弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

司法(江戸)

2012年2月12日

日曜日の歴史学

著者  山本 博文  、 出版  東京堂出版 

 江戸時代について、たくさんの本を書いてきた著者の本を読むたびに目が開かれる思いです。伊能忠敬の目的が日本全国の地図づくりにあったのではなく、もっと大きな、地球の大きさを計算することだったというのを初めて知りました。しかも、歩いて算出した地球の外周(4万キロ近く)は、139キロの誤差しかなかったというのです。恐るべき精度ですね。腰を抜かしそうになりました。
家康も秀吉から豊臣の姓と羽柴の名字を与えられた。後に成立した江戸幕府は家康のこのような屈辱的な歴史を消そうとした。
 家康は秀吉に対して尺取虫のように平身低頭していたのが現実である。
家康が羽柴武蔵大納言と署名していたことがあるなんて、今の私たちからすると信じられませんよね。
嘆願すると住民は「恐れながら」と幕府を立てながら申し出た。しかし、それは武士が威張っていて、百姓が卑屈になっていたというものではなく、あくまで嘆願書の形式にすぎなかった。実際には、支配階級の武士といえども、被支配層の理解と支持なくして、自らの支配が成り立たないことを十分に承知していた。
  有名な桜田門外の辺について、彦根藩は、君主が傷つけられたというだけで、藩主の井伊直弼の首を取られたことを認めなかった。藩の面子があったからだ。そのため、この事件は殺人事件ではなく、幕府高官を集団で傷つけたという障害事件として処理された。ええーっ、ウソでしょ、と叫びたくなりました。ここまでホンネとたてまえを使いわけるのですね。まあ、これって、今でもありますね。
足軽というのは、最下層の武士かと思っていました。ところが、最近の研究では、足軽は百姓の出身者によって占められ、世襲されていない。つまり、足軽は士格ではあっても、武士とは言いがたい身分だった。
 私よりひとまわり若い著者ですが、さすがは東大史料編纂所教授だけあって、いつも史料を駆使した内容で、面白いうえに説得力があります。
(2011年11月刊。1500円+税)

