弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

世界(ロシア)

2010年8月20日

モスクワ攻防戦

 著者 アンドリュー・ナゴルスキ、 作品社 出版 
 
 ナチス・ドイツがソ連に攻めこんだときの戦闘が紹介されています。 
モスクワ攻防戦は1941年9月30日に始まり、1942年4月20日に終結したとされている。203日間である。しかし、実際には、それをこえた期間に大量殺戮があっていた。両軍あわせると、最高750万人もの将兵が投入され、戦死傷者は合計250万人に達した。ソ連側の戦死者は190万人、ドイツ兵は62万人だった。ドイツ軍の捕虜となったソ連兵96万人は、ほとんど殺害された。ロシア攻防戦のあとに戦われたスターリングラードでは360万人の将兵が戦場に駆り出され、両軍の犠牲者は91万人だった。モスクワ攻防戦のほうが、はるかに多い。モスクワ攻防戦におけるドイツ軍の敗北によって、ドイツ兵の不敗神話が崩れ、その終わりが始まった。
 そして、このモスクワ攻防戦において、日本にいたソ連のスパイであるリヒャルド・ゾルゲの果たした役割はあまりにも大きい。
 日本が、少なくとも1941年から42年にかけての冬季には、東部からソ連に攻め入ることはないとスターリンに最終的に確信させることが出来たのがゾルゲだった。ゾルゲのもたらした最新情報にもとづき、スターリンはソ連西部にあけるドイツ軍との戦闘に投入するため、シベリアの前哨部隊に所属する40万の兵士を大急ぎで送り込む決断を下すことができた。その兵士たちのほとんど全員が直ちにモスクワ防衛に当てられた。
 ソ連極東地域の極寒の気候に耐えうる冬の装備に身を包んだ新たな兵士たちは、ドイツ人侵略者と赤軍のあいだの戦闘の形勢を逆転させるうえで、不可欠の存在だった。すぐに勝利できると信じこんでいたヒトラーは、冬服を支給しないまま、ドイツ兵をソ連に派兵していた。そのため、ドイツ兵は冬の季節に対応するための装備の点で、はるかに勝るソ連兵が大量に投入されるころには、夏服のまま、日に日に低下する気温に苦しめられていた。
この本を読むと、スターリングラード攻防戦よりも、その前のモスクワ攻防戦のほうがはるかにスケールが大きかったこと、そして、ソ連の勝利に日本にいたゾルゲの情勢が大きく貢献したことを改めて認識させられました。
 駐日のドイツ大使に信頼されていたゾルゲは1941年10月に逮捕されてしまいます。そして、日本とドイツの敗色が濃厚となった1944年11月7日のロシア革命記念日に絞首刑に処せられたのでした。今もモスクワにはゾルゲの像と記念碑があります。駐日ソ連大使そしてロシア大使は、ゾルゲの墓参を今も欠かしません。
 モスクワ攻防戦の悲惨な実情が詳細に明らかにされています。モスクワ市民のすべてが勇敢に戦う人ばかりではなかったのです。
 モスクワの人口は、1941年1月に422万人だった。そして、翌1942年1月には半減して203万人でしかなかった。1941年10月、モスクワ市民は雪崩をうったようにモスクワを脱出していった。このころ、モスクワ市民100人のうち98人がヒトラーは遅かれ早かれモスクワを占領すると考えていた。
当初からスターリンは、二つの戦争を並行して戦い続ける必要があるという揺るぎない信念を持っていた。二つの戦争とは、外国の侵略者に対する戦争と、国内の裏切り者や政敵に対する戦争である。要するに、スターリンとその軍隊は、敵味方を問わず、進んで人を殺す死刑執行人だった。ソ連兵は一切の退却を禁じられ、従わなかったときは射殺されることになった。スターリンは、開戦のはるか前、より大勢の軍関係者を処刑していた。これが、ドイツ軍侵攻のときに、ソ連軍が驚くほど準備不足だった最大の理由である。
 軍部が粛清に巻き込まれたとき、NKVDは150万人を検束した。そのうち、あとで釈放されたのは、わずか20万人だけ。その多くは強制収容所に送られた。75万人が射殺された。スターリンは、万一、反乱が起きるとしたら、その指揮をとるのは軍人だと考え、軍部を優先的に粛清の対象とした。実物の武器を持ち、その扱いに長けている集団である軍をスターリンが見過ごすはずはなかった。
 ヒトラーもスターリンも、自分が聞きたくないことについては、部下がいくら説明しても、耳を傾けようとはしなかった。スターリンは、自らの招いた政策の失敗を、ヒトラーの恐怖政治によって挽回することができた。
 モスクワ攻防戦は、実は第二次世界大戦の勝敗を決めた一大決戦だったこと、それを決定したのが日本で活躍していたスパイ、ゾルゲだったことをしっかり認識しました。500頁もの大部な本でしたが、とても読みごたえがありました。 
(2010年6月刊。2800円+税)
 ディジョンはブルゴーニュ・ワインの名産地に接しています。美食で有名な町でもあります。ディジョン駅からも見えるサン・ベニーニュ大聖堂の高い尖塔の並びにあるホテル(赤い帽子)に泊りました。駅から歩いて10分ほど。スーツケースをがらがら引っ張って、辿りつきました。ホテルは高級レストランを併設しているのですが、なんと隣には回転寿司の店もありました。ヨーロッパ式の古いホテルです。
 ディジョンの街を何回となくぶらぶら歩きました。ここは、ブルゴーニュ公国の首都だったところで、その公邸が市庁舎と美術館になっています。その前には広大な広場があり、噴水があって子どもたちが水と戯れていました。
 ここにもノートルダム寺院があり、建物の角にふくろうの彫刻があります。左手をあてて願をかけると願うことがかなうとの言い伝えがあり、すっかり摩耗していました。私も、無病息災を願いました。

