弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2013年1月 1日

中国革命と軍隊

中国

著者  阿南 友亮 、 出版  慶應義塾大学出版会

1920年代、30年代の中国、広東省における党・軍・社会の関係を詳細に分析し、中国革命と軍隊との関係を根本的に問い直した意欲的な本です。450頁もある大部な本なので、読み通すのに、少々苦労しました。
 1980年代以降に復活した中国での現地調査において、共産党によって抜本的に変革されたはずの農村社会における伝統的人間関係の根強い生命力を示す事例が数多く発見された。そこで、共産党が実際にどこまで農村社会を変革できたのか、疑問の声があがった。
 農村社会における伝統的な人間関係の根強い生命力の発見は、共産党による社会変革こそが国民党を圧倒する原動力の源となったという従来の定説の見直しを迫るものであった。
 1930年代までの中国の軍隊は、基本的に生産から遊離した貧民・流民を主たる兵士の供給源とする傭兵軍隊であった。軍隊に応募した兵士の圧倒的多数は、失業・破産・貧困農民出身であった。
 困窮する農民は多く、兵士になろうとする人間も多い。こうして中国では徴兵制を広く実施する必要もなく、募集すればすむ。蒋介石の国民革命軍ですら、募集して得た兵隊であった。
 20世紀前半の中国ではほぼ無尽蔵に傭兵を供給し続ける困窮した地域社会という兵士の生産地、そして兵士に対して常に一定の需要をもっていた軍閥の傭兵軍隊という消費者によって巨大な兵士市場が形成されていた。
 中国の傭兵軍隊の兵士の大半は、独身の貧困農民であり、軍隊の募兵に応募する主たる理由は、毎日食事にありつくこと、一定の給金を得ること、掠奪を通じて一攫千金を狙うことであった。それらを通じて生存の確保と貧困からの脱出を図ることであった。
平均的な兵士は、大義名分や国家に対する義務よりも利益のために戦う傭兵的性格が強く、戦場でリスクを回避しようとする姿勢が顕著で、戦況が不利になると、兵士の脱走、降伏、敵方への寝返りが頻発した。
 兵士は、往々にして各級の将校が自らの責任で募兵したため、その将校と直接的利害関係をもち、忠誠心もその将校に向けられる傾向が強かった。つまり、中国の傭兵軍隊は最高司令官を核とする一極集権的組織ではなく、多極分権的性格が強かった。このため、個々の兵士の脱走のみならず、師団長や旅団長が部隊ごと敵に寝返るという行為が頻繁にみられた。
 20世紀前半の中国において膨大な数に達していた民間の自衛団体の構成員は、匪賊とともに、軍閥の軍隊にとって重要な兵士の供給源となっていた。
 1923年末から1924年初めにかけて、共産党は農民運動を党の指導下で武装化し、それによって農民の生活水準向上に立ちはだかる既得権益層の武力に対抗すると同時に、「革命軍隊」に農民を動員するための基盤を構築するという構想を打ち出した。
 1923年6月の大会以降、共産党は都市住民に加え、農民をも兵士の重要な供給源とみなすようになり、農民の制度的武装化に関する構想を展開していった。
 ところが、1923年の終わりころになると、共産党指導部は、既存の自衛隊団体と農民運動、土地改革などによる農民の「解放」(社会変革)とが両立しがたいという社会状況を認識するに至った。
 1924年、著しく統制を欠いた軍隊を抱えた孫文は、麾下の将兵が職務に殉じる覚悟に欠け、利害を重視して職分に違反することを嘆き、革命に従事するはずの麾下の軍隊と「軍閥」の軍隊とのあいだに目立った差異がないことを認めざるをえなかった。
 1924年7月、広州に農民運動講習所(第一期)が開講した。ここは農民自衛軍の士官学校であった。農民自衛軍の拡大は、広東社会の既得権益層の強い警戒と反発を招くこととなり、広東各地で既得権益層と農民境界との確執、既存の自衛団体と農民自衛軍との衝突が顕在化した。農民自衛軍の役割は、本来、村落の防御に限定されていた。
 国共両党の推進した農民運動の過程で組織された新たな民間武装団体の農民自衛軍と旧来の民団との抗争は、一見、社会変革に伴う摩擦を象徴しているようでありながら、実は往々にして宗族間の械闘の論理に支配されていた。
 国共両党が1924年以降、普及に努めた農民自衛軍が1927年に軍隊に編入され、一つの部隊として戦闘に従事したのは画期的なことであった。それは極めて限定的ながらも、民間武装団体を通じて農民を制度的に軍隊に動員するという1923年以来の共産党の軍隊建設構想が実現したことを意味した。
 1927年ころ、国共両党が民団はもちろんのこと、農民自衛軍に対しても必ずしも末端組織に至るまで十分な指導権を確立していたわけではなかった。
 1928年、海豊における土地革命は障害に直面し、遅々として進まなかった。土地の分配に対する農民の反応が共産党の予想よりも複雑で、土地革命は多くの時間と労力を必要とする困難な作業であった。土地の分配は、決して順風満帆ではなかった。
 土地の境界の破壊に関する農民の理解を得ることは非常に難しかった。それを一因として、土地の分配がなされたのは、狭い範囲に限定された。土地境界の破壊は、少なからぬ農民の思惑・利益に反していた。多くの自作農が頑強にこれに抵抗した。土地所有権の否定は、自作農の抵抗を招いた。そして、それには宗教の論理も作用していた。宗族の共有地である「族田」が多く存在した。他の宗族に属するよそ者に土地を渡したしたくないという心理も働いた。
 一部の宗族が共産党に味方する一方、他の多くの宗族が共産党に頑強に抵抗した。
 1928年1月の時点で、共産党は県内を平定して土地革命に着手するどころか、県城を失い、陸豊から駆遂される危機に直面していた。
 土地革命は遅々として進まず、住民の蒙った恩恵は均等ではなかった。公平を重視する農村社会では、これは重大な問題であった。このころ紅軍は戦うたびに小さくなり、戦うたびに弱くなった。陸豊では、反共産党の名のもとに不倶戴天の敵同士であった黒旗と赤旗との連携が進み、複数の宗族から白旗を掲げる連合軍(白旗)が形成された。海陸豊における共産党の勢力は多分に宗族の論理に依存していた。同地の共産党には、郷神や地主が相当数ふくまれていた。
 共産党は、社会変革して新たな武力を手に入れたのではなく、前から存在した武装宗族を活用した。このように、国共の相克は、実は清代以来の宗族間の抗争の延長という側面を有していた。
 土地の没収・分配や地域社会からの紅軍兵士の獲得は、現地の共産党指導部にとって始めての試みだった。そして、着手した時点では、農民の頑強な反対と抵抗に遭うことを想定していなかった。それでもたもたしているうちに国民党軍の襲撃を受けてしまった。
 このように、国共内戦期の土地革命は、少なからぬ障害・混乱に直面し、なかなか共産党の計画どおりには進展しなかった。
 なーるほど、そういうことだったんですか。土地革命の成功イコール共産党の軍事力の増強という図式は必ずしも現実を反映したものではないということです。刮目させられました。
 40歳の若手学者による貴重な労作です。
(2012年8月刊。6800円+税)

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2013年1月31日

北朝鮮現代史

朝鮮

著者  和田 春樹 、 出版  岩波新書

北朝鮮とは、いかなる国なのかを知る、コンパクトな新書です。
 1942年、ソ連領内に抗日連軍があった。みなソ連軍の軍服を着ていた。崔康健も金日成も、みな大尉だった。軍事指導は中国人、党は朝鮮人という分業があった。そして、朝鮮人としてはトップは崔康健であり、金日成はその下だった。
 1942年、金日成の妻である金貞淑は男の子をソ連領内で産んだ。金正日である。
 ソ連は戦後の朝鮮占領に対する準備をほとんどしていなかった。かつてコミンテルンで働いていた朝鮮人の共産主義者のほとんどは、1930年代にスターリンの指令によって日本のスパイとして処刑されていた。
 中国では党の軍隊だから、中共党の軍事委員会が中国人民解放軍を管理している。北朝鮮の場合には、党とは別個に軍が組織された。
 1948年2月、朝鮮人民軍の創建が公表された。北朝鮮人民軍ではなかった。
 朝鮮民主主義人民共和国の首都は憲法ではソウルとなっており、平壌は仮首都である。
 1949年3月、金日成、朴憲永らは北朝鮮政府代表団としてソ連を訪問し、スターリンと秘密に会見した。金と朴は「国土完整」の希望を伝えたが、スターリンはこれを許さなかった。
 1949年4月、中国人民解放軍が南京を陥落させた。北朝鮮の士気はますます上がった。スターリンのソ連は、1948年末まで、朝鮮の米ソ分割を前提とする政策を改める気配をみせなかった。
 1949年10月、毛沢東が天安門の上で中華人民共和国の建国を宣言した。
 1950年4月、金日成と朴憲永らは、モスクワでスターリンと会見した。スターリンは最終的にOKしたが、中国に行き、毛沢東の意見をきいて決定するよう求めた。
 1950年5月13日、金と朴は北京に到着し、毛沢東に会見した。毛沢東はアメリカ軍が参戦する可能性があるとみていて、そのときには中国は軍隊を派遣すると述べた。
 1950年6月25日未明、38度線の前線で北朝鮮軍による軍事行動が開始された。このとき、北朝鮮にはT34戦車が258台あったが、韓国側には1台もなかった。
 スターリンにとって、ソ連が支持して北朝鮮が南に攻めたということは絶対に世間に知られてはならないことだった。
 6月30日、アメリカ政府は東京のマッカーサーに地上軍の派遣を許す決定を下した。これはスターリンと金日成の予想に反していた。
 10月19日、中国人民志願軍12個師団が鴨縁江を超えた。18万人を超える大兵力は静かに米韓軍に接近し、重大な打撃を与えた。うろたえたアメリカのトルーマン大統領は原爆のしようもありうるとしたが、イギリスのアトソー首相にいさめられて、思いとどまった。
 1950年12月、金日成は戦争の作戦指導から完全に排除された。金日成にとって、これは屈辱的な事態だった。戦争は、組織的にもアメリカ軍と中国軍との戦争になった。
 アメリカは、李承晩大統領の意見は聞きもしないし、説得もしなかった。
 朝鮮を統一民族国家として再建したいという民族主義者の願望を実現しようとしてはじめられた朝鮮戦争は、北の共産主義者の側からみても、南の反共産主義者の側からみても失敗に終わった。朝鮮戦争は朝鮮の統一をもたらしえず、失敗した。この失敗の責任を誰にとらせるかがスターリンの関心事だった。
 1953年1月から、平壌で、朴憲永ら南労党系が逮捕された。朝鮮戦争は、金日成の軍事的失敗を意味したが、結果は金日成の政治的勝利だった。
 停戦の時点で北朝鮮にいた中国人民志願軍は120万人だった。
 1956年2月、スターリン個人崇拝批判が始まった。このとき、北朝鮮では、個人崇拝とは朴憲永崇拝のことだとされた。金日成崇拝は「個人崇拝」ではないという論法で対処された。
 今の北朝鮮は「先軍政治」をとっている。これは、正規軍国家ということ、つまり党国家というより、軍国家体制なのである。
血なまぐさい権力闘争を経て成り立っている北朝鮮の政治体制の内実が実にコンパクトに分かりやすくまとめられた新書です。
(2012年4月刊。820円+税)

 東京でデンマーク映画『アルマジロ』をみました。アフガニスタンに派遣されたデンマーク軍の兵士たちの活動を紹介する映画です。アルマジロというのは、農村地帯にある前線基地で、そこから兵士たちがパトロールに出かけ、タリバンと戦います。デンマーク軍が村民に対して「あなたたちを守ってやっているから、情報を知らせてくれ」と頼むと、村民たちは拒否します。「そんなことをしたら、タリバンに殺されてしまう」。子どもたちも口々に、「家に帰れ」と兵士に言います。
 タリバンとの戦闘場面が生々しく(フィクションではありません)、軍隊は結局、人々の生活も平和も守ることは出来ないことを実感させます。デンマークで公開されたら、アフガニスタンへの派遣支持が一挙に低下したそうです。当然だと思いました。

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2013年1月30日

治安維持法

日本史(現代史)