2010年3月27日

世事見聞録 その3

 江戸時代も今と同じで、不倫・不貞が流行していたようです。日本人って、この点も変わらないのですね。
「下賤の娘たるもの慎みの体更になく、不義をなすこと珍しからず。親を憚る心なく、外見外聞を厭ふにもあらず、或は親の元を遁れ逃げ去り、親の勧むる縁組を拒み、馴れ合ひ夫婦などのこと多く、或は父母へは不通になりて夫を持つ事、常の風俗となり、また人の妻妾なるもの、密通のこと尋常の事になりて、互ひに犯し合ひ奪ひ合ひ、また欲情に拘り、男を欺くあり、女を欺くあり、また夫婦馴れ合ひなどありて、金銀をゆすり取るもあり、また密通するのみならず、男の意地など言ひて、無体に人の妻を貰ひ懸け、貪りとるあり、また実夫の身上を奪ひて、密夫の方へ送りたる上に逃げ行くあり、人の身上を狂はせ、或は夫婦仲よくして子のある中をも、誑(たぶら)かして連れ出し、よんどころなく離縁に及ばせ、親は懸るべき娘を奪はれ、夫は家を守るべき妻を失ひ、父母を失ひて誑かさるゝもの多し」
 「享保の頃に至っては余多ある事なりし故、大岡越前守工夫にて、密通の男へ過怠金一枚出させしといふ。金一枚は小判七両二分になる。尤もその頃の金一枚は今の三十両余にも当るなり。この過怠始まりて却つて密通のこと多くなりしゆゑ、間もなく止みしといふ」
 「当世はさほど重き事に思はず、只密通数多き事ゆゑ、明白にして詮なきといふ懦弱なる了簡にて取扱ふ故、実夫密夫ども猥りに嘲弄し、そのうち止まる処、実夫は空気(うつけ)ものになりて恥辱を十分に被り、密夫は怜悧なる奴となりて仕廻ふ故、密夫たるもの身の過ちを知らず」
 日本の女性が昔から強かったことは、次の記述からも、よく分かります。
「猥りに女の道乱れ、子孫にして或は親を侮り偽り、或は夫をないがしろにし、我儘気随の振廻ひ、常の風俗となれり。今軽き裏店(うらだな)のもの、その日稼ぎの者どもの体を見るに、親は辛き渡世を送るに、娘は髪化粧よき衣類を著て、遊芸または男狂ひをなし、また夫は未明より草履草鞋にて棒手(ぼて)振りなどの稼業に出るに、妻は夫の留守を幸ひに、近所合壁の女房同志寄り集まり、己が夫を不甲斐性ものに申しなし、互ひに身の蕩楽なる事を咄し合ひ、また紋かるた、・めくりなどいふ小博打をいたし、或は若き男を相手に酒を給べ、或は芝居見物そのほか遊山物参り等に同道いたし、雑司ヶ谷・堀之内・目黒・亀井戸・王子・深川・隅田川・梅若などへ参り、またこの道筋、近来料理茶屋・水茶屋の類沢山に出来たる故、右等の所へ立ち入り、又は二階などへ上り金銭を費して緩々休息し、また晩に及んで夫の帰りし時、終日の労をも厭ひ遣らず、却つて水を汲ませ、煮焚きを致させ、夫を誑かして使ふを手柄とし、女房は主人の如く、夫は下人の如くなり。邂逅(たまさか)密夫などのなきは、その貞実を恩にきせて夫に嵩り、これまた兎にも角にも気随我儘をなすなり。
