弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦国)

2024年3月16日

長篠合戦


(霧山昴)
著者 金子 拓 、 出版 中公新書

 1575(天正3)年5月21日、武田勝頼(かつより)軍と織田信長・徳川家康の連合軍が激突した。この長篠(ながしの)合戦については、織田・徳川軍が3千挺の鉄砲を三列に並べて連続射撃し、思慮不足の「若殿」ひきいる武田軍騎馬隊を全滅させたというイメージで語られることが多いのですが、それらは史実とは相当かけ離れているようです。
 鉄砲3千挺の三列の連続射撃は今やほとんど信じられていません。そして、武田勝頼についても「若殿=バカ殿」ではなかったようです。
 武田軍の「騎馬隊の無謀な突撃」についても、果たしてそうだったのか、疑問視されているとのこと。
 武田勝頼は決して愚かな戦国大名ではなく、長篠合戦で大敗北したあと、権力の立て直しにある程度成功していた。重臣層が討ち死にした結果、かえって若い世代を登用して藩政を刷新でき、外交面でも積極的に手を打って、挽回していた。
 「三列交替の輪番討撃(三千挺の三段撃ち)」は否定されているが、鉄砲隊を三つに分けて三ヶ所に配置させたという有力説もある。
 織田信長は、そのあとに予定している大阪の本願寺攻めに備え、兵力は出来る限り温存しておきたかった。つまり、武田軍との戦闘で人員をあまり失いたくなかった。そこで、武田軍からは見えにくい土地に布陣し、馬防柵を構築した。
 長篠の戦いについては、私もそれなりに本を読んできましたが、現在の到達点が要領よくまとめられている新書だと思います。
(2023年12月刊。990円)

2023年11月19日

九州・琉球の戦国史


(霧山昴)
著者 福島 金治 、 出版 ミネルヴァ書房

 戦国時代、火薬の原料となる硫黄の産地は薩摩の硫黄島(アメリカ軍と対決した硫黄島ではない)、豊後(大分)の硫黄岳(伽藍(がらん))岳などであり、中国の明王朝などが日本の硫黄を欲した。
 サツマイモとも呼ばれる唐芋が日本に定着したのは16世紀。わが家の庭にもサツマイモを植えていて、10月末に掘り上げるつもりです。
 室町幕府の九州統治は、九州探題を通して守護を管轄するのが原則だった。
 中世には、複数の主人をもつことが許されていた。しかし、主従関係は未来永劫(えいごう)と認識される時代に変わっていった。
 天文7(1538)年に秋月で和議(合意)が成立し、大友氏は筑後・肥後、大内氏は筑前・豊前を支配することになった。
 朝廷(京都)の公家にとって、九州の武士たちの交流は直接の収入源であった。そして、見返りに国人(武士)は権威やブランドを手に入れた。
 大永3(1523)年に、中国の寧波(ニンポー)で、細川と大内という両氏が武力衝突したのを「寧波の乱」と呼ぶ。
 イエズス会の宣教師ザビエルは、日本に来る前にアルヴァレスの報告を読んでいて、ザビエルは、日本人は識字率が高いから、教理の習得は可能と判断した。ただし、ザビエルは、2年あまり豊後に滞在したあと、インドに戻った。
 島津氏は宣教師もキリスト教徒もうまく対応できなかった。
文禄・慶長の役において、日本軍が緒戦で勝利したのは、朝鮮官軍の逃亡、戦闘回避、民衆の官物略奪、日本軍の主要武器である鉄砲への不慣れがあった。
 兵糧の需要増加によって、出撃基地である名護屋の米相場は京都方面より6割増しに高騰した。
 朝鮮出兵のとき、日本人捕虜が数千人規模で「降倭」となり、日本軍と戦った。
 戦後、日本から6000人あまりの人々が朝鮮半島へ帰還した。
戦国時代の九州・沖縄の動きを通覧・通読することができました。ここでは、特に印象的なところを紹介しています。
(2023年7月刊。3800円+税)

