時のあいだ。睡眠中の小腸の蠕動(せんどう)は、覚醒時と変わらず、睡眠の深さには関係がない。それに対して、大腸は睡眠中に動きが低下する。睡眠不足や睡眠の質の悪さは、過敏性腸症候群の要因になっている。
睡眠の時間が短い、あるいは質が悪いと、便秘リスクは上がる。便秘の人は、大腸がん、心疾患者、脳卒中を起こしやすい。快便の人のほうが長生きする。私も後者のようになるのを目ざしています。
学習した記憶の整理は、覚醒しているときよりもむしろ睡眠中に行われている。レム睡眠は休息眼球運動を特徴するもの。記憶の固定や整理には、むしろノンレム睡眠のほうが大きく関わっている。
レム睡眠中に大脳皮質で活発な物質交換が行われ、脳はリフレッシュしている。
ノンレム睡眠やレム睡眠中でもモノアミンが機能しないことで、嫌な記憶が定着しないようにしている。ノンレム睡眠のときも、実は夢をかなり見ている。奇妙な内容で、鮮明なイメージや感情を伴う夢らしい夢は、やはりレム睡眠で見られていると考えられている。
 夜勤が多く、睡眠不足になりがちな看護師は骨が弱くなるというデータがある。
 睡眠時間が少なくなると、皮膚の潤(うるお)いがなくなる。人間の皮膚は、睡眠不足の影響をてきめんに受ける。睡眠不足のときに目の下の黒い「クマ」は、目の周りのうっ血、つまり血行不良によって生じる。目の周りの皮膚は体の皮膚の中で、もっとも薄いので、ちょっとした変化でも目立つ。
 睡眠と体の関係のことをしっかり認識することができました。睡眠の大切さをますます痛感します。
(2024年2月刊。2200円)

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2024年4月16日

どうするALPS処理水?

社会


(霧山昴)
著者 岩井孝 ・ 半杭真一 ほか 、 出版 あけび書房

 この本によるとALPS処理水の海洋放出はそれほど危険なものではないとのことです。本当に、そうだったらいいのですが...。
 私は、廃炉のためにもっとも肝心な燃料デブリに現状でまったく手が付けられていないこと、そして、その処理方策は何も具体化していないことが最大の問題だと考えています。
 故安倍首相は、東京オリンピックの前、原発は「アンダーコントロール」にあるなんて全くのデタラメを放言したわけですが、その嘘がウソとして日本人の共通思考になっていないため、原発再稼動なんて、とんでもない政策が再び進行しているのだと考えています。
 フクイチ(福島第一原発)事故で炉心溶融した1~3号機では、燃料デブリを冷却するために上部から現在も水を注いでいるため、これが汚染水となっている。つまり、汚染水はこれからもずっとずっと生まれてくるのです。
 1~6号機のプールからの燃料取り出が完了するのは計画どおりにうまくいったとしても、今から7年後の2031年。しかし、燃料デブリの取り出しは試験的には2021年に始まるはずだったのが、2024年の今もやられていません。著者は燃料デブリの全量取り出しの見通しはまったくないと断言しています。恐ろしいことに、これが現実なんです。だったら、原発再稼動の話が出てはいけないのです。ところが、日本人の忘却の良さを信用して(また、投票率が低いことを幸いとして)、原発事故なんか「なかった」、いやあったとしても「アンダーコントロール」、つまり何の問題もないかのような顔をしているのです。許せません。
 ALPSはフランス製かと思っていましたが、東芝と日立でつくられたものなんですね...。
ALPS処理水は、海洋汚染の原因となる放射性セシウムやストロンチウムなどが大量に含まれた高濃度汚染水とは明らかに違う。
 ALPSによってトリチウムが取り除けないのは、トリチウムは水溶けているのではなく、水分子(HTO)として存在するから。水分子として存在するものを水から取り除くことはできない。そうなんですか。知りませんでした。
 ALPS処理水も汚染水ではあるが、「処理途上水」とは異なっている。
 この本では、燃料デブリを無理して取り出さず、チェルノブイリのように「墓地」にして、長期保管監視することが提唱されています。私も、現実問題として、それしかないのかなと、今は考えています。
ともかく、原発(原子力発電所)なるものは、人間の手にあまるものだということは、はっきりしています。廃炉しかありません。
(2024年2月刊。1980円)

