弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2021年10月20日

今に息づく江戸時代


(霧山昴)
著者 大石 学 、 出版 吉川弘文館

江戸時代は、これまで想像されていた以上に、豊かで成熟していた。江戸にいる将軍は天から日本国民の統治を委ねられ、国主(大名)は将軍から領民の統治を委ねられていた。「ここで「天」とは「天皇」の意味ではない。
大名行列が通るとき、民衆は恐れて道を避けるが、権力者(大名たち)をそれほど気にしていないのが常だった。大部分の者は平然と仕事をしていた。武士と農民は、お互い遠くで見て見ぬふりをしてやり過ごした。これが当時の社会的知恵・作法だった。
幕末(1865年)に来日したシュリーマン(トロイ遺跡を発見した)は、日本は平和で、総じて満足しており、豊かさにあふれ、きわめて堅固な社会秩序があり、世界のいかなる国々よりも進んだ文明国だと評した。
そして、日本人は、あまり信心深くない。月に1回、お寺に行くか行かないかくらいだと来日した外国人からみられていた。
村々は、武士が城下町に移り住んでいたことから、農民による自治が行われていた。庄屋は読書・そろばん能力が必須だった。そして公文書によって任務を引き継いでいた。
江戸時代の武士たちによるチャンバラ(切りあい)は少なかった。路上で刀を抜いたら、処罰の対象になった。長刀は公務用、小刀は自殺用だった。小刀で他者を傷つけることはなかった。
江戸の役人たちは、犯罪を武力弾圧するより、予防措置に力を入れていた。
徳川吉宗が八代将軍になったのは「革命」だった。
「享保革命歴史」という当時刊行された本がある。ここで「革命」とは、王朝・王統が変わって新たな統治者が生まれることをいう。うひゃあ、これは知りませんでした...。
吉宗は、儒学や和歌などの教養は乏しかったが、実用的な学問に関してはとても関心をもっていた。薬学に通じ、全国各地に朝鮮ニンジンを植えさせ、国産化・普及につとめた。吉宗は、洋書の輸入禁止を緩和した。
吉宗は「足高(たしだか)制」をとって、有能な著者をどんどん採用していった。実力主義・能力主義の時代に入ったのだ。
吉宗は今日まで続く官僚システムを整備した。
公文書の整理に着手したが、分析に手間どり、なかなか進まなかった。
吉宗の下にいた大岡裁きで著名な大岡忠相は、もっとも官僚らしい官僚だった。法と公文書の整備こそ官僚制の基礎をなしている。
日本人の教育力と教育熱に支えられた江戸教育は、250年という長期の平和を実現し、独自の日本型文明を築いた。寺子屋は全国に1万5千もあったが、実際にはその5倍ほどあった。
ロシア海軍のゴローニンは、「全体として一国民を他国民を比較すれば、日本人は天下を通じてもっとも教育のすすんだ国」だとした。成年に達したら、男女とも、読み書き、数の勘定ができた。
江戸城の大奥にも官僚組織があった。大奥は、当時の活発な女性たちを象徴する場でもあった。
江戸城の無血開城について、勝海舟と西郷隆盛の会談で成立したことになっているが、大奥にいた二人の女性が、それぞれ官軍へ使者を送り、また幕府軍の爆発をおさえたこときちんと評価すべきである。薩摩から嫁入りした篤姫と朝廷から降嫁した和宮である。
自信にみち、たくましく働き、ときに花見や芝居見物を楽しむアクティブな女性たちがいるのに、来日していた外国人たちは驚いていた。
200頁あまりの薄い本ですが、江戸時代が実は今に続いていることを実感させられる記述のオンパレードでした。
(2021年7月刊。税込2420円)

