弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2014年12月 1日

わたしたちの体は寄生虫を欲している

人間


著者  ロブ・ダン 、 出版  飛鳥新社

 1850年のアメリカの平均的寿命は40歳。1900年に48歳となり、1930年に60歳に延びた。
 いま、北米には60万人のクローン病患者がいる。クローン病は遺伝的傾向があり、タバコを吸う人に発症しやすい。クローン病にかかった人の家には、必ず冷蔵庫がある。
 このクローン病の原因は、寄生虫が体内に存在しないことではないか・・・。免役システムが機能するには、寄生虫の存在が必要なのだ。寄生虫がいなければ、免疫システムは無重力状態に置かれた植物のようになる。
 寄生虫は万能薬ではなく、誰にでも効果があるわけではない。
 人間の腸には、1000種類以上の細菌が棲んでおり、人体の他の場所にはさらに1000種が生息している。それらのほとんどは、見つかった場所でしか生きられない。
 パスツールは、細菌と人間は相互に依存して進化してきたのであり、腸内の細菌を殺せば、人も殺すことになると述べた。
 シロアリは腸内の細菌が死ぬとまもなく死んでしまう。細菌がいないと、分解しにくい好む食べ物を消化できないからだ。
 おとなの犬は牛乳を消化することができない。乳牛、ブタ、サル、ネズミなど、哺乳類の成体すべてに言える。哺乳類にとって、乳はあくまで赤ちゃんの飲み物なのだ。
人間の祖先たちも牛乳を消化できなかった。しかし、今日、西洋人の大半は、おとなになっても牛乳を消化することができる。マサイ族は、牛の群れを追って移動しながら暮らし、大量の牛乳を飲む。
 サバンナザルは、「ヒョウ」「ワシ」「ヘビ」という三つの言葉をもっている。おそらく人間の祖先も同じだ。そして、その次は「走れ!」という動詞だった。
 チンパンジーは、一般に高さ3メートル以上のところに巣を作る。それは、ヒョウがジャンプできる高さより上だ。
地上で暮らすようになってから、ゴリラは大きく強くなった。それは、捕食動物に対する防御手段だろう。
 人間の出産は午前2時前後が多い。夜中に赤ちゃんを産むのは、その時間帯なら周囲に身内が集まって眠っていて、何かあれば、起きて出産途中の母子を守ってくれるからだ。
進化の途上において、体にいい食べ物を美味しいと感じた人は、生きのびる可能性が高かった。舌は、人間の祖先をおだてて、正しい選択をするように導いた。味蕾が脳に味を感じさせるのは、食べ物の取捨選択を誘発するため。
 人間の祖先がまだアフリカにいたころ、体毛がなくなると同時に、皮膚のすぐ下の細胞でメラニンが生成されるようになり、肌が黒くなった。その後、祖先の一部は暑い気候の土地を離れていったが、メラニンは相変わらず日光を遮り続けた。日光が遮断されると、体はビタミンDを生成することができない。日照量の少ない地域に移住した祖先のうち、肌が黒い人ほどくる病にかかりやすかったので、白い肌の遺伝子が優勢となった。
そもそも体毛を失わなければ、人類の肌の色はこれほど変化に富んでいなかった。
 人間と細菌、寄生虫の関係をよくよく考えさせてくれる本でした。
(2013年8月刊。1700円+税)

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2014年12月 2日

引き裂かれた青春

日本史(戦前)


著者  北大生・スパイ冤罪事件の真相を広める会 、 出版  花伝社

 特定秘密保護法が成立し、12月10日に実施されます。安倍内閣の戦争する国・日本づくりの一環として出来た法律です。
 国家権力に都合の悪いことは何でも隠してしまおうというわけです。そして、少しでも自由に意見を言おうというものなら、有無をいわさず捕まえて、社会的に抹殺しようとするのです。
 その犠牲者の一人が、北大生だった宮澤弘幸氏でした。特定秘密保護法が施行されようとする現在、戦前のスパイ冤罪事件を振り返って見ることには大きな意義があります。
 宮澤弘幸氏は、北大工学の学生だった。1941年12月8日に軍機保護法違反で検挙され、翌1942年4月9日に起訴され、懲役15年の景が確定し、網走刑務所に収監された。宮城刑務所に移され、敗戦後の10月10日に釈放されたが、1947年2月に死亡した。
 この宮澤弘幸氏が検挙された12月8日という日は、まさしく日本が真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突入した当日です。全国の特高警察は、この日、111人を検挙しています。
 この事件では、人が突然、理不尽にいなくなるところから始まった。そして、周囲の人は、そのことについて口を閉ざし、いなくなった人に、ことさらの無関心を装った。
 みな、次に逮捕されるのは自分かもしれないと思うと、恐怖心で一杯になった。友の身を案じる余裕さえ失っていた。
 当局は戦争を推進するに当たって、あえて反対する存在を捏造して国賊とし、もって戦争推進の世評を強くすることを狙った。
 全国津々浦々に「防諜委員会」なるものが設けられ、年間3147回もの「防諜講演会」が開かれ、それには81万人を動員した。
 この北大生・宮澤弘幸氏の裁判については、起訴状をふくむ捜査・公判記録の一切が失われ、判決文すら完全な形では残っていない。敗戦のどさくさに乗じて、それを保存すべき国家権力が自らの保身のために破棄隠滅してしまっていた。
 北大で教えていたレーン夫妻の自宅を見張るために、特高警察はアジトを構えていた。
 出入りするものを昼夜にわたって監視し、尾行したり、出入りする人物の所在・動向を確かめていた。宮澤弘幸氏は、警察から苛酷な拷問を受けた。
 両足首を麻縄で縛られ、逆さに吊されて殴られた。両手を後ろに縛られ、それに棒を差し込んで、痛めつけられた。
 そして、裁判は、すべて非公開だった。世間に公知の事実であっても、軍が秘密だといったら秘密なのである。しかも、そのとき、何の理由も根拠も示す必要がない。絶対的な秘密なのである。
 実は、宮澤弘幸氏は、大東亜共栄圏構想に共感し、日本人優秀・指導者論の考えの持ち主だった。つまり、時代の子だった。日本軍を信じ、親近感を持っていたのだった。
 宮澤弘幸氏は、戦後、亡くなる前に次のように語った。
 「ぼくの唯一の罪は、英語やフランス語やイタリア語を学び、外の世界を知ろうとして、札幌の数少ない外国人と仲良かったことだった」
 刑務所から出てきたとき、宮澤弘幸氏は、身体がなかった。ぺちゃんこの布団だった。声がことばにならなかった。23歳のはずが、まるで50歳のように見えた。口に歯は一本もなく、肌の色は黄色く、水膨れした体だった。
 戦前の進取の気性に富んだ前途有為の人材が、軍部の戦争推進のための犠牲にさせられたことがよく分かる貴重な本です。
 上田誠吉弁護士(故人)の著作を補完するものでもあります。ぜひ、ご一読ください。
(2014年9月刊。2500円+税)

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2014年12月 3日

ルポ・罪と更生

司法


著者  西日本新聞 社会部 、 出版  法律文化社

 高齢者がスーパーで1000円ほどの万引きをしたという国選弁護事件をよく担当します。
 初犯なら、もちろん執行猶予ですが、何回もやっている人が多くて、かなりの確率で実刑となり、刑務行きとなります。
 犯行額1000円で、国選弁護料が6~8万円、刑務所に1年間入ったら一人につき300万円ほどかかります。むなしさを実感させられることの多いケースです。生活が苦しければ生活保護、心のケアが必要なら、それ相応の施設に入ってもらうようにしないと、この社会のシステムとしてはうまくないように思います。
 刑務所が「姥捨山(うばすてやま)」のようになっている。
 2012年に収監された受刑者2万5千人のうち、60歳以上が4千人をこす。全体の16%。
 2003年の3千人に比べて、4割増。高齢者の受刑者が増え続けている。
 2012年に検挙された再犯者は全国で13万人、再犯率45%。刑務所に入ったことのある再入所率も58.8%と増え続けている。
 知的障害者も6千人をこえ、全体の4分の1に近い。
 女性の収容者は、2012年に5千人をこえた。10年間で、1.5倍となっている。
 刑務所には収容されている60歳以上の高齢者の比率が日本で16%なのに、似たような状況にあるイタリアではわずか4%にすぎない。
 ノルウェーも福祉国家と言われ、高齢受刑者・犯罪者が少ない。それは高齢者が年金で経済的に困らないうえ、医療から図書館まで、受刑者も一市民として同じサービスを受けられるから。イタリアでは刑罰の目的は更正だと憲法に明記している。
 このほか、死刑問題を扱うなど、新聞記事としては、かなり深く問題点を掘り下げる内容になっていて、大変勉強になりました。
 犯罪に走った人の更生問題に関心のある方には必読文献だと思います。
(2014年8月刊。2300円+税)

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2014年12月 4日

浮浪児1945~

日本史(戦後)


著者  石井 光太 、 出版  新潮社

 終戦直後、12万人以上の戦災孤児が生まれた日本。その中心、焼け跡の東京に生きたら子どもたちは、どこへ「消えた」のか。
 これが、この本のオビのフレーズです。戦災孤児となった子どもたちのその後を追跡しています。
戦災孤児となり、生きていくのが辛くて、自殺してしまった子どもたちもたくさんいました。
 女の子はやはり男の子以上に大変だったようです。それでも、たくましく生きのびた子どもがいたことを知り、いくらかの救いも感じました。
 子どもたちにあたたかい救いの手を差しのべた人もいたようです。
 1945年10月。上野駅では2日に1人の行き倒れを処理していた。11月になると、浮浪者の餓死体は、多い日には6人もいて、一日2.5人が平均だった。1ヵ月にして、餓死者が7~80人も出た。浮浪児のなかでは、か弱い子どもが真っ先に命を落としていた。
上野の地下道に大勢の浮浪児が集中した。働き先は二つ。上野のヤミ市と浅草の商店。
 ヤミ米の担ぎ屋を一部で担う浮浪児もいた。
 浮浪児たちは、靴みがきと並んで新聞売りに従事した。新聞を1部10銭で仕入れて、通行人に1部20銭で売る。1日に50部から100部売れたら食べていくことができた。
 地下道暮らしでも、仕事をしている限りは三食を十分に食べていけた。
孤児院に収容されると十分に食べられず、施設の職員に殴られる。だから、浮浪児たちは孤児院に収容されることを嫌がり、警察に保護されても、脱走して路上に戻ろうとした。
浮浪児にはお金を貯めるという発想がなく、あまった分は地下道の友人や知人におごったりして使い果たしてしまうのが常だった。
 浮浪児たちは傷痍軍人たちと仲良くしていた。
 浮浪児は一日の仕事が終わると、ホンモノの傷痍軍人のところに行って食べ物をあげた。そのお礼に読み書きや英語を教えてくれた。戦争に駆り出されて傷害を負う前は普通の社会人だったから、頭の良い人もたくさんいた。だから、子どもたちに勉強を教えてやっていた。
 戦後になって地方から上野にやってきたワルたちは、家出組が大半だった。「ノガミ」(上野のこと)へ行って「一旗あげよう」と上野へやって来た。
ヤクザは不良少年を利用して、ショバ屋、ブーバイ、ダフ屋を営んだ。ブーバイとは、上野発の乗車券を買い占めて、高値で売る商売のこと。
 犯罪性が高く、人気があったのが集団スリ。スリの学校まであった。
 1946年から、警察は上野の浄化作戦にとり組んだ。1回の狩り込みで、冬だと4千人、春でも2千人ほどの浮浪者が検挙された。警察は、浮浪者を、大人、子ども、病人と分け、行き先別にトラックの荷台に載せて連行した。
この本を読んで、もっとも感銘を受けたのは、次の指摘です。これだけでも、この本を読んで良かったと思いました。
 戦災孤児は、空襲で両親が死ぬまでは普通の家庭で育っていた。親に愛され、兄妹と仲良く遊び、おじいちゃん、おばあちゃんに可愛いがられた。だから、人間としての根っこがしっかりしている。たとえ戦争のせいで何年か上野で浮浪生活をしたとしても、施設に住まわせて、ちゃんとした環境さえ与えれば、それなりにがんばって生きていける。
家庭の愛情でなくたっていい。友人や見知らぬ大人からでもいいから、子ども時代に多くの愛情をきちんと受けてきた記憶があるということが大切。そういう経験があるからこそ、浮浪児だった子どもたちは、学がないのに社長になって社員に愛情を注ぎながら引っぱることができていたし、収入も乏しいのに結婚して努力に努力をつみ重ねて、子どもをきちんと育てることができた。
 ところが、現代の虐待を受けた子どもたちは、どこかで心が折れ、何もかも投げ出してしまっているので、最後までやり遂げることができない。
 子どもは家族から愛され、周りの人に恵まれることによって初めてしっかりとした自我が生まれる。人を愛し、自分を制御し、生きるということに向かって進んでいくことができる。
このことが実証されている本として一読に価すると思いました。
(2014年10月刊。1500円+税)
イチョウについての本を読みながら上京したところ、日比谷公園の大銀杏は見事に黄変していました。黄金色というのか、山吹色というのでしょうか、壮観でした。
 憲法改正を許さない取り組みをすすめていくための会議に参加したのですが、総選挙の投票率が低くなることをみんなで心配していました。小選挙区制というマジックもありますが、選挙で信任を受けたとして集団的自衛権を認めるための法改正は許せません。
 国の根本のあり方が問われている選挙でもあります。投票所に足を運びましょうね。

