弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2010年3月10日

九重の雲

日本史(明治)

著者 東郷 隆、 出版 実業日本社

 闘将・桐野利秋。これがサブタイトルです。この本は西南戦争で西郷隆盛とともに戦って倒れた桐野利秋の一生を描いています。
 世に、桐野利秋ほど毀誉褒貶の定かならぬ人物もまた珍しい。
 明治維新の前は中村半次郎。人呼んで「人切り半次郎」。剣の達人にして、その性、明朗闊達。明るく、度量が広く、こせこせしない性格。反面、粗雑にして、無学文盲。半次郎を嫌う人々は、そのがさつな性格を憎んだ。明治10年の西南の役を引き起こした影の首謀者として、西郷隆盛を死に追いやった無知蒙昧な指揮官として、今も指弾する者は多い。
 昭和43年、明治百年記念展に中村半次郎の日記が公開された。半次郎の書体の流麗さは人々を驚かせた。大胆で力強く、誰が見ても美しく感じられた。無学文盲の徒ではなかったのか……!むむむ、どんな書体なのでしょう。見てみたいです。
 西郷従道は、鳥羽・伏見の戦いで撃たれた。ほとんど助からないと思われ、西郷隆盛は「だれか介錯してやれ」と指示した。従道は、このとき兄の隆盛が自分を冷たく扱ったことを生涯忘れなかった。
 うへーっ、そ、そんなことがあったんですか……。知りませんでした。
 戊辰の戦いに出陣した下級・中級の薩摩武士節は、およそ6000人を数えた。そのうち死者は1割。負傷者はその数倍に達する。帰国したあと、武力と自信をもとに藩政改革を始めた。なーるほどですね。
 版籍奉還のころ、中村半次郎は桐野利秋と名乗った。
 改革では下級士族のみが優遇されており、郷士級の者は禄高が50石とされ、差別を受けた。これが。あとあとまで両者にわだかまりをつくった。西郷の改革は、主として己の身近にある城下の下級士族ばかりに目を向けていた。西南の役が起きると、彼ら郷士の中には、このときの恨みを持って出兵を拒否する者も多かった。西南の役に、鹿児島の男子すべてが西郷のために決起したかのように思う人は多いが、そうではなかった。
 維新後、桐野利秋は34歳で陸軍少将となった。官位は従五位である。肥前佐賀人の江藤新平による法治主義の導入は、目を見張るものがあった。大久保の外遊中の留守政府参議の構成員は、薩摩1、土佐2、肥前4であり、ほとんど佐賀人の内閣だった。江藤司法卿は、薩長閥政治の打倒をひそかに企んでいた。
 薩人朴直にして女に弱い。長人は狡猾にして金に汚い。よって、汚職の体質を突いてまず長州を陥し、そのあと、おもむろに薩摩を打つ。
 西郷隆盛は、明治政府を辞職したあとの5日間、静養と称して東京内に潜伏した。見た目と異なり、西郷は案外病弱だった。隆盛や桐野たちが辞職した穴を埋めた者がいる。およそ7000人以上の人々が忽然と首都から姿を消した。
 激戦地、田原坂では、日が経つにつれ薩軍の火線が弱体化しはじめた。その理由は、旧式小銃だ。明治以来使い続けてきたエンピールやヤーゲルといった先ごめ式の小銃は湿気に弱く、薩摩兵士はここぞというときの不発に悩まされた。政府軍兵士から装備を捕獲すると、争ってこれを用いたが、もともと敵の兵器だから、弾薬の安定供給など望むべくもない。
 政府軍の兵士も12種類以上の銃器を与えられ、初めは弾薬の受領に苦労した。しかし、兵站線に最新の注意を払っていた政府軍の補給組織は、田原坂の戦いが始まって数日すると前線の重点正面にある兵の所持重機をすべて後装式のものに交換した。使用弾薬の多くは金属薬きょうで、これは湿気に強く、発射速度も薩軍の2~3倍に跳ね上がった。その火力に依存して、政府軍兵士はかろうじて薩軍と同等の戦意を維持しつつけた。そして弾丸消費量は当初の予想を大きく超えて1日平均32万発。多い日は50万発以上が戦場に消えた。こうした消耗戦に釣り込まれた薩軍の補給線は、悲惨の一語に尽きた。弾薬から糧に至るまで、基本的に自弁であり、薩軍本営が初期に用意した弾薬は150万発でしかなかった。
 西郷隆盛にはフィラリアの持病があった。陰のう水腫のため、睾丸が大きくふくれあがり、歩行も困難なありさまだった。
 参軍の山県は、西郷が生きて城山から下ってくることを、もっとも恐れていた。
 明治10年9月24日、城山で死者160人余人、捕虜200余人。東京日日新聞は、午後には速くも号外を東京市中にまき散らした。西郷の死後わずか数時間で、東京市民は西南戦争の終結を知った。
 明治11年5月14日、内務卿大久保利通は皇居に向かう途上、6人の刺客に囲まれて命を落とした。暗殺犯は加賀士族5人と島根県士族1人であった。
 桐野利秋は明治10年2月に陸軍少将正5位の官位を剥奪されていたが、没後39年、大将5年4月、元の官位に復した。
 「人切り半次郎」という呼び方は近年のものだそうですが、いずれにしても幕末期における京都の殺伐とした状況が、よくぞ正常に戻ったものです。620頁からの大作です。明治維新前後の状況と桐野利秋の人となりを十分なイメージを持って知ることができました。
 
(2009年3月刊。2200円+税)

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2010年3月 9日

知ってほしいアフガニスタン

世界(アラブ)

著者 レシャード・カレッド、 出版 高文研

 著者はアフガニスタン出身のお医者さんです。今は日本に帰化して、静岡県の島田市で医師会長をしておられます。たいしたものですね。
 NGO「カレーズの会」の理事長として、アフガニスタンに診療所を開いて治療にあたっているといいます。ペシャワール会の中村哲医師といい、このレシャード・カレッドさんといい、その並々ならぬご努力に対して心より敬意を表します。
 先日、「ペシャワール会」の伊藤さんがアフガニスタンで不幸にも殺害されてしまいましたが、この伊藤さんも初めは「カレーズの会」の所属でした。農業の分野で貢献したいという本人の希望により、「ペシャワール会」への移籍をすすめたということです。善意が時として戦争の中で通じなくなるという不幸なことが起きてしまって残念です。
レシャード・カレットさんは生粋のアフガニスタン人ですが、日本に関心を持って大学生の時に日本に渡ってきて、千葉大学そして京都大学で医学を学んで、医師になったのでした。なれない日本語を身につけ、たくさんのアルバイトをして苦学していたことが書かれていますが、本当に大変だったと思います。
 そして、アフガニスタンを見捨てることなく、現地でも診療活動を続け、ついに診療所まで建てたのです。大変治安の悪くなっているアフガニスタンでも、この「カレーズの会」の診療所にはアフガニスタン人の患者が殺到していると言います。地元の人々の絶大なる信頼を得ているわけです。
 日本政府は、自衛隊なんかアフガニスタンへ送るのではなく、このような「カレーズの会」や「ペシャワール会」への援助を大々的にしたら、どれだけ現地の人々に喜ばれることでしょうか。
 アメリカでオバマ政権が誕生しても、日本で民主党政権が生まれても、チェンジ(変化)が起きず、相変わらず軍事制圧しか考えないと言うのは悲しすぎます。
 お前は甘っちょろいという人がいるかもしれません。でも、戦火をくぐってボランティアで献身しているレシャード・カレッド医師は何と言っているでしょうか……。
 どんなに困難であっても、アフガニスタンは復興を目指して歩んでいかねばならない。当然、多くの国々から支援を続けていただかなくてはならないが、その支援はあくまでも武力を使っての援助ではなく、非軍事的な手段で平和構築に貢献してもらうことである。
 今のところ日本は、アフガニスタンでもっとも信頼が厚く、信用のある国です。その日本の役割は、カンボジアや東ティモールで実績をあげた『対話路線』を推進することであると確信している。すなわち、日本がカンボジアでの道路整備をPKOで行ったように、農業や飲料水の確保、ダム等の建設、空港や鉄道などのインフラ整備を、軍事的な手段を使うことなく進めていったら、それはアフガニスタン国民に対する友情の賜物として深く感謝され、かつ賞賛されることだろう。
 まさに、この通りではないでしょうか。アメリカ軍の後ろに自衛隊がのこのこと尾いていくというのこそ、最悪の事態です。そして、それは日本の治安悪化までもたらしかねません。多くの人に、ご一読をおすすめします。
(2009年2月刊。1600円+税)

 チューリップがいよいよ咲き始めました。先発隊ですね。今5本がピンクの花弁を閉じています。庭の数区画に球根500個をまとめて植えています。今月末から4月上旬にかけて我が家はミニミニハウステンボスとなります。
 青紫色のヒヤシンス、朱色のクリスマスローズ、白とピンクのクロッカス、紫色のツルニチニチソウそして可憐な黄水仙が庭のあちこちで咲いています。
 そして春にはウグイスです。ずいぶん上手くなりました。ホーホケキョと住んだ泣き声を聞きながら花々を見ると春到来を実感します。

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2010年3月 8日

大腸菌

人間

著者 カール・ジンマー、 出版 NHK出版

 この本では大腸菌はE・コリと呼ばれています。
 E・コリのほとんどは無害。人間の腸内には何億というE・コリがいて、平和に暮らしている。腸以外のところにも何億といるし。E・コリは川や湖に、森にも庭にも棲んでいる。
 そうなんですね。このありふれたE・コリは研究の対象となって大いに人間に役立ってくれます。
 E・コリはDNAを折りたたんで数百の輪にして、ピンセットのようなもので固定している。その輪はねじれているが、ほどけて広がるのをピンセットが防いでいる。
 E・コリは増殖するとき、つまり細胞分裂するとき、DNAの複製を作らなければならない。全DNA鎖を両端まで引き離し、半分に分かれる。E・コリはそれを20分で完璧に正確にやり遂げる。DNA複製のエラーが起きるのは、100億基につきたった一つという優秀さだ。
 一人の人間の腸内に共存する微生物種は、1000種類。人間は人生のどの時点でも、体内に30種類のE・コリ株を棲まわせている。E・コリに棲みつかれていない人間は、いない。人間の方も、腸内微生物のジャングルに頼っている。食べる炭水化物の多くは、消化するのに細菌の助けを借りなければならない。腸内細菌は人間の身体に必要なビタミンやアミノ酸を合成してくれる。食物から身体組織へと移行するカロリーをコントロールする役も担っている。だから、腸内細菌は、人間を病気から守っている。医師が早産児に病気予防のためのE・コリ株を与えるのは、このためだ。つまり、人間とE・コリは共同体のメンバーなのである。
 ウィルスは、かつて取るに足りない寄生体だと思われていた。しかし、今ではウィルスは地球上でもっとも豊かな生命体の形態で、その個体数は10億×10億×1兆と見積もられている。生命体の遺伝子情報の多様性のカギは、ウィルスのゲノムが握っている。
 人間の腸内には、1000種のウィルスがいる。ウィルスが宿主の遺伝子を拾って別の宿主に挿入するとき、それは種から種へとDNAを行き来させる進化上の基礎を作り上げる。海洋にいるウィルスは、新しい宿主に毎秒2000兆回、遺伝子を移動させている。このように、ウィルスは進化に重要な役割を演じている。
 微生物の生産するインスリン「ヒューミソン」は1983年に発売され、世界中で400万人がお世話になっている。E・コリはビタミンやアミノ酸まで生み出している。
 チーズはウシの胃で産出されるレンネットという酵素で乳を凝固させて作られてきた。今日では、E・コリ製レンネットからチーズが作られている。
 すごいですね、大腸菌って、汚い・怖い存在というより、必要であり、かつ有用な存在なのですね。最後まで知らないことだらけで、面白く読みとおしました。
 
(2009年11月刊。2100円+税)

 3月5日の朝日新聞夕刊で、このブログを大きく紹介してもらいました。取材していただいた山本亮介記者に対して心よりお礼申し上げます、おすすめしている本の中には、まだ紹介していないものもありました。なるべく早くアップしますので今しばらくお待ちください。
 この「弁護士会の書評」がたくさんの方々にもっと広くお読みいただけることを願っています。

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2010年3月 7日

からだと心を鍛える

社会

著者  宇都宮 英人  明永 利雄 、 出版  日の里空手スクール

空手の達人であり、畏友の弁護士より贈呈された本です。熊本高校(クマタカ)空手道部
主将であり、京都大学でも空手道部主将であった宇都宮弁護士は、本業のかたわら子どもたちに空手を教える日の里空手スクールの主将としてがんばってきました。達士7段・師範といいますからすごいものです。私も何度かその型を見せてもらいましたが、それはそれは見事なものでした。
 この本にある、日の里空手スクールから巣立っていった子供たちの手記が心を打ちます。他人から自分の尊厳を脅かされない。自分が他人の尊厳を脅かさない。自分が自分の尊厳を脅かさないというのがモットーである。それが護身なのだ。
なるほど、と思いました。
 日の里空手スクールは、大人と子どもとが空手を媒介として集う広場としての機能を持っている。そこに多様なおとながはいることで子どもたちは、コミュニケーションの仕方を学んでいく。包み込まれつつ鍛えられていく。
 子どもたちが空手の練習を重ねるなかで、強くなっているのを認めると、その成長をはっきり子どもに伝える。上手になっている、強くなっている、と声を出す鏡のようなもの。そのことで子どもは、自分の成長を確認できるし、自体を深めていく。小さな成功物語を集積する。
 子どもたちが、身体を動かす機会が少なくなっている。ましてや、身体をぶつけあう機会は非常に少ない。そこで、意識的にそんな機会をつくり出していくことが必要なのである。
なるほど、と思います。これからも一層のご健闘を期待します。
 ありがとうございました。
(2009年12月刊。非売品)