2023年10月 5日

徳川家康と武田勝頼


(霧山昴)
著者 平山 優 、 出版 幻冬舎新書

『どうする家康』の時代考証も担当している気鋭の歴史学者による新書なので、論旨は明解、切れ味の良さに心地よいばかりです。
徳川家康の生涯において、最も苦難を強いられた敵は、武田氏。武田信玄と勝頼父子だ。信玄との抗争は、わずか半年あまりで信玄の死によって終了したが、その子・勝頼の度重なる襲来によって、家康の危機はさらに深まっていった。
家康にとって、勝頼との抗争のほうが費やした時間も長く、危機の連続だった。家康の本拠地である三河・岡崎の譜代らが勝頼と内通したり、息子・信康や妻(正室)築山殿まで武田氏の調略にあうなど、徳川家中の分裂を引き起こすほどの重大事態に陥った。家康にとって勝頼は、信玄以上の脅威であり、徳川氏単独では、手も足も出なかった。  
徳川家康と武田信玄は元亀1(1570)年までは甲三同盟を結ぶ同盟国だった。元亀3年、武田信玄は突如として、徳川家康の領地に侵攻した。わずか1ヶ月半で、家康は三河と遠江の領国の3分の2を失うという大打撃を受けた。そして、信玄軍の本隊は徳川氏の浜松城に迫った。
武田信玄は元亀4(1573)年4月に53歳の若さで死亡した。
徳川氏は、織田の支援なくして、武田勝頼と戦うことはできなくなっていた。徳川氏の有力は部将である岡崎衆のメンバーは武田氏の調略により、着々と切り崩されていった。家康の子・信康、そして家康の正室の築山殿も武田氏と結んで、家康打倒を謀った。それほど武田氏のほうが家康より強いと思っていたということだ。
長篠合戦のころは徳川家康対武田勝頼の合戦だった。
家康は勝頼をその死ぬまで「大敵」とみなしていた。勝頼は信玄の「バカ息子」ではなかったのです。勝頼は武田家中での権威の確立に腐心しており、信長と家康が顔をそろえた合戦で勝利したら、武田家の御屋形としての地位は不動のものとなると考えたようだ。
 長篠合戦については、織田・徳川連合軍が施いた三重の馬防柵の前に、武田軍の猛将が馬に乗って近づいたところを三段式構えた3千挺の鉄砲によって、武田軍の主要な勇将たちは次々に倒れ、残りは逃げ去ったということになっている(と思います)。ところが、この本によると、徳川軍前面の馬防柵を武田軍は次々に突破していったというのです。まあ、それでも、ついてくる兵力が不足したことから、徳川軍の将兵に取り囲まれて討ちとられていった。そんなドラマがあったのですね...。
 武田氏は、信玄も勝頼(かつより)も、ともに鉄炮(砲)の装備を重視し、その動員強化に躍起になっていた。ただし、このころ、武田氏にとっては、鉄炮そのものというより、玉薬(銃弾と火薬)を手に入れるのがきわめて困難だった。武田軍は、鉛不足に苦しみ、銅銭を鋳(い)つぶしてまで、武田軍は鉄炮玉を確保しようとしていた。
 長篠合戦とは、物量(兵力)と鉄炮が明暗を分けた戦いであった。とはいえ、それは新戦法(織田・家康)と旧戦法ではなかった。そうではなく、物量豊富な西(織田・徳川)と、内陸部にいて、物資の入手が困難な東(武田方)への激突とみるべきもの。
長篠合戦のあと、勝頼の武田家には、主だった武将が亡くなっていて、統計上もごく少ない。長篠合戦後の勝頼の重臣層は、かなり様変わりした。それでも勝頼は、武田軍の再編成につとめ、総兵力1万3千余の軍勢を何とかまとめ上げた。
 ただ、勝頼の新しい軍勢は、実戦経験に乏しく、年齢も12、3歳の若年層が目立つなど、質的低下は明らかだった。 
結局のところ、勝よりは織田信長軍に圧倒されてしまうわけですが、家康が、最後まで勝頼を知恵も勇気もある武将だと高く評価していたことは忘れてはいけないと思います。そして、勝頼亡きあと、武田氏の遺臣の多くは家康の家臣となって、生きのびていったのでした。
 いつものことながら、大変勉強になりました。
(2023年5月刊。980円+税)

