弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2022年5月20日

文学で読む日本の歴史  田沼政権


(霧山昴)
著者 五味 文彦 、 出版 山川出版社

 田沼意次(たぬまおきつぐ)の台頭は、郡上(ぐじょう)一揆をきっかけとしていたことを初めて認識しました。
 田沼時代は九代将軍・家重の時代に始まりますが、八代将軍・吉宗の政権末期の政治的停滞を吉宗将軍の近くにいて見ていたというのです。
田沼時代の始まりは、明和6(1769)年に、側用人(そばようにん)から老中格になって始まった。意次は、御家人から側用人、老中になった初めての人物だった。
 美濃の郡上一揆は宝暦8(1758)年に始まったが、家重将軍の命により意次も評議に加わった。というのも、老中が郡上藩と結びついていたので、評議が混沌として収拾つかなかったから。ただし、このとき意次が目覚ましい動きをしたというのではない。郡上一揆は、百姓らの獄門、老中の罷免、若年寄の改易(かいえき)、郡上藩主の改易で収拾された。
 田沼政権の経済政策は、民間の経済活動を後押しし、その利益にもとづく運上金によって幕府財政を好転させようとするもの。また、田沼政権は、財政部門を担当する勘定方の権限を拡大して、長崎貿易を強化することを狙った。
 京の絵画として著名な伊藤若冲も、この田沼時代の画家なのですね。円山応挙(まるやまおうきょ)もそうです。
 百姓一揆が起きると、その経過を示す実録がつくられた。久留米藩大一揆(17万人参加)の顛末は、二つあるのですね。『筑後国郡乱実記』と『南筑国民騒動実録』。現代文で読めるのであれば、ぜひ読んでみたいです。
 そして、この実録をもとにして、講釈師が一揆物語を語ったのです。百姓一揆が『太平記』の世界に移され、その正当性が語られ、明君が一揆の主張に応じて仁政をしいて太平の国になるという物語が語られた。
 このような一揆物語を講釈する講釈師の存在が宝暦期に目立った。その中で、馬場文耕は郡上一揆を語り、幕政を悪政と批判したため、獄門に処されてしまった。
 百姓一揆と講釈師との関わりについては、まったく認識不足でした。
 薩摩の殿様である島津重豪(しげひで)は、蘭学に興味を示し、自ら長崎のオランダ商館に出向き、オランダ船に搭乗した。いやぁ、これまた知りませんでした。オランダ商館に殿様本人が出向いていたんですね...、驚きます。
 田沼時代に、天明の大飢饉が起きました。天明3(1783)年は、寒気が厳しく、長雨と冷気のため作物が生育しなかった。大風霜害によって、未曽有の大凶作となった。
 天明4(1784)年4月、田沼意次の子で若年寄の田沼意知(おきとも)が、城内で旗本に切りつけられ、まもなく死亡した。意次が、人脈を通じて党派を形成し、大奥を掌握し、幕閣の人事を独占し、次代にも継承されるようにしていったことへの不満とみられている。
 天明6(1786)年に将軍が亡くなると、田沼意次は最大の庇護者を失うと、失脚し、所領は没収された。
 村の文書が宝暦年間から全国的に残されているが、これは村が持続・存続するようになったからである。なーるほど、そういうことだったのですね。
 江戸時代の実情は、知れば知るほど奥が深いと思いました。
(2020年7月刊。税込3960円)