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2010年3月 5日

知の現場

社会

著者 知的生産の技術研究会、 出版 東洋経済新報社

 あるモノカキの人は、毎日、規則正しく朝9時に書き始め夕方6時には終了する。1日に5000字のノルマを書いたら、そこで打ち止めする。
 うまくいかないときでも、書くしかないのでとにかく書く。書くときには、NHKラジオの外国語講座を聞き流す。静かだと眠たくなる。意味が分からないところがいい。素晴らしい音楽だと、そちらに気を取られてしまう。書けないときでも、なんとか書いていると、いつのまにか乗ってきて書けるようになる。
 ほんとなんですよね。私も、ともかくひたすら書く派です。
 アウトプットするコツは、なんでもいいからとにかく書くこと。本を書くときの一番の妨げは、自分が書いていることをつまらないと思ってしまうこと。人間タイプライターになったと思って、ひたすら書くしかない。
 いやあ、まったくそうなんですよね。でも、ときどき、こんなことしてていいのかしらんとつい思ってしまい、悩むのです。凡人の辛いところです。
 文章が説教臭くならないように、また読み手に伝わるように、できるだけ感動的な実際のエピソードをオブラートに包んで、思いを心に届けるようにする。
 知を生産するためには、日頃から書物だけに頼らず、人に会うことが大切だ。
 しかし、そうはいっても主たる情報源はやっぱり本である。
 団塊世代は、自分たちの経験や体験を世代を超えて次の世代に継承するよう働きかけるべきだ。そして若い人たちをもっと褒めてほしい。なーるほど、痛いところを突かれました。
 長く仕事をしていても自分を飽きさせないために、自分はすごいものを書いている、オレは天才だ、誰も書いていないようなことを書いている、誰も気の付いていないことを書いている、このように自分自身に思わせるようにしている。ふむふむ、私もやってみます。
 書くテクニックを使いこなすためには、練習を重ねること、他人の作品をたくさん見ること。まさにその通りです。書くのには、すごいエネルギーを要します。
 作家活動にとって一番大切なのは健康だ。
 時間管理が下手な人のなかで偉くなった人はいない。
 文章を書こうというときには、まず自分が書きたいことを書く。駄文でもいいからと割り切って、まずは文章を書き始めることが大切だ。書いた文章の断片を後から編集する。編集するときには、執筆者としてではなく、編集者として文章を客観的に眺めるようにする。
 読んだ人が楽しい気持ちになる、勇気づけられることを考えて書く。
一つのパラグラフを5行以内にするなど、レイアウトを工夫する。見た瞬間に字がありすぎると読みづらい。一つの章を30分で読めるようにする。
 もっとも大切なのはタイトル。タイトルができてから本の執筆に入る。日本語に気をつけ、誰が見ても傷つかない、不快に感じない、誤解されない表現を選ぶ。これは私のモットーでもあります。
 モノへのこだわりを無くすため、愛用品をつくらない。愛用品を持つと、それがなくなったらストレスになる。いかにストレスをためないようにするか、その発想で行動する。
 本を書くのに喫茶店はいい。他人の視線があるから、ちょっとした緊張感が生まれ、原稿がすすむ。いやはや、私も同じです。あまりに騒々しい店は困りますが、近くでおばさんたちの世間話があっていても書けるようにはなりました。
 テレビは大嫌いだ。視覚情報は具体的すぎるので、意識して遠ざけている。ヒヤヒヤ。大賛成です。
 パソコンのような便利な道具に頼りすぎるのは、知的活動を道具に束縛されること。
 ブログは忘却のためのすばらしいツールだ。書いたら、もう脳に残しておく必要はない。
 その道のプロは、その場に必要な何かがないことが分かるかどうかということ。ムムム、この指摘は鋭いですよね。
 人間は『生産』はできないが、『編集』はできる。これが能力だ。
 私にとって大変役に立つと同時に、共鳴できるところの多い本でした。
 
(2010年1月刊。1600円+税)

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チャップリンの影

アメリカ

著者 大野 裕之、 出版 講談社

 チャップリンを支え、全面的に信頼されていた秘書は、なんと日本人だったのです。そして、チャップリンは来日したとき、5.15事件で犬養首相とともに暗殺されようとしたのを危機一髪で免れました。そのとき高野秘書が苦労していたのでした。
 日本人の多くがこよなく愛しているチャップリンと、日本人秘書・高野(こうの)虎市との、うるわしき関係が明らかにされ、感動を呼びます。そして、スパイの濡れ衣を晴らした後の晩年の高野元秘書の悲惨な生きざまも語られています。
 天才チャップリンのすぐそばにいて、大変だったことでしょうが、高野秘書はきわめてもっとも充実した人生を過ごしたと言えると思います。
 広島生まれの高野虎市は、名家出身ではあったが、身内を頼りにして15歳のとき単身アメリカに渡った。そして、苦労して働きながらも、アメリカの学校に通い、英語を身に付けた。いったん日本に戻って結婚し、アメリカに戻って妻とともに生活した。高野の夢は、飛行機のパイロットになること。今でいえば、宇宙飛行士になる夢に匹敵するものでしょうね。
 ところが、夢破れて、当時は珍しい自動車の運転手になったのです。そのとき、チャップリンに出会い、その運転手になりました。チャップリンは既に週給1万ドルという最高の大スターでした。チャップリン27歳、高野31歳の出会いです。やがて、高野の妻も、チャップリン家の料理係として雇われます。
 高野の長男は、チャップリンからスペンサーというチャップリンのミドルネームをもらって名づけられた。そして、高野はチャップリンの兄が住んでいた建物を与えられて、住むことになった。それほど信頼されていたのですね。
 高野は、チャップリンのプライベートな部分に関する秘書だった。チャップリンは高野に全幅の信頼を置き、自分の代わりに小切手に「チャップリン」とサインする権限も与えていた。運転手から秘書に昇格したわけである。
 チャップリンが『黄金狂時代』を作ったころ、高野はチャップリンの右腕として絶大な権力をもっていた。チャップリンに近づきたい映画監督や俳優たちは、みな高野に近づいた。
 1926年ころ、チャップリン家の使用人はみな日本人だった。多いときには17人もいた。
 チャップリンは、勤勉な日本人を大いに気に入った。
 チャップリンは、使用人に対して本当に優しく、公平に、友人として接した。
 チャップリンはユダヤ人ではない。しかし、ナチス・ドイツはチャップリンをユダヤ人の軽業師だと紹介した。チャップリンは「残念なことにユダヤ人であるという幸運に恵まれていない」と言っていた。「愛国心と言うのは、かつて世界に存在した最大の狂気だ」というチャップリンの言葉を、イギリスのマスコミは徹底的に叩いた。
 チャップリンが東京駅に着いたとき、一目でも見ようと日本人が3万人も駅に押し寄せた。いやはや、日本人の熱狂ぶりはすごいものです。
 チャップリンの秘書だった日本人男性を通じて、チャップリンの偉大な人柄も知ることのできる本でした。いい本です。一読の価値があります。
 
(2009年12月刊。1900円+税)

 朝、ウグイスが大きな声で元気よく鳴いていました。ずいぶんと上手くなりました。春告げ鳥です。
 近くの電線に鴉が止まって、ゴミ袋を狙っています。
 ハクモクレンがシャンデリアのような白い花をたくさん見事に咲かせています。
 チューリップの咲くのももうすぐです。
 庭のジャーマンアイリスを整理して、球根を久留米や福岡の地人におすそ分けしました。6月が楽しみです。

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2010年3月 4日

「村長ありき」

社会

著者 及川 和男 、 出版 新潮社

 映画『いのちの山河』をみました。泣けて泣けて仕方ありませんでした。コンクリートより人間。いまの民主党政権はそれをスローガンに大きく掲げて国民の支持を得たと思うのですが、政権に就くと、かなり後退してしまったようで残念無念です。
この映画は「日本の青空Ⅱ」として日本国憲法、とりわけ25条の意義を具体的に明らかにしています。
 すべて国民は健康で文化的な最低限の文化を営む権利を有する。国はすべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
岩手県の山奥、貧しい沢内(さわうち)村の深沢村長は次のように語りました。
人命の格差は絶対に許せない。生命・健康に関する限り、国家ないし自治体は格差なく平等に全住民に対し責任を持つべきである。
本来は、国民の生命を守るのは国の責任です。しかし、国がやらないのなら、私がやりましょう。国は後からついてきます。
生命の商品化は絶対に許されません。人間尊重・生命尊重こそが政治の基本でなければなりません。政治の中心が生命の尊厳・尊重にあることを再確認し、生命尊重のために経済開発も社会開発も必要なんだという政治原則を再確認すべきであります。
うむむ、すごい語りですね。鳩山首相にぜひ聞いてもらいたい、この映画を見て貰いたいものだ、と思いました。
半年間は雪に埋もれてしまう沢内村。冬のあいだでもバスを通すために深沢村長は、村の予算規模4千万円のところ、6トンのブルドーザー1台500万円の購入を決定した。
ところが、中古のブルドーザーはすぐに故障して使いものにならなくなった。そこで、さらに10トンのブルドーザー550万円を2年払いで買った。だから、深沢村長はブルドーザー村長と名づけられた。雪国の暮らしの大変さが伝わってきます。
沢内村の乳児死亡率は70.5(出生1000人比)。これは岩手県の平均66.4、全国平均40.7の2倍という全国最悪だった。
これに深沢村長は取り組んだ。保健婦を2人採用し、苦闘の末、病院に東北大学から優秀な若手医師を派遣してもらい、村内に保健委員会をつくり上げ、ついに乳児死亡ゼロを達成した。これは全国の自治体でも初めての偉業だった。いやはや、本当にすごいことです。涙なくして見られません。
深沢村長は、次に老人医療費の10割負担を打ち出した。岩手県は当初それを違法だと指導した。しかし、ついには折れて協力するようになった。村議会でも、はじめのうちこそ反対意見が出たが、とうとう全会一致で10割負担を成立させた。たいしたものですね。反対派も黙り込んでしまったのです。
 70歳以上の年寄りに「長寿の証」を贈り、年1200円を毎年支給した。該当者220人を公民館に集めて、一人ひとりに深沢村長みずから手渡していった。 
 そんな深沢村長に対して、反対派は沢内村のカマド返しと悪罵し、村長選で林業組合長を立てた。投票率90%、第1回開票結果では、実は対立候補がリードしていた。しかし、2回目に逆転して、300票というきわどい差で再選を勝ち取った。
ところが、そのように村民の健康福祉行動に身を捧げた深沢村長自身は大の医者嫌い。大腸癌が発見されたときには手遅れで、59歳で亡くなりました。その遺体が雪の中、村に帰ってきたときには6000人の村民のうち2000人が迎えたといいます。映画のなかでも、実に感動的なシーンでした。
悲しみの雪は、全村を深く覆って降りに降った。
 いま、老人医療費は当然のように有料。わずかな年金から介護保険料さえ天引きされる。国民年金をもらえない人、国民健康保険すらもたない国民が日本全国に満ち満ちています。どこかが間違っています。いえ、日本の国にお金がないわけではないのです。
 だって大赤字必至の九州新幹線、赤字を出し続けている佐賀空港など、大型公共工事にまわすお金はあっても、人間を大切にするための福祉にまわすお金がないのが日本の政治です。こんな政治が依然として続いています。
 このおかしな状況をぜひ変えたい。そのために私ももうひとがんばりしたいという気になりました。いい本、いい映画です。ぜひ、読んで、見てください。
(1984年3月刊。1100円+税)

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2010年3月 3日

ドキュメント高校中退

社会

著者 青砥 恭、 出版 ちくま新書

 高校中退者のほとんどは、日本社会の最下層で生きる若者たちである。親の所得によって進学する高校が決まり、高校間の格差によって子どもたちの人生、生き方や文化さえも決まる。
ある底辺校(公立高校)では、掛け算の九九が完全にできる生徒は全校生徒160人のうち20人ほどしかいない。そのため、学校は分数計算や小数計算は教えない。
 歯磨き習慣がなかったり、虫歯が多くても治療しなかったりで歯がボロボロの生徒が多い。ネグレクトを受けている子どもたちは、虫歯だらけのことが多い。
 中退した生徒たちのさまざまなケースが紹介されていますが、どれも親たちから大切に育てられていない、親たち自身が生活できていないという悲惨な状況にあります。本当に日本と言う国はおかしくなっていると実感させられるケースのオンパレードです。
 これらの生徒、そして親たちに、自己責任だ、仕方ないだろうと言って切り捨てるのは簡単です。でも、それは日本という国、日本社会が弱肉強食の国であり、社会であることを意味します。そこで生まれるのは、憎悪・絶望からくる自殺的犯罪でしょう。社会不安が強まります。切り捨てて自分だけは安泰と思っていても、実はそうではないということです。
 食事・睡眠などの日常生活、安心して暮らせる住居、日常生活の訓練、社会的な常識を身につけさせるための教育、子どもの心のケア、十分なコミュニケーションなど、子どもたちにとって欠かせないさまざまなケアをするのが親であり家族だが、そういうことのできない家族が増えている。
 60億円もの予算をつかって実施される全国学力テストは、子どもの学力低下や格差の解消を目指すものではない。
 この20年間の最大の変化は、子どもたちの体力が落ちたこと。朝から疲れたという子どもたちが増えた。とくに生活リズムがひどい。親の生活時間で幼い子どもも暮らしていて、大人と一緒に夜の11時、12時まで起きている。だから朝食抜きの子がすごく増えた。
 高校を中退する生徒の半数以上が1年生。入学するとき、必ず卒業しようとは思っていない。高校で学習したり、いろいろな自主活動に参加して身につけ、将来の社会生活に備えようという意欲や希望を初めからもつことなく高校に入った。高校に求めるものが無ければ、やめることに迷いが生じることはなく、やめる決断は早い。仲間が中退したら、次々に落ち葉が散っていくようにボロボロと辞めていく。
 底辺校の生徒たちの勉強に対するストレスは、想像以上のものだ。長年にわたって学習集団から排除されてきたという経験は、すっかり学校嫌いにしている。
 貧困世帯の若者たちへの支援は、教育面からも雇用の面からも、生活面からもまったく行われていない。文科省や知事が進学競争をあおる学力テストの公開には大変な関心を示す一方で、日本の若者たちの貧困問題に政治も教育行政もまったく無関心である。貧困で、しかも低学力の子どもたちは、政治から捨てられている。
 私の大学生のころ、もっとも愛したスローガン(キャッチフレーズ)は、未来は成年のもの、というものです。今は、金もうけと自己保身しか考えない保守的な大人が多いけれど、革新的な考えをもつ今の若者たちが大人になったときには、日本社会は大きく変わっていると考えていました。バラ色の夢を描いていたのです。ところが、現実はどうでしょうか……。
それでも、私は昔より悪くなったとは思いません。まがりなりにも政権交代が実現しました。しかし、アメリカの圧力を跳ね返せずに、ウロウロしている政権のありようには落胆しきりです。そして貧困問題が依然として深刻なのが実態です。放置しておけませんよね。日本の現実を知るための必読の本としておすすめします。
 
(2009年10月刊。740円+税)

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2010年3月 2日

こんな日弁連に誰がした?