2021年9月22日

江戸移住のすすめ


(霧山昴)
著者 冨岡 一成 、 出版 旬報社

江戸の町人の日常生活が多面的に紹介されている本です。江戸時代を美化しすぎてはいけないと考えていますが、かといって変化に乏しい暗黒の日々を庶民が過ごしていたというのではないように思います。江戸の人々も今も私たち(現代日本人)と同じく、たくましく、したたかに、また、しなやかに日々を謳歌していたと思います(思いたいです)。そこには山本周五郎の描く、しっとりとした日々もあったのではないでしょうか...。
幕末期の江戸の人口は120万人。町人人口は58万人。町人は270万坪の区域に住んでいたので超過密状態。人口密度にして1平方キロに4万人。今の2倍ほど。江戸の庶民の多くは、裏長屋と呼ばれる四畳半ひと間、6畳ひと間のスペースに一家で暮らしていた。
裏店に住む住民は、すべて無税、水道代もタダ。安い賃料を支払うだけでよかった。
家賃は、四畳半ひと間で月300文。収入の高い大工の1日の収入は500~600文。
水は、井戸水は塩気が多いので、水売りから買って飲んでいた。
部屋には押入れがなく、タンスがあるくらい。いえ長火鉢(ひばち)はあった。布団は屏風で隠すだけ。流しがあり、七輪はあったが、便所は外の共同便所。
ご飯は朝に1日分のお米を炊いて、夕食は冷や飯を茶漬けでさらっとすませる。江戸の長屋に掛け蒲団はない。長屋には、いろんな物売りがやって来た。江戸の人々が物を捨てることは、まずない。茶碗がこわれたら、焼き継ぎ屋に直してもらう。道に屑(くず)が落ちていても、それは紙屑拾いが仕事として集めるものなので、町人がみだりに屑を拾ってはいけない。
江戸の人々は、「です」とか「である」とは言わない。「であります」とも言わない。「である」とか「であります」は明治のはじめに士族がつくったコトバ。「です」とは「でげす」と同じで、芸者のコトバ。江戸の人は「でございます」、女性は「でござんす」と言った。
江戸の人たちは、「キミ」も「ぼく」も言わない。これは明治のコトバ。相手には、「おめえ、てめえ、貴公(武士)」、自分のことは「おれ、おいら、あっし、わっち、拙(せつ)」と言った。目上の相手には「おまえ」、目下には「てめえ」、自分は「わたくし」と言った。
江戸には、1日に千両のお金が流れる場所が3ヶ所あった。ひとつは鼻の上、目で楽しむ芝居町。江戸3座で昼間に千両のお金が動いた。鼻の下、口で味わう魚河岸(うおがし)で、朝のうちに千両の商いがあった。おへその下は吉原。ひと晩に千両が使われた。この三大繁華街を「日千両」とも呼んだ。
江戸時代のエコな生活に戻ることはできませんが、江戸の人々は生活を楽しむ工夫をしながら、きっと毎日を生きていたと私は考えています。
(2021年2月刊。税込1650円)

2021年8月25日

伊能忠敬の日本地図


(霧山昴)
著者 渡辺 一郎 、 出版 河出文庫

私の住む町にも伊能忠敬が来て測量したようです。町の中心部に、それを記念する碑が建っています。江戸時代に日本全国を歩いて測量してまわって詳細な日本地図をつくったことで有名な伊能忠敬の日本地図にまつわる話が山盛りの文庫本です。
伊能忠敬の関係資料は今から10年前(2010年)に国宝に指定されたそうです。当然のことだと門外漢の私も思います。ともかく貴重な測量図です。ところが、そんな貴重な伊能図がフランスとかアメリカに流出していたようです。それを現地で探し出していく著者の執念にも驚嘆しました。
伊能忠敬の家は息子も孫も若くして亡くなり、いったん絶えたが、幕末に伊能家は再興することができ、伊能図や文書類を維持・管理できたということのようです。大変な苦労が必要だったことでしょうね。ともかくスペースをとったと思いますので...。その資料の保存には伊能家の女性たちが活躍したことも紹介されています。やはり、女性の力は偉大です。
伊能忠敬の書庫から解放されて庶民のものになるのは、伊能図が幕府に提出(1821年)されて50年たった明治になってからのこと。江戸時代には、厳重な実測量を必要としていなかった。
伊能忠敬は商才を発揮して酒造業、米穀売買、金融業を営み、資産3万両(1両を15万円として、45億円)という資産家だった。事業に成功した忠敬は49歳のとき隠居した。息子は28歳。江戸に出て、天文・暦学を志し、19歳も年下の幕府天文方髙橋至時(よしとき)に入門した。忠敬は、地球の大きさが話題になっていることを知ると、自ら、測量してやろうと思った(らしい)。天文・暦学は面白いけれど、かなり難しい。しかし、測量なら自分でもやれる。忠敬はそう考えたのだ。
伊能忠敬は、終始一貫して現場指揮をつとめた。全測量期間を通して従事したのは伊能忠敬だけ。忠敬は歩測で測ったのは、第一次測量のときだけ。第二次測量からは、間縄(けんなわ)を張って測っている。天体観測は伊能隊の表看板で、1晩に、多いときは20個以上の星を測った。忠敬が測った恒星は、こぐま座、カシオペア座、しし座など、誰でも見られる普通の星。忠敬は自宅で測定した恒星の高度表をもっていたので、それと比較して緯度を求めた。伊能隊には経線儀がなかった。結果として、伊能図は北海道と九州がかなり東偏している。
間宮林蔵は忠敬の弟子である。忠敬は日本中を歩いてまわったが、忠敬は持病もちで、それほど体が丈夫なほうではない。なので、測量隊が進行するときには、主催者であるから村々では医師を待機させていた。
貴重な伊能図の発見と紹介が要領よくなされています。ありがとうございました。いちど、ぜひ現物をみてみたいと思いました。
(2021年5月刊。税込1089円)