2010年2月23日

チェチェン

著者 オスネ・セイエルスタッド、 出版 白水社

 ロシアでチェチェン人というと、いかにもテロリスト集団というイメージです。
 1989年のチェチェン人は人口100万人。戦争が始まって5年間に10万人のチェチェン人が殺された。
 1991年12月にソ連が崩壊したとき、チェチェンは自治共和国としてロシアからの離脱が認められなかった。ドゥダーエフ大統領はかつてソ連軍でただ一人のチェチェン人の将校だった。ところがエリツィンとドゥダーエフは憎い敵同士となった。
 ロシアからの財政支援が大きく削減されたため、チェチェン国内には混沌と腐敗がはびこった。チェチェンの犯罪者集団はモスクワ銀行を襲撃し、10億ドルを強奪してチェチェンに持ち去った。チェチェンの首都であるグローズヌイは、密輸・詐欺・マネーロンダリングのセンターとなり、共和国における政府の権威は失墜していった。
 ドゥダーエフはモスクワに衛星電話をかけていたところ、その信号をキャッチされ、対地ミサイルによって襲撃・暗殺された。ロシア政府が殺したわけです。
 やがて紛争はチェチェン化した。粛清する側もされる側も、ともにチェチェン人なのである。ただし、チェチェンで誰が権力を握るのかを決めるのは、クレムリンだ。クレムリンの忠実な僕(しもべ)たちが暗躍している。白昼堂々、活動することもある。
 2002年10月、モスクワの劇場で、覆面姿の男女40人がステージに飛び乗り、天井に向けて実弾を打った。この犯人グループに共通していたのは、全員が戦争で身内を亡くしていたこと。16歳の少女も2人いた。劇場には観客として800人がいた。3日目の明け方、ロシア軍がテロリスト制圧のためガスを噴射した。占拠犯は全員殺されたが、200人の人質も、銃撃戦に巻き込まれて死んだ。まさしく凄惨なテロでしたね。
 チェチェンのカディロフ大統領は、スタジアムの自分の席で爆殺された。そのスタジアムは、式典のためにつくられたもので、治安部隊が人員と資材のすべてを監視し、エックス線検査もしていた。爆発物は、当日、カディロフが座るはずの席にコンクリートづけされていた。それが出来るのは、防犯手続きを迂回できる人間だけ。つまり、権力当局が容認しなければありえない爆破だった。
 ロシアでは、毎年、人種的な動機による襲撃が5万件も発生している。しかし、襲撃された側が通報するケースは少ない。警察が、被害者より襲った側に同情することがよくあるからだ。記録に残るのは、毎年わずか300件ほどで、人種的動機による殺人事件は50件。加害者はめったに起訴されないし、有罪判決が出るのはもっとまれだ。襲撃の大半は若い男性による。外国人嫌悪に関連する事件の2分の1は、被告が18歳未満のため密室審理となっている。
 コーカサス出身者は全体としてそうなのだが、とりわけチェチェン人は一般のロシア人の憎悪と軽蔑の対象にされている。チェチェン人は、ロシアの年に住民登録したり、子どもを学校に入れたり、仕事を見つけたり、住居を探すのが難しい。
 チェチェン紛争の現地に入りこんでの報告です。まさに憎悪の果てしない連鎖がそこにあります。ぞっとする事態です。チェチェンとロシアの正常化を願うばかりです。
 
