弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2024年7月15日

大邱の敵産家屋

韓国


(霧山昴)
著者 松井 理恵 、 出版 共和国

 詩人の森崎和江が生まれたことでも知られる韓国第3の拠点都市・大邱(テグ)の歴史を追いかけた本です。
 森崎和江は、1927年、日本による植民地支配下の朝鮮慶尚北道大邱府三笠町に生まれた。日本人町だった三笠町は、今では三徳洞と地名を変えている。
朝鮮戦争が始まったあと、人民軍(北朝鮮軍)に大邱は占領されなかったので、全国から多くの避難民が集まってきた。
 植民地時代に都市計画にもとづいて開発された日本人の居住地は、交通機関や公共施設から近くて利便性が高く、古くからある市街地に比べて安全かつ衛生的だったので、高級住宅街とされていた。
 日本の宅地開発では、道路に沿って住宅が建てられ、その玄関も道路との関係によって位置が決まる。これに対して、伝統的な韓国の住宅は南からの出入りをもっとも重視する。
 日本敗戦後、日本式家屋は「敵産家屋」と呼ばれた。
 大邱は今日では保守的な都市というイメージが非常に強い。しかし、軍事クーデターによって朴正煕(パクチョンヒ)が政権を握るまでの大邱は「朝鮮のモスクワ」と呼ばれるほど革新勢力が強い都市だった。ところが、大邱出身の朴正煕は、自らの地盤を固めるため、この地域の左派勢力を残忍かつ執拗に弾圧して、反共と地域縁故主義の二本柱とする保守的な都市につくり変えた。
日本敗戦前の大邱には最大3万人の日本人が居住していて、人口割合としても3割ほどを占めた。そして日本敗戦後、大邱には、町工場の並ぶ工業都市となった。
 そして、今やタワーマンション(49階建)6棟、800世帯が生活する地域となっている。すっかり変わってしまったようですね。町工場時代の助けあいの状況が詳しく紹介されているところに大変興味をもちました。東京の太田区の町工場街も同じようなものだったと聞いたことがあります。今はどうなのでしょうか...。
(2024年3月刊。2700円+税)

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2024年7月14日

彰義隊、敗れて末のたいこもち

日本史(明治)


(霧山昴)
著者 目時 美穂 、 出版 文学通信

 明治に松廼家(まつのや)露八(ろはち)という有名な幇間(ほうかん。たいこもち)がいました。その数奇な人生を明らかにした本です。
 松廼家は本名を土肥(どひ)庄次郎頼富といい、一橋家の家臣だった。家格もお目見(めみえ)以上という、れっきとした武士。ところが、若いころに放蕩(ほうとう)がたたって、廃嫡(はいちゃく)された。それで幇間になって暮らしていたが、36歳のとき徳川政府が瓦解したあと、彰義隊に加わって官軍(新政府軍)と戦った。彰義隊が敗走したとき、なんとか生きのびて再び幇間に戻った。
 吉川英治が小説として「松のや露八」を書いた。また、芝居にもなった。
 幇間は、たいこもち、たぬき、男芸者と呼ばれる。遊廓(ゆうかく)に来た客をすこぶる楽しく遊ばせるのを仕事とする。一見すると気楽そうだが、知れば知るほど大変な商売。
 客は遠慮も容赦もない。ただの道楽者につとまるような生半可なものではない。
 吉原に客としてやって来る男たちは、吉原の女たちが貧困のため、家族がした借金のため客をとらされている悲惨な境遇であることを知っている。知ってはいるけれど、それを真剣に考え、心底から女たちを哀れと思ってほったら、もはや吉原を美しい夢の国として享受することが出来なくなる。そこで、夢を維持するため、夢の国の女たちは、世間の貧しさも苦労も知らない、およそ巷(ちまた)の労苦からかけ離れた存在としていた。そして、遊女たちに同情するより、世間知らずを笑いものにする。
 彰義隊に対して、江戸の庶民は江戸っ子の思いを背負って死に花を咲かせようとしている武士たちだと受けとめて、熱烈に肩入れした。それで、彰義隊が無惨に敗走したあとも、江戸の町民はひそかに彰義隊の志士たちを大切に扱っていたようです。
彰義隊は戦闘が始まってから4時間ほど、午前10時ころまでは優勢だった。しかし、政府軍が新式のアームストロング砲を活用するようになってからは敗色が濃くなり、午後2時に彰義隊の敗走が始まった。
 松廼家はなんとか生きのびて、明治4年ころから再び幇間を始めた。
吉原につとめる女性は30歳を過ぎて遊女のままという人はまずいなかった。年季の明けた元遊女が、幇間や芸人など、廓内で働く男と結ばれるのはよくあることだった。
 幇間芸は、お座敷で、客の気分に従って即興で演じられるもの。あらかじめ小道具を準備しておくようなことはしない。その場にあるもの、手拭いと扇子、せいせいお膳に並べられた皿や徳利を使って、当意即妙の芸をしなければならなかった。
 露八は相当の苦労もして愛想もふりまいて復帰した吉原に受け入れてもらった。そして、なかなか受け入れてはもらえなかった老幇間の露八は、ついには、名物幇間として明治の世に通用した。明治36(1903)年11月、露八は71歳で死亡した。まさしく数奇な人生ですね...。
(2024年2月刊。2500円+税)

