弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦国)

2022年12月25日

里見義尭(よしたか)


(霧山昴)
著者 滝川 恒昭 、 出版 吉川弘文館

 曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」は、まさしく血湧き、肉踊る武勇伝ですよね。江戸時代にベストセラーになって、今も大人気の物語です。本書は、その里見氏の実像をとことん明らかにしています。
 いやあ、戦国時代を生き抜くって、実に大変なことなんだと、思わず追体験した気分になりました。身もフタもありませんが、結論から紹介すると、里見家は結局、江戸時代初めに没落してしまったのです。
 房総から鳥取の倉吉に3万石に減封のうえ転封された。そして、倉吉の領地も取り上げられ、大名里見家は消滅してしまった(1622年)。
 ところが、里見氏が安房(あわ)を去ったあとも、一族の大半はそのまま安房の地に残って百姓や医者、村の指導者層になった。そして、改めて里見氏の歴史を軍紀ものとしてつくりあげていったというのです。なるほど、その気持ちはよく分かりますよね...。
 この本の主人公は、里見氏のなかでもっとも輝いている義尭に焦点をあてています。
 里見氏は、清和源氏八幡太郎義家の子孫で、里見郷(群馬県高崎市)を名家の地とした。里見家に天文の内乱(1533年)が起きた。これは、北条氏と密かに結んで下剋上をも起こしかねない叔父の里見義尭とそれに与(くみ)する正木氏などの勢力に対し、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と連携していた里見義豊が機先を制して誅伐を加えたというもの。
 里見氏は、強大な実力を有する北条氏と江戸湾をはさんで対峙していたが、それは江戸湾で活動する野中氏や吉原氏のような地元勢を、その配下として握っていたことによる。
 江戸湾岸に暮らす人々は、北条と里見という双方の勢力に対して年貢を納める(半手(はんて)、半済(はんぜい)と呼ぶ)ことで、安全を確保していた。
 上杉謙信が関東侵攻をしていたころ、里見氏は上杉氏と同盟関係を結んで北条氏と対抗していた。上杉氏の関東侵攻に北条氏が対応しているスキを見て、北条氏勢力が手薄になった地域に侵攻することを基本戦略としていた。
 天文の内乱に勝利して、里見家の家督と安房国主の座を得て以来、40年間、里見氏を名だたる東国の諸大名と肩を並べる地位にまで義尭は押し上げた。その義尭は1574(天正2)年6月1日に亡くなった。享年68歳。その後、里見家は秀吉の時代に、安房一国だけの領有を認められた。当主の義康が31歳で亡くなった(1600年)。
 当主が20代や30代でなくなると、配下の武士たちがテンデンバラバラになってしまうというのが、今の私にはよく分かりません。それでも、実は武士の領主も辛い立場にあって、気楽な存在ではないことだけは、よく分かりました。
(2022年8月刊。税込2530円)