(2009年9月刊。2800円+税)

2009年8月22日

カラシニコフ銃 AK47の歴史

著者 マイケル・ホッジズ、 出版 河出書房新社
 ロシアで開発されたAK47を「世界でもっとも愛された民衆の武器」と言っていいものかどうか、私には疑問ですし、ためらいがあります。いわゆる大量破壊兵器ではありませんが、大量殺戮兵器であることには間違いないからです。
 AK47の特徴は、ずば抜けた単純さにある。取り外しのできる部分は8つしかなく、つくるのにも安上がりで、使うのも簡単。あまりに簡単なので、大人だろうと子どもだろうと、非常に基礎的な訓練を受けただけで、毎分600発という膨大な弾丸を発射できるようになる。ほとんどどんな気象条件でも、ものの1分もあれば分解掃除ができる。どんな銃よりも故障が少ない。
 いま全世界に7000万挺のカラシニコフ(AK47)が存在し、使われている。実は、それよりさらに数百万挺が存在する。
 ロシア製の最新型カラシニコフは1挺500USドルする。ブルガリアでは、それが1挺100USドルで売っている。
ドイツの突撃ライフルとソ連のAK47は、外見こそよく似ているが内部はまったく異なっている。カラシニコフの発射メカニズムは、ドイツよりもアメリカに多くを負っていた。その発射メカニズムは、アメリカのMIライフルに似通っていた。カラシニコフがもっとも重要視したのは、簡単さと頑丈さだった。
 ベトナム戦争において、アメリカ軍兵士はM16よりAK47を好んで使った。だから、同士撃ちすることすらあった。
 1960年代を通じて、中国は数100万挺のカラシニコフを製造してベトナムに与え続けた。1970年代、パレスチナの戦闘的グループが、AK47をつかって、テロリズムを印象付けた。1980年代になると、アフリカなどで少年兵士がAK47をつかっていることが大々的に報道され、AK47のイメージがさらに歪められた。
 カラシニコフは、何百万もの人々に解放ではなく流血をもたらし、1990年代になると、絶望の叫びとなった。
 日本でもAK47が氾濫する時代が到来しないことを願うばかりです。
(2009年2月刊。1600円+税)