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2024年7月13日

忘れられた日本史の現場を歩く

日本史(平安)


(霧山昴)
著者 八木澤 高明 、 出版 辰巳出版

 岩手県奥州市の山中に人首丸の墓碑がある。
 平安時代に、京都から坂上田村麻呂が大軍を率いて、東北地方を征服しようとやってきた。激しく抵抗していたのは蝦夷(えみし)と呼ばれる人々で、その首領はアテルイそして腹心のモレ。アテルイは地の利を生かして789(延暦8)年に始まった一回目の戦いでは大勝したが、794年に始まった二回戦では、ついに大敗し(801年)、アテルイとモレは投降した。坂上田村麻呂は二人を京都に連れて行き、助命を嘆願したが、アテルイたちの力を恐れる朝廷は、斬首を命じた。大阪の枚方市にある牧野公園にはアテルイとモレの首場が今も残っている。
 アテルイたちのあとに朝廷に立ち向かったのが人首丸。
 しかし、人首丸も806(大同元)年に朝廷軍によって打ち取られた。年齢は15歳か16歳。はるか遠くに北上川が流れる北上盆地が見渡せる山中に人首丸の墓石がある。
 私がアテルイなる人物を初めて知ったのは、高橋克彦の「火怨(かえん)」(上下。講談社)でした。アテルイの「遊撃戦」が生き生きと描かれていて驚きました。その後も、熊谷達也の「まほろばの疾風」(集英社)、樋口知志の「阿弖流為(あてるい)」(ミネルヴァ書房)、久慈力の「蝦夷・アテルイの戦い」(批評社)と続けて読みました。いずれも蝦夷を未開の野蛮人とはみていません。すごい人たちがいたものだと驚嘆しました。
長崎県の上五島の中通島には潜伏キリシタンが建てた教会がある。もちろん、江戸時代に建てられたのではなく、明治になって禁教が解かれてからのこと。
 上五島は、私が弁護士になった年(1974年)4月、日教組への刑事弾圧が全国的にあり、まだバッジも届いていなかったので、先輩からバッジを借りて出かけたという、思い出深いところです。
 著者は、日本史に登場してくるけれど、忘れ去られたような場所を訪ねて歩いたのでした。
(2024年6月刊。1760円)