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2024年4月17日

枢密院議長の日記

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 佐野 眞一 、 出版 講談社現代新書

 倉富勇三郎といっても、今は誰も知らない無名の人物だと思います。
 でも、その肩書はすごい人です。東京控訴院検事長、朝鮮総監府司法部長官、貴族院勅撰議員、帝室会計審査局長官、そして最後に枢密院議長をつとめました。司法官僚そして宮内(くない)官僚として位(くらい)人臣(じんしん)をきわめたのです。
 久留米出身であり、背景に何もないなかで、これだけ出世したのは、野心のない人間だとみられていたからのようです。能力があって、他を押しのけて得た地位というのではありません。きっと運が良かったのでしょう。
 著者は倉富を優柔不断な男だったと酷評しています。
 枢密院の建物が今も皇居内に残っているというのには驚きました。老朽化したけれど、本格的に修繕したそうです。
 倉富の先祖は佐賀の竜造寺で、竜造寺が落ちぶれたあと佐賀から田主丸に移り住み、倉富に改姓した。
 兄の倉富勇三郎は、福岡で自由民権運動の闘士となり、福岡毎日新聞の刊行者の一人となり、戦後、社長をつとめている。
 倉富勇三郎は、刻明な日記を26年間つけ、それが保有されている。ただし、ミミズがのたうったような文字で大変読みにくい。そこで、著者は有志をつのって集団で解読していったのです。その成果がこの本に反映されています。
 日記は297冊にもなる。ひと目にノート1冊分というペース。全部を本にしたら、50冊をこえる。世界最大最長級の日記。この日記は原敬日記と違って、死後公開されることを前提としたものではない。したがって、記録として大変意義のあるもの。そこで2年分の日記を解読するのに、6人で5年間かかった。いやあ、これは大変な作業でしたね。
 著者は倉富について、超人でもスーパーマンでもなく、たゆまぬ努力によって該博な法知識を身につけた超のつく凡人だったとしています。
 倉富は寸暇を惜しんで日記を書き続けた。そして暇さえあれば読み返し、日記に追記し、訂正している。
 この本を読んでもっとも驚いたことは、昭和7(1932)年当時、学習院に子どもを通わせている家の全部に電話がひかれていたということです。学習院の遠足会の連絡のために子弟の住む全戸の電話網が活躍していたというのです。いやあ、これは驚きでした。このころ電話は超高級品であり、一家に一台というのはまったく考えられません。さすがに、上流華族の家庭生活はレベルが違います。私が大学生のころは下宿先の大家さんの黒電話にかかってきたのを取り次いでもらっていました。
 倉富勇三郎が、かくも膨大な日記を残してくれたことを深く感謝したいです。
(2007年10月刊。950円+税)

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2024年4月18日

エッセンシャルワーカー

社会


(霧山昴)
著者 田中 洋子 、 出版 旬報社

 先日、あるシンポジウムのタイトルを「エッセンシャルワーカー」とする企画がすすんでいると聞いて、私は疑問を投げかけました。
 たとえば、セクシャル・ハラスメントという言葉を初めて聞いたときには、とても違和感がありました。でも、今や、セクハラはパワハラと並んで、すっかり日常用語としての日本語で定着しています。今どき、パワハラって何?と訊き返す人はほとんどいません。
 でも、このエッセンシャルワーカーって、いったいどんな意味で、どんな職業をさすのか、パッと分かる人は少ないと思います。
 エッセンシャルワーカーとは、「日常生活になくてはならない仕事をする人」のことです。「社会機能維持者」とも言われます。
 その仕事とは、たとえばスーパーの店員であり、トラック運転手であり、保育士であり、教師であり、看護師などです。金融コンサルタントや弁護士、ファンドマネージャーは入りません。
 ところが、皮肉な現実があります。労働が他者の助けとなり、人々に便益をもたらし、社会的価値があるほど、それに与えられる報酬はより少なくなる。
 その反対に、無意味かつ他者の便益にならない労働ほど報酬が高くなる。このような倒錯した関係が成り立っている。
 まさしく、そのとおりなのが世の中の現実です。そして、それがひどいのが日本です。
エッセンシャルワーカーは、日々の生活を着実に支える、社会の潤滑油のような存在である。
 日本でエッセンシャルワーカーの処遇悪化がこの30年間で進んだことによって、日本の社会経済の基盤、ファンダメンタルズの長期的な弱化をもたらし、日本の世界的な地位低下をもたらす主要な要因となっている。
 日本の低賃金は、ますます進行し、主要因の中で日本だけが9%も下落している。アメリカは76%上昇し、ドイツでも55%上がっている。韓国では、なんと3.5倍になっているのに...。日本の世界競争力は35位と、過去最低に転落した。
 それもこれも、日本経団連と、それを下支えしている「芳野」連合のせいであることは明らかです。
 この本は、日本と比較してドイツが紹介されています。思わず目を見張るほどの違いです。
 ドイツは、パートとフルタイムとの区分がない。ドイツでは正社員は同じ場所で働き続けるのを基本とする。異動・転勤するのは一部の上級管理職だけ。
 さらに驚くのは、ドイツのマクドナルドです。ドイツでもマクドナルドに学生アルバイトが働いています。でも、使い捨て要員ではありません。教育・職業教育の一つとして働いています。その給与は、なんと月25万円です。これには思わず腰を抜かしてしまいました。時給にして1740円なのです。日本のように学生を使いつぶしてもかまわないというのではありません。
 自分たちの業界・企業イメージをいかにしていいものとするかにつとめているのです。
 若い人に投資し、次世代の担い手として、ていねいに育てていく。
いやあ、これが本当ですよね...。これを知ることが出来ただけでも、本書を読む価値がありました。
 日本では今も変わらず、「小さな政府」、「公務員の削減」が叫ばれ、実行されています。その弊害が市民生活の至るところにあらわれているのに...。
 郵政民営化で、郵便局は身近な存在ではなくなりました。国鉄の分割民営化によって特急・急行は減らされ、駅は無人化され、新幹線のホームに駅員はいなくなりました。そして、金持ちのための「七ツ星」のような超豪華列車だけが優遇されています。
 公務員の削減によって、相談員は非常勤であり、正規公務員ではありません。本当に残念です。
 軍事予算には財源なんか気にせずに大幅増額する一方で、人を教育し育成、介護する部門は財源がないとして削減するばかりです。その結果、日本経済の競争力が損なわれてしまいました。目先の利益しか考えられない財界、それに支えられている自民党、その「下駄の雪」の公明党。それにあきらめた結果の投票率の低下。ここをなんとか変えたいものです。
目からウロコ。大変勉強になる本でした。あなたに一読を強くおすすめします。目と心が洗われる本です。