2022年5月14日

長崎丸山遊郭


(霧山昴)
著者 赤瀬 浩 、 出版 講談社現代新書

長崎の出島との関わりで、丸山遊郭で働く遊女たちは莫大な収入を得ていた。遊女たちは10歳から25歳ころまで働いたが、10両(100万円)の借金をかかえて商売をはじめ、運と実力があれば、揚代だけで年1000万円をこえて、一度に数百万円単位のプレゼントを受けとることもあった。遊女の収入は、家族・親戚そして出身地域まで潤していた。
遊女は、長崎の第一の「商品」だった。
長崎では、ほとんどの遊女は、実家と密に連絡をとり、遊女になったあとも、地域社会の構成員としての意識をもち続けていた。そして、奉行所をはじめ、都市をあげて遊女を保護し、嫌な仕事は拒むことも可能だった。現代の価値にして数千万円の収入を得る可能性もある遊女は、必ず長崎市中の出身者でなければならなかった。
長崎の遊女にとって、遊女奉公を終えると元の実家に戻り、結婚し、子を産むという、「普通の」生活サイクルに復帰するのが、ごくごく当たり前のことだった。
丸山遊郭は、1万坪ほどの空間に、最盛期は遊女1500人を擁していた。新吉原遊郭は2万8千坪、島原遊郭が1万3千坪ほどに比べると、やや狭い。
丸山遊郭では、外国人を客にとるという、他の遊郭には見られない独特の性格があった。それは、出島に居留するオランダ高官関係者と唐船で寄港する唐人。
唐人は、元禄時代に長崎に1万人も単身男性がいた。つまり、遊女たちの主客は唐人だった。唐人たちにとって、遊女の格式など、たいした意味はなかった。
長崎の住民は、大なり小なり、貿易に依存して生計を立てていた。
遊女には賢い者が多く、言葉も対応も巧み、化粧も上手で、美しい顔に見事な衣装を着けている。
14~15歳が妙齢、25歳になると廊を出る。30歳になると年寄り。
享保16(1731)年の1年間で、のべ2万人余の遊女が唐人屋敷に入り、銀高103貫690目(2億5千万円)に売り上げがあった。
遊女は、揚代の2割ほどの収入があったようだ。そして、収入源としてもっとも大きく魅力的だったのは、唐人とオランダ人からのもらいもの(プレゼント)だった。砂糖のほか、日用品、小物、装飾品をもらっていた。
遊女が出島のオランダ人の寵愛を得ると莫大な収入を得ることができた。そのため、遊女たちは、オランダ人の心に食い込もうと涙ぐましい営業活動をくり広げた。手紙がそのツールだった。
丸山遊女は、子を産む女性として認められていた。
出島のオランダ人のカピタンは30代、そのほかは10代、20代の男性。
円山遊郭の遊女は、女性であれば誰でもつとめられるような安易な稼業ではなかった。
遊女の取り分は、短時間の場合は4割、長時間だと3割だった。
長崎の丸山遊女の実際、そしてオランダ人・唐人との関わりについて、目を見開かされる新書でした。
(2021年8月刊。税込1320円)

