弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦国)

2021年1月17日

戦国のコミュニケーション


(霧山昴)
著者 山田 邦明 、 出版 吉川弘文館

戦国時代の武将たちは、どうやって確かな情報をすばやく伝達していたのかを残された書面から探った本です。
本能寺の変で信長の死を知った秀吉は直ちに「大返し」に取りかかったが、同時に敵方への情報遮断にも成功した。
戦国時代、人の噂の伝わる早さは今考える以上のものがあった。でも、確かな情報を伝える手紙はなかなか届かなかった。そして、手紙には、使者が口頭で詳しく述べると書かれていることも多かった。すると、誰も使者としては派遣するかが重要になる。
ただ、飛脚を使うこともありました。どんな使い分けがされていたのでしょうか...。
自分の出した情報が、いったい相手に通じているのかという不安は、当時はきわめて深刻なものだった。使者が帰るまでに1ヶ月はかかり、飛脚だと、着いたかどうかが確かめられないことも多かった。
戦国時代の文書は、書き手の心情や願望が生き生きと書かれているものが多い。なので、読みとるのは難しいが、内容が理解できたら、なかなか面白い、
戦国時代には、使者や飛脚が敵方に押さえられ、密書が奪いとられることが本当に起きていた。
「申す」というのは、下から上に向かって何かを主張するときが多く、上から下への意思伝達は「仰(おお)す」と表現された。
毛利元就(もとなり)は、三人の息子、隆元(たかもと)、吉川元春、小早川隆景に手紙を書いて送った。ところが、送った手紙(書状)原本は元就に返すことになっていたというのです。これには驚きました。
「読んだら早く返せ」と元就は書状に明記していました。それは、他人には決して見せられないようなことも書かれていたからです。つまり、家臣たちの評価も書いてあったようなのです。
書状には日付がないので、内容から書かれた時期を推測するしかありません。
長男隆元が41歳で急死したあと、吉川元春と小早川隆景は若い当主輝元(隆元の子)を支えて毛利両国の保持と拡大につとめた。元就は75歳で亡くなった。
有能な死者は二つのパターンがあった。その一は、足の速い者。その二は、理解力や交渉能力のある者。この両者が使い分けられていた。いずれにしろ、使者をつとめるのは、本人にとってきわめて危険にみちた仕事だった。
信頼できる情報を得ること、もたらされた情報を信じることは、戦国時代にはきわめて困難だった。それは、よく分かります。ところが、ネットの発達した今日では、フェイクニュースとかなりすまし情報に惑わされないことが求められています。情報の入手とその評価が、とても難しいのがよく伝わってくる本でした。
(2020年1月刊。2300円+税)

2021年1月 9日

戦国の図書館


(霧山昴)
著者 新藤 透 、 出版 東京堂出版

日本人は「戦国時代」が大好き。この本に、こう書かれていますが、まったくそのとおりです。映画「七人の侍」も戦国時代の話ですよね。織田信長とか豊臣秀吉、たくさんの武将たちが次々に登場してきますので、大いにロマンがかきたてられます。
ところで、「戦国時代」という言葉が一般に普及したのは明治に入ってからで、「戦国大名」という用語が誕生したのは戦後だというのに驚いてしまいました。江戸時代には「戦国」という言葉は使われておらず、一般的な言い方ではなかった。むひゃあ、そ、そうだったのですか...、恐れ入りました。
足利義政・義尚は、書籍収集をしていて、足利将軍家は蔵書家でもあった。
この本は足利(あしかが)学校について詳しく紹介しています。
足利学校は、室町時代の中期に、関東管領の上杉憲実によって再興された。鎌倉・円覚寺の禅僧が校長となり、生徒には琉球出身の学生もいた。すごいですね。沖縄から、はるばる本土、それも足利まで、噂を聞いてやってきたのでしょうか...。
足利学校では儒学を中心として『易経』に力を入れていた。当時、易学と兵法を学んだ足利学校の卒業生は戦国大名にひっぱりだこだった。易学は、戦国時代の「実学」だった。
足利学校は、自学・自習が中心で、修学年限も決められていなかった。まさしく大学ですね。なので、単なる図書館ではなかったということです。
このころの連歌師は、プロの間者(かんじゃ)ではなかったとしても、それに近いことをしていた。ふむふむ、なるほどですね...。全国を渡り歩いていて、各地の情報をつかんでいたことからのことです。
もともと寺院は僧侶のための教育機関だったが、武士の子弟も受け入れるようになり、室町時代に入ると、民衆の子どもたちの一部も「入学」が許可された。「大学」の受け入れ枠が広がっていったのでした。
戦国時代は、世の中が乱れた時代だったが、それまで京都で独占していた文化が一挙に地方に波及し、そこで独自に進化した画期的な時代だった。
というわけで、戦国時代の実情の一端を知ることのできる本です。
(2020年9月刊。2500円+税)