(2024年3月刊。2500 円+税)

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2024年4月19日

「劇場国家」北朝鮮

朝鮮・韓国


(霧山昴)
著者 権 憲益 ・ 鄭 炳浩 、 出版 法政大学 出版局

 北朝鮮の政治体制は長続きするはずはない。まもなく自壊するに決まっている。こんな見方が日本でも有力でした。私もそう考えていました。ところがどっこい、今なお存在していますし、まだまだ当分の間、続きそうです。
 国民が食うや食わず、いえいえ、大量の餓死者すら出したというのに、一見すると、盤石の政治体制であるかのようです。
 ではなぜ、そんな矛盾をかかえながらも存続しているのかを探った本です。この本を読んで驚かされたことの一つとして、北朝鮮には朝鮮戦争で亡くなった兵士や市民のための墓地がないという事実です。あるのは1954年につくられた革命烈士陵。しかし、ここは朝鮮戦争の戦死者ではなく、金日成と一緒に戦った100人の満パルチザンを讃(たた)えるための場所。いやあ驚きました。
 金日成と満州パルチザンのグループが権力を掌握する過程で他のグループが次々に粛清されていった血なまぐさい歴史は知っていましたが、この革命烈士陵は、北朝鮮社会のもっとも特権的な層を形成していることのシンボルでもあるのでした。
そして、「苦難の行軍」です。これは、北朝鮮政府当局の無策・無能によって、少なくとも数十万人の市民が餓死していった時代の状況を示す言葉です。1994年に金日成が亡くなり、その後の1995年から1998年までのあいだのことです。
この食糧危機によって一般市民の間で朝鮮労働党の道徳的権威が墜落した。党の威信は果てしなく墜落した。それはそうでしょう。ともかく大量の餓死者を出すまでに至ったのですからね。
党中央が無為無策のため、下部の党幹部たちでさえ、女性たちの国境を越えてまでの出稼ぎ労働を事実上支援していたというのです。みんな生きるための必死の努力をしていたからです。この餓死との闘いにおいても、人民より軍を優先するという先軍政治がすすめられたのでした。
現地指導についても、これが北朝鮮指導者のカリスマ政治の重要な部分を占めていたことを認識しました。
現地指導によって、国家というものが遠く離れた公的な独裁権力から、父のような存在へと豹変する。父子関係がすべての人間関係を支配する主軸を成している。
これは日本の明治天皇が北海道から九州まで日本中のほとんどをまわったこと、同じく昭和天皇も戦前・戦後、日本各地を訪問しているのと、同じ意義を有する。なーるほど、ですね...。
北朝鮮の2400万人国民と平和共存するのがいかに大変なことかと思いつつ、でも共存するしかないと思い直し、苦労して読みすすめました。
(2024年1月刊。3400円+税)