著者  中澤 俊輔 、 出版  中公新書

稀代の悪法と言われる治安維持法は戦前の軍部独裁政治のなかで規制されたものではなく、実は護憲三派内閣のときに成立したものでした。なぜ、そんなことになったのかを考えてみた本です。
ファシズムは、初めのうちはフツーの人間の顔をして近寄ってくるものなんですね。そして、その仮面の下のホンモノの怖い顔が現れたときには、もう手遅れなのです。
 治安維持法は、1925年、護憲三派の連立政権である加藤高明内閣のとき、「結社」を取り締まる法として成立した。なぜなのか?
 治安維持法の主管官庁は、内務省と司法省だった。内務省は、行政処分と重複する新しい取締法を設けることに消極的だった。内務官僚は、貧困や労働問題といった社会の矛盾を柔軟に受けとめようとした。
 明治政府の元勲・伊藤博文は1900年、立憲政友会を組織した。政友会は「万年与党」だったが、その成長の裏には原敬の内務省支配と利益誘導政治があった。
 ところが、1921年(大正10年)11月、原敬が暗殺され、政友会は突然にリーダーを失ってしまった。カリスマ亡きあとの政友会は内紛をかかえた。
 憲政会は「思想善導」を政策として打ち出し、内務官僚に人脈を築いていた。しかし、司法省には独自の人脈を築けなかった。
 立憲国民党は、犬養毅を総理として1910年に結成された。弁護士やジャーナリストが集まる、リベラルな性格を持っていた、犬養は、言論・出版・集会の自由を主張した。1922年に解党して革新倶楽部として再出発した。
 治安維持法を制定した加藤高明の護憲三派内閣は、政友会・憲政会・革新倶楽部の連立政権として誕生した。
 1900年の治安警察法は万能であったが、結社の禁止処分はあくまで行政処分であって罰則ではないという限界があった。
 1922年(大正11年)、政友会を与党とする高橋是清内閣は過激社会運動取締法案を閣議決定して国会に提出した。しかし、廃案となった。第一に、学者・新聞・言論人が反対した。第二に、与党が反対した。政友会の内紛も無視できない。第三に、主管官庁の司法省と内務省の歩調があわなかった。第四に、貴族院が反発した。司法省は、宣伝ではなく、結社を罰することで個人の言論活動には深く立ち入らないというスタンスを示そうとした。内務省は、ソ連とコミンテルンを警戒したことから、治安維持法の制定に賛成した。
国会での審議を通じて、治安維持法が「宣伝」取締法ではなく、「結社」取締法として成立したことには言論の自由を重視する憲政会の意向が反映されていた。
 成立した治安維持法の問題点は次のとおり。
 第一に、文言があまりにも漠然としている。「団体変革」は、融通無碍(むげ)に拡大適用された。
 第二に、暴力や不法行為の実態がなくても処罰の対象となることは、結社の自由な活動を萎縮させた。
 第三に、法成立時に「団体変革」を目的とする結社は存在していなかった。その結果、治安維持法は、次第に本来は対象外である「宣伝」へ適用を広げた。
 1928年3月15日、共産党員への一斉検挙が行われた。全国で1000名が逮捕されたが、起訴されたのは488名だった。押収された党員名簿によると、逮捕された党員は409名のみで、検挙者の4分の1にすぎなかった。
 1928年4月、治安維持法が改正された。目的遂行罪を導入し、死刑を法定刑の上限にふくめた。
 1929年4月16日、共産党への一斉検挙で700名が検挙された。
 1928年10月から始まった陪審制では、治安維持法違反事件は対象外とされた。陪審員が共産党の影響を受けることを恐れたためである。
 治安維持法違反の検挙者は1928年から40年までに6万5000人をこえた。1931年から33年までに3万9000人であった。そして、そのうち起訴されたのは5400人ほど。検挙者の9割は起訴されなかった。
 若手の学者によって治安維持法の実態を知ることのできる本でした。
(2012年9月刊。860円+税)

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2013年1月29日

暴走する地方自治

社会

著者  田村 秀 、 出版  ちくま新書

先の衆議院総選挙において、市長や知事が本来の仕事を放り出して国政選挙に奔走し、それをマスコミも当然視していました。本当に問題ないのでしょうか・・・?
 ほとんど市長としての仕事をしないのに給料は全額もらっていたようです(少なくとも返上したというニュースは私の知る限りありませんでした)。部下の市職員に対しては口やかましく職務専念義務を強調していたのに、まったく矛盾しているとしか思えません。こんな口先だけの政治家って、いやですよね。
 暴走する首長たちがいる。東京・名古屋・大阪。そして、かつては鹿児島、阿久根市にも・・・。彼らは、国や地方議会、公務員などを抵抗勢力に位置づけ、単身、地方自治体の本丸に乗り込んで改革を進めているように演出する。そして有権者からの拍手喝采を受ける。こんな地方政治の劇場化は、いったい住民に何をもたらすのか、よくよく考えてみる必要がある。まことに同感な指摘です。
 大阪の抱えている問題は、果たして地方自治体の構造をいじったくらいで、大阪経済が再生の道に向かうのか、根本的な疑問がある。大阪都市構想は、大阪を一つにすると言いながら、その中身は、大阪を解体することにある。もし道州制が導入されたら、大阪都構想は大阪を破壊するための単なる一里塚でしかない。これでは、「するする詐欺」ではないか。関西州が誕生したとき、神戸市や京都市はあっても、大阪都はなく、大阪は人口30万人から50万人に分割・再編され、大阪を代表する自治体は存在しなくなる。大阪そのものの解体である。いやはや、とんだことですよね。まるで詐欺商法でしょう。
 名古屋市の減税プランによると、所得の低い層40万人には減税の恩恵はない。恩恵を受けるのは高所得の人のみ。
改革派首長は、たびたびマスコミに登場している。マスコミの側が積極的に取りあげている。視聴率を上げるためだ。抵抗勢力を明確にして対決姿勢を強めることは、マスコミに恰好のネタを提供することになる。
 そして、彼らは外部からの人材登用に積極的である。ところが、政治的任用を乱発すると、組織のなかで軋轢を招きやすい。
 テレビ局がワイドショーなどで好意的に扱ってきたのを改める必要がある。
 ポピュリズムは、地方を、そして日本という国を滅ぼす。
 東京大学工学部を卒業してキャリア官僚になり、いまでは新潟大学の教授になっている著者の話には説得力があると思いました。
(2012年5月刊。780円+税)

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2013年1月28日

日本人は、なぜ世界一押しが弱いのか?

社会

著者  齋藤 孝 、 出版  祥伝社新書

私は一般的な日本人論を読むのを好みません。聖徳太子の「和をもって貴となす」というのは、当時あまりに紛争(裁判)が多かったので、日本人よ、もめごともほどほどにせよと諭したということなのです。ところが、今ではまったく逆に昔から日本人はもめごとを好まなかっただなんて、とんでもない使い方がされています。
 また、イザヤ・ベンダサンにも一時期ころっと騙されてしまいました。なあんだ、正体は日本人だったのか、よくぞなりすましてくれたものだと思いました。とは言っても、この本には得るところがありましたので、紹介します。
 テレビのワイドショーでは、思いついたことの8割は言えない、言ってはいけない。なぜなら、本当のことは、ほとんど人を怒らせることだから。日本のテレビでは、人を怒らせることや傷つけることを言う人は、だんだん出演が減っていく。
 私も、30年ほど前にNHKの朝「おはようニッポン」の全国生中継番組に出演したことがあります。事前の打ち合わせのとき、たとえば国内の先物取引業者を悪く言ってはいけないと釘をきつく刺されました。同じようなだましの手口を使っても、政府公認の業者は許せということです。
 日本人は大陸から渡ってきた民族だ。つまり、押しが弱いために土地を追われ、大陸から押し出されてしまった人々の末裔なのではないか。
 ええっ、これって、ホントでしょうか・・・。信じられません。
 中国人や朝鮮人に比べて日本人は肉食が向いていない。肉は日本人の弱い胃腸には適さない。同じように、胃腸の弱い日本人は量をたくさん食べることもできない。
 日本人は、超肥満になれない。超肥満になるには、それだけインシュリンを多く分泌する能力があるということ。内臓の弱い日本人は、インシュリンもたくさんは出ない。そのため、超肥満になる前に糖尿病になってしまう。
 日本人には「個」が弱いから、一人では生きていけない。集団でなければ生きていけないので、集団で生きるために忍耐力と協調性が必要となった。
 日本は、場の空気を読むことが常に求められる社会である。
 葦原(あしはら)の瑞穂(みずほ)の国は神(かむ)ながら、言挙(ことあ)げせぬ国
 これは『万葉集』におさめられた柿本人麻呂の歌。日本は太古から「言葉にしてはっきり言わないこと」をよしとしてきた。それをしてしまうと争いになるからだ。
 日本人の微笑(ほほえ)みは、人間関係を穏やかにするための相手の配慮である。
 セックスは全身的な行為なので非常に疲れるうえに、気を遣うので、精神的にも負担を感じてしまう。セックスは対人行為なので、ストレスが生じるが、自慰はストレスがないから気が楽だ。
 日本人の学校好きは筋金入りだ。その証拠に日本人は同窓会が大好きだ。
 日本の古文は、世界に誇るべき奇跡の文章だ。古文は、誰が、誰にというのがほとんど書かれていない。読み手が、それらをすべて補わなければならない。古文は、すべてが曖昧である。
日本の文化には、お笑いと温泉と食べ物という三つの世界に誇るべきものがある。
 日本人は押しが弱いけれど、その分穏やかという特性をもっている。性格は、明るくまじめ、几帳面で粘り強い。
 今どきの学生は、ケータイ(スマホ)がネットしか使っていない。一人ひとりが自分の見たいときの自分の見たい情報しか見ないようになっている。これは、とても危険なこと。情報の共有ができなくなっている。
 多くの人が同時に情報を共有していることは、それ自体がとても大切なこと。なぜなら、みんなが知っていることで初めから話がすすむということがあるから・・・。
 弁護士の中にも口頭での討論を不得意とする人が増えてきて、心配です。
(2012年6月刊。780円+税)

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2013年1月27日

蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡

日本史(鎌倉時代)

著者  湯浅 治久 、 出版  吉川弘文館

ムクリ、コクリという言葉が、私の脳裡にかすかな記憶として残っています。恐ろしいものという意味です。つまり、ムクリ、コクリに襲われたら大変だということです。
 ムクリとは、モンゴル(蒙古)、コクリとは(高麗)。つまり、蒙古襲来の悪夢が現代日本人にも微かに伝わっていたということです。
 この本を読んで、西方の中国そして朝鮮半島から中国・モンゴル軍が来襲してきたとき、実は北方からも日本を襲う動きがあったことを知りました。
 蒙古は、同じころサハリンのアイヌを改め、20年後に元が再びサハリンのアイヌを攻撃した。蒙古からの攻撃がアイヌの反乱と連動していた可能性は高い。
 鎌倉幕府は、弘安の蒙古合戦に大勝したことで気を良くして、高麗派兵を企図した。そして、元のフビライは、日本遠征をあきらめず、戦艦の建造をすすめた。フビライが永仁2年(1294年)に死ぬまで、蒙古襲来の危険は続いていた。
 フビライが高麗や日本への軍事行動を始めたのも、実は南宋を孤立させるための布石であった。
 文永11年(1274年)10月、第一次蒙古合戦が始まった。来襲した兵員は、蒙古軍と高麗軍を併せて3万余人。兵船は900艘に達した。
 10月20日、蒙古軍は、百道原や今津から上陸して、日本の武士と激戦を繰り広げた。蒙古軍は、この日、筥崎宮を焼き払った。そして、混成軍の統制がとれず、思わぬ日本武士の抵抗に気後れした蒙古軍が撤退する途中に暴風に遭遇した。合浦に帰還した蒙古軍は1万3000人あまりを失っていた。
 この合戦の状況が有名な「蒙古襲来絵詞」に描かれている。
 弘安4年(1281年)、蒙古人・漢軍・高麗軍の計4万人が日本に襲来した。別に江南軍は10万人、船舶3500艘。しかも、江南軍は、鋤・鍬を所持し、日本へ移住して、大地と人民を支配することをもくろんでいた。
 この14万人の集団が平戸近くの鹿島になぜか1ヵ月も滞留していたとき、折からの台風によって壊滅的な打撃を受けた。
 蒙古との合戦直後、北条時宗が34歳で急死した。
鎌倉幕府の内部状況は目まぐるしく変遷していきます。人臭いドラマの連続です。
(2012年11月刊。2800円+税)

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2013年1月26日

「忠臣蔵」の決算書

日本史(江戸)

著者  山本 博文 、 出版  新潮新書

私の誕生日が討ち入りの日と同じだからではありませんが、忠臣蔵には昔から興味がありました。
 この本は、討ち入り費用700両(8400万円)の使途がきちんと記帳されていたことから、浪士たちの行動を明らかにしたものです。
 筆頭家老の大石内蔵助が、すべての藩財政の処理を終えて会計を諦めたとき、その手元に残ったお金は700両足らずだった。現代の金銭価値になおすと8千数百万円ほど。このお金が吉良邸討ち入りのための軍資金として活用された。
 「預置候(あずかりおきそうろう)金銀請払帳(きんぎんうけはらいちょう)」が現存し、それは討ち入り前夜に浅野内匠頭の正室(妻)の瑤泉院に届けられた。
赤穂藩が領内に発行していた藩札は銀9000貫目(銀900万匁)。現在の金額にすると18億円で、藩の年間予算に匹敵する規模だった。そして赤穂藩の取りつぶしによって、赤穂の城下町は藩札をもつ債権者が藩の内外から集まって、大変な騒ぎになった。最終的には、藩札はその額面の6割と交換されて決着した。
 赤穂藩には、中級家臣が140名いた。米や金の現物で「禄」(給料)を支給される下級藩士は123名いた。
 退職金として、藩士300名に対して総額23億5千万円が分配された。単純平均で一人780万円である。
 四十七士の特徴は、階層・役職・立場など非常にまんべんなく分布しており、一口でどのようなものが討ち入りに参加したとは言えない。一人一人の考えが独立しており、しいて言えば、「武士道」への思い入れの強い者が参加したと言える。
 多くの討ち入りの参加者は、浅野内匠頭個人から特別な恩籠を受けてはいなかった。彼らは、自らの「武士道」と家の名誉を守るために行動した。
 江戸で隠れ住んでいた浪士は月3万円で生活していた。
 支出割合の多くを占めているのが、上方と江戸を往復する旅費である。一人分の片道旅費は総額で3両。2週間かかったとして、1日に2万5千円。宿泊代が1泊1万円。駕籠賃などの交通費と食費をあわせて1日1万5千円。
 大石内蔵助は、もと家老の身分であるため、旅行時には駕籠を使った。内蔵助が京都で遊興したときには、自分のお金を使った。『金銀請払帳』には、その関係の出費は記帳されていない。
 内蔵助が江戸に下ったときには、もはや軍資金も底をつき始めていて、これ以上延期が実質的に不可能だったという実情もあった。江戸へ下る旅費は一人金3両と決められていた。そして、軍資金が乏しくなっていたことから、内蔵助一行の江戸下り費用は、内蔵助自身が負担した。
 討ち入りのための武具などの購入費用は130万円ほどだった。そして、不足したお金は内蔵助が個人で負担した。藩の財政を処分したあと、700両のお金を残し、これを適切に管理して使い、立場も考えもさまざまに異なる多数の同志を足かけ2年の長期にわたって統制した内蔵助の力量は、あらためて高く評価されるべきものである。
 著者のこの指摘には、まったく同感です。2年ものあいだ、お金と人を巧みに統制した内蔵助の力はとても大きい、偉大だと思いました。
(2012年11月刊。740円+税)

