弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(平安)

2024年4月 5日

悩める平安貴族たち


(霧山昴)
著者 山口 博 、 出版 PHP新書

 テレビを見ていないので、なんとも言えませんが、紫式部という女性には、昔からすごく関心があります。『源氏物語』には、私も何度か挑戦しました。もちろん原文ではありません。
 平安時代の男性の生き甲斐は、出世と恋と富の三つ。そして女性は、「書く」ことに生き甲斐を見出していた(もちろん、すべての女性ではありません)。
 紫式部は『源氏物語』を書くことにより、ともすれば落ち込む心を励まし、清少納言は『枕草子』を書きつづることにより、個人臭は強烈だが、宮仕えの実相を明らかにした。
日記を書いた女性もいる。紫式部は物語だけでなく日記も書いている。菅原孝標(たかすえ)の娘は『更級(さらしな)日記』と4本の物語を書いた。
 私も「書く」ことに生き甲斐を見出しています。今は、昭和のはじめに東京で生活していた亡父の生きざまを活字にしていますが、いろんな資料を入手するたびに新鮮な驚きがあり、毎日ワクワクして生きています。
 清少納言は結婚し、離婚した。そして、28歳ころ、藤原道隆(関白内大臣)の娘であり中宮(天皇の妻)の定子(ていし)の私的女房として、定子が死ぬまで8年のあいだ仕えた。
 女房社会を謳歌するには、歌を詠(よ)むことがとても大事だった。
 紫式部にとって、華麗な貴族の生活はなじめない世界だった。紫式部の世界観は「世は憂し」だった。そうなんですか...。
 紫式部は、和泉式部についてはいささかの文才を認めたが、清少納言に対しては徹底的に批判した。才能ある女性同士のサヤ当てなのでしょうか...。
女性の棒給は男性の半分と規定されていた。ただし、定年はなく、終身雇用が建て前だった。
 平安時代の貴族にとって、自分を性的に解放して生きるのは自然なことであり、何ら非難すべきものではなかった。その後も、この伝統は脈々と生きています。和泉式部には30人から40人ほどの愛人(男性)がいた。一夜のうちに男性から男性へと渡り歩き、誰の子をはらんだか分からなくなった女房は、和泉式部だけではなかった。
 節度をわきまえた「色好み」は、人格的欠陥ではなく、当時の貴族の身に備えるべき条件だった。光源氏のモデル説のある藤原実方(さねかた)は、20人以上の女性と関係があり、清少納言もその1人だった。そうなんですか...。
藤原道長や道隆の棒給は、年収にして3億円から4億円。そのうえ、地方官から、鳥など山のように贈り物があった。これに対して、中・大流貴族の生活は苦しかった。
 右大臣までつとめた藤原良相(よしみ)は、自邸の一角に邸宅を建て、藤原氏の「窮女」「居宅なき女」を収容した。
平安時代の貴族は男性も女性も短歌がつくれなかったら評価されなかったようです。これって、向き不向きを考えると、結構きびしい条件となりますよね。
(2023年11月刊。1100円+税)