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2014年12月 5日

二・二六事件と青年将校

日本史(戦前)


著者  筒井 清忠 、 出版  吉川弘文館

 青年将校の過激な言動を考えるときに忘れてはいけないのが、その当時の社会状況。
 第一次世界大戦(1941~18)のあと、多大の死者・犠牲者を出したことから、戦後は世界的に反戦平和・軍縮ムードとなった。
 ワシントン海軍軍縮会議(1921~22年)は、海軍の軍縮がやられ、次いで陸軍の軍縮(1925年)が行われた。山梨軍縮(1922年)では、将校2200人、准下士官以下6万人、馬匹1万3000頭が整理された。宇垣軍縮(1925年)では、4個師団が廃止となり、将校1200人、准下士官以下3万3000人、馬匹6000頭が整理された。この結果、9万6400人、全体の3分の1の軍人が首切りにあった。
 陸軍士官学校を出て、職業軍人の道しか考えたことのない将校たちは、十分な再就職先も配慮されなかったため、社会に放り出されて途方に暮れた。
 そして、社会全体として軍人の社会的地位が下落し、軍人受難時代となった。
 陸軍省などに勤める者は、通勤途上で嫌がらせを受けるので、私服で通勤し、登庁してから軍服に着替え、帰宅時に私服に着替える有り様だった。
 給与も低いので、若手将校の「嫁不足」が深刻化し、前途に希望を失い、「自我」「人間」の問題に悩む青年将校が激増した。
国家改造運動に加入しようという青年将校たちが現れた背景には、こうした軍人たちを追い詰める社会的状況が存在していた。
 加藤高明首相の護憲三派内閣の下で、大正14年(1925年)に普通選挙法が成立した。第一回の普通選挙の実施は昭和3年(1928年)だが、法律が成立してすぐから、各政党は大量に増えた有権者の獲得に向けて動き出していった。大量の選挙民を奪い合う選挙戦は一掃の政治資金を要することになり、疑獄事件が頻発した。また、選挙に勝利するための官僚の政治的利用・正当化は露骨きわまりないものとなった。
選挙を扱う内務省の中では、知事から署長・巡査に至るまで、政友会か民政党かに色分けされた。
 国民の政党政治への不信感は巨大なものとなっていった。
 薩長藩閥政府において、明治以来、海軍では山本権兵衛を中心にした薩摩閥の勢力が強かった。陸軍は山県有朋を中心にした長州閥によって牛耳られてきた。この長州閥は、岡山出身ながらそれを受け継いだ宇垣一成閥へと転換した。
これに対抗したのが九州閥だった。上原勇作、宇都宮太郎、荒木貞夫、真崎甚三郎らである。
 永田鉄山は、結果として陸軍の派閥化を推進した人物である。皇道派と統制派の対立が激しくなったころ、永田は陸軍の派閥解消を提言した。しかし、二葉会、木曜会、一夕会の結成に積極的に動いた永田には、それを言う資格はない。
 二・二六事件の首謀者の青年将校たちは、日露戦争前後から大正初期に生まれ、10代後半の青春期を大正後期から昭和初期にかけて迎えている。自らの存在を根源から脅かすものの中に生きることによって昂進化された危機意識が、昭和恐慌期の悲惨な下層階級に遭遇したことにより限界を突破しようとしたのが青年将校の昭和維新運動であり、二・二六事件だった。
 ほとんどの青年将校が軍縮期に軍人としての生き方に懐疑心を抱きはじめており、社会問題に関心をもったのが初年兵教育においてであった。
 青年将校の出身地としては東北出身者より九州出身者が多い。無期以上の20人のうち7人が九州出身者である。
 青年将校の一人の言葉は驚くべきものです。
 「日本は天皇の独裁国であってはなりません。天皇を政治的中心とした一君と万民との一体的立憲国であります。しかるに、今の日本は何というざまでありましょうか。天皇を政治的中心とさせる元老、重臣、貴族、軍閥、政党、財閥の独裁国ではありませんか。いやいや、よくよく観察すると、この特権階級の独裁政治は、天皇をさえないがしろにしているのでありますぞ。天皇をロボットにしたてまつって、彼らが自恣専断を思うままに続けておりますぞ」
 「天皇陛下、何という御失政でありますか。何というザマです」
 「日本国民の9割は貧苦にしなびて、おこる元気もないのでありますぞ」
 二・二六事件の深層を知ることが出来ました。それにしても、この二・二六事件によって、軍部独裁がますます強まる一方、軍部内部で無責任体制が強まり、日本を戦争にひっぱっていったのですよね。安倍政権の生きつく先は、こんな無責任政治でしょう。許してはなりません。
(2014年8月刊。2600円+税)

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2014年12月 6日

イノセント・デイズ

司法


著者  早見 和真 、 出版  新潮社

 「整形シンデレラ」と呼ばれた鬼女。彼女が犯した「罪」を、あなたは許せますか?
 オビに書かれている問いかけは、この本を読むにつれ、次第に答えるのが難しくなっていきます。果たして彼女は、「鬼女」だったのか。
 こんな少女(あるいは女)なんか、さっさと死刑にしちまえ、裁判なんか手間ひまかけるだけ、税金のムダづかいだ。
 本当にそうなのか・・・?
 次第に、彼女の犯した「犯罪」の深層が暴かれていきます。不仕合わせな家庭は、さまざまな状況から、そうなっている。それが、ひとつひとつ丁寧に描かれていくのです。
 子どもが本当に親あるいは誰か大人から愛され、大切に見守られていたのなら、きっときっと大きくなっても自分を信じて、生きていくことが出来る。しかし、その愛情が薄く、かえってひどく虐待されていて、すがるところ、頼るものがいなかったときに、人間はいったいどうしたらよいのか・・・。少しずつ、家庭の闇に迫っていくのです。
 鹿児島から博多までの新幹線の中で夢中になって読みふけるうちに、終点の博多に着いてしまったのでした。
 「犯罪」は、なぜ起きるのか・・・?早く死にたいという死刑囚が、なぜ存在するのか・・・?
 死刑囚に対して刑の執行をする拘置所の職員はどんな気持ちで任務を果たしているのか・・?
 いろんなことを考えさせられる小説でもありました。重たいテーマですけど、この現実から目をそらすわけにはいかないのです。
(2014年8月刊。1800円+税)

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2014年12月 7日

やさい学園(1)

生き物


著者  前原 三十日 、 出版  秋田書店

 いやあ、面白くて、勉強になるマンガ本です。著者は大牟田市出身とのことです。
 やさい学園というから、何の話だろうと思うと、野菜たちが主人公なのです。
 立派な野菜になるべく、日々、勉学に勤しんでいる、いろんな野菜が擬人化して登場します。主人公は、恥ずかしがり屋のシイタケ。ハラタケ目キシメジ科だ。
当学園では、完璧な野菜になるべく、さまざまな知識を学び、どこに出しても恥ずかしくない、立派な野菜に育てる。
 ここに、入学したからには、悔いのないよう、目標の料理に合うような野菜に育ってほしい。シイタケの旬(しゅん)は春と秋。春は身が締まってうまみがあり、「春子」と呼ばれ、秋は香りが良く、「秋子」と呼ばれている。
 基本は四コマ・マンガなのですが、ちゃんと学園ものとしてのストーリーがあって笑わせるのです。そして、野菜のことが、笑っているうちに身についていくという、大変なマンガ本なのです。
 ぜひ、あなたも手にとって(買って)読んでみてください。
(2014年9月刊。429円+税)

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2014年12月 8日

ミッキーマウスのストライキ

アメリカ


著者  トム・シート 、 出版  合同出版

 アメリカにも労働組合がありますし、ストライキもあるようです。でも、あのウォルト・ディズニーのスタジオに労働組合があり、ストライキを決行し、デモもしていたというのです。
 1941年のディズニー・ストライキに参加し、ウォルト(経営者)側についたアニメーターたちは、著者の目を見て話すことが出来なかった。視線が床を泳ぎ、口ごもったり、うなったりする。ところが、ストライキに参加した人たちは、視線がまっすぐで、静かな自信が感じられた。老年にもかかわらず、目の輝きは失われず、天下のディズニー・スタジオを活動停止に追い込み、ウォルトを大激怒させた思い出話を語ってくれた。やっぱり、こんなに違うんです。
 アメリカのユニオン会員(労働組合員)数は、1929年以来、最低の人数になっている。そのため、300万人のアメリカ人が健康保険を受けられず、数千万人が蓄えも老後の資金もない状況にある。
 1930年代には、誰もが週46時間、休みは日曜日のみ、土曜日は朝9時から昼1時まで働く。月曜から金曜までは朝9時から夕方6時まで働いた。このころ、有給休暇はなかったし、年金制度もなかった。
 第一次世界大戦で戦った元兵士の一群がボーナスの支給を求めてワシントンを行進した。立ちはだかったのは銃剣隊だった。
 このころ、ヘンリー・フォードは、自宅に機関銃を備え付けさせた。
 ハリウッドにマフィアが浸透していった。労働組合側にも、経営者側にも、マフィアが入りこみ、支配するようになった。
 コメディ番組「アイ・ラブ・ルーシー」の主役のセシル・ポールは子どものころ、祖父によってアメリカ共産党員として登録されていた。孫の将来を考えてのことである。孫たちに何かあったとき、ユニオンや共産党が支えになってくれるという期待があった。それは普通にありふれたシーンだった。アメリカにも、そんな社会状況がかつては存在していたのですね。驚きました。私も子どものころ、よく「アイ・ラブ・ルーシー」を見て笑っていました。
 上下2段組で600頁もある大作です。ディズニー映画が好きだったものとして、その内幕を暴露している本書は貴重な資料になっていると思います。それにしても、日本がアメリカと同じように労働者の権利を行使しないようになり、まったくたたかおうとしないのは、本当に残念です。
 日本のアニメ界で働いている人の大半は、労働組合に加入せず、がむしゃらに働かされているとのことです。ひどい話ですね。
(2014年6月刊。6200円+税)

 明後日(10日)、特定秘密保護法が施行されます。今でも、国民に十分な情報が知らされていないのに、ますます私たちは必要なことを知るのが難しくなってしまいます。
 土曜日(6日)昼、天神で三浦会長を先頭にこの悪法の廃止を求める宣伝活動をしました。珍しくテレビ、新聞の取材があり、昨日(7日)の西日本新聞は一面トップで取りあげていました。私も写真に小さくうつっています。
 いよいよ選挙の投票日が近づいてきました。事前予想では自民党が大勝するとのこと。憲法違反の集団的自衛権を行使できる法改正が現実化していくことが怖いです。自民党の大勝といっても支持者は減っています。4割の得票で8割の議席を得るという小選挙区制のマジックなのです。国会に民意が反映しないのでは困ります。ともかく、投票所にみんな行きましょう。

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2014年12月 9日

自分で考える集団的自衛権

社会


著者  柳澤 協二 、 出版  青灯社

 40年ものあいだ防衛官僚だった著者の問題提起ですから、いかにもずっしりと重たいものがあります。
 安倍首相は、「同盟というのは、もともと血の同盟なのである。アメリカの青年が血を流すのなら、日本もアメリカのために血を流さなければいけない」と言う。そして、若い人のなかには「自衛隊員は、そのために給料をもらっているのでしょう」と言う人がいる。しかし、自らは血を流すつもりがないし、そのような立場にもいない人が、他人の流す血について軽々しくしゃべるのには同意できない。それは、人として大切なことを見失った議論ではないだろうか。
 自分の息子が自衛隊にいて、「尖閣を守れ」「上陸作戦に行け」と言われたとき、あなたは親として大喜びで万歳三唱で息子を戦地へ送れますか。
 一人の人間としての当然の苦悩もなしに「血の同盟」などという言葉を軽々しく使うのは、本当に許せないことだと思う。
 橋下徹・大阪市長は、従軍慰安婦の問題について、そのようなものはあって当然だと発言した。では、「橋下さんには6人も子どもがいるのですから、お嬢さんを出しますか?」と問いかけたい。
 わたしにも娘が二人いますけれど絶対に嫌です。あんなひどいことを許すなんていう発想の人は、人間として、まともではないと私は思います。政治家として失格という前の問題です。
 安倍首相も橋下市長も、著者の問いかけにまともに答えるべきだと私は考えます。
 ポピュリズムの特徴は、理屈や論理ではなく、国民の耳に一番心地よいキーワードを語ること。安倍首相も、小泉元首相と同じくワンフレーズに近い手法ですすめている。
 今の集団的自衛権の議論について、外務官僚の多くは賛成しているが、防衛省のなかでは必ずしももろ手を挙げての賛成ではない。かりに犠牲が出たら、責任を負うのは防衛省ということになるから・・・。
 日本は「二流国」でいいのだ。人を殺さない、殺されない国でいい。強気一辺倒では、かえって相手を強硬にし、しなくてもよい戦争の危機を招くことになりかねない。
 自分は一流でなくてもいいのだと考えれば、やたら尖らずに、妥協するところは妥協し、もっと自由に、自分らしい生き方を追求することもができる。
 安倍首相は、集団的自衛権を容認しても「他国の戦争に巻き込まれるというのは誤解です」と言うけれど、巻き込まれるどころか、初めから意を決して日本がアメリカの戦争に参加することになる。
 集団的自衛権というのは、日本を「自衛」するものではなく、アメリカと一緒になって海外へ戦争しに出かけていくこと。
日本だって、いつ戦場になるか分からないのです。実質的な憲法改正でもあります。
 著者の体験に裏付けられた話は、何回聞いても、とても論理的で、かつ説得的です。毎回、うんうんと深くうなずきながら聞いています。そんな話を聞いているように、すっと胸に落ちてくる本です。ぜひ、ご一読ください。
(2013年10月刊。1400円+税)
 日曜日に期日前投票してきました。投票所はガラガラでした。新聞によると、前回比で3割減だということです。国のあり方が問われている大切な選挙なのです。投票率が5割ほどで安倍政権が信任を受けたとして、選挙のあと集団的自衛権行使のための法改正を断行するなんて、考えただけでもぞっとします。
 夕方、曇天の下、少しだけ畑仕事をしました。そこへいつものジョウビタキがやってきて挨拶してくれます。10月にロシアから渡ってくる鳥だということです。その愛らしい仕草に、寒さのなか、心がほっこり癒されます。
 チューリップを少しばかり植えました。あと100個ほど球根を植えるつもりです