2022年5月 1日

江戸のお勘定


(霧山昴)
著者 大石 学 、 出版 MdN新書

江戸時代の人々のお金をめぐる話がたくさん紹介されています。知らないことがたくありました。
切米(きりまい)は、いわば現物支給の給料。春(2月)、夏(5月)、秋(10月)の3回、4分の1、4分の1、2分の1の割合で支給された。お米は食べるためだけでなく、売却して現金を得るためのものでもあった。旗本の56%、御家人の87%が、この切米取だった。
切米取の下が扶持取(ふちどり)。男性は1日玄米5合食べるとして、毎月人数分の扶持米が給付された。扶持取の下に給金取という最下級の武士がいる。3両1人扶持が与えられたことから「三一侍(さんぴんざむらい)」と呼んだ。
芝居に出演する人気役者は高給取りで、大坂の女形(おんながた)の芳沢あやめは千両(1億2千万円)だった。市川團十郎など、千両をこえる役者が何人もいた。この給金は一度には支払われず、年3回に分けて渡された。
幕府は役者の給金を最高5百両(6千万円)とするように指示したが、守られなかった。
寺子屋の入学金(束脩。そくしゅう)は1朱(7500円)か2朱(1万5千円)。大きな商家は1分(3万円)をもたせることもあった。月謝は200文(6千円)くらい。
授業は朝の五ツ(8時ころ)に始まり、昼の八ツ(2時ころ)まで。授業の中心は読み書きが中心で、算盤(そろばん)もあった。寺子屋では一人ひとりのスピードにあわせて進むので、落ちこぼれはなく、卒業も本人の都合により、何年間という定めはなかった。
江戸の人々は、大量の白米を食べたので、脚気(かっけ)が多かった。ビタミンB1を含む米ぬかを落としてしまうから。また、江戸時代には新米は人気がなかった。古米だと水を吸って、かさが増えるので、これをお得(オトク)と受けとめる人が多かったから。
かけそばは、そばを鉢に入れて汁をかけたもの。盛りそばは小さなせいろに盛って、そうめんのように食べた。
にぎり寿司は、初めは屋台で食べられていて、現在の寿司の2倍から3倍は大きかった。マグロの大トロは江戸の人々の口に合わず、捨てられていた。
豆腐は超高級品だった。1丁が56文(1680円)から60文(1800円)もした。
江戸の町では、朝一番に納豆を売りに来た。
卵は、生卵もゆで卵も1つ20文(600円)で、庶民には、なかなか買えない高級品だった。卵を食べると悪いことが起きるとか、地獄に落ちるという人がいたけれど、値段がそれほど高くないことから、大いに売れた。
半畳(はんじょう)を入れるというのは、非難や野次ること。芝居見物のとき、半畳の敷物を観客が不満なときに舞台に投げ入れたことからきている。
相撲が土俵でたたかわれたのは元禄のころ。それまでは、相手を倒すまで勝負が続けられた。
武士でない人がお金を出して武士になった人を「金上侍(かねあげざむらい)」と呼んだ。農民は50両(600万円)で名字帯刀が許され、250両(3千万円)で武士になれた。1000両もあれば、大番組という役職につけた。藩財政の足しになった。
いやあ、世の中は知らないことだらけですね...。でも、それがあるので、みんな学問するし、楽しいんですよね...。
(2021年8月刊。税込891円)

2022年4月29日

幕末の漂流者・庄蔵


(霧山昴)
著者 岩岡 中正 、 出版 弦書房

幕末のころ、開国・通商を求めるアメリカ船モリソン号が幕府の「打払令」によって浦賀沖と薩摩で砲撃されて上陸を断念したというのは私も知っていました。天保8(1837)年のことです。
この本によると、このモリソン号には熊本・川尻出身の原田庄蔵が乗っていたのでした。庄蔵は26歳のとき大嵐で遭難してフィリピンに流れつき、そこから中国マカオに送られ、日本へ帰国しようとして砲撃されて断念したのでした。
このモリソン号には、尾張の音吉らをふくめて日本人が7人乗っていました。
日本に帰国できなかった庄蔵はマカオに戻り、あとでペリー提督の日本語公式通訳をつとめるアメリカ人宣教師S.W.ウィリアムズに日本語を教えた。さらに、聖書「マタイ伝」の初めての邦訳に協力している。
庄蔵が故郷の父宛に書いた手紙は、2年半後に家族に届いて、この本でも紹介されている。その後、庄蔵は香港に移住し、アメリカから来た女性と結婚し、洗濯屋・仕立屋として成功し、ゴールドラッシュにわくカリフォルニア州に苦力(クーリー)10人を連れていっている。
尾張の山本音吉の活躍については、『にっぽん音吉漂流記』(春名徹)がある。
庄蔵に知性教養と指導力があったことは間違いない。過酷な運命との出会いで、現実に身を処す合理主義的思考をもった人だと著者はみている。
宣教師ウィリアムズは庄蔵や音吉たちについて、次のように書いている。
「彼らは扱いにくい人たち。母国を深く愛していて、思いがけず国外追放者の立場になった事態をどうにも受け入れようとしない。でも、今では、この立場を最善にいかそうとしている。もはや日本に帰国する一切のチャンスがなくなってしまったという現状を理解し、自分たちなりに有用な人間になりたい一心でいる」
庄蔵自身は日本に帰国することができなかったが、写本の「マタイ伝」は誰かの手を経て、ついに日本に帰国した。
庄蔵は香港で仕立屋として成功し、3階建ての家を建て、アメリカ人の妻と男の子が1人いた。そして、日本人漂流者を日本に帰すことに尽力した。
庄蔵が聖書の翻訳に協力したということは、それだけの知的レベルにあったということ。
幕末の川尻には寺子屋が多くあったことも紹介されています。
幕末のころの日本人の知的レベルの高さを、証明する一つだと思いながら、漂流民の果たした役割の大きさに思い至りました。
著者は私と同じ団塊世代の学者であり、俳人です。早くロシアの侵略戦争とコロナ禍がおさまってほしいものですよね。
(2022年1月刊。税込1650円)