2023年5月23日

「秀吉を討て」


(霧山昴)
著者 松尾 千歳 、 出版 新潮新書

 昔から「日本史、大好き」の私にとっても刺激的な話が盛りだくさんの本でした。
 話の焦点は薩摩と島津です。戦国時代、関ヶ原合戦のとき、西軍の薩摩・島津軍が敗色濃いなかを中央突破して辛じて逃げのびた話は有名です。そのとき、島津軍は、「捨て奸(がまり)」の戦法をとったとして有名です。これは、最後尾の部隊が本隊を逃すために踏みとどまって戦い、その部隊が全滅すると次の後方部隊が踏みとどまって死ぬまで続ける。これを繰り返して、殿のいる本隊を逃がすという戦法。
 しかし、著者は、実際には、そんな戦法はとっていない。一丸となって無我夢中で敵中に突っ込み、大勢の犠牲者を出しながらもなんとか東軍の追撃を振り切り、戦場を離脱した。これが真相だというのです。なるほど、そうかもしれないと私も思います。次々に後方に残る部隊をいったい、誰がいつ、どうやって組織した(できた)というのでしょうか。そんな余裕がこのときの島津軍にあったのでしょうか...。結果として、殿軍(しんがり)に立った将兵たちはいたでしょうが、それも時と地の関係で、そうなってしまっただけではないのか...、そう考えたほうがよさそうです。
 それはともかく、この本で提起されている最大の疑問は、関ヶ原合戦のあと、なぜ家康が西軍に属していた島津家をとんでもなく優遇したのか...、ということです。
 島津家は、事実上、処分を受けていない。そのうえ、藩主の忠恒に、「家」の字を与えて「家久」と改名させた。「家」の字を徳川将軍からもらったのは島津忠恒だけ。これは、大変に名誉なこと。さらに、家康は家久に琉球出兵を許可し、琉球国12万国を加増した。
 この本では、その理由は定かではないとしつつ、島津が明(中国)と太いパイプをもっていたことを家康は把握していて、海外交易に熱心な家康は、島津に頼るしかないと考えた。家康は明との国交回復を願っていた。
 家康が島津氏に琉球出兵を許したのは、明と太いパイプをもつ琉球王府を島津氏の支配下に入れ、勘合貿易の復活を実現させようとしたのではないか...。
 さて、「秀吉を討て」とは何のことでしょうか...。
 この本では、島津家は中国人の家臣や彼らと手を組む中国の「工作員」が接触していて、秀吉の意に反して朝鮮出兵からの撤兵をすすめていたということを指しています。それほど、島津家は中国側と深いつながりがあったというのです。すなわち、薩摩は、海洋国家、日本の中国大陸に向けた玄関口だったというのです。
 何ごとも、いろんな角度から物事を考察することが必要だということですね。勉強になりました。
(2022年8月刊。780円+税)

2023年2月18日

青年家康


(霧山昴)
著者 柴 裕之 、 出版 角川選書

 NHKの大河ドラマ『どうする家康』の時代考証を担当している著者による本です。
 家康はその少年時代、今川氏の人質としてみじめな日々を余儀なくされていたという通説を真向から否定しています。
 家康(竹千代)は6歳のとき、織田信秀へ人質として差し出された。そして、今川軍が織田勢を攻めたて、城将の織田信広を捕まえ、竹千代と交換することになり、家康は今川氏の本拠地である駿府で過ごすこととなった。
 竹千代が岡崎松平家の当主であったことから、今川義元は、駿府で竹千代を庇護することによって、松平家の上に君臨する上位権力者としての正統性を得た。
 今川義元は岡崎の松平家を解体して、岡崎を直轄領地とはせず、今川氏の政治的後見と軍事的な安全保障のもとに、松平家重臣による政治運営のもとで岡崎領の支配をまかせていた。
 駿府での家康(竹千代)の生活は、今川義元の師でもあった太原崇孚により学問の師事を得たというように、義元の庇護のもとで大事に養育されて過ごしていた。それは決して苦難の人質時代、忍耐と惨めなイメージで語られるような日々ではなかった。
 すなわち、家康は単なる人質ではなかった。それは、すでに西三河の有力な従属国衆である岡崎松平家の当主であったことによる。
 竹千代が14歳になって元服したとき「元信」と名乗ったのは、今川義元の「元」の1字をもらったものであり、これによって元服した家康(元信)が今川家の政治的、軍事的な保護を得た従属国衆・岡崎松平家の当主であることを世間に確認させた。
 今川義元は桶狭間で敗死したとき、42歳だった。そのあと、家康は織田信長とも手を結んだのでした。それは義元亡きあとの今川家とはキッパリ縁を切って、むしろ敵対し、抗争することを選んだとうことです。今川家が力をなくしたことによる選択でした。
 さあ、家康どうする、とても考えさせられるタイトルですよね。
(2022年9月刊。税込1870円)