2021年1月 4日

戦国大名の経済学


(霧山昴)
著者 川戸 貴史 、 出版 講談社現代新書

日本史のなかでも戦国時代というのは、織田信長、豊臣秀吉そして徳川家康が出てきますし、その前には武田信玄、上杉謙信、さらには真田幸村などいかにも魅力的な武将たちのオンパレードです。
でも、この手の末尾に、戦国時代と現代との決定的な違いは、当時の人々には戦争がごく身近だったとされています。うひゃあ、そ、そうなんだよね...。だったら、私はバック・トゥ・ザ・フューチャーで戦国時代に顔を出したくはありません。映画『七人の侍』の世界なんて、まっぴらごめんです。
当時の日本の人口は1500万人ほど。戦国一国あたりの人口は20万人から30万人。
戦争すると、戦闘員が数千人、兵站(へいたん)に関わる非戦闘員を加えると2万人。兵糧を支給すると、1人1日6合の兵糧として、戦闘員2000人として、1日あたり12石の米を要する。1ヶ月だと米360石。現代の価値として1500万円。このほか、鉄砲などの武具を用意しなければならない。昔の戦争だってお金がかかるのですね、当然ですが...。
鉄砲は1挺あたり50~60万円の価値があった。鉄砲使用に必須となる火薬の原料として欠かせない「硝石」を日本は中国から輸入することに成功した。
信長の安土城は、現代の価値として100億円はかけただろう。
戦場では「乱取(らんど)り」があっていた。勝者が人を拉致して売りとばすのだ。売られてしまった人たちは、主人に隷属的な下僕として従属する。下人(げにん。奴隷)だった。
乱取りを上杉謙信自身が容認していた。乱取りは、兵士たちへの報酬だった...。
ワイロは当然というのが、この時代の人々の共通認識だった。当時の人々の認識では、まったく恥ずべき行為などではなく、それどころか見返りをもっとも期待できるものだった。
日本の中世社会は、贈答儀礼がきわめて盛んな時代であり、有力者同士の交流に贈答は欠かせなかった。
やはりいつの時代も、お金、つまり経済抜きの行動はありえないというわけです。
(2020年8月刊。1000円+税)

2020年12月31日

「関ヶ原」の決算書


(霧山昴)
著者 山本 博文 、 出版 新潮新書

この本の結論をまず紹介します。
「関ヶ原」で負けたことで、秀頼は年収1286億円だったのが、一挙にわずかその1割ほどの185億円になってしまった。秀頼の領地としては摂河家74万石のみとなった。そして、全国にあった豊臣家蔵入地と金銀山からの運上収入を全部失った。
これに対して、家康のほうは573万石を支配するようになったが、これは日本全土1850万石の3割に相当する。そして、金銀山からの運上金が年に397億円。なので、あわせると毎年1205億円の収入を生む領地と金銀山を家康は得た。
この家康が奪った秀頼の蔵入地と金銀山こそが「関ヶ原」の15年後の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼす原資となり、260年も続いた江戸幕府の重要な経済基盤となった。
まことに経済基盤こそ社会のおおもとを動かす原動力なのですね...。
「関ヶ原」で決戦した東西両軍の戦費も計算されています。
徳川家康としたがった大名の兵力は5万5800人。この軍勢が3ヶ月、90日のあいだ行軍し、戦った。1日5合の割合で計算すると、20億円あまり。これに秀忠軍をあわせると30億円近くになる。西軍のほうは9万3700人なので、そして61日間とすると、23億円弱となる。つまり、わずか3ヶ月間で53億円もの兵糧米が消費されたということ。
島津家が「関ヶ原」でなぜ敵中突破に成功したのか、なぜ薩摩藩を守り抜くことができたのか、かなり詳しく紹介され、分析されています。
関ヶ原のとき、島津義弘は65歳、徳川家康は58歳、そして石田光成は40歳だった。
義弘の率いる軍勢は、わずか1000人足らずでしかなかった。それでも島津の軍勢は「関ヶ原」の敗戦のなかで敵陣の中央突破を図って、なんとか切り抜けることに成功した。それには福島正則の軍隊が島津軍を見逃してくれたことも大きかった。朝鮮出兵のとき、福島正則は島津軍とともに戦った関係にあった。
義弘主従は、最終的に50人ほどになっていた。ただし、別に300人ほどの部隊が京都にたどり着いている。また、島津軍には商人も同行していたという。そして、島津氏の内部では、「関ヶ原」の戦後も強硬派と融和派があって、深刻な対立があった。
結局のところ、家康は島津家との軍事衝突より全国の平和を優先させたということのようです。大変勉強になりました。著者は、惜しくも先日亡くなられました。残念です。
(2020年6月刊。800円+税)