司法

著者 小林 正啓、 出版 平凡社新書

 たいへん刺激的なタイトルです。私の身近な弁護士から、なぜ書評に取り上げないのかと尋ねられたのですが、そのときには私はこの本の存在を知りませんでしたし、もちろん読んでもいませんでした。慌てて東京出張の折に浜松町の大型書店で探し求め、その晩に一気に読みました。大変よく調べてあります。でも、本を読むだけではなかなか真相は分からないものだと実感させる内容でもありました。私は、この本で問題となった日弁連総会の全部に出席して、現場の雰囲気を体験しています。それをふまえて、この本の言う陰謀論って、ええーっ、何のこと……という疑問を禁じざるを得ません。
 この本は、翌日、日弁連会館の地下の書店では正面の一等地に平積みしてありました。タイトルに惹かれて買う人が多いことでしょう。売れないモノカキの私としては、羨ましい限りです。
 司法改革について、ひとつの参考文献になるものだとは思いますが、後付けだけではよくわからないので、この本にも紹介されている大川真郎弁護士の書いた『司法改革』(朝日新聞社)とか、日弁連執行部の内情をリアルに紹介する『がんばれ弁護士会』『モノカキ日弁連副会長の日刊メルマガ』(いずれも花伝社)も、ぜひ読んでください。
 弁護士人口増員に必死で抵抗する日弁連の態度は、「既得権擁護」「思い上がり」という世論の集中砲火にさらされていた。
 これは、まったくそのとおりです。決して財界だけが非難、攻撃していたのではなく、ほとんど全部のマスコミ、そして消費者団体も同調していました。このことから来る重圧はかなりのものがあります。日弁連執行部は、マスコミの論説委員や司法記者と緊密に懇談の場を持って、日弁連の主張を理解してもらうよう努力したのですが、あまりに溝は深く、容易に克服できるようなものではありませんでした。増員反対論者は、実情をよく話せば国民はきっと増員に反対する理由を理解してくれるとよく言いますが、私の実感では、それほど容易なものとは思えません。
 老いてますます盛んな団塊世代の弁護士が会務を牛耳っている。
これは大半あたっていると団塊世代である私も認めます。しかし、実際には、司法改革をリードしてきたのは、団塊世代より一世代上の世代であることは客観的な事実であることを忘れてはいけません。それは中坊公平元会長をはじめとして、法曹三者をふくめた各界の指導者は残念ながら、みな団塊世代といったら失礼にあたる年長者の方々です。1962年生まれの著者からすると、団塊世代もその上の世代も同じように見えるのかなあと思ったことでした。
 そして、「このままでは戦争になる、日本は再びアジアを侵略すると言う黴臭い議論」を唱えている弁護士のなかに、団塊世代もいることは事実ですが、日弁連総会で前面に立ってアジるのは、団塊世代というよりさらにその上の世代です。そして、これは「族」支配の構造とは無縁ではありませんが、直結しているわけでもありません。
 「族」弁護士がいることは事実です。しかし、それは必要不可欠の専門家集団です。たとえば、倒産企業の再建や整理手続について、専門弁護士集団がいないと実務的に大変なことになって、日本経済が混乱することは必至ではないでしょうか。同じことは消費者や公害・環境問題、憲法そして司法問題についても言えるのです。
 人権派弁護士は、弁護士人口を少数のまま抑え、経済的な余裕を確保することを人権活動の基盤と認識していた。これを弁護士の「経済的自立論」という。しかし、この理屈は根本的な弱点をかかえていた。日本では、弁護士が少ないために人権救済がいきわたっていない、という批判に耐えられないのだ。日弁連主流派は、経済的自立論を1994年頃までは主張するが、世論の支持をまったく受けられなかったため、以後、この理屈を封印する。
 私も「経済自立論」には与しません。しかし、この考えには、今でも人権派弁護士かどうかを問わず、弁護士界の内部に根強い支持があることは間違いありません。
 司法試験に合格するまでは合格者を増やせと声高に主張していたのに、合格したとたん、食えなくなるから増員には反対するという者が増える。これはいかがなものかという批判がかねてよりありました。
 日弁連主流派という明確な潮流があるのか、私には判然としません。ただ、日弁連の歴代執行部を支持する勢力は、私をはじめとして相当数いて、強力であることは間違いありません。
 近年、弁護士が経済的に困窮していることなどから、裁判所に政策形成を促す訴訟は減っていると思われる。
 ええーっ、これって、どうなんですか……。とても弁護士が書いた文章だとは思えません。だいいち、日本の弁護士がすべて経済的に困窮していると言う事実は果たしてあるでしょうか。若手の弁護士、老齢の弁護士のなかに経済的に困窮している人がいることは間違いないと思います。しかし、弁護士が全員、「経済的に困窮してきている」などという事実は、私の周囲を見ましても認められませんし、弁護士白書にもそのような指摘はありません。政策形成を促す訴訟という意味では、私が長年やっている住民訴訟もその一つですが、少なくなっているとしたら、それは「経済的困窮」以外の要因にもとづくところが大きいと思います。
 著者は1994年12月21日の日弁連臨時総会について、陰謀があったとし、日弁連の歴史上最大の失敗として記録されるべき大失態だと言います。しかし、私もこのときの総会に出席していましたが、陰謀があったなどと今も思っていませんし、「歴史上最大の失敗」「大失態」とも考えません。
 あくまで司法試験合格者増に抵抗する日弁連の態度は、「ギルド社会の既得権擁護の思い上がり」として激しい批判にさらされることになった。その結果、日弁連は国民からまったく指示されなくなり、発言力を失って、当事者のイスから引きずりおろされることになる。
 この「国民からまったく支持されなくなり、発言力を失って、当事者のイスから引きずりおろされ」たというのは、いささか言いすぎだと私は思います。ただ、それに近い状況が生まれていたことは事実です。この当時、マスコミ論調は極めて厳しいものがありました。
 ところで、この本は、一方でこのように書きながら、「法曹人口の大幅増員が経済界の総意、あるいは、相対多数であったかについては疑問である」ともしています。これは、あとになって冷静に考えれば、という類の批判の典型ではないでしょうか。たとえば、小泉元首相が実現した郵政民営化について、あれは国民の総意でも経済界の総意でもなかったことは、今になってすれば明らかだと私は考えます。しかし、あのとき、それを押しとどめる勢力もいるにはいましたが、圧倒的に孤立させられ、奔流の中に押し流されてしまったのではないでしょうか。
 著者が、「日弁連が法曹人口増に徹底抗戦せず、早期に一定の増員に応じていれば」としているのは、実は、私もまったく同感です。少しずつ増やしていき、地方における弁護士過疎も具体的に解消していっていれば、いきなり毎年3000人増ということにはならなかったと考えます。しかし、日弁連内には強固な増員反対論があり、それが足を引っ張っていて、徐々に増員するのを難しくしてきた経緯があります。
  執行部、とりわけ日弁連会長のリーダーシップは大きいものがあります。それは認めます。それでも、日弁連が強制加入団体であって、右から左まで、自民党議員から共産党議員まで構成員とする団体である以上、そしてそのことが発言権の裏付けである以上、執行部が独走したり、内部の不団結をもたらすような方針は提起できないのです。そうすると、必然的に一歩足を踏み出すべきときに、時間が遅れたうえに半歩しか踏み出せないということが起きてしまいます。私も、日弁連執行部にいたとき、そのもどかしさを十分に体験しました。
 たとえば、日弁連が強制加入性であることを批判し、任意加入性にせよという攻撃は最近こそ弱まりましたが、強烈なものがありました。結局、弁護士も行政の指導下に置き、その力を減殺してしまおうと言う動きは強力だったのです。日弁連がいろいろな政策提言をするのを嫌う政界・経済界の意向を反映した動きです。なんでも規制緩和という動きが大手をふるっていて、それとのたたかいに日夜苦労していたのです。
 法曹一元に熱狂した多くの弁護士は、法科大学院構想を支持し、司法試験合格者の大幅増加を容認することになった。
 著者はこのように書いていますが、この点についても違和感があります。「法曹一元化に熱狂した多くの弁護士」という書き方には、どれだけの根拠があるのでしょうか。私は法曹一元化になったらいいと今も昔も考えていますが、だからといって熱狂していないし、それを実現するために法科大学院を支持したという気持ちはほとんどありません。合格者を増やすのなら、確かに何年間かみちり勉強してもらった方が良いと考えたのでした。
 著者は議論の現場におらず、あとから本を読んだだけで批判のための批判をしている気がしてなりません。著者自身は法科大学院について、当時どのように考え、また、今どのように考えているのでしょうか……。
 著者は、「日弁連の惨敗」とか、「日弁連には、権力闘争の当事者となる能力がまったくない」と決めつけていますが、自身が弁護士であるのに残念だなとしか言いようのない表現です。
 いろんな人のいる日弁連が、しっかりした議論をふまえて、一定の方向性を出すならば、それが全員一致でないとしても、世論にそれなりのインパクトを与えることができる力を日弁連は依然として持っていると思います。また、それを期待する国民は少なくありません。その点についての積極的意義が語られていないのは、残念無念としか言いようがありません。
 
(2010年2月刊。760円+税)

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2010年3月 1日

動物病院24時

生き物

著者 ニック・トラウト、 出版 NTT出版

 アメリカの動物病院の一日24時間を紹介するスタイルの本です。もちろん、患者は犬だけではありませんが、なぜか犬が多いのです。
 僕は天性の外科医ではない。いわゆる手先の器用さには恵まれなかった。ありがたいことに、外科手術の技術は練習で身につけられる。ピアノを弾くのにちょっと似ている。やる気があって、それなりの時間をかけて努力すれば、初めは一本指でたどたどしく弾いていたのが、やがて上達し、鍵盤を正確にたたいてメロディを奏でられるようになる。
 ペットの人気の第1位は猫、2位は犬。そして第3位は、なんとインコ。インコはアメリカだけでも800~1400万羽も飼われている。
 アメリカ人は、ペットの世話のため年間400億ドルもつかう。アメリカでは、この10年で専門資格を取得した獣医師が76%増加し、8000人以上が専門分野をしぼっている。
 ところが、医療従事者全体のなかで、自殺者の率が一番高いのは獣医師である。
 この動物病院の平均治療費は300ドル(3万円)。しかし、人口股間接置換手術は5000ドル(50万円)、心臓ペースメーカー手術は3500~4500ドル(35~45万円)。背骨のMRI検査は2000ドル(20万円)、CTスキャンは1000ドル(10万円)。放射線治療は1コース3000~4000ドル(30~40万円)。化学療法の平均的なコースは3500ドル(35万円)かかる。アメリカのペット保険加入率はわずか1~3%でしかない。ちなみにイギリスは20%が保険に加入している。では、日本は……?ペットを世話するのにもお金がかかりますね。
 臓器が動かなくなり、余病が猛威をふるい、感染症が牙をむき、苦痛を和らげてやれなくなるところまで病気が進行しても生かされている動物を見ると、飼い主の気持ちが分からなくなる。身勝手な動機から意味もなく動物を苦しませ、保護者としての基本的な責任を安易に放棄しているように思えてならない。
 犬や猫の面倒を一生涯見てやることが飼い主のつとめであり、悲しいことだけれども不快感や苦痛を取り除いてやることも保護者としての義務の一部なのだ。たとえそれが、安楽死を選ぶということであっても……。
 動物は嘘も裏切りも不貞も絶対にない関係をくれる。わずかな努力でうまくいき、しかもいつまでも長続きすることが約束された結婚だと思えばいい。結婚前の取り決めはいらないし、離婚の心配もない。つまり、ぎくしゃくし、ひびが入り、2度と元に戻らない危うい関係ばかりのこの世の中で、真実の愛が見つかる可能性がある。心から安心できる愛が見つかる可能性がある。
 なーるほど、だから人間はペットを愛するのですね。そして、深刻なペットロスが生まれるわけなんです……。
 獣医にとってもっとも大切なスキルは、人間とのコミュニケーション術を磨くことにある。獣医の仕事は動物を治療することだが、それは人間のためにすることなのである。
 飼い主の話にしっかりと耳を傾け、共感という言葉になりにくい心の底からの通じ合いを求めようとする。これは難しいことではない。短い診察時間にありったけの誠意とおもいやりと信頼をそそぐこと。そして何よりも、ただ黙って聞き役に徹するべきときを知ることである。
 うむむ、これって弁護士にも共通するものがありますね。大変勉強になりました。面白い本です。動物好きの人には、ぜひ一読をお勧めします。