 今大小名の閨門を始め、女の気随我儘も奢り頂上し、下々卑賤の末々に行くに随ひ、右の如く夫婦女子の道乱れしなり。この風俗また国々在々に押し移り、父母を粗略にして女房を大切に取扱ひ、親類を疎遠にして縁者なるを懇切にする事になれり。これ世の信義を失ひ、淫犯の増長せしなり」
 江戸時代の百姓がみな貧困にあえいでいたかというと、必ずしもそうではなかったのです。
「富める百姓は身分を忘れて、都会に住める貴人も同じやうに奢りを構へ、家居も古今雲泥の相違にて、門構・玄関・長押・書院・床・違棚など結構を尽し、書院そのほか物数寄(ものずき)を尽し、或は公儀へ冥加と号して金銀を上げて奇特ものとなり、苗字帯刀などを御免を蒙りて権威に募り、或は領主地頭へ用立金などして、その功に依つてこれまた苗字帯刀・扶持切米など免(ゆる)されて近辺に威を振ひ、小前(こまへ)百姓を誣げ遣ひ、或は小身なる地頭を侮り疎みて、宮門跡方そのほか有職の家へ取り入り、金銀賄賂を遣ひて用達または家来分などとなり、愚昧の民を恐れしめ、様々我儘をなし、また村役人その外すべて有余なる族は、耕作を召仕ひの下男女に任せ置き、己れは美服を著し、或は婚礼・婿取り・諸祝儀・仏事など、すべて武家の礼式に倣ひて大造なる招請饗応などなし、又は常に浪人などを囲ひ置きて、身分に非ざる武芸を習ひ、或は師匠を撰みて詩文章を志し、唐様を書き、和漢の書画風を学び、又は茶陽師・歌俳諧師・音曲の芸者などを抱へ置きて遊芸を学び、我が遊興の相手とし、或は繁花の地より美女を連れ来たりて妾となし、日々酒宴を催し、又は秘かに繁花の地へ遊びに出て、田舎には妻妾を置きながら、都会の地にも囲ひ女などを致し、或は遊里に泊り、妓女に戯れ子を拵へ、或は公事出入りを好み、己が身に不足なく隙あるに任せ、人の腰押しを致し、わづかなる事をも大なる出入りに及ばせ、人の身上にも拘るべき事をも厭ひなく、又は己が心に叶はざる時は、変死そのほか非義非道の事をも、訴訟の取次を致さず、無体に押し噤みて内済など致させ、或は大体の訴訟の事を始め、領主地頭の用向きなどに出て、その用事を次にし、世に自分の遊び事をなし、繁花に心を奪はれ、公事出入りの落著を長引く手間取りを却つて歓び、永遊びをいたし大金を費すなり」
 この本を読むと、江戸時代って現代日本と同じように大変な時代だと思わざるを得ません。しかし、解説者(滝川政次郎)は誤解しないようにと、現代の私たちにクギを刺しています。
「江戸時代は嫌らしい、下らない時代であったという先入主を持っている現代人が、本書を読んで、江戸時代はこのように腐敗堕落、淫靡の極にあった時代であったという誤った認識を深めることを懼(おそ)れる。江戸時代の社会は、本書に述べられているほど悪いことばかりの社会であったわけでもない。
 世事見聞録は、右に述べたような、貴重な江戸時代史の史料であり、且つ興味深き読み物の一つである」
 あなたも、ぜひこの本を読んでみてください。江戸時代の日本人、ひいては日本人とはどんな人々であるのか、大いに目が開かれると思います。
 
