弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年5月22日

鄭和、世界航海史上の先駆者

中国


(霧山昴)
著者 寺田 隆信 、 出版 清水書院

15世紀のはじめ、明の鄭和は、当時の世界最大の船隊を率いて、東南アジアからアフリカ東海岸にまで航海した。その航海は、1405年から1433年までの29年間に7回、訪問国は30数ヶ国。バスコ・ダ・ガマがインドに達したのは1498年なので60年も早い。
鄭和の航海は軍事行動というのではなく、主目的は通商にあった。明帝国の政治使節であり、通商代表だった。政府ないし宮廷直営の貿易を行うための活動だった。鄭和が来たことで、明帝国に国王みずからやってきた国が4ヶ国、使節を派遣した国は34ヶ国にのぼる。
ただし、鄭和を送り出した明の永楽帝そして宣宗が亡くなると、明帝国は対外進出が消極的になり、国力も衰えてしまった。そのため諸外国からの朝貢も自然に消滅していった。
シルクロードといっても、実は陸上よりも海路の方が、はるかに輸送力がいい。商船1隻はラクダ2000頭に匹敵した。朝貢貿易は、朝貢国に莫大な利益をもたらした。一度、入貢すると、元本の5倍か6倍ほどの利益が得られた。
成祖永楽帝は内政よりも対外政策に非常な積極性を発揮した。鄭和は宦官(かんがん)だった。宦官は、本来、皇帝個人の家庭生活に奉仕すべき存在。鄭和の大船団は、2万7千人以上の乗員を乗せた62隻から成っていた。船は大きいものでは船長150メートル、船幅62メートル。これは、発掘された船の装備から、決して誇大な数字ではないとされている。
鄭和はイスラム教徒だった。明の中国では、イスラム教徒が弾圧されたり、迫害されたことはなかった。なので、多くのイスラム教徒が鄭和の大船団に参加していた。
鄭和の船団は、中国に珍しい動物を連れて帰国した。キリン、ラクダ、ダチョウ、シマウマ、アラビア鳥など。そのなかでとくに注目を集めたのは、キリンだった。日本にキリンが来たのは明治40(1907)年なので、中国のほうが500年も早かった。
鄭和の後に続く航海者がいなかったこと、明帝国が対外進出に国力をさけなくなったことなどから、この偉大な先駆者は、今も、あまり評価されていないのが残念。
実は、この鄭和の大船団について、どんな構成だったのか、船団に女性が本当に乗っていたのか(女性も乗っていたようなのです)、もっと詳しく知りたかったのですが、そこは残念ながら書かれていませんでした。
(2017年8月刊。税込1980円)

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2022年5月21日

信長家臣・明智光秀

日本史(戦国)


(霧山昴)
著者 金子 拓 、 出版 平凡社新書

明智光秀がなぜ突如として信長を本能寺に攻め滅ぼしたのか...。いろんな説があります。この本の著者は、信長の四国政策の転換、そして信長による光秀の殴打などを原因としています。いずれも別に目新しいものではありません。
四国の長宗我部(ちょうそかべ)氏の処遇は、たしかに光秀にとって大問題だったと思います。長宗我部は光秀の媒介によって、四国全体を制圧しようとしていた。ところが、信長は急に阿波の南半分の土佐のみに限定すると言いだした。これでは、光秀の面目は丸つぶれ。
光秀が信長から殴打されたというのは、いつ、どこで、何か原因だったか、いろいろあるのです。著者は、諸大名(有力武将)の面前での殴打だったので、光秀の心が大いに傷ついて、それが叛逆に走らせたことはありうるとしています。まあ、たしかにありうることですよね。
本能寺で信長が死んで、その遺体(遺骨)が見つかっていないことはよく知られていますが、この本は、信長の「死に方」を次のように紹介しています。
畳2帖を山形に立てて、その中にもぐって、「さい」という女房がもっていた「蝋燭」(ろうそく)を取りあげて火をつけて焼け死んだというのです。
畳2枚によって完全燃焼したため光秀たちは信長の遺骨を探し出せなかったということになります。これまた、ありうるかな、と思いました。
熊本藩の支藩である宇土藩の初代藩主・細川行孝の命令で、その生前に成立していたとみられる「宇土家譜」に書かれている説です。細川家は、光秀の娘(玉・ガラシャ)が嫁入りした先ですので、光秀について詳しく語られて不思議はないのです。
日本史のミステリーに一歩近づいた気になりました。
(2019年10月刊。税込924円)

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2022年5月20日

文学で読む日本の歴史  田沼政権

日本史(江戸)