(2009年11月刊。1900円+税)

 昨日の日曜日はたっぷりの陽光も優しく、春らんまんでした。朝、雨戸を開けるとウグイスのホーケキョという鳴き声が聞こえてきます。まだ長くは鳴かず。発声練習中と思わせる初々しい泣き声でした。
 庭に黄水仙があちこちで咲いています。チューリップの芽はぐんぐん伸びています。サクランボの桜の木が、白い花をたくさん咲かせています。ソメイヨシノと違って地味です。
 膝はおかげでなんとか歩けるようになりましたが、今度は花粉症に悩まされています。うれしい春にも困ったところがあるのです……。

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2010年3月31日

離婚で壊れる子どもたち

社会

著者 棚瀬 一代、 出版 光文社新書

 面会交流権について、私はこれまでかなり消極的でした。その法制化にも反対で、せいぜいい運用で考えたらいいと考えてきました。子どもにとって、別れた父親(大半がそうです)に会っても、あまりいいことはないというのが根拠でした。それが、この本を読んで大きく変わりました。やはり、子どもにとって、その成長過程で父親との交流は不可欠かもしれないと思うようになったのです。この本は、アメリカと日本の実践にもとづいていますので、とても説得力があります。
 現在の日本では、3組に1組の結婚が離婚に至っている。年間26万件にのぼる。そのうち4割が乳幼児を抱えている。
 離婚ケースの8割で、母親が親権者となり子ども全員を引き取って育てている。子どもが3人以上いても、7割の母親が全員を引き取っている。
日本の離婚の9割は協議離婚である。
 離別した母子世帯の平均年収は、202万円(1992年度)と低い。別れた夫から養育費の支払いを受けているのは15%でしかない。養育費の取り決めをしても、1年で半分は約束を守らなくなり、2割だけが履行しているにすぎない。2003年の法改正によって養育費の給料天引きが認められるようになったが、それでも19%に過ぎない。
 両親が離婚騒動をひき起こしたとき、子どもが強迫的に学業に励み、「良い子」に徹することで大変な時期を乗り越えようとする過剰適応の子どもがいる。こういう子どもは、後になって「良い子症候群」になり、学業に集中できなくなる危険性をはらんでいる。
 両親が別居すると、ほとんどの場合、子どもは抑うつ状態に陥るが、この状態のときにはいじめにあう危険性も高まる。
 1歳半から3歳児までのあいだ、子どもが父親との接触がないときには、父親の面会申出に対して、子どもは「両親そろった家族」の記憶がないので、「別に会いたくない」と拒否することが多い。それは、たしかにその時点での子どもの正直な気持ちではあるが、その気持ちに母親が便乗して会わせないと、子どもは父親像を欠いたまま育ってしまう。
 性同一性の模索を始める思春期になると、必ず「自分のお父さんは、どんなお父さんだったのだろう?」と気にかかりだす。女の子であれば、青年期になって異性との親密性を求める段階になって、同世代の異性にはまったく興味がわかず、父親世代の異性に父親像を追い求めるという問題になって現れてくることが多い。
 男の子であれば、性同一性の確立が困難になったり、結婚後に自分の子どもに父親としてどのように向き合ったらいいのか分からないという問題となって現れる。
 したがって、父親が面会を求めてきたら、母親は自分の気持ちはさておいて、父親と子どもが会う機会を設定する方向に協力することが、子どもの発達にとって望ましい。
 3歳から5歳児までの子どもは、基本的に道徳的な判断をしないのが特徴である。離婚に際して、両親のどちらが悪いのかという判断をしない。そして、自己中心の心性がある。離婚によって家庭が壊れたとき、それは自分が悪い子だったからだという自責の念から極端に良い子になってしまうことがある。自分が頑張って良い子になれば、親はまた元に戻るかもしれないという幻想を抱く。
 そこで、極端に良い子になっている子どもに対して、離婚したのはあなたのせいじゃないのよと繰り返し繰り返し言って聞かせる必要がある。
 片方の親が意図的に子どもの世界から消えることを選んだときには、子どもがその傷から完全に癒えることはないだろうと言われている。父親に対する抑えがたいノスタルジーとともに、自分を見捨てた父親への許しがたい怒り、そして見捨てられたという癒しがたい傷、悲しみが成人してまで残る。
 6歳から8歳児までの子ども、親に見捨てられたという気持ち、悲しみがどの時期よりも深い時期である。この時期の男の子は、去っていった父親への思慕が強く、一緒に暮らす母親に対して結婚を壊したことや、父親を追い出したことに対して怒りを向けることが多い。父親がでていったあと、虐待的だった父親とまったく同じことを母親やきょうだいにし始め、母親がショックを受けることがある。
 9歳から12歳の子は、道徳観、正義感が強く、白黒をはっきりさせ、グレイゾーンを許せない発達段階にある。離婚の責任はどちらにあるのかを判断し、「良い親」と同盟して、「悪い親」へ復讐することがある。
 しかし、この子どもの心性を利用して味方に取り込み、他方の親を子どもの世界から排除するならば、やがて、子どもが青年期になったときに、自分を片親から疎外させた親に嫌気がさし、良い関係を維持することができなくなる危険性が高い。
 13歳以上の思春期・青年期にある子どもにとっては、もっとも安定した家庭を必要としている時期であるので、片親が突然に家を出ていったりして家庭の基盤が不安定になることは、子どもにとって大きなショック体験である。子どもの反応として、親に向けるべき怒りを打ちに向けて抑うつ状態に陥り、不登校やひきこもりになる場合と親への怒りが置き換えられて外に向けられ、学校で攻撃的行動をとったり、非行に走ることがある。
 子どものために争っているつもりが、いつのまにか子どもを置き去りにして夢中でいがみ合い、闘いをエスカレートさせていくことがある。同居する親への気遣いと忠誠心から、別居している親への思いを語れずにいる子どもから、そのホンネを聞き出すのは非常に難しいことでもある。
 子どもに虐待などの直接的な危害が及ぶような例外的な場合を除いて、原則的には、子どもには離婚後も両親との継続的かつ直接的な接触を保証するという方向に向かうべきである。別居している父親と良い関係を継続させることが子どもの精神的な健康にとって決定的に重要なのである。
 子どもの発達段階に応じて、親との関係が具体的に語られていますので、実務的にも大いに勉強になりました。目下、同種のケースの裁判を担当していますので、よくよく話し合ってみたいと思います。

 
(2010年2月刊。860円+税)

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2010年3月30日

山谷でホスピスやってます

社会

著者 山本 雅基、 出版 じっぴコンパクト新書

 山田洋次監督の映画・最新作『おとうと』に登場するホスピスのモデルは大阪ではなく、東京の山谷(さんや)にあったのでした。いやあ、すごい人たちがいるんだなと映画を見て感嘆したのですが、この本を読んでその感嘆は驚嘆というべきものに変わりました。まさしく、こんな善意の人々が少なからずいるので日本社会はまだ成り立っているのだと、胸の内が震えるほどの感動をじっくり味わいました。こんな素晴らしい本に巡り合えてよかったなと思う半面、自分は今どれだけのことが出来ているのかと、ついつい反省させられたことでした……。
 学生のころ東京に10年ほど住んでいたことのある私ですが、山谷のドヤ街には一度も行った事がありません。なんだか怖いところというイメージがあったから、近寄りがたかったのです。
 ドヤとは、宿(ヤド)をひっくり返した言葉。宿は簡易旅館のこと。ドヤは1泊2000円。平均年齢60数歳の単身男性3500人が生活している。
 「きぼうのいえ」の居室は、すべて個室。部屋にはテレビがあり、事務所にあるビデオ・ライブラリーから毎日2,3本のペースでビデオを借りることができる。
 ここでは、喫煙も飲酒も、本人の健康に多大の悪影響を与えない限り、規制しない。消灯時間もない。入居者は、みな生活保護を受けている。
 居室のベッドのシーツにできたタバコの焦げ穴の数と、その施設の住みやすさは正比例する。
 入居者の過去は問わない。入居者が語りたい過去は聞くけれど、それ以上は踏み込まない。
 「きぼうのいえ」は40坪の土地に建っている。銀行からの借金、1億2千万円でつくられた。
 ワンカップのお酒を買って飲むのは、お金の問題もあるけれど、「いまは、これだけ」という、自制のきっかけにするため。経済的かつ身体的な自衛手段なのである。
 うむむ。なるほど、そういうことだったんですね。1升ビンを買ってしまうと、どうしても際限なく呑んでしまいますからね……。
 山谷に住み続けて生きていくためには、次々に起こる事件や物事におうようであることが欠かせない。
 入居者には、驚くほど歯のない人が多い。歯を治すことと縁遠い生活を送ってきたからだ。
 それはそうですよね。健康保険が使えず、すべて自費だなんて、ぞっとします。
 この「きぼうのいえ」が始まってから3年間のうちに、看取った人(入居していて亡くなった人)は、34人。すごいホスピスです。感動しましたという言葉では軽すぎます。
 「きぼうのいえ」は、年に数千万円以上の赤字を出しながらも、ボランティアにも支えられて続いています。著者夫妻は、何回となく、もうやってられないと投げ出しそうになり、また、うつ病にもかかりながらも、今日までなんとか、やってきたということす。すごい努力ですね。漫然と生きているのが恥ずかしくなってしまいます。
 不思議なことだが、「きぼうのいえ」では、「死にたくない」と言いながら亡くなった人がまだいない。もはや奪い取られるものがなく、すべてを失ってきた入居者にとって、この世は積極的に生きる意味を見いだせない場所となっている。しかし、ここに入って希望を見出すと、やはり命の継続を望むように変わる。
 いい話ですよね。こんな施設をいつまでもボランティア頼りにしていていいとはとても思えません。戦車や航空母艦より、こんなところにこそ国はお金をつぎ込むべきではないでしょうか……。映画『おとうと』とあわせて、一読を強くおすすめします。
 
(2010年1月刊。762円+税)

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2010年3月29日

脳に悪い7つの習慣

著者 林 成之、 出版 厳冬舎新書

 タイトルに魅かれて買ったのですが、なんとなんと大正解でした。うむむ、なるほど、なるほど、そうだったのか。よく分かったぞ・・・・。そんな気になりました。
 脳神経細胞がもつ本能はたったの3つ。生きい。知りたい。仲間になりたい。これだけだ。脳には本来、仲間になりたいという本能があるから、本質的に人は誰かが喜ぶのはうれしいものなのだ。
 この3つの本能のなかで、脳の思考や記憶に大きくかかわるのが、知りたいという本能だ。これは脳の原点ともいえるもの。
 子供の脳の発達過程を考えると、赤ちゃんのころに母親がたくさん声をかけることが非常に重要である。
 第2段階の脳の本能は、自己保有と統一、一貫性。人は、自分と反対の意見を言う人を嫌いになる。
頭がいい人とは、何に対しても興味を持ち、積極的に取りくめる人のことである。大切なことは、苦手なことを避けるのではなく、まずは興味をもってチャレンジしてみること。
統一、一貫性という脳のクセから、人間は整ったものやバランスのよいものを好む傾向にある。逆に、見た目がアンバランスだと、なんとなく嫌だなと感じてしまう。
 自分を嫌っている上司のもとで働くことは、自分のためにならない。関係の修復ができず、努力する余地が残されていなければ、居場所を変えるのも選択肢の一つである。
笑顔で脳のパフォーマンスを上げることができる。
 脳は、他人(ひと)のためになるとき、貢献心が満たされるときに、それを「自分にとっての報酬である」ととらえて、機能するようにできている。
 自己報酬神経群の働きをうまく活用するには、物事をもう少しで達成できるというときにこそ、「ここからが本番だ」と考えることが大切である。
 物事を達成する人と達成しない人の脳を分けるのは、この「まだできていない部分」「完成するまでに残された工程」にこだわるかどうかなのである。自分にはだいたい出来ているなんて思うと、自己報酬神経群は働かなくなってしまう。
 そろそろゴールだという言葉をかけると、脳の血流が落ち、正解率はダウンしてしまう。 
 脳の機能を活かすためには、「だいたいできた」というのはご法度なのである。一つの目標を成し遂げたあとで、やった!と思うことだ。 
 脳の達成率を上げ、集中してことを成し遂げるためには、コツコツは間違いなのである。達成し、完結したということこそ、脳にとっては最高の喜びなのである。
 目標を達成したいなら、プロセスにこだわることが大切である。人間の脳は、話すことで  新しい思考を生み、考えを深めることが得意である。このとき、大事なことは、考えっぱなしにせず、紙やパソコンを使って整理しておくこと。一度、形にすることが思考を深めるポイントである。
 脳の機能を活かすには、大事なことは早いタイミングでまとめて、くり返し考え直すこと。これが独創性を生む。
 本を読むときには、いつでも素直に内容と向き合うスタンスをもつこと。本はいかにたくさん読むか、ではなく、いかにいい本をくり返し読むかに重点を置くべきである。くり返し考えることでのみ、新しい発想を生むことができる。新しい発想をきちんとまとめ、ときには自分を疑い、立場を捨てて他人(ひと)の意見を取り入れ、間をおいて考え直すことができて、初めて独創的な思考が可能になる。
 コミュニケーション力をアップするには、うれしそうに人をほめることが有効だ。 ほめるときには、必ず相手のほうを見て、自分もうれしいという気持ちを込めて伝えることが大切である。
 いやぁ、予期せぬばかりの、いい本でした。大変勉強になりました。明日からも笑顔とともに生きていきましょう。
(2010年2月刊。670円+税)