(2005年4月刊。3500円+税)

2010年3月26日

世事見聞録 その2

 江戸時代でも借金取立は苛酷なものがありました。武士はこの点でも泣かされていたのです。
「借り手は右体の不始末にて返すべき手段なきに、様々利口弁舌虚偽計略を尽し、借りる時は神仏の如く敬ひ、返す時は仇敵の如く悪(にく)むなり。借りたるものは貰ひたるものの如く心得、返すべき心底更になく、もし返す時は奪ひとらるゝ如く、呉れて遣はす如く心得るなり。また貸し手は猶更心底悪しく、いさゝか心切にて人の難儀を見継ぐにあらで、利足を奪はん為の強欲にて、少しも誣げとるべき目当てあるものへは、困窮ものまた不実ものをも恐れず、相手の見嫌ひなく、高利を貪り、もし元利の返済方違ふ時は、強催促、途中催促など、悪口雑言に及び、又は頭支配などへ訴へ出で、種々の事を申し懸けて恥を与へ、或は奉行所へ願ひ出で難儀を懸け、真に双方不実同志の所業、敵同志の掛引きに似たり。」
「体家士の困窮を付け込みて、金銭を貸す業体のもの余多ありて、座頭或は高利貸・日成(ひなし)貸などと唱ふる者も入り込むなり。然るに今日を凌ぎ兼ぬるに任せて、幸ひに右の高利なる金銭を借り、後の難儀ども見かへりなく急場を凌ぐなり。さてその利倍に責められて、終に勤め向きも出来兼ぬる仕合せになり、或いは虚病を構へて引籠り、又は返済滞りの筋にて留守居役・目付役などへ届け出られ、表向きの沙汰になりて押し込められ、また品により永の暇にもなり、或いは門前払ひなどになり、またその身に堪へ兼ねて出奔などいたす族もあり」
 「依つて右体借金の筋を奉行所へ訴へるなどいへば、何より以て恐れて、たとひ今日の食料を欠きても利足などを入れ詫言いたし、甚しきにいたりては老父母及び妻子の衣類を剥ぎても済ます事なり。その償ひ出来兼ぬる時は大体身分に過失を得るなり。その行跡を見込んで、貸付業のもの諸家中へ入り込むなり。借金の筋にて侍の身分に拘るなどは、余りとやいたましき事どもなり」
 「金貸しの流行するは、世に非道の起る基、貧人を拵(こしら)ふる基なり。また月なし銭・日なし銭・損料貸し・烏金(からすがね)などの貸し方あり。これは身薄なる貧人に貸して、殊のほか高利なる者なり。烏金といふは、朝烏の鳴く頃貸し出して、夕晩烏の塒に帰る頃取り返すをいふ。わづか一日の融通に1ヶ月に当る高利を取るなり。損料貸しといふは、衣類・夜具・蒲団・蚊帳など、一日何程といふ損料を極めて貸すなり。貧人はこれを借りて、それを又質に入れ、日々の損料と利の二重に費すなり。当世悪人は右体世に逢ひて金貸しとなり、わづかの金銭を忽ち大金に育て上げ、遣り上げ、善人は時世に後れて金銭を借り、利に利を奪はれて、忽ち貧人となり行くなり」
 「当世、貸借の筋にて、世の中の混雑大方ならず。公事訴訟も十に八九はこの筋の事なり。くれぐれも貸借は貧福の偏る媒(なかだち)にて、悪人は貸し手となりて身を労せず、結構に過ぎ行く者多く出来て、人情鬼の如くにして、恩がましく毒を与へて利を貪り、善人は借り主となりて餓鬼道に堕ちたる如く、折角金銭を借りて一時を凌がんとすれば、忽ち炎々となりて、高利を取られ身を焦がすなり。右体鬼の如く行勢をなしても、もし滞りたる時は、或は家蔵を取り立て、又は家財・雑具・衣類・鍋・釜など押し取りにいたし、また妻娘などを売らせても取る。なほ届かざる時は、公辺へ訴ふるなり。借りては奉行所の詮議に逢ひ、身上のありたけを責め取られ、手鎖または牢獄の苦患に及び、親類または証人等までも困難に陥るなり。これまた吟味役人は、鬼の如くになりて、取り立てるなり」
 「今の座頭は、先づ官金と唱へて、貧人に金銭を貸し附け、高利を貪り、或は利足一割二割を取る。また礼金と号して、これまた一割二割を取る。右の礼金・利息とも、貸し附ける時、本金の内にて引き取るなり。また証文は無利足にて、預り金の積りなどにて、もし返済滞りたる時は、右の預かり金の威にて取り立てるなり。その上僅か三ヶ月四か月の期月にて貸し附け、その期月に返済出来兼ぬる時は、また証文を書き替へ、新しき貸金に直し、その度毎に最初の如く礼金を取り、利足・月踊りなどいうて、一箇月を二三箇月となし、また月なし・日なしなどの極めにて、強欲非道に貪るなり。よって借りたる者は、利金・礼金・月踊りに引き落され、一箇年の内には本金の倍増しにも費えるなり。右体強欲非道を行つて、官職に有り付く事を今の風俗となり、当時の座頭の仲間に入り、初め半折懸(はんおりか)けとなるに、金拾両といふ」
 「貸金の滞りたる時、先づ武士ならば、玄関の真中へ上り、声高に口上を述べ、居催促・強催促など云ひて、外聞・外見を構はず、また町家ならば、いかにも近所合壁へ聞ゆるやうに、悪口を並べ罵るなり。さればとて、全体借りたる筋が不義理になりたる上なれば、何程の事にも言葉返しも出来ず、もし云ひ返す時は猶更募り立つ故、何も尤もと会釈するの外なく、たとひ騒ぎたりとも、縛りもならぬもの故、それを見込みて強気に構へ、もしまた少しにても手を付くれば、大騒に申立、身体を傷つけしなど申し懸け、又は身の官職など唱へて、難渋を申し懸くるなり。尤も盲人にも限らず、当世流行の高利貸、日成貸の類はみな右似寄りたる流儀にて、やゝともすれば、人々の持て余すやうに仕懸くるものなり。そのうち目明きは少しは人情にて持ち合ひし所もあるゆゑ、左様にはなく、勘弁の品もあるなり。盲人はいはゆる無面目に仕懸くるなり。借り手は右の外聞外見を厭ひて、或は今日の食糧を欠きても調進いたし、或は老人小児などの衣類を脱ぎとりても返済する事になれり」
(続)

