弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年2月29日

バターン、死の行進

日本史

著者   マイケル・ノーマンほか 、 出版   河出書房新社

 日本軍がフィリピンを占領したとき、アメリカ・フィリピン軍の捕虜7万6000人を中部にある収容所まで炎天下100キロ行進させ、1万人近くが亡くなったというバターン死の行進を日米双方の資料をもとに明らかにしています。
日本軍の最高責任者(司令官)だった本間雅晴中将は戦後、戦犯となって死刑になりました。これは、実はマッカーサー将軍が日本軍によってフィリピンから敗退させられたことへの報復惜置だったのではないかという見方があります。
 この本を読んで、マッカーサーが日本軍が攻めてくる前に根拠のない楽観論を振りまいていて、無策のうちに日本軍のフィリピン上陸そして占領を許してしまったという事実を知りました。マッカーサーって、戦前の日本軍の典型的な将軍と同じような観念論者だったようです。
 1941年7月、ルーズベルト大統領はマッカーサーをアメリカ極東陸軍司令官に任命した。8月、マッカーサーは、フィリピン防衛計画が完成に近づいたと米国戦争省に断言した。10月、まもなく20万人の軍隊が用意できるとマッカーサーは報告した。これによって、アメリカ政府はマニラの軍隊がいかなる事態にも対応できると信じた。
 実際に7週間後に戦争が始まったとき、マッカーサーは約束した兵力の半分しかもっていなかった。アメリカ兵1万2000人は、その実戦部隊は実際に敵と戦ったことはなかった。フィリピン兵6万8000人は、テニスシューズをはき、ココナツの殻のヘルメットをかぶって戦うことになった。
 マッカーサーは、開戦前に次のような命令を発した。
 「敵は海岸で迎え撃つ。何があろうと食い止める。撤退はしない」
 ところが、日本軍は12日間でマニラを攻略した。あとは奥地の残敵を掃討するだけだった。米比軍の大半はバターン半島に退却した。バターン半島は、戦場としてはきわめて苛酷な場所だった。
日本軍は敵の兵力について見誤っていた。日本軍の兵力は、米比軍の3分の1にすぎなかった。日本軍の第一次バターン攻略作戦はうまくいかなかった。50日でフィリピンを占領することはできなかった。
本間中将は、戦場だけでなく、祖国日本でも政敵に攻め立てられ窮地におちいっていた。東条英機首相兼陸軍大臣(大将)は本間の古くからの敵対者だった。
 本間は指揮下の兵力の半分2万4000人以上を失っていた。アメリカは、マッカーサーを脱出させる方法を話し合っていた。陸軍最高位の将軍であるマッカーサー大将が敵に捕まえられでもしたら、そのニュースがアメリカに大打撃をもたらすという考えによる。
 1942年3月10日、闇夜にマッカーサーは家族と身近な参謀の数人でフィリピンを脱出した。このときのマッカーサーの言葉は有名です。
「私は戻ってくる」(アイ シャル リターン)
 これは、我々は必ず戻ってくるというのではありません。普通なら、ウィー シャル リターン)ですよね。そこを我々ではなく、私というところが、いかにも独善的です。
 1942年3月、本間中将は3万9000人の将兵で第二次バターン攻撃に移った。
 4月9日、バターン半島の米比軍は日本軍に降伏した。7万6000人をかかえるアメリカ軍の部隊が降伏したのは歴史上初めてのことだった。捕虜の人数は日本軍司令部の推定の2倍以上になった。将兵7万6000人、民間人2万6000人である。
 日本軍の兵卒は捕虜をひどく残忍に殴りつけた。だが、日本軍では、上官の軍曹や少尉にしても、部下の兵卒を殴る際には同じように残忍だった。
 日本兵にとって捕虜を殴ることは義務だったが、一部のものには娯楽だった。故国で教練所を虐待所に変えたサディストたちが、いまや何の力もない捕虜の列の間を歩き回り、彼らに日本語で罵声を浴びせ、命令し、理解できなければ馬鹿だと言って殴り飛ばした。
 4月10日、米比軍の降伏の翌日、日本軍は徒歩による捕虜の移送を開始した。
 日によって15キロすすむ日もあれば、20キロ、あるいは30キロ以上進む日もあった。
 年間でもっとも乾燥する時期だった。太陽が容赦なく照りつけ、地上のあらゆるものを焼き焦がした。昼すぐには大気が熱せられてオーブンのような状態になった。地盤は焼き上がったばかりの煉瓦のようだった。監視兵は、捕虜を常に前進させるよう命じられていた。
 捕虜の中には脱水症状がひどくなり、脳の神経伝達物質がうまく機能しなくなるものもいた。脱水症状の一つの機能障害に陥ったのだ。幻覚をみる者もあらわれた。日本人にしてみれば、捕虜は「敵国人」であり、憎むべき対象だった。フィリピン軍の志願斥候兵は日本軍を手こずらせていたのでとりわけつらくあたった。
 米国兵ばかりの隊列には、40代、50代の士官が何人もいた。参謀をつとめていた、ふっくらと肉づきのいい佐官は、途中で倒れたり、徐々に遅れをとったりして、後方で待ちかまえるハゲタカ部隊の標的になった。
 慢性的な物資不足と常習的な準備不足のせいで、不倶戴点の敵である捕虜を困窮させても、日本兵は何とも思わなかった。捕虜に満足に食べさせる余裕もなければ、そうする意思もなかった。
 行進して5日間、日本軍は当初の計画を捨て、場当たり的なことをはじめた。監視兵の多くは混乱していた。なんといっても捕虜の数が多すぎた。
赤痢にかかっている者は非常に多く、座ったり横になったりする待機所には糞尿、分泌物、血液がそのまま垂れ流された。多くの待機所では死体が放置され、やがて腐敗しはじめた。次の捕虜の集団がそれぞれの待機所に着くころには、腐った死体の悪臭と、汚物のあふれる便所の悪臭とが合わさって、耐えがたいものになっていた。
 捕虜たちは常に北を目ざした。時間や場所の感覚も、目的意識もなかった。行進中に大事なのは歩き続けることだった。道中、日本軍はだいたいにおいて避難民にかまわなかった。
 降伏から一日もたたないうちに、ルソン島の各地に噂が広まった。さまざまな州からフィリピン兵の家族や親類がバターンに集まり、身内の姿を一目見るよう、機会があれば言葉をかわそうと、国道ぞいに並んで待ちかまえた。
 オドネル収容所は、もともとフィリピン軍の兵員2万の師団用の兵舎だった。その狭苦しい敷地に、4月1日以降日本軍はアメリカ兵9270人、フィリピン兵4万7000人、計5万
6000人を詰めこんだ。
 1942年5月5日、本間中将はコレヒドール島を攻撃し、5月6日、守備していた米比軍1万1000人は降伏した。
 1942年9月、フィリピンからアメリカ人捕虜500人が日本に輸送された。日本の国内労働不足をカバーするためである。連合軍捕虜と現地労働者12万6000人が日本への船旅をしたが、そのうち2万1000人は船とともに死んだ。
 この本には、筑豊の炭鉱で働かされた人の体験が紹介されています。そして、戦後、本間中将は戦犯として裁判にかけられ死刑に処されるのでした。日本軍のバターン攻略により、一次フィリピンを脱出してオーストラリアに逃れざるをえなかったマッカーサーは、自分の輝かしい軍歴を傷つけた本間中将が許せなかった。
 悲惨な戦争の実情がよく伝わってくる本です。
(2011年4月刊。3800円+税)

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2012年2月28日

原発推進者の無念

社会

著者   北村 俊郎 、 出版   平凡社新書

 原子力をやってきた人間が原発の立地地域に棲まないでどうするんだという気持ちから、福島第一原発から7キロの富岡町に住んでいた著者の避難体験記です。本当に悲惨な体験で、読んでいて、その無念さが伝わってきて涙が出そうになりました。
 3.11によって、著者は人生観、世界観を変えられた。今まで原子力を推進してきた者として、無念さを感じるとともに、大いなる反省をせざるをえなかった。
 著者は技術者ではありません。経済学部を卒業して、日本原子力発電に入社し、管理部門を歴任してきたのです。
 7月に著者は一時帰宅したのですが、このとき、被曝線量は1時間あたり4マイクロシーベルト。もし、そのまま居住していたとすると、1年間に44ミリシーベルトの被曝を覚悟しなければならない。これは一般人の年間許容線量である1ミリシーベルトの44倍である。原発作業員の許容線量年間50ミリシーベルトと同じくらいになる。恐ろしいほどの線量ですね、これって・・・。
 富岡町と内村の人口をあわせると2万人。避難所に入っている人は、その2割程度。あとの8割は、親戚・知人を頼って各地に移り住んでいるということになる。
日本の原子力界は「原子カムラ」と呼ばれ、閉鎖的だとされているが、世界の原子力界も閉鎖的な傾向がある。30年間も原発を建設していないアメリカでは、多くの企業が原子力から撤退した結果、人材が枯渇し、原子力界は最盛期から何十年も原子力に関わってきた一部の人たちにより維持されている。どの国も原子力にかかわるメンバーが固定化する傾向にある。
 今回の原子力災害は、著者をいきなり避難者の立場にした。その立場で考えると原子力関係者が、いかに視野が狭く、現実的な視点が欠けていて、形式主義だったことが分かった。これが事故原因にも、避難の際の混乱にもつながる。異端を排除し、事なかれ主義が横行していては、原子力の安全は覚束ない。
 原発の是非には対する世論は原発のメリットと危険性を天秤にかけるという終わりのない論議から、安心して暮らせる社会はいかにあるべきかの方向に移行しつつある。世間に「原発は時代遅れのものだ」と烙印を押されることが、原発廃止の最大の決め手になる可能性がある。
 私は、九州でいうと玄海原発そして川内原発を直ちに廃炉にすべきだと考えています。といっても、運転停止をしても放射性物質をいったいどこへ持っていくのかという厄介な問題があります。九電は安全だと主張しているわけですから、九電本社のある電気ビルの地下に収納してもらえるのなら、それが一番いいと思うのですが、周囲がそれを許さないでしょう。では、いったいどこへ持っていったらいいのでしょうか・・・。九電の首脳部に答えてほしい問題です。
(2011年10月刊。780円+税)

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2012年2月27日

平清盛の闘い

日本史(平安時代)

著者  元木 泰雄 、 出版   角川ソフィア文庫

 平安末期の貴族と武士たちの動きをダイナミックに描いている本です。なるほど、そういうことだったのかと思わず唸ってしまいました。小説以上に面白い歴史の本です。
 平清盛は幸運に恵まれましたが、そのうえ実力を思う存分に発揮して情勢を切り拓いていったのでした。中国との貿易も積極的にすすめ、福原遷都もそれを念頭に置いていたというのです。平清盛がもっと長生きしていれば、強大な平氏政権が誕生していたのではないでしょうか。
 私は中学生のころより、なんとなく平清盛に魅力を感じていました。源頼朝には、いささか距離感があったのです。その理由は自分でもよく分かりません。
 この本に市川雷蔵が若き日の平清盛を演じる映画(『新平家物語』)のあったことが紹介されています。一度見てみたいと思いました。
 平治の乱のあと、13歳の源頼朝のみは池禅尼(いけのぜんに)の嘆願で助命され、伊豆に配流された。自力枚済が貫かれていた武士の社会では、少年とはいえ戦闘員である以上、仇討ち(あだうち)などの報復を防ぐために処刑するのが当然とされた。ところが、平清盛は、その原則を破ってしまった。しかし、頼朝の助命は単なる池禅尼の仏心と、平清盛の油断の所産ではなかった。
 まず、池禅尼は家長として強い発言力をもっていた。さらに、池禅尼の助命要請の背景には、院近臣家出身の池禅尼を通した、後白河上皇や女院からの働きかけが存在したものと考えられる。
 永治元年(1165年)、新政をはじめていた二条天皇が23歳の若さで死去した。
 当時の王権は、王家の家長である治天の君と天皇が一体となって構成されていた。正当な天皇とは、治天の君が即位を希望した天皇にほかならない。その意味で正統に位置した二条が死去し、逆に治天の君となった後白河自身が、偶発的に即位し、正当性に疑問を抱かれる存在であったことから、皇統をめぐる対立は混迷を深めた。平清盛と後白河上皇とは、高倉天皇の即位という共通の目的に向かって提携した。
 仁安元年(1166年)、平清盛は内大臣に昇進を遂げた。権大納言に昇進してからわずか1年あまり、公郷の仲間入りをしてから6年しかたたないうちに、居並ぶ上臈公卿を超越してしまった。院近臣伊勢平氏出身の平清盛の内大臣昇進は、破格の人事であった。
 当時の人々に、平清盛は皇胤と信じられていた。それ以外に大政大臣まで上り詰めることのできた理由は考えられない。しかし、平清盛は、わずか3ヵ月後に辞任した。短期間で辞任した原因は、高い権威をもつ反面で、大政大臣が名誉職だったためと考えられる。そして、平清盛は、院やかつての信西らと同じように、自由な立場で政治的な活動をしようと考えていたのではないか。
 中国(宋)との日宋貿易は、平清盛と後白河上皇という、王朝の制法や因習を無視する大胆な個性の結合によって軌道に乗っていた。
 平清盛は、仁安3年(1168年)に出家して福原に引退するまで、除目(じもく)に大きな発言力をもっていた。平清盛は後白河院の中心的権限である人事権を規制し、その専制を阻止していた。表面では二人は協調関係にあったが、その裏側では後白河院政が確立したあと、当初から両者は常に緊張関係にあり、平清盛は後白河院や院近臣に反発していた。
 天皇こそが正統な君主であり、天皇と対立すれば父院といえども政治的に後退を余儀なくされた。このため、嘉承2年(1107年)に堀河天皇が死去して後白河院政が確立したあとは、原則として天皇が成人を迎えると退位させることが原則化していた。
 うひゃあ、20歳になったら即位して天皇でなくなるなんて、信じられませんよね。
治天の君は、王家の家長として自身が擁立した天皇に対する人事権を有しており、それを行使することで譲位を強制できた。意のままになる幼主を擁立した院は、院近臣とともに専制政治を行った。
院政というのは、こんなシステムだったのですね。ちっとも知りませんでした。
 後白河院を停止したとき、その代わりとなる院がいないという問題があった。当時の王権は、院と天皇の二元権力によって構成されており、治天の君である父院の皇位に対する保障が必要だった。強い不信感によって後白河院の退位を目ざす平清盛と王権の確立を目ざす後白河院の対立はきわめて鋭く、間に立つはずの平重盛の立場は厳しいものとなった。
 治承3年(1179年)、平清盛は数千騎にのぼる軍勢を率いて福原から京都に入った。平清盛は、直ちに基房と師家を解職した。いかに摂関家が優勢にあるとはいえ、摂関の解任は前代未聞の大事件であった。そして、治天の君が臣家によって院政を停止され幽閉されるという重大な事態となった。
福原遷都の直接的な理由は、軍事的見地から求められる。興福寺、圓城寺や延暦寺の一部など、権門寺院の悪僧の多くが以仁王(もちひとおう)挙兵に与同しており、彼らに包囲された平安京はきわめて危険な宮都となっていた。それと対照的に、福原周辺は平氏の勢力に固められていた。すなわち、平清盛は、桓武天皇の例にならって新王朝の宮都の新規造営を目ざした。平清盛の長年の根拠地として、そして、軍事拠点であるとともに、日宋貿易の舞台として宋にもつながる国際都市福原以外には考えられない。
平清盛は発病から1週間で急死した(64歳)。インフルエンザからの肺炎の可能性もあるが、あまりに繁忙で重圧を受けた生活を送っていたことが健康を害したことは疑いない。
 平清盛は生涯たたかう人であったようです。
(2011年11月刊。667円+税)