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2013年1月25日

私はホロコーストを見た(下)

ヨーロッパ

著者  ヤン・カルスキ 、 出版  白水社

ナチス・ドイツの魔の手から救出・解放されたあと、ヤン・カルスキは農村地帯に匿われます。そこで、健康を回復するのです。ポーランド・国民の全体として抵抗する風土がカルスキを助けました。しかし、著者を匿った一家も無事ではありませんでした。あとでナチス・ドイツに銃殺されているのです。
ポーランド亡命政府はイギリスのロンドンにあったが、ポーランド国内に地下秘密政府(レジスタンス)がしっかり根づいていた。
 これがよその国と決定的に異なるところです。フランスにもレジスタンスはありましたが、地下(秘密)国家というべきものはありませんでした。
 たとえば、地下政府は、金曜日に、ナチの新聞をポーランド国民は買ってはならないと指示した。すると、たちまち、金曜日発売のドイツ語新聞の発行部数は大幅に減った。それほどレジスタンスは、ポーランド国民から信頼されていた。
 さらに、レジスタンスの財政危機を打開するため、亡命政府は国債を発行することにした。そして、国債発行は大成功をおさめ、レジスタンスの活動を続けることができた。
レジスタンスは新聞も発行した。それは、4頁から16頁のものである。そして、発行人はワルシャワのゲシュタポ本部に1部を郵送してやった。ポーランド国民の気持ちを伝えるためである。レジスタンス機関は、地下新聞を介して住民との接触を絶やさずにいた。地下新聞のおかげで何が起きているのか、住民はいつでも知ることができた。住民の希望の日を燃やし続けているのも、地下新聞だった。
 地下活動における鉄則は「目立つな」である。秘密文書を個人宅に秘匿するための技術は、ポーランド国内で信じられないほど発展を見せた。二重壁、二重天井、二重の床板、抽出の二重底、浴室の偽配管、偽オーブン、細工家具など・・・。
地下活動には女性が適している。危険をすばやく察知するし、不幸に見舞われても男のようにいつまでもくよくよしない。人目につかない点でも男にまさっている。およそ女性の方がより慎重で、無口、良識を備えている。
 男は、大げさだったり強がったりと、往々にして現実を直視しない傾向がある。そして、何か謎めいた雰囲気を漂わせてしまう。それが遅かれ早かれ、致命傷となる。
 地下活動に携わるものが忘れてはならない重要な原則は、可能なかぎり自分の住まいを任務から無関係にしておくこと。政治活動をする者は、準備をしない、誰とも待ち合わせをしない、自分の寝る場所に秘密文書などは置かない。それを行動規範にする。それをしていれば、最低限の安全を確保したという気分になれ、絶え間ない不安から逃れられるし、恐怖心を抱かずに眠れる。
 女性連絡員の活動(寿命)は数ヶ月をこえることがない。女性連絡員こそ、占領下ポーランドにおける女性の運命を象徴している。より多く苦しんだのは彼女たちであり、その多くは命を失った。1944年に600人いたワルシャワの連絡員の50%は、ガールスカウト出身だった。
地下政府は地下学校を開いた。ワルシャワにあった中学と高校の103校のうち、90校が地下学級を持ち、2万5000人の高校生が授業を受けた。1944年までにワルシャワのみで6500のマトゥラ(大学入学資格)が秘密裡に授業された。高校教育(大学)は、ワルシャワだけで5000名の学生がいた。
 これらのおかげで、戦後のポーランド公教育の復活・維持が可能となった。
 ヤン・カルスキはユダヤ人ゲットーの中に潜入した。それは可能だった。地下室の出入り口がゲットー内に続く構造になっていた。絶望収容所までヤン・カルスキは見ています。
 この本を読んで残念なのは、ヤン・カルスキが自分の目で見た事実をアメリカのルーズヴェルト大統領などに直説話して伝えたのに、アメリカそしてイギリスを動かすことにならなかった事実です。アメリカもイギリスも、ソ連のスターリンへの遠慮そして国内政治状況の下で、ヤン・カルスキの訴えが結果的に無視され、何百万人ものユダヤ人殺戮が止まらなかったのでした。
 しかし、それにしてもヤン・カルスキの知恵と勇気そしてポーランド国民の不屈さには脱帽です。

(2012年9月刊。2800円+税)

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2013年1月24日

ブラック企業

社会

著者  今野 晴貴 、 出版  文春新書

だれでも知っている日本有数の大企業までもブラック企業なんですね。おどろきました。まあ、たしかに日本経団連は人間とりわけ若者の使い捨てを率先してすすめていますから、有名大企業がブラック企業だとしても驚くことはないのでしょう。
 でも、こんな事をしていたら、日本の若者をダメにしてしまうし、ひいては日本の将来をお先まっ暗にしてしまいます。一企業の私的利益に日本の若者ひいては日本の将来を奪わせてはなりません。
 「おまえたちは人間のクズだ。なぜなら、今の時点で会社に利益をもたらすヤツが一人もいないから。お前たちは先輩社員が稼いできた利益を横取りしているクズなのだ」
 こんなことを堂々と新入社員の前で演説する人事担当役員がいるというのです。ひどい話です。自分の胸に手をあてて考え直してほしいものです。実は、あなたもかつてはクズだったんですよね。そして、定年退職してからの年金を負担しているのは誰なんですか。あなたが、「クズ」と決めつけた「若者」たちではないのですか・・・。
 人事担当役員が「カウンセリング」を始めると、徹底的に自己否定することを強いられる。会社によるハラスメント手法に共通するのは、努力しても何をしても罵られ、絶え間なく否定されるということ。新入社員研修では、ひたすら精神面の指導が行われる。
 技術の向上や基本的な社会人としてのマナーを教えることが目的というより、従順さを要求し、それを受け入れる者を選抜することにある。
○○シロでは、店舗運営のマニュアルを暗記することが求められる。社外秘の資料なので、自宅で復習するためには店で書き写すことが求められる。明らかに不効率な方法だが、そこでは、根気があるか、会社に忠実かを見ている。
 半年で店長になれるのは、4分の1から3分の1くらい。入社して2年間は本当に採用されるために活動しているようなもの。その間に半分は辞める。店長になる過程は、同時にリタイアする過程でもある。
○○シロでは、みずからの過剰労働やパワハラを労働災害だと実は理解している。
成果主義のような目に見える効率一辺倒の企業体質は労働基準法を無視し、働く人を使い捨てします。
ブラック企業問題は、若者の未来を奪い、さらには少子化を引き起こす。これは日本の社会保障や税制を根幹から揺るがす問題である。同時に、ブラック企業は、消費者の安全を脅かし、社会の技術水準にも影響を与える。ブラック企業の規制を実現してこそ、日本経済の効率性を高め、社会の発展を実現できる。
 なんでも「規制緩和」万能の風潮が強まっていますが、とんでもありません。労働者保護は、日本社会の健全な発展に必要不可欠なものです。ぜひ立ちどまって考え直してほしいと思いました。
 まだ30歳という若手の著者です。大変勉強になりました。ひき続き、がんばってください。
(2012年12月刊。770円+税)

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2013年1月23日

「幕末維新変革史(上)」

日本史(江戸)

著者  宮地 正人 、 出版  岩波書店

江戸時代が終わり、明治が始まるころの欧米列強の状況が冒頭に紹介されています。なるほど、この幕末激動期を国内情勢の変化のみからとらえてはいけませんよね。最上徳内、間宮林蔵、伊能忠敬らは探検家として日本地図の作成は対ロシアとの緊張関係のなかで活躍したのでした。
 さらに、長崎通詞はオランダ語だけでなく、フランス語やロシア語まで習得していた。
 国学者として著名な平田篤胤と門弟たちは、人を批判するのに「コペルニクスも知らないで」と嘲笑していた。それほど西洋の自然科学所は当時の知識人の必読文献であった。つまり、地動説が当時の日本に入ってきていたのです。
 1840年の中国におけるアヘン戦争勃発は幕府にとって対岸の火事ではなかった。イギリスは戦艦を日本に差し向けるという噂が流れていた。そこで、高嶋秋帆に洋式銃隊の調練を行わせた。
 アヘン戦争の衝撃は、日本人の目を一挙に世界に拡大させた。西洋諸国は現在どのような発展状況にあり、世界のどこに進出しようとしているのか、その軍事力と国力はどの程度のものか、この痛切な日本人の知的欲求が『坤輿図識(こんよずしき)』全5巻を刊行させた。この本は堂々たる世界地誌であった。
 日本の漁民や船員が海上で遭難してアメリカなどに渡って日本に戻ってきた。これらの漂流民の話を藩主や藩重役までが熱心に傾聴した。
 1853年(嘉永6年)6月、ペリー艦隊が江戸湾に入った。黒船の出現である。ペリーは身辺警衛とアメリカの軍事力を誇示する目的で300名の兵力を久里浜に上陸させた。
 米日交渉は、9艦の軍事的圧力のもとで進められた。
このころイギリスは、アメリカやロシアのような対日行動をとるのは不可能だった。1851年に発生した太平天国の乱が拡大して、イギリスの商業権益が脅かされていた。
 日本において特徴的なことは、ペリーの来航情報が瞬時に全国に伝播し、人々がそれを記録し、そして江戸の事態を深い憂慮をもって凝視するという社会が出現していた。
 人々は情報を求め、あらゆる手段を用いて収集し、記録して、写して、冊子に綴っていき、さらにそれを回覧していった。
 幕末から維新期の政治は激変に次ぐ激変の中で展開していく。そして、その局面の背後に、その展開を凝視する3千数百万の日本人の目があった。この衆人監視の政治舞台において幕府が自らを国家として振る舞わざるを得なかったことは、一瞬たりとも忘れてはならないことがらである。
 全国各地の日本人には、なにか不安な風聞があったとき、まず飛脚屋に出かけて確認する習慣がつくられていた。幕府は、一切、政治情報を公開しないのにもかかわらず、日本人は瞬時に、大事件の発生をつかみとる。情報が公開されず、公的に流通させる制度がつくられていなくても、つかみとる能力を日本人は有していた。自分たちで事態を判断し、政治的意見を形成し、政治批判を展開できる段階に日本が入っていたことは幕末維新期を考察するとき、根底にすえておかねばならない。
 この指摘は、何だか政治に無関心な多くの現代日本人の顔を赤らませるものですよね。幕府の安政改革は、海軍のみならず洋式軍隊の創設も意図していた。
 ハリスと下田奉行が交渉していたとき、ハリスの演説書をはじめ、日米間の対話書のすべてを幕府大名に公開していった。事態の深刻さは周知のこととなった。そして、大名から、全国にもれ伝わっていった。
朝廷は、朝廷としての反応をした。ハリスに屈従してしまうのであれば、それで天皇から征夷大将軍職を授けられている「将軍」と言えるのか・・・。
 この本の最大の特徴は、下武武士や町人の日誌などを踏まえて、当時の日本人の反応と行動を全体的に明らかにしようとしていることです。すごいことだと思いました。
世界史のテンポは、日本国内の政治の悠長なかけ引きを許さなかった。3千数百万の日本人の眼前において、ハリスの予言どおり「政府の威信を失墜させた」幕府は、軍事的圧力に屈して条約調印を余儀なくされた。
 桜田門外の変(1860年、安政7年)は、客観的には幕末政治過程の一大画期となった。この桜田門外の変を契機として、一挙に政治の底辺が拡大した。「処士横議(しょしおうぎ)」の時代が始まり、目標は国家変革に絞られた。
 1859年(安政6年)7月の横浜・長崎・函館開港により、世界市場に編入された日本では、たちまち大量の金が流出していった。世界市場で金銀が15対1なのに日本では5対1だったからである。さらに、銅も世界市場の4分の1という安値だったので、銅製品が外国へ流出していった。
幕末の日本人の全員が感じていた危機感とは、国家解体の危機感、このままいってしまっては、日本国家そのものが消滅してしまうのではないかとの得体の知れない恐怖感であった。幕府が外圧に押され後退するたびに、この感覚は増幅され、それへの対抗運動と凝縮行動がとられていく。どのような具体的方策が提示されるかは、階級・階層・政治集団にとって異なるにしろ、通底するものは、この底知れない危機感と恐怖感なのである。
 この本を読んで、幕末・維新時代の視野を広め、深めることができたような気がしました。学者って、やっぱりすごいですね。さすがだと驚嘆しました。下巻が楽しみです。
(2012年11月刊。3200円+税)

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2013年1月22日

ワルシャワ蜂起1944 (下)