2010年3月25日

世事見聞録(その1)

著者 武陽 隠士、 出版 青蛙房

 武陽隠士(ぶよういんし)が文化13年(1816年)に江戸時代の社会風俗の実情を、大いなる怒りをこめて書き上げた大著です。ときの将軍は徳川11代家斉です。寛政の改革を断行した松平定信は、4年前に老中を辞して風流三昧の日々を過ごしていました。
この本は、青蛙房(せいあぼう)が昭和41年(1966年)に新装版として出版しました。この本は3500円もしますが、江戸時代を知るためには必読の本だと私は確信しています。20年ほども前にこの本を読んで、大いなる衝撃を受けました。日本人が昔から裁判を好んでいなかったなんて嘘っぱち、大きな嘘だと言うことを確信しただけでも意味がありました。
 江戸時代に裁判が多かったことを著者は次のように嘆いています。
「当世、公事訴訟の数の多き事、元禄享保の頃より競ぶる時は、十倍ともなりしか。往昔板倉伊賀守は、茶臼を挽きながら、公事を聴きしといふ。閑暇(のどか)なる事なり。そのころは奉行所に出ることを止めしと見ゆ。そのころより見競ぶる時は、元禄享保のころは定めて十倍程にもあらん。それより今はその十倍などにもなりなん。これ世の中に曲がり犯したるもの繁多なるゆゑに、下々上を凌ぐ悪知恵増長して、聴所へ出る事を心安く覚えたるが故なり……
 さてまた公事出入りの訳も、百年ほど以前とは趣意違ひて、昔は義理の筋違ひたるを強く争ひしが、今の人は道理に構はず、損益利欲の事のみ争ふなり。然るに今の人は前にいふごとく、邪悪の智恵深きゆゑに、己が欲情を二重にも三重にも隠して工み謀りし事ども多く、善悪正邪正急に見分け難く、吟味逸々(いちいち)に手間取るなり。享保の頃は、奉行職大岡越前守は聡明の人にていまにその名高く、これが公事を取り捌く趣向を聞くに、そのころは世の中の人いまだ欲情薄く、近来欲情の沙汰の始まりし程の時ゆゑ、義理の筋が重(おも)になりたる事にて、裁判も致し安く、たとひ利欲謀計の事とても、その工み浅はかにて、善悪の筋分ち安く、また人々欲情の意地も薄き故、大なる声を発して叱れば、黒白忽ちに顕はれしと見ゆ」
 武士と町人の間の裁判もありました。このとき、もちろん武士のほうが強かっただろうと思うのは現代人の思い込み違いで、実は町人が裁判に勝っていたというのです。
 「義理を表にし、利勘を憎む武士は大いに損多く、また利勘を表にし、恥辱を厭はざる下人には、大いに徳多き世の中なり。依つて武士を相手取りて公事訴訟に及ぶことは、昔はなきことなり。今も国々にては絶えて無き事といふ。もし武士が町人百姓を非道にせし事あれば、上から僉議(せんぎ)すれば格別の事、下から訴へる事はならずといふ。尤もの事なり。御当地は武士を相手取りて訴訟すること容易に出来る故、少しのことも大騒に申立て出づる事なり」
「双方五分づつの失なる時は、先づ武士が負け、町人が勝つなり。勿論武士は十の内九ツまで利屈宜しくとも、後の一ツに利欲の筋あれば、その一ツにして負くる事なり。依つて少しばかりの利欲拘りたる事にて、従来の大恩を請けし武士を、町人が取つて落す事あり。武士は兼ねて恩をあたへ置きしとても、その恩を余りて過失の供入りにもならずして、負けて仕廻ふなり」
「江戸・京・大坂そのほか繁花の地の町人遊人等は、居ながら公事出入りを致し、いさゝかの事をも奉行所へ持ち出して埒を明くるなり。殊に手代など遣ふ程の身上なるものは、己れは病気と称して手代を出し、又は公事師(くじし)などいへるものを雇ひて名代(みょうだい)を出し、公事の懸引を打ち任せ置き、己れ病気と奉行所を偽りながら、その日一日家内に慎み居るにもあらず、私用または遊興の事に他出いたし、公儀を恐るゝ気色少しもなし。また公事師などといへるものは、奉行所の懸引き功者にて、この事を申し立つればこれに響き、彼れを押す時はこれに落著するなど、上を謀り相手を犯し、吟味役人に怖ぢ恐るゝ真似方の気にて、さも実明に見せ、その容体よくよく役人の気に入り、進退押し引きその図に当り、方便虚偽をはかるなれど、通して遺し置く程の事になりて、終には白きを黒きといひ紛らして勝をとる事にするなり。また関東の国々、別けて江戸近辺の百姓、公事に出ることを心安く覚え、また常に江戸に馴れ居て奉行所をも恐れず、役人をも見透し、殊になにかの序に兎角江戸へ出たがる曲ありて、やゝともすれば出入りを拵(こしら)へ、即時に江戸へ持ち出し、また道理の前後も落著の詰りもよくよく弁へて、心強く構へたるものなれども、遠国の百姓は中々左様のことにあらず」
 江戸時代に裁判を起こすときには、今のように印紙をはる必要もなく、タダでした。支配者の権限行使を促すということだったからです。
(続)