2021年8月22日

和算


(霧山昴)
著者 小川 束 、 出版 中央公論新社

江戸時代、庶民においても「読み、書き、珠算(そろばん)」は必要なものと考えられていた。江戸時代の人々は、みな算数が社会において重要な知識、技能であることを理解していた。「そろばん(珠算)が何の役に立つのか」などと文句を言うモノはいなかった。江戸時代、珠算は必須の技能だったからだ。
神社に奉納した絵馬のようなものとして算額がある。江戸時代、数学の愛好者は互いに問題を解いたり、算額を奉納していた。神社は数学の発表の場だった。現存する最古の算額は、1683年のもの。関ヶ原合戦(1600年)から83年たっただけ。このような算額奉納は世界に例がなく、日本独自の文化現象。現存している算額は884枚だが、復元された91枚、文献に出てくる1646枚を加えると、2621枚にのぼる。
算額は天明(1781~1789)年ころから急激に増えはじめ、1800年から1809年にピークを迎えた。この10年間だけで、算額は300枚近い。算額は東日本に多く(東京369枚。次は岩手184枚、福島153枚、長野109枚、新潟105枚)、西日本は比較的少ない。
江戸時代の人々が数学を学ぶとき、初歩を終えると、数学を教授する師匠の下に入門するのが普通だった。数学にはいくつかの流派がある。
数学を教えながら、全国各地を歴訪した人がいたというのも驚きです。法道寺善という安芸国(広島県)出身の人です(1820年生まれ)。法道寺は、豊前(大分)、肥後、長崎、北陸道、東山道を遊歴し、各地で数学を教授したといいます。
江戸時代の人々にとって、もっとも身近な算学(数学)の教科書は、「塵劫記(じんごうき)」だった。1627年に刊行された、この本によって近世日本の数学文化は一挙に花開いた。
江戸時代の数学は世界的にみて最先端をいく成果をいくつもあげた。関孝和は日本の和算の創始者。関は存命中は1冊の本しか出していないが、一般人には難しすぎる傑作だった。
江戸時代の数学は、抽象的な計算技能と、その応用分野としての平面幾何、立体幾何から成り立っていた。そんな数学文化が継続できたのは、幾何の問題を無尽蔵に生み出すことができたから。そこには、図形の美しさという美的感覚、複雑な計算の完遂という高揚感があった。
なーるほど、すばらしいんですね。アルファベットも、X・Yもない時代、そして0(ゼロ)もなくて、どうやって計算していたというのか、ぜひ知りたいところなんですが...。
(2021年1月刊。税込1980円)

