弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2020年9月27日

長篠の戦い

日本史(戦国)


(霧山昴)
著者  金子 拓 、 出版  戎光祥出版

 関ヶ原の戦いは1600年。その25年前の1575年(天正3年)5月に起きた長篠(ながしの)の戦いの実相に迫った本です。
 武田勝頼は戦(いくさ)を知らないバカ殿さまではありませんでした。しかし、織田信長・徳川家康の連合軍に攻められ、大敗したこと自体は歴史的な事実です。
 鉄砲隊が3千挺の火縄銃を三列に編成し、三交替で射撃(三段撃ち)したから織田・徳川の連合軍が大勝したというのが通説だったわけですが、どうやらそういうことではないようです。ただし、「三段撃ち」が完全に否定されているとは思えません。
 また、武田軍は、騎馬軍団が無謀な突撃を繰り返したというのも史実に反するのではないか...、と指摘されています。ここらあたりの謎解きが、歴史物を読む面白さですよね。
 織田信長は、本願寺攻めを1ヶ月前までしていたし、このあともするつもりだったので、自軍の損害を最小限におさえたいと考えていた。
長篠城は、武田の大軍に包囲されながらも、2週間以上も耐えていた。そして、武田軍が前進したのを見て、織田信長は即座に奇襲作戦を実行した。
長篠の戦いは、日の出から午後2時ころまで続いた。織田・徳川連合軍は、足軽たちを武田軍に向けて前進させ、適当なところで引いて追撃してくるところを鉄砲で撃った。武田軍はぬかるんだ湿地帯だったため、馬による機動性が著しく損なわれていた。つまり、馬で移動しての攻撃に不向きな湿地帯だった。
織田・徳川連合軍による馬防柵も、鉄砲をつかった戦い方も、奇襲作戦も、ことごとく信長の防禦的姿勢によるものだった。そして、この防禦的姿勢に流し、それを前提とした状況判断が織田信長に勝利をもたらした。なーるほど、と思いました。
たくさんの写真や図版があり、視覚的イメージがつかめる100頁あまりの歴史小冊子です。
(2020年1月刊。1500円+税)

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2020年9月26日

根に帰る落葉は

人間


(霧山昴)
著者 南木 佳士 、 出版 田畑書店

著者の作家生活40年を記念して出版された文庫本のようなハンディーサイズの本です。
落葉帰根。おまえも、もう 根に帰ったらどうだい、と葉っぱたちに諭(さと)されて、なんだかうれしくなった。そんな著者の最新エッセイ集なのです。
ことばが、からだが、しみじみ深呼吸する。こんなフレーズ(文章)がオビにありますが、まさしく、それを実感させられます。
最近、映画になった『山中静夫氏の尊厳死』はみていませんが、映画『阿弥陀堂だより』は20年ほど前にみて、心を揺さぶられました。
著者は団塊世代より少し遅れた世代(1951年生まれ)なので、勤めていた病院は既に定年で退職し、今は嘱託医として週4日間だけ働いているといいます。
医師である著者は芥川龍之介の手紙を読んで、発熱、胃痛、下痢、神経衰弱という身体状況の描写から、胃痛はヘリコバクター・ピロリ感染胃痛と診断し、こんな患者には旅に出ることをすすめるとし、また、神経衰弱というのは恐らく「うつ病」にあったのではないかと推測しています。なるほど、と思いました。
著者は、小説を書く、という行為の業の深さを思い知ったとしています。そうですか、だから私には本格的な小説が書けないということなんですね...。本当に私は、そう思います。
よい小説を書きたかったら、まじめに暮らすこと。これは、著者に向かってベテラン編集者が放った言葉でした。この点、私も、言われてみたら、すごくもっともな指摘だと思われます。
ある程度の年齢の人には、人生を考え直させるきっかけが満載の小さな本でした。
(2020年5月刊。1300円+税)