2010年2月 2日

公事師公事宿の研究

著者 瀧川 政次郎、 出版 赤坂書院

レック大学の反町勝美学長が最近出された『士業再生』(ダイヤモンド社)を読んでいると、江戸時代の公事師について不当に低い評価がなされていると思いました。そこで、私が改めて読みなおしたこの本を、以下ご紹介します。私のブログでは3回に分けましたが、ここでは一挙公開といきます。ぜひ、お読みください。
いつもと違って長いので、特別に見出しを入れます。

民事裁判と刑事裁判
 江戸時代には、公事訴訟を分って出入物と吟味物との二としたが、この区別は大体今日の民事裁判、刑事裁判の区別に等しい。公事も訴訟も同じ意味であるが、厳格に言えば白洲における対決を伴うものが公事であり、訴状だけで済むものが訴訟である。江戸時代に於いて公事師が取り扱うことを許されたのは出入物だけであって、吟味物には触れることを許されなかった。是の故に公事師は又一に出入師とも呼ばれた。
公事は江戸時代には訴訟の意味であるから、訴訟のことを『公事訴訟』とも言った。しかし、公事と訴訟とを対立して用いるときには、公事は訴が提起せられて相手方が返答書(答弁書)を提出してから後の訴訟事件を言い、訴訟は訴の定期より訴状の争奪に至るまでの手続きを言う。即ち訴訟というのは、まだ相手方の立ち向かわない訴えであり、公事というのは対決する相手のある訴訟事件である。
 江戸時代においては、行政官庁と司法官庁との区別はなく、すべてのお役所は、行政官庁であると同時に裁判所であった。
江戸時代の法定である『お白洲』に於いて『出入』即ち民事事件が審理せられるときには、原告即ち『訴訟人』とその『相手方』である被告とが『差紙』をもって『御白洲』に召喚せられて奉行の取調べを受けたのであって、『目安』即ち訴状の審理だけで採決が下されたのではない。必要があれば、奉行は双方の『対決』即ち口頭弁論をも命じたのである。…公事師が作ったのは願書にあらずして『目安』すなわち訴状である。願書の代書もしたが、公事師の作成した文書のすべてが願書であるわけではない。願書と訴状とは明瞭に区別されていた。
江戸時代の庶民は、決して『裁判所を忌み、訴訟を忌み』嫌わなかった。江戸時代の裁判所は、権柄づくな、強圧的なものではなく、庶民の訴を理すること極めて親切であって、時に強制力を用いることもあるが、それは和解を勤める権宜の処置であって、当事者間に熟談、内済の掛け合いをする意思があれば、何回でも根気よく日延べを許し、奉行は時に諧謔を交えて、法廷には常に和気が漂っていた。
 江戸の庶民は、裁判を嫌忌するどころか、裁判所を人民の最後の拠り所として信頼して、ことあればこれを裁判所に訴え出て、その裁決を仰いだ。
徳川時代奉行所や評定の開廷日に於ける、訴訟公事繁忙の状は、全く吾人の予想外に出でている。水野若狭の内寄合日には、『公事人腰掛ニ大余り、外ニも沢山居、寒気も強く大難渋』であり、評定所金日には、『朝六ツ半(午前七時)評定所腰掛へ行候処、最早居所なし』、『朝六ツ半時分に御評定所へ出。今日は多之公事人ニつき、都合三百人余出ル』とあるほど、多人数が殺到している。此事は徳川時代の民衆が、奉行の『御慈悲』に依頼して、相互の争を解決することが最良の方法であることを、充分に知覚していたことを意味すると同時に、幕府の裁判が民衆の間に、如何に多くの信頼と『御威光』とを、有していたかを物語るものである。

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2009年11月 4日

水神(上・下)