2022年10月26日

最上氏三代


(霧山昴)
著者 松尾 剛次 、 出版 ミネルヴァ書房

 出羽(山形)の雄将として名高い最上(もがみ)氏三代の栄衰史です。あまり期待もせずに読みはじめたのですが、いやいや、どうしてどうして、とても面白い盛衰記でした。
 初代の最上義光は家康の意を受けて、関ヶ原の戦いのとき、上杉景勝と一歩も引かずに激闘したおかげで、関ヶ原に上杉勢は行くことができなかった。その功績を家康は高く評価し、戦後、天皇に面会するとき義光を同行させたほどです。しかも、領地を一度に増やしてやりました。
 このときの家康の会津(上杉勢)攻めは、豊臣秀頼の許可を得て、秀頼から金2万枚、米2万石をもらっていた。つまり、これは家康の私戦ではなく、豊臣秀頼の承認のもとに行われた、豊臣軍による征討だった。
 ところが、石田三成が秀頼に働きかけて、家康を弾劾するようになったので、上杉景勝を征伐する大義を失った。それで、伊達政宗も二股外交に走り、上杉方と停戦するに至った。それでも最上義光は上杉勢との戦闘を続けた。しかし、上杉が120万石に対して、最上は13万石でしかない。単独で戦えば、勝敗は明らかだった。しかし、関ヶ原の戦いで西軍の石田方が敗北したことで、大きく局面は変わった。
 上杉勢に石田方敗北の報は9月30日に入った。結局、最上義光は13万石から57万石の大名となった。
 ただ、最上勢のなかに1万石をこえる大名クラスが15人もいて、山形藩の統治は難しかった。
 山形城には天守閣がない。城下整備などの土木事業は、百姓の疲弊をもたらす。最上義光は「民のくたびれにまかりなり候」と考えていた。
 最上義光は、父の義守と親子対立し、死闘を繰り広げた。そして、自分自身も子の義康と対立し、横死させてしまった。何の因果か...。
 これには、義康が豊臣秀頼の近習であったことから、家康が秀忠の近習だった家親を最上家の跡継ぎとするよう、そのため義康を排除するように義光に指示したのだろうとされています。
 なるほど、最上家にも豊臣秀頼と徳川秀忠のどちらにつくか、二つの流れがあったわけです。
 そして、その家親。家親は、秀忠の近習として、大変信頼されていたようです。ところが、家親はずっと秀忠のそばにいたため、山形藩のなかに直臣を形成することができなかったうえ、なんと36歳という若さで急死してしまったのです。
 すると、その次、三代目は、まだ12歳。いかにも頼りがない。重臣たちが、勝手気ままに分裂して、まとまりのない藩になった。そこで、「家中騒動」(重臣の不知)を理由として、改易を申し渡され、1万石に転落した。さらには、大名ではなく、5千石の旗本にまで降格された。
 最上家には、もう一つの悲劇が襲った。義光の娘が豊臣秀次に嫁入りしていたところ、秀吉に子(のちの秀頼)が出来たことから秀次は切腹させられ、同時に、秀次の妻妾たちも一挙に惨殺された。そのなかの一人に義光の娘が入っていた。しかも、娘の死を追うようにして義光の妻まで死んでしまった(恐らく自死)。
 戦国時代の武将が、なかなか厳しい人生を送っていたことを実感させられる本でもありました。
(2021年12月刊。税込3850円)

2022年10月23日

明智光秀


(霧山昴)
著者 早島 大祐 、 出版 NHK出版新書

 明智光秀は医者だったようです。光秀は牢人時代に医者をして食べていたようだ。つまり、越前で牢人医師をしていた。光秀は、京都代官のとき、医者である施薬院全宗のところによく泊まっていた。
 足利義昭が没落したあと、光秀は織田信長の家臣となった。そして、京都の市政を担当する代官となった。村井貞勝と2人で代官の職務をとった。
 光秀の妹、御妻木殿(おつまきどの)が信長に側室として仕えていた。
 これは、知りませんでした。そして、この妹は光秀と信長とを結ぶ重要な役割を果たしていたというのですが、天正9(1581)年8月に死んでしまったのでした。妹は機転がきいていて、信長の意向全般に通じていたそうです。そんな重要な位置にいた妹を失ったことが本能寺の変を光秀が決断する遠因となっている、とのこと。これはまったく初めての知見です。
 信長は、訴訟の基本方針だけを示し、あとは信長の意向を忖度(そんたく)して、光秀らが裁許した。信長の指示は、「当知行安堵(あんど)」、すなわち現在、管理、運営している者を優遇せよ、というものだった。
 本能寺の変の前、信長は一族優先等に切り替え、着々と実行していた。つまり、織田一族に連なる、重代の家臣、直属の家臣たちの権威を高めていた。一族を中心に織田家中が序列化されていっていて、その意味で信長の周囲には、組織の自由な雰囲気は失われ、硬直化しつつあった。「外様」の光秀は、これによってはじき出されつつあったようです。
土地調査の方法として、秀吉は現地に出向いて調査して土地台帳をつくるようにした。これを検地という。これに対して光秀は、自らは現地に行かず、現地からの報告にもとづいて土地台帳を決定した。これを指出という。
いろいろ知らないことが書かれていて、勉強になりました。
(2020年1月刊。税込968円)