 まだまだ風は冷たいのですが、サクラが満開となりました。福岡の裁判所の裏の桜並木を、少しばかりそぞろ歩きして花見を楽しみました。桜はやはりソメイヨシノですね。ピンク色に染まった満開の桜並木を歩くと、なぜかしら心が浮き浮きしてきます。
 我が家のチューリップも全開となるのももう少しです。180本までは数えましたが、こうなると数えきれません。500本植えたものの7割は咲いていると思います。春らんまんです。花粉症のほうはおさまりました。

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2010年3月28日

道具を使うサル

生き物

著者 入來 篤史、 出版 医学書院

 ニホンザルも道具を使うことを初めて知りました。宮崎・幸島のサルたちが海辺でイモの泥を洗い落して食べると言うのは知っていましたが、道具も使えるのですね……。
 サルは訓練すると、熊手を使えるようになるし、モニターも使うことができる。しかし、何のしかけもない状態では、それをあえてしようとはしない。
 道具使用を訓練されたサルたちは、実験を心地よく楽しんでいる様子であった。朝、ケージの扉を開けると、自ら進んで飛び出してきて、モンキーチェアに座りこみ、実験を催促するかのように手でテーブルをたたいた。速く実験が終わると、もう戻らなければいけないのかという態度で、戻るのを嫌がることさえあった。
 サルは、比較的容易に、まず短い道具を使って長い道具を取り、次に長い道具に持ち替えて餌をとると言う二段階の道具使用行動を行うことができた。
 子どものサルは好奇心が強くて、珍しいことによく興味を示して試みてくれる。
 仔ザルには、もうひとつ、よく「鳴く」というきわだった特徴がある。仔ザルは、とにかくよく声を出している。鳴くと言うより、そばにいる人間がしゃべっているのといっしょになって、自分もしゃべっているつもりになっていると思えることがある。ところが、大人のサルになると、威嚇するときやおびえたとき以外は、ほとんど声を出すことがない。
 サルが餌を要求しているときと、道具を要求しているときのソナグラム(音声)が異なっている。
 サルも人間も、かなり共通するところが大きいことが良く分かります。サルまねなんて、バカにしてはいけませんね。
 
(2004年7月刊。3000円+税)

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2010年3月27日

世事見聞録 その3

司法(江戸)

 江戸時代も今と同じで、不倫・不貞が流行していたようです。日本人って、この点も変わらないのですね。
「下賤の娘たるもの慎みの体更になく、不義をなすこと珍しからず。親を憚る心なく、外見外聞を厭ふにもあらず、或は親の元を遁れ逃げ去り、親の勧むる縁組を拒み、馴れ合ひ夫婦などのこと多く、或は父母へは不通になりて夫を持つ事、常の風俗となり、また人の妻妾なるもの、密通のこと尋常の事になりて、互ひに犯し合ひ奪ひ合ひ、また欲情に拘り、男を欺くあり、女を欺くあり、また夫婦馴れ合ひなどありて、金銀をゆすり取るもあり、また密通するのみならず、男の意地など言ひて、無体に人の妻を貰ひ懸け、貪りとるあり、また実夫の身上を奪ひて、密夫の方へ送りたる上に逃げ行くあり、人の身上を狂はせ、或は夫婦仲よくして子のある中をも、誑(たぶら)かして連れ出し、よんどころなく離縁に及ばせ、親は懸るべき娘を奪はれ、夫は家を守るべき妻を失ひ、父母を失ひて誑かさるゝもの多し」
 「享保の頃に至っては余多ある事なりし故、大岡越前守工夫にて、密通の男へ過怠金一枚出させしといふ。金一枚は小判七両二分になる。尤もその頃の金一枚は今の三十両余にも当るなり。この過怠始まりて却つて密通のこと多くなりしゆゑ、間もなく止みしといふ」
 「当世はさほど重き事に思はず、只密通数多き事ゆゑ、明白にして詮なきといふ懦弱なる了簡にて取扱ふ故、実夫密夫ども猥りに嘲弄し、そのうち止まる処、実夫は空気(うつけ)ものになりて恥辱を十分に被り、密夫は怜悧なる奴となりて仕廻ふ故、密夫たるもの身の過ちを知らず」
 日本の女性が昔から強かったことは、次の記述からも、よく分かります。
「猥りに女の道乱れ、子孫にして或は親を侮り偽り、或は夫をないがしろにし、我儘気随の振廻ひ、常の風俗となれり。今軽き裏店(うらだな)のもの、その日稼ぎの者どもの体を見るに、親は辛き渡世を送るに、娘は髪化粧よき衣類を著て、遊芸または男狂ひをなし、また夫は未明より草履草鞋にて棒手(ぼて)振りなどの稼業に出るに、妻は夫の留守を幸ひに、近所合壁の女房同志寄り集まり、己が夫を不甲斐性ものに申しなし、互ひに身の蕩楽なる事を咄し合ひ、また紋かるた、・めくりなどいふ小博打をいたし、或は若き男を相手に酒を給べ、或は芝居見物そのほか遊山物参り等に同道いたし、雑司ヶ谷・堀之内・目黒・亀井戸・王子・深川・隅田川・梅若などへ参り、またこの道筋、近来料理茶屋・水茶屋の類沢山に出来たる故、右等の所へ立ち入り、又は二階などへ上り金銭を費して緩々休息し、また晩に及んで夫の帰りし時、終日の労をも厭ひ遣らず、却つて水を汲ませ、煮焚きを致させ、夫を誑かして使ふを手柄とし、女房は主人の如く、夫は下人の如くなり。邂逅(たまさか)密夫などのなきは、その貞実を恩にきせて夫に嵩り、これまた兎にも角にも気随我儘をなすなり。
 今大小名の閨門を始め、女の気随我儘も奢り頂上し、下々卑賤の末々に行くに随ひ、右の如く夫婦女子の道乱れしなり。この風俗また国々在々に押し移り、父母を粗略にして女房を大切に取扱ひ、親類を疎遠にして縁者なるを懇切にする事になれり。これ世の信義を失ひ、淫犯の増長せしなり」
 江戸時代の百姓がみな貧困にあえいでいたかというと、必ずしもそうではなかったのです。
「富める百姓は身分を忘れて、都会に住める貴人も同じやうに奢りを構へ、家居も古今雲泥の相違にて、門構・玄関・長押・書院・床・違棚など結構を尽し、書院そのほか物数寄(ものずき)を尽し、或は公儀へ冥加と号して金銀を上げて奇特ものとなり、苗字帯刀などを御免を蒙りて権威に募り、或は領主地頭へ用立金などして、その功に依つてこれまた苗字帯刀・扶持切米など免(ゆる)されて近辺に威を振ひ、小前(こまへ)百姓を誣げ遣ひ、或は小身なる地頭を侮り疎みて、宮門跡方そのほか有職の家へ取り入り、金銀賄賂を遣ひて用達または家来分などとなり、愚昧の民を恐れしめ、様々我儘をなし、また村役人その外すべて有余なる族は、耕作を召仕ひの下男女に任せ置き、己れは美服を著し、或は婚礼・婿取り・諸祝儀・仏事など、すべて武家の礼式に倣ひて大造なる招請饗応などなし、又は常に浪人などを囲ひ置きて、身分に非ざる武芸を習ひ、或は師匠を撰みて詩文章を志し、唐様を書き、和漢の書画風を学び、又は茶陽師・歌俳諧師・音曲の芸者などを抱へ置きて遊芸を学び、我が遊興の相手とし、或は繁花の地より美女を連れ来たりて妾となし、日々酒宴を催し、又は秘かに繁花の地へ遊びに出て、田舎には妻妾を置きながら、都会の地にも囲ひ女などを致し、或は遊里に泊り、妓女に戯れ子を拵へ、或は公事出入りを好み、己が身に不足なく隙あるに任せ、人の腰押しを致し、わづかなる事をも大なる出入りに及ばせ、人の身上にも拘るべき事をも厭ひなく、又は己が心に叶はざる時は、変死そのほか非義非道の事をも、訴訟の取次を致さず、無体に押し噤みて内済など致させ、或は大体の訴訟の事を始め、領主地頭の用向きなどに出て、その用事を次にし、世に自分の遊び事をなし、繁花に心を奪はれ、公事出入りの落著を長引く手間取りを却つて歓び、永遊びをいたし大金を費すなり」
 この本を読むと、江戸時代って現代日本と同じように大変な時代だと思わざるを得ません。しかし、解説者(滝川政次郎)は誤解しないようにと、現代の私たちにクギを刺しています。
「江戸時代は嫌らしい、下らない時代であったという先入主を持っている現代人が、本書を読んで、江戸時代はこのように腐敗堕落、淫靡の極にあった時代であったという誤った認識を深めることを懼(おそ)れる。江戸時代の社会は、本書に述べられているほど悪いことばかりの社会であったわけでもない。
 世事見聞録は、右に述べたような、貴重な江戸時代史の史料であり、且つ興味深き読み物の一つである」
 あなたも、ぜひこの本を読んでみてください。江戸時代の日本人、ひいては日本人とはどんな人々であるのか、大いに目が開かれると思います。
 
(2005年4月刊。3500円+税)

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2010年3月26日

世事見聞録 その2

司法(江戸)

 江戸時代でも借金取立は苛酷なものがありました。武士はこの点でも泣かされていたのです。
「借り手は右体の不始末にて返すべき手段なきに、様々利口弁舌虚偽計略を尽し、借りる時は神仏の如く敬ひ、返す時は仇敵の如く悪(にく)むなり。借りたるものは貰ひたるものの如く心得、返すべき心底更になく、もし返す時は奪ひとらるゝ如く、呉れて遣はす如く心得るなり。また貸し手は猶更心底悪しく、いさゝか心切にて人の難儀を見継ぐにあらで、利足を奪はん為の強欲にて、少しも誣げとるべき目当てあるものへは、困窮ものまた不実ものをも恐れず、相手の見嫌ひなく、高利を貪り、もし元利の返済方違ふ時は、強催促、途中催促など、悪口雑言に及び、又は頭支配などへ訴へ出で、種々の事を申し懸けて恥を与へ、或は奉行所へ願ひ出で難儀を懸け、真に双方不実同志の所業、敵同志の掛引きに似たり。」
「体家士の困窮を付け込みて、金銭を貸す業体のもの余多ありて、座頭或は高利貸・日成(ひなし)貸などと唱ふる者も入り込むなり。然るに今日を凌ぎ兼ぬるに任せて、幸ひに右の高利なる金銭を借り、後の難儀ども見かへりなく急場を凌ぐなり。さてその利倍に責められて、終に勤め向きも出来兼ぬる仕合せになり、或いは虚病を構へて引籠り、又は返済滞りの筋にて留守居役・目付役などへ届け出られ、表向きの沙汰になりて押し込められ、また品により永の暇にもなり、或いは門前払ひなどになり、またその身に堪へ兼ねて出奔などいたす族もあり」
 「依つて右体借金の筋を奉行所へ訴へるなどいへば、何より以て恐れて、たとひ今日の食料を欠きても利足などを入れ詫言いたし、甚しきにいたりては老父母及び妻子の衣類を剥ぎても済ます事なり。その償ひ出来兼ぬる時は大体身分に過失を得るなり。その行跡を見込んで、貸付業のもの諸家中へ入り込むなり。借金の筋にて侍の身分に拘るなどは、余りとやいたましき事どもなり」
 「金貸しの流行するは、世に非道の起る基、貧人を拵(こしら)ふる基なり。また月なし銭・日なし銭・損料貸し・烏金(からすがね)などの貸し方あり。これは身薄なる貧人に貸して、殊のほか高利なる者なり。烏金といふは、朝烏の鳴く頃貸し出して、夕晩烏の塒に帰る頃取り返すをいふ。わづか一日の融通に1ヶ月に当る高利を取るなり。損料貸しといふは、衣類・夜具・蒲団・蚊帳など、一日何程といふ損料を極めて貸すなり。貧人はこれを借りて、それを又質に入れ、日々の損料と利の二重に費すなり。当世悪人は右体世に逢ひて金貸しとなり、わづかの金銭を忽ち大金に育て上げ、遣り上げ、善人は時世に後れて金銭を借り、利に利を奪はれて、忽ち貧人となり行くなり」
 「当世、貸借の筋にて、世の中の混雑大方ならず。公事訴訟も十に八九はこの筋の事なり。くれぐれも貸借は貧福の偏る媒(なかだち)にて、悪人は貸し手となりて身を労せず、結構に過ぎ行く者多く出来て、人情鬼の如くにして、恩がましく毒を与へて利を貪り、善人は借り主となりて餓鬼道に堕ちたる如く、折角金銭を借りて一時を凌がんとすれば、忽ち炎々となりて、高利を取られ身を焦がすなり。右体鬼の如く行勢をなしても、もし滞りたる時は、或は家蔵を取り立て、又は家財・雑具・衣類・鍋・釜など押し取りにいたし、また妻娘などを売らせても取る。なほ届かざる時は、公辺へ訴ふるなり。借りては奉行所の詮議に逢ひ、身上のありたけを責め取られ、手鎖または牢獄の苦患に及び、親類または証人等までも困難に陥るなり。これまた吟味役人は、鬼の如くになりて、取り立てるなり」
 「今の座頭は、先づ官金と唱へて、貧人に金銭を貸し附け、高利を貪り、或は利足一割二割を取る。また礼金と号して、これまた一割二割を取る。右の礼金・利息とも、貸し附ける時、本金の内にて引き取るなり。また証文は無利足にて、預り金の積りなどにて、もし返済滞りたる時は、右の預かり金の威にて取り立てるなり。その上僅か三ヶ月四か月の期月にて貸し附け、その期月に返済出来兼ぬる時は、また証文を書き替へ、新しき貸金に直し、その度毎に最初の如く礼金を取り、利足・月踊りなどいうて、一箇月を二三箇月となし、また月なし・日なしなどの極めにて、強欲非道に貪るなり。よって借りたる者は、利金・礼金・月踊りに引き落され、一箇年の内には本金の倍増しにも費えるなり。右体強欲非道を行つて、官職に有り付く事を今の風俗となり、当時の座頭の仲間に入り、初め半折懸(はんおりか)けとなるに、金拾両といふ」
 「貸金の滞りたる時、先づ武士ならば、玄関の真中へ上り、声高に口上を述べ、居催促・強催促など云ひて、外聞・外見を構はず、また町家ならば、いかにも近所合壁へ聞ゆるやうに、悪口を並べ罵るなり。さればとて、全体借りたる筋が不義理になりたる上なれば、何程の事にも言葉返しも出来ず、もし云ひ返す時は猶更募り立つ故、何も尤もと会釈するの外なく、たとひ騒ぎたりとも、縛りもならぬもの故、それを見込みて強気に構へ、もしまた少しにても手を付くれば、大騒に申立、身体を傷つけしなど申し懸け、又は身の官職など唱へて、難渋を申し懸くるなり。尤も盲人にも限らず、当世流行の高利貸、日成貸の類はみな右似寄りたる流儀にて、やゝともすれば、人々の持て余すやうに仕懸くるものなり。そのうち目明きは少しは人情にて持ち合ひし所もあるゆゑ、左様にはなく、勘弁の品もあるなり。盲人はいはゆる無面目に仕懸くるなり。借り手は右の外聞外見を厭ひて、或は今日の食糧を欠きても調進いたし、或は老人小児などの衣類を脱ぎとりても返済する事になれり」
(続)