ヨーロッパ

著者  ノーマン・ディヴィス 、 出版  白水社

1944年8月に始まったワルシャワ蜂起は2ヶ月間続いたわけですが、その間ワルシャワ市内で文化行事が続いていたというのです。信じられません。
 パラデュム映画館では、朗読会、演奏会、演劇が連日開催された。平穏な夕方には、アマチュア劇団が野外劇場で劇を上演した。蜂起の期間中、ラジオ、映画、演劇、写真、マンガ、美術、文学などがワルシャワ市民の文化的生活を支える働きをした。
 詩が奔流のように生まれた。自然発生的に数十人もの新進詩人が現れた。
 西部戦線の英米軍は北西ヨーロッパとイタリア戦線で100万のナチス・ドイツ軍を相手に苦戦していた。東部戦線のソ連軍は200万のナチス・ドイツ国防軍と対峙して圧倒していたが、ベルリンの首相官邸の窓から東をのぞめば、ワルシャワまでわずかな距離でしかない。ワルシャワを手放すわけにはいかない。ソ連軍の到来前に、蜂起軍を粉砕しなければいけなかった。
 イギリスのメディアは、ワルシャワ蜂起について報道しなくなっていった。フランス国内のレジスタンス運動は華々しく報道されているのに、ワルシャワ蜂起の動きについては何も報道されなかった。
 アメリカのルーズヴェルト大統領は、ワルシャワ支援はソ連(スターリン)の協力を前提とするという態度をとった。ソ連はポーランド国内の抵抗運動が絶滅することを、むしろ望んでいた。
 イギリス空軍がワルシャワ蜂起支援のために空中から投下したコンテナ1284個のうち、8割はドイツ軍の支配地区に落下した。
 ソ連軍は蜂起軍を味方と考えていなかった。そして味方のはずの人民軍というのには実体がなかった。ワルシャワにおける共産党系勢力は質量ともに、とるに足りない存在でしかなかった。スターリンが戦前にポーランド共産党の幹部を絶滅していたからです。
 ついに蜂起軍はドイツ国防軍と降伏協定を結ぶことになりました。
 投降する国内軍(蜂起軍)兵士は10月3日、4日、5日の3日間、朝から夕方まで続いた。全部で1万1668人の兵士が降伏した。女性兵士2000人がふくまれていた。兵士は、対戦車ロケット砲、ステンガン、ライフル銃、拳銃をもって行進した。昂然と頭を上げ、誇り高く4列また6列で行進していった。見ていたドイツ軍士官は「あの誇らしげなポーランド人たちを見ろ」と大声で部下に向かって叫んだ。そして、数十万人の市民が歩いてワルシャワ市内を脱出した。
 その中に国内軍の予備司令部の要員もまぎれていたのです。これまたすごいことですね。ポーランド南西部の町に行き、抵抗軍の司令部を再建するという任務をもっていたのです。壊滅したかにみえたポーランドの偉大な抵抗運動は、まだ生き残っていた。
 ワルシャワ蜂起が敗北したあとも、ポーランド国内には20万人を上回る一の国内軍兵士が依然として戦闘態勢を維持し、ドイツ軍を悩ましていた。そして、1945年1月に国内軍は解散した。
 10万人をはるかにこえるワルシャワ市民がドイツ本国に送られ、降伏協定に反して奴隷労働を強制された。
 ヤルタ会談にのぞんだアメリカのルーズヴェルト大統領は死期を間近にしてうつ状態にあった。イギリスのチャーチルはもっとも弱い立場だった。チャーチルとルーズヴェルトは、スターリンによる東ヨーロッパ支配を黙認した。
 ドイツ軍青年士官が親にあって書いた手紙に、ワルシャワ蜂起軍について次のように書いた。
 「蜂起軍は実に英雄的に戦い、降伏に際しても名誉を失わなかった。蜂起軍の戦いぶりはドイツ軍よりも優れていた。学ぶべきところは、
 第一に、こんなかたちで外国を征服しても、何ら意義のある結果は得られないこと。
 第二に、不屈の精神、忠誠心、愛国心、自己犠牲の精神などはドイツの専売特許ではないこと。
 第三に、都市の抵抗は何ヶ月も持ちこたえることができる。攻撃側も重大な損傷を免れない。
 第四に、人間は戦闘精神や純粋な勇気があれば、多くを成しとげることができる。しかし、最後には、どんな精神力も物質的優位の前に屈することになる」
 「ぼく自身、もしポーランド人だったら、ドイツの支配下で生きたいとは思わないだろう」
 「降伏の行進のとき、ポーランド蜂起軍の兵士は民族の誇りを失わず、昂然と頭を上げて行進し、絶望の表情を少しも見せなかった。見上げた人々である」
 私は、この手紙を読んで、これだけでも、この書評で紹介する価値があると思いました。ポーランドの底知れぬ力強さ、不屈さには、ただただ圧倒されてしまいます。
 ワルシャワ蜂起の敗北のあとも、ワルシャワに潜伏した人が3000人以上もいたというのですから、これまた驚きです。やがてドイツ軍が去るのを待っていた。彼らの大半は、ユダヤ人であり、国内軍の医療班で働いていたユダヤ人が多かった。そして、映画『戦場のピアニスト』で有名になったシュピルマン(当時33歳)もその一人だった。
 ソ連軍がポーランドを占領すると、ワルシャワ蜂起は否定されます。そして、戦後のポーランド政府も同じでした。ソ連崩壊を待つまで、50年間、否定され、隠されてきたのです。
 下巻も500頁ほどの大作ですが、一心不乱に読み通しました。
 記念すべき歴史書として、一読をおすすめします。
(2012年11月刊。4800円+税)

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2013年1月21日

江戸時代の老いと看取り

日本史(江戸)

著者  柳谷 慶子 、 出版  山川出版社

江戸時代は、当主夫妻とその直系親族からなる家が広汎に成立して、社会の基礎単位となり、子どもの養育も看病も老いの看取りも、家の機能として家族により担われた時代である。
家の存在にはマイナス面もあったわけですが、その反面、このようなプラスの面もあったのですね。忘れてしまいそうな指摘です。
 江戸時代後期の、21歳以上の平均死亡率は、男性61.4歳、女性は60.3歳で、51歳以上の人々の享年は70歳をこえていた。成人後の平均余命は、実は現代と比べて、決して見劣りしない。80歳をこえる長寿者も少なくなかった。盛岡藩には80歳以上が780人いて、100歳以上も3人いた。
 江戸時代、古希(70歳)を過ぎ、さらに傘寿(80歳)を過ぎても現役をつとめる武士が少なからず存在した。武士には現在のサラリーマンのような定年退職という制度はなかった。
 江戸時代後期、古希を過ぎて幕役の役人だった人物が少なくとも50人はいた。最高齢は、なんと94歳。
 幕臣も藩士も、傘寿をこえて城勤めする者がいるのは、「平和」な時代に定着した「武士道」のあり方を考えさせる。
 天保(1830年代)のころ、70代の幕府役人39人のうち16人が80代まで生きのびており、その半分の8人が現役のまま死亡している。
 現役の役人のままで生涯を終えたのは当人の意思であったと考えられる。幕臣の終身雇用は、現役志向の武士たちの意思表示の結果であって、致仕しないことを名誉ある武士の生き方と観念し、老病と戦いながら役人であり続ける人生をまっとうした。
 奥女中にも武士と同じく定年退職の制度はなかった。徳川家斉時代の奥女中の一人は、73歳まで現役だった。奥女中も老年隠居に際して、手当を支給された。還暦まで勤めあげれば、老後の生活は幕府によって保障されていたことになる。隠居後は、剃髪して比丘尼(びくに)と呼ばれ、分限(ぶんげん)帳に名前を記載され、幕府の保護下におかれた。
 隠居するとき、家督とか隠居料の中身や将来の処分方法などを記した契約の文書を取り交わすことも珍しくなかった。それは、相続トラブルと回避するための方策であった。
日本人は、昔から書面にすることが多かったのです。
 武士の家や、相応の資産ある農民や町人の家では、女性は姑として主婦権をヨメに委譲し、家労働から解放されることで、あらたな役割や活動に時間を費やす隠居の年代を過ごしていた。
長寿者に対しては、養老扶持が支給された。武士は身内の病気や臨終に付き添うことができた。
江戸時代は名実ともに敬老精神にあふれた時代だったのです。わずか100頁のブックレットですが、今日の日本にも参考になる内容が盛りだくさんでした。
(2011年10月刊。800円+税)

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2013年1月20日

「移民列島」ニッポン

社会

著者  藤巻 秀樹 、 出版  藤原書房

現代日本にも、アメリカやヨーロッパほどではありませんが、たくさんの移民が住んでいるのですね。
 その実情を現場に足を運んで取材した日経新聞記者のルポルタージュです。
フランスには全人口の8%にあたる490万人の移民がいる。
 日本の外国人登録者数は208万人近い(2011年末)。総人口に占める割合は1.63%にすぎない。
日系ブラジル人やペルー人がデカセギ労働者として日本に来ている。ブラジル人は21万人いて、東海地方に日系人が集中している。
 浜松市は人口82万人のうち、外国人が3万人いて、その6割が日系ブラジル人だ。その子どものなかには、日本語も母国語のポルトガル語も身に付いていない子どもがいる。
 新宿区大久保はコリアンタウン化がすすんでいる。地価も上昇している。大久保には、1980年代以降に来日したニューカマーが多い。
 中国人が67万5000人とトップを占め、池袋には1万2000人が住んでいる。
江戸川区には2000人のインド人が住んでいる。ほとんどがITの技術者である。そのため、2、3年でインドに帰っていく。
 新宿区の高田馬場には1000人のミャンマー人が住んでいる。カチン族も500人いる。
 日本にいる移民の実情を多角的に知らせてくれる本でした。
(2012年10刊。3000円+税)

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2013年1月19日

大久保利通の肖像

日本史(明治)

著者  横田 庄一郎 、 出版  朔北社

大久保利通というと、いいイメージはありませんよね。佐賀の乱で江藤新平をさっさと処刑してしまったり、権力の権化みたいなイメージです。
 ところが、この本を読んで、そのイメージを少し修正しなければいけませんでした。
 まずは、西郷隆盛と大久保利通はすごく親しかったようです。そして、坂本龍馬も大久保利通に敬意を払っていたのでした。
大久保利通には娘が一人いたが、その幼い娘を暇を見つけては書斎に入れて戯れていた。なんとまあ、人間的なことでしょう。
 大久保利通には、鹿児島の正妻のほか、京都夫人がいて、京都に住居をもっていた。そして、東京に住居を移したとき、京都夫人が子どもと一緒に移り住んだ。東京では、異母兄弟5人が同居していたことがある。
 大久保利通の三男の長男は歴史学者、八男の長男はロッキード事件のときの丸紅の役員だった。さらに、二男の娘が結婚したのは吉田茂元首相であり、吉田茂の娘の子が麻生太郎元首相である。
 大久保はメモ魔であった。小さな手帳をもっていて、何事でもその手帳に書きとめていた。
西南の役のとき、鹿児島の大久保の家は壊されてしまった。ところが、福島県郡山市では「大久保様」と呼ばれ、「大久保神社」まである。
 東北地方の士族授産事業を大久保は計画した。当初の計画の2千戸が最終的には500戸になったが、旧久留米藩も大久保内務郷のすすめで士族100戸が移住した。
大久保は西郷隆盛の2つ年下で、亡くなったとき、西郷は49歳、大久保は47歳だった。
 西郷と大久保は、ともに6尺近い背丈があり、180センチほどの大男だった。
 大久保は西南の役があっていたころ、内国勧業博覧会を予定どおり開いた。そして、士族授産のために東北では安積疎水構想をすすめていた。
 大久保は明治11年5月14日に暗殺された。西郷隆盛が敗死したのは前年の明治10年9月24日のこと。
 この本の著者は、大久保が暗殺されたときに乗っていた馬車の現物を見ています。なんと、岡山・倉敷の近くの寺院に保存してあるのです。
 その馬車の荒れようからして、大久保利通は馬車の外へ出たところを暗殺犯の日本津で斬り殺されたようです。
 大久保利通は暗殺犯を恐れてはいなかったようで、人通りの少ない紀尾井町ルートを利用していました。暗殺犯は6人いて、出勤途上を待ちかまえていたのです。
 彼らは馬にまず切りつけ、走れなくしてしまいましたから、大久保が殺されるのは必至です。たまたま大久保は護身用の拳銃も持ちあわせていませんでした。馬丁の一人が一目散に逃げ出して助かっていますが、御者の方は殺されています。護衛など、いなかったのです。
大久保利通をふくめて明治維新を見直してみる必要があると思いました。
(2012年9月刊。2200円+税)

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2013年1月18日

感情労働シンドローム

社会

著者  岸本裕紀子 、 出版  PHP新書

 上司が部下に注意をしたとき、部下が逆ギレして過剰反応することがある。
 「そういう、上から目線、やめてくれませんか」
そんな部下は、自分に自信がなく、劣等感にさいなまれている。そして実は、主導権を握って、それでバランスをとろうとしているのだ。
 ところが、問題は、それを言われたときの上司の対応。意外にも深く気にして、その言葉に縛られてしまうのだ。それは、今という時代が、「他人から気に入られる」ことにポイントが置かれた時代だから、下から上への攻撃に対して、狼狽するばかりになってしまう。
 感情労働は、相手が期待している満足感や安心感をつくり出したり、不安感を解消させるために自分の感情をコントロールするものである。
 感情労働が求められる職業には三つの特徴がある。
 第一に、対面、声による顧客との接触が不可欠である。第二に、他人に感謝の念や恐怖心など何らかの感情の変化を起こさせなければならない。第三に、雇用者は研修や管理体制を通じて、労働者の感情活動をあるある程度支配するものであること。
 感情労働がそのまま要求される職種としては、看護師、介護士、保育士、そして医師や弁護士。いずれも困っている人の悩みにより添う仕事。また、役所や銀行の窓口業務なども、感情労働が要求される仕事である。
 感情労働とは、仕事において、相手が望んでいる満足感や安心感をつくり出したり、不安感を解消させるために、自分の感情をコントロールする労力のこと。
 弁護士にも営業力が求められている。クライアントをいかに獲得するか、そしてかに引き留めておけるか。この営業力が採否を決める大きなポイントになる。
 これは、本当にそのとおりです。クライアントの心をつかみながら仕事を進めることのできる弁護士が求められています。きちんと会話ができて、問題点を正確につかむ。そのうえで法律構成を考える。さらに事件の処理の進行過程を逐一クライアントに報告して信頼を増していく関係を築きあげる。
 「オレにまかせておけ!」
 こんな旧来のやり方の弁護士ではもう時代遅れです。
 新しい視点を提供してくれる本でした。弁護士にも実務的に役に立つ内容がたくさん書かれています。

                (2012年11月刊。760円+税)