2022年9月17日

論争、関ヶ原合戦


(霧山昴)
著者 笠谷 和比古 、 出版 新潮選書

 いやあ、とても勉強になりました。関ヶ原合戦についての俗説・珍説を徹底的に論破していて、胸のすくほど小気味よい論述のオンパレードです。
 私とほぼ同じ団塊世代の著者は、関ヶ原合戦論を公刊しはじめて25年にもなるそうです。なので、その論述は、いかにも重厚で、説得力にあふれています。
関ヶ原合戦において、もっとも多くの果実を得たのは徳川家康ではなく、家康に同盟して戦った豊臣系武将であった。関ヶ原合戦は、むしろ豊臣政権の内部分裂の所産であり、それに家康の天下取りの野望が複合したもの。
著者の関ヶ原合戦の核心は、西軍決起の二段階論にあります。第一段階では、石田三成と大谷吉継の二人だけの行動だった。この時点では、大坂城にいる淀殿も豊臣家三奉行(前田玄以、増田長盛、長東正家)も関与しておらず、むしろ会津(上杉)討伐に出征していた家康に早く上方に戻ってきて、この不穏な情勢を鎮静化してほしいと要請していた。すなわち、三成決起の第一段階では、淀殿と豊臣三奉行という豊臣公儀の中枢は家康支持だった。そして、第二段階は、淀殿も豊臣三奉行も家康討伐の陣営に加わることを決断し、家康が謀叛人と位置づけられ、三成方西軍に豊臣公儀の正当性が与えられた。
石田三成が加藤清正ら反三成派に攻めたてられたとき、家康の屋敷に逃げこんだというのが昔の通説だったが、今では誤りで、三成は伏見城内にあった自分の屋敷にたてこもったことが確定している。家康は、伏見城の外に屋敷を構えていたので、三成は、あくまで伏見城内の自分の屋敷に入って、立て籠もった。通説も間違うことがあり、変わるものなのですね。
家康への上杉方の直江兼続の挑発的な内容の書面は格好の口実を与えるものだった。これによって、上杉の会津征討を呼号し、家康は大軍を率いて出陣する。そのために上方から脱出でき、家康にとって天下とりの好機が到来した。
小山の評定は実在した。
関ヶ原合戦場に向かう秀忠の軍勢は3万8千。中山道をたどって関ヶ原に到着するはずだった。なぜ、中山道か...。その最大の眼目は、信州上田城の真田勢を制圧することにあった。この秀忠配下には、榊原康政、井伊直政、本多忠勝がいて、徳川謙代の三大武将が配属されていた。彼らは、前線を担当する攻撃型戦力である秀忠軍の軍事能力の中核をなしていた。
家康は、もし西軍が豊臣秀頼を先頭にいただいて出陣してくるような事態になったとき、果たして福島正則以下の豊臣武将たちは、家康とともに東軍として戦い続けてくれるのかどうか、大いなる不安があった。なーるほど、それはそうでしょうね...。
この不安と迷いがあったからこそ、家康の出陣は9月1日と遅れた。徳川郡の主力部隊を率いていたのは家康ではなく、秀忠だった。家康の部隊3万は、家康を中心とする本陣を守護する旗本本部隊であり、本質的には防御的な性格の部隊だった。
福島正則たち、東軍にいた豊臣武将たちは、家康に味方して三成方西軍を打倒するという意識と行動は、「秀頼様御為」への配慮が両立するものと考えていた。つまり、家康に従った豊臣武将たちは、豊臣家を見限って家康についたのではなく、豊臣家と秀頼に対する忠誠心を保持したうえで、家康に従っていた。
もし、家康ぬきで、家康が江戸にとどまったままで、この東西決戦の決着がついてしまうならば、家康の立場はどうなるか。家康の武将としての威信は失墜し、戦後政治における発言力も指導力も喪失してしまうことは明白ではないか。軍功がすべての政治的価値を決定する武家社会なのだから。家康は、岐阜合戦における豊臣武将たちの華々しい戦果の報に接したあと、前線に相次いで使者を派遣して新たな作戦の発動を停止して、家康・秀忠の到着を待つよう、繰り返し指示した。
三成側が秀頼を戦場にひっぱり出すことは絶対に避けなければならないことだった。そのためには、家康の行軍は秘匿しておかなければならなかった。
関ヶ原合戦における豊臣系武将たちの貢献度は絶大であり、秀忠ひきいる徳川軍主力軍の遅参という不測の事態がそれを加速した。
関ヶ原合戦のあと、家康は大坂城に入って、秀頼・淀殿に会っているが、まだ、このときには豊臣家側のほうが依然として家康より上位にあった。
いやはや、家康のほうも危い綱渡りをさせられていたのですね...。これこそが、まさしく関ヶ原合戦の真相だと納得できます。
(2022年7月刊。税込1650円)