2021年8月15日

ウィリアム・アダムス


(霧山昴)
著者 フレデリック・クレインス 、 出版 ちくま新書

三浦接針。つい先日、長崎県平戸市でアダムスの遺骨だと判明したというニュースが流れました。ええっ、徳川家康に重宝されて江戸に住んでいたのではなかったの...。そんな疑問がこの本を読んで解けました。徳川家康からはイギリスへ帰国しないでくれと懇願されていたようですが、家康が亡くなり、秀忠の時代には疎遠となり、イギリスが商館を開いていた平戸に行き、そこで病死したというのです。
でもアダムスにはイギリスに妻子がいるほか、日本にも妻子がいました。日本人の妻はカトリック教徒だったようです。アダムスの死後、どうしたのでしょうか。また、息子と娘がいましたが、その子どもたちはどうなったのでしょうか。秀忠はキリスト教を厳しく禁圧しましたので、ひょっとして、その犠牲になったのでしょうか...。そこらはこの本に書かれていませんが、ぜひ知りたいところです。誰か教えてください...。
それでも、三浦接針となるまでのウィリアム・アダムスと、彼を取り巻く世界情勢がよく解説されていて、とても興味深い本です。
ウィリアム・アダムスは、オランダ船に乗っていたけれど、イギリス人の航海士。このころ、イギリスはエリザベス女王の治世下。イギリスは、軍事力ではスペインの足下にも及ばないので、スペインとの全面戦争を避けていた。
それでもイギリス船はスペインの船を襲って掠奪していた。それで名を上げたのがフランシス・ドレイク。アダムスが青春時代を送った1570年代のこと。スペイン艦隊からイギリス船団が奇襲攻撃を受けてなんとかドレイクは逃げのびたこともあった。このように、イギリスとスペインは互いに憎悪の関係にあった。
イギリスはスペインの無敵艦隊との海戦で大勝しましたが、そのとき、ドレークの艦隊にアダムスも乗っていた。戦争のあと、アダムスはイギリスのバーバリー商会に就職し、船長あるいは舵取りとして働いた。そして、オランダ商船団がアジアに行くのに乗り込んだのです。
この船団の真の目的は、太平洋に面した南アメリカの海岸でスペインの拠点と船を狙って財宝を略奪し、それらの財宝をもとにアジアで貿易することにあった。
なので、アダムスの乗っていたリーフデ号が遭難して大分県臼杵湾にたどり着いたとき、船内には大量の武器があったのです。大型の大砲19門、複数の小型大砲、鉄砲5百挺、鉄砲弾5千発分、鈷弾3百発分、火薬50キンタル(3千キロ近い)、鎖帷子(くさりかたびら)入りの箱3個、火矢355本、現金2千クルサンド(4千万円)、そして毛織物入りの大箱11個。24人の船員には商人らしきものはおらず、船員は兵士の船体をしている。
イエズス会の宣教師たちは、このオランダ船の船員が「異端者」だと分かって、すぐに悪口を言いたてはじめた。
家康はこのとき59歳、アダムスは大坂城に連れてこられて家康から直接の尋問を受けた。ときに1600年5月12日のこと。家康は、イギリス人(アダムス)とオランダ人(ヨーステン)に興味津々で、質問を重ねた。ヨーステンは、八重洲と名を残しているのでしたよね...。
アダムスは世界地図を示して家康に話したようです。また、家康の命令で船の建造もしています。関ヶ原の戦いや大坂夏・冬の陣などで多忙な家康でしたが、アダムスをそばに置いて、いろいろと質問攻めしたようです。アダムスも、そのうちに身につけた日本語で答えていたと思われます。家康は好奇心旺盛の人物だったんですね。
イギリスとオランダ、そしてカトリックの宣教師たちとの敵対関係、競争関係にアダムスは翻弄されたようです。一枚岩ではなかったのです。三浦接針についての興味深い本でした。もっともっと知りたくなりました。
(2021年2月刊。税込1012円)