2007年11月13日

プーチン政権の闇

著者:林 克明、出版社:高文研
 プーチン大統領の支配するロシアって、本当に底知れない恐ろしさをもつ国だとつくづく思いました。もっとも先日みたアメリカ映画『グッド・シェパード』で描かれていたCIAの暗躍ぶりと対比させると、アメリカもロシアと同じような強暴な国だと思いましたが・・・。
 邪魔者は消せ。ロシアは、このひと言に言い表せるような、暗殺天国になってしまった。政府・軍・警察・官僚の不正をあばこうとする人物が、次つぎに消えていく。
 2006年10月7日、チェチェン戦争報道でプーチン政権を痛烈に批判してきたアンナ・ポリトコフスカヤ記者が自宅アパートエレベーター内で射殺死体となって発見された。
 11月23日、ロンドンに亡命していた元FSB中佐のアレクサンドル・リトビネント氏が放射性物質ポロニウム210を盛られて死亡した。
 2004年9月、南ロシアで起きた学校人質事件では、武装勢力が子どもたちを人質にとり、特殊部隊の突入で、330人が犠牲となった。この学校占拠グループで指揮していたのはロシア人である可能性が高く、犯人のかなりの部分を地元民が占めている。何らかの謀略の可能性は相当高い。
 最初の攻撃がゲリラ側からではなく、ロシア諜報部からのものであった。330人もの人質の死の責任はロシア治安部隊にある。
 そうだったのですか。それにしてもむごい事件でした。テロリストが劇場や学校を占拠し、特殊部隊が突撃して「解決」を図るなんて、考えただけでもぞっとします。
 第一次チェチェン戦争は、エリツィン大統領再選のために必要だった。第二次チェチェン戦争はエリツィン大統領が自ら選んだ後継者であるプーチン首相が世論調査で順位を上げるために必要とされた。
 ロシアでは、もう長いこと公式には死刑が執行されていない。しかし、ロシアの特務機関は、邪魔な人々を裁判後に殺してきた。裁判によらない処刑が行われている。
 1994年に戦争が始まって以降の歴代独立派チェチェン大統領は、全員殺害されている。「独立宣言」したドゥダーエフ大統領、あとを継いだヤンダルビーエフ大統領代行、史上初めて民主的な選挙で当選したマスハードフ大統領。さらに、ゲラーエフ国防大臣、有名なバサーエフ野戦司令官。日本の岩手県ほどのチェチェン共和国で、2000年から2004年末までのあいだに、1万8000人が行方不明になっている。
 ひゃあ、チェチェン共和国って、岩手県くらいの大きさしかないのですか・・・。そこから「テロリスト」が東京にやって来る構図を描いたら、ぞっとします。まさに、報復の連鎖しかありませんね。
 2006年に「国境なき記者団」が発表した報道の自由ランキングでは、168ヶ国中、ロシアは147位。プーチンが権力の座についてからのロシアでは、戦場でなく、平時にジャーナリストが暗殺されている。世界でジャーナリストにとってもっとも危険な国のトップはイラク、2位はアルジェリアで、3位はロシアである。
 いやはや、ホント、恐い、怖い、ゾクゾクしてきました。
(2007年9月。1200円+税)