2020年10月21日

撰銭とビタ一文の戦国史


(霧山昴)
著者 高木 久史 、 出版 平凡社

日本史に登場する銭(ぜに)の素材は、金・銀・銅・鉛と、さまざまなものがあった。
朝廷は鉛でできた銭を発行し、中世の民間は純銅の銭をつくり、秀吉政権は金または銀で銭をつくり、江戸幕府は鉄または黄銅(銅と亜鉛の合金)でも銭をつくった。
15世紀の日本では文字やデザインのない無文銭がつくられた。これは、錫が少なく、銅の多い銭は文字がはっきり出にくいことによる。無文銭をつくっていた地域の代表が堺。
足利義満は、20~30万貫文の銭を輸入した。義満が明との勘合貿易に積極的だったのは、内裏(だいり)や義満の邸宅である北山殿(今の金閣)を建設するための財源を調達するためだった。
室町時代を全体としてみると、輸入した銭の量は貨幣に対する人々の需要をみたすほどのものではなかった。
銭が不足したことへの人々の対応策の一つが省陌(せいはく)。これは100枚未満しかない銭を100文の価値があるとみなすこと。このために銭をひもで通してまとめたものを緡銭(さしぜに)という。ただし、これは、中国やベトナムにもあって、日本独自の慣行ではない。
撰銭(えりぜに)とは、人々が特定の銭を受けとることを拒んだり、排除してしまうこと。たとえば、明銭のなかの永楽通宝は品質もそこそこ良いのに人々から嫌われた。
人々は旧銭を好み、新銭は「悪」とみなした。つまり、使い古された貨幣のほうが安心して使えるので、好まれた。
九州の人々は明銭のうち、洪武通宝を好んだが、本州の人々はこれを嫌った。
16世紀には銭そのものを売買する市場が成立し、これを悪銭売買と呼んだ。
銀は、15世紀以前の日本では対馬国を除いてはとれず、中国や朝鮮半島からの輸入に頼った。16世紀に入ると、石見(いわみ)銀山など全国各地に銀山が開発された。信長政権の時代には、銭が不足気味だった。
「ビタ一文も負けない」というときの「ビタ」は、銭のカテゴリーの一つ。やがて、人々はビタを基準銭に使うようになった。「ビタ一文」と言うとき、貨幣の額面が小さいうえ、少額なことを人々がややさげすむ意味をふくんでいる。
秀吉は関東の北条一門を屈服させると、永楽通宝1をビタ3、金1両をビタ2000文とする比価を定めた。秀吉政権は高額貨幣の発行を優先させ、銭政策に消極的だった。秀吉は全国の金山を直轄すると宣言し、国内の銀山で採れた銀で銀貨をつくって大陸出兵の軍費にあてたり、そのことで再びもめた。
碓氷(うすい)峠あたりを境として、西側はビタを、東側は永楽通宝を基準銭とする地域に分かれていた。
寛永通宝はビタのなれの果てだった。
日本中の銭のさまざまなつかい方の一端を知ることができる本です。
(2018年12月刊。1800円+税)