 1月に受けたフランス語検定試験(準1級)の合格証書が送られてきました。待ちに待った証書です。合格基準店23点のところ、28点でした。実際には、思うように話せず、冷や汗をかいたのですが...。
 なぜ、諸外国ではデモもストライキもやっているのに、日本はストライキをやらないのかと尋ねられました。みなさんだったら、何と答えますか?そして、それをフランス語で、どう表現しますか。とつとつと答えてしまいました。それでも、頭のほうは少し若返りました(と思っています)。

2023年2月11日

黒田孝高


(霧山昴)
著者 中野 等 、 出版 吉川弘文館

 黒田官兵衛、また如水(じょすい)として有名な戦国武将の実像に迫った歴史書です。なので、あまり面白いという本ではありません。小説ではないので、ハラハラドキドキ感はないのです。
 官兵衛といえば、土牢に閉じ込められて1年あまり、よくぞ助かったもの、でも、出てきたときにはまともに歩けなくなっていた...、というエピソードがまず有名です。
 この本は、孝高(官兵衛)が信長に謀叛(むほん)した荒木村重の説得に向かったこと、摂津有岡城内に拘留されたことは事実としています。ところが、このエピソードは明治に刊行された『黒田如水』にはなく、大正5年の『黒田如水伝』に初めて出てくる話とのこと。江戸時代の書物には出ていないそうです。
 天正6(1578)年11月から翌7年11月まで1年間の拘束があったことは事実。しかし、「土牢」とかではなく、それなりの処遇だったようです。この本は、「極端に劣悪な状況下で幽閉されていたとも考えにくい」としています。
 そして、「3年」の幽閉によって歩行困難になっていた、脚に障がいを負ったというのは一次史料で確認できないとのこと。なーるほど、ですね。
 孝高は父親が亡くなった天正13(1585)年ころ、40歳のとき、キリシタンとして洗礼をうけた。洗礼名は、ドン・シメオン。このことはルイス・フロイスのイエズス会総長あての報告書に書かれているから間違いない。
孝高が小西行長の受洗のきっかけをつくり、実際に洗礼に導いたのは高山右近と蒲生(がもう)氏郷(うじさと)だった。いやあ、これには驚きました。そして、蒲生氏郷と高山右近は、千宋易(かの千利休です)の高弟ですから、キリシタン人脈は茶道ネットワークと大きく重なっていたというわけです。これまた、知りませんでした。
 孝高は慶長9(1604)年3月に、59歳で、京都の伏見で亡くなります。
 辞世の句は、
 思ひ置く 言の葉なして ついに行く 道は迷わじ なるにまかせて
 死に臨んで達観の境地に至ったようだとされています。
 死の前、息子の黒田長政に自分の遺体は博多の教会まで運んで埋葬するように頼み、教会の建築のため1千クルザードを寄付した。宣教師のロドリゲスがローマのイエズス会本部への報告書に、このように書いている。
 孝高の遺体は筑前(福岡)に運ばれ、キリスト教による葬儀が行われた。もっとも、さらに20日後には、仏式による葬儀も営まれたとのこと。
 秀吉は天正15(1586)年に「伴天連追放令」を発してイエズス会の布教活動を禁止した。秀吉はキリシタン大名にも棄教を迫り、これに応じなかった高山右近は居城を没収され、追放された。高山右近はフィリピンに向かったのですよね...。
 孝高も秀吉の不興をかったものの、なぜか棄教を求められなかったようです。
 それどころか、孝高は嫡子の長政(洗礼名はダミアン)が末弟の直之(同ミゲル)も洗礼を受けさせている。また、孝高は、豊後の大友義統(コンスタンティン)や筑後久留米城主となった小早川秀包(シモン)にも入信を勧めた。このように、高山右近が追放されたあと、孝高は国内のキリシタン勢力の中心的存在と目された。いやあ、これまた知りませんでした。
 孝高40歳代の初めころは、毛利一門と深く結びついていたようです。
 秀吉の二度にわたる朝鮮出兵のころ、孝高も長政とともに朝鮮に渡っていますが、秀吉の不興をかっていて、名護屋城に戻ったとき対面を許されなかったほどでした。
 このとき、石田三成が孝高を恨んで秀吉に訴えたことが原因だというのは、後年になって黒田家が石田三成をおとしめるために創作した話であって、史実ではない、としています。
 黒田家は、徳川将軍家にとって警戒の対象であり続けたというのは事実のようです。いずれにしても、男系、女系とも、黒田本家において、孝高の血統は早々に絶えています。
 歴史を知ると、物語のように面白い話ばかりではなくなるけれど、また、史実のほうが意外だったりすることを知りました。著者は福岡県生まれの九大教授です。
(2022年9月刊。税込2640円)