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2012年2月26日

「決着!恐竜絶滅論争」

恐竜

著者   後藤 和久 、 出版   岩波科学ライブラリー

 この本を読んで明確に認識したことが二つあります。その一は、鳥は恐竜の一部だということです。ジュラ紀後期に出現した鳥を加えて恐竜と呼ぶ。だから、恐竜絶滅論争はあくまで、非鳥型恐竜のみを扱っている。
 その二は、恐竜が絶滅したのは6550万年前の白亜紀末にメキシコ・ユカタン半島に小惑星が衝突したことによるものだというのは、30年来の論争の末に決着がついているということです。もちろん、反対説を唱えている人は今もいますが、それは実証的な反対論ではないということなのです。
衝突説にとって決定的な証拠は、1991年に、チチュルブでクレーターを発見したこと。これは直径180キロメートルの円形構造のクレーターであり、地下1キロに埋没している。
 小惑星は、地球表面に対して30度の角度で南南東の角度から現在のメキシコ・ユカタン半島に迫ってきた。その直径は10~15キロ、衝突速度は秒速20キロ、そして放出エネルギーは広島型原爆の10億倍。衝突地点では、時速1000キロをこえる爆風が吹き、衝突地点から立ち上る柱状の噴流(ブルーム)の温度は1万度。大気や地表が過熱され、地球上のいたるところが灼熱状態になった。地表面温度にして260度。
 衝突地点付近はマグニチュード11以上の地震に襲われた。メキシコ湾岸を襲った津波の高さは最大300メートルに達した。衝突によってダスト(塵)が舞いあがり、火炎にともなうスス、そして衝突地点に厚く堆積していた硫酸塩岩が蒸発することで放出された硫黄が塩酸エアロゾルとして大気に長期間の滞留し、太陽光を数ヶ月から数年にわたって遮った。これによって寒冷化が起きる。いわゆる「衝突の冬」である。最大10度は温度が下がる。硫黄が大気中に大量に放出されたことから、硫酸の酸性雨が地球上に降り注いだ。
 恐竜って、何億年も生きていたのですよね。それが一回の小惑星との衝突によって絶滅させられなんて、世の中はミステリーだらけですね。
(2011年11月刊。1200円+税)

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2012年2月25日

春告げ坂

江戸時代

著者   安住 洋子 、 出版   新潮社

 小石川養生所を舞台とする物語です。読んでいる途中から心からじわーんと温まっていきます。読後感は小春日和のように穏やかな暖かさです。日だまりのぬくもりを感じます。うまいですねー、いいですねー・・・。ストーリーといい情景描写といい、えも言われない筋立ての運びで、胸にしっくり迫ります。
 小石川養生所で医師として働いている高橋淳之祐が主人公です。淳之祐自身が複雑な事情をかかえる家庭の出身です。幼いころに両親と死(離)別して、養子に入り、いまは医師となっています。養家では大切に育てられたのですが、心にわだかまりをもちながら成人しています。
小石川養生所には町医者にかかれない貧しい人や身寄りのない老人など、弱い立場に置かれている人々が入所しています。
 ところが、病人を世話する看護人の質はよくなく、看護中間(ちゅうげん)たちは看護に手を抜いては博打に遊び呆けているのです。そして、病人が無料で入所できるというのは建て前で、看護中間にいくらかの干肴(ほしざかな)と称する挨拶金をしはらわなければいけません。そして、小石川養生所には、次々にわけありの病人が運び込まれてくるのです。
 医師が終末医療センターのように看病すると、病人を死なせてしまったとして成績が悪くなります。治らない病人を、さっさと退所させてしまうと医師の成績は上がるのです。そんな矛盾をかかえて主人公は医師として悶々としてしまいます。
 ところが、救いもあります。この小石川養生所のなかで黙々と患者に寄り添い看護に精を出す人々もいるのです。
 人間はお互い弱い身なので、できることから助け合い支えあっていく必要があるし、それをしていると心も豊かになる。
それをじんわりと実感させてくれる時代小説なのです。
(2011年11月刊。1700円+税)

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2012年2月24日

盆踊り、乱交の民俗学

日本史(江戸)

著者   下川 耿史 、 出版   作品社

 日本の女性が昔から弱かったはずはない。これは弁護士になって38年になる私の確信です。もちろん、弱い女性も存在します。しかし、そんなことを言ったら、日本の男性の方がよっぽど弱いのです。自殺する日本人の6割以上は男性です。私が弁護士になって驚いた三つのうち一つが、日本では(恐らく全世界で)、不倫というのは日常ありふれた出来事だということです。もちろん多くの場合、男性が仕掛け人です。しかし、その積極的な受け皿に女性がなっています。というか、それは、いわば男女「同罪」なのです。ですから、本書の冒頭に次のように書かれているのも納得です。
 「見知らぬ相手との性関係は、つい最近まで、日本人の性関係の基本とされていた」
 そうなんです。つい最近まで露天風呂どころか銭湯での混浴も平気だったのが日本人なのです。これは、私自身の体験にも裏付けられた事実です。
 盆踊りは、本来は年に一度の乱交の場であった。
 黒い覆面に目穴だけを開けた踊り子による盆踊りが日本各地にある。これは、好きあっている男女が誰に顔を見られることもなく、お互いは浴衣の柄などで確認しあって逢い引きを楽しんだ証しであった。
古代日本では若い男女は近所の山に登り、気が合ったら、その場で性的な関係を結ぶという風習があった。これが歌垣(孀歌。かがい)である。
 女性をものにするには、歌垣で歌を抜露することが慣例となっていた。同時に、女性が男性を歌で負かすことによって、性的関係を拒否することも可能だった。
 『万葉集』の額田王、平安時代の和泉式部など、奈良や平安時代の日本に優れた女流歌人が輩出したのは、まさに歌垣の伝統によるものだった。
 平安時代の初め、男女の混浴を戒むという混浴禁止令が出された(797年)。これは、そのころ潔斎という神聖な行動が混浴というどんちゃん騒ぎに堕ちていたことを表している。宮廷人たちは、決して品行方正ではなかった。
 夜這い(よばい)は、南北朝時代から鎌倉時代にかけて、村落共同体の構造の基本として定着していた。女性が男性の下へ通うケースも多く、こちらは「ヨバイト」と呼ばれた。
 若者組と娘組と夜這いの三つは不即不離の関係にあった。
 青森見黒石市の盆踊り「よされ祭り」は、3日間は、まったく性が解放されていた。奈良県吉野郡十津川村の盆踊り、四国山中の木頭村の盆踊りも同じく。この盆踊りは1961年ころまでは確実に存在していた。
もっとも、日本では、性関係は女性の主導で行われることが多かった。宮本常一も、「日本では女によってなされる踊りがきわめて多い。それは、もともと男を選ぶためのものであったと言っていいほど、踊りにともなって情事が見られる」と指摘している。この点、私もまったく同感です。
 強姦はひどいし、許せませんが、不倫の多くは女性主導ではないか、私は長年の弁護士経験をふまえてそう推察しています。
 女性は弱いし、されど強し。これが私の実感なのです。建て前ときれいごとだけに終わらせない日本史を語りあいたいものです。
(2011年10月刊。2000円+税)
 朝、雨がやんで、ウグイスの高らかに鳴く声が聞こえてきました。いよいよ春到来です。日差しもやわらかくなってきて、重たい外とうを脱ぎすてたように心もいくらか軽くなりました。
 夜、自宅に帰ると、大型の白封筒が届いていました。あっ、合格したんだ。うれしくなりました。1月に受験したフランス語の口頭試験に合格していたのです。21点が合格基準点で、26点とっていました。実際にはしどろもどろだったのですが、なんとか国の情報開示のあり方を語ろうとしたことを認めてくれたのでしょう。まあ、これからもあきらめずにがんばりなさいという合格証書をもらいましたので、引き続きがんばるつもりです。