2007年7月 3日

赤軍記者、グロースマン

著者:アントニー・ビーヴァー、出版社:白水社
 大変面白い本です。いえ、単に面白い本だというと、顰蹙を買ってしまうでしょう。なにしろ、独ソ戦を、赤軍に従軍した記者として描いたグロースマンの生涯を追いかけて明らかにする内容ですので、ずっしりとした重味があります。戦争の悲惨さ、ユダヤ人迫害の実情を深く知ることのできる本です。
 グロースマンは、ユダヤ人でした。スターリンの圧制下に、幸運にも辛うじて生き延びることができました。きっとグロースマンの書いた記事がソ連の民衆に評価されていることをスターリンも無視できなかったのでしょう。
 独ソ戦の初期、スターリンの判断の誤りにより、ソ連軍は壊滅的な敗北を続けました。50万人ものソ連軍捕虜が出て、ドイツ国防軍から残虐な処遇を受けます。生き残った人々は、今度はスターリンから残酷な扱いを受けることになりました。
 そのソ連軍連敗のまっただ中にグロースマンも従軍していましたから、リアルな描写となるのも当然で、読者の評判となりました。
 グロースマンは、壕内の灯心ランプのもとで、野外で、ベッドに寝ながら、すし詰めの農家で、どんな悪条件のなかでも記事を書く特技を身につけた。ただ、筆は遅かった。
 グロースマンは、スターリングラードの戦いにも従軍しています。
 ドイツ軍は、防御陣地をなるべく居心地よく構築しようとした。それを見て、粗末な待遇に慣れていた赤軍兵士はいつもびっくりしていた。なにしろ、赤軍兵士は、零下35度の酷寒のなか雪の上で寝ていたのです。赤軍兵の多くが最大の執念を燃やしたのは、アルコールまたはその代用品の入手だった。
 スターリングラードでは、赤軍兵士が前線から恐怖のあまり逃亡するのを阻止するため、NKVDとコムソモールの逃亡阻止部隊が活躍した。前線の赤軍兵士は、前方にナチス・ドイツ軍がいて、後方には阻止部隊の銃が待ちかまえるなかで戦争させられた。スターリングラード防衛を補強したのは、非情な軍紀だった。戦闘の5ヶ月間に1万 3500人もの赤軍兵士が処刑された。その大部分は初期のころであり、このころは士気が阻喪した兵士が多かった。脱走を試みた戦友を阻止・殺さなかった兵はすべて共犯とみなされた。銃殺されるか、懲罰大隊へ送られた。それは、実質的に死の宣告にほかならなかった。いつも一番危険な任務を与えられ、攻撃する部隊の戦闘に立って地雷原を通過させられた。懲罰大隊の死者は42万 2700人にのぼる。
 その一方、スターリングラードでは女子高生が大活躍していた。女子高生の操作する高射砲隊はおどろくべき奮戦ぶりを見せ、37の砲座が戦車砲で全部破壊されるまでドイツ第16装甲師団の進撃をくい止めた。
 若い女性衛生兵の勇敢さは、全員の尊敬の的となった。第62軍衛生中隊の隊員の大多数はスターリングラードの高校生か卒業生だった。負傷した若い女性がグロースマンの取材に応じた。
 以前あたしが想像していた戦争は、すべてが燃え、子どもらが泣き、ネコがそこらじゅうを走り回るというものだった。スターリングラードに来てみると、すべてがそのとおりで、ただ、もっと悲惨なものだと分かった。
 ただし、ソ連軍にはペペジェと言われる女性たちがいた。陣中妻のことである。高級将校たちは、看護婦や司令部勤務の通信兵や事務員などの女性兵士をメカケとしていた。
 映画『スターリングラード』は狙撃手ザイツェフが主人公でした。グロースマンも狙撃手ザイツェフを取材しています。しかし、ドイツ軍の狙撃手が「ベルリン狙撃手学校」の指導者だったとか、数日間にわたって狙撃手同士の対決が続いたというのは、まったく宣伝バージョンのフィクションのようです。
 ソ連軍の狙撃手が水を運ぶ兵士を片っ端から射殺するので、飲料水欠乏に悩むドイツ軍は一片のパンで現地住民の子どもを買収し、ヴォルガ川への水汲みに行かせた。狙撃手は理由のいかんを問わず敵に協力する民間人は、たとえ子どもであっても射殺せよとの命令が与えられていた。悲惨な話です。
 ここでは数メートルの移動が通常の野戦の条件下での数キロメートルもの移動に匹敵する。隣の建物に立てこもる敵との距離は20歩ほどしかないこともある。師団司令部は、敵から250メートルの距離にある。各連隊や大隊の指揮所も、肉声で簡単に連絡できる。呼べば聞こえるし、そこからも肉声で大隊に伝達できる。
 スターリングラードの息詰まる戦いが想像できます。
 ソ連兵士は、一般に手足を失ったり歩行不自由になるのを死よりも恐れた。四肢を全部失った将兵はサモワールと呼ばれ、首都でうろつかれては見苦しいという理由で、一斉取締の対象となり、極北に移送された。傷痍軍人に対する戦後のソ連当局の処遇は信じられないほどひどいものだった。
 ユダヤ人のグロースマンは、ナチスによるユダヤ人迫害の事実を当然のことながらニュースとして知らせようとしました。しかし、スターリンがそれを認めませんでした。ユダヤ人が被害者であるという発表は禁じられたのです。これにはウクライナ人がユダヤ人の迫害に一役買っていたという事情もありました。
 1944年になると、赤軍派いつのまにか強大な戦闘マシーンと化していた。ソ連の装甲戦力は、ウラルの彼方から続々と送られてくる戦車で絶えず補充されていた。そして、アメリカから供給される車輌によって、赤軍はドイツ軍をはるかに上まわる機動力を獲得した。アメリカの援助は赤軍の急速な前進と中部ヨーロッパの制圧に大いに貢献した。これは今もロシアの歴史家の認めたがらない史実である。
 ずしりと重たい500頁の大作です。読みごたえがあります。
 著者のアントニー・ビーヴァーの『スターリングラード1942ー1943』、『ベルリン陥落、1945』もあわせて一読をおすすめします。
 ヒトラーとスターリンについて知りたかったら、これらの本は必読だと私は思います。