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2024年4月20日

『RRR』で知るインド近現代史

インド


(霧山昴)
著者 笠井 亮平 、 出版 文春新書

 インド映画はすごいです。その爆発的なエネルギーには、まったく圧倒されます。暗い映画館の座席に座っていても、ついつい身体が動き出し、飛び出してしまいそうになります。
 『RRR』というのはアカデミー賞を受賞したインド映画です。インドはかつてイギリスの支配する植民地でした。そして、イギリス支配を脱して独立しようとする試みが何度も試みられたのです。
 『RRR』の主人公であるラーマとビームはいずれも実在の人物。二人とも1900年前後に生まれて、武装蜂起を展開します。
 ラーマは、1924年5月7日に銃殺された。ビームは1940年に藩王国の警官に殺された。このラーマとビームが踊る「超高速ダンス」は、思わず息を呑む踊りです。なんと、その撮影場所はウクライナであり、大統領の迎賓館だというのです。驚きます。ロシアの侵攻する数カ月前に撮影されたそうです。
 場所はともかく、この踊りだけでもユーチューブで鑑賞できるそうですので、ぜひみて下さい。必ずや圧倒されることを保証します。
 そして、この本は、映画で紹介される「8人の闘士」についての解説があります。そこにはガンディーもネルーもいません。ボース以外は日本人にはまったく知られていない人たちです。この8人の存在を知れたことだけでも、本書を読む意味がありました。
 日本におけるインド映画ブームに火を付けたのは『ムトゥ 踊るマハラジャ』でした。映画の途中に、突如として大勢の男女によるダンスシーンが入るのですが、それがまさしく圧倒される素晴らしさなのです。
 インドのボースには2人いて、新宿・中村屋のカレーで有名な「中村屋のボース」は、ラーマ・ビハーリ・ボースであり、もう1人は、スパース・チャンドラ・ボース。こちらは、インド国民軍を組織して、日本軍と一緒に、あの悲劇的なインパール作戦をともにしました。
 インターネットの世界では世界を支えているインドの知識人の層の厚さにも圧倒されますよね。ガンディー、ネルーだけでない、インドの熱気にあてられてしまう新書でした。
(2024年2月刊。1100円)

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2024年4月21日

「抵抗の新聞人、桐生悠々」

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 井出 孫六 、 出版 岩波新書

 1933(昭和8)年8月、きびしい報道管制下に行われた関東防空大演習について、桐生悠々は、信濃毎日新聞の社説で鋭く批判しました。
 そのタイトルは「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」。
 この「嗤う」というコトバは、「面と向かって、さげすみ笑う」という意味。なんで、さげすみ笑ったかと言うと、首都(帝都)東京の上空に敵機がやって来て、爆弾を落としたときに、その防災対策を訓練するというのだけど、そんな事態は、まさに日本軍が敗北しているということではないのか。それに敵機が多数やってきて、そのうちの1機でも撃ち落とせずに東京上空から爆弾を落としたら、木造家屋の多い東京市街は一挙に焼土となり、阿鼻叫喚の一大修羅場となること必至ではないか、と指摘したのです。そんなとき、バケツ・リレーで消火作業にあたるなんて防火対策は意味のあろうはずがないと批判したのでした。
 もちろん、その後10年して、桐生悠々の指摘(予言)したとおり、アメリカ軍のB29の大編隊による焼い弾投下によって東京は焦土と化してしまいました。恐るべき先見の明があったわけです。
 先日、アメリカ映画「オッペンハイマー」をみました。ヒトラー・ナチスより先に原爆をつくろうとした科学者と、それを政治的判断で運用・利用した当局との葛藤、さらにはアカ狩りのなかでのオッペンハイマーへの糾弾で生々しく描かれています。広島、長崎への原爆投下の惨状が描かれていないことが批判されていますが、なるほどと思う反面、原爆そして水爆の恐ろしさの一端は、それなりに紹介されていますし、大いに意義のある映画だと私は思いました。
 イスラエルのガザ侵攻で3万人もの市民が亡くなっていること、餓死の危険が迫っていることを知ると、いてもたってもおれない心境です。イスラエルに対して、即時停戦・撤退を強く求めます。
(1980年6月刊。380円)

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2024年4月22日

今日、誰のために生きる?