2021年6月27日

氏名の誕生


(霧山昴)
著者 尾脇 秀和 、 出版 ちくま新書

私の名前(姓名)は霧山昴(きりやま・すばる)。これは養子縁組でもしない限り、一生変わりません。これが現代日本の当然すぎる常識。ところが、江戸時代は、名前(姓名)は年齢(とし)とともに変化するもので、一生同じ「名前」を名乗る男など、まったくいなかった。その常識が激変したのは明治時代の初めのこと。
この本は、このような常識の変化を丹念に追跡していて、もう頭がくらくらしてきます。何が何だか分からなくなってくるのです。それは、江戸時代の武士と庶民に通用していた常識と、朝廷での常識が別物だったことにもよります。明治維新によって朝廷が王政復古で昔のように変えたくても、ことは簡単ではなく、あれこれ変更を重ねて、ますます混迷をきわめていくのです。ここらあたりは読んでいて、まったく五里霧中。とてもついていけませんでした。
現代日本における人名の常識は...。人名は「氏」と「名」の二種で構成されていて、「氏」は先祖代々の大切な家の名で、「名」は親がつけてくれたもの。「氏名」を恣意的に変えることは、原則としてありえないこと。
ところが、江戸時代の名前で親が名づけるのは幼名だけで、改名は適宜なされていて、「かけがえのないもの」でもない。この二つの常識は、まるで違うもの...。
江戸時代の人間は、幼名、成人名、当主名そして隠居名という4種類の改名があるのが一般的。幼名は親などが名づけるが、15歳か16歳で成人したあとは、本人が自ら名を改める。
江戸時代の名前は、社会的な地位をある程度は表示する役割を担っていた。たとえば、~庵(あん)は医者一般がよく名乗るもの。名前は身分格式にもとづく秩序を重視する近世社会において、社会的な地位を相手に知らせる役割をもっている。
江戸時代、庶民も苗字(みょうじ)をもっていたが、それは自ら名乗るものではなく、人から呼ばれるものとして用いられていた。
この本ではありませんが、江戸時代の庶民も「氏名」をもっていたが、それは名乗るものではなかったので、あたかも庶民は「氏」をもたなかったかのように現代日本人が大いなる誤解をしたと指摘する本を読んだことがあります。
江戸時代の庶民にとって、苗字とは、自分から他者に示すものではなくて、呼ばれるものだった。また、「壱人両名」(いちにんりょうめい)という、一人で二つの身分と名前を同時に保持することができていた。これは、イメージとしては本名とペンネームの関係ですが、本質的にはまったく異なります。それぞれ、公の場で通用するものだからです。
そして、明治8年、山県有朋が、徴兵事務のために、平民に必ず名乗らせることにして以降、ついに現在の戸籍制度が完成したのでした。つまり、国が国民を兵隊にとる便宜をあくまで優先した結果として、現在の私たちの常識が成り立っているのです。
江戸時代は夫婦別姓でしたし、死後も別墓が当然だったのです。繰り返しますが、現代日本の常識は江戸時代の日本には通用しません。とても興味深い本でした。頭の体操にもなります。ぜひ、あなたもチャレンジしてみてください。
(2021年5月刊。税込1034円)

2021年3月13日

椿井文書


(霧山昴)
著者 馬部 隆弘 、 出版 中公新書

『東日流(つがる)外三郡誌』は偽書と確定していると思いますが、古代の東北に未知の文明があったとするものですから、ロマンをかきたてるものではありました。
『武功夜話』も偽書だと断言する本(洋泉社新書)を読むと、そうだよね、偽書だろうねと思うのですが、今でも偽書だと思わず平気で引用したり、いや全部が嘘ではないとする人がいたりして当惑させられます。
この椿井(つばい)文書(もんじょ)は、椿井政隆(1770~1837年)が依頼者の求めに応じて偽作した文書の総称。中世の年号が記された文書を近世に移したという体裁をとることが多いので、だまされやすい。
なるほど、コピー機がないわけですから、人の手で写しをとるしかないときに、元の文書はどこに行ったか知らないけれど、これがその写しだと言われると、紙質の新しさなんて問題にならないわけです。椿井文書は近畿一円に出まわっていて、今でも村おこしに活用されているとのこと。恐ろしいことですね...。
村と村とが対立・抗争している状況で、その有力な解決策の根拠として椿井文書が登場する。必要に迫られ、求めに応じてつくられた偽文書だった。
椿井政隆は、意識的に未来年号を使用したと考えられる。つまり「平成33年1月」というような、ありえない年号を表記したのです。これは、偽文書だと訴えられたとき、戯れでつくったものと言い逃れができるような伏線だと考えられる。さすがに考えていますね...。
国絵図にしても、描写に描写を重ねたとすることで、紙や絵の具が新しいことを怪しまれないように工夫した。
信じたい人々に、その信ずる材料をせっせと供給していたというわけです。
トランプ大統領がインチキ選挙があったと叫ぶと、「そうだ、そうだ」と応える人がいるのと、本質的に変わらない現象ですね...。
(2020年4月刊。900円+税)