2007年4月 2日

マイナス50℃の世界

著者:米原万里、出版社:清流出版
 江戸時代、大黒屋光太夫は伊勢の港から江戸へ向かう途中、嵐にあってアリューシャン列島に流されてしまいました。そこからカムチャッカにわたり、当時のロシアのペテルブルグ(今のサンクトペテルブルグ)に向かい、そこで女帝エカテリーナに会って帰国の許可を得ました。大黒屋光太夫が大変難儀した冬の旅程をTBSが再現しようとしたのに著者が通訳として同行したのです。
 ヤクーツクの冬は、日照時間が一日4時間ほど。太陽は午前11時に顔を出したかと思うと、午後2時には隠れてしまう。18時間の夜と6時間のたそがれ時からなっている。
 マイナス40度になると居住霧が発生する。人間や動物の吐く息、車の排気ガス、工場の煙、家庭で煮炊きする湯気などの水分が、ことごとく凍ってしまってできる霧のこと。冬には風は吹かない。この霧が出ていると、視界はせいぜい4メートルほどになってしまう。前を走る車の排気ガスのため、1メートル先が見えなくなる。怖いですね。
 地表面は凍土が凍ったり溶けたりするので、建物は土台からねじれひん曲がり、どんな建物でも50年ともたない。
 しかし、最近のビルは4〜5階建てのコンクリート住宅。凍解をくり返す層よりさらに深い15メートルほど杭をうちこみ、地表面から2メートルほどの高さの杭にビル本体の基礎を置く。つまり高床式のビルをつくるわけ。基礎の杭を固定するには、塩水を隙間に流すだけ。すぐに凍って杭をしっかり支える。
 マイナス50度の戸外で働く労働者は40分間、外で作業すると、20分間はあたたかい室内に戻って身体を温めるというサイクルで仕事をする。
 ヤクートは、世界有数の鉱物資源大国。トンネルや鉱山などの坑道は、掘るのは大変だが、ひとたび出来たら凍結しているので、支えは不要。落盤事故もない。
 氷上で釣りをする。魚がかかったら引きあげる。ピクッピクッ。そして三度目にピクッとする前に魚は凍ってしまう。10秒で天然瞬間冷凍になる。
 マイナス50度の野外ではスキーやスケートはできない。寒いと氷はすべらない。あまりに寒いと、まさつ熱では氷がとけないので水の膜もできないから、スケートもスキーもできない。
 現地の人の家は三重窓の木造平屋。マイナス50度でも、洗濯物は外に干す。トイレは室内になく、すべてこちこちに凍るので臭気はまったくない。うーん、困っちゃいますよね。お尻をマイナス70度にさらすなんて・・・。
 ビニール、プラスチック、ナイロンなどの石油製品はマイナス40度以下の世界では通用しない。ひび割れ破れ、パラパラと粉状になってしまう。現地の人は人工繊維は一切着ない。帽子も手袋もオーバーもブーツも、全部毛皮。下に身につけるのも純毛と純綿。毛皮はぜいたく品ではなく、生活必需品。酷寒のヤクートで育った獣たちの毛皮は、毛並がたっぷり豊かで、密。現地の人がはいている膝まである毛皮のブーツは、トナカイの足の毛皮で作るに限る。
 こんな寒い国に生きている人々なのにロシア第二の長寿国だ。不思議なことですね。
 著者は昨年5月、がんのため亡くなられました。愛読者の一人として、その早すぎた死が惜しまれてなりません。この本は、著者がまだ30代の元気ハツラツな女性だったころに小学生向けに書かれた紀行文をまとめたものです。文才があることがよく分かります。おかげでマイナス50度の驚異の世界を知ることができました。