アフリカ


(霧山昴)
著者 ひすいこたろう、SHOGEN 、 出版 廣済堂出版

 まずは衝撃的なコトバに出会いました。ハッとさせられます。
効率よく考えるのであれば、生まれてすぐ死ねばいい。
なーるほど、そうなんです。今の世の中、とくに自民党と公明党は効率一本槍で押し通しています。人間を育てるとき、効率優先でいいはずがありません。
 人はいかに無駄な時間を楽しむのかっていうテーマで生きているんだよ。
きっと、そうなんですよね。「ムダ」なようで、実は決して「ムダ」ではない時間に私たちは生きているわけです。
 アフリカのタンザニアにある「ブンジュ」と呼ばれる村民200人の村に日本人のショーゲン氏は生活し、そこでペンキアートを学ぶのです。
 しかし、入村するには3つの条件をクリアーしなくてはいけません。その3つとは...。
 その1、食事に感謝できるかどうか。感謝の心をもって丁寧に味わうこと。ちなみに、主食となる「ウガリ」というトウモロコシのパウダーをお湯で練って固い生地にしたものは、美味しくないそうです。
 その2、「ただいま」と言ったら、「おかえり」と言ってくれる人がいるか。この村では、家族という血縁にこだわらず、常にいくつかの家族が助けあって生活している。
 その3、抱きしめられたら、温かいと感じられる心があるか。これは、肌の触れあいの大切さ。人の温もりが分かる心があるかどうか。
 ショーゲンは、「はい」と答えて、入村が認められました。
 ケンカは、その日のうちに仲直りする。というのも、言い争いをしている大人を、子どもが見たくないから...。うひょう、その発想はすばらしいですね。
子どもと言えば、子どもの前で失敗を隠すのはやめてと頼まれます。なぜなら、大人が失敗するのを見せることで、子どもは出来ないことは恥ずかしいことではないと学び、失敗を恐れない子どもになると考えるからなのです。
 なるほど、なるほど、これは大いに一理も二理もありますね。
この村では午後3時半になったら、みんな仕事をやめる。
 ここは日が暮れるのが早いし、電気がないので、日の明るいうちしか家族の顔が見れない。なので、早く家に帰って、家族の顔を見るため、残業なんかせず、午後3時半になったら、みんな一斉に仕事をやめる。それが仕事の途中であっても、そんなの関係ない。
 挑戦するということは、新しい自分に会えるという行為だ。
 挑戦には失敗がつきものだけど、いつか失敗のネタが尽きるときが来る。失敗が満員御礼になるときが来る。そうしたら、成功するしかない。
 ヤッホー、です。こんな考え方ができる人たちがいるんですね、世の中には。これまた、すごいことです。
 この村はアフリカのタンザニアにあるそうです。そして、ショーゲンが学んだペンキ画は、下描きなしで6色のペンキで描くというもの。そのいくつかが紹介されていますが、独特の美しさをもっている画です。
 いったい、本当にこの「ブンジュ村」というのは存在するのでしょうか...。それとも、夢にすぎない、おとぎ話なのでしょうか...。
(2024年3月刊。1760円)

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2024年4月23日

貧乏物語

社会


(霧山昴)
著者 大河内 一男 、 出版 文芸春秋新社

 「貧乏物語」といえば、私も名前だけは知っている河上肇ですよね。
 大正6年に本が発売されると、それこそ飛ぶように売れて、広く読まれたそうです。どこの国でも「百万長者」と呼ばれる大金持ちは全人口の2%を占め、65%は極貧者、中産階級の下層を含めると80%になり、中産階級の上まで含めたら98%が貧乏人だということになる。
 これが大正から昭和初めにかけてのことです。
今では、トップの超大金持ちは何十億円もの資産をもち、タワーマンションに住んでいる。そして、多くの貧乏人は、エアコンもないような生活、食費も1日3食を満足に食べられない生活。年金がもらえない(無年金)か、もらえても月4万円ほど、生活保護を受けたら、もう少しまともな生活ができるのに、いろんな制約のある保護だけは受けたくないとして、月10万円以下で生活している人のなんと多いことでしょう。
 この河上肇博士は昭和4年から同5年にかけて、雑誌「改造」に『第二貧乏物語』を連載し、同5年11月に本を発行したのです。ところが、河上博士の自慢の第2作は不評で、あまり売れませんでした。というのも、河上博士は京都帝大教授を止めてマルクス主義の実践家になろうとしていて、『第二貧乏物語』は、いわばマルクス経済学の解説本になっていたからです。
 『貧乏物語』において、河上博士は「貧乏」の原因として、貧富の差があまりに激しいこと、金持ちがぜいたく品をどんどん買いあさっていることをあげています。
 ところが、『第二貧乏物語』においては、マルクス主義の立場に忠実に立って、資本主義社会で多くの人間が貧乏人から脱け出せないのは、資本主義社会の本質的な制約だとしたのでした。
 日本の貧乏の原因は低賃金にあり、これを低賃金だと感じていない低い意識が問題だと著者は指摘しています。
 毎日の職場に不満があっても、ストライキをすることはなく、投票に行くこともない。そんなことで日本の状況の改善が図られるはずはありません。
 現在の日本では、「連合」にみられるように、労働組合といっても自民党と経団連にすり寄るばかりというのがほとんどのようですから、労働組合の存在意義を若い人たちが実感できるわけがありません。労働組合への加入率が低いのも当然です。残念でなりません。
 芳野会長は「反共」一本槍でやってきた経歴を買われて「連合」の会長に据えられましたが、ますます意固地になるばかりのようで、残念です。
 著者は私が大学に入ったときの東大総長でもありました。東大闘争が始まるなかで、みじめに引退させられました。残念というほかありませんでした。
 私の本棚に長く眠っていた本ですが、何か役に立つところはないかと頁をめくってみたところ、いくつか見つけたので紹介します。
(昭和34年10月刊。230円)

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2024年4月24日

なぜ日本は原発を止められないのか?