2023年2月 1日

徳川家康と武田信玄


(霧山昴)
著者 平山 優 、 出版 角川選書

 「どうする家康」が始まりましたが、その時代考証を担当する学者の本です。同じ著者の『長篠合戦と武田勝頼』も読みましたが、武田勝頼をすっかり見直しました。なかなか実証的な論述に、とても説得力があります。
 さて、「どうする家康」です。家康は簡単に天下取りを実現したのではありません。もちろん強運もあったでしょうが、部下の武将に恵まれたこととあわせて、本人の決断の正しさもあったのだと思います。
 三河一向一揆が勃発したのは元禄6(1563)年12月のこと。三河国は始祖の親鸞(しんらん)が布教し、蓮如も布教活動をすすめたことから、一向宗が広がった。家康と三河一向宗寺院は、不入権をめぐる対立が頂点に達し、ついに門徒らが蜂起した。
 不入権とは、諸役(諸公事)免許などの経済的特権と、守護や領主の検断(警察権)不入によって構成される。家康は、今川氏の不入権政策を踏襲していた。
 この大一揆の原因については諸説あって固まってはいない。そこで、著者は、当時は元禄の大飢饉(ききん)の真只中にあり、兵糧米の貸借をめぐってのもつれが原因ではないかと推測しています。そして、一向一揆に対して、少なくない家臣が一揆側に味方した。これは大変ですね...。ただし、一揆側に明確なリーダーがおらず、一揆を大事にするつもりはなく、不入権を確保したいというのが根拠だった。
 なんとか一揆側を和睦(わぼく)できた家康は、三河において一向宗を禁制とした。家康は一向宗寺院や道場をすべて破却した。
そして、三方原合戦で家康は武田軍に大敗してしまいました。なぜ、家康がこのとき武田軍に歯向かっていったのか...。それは自らの拠点である浜松城への補給路確保だった。
 武田信玄は家康について信長あっての家康だと認識していた。本心では、家康を格下だと侮っていた。ところが実は、信長と家康は対等の関係であり、従属関係ではなかった。信長は家康に対して実行を命令し、強制することはできなかった。
 これは意外でした。信長のほうが強大なので、主従のような関係だとばかり思っていました。
 信玄は宿敵上杉輝虎との和睦に踏み切った。これは、まさしく驚天動地の外交だった。
 武田家は、元亀3(1572)年に家康を攻め、三方原(みかたがはら)合戦が起きた。
 武田軍は、徳川・織田連合軍の真ん中を切り破った。このため、徳川・織田連合軍の鶴翼は寸断され、総崩れとなった。ところが、このころ、武田信玄と同盟していた朝倉義景が越前に撤退して、信玄は大いに落胆してしまった。やがて、信玄の体調が急変した。信玄の病気は胃ガンだと推定されている。信玄は元亀4年4月に53歳で死亡した。家康の前半生において、もっとも脅威だったのは、武田信玄だった。
本当に危いところで、信玄が死んでくれて家康は助かったというわけです。家康が26歳から32歳までのことです。これをどのように役者たちが演じるのでしょうか...。
(2022年11月刊。税込1980円)