2022年4月10日

元禄の光と翳


(霧山昴)
著者 大下 武 、 出版 ゆいぽおと

尾張藩士100石(こく)取りだった朝日文左衛門は、今から300年前の元禄のころの人。将軍は五代綱吉から六代家宣(いえのぶ)。赤穂浪士の討入りがあり、富士山が大噴火した。
朝日文左衛門は芝居が大好きで、御城代組の同僚と一緒に何度も見物に出かけた。当時は、大きな社寺の境内に小屋がけで芝居が興行された。その日記に出てくる芝居見物はなんと143回にも及んでいる。
ところが、当時、藩士の芝居見物は原則として禁止されていた。なので、人目をはばかり、とくに両親の目をはばかって文左衛門は芝居見物に出かけている。途中の茶店で「なら茶」(軽食)を食べ、そこで編笠を借りて芝居小屋に潜り込んだ。また、魚釣りに行く振りをして芝居をみて帰宅すると、なぜか親にバレていて、こっぴどく叱られてもいる。それでもこりずに47歳で死ぬ前年まで芝居見物に行ったことが日記に書かれている。
1707(宝永4)年11月に富士山が爆発的に大噴火した。このとき、東京ドームの800個分が吹き飛んでいる。11月23日の噴火から翌12月9日に噴火が収まるまで、江戸で降り積もった灰は15センチだった。藤沢は25センチ、小田原は90センチ、御殿場1メートル、小山町の須恵では4メートルに達した。その結果、灰や砂で人々は気管支をやられ風邪をひきやすくなった。
「是れはこの 行くも帰るも風引きて 知るもしらぬも 大形はセキ」(これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関)
この噴火の後始末のため、幕府は諸藩に石高に応じて課税する「砂徐国役金(すなよけくにやききん)」を課した。全国一律に100石につき金2両。48万8700両が集まった。このうち6万両が川浚(かわさらえ)費用に使われて、残る42万両は幕府財政の赤字補填に充てられた。
関東郡代の伊奈半左衛門忠陣(ただのぶ)が復旧策の先頭に立って実行した。丹念な巡検踏査、村人の代表を会議に出席させるなどが、村人の信頼を勝ちとり、復興がすすんだ。いつの時代も先進的な偉人がいるものなのですね。つい中村哲医師を思い出してしまいました。江戸時代の人々の生活の一断面を知ることができる本です。
(2014年11月刊。税込1760円)