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2020年9月25日

KGBの男

イギリス・ロシア


(霧山昴)
著者 ベン・マッキンタイアー 、 出版 中央公論新社

KGB(ソ連のスパイ機関)の大佐が自らすすんでイギリスのMI6(スパイ機関)に志願して二重スパイとなり、ソ連の機密情報を流し続けていた。ところが、CIAの幹部でソ連のスパイになった人物(エルド・リッチ)がKGB内のスパイをソ連側に通報したことから、このKGB大佐は疑われ、ついにソ連脱出を決意した。イギリスのMI6は、このための予行演習を重ねていて、鉄路と自動車でKGB大佐をフィンランドに送り込み、逃げ切ることができた。
「冷戦史上最大の二重スパイ」というのがサブ・タイトルですが、CIA長官をはじめとして、各国のスパイ機関に対して、KGBそしてソ連首脳部の思考方法・思考回路を教え、その対応を伝授したということです。そのため、単なる裏切り者だったら大嫌いなはずのサッチャー首相からも高く評価され、ついにはイギリスで叙勲までされたのでした。今もイギリスの郊外の一軒家で、24時間の警備対象となりながら、本人は静かに暮らしているとのことです。
妻子を見捨てた格好でソ連を脱出したため、結局、ソ連が崩壊したあと、脱出から6年後に妻子と再会しても、関係修復とはならず、最愛だった妻とは別れて孤独な生活を余儀なくされたといいます。スパイという存在は、生き延びるのも大変ですが、生き延びたとしても昔のままの人間関係はありえず、親しかった人々からは「裏切り者」として今も白い目で見られているとのこと。うむむ、なかなかに難しい選択ですね。
堂々480頁もある大作です。私はずっとカバンに入れて持ち歩き、裁判の合間と電車の中で読みふけって、4日間でついに読了しました。なにしろ、この本に書かれている脱出劇は小説ではありませんので、手に汗にぎる状況でハプニング続出なのです。トランクのなかに袋をまとって隠れているわけですが、犬が臭いをかぎつけたら万事休すです。犬の鼻をそらすために匂いのある菓子を投げ与えたり、赤ちゃんのオムツを放り投げたりもしたのでした。
オレーク・ゴルジェフスキーはKGBの大佐でロンドン支局長、46歳だ。ところが10数年前からイギリスのスパイ機関MI6に情報提供するスパイだった。
ゴルジェフスキーの父も兄もKGB。KGB一家のなかで育った。
イギリスに情報を提供するときには隠れ家でじっくり話したとのこと。いやあ、こんなことを「定期」的にしていて、よくもバレなかったものですね。そして、10数年間も、よくぞ精神の平穏が保持できたものです。驚嘆します。
イギリスのスパイ機関のトップにいたキム・フィルビーも長いあいだソ連に情報を提供していたのでした。
ゴルジェフスキーが任務地の変更でモスクワに戻ったとき、イギリスのMI6は、まれにみる自制心と克己心から、モスクワではスパイとしての情報提供をしなくてよいとゴルジェフスキーに告げた。
うひゃあ、日本の忍者でいう「草」になれというのですね...。
ゴルジェフスキーにイギリスのスパイだという疑いがかかったとき、KGBはスターリン時代と違って、すぐに処刑するのではなく、証拠を集め、裁判を開き、正式な手順を踏んで判決を言い渡す必要があった。このためゴルジェフスキーは助かったのでした。そして、時間が稼がれてイギリスのMI6と連絡をとるのに成功し、逃亡することにしたのです。
ずっと、その前、ゴルジェフスキーは、担当の取調官の取調の過程で、自白剤を飲ませられてもいます。なんとか、この危機は切り抜けることができ、脱出のルートへ歩み出すことができたのです。モスクワのド真ん中でイギリスのMI6と接触して「危急避難」のメッセージを発したわけですが、この接触方法も考え抜かれた末のものだったようです。
スパイ人生の末路は哀れのようです。でも、時代が必要な仕事だと要請したのも間違いありません。読み終わったとき、ふーっと思わず深呼吸してしまいました。
(2020年6月刊。2900円+税)

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2020年9月24日

草はらに葬られた記憶「日本特務」

モンゴル・戦前(日本史)