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2024年7月12日

アイヌもやもや

人間


(霧山昴)
著者 北原モコットゥナシ ・ 田房 永子 、 出版 303Books

 アイヌ民族と差別について、マンガをふくめて問題点が手際よく紹介されている本です。私自身も読んで大いに反省させられました。
 沖縄の人から見ると、九州・四国・本州の人々は「やまとうんちゃ(やまとの人)」です。同じように、アイヌ民族からすると「シサム」と呼びます。初めて知りました。
 日本は「単一民族国家」だとか「一民族一国家」という、アイヌ民族という少数民族の存在を無視した言い方をする人が少なくありません。これは、たしかに間違いだと私も思います。
 ちなみに、「奄美・琉球民族」という表現は、私には正しいものとは思えませんが...。
 在日コリアンを含めて、多数の外国人労働者が現に日本に存在していることも無視してはいけない現実です。私は福岡市内でフランス語を学んでいますが、そのフランス人講師は、フランスの歌手にもサッカー選手にも起源はフランス外の人が驚くほど多数いることを紹介していました。国際交流が進んで世界平和につながっていくことを私は願っています。ところが、今、ヨーロッパでは移民排斥を主張する極右勢力が支持を集めているという悲しい現実があります。
 1899年に制定された北海道旧土人保護法は、名称からして「旧土人」といういかにも差別的な法律ですが、アイヌの農耕民化・和風化をすすめるため、アイヌに農地が用意された。しかし、和民族に対しては1人あたり10万坪なのに、アイヌに対しては1戸(1人ではなく)あたり1万5千坪だけ。ケタ違いでした。
 1980年代、札幌市の高校で、社会科の教師が、「誤ってアイヌと結婚しないように」と言って、授業でアイヌの「見分け方」を解説した。信じられません。これって偏向教育そのものですよね...。
 マイクロインバリデーションとは、相手の感情、経験を排除・否定・無化すること。
 「北海道には歴史がない」とか、「開拓」「フロンティア」を礼賛するというのは、アイヌの歴史・被害の否定なのだ。そのとおりですよね。
 そもそも平安時代の書物(新撰姓氏録)を見ると、当時の貴族の10人に3人は渡来人だったし、平安京を開いた桓武天皇の実母は、百済(くだら。朝鮮半島にあった古代国家の一つ)の人だった。これは歴史的事実です。
 アイヌ人なんていないというのは、見ようとしないから見えないというだけ。なるほど、そのとおりです...。
(2024年6月刊。1760円)

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2024年7月11日

キンダートランスポートの少女

ドイツ


(霧山昴)
著者 ヴェラ・ギッシング 、 出版 未来社

 チェコ人の子どもたちが、ナチス・ドイツの侵攻直前に集団でイギリスに疎開して助かったという話の当事者が語った本です。
 先日、天神の映画館(KBCではなく、キノ・シネマ)でみた映画「ワン・ライフ」のパンフレットで紹介されていたので、至急とり寄せて読みました。
 チェコにいた1万5千人ものユダヤ人の子どもたちがヒトラーのユダヤ人絶滅政策によってホロコーストで殺害され、強制収容所から生還できたのは、わずか100人だけでした。
 ところが、ロンドンで村の仲買人をしていた30歳のニコラス・ウィントン(愛称はニッキー。元ユダヤ人)が、チェコに入ってユダヤ人の子どもたちをイギリスに集団疎開させる事業に取り組んだのです。大変な事務手続がいります。輸送費用もかかります。子どもたちを引き受けてくれるイギリス人家庭も探さなくてはいけません。それをニッキーは仲間と一緒にやったのです。
 ヒトラー・ナチスがチェコを併合する前の3ヶ月間にニッキーはやり遂げたのです。でも、最後の列車の便に乗っていた子どもたち250人は列車に乗り込んだものの、ついに引きずりおろされ、死に追いやられてしまいました。ニッキーは、自分たちの努力で助けた669人の子どもの存在を誇るというより、むしろ助けられなかった250人の子どもに申し訳なく、罪の意識を感じてしまい、戦後ずっと自分たちの行動とその成果を封印して生きていたのです。
 それが、1988年2月にイギリスのテレビ番組で取り上げられ、ついに世の中にニッキーたちの取り組みが知れ渡りました。助かった669人の子どもたちが、先日の映画では子や孫たちが増えて6000人になったとされていました。「シンドラーのリスト」や日本人外交官「センポ・スギウラ」の話とまったく共通します。
私は、ガザに侵攻したイスラエル軍の蛮行は、まさしく「ユダヤ人虐殺」と同じようなもので、立場を変えて「虐殺」が進行していて、今も止まっていないことを思い、涙が止まりませんでした。
 この本には、なぜチェコのユダヤ人の子どもを受け入れたのかと問われたイギリス人の答えが紹介されています。
 「私は自分が世界を救うことができないことも、戦争を止めさせることができないことも分かっていたけれど、人を一人助けることはできると思ったんだ」
 ニッキーはイギリスで棟の仲買人として安楽な生活をしていたのです。しかし、チェコに行って子供たちが危ないと思ったら、救助活動しなくてはいけないと思って行動を開始したのでした。もちろん、一人でやれることではありません。大勢の仲間と一緒にやったことです。
 でも、肝心なことは誰かが口火を切って動き出す必要があるということです。
 ウクライナもガザも戦火を止める必要があります。尖閣諸島が中国にとられないように日本が軍備を増強するのは仕方がない。そんなことを考えている問題ではないのです。むしろ、日本(政府)の行動こそ戦争を招いている。それを一刻も早く日本人みんなが自覚すべきだと、映画をみて、本を読んで痛切に思いました。
(2008年5月刊。2500円+税)

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