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2012年2月23日

コロンバイン銃乱射事件の真実

アメリカ

著者   デイヴ・カリン 、 出版   河出書房新社

 1999年4月20日、アメリカ・コロラド州の片田舎の高校で男子生徒2人が教師1人をふくむ13人を銃で殺害し、多数の負傷者を出した。犯人の生徒たちはその場で自殺した。
 マイケル・ムーア監督の『ボウリング・フォー・コロンバイン』は観ていました。これは、アメリカが銃社会であることが前提となって発生した事件です。
 この本を読んで何より驚いたのは、18歳の男子生徒2人が1年も前から大量殺人を計画し、爆発物と銃器を準備していたということです。ですから、まったく偶発的な事件ではありませんでした。そして、周囲の人のなかには2人の犯行予告に気がついて警察に通報して、警察もそれなりには動いたものの、あまり本気になって未然に防止しようとしなかったのでした。
 2人はインターネットに銃や爆発物の準備状況を書き込み誇示し、詳細な日記を残していました。それを分析した捜査官によると、一人は自殺願望があり、もう一人は完全な精神異常者、サイコパスだということです。
襲撃の1年前、2人は結構の時期と場所を決めた。1999年4月、学校のカフェテリアで。エリック(こちらがサイコパス)は1年かけて計画を練り上げ、武器を用意し、これは現実なのだと相棒のディラン(こちらは自殺願望をもつ)に納得させた。
 サイコパスは自分の偉業がなによりも楽しい。エリックは丸々1年間ものあいだ期待に胸ふくらませて計画を練ることを楽しんだ。支配することにこだわるエリックは、人の生命を思いどおりにできる日が待ちきれなかった。その日がようやく訪れたとき、エリックは図書室で好きなように時間をかけて、一瞬一瞬をかみしめるように味わった。あるときは気まぐれに生徒を殺し、あるときはやすやすと逃がした。
 ところが、日頃のエリックは、バイト先でも、奉仕活動をしている施設でも、相変わらず大人受けが良かった。そして、エリックは日記に本心を書いている。
 「アメリカが自由の国だと?これが自由だなんて、ふざけるな。・・・バカは撃たれて死ね」
 ディランはエリックの大量殺人に付きあう気はなかった。話だけは冗談まじりに楽しんでいたが、心のなかではひそかにエリックに別れを告げていた。
 ディランは、もうすぐ死ぬつもりだった。
エリックは日記に次のように書いた。
 「できるだけたくさん殺すことが目標だ。だから、哀れみや情けといった感情に流されるようなことがあってはならない」
 エリックは人をなんとも思っていなかった。自分は優れていて、それを証明したかった。人々が苦しむ姿を見るのを楽しみにしていた。できるだけ多くの人間を、できるだけ派手に殺すという目的は揺るがなかった。
 エリックが攻撃したのは、彼にとっては憂鬱でたまらないロボット工場であり、青春の象徴である学校だった。
エリックは、どんなとき真実が大人を喜ばせるか、誰に対してどこまで明かせばよいかを本能で知っていた。適切なふるまいを本能で知っていた。そして、適切なふるまいを演じ分けるのはエリックの最大の武器だった。
 エリックの成績は上がって、教師たちは非常に満足していた。他方、ディランの方は成績が低下する一方だった。
エリックもディランも両親がそろっていて、2人兄弟。静かな田舎町で不自由のない暮らしを送る白人の4人家族の次男。2人とも、自分より大きくて力の強い兄の陰で育った。
 エリックの父親は軍人で、転勤が多く、何回も引っ越した。空軍少佐だった。
 この事件は人質をとった立てこもり事件ではない。犯人の2人は、襲撃を始めた49分後、昼12時8分にそろって自殺した。
 2人は、実は大型爆弾を2つ高校内に持ち込んでいた。それが爆発すれば500人もの生命が奪われるところだった。しかし、2人の技術が未熟だったため、幸いにも爆発しなかった。だから、この事件は本当は銃乱射事件ではなく爆発事件というべきものだった。
 エリックには人をだますことが快感だった。エリックは神を信じていなかったが、神と自分を比べるのは好きだった。
 ディランの方は、非常に宗教心の強い若者だった。ディランは道徳、倫理、雷政というものを信じていて、肉体と魂は別物だということについてもよく日記に書いていた。肉体は無意味だが魂は不滅で、行き着く先は安らかな天国か地獄の責め苦のどちらかであると考えていた。
 サイコパスには2つの際立った特徴がある。一つは、他人に対して非常なまでに無関心なこと。ささいな個人的利益のために人をだましたり、傷つけたり殺したりする。二つ目は一つ目の特徴を隠す驚異的な才能だ。この偽装こそがサイコパスの危険なゆえんである。サイコパスは人を欺くことを誇りにし、そこにとてつもない喜びを見出す。楽しみで嘘をつくのは、サイコパスの核心であり、彼をサイコパスたらしめている特徴だ。
 サイコパスを生むのは、先天的なものと後天的なものがからみあっていると考えられている。サイコパスの基本は感じないということだ。サイコパスの治療は難しい。
 攻撃を始めて17分後、彼らは飽きてしまった。退屈しはじめていた。手柄を立てるのは楽しくても、人を殺すのに飽きてしまう。エリックは自分のしたことに満足し、得意になっていたが、すでに退屈しはじめていた。ディランは、躁鬱状態になって自分の行動にあまり関心がなくなる。ディランは死を覚悟してエリックに合わせ、そのリードに従ったのだろう。
 アメリカでは、コロンバイン以降の10年間に、80件以上もの学校における銃乱射事件が起きている。
 500頁をこす大作です。読みすすめるうちに背筋に何度も氷水が流れるのを感じました。本当にアメリカって怖い国です。若者が簡単に銃や爆発物を手にできるなんて間違っていますよね。もっとも、日本でも暴力団があちこちで銃を乱射する事件がよく起きています。そして残念なことに日本の警察は犯人を検挙できなくなっています。心配です。アメリカのような国に日本がなってしまわないことを心から願っています。
(2010年7月刊。2600円+税)

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2012年2月22日

原子力、その隠蔽された真実

アメリカ

著者   ステファニー・クック 、 出版   飛鳥新社

 フクシマで起こったことは、すべて既にどこかで起こっていた。
 これは本のオビに書かれている言葉です。この本を読むと、本当にそのとおりです。原子力発電所は本当に未完成の危険な、人類の手に負えるものではないことがよく分かり、改めて背筋の凍る思いをさせられます。
 この本を読んで私が心底から震えあがったのは1961年にアメリカで起きた事故です。
1961年1月、アイダホフォールズにある海岸の小型原子炉で事故が起きた。救助隊員が原子炉内に飛び込み、まず床に倒れていた2人を発見した。そして、上を見ると飛び出した燃料棒が股間から肩を貫通して天井にはりついていた。クレーンを原子炉内に入れて遺体を回収したが、遺体は放射能汚染がひどい。そこで、頭部や手足など汚染のひどい部分を切断し、ほかの放射性廃棄物とともに埋めた。遺体の残り部分は、ビニール袋、木綿布で包み、さらに鉛容器に入れたあと、黒と黄色の「放射性注意」ステッカーと一緒に銅鉄の棺に納めて厳重に密閉された。アーリントン国立墓地にある墓の前には、「原発事故の犠牲者。遺体は半減期の長い放射性同位体で汚染されているため、原子力委員会の事前承認なしに、ここから遺体を移動させてはならない」という意書きが設置されている。このように、放射線で汚染されて人間は、人生最後の儀式さえ尊厳のある形で行えなかった。
 そして、この事故は、亡くなった3人の作業員が不倫事件のあげくの無理心中だったと推測されている。つまり、安全性の裏付けのない技術であるがうえに、予測不能な人間の行動が加わると、大惨事につながるということである。
 いやはや、これは本当に恐ろしいことです。自殺願望の人間が人類を道連れにして破滅させようと考えたとき、それが容易に実現できるなんて考えただけでもゾクゾク恐ろしさに震えてしまいます。
 放射性はごく少量なら安全だし、むしろ健康に良いと主張する研究者も一部いるものの、一般に放射線量は量に関係なく健康を害するというのが長年の定説だ。
 核エネルギーの二面性とリスクは切っても切れない関係にあって、核の「平和利用」と言っても、そこから兵器転用の可能性を完全に排除するのは簡単ではない。
 核エネルギーは、その誘惑にしても危険にしても、人間ごときが扱いきれるようなものではなかった。原子力エネルギーを平和目的で開発することと、爆弾のために開発することは多くの面で互換性があり、また相互に依存する部分も大きい。
 原子力発電には核燃料が必要だが、それに関わる工程は、そのまま核兵器製造に応用できる。それが唯一にして最大の危険だ。原子炉で燃やしたあとの核燃料にはプルトニウムが含まれていて、それを分離すれば爆弾に使えるのである。
 核エネルギーによる発電が普及すればするほど、核兵器の開発が容易になる。
 ドイツ、イギリス、アメリカ、ソ連、そして日本で建設された増殖炉は、原子力業界における最大の、そしてもっともぜいたくな愚行であったことを数十年かけて証明していった。増殖炉は、冷却剤のナトリウムが漏れて爆発する危険性がつきものだ。
 1976年には20世紀末までに世界に540基の増殖炉は稼働していると予言された。しかし、現実には21世紀を迎えた時点で1基も商用サイズの増殖炉は存在しなかった。
 原子力エネルギーは、次第に経済的に割があわないという事実が明らかになった。隠れコストと未知の負債があまりにも大きいためだ。さらに、原子力の「終末過程」の問題があった。廃棄物、再処理、廃炉とそれらの費用である。
 原子力産業とその関連する学者、科学者は自分たちの利益とその生活のために真実を隠蔽してきたことをすっかり暴露した本です。でも、面白がっているわけにはいきません。日本政府は、3.11から1年になろうというのに、早々と「収束宣言」を出して、原発の再稼働を企んでいるのですから・・・。
 こんな狭い日本の国土に原発なんて一つもいりません。電力不足なんて、まったくの口実ですし、電力不足がもし本当だったとしても、その不便のほうが生命と健康を奪われるよりは断然ましです。ご一読をおすすめします。
(2011年11月刊。2300円+税)

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2012年2月21日

教育をめぐる危機と展望

社会

著者  日本民主法律家協会 、 出版  「法と民主主義」

    最新の『法と民主主義』(465号)は「教育をめぐる危機と展望」という特集を組んでいます。大阪で教育基本条例が制定されようとしています。橋下徹前府知事が提案したものです。教師をがんじがらめに統制しようという大変な条例です。こんな条例のもとで、子どもたちがのびのび学べるはずはありません。橋下市長はグローバル社会に勝ち抜く人材養成を目指すというのですが、かえって日本の子どもたちの学力を低下させるだけだと思います。問題は、こんなひどい条例案を支持する風潮があることです。
  それがなぜなのか、不思議に思っていましたが、その点について佐貫浩教授が次のように指摘していますので、紹介します。
  「高度成長の巨大な流れのなかの、学校教育は、競争的サバイバルの場へと変化していった・・・。勝者と弱者を区分する場として学校の学習・教育の過程を意味づけ、多くの子どもの挫折や希望剥奪を生み出さざるを得なくなり、教師をそのようなシステムの担い手、見方によっては『手先』という感覚でとらえられる位置へと追いやった。そして、落ちこぼれ、学校嫌い、不登校、いじめ、校内暴力、学級崩壊、等々の学校の危機、教育の危機が連続的に深刻化していった。
  その結果、70年代後半からの国民的な学校体験の様相が大きく変質する。今学校に子どもを通わせている親たち(1980~2000年頃に学校に通っていた)の学校体験からすれば、学校での学力競争に勝ち抜いてきた階層は、冷たく差別的な視線にさらされた否定的な場と捉えているのではないか。そしてその体験に、学習権実現を温かく支えてくれた学校や教師の記憶を求めることは難しくなっているのではないだろうか」
  「今求められているのは条件整備ではなく公費の非効率をもたらしている学校の閉塞性や密室性にあるとして、学校選択制や人事考課制度を導入し、市場の論理でもって教師と学校を、行政や親の要求に適合させるように競争させることこそが教育改革であるとした。そのため学校は、急速に過重化する学校教育課題に対処困難となり、学校の荒れや子どもの困難に取り組む力を失い、誇りや創造性を奪われた教職員の疲弊や病気が拡大し、しかもそれらの困難すらもが教師の力量不足や労働倫理の欠如によるものとして批判が教師に向かうという悪循環が展開している」
  「大阪の橋下知事(現大阪市長)は、大阪維新の会の『教育基本条例案』への文科省見解について『バカみたいなコメントに従う必要はない』と応答したという。そのような暴言を、公の責任あるトップの位置に就いている人物が表明しても、放置・容認されてしまうところに、現在の一つの特徴があると言うべきだろう。実はそこに公共性の問題がある。暴言的ですらある言説に対する心情的な同意が一定程度存在し、その指示を見込んで居直りとも言える態度が選ばれているとみることができる」
  「首長が公務員をその政策目標の実現のために命令・管理し、評価・統制することが当然とされる、それは住民要求の実現のためであり、それに対して教師の自由を掲げて教師が反対運動を行うのは、むしろ住民要求に対する敵対行為とみなされてしまう。こういう論理の下に、従来であれば〝教育の自由を侵す政治権力の介入″という文脈で読み取られた政策が、今日では、教師の専門性や倫理性を高めるために欠かせない〝教師と教育実践課程への管理・監督″、住民要求実現のための近代的教育管理という文脈での受け入れられてしまうことになるのである」
  「一向に事態が改善しない学校教育の実態、そしてその学校のあり方に親や住民がもの申す回路が閉ざされている実態に怒りすら覚えるなかで、しびれを切らした親・住民が、首長主導の上からの権力的な教育改革を―しかも『学力向上』というまさに教育の内容や価値にかかわる改変を―推進することへの期待すら生まれてしまう」
  「今、子どもの権利のための教育として前提されている学校教育の学習=教育の過程が、実態としては、正規雇用を確保するための個人化されたイス取りゲームになり、その失敗は自己責任とされてしまう。イスが減らされれば、教師がどうあがいても脱落するものが増え、学習権の実現、生存権を支える学習権とは何であるのかを問うこと自体困難になる」
  「国旗・国歌裁判における教師の権利の主張が、子どもの権利実現にとってどういう意味を持つかについての深い理解と同意を得ることを介して、教師の良心の自由や表現の自由、内心の自由が国民的に了解されるという論理の回路が豊かに作り出される必要がある。
  そもそも教育における教師の権利は、親・住民の願いに対する責務を背負った、そういう意味では二重の公共性を持った権利である」

(2012年1月刊。1000円+税)
 寒い朝でした。庭に霜柱が立っています。陽が差してくると、ダイヤモンド・ダストのようにキラキラと輝き出しました。チューリップの芽がぐんぐん伸びています。春が待ち遠しい、このごろです。