2020年11月19日

日本を開国させた男、松平忠固


(霧山昴)
著者 関 良基 、 出版 作品社

日本の開国を断行したのは井伊直弼ではない。これがオビのキャッチフレーズです。
松平忠固(ただかた)は、幕末のころの信州・上田藩の藩主。老中のとき、徳川斉昭、井伊直弼と対立し、終始一貫して日本の開国と海外交易を主張し、日米和親条約、日米修好通商条約を調印のほうに引っぱっていった。その一方で、養蚕業を推進し、海外輸出の地盤を固めた。
聞いたこともない人物ですが、井伊直弼と対立し、三度も失脚したというのですから、タダ者ではありませんよね...。
日米和親条約が調印された翌年、徳川斉昭によって松平忠固は失脚に追い込まれた。
ところが、日米修好通商条約の交渉に際して老中に返り咲き、大老の井伊直弼とも対立したが、ついに条約の調印にこぎつけた。しかし、忠固は調印4日後に失脚させられた。
開国に反対していた政敵たちは忠固を憎み、敵視していたので、「政権内にはびこる俗論の根源」とか「元来姦詐にして僻見ある人」などと酷評した。
忠固の三度の失脚のうちの一番目は、水野忠邦の天保の改革を批判したことから奏者番と寺社奉行の双方を罷免されたことにある。水野が失脚したあと復権し、その後、大阪城代となった。このとき、信州・上田藩の絹織物の大阪での直営販売を推進した。城代による国元産品のトップセールスは、国元の上田と赴任地の大阪の双方から歓迎された。これまた、すごいですね...。
松平忠固は、徳川斉昭と城中で夜8時まで丁々発止とやりあった。これまた、すごいですね。斉昭の日記に本人が書いていることです。
斉昭は、ロシアの軍艦ディアナ号が下田に寄港しているとき、安政東海地震による大津波で大破したのを知って、ロシア人を襲撃して全員皆殺しにしろと建言した。いやはや、目先しか見ない狂人ですね。まるで、トランプです。
実際には、日本の大工が協力して新しく船をつくることにしたことで、日本の造船技術が飛躍的に向上したのです。他人(ひと)を助けると、結局は、自分たちも助けられるという典型です。
開国したらキリスト教が日本に広まることを心配する声に対して、忠固は、日本人の一部がキリスト教に改宗したところで、なんら不都合なことは起こらないと確信していた。なーるほど、広く自由な、リベラルな心の持ち主だったようです。
日米修好通商条約のとき、日本は輸入品の関税率を20%と定めていて、輸出品への関税率は5%とされている。この税率は日本が自らの意思で主体的に選択したもので、自主性のないまま押しつけられたものではない。そして、日本自らの意思で関税率も変更可能なように制度設計されていた。つまり、関税自主権だけはあったのだ。
そ、そうだったんですか...。知りませんでした。
松平忠固の子ども(忠厚)は、アメリカに留学し、アメリカ人女性と国際結婚した第1号となった。その子(キンジロー)は、メリーランド州エドモンストン市の市長に当選した(1927年)。アメリカ史上初の日系市長。
日本の関税率が20%だったのに、5%に引き下げられたのは、長州藩による下関海峡での砲撃事件のあと、その完敗によって、アヘン戦争による中国・清と同じように引き下げられた。下関戦争は、日本の関税自主権喪失をもたらした点で、日本における「アヘン戦争」だった。
なるほど無闇な攘夷運動は、かえって日本を奴隷状態に陥れる危険があるわけです...。
信州・上田藩は幕末から明治初期にかけて、日本最大の蚕種の輸出藩だった。明治3年(1870年)の日本からの蚕種輸出の半分近い45%が上田産だった。
幕末期の実際をこの本によって、また新しく知見を得ることができました。著者は信州・上田出身です。郷土愛に燃えた本でもあります。
(2020年7月刊。2200円+税)