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2013年1月17日

ワルシャワ蜂起(上)

ヨーロッパ

著者  ノーマン・デイヴィス 、 出版  白水社

この本を読んで、すっかりポーランドびいきになってしまいました。国民が全体として自由をかちとるためには死をも恐れず、団結していたなんて、心が震えるほどの感動を覚えました。
 ワルシャワ蜂起というと、ナチスに対する無謀なたたかいだったというイメージがあります。また、ワルシャワ市民が決起して何か月も死闘を目の前で繰り広げているのをソ連赤軍は腕を組んで見殺しにしたという暗いイメージがあります。
 蜂起が成功しなかったのはたしかですが、それでもポーランド市民の不屈の勇気は大いなる称賛に値するものと思います。蜂起なんて無謀だった、愚かな過ちだったなどと非難するのは許されないことだと、上巻だけでも550頁もある本書を何日もかけて読んで痛感しました。
 ワルシャワ蜂起が起きたのは1944年8月。6月にノルマンディー上陸作戦があった、連合軍がフランスを経て、ドイツに迫ろうというときです。パリではレジスタンス勢力が蜂起し、ワルシャワとは違って、パリ市内に残ったナチス・ドイツ軍を降伏させることができました。ワルシャワで蜂起した国内軍はパリ蜂起を祝っています。ところが、ナチス・ドイツ軍はワルシャワから撤退するどころか、各地から応援部隊を投入し増強したのです。そして、ソ連赤軍はスターリンの指示によって対岸から動かず、ひたすら情勢の推移を見守るのでした。
 イギリスは、大陸戦を自力で戦う能力をもっていなかった。1939年当時、英国陸軍の地上軍はチェコスロヴァキアよりも小規模だった。そのうえ、イギリスの財政事情は破綻寸前だった。イギリスの厳しい財政状態は、欧州戦争を戦うか、それとも大英帝国を救うかの二者択一を迫っていた。当時、たよりになる唯一の支援国であるアメリカから莫大な財政援助が得られない限り、勝利する可能性はほとんどゼロだった。
 ソ連は政治的粛清と大量処刑の渦中にあり、国家機能をマヒさせるような重大危機が進行していた。そして、赤軍はモンゴルで日本軍と戦争状態にあった。
 ポーランドは、ナチス・ドイツとソ連軍が分割支配した。ソ連のNKVDは、占領の前に占領したあと即刻逮捕すべき者の住所・氏名の膨大なリストを用意していた。そして、ポーランド軍将校と警察部隊の士官2万5千人がNKVDの捕虜となり、数か月間の取り調べの後、冷酷に射殺された(カチンの森事件)。
 1930年代にソ連国内で結成されたポーランド共産党はスターリンによる粛清の対象となり、ほとんど党の全活動家に相当する5000人の男女が、大部分はユダヤ人だったが、スターリンの命令で銃殺された。そのため、開戦当時のポーランドには、組織的な共産主義運動は存在しなかった。
 1940年7月から10月にかけて続いた英国本土上空の空中戦、バトル・オブ・ブリテンは、英国空軍がゲーリングのドイツ軍に粘り勝ちした。このときイギリスから出撃した英国空軍の操縦士の10%はポーランド人パイロットだった。そして、撃墜した敵機の12%はポーランド人パイロットの功績だった。
 ポーランド空軍飛行中隊の比類ない勇気と目覚ましい戦果がなければ、果たしてイギリスがバトル・オブ・ブリテンに勝利できたかどうか疑わしい。
 これは、イギリス空軍大将の言葉である。そして、連合国空軍によるドイツ爆撃作戦についてもポーランド空軍兵士の貢献には目覚ましいものがあった。
 イタリアを進んでいた連合軍はモンテ・カッシーノ要塞を攻めあぐねた。この攻防戦においてもポーランド軍2個師団の勇敢な兵士たちの活躍は目覚ましかった。
 ワルシャワは、世界でもっともユダヤ人の数が多い都市だった。やがてニューヨークが世界一になるが、そのニューヨークのユダヤ人の多くは、ワルシャワからの移民だった。
1918年、ユダヤ人はワルシャワの全人口の40%をこえ、まもなく過半数を占めると思われていた。ユダヤ人は、少なくとも500年前からワルシャワ住民だった。貴族階級がユダヤ人を保護していた。ワルシャワに住むユダヤ人の大多数は、ポーランド人とまったく同じ権利を持ち、ポーランド人と同じような考え方をしていた。
 あの有名なコルチャック博士も、ポーランドに同化したユダヤ人だった。
 ユダヤ人は、ポーランド全人口の10%でしかなかったが、大学生の比率は、はるかにそれを上回っていた。ワルシャワ大学の法学部と医学部の学生の過半数はユダヤ人だった。
 アドルフ・ヒトラーは、心の底からポーランドを憎悪していた。ポーランドは、スラヴ人とユダヤ人が住む国だったが、ナチスの教義では、その両方ともが人間以下の存在だった。
 ヒトラーは部下たちに対して、ポーランドでは可能な限り残忍に行動するよう命令した。
 ドイツのポーランド占領作戦は、他の西欧諸国に対する占領政策とは大きく異なっていた。総督府の使命は、「あらゆる手段をつかってポーランド人を最終処理する」ことにあった。
 ワルシャワ・ゲットーの人口は、最大時には38人に達した。1939年11月から1943年5月まで存在した。ゲットーの唯一の自衛手段はユーモアだった。誰も彼もが、必至の思いで現実から逃避しようとしていた。
 1943年4月、ゲットー蜂起が始まった。しかし、ゲットーの住民の中にも同胞の苦悩にまったく無関心な富裕層がいた。ゲットーの中でも、少数の金持ちは豊かな生活を送っていた。1943年のゲットー最後の日までダンスとコンサートを欠かさず、外で銃砲が飛びかっているなかでフルコースの料理を楽しむ一家も存在した。
 ええっ、ウソでしょ、そんな・・・と思ってしまいました。
 密使ヤン・カルスキがゲットーの中に立ち入り、イギリスにわたって、報告したことは別の本で紹介しました。
 ゲットー内のユダヤ人警察は、ナチス親衛隊の手先となってユダヤ人を殺害した。そうすることで自分自身が生きのびる期間が見つかると愚かにも信じていたからだ。
 これを愚かと言うには、あまりに残酷すぎますよね・・・。
 コルチャック博士は、自分の孤児院の子どもたちと一緒にゲットーに囲い込まれ、最後は子どもたちの手を引き、歌をうたいつつ、楽しい「ピクニック」へ出かける夢を語りながら絶滅的収容所への道を歩いていった。
 その気高さには、何度も涙が出て止まりませんでした。
 ゲットー蜂起とその失敗を多くのワルシャワ市民は聞いたことがないか、聞きたいとも思わなかった。噂が耳に入っても、どう理解すればよいか分からなかった。
 ポーランド人を奴隷民族にするという目標にあわせて、ナチスは強制労働システムを導入した。
 戦争中に200万人のポーランド人労働者がドイツ本国に強制移送された。
 ウッチ少年収容所に収容されていた1万3000人の子どものうち、1万2000人が収容所内で死んだ。
自由を求めて闘う気風はポーランドの長い伝統である。祖国を分割した列強勢力(ロシア、オーストラリア、プロイセン)に対して19世紀に繰り返し発生した武装蜂起は、ポーランドの歴史を語るうえで欠かせない重要事件である。
 決定的に重要な役割を果たしたのは女性だった。ポーランドの女性は、妻として、女として、また祖母として、民族の伝統を受け継ぎ、社会の基本構造を守り、活動家を支え、男たちにその果たすべき役割を教えた。女性がみずから武器をとって戦いの先頭に立つことさえあった。
 ポーランド地下抵抗組織は、誕生の最初の段階から確固たる命令系統と正統な法的枠組みの中で活動する組織だった。抵抗運動の最終目標が占領軍に対する一斉武装蜂起であることは、関係者全員にとって暗黙の了解事項だった。
 ポランド市民がドイツ侵略軍に協力するというのは、例外的な場所を除けば皆無だった。ポーランドのレジスタンスが選んだのは、危険と孤立と犠牲の道だった。
 勝利とは、敗北に耐えること。そして降伏しないことだ。抵抗運動を自発的、本能的に支えるという雰囲気が社会全体にあった。
 1944年7月は、ポーランドの地下国家閣僚会議が成立した。秘密国家は機能していた。地下国家の司法制度は地下の秘密裁判所と国内軍の軍事法廷によって支えられていた。対独協力者は処刑され、判決は公表された。ワルシャワの地下裁判所は220人に対して死刑判決を下した。
 1944年8月に始まった蜂起について、一般市民がこぞって熱狂的に蜂起を支持したというのは単なる伝説だ。正確に言えば、ワルシャワ市民の大多数は蜂起軍に共感していたが、蜂起とは無関係の立場を維持し、ひたすら自分が生き残ることのみを考える市民も多かった。 
 蜂起に対して、ソ連のスターリンは見殺しにし、アメリカも放置し、イギリスのチャーチルのみ空爆その他で援助したようです。
 蜂起したあとの経緯をたどるのは、心苦しいばかりではありますが・・・。下巻に続きます。

(2012年11月刊。4800円+税)

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2013年1月16日

「本当のこと」を伝えない日本の新聞

社会

著者  マーティン・ファクラー 、 出版  双葉新書

ニューヨーク・タイムズ東京支局長というアメリカの記者が日本の新聞は「本当のこと」を伝えていないと厳しく批判しています。残念なことに、まったくそのとおりと言わざるをえません。
 先日の総選挙のときもひどかったですよね。民主党大敗、自民党大勝を早々と大きく打ち出して世論を露骨に誘導しましたし、「第三極」を天まで高く持ち上げました。まさしく意図的です。月1億円の勝手放題に使っていい内閣官房機密費の最大の支出費は大手マスコミの編集幹部の買収費に充てられているのではないかと思えてなりません。
とは言うものの、アメリカの新聞・テレビも、遠くから眺めている限り「権力者の代弁」という点では日本と同じではないかとしか思えません。民主党と共和党の違いは、カレーライスかライスカレーかの違いと本質的にはあまり変わらないのではありませんか。オバマ大統領への期待もすっかり薄れてしまいました。
 日経新聞は企業広報掲示板である。
 私は日経新聞の長年の愛読者ですが、実は、そのつもりで読んでいます。大企業をいかなる場合でも露骨に擁護する新聞だからこそ、企業のホンネがにじみ出ているものとして価値があると考えています。
 日経新聞は、当局や一部上場企業が発進する経済情報を独占的に報道している。それは寡占というレベルではない。日経新聞の紙面は、まるで当局や起業のプレスリリースによって紙面が作られているように見える。大きな「企業広報掲示板」と同じだ。大手企業の不祥事を暴くようなニュースを紙面を飾るようなことは、まずない。
日本の新聞記者は日経新聞に限らず、大企業の重役たちと近く、べったり付きあっている。だから、いざというときに踏み込んだ取材をしたり、不正を厳しく指摘することがない(できない)。たとえば、民主党の有力参議院議員の誕生日を祝う会が担当記者50人の出席で開かれた。もし、こんな誕生会を企画して国会議員にプレゼントまで記者たちが贈っていることが分かれば、ニューヨークタイムズの記者なら即刻クビを宣言されるだろう。ジャーナリストとしての基本が疑われる重大問題なのだ。
 日本の記者はあまりにエリート意識が強すぎる。記者は東大や京大といった有名国立大学、そして早稲田や慶應という難関私立大学の出身者ばかりだ。つまり、官僚とジャーナリストは、同じようなパターンで生みだされている。大学で机を並べていた者たちが、官庁と新聞社という違いはあるにせよ、「同期入社組」として同じように出世していく。権力を監視する立場にあるはずの新聞記者たちが、むしろ権力者と似た感覚をもっている。
このことにアメリカの記者である著者は率直に驚いています。
 日本のマスコミ(記者)は、政治家に対しては割と批判的なのに、行政バッシングはできるだけ避けようとする。
 東大法学部を卒業してマスコミ業界に入っていく人は昔から多いのですが、その彼らが官僚や政治家そして自民党に何重ものしがらみでからめとられている実情を聞かされて大変おどろいたことがあります。
 日本のマスコミには、大いに反省してほしいと思わせる本でした。
(2012年9月刊。800円+税)