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2012年2月20日

僕は日本でたったひとりのチベット医になった

アジア

著者   小川 康 、 出版   径書房

 実に面白い本でした。一日中ずっと読みふけっていたい本です。
 何が面白いって、チベット医学を日本人が学び、それを習得するまでの苦労が生き生きと、手にとるように描かれています。笑いあり、涙あり、驚嘆すべき暗誦ありの日々なのです。
 1970年生まれですから、いま41歳でしょうか。東北大学薬学部を卒業し、しばらく人生の展望を見失っているとき、ひょんなことからチベットに渡ったのです。なんという運命でしょう。チベット医学を学ぶときには、外国人枠(ヒマラヤ枠)で入学できたのでした。
それにしても、短期間のうちにチベット語を習得し、仏教、歴史その他の科目で500点以上(1000点満点)を獲得しなければならないのを突破できたというのですから、実に偉い。なみの努力ではここまでできませんよね。
 試験問題は、たとえば、薬師如来のご身体の色は何色か。その理由を述べよ、というものです。うひゃあ、こんな問題に答えきれるなんて・・・。
 朝7時に起床し、お堂で読経が始まる。般若心経、文殊菩薩、ターラ菩薩のお経を次々と猛烈なスピードで諳んじていく。
ヒマラヤで薬草を採る実習がある。20日間にわたる実習が続く。奈良の正倉院に納められている薬草を調べると、そのひとつがヒマラヤのホンレンであることが判明した。丸一日かけてとってきた薬草を乾燥させると、たった手のひら一杯ほどになってしまう。
 ここでは、教典(四部医典)と解読書を90分のうちに早口言葉のスピードで暗誦させられる。
 著者は、なんとこの暗誦に挑み、成就したのでした。座布団の上で足を組み、背筋を伸ばす。そして、薬師如来の祈りの言葉を捧げると、大きく深呼吸して眼を閉じた。抑揚をかなり大げさにつけた語り口で暗誦を続けた。
 1年に1日だけ、それも満月の光のもとでしか作ることのできない神秘の薬がある。その名も月晶丸。最後に牛乳を混ぜる作業は必ず満月の下で行わなくてはいけない。
 うむむ、この神秘一番の薬はぜひとも服用したいものですね。いったい何に効くのでしょうか?おもに胃かいようなど、胃の熱病に用いられるとのことです。
 順風満帆のように思われる5年間の勉学生活ですが、実はまったく違います。1年のときは快進撃でした。しかし2年生のときはノイローゼになり、3年生で休学し、そして、4年生で復学して、ついに卒業にこぎつけたのです。まさに七転八倒の学園ドラマを演じたのでした。しかし、それにしてもチベット人のなかで日本人一人よくもがんばったものです。すごいです。偉いものです。
 卒業のとき、著者は、4時間半に達成することができたのでした。ここまでくると、読んでいる私も、自分のことのようにうれしくなってしまいます。
 果てしなく続く暗誦です。ええーっ、4時間半も座って暗誦するなんて、とんでもないことです。まさにカミワザですね。そのときの写真が紹介されています。教師や学友たちに囲まれ、広くない講堂の中央に座って暗誦している姿です。途中から、著者がずっと可愛がっていた野良犬が二匹、著者のそばに寄り添っていたというのも嘘のような話でした。
 こうやって著者はチベット医(アムチ)になったのでした。暗誦できるのがどれだけ医者として役に立つのかなどというのは無用の詮索です。すごい勉学の日々でした。読んでいるうちに、なんとなく、私もまだがんばれるかもしれない。そんな不思議な気持ちになりました。
 ちなみに、著者は、今は長野県小諸市で「アムチ薬房」を開設し、チベット医学とともに日本古来の伝統医療の紹介・普及につとめているとのことです。いちど、お世話になりたいと思いました。
 いい本をありがとうございました。
(2011年10月刊。1900円+税)

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2012年2月19日

西の魔女が死んだ

社会

著者   梨木 香歩 、 出版   新潮文庫

 わずか20頁あまりの薄い文庫本ですから、旅行の友として持ち歩いてみてはいかがでしょう。読後感も爽やかで、すーっと心が軽くなっていきますよ。
 中学生のころって、大人にはまだなりたくないけれど、もう子どもではないと宣言したくなる自分がいるじゃないですか。でも、やっぱり子どもの時代のままでもいたいし・・・。
 親からは早く自立したい。いろいろ親から言われると、それがたまらなくうっとうしい。でも、そうは言っても中学生が一人で自活できるわけでもない。友だちも深く突っこんで話せるような人はいない。心を許せる友人って、意外にいないもの・・・。
 主人公のまい(女の子)も登校拒否になってしまいます。ずっと優等生できたのに・・・。
 扱いにくい子。生きにくいタイプの子。母親からも、こんなレッテルを貼られてしまうのでした。そこで、まいは、田舎のおばあちゃんが一人住む家にしばらく預けられることになったのです。このおばあちゃんは、なんと日本人と結婚したガイジンさんなのです。自然のなかでゆったり過ごすおばあちゃんの家で生活しているうちにまいもいつのまにか生きていく自信を取り戻すのでした。
私自身は、小学校のころまでは家一番の笑い上戸でした。よく母親から、あんたは箸が転んでも笑う子だねと言われていました。ところが、中学生になると、親とはほとんど口を利かなくなりました。そして、高校生になると、優等生でしたから、親からガミガミ言われることはありませんので、内心、親を小馬鹿にしていました。自分ひとりでこの世に生まれ育ち、大きくなったかのような錯覚にとらわれていたのです。
 大学に入って、いろんな境遇の人と交わるようになって、自分が間違っていたことが少しずつ分かるようになりました。そして、弁護士になって10年ほどして、父親がガンにかかってから、その生い立ちを記録しようと思いたち、聞きとりを始めてその苦労を知ると同時に、親の歩みが実は日本の戦前戦後の歴史そのものだということを知って、大変な衝撃を受けたのでした。父そして母の伝記を本にまとめたのですが、私にとっても感銘深い冊子です。
 自分を見つめるには、なかなか時間がかかるものだということを実感させられる、いい本でした。
(2002年9月刊。400円+税)

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2012年2月18日

とっぴんしゃん(上・下)

日本史(江戸)

著者  山 本  一 力 、 出版   講談社

 うまいですね。読ませますね。家族で楽しむ時代小説とオビに書かれていますが、まさにそのとおりです。
 大人の私が読んでも十分に楽しめる内容ですが、小学校の中学年以上だったら、ワクワクしながら読みすすめていくのではないでしょうか。
 町内で子供たちの駆けっこが始まります。町内対抗リレーです。仲町と冬木町が走者をそれぞれ7人ずつ出して競争するのです。大人も応援団として取り巻きます。
 走る直前は食べすぎない。バトンタッチはうまくやる。第一走者で差をつけたほうが精神的に楽になるから走者の順番はそれを考えて選ぶ。いろいろ知恵をしぼりながら本番にのぞみます。
ところが、本番では稽古のときのようにはうまくいかず、足がもつれたり、波乱万丈です。日頃、足の速いのを自慢していても、バトンタッチで失敗したり、世の中、何が起きるか分かりません。そして、最後にゴールインしたのは・・・。
単なるスポーツ根性ものの話ではありません。それにしても、息もつかさず読ませる技は、いつもながら見事なものです。さすがに毎日小学生新聞に連載したものだけはあります。
 子ども時代の心に帰って、ハラハラドキドキしながら上下巻を楽しく読み通しました。
(2011年11月刊。1400円+税)

 この春はじめてウグイスの鳴き声を聞きました。まだ本格的な調子ではなく、目下、練習中という感じで、少しせわしい鳴きかたでした。
 朝の日差しもすっかり春めいてきました。チューリップもぐんぐん芽を伸ばしています。いま庭に咲いているのは、黄水仙です。

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2012年2月17日

新自由主義教育改革

社会

著者   佐貫 浩・世取山 洋介 、 出版   大月書店

 日本の教育制度が大きく変わってきたことを教えられました。教育の国家統制なんて、私はとんでもないことだと思うのですが、いまや橋下流の教員統制の強化が企てられていて、それをマスコミがもてはやすという恐ろしい事態が進行中です。
文科省が1958年以降、与党と一体となって作りあげてきた公教育制度は、教育が国家統制に服しさえすれば、「情と情け」にもとづいてある程度のお金が配分され、教員の身分も安定化され、教員出身地域の有力者による地域教育委員会支配も許すものとなっていた。
 新自由主義教育改革は、それとは異なり、下のものがいくら「恭順の情」を示しても、成果が出なければお金を配分することはなく、情け容赦のない成果主義を特徴としている。
 それが、文科省のこれまでの支配形態の脅威となることは確かであり、文科省がその権益擁護に懸命になることも了解可能ではある。
 教育における国家のパワーあるいは教育に対する国家の関心は軽減されるどころか、より一層強化されている。
 国家の役割の縮小であったはずの新自由主義が、より強力な国家を生み出している。
 新自由主義教育理論にもとづく教育改革が十分に展開したとき、2つの大きなインパクトを公教育に与える。その一つは、学校体系の多様化。その二は、公教育管理方式の徹底したトップダウン化とアウトプットのコントロール化。中央教育行政から教師に至るまで、徹底的に階層的に再構成される。中央政府の機能の重点は、外的条件に関するナショナル・ミニマムの設定と、それを実現するのに必要な財源の確保と、それの地方政府への移転から、全国的な教育内容標準の設定と、その達成度の評価基準・方法の設定へと移行する。そして、子どものニーズを基礎にして算出される予算は廃止され、実質的には算出根拠をもたない生徒一人あたり予算制度が導入される。
 学区制度は、学校間競争の一形態である学校選択制度が導入されることにより取りはらわれ、学校間競争を実効的に組織するために、学校選択制度のもとにおいて集めることのできた生徒数に応じて予算が配分される。
 地方教育行政はその独自性を失い、地方一般行政の経済発展政策へと吸収される。
 学校は、校長を頂点として重層構造化される。学校評価は中央政府の設定した教育内容標準にもとづいて行われるだけでなく、生徒の高いパフォーマンスを生む制度的条件である、学校組織の階層化と校長への権限の集中の程度にもとづいて行われる。
 教師は中央政府から始まるPA(主人一代理人)関係の連鎖の末端にある代理人として位置づけられ、その職務遂行上の自律性を奪われ、教職の専門職としての性格は消滅する。そして、教師間競争のために能力評価制度が実施される。
 2001年の学校教育法施行規制の改正によって、学校評議員制度が導入された。学校は学校長を法人長とし、学校評議会を法人の管理運営機関とする、法人に疑似する組織として再編成されることになった。
 2007年に改正された学校法は、校長、教頭、教諭のほかに、副校長、主幹教諭、指導教諭の三つの職を新設し、学校の重層構造化を決定づけた。
 本来、平等な公教育サービスを提供してきた小・中学校をも序列的に再編し、上位に来る層に重点的に資源配分していくために改革が進められている。行政は、「教育的効果」をあげることが導入の狙いであるとし、それが東京都に一定数存在する「教育熱心」な中間層を中心とする保護者の支持を得ている。
 2000年から2008年の間に、東京の23区で130校以上の小中学校が廃校となった。大規模な統廃合が短期間に実施された区では、コミュニティーが大きく変質した。学校選択制が導入されて時間がたつ足立区や品川区などでは、地域の教育力の低下、子どもの「荒れ」が目立っている。
 経済格差が教育格差となってあらわれている。就学援助の受給率が7~8割になる学校もある。流出校(子どもが集まらない学校)では、成績上位者が集まらず、授業や生活指導の困難をたくさんかかえる結果となっている。
 親から、選択は自由でも、学校生活は自由ではないとのことが出ている。
保護者とトラブルになると、管理職は教員を守ろうとはしないので、教員個人が弁護士に依頼したり、トラブル用の保険に加入する教職員が増えている。また、業績評価がつきまとうので、困難をかかえている子どもを担任することを避ける傾向が出ている。
 月平均50時間以上の超過勤務の教師が全体の4分の3以上となっていて、教職員の疲れは相当のものとなっている。競争と管理強化のなかで教職員がばらばらにされ、管理職のパワハラや、父母からの突き上げで、自己肯定感や教師としての「誇り」を失い、精神疾患で休職する教師や定年前で退職する教師が増えている。
 ふるい落とされた子どもたちは、成績が悪いのは自分のせいだと自分を責め、もう、放っておいてというほどに絶望している。
 社会には経済格差が生まれ、子どもとかかわる大人たちは、長時間労働や無理な働き方を強いられている。生活に困窮する親は、子どもをありのままで抱える余裕がなくなった。そして、富裕層の親も、子どもと受容的な関係を築きにくくなっている。弱肉強食の社会を勝ち上がってきた親たちの多くは、情緒的なつながりよりも物質的なものに重きをおく。競争によって利益を奪いあうことを是とする新自由主義社会で成功した親たちは、無償の愛を「与える」子育てに喪失感を覚え、暗黙のうちに、「何かを与えてくれる者」となるよう子どもに要求し、勝ち組になるよう迫る。そこでは、子どもの欲求など、おかまいなしだ。
 いやはや、このままの教育が続いたら、一体日本はどうなるんでしょうか。
 もっとゆったり、のんびり、子どもたちが育つような社会環境にすべきですよね。それには老人パワーが必要なんじゃないでしょうか。孫の成長に目を細めてばかりいるのではなくて、孫の通う学校が伸び伸びしたものに変えていくために行動する責務があるのではありませんか。いい本でした。目の覚める思いがしました。
(2009年2月刊。3600円+税)