著者 帚木 蓬生、 出版 新潮社

 いやあ、実にすごいです。読み始めて2日のうちに、一気に読了しました。いつもの車中読書ですが、まったく外界の雑音が耳に入ってきませんでした。いつのまにか終点の駅についています。もちろん、あいまに仕事はしたのですが、読みかけていますから、次の展開が気になってしかたありませんでした。
 著者の本はかなり読んでいますが、これは筑後川につくられた大石堰が舞台ですから、余計に身近な話として、ぐいぐい作品の情景に引きずり込まれました。なにしろ、その情景描写が細やかなのです。まるで眼前に筑後川がながれ、にもかかわらず、田圃には水が流れないため日照りで百姓は食い詰めてしまう様子が生々しく、迫真の筆致で描かれます。
 筑後川から日がな一日、ずっと2人一組の人力で水をくみ上げる作業をする片足の悪い百姓が登場し、その愛犬ゴンが動き回ります。そして、下級奉行が村々を見て廻り、ついには大石堰のためにわが身をささげてしまうのです。すごいです。涙がにじみ出ます
 筑後川周辺の利水のために、5人の庄屋が久留米・有馬藩主に対して堰の構築を嘆願します。その財政的裏付けは、自分たち庄屋の自己負担。万一、失敗したら、5人の庄屋は財産没収ではすみません。はりつけ死罪です。現に工事が始まったとき、失敗に備えてはりつけのための処刑台が5本、近くにこれ見よがしに建てられたのです。
 反対する庄屋もいました。ひどい妨害にもめげず、自分の全財産を投げうって、工事着工を実現していくのです。著者の筆致はよどみなく、タンタンタンと、陣太鼓の音まで聞こえてきそうです。こんな良質な小説を読むと、心のなかまで清々しくなります。
「大石堰の方で、狼煙(のろし)があがったぞ」誰かが叫んだ。頭を巡らすと、白い煙が少しかしぎながら青い空に吸い寄せられていくのが見えた。
「いよいよ、水が来るぞ」別の村人が声を上げる。
 「水が来たぞ」村の方で何人もが叫んでいる。水路に沿って駆け出した若者もいたが、すぐに走りやめる。代わりに吠えながら猛然と走りだしたのはゴンだった。水は真新しい溝渠の中を波頭を立てて迫っていた。黒々とした流れの先端に、白い波しぶきが見えた。ゴンはさらに吠えかかろうとしたが、かなわぬと見て尾を巻いて駆け戻ってくる。
龍だ、と助左衛門(五庄屋の一人)は思った。龍が頭を高く、あるいは低くして、白髭をひくつかせて攻め寄って来る。誰もが立ち上がり、水路に吸い寄せられたときには、龍の頭はもう十数間先に走り去り、今は黒々としてうねる背中がみえるだけだ。しかもその龍の背は、側壁を削るかのように膨らみ、ある所では杭に当たって白いしぶきを上げた。
「子供には気をつけろ」伊八が叫んでいる。次兵衛と志をが三人の子供の手を引いている後ろで、次兵衛の母親が手を合わせていた。目を閉じ、念仏のようなものを唱えている。
 すごい描写ですよね。堰が出来て、水門が開けられてやってきた水流が龍のように躍動している様子をしっかりと思い浮かべることができます。これからも、たくさん書いてください。
 11月28日(土)午後3時から、北九州の厚生年金会館で帚木氏に今度は精神科医として依存症について講演していただくことになっています(入場料500円。全国クレサラ対協のHPを参照してください)。
 私は、今から大いに楽しみにしています。
 この筑後川の堰渠を構造するについては、長い歴史があったようです。『久留米市史』第2巻735頁から30頁ほど詳細な経過が述べられています。
 寛文3年(1663年)に大干ばつで作物が全滅状態となったため、五庄屋が誓詞血判して藩庁へ出願したこと、反対運動が起きたこと、夜間に提灯をともして土地の高低を測量したこと、失敗したら磔(はりつけ)の刑に処することになって、工事開始の直後に5つの磔台が建てられたこと、藩営事業として正式に工事が始まり、工事は人夫1万5千人によって2ヶ月間で無事に完成したことなどが記述されています。

(2009年8月刊。1500円+税)