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2014年12月10日

平和と命こそ

社会


著者  日野原 重明・宝田 明・澤地 久枝 、 出版  新日本出版社

 憲法九条は世界の宝だ。
 こんなサブタイトルのついた、読めば元気の出てくる本です。
 医師、俳優、作家の三人が自分の体験をふり返りながら、平和の大切さ、そして憲法九条への思いを熱く語ってくれます。
 初めは澤地久枝さんです。
 私は、バカな戦争中の軍国少女であったことを自覚して以来、戦争はやってはならないと思ってきた。原発はやめたい、核兵器のすべてをなくしたいと思って生きてきた。
 自分の収入とか地位とかが脅かされるということで逃げたか?
 私は一度も逃げたことはない。
私は、日本の敗戦を中国東北部(満州)の吉林で迎えた。
14歳だった。そのときから国というものを信用していない。
自衛隊は憲法違反だから、あれをなくして、それに代わるものとして災害派遣隊を税金でつくったらいい。
 憲法は、すごい危機の下にある。九条を吹っ飛ばし、96条も骨なしにして、日本がアメリカの同盟国として、いつ終わるとも分からない戦闘状態に入っていく、その前夜に私たちはいる。
 私は、権力に対して非常に警戒的で、闘争的かもしれない。でも、権力は、放っておけば悪いことをする。
 私のことを「アカ」と言う人がある。権力に対してハッキリものを言うのが「アカ」ならば、日本中みんなが「アカ」になればいい。そうしたら、政治は確実に変わる。せかっく、この時代に生まれてきて、やられっぱなしでは悔しいではないか。一人一人の力は小さくて弱くても、少しずつ少しずつ広がっていったら、確実に世の中を変える力になる。
 二番手は、俳優の宝田明さん。1934年4月に、朝鮮の清津(チョンジン)で生まれた。
 敗戦のとき、ハルビンにいて、小学5年生だった。
 8月16日、ソ連の85トンの重戦車が何十台もハルビンの中心部へ進入してきた。
 戦後、日本に帰ってきて、俳優になることができました。1954年(昭和29年)11月、映画『ゴジラ』は、961万人という観客を動員した。宝田さんはその主役に抜てきされたのです。
私をこれまで支えているのは、日本へ引き揚げてきたときの辛い体験だ。
日本を守るというのなら、武力とは違った方法で守ったらいい。どこかの国に加担したり、どこかの国におんぶしてもらう必要など全然ない。戦争が起こる前に行動するのが、外交そして政治というもの。
 間違っても、あのような戦争を二度と起こすまい。日本は世界に冠たる憲法九条をもっている国だと言うことを、声を大にして強く発していくときだと思う。
 憲法九条は、世界の宝だ。日本に軍事力はいらない、軍隊もいらないと宣言したのだから、世界の誰に恥じることなく、もっと堂々としていたらいい。
 最後の三人目の日野原さんは、100歳をこえて、今なお現役の医師です。
 敗戦のとし、1945年3月10日未明の東京大空襲のとき、聖路加国際病院で内科医長をつとめていた。アメリカ軍は、日本を占領したとき、この聖路加国際病院を接収してアメリカ軍の野戦病院とするつもりだったので、あえて爆撃はしなかった。
 人は創(はじ)めることさえ忘れなければ、いつまでも若い。いい言葉ですよね、これって。
 私は、人を殺す戦争というのは、基本的によくないから、自衛隊が国防軍になるようなこと、アメリカやその他の国の兵隊と一緒に任務につくようなことはやめて、沖縄その他の基地をできるだけ縮小して、そして10年後には、日本からアメリカの軍事基地をなくしたい。
 今のままでは、自衛隊が国防軍になり、空軍や陸軍、海軍が必ずできるだろう。これは、たいへんなこと。せっかく憲法九条で戦争を放棄したのだから、放棄した時点にもう一度戻り、世界の平和のために、大きな志のもとに団結しようではないか。
 勇気ある行動を起こすためには、まず自分を変えなければいけない。
 よき友をもとう。未来に向かって勇気をもって、ともに前進しよう。これは世界平和のためなのだから・・・。
 100歳をこえる日野原先生の熱い呼びかけに私たちも応えないわけにはきませんよね。
(2014年7月刊。1200円+税)

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2014年12月11日

ヒトラー演説

ドイツ


著者  高田 博行 、 出版  中公新書

 ヒトラーの演説の移り変わりを丹念に分析した本です。大変興味深い内容でした。
 1913年、ヒトラーは、ウィーン時代と同じくミュンヘンでも絵を売って生計を立てていた。そして、マルクス主義に関する本を読みあさった。信奉していたのではなく、「破壊の教義」と考えていたのです。
 1920年ころ、ヒトラーの演説は夜の8時半に始まって、11時ころに終わった。ふつう2時間は演説した。このころ、1年半前には民主主義と社会主義の夢にとりつかれていた民衆が、今や国粋主義に熱狂している。
 ミュンヘンのビアホールには、面白い見世物があるのを楽しもうという人々が集まった。そこでは、大げさぶりが一番通用する場所だった。ヒトラーは、きちんとした演説原稿を用意することはなかった。その代わり、演説で扱うテーマについて、扱う順番にキーワードもしくはキーセンテンスを書いてまとめたメモを作成した。そのメモを手元に置いて、演説をはじめ、演説を終わることができた。
 1923年11月のミュンヘン一揆の失敗でヒトラーは刑務所に収監されたが、その獄中生活は待遇が良く、『我が闘争』の原稿をつくった。ヘスに自分の考えを口述筆記させた。
 大衆の受容能力は非常に限定的で、理解力は小さく、その分、忘却力は大きい。
 大衆は、頭の回転が遅いため、一つのことについて知識を持とうという気になるまでに、常に一定の時間を要する。したがって、もっとも単純な概念を1000回くり返して初めて、大衆はその概念を記憶することができる。多くを理解することができない大衆の心のなかに入り込むには、ごくわずかなポイントだけに絞り、そのポイントをスローガンのように利用する。
 演説家は、その時々の聴衆の心に話しかけることが大切だ。
 聴衆の反応をフィードバックしながら演説を修正していくことが必要だ。
 同じ演説するにしても、どの時間帯でするかによって、効果に決定的な違いがある。
 朝10時では、さんざんだった。晩の方が午前より印象が大きい。晩には、人間の意思力はより強い意思に支配されやすい。
 ヒトラーは、敵対的なあり方をユダヤ人に代表させて、唯物主義、金銭至上主義として表現している。聞き手は、共通の敵が設定されていることによって、集団としての一体感を獲得する。ヒトラーは、演説のとき、「わたし」ではなく、「われわれ」をもちいる。
 知識層を好まないヒトラーは、初めは大学生をナチ運動に取り込むことに積極的ではなかった。しかし、合法政権を掌握したあと、考えを改め、ナチス学生同盟を重視するようになった。
 1930年、ヒトラーの演説を聞いた人は、次のように報告した。
 「彼はタキシードに身を包んでいた。ヒトラーは生まれながらの弁士だ。徐々に高い熱狂へと上りつめ、声は次第に大きくなる。大事なところは、両手をあげて繰り返して言う。その後すぐに、牧師のように両手を胸に当てて語る」
 聴衆の期待感、切望感を高めるため、ヒトラーは演説会場に意図的に遅れて到着した。
 1932年、ヒトラーは、オペラ歌手から発声法の個人レッスンを受けた。
 「最初はできる限り低い声で語る。そして、あとで高めていく。それまで大きな溜ができる。静寂と劇場のちょうど間に、弾劾する声を置く」
 「前列に目をやるのではなく、常に後ろのほうに目を向けておかないといけない」
 ヒトラーが政権を握る前のナチ運動期の演説でよく出てきた名詞は「人間」そして「運動」だった。それが、ナチ政権期には、「国防軍」「兵士」「戦争」などに変わった。
 ヒトラーが公共の場で演説することが少なくなったことから、人々はヒトラーとのつながりが減り、溝が広がっていった。大きな演説は、1940年に9回、41年に7回、42年に5回、43年は2回のみ。
 ヒトラーの演説に力があったのは、聴衆からの信頼、聴衆との一体感があったから。ラジオを通してヒトラー演説を聴く国民には、今や信頼感が全く欠けていた。この現実を前にして、弁論術はそれ自体いくら巧みで高度なものであったにしても機能せず、国民のなかに入っていくことはできなくなっていた。演説内容と現実とが極限にまで大きく乖離し、弁論術は現実をせいぜい一瞬しか包み隠すことができないでいた。
マイクとラウドスピーカー、そしてラジオという新しいメディアを駆使したヒトラー演説は、政権獲得の1年半後には、すでに国民から飽きられはじめていた。
 ヒトラー演説は、常にドイツ国民の士気を高揚させたわけではない。
 ヒトラー演説の絶頂期は政権獲得前の1932年7月の全国53カ所での演説だった。
 恐るべき狂気の天才的扇動家であるヒトラー演説がよくよく分析されていると思いました。ポーズだけで騙されてはいけないということですよね。安倍首相には、要注意です。
(2014年6月刊。880円+税)

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2014年12月12日

賃金差別を許さない!

アメリカ


著者  リリー・レッドベター 、 出版  岩波新書

 往復2時間の電車の中で読みふけり、没頭し、涙が出て止まりませんでした。
 もちろん私は男ですが、女性に対する理不尽な賃金等の差別と執拗ないやがらせに、怒りと恥ずかしさに身もだえする思いでした。
 会社内での嫌がらせは、著者の身の安全をも脅かすものだったのです。車のタイヤに、親指ほどもある木ねじが突き刺さっていた。フロントガラスがガラスカッターで切られていて、運転中に車が跳ねたら顔前に落ちてくる仕掛けになっていた。ギアケーブルに細工され、ハンドルもブレーキもきかなくなるようにされていた。だから、ハイウェーをもう少し走っていたら、危うく事故を起こして死ぬところだった。さらに、車のフェンダーは切り刻まれ、ボディーにも傷がつけられていた。
 この本の著者は白人ですが、アメリカの大手タイヤ・メーカーであるグッドイヤーに20年近く勤めていました。現場労働者を監視するマネージャーだったのです。マネージャーは、アメリカでは労働組合員にはなれないようです。したがって、上司からも下の労働組合員からも責められて、大変な立場に置かれます。
 アラバマの裕福でない家庭で育った著者は、17歳のときに結婚しました。結婚した直後の著者の気持ちは・・・。突然、自分が大馬鹿者のように感じられた。二人の育った環境の違いが結婚生活の障害となることに、ちゃんと気づいておくべきだった。
グッドイヤーでマネージャー(監督者)として働くようになって、組合に所属する現場の労働者たちと、上層の管理者の両方から、毎日、これほど文句や難癖が来るとは思ってもいなかった。
あるベテランの労働者は、こう言った。
「オレは、家でメス犬にあれこれ命令されているんだ。現場でまでメス犬に指図されるものか」
 彼は、それまで女性の下で働いたことがなかったのだ。
 監督者として、すぐに、すべての罵詈雑言や悪口を無視することを学んだ。また、常に警戒を緩めてはならないことを理解するのにも、長くはかからなかった。
 現場の労働者と接するとき、相手に歩み寄り、そのパーソナリティを理解しようとすることの重要さを学んだ。彼らとの関係がうまくいくように、ときには自分の態度を変えることも必要になるのだ。
 最初から尊敬される人間などいない。スポーツ監督が選手から尊敬を勝ちとるように、マネージャーもクルーの信頼を勝ちとらなければならない。
何人かの善良な人々に助けられたおかげで、働き続けることが出来た。
 最後には、自分で自分を守るしかない。他の人々よりも一生けん命に、かつ賢く働かなければならない。グッドイヤーでは、いつ誰が敵になり、いつ誰が味方になるのか、まったく見当がつかなかった。
それでも、著者は社交ダンスを趣味でしていて、競技会に出場して優勝したのでした。
 職場のストレスのため、著者は、大腸の手術を受けています。限界まで張りつめた直腸の筋肉が、食べた物が体の中を通過していくときに、裂けてしまったのだ。
 さらに、ストレスの発散口を周囲にいる家族にあたり散らしてしまった。身体は、頭が向きあうとしなかった事実を、明確に伝えていた。
ある日、著者のロッカーにメモが投げ込まれていた。それによると、男性マネージャーに比べて1万ドル以上も低い収入だった。そして、ついに著者は若手弁護士に依頼し、グッドイヤーを訴えた。そのとき、弁護士を選んだ決め手は・・・。
彼の物言いは率直。生来の威厳が備わっていた。何よりも気に入ったのは、目の力強さ。たしかに、そういうことってありますよね。目力(めじから)は大切です。
著者が訴訟を起こしたのは1999年11月で、実際の審理が始まったのは2003年1月のこと。弁護士は合計50万ドル以上もつぎ込んだ。そして、著者も、老後のための年金を全部つかい果たしてしまった。
 裁判前に、著者は10時間におよぶ証言録取を受けた。会社側の弁護士は、著者の意気を挫き、混乱させ、言葉の網の中で自滅するのを待っていた。しかし、著者は、あくまで真実を曲げずにがんばった。汗まみれになり、その日に着ていたスーツの脇の部分には、緊張による発汗で出来た黒い三日月形の染みが残っていて、ドライクリーニングに出しても消えなかった。その青いスーツは、以後、二度と着なかった。
審理が始まるまで、不安で眠れない夜が数え切れないほどあった。もし裁判に負けたら、グッドイヤーが金銭の請求をしてくるかもしれない。家を失うことが怖かった。
法廷で、著者はグッドイヤーで働いていた日々と同じ服装をした。別の人間になるつもりはなかった。雇われてきちんと仕事をしたことにより正当に獲得したはずのものを、取り戻そうとしているだけなのだから・・・。
陪審員の評決が出た。性別を理由とする差別を認めた。33万ドルを会社に支払えとした。さらに、陪審員は、グッドイヤーに対する懲らしめといって、328万ドルを支払うよう求めた。「蜂の一刺しを与えたい」と陪審員たちは思ったのだ。
 しかし、著者がこの賠償金を実際に手にすることはありませんでした。グッドイヤーが控訴し、アメリカ連邦最高裁も一票差で著者の訴えを認めなかったのです。なんということでしょうか・・・。
でも、それで終わらなかったのが、民主主義の本場・アメリカなのです。さすがに奥の深いところがあります。そして、ついにオバマ大統領のときに、著者の名前をつけたレッドベター公正賃金(復元)法が成立したのです。
 一介のアラバマ娘がタイヤ工場の監督者(マネージャー)となり、30年後には、訴訟の当事者、女性の権利の擁護者、ロビイスト、文策家、講演者と、多彩な経験を積んだ。
 ときどき、人生は変化球を投げて来る。望んだわけではなく、予想すらしなかったとしても、それに対応しなければならない。人間の真の価値を決めるのは、その人に「何が」起こるかではなく、それに「どう」対応するかである。不正義を目にしたとき、何もせずに座視するのか、それとも、それを正すためにたたかうのか。挫折を経験したときに、甘んじて受け入れるだけなのか、それとも失敗から学んで、次はより良くがんばるのか。
 心の震えのとまらない、感動の本です。ぜひ、ご一読ください。アメリカの民主主義も、まんざら見捨てたものではないのですね。著者は、オバマ大統領の初当選の祝賀会で、大統領と一緒にダンスを踊ったことでも有名な女性のようです。
(2014年1月刊。3300円+税)
昨日の新聞に、衆議院選挙の得票率は前回(59%)を下まわりそうだという記事がのっていました。自民党は前回、得票数を減らしたにもかかわらず、大量の議席を占めました。今回も300議席をこえる予測を報道がなされています。
 そうなったら、憲法改正がいよいよ現実化する危険があります。弁護士会としては、立憲主義の見地から、平和主義をそこなうような改正を許さない取り組みを強める必要があると思います。すでに日弁連は全国キャラバンに呼びかけています。全九州で、もちろん福岡でも、これまでのレベルではない取り組みたいものです。

