弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2013年1月 1日

中国革命と軍隊

中国

著者  阿南 友亮 、 出版  慶應義塾大学出版会

1920年代、30年代の中国、広東省における党・軍・社会の関係を詳細に分析し、中国革命と軍隊との関係を根本的に問い直した意欲的な本です。450頁もある大部な本なので、読み通すのに、少々苦労しました。
 1980年代以降に復活した中国での現地調査において、共産党によって抜本的に変革されたはずの農村社会における伝統的人間関係の根強い生命力を示す事例が数多く発見された。そこで、共産党が実際にどこまで農村社会を変革できたのか、疑問の声があがった。
 農村社会における伝統的な人間関係の根強い生命力の発見は、共産党による社会変革こそが国民党を圧倒する原動力の源となったという従来の定説の見直しを迫るものであった。
 1930年代までの中国の軍隊は、基本的に生産から遊離した貧民・流民を主たる兵士の供給源とする傭兵軍隊であった。軍隊に応募した兵士の圧倒的多数は、失業・破産・貧困農民出身であった。
 困窮する農民は多く、兵士になろうとする人間も多い。こうして中国では徴兵制を広く実施する必要もなく、募集すればすむ。蒋介石の国民革命軍ですら、募集して得た兵隊であった。
 20世紀前半の中国ではほぼ無尽蔵に傭兵を供給し続ける困窮した地域社会という兵士の生産地、そして兵士に対して常に一定の需要をもっていた軍閥の傭兵軍隊という消費者によって巨大な兵士市場が形成されていた。
 中国の傭兵軍隊の兵士の大半は、独身の貧困農民であり、軍隊の募兵に応募する主たる理由は、毎日食事にありつくこと、一定の給金を得ること、掠奪を通じて一攫千金を狙うことであった。それらを通じて生存の確保と貧困からの脱出を図ることであった。
平均的な兵士は、大義名分や国家に対する義務よりも利益のために戦う傭兵的性格が強く、戦場でリスクを回避しようとする姿勢が顕著で、戦況が不利になると、兵士の脱走、降伏、敵方への寝返りが頻発した。
 兵士は、往々にして各級の将校が自らの責任で募兵したため、その将校と直接的利害関係をもち、忠誠心もその将校に向けられる傾向が強かった。つまり、中国の傭兵軍隊は最高司令官を核とする一極集権的組織ではなく、多極分権的性格が強かった。このため、個々の兵士の脱走のみならず、師団長や旅団長が部隊ごと敵に寝返るという行為が頻繁にみられた。
 20世紀前半の中国において膨大な数に達していた民間の自衛団体の構成員は、匪賊とともに、軍閥の軍隊にとって重要な兵士の供給源となっていた。
 1923年末から1924年初めにかけて、共産党は農民運動を党の指導下で武装化し、それによって農民の生活水準向上に立ちはだかる既得権益層の武力に対抗すると同時に、「革命軍隊」に農民を動員するための基盤を構築するという構想を打ち出した。
 1923年6月の大会以降、共産党は都市住民に加え、農民をも兵士の重要な供給源とみなすようになり、農民の制度的武装化に関する構想を展開していった。
 ところが、1923年の終わりころになると、共産党指導部は、既存の自衛隊団体と農民運動、土地改革などによる農民の「解放」(社会変革)とが両立しがたいという社会状況を認識するに至った。
 1924年、著しく統制を欠いた軍隊を抱えた孫文は、麾下の将兵が職務に殉じる覚悟に欠け、利害を重視して職分に違反することを嘆き、革命に従事するはずの麾下の軍隊と「軍閥」の軍隊とのあいだに目立った差異がないことを認めざるをえなかった。
 1924年7月、広州に農民運動講習所(第一期)が開講した。ここは農民自衛軍の士官学校であった。農民自衛軍の拡大は、広東社会の既得権益層の強い警戒と反発を招くこととなり、広東各地で既得権益層と農民境界との確執、既存の自衛団体と農民自衛軍との衝突が顕在化した。農民自衛軍の役割は、本来、村落の防御に限定されていた。
 国共両党の推進した農民運動の過程で組織された新たな民間武装団体の農民自衛軍と旧来の民団との抗争は、一見、社会変革に伴う摩擦を象徴しているようでありながら、実は往々にして宗族間の械闘の論理に支配されていた。
 国共両党が1924年以降、普及に努めた農民自衛軍が1927年に軍隊に編入され、一つの部隊として戦闘に従事したのは画期的なことであった。それは極めて限定的ながらも、民間武装団体を通じて農民を制度的に軍隊に動員するという1923年以来の共産党の軍隊建設構想が実現したことを意味した。
 1927年ころ、国共両党が民団はもちろんのこと、農民自衛軍に対しても必ずしも末端組織に至るまで十分な指導権を確立していたわけではなかった。
 1928年、海豊における土地革命は障害に直面し、遅々として進まなかった。土地の分配に対する農民の反応が共産党の予想よりも複雑で、土地革命は多くの時間と労力を必要とする困難な作業であった。土地の分配は、決して順風満帆ではなかった。
 土地の境界の破壊に関する農民の理解を得ることは非常に難しかった。それを一因として、土地の分配がなされたのは、狭い範囲に限定された。土地境界の破壊は、少なからぬ農民の思惑・利益に反していた。多くの自作農が頑強にこれに抵抗した。土地所有権の否定は、自作農の抵抗を招いた。そして、それには宗教の論理も作用していた。宗族の共有地である「族田」が多く存在した。他の宗族に属するよそ者に土地を渡したしたくないという心理も働いた。
 一部の宗族が共産党に味方する一方、他の多くの宗族が共産党に頑強に抵抗した。
 1928年1月の時点で、共産党は県内を平定して土地革命に着手するどころか、県城を失い、陸豊から駆遂される危機に直面していた。
 土地革命は遅々として進まず、住民の蒙った恩恵は均等ではなかった。公平を重視する農村社会では、これは重大な問題であった。このころ紅軍は戦うたびに小さくなり、戦うたびに弱くなった。陸豊では、反共産党の名のもとに不倶戴天の敵同士であった黒旗と赤旗との連携が進み、複数の宗族から白旗を掲げる連合軍(白旗)が形成された。海陸豊における共産党の勢力は多分に宗族の論理に依存していた。同地の共産党には、郷神や地主が相当数ふくまれていた。
 共産党は、社会変革して新たな武力を手に入れたのではなく、前から存在した武装宗族を活用した。このように、国共の相克は、実は清代以来の宗族間の抗争の延長という側面を有していた。
 土地の没収・分配や地域社会からの紅軍兵士の獲得は、現地の共産党指導部にとって始めての試みだった。そして、着手した時点では、農民の頑強な反対と抵抗に遭うことを想定していなかった。それでもたもたしているうちに国民党軍の襲撃を受けてしまった。
 このように、国共内戦期の土地革命は、少なからぬ障害・混乱に直面し、なかなか共産党の計画どおりには進展しなかった。
 なーるほど、そういうことだったんですか。土地革命の成功イコール共産党の軍事力の増強という図式は必ずしも現実を反映したものではないということです。刮目させられました。
 40歳の若手学者による貴重な労作です。
(2012年8月刊。6800円+税)

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