弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

江戸時代

2022年1月23日

ボールと日本人


(霧山昴)
著者 谷釜 尋徳 、 出版 晃洋書房

現代日本人はボールゲームが大好き。日本の各種スポーツ競技団体に登録している競技者の人数を多い順でみると、剣道191万人、サッカー95万人、バスケットボール62万人、ゴルフ59万人、ソフトテニス43万人、陸上競技43万人、バレーボール42万人、卓球34万人...。
観戦したいスポーツでは、プロ野球、サッカー、高校野球、...、プロサッカー、プロテニス。
私はみるのもするのも全然やりません。地区法曹関係者の懇親のためのボーリングは参加したくありません。昔はソフトボール試合があって、何度も空振り三振して恥ずかしい思いもしました。好きでないことをするより、一人静かに本を読んでいたほうがずっといいのです。
この本を読んで、日本人が昔からボールゲームをやっていたことを知りました。
古代日本にボールをつかったスポーツとして、『日本書紀』に打毬(くえまり)がありました。このとき中大兄皇子は中臣鎌足と結びついた。
平安時代には、蹴鞠(けまり)の達人が登場する。12世紀後半に活躍した公卿の藤原成道。平安末期になると、僧侶も蹴鞠を楽しんでいた。そして、この勝敗はギャンブルの対象ともなっていた。後鳥羽上皇も、蹴鞠の達人だった。
室町時代、足利義満や足利義政も蹴鞠を盛んにしたことから、蹴鞠は武家のたしなみとして定着した。
イエズス会宣教師のルイス・フロイスも、日本の蹴鞠を紹介している。
江戸の庶民が楽しんだボールゲームの多くが、もとをたどれば古代に大陸から来た外来スポーツでした。創世記のボールをつかったスポーツの実際を知ることのできる、楽しい本です。
(2021年8月刊。税込2200円)

2021年10月13日

ちえもん


(霧山昴)
著者 松尾 清貴 、 出版 小学館

この本の始まりと終わりはオランダ交易船の沈没、そしてその引き上げです。ときは1798(寛政10)年11月から翌年2月のこと。つまり、松平定信の寛政の改革のころの話です。
長崎・出島のオランダ商館を拠点とするオランダとの交易は、ひそかに密貿易(抜け荷)も横行していたようです。しかも、幕府の禁止をかいくぐって藩当局の黙認のもとに...。もちろん、見つかれば処刑されます。実際にも、見せしめのために処刑された商人や通詞(通訳)がいたようです。
オランダ交易船は、全長42メートル、幅11メートル、総積載高1万石、鋼鉄張り、大帆柱3本の巨大な船。海中に沈没してしまっているのではなく、座礁している。このオランダ交易船を地元の香焼(こうやぎ)島の島民とともに、引き上げる。その先頭に立ったのが山口県徳山湾に面した漁村で育った漁民だった。
村の青年は若衆宿に属する。そして、夜這いをかける。寝ている娘の枕元に忍び寄る。娘に誰何(すいか)され、拒絶されると、夜這いは中止。男は黙って帰り、その夜のことを忘れなければならない。それが宿の掟だ。強姦者は若衆宿からも村からも制裁を受け、ろくな人生を送れない。死ぬまで負の烙印を押される恐怖から、どんな乱暴者も夜這いの作法だけはかたくなに遵守した。
若衆組は、下から順に小若勢(わかぜ)、並若勢、大若勢、年寄若勢と格付けされ、年次ごとに昇進する。新入りの指導は並若勢の役目だ。新入りは小若勢ですらない。宿の上下関係は絶対で、年次の差は埋まらない。
官途成(かんとなり)。名を改めるとき、特別な儀式が催された。官途名、大夫、兵衛、左衛門、右衛門など昔は武家が名乗った官名を百姓が名乗る。それ自体は珍しいことではないが、それへの改名は段取りを踏まなければならない。神職から名を授かるのに、相応の寄進が求められた。なので、官途成ができるのは有力百姓に限られ、そして、たいては跡取り息子だけだった。
瀬戸内は廻船の通り道。北陸や山陰などの日本海側から出発した船は、赤間関(今の下関)を超えて瀬戸内に入り、さらに大坂へ出て太平洋沿岸を経由して江戸に向かった。西廻り航路と呼ばれる開運物流の主流の一つだった。
瀬戸内には、米を大坂や江戸に運ぶ米廻船だけでなく、木綿・油・しょう油などの日用品を運ぶ菱垣(ひがき)廻船や、上方の酒を諸国へ下らせる樽(たる)廻船も頻繁に往来した。
そして、これらの回船は、江戸、大坂の問屋どうしが組合仲間をつくり、扱う商品によって棲み分けした。
沈没して海中の泥に半ば埋まっているオランダ交易船の周囲に、幅2間(3.6メートル)の筏(いかだ)2組を並べた。大きな足場となる。この巨大筏を固定するための支柱を22本も用意した。また、筏の上に、50石、60石積みの漁船70艘を筏の上に引き上げ、網で結んだ。こうやって沈船の引き揚げについに成功したというわけです。
私には技術的に理解するのが困難ではありましたが、その大変な苦労は雰囲気として理解できました。
(2020年9月刊。税込2090円)