社会


(霧山昴)
著者 青木 美希 、 出版 文春新書

 自民党、そして公明党は老朽化した原発でも安全だという神話を広めています。
 この神話に乗って、日本のエネルギーを原発依存、原発の新増設に戻しているのです。なんと恐ろしいことでしょう。3.11なんてすっかり忘れ去ったようです。
 原発にミサイルが撃ち込まれたとき、日本はそのミサイルを防ぐことは出来ない。すると、3.11以上の大惨事になることは必至です。
 自衛隊の幹部もそれを認めている。「今あるイージス艦とパトリオットでは、1ヶ所か2ヶ所なら何とか守れると思うけど、日本にはたくさんの原発があるから...」。
 ところが、そんな「怖いことを語ってはいけない」という雰囲気がある。政府の常套(じょうとう)語です。人心にパニックを起こしてはいけないので、真実を語るな...。
 しかし、現実には、ロシア軍がウクライナに侵攻したとき、真っ先に占領したのはチェルノブイリ原発であり、ザポリージャ原発。ここは、今でも、いつミサイル攻撃を受けるか分からない状況にあります。
 北朝鮮が日本をやっつけようと思えば、日本海側に並んでいる、たくさんの原発のどれかにミサイルを撃ち込めばよい。それだけで日本はもう破滅してしまう。日本の国土と国民を本気で守ろうと思うのなら、これらの日本海側にある原発を一刻も早く完全撤去する必要があります。本気で日本を守ろうとしていないのに、軍備だけは大増強するのです。つまりは自分たちの金もうけのためです。
 先日の能登半島地震のとき、志賀原発が大事に至らなかったのは、本当に、運が良かっただけでした。
 福島第一原発で非常用発電機を地下に設置したのは、アメリカ式設計をそのまま採用したから。というのは、アメリカの原発は主として川沿いにあり、津波の心配はない。その代わりにハリケーン対策が必要なので、機器類は地下に置いておくのが安全なのだ。ふむふむ、なんでもアメリカ式なのは良くないというわけです。いつだって、何だって自分の頭で考える必要がありますよね。
 原発の地域振興で潤(うるお)うのは、たった一世代のみ。
 町は原発と生きていくしかないと言っていた双葉町は、人口7100人だったのが90人(うち60人は転入者)しか住んでいない。もともとの町民で戻ったのは、わずか0.4%だけ。いやはや、なんというあまりに悲惨な現実でしょうか。
 原発によって官僚「互助会」システムが出来て、維持されている。
原発推進派の学者は毎月20万円も東電系の法人からもらっていた。
原発産業関連で20万人が働いている。でも廃炉を目ざしても、それ以上の職場になりますよね。
「原発は安全、コストが安い、クリーンエネルギー」。これは全部ウソなのです。
一刻も早く、ドイツやイタリアのように、日本も原発ゼロを目ざすべきです。日本の国土と住んでいる人々の安全のためです。
(2024年2月刊。1100円+税)

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2024年4月25日

在日米軍基地

社会


(霧山昴)
著者 川名 晋史 、 出版 中公新書

 在日米軍は、日本を直接的に防衛するための存在ではない。この点について、多くの日本人が誤解している。
 日本にたくさんのアメリカ軍の基地があるおかげで日本の平和と安全が守られているというのはまったくの誤解であり、幻想にすぎません。
 このことは、当のアメリカ政府の当局者が何度も明言しています。ニクソン大統領の下にいたジョンソン国務次官はアメリカの連邦議会で次のように証言した(1970年1月)。
 「我々は、日本を直接に防衛するために日本にいるのではない。日本の周辺地域を防衛するために日本にいる」
 アメリカ軍は、アメリカの財産である在日米軍基地とそこにいるアメリカ人(軍人、軍属そして家族)を保護する。
 アメリカ軍は日本全土、とりわけ基地のない(日本の)地域を防衛する戦略は持っていない。アメリカ軍が責任を負う防衛範囲は、日本の重要な戦略地域、すなわち米軍基地その周辺である。
 「日本防衛」の問題について、アメリカが検討したことは一度もないし、日本防衛を支援するための部隊も展開していない。
 アメリカ軍基地などを身近にかかえている東京の現状は、まるでニューヨークに外国軍の空軍基地が3つ、海軍基地が1つ、ゴルフ場が4つあるようなものだ。
 本当に情けない実情です。「誇り高き日本人」が、なぜこんな事態を黙って見過ごしているのか、不思議でならないとされています。まったく、そのとおりです。自民党の政治家(岸田首相がその筆頭)や外交官が「誇り高き日本人」の名に価しないことは明らかです。
 普天間基地はアメリカ軍の基地とばかり思っていましたが、国連軍の基地でもあるのですね。
 そして、沖縄の海兵隊は1968年12月にアメリカ国防総省によって「不要」とされたのでした。
 辺野古につくろうとしている基地は海軍と海兵隊の複合基地であり、エンタープライズ級空母を収容できるもの。永久的なアメリカ軍の強大な基地がつくられようとしているのです。とんでもないことです。今の普天間飛行場にはない新たな機能が追加されるのです。つまり、普天間の「代替施設」ではなく、強大な「新基地」なのです。
 辺野古基地建設を政府(自民・公明党)が強引にすすめているのは、一面では、リニア新幹線と同じく、ゼネコンのための工事という面もあると私は考えています。そこにあるのは、莫大な税金のムダづかい、そして利権に群がる与党(自民・公明)政治家の醜悪な姿が隠れているのです。そんな辺野古基地建設はすぐにやめさせたい、やめるべきです。
 アメリカ軍と国連軍との関係も考察している本です。勉強になりました。
(2024年1月刊。1100円+税)