(霧山昴)
著者 ミンガド・ボラグ 、 出版 関西学院大学出版会

今は飲んでいませんが、「初恋の味」カルピスには思い入れがあります。そのカルピスは、モンゴル遊牧民が愛用してきた乳酸飲料をヒントに生まれたもの。そうだったんですね...。
カルピスを創業した三島海雲は、大隈重信のすすめで、内モンゴル草原まで日本からメリノー種の種つけ用の羊を運んで、羊の品種改良に取り組み、また、内モンゴル草原から神戸にモンゴル牛を輸入していた。さらには、内モンゴルで武器売買も扱っていた。
うひゃあ、まったく知らない話ばかりです。
日露戦争で戦線の拡大にともない日本軍に軍馬の必要性が高まり、三井物産と大倉組が満州で軍馬の調達にあたった。半年後には、満州の馬はほとんど日本軍が買い上げた。そこで陸軍省は馬をモンゴルから移入することを考えた。三島は軍馬を調達するために内モンゴル草原を訪れ、そこでモンゴル人が日常的に愛用している乳酸菌飲料と出会い、カルピスをつくるに至った。
モンゴルは、ソ連、中国そして日本という大国に翻弄され、その狭間で生きていたが、この三者のなかで主導権を握っていたのは日本だった。
アバガは、日本式にアパカとも呼ばれるが、モンゴル語ではアバガ。モンゴルの北部にあり、北はモンゴル国と接する草原地帯。アバガ地域に住むモンゴル人の多くは、チンギス・ハーンの異父兄弟のオルグティの末裔(まつえい)と言われている。
絵本「スーホの白い馬」でおなじみの赤羽末吉も1943年に内モンゴルを訪問している。
1931年に満州事変が勃発し、関東軍が満州全土を支配し、翌1932年に満州国を建国させた。このとき70万人のモンゴル人が住んでいた内モンゴルの東部が満州国に編入された。
このころ内モンゴルにいた日本人には、今西錦司、江上波夫、梅棹忠夫らもいた。
関東軍は、モンゴルが価値の高い地域であったので、モンゴル民族の自決より、自前(日本)の利益を優先させた。
関東軍は、この地を「蒙彊」(もうきょう)と呼んだ。現地の多くのモンゴル人はこの呼び名に抵抗し、反対した。「蒙古」は遅れた古い地域、そして「彊」も辺境を意味したからだ。
関東軍の下の日本特務機関がモンゴル内の各地にあった。かれらはモンゴル人青年を諜報員として動員していた。
ところが、1960年代に中国で文化大革命がはじまると、日本特務に協力していた(させられていた)モンゴル人は、「日本帝国主義の走狗(そうく)」として打倒の対象となった。
モンゴル人のなかにも、親日派、反日派、そして中立派の3派があった。
関東軍は、内モンゴル草原のほぼすべての役所に日本人顧問を派遣して、政治を裏から握っていた。初等教育段階から日本語を学ぶのがあたりまえになっていた。関東軍は、各所の役所や寺院を拠点として日本特務機関、その補助機関を置いて、支配圏を固めていた。つまり、内モンゴルの西部も、まぎれもなく日本の植民地だった。
いま内モンゴル人は、中国国籍である。これによって、かつて日本の植民地であった内モンゴルが大国中国や独立国家モンゴルの陰に隠れてしまうことになった。そして、一般の日本人も日本の歴史研究者の多くも、内モンゴルを「中国人」にした日本の責任を忘れてしまっている。
巨大な軍隊をうしろ盾にした日本特務機関を恐れて協力した人々、生活のために日本軍に協力した人々もいたことは事実だ。そして、彼らは、「日本特務」、「日本帝国主義の走狗」として、文化大革命の続いた長い年月に苦しみ抜いたのだった...。
内モンゴルに戦後生まれたモンゴル人の著者は日本に来て、今は大学の非常勤講師をしています。内モンゴルの人々の苦難の歴史について、当時を知る人々に取材してまとめた貴重な価値ある本です。日本人の加害者としての負の遺産がここにもありました。忘れてはいけない歴史です。
(2019年10月刊。2400円+税)

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2020年9月23日

食の歴史

人間


(霧山昴)
著者 ジャック・アタリ 、 出版 プレジデント社

人間にとって、食事は本当に大切なものだと思います。
食事中の会話は、きわめて重要だ。親は子どもが食卓でしゃべるのを禁じてはいけない。会話は、健全な食事を促す。
ギリシア人にとって、食事は何よりもまず会話の場だった。食は、すなわち言葉だった。
ユダヤの伝統では、食卓で子どもはおとなしくするのではなく、反対に発言するように促された。
フランス人は、1日に食事で2時間11分を過ごす。これはアメリカ人の2倍。そしてフランス人は食事中にテレビを見る人の割合が低い。朝食事に10人に1人、昼食時に5人に1人、夕食時に4人に1人。
食べ過ぎないためには、時間をかけてゆっくりかんで食べる。そうすると、食道や胃腸の負担も軽減できる。ゆっくりかんで食べると、摂取カロリーは15%も減り、菌を健康に保つことができ食べすぎを防げる。
ところが、今日の大半の若者にとって、食よりも衣服、娯楽、ケータイのほうが大事だ。
肥満が原因で、毎年280万人のヨーロッパ人が亡くなっている。赤肉よりも健康に良くないのは加工肉。つまりハム・ソーセージなど。加工肉の発ガン性は間違いない。
1万年前のヒトの食は5000種もの植物にもとづいていたが、今日では60%は4種類の食物、つまり小麦、トウモロコシ、ジャガイモそして米だけで確保されている。
2019年の世界の人口は76億人。毎年910万人が栄養失調で亡くなっている。1億5千万人の子どもは栄養失調のため、発育不全の状態にある。
アメリカでは、年間40万人(主として最貧層)が食生活を原因とする心臓病で亡くなっている。
世界の食品業界の主要企業は相変わらず、アメリカ系かヨーロッパ系だ。食品業界の上位10社のうち5社はアメリカ企業だ。
世界でもっとも人気のある国の料理は、1位のイタリア料理、2位が中国料理、3位は日本料理、第4位はタイ料理、そして5位のフランス料理へ続く。
2018年、地球で生産された食料の3分の1、13億トンの食糧がゴミとして捨てられた。
いま、昆虫食が注目されている。フランスの会社は昆虫からステーキをつくっている。
食事は大切だと私も考えていますが、平日の夜は、いつも新聞を読みながら夕食をとっています。ちなみにテレビは全然みません。昼も、さっさと食べ終わったら、パソコンに向かい、メールやFBをじっくり眺めています。
コロナ禍のおかげで、会食の機会が激減しましたので、食事に2時間もかけるなんてことは、とんとなくなってしまいました。残念です。
(2020年3月刊。2700円+税)

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