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2013年1月15日

人間形成障害

社会

著者  久徳重和 、 出版  祥伝社新書

人間形成障害とは、簡単に言うと年齢(とし)相応にたくましく成長していないということ。医学的に言うと、「親・家庭・社会などの文化環境(生育環境)の歪みに由来する心身の適応能力の成熟障害」と定義されるもの。
 人間形成障害は、「一人でも生きていく」(個体維持)、「群れをつくる」(集団維持)、「子どもを育てあげる」(種族維持)のための適応能力が障害を受ける。
 人間形成障害は遺伝的な疾患ではなく、ましてや原因不明の疾患でもない。
 人間は、日常生活という「通常業務」を直接つかさどる性格や体質の相当多くの部分を、生まれたあとに完成させる生物である。
 子どもは、まずたくましくなり、賢くなり、それから優しくなることによって、「どこに出しても恥ずかしくない一人前の大人」に育っていく。人間の成長とは、幼さと臆病さを克服していく過程ともいえる。
 人間形成障害は、「幼い」をベースとする適応障害と言える。ここで「幼い」とは、第一に、自分の実力を正しく認識しておらず、根拠のない自信と万能感、身のほど知らずのプライド。第二に、先の見通しが甘く、ピントはずれの判断をする。状況が読めない。
 第三に、うまくいかないときに悩んで落ち込み、キレるか、いじけてしまう。打たれ弱い。第四に、最終的に放り出すか、誰かに頼って解決してもらう(甘えと依存)。
 「幼さ」と「怒りと拒否」の背景に共通しているのは、健全とは言えない親子関係である。
 普通の子どもが突然キレるのではなく、突然キレるような社会的抑制に欠ける子どもが普通になってきた。
 中高生の不登校は成人後のひきこもりのリスクファクターのひとつである。
 子どもは1歳までに「お母さんはいいもの」をつくりあげ、そのうえに3歳までに「仲間はいいもの」という感性をつくりあげる必要がある。3歳までの子どもに、その周りに「みんな仲良く」とか「笑顔と会話と優しい気持ち」が満ち満ちていることが大切だ。
 人間は3歳までにかなりの言葉を覚えるが、この時期に覚える言葉は脳の深い部分に書き込まれて、その書き込みは「一生を支配する」ほど強固である。だから、人間は年老いて認知症になっても母国語は忘れないのだ。
 3歳までの脳への入力は、「深いところへ強固に」そして「自動的」である。
 だから、この時期に、本人に影響を与えるような不安感や緊張感・攻撃性を家庭内・身内に発生させるのは絶対に避けるべきだ。そのため、子どもに伝えないような頓智と芝居すら必要だ。
 家庭内に緊張感があるため、子どもが大人(親)の顔色を見るような臆病さをもった3歳児になるのは極力さけなければならない。それは成長したあと、まわりに人がいると緊張するという本能レベルでの臆病さになって、無意識のうちに本人を支配してしまう。これが成人してからの対人不安・対人緊張、社会不安の芽になってしまう。
 3歳から6歳までは、「親はいいもの」「仲良くはいいもの」をベースとして、自分もそのまわりの「いいもの」に加わっていきたい、一緒になりたいという「同一化の欲求」があらわれ、まわりに認められることを求めて頑張り始める時期である。反抗期と言われる時期は、人間の基礎を確立するための自己拡張期なのである。ままごと遊びを好むのも、大人の役割を意識しはじめた結果なのである。年上に引っ張られて伸びていくのが本来の姿である。
 10歳前後の子どもには批判精神が発達していない。だから、親に問題があっても、それを批判するよりは、自分なりに合理化して納得させ従ってしまう。10歳前後の子どもが親から虐待されても親をかばったりするのは、このためなのだ。
 10歳から15歳までのギャングエイジは、ピンチや修羅場を乗り越える力をつけるための実地訓練の時期とも言える。この時期のコーチは、親ではなく、新しい仲間とか頼りになる先輩、兄貴分、姉御分であるのが本来の姿である。
 この時期の親は、子どもとのディベートをリードするだけの「人生の先輩としての見識」を高めておかなければいけない。
大変かんがえさせられる内容の多い本でした。

                (2012年9月刊。820円+税)

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2013年1月14日

一揆の原理

日本史(江戸)

著者  呉座 勇一 、 出版  洋泉社

寛延2年(1749年)に姫路藩を揺るがした全藩一揆(寛延一揆)では、大阪城代は姫路藩に対して「飛道具(鉄炮)を用いることは無用である」と、鉄炮使用を禁じた。幕府の許可がないと鉄炮は使えなかった。鉄炮を使用するには、事前に幕府の許可が必要という不文律は、やがて制度化される。
 そもそも領内での百姓一揆の発生は「統治の失敗」として幕府から責任を追及される恐れがあるので、藩や代官は一揆を穏便に解散させる必要があった。
 このとき、百姓は農具をもつ権利があると主張した。鎌や鍬は百姓のシンボルである。鎌や鍬を使っても鉄炮や弓矢を使わないことは、自分たちが百姓身分を逸脱していないという幕府や藩に対するアピールだった。
 江戸時代の一揆では、家屋を壊すことはあっても、人を殺すようなことはいけないというのが百姓一揆のルールだった。これに対し、明治の新政府反対一揆では、新政府側の役人が殺されている例が少なくない。新政府反対一揆は特定のテーマにしぼって反対しているのではなく、明治政府の新政策(新政)すべてに反対していた。つまり、新政府そのものを否定しているのである。
江戸時代の百姓一揆にとって、「仁政」を標榜する幕府や藩は交渉可能な相手であった。だからこそ、一揆は幕府権力と正面からの敵対を避けた。そのため非武装だった。
 百姓たちは、自分たちの行動を「一揆」とは決して呼ばなかった。百姓たちは基本的に非武装を貫き、「一揆」すなわち武装蜂起と認定されないように苦心していた。武装しないほうが百姓一揆の成功率は高く、非武装は合理的な作戦だった。
 中世社会では、一揆は社会的に認められていた。だから、一揆を結ぶ者たちは「一揆」を自称していた。
 中世では、百姓だけが一揆を結んでいたわけではなく、武士も僧侶も一揆を結んだ。だから、中世の一揆は多種多様である。中世においては一揆のイメージは決して悪くはない。本人たちが堂々と「一揆」を名乗っている。中世の「一味同心」の背後にいるのは、仏ではなく神である。
 傘(からかさ)連判という円形の署名形式では、首謀者隠しというより署名の順番を分からなくすることに目的があった。つまり、多数の署名者に上下の区別をつけないということ。「一味神水」そして「神水を飲む」意味は何か。焼いて灰にし、その圧を神水に混ぜて飲む。それは、一揆の誓いに違反したときに発生する神罰は、起請文の灰を体内に異変が起きるということ。
 一揆の場における一味神水とは、わきあいあいとした宴会的な共同飲食ではなく、恐怖と緊張にみちた一種の試練だった。
起請文は、神に捧げると同時に人に渡すものであった。
 中世の日本社会は訴訟社会であり、裁判には証拠文書(証文)が不可欠だった。起請文は中世的な「文書主義」の流れに乗って発達した。中世の一揆契状は、一味同心を約束する契約状という一面をもっていた。
 若手学者による大胆な一揆の見直し提起です。大変面白く読み通しました。
(2012年10月刊。1600円+税)

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2013年1月13日

金属が語る 日本史

日本史(古代史)

著者  斉藤 努 、 出版  古川弘文館

日本の金属貨幣は、7世紀後半の無文銀銭(むもんぎんせん)や富本銭(ふほんせん)に始まる。無文銀銭は、純度95%以上の銀を円盤にしたもので、真ん中に小さな丸い穴が開いている。富本銭は、銅でできているが、ほかにアンチモンという金属も含んでいる。
 皇朝十二銭は銅銭だが、鈍銅ではなく、青銅でできている。その銅山は山口県の長登(ながのぼり)銅山や蔵目喜(ぞうめき)銅山である可能性が高い。
和同開珎(わどうかいちん)の「和銅」は、「日本で初めて」という意味ではなく、「にきあかがね」と読み、製錬しなくても既に金属となっている銅のこと。
 日本刀は、折らず曲がらず、よく切れる。本来は相反する硬さと軟らかさの性質が日本刀という一つの製品の中で共存しているということ。日本刀には、硬い鉄と柔らかい鉄が巧みに組みあわされて作っている。
炭素が多いほど鉄は硬くなる。ここらあたりは、実際に刀匠の働き現場で見せてもらった経験が生きているようです。
刀身製作の最終段階の「焼き入れ」は刀に命を吹き込む瞬間である。これは、刀匠がもっとも神経をつかうドラマティックな工程だ。焼き入れの目的は刃部に焼を入れて硬くすること。焼きの入っている部分を入っていない部分の境界に刃文(はもん)を作ること、刀身に「反(そ)りを入れることの三つ。「反り」は日本刀を特徴づけるものの一つだ。
鉄炮は、炭素濃度0.1%以下の軟鉄で出来ている。日本刀と鉄炮は違う素材で出来ている。鉄炮は、火薬が爆発する衝撃で銃身が割れたりしないように、日本刀のような鋼ではなく、柔らかくて粘り強い軟鉄が使われている。
現代のライフル銃は鉄の丸棒の真ん中にあとから穴を開けて銃身にする。しかし、火縄銃は鉄の板を巻いて筒をつくっていた。
硬貨、日本刀、鉄炮について、改めて、その違いが少し分かりました。
(2012年11月刊。1700円+税)

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2013年1月12日

泰平のしくみ

日本史(江戸)

著者  藤田 覚 、 出版  岩波新書

力で押さえつける政治、百姓を虐げる悪代官ばかりでは、270年もの泰平を維持できるわけがない。それはそうですよね。政治の安定と泰平が270年ものあいだ続けたことを説明しようとする本です。
 江戸時代は、民間請負の時代である。それは、年貢の収納から土木・建物工事、さらには物品の調達と売却まで幅広い分野で民間の請負が行われていた。
 年貢の請負とは、村請(むらうけ)制と呼ばれるしくみである。入札とは、投票によって行う意思決定の一つの方式である。江戸時代の村社会では、村役人の選出、悪事をはたらいた犯人の特定(盗賊入札)、善行者、悪業者の選定(善悪入札)などに使われた。
 入札は、中世以来いくつかの局面で利用されてきた意思決定の方式である。
 競争入札による請負工事が、幕府発注の土木・建築工事のありふれたやり方だった。一見すると合理的で公平に見える競争入札だが、担当役人と業者の贈収賄が横行して政治問題化した。入札による受注を目ざして業者は事業を担当する役人との接触をはかり、ワイロを送って有利な立場に立とうとし、幕府役人は収賄により私腹を肥やす。
あらゆることが競争入札によって行われたのは奉行が賄賂を手にしたいためだった。競争入札による工事を担当した奉行で、1000両を懐にしない者はいない。その結果、100両もかからない工事が、1万両もかかってしまい、それこそ幕府財政が元禄期に破綻した理由である。新井白石は、『折りたく紫の記』でこのように論じた。
請負工事の発注を担当する役人も、利益の配分を受ける手はずになっているので、この入札のカラクリを知っているのに知らないふりをしている。大変に分かりやすい官製談合である。
江戸時代、幕府の行政機関や裁判機関へ人々が訴え出る行為には、少なくとも2種類あった。訴願と訴訟である。訴願は、訴えや願いを行政機関に申し出ることで、現代の陳情に近い。訴訟は、裁判機関に訴え出ることで、現代と変わらない。
そもそも、訴願と訴訟の区別があまり明確ではなかった。江戸時代の行政機関と裁判機関が未分化で、裁判は行政の一部に組み込まれていたことによる。
江戸時代の裁判は長い時間がかかった。幕府は100日以内の決着をかかげていたが、それに必要なお金と時間も考えて内済(示談)にする決着が普及した。
江戸にあった町奉行所はわずか150人の与力、同心で50~60万人の住民を管轄し行政を行っていた。
 江戸時代の行政のあり方を実証的に考えた本です。市民セミナーでの話をもとにしているためか、とても理解しやすい本でした。
(2012年4月刊。2800円+税)

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2013年1月11日

「橋下維新」は3年で終わる

社会

著者  川上 和久 、 出版  宝島社新書

先の総選挙のとき、マスコミが「第三局」そして「橋下維新」を天まで高く持ち上げるのは異常でした。視聴率さえ取れれば、現実社会がどうなろうとかまわないという軽率さに、多くの国民が振りまわされてしまいました。
 この本は、「橋下維新」はナポレオンやヒトラーと同じ危険をもっているとしています。なるほど、と思わせる内容でした。
 世論は、熟慮なしに「邪悪な意図」に操られると、方向を誤る凶器になる。社会への不満、不安と、それを解決できない統治システムがあるとき、必然的にそれを解決しようとする、強烈な上昇志向と権力欲を持った政治リーダーが登場する。
 橋下徹は、メディアの眼前で、分かりやすい「敵」を設定し、テレビカメラの前で攻撃する。「対立構造を作らないと、メディアに分かってもらえない」と言う。それは相手を説得するというよりも、激しく戦っている姿をメディアを通じて印象づけ、大阪市民の支持を得た。
 橋下徹の「敵」を際立てる手腕は見事だ。歯切れのよい弁舌で、テレビなどでニュースとして取り上げられるようにアピールし、「敵」に悪のレッテルを貼ったうえで、容赦なく叩いていく。潜在的な市民のもつ「敵意」を橋下徹は巧みに利用している。
 私(橋下)の役割は、街頭で無党派をつかむこと。
有権者の感情に訴えるときには、政策は言わない。相手を批判するときも、「繰り返し」で、自らの「怒り」を強調し、自分がいかに相手に対して憤懣やるかたない思いであるかを受け手に強く印象づける。
ナポレオンも、メディアのコントロールには十分な注意を払った。警察に世論を監視させ、「郵便物検閲室」で手紙の内容を調べさせた。このほか、1810年の法令で、一県につき1つの新聞、パリには4つの新聞紙か存続を許さなかった。だから、すべての新聞が「体制派の新聞」になった。
同じ「一県一紙政策」は、戦前の日本でも行われた。いつまでも多くの道府県に有力な一つの地方新聞があるのは、その名残で全国紙を凌駕して圧倒的な講読率を誇っている地方新聞も少なくない。
テレビの長時間視聴層の多くが自民党を支持している。これは、テレビの操作が国民を操作することに直結していることを意味していますよね。
 今の日本で一番重要なのは独裁。独裁と言われるくらいの強い力だ。
 こんな橋下徹を「弱者」が強く支持しているというのは、まったくの矛盾ですよね。はやいとこ、「橋下維新」への幻想から目を覚ましたいものです。
(2012年10月刊。743円+税)