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2024年4月26日

南京大虐殺から雲南戦へ

中国


(霧山昴)
著者 青木 茂 、 出版 花伝社

 中国は1944年5月から日本軍に対して反撃を開始した。垃孟(らもう)などの日本軍守備隊を全滅させるなどの勝利を重ね、1945年1月までに日本軍を雲南から追い払った。中国が「日本に唯一、完全勝利した」雲南西部を舞台とする戦役、つまり雲南戦を中国は滇西(てんせい)抗戦と呼んでいる。
 ところが、このときの中国軍が蔣介石の国民政府軍であったことから、1980年代まで中国政府はずっと黙殺してきた。ところが、1990年代の江沢民政権になってから、中国政府は「歴史の空白」を埋め始めている。そして、2014年2月、中国の全人代常務委員会は9月3日を中国人民抗日戦争勝利記念日とした。
 9月3日とは、1945年9月2日に日本政府が降伏文書に調印した日の翌日のこと。
 滇西(てんせい)抗戦とは、前述したとおり、雲南省西部におけるビルマ援蒋ルートをめぐる日本軍と中国軍との戦い(雲南戦)のこと。雲南戦戦において、中国と日本の双方は、軍備を互いに増強しながら怒江(どこう)を隔てて2年以上も対峙した。
 日本軍は、1942年に垃孟(松山)を占領し、第56師団113連隊3000人を駐屯させた。1944年8月、中国軍は全面攻撃を開始し、9月7日、日本軍から垃孟を奪還した。日本軍の守備隊1200人は全滅。中国軍も7600人もの犠牲者を出した。
 日本軍があまりにも残虐な行為をしたことから、日本兵の死体は膝を折り頭を下げる姿勢(土下座埋葬)で埋め直され、倭塚がつくられている。日本兵に謝罪させるための土下座埋葬だ。日本軍に対する雲南地方の住民の怒りは今も鎮まっていない。日本兵の遺骨の収集や慰霊祭の実施は今も許されていない。それほど、現地住民の日本軍への反感は強い。
 裁判所での調停の待ち時間のなかで読了しました。
 日本軍って、本当にひどいことを中国でしたんですね、同じ日本人として、許せません。加害者は忘れても被害者のほうは忘れないことだということがよく分かりました。
(2024年2月刊。1700円+税)

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2024年4月27日

漫画家が見た百年前の西洋

フランス


(霧山昴)
著者 和田 博文 、 出版 筑摩書房

 東京美術学校で藤田嗣治や高村光太朗と同級だった近藤浩一路という画家であり漫画も描いた人の1920年代のフランス旅行記です。近藤は洋服を着たことがないし嫌い。フランス語も英語も話せず、始めての海外旅行ですから、失敗の連続。それを漫画タッチで絵にしているのです。
 フランスで、列車のなかで相席になったスペインの青年の似顔絵を描いてやったら、大喜びされたそうです。会話が出来なくても絵が描けたら、生きていけるのですよね。
 私は初めてのフランス家族旅行のとき、モンマルトルの丘で娘たちの似顔絵を描いてもらいました。もちろん値段が高いのは分かっていましたが、変な買物をするよりましだと思って頼んだのです。あまり娘と似ていませんでしたが、ともかく可愛い少女の顔にはなっていました。
 パリの朝食はバゲットです。パンテオン近くの小さいホテル(「サン・ジャック」)に泊まったときに出てきたバゲットの美味しさは、今でも忘れられません。それこそ「パンとコーヒー」のみです。「バゲットとカフェラテ」だけでしたが、十分にパリの朝食を堪能しました。
 フランスでは料理が十分に味わい楽しめます。シテ島ではみんなで定番のエスカルゴを食べましたし、カルチェラタンのレストランで生カキもいただきました。かっこいいギャルソン(今は使いません)の給仕で申し分ありませんでした。
 私は今も毎朝フランス語を聴いて書き取りしていますし、フランス語検定試験を年2回(1級と準1級)受けています。いったい何年間フランス語を勉強しているのかと訊かれると、恥ずかしくて答えたくありません。恥を忍んで白状しますと、なんと、18歳のときに大学の第2外国語としてフランス語を選択して以来です。そして、25歳で弁護士になってから、毎朝、NHKのラジオ講座を聴くようになりました。ですから、もう50年以上もやっているのです。それでも、話すのは初心者に毛の生えた程度という、お粗末さ。今はともかく能力の低下をどうやってくい止めるか、それで必死というのが実情です。もはや会話力が向上するなんていう高望みはしていません。
 フランスにまた行ってみたいとは思っているのですが...。その意味では百年前も今も同じだと思わせる本でした。
(2024年2月刊。1700円+税)