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2012年2月16日

昭和天皇

日本史

著者   古川 隆久 、 出版   中公新書

 昭和天皇の実像を探求しようとした意欲的な新書です。
 昭和天皇の思い通りに軍部が動かない。動いてくれない軍部に対して昭和天皇は妥協を重ねるしかなかったというトーンが一貫しています。ということは、天皇を錦の御旗として、軍部が思い通りに日本を牛耳っていたことになります。そして、その軍部も内部を見れば、決して一枚岩ではありませんでした。強大な天皇がいて、その一言ですべてが決まっていたという見方は認識を改める必要があることを痛感しました。
 といっても、戦争中40歳だった昭和天皇の一言は実に大きいものがありました。にもかかわらず、容易に貫徹しなかったというのですから、やはり世の中は単純には割り切れないということです。
 少年時代の昭和天皇は、御学問所で歴史の講義を受けている。その時の講義に出てくる最多登場人物は明治天皇(36回)、2位は徳川家康(25回)、3位は仁徳天皇(24回)だった。さらに、アメリカのワシントン大統領やプロシアのフリードリヒ大王も好ましい指導者として繰り返し登場した。それは、天皇神格化とは無縁の内容だった。歴史の授業を担当したのは白鳥庫吉だった。神代については、あくまで神話であることを明示し、その言動が批判された天皇もいた。
 語学はフランス語が教えられた。ヒロヒト皇太子のヨーロッパ外遊は日本で大きく報道され、一種のスター、アイドル化していた。
 ヒロヒトは摂政時代、東京で発行される新聞全紙と大阪・台湾さらには地方新聞まで読んでいた。パリの新聞も取り寄せ、フランス語の勉強を兼ねて読んでいた。「改造」、「解放」、「中公公論」などの総合雑誌も読んでいた。とくにヨーロッパ旅行のあとは、幅広く読むようになった。
 1928年6月4日の張作霖爆殺事件について、昭和天皇は田中義一首相を叱責した。この点に、著者は、ここで政治に介入しなければ、政党政治を擁護するはずの昭和天皇の政治責任が問われることになる事態になると思ったからだと解説しています。
 「聖断」によって内閣が退陣したのは、これが初めてだった。その後、右翼は昭和天皇の側近を攻撃していたが、それは実質的には昭和天皇そのものを批判する狙いがあった。
 満州事変が勃発するときにも、昭和天皇の権威は揺らいでおり、軍部を抑えることができなかった。西園寺は昭和天皇の威信低下を痛感していた。国際関係の緊張が軍部の発言力を高めたため、昭和天皇が国政を掌握するのはますます困難になっていった。
 昭和天皇は美濃部達吉の天皇機関説を理解していた。しかし、対外的には国体論を認めたかたちになってしまった。その結果、昭和天皇は、国内政治に関する思想・政策に関して、もはや完全に孤立してしまった。
 1936年に2.26事件が起きたとき、昭和天皇は断固鎮圧を決意した。決起グループは皇道派に昭和天皇は同情的であると聞いていて、実は批判的であることが知らされていなかった。だから、決起グループは、あくまで天皇の真意実現を妨げる諸勢力を粉砕することが目的だった。しかし、昭和天皇からすると、大局的見地から工業化路線を優先した自分の判断が暴力的に否定されたと受けとめた。
 事件を即時鎮圧し、陸軍の下克上体質を改めよという意向を昭和天皇は示した。ところが、決起集団に同情的な陸軍は、なかなか鎮圧に動こうとしなかった。天皇と陸軍の意思が異なったとき、天皇の意思が「皇祖皇室の遺訓」に合致していないと陸軍が判断できるなら、最高指揮官たる現天皇の意向に反して問題はない。こういう考え方が陸軍の側にあった。このように、陸軍にとって天皇は絶対的な存在ではなかったわけですね。
2.26事件について、陸軍は天皇から叱責されたという不名誉な事実を組織ぐるみで隠蔽してした。
昭和天皇は、生物学を研究していたが、これについても、陸軍武官がこの非常時に生物学の研究なんてはなはだけしからんと批判していたので、昭和天皇は気兼ねしていた。
 うへーっ、好きな歴史学ではなく生物学を逃げ場としていたのに、それすら軍人から批判されていたとは、昭和天皇も大変です。そんなこんなで、昭和天皇は一時期、大変やつれていたとのことです。
 1938年7月、昭和天皇は次のように語った。
 「元来、陸軍のやり方はけしからん・・・。中央の命令にはまったく服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてはあるまじきような卑怯な方法を用いるようなこともしばしばある。今後は朕の命令なくして一兵だも動かすことはならん」
 元老西園寺が老衰で政治的影響力を失いつつあった当時、昭和天皇はますます周囲から理解者を失いつつあった。
 結果的に日中戦争の進展を容認し、太平洋戦争開始の決断を下したのは昭和天皇であった。終戦の「聖断」まで時間がかかったのは、少しでも有利な条件で戦争を終わらせたかったため。昭和天皇は、少しでも有利な条件で講和しようと、局地的戦闘の勝利を期待する一撃講和論者だった。
 この本を読んでも、昭和天皇に戦争責任があることは間違いないところだと確信しました。
(2011年11月刊。1000円+税)

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2012年2月15日

原発労働

社会

著者   日本弁護士連合会 、 出版   岩波ブックレット

 原子力発電所で長く働いてきた労働者の証言が紹介されています。
 ひとつの検査工事に50人の作業員が必要だとすれば、一次下請業者が5,6人いて、残りの作業員は二次以下の下請業者の社員。東電からは作業員の日給が一人10万円出ていても、一次下請の作業員で日給2万5000円以下、一番下の作業員で1万円から1万2000円ほど。
 問題は社会保険。一次下請業者は社会保険を完備していても、二次以下下請業者は入っていないほうが多い。
 以前は、原発作業員の一日の実労働時間は3時間ほどだった。午前中に1時間、午後に2時間。このように、原発作業員は実労働時間が少ない割にお金になる仕事だ。だから原発で働いた人が他の普通の職場で働くのはかなり大変なことになる。
東京電力の社員は現場にはたまに見に来たり、検査のときに立ち会う程度。一次下請の東芝とか日立の社員が現場で指示を出す。
 放射線管理区域に入る人は放射線に関する教育を受ける。3時間の講習を受けたあと、テストがある。しかし、このテストで落ちる人はほとんどいない。
 3月11日の事故直後は、緊急事態なので資格も何も問われなかった。やっと4月になって正常化した。復旧作業は、東電の正社員ではなく、下請の作業員がしている。本当は東電の正社員にやってもらった方がいい。
 遠くで準備して、みんなで一斉に作業現場に出ていって、ヒット・アンド・アウェイで帰ってくる。全面マスクをしての作業は2時間くらいしかできない。照明がないから、暗くなると作業ができない。
 作業員に高年齢者が増えている、50代が圧倒的に多い。30代と20代はいない。
 東電の社員、元請(一次)の社員などは制服を着ているから一日でわかる。しかし、二次以下の下請けの作業員になると、自前の作業着なので、どこの会社の従業員なのか分からない。
 福島原発で働く7千人近い労働者のうち、事故後4ヵ月で6人は被曝量が250ミリシーベルトをこえ、111人は100ミリシーベルトをこえた。また、未検査の人も多い。
福島第一原発について政府が収束宣言して以来、なんとなく溶けた核燃料棒は心配ないムードになっていますが、本当は何も分かっていないというのが実態です。そんな危険な作業現場で働いている作業員の健康はとても心配です。かといって、そんな危険な現場で働く人たちがいるからこそ、その後は今のところ大惨事を招来していないのだと思います。
 そういう原発労働のすさまじい実態を告発してくれるブックレットです。ワンコインで読めますので、どうぞお読みください。
(2012年1月刊。500円+税)

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2012年2月14日

「仮面の騎士」橋下徹

社会

著者  大坂の地方自治を考える会 、 出版   講談社

 独裁者で何が悪いんだと開き直る弁護士がいます。同じ弁護士として悲しい現実です。そして、それを天まで持ち上げるマスコミには呆れてしまいます。小泉劇場と同じです、暴言を叩くのではなく、視聴率が稼げるからとそれをもてはやす営利本位の報道姿勢には怒りすら覚えます。
 この本は橋下大阪府知事(現在は大阪市長)の仮面をひきはがしています。
 書評で他人(ひと)の悪口なんか書きたくないのですが、公人とあれば、しかもマスコミだけでなく、今や多くの政党がすりよっている状況を見れば、この本を紹介せざるをえません。
 破たんする大阪の救世主として輝く橋下知事は、専横で空疎なパフォーマーにすぎなかった。そんな「仮面の騎士」の野望に騙され続けては、大阪、ひいては日本社会は、ますます崩壊の一途をたどるだろう。ヒトラーの例を出すまでもなく、「わかりやすさ」に与えられた独善的独裁者の仕掛けた「罠」に陥るわけにはいかない。
 世間の思惑の裏をかいて、意外な発言によって、さらにより以上の注目と支持を集める。これがマスコミを最大限に利用した橋下流の大衆操作の真骨頂である。
 構想の中身をはっきり示さない。制度設計は、あとから役人がすればより、この手法こそ橋下知事の得意技である。
橋下弁護士は商工ローン「シティズ」の顧問弁護士を8年間していた。かの悪名高いシティズの顧問をしていたなんて・・・。
 年収3億円を投げ打って大阪府知事に転身した。ええっ、弁護士として年収3億円だったのですか・・・。どうやってこんな大金を稼いでいたのでしょうか。まだ30代だったはずなのに・・・。
 大阪府を大阪都にすれば、なぜすべてがうまくいくというのか、その根拠が示されていない。本当にそうですよね。法律を変えて府を都にしたら、地自体の所管をちょっといじれば大阪の経済が一挙に好転するなんて、ありえませんよね。
橋下本人もそのことをよく知って自覚してるだけに、その具体策は何も示さず、ひたすら空疎なスローガンを叫び、反対者を糾弾し続けた。
 橋下知事の周囲には、常に大手メディアの橋下番の記者たちが待ちかまえていた。橋下のようなポピュリストは、衝動的な施策を次々を打ち出し、民意をつかんでおかなければ政治生命を維持することができない。そして、選挙で勝ちさえすれば、すべての権力を掌握したものとして、独裁が許されるとする政治哲学にもとづいて行動する。
 財界は、橋下は危なっかしいけれど、自分たちの政策に近い限り使っておこうとする。橋下知事の下で、自殺者が7人も出た。橋下知事に直言する上司が皆無であることが最大の原因だ。逆らえば飛ばされる。歯向かえば、つぶされる。物言えば唇寒し・・・。
 二面性をもつ橋下知事。その知事に唯々諾々と従っている府庁幹部たち・・・。
 橋下知事は自己愛性人格障害の典型、気に入られた者は死ぬまで働かされる。憎まれれば、とことん放逐される。注目を浴びないところで、ひっそりと生きていくのが一番。府庁内には、うつ状態の自殺予備軍が多数いる。
 橋下知事の意向にそわない府職員の首切りを用意にしようとする条例を提案しようとしている。そして「民意」をたてに首長の思いどおりに教育行政までも牛耳ろうとしている。 こんなひどい男をマスコミが批判もせずにもてはやし、それによって反逆児と錯覚した若者たちが拍手喝采しているというのが現状です。一刻も早く、こんなまやかしから目を覚ましたいものです。

(2011年11月刊。1400円+税)

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2012年2月13日

越境する脳

著者   ミゲル・ニコレリス 、 出版   早川書房

 脳についての知識がさらに増えました。
右手を失った人が、その右手に痛みを感じることがある。これを幻肢という。
 幻肢とは、身体のある部分を失ったあとでも、その部分がまだあって身体にくっついているという異常な感覚のことである。この痛覚は脳内の構成概念である。手足を切断された人が体験する手の込んだ幻覚は、末梢の神経腫ではなく、患者の脳内に広く分布したニューロンの活動によって生じるものである。
脳は高度な適応性を有する多重様相プロセスによって身体の所有感覚を生成している。この過程では、視覚、触覚、身体位置の感覚フィードバックを直接操作することによって、数秒で私たちの別の新たな身体を自己感覚のありかとして受け入れさせることができる。
 これって、ちょっと分かりにくい説明ですよね・・・。
相互につながったニューロンの大集団と情報をコードする大規模な並行処理のおかげで、私たちの高度に発達した脳は部分の緩和が全体より大きくなる動的システムとなる。これが可能になるのは、個々の要素の特徴の線形和のみからは予測できない、活動の複雑な全体的パターン(創発性)が神経網全体の動的相互作用によって発生するからなのだ。数百万ないし数十億個のニューロンによって形成される分散神経網は、脳波発生などの創発性を示す。脳の創発性によって、さらに知覚、運動制御、夢、自己感覚などきわめて緻密で複雑な脳機能までもが生み出されている。私たちの知識は、ヒトの脳内で動物に相互作用する多数のニューロン回路の創発性から生まれていると思われる。
 脳のはたらきは、ニューロン時空が形成する切れ目のない連続体内にある数十億個のニューロン間の動的な相互作用から生まれるのだ。
 私たちの脳内では、つねに脳自身の視点と入力とが激しく衝突しており、脳は与えられた条件下で、その瞬間に最適な行動パターンを生成する。脳は外界からの刺激をただ待ち受ける受動的な情報解読器ではなく、能動的に外界のモデルを構築するシュミレーターである。シュミレーターの過程で脳は身体の枠をこえて外界を同化し、自己を延長する。
人間の意識が同時並行処理するニューロン集団の大量の相互作用にあるという主張なわけですが、この本を読んで、難しい内容ながらも何となく分かった気がしました。
(2011年9月刊。2400円+税)

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2012年2月12日

日曜日の歴史学

司法(江戸)