2007年2月21日

プーチンのロシア

著者:ロデリック・ライン、出版社:日本経済新聞出版社
 エリツィンは共産主義打倒に全身全霊で打ち込んだ。そしてある程度の成功を収めた。その後も共産党はロシアの政界で相当の組織力を維持している。しかし、1996年の大統領選挙でエリツィンがジュガーノフに勝ってからは、ロシアが共産主義イデオロギーや計画経済に復帰する可能性はなくなったようだ。
 共産党の幹部や議員は、政権を黙認することで特典にありつける現状に満足しているようだ。
 エリツィンが共産主義に対する勝利を得た代償として、民主主義と経済は犠牲にされた。1996年にエリツィンが再選されたのは、ごく少数の財界人たち、のちに新興財閥(オリガルヒと呼ばれる)による資金援助とテレビ支配のおかげだった。
 プーチンはチェチェンに対するロシアの反撃を指揮した。それは長い屈辱の日々の終わりかと思え、その効果によって、国民のあいだにプーチンについて、強固な意志と実行力を兼ね備えた人物だというイメージが生まれた。
 プーチンの個人的人気こそ、プーチンの二大資産の一つだ。もうひとつは、大統領という地位そのものにある。
 ロシアでは、下院の議席は多くの議会人にとって実入りのいい収入源と化していた。下院の独立性は次第に失われていった。
 ロシアは理想にはほど遠い状態にある。今なお組織犯罪や契約殺人が頻発している。それでも、他の過渡期にある国や新興国に比べると、公正で迅速な裁判が受けられると考えられるようになった。
 ユコス事件で経営者が逮捕されたことから、プーチンに対して本気で挑戦する者は容赦されないことが明らかになった。見せしめとして狙い撃ちされたのだ。
 プーチンの「統一ロシア」は3000万人の党員確保を目ざしている。旧ソ連の共産党員は2200万人だった。
 男女あわせると100万人をこす軍人がいるし、退役軍人も数百万人いる。
 かつて軍は権力装置のひとつであり、国の誇りであり、社会の中心的な支柱だった。しかし、現在の軍には、その面影はない。徴兵者の大部分は入隊を拒み、実際に入隊した若者はひどい虐待を受け、軍とは関係のない建設現場で働かされたりする。
 ロシア国内には400をこえる大規模犯罪グループが存在し、およそ1万人が関わっており、国家的脅威となっている。
 実際の法執行はきわめて弱く、末端レベルでは贈収賄が横行している。
 ロシアの人口は1億4300万人。1993年から500万人も減った。今も、毎年 70万人ずつ減り続けている。2010年からは年に100万人ずつ減っていくと予測されている。えーっ、それはすさまじいことです。
 男性の平均寿命は59歳となった。1980年代初めは65歳だったのに・・・。自殺は5万9000人。殺人による死は4万7000人。アル中による中毒死は6万7000人。
 ロシアの軍需生産の5割以上が輸出向けで、年平均10億ドルもの兵器を購入する中国が最大の輸出国。
 ロシアでは政治的自由がしだいに制限されていっている。KGBの後継機関(FSB)が息を吹き返し、法と説明責任をこえて活動している。
 私は、もともと旧ソ連に社会主義なるものがあったとは思いません。そこには社会主義に名を借りた封建主義があったと思います。そして、今は、資本主義の名のもとにとんでもない自由放任主義、すなわちお金と力(暴力)をもつものが社会にのさばっている現実があるとしか言いようがありません。
 ロシアの現実を知ると、「社会主義はダメだ。資本主義、万歳」だなどと叫ぶ人の気がしれません。

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