2022年12月25日

里見義尭(よしたか)


(霧山昴)
著者 滝川 恒昭 、 出版 吉川弘文館

 曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」は、まさしく血湧き、肉踊る武勇伝ですよね。江戸時代にベストセラーになって、今も大人気の物語です。本書は、その里見氏の実像をとことん明らかにしています。
 いやあ、戦国時代を生き抜くって、実に大変なことなんだと、思わず追体験した気分になりました。身もフタもありませんが、結論から紹介すると、里見家は結局、江戸時代初めに没落してしまったのです。
 房総から鳥取の倉吉に3万石に減封のうえ転封された。そして、倉吉の領地も取り上げられ、大名里見家は消滅してしまった(1622年)。
 ところが、里見氏が安房(あわ)を去ったあとも、一族の大半はそのまま安房の地に残って百姓や医者、村の指導者層になった。そして、改めて里見氏の歴史を軍紀ものとしてつくりあげていったというのです。なるほど、その気持ちはよく分かりますよね...。
 この本の主人公は、里見氏のなかでもっとも輝いている義尭に焦点をあてています。
 里見氏は、清和源氏八幡太郎義家の子孫で、里見郷(群馬県高崎市)を名家の地とした。里見家に天文の内乱(1533年)が起きた。これは、北条氏と密かに結んで下剋上をも起こしかねない叔父の里見義尭とそれに与(くみ)する正木氏などの勢力に対し、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と連携していた里見義豊が機先を制して誅伐を加えたというもの。
 里見氏は、強大な実力を有する北条氏と江戸湾をはさんで対峙していたが、それは江戸湾で活動する野中氏や吉原氏のような地元勢を、その配下として握っていたことによる。
 江戸湾岸に暮らす人々は、北条と里見という双方の勢力に対して年貢を納める(半手(はんて)、半済(はんぜい)と呼ぶ)ことで、安全を確保していた。
 上杉謙信が関東侵攻をしていたころ、里見氏は上杉氏と同盟関係を結んで北条氏と対抗していた。上杉氏の関東侵攻に北条氏が対応しているスキを見て、北条氏勢力が手薄になった地域に侵攻することを基本戦略としていた。
 天文の内乱に勝利して、里見家の家督と安房国主の座を得て以来、40年間、里見氏を名だたる東国の諸大名と肩を並べる地位にまで義尭は押し上げた。その義尭は1574(天正2)年6月1日に亡くなった。享年68歳。その後、里見家は秀吉の時代に、安房一国だけの領有を認められた。当主の義康が31歳で亡くなった(1600年)。
 当主が20代や30代でなくなると、配下の武士たちがテンデンバラバラになってしまうというのが、今の私にはよく分かりません。それでも、実は武士の領主も辛い立場にあって、気楽な存在ではないことだけは、よく分かりました。
(2022年8月刊。税込2530円)