2021年2月23日

女だてら


(霧山昴)
著者 諸田 玲子 、 出版 角川書店

江戸後期に活躍した女性漢詩人、原采蘋(さいひん)の半生を小説にして紹介しています。舞台は筑前国秋月藩。儒学者の原古処(はら・こしょ) の娘が主人公。
秋月黒田家は、本家の黒田家とのあいだでお家騒動の渦中にある。
原古処は、藩校稽古館(けいこかん)の教授、そして、古処山堂という私塾を開いた。秋月藩主の覚えもめでたかった。ところが、文化8年、秋月黒田藩で大騒動が勃発し、原古処は教授職から罷免されてしまった。その後、原古処は娘を連れて江戸参府の旅に出た。
そして、父・古処の死後、娘は男になりすまして、再び旅に出る。本藩の専横に苦しめられている秋月黒田家に、本藩には意のままにできない藩主後継者を迎えて家の存続を図り、真の独立を成し遂げる。これが真の目的...。
学問に身を投じ、おのれの名を世に知らしめるためには、諸国を旅して見聞を広め、人脈を築いておかねばならない。そうなんですよね...。
女性の一人旅なんて、危険だからしているはずがないと思っている人は多いわけですが、実は、江戸時代、女性が旅をすること、そしてたまには一人旅も少なくなかったのです。
主人公が江戸に向かうとき、秋月藩の許可は得られず、久留米藩子の養女になって、江戸参府を目ざした。
采蘋の恋人として登場する駿河国の田中藩士の石上玖左衛門も実在の人物だということです。
女流漢詩人が男装して活躍する、大活劇、そしてミステリー小説といった雰囲気のある本です。まさしく「女だてら」の世界です。秋月黒田藩と結びつけて小説が展開していく様子は、なんとも想像力のたくましさに驚嘆させられます。
秋月郷土館には、キリシタンを「壊滅」させた原城の戦いを描いた絵巻物の実物があります。圧巻です。まだ見ていなかったら、ぜひ行って見てきてください。
(2020年9月刊。1800円+税)