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2010年3月25日

世事見聞録(その1)

司法(江戸)

著者 武陽 隠士、 出版 青蛙房

 武陽隠士(ぶよういんし)が文化13年(1816年)に江戸時代の社会風俗の実情を、大いなる怒りをこめて書き上げた大著です。ときの将軍は徳川11代家斉です。寛政の改革を断行した松平定信は、4年前に老中を辞して風流三昧の日々を過ごしていました。
この本は、青蛙房(せいあぼう)が昭和41年(1966年)に新装版として出版しました。この本は3500円もしますが、江戸時代を知るためには必読の本だと私は確信しています。20年ほども前にこの本を読んで、大いなる衝撃を受けました。日本人が昔から裁判を好んでいなかったなんて嘘っぱち、大きな嘘だと言うことを確信しただけでも意味がありました。
 江戸時代に裁判が多かったことを著者は次のように嘆いています。
「当世、公事訴訟の数の多き事、元禄享保の頃より競ぶる時は、十倍ともなりしか。往昔板倉伊賀守は、茶臼を挽きながら、公事を聴きしといふ。閑暇(のどか)なる事なり。そのころは奉行所に出ることを止めしと見ゆ。そのころより見競ぶる時は、元禄享保のころは定めて十倍程にもあらん。それより今はその十倍などにもなりなん。これ世の中に曲がり犯したるもの繁多なるゆゑに、下々上を凌ぐ悪知恵増長して、聴所へ出る事を心安く覚えたるが故なり……
 さてまた公事出入りの訳も、百年ほど以前とは趣意違ひて、昔は義理の筋違ひたるを強く争ひしが、今の人は道理に構はず、損益利欲の事のみ争ふなり。然るに今の人は前にいふごとく、邪悪の智恵深きゆゑに、己が欲情を二重にも三重にも隠して工み謀りし事ども多く、善悪正邪正急に見分け難く、吟味逸々(いちいち)に手間取るなり。享保の頃は、奉行職大岡越前守は聡明の人にていまにその名高く、これが公事を取り捌く趣向を聞くに、そのころは世の中の人いまだ欲情薄く、近来欲情の沙汰の始まりし程の時ゆゑ、義理の筋が重(おも)になりたる事にて、裁判も致し安く、たとひ利欲謀計の事とても、その工み浅はかにて、善悪の筋分ち安く、また人々欲情の意地も薄き故、大なる声を発して叱れば、黒白忽ちに顕はれしと見ゆ」
 武士と町人の間の裁判もありました。このとき、もちろん武士のほうが強かっただろうと思うのは現代人の思い込み違いで、実は町人が裁判に勝っていたというのです。
 「義理を表にし、利勘を憎む武士は大いに損多く、また利勘を表にし、恥辱を厭はざる下人には、大いに徳多き世の中なり。依つて武士を相手取りて公事訴訟に及ぶことは、昔はなきことなり。今も国々にては絶えて無き事といふ。もし武士が町人百姓を非道にせし事あれば、上から僉議(せんぎ)すれば格別の事、下から訴へる事はならずといふ。尤もの事なり。御当地は武士を相手取りて訴訟すること容易に出来る故、少しのことも大騒に申立て出づる事なり」
「双方五分づつの失なる時は、先づ武士が負け、町人が勝つなり。勿論武士は十の内九ツまで利屈宜しくとも、後の一ツに利欲の筋あれば、その一ツにして負くる事なり。依つて少しばかりの利欲拘りたる事にて、従来の大恩を請けし武士を、町人が取つて落す事あり。武士は兼ねて恩をあたへ置きしとても、その恩を余りて過失の供入りにもならずして、負けて仕廻ふなり」
「江戸・京・大坂そのほか繁花の地の町人遊人等は、居ながら公事出入りを致し、いさゝかの事をも奉行所へ持ち出して埒を明くるなり。殊に手代など遣ふ程の身上なるものは、己れは病気と称して手代を出し、又は公事師(くじし)などいへるものを雇ひて名代(みょうだい)を出し、公事の懸引を打ち任せ置き、己れ病気と奉行所を偽りながら、その日一日家内に慎み居るにもあらず、私用または遊興の事に他出いたし、公儀を恐るゝ気色少しもなし。また公事師などといへるものは、奉行所の懸引き功者にて、この事を申し立つればこれに響き、彼れを押す時はこれに落著するなど、上を謀り相手を犯し、吟味役人に怖ぢ恐るゝ真似方の気にて、さも実明に見せ、その容体よくよく役人の気に入り、進退押し引きその図に当り、方便虚偽をはかるなれど、通して遺し置く程の事になりて、終には白きを黒きといひ紛らして勝をとる事にするなり。また関東の国々、別けて江戸近辺の百姓、公事に出ることを心安く覚え、また常に江戸に馴れ居て奉行所をも恐れず、役人をも見透し、殊になにかの序に兎角江戸へ出たがる曲ありて、やゝともすれば出入りを拵(こしら)へ、即時に江戸へ持ち出し、また道理の前後も落著の詰りもよくよく弁へて、心強く構へたるものなれども、遠国の百姓は中々左様のことにあらず」
 江戸時代に裁判を起こすときには、今のように印紙をはる必要もなく、タダでした。支配者の権限行使を促すということだったからです。
(続)

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2010年3月24日

軍艦島(上)(下)

日本史(近代)

著者 韓 水山、 出版 作品社

 崎戸島(三菱崎戸炭鉱)は幽霊島、高島(三菱高島炭鉱)は白骨島、端島(三菱端島炭鉱)は地獄島と呼ばれた。端島はその形格好から軍艦島とも呼ばれた。
 朝鮮人の皇民化教育を推進するなかで、朝鮮人を半島に居住する日本国民と定め、朝鮮人を半島人と呼ぶようになった。
 三白一黒一青という言葉があった。日本が朝鮮から持っていこうとしたものである。三つの白いものは、朝鮮の米と絹、綿花だ。黒いものは海苔、青いものは竹である。日本は朝鮮からこの 三白一黒一青を全て奪い、持ち去った。
 端島には、9階建てアパートが65棟も建っていた。この地獄島と言われる端島から逃亡した朝鮮人がいました。もちろん失敗して亡くなり、あるいは刑務所に入れられた人も少なくありません。逃亡しても、言葉の壁があるため、日本で自由に生活できるわけもありません。逃亡者の一人が長崎の造船所で働けるようになったのは、偶然といってよいほどの幸運でした。
 軍艦島では、売春宿まで三菱が直営していた。小さな島でしかないため、鉱夫が孤立して生活せざるをえない。ほかの炭鉱なら周辺の民間人が金もうけにやっている娯楽福祉も、ここでは会社が整えてやるしかなかった。その一つが売春と賭博だった。会社は娼婦を雇用し、売春事業の遊郭を直営にした。森田屋、本田屋、そして朝鮮人が経営をまかされていたこともある吉田屋という三軒の店があった。働いていた女性は1軒に9人、全部で27人だった。
 長崎に原爆が落とされた瞬間を目撃した人もいます。
目を開けると、あたり一面、火の海だった。燃え上がる炎は、太陽の下で黄金色に光っていた。周りには人影すらなかった。ピカッと光った瞬間、周囲は燃えあがる炎と化し、その炎がうねり、あらゆるものが狂ったように揺さぶられた。そして、どこからか地鳴りのような音が響いてきた。
 長崎には、昭和20年7月までに375人の捕虜がいた。彼らは朝6時から夜7時まで工場で働かされた。暖房のないバラックは、耐えられないほど寒い。冬の終わるころには、捕虜の4分の1にあたる、125人が肺炎で亡くなっていた。
原爆にあった朝鮮人は母国語で泣き、うめいた。
 救護隊の日本人は、アイゴー、オモニーと泣き叫ぶ朝鮮人は決して病院に運ばなかった。朝鮮語を話す者には水も食料も与えなかった。防空壕からでさえ、追い出された。そして、遺棄された朝鮮人たちは、崩壊した建物のガレキの下で死んでいった。最後まで取り残された死体も朝鮮人だった。一見、日本人と見まごうが、千切れた服から朝鮮服だと分かったり、アイゴー、オモニーという呻き声を聞いたりして救護隊は区別していた。
端島炭鉱に朝鮮で「募集」された朝鮮人労働者が働くようになったのは1918年(大正7年)5月からである。このとき、端島炭鉱に70人が就労した。1939年(昭和14年)には総動員体制の確立ともに、朝鮮人労働者の「募集」は微用となり、強制連行に等しくなった。
端島炭鉱をふくむ炭鉱に4000人の朝鮮労働者が微用されていた。
軍艦島が観光ブームで脚光を浴びていますが、このような過去はもっと知られるべきではないでしょうか。

(2010年1月刊。(2400円+税)×2)

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2010年3月23日

ライオンのクリスチャン

生き物

著者 アンソニー・バーグ、ジョン・レンダル、 出版 早川書房

 ユーチューブでライオンと若者たちの感動の再会シーンが話題になったことから、古い本が再生したのです。ともかく、感動の本でした。ライオンの子どもの頭の良さに感心しているうちに、1時間足らずの電車があっという間に目的地についてしまっていました。まさしく至福のときに浸って、時のたつのを忘れていたのです。
 オーストラリアの若者たちがイギリスに旅して、ロンドンのデパートで買ったライオンの子を育てたあげく、アフリカの地へ連れて行って野生へ戻すという話です。といっても、話は40年前のこと。この若者たちは、私と同じ団塊世代です。ロンドンのデパート(ハロッズ)でライオンの子が売られていた、それを20代の青年が買い受けてロンドン市内の住宅街で育てたなんて、とんでもないことですよね。今では考えられないことでしょう……。
 映画『野生のエルザ』を見た記憶はないのですが、本のほうは読んで感動したことをしっかり覚えています。それにしても、ロンドンのデパートって、ライオンの子どもまで売っていたんですね。信じられません。それって、はっきり言って怖いことですよね。
 売られていたライオンの子どもは、生後4カ月でした。若者たちが飼う(買う)ことを決意したのは、周囲の人たちが皆、反対したからだったというのは、笑わせます。親から結婚に反対されると、無謀にも駆け落ちするようなものですよね。
 生後4カ月で、体長は60センチ、体重も15キロしかありませんでした。
 ライオンはネコほど冷めた感じではなく、むしろイヌのように愛想よかった。だっこされたり、抱き締められたりするのが大好きで、そのたびにヒトの首に前足を巻き付け、舌で顔を舐めてくる。性格も明るく、穏やかだった。ライオンサイズのトイレを置いた。それを汚くするたびに注意すると、そのうちにきちんと使えるようになった。自分の名前もすぐに覚え、やってはいけないことも、すぐに理解した。
 どんどん大きくなって、体力的にヒトより強くなったが、それを意識させないように努めた。
 ライオンの子は、人間に従属しているという素振りは一切見せなかった。
 ライオンは、ほかの動物よりも人間とうまくコミュニケーションをとることができる。何かにつまずいたりして気まり悪いときには、何もなかったふりをしてごまかす。
 ライオンは大家族の群れで暮らすため、とても社交的な動物である。
 人間にちょっかいを出すのが大好きで、見知らぬ人がどんなリアクションをするか、いつも試していた。ある人が動物を苦手にしているかどうかはすぐに分かり、それを逆手にとってイタズラを仕掛けた。
 ライオンは口を使ってコミュニケーションをとる。ヒトの顔を舐めて愛情を表現した。
 ライオンは不機嫌なときはすぐに態度に現れる。歯をむき出しにしたり、爪を立てたりして、とても危険である。
 生後8カ月になったときには、体重60キロあった。
 ライオンは動物園で暮らすと、平均18~20年は生きる。ところが、野生では12~15年に縮まる。それだけ、自然界は厳しい。
 ライオンの子どもを僅かな間ですが育てて、アフリカの地の野生に放したあと、再会して旧交をあたためた実話です。たくさんの写真がほのぼのとした雰囲気をよく伝えてくれます。
 それにしても、アフリカの大草原で、昔馴染みとはいえ、ライオンと人間が久しぶりに再会して抱き合ったというんですよ。もちろん、人間は丸腰です。大人のライオンに顔中を舐めまわされるなんて、どうでしょうか。私には、とてもそんな勇気はありません。一度、ユーチューブで動く映像を見たいと思いました。
 