2020年10月 4日

殿、それでは戦国武将のお話をいたしましょう


(霧山昴)
著者 山崎 光夫 、 出版 中央公論新社

戦国時代の武将について貝原益軒が福岡藩第三代藩主の黒田光之に語ってきかせたという体裁で、いろんな武将が紹介されています。
貝原益軒って『養生訓』で有名ですよね。85歳まで長生きした体験にもとづく健康法ですから、現代でも重宝されています。この貝原益軒には、98部247巻に及ぶ膨大な著作集があるといいます。恐れいりますね。江戸時代随一の博識家と評価されているとのこと。
貝原益軒は、和漢の古典を読破し、儒学者として黒田藩に地位を確保して、『黒田家譜』を書き上げるのでした。1年で草稿を書きあげ、7年かけて12巻にまとめ、17年目に17巻本として完成させた。そして、全15巻の『朝野雑載』として、戦国時代の逸話をまとめた。
この本は、この『朝野雑載』をもとに短い読みものとしています。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康そのほか戦国時代の名だたる武将が次々登場してきて、読ませます。
そうか、戦国武将を主人公とした小説を書くのなら、この『朝野雑載』は有力な手がかりになるんだな、と思ったことでした。私も知っているような有名なエピソードが大半ではありますが、なかには、えっと驚くものもありました。
福島正則は、関ヶ原の戦いの前に、いち早く家康に味方することを高言して、家康を勝利に導いた。ただし、家康は本当に福島正則が自分のために戦ってくれるのか疑うところがあって、じっと様子をみていた。
関ヶ原の戦いのあと、大坂冬の陣のときには、福島正則は江戸城に留め置かれた。正則の変心を家康が恐れたから。
信長の家臣のうち、とくに優れた四将が俗謡に歌われた。
「木綿・藤吉(とうきち)、米・五郎左、かかれ柴田に、のき佐久間」
木綿は、普段着としてなくてはならないもの。木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)は、信長になくてはならない側近だった。五郎左は丹羽長秀。柴田勝家は、戦闘時に先陣を切ってかかっていく強者(つわもの)。「のき佐久間」は、佐久間信盛。退却戦が上手だった。柴田勝家が秀吉に敗れたのは、本能寺の変を天下取りの好機ととらえる発想がなかったし、軍師もいなかった。
「井伊の赤備(あかぞな)え」というのは有名ですが、それは、武田二十四将の一人である山県昌景の部隊を引き継いだというのを知りました。武田の「赤備え」が「井伊の赤備え」になったのです。
そして、家康の家臣だった石川数正が秀吉の家臣になったのは、実は、家康を裏切ったのではなく、それは表向きのことで、本当は間者(かんじゃ。スパイ)となって大坂方に潜入したという説がある、とのこと。
ええっ、これって本当でしょうか...。私がこれまで読んだ本には、間者説はまったくありませんでした。まあ、世の中には、いろんなことがありますので、その説もあながち間違いだと決められません。
戦国時代の武将をとりまくエピソード満載の本でした。
(2020年5月刊。1700円+税)

2020年9月27日

長篠の戦い


(霧山昴)
著者  金子 拓 、 出版  戎光祥出版

 関ヶ原の戦いは1600年。その25年前の1575年(天正3年)5月に起きた長篠(ながしの)の戦いの実相に迫った本です。
 武田勝頼は戦(いくさ)を知らないバカ殿さまではありませんでした。しかし、織田信長・徳川家康の連合軍に攻められ、大敗したこと自体は歴史的な事実です。
 鉄砲隊が3千挺の火縄銃を三列に編成し、三交替で射撃(三段撃ち)したから織田・徳川の連合軍が大勝したというのが通説だったわけですが、どうやらそういうことではないようです。ただし、「三段撃ち」が完全に否定されているとは思えません。
 また、武田軍は、騎馬軍団が無謀な突撃を繰り返したというのも史実に反するのではないか...、と指摘されています。ここらあたりの謎解きが、歴史物を読む面白さですよね。
 織田信長は、本願寺攻めを1ヶ月前までしていたし、このあともするつもりだったので、自軍の損害を最小限におさえたいと考えていた。
長篠城は、武田の大軍に包囲されながらも、2週間以上も耐えていた。そして、武田軍が前進したのを見て、織田信長は即座に奇襲作戦を実行した。
長篠の戦いは、日の出から午後2時ころまで続いた。織田・徳川連合軍は、足軽たちを武田軍に向けて前進させ、適当なところで引いて追撃してくるところを鉄砲で撃った。武田軍はぬかるんだ湿地帯だったため、馬による機動性が著しく損なわれていた。つまり、馬で移動しての攻撃に不向きな湿地帯だった。
織田・徳川連合軍による馬防柵も、鉄砲をつかった戦い方も、奇襲作戦も、ことごとく信長の防禦的姿勢によるものだった。そして、この防禦的姿勢に流し、それを前提とした状況判断が織田信長に勝利をもたらした。なーるほど、と思いました。
たくさんの写真や図版があり、視覚的イメージがつかめる100頁あまりの歴史小冊子です。
(2020年1月刊。1500円+税)