2022年3月31日

幕末社会


(霧山昴)
著者 須田 努 、 出版 岩波新書

江戸時代、とりわけ幕末のころの日本について改めて深く知ることのできた本です。
まず何より百姓一揆について認識を深めることができました。
天保11(1840)年の老中水野忠邦が画策した三方領知替え反対一揆については、藤澤周作が傑作『義民が駆ける』で詳しく紹介しています。ノンフィクション小説として、本当に読ませます。この本でも、史料にもとづいて、詳しく解説していて、この百姓一揆のすごさに改めて驚嘆しました。
山形から江戸まで百姓たちが何百人も集団で出かけていって「江戸愁訴」を繰り返したのです。4ヶ月のあいだに6回も実行しています。そして、彼らは百姓一揆の作法を厳しく遵守(じゅんしゅ)しました。あくまでも幕藩領主に柔順な百姓であることを強調し続けたのです。そのため、脇差し(刀)を持たず、鎌を一艇ずつ持参するだけでした。また、このとき、江戸愁訴のやり方については、江戸の公事師の指導を受けていたそうです。
そして、庄内の百姓たちは、近隣の諸藩にも手分けして愁訴しました。仙台藩には、蓑笠姿で、鍋米を背負った300人もの百姓が押しかけています。百姓たちは、飲酒、乱暴しないという申し合わせし、それを実行しました。5ヶ条の「掟」を定めています。
さらに、地元で参加者「何万人」という大規模集会を繰り返したのです。いわゆる主催者発表によると、7万人とか数万人規模といいますから、1ケタ少ないとしても、たいしたものです。
結局、この「三方領知替え」は中止され、百姓たちが勝ったのです。しかも、百姓たちから一人の処罰者も出さなかったというのですから、まさに完全勝利でした。
庄内の人々は、あくまで冷静、見事な戦略・戦術を組み立て、実行していったのです。その政治的力量はずば抜けています。江戸「登り」などに多大な費用が発生したのも、百姓でなんとか処理できたのでしょう。いやはや、すごいです。ぜひ、藤沢周平の小説を読んでみて下さい。感動そのもののノンフィクション小説です。
百姓一揆については、もう一つ、対照的なのが天保7(1836)年の甲州騒動。こちらは、今の山梨県全域で打ちこわしが発生した。騒動勢の中心は20代以下の無宿の若者たちであり、「悪党」と呼ばれた。「悪党」たちが、百姓一揆の作法を守らなかったことから、幕府は騒動勢の殺害命令を出し、それを受けて、村々は独自に自衛し、騒動勢を殺害した。結局、騒動勢は敗れ、500人も捕縛されて、死罪9人、遠島37人となったが、ほとんど牢死した。
本書によると、著者が調べた百姓一揆1430件のうち、武器を携行し使用したのはわずか14件のみ(1%未満)、そして、この14件のうち18世紀には1件だけで、残り13件のうち8件は19世紀前半に集中している。つまり、18世紀まで、百姓たちは百姓一揆において暴力を抑制していた。百姓にとって要求を実現するには、武装蜂起よりも、訴願のほうが有効だと認識されていたことが分かる。
この本は百姓一揆だけを論じたものではありません。国定忠治など博徒(ヤクザ)の生態も紹介されていますし(忠治の妻・一倉徳子についての興味深い紹介もあります)、また水戸の天狗党の乱について詳しい実情が紹介されていて、大変勉強になりました。興味深い本です、ご一読をおすすめします。
(2022年1月刊。税込1034円)