著者  山本 博文  、 出版  東京堂出版 

 江戸時代について、たくさんの本を書いてきた著者の本を読むたびに目が開かれる思いです。伊能忠敬の目的が日本全国の地図づくりにあったのではなく、もっと大きな、地球の大きさを計算することだったというのを初めて知りました。しかも、歩いて算出した地球の外周(4万キロ近く)は、139キロの誤差しかなかったというのです。恐るべき精度ですね。腰を抜かしそうになりました。
家康も秀吉から豊臣の姓と羽柴の名字を与えられた。後に成立した江戸幕府は家康のこのような屈辱的な歴史を消そうとした。
 家康は秀吉に対して尺取虫のように平身低頭していたのが現実である。
家康が羽柴武蔵大納言と署名していたことがあるなんて、今の私たちからすると信じられませんよね。
嘆願すると住民は「恐れながら」と幕府を立てながら申し出た。しかし、それは武士が威張っていて、百姓が卑屈になっていたというものではなく、あくまで嘆願書の形式にすぎなかった。実際には、支配階級の武士といえども、被支配層の理解と支持なくして、自らの支配が成り立たないことを十分に承知していた。
  有名な桜田門外の辺について、彦根藩は、君主が傷つけられたというだけで、藩主の井伊直弼の首を取られたことを認めなかった。藩の面子があったからだ。そのため、この事件は殺人事件ではなく、幕府高官を集団で傷つけたという障害事件として処理された。ええーっ、ウソでしょ、と叫びたくなりました。ここまでホンネとたてまえを使いわけるのですね。まあ、これって、今でもありますね。
足軽というのは、最下層の武士かと思っていました。ところが、最近の研究では、足軽は百姓の出身者によって占められ、世襲されていない。つまり、足軽は士格ではあっても、武士とは言いがたい身分だった。
 私よりひとまわり若い著者ですが、さすがは東大史料編纂所教授だけあって、いつも史料を駆使した内容で、面白いうえに説得力があります。
(2011年11月刊。1500円+税)

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2012年2月11日

本土決戦の虚像と実像

日本史

著者  日吉台地下壕保存の会 、 出版   高文研

 第二次世界大戦の末期、当時の日本軍最高指導部は本気で本土決戦を考えていたのですね。信じられませんが、そのことがよく分かる本です。
 館山や九十九里浜にアメリカ軍が上陸することを予測し、多くの特攻基地をふくむ地下壕群が築造されていった。また、長野県松代に大本営を移転すべく地下壕を本格的に築造していった。本土決戦は、決して机上の計画にとどまったものではなく、幻の計画ではなかった。
 当初の本土決戦は、航空攻撃と海岸線の砲台・陣地によってアメリカ軍に上陸以前に大損害を与え、上陸してきたアメリカ軍は内陸部の陣地でくいとめ、アメリカ軍の消耗を待って「決戦兵団」が攻勢に出て、アメリカ軍を一挙に撃滅する作戦であった。
 うへーっっ、なんだか成功しそうで、実はまったくナンセンスな計画ですよねだって、そのころには既に航空機も海岸線の砲台も、そして内陸部の決戦兵団なんて、現実にはどこにもなかったのですよ。
 本土決戦の準備として大本営を移転させること、風船爆弾によってアメリカ本土を攻撃しようという計画がすすめられた。
風船爆弾には、当初、生物兵器をつかう計画だったようです。それによってアメリカの家畜を壊滅させて、社会を大混乱させようというのです。しかし、それをしたときのアメリカ側の反撃が怖くて止めて、爆弾が積まれました。風船爆弾9300発が発射され、アメリカ大陸に1000発は到達した。着弾地が確認されたのが361発で、死者6人という「成果」をあげて終わった。
本土決戦のため、参謀本部は150万人を招集し、一般師団40、混成旅団2つをつくりだす計画だった。
 大本営は、第一線部隊には後退を許さず、玉砕を強要しながらも、最後まで松代大本営工事を督励し、大本営(総司令部)のみは後退し、自己を温存することを図った。玉砕の強要と自己保存である。
 松代大本営は、総延長10キロをこえる3つの地下壕群が今も残っている。つくった労働者は、ほとんどが朝鮮人であった。6~7000人が働いていた。ここには天皇の御座所もつくられた。この工事は鹿島組が請け負い、180人の朝鮮人労働者が働いた。結局、日本の国土が荒廃し、多くの日本人が死んでも天皇制だけは存続させようということだったのですね。いやになってしまいます。
(2011年8月刊。1500円+税)

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2012年2月10日

天子の奴隷

日本史

著者   ロイ・H・ホワイトクロス 、 出版   秀英書房

 第二次世界大戦中、シンガポールで日本軍の捕虜となり、ビルマのタイメン鉄道建設にに従事させられ、その後、日本へ送られて三池炭坑で働かされたオーストラリア兵の記録です。苛酷な収容所生活のなかでよくぞ生き残ったものだと、つい感嘆してしまいました。
 1942年2月、イギリス軍は改めてきた日本軍に降伏した。
 チャンギ収容所にオーストラリア軍だけで1万5000人が収容された。そこへ、山下奉文将軍が視察にやってきた。
捕虜を乗せた貨物船は、シンガポールに向けて航行中、アメリカ軍艦水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。
 ビルマに連行されて、そこでタイメン鉄道の建設作業に従事された。私はみていませんが、有名な映画になっていますよね。クワイ河マーチも有名です。
 著者は、ここで23歳の誕生日を迎えました。この若さがあったから生きのびることが出来たのです。
 収容所ではコレラが猛威をふるい、次々に死者が出ます。トイレに夜中27回もいったといいます。マラリアも大流行します。隊の死亡率は5割。労働隊320人のうち、200人が病気で寝ていた。毎日のように誰かが脳性マラリアの犠牲になった。
 110キロ・キャンプでは1日に35人の死者を出した。30キロ・病院キャンプでは総員1027人のうち、既に500人以上が死んだ。
 1943年12月。570人のうち295人が働けなかった。1週間後、病人は399人に増えた。著者のところでは43人のうち38人が重体で動けなかった。
 1945年1月、九州になんとか到着した。大牟田の捕虜収容所は九州最大で1500人を収容した。イギリス人、アメリカ人、オランダ人、オーストラリア人がいた。そのうち、オーストラリア人は4棟を占めた。
給料は皆勤すると月に7円が支給された。ただし、これから1日1回のミルク代として2円が差し引かれた。
日本軍は連合軍捕虜への赤十字物資を専断し、倉庫にため込んだ。ときどき、それを勝手に償品として出勤率最高の部隊に贈られた。
 1945年6月、石炭600トンを産出するように勧告され、それから酷使され続けた。
やがて大牟田も空襲されるようになった。空前の規模の空襲は8月9日のこと。
8月15日、突然に戦争が終わり、解放された。大牟田にあった捕虜収容所には、終戦時に、収容者が1737人いた。収容中に138人の捕虜が死亡。オーストラリア人も19人が死亡。その半数は肺炎による。
 大牟田は、大阪や尼ヶ崎と並んで原爆攻撃の2次目標に入っていた。
収容所の初代所長の由利敬は戦犯として第一号に死刑が執行され、二代目所長の福原勲は巣鴨で2番目に紋首刑が執行された。このほか、大牟田収容所関係では2人が死刑となっている。
 著者は1920年の生まれですから、終戦時は25歳でした。2009年に亡くなっていますので、幸いにも89歳まで生きておられたわけです。シドニー大学に学び、またシドニー大学で働いていました。
 大牟田の収容所に入られ、捕虜として三池炭坑で働かされて生きのびた貴重な体験記です。広大な収容所の建物(宿舎棟)がずらりと並ぶ様子は壮観としか言いようがありません。写真をみると海岸沿いにあったようです。
(2010年10月刊。2500円+税)

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2012年2月 9日

ノルマンディー上陸作戦(下)

ヨーロッパ

著者   アントニー・ビーヴァー 、 出版   白水社

 連合軍はノルマンディーになんとか上陸したあと、一路ドイツに向かって快進撃を続けたというのではないことがよく分かります。実際にはヒトラー・ドイツ軍の反撃もあって、しばらく苦戦したのでした。
パットン将軍が最高司令官のアイゼンハワー将軍に対して軍人として一目置いたことは、ただの一度もなかった。パットンは次のように語る。
 「親しく接することで、部下と分け隔てのない関係を築けるというのがアイクの考え方なのだろう。だが、分け隔てがなくなったら、部下を指揮することなど、断じてできまい。私は、あらゆる方法を駆使して、部下の士気向上をはかる。だが、アイクは部下の合意を取りつけようとする」
 パットンは、モントゴメリー将軍も見下していた。
軍医は、傷とそのタイプを見ると、いま我が軍の部隊が前進しているのか、後退しているのか、停滞しているのか、判断がついた。
 自傷行為に走った兵隊が運ばれてくるのは、たいてい戦闘が始まった直後だ。部隊が前進すると、傷の種類は、迫撃砲、機関銃、そのほか小火器によるものに変わる。敵の守りを突破したり、人知を破保したあとは、地雷とブービートラップの患者が相手となる。
 負傷者の過半数ではないものの、心的外傷を負った兵士は、依然として相当数にのぼっていた。アメリカ陸軍がノルマンディーにおいて対処せざるをえなかった戦争神経症患者は3万人に及んだ。
 ドイツのロンメル将軍は、幹線道路を走るのは避けるように忠告されたにもかかわらずオープンカーで道路を走っていて、2機の英軍機スピットファイアに攻撃された。ロンメルは車から投げ出され、重傷を負った。ロンメルは、病院に送られ、以後、この戦争から離れてしまった。
 3日後の7月20日、ヒトラーに対する暗殺未遂事件が起きた。連合軍がノルマンディー防衛戦を突破するのではないかという懸念と、いっこうに現実を見ようとしないヒトラーに対する忌避感情が事件の背後にあった。
 ロンメル元師を中心とするヒトラー反対派も存在した。ヒトラー暗殺、クーデター計画には、実に多くのドイツ国防軍の上級将校が関与していた。しかし、組織としてのまとまりや、効果的な連絡手段があまりに欠如していたため、ヒトラーの生死という肝心要の事実さえ確認がとれず、それは必然的に、初動の遅れと混乱へとつながった。ヒトラーの生存が確認されたため、どっちつかずの態度をとっていた者たちは慌てて自分の尻尾隠しに狂奔した。大半の下級将校はショックを受け、混乱はしていたけれど、この問題に関しては、くよくよ考えないという選択をした。
戦争とは結局、およそ90%が待ち時間である。
 これはアメリカの師団のある将校が日記に書いた言葉である。
 モーリス・ローズ准将は、配下の戦車兵・歩兵共同チームに徹底的な訓練を施した。
 戦場の視察にやってきたソ連軍の軍事使節団は、100万人の元赤軍兵士がドイツ国防軍の軍服を着て戦っている事実を知らされて、顔をこわばらせた。
 イギリスのチャーチル戦車やクロムウェル戦車は、ドイツのティーガー戦車にはほとんど歯が立たなかった。
最前線のアメリカ軍部隊は、処理すべき人数があまりに多かったので、捕虜の扱いがきわめてぞんざいだった。なにしろ、第八軍団だけで、3日間に7000人、第一軍が捕らえた捕虜は6日間で2万人に達した。
 ブルターニュ地方は、フランスにおけるレジスタンスの一大拠点だった。2万人の活動家がいて、7月末には3万人をこえた。うち1万4千人は武装していた。ドゴール派のFFIも、共産党のFTPもブラッドリー将軍の期待をはるかに上回る活躍を見せた。
 そして、ドイツ兵と寝た女性への報傷行為も、ブルターニュ地方のほうがはるかに苛烈だった。髪の毛をむりやり刈り取られたうえ、腰をけられて病院送りとなった。
 8月初め、ヒトラーは、撤退など論外だと言い出した。その内なるギャンブラー体質に、ドラマ性を好む性向が加わり、目の前の地図を眺めて、日々夢想にふけった。名ばかりの師図になっているのに、そうした現実をヒトラーは断じて受け入れようとはしなかった。ヒトラーは自分に都合のよいものしか目に入らなくなっていた。8月7日、ドイツ軍の反撃が開始された。攻撃が失敗したとき、ヒトラーは、こう言った。「クルーゲがわざとやったのだ。私の命令が実行不能であることを立証するため、クルーゲのやつが、敢えてこれをやったのだ」
 パットン将軍のアメリカ第三軍は補給の問題をかかえていた。
 アイゼンハワー最高司令官は、パリを素通りして、そのまま東フランスから一気にドイツ国境に迫るという考えだった。これにドゴール将軍が反発した。
パリを破壊させよというヒトラーの命令を実行する考えだったコルティッツ司令官に対して、前任司令官と参謀長が説得し、やめさせた。
 8月24日、フランス自由軍がパリに入った。アメリカ軍も8月25日朝、南方からパリに入った。パリにドゴール将軍が入るのが先か、共産党のレジスタンス蜂起が先に成功するか、息づまる努力争いが展開された。これはまさに戦後政治の先どりでした。
 1944年後、髪の毛を丸刈りにされたフランス人女性は2万人にのぼった。ドイツ兵と寝たことが理由である。
1944年夏の3ヵ月間にドイツ国防軍は24万の将兵が犠牲となり、20万人が連合軍の捕虜となった。イギリス、カナダなどの連合軍は8万人の犠牲者を出し、アメリカ軍の犠牲者は13万に近い。
 たしかにすさまじい戦争だったことがよく分かる、詳細な戦史です。よくぞここまで調べあげたものです。
(2011年8月刊。3000円+税)