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2014年12月13日

ロックで学ぶリーガルマインド

司法


著者  奥山 倫行 、 出版  花伝社

 一風変わった、素人向けの法律解説書です。法律の考え方をロック音楽を通じて身につけようというのですから、私なんかの発想の外の世界です。
著者である弁護士の得意分野は、民法、刑法、会社法、著作権法、商標法、不正競争防止法、倒産法というのですから、地方都市のよろずや弁護士である私とは、この点でも、かなり違った分野で活躍しています。もっとも、東京での大手渉外事務所から独立して、今では札幌で弁護士をしているとのことですから、企業法務中心といっても、東京のときとは一味違っているのではないでしょうか・・・。
 それはともかく、著者のすごいところは、FM放送で「ロック裁判所」として電波に乗っているということです。すでに2009年4月以来、260回以上の番組が組まれているとのこと。たいしたものですね。
 この本では、ロック番組のなかで起きた事件を紹介しつつ、法律の考え方や裁判の実際を紹介しています。登場するロック・アーティストの大半は私の知らない人たちです。それでも、マイケル・ジャクソンなら、その音楽を聞いたことは一度もありませんが、名前だけなら私も知っていますし、ポールマッカートニーは、私の高校生時代を思い出させるなつかしい音楽家です。先日、福岡でコンサートをしました。聞きに行ったわけではありませんが、久しぶりに聞いてみたいとは思いました。
 どんなトラブルが起きたのか、その対処法として、何をなすべきなのか、解決策は何かについて、ロック・アーティストをめぐって起きた現実の事件を通して弁護士が考え方を提起していますが、とてもユニークな視点です。
 さすがに慶応大学に在学中からロックに熱中してきた著者による、うんちくを傾けた異色の本です。
(2014年11月刊。1700円+税)

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2014年12月14日

推定脅威

社会


著者  未須本 有生 、 出版  文芸春秋

 松本清張賞の受賞作です。日本海の上空を領空侵犯してきた不審機に自衛隊機がスクランブル発進して接近する。ところが、あまりに低速飛行してしまったため、失速して、海面に激突してしまった。
 いったい何が原因で起きた事故なのか・・・。
 自衛隊のジェット戦闘機TF-1は、防衛省技術研究本部が開発し、航空自衛隊が運用する。開発にあたっては、四星工業が主契約社となって設計・製造している。
 ジェット戦闘機の構造を詳しく知っていないと書けない展開です。そして、構造・性能を一般的に知っているだけではストーリー展開ができません。犯人は飛行機の弱点を知りつくしていて、そこを狙って仕掛けてくるのです。
 こんなメカニズムの取材は大変だろうなと思って、最後に著者の経歴を知って、そうだったのかと納得してしまいました。著者は、何と東大工学部航空学科を卒業して、大手メーカーで航空機の設計に長く従事していたのです。そのとき、自衛隊のメカニズムとか、その問題点も十分に認識したのでしょうね。
 そして、自衛隊と民間企業との交流の実態も実体験して十分に把握していたからこそ、ストーリーが無理なく展開できたのです。
 推理小説なので、これ以上はもう書きません。「航空機についての知識に圧倒される」というコメントには、まったくそのとおりだと私も思いました。
 ところで、特定秘密保護法が施行されて動き出したとき、このような自衛隊機の問題点を探ったりするのは、まさしく「秘密」そのものに該当しますよね。そうすると、今は推理小説として楽しく読めますが、小説の素材にもしにくくなることでしょうね。
 まったく、国民の知る権利に逆行する法律です。弁護士会は、日弁連を先頭に特定秘密保護法は廃止すべきだと声を上げています。
(2014年8月刊。1350円+税)

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2014年12月15日

謎の蝶アサギマダラ・・・

生き物


著者  栗田 昌裕 、 出版  PHP

 アサギマダラは、謎の魅力に満ちた蝶だ。
 アサギマダラは、大草原を渡って、200キロもの長距離を旅している。
 そのことが分かったのは、1980年初頭のこと。
 著者は、東大医学部を卒業した内科医です。ところが、アサギマダラの研究家でもあるのです。なにしろ、年間1万頭ものアサギマダラを捕まえては放すのを目標とし、これまでの10年間で14万頭ものアサギマダラにマーキングしたというのです。信じられないほどにすごい数です。そして、自分がマーキングした蝶に、別の場所で何度も出会ったのでした。いやはや、信じられませんね・・・。
 アサギマダラは、タラハチョウ科マダラチョウ亜科のチョウで、体重は0.5グラム以下、長さは5~6センチ。アゲハチョウほどの大きさ。
 有毒の草を食べ、体内に毒を蓄える。
 海と国境を越えて定期的に渡る蝶は世界に一種、このアサギマダラのみ。
タオルを蝶の目の前で振り回すと、いつまでもついて来る。
 アサギマダラは手づかみで捕獲できる。翅には鱗粉がないので、手で持ちやすい。
 捕獲して、マーキングして放してやると、全国のどこかで1~2%は再捕獲される。
アサギマダラには、人や物体に不思議な執着心を示す個体がいる。
 不思議な蝶ですね。一度つかまえてみたいものです。そして、そのマーキングされているのを見てみたいと思いました。
(2014年9月刊。1800円+税)

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2014年12月16日

ベルリン危機・1961(下)

アメリカ


著者  フレデリック・ケンプ 、 出版  白水社

 1961年8月、東ドイツがベルリンの壁をつくるに至った経過と、その前後の米ソ首脳の苦悩に満ちた息詰まる対決状況を活写した本です。
 キューバ危機の直前の首脳は、アメリカは若いケネディ大統領であり、ソ連はニキータ・フルシチョフ首相です。それぞれ難しい国内政治をかかえ、そのうえ軍部は核戦争をけしかけていたのです。いつの世も、軍部は紛争を武力で解決しようとします。自らの威信を高め、存在価値を大きくアピールする絶好の機会になるからです。世の中の平和とか安定というのは、軍部にとっては二の次、どうでもいいことでしかありません。いつだって勇ましいことを声高に言いたてる人がいます。それでも、卑怯者とののしられながらも、国のリーダーは国民の安全を第一に考えるべきなのです。
東ドイツのウルブリヒトは、ソ連の了解を得ると、ベルリンの壁を一挙にこしらえてしまった。アメリカをふくめた西側は、まさかそんなことはあるはずがないと信じ切っていた。
 私もベルリンには1回だけ行ったことがあります。国際会議に参加したほか、ヒンデンブルグ門とベルリン博物館を見学しました。いえ、もう一つ。ちょうど、アメリカのイラク攻撃の前夜でしたが、ベルリンの高校生などがアメリカのイラク攻撃に反対する長い長い元気なデモ行進を目撃することが出来ました。私は大学生のころのベトナム反戦デモを思い出して感動しました。集団的自衛権の行使容認の閣議決定がなされても、日本の高校生や大学生が大規模な集会とデモ行進をしたということがないのは、本当に残念です。
 私が行ったときには、ベルリンの壁はもうありませんでした。ここに、かつて壁があったという説明を聞かされましたが、まさしくまちのド真ん中に壁はあったのでした。
 東ドイツのウルブヒトが壁をつくりたいというのを、ソ連のフルシチョフは、苦悩したあげく承認した。これを実行したら、社会主義の世界的評判は大打撃を受けるだろう。しかし、西側へ毎日、東ドイツ市民が大量に脱出しているとき、それをくい止めなければ、東ドイツ経済は崩壊するのが目に見えている。
 アメリカでは、キューバでアメリカ軍は大きな失敗をした。政治問題を過小評価して、軍事的、作戦的な諸問題に集中しすぎた。
 ケネディ大統領にとって、ラオスで失敗してもかまわない。キューバでも同じこと。どちらも、アメリカにとって、あるいは歴史におけるケネディの評価にとって決定的な意味はもたない。しかし、ベルリンは違う。ここは、世界の運命を決する大闘争の中心的な舞台なのだ。
そのころ、東ドイツから西側へ、1日2000人、週に1万人をこす人間が脱出していた。
 東ドイツ経済を急速に改善する方法はなかった。圧倒的な西ドイツの物質的優位を前にして、難民の流出を抑え、東ドイツの崩壊をくいとめるには、壁をつくって封じ込めるしか選択肢はなかった。
ベルリンの境界閉鎖は、ドイツ政治を再編し、アデナウアーは二度と完全には回復しなかった。
 ケネディもフルシチョフもまともに核戦争の危機に直面していた。ソ連の核ミサイルがニューヨークやシカゴを襲ったときには、500万人から1000万人の犠牲者が出ると予測されていた。熱核戦争においては、人命は容易に奪われる。アメリカの核攻撃によって、ソ連側の死者は50万人から100万人ほど。別の想定では、1億人以上のソ連人口が減少するとみられていた。
 フルシチョフは、党内に強力な反対者がいて、彼らがまとまることを恐れた。まとまらないようにするためのエサは既に送付ずみだった。
 ケネディは、キューバ危機から8ヵ月たった1963年6月にベルリンを訪れた。ベルリン市民100万人がケネディ大統領を歓迎した。
このころ、人類の運命を握っていたケネディとフルシチョフの実像を可能な限り掘り下げた意欲作だと思いました。忘れてはいけない世界史なのではないでしょうか。ともかく、核の脅威なるものを一刻も早く根絶したいものです。
(2014年6月刊。3200円+税)
 投票日は私の誕生日でした。フェイスブックで告知されるので、何人もお祝いの言葉をかけていただきました。ありがとうございました。このブログの愛読者のチョコさんからは見事な花束も届けていただきました。重ねてお礼を申し上げます。
 開票結果を知って、平和憲法を守るための活動をレベルアップする必要性を痛感しました。同時に、福岡の弁護士のつれあいの方が見事に当選の栄冠を勝ちとられましたので、うれしさ一杯です。

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2014年12月17日

昭和陸軍秘録

日本史(戦前)