(2009年12月刊。1400円+税)

 日曜日の朝、おだやかな春の日差しを浴びて、チューリップがそれはそれはみずみずしく輝いていました。そっと近付いてカメラを構えます。私のブログに写真をアップしていますので、ぜひのぞいてみてください。春はやっぱりチューリップです。数えたら180本咲いていました。まだまだ全開ではありません。もう少しです。

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夜明けの橋

江戸時代

著者 北 重人、 出版 新潮社

 江戸の町人生活の哀歓を見事に描いた短編小説集です。
 藤沢周平というより、山本一力の作風を思わせますが、またどこか違います。
 日照雨は、そばえと読む。狐雨ともいうのでしょうか。降りそうもない空から、ふいに雨が降るという言葉が続いています。
 縹組、縹渺。はなだぐみ、ひょうびょう。どちらも読めない漢字です。虚空の心を持つという意味のようです。したがって、縹色とは空色をさします。うへーっ……。
 江戸で旗本奴(はたもとやっこ)が武士の男伊達(おとこだて)を競っていたころ、武士を捨てて町人へ降りかかった災難。我慢に我慢を重ねますが、それにも限界があり、ついに切れてしまうのです。
 隅田川に端をいくつか架ける工事が進んでいます。競争なので、ねたんだ連中が嫌がらせを仕掛けてくるのです。それにもめげずに橋を作り上げます。今も名前の残るお江戸日本橋です。
 江戸の街並みができあがってまもないころの武士や町人たちの日常生活が実感をもって伝わってきます。山田洋次監督の映画『武士の一分』を思い出しました。
 著者は山形県酒田市の生まれだそうです。となりの鶴岡市は藤沢周平の故郷です。私も、弁護士になりたてのころ、鶴岡市には何回となく通いました。灯油裁判の弁護団の末席を汚していたのです。恥ずかしながら何の働きもしませんでしたが、大変勉強にはなりました。
 ところが、山本周五郎賞の候補になったものの、61歳の若さで急逝してしまったのでした。胃がんだったようです。本人もどんなに残念だったことでしょう……。
 がんの再発を聞かされ、ベッドのなかで深刻な症状を感じていたはずの状況で、これらのしっとりした短編を書いたというのは、すごいことです。本当に残念です。ご冥福を祈るばかりです。

 
(2009年12月刊。1500円+税)

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2010年3月21日

まねき通り十二景

日本史(江戸)

著者 山本 一力、 出版 中央公論新社

 江戸時代の下町の人情話なら、この人ですね。いつもながら、しっとり、じっくり、味わい深い話のオンパレードです。読みながら、ああ、生きてて良かったなと思わせます。ほんわか、まったり、じわーんと来る話が繰り広げられます。
 こんなストーリーを思い描くというのは、著者のどんな体験にもとづくのか、一度たずねてみたいという気もします。発想が日常的であり、かつ、奇抜だと思うのです。
 オビに書かれている言葉が、この本の山本一力ワールドを端的に表現しています。
 ウナギに豆腐に青物、履き物に雨具、一膳飯屋、駕籠宿―14軒の店が連なる、お江戸深川冬木町、笑いと涙を描く著者真骨頂の人情物語。
 そして、裏表紙にもありました。
 こつこつ働く大人たち。のびのび育つ子どもたち。家族にも、商いにも、大切なのは人のぬくもり。
 この、何とも言えない、ほんわかとした、あったかい温もりの山本一力ワールドをまだ知らない人は、一度ぜひ騙されたと思って浸ってみることをお勧めします。きっと、私をうらむことはないと思いますよ。信じるものは救われますからね……。

(2009年12月刊。1500円+税)

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2010年3月20日

小太郎の左腕

日本史(戦国)

著者 和田 竜、 出版 小学館

 ときは戦国時代。種子島から入ってきた鉄砲が大量に使われ始めています。
 火縄銃による試合があります。火縄銃は連射を旨とすれば、1分間に5発の弾を撃つことが可能だ。小太郎は、これをやった。もはや速いという程度のものではない。ほとんど無造作ともいうべき所作で、瞬く間に玉薬を銃口に流し込み、弾を押しこみ、火皿に口薬を盛り、火ぶたを閉じた。火ぶたを閉じるや、すぐさま鉄砲を構えた。火ぶたを切るや、引き金を引いて激発させた。
 小太郎は、実は雑賀(さいが)衆の一人であった。雑賀衆とは、現在の和歌山市を中心とする一帯に猛威をふるった鉄砲傭兵集団である。鉄砲についてまだ懐疑的な当時の武将たちも、その雑賀衆の鉄砲における精兵ぶりには舌を巻き、彼らを敵に廻すのを極度に恐れた。
 雑賀衆は、五組の代表者が合議のうえで衆としての方針を決め、雑賀五組に住む者たちは、その決定に従うという形態で運営されていた。とはいえ、五組の代表者が雑賀衆を支配しているわけではない。五組の代表者は各村々の決定事項を持ち寄るため、惣国の構成員は決定された事柄に当事者意識を持ち、それもあってその結束は比類ないものとなった。そして、雑賀衆として敵と認めた一国には、一丸となってこれに当たった。
 えいえい、おう。
 この叫び声は、漢字で書くと、曳々、応だそうです。初めて知りました。
 『のぼうの城』も傑作でしたが、この本も実に読ませます。たいした腕前です。感心しながら一気に読みとおしました。
 
(2009年12月刊。1500円+税)

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2010年3月19日

脳ブームの迷信

著者 藤田 一郎、 出版 飛鳥新社

 私の子どものころ、味の素をふりかけると頭が良くなる、身体にいいというのが大流行しました。それまでは耳かき一杯だったのが、サッサという音とともに大量にふりかける、味が良くなるだけでなく、多いほど身体に効果があるということでした。
 しかし、この本はそれを二重に否定しています。驚くべきことに、第一に味の素は、そんな広告・宣伝をしていないのというのです。本当でしょうか……。私には信じられませんでした。
 第二に、グルタミン酸を外部から脳に取り込むことが脳の情報処理に役立つかと言うと、答えはノーだというのです。これは私にも理解できます。ギャバも青魚(DHA)も、食べた後脳細胞に到達するのは難しいのです。経口摂取しても脳にまでは届かない。
 では、今はやりの脳トレはどうか?
 簡単な計算問題を速く解いていると、血流量が増加した。しかし、この血流量の増加と脳の機能の工場とは別の話である。なーるほど、ですね。
 英語の熟練度が高い人ほど、英語文法の処理に関わる前頭葉領域における活動領域は小さくなる。
 ある物事の情報処理を脳がくりかえるうちに、脳のなかに効率的に情報処理する仕組みが生まれ、より少ない神経細胞集団で情報処理をすることができるようになる。
 脳トレ・サプリは脳に効果のないことを警告する、脳科学者による100頁にも満たない薄い本ですが、面白くて一気に読みました。
 
(2009年11月刊。714円+税)

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2010年3月18日

ほびっと、戦争をとめた喫茶店

社会

著者 中川 六平、 出版 講談社

 アメリカのベトナム侵略戦争反対!私の大学生のころ何回となく叫んだシュプレヒコールです。岩国基地の近くにべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)が喫茶店を開き、反戦アメリカ兵のたまり場になっていたという話は聞いていました。
 この本は、その喫茶店でマスターとして働いていた男性が、当時の日記などをふまえて活動状況をよみがえらせてくれたのです。
 マスターと言っても、実は21歳の同志社大学生だったのでした。喫茶店を途中でやめて、大学を無事に卒業し、ジャーナリズムの世界に入りました。私より少し下の、団塊世代です。
 この本を読んで、驚いたことがいくつかありました。
 まず第一に、基地の近くで凧あげをして、ベトナムへ飛び立とうとしたアメリカ空軍の飛行機を止めたというのです。うへーっ、凧揚げって、戦争を(少しの間とはいえ)止める力があるんですね。日本の公安刑事が基地近くの凧あげを禁止しようとしますが、何の法的根拠もありません。ある若者は川にボートを浮かべて、そこで凧あげをしたというのです。
 その二は、著者を取り囲んで脅し乱暴した男性4人組の暴漢がいたのですが、それがあとで公安刑事だったというのが判明したのでした。ベトナム戦争に反対しようという日本人の声は当時からかなり大きく、多くの日本人の共通した考えになっていたと思います。それなのに、公安刑事は「おまえなんか岩国に住めないようにしてやる」と言って、「実力阻止」行動に出たのです。ひどいものです。
 第三に、デッチ上げの犯罪で喫茶店が警察によって家宅捜索されたということです。20人以上もの警官が店内に押し入ってきました。関西赤軍に自動小銃が渡ったことの関連だったのです。日本赤軍によるイスラエル空港での乱射事件の直後のことでした。とんでもない濡れ衣でしたが、そのデマの出所には赤軍派の活動家の一人の口から出まかせもあったようです。連合赤軍によるあさま山荘事件の起きたころのことです。
 それでも、その後まだ喫茶店が続いたというのですから、不思議と言えば不思議です。
 まだ21歳の、かなりいい加減なところもある(ありそうな)大学生に喫茶店の経営が任されていたというのも、かなりいいかげんな話です。
 それでも、ベトナム戦争に反対する日本人の気持ちがこういう形で示されたのはいいことですよね。ほのぼのとした中に、若者の一生懸命さが伝わってくる、いい本でした。ベトナム侵略戦争での敗北に懲りず、またもやアフガニスタンへ乗り出そうというアメリカの狂気は恐ろしい限りです。
 
(2009年10月刊。1800円+税)

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2010年3月17日

新自由主義か新福祉国家か

社会

著者 渡辺 治・二宮 厚美ほか、 出版 旬報社

 日本社会をひっぱったのは、企業社会と自民党政治を柱とする開発型国家であった。
 企業の繁栄で労働者の生活を、と考えた企業主義労働運動も、福祉国家が完成させた福祉の制度に興味をもたなくなった、企業社会プラス自民党利益誘導型政治プラス貧弱な社会保障が、日本社会の成長と安定の三本柱となった。
 共和党と民主党しかないアメリカと違って、日本では、民主党の左に、反構造改革、反軍事大国を公然と掲げる社民党や共産党がいた。こうした状況では、民主党は自民党の構造改革に対処するにも、漸進路線のところではとどまれなかったのである。そして、皮肉にも、これが民主党への国民の期待を高めた。
 民主党は、その支持基盤から言って、大都市の中間層の利害に敏感であり、この層の要求にこたえようとした。大都市部の中間層の要求は、学校での「平等」主義をなくし、より競争的で進学に効率的な教育を受けたいというものだった。子どもたちをより良い学校に上げるために、学区制の廃止、学校選択の自由化も求められていた。
 高卒後の進学には、大学、短大、専修学校を問わず「100万円の壁」がある。親が100万円を用意できなければ、進学は容易ではない。
 失業しても失業保険はもらえない。その受給率は1998年以降下がりつづけ、2008年度は22%、つまり、失業者5人のうち1人しか受給していない。そして、1970年代に受給率が8割から6割にまで下がったが、この低下は日本の労働組合運動がストライキを背景とした国体交渉ができなくなった時期にあたる。
 きちんとした失業補償は、劣悪な職を労働市場から駆逐する大事な要因である。
 失業時の生活保障が十分でなく、「半失業」が増えると、貧困世帯が増え、各種の社会保険も十分に機能しなくなり、無年金者と医療保険の無保険者あるいは実質的無保険状態が増える可能性が高い。
 日本という国の在り方をよくよく考えさせられる真面目な本です

(2009年12月刊。2300円+税)

 朝、雨戸を開けると、赤いチューリップの一群が朝日を浴びて輝いているのが目に飛び込んできます。チューリップは早起きです。いま2区画のチューリップが咲いています。庭に出て数えると82本ありました。3日前は45本でした。雨が降って、たっぷりと陽光を受けてぐんぐん花を開かせています。
 チューリップの隣には地植えの青紫色のヒヤシンスの花が咲いています。可憐な黄水仙そして淡いクリーム色の水仙も咲き誇っています。
 白いジャガの花が咲きだしました。ハナズオウもつぼみをつけ出しています。

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2010年3月16日

歴史の偽造をただす

日本史(明治)

著者 中塚 明、 出版 高文研

 日清戦争の最初の戦闘は1894年7月25日、朝鮮西海岸の仁川沖合での戦闘、豊島沖の海戦とされている。しかし、実は、その2日前の7月23日に日本軍は朝鮮王宮を占領し、日清戦争の口火を切っていた。
日本軍は朝鮮王宮を占領して、国王高宗を事実上とりこにし、王妃の一族と対立していた国王の実父である大院君を担ぎ出して政権の座につけ、朝鮮政府を日本に従属させ、清朝中国の軍隊を朝鮮外に駆逐することを日本軍に委嘱させる、つまり「開戦の名義」を手に入れ、ソウルにいる朝鮮兵の武装を解除して日本軍が地方で清朝中国の軍隊と戦っているあいだ、ソウルの安全を確保し、軍需品の輸送や徴発などを朝鮮政府の命令で行う便宜を得るというのが目的だった。
 ところが、朝鮮王宮の占領にあたって、意外にも朝鮮の兵士たちが奮戦したため、午前4時20分から7時30分まで、3時間にわたる銃撃戦が続いた。
 このように、朝鮮王宮の占領は決して偶発的なものではなく、日本公使館の提案にもとづいて日本軍が計画をたて、その作戦計画に従って実施された計画的な事件であった。
 日清戦争のとき、日本軍は国際法をよく守ったという議論がある。しかし、清朝中国の軍隊を満載した軍艦「高陞号」を撃沈したあと、東郷平八郎艦長は船長など西洋人4人を救助したほかは、溺れる2千人あまりの中国人将兵は救助するどころか、ガトリングガンで射撃した。これを目撃していた西洋の軍人らが批判したのも当然であった。
 司馬遼太郎の『坂の上の雲』は、この朝鮮王宮占領についてはなぜかまったく触れていない。ただ、「7月25日、韓国は日本の要求に屈し」たと書くのみであった。
 外国の軍隊によって国のシンボルとも言える王宮が占領されたことのショックは大きい。
 そうですよね。日本の皇宮を突然、韓国軍が占領したら、日本人は大ショックですよ。
 日清戦争、そして侵略軍である日本軍が朝鮮半島でいかに暴虐の限りを尽くしたか、きちんと知る必要があると改めて思いました。その反省なしに、アメリカ軍は日本から出て行けと叫んでも、そらぞらしくなってしまいます。
 