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2013年1月10日

かつての超大国アメリカ

アメリカ

著者  トーマス・フリードマンほか 、 出版  日本経済新聞出版社

いまやアメリカの全盛期は去り、中国の全盛期に取って代わられた。アメリカ人の多くがそう思っている。
 アメリカ人の切迫感は、アメリカの政治体制が、最大の難問と取り組むどころか、きちんと組み立てられてもいないという事実から生じている。
 現在、MITの工学部の教授団375人の4割は外国生まれだ。
 アメリカでは、破産にそんなにひどい汚名は伴わない。しかし、だれも破産を奨励してはいない。破産すると、数年間は与信に汚名がつくが、そのうちにそれも消える。簡単に破産できる分、簡単にやり直せる仕組みになっている。
 シリコンバレーの起業家たちは、なにかに挑戦して失敗し、破産を申告して、また挑戦し、それを何度もくり返し、やがて成功して金持ちになる。
アメリカ人には、政府は経済で積極的な役割を果たすことができないという誤った考えがある。これは危険だ。
 法律事務所で最初に解雇される弁護士は、信用バブルと住宅バブルの最中に仕事が急増したときに就職し、仕事をやり、やり終えると仕事がなくなった連中だ。
 いまも仕事があるのは、新しいテクノロジーや新しいプロセスを使って従来の仕事をもっと効率的にやる新しいやり方を見つけたり、これまでは存在しなかった仕事を考案し、新たなやり方でやったりしている弁護士だ。法律事務所も、あらゆる面でもっとクリエイティブかつ柔軟になる必要がある。
 アメリカの富裕層の上位1%が国民の年間収入の4分の1を手にしている。これを資産でみると、上位1%が全体の40%を支配している。25年前は、それぞれ12%と33%だった。
 その間、上位1%は10年間に18%収入増となったが、ミドルクラスの収入は逆に減少している。
 現在の富裕層は社会一丸となった行動の恩恵を必要としていない。自分たちの公園がある。自分たちだけのカントリークラブがある。自分たちの私立学校があり、公立学校に通う必要はない。自家用ジェット機や運転手付き自家用車など、自分たちの輸送システムがあるから、公共交通が老朽化しても平気だ。
 なーるほど、それで大金持ちは社会全体の福祉向上に関心がないのですね。それでも、一歩外に出たら多発する犯罪にビクビクしなくてはいけないと思うのですが・・・。
 民主党も共和党も、それぞれ中道派が消滅した。この2党は、互いをますます敵視し、相手の「皆殺し」を図っている。
 つい先日も、アメリカの小学校で痛ましい大量殺人事件が起きましたが、銃規制が進まないアメリカを見ると、いったいこの国はまともな国かと疑います。ましてや、全教員に銃を携帯させて教壇に立たせたらどうかという意見が出ているというのですから、アメリカは狂っているとしか思えません。
 それもこれも、殺し、殺されるのが昔からあたりまえという国だからなのでしょうね。ベトナム戦争、そしてイラク、アフガニスタンと戦後ずっと侵略戦争を仕掛けてきた国は、アメリカ国内の社会と人心を荒廃させてしまったのでしょう。
 そんなアメリカに盲従してきた日本政府も同じレベルだというのが悲しいところです。
 この本に、アメリカのしてきた侵略の歴史についての反省が見あたらないのが残念に思いました。
(2012年9月刊。2400円+税)

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2013年1月 9日

ここまでわかった日本軍「慰安婦」制度

日本史(現代史)

著者  日本の戦争責任資料センター 、 出版  かもがわ出版

日本軍が「慰安婦」制度を設置した理由は4つ。
 第一は、強姦の防止。しかし、これは失敗した。軍の中で、慰安所で性暴力で公認しておいて、外で防ぐのには無理がある。
 第二に、性病の蔓延防止。実際には、これも失敗した。戦地での性病の新規感染者は1万人をずっと超えていた。
 第三に、戦地にいる軍人に「慰安」を提供する。酒と女性を提供するということ。
 第四に、防諜。スパイ防止ということ。
日本軍「慰安婦」制度は軍が主体となってつくった施設である。
 慰安所の女性は、外出の自由がない、外出するのは許可制。ビルマで保護された20人の日本軍の朝鮮人慰安婦のうち、12人は連行されたとき未成年だった。21歳未満の女性については、本人が売春目的であることに同意していたとしても、国際条約によると違法であるとされている。
 1937年の時点で、大審院が、上海の海軍慰安所に女性をだまして連れていったことを犯罪として認定した。
 戦後、バダビア軍法会議の判決は次のように判示した。
 「はじめの抵抗のあと、この残忍で非人道的な行為の犠牲者である女性たちが無駄だと思って抵抗を止めたからといって、彼女たちが自発的に売春したとか、被告の将校や慰安所業者の責任を逃れるということを正当化するものではない。なぜなら、最初に加えられた暴力行使の効果として起こったものであり、そこでは基本的な行動の自由はまったく論外だったからである」
 日本軍が、軍隊の責任で「慰安所」を設置していたこと、多くの女性を日本だけでなく朝鮮半島や東南アジアからだまして連れて(拉致して)いたことは日本史の重大な汚点です。軽々しく否定するわけにはいきません。
 安倍首相がこの歴史的事実を否定する談話を出そうとしていますが、韓国・中国そして東南アジアからの反発は避けられません。ますます日本は孤立化してしまいます。
(2007年12月刊。1000円+税)

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2013年1月 8日

おかげさま老人ホーム選びの掟

司法

著者  外岡 潤 、 出版  ぱる出版

介護弁護士を自称する著者は介護マンガ『ヘルプマン』を読んで発奮したということです。私も『ヘルプマン』は、ついに21巻全部を読み通しました。とても教えられました。
 私の依頼者、相談者に介護施設で働く人はたくさんいますので、共通の話題づくりにも役立ちました。
 それにしても、東大を出て一流の法律事務所に勤めていたのに、いきなり独立開業し、しかも専門分野が介護というのですから勇気があります。
 そのうえ、奇術が出来て、日本舞踊まで演じるというのですから、多芸・異能の若手弁護士ですね。
 介護マンガ『ヘルプマン』こそ、著者の人生を大きく変えた。よし、それなら、介護現場で起きるトラブル解決に特化した弁護士になろうと決意した。
 今の日本の介護現場はトラブルの温床であり、当初の想像以上に事態は深刻である。
 介護業界は現場のスタッフの待遇が賃金面で絶望的に悪すぎる。仕事内容もいわゆる3Kで、あたりまえかもしれないが、職場には若々しい活気などなく、新卒にも人気がない。だから、健全な競争が起きず、優秀な人材がなかなか来ない。来ても定着して育つのはまれで、慢性的に人手が足りない。その悪循環のなかで、カバーしきれない事故が続出している。
老人ホームを選ぶときには、その施設の現場全体の雰囲気、ありように着目すべきだ。
 施設が、すみずみまで清潔にしていること。それは職場の雰囲気、職員の意識の高さの反映でもある。
有料老人ホームとの契約では契約を結んでから90日以内なら一時金の返還を求められることが多い。
 3年前に出張型介護、福祉系専門法律事務所「おかげさま」を開業してがんばっているとのこと。うれしいですよね、こんな若手弁護士がいるなんて。
 引き続き、ぜひがんばってください。
(2011年10月刊。1400円+税)

 明けましておめでとうございます。本年もどうぞご愛読ください。
 おせちもほどほどに食べ、ガーデニングに励んだり、静かに正月休みを過ごしました。嵐の前の静けさ、といった気分でした。

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2013年1月 7日

細菌が世界を支配する

生き物

著者  アン・マクズラック 、 出版  白揚社

細菌は地球上の元素をリサイクルして、ほかのすべての生き物の栄養補給を支えている。私たちに食べ物を与え、私たちの排泄物を浄化してくれる。気候の調節に役立ち、水を飲めるようにしてくれる。なかには、水蒸気の小さな水滴を集めて雲をつくる化合物を空気中に放出している細菌まである。
 細菌は単純でも、その単純さにだまされてはいけない。複雑とはいえないその構造が、実は地球の生態系で起こっている大切な生化学反応のすべてを進めている。
細菌は小さくても、膨大な数で地球を占領している。細菌は地表から6万メートルも離れた上空にも、深さ1万メートルの深海にも住んでいる。
細菌の総数は10の30乗にもなる。すべての細菌の細胞をあわせた質量は1×10の15乗キログラムに近く、これは地球上に暮らす人間65億人すべてをあわせた質量の2000倍以上にあたる。その細菌の圧倒的多数が土の中に住んでいる。
 細菌は生物学的な作用によって、人間が生きる条件をも整えてくれる。
 細菌には、大切な酵素、タンパク質、そして遺伝の仕組みを入れておくだけの大きさがあれば十分だ。進化を経て、余分なものはすべて切り捨ててきた。小さくて単純な構造のおかげで増殖にかかる時間が短いから、適応が早い。また、小さいから体積に対する表面積の割合が大きく、細菌の代謝は効率の良さの手本になる。
 細菌にどれだけの種があるかは、まだわかっていない。これまでにおよそ5000種の特性が明らかになっていて、そのほかの1万種も部分的に確認されている。
 どんな方法をつかっても、たとえ最強の消毒剤でも、皮膚からすべての細菌を取りのぞくことはできない。皮膚は無菌にはならない。ヒトに住みついた通常の細菌(常在細菌)は、健康で傷のない皮膚にはまったく問題を起こさない。
 ステーキや牛乳が食卓にのぼるのも、牛のルーメン(第一腸)のなかで、嫌気性細菌が草を消化したから。ルーメン発酵は、無酸素の状態で糖を微生物のエネルギーに変え、副産物として酸やアルコールを生みだす。アルコールを生みだす細菌を利用したワインづくりは、紀元前6000年にはメソポタミアで行われていた証拠が見つかっている。
多くの細菌は、水が不足してくると休眠状態に入り、周囲に水が戻ってきたとき、ふたたび増えることができる。
 EUとカナダは、食肉用動物に対して抗生物質の使用を禁止している。しかし、アメリカでは抗生物質の使用が続いている。第一次世界大戦の1000万人にのぼる死者の半数は感染症が死因だ。
緑色植物、海藻、シアノバクテリアは、太陽エネルギーを動物が利用できるエネルギーに変える、地球上の主要な経路になっている。始生代から原生代までのあいだにシアノバクテリアの光合成によって大気の成分が変わり、酸素のない状態から酸素を豊富にふくんだ状態になった。
 古代のシアノバクテリアの痕跡は葉緑体に姿を変え、植物細胞のなかで日光エネルギーを糖のかたちの化学エネルギーに変換する場所になった。
 シアノバクテリアの増殖はほかの細菌にくらべて非常に遅く、およそ一日に1回しか分裂しない。それでも十分に競争に耐えられるのは、丈夫なうえ、ほとんど栄養素なしでも生きられるからだ。シアノバクテリアには、エネルギー源の日光と炭素のもとになる二酸化炭素、そしてほんのわずかな塩分があれば十分だ。
私たちの口に入るステーキの窒素は、遠い海に住むシアノバクテリアが、別の大陸の土からやってきたものと考えても、決して大げさなことではない。
 身近な存在である細菌について、認識を改めさせてくれる本でした。
(2012年9月刊。2400円+税)

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2013年1月 6日

知られざる大英博物館

イギリス

著者  NHKプロジェクト 、 出版  NHK出版

実はイギリスにはまだ行ったことがありません。ヒースロー空港に乗り換えで降りたことはありますが、外には出ませんでした。大英博物館でロゼッタストーンの原物、そして、カール・マルクスが通っていた机と椅子を見てみたと思っているのですが・・・。
ニューヨークにあるメトロポリタン美術館には行ったことがあります。そのエジプトの館に足を踏み入れたときの、膨大な物量に圧倒されると同時に、これってみなエジプトからの略奪品じゃないのかしらんと疑ってしまいました。ヨーロッパの帝国主義列強のアフリカ分割支配の「成果」ではないでしょうか。
 大英博物館にしても、ナポレオンのエジプト遠征の失敗から、イギリスがその成果を横取りしたというものです。それにしても古代エジプトの栄華はすごいものです。しかも、それが何千年も脈々と続いていたというのですからね。
 そして、なんと言っても古代エジプトについて文字があって、それが解読されているため、当時の生活そして社会構造まで分かると言うのがすごいことですし、読んで楽しいのです。
 大英博物館の展示室で公開されているのは膨大な収蔵品のわずか1%のみ。残る99%は人知れず収蔵庫に眠っている。古代エジプトコレクションは15万点、展示室にはそのうち3500点のみ。
 古代エジプトにもパンがあり、給与としてパンが支給されていた。通貨はまだなかった。
 古代エジプトの人々は、死後、再生復活できると固く信じていた。来世には「イアル野」という楽園が待っていて、そこで幸せに暮らせると信じて疑わなかった。そのために必要と考えられていたのがミイラだった。
 ミイラを腐らせるものは、とにかく除去された。内臓は取り出され、死後も来世で必要と考えられていた4つの臓器、つまり肝臓・肺・胃・腸は専門の壺カノポスに入れられ、ミイラとともに埋葬された。体に残された唯一の臓器は心臓だった。心臓は、その人物の人格そのものであり、死後、冥界の神オシリスの前で受ける「最後の審判」を通過するときに必ず必要だった。
 逆に、脳は「鼻水」だと勘違いしていて、鼻の骨を砕いて、そこから特殊な棒ですべてをかき出していた。
そうなんですか・・・。頭の脳を大切なものと思わなかったというのは、不思議です。
古代エジプトでもワインが飲まれていた。ただし、ファラオ(王)や貴族など、裕福な人々の飲み物だった。庶民は主にビールを飲んでいた。
今から3200年前、古代エジプトに生きた「ケンヘルケプシェフ」という名前の書記は、手紙、教科書、会計簿などのパピルスを集めていた。
 子どものころは、とにかく勉強させ代、そうしないとダメな大人になってしまうぞ、お前が学問に通じていれば、人々は皆お前の言葉を信用するだろう。
 これは、「アニの教訓」と呼ばれているものです。
 古代エジプト社会では、文字が書けることは、想像する以上に重要なことだった。人々は書記になることを望み、そのための教育を受けることを切望した。
 パピルスのなかにはラブレターもある。男女が交互に語りあうかたちで、17篇の愛の詩が書かれている。
 古代エジプトでは、結婚は夫婦間の契約を結ぶ意味もあった。結婚すると、夫婦の財産の3分の1の権利を得ることができた。また、夫が死んだときには、遺産の3分の1が妻のものとなり、残りの3分の2は継承者のものとなった。その継承者のなかにも妻がふくまれていて、子どもたちと財産を分けることになっていた。
 さらに、離婚する権利は男女双方が持っていた。古代エジプトは、女性の権利も認められた、男女平等の社会だった。
王墓はファラオの罪名中に造り終えることが求められた。もし、建設途中でファラオが亡くなってしまえば、その時点で作業は中止された。
 パピルスにはピラミッドのつくり方を解説し、その計算問題などまであるというのには、驚きました。しかも、かなり高度な数式が使われているのです。
パピルスには、ファラオから支払われる給料の遅延に抗議してストライキが発生したことまで記録があるとのこと、これには腰を抜かしそうになりました。
知られざる古代エジプトのいくつかを知ることのできる本でした。
(2012年6月刊。1800円+税)