著者  西浦 進 、 出版  日本経済新聞出版社

 戦前は、陸軍の軍務局軍事課長や東條英機陸軍大臣秘書官など歴任し、戦後は陸上自衛隊で初代の戦史室長をつとめた人物の聞き書きです。陸軍中枢にいた人物ですので、内情がよく分かります。
 陸軍の機密費が14万円あった。これを高級副官が保管していた。
 梅津美治郞陸軍次官は、これをケチったというか、合理的に運用しようとした。すると、それまで機密費からお金をもらっていたダニのような人物が梅津次官の悪口を言いはじめた。
 お金の恨みは恐ろしいと言うことです。
あとで刺殺された永田鉄山は非常に頭のいい、思いやりのある人物だった。派閥に入らないことをモットーにしていた。
 永田鉄山は陸士16期の衆望を担っていた。東條は17期、山下奉文は18期。
荒木陸軍大臣は、極端な人事をやり、その不平がひどかった。
 昭和15年に、中国共産党が百団大戦で暴れた。そこで、国民党軍を主敵としていたのを切り換えて、中共軍を主敵とした。その結果、昭和18年に、中共軍の勢力は一番下がった。そのときの日本軍の主役は岡村大将だった。
 国民党軍の暗号は初めからすっかり解けていた。しかし、ロシア系の暗号である中共軍の暗号は、なかなか解けなかった。
 中国にいた不良日本人、そして不良朝鮮人が日中の関係に非常に大きな悪影響を及ぼした。アヘンの密売をやっている日本人が北京あたりに非常に多かった。
 昭和14年の秋は、米騒動が起きたり、非常に暗い時期だった。ノモンハンは芳しくないし、独ソ不可侵条約が出来てドイツからの牽制効果はなくなるし、支那事変が2年たってもいっこうに解決の曙光がないので・・・。
 東條は、あの当時、非常に強気だった。彼我の力関係をかなり甘く見ていた。
 ノモンハン事件では、情報が不足していた。向こうの後方輸送力を誤判してしまった。
 ドイツのソ連進撃は既定の事実だろう。ドイツの攻勢は初期は有利に進展するだろうが、いずれ日本の支那事変と同じようになる公算がきわめて高い。だから、日本としては情勢の進展を待つ。年来の宿敵だからといって、すぐにドイツの尻馬に乗ってロシアに攻勢をかけることはない。早急に強引なことはせず、もう少しじっくり様子をみるべきだと考えた。
 しかし、初期にドイツ軍が非常に有利な状況だったので、参謀本部のなかに、日本も北へ向かって進撃する準備をしろという声が強まり、関特演が始まった。
 ミッドウェイ会戦のとき、日本の航空母艦が4隻とも全部やられたことを知らされた。しかし、作戦課から、これは絶対に口外するなと言ってきた。だから、参謀本部でも、ごく一部の人しか本当のことを知っていなかった。
 東條英機は、非常に温情もあり、細かいことによく気のつく人だった。部下の家族の病人とかには人一倍、気をつかった。仕事の上ではやかましいけれど、それほど嫌な奴だという気持ちはなかった。
 精励恪勤なことは、ちょっと比較できないほど。また、天皇に対しては誠実無比だった。
 陸軍内部の軍人たちの息づかいまで伝わってくるような臨場感あふれる聞き書きでした。1967~68年の聴きとりです。
(2014年9月刊。3600円+税)

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2014年12月18日

チャイナ・セブン

中国


著者  遠藤 誉 、 出版  朝日新聞出版

 赤い皇帝・習近平というサブタイトルのついた、中国を分析した本です。
中国共産党の政治局常務委員(チャイナ・ナイン)の一人だった周永康が逮捕された。本来、このチャイナ・ナインは逮捕されないという不文律があった。それを習近平は破った。
 捕まった周永康は江沢民派なので、習近平と江沢民との権力闘争だとみられている。しかし、著者は権力闘争ではないとみています。なぜなら、習近平自身が江沢民派だから。
 少なくとも腐敗問題に斬り込まなければ、中国共産党による一党支配体制は必ず崩壊してしまうから。
 最近、中国で腐敗により摘発・処分を受けた人数は18万人をこえ、チャイナ・ナインの一人だった周永康、さらに中央軍事委員会副主席だった除才厚まで捕まった。前代未聞の事態である。
 習近平は、利益集団の解体を狙っている。利益集団解体の先には、利益を独占している国有企業の改革が待っている。国家の60%の富を0.4%の者が独占しているような現状を打破することだ。富の極端な一極集中化をもたらしている利益集団を解体してからでないと、抵抗勢力が巨大化しすぎていて、前に進めない。
 チャイナ・セブンは「共青団」「紅二代」あるいは「江沢民派」というように、きれいに分けることができない。7人のうち紅二代が3人もおり、かつ「江沢民派」に偏っているのが特徴だ。
 もっとも重要なことは、チャイナ・セブンの圧倒的多数が習近平、またはその父母と接点があること。
 チャイナ・ナインがチャイナ・セブンになっても、中共中央政治局常務委員会では多数決による議決を鉄則とする集団指導体制を実行していることに変わりはない。
 もし今、国家主席が習近平でなかったとしたら、中国は、この10年間の政権のなかで、あるいは崩壊したかもしれない。
 社会主義が生き残るのか、資本主義が生き残るのか。あるいは、一党支配体制が生き残るのか、という壮大な実験に習近平は挑もうとしている。
習近平は、毛沢東に次ぐ力を持った指導者としての地位を気づきつつあると言ってよい。
 2012年1月、胡錦濤は、「腐敗を撲滅させなければ、党が滅び、国が滅ぶ」と、中共中央総書記として最後の言葉を述べた。しかし、この腐敗を招いたのは、共産党の一党支配体制だ。その支配体制を崩すことなく、腐敗を撲滅することなど、できるはずがない。
 腐敗撲滅へ向かって進めば進むほど、共産党統治は政治体制改革を余儀なくされ、政治体制改革を断行すれば、共産党の一党支配は必ず崩れる。進んでも留まっても、崩壊はまぬがれない。
 習近平は、1953年6月15日、北京で生まれた。父親は習仲勛。父親は16年間の囚われの生活を送った。
 習近平は、文化大革命のとき、延安地区へ追放されて苦労している。そして、文革末期になって清華大学に入学することができた。
 中国の四大利益集団は、鉄道閥、石油閥、電力閥、電信閥である。そこは腐敗の巣窟でもある。
 チャイナ・セブンのうち、習近平と李克強以外の5人は、みな2017年の党大会で定年退職してしまう。
 中国の前途を考えるうえで読んでおくべき書物の一つだと思いました。
(2014年11月刊。1600円+税)

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2014年12月19日

祖父はアーモン・ゲート

ドイツ


著者  ジェニファー・テーゲ 、 出版  原書房

 知的な黒人女性の顔が表紙になっています。憂いを秘めたまなざしが印象的です。
 本のタイトルだけではピンとくる人は少ないでしょう。でも、かのナチ強制収容所の所長の孫というサブタイトルをみると、まさかと思います。ナチの所長の孫が黒人のはずはない・・・、と思うのは誤った先入観なのです。
 あの有名な映画『シンドラーのリスト』に登場する残虐なナチ収容所長こそ、著者の祖父アーモン・ゲートなのです。
 アーモン・ゲートは、映画『シンドラーのリスト』のなかで収容所内の罪なきユダヤ人を面白半分に射殺していた冷血なナチス親衛隊指揮官でした。そして、映画で描かれていたとおりの事実があったのです。
シンドラーとアーモン・ゲートの二人は同い年で、酒、パーティー、女性に目がなかった。二人ともユダヤ人迫害によって富を得ていた。ゲートは、ユダヤ人を殺害してすべてを取り上げたことによって、シンドラーはユダヤ人が所有していた工場を受け継ぎ、ユダヤ人を低賃金の労働者として働かせることによって富を得た。
 ドイツ特務機関のスパイとしてポーランドで活動していたシンドラーは、金もうけのためにクラクフへ来た男だった。後に、稼いだ財産の大部分をユダヤ人救出にあてているが、最初は戦争成り金だった。
 アーモン・ゲートとオスカー・シンドラーは、どちらも権力をもっていた。一方は、それを救うために使った。シンドラーは、その従業員1100人を最後まで守ったのでした。
 アーモン・ゲートがライフルを手にもって、短パンをはいてバルコニーに立っている写真があります。このようにして、罪ないユダヤ人を勝手気ままに殺したのでしょう。まさしく、おぞましい殺人鬼です。
 アーモン・ゲートは、17才で右翼思想に傾倒し、ヒトラー・ユーゲンに入会した。1931年にナチ党員となり、やがてナチ親衛隊員となった。幼少時に両親から世話してもらえず、ほったらかしにされたと語っていた。
 気に入らない者がいれば、髪のあたりをわしづかみにして、その場で撃ち殺した。この残酷な人殺しの化け物は、美的な柔らかさを帯びた面持ちで、しかも温和な目つきをもち、巨体で逞しく堂々とした風貌に見えた。
 これは、アーモン・ゲートに仕えていたユダヤ人書記の証言です。
 また、アーモン・ゲートには、ユダヤ人のメイドもいたのです。
 この二人は、結局、殺されずに生きのびていますが、いつ殺されるか分からないという状況がずっと続いていました。恐るべき状況です。
 アーモン・ゲートはドイツの敗戦後に発見・逮捕され、裁判にかけられました。1946年にクラクフで絞首刑に処せられ、遺骨はヴィスワ川に流された。
 長身だったアーモン・ゲートは絞首刑がうまくいかず、二度目になってやっと刑死した。
愛人のルート・イレーネ・ジェニファーはアーモン・ゲートのやったことは何も知らなかったと言いはり、1983年に睡眠薬を飲んで自殺した。
 著者の母は、ナイジェリア人との間に著者を生んだ。生後4週間でカトリック系の養護施設に預けられ、3歳で里親のところに行き、7歳で養子縁組した。実母の写真は出てきません。著者は38歳のとき図書館で、たまたまアーモン・ゲートが祖父であることを知ったのでした。母について書かれた本を偶然に手にしたのです。
 ナチ高官の子や孫たちの人生はさまざまのようです。
 ヒムラーの娘は、ネオナチとして活動している。しかし、たいていは、父親への賛美と、実父への憎しみの間を、いったり来たり、揺れ動いている。すべての子どもに共通していることは、過去から逃れられないということ。ナチの子孫で、不妊手術を受けたとか、自分の意思で子どもをつくらないことにしたという男女も少なくない。自殺者もいる。
 大変重たい内容の本でした。ナチスの影響は、今なお、こういう形でも残っているのですね・・・。
(2014年8月刊。2500円+税)
 一昨日(17日)朝おきて外を見ると、白くなっていました。霜でも降ったのかと思うと、ホラホラ雪が降っているのが見えました。うっすらと積もっているのでした。この冬、初めての雪です。私の娘は「ゆき」と言いますが、前日に戻ってきましたので、「ゆき」を連れて来たね笑ったことでした。
 衆議院の総選挙で投票率52%というのは低すぎます。もっと投票所に足を運んでほしいものです。
 自民党が「大勝」したとマスコミは言っていますが、実際には、得票数も得票率も減らしています(議席も)。小選挙区のマジックで、自民党が議席を維持しただけなのです。民意を反映しない小選挙区はやめてほしいです。
 選挙が終わったら、原発再稼働を次々に認め、武器輸出に国が補助金を出すなんて、恐ろしい話が着々と進行しています。大変な世の中です。

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2014年12月20日

鬼はもとより

江戸時代


著者  青山 文平 、 出版  徳間書店

 江戸時代の小さな藩の財政立て直しの話です。よく出来ています。アベノミクスの失敗は明らかですが、それは弱者切り捨てまっしぐらだからです。かつての「年越し派遣村」がビッグ・ニュースになったときのような優しさが今の日本にないのは不思議なほどです。
 アベノミクスは、原発・武器・カジノというのが目玉でもあります。とんでもないものばかりです。これで、子どもたちに道徳教育しようというのですから、狂っています。
藩札は、宝永4年(1707年)にいったん禁止された。その後、新井白石の改鋳があり、貨幣の量が激減し、世の中が金不足となって、享保15年(1730年)に再び許可された。
 正貨と藩札を交換する札場の項では、その数や配置のみならず、用員の取るべき態度まで示され、受付の御勤めに限っては、商家に委託するとされた。
 藩札の板行には、小判や秤量(ひょうりょう)銀などの正貨の裏付けが不可欠だ。
 一両の小判を備え金(そなえかね)にして、三両の藩札を刷る。1万2千両を備え金にして、3万両の藩札を刷る。それだけの正貨があれば、いつ、藩札を正貨へ変えてくれと言われても応じることができる。換金さえ約束されたら、紙の金でも立派に貨幣として通用する。
藩札板行を成功させるカギは、札元の選定や備え金の確保といった技ではない。藩札板行を進める者の覚悟だ。命を賭す腹がすわっていなければならない。
 藩札は専用の厚紙でつくり、偽札を防ぐために透かしを入れる。紙の厚い、薄い差を使って絵を描く。偽造防止の手立ては、透かしだけではない。複雑な文様のなかには、市井のものには字とは見分けられない梵字や神代文字がさまざまに組み込まれている。このありかを知らないと、同じ文様のようでもずい分と違ってくる。一枚一枚では分からなくても、多くを集めると、誰の目にも明らかなほどの違いが生じてくる。
 藩札の十割刷りを強行した藩は一揆を招いて、結局、幕府から改易処分を受けて、藩そのものが滅亡した。別の小藩では、強力な藩札によって、他国に負けない強力な特産物を育て、藩が一手に買い上げて領外に売る。その代金は正貨で受けとる。これで藩は丸もうけとなる。
 では、何を特産物とするか・・・。浦賀に、魚油と〆粕、大豆を送ってもうけるという。
 この商法を藩内に定着させるために取られた手法に驚かされます。小説とは言え、ぐいぐいと惹きつけられるのでした。私は、出張先の鹿児島の中央駅に着いて2時間あまり、駅ビルの喫茶店で読みふけったことでした。
(2014年5月刊。760円+税)