2022年7月 5日

宮廷女性の戦国史


(霧山昴)
著者 神田 裕理 、 出版 山川出版社

現代の私たちは、天皇がいて、皇后がいるのは当然のこと、夫がいて妻がいるのと同じと考えています。ところが、この本によると、14世紀の南北朝時代から17世紀の江戸時代の初めまでの300年のあいだ、皇后はいなかったというのです。ええっ、では誰が天皇の世継ぎを生んでいたのか...。それは、後宮女房たち。
なぜ皇后がいなかったのか。それは、この300年間、朝廷にはそれだけの財力がなかったから。皇后を立てる(立后)の儀式を挙行する費用がなかったこと、立后したあと必要になる「中宮職(しき)」という家政機関(役所)を設立・維持するだけの財力もなかった。
また、娘を皇后として出せるはずの上流公家にも、それほどの財政状態になかったので、娘を入内(じゅだい)させようという積極的な動きがなかった。
立后が復活したのは江戸時代の三代将軍家光のとき。二代将軍秀忠の五女・和子(まさこ)が入内することになった。
女房職(しき)の相伝については、ある「慣習」があった。すなわち、後宮女房は、出身の「家」によって、就くべき職(ポスト)が決まる傾向にあった。
『お湯殿の上の日記』は、後宮女房によって、かな書き、女房詞(ことば)で書かれた執務日記。なんと室町時代から江戸時代まで350年間も書きつづられている。いやあ、これは知りませんでした。こんな日記があっただなんて...。
日記の書き手は後宮女房で、天皇は何日かおきに日記に目を通していた。ときに、天皇が自ら記すこともあった。贈答(献上・下暘)についても、目的・品目など、こまごまと記されている。食料品は、当時の食生活の一端を知ることができる。たとえば、織田信長から朝廷へ鶴が10羽、献上された。鶴は長寿の薬とされていて、食用として珍重されていた。
女房詞には、現代にも残っているものがある。しゃもじ、おでん、おひや、さゆ、おみおつけ、おこうこ、など...。
朝廷をゆるがす大スキャンダル(密通)事件がたびたび起きていたことも改めて知りました。後宮女房と公家衆の密通事件は、それほど珍しくはない。しかし、慶長14(1609)年のものは、関係者があまりに多数だった。公家衆8人、地下人(じげにん。医師)、後宮女房衆5人。
幕府に仕える女房たちは、将軍権力の一端を担う幕臣でもあった。そして、幕府に訴訟がもち込まれたとき、女房たちも深く関与した。
日本の女性が昔から政治に深く関わっていたことを明らかにしている本でもあります。
(2022年4月刊。税込1980円)

2022年6月12日

戦国日本の軍事革命


(霧山昴)
著者 藤田 達生 、 出版 中公新書

この本には、私の知らなかったことがいくつも書かれていて、大きく目を見開かされました。
その一は、種子島への鉄砲伝来。実は、すでに倭寇が介在して琉球などに火縄銃が入ってきていたというのです。種子島はワンノブゼムだった可能性があります。
鉄砲の国産化は日本がアジアのなかで最速だった。そして問題は、火薬と鉛の入手。硝石は、国内では産出できず、輸入するしかなかった。中国の山東省や四川省。また、鉛はタイのソントー鉱山。そうだったんですね。
鉄砲は、砲術師、鉄砲鍛冶、武器商人という三者の緊密な関係が成立しなければ機能しない。
織田信長は、イエズス会を介して硝石や鉛を大量に確保していた。イエズス会宣教師によって、タイ産の鉛と中国産の硝石がセットで輸入され、堺の商人を経由して信長のもとに届けられた。イエズス会と信長の親密さの背景には、キリスト教保護の見返りとしての軍事協力があった。実際に、長篠の戦いの古戦場から、信長方の使用した鉄砲玉のなかにタイ産鉛が確認されたのだ。
鉛は、鉄や銅に比べて鉄砲玉としては使いやすく、また対人殺傷効果も抜群だった。
長篠の戦いにおいて、武田軍もそれなりの鉄砲はもっていたが、その玉薬と鉛の備えが信長軍とは格段の差があり、それが戦場の勝敗に直結したということなのです。うむむ、なんという明快な解説でしょうか...。
家康は大坂の陣のとき、大砲の威力を大いに発揮させた。その大砲はイギリス商館を経由して、ヨーロッパ製のカルバリン砲(最大射程6300メートル)やヤーカー砲(同3600メートル)であり、それらを1門1400両で購入した。
いやあ、知れば知るほど、歴史は面白くなってきますね...。まったく目が離せません。
(2022年3月刊。税込924円)