2022年3月23日

江戸の科学者


(霧山昴)
著者 吉田 光邦 、 出版 講談社学術文庫

3歳の孫がオモチャとして遊んでいたソロバンは、コンピューター万能の現代でもしぶとく生き残っています。少なくなりましたが、ソロバン塾も健在です。
ソロバンを発明したのは中国、日本には室町時代末期に入ってきた。読み書きソロバンは江戸時代、塾で教えられていた。
そして、東洋独特の計算機として、算木(さんぎ)がある。長さ5センチ、幅1センチの小さな板。縦に1本置くと1、2本置くと2を表す。6は横に1本、縦に1本と、丁字形に置いて数を表す。十位の数は、逆に横に置いて10を表す。位の上るにつれて、その置き方を変えるので、どんな数でも算木で示すことができる。また、算木を赤と黒に分けて、赤はプラス、黒はマイナスを表すことにした。これは知りませんでした。マイナスも表示できたんですね。
日本で盛んだった和算は、その根本が計算術、実用だった。数式や図形の本質を考えるものではない。和算は芸能に近いものだった。和算家は直感を重視した。帰納法は直感から生まれる。和算家は、すぐれた直感によって、西洋数学に匹敵する公式を発見した。神社や仏寺に算額を奉納したのも、芸術的な感覚からだった。
関孝和によって、和算は、その面目を一新し、大きな飛躍をとげた。
小野蘭山は、幕府の命によって、江戸から東北地方、また近畿・中部地方を旅行してまわった。73歳のときから5回も大旅行した。すごいですね、江戸の人々は、本当によく旅行しています...。
享保19(1734)年に生まれた麻田剛立は、太陽を観測して、黒点が移動すること、それは東から正面、さらに西へと30日で移動することを知り、このことから太陽の自転周期を知った。すごいですね、太陽の黒点をじじっと観測して、ついに太陽の自転周期まで解明するとは...。そして、暦書までつくったのでした。
杉田玄白たちの苦労も大変なものがありました。オランダ語を小さな辞書しかないなかで、自分たちで訳文を考え、つくり出していったのです。訳本が完成したとき、長崎にいたオランダ通訳たちに大きなショックを与えたのでした。それはそうでしょうね。オランダ語を独占・運用しているのは自分たちだけと思っていたでしょうから。これによって、オランダ研究・西洋研究が大きく促進されました。
杉田玄白は「九幸」と号した。九つの幸福をもったとの意味。一は太平の世に生きたこと。平和は大切です。二は天下の中心の江戸で成長したこと。田舎もいいものなのですが...。三は広く人々と交友できたこと。友だちは大切です。四は長寿を保ったこと。五は安定した俸禄を受けていること。六は非常に貧しくはないこと。大金持ちでなくてもいいので、そこそこお金があることは心の安定に欠かせませんね...。七は天下に有名になったこと。八は子孫の多いこと。結婚して子どもがもてて、さらに孫までできたら、もう言うことありませんよね。九は老人となってなお元気なこと。玄白は85歳で死亡しました。
江戸の科学者をあげるとき、平賀源内を抜かすわけにはいきません。残念なことに源内は獄死しています。源内は江戸時代に全国の物産会を6年間に5回も開いた。全国30余国から実に1300余種が収集・展示された。江戸時代って、こんなに交流が密だったんですよね...。源内は、小豆島の古代象マストドンの化石にも注目しています。電気(エレキテル)やアスベストも...。
江戸時代は幕府の鎖国政策によって、世界の流れから取り残された暗黒の時代だったというのは、まったくの誤解でしかないことがよく分かる文庫本です。
(2021年9月刊。税込1265円)