2020年8月27日

村上水軍


(霧山昴)
著者 園尾 隆司 、 出版 金融財政事情研究会

その真実の歴史と経営哲学というサブタイトルのついた、村上水軍とは何かを明らかにし、今に生きる経営哲学を浮きぼりにした本です。私の敬愛する畏友である著者から贈呈されましたので、早速、頁を開いて読みすすめました。
瀬戸内海を拠点とする河野水軍が成立したのは730年ころというから、なんと奈良時代にさかのぼる。そして、村上水軍は、1070年ころに成立した。これまた平安時代のこと。
そして、村上水軍が歴史上、活躍するのは戦国時代、織田信長・豊臣秀吉が生きていたころのこと。村上水軍は、一般に村上海賊として広く知られている。
和田竜の『村上海賊の娘』(新潮社)は、村上海賊を「現在の尾道市や三原市、今治市を結ぶ瀬戸内海上の島々、芸予諸島を中心に蟠踞(ばんきょ)した海賊衆」とし、「主要な水運経路であった瀬戸内海を東西に行き来する船たちは、この難所にぶつかることになる。村上海賊は、これらの難所を構成する島々に城を築いて私的な関所を設けていた。そして城同士は互いに連絡をとりあい、往来する船から『帆別銭(ほべつせん)』なる通行料を徴収し、その軍備を維持していた」とする。
また、村上海賊は因島(いんのしま)村上、能島(のしま)村上、来島(くるしま)村上の三家から成り、能島村上は三島(さんとう)村上の他の二家をはるかに凌(しの)いで、その威勢は、西は周防(すおう)灘、東は塩飽(しわく)諸島にまで及んだ。
ルイス・フロイス宣教師は、「日本の海賊の最大なる者」と紹介した。その党首、村上武吉(たけよし)が村上海賊の筆頭だった。
著者は海賊を、すべて「海上賊徒」とみてはいけないと強調します。もう一つ、違法な侵攻への防衛や船舶の警固を行いつつ、海運に携わる海上勢力、すなわち「水軍」を意味するものでもあるのです。
ところが、明治になって、「海賊」はすべて「海上賊徒」と言わんばかりに扱われるようになった。
人口16万5千人の愛媛県今治市が世界4大船主都市の一つだというのには驚かされました。それは、この3島村上水軍の本拠地だったことが、今に続いているということなのです。
日本の保有する外航船舶の30%がここで保有されていて、日本で建造される造船の17%がここで建造されている。いま、今治市で海事産業に従事する多くの人々が村上水軍の末裔(まつえい)であると自認している。
村上水軍の経営哲学は、一族から一族に引きつがれる口頭伝承だ。
村上水軍の経営哲学の第1命題は、「牽制と連携」。支配・隷従・腐敗を避けつつ統一体を保つ。第2命題は、「常に浮き沈みに備えよ」。ときに荒れ狂う海が相手の仕事なので、海から生まれた哲学である。すなわち、沈んでも浮き上がる、浮き上がっても沈んだときに備える。沈んだ者への配慮、沈むことを恐れない思い切りのよい行動力がある。第3命題は、「自らのよって立つ地を活力の源とせよ」。その実例が、レジェンド・ゴルフ場づくり。仕事を息子に譲った島のレジェンド(老人)たちが、自らショベルカーを駆使して、島民が利用するゴルフ場をつくりあげていくというもの...。
著者は、能島村上水軍を率いる村上武吉を中心として、それぞれの水軍の係累をいかにも裁判官らしく解明していくのでした。そのとき、数多くの文献を突きあわせ、その信憑性を検討していくのですが、その手法がまさしく裁判官による事実認定そのものです。ここまで深く、そして幅広く究明していった村上水軍の話は珍しいと思います。今後もひき続きの健筆を著者に期待します。贈呈、ありがとうございました。
(2020年9月刊。2700円+税)