(霧山昴)
著者 五味 文彦 、 出版 山川出版社

 田沼意次(たぬまおきつぐ)の台頭は、郡上(ぐじょう)一揆をきっかけとしていたことを初めて認識しました。
 田沼時代は九代将軍・家重の時代に始まりますが、八代将軍・吉宗の政権末期の政治的停滞を吉宗将軍の近くにいて見ていたというのです。
田沼時代の始まりは、明和6(1769)年に、側用人(そばようにん)から老中格になって始まった。意次は、御家人から側用人、老中になった初めての人物だった。
 美濃の郡上一揆は宝暦8(1758)年に始まったが、家重将軍の命により意次も評議に加わった。というのも、老中が郡上藩と結びついていたので、評議が混沌として収拾つかなかったから。ただし、このとき意次が目覚ましい動きをしたというのではない。郡上一揆は、百姓らの獄門、老中の罷免、若年寄の改易(かいえき)、郡上藩主の改易で収拾された。
 田沼政権の経済政策は、民間の経済活動を後押しし、その利益にもとづく運上金によって幕府財政を好転させようとするもの。また、田沼政権は、財政部門を担当する勘定方の権限を拡大して、長崎貿易を強化することを狙った。
 京の絵画として著名な伊藤若冲も、この田沼時代の画家なのですね。円山応挙(まるやまおうきょ)もそうです。
 百姓一揆が起きると、その経過を示す実録がつくられた。久留米藩大一揆(17万人参加)の顛末は、二つあるのですね。『筑後国郡乱実記』と『南筑国民騒動実録』。現代文で読めるのであれば、ぜひ読んでみたいです。
 そして、この実録をもとにして、講釈師が一揆物語を語ったのです。百姓一揆が『太平記』の世界に移され、その正当性が語られ、明君が一揆の主張に応じて仁政をしいて太平の国になるという物語が語られた。
 このような一揆物語を講釈する講釈師の存在が宝暦期に目立った。その中で、馬場文耕は郡上一揆を語り、幕政を悪政と批判したため、獄門に処されてしまった。
 百姓一揆と講釈師との関わりについては、まったく認識不足でした。
 薩摩の殿様である島津重豪(しげひで)は、蘭学に興味を示し、自ら長崎のオランダ商館に出向き、オランダ船に搭乗した。いやぁ、これまた知りませんでした。オランダ商館に殿様本人が出向いていたんですね...、驚きます。
 田沼時代に、天明の大飢饉が起きました。天明3(1783)年は、寒気が厳しく、長雨と冷気のため作物が生育しなかった。大風霜害によって、未曽有の大凶作となった。
 天明4(1784)年4月、田沼意次の子で若年寄の田沼意知(おきとも)が、城内で旗本に切りつけられ、まもなく死亡した。意次が、人脈を通じて党派を形成し、大奥を掌握し、幕閣の人事を独占し、次代にも継承されるようにしていったことへの不満とみられている。
 天明6(1786)年に将軍が亡くなると、田沼意次は最大の庇護者を失うと、失脚し、所領は没収された。
 村の文書が宝暦年間から全国的に残されているが、これは村が持続・存続するようになったからである。なーるほど、そういうことだったのですね。
 江戸時代の実情は、知れば知るほど奥が深いと思いました。
(2020年7月刊。税込3960円)

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2022年5月19日

サウジアラビア

中近東(アラブ)