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2014年12月21日

勝率ゼロへの挑戦

司法


著者  八田 隆 、 出版  光文社

 208年12月に国税局の「マルサ」が家宅捜索し、2013年3月に東京地裁で無罪判決が出た。そのとき、佐藤弘規裁判長は、次のように言った。
「今回のことで時間が過ぎ、大切なものをなくしてきたと思います。それを取り戻すのは難しいと思いますが、家族やいろんな人が残ってくれましたね。そういった人のために前を向いて、残りの人生を、一回しかない人生を、しっかり歩んでほしいと思います。私も・・・、私も初心を忘れずに歩んでいきます」
 すごい言葉ですね。よほど心を揺さぶられたのでしょうね。私も、これを読んで胸が熱くなりました。
 この無罪判決に検察側は控訴したが、東京高裁もまた無罪とした。そして、角田正紀裁判長は、次のように説諭した。
 「刑事手続が決着したら、前の仕事には戻れないようだが、あなたは能力に恵まれているし、再スタートを切ってほしい。裁判所も迅速な審理に努力したが、難しい事件でもあり、証拠は1万ページにのぼり、双方の主張を十分聞いたために、一審で1年3ヵ月、控訴審で9ヵ月かかってしまった。もっと早くと、被告人の立場からは思うだろう。これは、裁判所の課題です」
 これまた、素晴らしい言葉です。裁判所のなかにも熱き血汐を感じさせる人がいるのですね。ほっとします。日頃の私は、あまりにも血の通っていないとしか思えない裁判官とばかり接しているものですから・・・。
 「難事件」ということですが、事件はいたって単純です。給与の一部が会社から株式報酬で支払われ、そのとき源泉徴収されていなかったのです。それが故意による脱税だとして摘発され、起訴されました。
 実のところ、そのような扱いをされたのは著者一人ではなく、100人もいたのです。外資系の証券会社ですから、報酬額は一般企業とは違って巨額なのですが、その金額に国税局は目がくらんだのか、無理な「徴発」をし、検察庁が国税局の顔をつぶさないように起訴してしまったということのようです。とんでもない無理な起訴だと思いました。裁判官が代わって謝罪したくなるのも十分理解できます。
 この事件の取調過程には、いくつかの特異な点があります。
 在宅取調に終始しているのですが、検事調書がすべて問答形式になっているのです。検察官の一方的な作文ではありません。すごいことです。著者がたたかいとった成果でした。ただし、調書を訂正してもらいにくいというハンディを負うことにもなりました。
 そして、著者は、自分の取調状況を逐一ネットで公開していったのです。録音・録画の先取りのようなものです。
 検察官の求刑は、懲役2年、罰金4000万円というものでした。一審の無罪判決の言い渡しのとき、佐藤裁判長は次のように言いました。
 「主文、被告人は無罪。もう一度、言います。被告人は無罪」
 言い渡した裁判長も気分が高揚していたのでしょうね。一度では言い足りない思いがあったのです。そして、無罪判決を勝ちとるためには大変な苦労がいることを明らかにした本でもあります。
(2014年5月刊。1400円+税)

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2014年12月22日

光とは何か

宇宙


著者  江馬 一弘 、 出版  宝島社新書

 真空の空間では、目の前を通り過ぎる光線が見えることはない。目の前の宇宙空間は真っ暗にしか見えず、そこを光が通過していることには気がつかない。
 なぜなら、宇宙空間は、ほぼ真空であり、光を散乱されるものがほとんどないから。
光は、ほかの物質と出会うことで、初めて何かが始まる。
 光の正体は、空間を伝わる電気的な波である。
 光の三原則とは、光の直進、反射、屈折に関する法則のこと。光は、障害物にぶつからない限り、まっすぐに進む。
 光が2億9979万2458分の1秒間に進む距離が1メートルである。
 分子や原子などのミクロのレベルで考えると、鏡に反射したあとの光は、鏡に反射する前の光とは、厳密には「別のもの」。鏡にあたった光は、「そのまま」鏡を通過する。それとは別に別に、鏡に光が当たることで、鏡の中の分子や原子が振動して、光を放つ。その光が「反射光」として、人間の目に見えている。
 光が屈折するのは、光の速度が変化するため。光は透明な物体の中を進むとき、その速度は物体の種類によって変化する。それが光の屈折を生む。
 ダイヤモンドの中での光速は、真空中の4割ほどにまで減速する。
 宝石となる物質のほとんどは、屈折率が高い。
 光の色ごとに屈折の度合いが違うのは、プリズム中での光の速度が、色ごとにわずかだけど異なるため。
 赤色の光は原則の程度がやや小さいので、屈折する角度も小さい。
 紫色の光の速度の程度がやや大きいので、屈折する角度が大きい。昼間の空が青く見えるのは、空気中の分子が赤色の光よりも青色の光の方が強く散乱することが原因。
 海が青く見えるのは、散乱の効果よりも、水が青色の光を吸収する効果の影響が大きいから。ニュートンは、「光線に色はない」と言った。
 色とは、この世界に実在するものではなく、光の波長の違いを胸が「色」というイメージで認識しているだけ。つまり、色を実際に「見ている」のは脳であり、色という感覚をつくり出しているのは心である。
物質のなかで電子が振動すると、光(を含めた電磁波)が生まれる。
 電子が振動すると、振動する電場が生まれて、それが波のように空間を伝わっていく。それが光(を含めた電磁波)である。
 じつは、光は波ではない。光の正体は粒である。
 結局、光は波としての性質と、粒としての性質をあわせ持つ、不思議な存在なのである。
 フシギ、不思議、変テコリンな存在である光について、少しばかり頭を悩ませてみました。面白いですよね、こんな話って・・・。
(2014年7月刊。900円+税)

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2014年12月23日

おだまり、ローズ

イギリス


著者  ロジーナ・ハリソン 、 出版  白水社

 イギリスの上流階級の生態がよく分かる本です。
 じつは、私の家にも若い女性がお手伝いとして同居していたことがあります。私が小学生のころです。小売酒店で、子どもが5人もいて(私は末っ子です)。ちっとも広くない家に住み込みの女性がいたなんて、今ではとても信じられません。要するに裕福ではない家にも、ほんの少しでも余裕があれば(実際には、そんな余裕というかスペースはなかったと思うのですが・・・)、かつては行儀見習いと口減らしを兼ねて住み込みで働く人がいたのです。
 同じように、ノリ作業のシーズンには長崎県の生月島から大量の出稼ぎ人が有明沿岸には住み込みで働いていました。もっとも、これは、後で聞いただけで、そんな光景を見たわけではありません。要するに、少し前、つまり50年も前の日本では、住み込みの奉公人というのは、ちっとも珍しいことではなかったのです。今では、そんな光景は、どこにも見あたりません(と、思いますが、どこか、まだありますか・・・?)。
 この本のオビには、「型破りな貴婦人と型破りなメイドの35年間」と書かれています。
 貴婦人は、イギリス初の女性国会議員です。もちろん、スーパーリッチ層で、お金の苦労などしたこともありません。それに仕えたプライドの高いメイドの語る体験記ですから、面白くないはずがありません。
 ふむふむ、そうなのかと、ついつい深くうなずきながら、往復の電車の2時間の車中で364ページの本を満足感に浸って読了しました。
 イギリスには厳然たる階級社会が今もあるようです(フランスにも・・・)。著者が仕えた家では、娘たちとも、あくまで主人とメイドの関係だった。友人ではなく、単なる知人でもなかった。
 上流階級では、子どもたちは、母親から目に見える形の愛情が与えられることはなかった。しかし、本当は、愛は目に見える形で子どもに与えられなくてはならないものだ。
 主人の家族とメイドとの間には、はっきりした境界線がある。自分の地位や期待されている役割、許される言動と許されない言動を正確に判別する必要があった。
 メイドは、真珠かビーズのネックレスは許容範囲内で、腕時計もかまわない。しかし、それ以外の装飾具をつけるのは、顰蹙を買う。化粧もしないほうがいいとされ、口紅をつけても、とがめられた。だから、外出中に、主人(奥様や娘も)とメイドとが主従を取り違えられることはなかった。
 レディー・アスターは、淑女ではなかった。ころりと気を変えて、メイドにも頭を切り換えることを要求する。メイドとして、1日18時間、年中無休で集中力を切らさずにいることを求められた。奥様は、イギリス初の国会議員として活動した。
 一度つかった服を洗濯せずに身につけることは決してしない。
 ボタンホールの花も、香りの高い花が、毎日、新しく届けられた。クチナシ、チューベローズ、マダガスカル・ジャスミン、スズラン、そしてラン。香りの高い花ばかり。
メイドとして物を言うと、返ってくるのは、「おだまり、ローズ」のひとことだけ・・・。
 奥様は感情が顔に出る。化粧はほとんどしない。香水はシャネルの五番のみ・・・。
メイドとしての著者にとって、睡眠は貴重なものだった。夜9時から朝6時までは、何があっても自分の時間として確保し、10時過ぎまでで起きることは、めったになかった。仕事をきちんとこなそうと思えば、心身ともに健康でなくてはならず、そのためには毎晩しっかり睡眠をとる必要があった。
イギリスの貴婦人は、丹那様は、はっちゅう替えるけれど、執事は絶対に替えない。
 奥様が旦那様と子どもを連れて旅行するときには、雌牛を1頭と牧夫を同行させた。子どもたちに飲ませる牛乳の質にこだわったからだ・・・。
これには、腰を抜かすほど驚いてしまいました。スーパーリッチって、そこまでするのですね・・・。
 よくぞ、ここまでことこまかく書いてくれたかと思うほど、詳細な上流階級の生態です。「私は見た」という家政婦の話以上に面白い本だと思いました。
(2014年10月刊。2400円+税)

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2014年12月24日

自民党政治の変容

社会


著者  中北 浩爾 、 出版  NHK出版

 今回の衆議院選挙では、自民党は、投票数も得票率も、そして議席すら減らしたのに、「圧勝」したという報道がなされています。これは、明らかにマスコミによる意図的な世論誘導でしょう。マスコミは、これまで「政治改革」、「郵政選挙」、小選挙区制、「二大政党制」を大きく唱導してきました。今になってみれば、どれもこれも日本の政治をいい方向に変えたものはなく、悪い方へ、悪い方へとひっぱっていったものばかりではないでしょうか・・・。ところが、今でも、「道半ば」とか言って、小選挙区制が民意を反映しない最悪のシステムだということに目をつむっています。私は許せません。
 本書は、戦後60年の日本政治を、1955年に結党した自民党に着目して分析しています。この本では「保守派」という言葉は使わず、「右派」と「リベラル派」といいます。「タカ派」とか「ハト派」とも言いません。
 押しつけ憲法論にもとづく「自主憲法の制定」という自民党の党是に肯定的なのを右派と呼ぶ。これは、日本国憲法に体現される戦後的価値、安倍の言う「戦後レジーム」からの脱却を目ざすのが右派である。そして、反対に、それを擁護するのがリベラル派である。
 自民党において、リベラル派から右派への主導権の移行、それにともなう政策的な変化を「右派」と定義する。
自民党は結党以来の60年間で非自民八党派の細川護煕(もりひろ)内閣と羽田孜(つとむ)内閣の8ヵ月、民主党の鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦の3年3ヵ月を除いて、政権を担当してきた。
 1994年の政治改革で小選挙区比例代表並立制が実現した。自民党は組織的に変容し、「選挙の顔」となる総裁のもと、次第に集権化が進んだ。
河野洋平総裁の率いる自民党は、小沢一郎らの新政党、新進党に対抗して、社会党や新党さきがけと連立を組み、理念的にはリベラル派が優位に立った。
 1998年に、自社さの枠組みが崩れ、二大政党の一角として民主党が台頭するなか、自民党は右傾化していった。
 2001年に自民党総裁・首相に就任した小泉純一郎は、小選挙区制のもとで、鍵を握る無党派層からの支持を求めて、新自由主義的改革を推し進め、利益誘導政治を本格的に解体していった。党員や支持団体は減少を続け、自民党は選挙プロフェッショナル政党に近づいた。しかし、自民党の支持基盤は脆弱化してしまった。それでも、かつてのような利益誘導政治には回帰できない。
そこで、憲法改正を掲げて「草の根保守」動員を目ざす安倍晋三の時代が訪れた。
 戦後の保守合同の最大の立役者は岸信介であった。岸はA級戦犯容疑者として逮捕され、1953年4月の総選挙で政界に本格的に復帰したばかりだった。岸は、政界への復帰にあたって、一度は右派社会党に入党を打診したほど、親近感をもっていた。
 これには驚きました。信じられませんね・・・。
 1966年の自民党の党員は190万人というのが公式発表だった。しかし、党費を納入するのは、そのうち5万人のみ。議員を除くと、4万人。しかし、その大半は支部の役員。残る185万人は、党費を納めず、党員としての自覚のない、名目的な党員にすぎなかった。
高度経済成長は、利益誘導政治を可能にし、一面では自民党の支持基盤を強固にしたが、もう一面では、それを大きく掘り崩した。1967年1月の総選挙での自民党の得票率は49.2%と、五割を下まわっていた。
 社会党が低迷し、公明党と共産党が台頭して、野党が全体として得票率を伸ばし、自民党にとって脅威となった。それは都市部で顕著であり、1967年4月の東京都知事選挙では、社会・共産両党の支持する美濃部亮吉が当選した。
 革新都政とともに、私の大学生活は始まったのでした。青いシンボルマークがなつかしい・・・。
 1972年11月の総選挙は、田中角栄首相の下、社会党は28増の118議席、共産党は26増の40議席へと躍進した。自民党は16減の284議席だった。
 1980年1月の時点で、自民党の党員・党友は321万人をこえた。総裁予備選挙のおかげである。派閥抗争は、ますます泥沼化した。
 2001年、「古い自民党をぶっ壊す」と叫んだ小泉純一郎が自民党総裁に選出されると、実際に自民党の党組織が大きく変容していった。新自由主義的改革を断行し、利益誘導政治の解体を進めた。
 自民党の候補者は、派閥よりも党への依存を強め、個人後援会を培養する必要性が低下し、利益誘導政治が後退した。
 自民党の党員は1991年に544万人だったのが、2006年には119万人にまで落ち込んだ。そして、後援会が衰退した。
 自民党は、全体として国家財政から支出される政党交付金への依存を深め、その配分権を握る党執行部の統制力が強まった。
 自民党の党員は1999年から200万人を下回り、2009年に87万人、2012年には62万人にまで低下した。自民党の掲げる右派的な理念は世論との間に、大きなずれがある。自民党を支持する有権者と比べてみても、自民党の国会議員は相対として右派的であり、政策的なずれがある。右派的な理念は自民党を結束させる機能を低下させるだろう。
戦後の自民党について分かりやすく明快に分析した本です。250頁ほどですので、ぜひ手にとってご一読してみてください。
(2014年5月刊。1400円+税)
 日曜日に庭の手入れをしていると、いるものジョウビタキが何度も、すぐ近くまでやって来て、「何してんの?」という顔で、こちらを見ています。尻尾をチョンチョンと動かし、可愛らしい声をあげる。ひょうきんな小鳥です。スズメより少し大きくて、茶色の小鳥です。
 今年のよんだ本は590冊ほどになりました。全部、私の読書ノートにつけています、そのうち365冊を紹介しています。目下、司法研修所を舞台にした小説に挑戦中です。どうぞ新年も引き続き、ご愛読ください。