2020年12月24日

武士に「もの言う」百姓たち


(霧山昴)
著者 渡辺 尚志 、 出版 草思社

 江戸時代の百姓をもの言わぬ悲惨な民とみるのは、実態からほど遠い。実際の百姓たちは、自らの利益を守るために積極的に訴訟を起こし、武士に対しても堂々と自己主張していた。
 この本は、信濃国(しなののくに。長野県)の松代(まつしろ)藩真田(さなだ)家の領内で起きた訴訟を詳しく紹介し、百姓たちが長いあいだ訴訟の場でたくましくたたかっていたことを見事に明らかにしています。
 内済(和解)によって丸くおさめるという裁判の大原則を拒否し、あくまで藩による明確な裁許を求める「自己主張する強情者」が増加していたこと、藩当局としても事実と法理にもとづく判決によって当時者を納得させようとしていたことが詳しく紹介されていて、とても興味深い内容です。
百姓たちは、訴訟テクニックを身につけ、ときにしたたかで狡猾(こうかつ)でもあった。
 この本のなかに江戸時代の田中丘隅(きゅうぐ)という農政家の著書『民間の省要(せいよう)』が紹介されていますが、驚くべき指摘です。
 「百姓の公事は、武士の軍戦と同じである。その恨みは、おさまることがない。武士は戦においてその恨みを晴らすが、百姓は戦はできないので、法廷に出て命がけで争う」
 つまり、百姓にとっての訴訟は、武士の戦に匹敵するほどの必死の争いだったという。
たしかに百姓は裁判に勝つために、武士に向かって、ありったけの自己主張をする。それを裁く武士の側も、原告と被告の双方を納得させられる妥当な判決を下さなければ、支配者としての権威を保てない。
 江戸時代の人々に訴訟する権利は認められていなかった。紛争の解決を領主に要求する権利はなく、領主が訴訟を受理するのは義務でなく、お慈悲だった。
しかし、これは建前であって、現実は百姓たちは武士たちが辟易(へきえき)するほど多数の訴訟を起こした。百姓たちは、「お上(かみ)の手を煩(わずら)わす」ことを恐れはばってばかりではなかった。
 「公事方(くじかた)御定書(おさだめがき)」は、一般には公表されない秘密の法典で、それを見ることのできたのは、幕府の要職者や一部の裁判担当役人に限られていた。しかし、これも建前上のことで、実際には公事宿が幕府役人から借りて写しとり、それをさらに町役人が写しとったりして広く民間にも内容は知られていた。
 現代日本人の多くは、できたら裁判に関わりたくないと考えているが、江戸時代の百姓たちは違っていた。不満や要求があれば、どんどん訴訟を起こした。江戸時代は「健訴社会」だった。というのも、裁判を起こしても、すべてを失うような結果にはならないだろう。仲裁者が双方が納得できる落としどころをうまくみつけてくれるだろうという安心感に後押しされて、百姓たちは比較的容易に訴訟に踏み切る決断をなしえた。訴訟に踏み切るためのハードルは、むしろ現代より低かったと考えられる。
 藩にとっては、領内の村々が平穏無事であることが、藩の善政が行き渡っている何よりの証拠だった。なので、判決において、当事者たちが遺恨を残さないようにするための配慮がなされた。
 江戸時代の実情を改めて考えさせられました。
   (2012年12月刊、1800円+税)

2020年11月10日

性からよむ江戸時代


(霧山昴)
著者 沢山 美果子 、 出版 岩波新書

この本のなかで私の目を引いたのは、生まれた子どもは夫の子か、それとも不義の子なのかをめぐって、米沢藩の裁定を求めたという一件資料が解説されていることです。
子どもの親たちは大名でも武家の名門でもなんでもありません。山深い寒村の川内戸村(山形県置賜軍飯豊町)の養子・善次郎(20歳)と、岩倉村(同町)の娘きや(21歳)のあいだの子かどうかという紛争です。
文化3年(1806年)の川内戸村は戸数7戸、人数37人で、岩倉村は37戸、200人。そんな小さな村で、それぞれの村役人と2つの村にまたがる大肝煎(おおきもいり)が藩の役人に対して書面(口書。くちがき)を出しているのです。
夫・善次郎と妻・きやは文化元年から不仲となっていたところ、きやが妊娠し、女の子を出産したのでした。ちなみに著者は最近、現地に行って、この両家が歩いて5分くらいに位置していて、善次郎家は今も現地にそのまま残っているとのこと。これには驚きました。200年以上たっても、「善次郎さんの家は、あそこ」と地元の人から教えてもらったとのことです。いやはや...。
藩役人の屋代権兵衛が双方に質問(御尋)した答え(御答)が書面で残っている。夫・善次郎は、「昨年1年間、夫婦の交わりをしていないので、自分の子ではありえない。妻の不義の相手が誰か今は申し上げるべきではない。そのため、生まれた子を引き受ける理由はない」と答えた。
妻・きやは「5月までは夫婦の交わりはあったので、夫の子どもに間違いない」と答えた。
また、きやは「ほまち子」、つまり不義の子だと自分が言ったというのは否定した。
さらに、藩役人はそれぞれの父親に対しても質問し、その答えが同じ趣旨で記載されている。要するに、両者の言い分は真っ向から対立しているのです。
藩の役人の裁定文書も残っていて、それによると、子どもは夫の実子と認められ、夫は藩の許しがあるまで再婚は許されない、「叱り」を受け、身を慎むように申し付けられましたが、それだけです。妻のきやは正式に離婚が認められ、道具類は全部とり戻せました。それ以上のことは書かれていないようですから、お金は動いていないようです。養育費の支払いというのも、なかったのでしょうね...。
そして、著者は、この当時、寛政の改革による米沢藩の人口増加政策を紹介しています。つまり、このころは、生まれた赤子を殺す、つまり間引きを禁じて、妊娠・出産を管理し、出産を奨励していたのです。さらには、そのための新婚夫婦には家をつくるための建築材料や休耕地の所有権を与えたり、3年間の年貢免除の特権まで与えています。
さらに、貧困な者には、申し出によって、おむつ料として最高で金1両の手当てまで与えたのでした。この結果、女子の間引きはされなくなり、男女の性比は、女子100に対して男子104となった。これは現在とまったく同じ。
学者って、ここまで調べるのですね。さすが...です。大変興味深い話が盛りだくさんでした。
(2020年8月刊。820円+税)