2022年3月18日

「朝日文左衛門の『事件』」


(霧山昴)
著者 大下 武 、 出版 ゆいぽおと

『元禄御畳奉行の日記』(神坂次郎、中公新書、1984年)で有名となった名古屋の朝日文左衛門の日記をもう少し詳しく知りたいと思って読みはじめました。この出版社(同じ名古屋市のゆいぽおと)からシリーズものとして刊行されています。この本は7冊目です。
朝日文左衛門の日記には、天候、災害(地震と富士山の噴火)、料理、芝居(大変な芝居好きでした。武士の芝居見物は禁止されていたのに、143回もみに行っています)、武芸、文人仲間のことから寺社詣(もうで)、葬儀、生涯4度の出張旅行まで、事細かく記されている。出張は上方で、2ヶ月に及んだが、京坂滞在記のうしろに名古屋の出来事も必ず書き込んでいる。
市井(しせい)の出来事、たとえば博奕(ばくち)、心中、密通、離婚、火事、ケンカなどを好奇心のおもむくまま書きつらねている。
本書では、名古屋城に泥棒が入った事件、藩主の生母「本寿院」の大変なスキャンダルが強く目を惹きます。
朝日文左衛門は、百石取り御城代組同心の家に生まれ、本丸・御深井丸(おふけまる)御番を5年間つとめたあと、御城代管轄下の「御畳奉行」となり、お酒を吞みすぎて亡くなる前年の享保2(1717)年暮れまで、ひたすら『鸚鵡(おうむ)籠中記(ろうちゅうき)』を書き続けた。
正徳5(1715)年8月、名古屋城の本丸に盗人が入った。本丸御殿は、ふだんは誰も出入りしない無人。将軍が上洛するときだけ使われていた。門の錠前が外されていたのに当番の武士たちは気がついていないから、前の番の人たちがかけ忘れたと考え見て見ぬふりをして、誰も報告しなかった。この発見の遅れのため、犯人は結局つかまらなかった。
そして、結局、城代組同心の山田喜十郎が責任をとる形で自殺してしまった。ただし、1年後に責任を問われ、閉門とされていた人々も晴れて無罪放免となった。
次に、藩主の生母「本寿院」のスキャンダルについて...。尾張徳川家では出生した人は、吉通を除いた21人はすべて6歳までに死亡した。
四代藩主吉通の生母である本寿院(下総)について、驚くべき紹介がされている。
「資性軽薄、美にして淫(いん)」
お城勤めに上がる前、近所の男と情を通じ、周りに知れると駆け落ちし、ほとぼりも冷めぬうちにのこのこと帰ってきた。
「すぐれて淫奔に渡らせ給う。江戸へ下りし者は、時にふれてお湯殿へ召され、女中に銘じて裸になし、陰茎の大小を知り給い、大いなれば喜ばせ給い、よりより当接給うこともありき。又、お湯殿にても、まま交合の巧拙を試み給う事ありしとなり」
四代藩主吉通(25歳で死亡)が酒色に溺れたのは、母親(本寿院)の悪いところだけを見習ったせいだ。
「本寿院様、貧淫(どんいん)絶倫(ぜつりん)なり。或いは寺へ行きて御宿し、また昼夜あやつり狂言にて諸町人役者ら入り込む」
「夫」であった綱城が48歳で亡くなったとき、本寿院はまだ35歳。幕府(老中)から注意を受けたのは38歳ころ。1739(元文4)年に75歳で亡くなっているから、40年間も独り身の躰(からだ)を持て余していたことになる。
本寿院が亡くなった同じ年に七代藩主宗春は幕府から謹慎を命じられている。
名古屋藩につとめる奉行の一人が長く個人として日記をつけていて、それがそっくり残っているなんていうのも珍しいですよね。この本は、書かれていることに関連する歴史的事実についての考察もあり、当時の社会の実情がよく分かって大変勉強になりました。
(2019年10月刊。税込1760円)

 チューリップの花が咲きはじめました。これから1ヶ月ほど、庭のあちこちで咲いてくれます。ジャガイモの芽も地上に出ています。黄水仙が咲き終わって、首の長い白水仙が咲いています。
 ロシアのテレビに「戦争反対」を手にした勇敢な女性が登場したのを見て、大いに励まされました。やはり、戦争反対の声を上げることは大切なんですよね。一刻も早くロシアは撤退して、平和を取り戻してほしいものです。