 1週おきに大阪そして東京へ新幹線で行きました。本をたくさん読めて良かったのですが、片道3時間、5時間、席でじっとしていたのが良くなったようで、帰宅した翌日から腰にきました。長くすわっていて立ち上がるとき、車からおりようとして腰をひねるとき、ぴっぴっと鋭い痛みが走ります。福岡まで電車に1時間も乗っていると、すぐには立ち上がれないほどの痛みです。歩くのはなんともありません。
 1週間、様子をみて、ついに整形外科に行きました。レントゲンで骨に異常はないとのことで安心しました。腰に注射をうってもらい、コルセットをつけて、痛み止めの薬を飲んでいます。
 これも年齢(とし)をとったせいですね。やはり東京へは飛行機に限ります。

2020年10月10日

日本史、自由自在


(霧山昴)
著者 本郷 和人 、 出版 河出新書

東大の史料編纂所の教授である著者は、小学生のころから日本史が大好きだったとのこと。
私も、そう言えば日本史というか歴史物は大好きでした。小学生のころは偉人伝をよく読んでいましたし、中学生のときは山岡壮八の「徳川家康」を読みふけりました。高校に入ると、日本史の教師が、いかにも歴史を愛しているという風情で熱心に教えてくれましたので、その感化を受け、私も歴史が大好きになり、いつも満点に近い成績をとり、これだけは自慢でした(数学がパッとしませんので、理系志望を3年にあがる寸前に文系に切り替えました。理系クラスにはとどまりましたが...)。
著者は友人から「日本史がよく出来るって、どういうことなわけ?」と尋ねられたといいます。はてさて、どういうことなんでしょうか...。
史料をもとにして「考える」からこそ、日本史という学問は楽しい。
そうなんですよね。日本史を深く知ると、考える材料がたくさん手にすることができるというわけなんです。
著者は、「令和」という年号について、「これは良くない」と批判して、大炎上したとのこと。その理由は何だったのでしょうか...。
645年の「大化」が一番初めの年号。ところが、その後、年号のない空白の期間もある。うひゃあ、知りませんでした。701年の大宝からはさすがに継ぎ目なく定められている。つまり701年ころが日本という国の大きな画期になっている。
奈良・平安の貴族は、修めるべき教養として、4つの道があった。律令のことを勉強する明法道(みょうほうどう)、算数を勉強する算道。文章道と明経(みょうきょう)道の二つは、中国の文献を学ぶもの。貴族にとって、歴史とは、日本史ではなく、中国史を指していた。
戦国大名の師匠は中国史を学んでいるお坊さん。織田信長もそうだった。
岐阜城という「阜」とは小高い山、丘という意味なので、岐阜は岐山と言える。この岐山は、周王朝の始祖、武王の父親(文王)の本拠地。つまり、信長はこれから新しい王朝を起こすぞという姿勢を示すため、岐阜城と名づけた。信長は、中国の歴史をこのようによく勉強していた。
水戸光圀は、南朝、後醍醐天皇の皇統こそが正統だ、北朝系に正統性はないと考えていた。勤王家といっても、現在の朝廷は偽であり、まさに将軍が治める世の中なのだ。これが水戸学の本当の姿だった。ええっ、これって本当なんですか...。
水戸光圀だけでなく、新井白石も同じように考えていた。すると、水戸は勤王派というより、徳川将軍中心派ということになります。ところが、後期水戸学は、光圀とはちがい、将軍より近い存在が天皇だと考える国体論です。明治維新を実現した「志士」たちは、みな、この国体論で動いていた。
そして、幸徳秋水は、「明治天皇を殺して何が悪い。あれは偽物ではないか」と主張した。これを聞いて山県有朋たち明治政府の首脳部はあわてた。それで、南朝と北朝の矛盾をなんとか解消するよう命じられたのは、東大の史料編纂所だった。なーるほど、そんな経緯があったのですか...。
日本人が昔、肉を食べなかった理由は、調味料が塩しかなかったから。肉を食べるにしても、焼くか炒めるかだけど、食用油がなく、醤油がなく、味噌もないと大変。茹でても塩だけだと、物足りない。
昔の中国では、魚の王様は鯉(こい)。今は、海の魚のほうが人気があるとのこと。そして、江戸時代の日本人にとっての一番は鯛(たい)、次に鯉(こい)。
平安時代の「芋粥(いもがゆ)」は、サツマイモではなく、自生するつるみたいなものから甘味をとっていた。つまり、柿で甘味をとっていた。なので、虫歯は少なかった。女性のお歯黒も虫歯予防のため。
豚を食べないので、ビタミンB1をとれないから脚気になってしまう。昔の貴族は酒をがぶがぶ飲むので、糖尿病になる。肺病、糖尿病そして脚気が多かった。日本人が肉が美味いというのを知ったのは明治になってからのこと。なーるほど、やはり調味料は大切なのですね...。
朝鮮では一貫して「文」が上だったのに対して、日本では「武」が優先されてきた。そして、日本に軍師はいない。文官にして軍事にあたる軍師なるものは、日本には大江広元のほか、いない。
黒田官兵衛も竹中半兵衛も、みな本質的に武士なので、軍師ではない。
石田三成は「ミツナリ」ではなく、「カズシゲ」と読むべきだというのを初めて聞きました。一も二も三も、みな「カズ」と読むのだそうです。
知らないことだらけの日本史の話、オンパレードでした。
(2019年12月刊。810円+税)