2019年11月 3日

いも殿さま


(霧山昴)
著者 土橋 章宏 、 出版  角川書店

いま、わが家の敷地内に芋畑があって、やがて芋掘りパーティーが開かれます。保育園の園児が老健施設のじいちゃん、ばあちゃんと一緒に芋掘りをして楽しむのです。芋を植えるときも老・幼一緒でした。その前はジャガイモ植え付けと掘り起こしでにぎわいました。恐らくでっかい芋がゴロゴロ掘り起こされることでしょう。
そんな芋ですが、日本に古くからあったのではありません。
江戸時代に少しずつ普及していったのです。種芋は薩摩藩にありました。まさしくサツマイモ(薩摩芋)だったのです。よそ者を受け入れない薩摩藩に忍び込み、種芋をひそかに買い求めて、島根で育てた代官がいたのでした。
石見(いわみ)銀山で有名な石見の代官所に赴任した井戸平左衛門が飢饉対策として芋を植え付けるに成功した実話にもとづく感動的な小説です。
ところが、幕府の命令で勝手なことをしたとして井戸平左衛門は代官を罷免され、唐丸(とうまる)駕籠に乗せられ、江戸へ護送されます。地元の人々が見送りました。
江戸幕府では、平左衛門の処分をめぐって評定所で意見が分かれました。
大岡忠相(ただすけ)は、平左衛門の働きを高く評価していました。
しかし、自分の役目を完遂したことを悟った平左衛門は処分の結果を待たず自ら切腹してしまいました。
島根には平左衛門の功をしのんで、各地に芋塚が建てられ、井戸神社まで建立されたとのことです。
いつの世にも骨のある役人がいるものですね。ふと、前川喜平・元文科省事務次官を思い出しました。
(2019年3月刊。1600円+税)

2019年6月 9日

江戸の不動産

(霧山昴)
著者 安藤 優一郎 、 出版  文春新書

江戸という町は明暦の大火(1657年)によって、劇的に変化したようです。
明暦の大火のあと、江戸近郊の農村地帯に続々と家が建ちはじめ、そこに人が住み、急速に町場化していった。それまでは古町といわれた三百町のみが町奉行の支配下にあったが、芝・三田から下俗・浅草までの三百町も町並地(市街地)と認定されて、町奉行の支配に組み込まれた。その後、さらに、本所・深川・浅草・小石川・牛込・市谷・四谷・赤坂・麻布の259町が町並地として町奉行支配となった。ええっ、深川が当初の江戸になかっただなんて・・・。
江戸幕府は、火災が起きると、焼け跡の町を召し上げ、火除地(ひよけち)に設定した。
そして、隅田川に架かる両国橋は、明暦の大火のあとにつくられた。1日に2万3千人から2万5千人が往来していた。武士たちは、老中の許可を得て土地交換をしていた。
老中が率先して、あたかも「地上げ」のような取り引きを繰り返していた。だから、交換を名目とした土地売買に歯止めがかかるはずもない。
地面売買口入(くちいれ)世話人という不動産業者が江戸にはいた。
拝領した土地がありながら、そこには居住せずに他家に同居したり、別の土地に借地している御家人は多かった。町人に貸して地代収入を得ていたのだ。
町人地には売買が認められていて、公定価格が設置されていた。江戸の1等地だと坪単価で1両を下ることはなかった。
建物を貸して賃料をとると、火災のときのリスクは大きい。それは土地を貸していてもリスクはあった。そのうえ、天保の改革のときには、地代・店賃の引き下げ金が発せられて、地主・大家はもうからなくなった。世話料や交際費なども地主・大家の負担として軽くはなかった。
それでも、江戸に不動産をもっているのは、拠点の確保とビジネス上の信用・担保に大きな意味があった。
江戸の社会では土地が固定していたというのは、単なる虚像でしかない。現実には、武士・町人・農民が入り乱れて活発な不動産取引がなされて、土地は激しく流通していた。
ええっ、ええっ、そ、そうなんですか・・・。驚くばかりの江戸の不動産取引の様子が語られていました。
(2019年3月刊。820円+税)