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2014年12月25日

僕たちの国の自衛隊に21の質問

社会


著者  半田 滋 、 出版  講談社

 集団的自衛権についての解釈変更が閣議決定され、いよいよ日本の自衛隊が海外に出かけていって、アメリカ軍と一緒になって戦争をする事態が現実のものになろうとしています。憲法改正することもなく、そんなことをするなんて、まさに無茶苦茶ですが、自公政権そして安倍首相の暴走が止まりません。
 この本は、将来、戦場に行かされる君たちへ・・・、と題するものです。そんなの関係ない、なんて言って、のほほんと構えているわけにはいきません。いつ「赤紙」が来ないとも限らないのですから・・・。
 著者は、20年以上も、防衛省や自衛隊を取材してきた新聞記者です。海外にも、サマーワ(イラク)やアフリカなどの自衛隊の派遣先にも、現地へ足を運んで取材しています。
自衛隊員は22万5千人。陸上14万人、海上4万人、航空4万人。
 日本は、潜水艦を16隻もち、戦闘機は260機を保有している。
 日本の自衛隊は、護衛艦、戦闘機、戦車などの主要な武器が新しくて性能が良く、十分な訓練を積んでいて、自衛官の質と士気が高いことから、世界有数の軍事力をもつと考えて良い。
日本の防衛費は5兆円ほど。人件費・糧食費が44%を占めており、武器を購入する物件費は削られている。
 イージス護衛艦は1隻1400億円、潜水艦は500億円、F35戦闘機は1機100億円する。10式(ヒトマル)戦車は1両10億円。
日本に駐留するアメリカ軍の経費の8割近くを日本が負担している。これは1700億円を超す。
 アメリカの将兵の住む住居の水道・水光熱費までが日本が負担している。もちろん、私たちの税金が使われている。
 日本にいるアメリカ軍は、日本を守るためにいるのではない。日本安保条約によって、アメリカ軍はただ同然で日本にいるが、それでも、自分の都合のよいときに戻ってきてくれるはずだが、本当に戻ってきてくれるという保証はまったくない。なぜなら、自分の都合で、いつだって自分に米軍基地を離れて行動することを認めるという密約があるから。
 イラクのサマーワにいった自衛隊員は、アメリカ軍と一緒になって戦争しに行ったのではなく、あくまでも人道的見地からの復興支援活動だった。だから、自衛隊の装甲車には、大きな日の丸がついていて、漢字まで書かれていた。そして、個々の自衛隊員は、砂漠なのに緑色の服を着て、頭・肩・胸・背中の4カ所に大きな日の丸のワッペンを縫いつけていた。自衛隊員はアメリカの兵士とは違って、戦争に着た分けではないとアピールしたわけである。これは、憲法9条によって交戦権がないことによる制約。しかし、このことによって、イラクへ出かけた自衛隊員は一人の戦死者も出さなかった。それでも、過酷な戦場体験にさらされた自衛隊員の中には日本へ帰国したあと、合計28人もの自殺者を出した。
 集団的自衛権とは、結局、アメリカ軍と一緒になって、中近東などの戦場へ出かけること。
 そこでは、日本の青年が殺し、殺されることになる。戦死者が一人でも出たとき、日本の世論がどう反応するかは怖い。それが国防軍の機能強化に結びつかないという保障はない。
 12月14日の投票日当日、午後から久留米市で、著者を招いて講演会が開催されました。70人ほどの参加者があり、とても充実した内容でした。早ければ、2018年にも憲法改正のスケジュールが具体化される見込みだという話でした。
 その前に、こんな危険な安倍内閣を一刻も早く退陣させる必要がありますよね・・・。
20歳前後の若者向けの本として、とても分かりやすい内容です。ぜひ、お読みいただき、周囲の若者へ、一読をおすすめください。
(2014年10月刊。1300円+税)

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2014年12月26日

中東民族問題の起源

中東


著者  佐原 徹哉 、 出版  白水社

 20世紀はじめのトルコにおけるアメニスト人虐殺事件がとりあげられています。
オスマン体制のもとで、アルメニア人は、よく順応し、長くスルタンにもっとも忠実なキリスト教臣民と見なされていた。
 オスマン時代の都市は、居住地区と商工業地に明確に分かれていた。居住地区では、同じ宗教に属する者たちが集まって暮らす傾向にあり、ムスリム、アルメニア人、ギリシア人、ユダヤ人などといった宗教ごとの街区(マハラ)が存在した。街区は、モスクや教会などの宗教施設を除くと民家が集まっているだけの場所であり、とくに用事のない限り、よそ者が入っていくことはなかった。他方、商工業地区は、宗教・民族の違いをこえた都市住民の共通空間ある。都市に居住するアルメニア人の多くが商人・手工業者であったため、ムスリムが彼らと接触する場所も市場だった。市場付近には、大きなモスクもあり、ムスリムが結集しやすい条件も備えていた。そのため、暴動が市場地区で始まり、居住区に向かうのは、暴動が自然発生的であったことを示唆している。
 アルメニアとトルコの双方に陰謀説がある。しかし、両方の説とも荒唐無稽なものであり、史料にざっと目を通すだけで欠陥が明らかになるお粗末な代物だ。ところが、今もって権威ある定説としてまかり通っている。
 武器商人たちが、公衆の面前で武器を売り歩いた。この商人たちは、武器の売り上げを増やす目論見から、虐殺や反乱の噂を利用した。あるときは、キリスト教徒が、またムスリムがまもなく虐殺をはじめるという話が、武器商人のセールストークを通じて拡散した。そのため、人々の疑心暗鬼はとどまるところを知らなくなり、先を争って武器弾薬を手に入れようとする風潮が広まった。さまざまな武器が市場で、店頭で、また道端で堂々と売られた。
 新聞は、武器の入手が合法であり、家族の命と財産と名誉を守るために必要だというキャンペーンを展開し、アルメニア人コミュニティの指導者たちも武器の購入を奨励していた。聖職者たちも武装することを推奨した。
 多数のアルメニア人が軍事訓練をはじめた。このようにして、アルメニア人は、一方的に武装をはじめた。
 アルメニア人の地主は、ムスリム地主よりも、農業経営に熱心だった。あからさまな経済格差が、宗派コミュニティ間の緊張を生む原因となった。半飢餓状態で暮らすムスリム農民たちは、アルメニア人たちのいい暮らしぶりをねたんだであろうし、ときには敵意すら感じただろう。
騒乱がアルメニア人の陰謀でなかったことを証明する、おそらく最良の証拠は、騒乱の間中、アルメニア人が一貫して専守防衛に徹していたことだろう。アルメニア人の方からムスリム側の陣地に攻撃を仕掛けることはなかった。
 アルメニア人たちの一致団結した戦いに比べて、ムスリム人たちの攻撃は、場当たり的だった。人数こそ圧倒的だが、ムスリム人は島合いの衆にすぎなかった。ムスリムたちは、せいぜい拳銃程度の火器しか準備していなかった。ほとんどのムスリム暴徒たちは、手近にあった道具を武器代わりにしていた。これは襲撃に計画性がない、何よりの証拠である。
暴動の小さかった地区では、多くの行政官と治安当局者がアルメニア人を敵視せず、混乱の原因がムスリム民衆の動揺にあると分析していた。この適切な状況認識にもとづいて効果的な予防措置を講した。役人たちが冷静で慎重な態度を示したことで、ムスリムとアルメニア人の双方が一定の信頼関係を保ち、しばしば共同して防衛体制を構築することができた。これは、正しい判断と適切な措置を講じることによって破滅的な事態を回避できたことを意味する。
暴動や略奪を開始したのは、難民や季節労働者だった。
 20世紀の初めに起きた虐殺事件の総括から、冷静な対応によって防止することが出来るものだという教訓が導き出されています。今の日本のような「ヘイト・スピーチ」は、まさに日本を戦争への道にひきずり込もうとする危うい道なのです。絶対に繰り返してはなりません。大変に勉強になりました。
(2014年7月刊。3200円+税)

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2014年12月27日

ブラックウォーター、世界最強の傭兵企業

アメリカ


著者  ジェレミー・スケイヒル 、 出版  作品社

 「殺しのライセンス」を持つアメリカの影の軍隊は、世界で何をやっているのか?
 これが本の帯についたフレーズです。イラク戦争での民間人の虐殺、アルカイダ幹部など反米分子の暗殺、シリア反体制派への軍事指導などの驚くべき実態。そして、アメリカの政府界の暗部との癒着が暴かれています。
この悪名高いブラックウォーター社は今ではありません。といっても、名前を変えただけです、今では、「アカデミ」と名乗っているとのこと。シリアでの反アサド勢力の武装兵士たちを訓練し、同社の傭兵がトルコからシリアへ数千人単位で派遣されているという。また、ウクライナにおける動乱にもかかわっている。
ブラックウォーターは、日本では、つがる市(旧車力村)のレーダー警備にあたっていた。
 イラクで2005年6月から2007年9月までに、ブラックウォーターが関わって死者が出た発砲事件は少なくとも10件あった。
 ブラックウォーターは、単なる警備会社の一つではなく、アメリカによるイラク占領でもっとも重要な役割を果たしていた傭兵企業だった。ブラックウォーターが、この役目を担い始めたのは、2003年夏に2700万ドルの随意契約を受注してからのこと。それは、ポール・ブレマー大使の警護をする契約だった。
 イラクでの最初の契約から2007年後半までのブラックウォーターは、国務省を通した「外交安全保障」関係だけでも10億ドルの契約を得た。
 マリキ首相はブラックウォーターの追放を訴えたが、その後もブラックウォーターはイラクに居続けた。これは、イラクに主権がないことをはっきり示したということ。
 イラクでサービスを提供していた傭兵企業は170以上あったが、ブラックウォーターは、これらのなかで最新鋭集団と広く認められていた。
アメリカ要人の警備にあたっては、イラクの一般市民の生命はまったく軽視された。
 ブラックウォーターは、軍ではなく、アメリカ政府直属の監督下にあった。
 2005年から2007年10月までにイラクにいたブラックウォーターの要員が砲火を開いた件数は195件、そのうち80%以上で、最初に発砲したのは、ブラックウォーターだった。
 ブラックウォーターは、イラクにいる隊員を120人以上も解雇した。これは、イラク派遣の人員の7分の1にあたる。
 イラクの戦場には、推定10万人の民間契約要員がいた。
 対テロ戦争とイラク占領は、アメリカに多くの企業を生み出したが、ブラックウォーターほど華々しく権力と利益を手にし、隆盛を成しとげた企業は、ほとんど存在しない。
 ブラックウォーターは、アメリカをふくむ9ヶ国に2万3000人以上の傭兵を派遣している。ブラックウォーターは、武装ヘリコプターを含む20機以上からなる航空隊を擁している。
 ノースカロライナ州にある本部は、世界最大の民間軍事施設であり、1年に数万人の警察官や「友好国」の部隊が訓練を受ける。
ブッシュ政権が宣言した「対テロ戦争」で最大の受益者となったのは、ブラックウォーターだった。オサマ・ビン・ラディンが、今日のブラックウォーターを作ったのだ。
 多くのアメリカ兵は、傭兵に恨みを抱いていた。平均的なアメリカ兵(歩兵)が1週間かかって稼ぐお金を、傭兵は一日で稼いでいる。
ブラックウォーターの契約要員は、殺されるか不具にされる可能性が高いことを知りながら、自らすすんでイラクへ行った。契約書には、その点が明記されていた。
 ブラックウォーターは、アメリカ国内のカトリーナ災害のときにも出動し、巨額の利益をあげた。
2008年、イラクにおけるアメリカ軍の現役兵の人数と民間契約要員数は1対1だった。
 アメリカ当局の個人警備サービスは、2003年には500万ドルの支出だったのが、2006年には6億1300万ドルまではね上がっている。
 民間軍事企業に戦争の重要な役割を任せることは、必ず大きな腐敗を生み出すものだと思いました。そして、それは、また無責任体制ともつながっていきます。「イスラム国」の「隆盛」も、この民間軍事会社頼りと無関係ではないでしょう。軍事に頼るだけでは、本当の解決にならないことに一刻も早く、アメリカ国民は気がつくべきだと思いました。
 500ページもある大部な労作です。
(2014年8月刊。3400円+税)