2020年7月24日

甲賀忍者の真実


(霧山昴)
著者 渡辺 俊経 、 出版 サンライズ出版

甲賀市は滋賀県、伊賀市は三重県に、それぞれ属するのですね。そして、この両市は2017年4月に「忍びの里、伊賀、甲賀―リアル忍者を求めて」として文化庁から日本遺産として認定されました。
著者は尾張藩忍者の子孫であり、蔵のなかに古文書が残されていたとのこと。
著者の曽祖父・渡辺平右衛門俊恒は、幕末の尾張藩最後の忍者の一人だった。
関ヶ原の戦い(1600年)で西軍に属して敗戦した島津義弘の軍が関ヶ原を中央突破して鹿児島になんとか帰還したとき、島津軍が最初の夜を明かしたのは甲賀の飯道山上だった。これは、飯道山山伏と薩摩山伏たちの全国ネットが活かされた成果だった。
これって、ホントですか。初めて知りました。
甲賀武士たちは、絶対的な指揮官がいなくても、甲賀武士全員に分かるように目標設定さえできたら、甲賀武士同士が自主的に行動して目標を達成できた。すなわち、甲賀武士たちは、お互い横の関係で対等であり、それぞれが互いに信頼でき、的確に判断でき、的確に決断し、行動できた。
戦国時代の甲賀における識字率は高かった。それは、飯道山が山伏の修行の場として一般人を受け入れたので、格好の教育機関の役割を果たしたから。リテラシーの高さ、各種知識の豊富さ、武術の強さが、甲賀の自治を育み、甲賀の若者を飛躍させた。甲賀忍者の基礎の一つがここにあった。
本能寺の変のあと家康が「伊賀国」を通過したのは、服部半蔵の働きによるという説を著者は間違いだと強調しています。家康一行の窮地を救うために全力で支援したのは、甲賀武士であって、服部半蔵は、「岡崎生まれの岡崎育ち」なので、役に立ったはずがないとしています。
甲賀武士のおかげで助かったことから、家康は甲賀武士たちを厚遇したというわけです。
そして、石田三成と徳川家康が戦った関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城の戦いで、十数人の甲賀忍者が裏切りはしたものの、残る80人の甲賀忍者は討ち死にしたので(数人のみ生き残った)、彼らの遺族は甲賀武士として家康は然るべく処遇した。それが「甲賀百人組」の起源なのだ。
なるほど、そういうことだったのかと思うところが多々ありました。
150頁ほどの冊子ですが、よく調べてあると感嘆しました。
(2020年2月刊。2400円+税)

2020年4月 4日

ルイス・フロイス


(霧山昴)
著者 五野井 隆史 、 出版 吉川弘文館

ヨーロッパ人宣教師としては、フランシスコ・ザビエルに次いで知名度の高いフロイスの伝記です。私にとってフロイスは、戦国時代の日本人とは、どんな人々だったのか、現代日本人と共通するところ、違うところ、具体的に教えてくれる、大変貴重な存在です。
ザビエルたちが1549年に鹿児島に上陸してから最後の1643年までの100年近くに300人ものヨーロッパ人宣教師が日本にやってきました。その布教は数万人もの日本人キリスト教信者となっています。現代日本を上回るほどの多さだと思います。
ルイス・フロイスは、戦国争乱の真最中の1563年にキリスト教を日本に広めるためにやってきた。以来、フロイスは日本に31年間いて、日本人の文化・習俗にもっとも精通した外国人となった。フロイスによる『日本史』は膨大な書物となっている。
フロイスが生まれたのは1532年ころ、ポルトガル王国の都リスボン。フロイスの家族に関する情報は何もない。フロイスが改宗ユダヤ人であった可能性は否定できないが、そうであったという明確な証拠はない。
フロイスは17歳のとき、イエズス会に入った。そして、王室の書記官として若きフロイスは嘱望されていた。
フロイスは、文筆に長け、言語能力が高く、理路整然と話し、表現力と説得力が際立っていた。文才あふれる文書作成者であり、難しい事態に巧に対応できる器量人だった。
フロイスは日本に来て、日本人を次のように高く評価した。
「日本人は、男であれ、女であれ、現世の利益のために洗礼を受けるような国民ではない。日本人ほどコンタツを尊び、崇め、日本人ほどこれを活かす人々がこの世界に他にいるかどうか知らない」
フロイスは織田信長に何回か会うことができました。フロイスの信長評は次のとおりです。
「長身で、やせており、ひげは少なく、声が良く通る。過度に軍事的鍛錬にふけり、不撓不屈の人だ。正義と慈悲の所業に心を傾け、不遜で、こよなく名誉を愛する。決断ごとは極秘とし、戦略にかけては、はなはだ巧緻にして、規律や家臣たちの進言には、ほとんど(わずか)しか従わない。諸人は、異常なことに、絶対君主に対するように服従している。優れた理解力と明晰な判断力をそなえている」
ちょうどフロイスの事蹟をたどりたいと思っていたところでした。さあ、フロイスも読みましょう...。
(2020年2月刊。2300円+税)

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