2018年9月 8日

木喰上人

(霧山昴)
著者 柳 宗悦 、 出版  講談社文芸文庫

木喰(もくじき)上人(しょうにん)とは、真言宗(真言宗)の僧であって、江戸時代にたくさん輩出した、木喰戒(もくじきかい)を守る僧を呼ぶ。
著者が大正14年から15年にかけて全国を調査し、5百個の仏躰を目撃してまとめたのが本書です。
木喰上人は、北海道から四国、九州まで足を運んでいます。安永2年から寛政12年まで、28年間に及ぶ旅です。
木喰戒は、火食を避け、また肉食を摂(と)らない。しばしば、木の葉や木の実で足りた。五穀やソバ粉を生のままとった。ソバ粉は特に好むものだった。チベットを旅した日本人僧もソバ粉を主食としていたことを思い出しました。それでよく生きられたものだと思いますが、なんと80歳の長寿と健康を誇ったというのです。少量の食物で、全国を旅して、病気にかかることなく80歳まで長寿をまっとうしたなんて、なんと素晴らしいことでしょう。
このほか、温泉に浸るのは好んでいますし、お酒もたしなんだようです。
ときに弟子が同行していますが、基本はひとり旅です。
木喰上人の彫った仏像はいかにも独創的で、見る人に圧倒的なインパクトを与えます。固定した形式からは自由。伝統への執着がなく、また伝統への反抗もない。木喰上人の仏像は、無心から生まれた。
木喰上人の仏像には模倣の跡がない。したがって、何らマンネリズムがない。ある作風への固守もなく、また慣例的な様式もない。旧習への追従もなく、同時に新案への作為もない。因襲への愛も、憎しみもない。
木喰上人が仏を刻んだのは、いつも夜だった。誰も、それを見ることは許されなかった。開眼(かいげん)の日までは、不浄の眼に触れるべきものではないからである。
昼間は木喰上人にとってことのほか多忙であった。なぜなら、病める者に治療を施していたから。
わが心、にごせばにごる すめばすむ すむもにごるも 心なりけり
木喰上人の仏像は、円突上人の仏像と似ています。どちらも素朴さをありありと残しつつ、いかにも尊い仏様の表情です。
村々をめぐりながら、仏像を刻みながら、村人たちにどんな話をしたのか、どうやって91歳という長寿を木喰戒を尊守しながらもまっとうすることができたのか、とても興味深く、惹きつけられた文庫本です。
(2018年4月刊。1800円+税)