(1998年2月刊。1800円+税)

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2010年3月15日

カリブー、極北の旅人

生き物

著者 星野 道夫、 出版 新潮社

 すごいです、すごい写真のオンパレードです。大平原を1万頭のカリブーが埋め尽くして疾走するのです。それが写真集として気楽に眺められるのです。
 動物写真家として著名だった著者は、惜しくも1996年8月にカムチャッカ半島で取材中にヒグマに襲われて亡くなりました。
 私のテントの周りは一面、極地の花が咲き乱れていた。
 そこへ1万頭に近いカリブーの群れがやってきたのは、夜だった。
 無数の足音が和音となって、何時間もあたりに響き続けていた。
 朝になってびっくりしてしまった。見渡す限りの花が、ほとんど食べつくされているのである。花が消えてしまった寂しさ以上に、私は感動していた。
 雄大な写真の合間に、著者の言葉が書き連ねられています。これまた味わい深い詩としか言いようがありません。
 そして、カリブーの子育てが、実は大変な難事業であることも知らされます。無事に育つ子は半分にも満たないようです。
 頬を撫でる極北の風の感触、夏のツンドラの甘い匂い、白夜の淡い光、見過ごしそうな小さなワスレナグサのたたずまい…。
 ふと立ち止まり、少し気持ちをこめて、五感の記憶の中にそんな風景を残してゆきたい。
 なにも生み出すことのない、ただ流れてゆく時を、大切にしたい。
 あわただしい人間の日々の営みと並行して、もうひとつの時間が流れていることを、いつも心のどこかで感じていたい。
 上空から大草原を駆け抜けるカリブーの大軍を撮った写真があります。画面いっぱいに広がるカリブーの姿は、まるで地を這うアリの大群です。
 生命とは一体どこからやってきて、どこへ行ってしまうものなのか。あらゆる生命は、目に見えぬ糸で繋がりながら、それはひとつの同じ生命体なのだろうか。木も人も、そこから生まれでる、その時その時のつかの間の表現物に過ぎないのかもしれない。
 とにかく、どんなに失敗しても、後ろを見ず、悔まないこと。全力を尽くし、だめだったならそれでいいのだ。一番大切なのは、その時の気持ちだ。気を取り直して次の一歩を踏み出すこと。それがもっとも大事なことなのだ。こんなことからも、生きる姿勢の在り方を学ぶことができる。
 著者は、ひたすら前向きに生きようとした人だと言うことがよく分かり、共感できます。
 エスキモーにとって、カリブーは単なる食糧供給源ではなく、昔からの大切な文化的意味を持っている。その関係は、かつてのアメリカ・インディアンとバッファローとの関係に似たものだろう。
 カリブーは、尿を再利用するという特別な身体の仕組みをもっている。冬の間、カリブーは60%以上の尿を胃の中に戻す。そこで尿の中に含まれた窒素を再利用する。窒素はタンパク質合成の中心的な構成要素なので、窒素の再利用という能力を持ったカリブーは、タンパク質価の低い地衣類を食べても生きていけるのだ。
 マイナス50度にまで下がる極北の地に適応して生きているシカ科の動物として、たくましいカリブーの姿がよく捉えられています。一見の価値ある見事な写真集です。
 
(2009年8月刊。3800円+税)

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2010年3月14日

フリー

アメリカ

著者 クリス・アンダーソン、 出版 NHK出版

 ユーチューブで無料映像配信したところ、DVDの売上は、なんと230倍になった。
 オンラインでは、無料であることが当たり前になっている。
 この経済は、歴史上初めて最初の価格がゼロなのにもかかわらず、数十億ドルの規模を持つものになりつつある。英語のフリーは、自由と無料の二つの意味を持つ。
 本当に無料のものは少ない。ほとんどの場合、遅かれ早かれ利用者は財布を開くことになる。ところが、本当はタダでもらったものではないのに、消費者はしばしばそう考える。
 マディソンで、1988年に創刊された無料の新聞は、その前に13万部(最盛期には16万部)だったのが今では25万部だ。無料のある雑誌は、広告収入があるため、定期購読料を赤字にしても利益の出るビジネスモデルになっている。雑誌業界では、定期購読を勧めるダイレクトメールへの返事が2%以下なら失敗したと考える。
 海賊行為はフリーの強制である。潤沢な情報は無料になりたがる。稀少な情報は高価になりたがる。
  2008年のアメリカ長寿番付によると、上位400人のうち11人がフリーを利用したビジネスモデルによって財を為していた。
 テレビの視聴率は、ピークを過ぎて減っている。
 新聞業界が全体として衰退するなか、フリーペーパーが唯一の希望の星となっている。ヨーロッパを中心に年間20%成長を遂げていて、2007年の新聞の総発行部数の78%を占めている。
 巷には無料のタウン誌があり、ティッシュやガーゼ・マスクなどが街頭で無料配布されています。いったい、どこに秘密があるのか、心配でした。この本を読んで、それがまったく無用のものと分かりました。
(2010年1月刊。1800円+税)

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2010年3月13日

新しい霊長類学

生き物

著者 京都大学霊長類研究所、 出版 講談社ブルーバックス

 ヒト科は4属。ヒト科チンパンジー属、ヒト科ゴリラ属、ヒト科オランウータン属、ヒト科ヒト属。ヒト科と近縁なのは、テナガザル類。テナガザルには尻尾が無い。ヒトという動物は「尻尾のない大型のサル」なのである。素早く動く必要が無ければ、長い尻尾を持っていても無用の長物である。
 ヒトとチンパンジーのDNAは98.8%まで同じである。3000万円前までさかのぼれば、人間とチンパンジーとニホンザルの共通祖先にたどりつく。サルはヒトの親戚だが、ヒトの祖先ではない。今生きているサルと過去のサルは別の動物である。現在、人にもっとも近いサルはチンパンジーと考えられるが、それでも600万年前に分岐した。
 現代人(ホモ・サピエンス)の直接の祖先は、20万年ほど前にアフリカで進化し、10~数万年前にユーラシアへ進出し、さらにオーストラリアや南北アメリカ大陸へも広がっていった。
 さらさらした汗はヒトの特徴の一つ。ヒトがかつて水生だった証拠はない。ヒトの胎児には毛が生えている時期がある。毛の少ないヒトは、外部寄生虫に取り付かれにくいので、健康状態はよく、長生きできた。
 もてるメスは子どもを持っているメス。子どもを何頭も育てたメスが発情すると、オスたちが群がる。おばあさんザルでも、もてもてになる。
 メスが好むのは、何年も見なれたオスではなく、新しいオスである。
 メスのサルは、高順位のオスの監視の目から逃れて、自分の好きなオスと逃避行する(かけおち)。
 ヒトとサルの違いをよく知ることのできる100問100答がのっている、面白い本です。

(2009年9月刊。1180円+税)

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2010年3月12日

Twitter 社会論

社会

著者 津田 大介 、 出版 洋泉社新書
 
 私がツイッターという言葉を知ったのは最近のことです。アメリカのオバマ大統領が選挙戦以来愛用しているということでした。ブログとはどう違うのかなと疑問に思っていました。つい最近、初めてツイッターの画面を見ることができました。140字というので5~6行の短文がえんえんとつながっていました。ミニ情報の大洪水のようでした。このなかからどうやって選択するのか不思議でなりません。
 ツイッターを運営するアメリカ、ツイッター社は、2009年9月、複数の投資会社から1億ドル(90億円)を獲得し、現在の企業価値は10億ドル(900億円)に値する。
2006年、アメリカのグーグル社は動画投稿サービス「ユーチューブ」を10億5000万ドル(1500億円)で買収した。
ツイッター社は、ネットの世界にいち早くリアルタイム・ウェブの潮流を持ち込み140字という限られた文字数で放送メディア並みの瞬間的情報伝播力を持たせないことに成功した。 
現在、全世界で5500万人ものユーザーを抱えている。前年比から1270%の増加である。ツイッター社のサービスが始まったのは2006年7月のこと。アメリカのユーザーは2009年に1800万人、2010年には2600万人になると予測されている。
Twitterとは、ぺちゃくちゃしゃべるさえずるという意味。日本人ユーザーは、2009年
10月、100万人とみられている。
ツイッターは、今のところ誰でも無料で利用できる。これから有料になるという話はない
問題は、「なりすまし」だ。そして、デマも急速に伝播してしまう。これは情報の真偽を検証する機能が貧弱であるツイッターならではの問題だ。 
英米に比べて日本のツイッター議員はやや少ない。ツイッターをつかって情報を発信している日本の公的機関もまだ少ない。
ツイッターには、ブログについての「お気に入り」と同じようにフォロワ-というツイッターのフォローをする人々がいて登録するようです。そうでもないと洪水に埋もれてしまいますよね。
(2009年12月刊。760円+税)

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2010年3月11日

東欧革命1989

世界史(ヨーロッパ)

著者 ヴィクター・セベスチェン、 出版 白水社

 イギリスのジャーナリストによる、1989年に起きた一連の革命的出来事がよくまとめられています。なるほど、そういうことだったのかと改めて東ヨーロッパの自由化のうねりを実感しました。
 東ドイツのベルリンの壁崩壊の直接のきっかけは、広報担当者のちょっとした言い間違いであったこと、ポーランドのワレサ「連帯」の勝利は、望まない即時選挙によるものであったこと、ルーマニアのチャウシェスク大統領は、大群衆を前にした演説でやじに負けて哀れな姿をさらけ出したことで、4日後には銃殺されてしまったことなど、知らなかったことがたくさんありました。
 そして、アメリカがこの一連の革命にどう対処したかは面白いものです。CIAはこの大変化を予測できていなかった。ブッシュ大統領は東ヨーロッパの暴走を恐れ、むしろ各国共産党政権を存続させることに必死になっていた。ポーランドのヤルゼルスキは、大統領選挙にあまり勝ち目がないようなので、不出馬を決意していたところ、ブッシュ大統領が強力に出馬をすすめた。うへーっ、なんということでしょう。アメリカのご都合主義がここでも明らかです。ポーランド国民のためになるかとか、民主化を推進するより、アメリカ国益最優先なのです。いつものことですが……。
 東ドイツ政権は、ベルリンの壁を建設して3年後から人身売買に着手した。一定の代金と引き換えに、政治犯を釈放するのだ。1週間に2回、10人ずつ西へ渡った。1人あたり当初は4万マルク、あとでは10万マルク。この方法で西に渡った人は3万4千人。この収入は、東ドイツの国家予算として組み込まれていた。総額80億マルクの収入をもたらした。
 人口900万人のチェコスロバキアでは、あらゆる職業に45万人もの特権階級のポストがあった。政治が最優先だった。
 CIAはワレサの「連帯」を支援するため、大量の資金、印刷、放送機材をポーランドに投入した。お金は、法王庁とつながりのあるカトリック団体を経由して、バチカン銀行などを使って届けられた。バチカンの支援を受けて、CIAが「連帯」に送った資金は6年間で5千万ドルにもなる。
 東ドイツの秘密警察(シュタージ)は、常勤職員6万人、そして50万人をこえる積極的情報提供者がいた。
 ゴルバチョフはロシアの外では熱狂的に歓迎された。しかし、軍部はゴルバチョフによって痛めつけられたので、仕返しを考えていた。ゴルバチョフは国際社会では有名人の地位をほしいままにしていたが、国内での人気は急落していた。せいぜい無関心、ひどければあからさまの敵意に満ちていた。
 実力を持つソ連共産党の重鎮のなかにはゴルバチョフを選んだことを後悔しはじめた者もいた。グロムイコもその一人である。ゴルバチョフは、東ヨーロッパの衛星諸国が独立に突っ走るとは考えていなかった。それは最大の誤算だった。ベルリンやプラハを訪問して「ゴルビー」と叫び、「ペレストロイカ」と書いたプラカードを振る大群衆に迎えられた時、ゴルバチョフは人々がゴルバチョフ流の改革共産主義を支援しているものと思った。ソ連が崩壊するまで、自分の間違いには気がつかなかった。あのデモの群集は、自分たちの支配者に抗議する手段として、ゴルバチョフを隠れ蓑にしているのだということを見抜きそこなっていたのだ。
 なーるほど、そういうことだったのですね……。忘れてはいけない貴重な歴史の本です。

(2010年1月刊。4000円+税)

 日曜日の朝、庭にツクシがたっているのを見つけました。土筆という名のとおりです。子どものころ、土手で摘んでおひたしにしてもらって食べていました。ちょっぴりほろ苦い、春の味わいです。
 ジャーマンアイリスの球根を掘り出して植え替えをしてやりました。これまでとあわせると、数えてみたらなんと150本ほどになっています。6月にはジャーマンアイリス畑になってしまいそうです。青紫の気品ある華麗な花を咲かせてくれることでしょう。白い花、茶色の花も少しだけあります。チューリップのあとの6月の楽しみです。

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