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2014年12月28日

アルピニズムと死

人間


著者  山野井 泰史 、 出版  ヤマケイ新書

 ここまでして山登りするのかと、ついつい深い溜め息が出ました。
 何度も死の危険に直面し、山の仲間が何人も死んでいます。そして、凍傷のため手足の指は満足にありません。さらには、山の中を走っていて熊に顔をかじられ、鼻をなくしたというのです。いやはや・・・。
 山に出かけるのは、年間70回。40年の間に3000回近くも山へ登りに行って、なんとか生きて返ってきて今日がある、というわけです。それでも、著者が死ななかった理由。
 それは、若いころから恐怖心が強く、常に注意深く、危険への感覚がマヒしてしまうことが一度もなかったことによる。
 自分の能力がどの程度あり、どの程度しかないことを知っていたから。
 自分の肉体と脳が、憧れの山に適応できるかを慎重に見きわめ、山に入っていった。
 山登りがとても好きだから、鳥の声や風や落石や雪崩の音に耳を傾け、心臓の鼓動を感じ、パートナーの表情をうかがいつつ、いつ何時でも、山と全身からの声を受けとろうと懸命になる。雪煙が流れる稜線、荒い花崗岩の手触り、陽光輝く雪面、土や落ち葉の色、雪を踏みしめたときの足裏の感触・・・。山が与えてくれるすべてのものが、この世で一番好きだ。
ソロクライマー(単独登山家)はリスクが高い。実際にも、多くの悲しい現実がある。しかし、この世のもっとも美しく思える行為は、巨大な山にたった一人、高みに向けてひたすら登っているクライマーの姿なのである。
山中でトレイルランニングをして身体を鍛える。家でも腹筋運動のほか、酸素をたくさん取り込めるように、15分間は腹式呼吸の練習をする。
 脂肪はもちろん、大きな筋肉をつけないように注意し、毎日、体重計に乗る。
 体力に余裕があれば、登山中でも視野を保て、危険を見抜く能力を保つことができる。
 トレーニングは、肉体だけでなく、想像するイメージトレーニングもする。下半身に乳酸をためないようにする。
私は、著者が今後も無事に、好きな山登りを続けてほしいと思いました。
(2014年11月刊。760円+税)

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2014年12月29日

日清・日露戦争をどう見るか

日本史(明治)


著者  原 朗 、 出版  NKH出版新書

 来年(2015年)は、敗戦から70年になります。実は、明治維新(1868年)から敗戦の年までは、なんと77年間しかありません。この77年間に、日本は、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦という4つの大きな戦争を担っています。そして、第二次世界大戦は、15年戦争とも呼ばれています。
 戦前の日本は、ほぼ10年に1度の割合で大きな戦争を遂行していたのですから、まさしく好戦国ニッポンだったわけです。ところが、戦後70年になろうとしている日本は、平和な国ニッポン、戦場で人を殺したこともなければ、日本人が殺されたこともないという、世界にまれな国になってしまいました。
 日本ブランドは、平和、なのです。そんな平和の国、日本のパスポートの価値が高いのも当然です。
 明治・大正・戦前の昭和までの日本は、ほぼ10年ごとに戦争を起こしていた国だった。もっと言うと、日本は、ほぼ5年ごとに戦争ないし出兵をしていた国だった。
 日清戦争、日露戦争というのは、その戦争目的は、最初から最後まで朝鮮半島の支配権を争うものだったし、戦場もほとんどが朝鮮半島だったから、この二つの戦争は、「第一次・第二次朝鮮戦争」と名づけたほうが、より戦争の「実相」に近い。
 1894年7月23日、日清戦争の直前、日本軍はソウル(漢城)の朝鮮王宮を正面から攻撃してこれを占領、朝鮮軍を武装解除し、朝鮮国王の高宗に対して父の大院君を国政総裁とするように強制した。
 日本軍が朝鮮王宮を占領したのだから、これは明確な日本と朝鮮との戦争である。だから、最近では、「7月23日戦争」とも呼ばれている。
 伊藤博文は、陸奥宗光とは違って日清協調派で、日本と清国とが協力して朝鮮の改革を進めようと考えていた。日清戦争は、陸奥と同じ強硬派だった陸軍参謀本部の川上操六・次長の二人で進めた。
 陸奥宗光の日記(「蹇蹇録」)によると、日本は欧米に対しては神経をはりめぐらせ、注意深く慎重に、ほとんど卑屈とも言えるほどの態度をとりつつ、返す力で朝鮮と清国に向かうときには、傲岸不遜ともいえるほどに拳骨を振り上げる。その二面性の対照が興味深いものであった。
明治政府の対外政策は、欧米には、徹底的に丁重に、朝鮮と清国に対しては徹底的に弾圧的にというものだった。
日清戦争の前、日本人の多くは、内心では、誰だって「支那」を恐れていた。ところが、戦争で日本が次から次に勝利をおさめていくと、だんだん勇ましい感情をもち、中国を軽蔑・憎悪するようになっていった。メディアも、中国人を愚弄・嘲笑するような報道を始め、その記事を庶民が楽しむようになっていった。
 このようにして、日清戦争は、日本人の中国に対する感情の一大転換点となった。日清戦争によって、日本に「国民」が誕生し、天皇の権威も確立した。
日露戦争のあと、1905年に「日比谷」焼打事件が起きて、政府は戒厳令を布いた。
 日露戦争のあいだ「勝った、勝った」という宣伝を信じていた民衆は、ポーツマス条約の内容を知って、賠償金もなく、領土の獲得も南樺太だけ、獲得できた利権があまりに少ないと憤慨し、東京など各地で反対集会や警察等への襲撃・焼打ち事件を起こした。
政府は、この事件を小さく見せるために、「日比谷」焼打事件という名前を付けたが、実際には、東京市全体にわたって交番などが焼打ちされ、さらには神戸や横浜など各地にも広がり、初めて戒厳令が布(し)かれた。戦前の日本で戒厳令が布かれたのは3回のみ。このときと、関東大震災、そして二・二六事件のとき。
 「日比谷」焼打事件について、司馬遼太郎が、明治日本はこのときから転落しはじめたと言っている。しかし、その反対に、このときから民衆が政治に登場し、大正デモクラシーに向かって進みはじめたといえる。
 民衆は、勝った、勝ったと思い込んでおり、本当は、日露戦争が「痛み分け」だったことを知らなかった。そして、日清戦争にも勝った、日露戦争にも勝った、日本は不敗の国だと信じ続けていくことになった。これって恐ろしい迷信ですよね。
 司馬遼太郎の小説に書かれていることを史実と思わないようにという指摘が何度も繰り返されています。なるほど、そうなんだと私も思いました。日清・日露の両戦争の意義をとらえ直すことのできる、貴重な新書だと思いました。
(2014年10月刊。780円+税)

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2014年12月30日

「戦場体験」を受け継ぐということ

日本史(戦前)


著者  遠藤 美幸 、 出版  高文研

 元日航・国際線スチュワーデスだった著者(現在は歴史学者)によるビルマ戦線における日本軍全滅戦を記憶・再現した貴重な本です。
戦争というものの悲惨さ、というより、むごさをじわじわと実感させてくれます。というのは、拉孟(らもう)の陣地にたてこもる日本軍守備隊1000人近くが中国軍によって全滅させられた事件を丁寧に掘り起こしているからです。
 それができたのは、数少ない生存者がいたこと、その生存者にインタビューできたこと、さらには、現地に出向いて、現地の攻めた中国軍からも取材できたことによります。10年という長い歳月をかけての取材が本書に結実しています。
日本軍の将兵の無残な戦死を記録する貴重な本だと思いました。そして、それらの将兵の多くは、九州出身だったのです。本当に哀れです。
 1944年6月、米中連合軍4万が日本軍の拉孟陣地を包囲した。
 3ヵ月あまりの死闘の末、9月7日、日本軍の拉孟守備隊は全滅した。その拉孟全滅戦の実情が本書によって明らかにされているのです。
 1944年3月、北ビルマを起点としたインド侵攻作戦(インパール作戦)が始まった。これは、ビルマ奪回を狙うイギリス軍の作戦拠点であるインド東北端のインパールを攻略し、さらにはインド独立運動に乗じてインドの反英独立運動の気運を醸成し、イギリスの支配からインドを分断しようということだった。ところが、補給をまったく無視したインパール作戦は史上最悪の作戦となり、日本兵の「白骨街道」を残して終わった。
 1944年7月3日、日本軍大本営はインパール作戦の中止を命じた。
 インパール作戦の失敗後、中国雲南西部の山上陣地であった拉孟の戦略的な重要性が一挙に高まった。
 1944年6月から、拉孟守備隊1300人と、4万人の中国軍とのあいだで、100日間の攻防戦が続いた。日中の兵力差は15倍以上だった。
 連合軍(アメリカ)からの軍事援助で補強された中国軍に日本軍の拉孟守備隊は全面的に包囲され、武器・弾薬そして食糧の枯渇のなかで、1944年9月7日に拉孟守備隊、そして続いて9月14日に騰越守備隊が相次いで全滅した。これによって、日本軍は北ビルマから完全に排除された。
拉孟守備隊1300人と言っても、傷病兵300人をふくんでいるので、実質的な戦闘力は900人もいなかった。それに対する中国軍の総兵力は4万人を上まわっていた。
 この拉孟陣地にも、従軍慰安婦が20人ほどいた。朝鮮人女性15人、日本人5人だった。
 これらの女性の存在理由は、日本軍将兵の性欲はけ口以外のなにものでもなかった。女性たちの恥辱と苦恨は、心身から生涯、消えることはなかった。
 そして、日本軍の拉孟守備隊のなかに、朝鮮人志願兵がいた。それは全体の2割を占めている。
 著者は1985年8月のJAL御巣鷹山事故のとき、JALの社員でした。そして、飛行の安全のためにJALの第二組合を脱けて第一組合に加入したのです。それは、「当然のように」、さまざまな嫌がらせと差別を伴ったのでした。若い女性には耐えられない、ひどさでした。
 日本軍の無謀な戦争と、現代日本における違法・不当な大企業における労務管理の生々しい実態を図らずも結びつけた貴重な本です。
(2014年11月刊。2200円+税)

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2014年12月31日

データで読む平成期の家族問題

社会


著者  湯沢 雍彦 、 出版  朝日選書

 日本の家族に関する面白いデータが満載の本です。
平成22年(2010年)時点では、男の80%、女の90%は50歳までに一度は結婚している。
 児童虐待は小さなものまで含めると最近は急増し、年に6万件が報告されている。格差が拡大し、低所得家族での親子関係は悪化している。
 夫婦として暮らしている者(内縁を含む)は3200万組あり、年間の離婚件数23万件は微々たるものにすぎない。したがって、制度としての婚姻は健在であり、夫婦と親子の大部分は安定していると言える。
 出生の実数は、平成2年に122万人、平成12年に119万人、平成23年は105万人と減少を続けている。
 婚姻件数は、昭和47年に史上最高の110万件、婚姻率10.4%。その後、急速に下降し、昭和62年に69万件、婚姻率5.7%、平成25年には66万件、婚姻率5.2となっている。このように婚姻志向は明らかに低下している。
 結婚式の費用は、平成23年344万円。ご祝儀226万円を除いて、120万円の負担。招待客の平均は74人で、やや減少しつつある。
 この25年間で目立つのは、再婚の増加。再婚における女性のためらいは、非常に低くなってきた感じである。
 「妻の氏」を称する再婚が、妻再婚の場合に6.6%、夫再婚の場合に4.7%、そして再婚同士の場合には9.0%。この最大の理由は、子連れで再婚する妻とこのために、その姓を変えないようにしたいという思いやりが強まったことによる。
平成1年の離婚件数は15万8000件、平成14年には29万件となった。ところが、平成15年から減少していて、平成23年には23万6000件となった。日本は離婚が多い国とは言えない。先進国の中では、イタリアを除いて、最も低い。100組に1組の夫婦も離婚していない。
 日本では、養子縁組が年間8~10万件ある。日本は世界有数の養子大国である。ところが、特別養子縁組は、この10年間に年間400件未満しか成立していない。
 葬儀費用は平均231万円。高額なのは東北で283万円、低額なのは四国で150万円。
 樹木葬墓地は、供養代を含めて50万円ほど。
成年後見の申立は平成12年に7451件、平成23年は2万6000件で、4倍近くも増えた。禁治産の申立件数の10倍にもなる。認定されたものの累計は21万人。
 しかし、ドイツは、人口が日本の3分の2でしかないのに、年120万人が利用している。日本も120万人が利用して当然なのだが・・・。
これらのデータは、日本の家族問題を考えるうえで、また家族をめぐる事件に対処するとき、必須不可欠の基本的知識と言えます。
(2014年10月刊。1400円+税)

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