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2013年1月 5日

売れる作家の全技術

社会

著者  大沢 在昌 、 出版  角川書店

売れる作家のプロ作家養成講座です。作家と名乗るのは我ながら恥ずかしく、いつもモノカキと自称する私ですが、小説にも挑戦中なので、ぜひ読んでみようと思って手にとったのでした。
 さすが当代有数の売れる作家の言うことは違います。含蓄のある指摘に、ついついうーんと心がうなってしまいました。同感、同感。でも、実行は難しい。トホホ・・・。ただし、『新宿鮫』などで今や大いに売れている著者も、かつては売れない作家だったのです。
 23歳でデビューし、11年間、まるで本が売れなかった。28冊の本がすべて初版どまり。だから「永久初版作家」とまで呼ばれた。うへーっ、それはそれは・・・という私も、再版したのは1回のみで、あとは初版どまりで、大量の在庫は、みな知人にありがたく贈呈してしまいました。
 初版4000部、定価1700円として、印税10%だとすると、作家の収入は68万円となる。半年かけて書いて68万円の収入をあげたとすると、コンビニのあるバイトよりも低い金額でしかない。うむむ、そうなんですね。現実はチョーキビシイのです。
 辞書は、いつも手元に置いておく。少しでも怪しいなと思ったら辞書を引くこと。一日に最低でも4、5、6回は辞書を引いている。
著者はパソコンはではなく、手書きです。これは私と同じです。
原稿をすばやく仕上げるには、毎日、必ず決まった分量を習慣を身につけることが大切。書いた原稿を、少し時間を空けて読み返す。時間をあけることによって、あたかも他人の文章を読むように自分の文章のように読み返す。
どんなに苦しくても、決められた枚数を書ききる。それがプロ作家である。
ストーリーも大事だけど、キャラクターも大事だ。
 アイデア帳をいつも身近に置いておく。何か思いついたら必ずメモをとる。私も、ポケットにはメモ帳を必ず入れています。車中にも、ペンとメモ用紙を置くようにしています。車中でひらめいたときには、交差点の赤信号で止まったとき、素早くメモします。
 ストーリーが進むにつれて主人公は変化する。ストーリーが登場人物を変化させていく。この変化の過程に読者は感情移入する。これをしっかり意識して小説を書くべきだ。
 私には、この点の意識が欠けていました。反省すべき点です。
小説の登場人物は論理的でなければいけないし、その論理には一貫性が要求される。
人物に過去を語らせない。回想シーンは、会話にもっていく。
ミステリーは、基礎知識のない人間が書いてはいけないジャンルだ。最低でも1000冊は読んでいないと、ミステリー賞に応募することはできない。自分の書いたものを何度でも疑う。とにかく、たくさんの本を読む。これしかない。今の作家志望者は読書量が圧倒的に不足している。
 作家になるというのは、コップの水である。コップの水に読書量がどんどんたまっていって、最後にあふれ出す。それがかきたいという情熱になる。
 編集者は、作家に対していろいろダメ出しするが、「こうすれば、もっと面白くなりますよ」とは言われない。それを言えるくらいなら、編集者のほうが作家になったらいい。最終的には作家の自助努力しかない。作家の作業は孤独なものである。
 自分が面白いと思わなければ、面白いものは絶対に書けない。
 主人公に残酷な物語は面白い。主人公が苦しめば苦しむほど、物語は面白くなる。読み終えたあと、読書の心の中にさざ波を起こすような何か、これを「トゲ」と呼ぶ。面白くするには、泣くほど考えるしかない。
 漢字を使うことによって、小説の雰囲気が変わってくる。小説を読んでいるとき、人は自分の年齢を忘れている。
 改行は、文章のリズムをつくるうえでの数少ないテクニックだ。
 冒頭の20枚の原稿用紙こそが長編小説の「命」なのである。説明なしで、いかに主人公を印象づけるか、魅力的な主人公だと読者に思わせるが、その点をとことん考える。
アイデアの出ない人はプロになれないし、万一プロのなれたとしても、とても食べてはいけない。
ある水準以上のものを必ず出せるのが、プロの条件である。何十冊も書きつづけなければならない。一作一作が勝負の作品だ。前の作品よりもいいものを書くことを常に求められる。それがプロの世界だ。根性のない人間は生き残れない。頼まれた仕事は絶対に断ってはいけない。そして締め切りは絶対に厳守する。
 本は商品である。4000部売れても、出版社はほとんどもうからない。
 ある程度売れるようになったらテレビは出ないほうがいい。なぜなら、作家はどこか神秘性をもっていたほうがいいから。イメージが合わないと読者は離れていってしまう。
 新人作家は、決してインターネットでの自分の評判を気にしないこと。なるほど、とても実践的なプロ養成講座でした。私もさっそくすこしばかり実践することにしましょう・・・。
(2012年7月刊。1500円+税)

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2013年1月 4日

チンパンジーは、なぜヒトにならなかったのか

人間

著者  ジョン・コーエン 、 出版  講談社

人間とチンパンジーは、どれだけ違い、また、似ているのかを探った本です。
 チンパンジーは泳げないそうです。だから、深い池にはまってしまうと、おぼれ死んでしまうといいます。犬かきみたいなこともできないのですかね・・・。
 そして、チンパンジーは人間の好むマラソンのような長く走ることもできないそうです。
 チンパンジーは、肝炎にかからない。
母親になったばかりのチンパンジーは、1時間に22回も赤ん坊の目をのぞき込むことが分かった。
人間の赤ん坊は夜泣きする。しかし、チンパンジーの赤ん坊は絶対に泣かない。なぜなら、母親が常に一緒にいるから。
 チンパンジーの雌は、授乳するときしか胸(乳房)はふくらまない。
 ヒトの男子の精液1ミリリットル中の精子は6600万個。ところが、チンパンジーは、25億個にもなる。
人間の女性は排卵の時期と受精のピーク時を隠すように進化してきた。父親をあいまいにすることで、女性とその子どもたちが守られるようにしたいということ。
野生のチンパンジーの平均寿命は13年。飼育下では42歳くらいまで生きる。チンパンジーは、30歳になるころには、狩猟採集生活者よりはるかに死亡率が高くなっている。
チンパンジーは、大人まで成長したら、最後に子どもを産んでから数年ほど生き続ける確率は1%でしかない。
人間は閉経後のおばちゃんが子育てに関わっていることが特徴です。
 チンパンジーは、今や絶滅の危機にある。野生のチンパンジーは多くて23万頭、少なくて16万頭ほどになった。人間が木を伐採し、土地を耕すことで生息地を破壊し、分散させてしまい、その結果、近親交配が増えていることによる。
 ニホンザルが減ったという印象はありませんが、アフリカのチンパンジーは劇的に減っているようです。心配です。
チンパンジーと人間の異同は、もっともっと知りたいところですよね。だって、人間とは何者なのかを知りたいものですから。
(2012年9月刊。2800円+税)

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2013年1月 3日

ルポ・イチエフ

社会

著者  布施 祐仁 、 出版  岩波書店

福島第一原発事故をマスコミは忘れたような気がします。でも、まだ依然として大量の放射能が出ているなかで、その後始末に大勢の労働者が働いているのです。その労働のすさまじい実情がほとんど報道されていません。この本は、その労働現場に迫っています。貴重な証言集です。
 僕らは被曝することを「食った、食った」と言う。作業が終わったあと、0.6(ミリシーベルト)も食っちゃったよ。キミは何ミリ食った・・・?
 これが原発現場で働く労働者の会話というのです。福島第一原発を「ふくいち」とも呼ぶが、原発作業員は「イチエフ」と呼ぶ。
 原発労働員の大半は日給月給の非正規雇用。
 2011年3月11日、フクイチには東電社員755人と下請け労働者5660人、合計6400人が勤務していた。
作業員が100人も並ぶ。というのも、免震重要棟に入るときには、なかに放射性物質を持ち込まないために、まず入り口でタイベックや全面マスク、ゴム手袋などを脱ぎ、そのあとに身体汚染のサーベイを担当する担当者が数人しかいないため、作業員が集中するとあっという間に行列ができてしまう。長いときは1時間近く、被曝しながら待たされる。
 ここでの食事は1日2食。朝食はビスケットと野菜ジュース。夕食は湯をかけて食べるアルファ米と野菜ジュースだけ。肉体労働で汗をかいてもシャワーを浴びるどころか顔を洗うこともできない。
 それでいて、もらう賃金は最高でも通常時の日当にプラス危険手当が10万円。大半は危険手当も数千円から1万数千円ほど。
 2011年5月23日まで、ホールボディカウンターによる内部被曝の検査を受けたのは、それまでに緊急作業に従事した7800人のうち1800人だけ。そして、内部被曝が1万カウントをこえた人が見つかった。それでも、誰も大騒ぎせず、そのまま、「どうぞ、お帰りください」と言われるだけだった・・・。
線量が高いため、作業は文字どおりの「人海戦術」で進められる。作業時間は、1班あたり30分。3回まで昇り降りする時間を差し引くと、現場で実際に作業できるのは、せいぜい10数分が限度。だから、大量の作業員を投入して、次から次へと交代して工事を進めていく。
 6次下請けで入っている経営者に5次下請けの会社が支払う日当は1人あたり1万8000円。そのうち、1万5000円を労働者に渡す。
 九州の原発で働く作業員の日当は1万4000円が相場だった。原発では、偽装請負は当たり前。しかも、実態は二重派遣、三重派遣。そして、中間に暴力団が絡んでいる。結局、そうしないと人が確保できない。
 東電が認めているのは三次までだけど、実際のところ、一番下は10次くらいまでいく。もし、完全に法人登録していないとダメとか、暴力団が絡んでいるのを排除しようとしたら、原発は成り立たない。放射性物質は、まだ漏れ続けているし、汚染水も地下水が流入してどんどん増え続けている。こんな状況で「収束」はありえない。
 「誰かがやらなくてはいけない」被曝労働が、これから数十年間にわたって続く。いえ、数十年では絶対に終わるはずがありません。何百年でもないでしょう。永遠に地球を汚染し続けるのです。原発、放射性物質を生みだすもとと人類の平和共存はありえません。
 今こそ、原発なんて直ちに「ノー」の声をあげるべきです。
 大変いい本でした。著者のご苦労に感謝します。
(2012年10月刊。1700円+税)

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2013年1月 2日

愛と欲望のナチズム

ドイツ

著者  田野 大輔 、 出版  講談社選書メチエ

ヒトラーがなぜ独身だったのか、自殺する寸前に愛人のエヴァ・ブラウンと結婚したのはなぜなのか。そして、ナチス・ドイツは禁欲的生活を国民に強いていたのか・・・。いろんな疑問を次々に解明していく本です。
 ヒトラーは、女性について慰みもの以上の価値を認めていなかった。そして、恋愛や結婚も印象操作の道具程度のものと考えていた。
 多くの女性が私(ヒトラー)に好意を寄せているのは、私が結婚していないからだ。闘争期には、これが重要だった。映画俳優と同じだ。彼に憧れる女たちは、彼が結婚したら何かを失ってしまい、もはや彼は偶像ではなくなる。
 ヒトラーは、総統が民族に貢献する私心なき指導者であるというイメージを守るため、若い愛人の存在を国民の目から隠し続けた。
 ヒトラーは、高潔さを装う偽善的な姿勢をとり続けた。ナチス・突撃隊の幹部が粛清された1934年6月30日の「長いナイフの夜」は、隊長のエルンスト・レームが同性愛者であることは周知の事実で、ヒトラーもそれをながく黙認していた。しかし、突撃隊と国防軍の対立が表面化したとき、ヒトラーは政治的理由からレームを切り捨て、道徳的純潔の擁護者になりすました。
「健全なる民族感情」の代弁者をもって自認したナチズムは、疑いなくヌードの氾濫を黙認し、奨励すらしていた。ナチズムは、社会生活にはびこるエロティズムをユダヤ人の責任に帰することで、ナチス自身がそれを促進していた事実を曖昧にしていた。
 ナチス・ドイツでは婚前・婚外交渉が一般化していた。ナチ党が権力を掌握してから、警察は、街娼の摘発・逮捕を通じて「街頭の浄化」を進める一方、売春宿の営業を監視・規制することこそ警察の義務だとした。市当局も売春の存続に関心を払っていた。国防軍も売春宿を必要と認め、売春婦の逮捕は控え目にするよう求めた。
戦争が始まると、政府はただちに政令を出して売春の管理を強化した。国防軍は政令にもとづき、帝国全土および占領地域で軍用売春宿を次々に設立した。
 「公的な不道徳」の撲滅を唱えて売春の一掃に乗り出すかに見えたナチズムが、結局のところ売春の封じ込めと組織化に舵を切った経緯は、道徳的に純潔な体制という外観を守りつつ、実際には性欲の充足を奨励して、これを国家目的に動員しようとする狙いを照らし出している。
 ナチス・ドイツの支配の本質をえぐり出した本だと思いました。
(2012年9月刊。1800円+税)

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