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2012年2月 8日

毛沢東の大飢饉

中国

著者  フランク・ディケーター 、 出版   草思社

 毛沢東は本当に罪深い人物だと思います。この本は、「大躍進」時代に4500万人の死者を出した悲惨な実情に迫っています。
 1958年から1962年にかけて、中国は地獄へ落ちていた。毛沢東は、15年以内にイギリスに追いつき、追い越すという狂気の沙汰へと中国を駆り立てた。1958年から1962年にかけて、少なくとも4500万人が本来避けられたはずの死を遂げた。犠牲者のうちの6~8%、少なくとも250万人が拷問死あるいは尋問を受けずにその場で処刑された。
 一気に共産主義へと駆け上がる試みが、結果的に第二次世界大戦の空爆作戦をはるかにしのぐ、人類史上最大の資産破壊を招いた。総家屋の40%が瓦礫と化した。
 毛沢東の実際は、とりとめのないスピーチ、歴史おける自らの役割への固執、過去に受けた屈辱をくよくよと思い悩むことも多く、会議で感情的に威嚇するやり方に長け、何よりも顕著だったのは人命の損失に無頓着だった。
 惨事の主たる責任は毛沢東にある。毛沢東は仲間たちと駆け引きし、彼らを丸め込み、煽り立て、ときに苦痛を与えたり、迫害したりして、自らのビジョンを必死になって推進した。
 1953年のスターリンの死は、毛沢東にとっての解放だった。
 スターリンは、毛沢東とその山出しの兵士たちをろくに信用していなかった。スターリンは、自分の助けなしに政権を握った者が、自国と国境を接した広大な帝国を支配するような体制を認めるつもりなどさらさらなかった。
 周恩来は毛沢東の上司にいたことがある。毛沢東は、簡単に周恩来への遺恨を水に流しはしなかった。毛沢東は、権力の潜在的なライバルとなる周恩来を寄せつけない一方で、事を仕切るうえで周恩来の手腕を必要とした。毛沢東は日々の雑務や組織の細かい仕事には無頓着だった。そして、周恩来が毛沢東の権力に屈していく光景を目にして、経済分野の指導者たちも、あわてて同調した。
 1958年7月末、毛沢東はソ連のフルシチョフを中南海のプールで迎え入れた。フルシチョフが泳げないことを知ったうえで、毛沢東はプールを何度も往復した。そして、大躍進の成功を次のように語った。
「わが国は、米があまりに豊作で、どうしたものかとお手上げ状態だ」
しかし、フルシチョフは劉少奇から中国の現実を聞いていた。
「中国は飢えている。それなのにお米があり余るほどだという・・・」
毛沢東は鉄鋼に取りつかれていた。イギリスを追い抜くというのは、年間鉄鋼生産量で勝るという意味だった。この「成功」の秘訣は、すべての人民公社の裏庭につくった小型溶鉱炉「土法高炉」だった。
 しかし、土法高炉で生産された鉄は小さく、もろかったため、近代的な圧延装置にかけることは出来なかった。利用可能だったのは3分の1にも充たなかった。
 1958年の現実の穀物生産高は2億トンだったが、中央政府は4億1000万トンと算出した。肥料をたくさん施せば、それだけ生産量が上がるという単純な論法で、大変な無理がまかり通っていた。そして、公称と実際はどんどん離れていった。
 これって、日本でも、よくある話ですよね。私の町にも新幹線が開通しましたが、現実の乗降客は「予測」をはるかに下まわっています。
 1958年4月、早くも飢えと食糧不足が中国全土に広がった。毛沢東のもとには、全国から飢餓、疾病、虐待に関する無数の報告が届いていた。食料や原料の実際の輸出能力を完全に無視して、「より多くの輸入、より多くの輸出」が1958年の中国のキャッチフレーズだった。これは、国際社会に自らの政策の成功を誇示したい毛沢東にはうってつけのものだった。
 しかし、大躍進期には、綿花だけでなく穀物も、さらには工業製品もその生産量は公約とはほど遠いものだった。中国は深刻な貿易赤字に陥った。そして、中国全土が飢饉から抜け出す方法を模索しているとき、中国は400万トン以上の穀物を輸出していた。
 彭徳懐は、何度か毛沢東の大躍進政策を率直に批判した。ところが毛沢東は彭徳懐を糾弾し、その地位を剥奪した。この時点では、劉少奇はまだ、傍観を決めこんでいた。現実に起きていることには見て見ぬふりを決め込んでいた。鄧小平も、国の必要性に比べたら、人民が飢えることなどさしたる問題ではないという考え方に固執していた。
毛沢東は、農村があまりの大豊作に困り果てていると信じ込んだため、農地の3分の1を休耕地にするよう指令した。農民の都市への流出とあいまって、耕地面積は急激に減少した。大躍進期の中国では、家畜や家禽がすべて人民公社のものになったので、人々は世話をする意欲を失い、家畜はほったらかしにされた。そのため、人々も家畜も飢えと寒さと病気で死ぬケースが増えた。家畜の数が激減したにもかかわらず、国は容赦なく買い上げた。
大躍進は、大量の森林を破壊した。巨大病に取りつかれた地方は、大規模プロジェクトに急速に取り組んだ。
1958年、毛沢東は、ネズミ、ハエ、蚊、スズメの四害排除命令を出した。国をあげてスズメに全面戦争を挑んだこの運動は、環境に大きなダメージを与えた。スズメは絶滅寸前にまで追い込まれ、虫が大量に発作して作物に大きな被害を与えた。
 中国共産党の党員数は、次々に粛清されていたにもかかわらず、1958年の1245万人から1961年の1738万人へと、5割も増加した。幹部は偽数字を申告し、粉飾決算した。盗みが横行し、物資が隠匿された。
 ターニングポイントは、1962年1月の会議だった。この席で劉少奇国家主席は、3時間にわたって話し続けた。この難局は自然災害は30%、人災が70%だと語った。
 毛沢東は猛り狂った。毛沢東は、このとき、劉少奇はフルシチョフによると確信した。毛沢東は、じっと好機を待った。
 トップの政策の誤りによって引き起こされた悲惨な事態は、トップが自覚し反省しない限り、そしてトップに自覚させ反省させない限り是正するのは容易でないことを歴史が証明しています。
(2011年11月刊。1400円+税)

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2012年2月 7日

東電解体

社会

著者  奥 村  宏 、 出版   東洋経済新報社

 あれだけの犯罪的大事件をひき起こしていながら、東電の会長は今も、そのまま居座ったままです。なんという厚かましさでしょう。人間(ひと)の心をとっくに失っているとしか思えません。この本も、その点を鋭く追及しています。
 東京電力は福島第一原発の事故で放射能を放出し、多くの人に危害を与えたにもかかわらず、なんらの刑事罰も課せられていない。問題になっているのは損害賠償だけ。人を傷つけてもカネさえ払えばすむ、というような国はどこにもない。
 法人に刑事責任はないのか? もちろん、企業犯罪は成立します。東電の歴代取締役が自己の得ている莫大な取締役報酬を返上したという話はどこにもありません。私は、東電の社員に給料を支払うなとは決して言いません。
 しかし、原発の危険を知ったうえで、それを故意に過小評価して無策・怠慢であり続けた歴代の取締役全員には厳しい責任が当然追及されるべきだと思います。今回の事故のあと東電の取締役が一人も刑務所に入らないというのは日本の検察そして司法の重大な汚点になるとさえ私は考えます。
東京電力は、民間企業としては世界一である。売上高5兆円、総資産13兆円。東京電力のトップが経団連の業議員会議長から副会長、そして会長へというコースをたどることがルール化されてきた。
 電力総連は、加盟組合230組合員数21万5千人。連合に加盟し、民主党を支持し、原発推進を方針としている。これって、労働組合の本来の姿なのでしょうか。せめて、今は脱原発を唱和してほしいものです。
日本航空(JAL)も倒産してその株券はタダの紙切れになってしまった。銀行も債権を放棄した。しかし、東京電力については、減資もしなければ、債権放棄もない。JALと違って、異例の優遇である。 
 国民の税金で損害賠償を肩代わりしてもらって、普通の会社として存続し続ける。そんなバカな・・・。国民の税金で救済されながら、銀行も株主も損をしないで、会社はそのまま存続する。これほど不思議な話はない。
 いったい会社とは何なのか、何のために存在するのか、東電の会長を思い浮かべながら、腹立たしさを抑えきれずに読み終えました。

(2011年11月刊。1600円+税)

 日曜日、天神で映画『サラの鍵』を見ました。本も良かったけれど、映画も素晴らしい出来でぐいぐい画面に引き込まれ、泣けて仕方がありませんでした。
 1942年7月パリで起きたユダヤ人強制連行事件を扱っています。『黄色い星の子どもたち』も同じ事件を扱っていました。
 弟を死なせてしまったという後悔がずっと尾を引いていきます。人間って簡単には過去から逃げきれないのですよね。忘れ去ってしまいたいけど忘れられない。そして、ときに過去は振り返る必要があります。
 映画を見終わって映画館から出ると、小雨がパラついていました。心のほこりが洗い流されたようなすがすがしさを感じました。
 この日は夜寝るとき、映画の場面を思い出し、つい涙がこぼれてしまいました。

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2012年2月 6日

脳の風景

著者   藤田 一郎 、 出版   筑摩書房

 人間の脳は、地球上で一番複雑である。いや、宇宙でもっとも複雑な構造物であると言える。
 小さなキャベツほどの脳の中に1000億個のニューロン(神経細胞)が押し込まれていて、その多くが1000から数万の他のニューロンとつながっている。ニューロン同士のつながり方にはルールがあり、緻密で膨大な配線をつくる。この巨大な神経ネットワークが人間のふるまいや心を生み出す。
多くの動物の洞毛ひげは、個体によらず、同一の種類であれば同じように生えている。
 ネズミのひげは、その一本一本に名前をつけている。
 盲目になった猫は、失った視覚能力を体性感覚や聴覚で補う。マウスも猫も、失明したあと、ものにさわったり音を聞くことで物体の識別したり、その位置を弁別する能力が向上する。
 アザラシが洞毛ひげをつかって水の動きの周波数を弁別する精度は、サルが手のひらで行う触覚の性能に匹敵するほどに高い。
カモノハシは夜間、濁った水中にもぐってエサをとるが、そのときには目だけでなく鼻や耳の穴も閉じている。それでもエサをとれる秘密はくちばしにある。上下のくちばしの表裏には、微弱な電気を感じることのできる電気受容器が4万個、水の乱れを感じることのできる機械受容器が6万個も埋め込まれている。
 スズメやヒヨドリ、ウグイスなどさえずりをする小鳥たちは、自分に固有のさえずりを生まれつき身につけているのではない。学習によって学んでいる。このことは里親実験によって証明された。生まれたばかりの幼鳥をオス親から引き離し、別のオス親のもとで育てると、里親のさえずりに似たさえずりをする。どのオスのさえずりも聞こえないようにして育てると、まともなさえずりの出来ない鳥に育ってしまう。いやあ、これって残酷な実験ですよね。
 生物の脳そして人間の脳の素晴らしい出来具合を知るにつけ、それを十分に活用していないところが、そして年齢とともに不活性化していっていることに、もどかしさを覚えてしまいます。
 それでも、こうやって毎日毎晩、読後感を書いていますので、そのうち何かいいことがきっとあることでしょう。そうですよね、チョコさん。
(2011年9月刊。1600円+税)

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2012年2月 5日

生き物

著者   マイケル・ウェランド 、 出版   築地書館

 砂にまつわる話が満載です。よくぞここまで調べあげたものです。残念ながら、砂に棲む蟻地獄(虫)は登場してきません。
 それにしても、地球上に砂は無数(無限)にあります。同じ無数といえば、宇宙の星だってそう言えます。では、地球上の砂と宇宙の星とを比べると、どちらが多いのか。
 うひゃあ、そんな発想をしたことなんてありませんでしたよ。ところが、それを計算してみた学者がいるのですね。すごいものですよね。
 その学者って、有名なカール・セーガンです。彼は、宇宙にある星の数は、地球上の砂浜にある砂つぶ全部より多いと言ったのです。本当でしょうか?
 実はこの本によると、どちらも10の20乗くらいだというのです。あとは砂の定義次第というわけです。ええーっ、宇宙の星のほうが圧倒的に多いんじゃないかと思っていました。だって、広大無辺の宇宙の星が、地球というちっぽけな天体にある砂つぶほどもないなんて、イメージがこわれてしまうじゃないですか・・・。
 乾いた砂は、気味が悪いほど液体とよく似た動きをする。濡れた砂は、水が多すぎない限り、どちらかというと固体に近い性質を示す。
 砂は、わずか1%の水を加えるだけで驚くべき固体に変容し、水の含量が10%をこえてもこの特徴は変化しない。粒子と粒子の間の空間に水と空気の境界面があり、その面積が大きいので表面張力が働いて粒子どうしがくっつく。うむむ、なんだか分かったようで・・・。
 砂に埋まった人は、コンクリートで固められたのと同じ状態になる。固まった砂地獄から足を抜くのに必要な力は、中型の自動車を持ち上げるのと同じだと推定されている。解決策は身体をくねらせること。先日、イタズラのつもりで砂の落とし穴に埋められて新婚カップルが亡くなったという事件が起きましたよね。砂って、怖いんですね。
薪の調達、過剰放牧、過剰耕作などが近年の「砂漠化」の原因の90%を占めている。
 地球の砂漠化が進行しているようで、私も心配しています。
(2011年8月刊。3000円+税)

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2012年2月 4日

福島原発の闇

社会

著者   堀江 邦夫・水木しげる 、 出版   朝日新聞出版

 いま、福島第一原発のあと、内部では毎日3000人もの人々が強い放射線を浴びながら、懸命の復旧工事をしているわけですが、この本はその工事の様子をマンガで描いたものと言ってもよいと思います。ところが、実は、この本は1979年秋に発刊された『アサヒグラフ
』に掲載されたものがベースになっているのです。ですから、今から30年以上も前の福島第一原発の状況が描かれています。
自ら原発労働者になって原発作業の危険性を次々に告発していった著者は、アサヒグラフに誘われて、水木しげると一緒に福島原発に再び取材に出かけます。文章も迫力がありますが、なんといっても、さすがは水木しげるです。原発内の様子が刻明に再現されています。
いまや無残な姿をさらす原発建屋が健全な姿を見せていますが、そこで働く労働者にとって、そこは地獄です。
 防護服の着用を義務づけられるものの、それは放射線被曝から身体を防護してくれるわけではない。職場で、突然、汚染水が吹き出す事故が起きる。労働者は放射能まみれの水を見て悲鳴をあげて逃げまどう。
 炉心の近くの高線量エリア内の仕事。この日作業目標はたったバルブ1台の据え付け。普通なら2人がかりで30分もあれば十分な作業、それを6人もの労働者が疲労の極限まで追い込まれながら、3時間かけてもまだ終わらせることができない。あせったボーシン(現場監督)は、ついに全面マスクをはずしてしまった。ところが、横にいる放射線管理者は、そのボーシンに注意もしない。
1日あたり1ミリシーベルトが許容線量とされていた。日本人が一年間に浴びる自然放射線量は平均1ミリシーベルトというので、労働者は原発内で1年分を1日で浴びていることになる。
 原発内の作業実態をイメージできる良書だと思いました。わずか90頁あまりの薄い、イラストたっぷりの本ですが、タイムリーな出版です。
(2011年9月刊。1000円+税)

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2012年2月 3日

不思議な宮さま

日本史

著者   浅見 雅男 、 出版   文芸春秋

 戦後初の首相となった東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)王の評伝です。その実像にかなり迫っていると思いました。
 稔彦王の生母は寺尾宇多子という女性である。
 正妃のほかに側室をもつのが当たり前だった皇室では、子どもはすべて正妃の子とされ、生母はあくまでも腹を貸しただけという建前がとられた。生母は自分の腹を痛めた実子に対して臣下の礼をとられなければいけなかったし、生母への思いを公然とあらわすのは慎まねばならなかった。ところが、稔彦王の父である朝彦親王には正妃がいなかった。それにもかかわらず、生母は名乗ることができなかった。
 朝彦親王は四男だったが、宮家を継ぐ王子以外は出家するという江戸時代以前の皇室のならわしにしたがって、8歳で京都の本能寺にあずけられ、14歳のときに奈良の一乗院の院主となった。朝彦親王は孝明天皇の命で還俗(げんぞく)した。ところが、朝彦親王は孝明天皇の期待を裏切って、公式合体派の首領として、京都朝廷で威勢を振るった。そして、明治元年、朝彦親王は岩倉らによって、徳川慶喜と結託して幕府の再興を図ったとの理由で広島に幽閉されてしまった。
 稔彦王は、生後すぐに母親から離され、京都郊外の農家に里親に出された。
 このころ、皇族や公家の幼児が里子に出されるのは珍しいことではなかった。子どものころ稔彦は、皇太子である嘉仁親王を尊重していなかった。それどころか、天皇という存在への敬意も欠如していた。
 皇族の生徒の取り扱いは軍当局にとって難題だった。もともと体力の劣っている皇族を厳しく鍛えると、病気になることがある。特別扱いするのは無理はなかった。ところが、特別扱いされる皇族生徒のほうでは、それがストレスになった。
皇族はトルストイの本を読むのも禁じられていた。
 ええーっ、そうなんですか・・・。信じられません。
 明治天皇には14人の子どもがいた。男子は4人で、成長したのは後の大正天皇ただ1人。10人の女子のうち、成長したのは4人のみだった。
稔彦王は、拘束の多い皇族という身分が嫌で嫌でたまらなかった。稔彦王は、何度も何度も皇族の身分を離れたいと言いはって、周囲から顰蹙を買い、また関係者に迷惑をかけた。
 若い皇族の海外留学は天皇政権が誕生してまもないころから盛んにおこなわれた。
 皇族たちは、続々と海を渡った。どの皇族も、10代半ばから20代半ばの若さだった。ほとんど全員が現地の軍学校で学んだ。明治前半の皇族留学は、軍事修行が主たる目的だった。
 稔彦王がパリに留学したとき、年に20万円が与えられた。これは現在なら10数億円にもなる巨額である。パリの陸軍大学を卒業したあと、稔彦王は政治法律学校に入った。ここでは、フランス語版の「資本論」を読んだという。稔彦王は、画家のクロード・モネと親しくつきあった。そして、稔彦王は、なかなか日本に帰国しようとせず、周囲をやきもきさせた。
 陸軍では、皇族は皇族であるがゆえに経験や能力は度外視され、超スピードで段階が上がっていく。したがって、階級が高いからといって、有能な部下が何でもやってくれる部隊の長ならともかく、責任が重く、判断能力が要求される省部の幹部になるのは無理だった。
 王政復古以来、皇族が戦場におもむくことは珍しくはなかった。しかし、いずれの場合、皇族軍人たちは、その身が危険にさらされないように周囲から周到な注意をはらわれ、その結果、戦死した皇族は一人も出ていない。
 軍司令官としての稔彦王は、賢明にも「お飾り」に甘んじていた。
 内大臣の木戸は稔彦王について、取り巻きがよくないと許した。木戸は神兵隊、天理教、小原龍海、清浦末雄など好ましからざる連中が取り巻きにいることを熟知していた。
 終戦のとき、稔彦王をよく知る人たちは、稔彦王を信頼せず、もろ手をあげて首相就任を歓迎することはなかった。しかし、陸軍の暴発を抑えること、国民に敗戦を納得させ、人心の動揺を防ぐことが目的だった。
皇族の一員として生まれて、その特権を利用しながらも、不自由な皇族から離脱しようとした人物であること、そして、一貫した信念をもたず、取り巻きにいいように利用されてきた人物であることがよく分かる興味深い評伝です。
 今では、こんな人物が皇族としていたことは誰もがすっかり忘れていますよね。
(2011年10月刊。2200円+税)

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2012年2月 2日

地の底のヤマ

日本史

著者   西村 健 、 出版   講談社

 私の生まれ育った町のあちこちが登場してくる小説です。
 私が小学6年生のころ、かの有名な三池大争議がありました。わが家のすぐ近くにある幼稚園の園舎は警官隊の宿舎になっていました。全国から2万人もの警察官が集結し、狭い大牟田の町は警察官にあふれました。いえ、それ以上に多かったのが全国から駆け付けた争議を応援する労働組合員だったでしょう。
 市内には大規模な炭住、そこには炭鉱長屋がずらりと立ち並んでいました。映画『フラガール』で常盤炭鉱に働く炭鉱長屋がCDで再現されていましたが、あの光景が一ヶ所だけでなく市内各所にあったのでした。
 市内は連日、デモ行進があっていました。いつも延々と長蛇の列です。上空には会社の雇ったヘリコプターが飛びかい、組合批判のビラを地上にまき散らしていました。私たち子どもは走って拾い集めていたものです。私が中学3年生のとき、三川鉱大爆発事故が発生しました。校舎が揺れ、3階にある教室の窓から黒い煙があがるのが遠くに見えました。大量の二酸化炭素中毒の患者(単にガス患と呼ばれました)が発生しました。
 三池争議では暴力団も「活躍」しました。三井鉱山が暴力団を飼っていたのです。坑内労働には組夫と呼ばれる下請会社の従業員も入っていましたが、その手配師として暴力団がはびこっていました。三池争議のなかで第二組合が出来て強行就労しようとして、第一組合がピケを張っている現場にドスや鉄パイプを持って殴り込んだのです。労働者の一人(久保清氏)が刺殺されてしまいました。
 暴力団は今も大牟田に健在です。この本の最大の弱点は大型公共事業を暴力団と政治家が喰い物にしてきたことを見逃していることです。
 それはともかくとして、第1部の昭和49年(1974年)、第2部の昭和56年(1981年)、第3部の平成1年(1989年)、そして現在という構成のなかで、大牟田市内の各所で発生した事件を要領よく、パズルのようにはめ込みながらストーリーが展開していくのは見事です。なかには私の知らないエピソードもあり、教えられるところがありました。
 著者は1965年生まれですから、自分の体験していないところが大半でしょう。よくぞ調べあげたものです。でも、この町には、まだまだたくさんの暗部があります。三池集治監時代のエピソード(たとえば、脱獄囚が判事になっていた)、市会議員が暴力団員に刺殺され、その共犯が市議会を長く牛耳ってきたこと、現職市長が収賄で逮捕されたこと、公共事業と暴力団の関係などなどです。引き続き、これらの話も調べていただいて続編を期待したいと思います。
 最後に、大変勉強になる本でしたと改めて感謝します。

(2011年12月刊。2500円+税)
 火曜日に東京に行って日比谷公園のなかを歩いて、雪があちこちに残っているのに驚きました。しかも、鶴の噴水のところには氷のつららがキラキラ光っているのです。東京は寒かったですね。
 夜、品川正治氏の講演を久しぶりに聞きました。88歳になられるそうですが、いつものようにレジュメなしで、しかも制限時間をきっちり守って話されるのに感嘆しました。
 支配層はもうごまかしがきかないと思い至っている。マスコミもずっとごまかしをしてきたけれど行き詰っている。そんな元気の出る話でした。私もがんばらなくては、と思いました。

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2012年2月 1日

盲ろう者として生きて

人間

著者  福島 智 、 出版  明石書店

心が洗われ、すがすがしい読後感に包まれた本でした。
すごいですね。目が見えず、耳が聞こえないのに、500頁もの本を書いて出版するのです。負けてはいられないという気分にもなりました。いえ、別に競争しようというのではありません。私は私の道で引き続きがんばってみようと思ったということです。
著者が書いたという童話がいくつか紹介されています。これまた圧倒されました。11歳のころに書いたとは思えないファンタジックなお話です。その想像力と筆力には、ただただ感嘆させられました。
キミには有力な武器が二つある。一つはしゃべれること。もう一つは点字ができること。この二つを生かすかが今後の課題だ。キミは、できるだけしゃべるようにつとめないといけない。この恩師のアドバイスを忠実に守って今日の著者があるといいます。
人はみな、宇宙に広がる無数の星々のように、孤独に耐えつつ、輝いている。各人は多くの場合、遠く離れてバラバラに配置されている。そして、その孤独に耐えながら、それでもなお、あるいはそれだから離れまいとして重力で引き合う。あるときは二つの恒星が互いに重力で引き合いながら、共通の重心の周囲を回る「連星」のような関係性を保つ。
またある場合は、太陽系における太陽とその光を受けながら公転する惑星群のような、「恒星系」に似た関係性を形づくる。
相互に光を放ち、反射しあう輝きは「コミュニケーション」を連想させる。重力は、退社との結びつきを求める「憧れ」だろうか。そして、星々が形づくる多くの星座や大宇宙に広がる無数の銀河系や星団は、人と人の関係性が織りなす「文脈」の多様さと豊かさを象徴しているのかもしれない。これって、すごくピンと来るたとえですよね。
人はみな、それぞれの「宇宙」に生きている。それは部分的には重なりあっていたとしても、完全に一致することはない。時には、まったく交わらないこともある。このように、ばらばらに配置された存在であるからこそ、その孤独が深いからこそ、人は他者との結びつきに憧れるのではない。智(著者)の盲ろう者としての生の本質は、この根元的な孤独と、それと同じくらい強い他者へのあこがれの共存なのではないだろうか。
人は誰でも自分一人だけで生きているように見えて(思っていても)、実は無数の人々と支え合って生きています。いえ、それがなければ一日たりとも生きていけません。私たちは、日々は、このことにまったく無自覚に過ごしていますが・・・。
著者が高等部一年生のとき、担任の石川先生は次のように忠告したそうです。
おまえも、そろそろ怪物になってきている。知識はあっても、考えようとしない。物事の本質、本当に価値のあるもの、美しいもの、意味のあるものを見分けようとしなければ怪物になる。人間の皮をかぶった怪物だ。世に評判の人ほど怪物は多い。
うむむ、これはグサリときますね。鋭い指摘です。こんなことを言ってくれる教師って、ありがたいですね。私もつい胸に手をあててしまいました。
盲ろうになって失ったものは数知れずあると思うけど、逆に得たものも少なからずある。たとえば、人の心を肌で感じられること。外見的な特徴や、しゃべり方などに左右されることがないので、純粋に相手の言いたいことが伝わってくる。 指点字で話すときに使う人間の手は意外にその人の性質をあらわしている。
著者が18歳のとき、ある夏の夜、父が言った。
「無理して大学なんか行かんでもええ。好きなことしてのんびり暮らせばええやないか。これまで、おまえはもう十分に苦労した」
「そんなの嫌や。ぼくにも生きがいが欲しいんや。ぼくは豚とは違うんや」
「分かった。そこまで言うんなら、おまえの思うとおりにとことんやれ、応援したる。まあ、ビールでも飲め」
すごい父と子の会話ですね。このやりとりを聞くと、父親もとても偉かったと思います。

(2011年7月刊。2800円+税)

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