2022年2月16日

女と男の大奥


(霧山昴)
著者 福田 千鶴 、 出版 吉川弘文館

江戸城の奥深く、女性だけでなりたっている(と思っている)大奥の実相を明らかにした本です。実は、大奥にも二つあって、いずれもときに男性も出入りすることがあり、また、9歳まで(当初は7歳)の男の子なら出入りできたのでした。身内の子どもを引きとって大奥で育てていた女性もいたようです。これにも驚きました。
奥方(おくがた)法度(はっと)は、男性に向けた規制令であり、奥方イコール女性ではない。
来客を迎えて応接し、儀礼を営むのが表御殿。表向(おもてむき)。当主とその家族が日常生活を送るのが奥御殿、奥向(おくむき)。将軍の御座之間(常の御座所)のある奥(中奥)の本質は奥向であり、奥向(奥御殿)の表方。
表向に勤務する番方(ばんかた。軍事職)や表向の役人は、原則として将軍の御座之間のある奥向に入ることは許されなかった。男が将軍に仕える奥(中奥)は表向ではない。男であっても表向の役人は奥(中奥)には入れなかった。
大奥に老女はいないとする人もいるが、老女と年寄は同義で、両様で呼ばれていた。
火事という生死を分ける緊急事態であっても、男人禁制は厳格に遵守するべき御法だった。
徳川将軍家出身の妻は、一門としての立場を利用して、さまざまな願いごとを将軍に聞き入れてもらうという、内証行為を登城した大奥で行っていた。
大奥では年中行事化した祈祷(きとう)があった。なので、大奥には継続的に男性の宗教者が出入りしていた。また、奥医師も日常的に大奥に出入りを許されていた。実は、大奥の女中には、奥医師の関係者も多く、大奥女中と強いコネクションをつくっていた。
大奥に奉公する女中の行動を規制する法令として女中法度が大老・老中主導によって1670年に制定された。これは、将軍の血統維持のためだけではなく、大奥の女性たちの意向が将軍の意思として表向に影響を与えないようにする方策でもあった。
江戸城大奥に男性が出入りすることは避けられなかった。儀礼、普請(ふしん)、掃除、病気の診断、重い荷物の運搬、火事や地震のときの非常時の場面で、男性が大奥の中に入ることは避けられなかった。男人(なんにん)禁制という実態はなかった。
大奥は、女と男の協業によって運営されていて、必要なときには男性が錠口の内部に入ることもできた。ただし、男性は必ず複数で行動した。
江戸時代、しがない庶民の妻を「奥さま」と呼ぶことは許されていなかった。
江戸城の大奥における生活の一端を知ることができて、大変勉強になりました。大奥についての間違ったイメージを訂正することができる本です。
(2021年7月刊。税込1870円)

2022年2月12日

江戸の旅行の裏事情


(霧山昴)
著者 安藤 優一郎 、 出版 朝日新書

コロナ禍のせいで、私はこの2年間、福岡県の外へ一歩も出ていません。本当は、国内どころかフランスにも旅行するはずだったのですが...。
日本人は昔から旅行が大好きでした。それは戦国時代の宣教師たちのレポートでも明らかです。江戸時代は治安が良く、道路網も旅館も整備されましたから、殿様の参勤交代だけでなく、庶民も連れだって旅行に出かけていました。それは伊勢であったり、温泉であったりしました。成田山詣でには講が組織されていました。
伊勢参宮には御師(おんし)が活躍した。御師は、祈祷に携わる神職ではあるものの、営業部員ないし、旅行代理店のような仕事もしていた。800家を数えた。
御師と講が団体の参詣宮を増加させ、ひいては江戸の旅行ブームを牽引した。
また、江戸後期には、身分の上下にかかわらず、湯治(とうじ)つまり温泉旅行がブームになっていた。湯治は7日を一廻りと数え、三廻りするのが一般的だった。東は熱海・箱根、西は有馬の人気が高かった。
女性も旅行に出かけていた。関所破りも珍しくはなかった。
江戸も旅行の対象となり、『江戸名所記』や『江戸買物独案内』が刊行されて喜ばれていた。
吉原は人口8千人のうち遊女は2千人。吉原には男女を問わず、昼も夜も全国からの観光客でにぎわい、観光客相手の飲食業が盛んだった。
そして、江戸では、全国の寺社が出開帳(でかいちょう)を企画した。
私は最近『弁護士のしごと』という冊子を刊行しましたが、そのなかで、江戸の庶民がいかに旅行を楽しんでいたか、また、男女を問わず旅日記を書いていたことを書きつづったのですが、これが予想した以上に驚きをもって受けとめられ、大好評でした。
江戸時代の250年間というのは庶民にとって決して暗黒の時代ではなかったのです。ほとんど戦争のない、平和な時代を庶民はそれなりに楽しく過ごしていたのだと私も今では考えています。
(2021年11月刊。税込891円)

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