2022年10月26日

最上氏三代


(霧山昴)
著者 松尾 剛次 、 出版 ミネルヴァ書房

 出羽(山形)の雄将として名高い最上(もがみ)氏三代の栄衰史です。あまり期待もせずに読みはじめたのですが、いやいや、どうしてどうして、とても面白い盛衰記でした。
 初代の最上義光は家康の意を受けて、関ヶ原の戦いのとき、上杉景勝と一歩も引かずに激闘したおかげで、関ヶ原に上杉勢は行くことができなかった。その功績を家康は高く評価し、戦後、天皇に面会するとき義光を同行させたほどです。しかも、領地を一度に増やしてやりました。
 このときの家康の会津(上杉勢)攻めは、豊臣秀頼の許可を得て、秀頼から金2万枚、米2万石をもらっていた。つまり、これは家康の私戦ではなく、豊臣秀頼の承認のもとに行われた、豊臣軍による征討だった。
 ところが、石田三成が秀頼に働きかけて、家康を弾劾するようになったので、上杉景勝を征伐する大義を失った。それで、伊達政宗も二股外交に走り、上杉方と停戦するに至った。それでも最上義光は上杉勢との戦闘を続けた。しかし、上杉が120万石に対して、最上は13万石でしかない。単独で戦えば、勝敗は明らかだった。しかし、関ヶ原の戦いで西軍の石田方が敗北したことで、大きく局面は変わった。
 上杉勢に石田方敗北の報は9月30日に入った。結局、最上義光は13万石から57万石の大名となった。
 ただ、最上勢のなかに1万石をこえる大名クラスが15人もいて、山形藩の統治は難しかった。
 山形城には天守閣がない。城下整備などの土木事業は、百姓の疲弊をもたらす。最上義光は「民のくたびれにまかりなり候」と考えていた。
 最上義光は、父の義守と親子対立し、死闘を繰り広げた。そして、自分自身も子の義康と対立し、横死させてしまった。何の因果か...。
 これには、義康が豊臣秀頼の近習であったことから、家康が秀忠の近習だった家親を最上家の跡継ぎとするよう、そのため義康を排除するように義光に指示したのだろうとされています。
 なるほど、最上家にも豊臣秀頼と徳川秀忠のどちらにつくか、二つの流れがあったわけです。
 そして、その家親。家親は、秀忠の近習として、大変信頼されていたようです。ところが、家親はずっと秀忠のそばにいたため、山形藩のなかに直臣を形成することができなかったうえ、なんと36歳という若さで急死してしまったのです。
 すると、その次、三代目は、まだ12歳。いかにも頼りがない。重臣たちが、勝手気ままに分裂して、まとまりのない藩になった。そこで、「家中騒動」(重臣の不知)を理由として、改易を申し渡され、1万石に転落した。さらには、大名ではなく、5千石の旗本にまで降格された。
 最上家には、もう一つの悲劇が襲った。義光の娘が豊臣秀次に嫁入りしていたところ、秀吉に子(のちの秀頼)が出来たことから秀次は切腹させられ、同時に、秀次の妻妾たちも一挙に惨殺された。そのなかの一人に義光の娘が入っていた。しかも、娘の死を追うようにして義光の妻まで死んでしまった(恐らく自死)。
 戦国時代の武将が、なかなか厳しい人生を送っていたことを実感させられる本でもありました。
(2021年12月刊。税込3850円)

2022年10月23日

明智光秀


(霧山昴)
著者 早島 大祐 、 出版 NHK出版新書

 明智光秀は医者だったようです。光秀は牢人時代に医者をして食べていたようだ。つまり、越前で牢人医師をしていた。光秀は、京都代官のとき、医者である施薬院全宗のところによく泊まっていた。
 足利義昭が没落したあと、光秀は織田信長の家臣となった。そして、京都の市政を担当する代官となった。村井貞勝と2人で代官の職務をとった。
 光秀の妹、御妻木殿(おつまきどの)が信長に側室として仕えていた。
 これは、知りませんでした。そして、この妹は光秀と信長とを結ぶ重要な役割を果たしていたというのですが、天正9(1581)年8月に死んでしまったのでした。妹は機転がきいていて、信長の意向全般に通じていたそうです。そんな重要な位置にいた妹を失ったことが本能寺の変を光秀が決断する遠因となっている、とのこと。これはまったく初めての知見です。
 信長は、訴訟の基本方針だけを示し、あとは信長の意向を忖度(そんたく)して、光秀らが裁許した。信長の指示は、「当知行安堵(あんど)」、すなわち現在、管理、運営している者を優遇せよ、というものだった。
 本能寺の変の前、信長は一族優先等に切り替え、着々と実行していた。つまり、織田一族に連なる、重代の家臣、直属の家臣たちの権威を高めていた。一族を中心に織田家中が序列化されていっていて、その意味で信長の周囲には、組織の自由な雰囲気は失われ、硬直化しつつあった。「外様」の光秀は、これによってはじき出されつつあったようです。
土地調査の方法として、秀吉は現地に出向いて調査して土地台帳をつくるようにした。これを検地という。これに対して光秀は、自らは現地に行かず、現地からの報告にもとづいて土地台帳を決定した。これを指出という。
いろいろ知らないことが書かれていて、勉強になりました。
(2020年1月刊。税込968円)

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー