弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2022年9月27日

氏名の誕生


(霧山昴)
著者 尾脇 秀和 、 出版 ちくま新書

 結婚しても姓を変えたくない人が少なくありません。それなら、江戸時代までの日本のように、つまり明治以降の日本の制度にこだわることなく、夫婦別姓を認めて何の不都合もありません。
 自民党の保守派が夫婦別姓に対して頑強に抵抗してきましたが、実は、その根元は勝共連合=統一協会の教義にあることが判明しました。でも、韓国では、昔も今も夫婦は別姓なのです。典型的な「反日」団体の言いなりに動いてきた自民党の保守強硬派は統一協会糾弾の嵐のなか、ダンマリを決めこみ、ひらすら嵐の通り過ぎるのを待っているばかりのようです。おぞましくも、いじけない人々です。
 江戸時代、名前が変わるのはフツーのことで、一生同じ「名前」を名乗る男は、むしろいない。江戸時代の名前は、幼名を除いて、「親が名づけるもの」ではない。改名が適宜おこなわれ、「かけがえのないもの」でもない。現代日本の常識は江戸時代には、まったく通用しない。
 江戸時代の人名には、生まれた順番とはまったく無関係なほうが、圧倒的に多い。甚五郎、友次郎といっても、どちらも長男でありうる。五男でも二男でもないのがフツー。
 幼名や成人名に、父祖の名を襲用することが多い。「金四郎」を父と同じく子どもが名乗るとき、四男ではない。「団十郎」も「菊五郎」も十男や五男であることは求められていない。
 江戸時代の人間は、幼名、成人名、当主名、隠居名の四種類の改名を経るのが一般的。幼名は親などが名づけるが、成人(15歳か16歳が多い)になると、自ら名を改める。このほか、一般通称としての名前に法体名(ほったいな)がある。僧侶や医者、隠居の名前。宗春、旭真、良海、洪庵など。江戸時代の医者は法律で法体であるのが通例で、長庵(ちょうあん)、宗竹、玄昌などと名乗った。
 江戸時代の大名の「武鑑」に「松平大隅守斉興」、「大井大炊頭利位」、「青山下野守忠裕」とあるとき、最後の「斉興」、「利位」、「忠裕」を「名乗(なのり)」と呼ぶ。この「名乗」は「名前」としては日常世界では使わない。江戸時代の書判には、「名乗」の帰納字を崩したものを用いる習慣が広がっていた。書判はもともとは草書体で本人が自書したものを言ったが、江戸時代中期以降は、印判(ハンコ)を用いることが広がった。江戸時代は印形を重視し、そして多用した時代である。この印を捺す行為によって、初めて、その文書に効力が発生する。たとえ自署であっても、無印であれば、それは後日に何の効力ももたない。ちなみに、江戸時代は朱は用いず、もっぱら黒印である。苗字や通称を印文にはまず使用しない。印文は多くが篆書(てんしょ)であり、判読が困難。他者に読ませることはほぼ意識されていない。
 苗字は武士から一般庶民まで持っている。ふだんは通称だけを名前とし、自らはこれに苗字をつけたものを「名前」としては常用しない。すなわち、一般庶民にも代々の苗字がないわけではない。それは名乗や本姓と同じように、設定があっても使わないものだった。
 よく、江戸時代まで一般庶民には名前(姓)がなかったので、明治時代になって戸籍制度ができて登録しなくてはいけなくなったので、あわてて、まにあわせの名前を考え出して届け出たと言われますが、これはまったくの間違いだということです。「姓」はあったけれど、自ら名乗るものではなかったのです。
一般の百姓にとって、苗字(姓)は自ら名乗るものではなく、他人から呼ばれるものとして用いられた。
 「姓名」、とくに「名」を呼ぶのを遠慮するのを「実名忌避」と呼ぶ。
 江戸時代の著名な豪商である鹿島屋久右衛門は「廣岡」、湖池屋善右衛門は「山中」という苗字を持っていた。屋号と苗字は別のもの。苗字は血縁者間で共有するが、屋号は血縁者間では必ずしも共有しない。
 ところが、江戸時代でも朝廷社会では、一般の常識とは異なる常識が通用していた。二つの常識が並行して存在していたのだ。
 江戸時代の庶民にとって、苗字は自らの人名を構成する必須要素ではない。それは、いちいち使用するものではなく、古くから代々の苗字を設定しているのもフツーだった。
苗字公称許可は特別な価値をもっていた。明治3年9月、苗字公称が自由化された。それが、突然、自由化されてしまった。
 では、なぜ、政府がそうしたのか。「国家」にとっての「氏名」とは、「国民」管理のための道具だった。つまり、「国民」に徴兵の義務を課す道具だった。徴兵制度を厳格に実行するため、国民一人ひとりの「氏名」の管理・把握を徹底する必要があった。
 要するに、徴兵事務という政府側の都合だった。そして、そのため、氏名は一生涯、最初の名前は変えないものだという新しい「常識」が誕生し、今日に至っている。
 氏名についての「常識」の変遷がよく分かりました。
(2021年5月刊。税込1034円)
 
 祝日、サツマイモを掘りあげました。地上部分は縦横無尽に葉と茎がはびこっていますので(これがかえって悪いかなと心配しました)、地下のイモはどうだろうかと思ってスコップを入れてみると、出てきたのは、なんと細いものばかり...。昨年と同じ状況で、小粒のイモばかりでした。植えつけを研究してみます。
 日曜日に、アルミホイールにくるんで1時間、オーブンで焼いて食べてみました。黄色い果肉は、ねっとりとまあまあ美味しく食べられました。ほくほく型ではありません。家人からは甘味が足りないから売り物にはならないと不評でした。
 玄関脇の青い朝顔は終わりました。ピンクのフヨウが咲いています。
 そろそろチューリップを植える季節です。サツマイモのツルや葉を穴を掘って埋め込みました。畳一枚分の作業は大変です。リコリスの花の第2波が咲いてくれました。

2022年8月13日

土砂留め奉行


(霧山昴)
著者 水本 邦彦 、 出版 吉川弘文館

奉行と下役(したやく)、中間(ちゅうげん)、荷物運びの人足(にんそく)などからなる10人前後の武士たちの一行(集団)があった。「土砂留め(どしゃどめ)奉行」とか「土砂留め役人」と呼んでいる。この奉行が巡回するのは、その藩の領地だけでなく、他の藩内にも足を運んでいた。
奉行による村々巡見の本務は、普請(ふしん)場所や新たな崩れ所の見分・点検だった。
奉行を受け入れた側の床屋の日記が丹念に掘り起こされています。スミの毛筆で書かれた「日記」を丁寧に読みといていく作業は本当に骨の折れるものだと思います。慣れたら、草書・くずし字ばかりの「日記」であっても、さっと読めるようになるものなのでしょうか...。アラビア文字をタテにしたような、モンゴルのパスパ文字のような、草書体の文章をすらすらと読めたら、どんなにいいことでしょうか...。
高槻藩の土砂留め奉行だった人の日記も解読されています。奉行の巡回は、3ヶ国7郡と広範囲に及んでいて、しかも、京都、大坂の町奉行所に出向くことも重要な業務の一つだった。この制度は、大名(領主)の家臣を幕府主導の土砂留め行政の奉行(役人)と位置付けて事業を担わせた。
土砂留めの管理が土砂留め奉行の支配下に入ったことにより、工事現場はもちろん、周辺エリアの現状変更についても、その村の領主の専権ではなくなった。
工事に必要な諸経費は村々や当該村の領主に依頼していた。つまり、地元では、工事に力を入れれば入れるほど、負担が増えることになった。
17世紀に急速に進行した新田開発は、自然的環境に加重して災害を激増させる人為的要因だった。魚肥(金肥)以前の農業における草や柴の役割は大きく、その確保のためには、田畑面積の数倍から十倍にも及ぶ草山が必要だった。
江戸時代においても土砂災害対策や禿げ山対策が行われていたこと、そのため江戸幕府が土砂留め奉行をおくなどして、それなりに機能していたことを知ることができました。
江戸時代を日本史のなかの暗黒史とみるのは、まったくの誤解だと、つくづく今、考えています。
(2022年6月刊。税込1700円)

2022年8月 7日

江戸藩邸へようこそ


(霧山昴)
著者 久住 祐一郎 、 出版 インターナショナル新書

江戸の市街地の7割は武家地が占め、残る3割を町人地と寺社地が半分ずつ分けあっていた。武家地の55%は大名屋敷。江戸の市街地全体の4割弱を大名屋敷が占めていた。
屋敷は大名家に与えられるもので、領地に付随するものではない。江戸藩邸の持ち主が変わることは頻繁だったが、それは国替えとは無関係。
江戸藩邸に暮らしていたのは、大名とその家族だけではない。一つの大名家につき、数百から数千人の家臣が働いていた。
江戸で勤務する家臣には2種類あって、国元から単身赴任でやってくる勤番と、家族とともに常時江戸で暮らす定府(じょうふ)があった。
江戸の武家人口は60万人と推定されている。各藩の財政支出のうち6割以上が江戸で費やされていた。大名は複数の江戸藩邸をもっていた。上屋敷(居屋敷)は江戸城に近く、江戸滞在中の大名が住む、大名の正室(妻)もここで暮らし、藩の行政機構もここに置かれた。中屋敷は上屋敷のスペアで、隠居した大名や大名の世継ぎが暮らした。下屋敷は、江戸城から離れたところにあり、上屋敷が火事にあったときの避難場所となった。
幕府からの拝領屋敷であるが、実態は貸与であって、幕府から屋敷替えを命じられたら、明け渡さなければならなかった。屋敷の持ち主同士での交換もあり、相対替(あいたいが)えといった。これは事実上の売買だった。
松平伊豆守家のように、幕府の要識についた譜代大名は頻繁に屋敷替えをしていた。
松平伊豆守の谷中下屋敷のうちには、長屋が24棟も立ち並んでいた。そして、191年間に42回も火事にあっている。4年半に1度という頻度だ。
藩主の起床時間は通常なら午前7時半ころ。しかし、予定があるときには、午前4時半ころや午前5時半ころには起床した。ええっ、これって早すぎますよね...。藩主の起床時間は、家臣たちの仕事もあるので、好き勝手に早起きして、動きまわることはできなかった。
食事は、1日3食。午前9時半ころ、着替える。それも、近習たちにしてもらう。
江戸城への登場行列で混雑が予想されるときには、いつもより早く屋敷を出る。老中は、午前10時に登城して、午後2時には退出した。藩主の就寝中は、当番の近習が不寝番をつとめた。
江戸藩邸には、武士だけでなく町人(商人)や百姓も出入りした。吉田藩の江戸藩邸に出入りする御用達商人のなかで特別扱いされたものを「御三階下町人」と呼ぶ。そのメンバーは12人前後で推移した。その多くは、藩財政の不足を補うために才覚金(御用金)を負担していた。別に、江戸を代表する米問屋の兵庫屋弥兵衛も特別扱いを受けていた。このほか、多くの町人が出入りしていて、「惣出入町人」と呼んでいた。
江戸藩邸の吉田藩士の半分は定府藩士だった。藩邸内の居住者は1000人を優に超えていた。吉田藩には家老が常時4人か5人いて、そのうちの2人が江戸家老をつとめた。
江戸における藩の役職のなかで、特に重要なポストが「留守居(るすい)」だ。留守居は江戸城に登城して幕府との折衝、上書の提出を担当し、他藩の留守居と交流して情報交換した。外交官の役割を果たした。
江戸時代も後期の吉田藩の江戸藩邸には250人前後の武家奉公人が働いていて、まとめて「中間(ちゅうげん)」と呼んでいた。給料は1年で4両ほど。家臣の武士が藩を抜け出して浪人になることを脱藩といったが、実は脱藩者は多かった。60年のあいだに184件の脱藩者が出たと記録されている。
江戸藩邸で働く奥女中は、20人から30人ほどいたようだ。奥女中は、一代限りか年季奉公だった。奥女中の給金は、最高の老女が150万円、最低が15万円。10代半ばで採用され、10年間の年季を終えて20代の半ばで夜下がりした。
江戸藩邸の実際がよく調べてあって、イメージをつかむことができました。

(2022年6月刊。税込880円)

2022年7月15日

イワシとニシンの江戸時代


(霧山昴)
著者 武井 弘一 、 出版 吉川弘文館

イワシとニシンは、江戸時代の社会を支える重要な自然だった。
えっ、ええっ、どういうこと...。イワシもニシンも大衆魚とは聞いていたけれど...。
江戸時代の後期、百姓にとって、肥料の確保は切実な悩みの種だった。江戸時代、中期以降は自給肥料が足りなかった。このころの自給肥料とは、人糞、厩肥(きゅうひ)、草肥などの総称。
イワシが生(ナマ)で食べられる時間は、きわめて短い。また、イワシは腐りやすいので、乾燥して干物になった。干されたイワシは値が安いうえに肥料として作物に与える効果が高かった。それに大量にとれるので、イワシの価格は安い。
干鰯(ほしか)は、水揚げされた生の鰯をそのまま海沿いに敷きつめて、天日で乾かすだけでつくった。
もうひとつは、〆粕(しめかす)。はじめにナマのイワシを窯で煮たあとに油を搾る。その脂を絞ったあとののこり滓(カス)が〆粕。こちらは、干鰯より価格が高い。
このように、イワシもニシンも江戸時代、日本の農業を支える肥料として活用されていたのですね。
近世の村むらが幕府に国を単位として連帯して訴えた運動を国訴(こくそ)という。肥料価格の高騰・菜種・木綿の自由取引を求めた。文政2(1819)年の幕府の物価引下げ令を契機として、摂津・河内の619ヵ村幕府領村むらの大坂町奉行所に干鰯値下げなどの訴願を起こし、この訴願が先導役となって、文政6~7年の木綿・菜種国訴につながっていった。
国訴というコトバを初めて聞きました。歴史も、まだまだ知らないことだらけです。世の中は未知なるものばかりなんですよね...。
(2022年2月刊。税込2640円)

2022年7月 6日

災害と復興、天明3年、浅間山大噴火


(霧山昴)
著者 嬬恋郷土資料館 、 出版 新泉社

嬬恋村(つまごいむら)と言えば、キャベツの産地として日本に名をとどろかせていますよね。高原キャベツの産地として断トツの日本一です。1933(昭和8)年にキャベツの初出荷がなされたといいますから、古いと言えば古いわけですが、江戸時代からキャベツを栽培していたわけではありません。私もキャベツは大好きですが、ビタミンUもビタミンCもたっぷり含まれていて、美容と健康にいいのですよね。
村の人口は9500人。村の3分の2は、上信越高原国立公園に含まれている。
天明3(1783)年に3ヶ月に及ぶ浅間山大噴火によって村は壊滅的は被害を受けた。浅間山は、今もたびたび噴煙をあげる活発な活火山。
浅間山の大噴火による被害者は1490人以上、流失倒壊家屋は1300戸以上。
そして、この災害は、天明の飢饉を深刻化させた要因ともなっている。
山の中腹にある観音堂まで逃げ上がった93人だけが助かったと言われ、現在15段の石段があるが、実はかつて150段ほどあったのが、大半は埋もれてしまった。石段の最下段で、逃げようと石段を駆け上がろうとして2人の女性の遺体が発見されている。
被災した家屋の建物から、ガラス製の鏡が出土しているというのには驚きました。当時は大変に貴重なものだったはずですが、いわば庶民の家にあるのが見つかったのですから...。
ここらあたりでは、馬を使って物資を運ぶのを仕事とする人々が大勢いたようです。それで、馬を200頭以上も飼っていたとのこと。すごいですよね、これって...。
江戸幕府から被災地の現場見まわりとして派遣された人々たちは、真面目に仕事をしていたようです。藩としては熊本藩が指名されています。
村を再生させるため、夫を亡くした女と妻を亡くした男を結婚させる、親を亡くした子と亡くした親を養子縁組させ、家族の再生が図られた。こうして再婚者7組の集団結婚式が挙行された。そういうこともあるんですね...。
大変幅が広く、また奥行きの深さも実感できる本でした。
(2022年3月刊。税込1980円)

2022年6月 5日

北斎


(霧山昴)
著者 大久保 純一 、 出版 岩波新書

大宰府の国立博物館で北斎の描いた絵をみてきました。すごいですね、まさしく天才です。アメリカの『ライフ』が、「この千年に偉大な業績をあげた世界の人物100人」の中に、日本人では北斎だけがあげられたとのこと。ええっ、そ、そうなの...と驚いてしまいます。明治以降の日本人には偉大な業績を上げた人が誰もいないなんて、少しばかり気落ちしてしまいますよね...。
とはいっても、江戸時代の北斎がヨーロッパ絵画に与えた影響は絶大なるものがあります。フランスではジャポニズムです。かのゴッホだって、浮世絵をたくさん描きこんでいますしね...。
「写楽」と違って、北斎は生年も没年も明確です。北斎は、宝暦10(1760)年に江戸は本所(ほんじょ)の割下水(わりげすい)に生まれた。幼いころから絵を描いていたようですが、まずは版木(はんぎ)印刷のための版木を彫る職人(彫師)の修業を始めた。次に、貸本屋の小僧として働いたとのこと。そして19歳から絵師の道に踏みだした。
初めは勝川春章。浮世絵です。役者の似顔絵ですね。これは、映画俳優のブロマイド写真のようなものです。そして、名所絵・物語絵、さらに武者絵・子どもとすすんでいきます。このころは、黄表紙などが売れていましたから、その挿絵を描くようになります。
北斎は油絵風の絵も描いています。それまでの日本絵画にはない表現をふんだんにとり入れたのです。
『北斎漫画』は有名です。これはマンガ本ではありません。絵を学ぶときの手本としてなる絵を北斎は大量に描いたのでした。絵手本の傑作というほかありません。よくぞ、ここまで人間の姿・形・姿勢(ポーズ)、表情をうつしとったものです。驚嘆するほかない傑作です。
北斎は安藤広重とは画風が違う。たとえば、広重は、風景のリアリティを売り物にした。
北斎は広重と違って、現実の風景を忠実に再現することにまったくこだわらない。
それにしても、富嶽・三十六景の「神奈川沖浪裏」は衝撃的でした。
千年に1度の天才画家・北斎です。たまに目を洗うのもいいものです。
(2018年12月刊。税込1100円)

2022年5月29日

阿蘭陀通詞


(霧山昴)
著者 片桐 一男 、 出版 講談社学術文庫

オランダ語を通訳する人々を紹介した本(文庫)です。南蛮人と紅毛人を使い分けていたなんて、本当でしょうか。ポルトガル人は南蛮人で、オランダ人は紅毛人です。いったいどんな違いがあるのでしょうか。
来日した南蛮人は日本語の習得に努め、布教と貿易に従事した。そして日本で南蛮文化は開花した。ところが江戸幕府は、一転して禁教と密貿易を厳禁したため、来日したオランダ商人には日本語の習得を許さなかった。それで日本人の通訳(通詞)が活躍するようになった。
江戸時代、通詞と通事は書き(使い)分けていた。通詞はオランダ語の通訳官で、通事は唐通事で、中国語の通訳官をいう。通詞も通事も、身分は長崎の町人で、通訳官と貿易官を兼ねて務めていた町役人。そして、長崎通詞も長崎通事という役職名は存在しなかった。長崎に外国船が姿を見せると、通詞の船が接近し、どこの国から来た船なのかを「聞き分ける」力が要求された。オランダから来た貿易船だと判明すると、たちまち「宝船」だとして歓迎された。
通詞の職階は、大通詞、小通詞、稽古通詞、大通詞助役、小通詞助役、小通詞並、小通詞末席...。そのほか、内通詞。売買業務を手伝って口銭を得ていた数十人の集団。
商館長ブロムホフは、結婚まもない妻チチアと、1歳5ヶ月の長男ヨハンネスを連れ、乳母や召使いも一緒に1817年8月に来日したが、婦女子の入国が許されなかったので、泣く泣く家族は送り返した。独身となったブロムホフは、丸山から傾城(遊女)を招いていた。その請求書が残っている。なんと1ヶ月のうち27日だ。つまり商館長たちの出島での生活は、ずっと、そのそばに遊女たちがいたということ。出島で同棲するのも許されていた。湯殿、台所つきの遊女部屋が出島にあったことが絵図面で確認できる。
商館長カピタンの江戸参府は、166回にのぼる。カピタンの江戸の定宿は長崎屋で、宿泊逗留は21日を基本としていた。通詞は、日本語に翻訳して太陽中心説を紹介し、ケプラーやニュートンの天文学、ニュートン物理学を吸収して解読した。すごい人たちがいたのですね...。
(2021年7月刊。税込1518円)

2022年5月20日

文学で読む日本の歴史  田沼政権


(霧山昴)
著者 五味 文彦 、 出版 山川出版社

 田沼意次(たぬまおきつぐ)の台頭は、郡上(ぐじょう)一揆をきっかけとしていたことを初めて認識しました。
 田沼時代は九代将軍・家重の時代に始まりますが、八代将軍・吉宗の政権末期の政治的停滞を吉宗将軍の近くにいて見ていたというのです。
田沼時代の始まりは、明和6(1769)年に、側用人(そばようにん)から老中格になって始まった。意次は、御家人から側用人、老中になった初めての人物だった。
 美濃の郡上一揆は宝暦8(1758)年に始まったが、家重将軍の命により意次も評議に加わった。というのも、老中が郡上藩と結びついていたので、評議が混沌として収拾つかなかったから。ただし、このとき意次が目覚ましい動きをしたというのではない。郡上一揆は、百姓らの獄門、老中の罷免、若年寄の改易(かいえき)、郡上藩主の改易で収拾された。
 田沼政権の経済政策は、民間の経済活動を後押しし、その利益にもとづく運上金によって幕府財政を好転させようとするもの。また、田沼政権は、財政部門を担当する勘定方の権限を拡大して、長崎貿易を強化することを狙った。
 京の絵画として著名な伊藤若冲も、この田沼時代の画家なのですね。円山応挙(まるやまおうきょ)もそうです。
 百姓一揆が起きると、その経過を示す実録がつくられた。久留米藩大一揆(17万人参加)の顛末は、二つあるのですね。『筑後国郡乱実記』と『南筑国民騒動実録』。現代文で読めるのであれば、ぜひ読んでみたいです。
 そして、この実録をもとにして、講釈師が一揆物語を語ったのです。百姓一揆が『太平記』の世界に移され、その正当性が語られ、明君が一揆の主張に応じて仁政をしいて太平の国になるという物語が語られた。
 このような一揆物語を講釈する講釈師の存在が宝暦期に目立った。その中で、馬場文耕は郡上一揆を語り、幕政を悪政と批判したため、獄門に処されてしまった。
 百姓一揆と講釈師との関わりについては、まったく認識不足でした。
 薩摩の殿様である島津重豪(しげひで)は、蘭学に興味を示し、自ら長崎のオランダ商館に出向き、オランダ船に搭乗した。いやぁ、これまた知りませんでした。オランダ商館に殿様本人が出向いていたんですね...、驚きます。
 田沼時代に、天明の大飢饉が起きました。天明3(1783)年は、寒気が厳しく、長雨と冷気のため作物が生育しなかった。大風霜害によって、未曽有の大凶作となった。
 天明4(1784)年4月、田沼意次の子で若年寄の田沼意知(おきとも)が、城内で旗本に切りつけられ、まもなく死亡した。意次が、人脈を通じて党派を形成し、大奥を掌握し、幕閣の人事を独占し、次代にも継承されるようにしていったことへの不満とみられている。
 天明6(1786)年に将軍が亡くなると、田沼意次は最大の庇護者を失うと、失脚し、所領は没収された。
 村の文書が宝暦年間から全国的に残されているが、これは村が持続・存続するようになったからである。なーるほど、そういうことだったのですね。
 江戸時代の実情は、知れば知るほど奥が深いと思いました。
(2020年7月刊。税込3960円)

2022年5月14日

長崎丸山遊郭


(霧山昴)
著者 赤瀬 浩 、 出版 講談社現代新書

長崎の出島との関わりで、丸山遊郭で働く遊女たちは莫大な収入を得ていた。遊女たちは10歳から25歳ころまで働いたが、10両(100万円)の借金をかかえて商売をはじめ、運と実力があれば、揚代だけで年1000万円をこえて、一度に数百万円単位のプレゼントを受けとることもあった。遊女の収入は、家族・親戚そして出身地域まで潤していた。
遊女は、長崎の第一の「商品」だった。
長崎では、ほとんどの遊女は、実家と密に連絡をとり、遊女になったあとも、地域社会の構成員としての意識をもち続けていた。そして、奉行所をはじめ、都市をあげて遊女を保護し、嫌な仕事は拒むことも可能だった。現代の価値にして数千万円の収入を得る可能性もある遊女は、必ず長崎市中の出身者でなければならなかった。
長崎の遊女にとって、遊女奉公を終えると元の実家に戻り、結婚し、子を産むという、「普通の」生活サイクルに復帰するのが、ごくごく当たり前のことだった。
丸山遊郭は、1万坪ほどの空間に、最盛期は遊女1500人を擁していた。新吉原遊郭は2万8千坪、島原遊郭が1万3千坪ほどに比べると、やや狭い。
丸山遊郭では、外国人を客にとるという、他の遊郭には見られない独特の性格があった。それは、出島に居留するオランダ高官関係者と唐船で寄港する唐人。
唐人は、元禄時代に長崎に1万人も単身男性がいた。つまり、遊女たちの主客は唐人だった。唐人たちにとって、遊女の格式など、たいした意味はなかった。
長崎の住民は、大なり小なり、貿易に依存して生計を立てていた。
遊女には賢い者が多く、言葉も対応も巧み、化粧も上手で、美しい顔に見事な衣装を着けている。
14~15歳が妙齢、25歳になると廊を出る。30歳になると年寄り。
享保16(1731)年の1年間で、のべ2万人余の遊女が唐人屋敷に入り、銀高103貫690目(2億5千万円)に売り上げがあった。
遊女は、揚代の2割ほどの収入があったようだ。そして、収入源としてもっとも大きく魅力的だったのは、唐人とオランダ人からのもらいもの(プレゼント)だった。砂糖のほか、日用品、小物、装飾品をもらっていた。
遊女が出島のオランダ人の寵愛を得ると莫大な収入を得ることができた。そのため、遊女たちは、オランダ人の心に食い込もうと涙ぐましい営業活動をくり広げた。手紙がそのツールだった。
丸山遊女は、子を産む女性として認められていた。
出島のオランダ人のカピタンは30代、そのほかは10代、20代の男性。
円山遊郭の遊女は、女性であれば誰でもつとめられるような安易な稼業ではなかった。
遊女の取り分は、短時間の場合は4割、長時間だと3割だった。
長崎の丸山遊女の実際、そしてオランダ人・唐人との関わりについて、目を見開かされる新書でした。
(2021年8月刊。税込1320円)

2022年5月 1日

江戸のお勘定


(霧山昴)
著者 大石 学 、 出版 MdN新書

江戸時代の人々のお金をめぐる話がたくさん紹介されています。知らないことがたくありました。
切米(きりまい)は、いわば現物支給の給料。春(2月)、夏(5月)、秋(10月)の3回、4分の1、4分の1、2分の1の割合で支給された。お米は食べるためだけでなく、売却して現金を得るためのものでもあった。旗本の56%、御家人の87%が、この切米取だった。
切米取の下が扶持取(ふちどり)。男性は1日玄米5合食べるとして、毎月人数分の扶持米が給付された。扶持取の下に給金取という最下級の武士がいる。3両1人扶持が与えられたことから「三一侍(さんぴんざむらい)」と呼んだ。
芝居に出演する人気役者は高給取りで、大坂の女形(おんながた)の芳沢あやめは千両(1億2千万円)だった。市川團十郎など、千両をこえる役者が何人もいた。この給金は一度には支払われず、年3回に分けて渡された。
幕府は役者の給金を最高5百両(6千万円)とするように指示したが、守られなかった。
寺子屋の入学金(束脩。そくしゅう)は1朱(7500円)か2朱(1万5千円)。大きな商家は1分(3万円)をもたせることもあった。月謝は200文(6千円)くらい。
授業は朝の五ツ(8時ころ)に始まり、昼の八ツ(2時ころ)まで。授業の中心は読み書きが中心で、算盤(そろばん)もあった。寺子屋では一人ひとりのスピードにあわせて進むので、落ちこぼれはなく、卒業も本人の都合により、何年間という定めはなかった。
江戸の人々は、大量の白米を食べたので、脚気(かっけ)が多かった。ビタミンB1を含む米ぬかを落としてしまうから。また、江戸時代には新米は人気がなかった。古米だと水を吸って、かさが増えるので、これをお得(オトク)と受けとめる人が多かったから。
かけそばは、そばを鉢に入れて汁をかけたもの。盛りそばは小さなせいろに盛って、そうめんのように食べた。
にぎり寿司は、初めは屋台で食べられていて、現在の寿司の2倍から3倍は大きかった。マグロの大トロは江戸の人々の口に合わず、捨てられていた。
豆腐は超高級品だった。1丁が56文(1680円)から60文(1800円)もした。
江戸の町では、朝一番に納豆を売りに来た。
卵は、生卵もゆで卵も1つ20文(600円)で、庶民には、なかなか買えない高級品だった。卵を食べると悪いことが起きるとか、地獄に落ちるという人がいたけれど、値段がそれほど高くないことから、大いに売れた。
半畳(はんじょう)を入れるというのは、非難や野次ること。芝居見物のとき、半畳の敷物を観客が不満なときに舞台に投げ入れたことからきている。
相撲が土俵でたたかわれたのは元禄のころ。それまでは、相手を倒すまで勝負が続けられた。
武士でない人がお金を出して武士になった人を「金上侍(かねあげざむらい)」と呼んだ。農民は50両(600万円)で名字帯刀が許され、250両(3千万円)で武士になれた。1000両もあれば、大番組という役職につけた。藩財政の足しになった。
いやあ、世の中は知らないことだらけですね...。でも、それがあるので、みんな学問するし、楽しいんですよね...。
(2021年8月刊。税込891円)

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