弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年2月 9日

ノルマンディー上陸作戦(下)

ヨーロッパ

著者   アントニー・ビーヴァー 、 出版   白水社

 連合軍はノルマンディーになんとか上陸したあと、一路ドイツに向かって快進撃を続けたというのではないことがよく分かります。実際にはヒトラー・ドイツ軍の反撃もあって、しばらく苦戦したのでした。
パットン将軍が最高司令官のアイゼンハワー将軍に対して軍人として一目置いたことは、ただの一度もなかった。パットンは次のように語る。
 「親しく接することで、部下と分け隔てのない関係を築けるというのがアイクの考え方なのだろう。だが、分け隔てがなくなったら、部下を指揮することなど、断じてできまい。私は、あらゆる方法を駆使して、部下の士気向上をはかる。だが、アイクは部下の合意を取りつけようとする」
 パットンは、モントゴメリー将軍も見下していた。
軍医は、傷とそのタイプを見ると、いま我が軍の部隊が前進しているのか、後退しているのか、停滞しているのか、判断がついた。
 自傷行為に走った兵隊が運ばれてくるのは、たいてい戦闘が始まった直後だ。部隊が前進すると、傷の種類は、迫撃砲、機関銃、そのほか小火器によるものに変わる。敵の守りを突破したり、人知を破保したあとは、地雷とブービートラップの患者が相手となる。
 負傷者の過半数ではないものの、心的外傷を負った兵士は、依然として相当数にのぼっていた。アメリカ陸軍がノルマンディーにおいて対処せざるをえなかった戦争神経症患者は3万人に及んだ。
 ドイツのロンメル将軍は、幹線道路を走るのは避けるように忠告されたにもかかわらずオープンカーで道路を走っていて、2機の英軍機スピットファイアに攻撃された。ロンメルは車から投げ出され、重傷を負った。ロンメルは、病院に送られ、以後、この戦争から離れてしまった。
 3日後の7月20日、ヒトラーに対する暗殺未遂事件が起きた。連合軍がノルマンディー防衛戦を突破するのではないかという懸念と、いっこうに現実を見ようとしないヒトラーに対する忌避感情が事件の背後にあった。
 ロンメル元師を中心とするヒトラー反対派も存在した。ヒトラー暗殺、クーデター計画には、実に多くのドイツ国防軍の上級将校が関与していた。しかし、組織としてのまとまりや、効果的な連絡手段があまりに欠如していたため、ヒトラーの生死という肝心要の事実さえ確認がとれず、それは必然的に、初動の遅れと混乱へとつながった。ヒトラーの生存が確認されたため、どっちつかずの態度をとっていた者たちは慌てて自分の尻尾隠しに狂奔した。大半の下級将校はショックを受け、混乱はしていたけれど、この問題に関しては、くよくよ考えないという選択をした。
戦争とは結局、およそ90%が待ち時間である。
 これはアメリカの師団のある将校が日記に書いた言葉である。
 モーリス・ローズ准将は、配下の戦車兵・歩兵共同チームに徹底的な訓練を施した。
 戦場の視察にやってきたソ連軍の軍事使節団は、100万人の元赤軍兵士がドイツ国防軍の軍服を着て戦っている事実を知らされて、顔をこわばらせた。
 イギリスのチャーチル戦車やクロムウェル戦車は、ドイツのティーガー戦車にはほとんど歯が立たなかった。
最前線のアメリカ軍部隊は、処理すべき人数があまりに多かったので、捕虜の扱いがきわめてぞんざいだった。なにしろ、第八軍団だけで、3日間に7000人、第一軍が捕らえた捕虜は6日間で2万人に達した。
 ブルターニュ地方は、フランスにおけるレジスタンスの一大拠点だった。2万人の活動家がいて、7月末には3万人をこえた。うち1万4千人は武装していた。ドゴール派のFFIも、共産党のFTPもブラッドリー将軍の期待をはるかに上回る活躍を見せた。
 そして、ドイツ兵と寝た女性への報傷行為も、ブルターニュ地方のほうがはるかに苛烈だった。髪の毛をむりやり刈り取られたうえ、腰をけられて病院送りとなった。
 8月初め、ヒトラーは、撤退など論外だと言い出した。その内なるギャンブラー体質に、ドラマ性を好む性向が加わり、目の前の地図を眺めて、日々夢想にふけった。名ばかりの師図になっているのに、そうした現実をヒトラーは断じて受け入れようとはしなかった。ヒトラーは自分に都合のよいものしか目に入らなくなっていた。8月7日、ドイツ軍の反撃が開始された。攻撃が失敗したとき、ヒトラーは、こう言った。「クルーゲがわざとやったのだ。私の命令が実行不能であることを立証するため、クルーゲのやつが、敢えてこれをやったのだ」
 パットン将軍のアメリカ第三軍は補給の問題をかかえていた。
 アイゼンハワー最高司令官は、パリを素通りして、そのまま東フランスから一気にドイツ国境に迫るという考えだった。これにドゴール将軍が反発した。
パリを破壊させよというヒトラーの命令を実行する考えだったコルティッツ司令官に対して、前任司令官と参謀長が説得し、やめさせた。
 8月24日、フランス自由軍がパリに入った。アメリカ軍も8月25日朝、南方からパリに入った。パリにドゴール将軍が入るのが先か、共産党のレジスタンス蜂起が先に成功するか、息づまる努力争いが展開された。これはまさに戦後政治の先どりでした。
 1944年後、髪の毛を丸刈りにされたフランス人女性は2万人にのぼった。ドイツ兵と寝たことが理由である。
1944年夏の3ヵ月間にドイツ国防軍は24万の将兵が犠牲となり、20万人が連合軍の捕虜となった。イギリス、カナダなどの連合軍は8万人の犠牲者を出し、アメリカ軍の犠牲者は13万に近い。
 たしかにすさまじい戦争だったことがよく分かる、詳細な戦史です。よくぞここまで調べあげたものです。
(2011年8月刊。3000円+税)

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