2022年5月21日

信長家臣・明智光秀


(霧山昴)
著者 金子 拓 、 出版 平凡社新書

明智光秀がなぜ突如として信長を本能寺に攻め滅ぼしたのか...。いろんな説があります。この本の著者は、信長の四国政策の転換、そして信長による光秀の殴打などを原因としています。いずれも別に目新しいものではありません。
四国の長宗我部(ちょうそかべ)氏の処遇は、たしかに光秀にとって大問題だったと思います。長宗我部は光秀の媒介によって、四国全体を制圧しようとしていた。ところが、信長は急に阿波の南半分の土佐のみに限定すると言いだした。これでは、光秀の面目は丸つぶれ。
光秀が信長から殴打されたというのは、いつ、どこで、何か原因だったか、いろいろあるのです。著者は、諸大名(有力武将)の面前での殴打だったので、光秀の心が大いに傷ついて、それが叛逆に走らせたことはありうるとしています。まあ、たしかにありうることですよね。
本能寺で信長が死んで、その遺体(遺骨)が見つかっていないことはよく知られていますが、この本は、信長の「死に方」を次のように紹介しています。
畳2帖を山形に立てて、その中にもぐって、「さい」という女房がもっていた「蝋燭」(ろうそく)を取りあげて火をつけて焼け死んだというのです。
畳2枚によって完全燃焼したため光秀たちは信長の遺骨を探し出せなかったということになります。これまた、ありうるかな、と思いました。
熊本藩の支藩である宇土藩の初代藩主・細川行孝の命令で、その生前に成立していたとみられる「宇土家譜」に書かれている説です。細川家は、光秀の娘(玉・ガラシャ)が嫁入りした先ですので、光秀について詳しく語られて不思議はないのです。
日本史のミステリーに一歩近づいた気になりました。
(2019年10月刊。税込924円)

2022年1月22日

駆ける


(霧山昴)
著者 稲田 幸久 、 出版 角川春樹事務所

これが新人作家のデビュー作とは...、とても信じられません。ぐいぐい読ませます。
少年騎馬遊撃隊というのがサブタイトルです。舞台は戦国時代。毛利軍と尼子軍との合戦(かっせん)が見事に活写されています。
少年騎馬遊撃隊というから、全員が少年から成るかというと、そうでもありません。馬を扱う能力に長(た)けている少年が毛利軍に引きとられ、そのなかで活躍し、騎馬隊が活躍し、ついに尼子軍を背後の山中から駆け降りて攻撃して打ち倒すというストーリーなのです(すみません、ネタバレでした...)。
毛利軍の大将は毛利輝元。そして、前線では吉川(きっかわ)元春と元長が戦う。そして、尼子軍には山中幸盛と横道政光。山中幸盛とは、かの有名な山中鹿之助のことです。
私は大学受験するとき、机に山中鹿之助の言葉を書き出して、自分への励みにしていました。「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」という言葉です。ある意味で、山中鹿之助に助けられて今の私があるとさえ思っているほど、感謝しています。
吉川元春の嫡男(ちゃくなん)が吉川元長(23歳)。馬を扱う少年とは小六(ころく)のこと。百姓の子どもで、まだ14歳だ。
永禄9年の月山(がっさん)富田城攻めで、毛利は尼子を降伏させた。出雲は、中国11国を支配した名門尼子家の本拠地。いま、月山富田城には毛利方の兵がたてこもっている。そこを尼子軍が取り囲み、毛利軍を四方八方から攻め入る作戦だ。尼子軍は近くの布部(ふべ)に陣を敷き、毛利軍をおびき寄せて圧勝するつもりでいた。
出雲は尼子の地。三代前の尼子経久の時代から、民と共に出雲を築きあげてきた。
月山富山城に行くためには、まず、布部山を頂上まで登り、尾根伝いに行かねばならない。いわば月山富田城にいる仲間を見殺しにしないために必死だった。
馬と少年の意思疎通、そして戦場での兵士同士、また兵士たちとの約束をたがえるわけにはいかない。その思いがかなうのか...。すごい新人デビュー作でした。
(2021年11月刊。税込1980円)