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2024年4月28日

徳川夢声とその時代

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 三國 一朗 、 出版 講談社

 無声映画時代に、活弁(かつべん。活動弁士)として活躍し、戦後はラジオ朗読で美声をふるった徳川夢声に関する本です。
無声映画というのは、まったく音がありません。なので、まずは音楽をつけます。生演奏です。
 映画館の面前、スクリーンの下にオーケストラ、ボックスがあります。かすかな明りがあり、そのボックスからなまのヴァイオリン・ピアノ・セロ(チェロ)が奏(かな)でられます。この音楽によって、騒々しかった場内が静かに落ち着きます。
そして、次に正面に向かって左側のスクリーンの端の舞台にある小さなガラス箱に薄いグリーン色の灯がつき、活弁の弁士名が洒落た文字で浮かび上がる。さあ、弁士の登場です。弁士はフロックコートか黒紋付に袴(はかま)姿。
 弁士は「前説(まえせつ)」を美文調で語り始めます。この前説は、映画そのものが5分か10分なのに対して20分から30分も長く話します。そんな長い「前説」を廃したのが徳川夢声。
 徳川夢声と名乗るようになったのは、赤坂溜池にある映画館「葵(あおい)館」で語るようになってからのこと。「蔡」というから「徳川」と名乗ったのです。
 徳川夢声の弁士としての給料は80円から100円。当時としては大変な高級取りです。
 そして、さらに月給は上昇し、160円、いや400円という、とんでもない超高級取りになりました。それくらい弁士に高額の給料を払ってでも客の入りが良ければ会社としてはもうかったというわけです。27歳で400円というのですから、いったい今のお金にしたら、いくらになるのでしょうか...。
 ところが、やがてトーキーの時代になります。弁士なんて不要です。弁士のストライキも起こったりしましたが、徳川夢声は声の良さからラジオに進出するのです。私は聴いていませんが、ラジオでの「宮本武蔵」の朗読は大好評だったようです。
 徳川夢声は1971(昭和46)年8月に77歳で亡くなりましたが、その前、私もラジオやテレビでその味わい深い声を聞いたことがあります。
戦前の無声映画時代の活動弁士(活弁)のことが知りたくて読んだ本ですが、他にもいろいろ教えられることのある本でした。
(1986年6月刊。1100円)

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2024年4月29日

絶滅危惧個人商店

社会


(霧山昴)
著者 井上 理津子 、 出版 ちくま文庫

 私は少し前まではコンビニなんて利用しないぞ、と決意していました。しかし、今では、コンビニ愛好者の1人になってしまっています。だって、コンビニではない個人商店が全然ないからです。否応がありません。
 商店街は、全国どこに行っても、昼間からシャッターの降りているほうが多く、残念ながらシャッター街になってしまっています。
 近頃、マチにはやるもの、コンビニ、ドラックストアーそしてコインランドリーです。町の様相がまったく様変わりしてしまいました。
 それでも、まだ健在な個人商店を訪れ、その歴史をたどっている本です。
東京の野菜市場は24時間営業なので、夜も営業をしている。そして、「先取り」という方法で真っ先にいいものを買い付けて確保することが許されている。
 千代田区神田に今もある豆腐店「越後屋」は、バブルのとき、地上げ改勢にあった。わすか23坪なのに、なんとなんと、5億円に始まり、7億、10億、15億、そして、ついに20億円近くまで買値が上がったとのこと。まさしく狂気の沙汰というほか、ありません。
 私の父は小売酒屋を営んでいましたが、税務署のニラみが効いていて、距離規制がありました。この本でわずか220メートルごとに豆腐屋の距離規制があるのを知りました。小売酒屋なら、酒税法の関係で少しは理解できますけど、小さな豆腐屋にまで距離規制があるなんて、信じられない思いがします。
 個人商売を大切にしたいものです。なんて言っても、もう遅いのでしょうね。
 私の小学1年生のとき、父が小売酒店を始めました。父は小企業で「長」として働いていましたので、庶民が客としてやって来たとき、頭が下げられませんでした。子ども心に、もっと「頭(ず)を低くしたらよいのにな...」と思って見ていました。
(2024年2月刊。840円+税)

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