2008年8月12日

公事宿の研究

著者:瀧川政次郎、出版社:早稲田大学比較法研究所
 1959年に出版された本です。古本屋で入手しました。江戸時代の公事宿について研究した古典的な本です。本好きの私は、古書目録もみていますし、東京・神田の古本屋街もたまに歩いています。本が手に入らないときには、インターネットで古本として注文して入手することも多くなりました。
 江戸時代の公事宿は、公事訴訟人の依頼に応じて、訴状その他の訴訟に必要な書類を代書し、目安裏判のもらい受け、裏判消し等の訴訟手続を代行するのみならず、奉行所の命を受けて訴状の送達を行い、宿預けとなった訴訟当事者および訴訟関係人の身柄を預かるなど、公務の一端を負担していた。公事宿の制度は、江戸時代の司法制度の一翼をなしていたのである。
 公事宿には、訴訟に必要な諸書類の雛形が備え付けられてあり、公事宿の下代(げだい)などは、それによって書類を勘造していた。
 江戸時代、訴訟というのは、まだ相手方の立ち向かわない訴えであり、公事というのは対決する相手のいる訴訟事件である。訴訟には、また訴願の意もあった。
 江戸時代の訴訟は、これを出入物(でいりもの)と吟味物(ぎんみもの)との2つに大別することができる。出入物というのは、訴訟人(原告)が目安(訴状)をもって相手方(被告)を訴え、奉行(裁判官)がこれに裏書(裏判ともいう)を記載して相手方を白洲(法廷)に召喚し、返答書(答弁書)を提出せしめて対決(口頭弁論)、糺(ただし。審理)を行い、そのあと裁許(判決)を与える手続による訴訟のこと。
 吟味物というのは、捕方(警吏)の手で召捕(逮捕)り、あるいは奉行所の差紙(召喚状)をもって人を召喚して吟味(審問)する手続による訴訟。
 つまり、出入物は前代における雑訴であって、およそ今日の民事訴訟であり、吟味物は前代の検断沙汰であって、およそ今日の刑事訴訟事件である。
 吟味物は、国の治安に関するものなので、代人はまったく許されない。したがって、日本には江戸時代まで弁護人は存在しませんでした。ところが、出入物には、代人も許され、その資格は問われませんでした。
 公事宿は出入宿(でいりやど)とも呼ばれた。公事宿の主人・下代は吟味物には手を出しませんでした。公事宿の主人・下代は、江戸中期以降は、江戸幕府に公認された公事師である。公事宿は、公事宿仲ヶ間を組織し、その営業権を守るとともに、幕府の御用をつとめた。
 明治5年、代言人制度が制定されたとき、公事宿の主人・下代はおおむね代言人となった。江戸時代の庶民は、決して裁判所や訴訟を忌み嫌ってはいなかった。それどころか、裁判所を人民の最後の拠り所と信頼して、ことあればこれを裁判所に訴え出て、その裁決を仰いだ。裁判所(奉行所)といっても、行政と司法は一体であった。
 奉行所・評定所の開廷日には、訴訟公事は大変繁忙しており、想像を上まわる。腰かけるところがなく、外にもたくさんの人がつめかけた。早朝から300人もの人が殺到している。このように描かれているのです。
 まことに、実のところ、日本人ほど、昔から裁判(訴訟沙汰)が好きな民衆はいないのです。例の憲法17条の「和をもって貴しとなす」というのも、それほど裁判に訴える人が当時いたので、ほどほどにしなさいと聖徳太子が説教したというのが学説です。
 この本には、公事宿に関する古川柳がいくつも紹介されています。それほど江戸時代の庶民にとって公事宿と裁判は身近なものであったわけです。
 諸国から草鞋(わらじ)踏み込む 馬喰町
 馬喰町 人の喧嘩で蔵を建て
 馬喰町 諸国の理非の寄る所
 鷺と烏と泊まっている 馬喰町
 これらは公事宿の多い馬喰町についての古川柳です。
 ところが、公事宿の本場は、丸の内に近い神田日本橋区内にあったそうです。
 江戸の公事宿は200軒ほどあった。1軒の公事宿が2人の下代を置いていたとすれば、江戸で訴訟の世話をして生活している人が500人ほどであったということになる。
 江戸の公事宿は本来が旅館業者であり、大坂の公事宿は本来が金貸し(高利貸)である。
 江戸時代の裁判所の事物管轄は複雑だったので、どこに訴えたらよいのか、簡単には分からない。そこで、公事師が必要となった。
 幕府当局は、人民が訴訟手続に通暁して「公事馴」するのは健訴の風を助長するものとして、法律知識の普及を欲しなかった。だから、一般庶民は、法律を知っていても、奉行所に出頭したとき、法律のことはまったく知らないという顔をしているように装うようにしていた。
 実のところ、かなり詳しく法律のことを知っていたことが、この本によってよく分かります。日本人は昔から、それほどバカではなかったのですよね。
(1959年12月刊。300円)

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