2021年10月30日

信長徹底解読


(霧山昴)
著者 堀 新、井上 泰至 、 出版 文学通信

信長が今川義元を討ち取った桶狭間(おけはざま)の戦いの実相が語られています。
この本の結論は、桶狭間での信長の劇的な勝利は、いくつかの偶然と、戦国武将の心性が原因だったというものです。それは、①義元が伊勢・志摩侵攻を目指していたこと、②信長は、今川の尾張素通りに激怒し、軍議もなく、突然に出陣したこと、③思いがけない信長の出陣に、義元は作戦を一時変更して鳴海城方面へ前進したこと、④信長は目前の今川軍を「くたびれた武者」と誤解したまま、家臣の制止をふり切って正面攻撃したこと。
つまり、天候の変化があったとしても、信長に計算された作戦はなく、戦国武将の心性にもとづく軍事行動が勝利を呼んだ。ということになっています。うむむ、そうだったのですか...。
義元は、このとき大高城下に武者千艘を終結させていたというのは初めて知りました。
そして、今川義元が京の貴族が乗るような「塗輿」を持参していたのは事実として認めながらも、それは京都で使うつもりのもので、ふだんの義元は乗馬していたのだろうとしています。なーるほど、です。
長篠の戦いで、信長が鉄砲三千挺を三弾撃ちで待ちかまえていたので、武田軍が惨敗したというのは、今の通説は、これを否定している。ただ、鉄砲勢が三段構えをすること自体はありえたのではないかと今でも主張する人はいますよね...。
この本では、信長も武田軍も、どちらも長篠の戦いで両軍激突というのは考えていなかったとしています。信長は大坂の本願寺との戦いを重視して兵力を温存したかった、というのです。
信長を知るためには、やはり安土城に行くしかありません。私は二度、行きました。ここに400年ほど前に信長が歩いていて、立っていたのかと思うと感慨深いものがありました。
信長の話は尽きません...。
(2020年7月刊。税込2970円)

2021年8月21日

戦国佐竹氏研究の最前線


(霧山昴)
著者 佐々木 倫朗、 千葉 篤志 、 出版 山川出版社

江戸時代には秋田藩を治めた佐竹氏は、今もその末裔が県知事ですよね。ところが、戦国時代には関東にあって、小田原北条氏と対抗していました。
さらに、伊達氏の関東進攻を阻み、豊臣政権の下で54万国の大々名となった佐竹氏。
佐竹氏は常陸北部から起き上がった。そして佐竹義重は北条や伊達と戦った。
感状(かんじょう)とは、主君が部下の戦功を賞して出す書状。官途状(かんとじょう)とは、主君が部下の戦功を賞して、特定の官位を私称することを許す書状のこと。
陣城(じんじろ)とは、合戦(かっせん)のとき臨時に築かれた城のこと。
「洞」(うつろ)という耳慣れない目新しい言葉が出てきます。洞とは、濃厚な一族意識を含む、血縁関係にある一族を中心として、地縁などの関係をもつ者を擬制的な血縁関係に位置づけて包摂する共同体、またはそのような結合原理を示している。佐竹氏による権力編成の方法そして、血縁以外には、官途、受領(ずりょう)、偏諱(へんき)の授与、家臣の田の取立があげられる。
洞とは、血縁関係にある一族を中心として、それに非血縁者を擬制的に結合させた地縁共同体あるいはそのような結合原理。洞は、それぞれの階層に個別に存在し、大名クラス。勢力が構成する「洞」には、周辺の国人(在地領主や地侍)や大豪クラスのつくる「洞」が包摂され、包摂された国人クラスの洞のなかに、さらに下の階層の「洞」が包摂されるという、重層的な構造で成り立っていた。
関ヶ原の戦いのころ、佐竹氏は戦局に影響を支えるだけの軍事力をもち、実際、東西両軍にその存在を強く意識されていた。しかし、佐竹氏は軍事行動を起こして、その旗幟(きし)を対外的に鮮明にすることはなかった。なぜなのか...。
佐竹氏の内部では、積極的に西軍に加担しようという空気は醸成されておらず、上杉氏との協定も東軍による佐竹氏領国への侵攻を心配した佐竹義宣の焦りから、内部の意思統一が図られないまま、性急に結ばれたものだったと解するほかはない。
佐竹氏のもとでも鉄砲が大量に使われていたというのには驚きました。戦国大名の実情を知ることのできる本です。
(2021年3月刊。税込1980円)

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