2018年7月21日

江戸の骨は語る

(霧山昴)
著者 篠田 謙一 、 出版  岩波書店

2014年7月、東京の「切支丹屋敷跡」から3件の人骨が発見された。
新井白石が尋問し、藤沢周平が『市塵』に描いた江戸時代の潜入宣教師シドッチの人骨ではないのか・・・。
この謎を解いていくスリリングな過程が生き生きと描かれていて、人体をめぐる科学の進歩・発達を実感させてくれます。結論を先取りすると、今のDNA鑑定は、人骨となった人物がイタリアの中部地域に居住していたというところまで特定できるのです。ですから、そこまで判明したら、当然のことながら、その人骨はイタリア人のシドッチだと特定されます。
徳川幕府によるキリスト教信者の弾圧が強まり、潜入・潜伏していた宣教師たちが、あるいは残酷に処刑され、また棄教(ころび)していった。それを知ったローマ教皇庁は、日本への宣教師の派遣をついに断念した。
シドッチは、切支丹屋敷に幽閉されたものの、年に銅25両3分と銀3匁(もんめ)ずつを支給され、拷問もなく過ごした。しかし、4年後の1713年に、シドッチの世話をしていた長助とはるという夫婦がシドッチにより洗礼を受けたと告白したため、3人とも屋敷内の地下牢に監禁されることになった。シドッチは、10ヶ月後の1714年に47歳で衰弱死した。
シドッチが切支丹屋敷内に埋葬されたというのは、キリスト教関係者の間では広く知られていた。そして、実際に、その切支丹屋敷内から3件の人骨が保存状態も良く発見されたのです。では、本当にシドッチたちか、どれがシドッチか・・・。その探索が始まります。
東京の地下は、土質が粘土質で、嫌気的な環境が保たれやすいので、人骨は残りやすい。九州では、地面の下から人骨が消失していくのに対して、関東では、地面にしみ込んだ雨水が人骨を溶かすので、上面にあたる部分から骨が消失していく。
古代人骨のDNA分析では、歯の内側の空所である歯髄腔の内側面を削り、内部の象牙質を用いることが多い。
古代の人骨のなかで、最もDNAをふくむのは、頭骨の内耳の周辺の骨。人骨中に残るDNAの保存に関しては、水は大敵。酸性に傾いた日本の土壌では、しみこむ水も酸性を示し、骨中に残るDNAを破壊する。
DNA分析の技術の進展がこの人骨をイタリア人であると断定できるまで進んだタイミングで発掘されたことになる。
江戸時代の男性の平均身長は156センチ。ところが問題の人骨は身長が170センチをこえている。
シドッチの遺骨が発見されたのは、没後300年という節目(ふしめ)の年であり、2014年は日本とイタリア修交150周年でもあった。
すごいですね、人骨がイタリア人であることを確実に断定できるまでDNA分析ができるとは・・・。
(2018年4月刊。1500円+税)

2017年11月23日

ヘンな浮世絵

(霧山昴)
著者 日野原 健司 、 出版  平凡社

歌川広重は有名ですが、その弟子に歌川広景(ひろかげ)という浮世絵師がいたって、私は初めて聞きました。
知る人ぞ知る無名の浮世絵師で、その正体は謎。広景の代表作は、「江戸名所道戯尽(どうけづくし)」。老若男女の江戸っ子たちが、江戸の名所を舞台に、笑ったり、騒いだり、転んだりと、見ているほうが思わず脱力してしまうユーモラスな姿で描かれている。さしずめ「お笑い江戸名称」と言ってよい珍品。
ばかばかしさが満載の「ヘンな浮世絵」です。ぜひ一度、手にとって眺めてみて下さい。ニンマリ、ニッコリ、ホッコリしてくること請けあいです。師匠である歌川広重、そして葛飾北斎の描いた絵を平然とパクっているというのも特色です。
この「ヘンな浮世絵」が描かれたのは幕末のころ、安政6年(1859年)から、文久元年(1861年)までの2年8ヶ月あまり。社会が大きく揺れ動いているなかでマンガみたいな浮世絵が刊行され、江戸町民の人気を集めていたのでした。
犬のケンカがあり、馬が暴れて運んでいた料理が空を飛び、トンビが油揚げをさらっていく。ナマズが蒲焼屋から脱走し、子どもが水鉄砲で遊んでいて通りかかった武士に水をかけてしまう。さらに、いろんな人がすってんころりんしている姿がユーモアたっぷりに描かれます。
東大本郷の赤門(加賀藩前田家上屋敷の御守殿門)前を、男たち3人が突然の雨で、1本の傘しかないので2人が下になって1人を肩車で担いで傘をさす姿が描かれています。ナンセンスなマンガそのものです。幕末のせちがらい世の中だったからこそ、人々はこんな笑いを求めていたのでしょうか・・・。
知っていて損はしません。江戸の人々の生きた姿を実感できる楽しい本です。
(2017年8月刊。1700円+税)

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