(霧山昴)
著者 高尾 賢一郎 、 出版 中公新書

サウジアラビアって、どんな国なのか、行ったこともありませんし、これから行くこともないでしょうから、とんとイメージが湧きません。それで、手軽な新書を読んでみたというわけです。
サウジアラビアはアラビア半島の大部分を領土とする王制国家で、日本の原油輸入量の3割強を供給する産油大国。また、メッカとメディナという二大聖地を擁するイスラーム世界の盟主とされている。
イスラームは、ユダヤ教やキリスト教と同根のセム系一神教である。
イスラームという宗教は、ムハンマドに啓示を授ける以前から存在し、ムハンマドが開祖というわけではない。ムハンマドは、自らを最後の預言者と表明していた。また、預言者のうち、神から授かった啓示を人々に伝える役割を負った者を使徒と呼ぶ。したがって、ムハンマド以降は、預言者も使徒も存在しない。
サウジアラビアには、数千あるいは数万とも言われる多数の王族が存在する。このため、サウジアラビアの王室は、親族のあいだで、いかに権力を分散させ、共存するかを課題としてきた。
さらに、サウジアラビアは建国当初より王室は宗教を職掌としてこなかった。サウジアラビアは政教一致国でありながら、政治権威と宗教権威を厳密に分ける政権分離国家でもある。
ムハンマド・イブン・サウード初代国王の子孫をサウード家といい、4500人もいる。この王族のなかにも権力の中枢にいる人と、そうでない人がいる。
そして、シャイフ家という宗教の名家が正統性を与えることで、王制が維持されてきた。
サウード家は、自らの権威を強化するためにシャイフ家と婚姻を重ね、さらには、アラビア半島征服の過程で、各地の有力部族の顔役とも婚姻を進めることを支配の方法とした。
アラムコを国営企業としたことで、サウジアラビアは国有財産としての石油の収益を一手に握り、これを国庫に収めることで国家財政を潤してきた。石油部門による収益は、国家歳入の7~8割、GDPに占める割合は1979年に87%超だった。
この潤沢な資金によって、政府は国民に税金を課さず、一方で手厚い福祉や補助金政策を用意することができた。
サウジアラビア人労働者の3分の1は、公務員、公共部門の労働者の7割を占める。逆に、民間部門に働く人が少ない理由は、産業の少なさにある。
サウジアラビア国内のシーア派は人口の10%強。シーア派はワッハーブ主義からみて異端と呼べる存在。スンナ(スンニ)派は、預言者ムハンマドの言に従う人々。これに対してシーア派は「従わない人々」の筆頭。
9.11の首謀者としてアメリカに暗殺されたオサマ・ビン・ラディンは、サウジアラビアの大手ゼネコンのビン・ラディン・グループの経営一族の出身。ただし、サフワの主流だった知識人層には該当しない。
世界には、さまざまな国があり、多様な考え方が存在することを実感させてくれる本でもありました。
(2021年11月刊。税込902円)

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2022年5月18日

良心の囚人

ミャンマー


(霧山昴)
著者 マ・ティーダ 、 出版 論創社

ミャンマー(ビルマ)の政治犯として監獄に6年を過した人権活動家の体験が切々とつづられています。著者は女性作家であり、医師であり、敬虔な仏教徒でもあります。
著者はアウンサンスーチー(マ・スーフ)と同じくNLD(国民民主連盟)の若き活動家だった。軍部によるクーデターのあと、軍政権ににらまれて、政治犯として刑務所に入れられたのです。本書は、6年ほどの刑務所生活の実情を詳細に描きあげています。さすが作家です。さまざまな嫌がらせに対して、毅然として最後までたたかい続ける著者の不屈さには頭が下がりました。
ミャンマーで政治活動に加わることは棒高跳びのようなもの。扱いにくい長いポールを持って全力で走り、バーに触れることなく、それを飛びこえ、反対側に優雅に着地する。運が悪ければ、地面に叩きつけられることもある。刑務所への着地は、人生が数年間妨げられることを意味し、そこから回復できない者もいる。
刑務所の中では、貴族のように暮らせる人がいた。家族から高価な品や素晴らしい食事を差し入れしてもらい、それをばらまいて「救世主」になることができる。看守の大半は初等教育しか受けておらず、麻薬取引、詐欺、また汚職などの罪で収監されている囚人は、そんな看守を簡単に買収できた。たとえ他の囚人をいじめても、賄賂のおかげで、この場のスターになっているので問題になることはまったくない。
他方、お金がない人、面会に来る者がいない人は、抑圧され、虐待された。ここでは、お金がなければ、自分の名前すら書けない若い看守に下品な言葉でいじめられる。刑務所では毎日それを耐えなければならない。
著者は1993年10月10日、禁固20年の刑を宣告された。緊急事態法によるものが7年、非合法結社取締法が3年、そして非合法出版取締法が各5年だった。
力のある者が常に弱者を打ち負かすというのが刑務所の不文律。看守長は看守たちを抑圧し、その看守たちは、水浴びや寝台の割りあてなどを司(つかさど)る囚人頭を抑圧する。そして、高慢な囚人頭たちは、わずかな権力でもって、その他の囚人をいじめる。
刑務所は無法地帯であり、家族からの差し入れを監査する看守は、検閲委員会よろしく、いつも自分たちの有利になるように、規則をねじ曲げていた。看守たちは、ほとんど教育を受けておらず、刑務所と受刑者しか知らずに人生を送ってきた。いつも受刑者や部下に叫んだり、怒鳴ったりしているので、受刑者から同じことをされたら、どう反応すればよいのか分からなかった。
収容所は、毎日、45分間、午前中に30分と夕方15分だけ散歩するのが許されていた。
看守の給料は決して十分ではなかったので、副収入や食べるものを手に入れるためなら何でもしていた。看守が見て見ぬふりをすれば、監房等にご飯やお茶をもち込んできた受刑者に話しかけることができた。彼女たちも、政治犯に敬意を払い、親交を結ぼうとした。
ミャンマーの刑務所生活がどういうものなのか、民主化を求める人々は、どのように闘ったのかを認識できる、貴重な体験記です。
(2022年1月刊。税込2420円)

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