2020年3月14日

隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン


(霧山昴)
著者 山岸 昭 、 出版  人文書院

日本での布教に生涯を捧げたポルトガル人イエズス会宣教師であるルイス・デ・アルメイダは、実は隠れユダヤ教徒「マラーノ」の家系に属していた。知りませんでした...。
アルメイダは1525年にリスボンに生まれたユダヤ人、しかも1496年にユダヤ人追放令が公布されたあと、祖国ポルトガルに生き続けることを選んだ改宗ユダヤ人「マラーノ」の家系に属している。
アルメイダは23歳のときに祖国ポルトガルを脱出し、インドのゴアに渡った。しかしゴアも、ユダヤ人には厳しい都市だった。青年医師アルメイダは日本に来て、大分で大友宗麟の協力を得て、乳児院を建て、乳児の養育をはじめた。アルメイダは助手に日本人をつかい、医師養成に力を入れたことから、内科医療にたけたパウロやミゲルという日本人医師が生まれた。
アルメイダは日本の習慣をよくわきまえており、日本の人々と談話し、その心をつかむことに成功していた。ルイス・フロイスは、「アルメイダは、天草に布教し、成功した」と報告した。これが島原・天草一揆につながっていく。
14世紀のスペインで、突如として6千人以上のユダヤ人が血祭りにあげられた。犠牲者は7万人以上で、迫害を避けるため、ユダヤ人の多くは父祖の信仰をすてざるをえなかった。そして改宗キリスト教徒となった。このような改宗者は、「マラーノ」(豚)と呼ばれた。
フランシスコ・ザビエルのころ、異端審問所の広場で17人が生きたまま火あぶりに処せられた。このとき、ザビエルも同地にいた。
クリストヴァン・フェレイラは、禅宗に帰依し、日本人女性を妻とし、忠二郎のほか女の子までもうけていた。フェレイラは、1614年の禁教令から20年間ほど過酷な潜伏生活をしていた。1633年の穴吊りから始まる17年間も、厳しい棄教者としての生活を余儀なくされた。そして、フェレイラ(沢野忠庵)は、日本に南蛮医学をもたらした。
長崎の隠れキリシタン発見の手がかりは、「サンタ・マリア」像だった。5万人いると推定された。五島では、復活信者が3万人いて、潜伏を持続させた信者が1万人いた。
永井隆医師の妻は原爆によって亡くなったが、浦上三番崩れのときに牢死した吉蔵の曾孫にあたる。
隠れキリシタンを導いたイエズス会宣教師のなかに隠れユダヤ教徒(マラーノ)がいたというのは、私にとって新鮮な驚きでした。
(20年10月刊。2900円+税)

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