2024年2月19日

恋愛の日本史


(霧山昴)
著者 本郷 和人 、 出版 宝島社新書

 万葉集にある歌は、自分は人妻と交わり、自分の妻を他人に差し出す。これは山の神が昔から禁じていないことを示している。古代日本の歌垣では、このような奔放な性の営みが行われていた。
 古代日本には女性の天皇が少なくない。女性天皇は8人いるが、そのうちの6人が古代に集中している。中国では女性の皇帝は則天武后がいるだけで、基本的には存在していない。
女性の地位が高いほど、男女は対等なかたちで恋愛が展開していくことになる。
 女性の「本当の名前」は明らかにされていないし、明らかにされるべきものではなかった。
 紫式部の本名は今なお不明。北条政子にしても、本当の名前ではない。そうなんですか、いや知りませんでした。
 著者は、女性天皇の存在について、「あくまでも中継ぎ」だと強調しています。いやいや、決して「中継ぎ」ではないという学説も読んだことがあります。どちらが正しいのでしょうか。学界の通説(多数説)は、どちらなのでしょうか...。
 著者の考えは、天皇家が母系ではなく、あくまでも父系の系統で継承されていくものだったからという考えにもとづきます。
 『源氏物語』によると、日本社会が恋愛や性愛に関して実に大らかだったことがよく分かる。
 藤原道長は晩年は糖尿病のため、目がほとんど見えていないほどだったとされています。
 有名な、「この世をば我が世とぞ思う、望月の欠けたることもなしと思へば」というのも、糖尿病のため視力が低下して、月が欠けているかどうかも見えない状況も反映させているという説があるそうです。知りませんでした。
 紫式部との「恋愛」とか、和歌のやりとりにしても、「ある種の礼儀」と考えるべきではないかとも解説されています。そうなんでしょうか...。
 平安時代の美女は、「お多福」や「おかめさん」のような「切れ長の細い目で、ふっくらした頬」だった。
 男性(貴族)のほうも、「でっぷりとたっている」こと、そちらが好ましい、美しいスタイルだった。太っているのは、富の象徴となっていた。
 日本に梅毒が入ってきたのは戦国時代、南蛮貿易を通じてのもの。したがって、中世の日本では梅毒の心配はなかった。性愛を謳歌しても、病気の心配はしなくてよかった。
日本は世界的にみても、男性同士の関係、男色に対して非常に寛容な社会だった。
 知らない話がいくつもありました。
 
(2023年7月刊。990円)

 家に帰るとハガキが届いていました。大判の封筒ではありません。「ありゃあ、やっぱりダメだったのか...」と、沈んだ気分でハガキを開きました。1月に受験したフランス語検定試験(準1級)の口述試験の結果は「不合格」でした。合格基準点が22点のところ、私の得点は21点、わずか1点の不足でした。本当に残念です。受験室を退出するときニッコリ笑顔で、「よろしくお願いします」とブロックサインを送ったつもりでしたが、試験官はごまかされず、冷静に採点したのです。まあ、これが私の実力なのですから、仕方ありません。やはり加齢とともに語学力が低下しているようです。筆記試験も成績が下がっています。
 それでも毎朝の聴き取り、書き取りはこれからも欠かしません。
 夜、悔し涙のせいで眠れませんでした。というのは嘘なんですが、実はショックから花粉症が発症してしまい、鼻づまりで苦しい夜になってしまったのです。
 世の中、明けない夜はない。それを信じて生きていきます。

2024年1月 2日

「源氏物語入門」


(霧山昴)
著者 高木 和子 、 出版 岩波ジュニア新書

 これまで「源氏物語」には何度も挑戦しました。もちろん、原文ではありません。本棚には、瀬戸内寂聴の本など、6冊が並んでいます。でも、もうひとつしっくりきませんでした。この新書はジュニア新書だけあって、私にもとても分かりやすく、「源氏物語」が千年も読みつがれている秘密を十分知ることができました。ジュニア新書って、大人の私にも大いに目を開かせてくれることが多いので、私は愛読しています。
 光源氏は、仕える人々の心を、きちんと管理し掌握できている。それは、まるで、社員教育の行き届いた会社のようだ。社長が部下に信頼され、統率がとれている優良企業を思わせる。
 光源氏の好色は、一対一の男女関係の誠実さという意味では不誠実にしか見えない。
 しかし、その多情さ、鷹揚(おうよう)さによって救われる女性たちが少なからずいた。それによって多くの高貴な女性たちが名声を汚(けが)さず没落せずに生き続けられるなら、一種の社会保障にも近い。うーん、そういう見方もできるのですか...。
 権力者が窮屈な一夫多妻に生きたら救われない多くの女性が路頭に迷うかもしれないという脈略は、なかなか現代人には了解しがたいところだが、それが当時の現実だった...。
 「源氏物語」は、笑われる人、笑いを回避される人それらを相互に観察させながら対照的に、その位置づけや心理をたどっている。
 当時の貴族社会の女房たちは、しばしば複数の主君を渡り歩いており、必要な生活上の物の貸し借りをしたり、人と人との関係を結んだり、噂を伝えたりしていた。いわば情報の運び役、伝達者だった。
 この当時、格式高い女性は、男性を通わせるものだった。すぐに同居するのは、目下の女である証(あかし)になる。なーるほど、そういうものなんですね。
 正妻とは、対照的に身分の高い女性をいう。当時の結婚においては、男女の個人の魅力より、出身の家の家格や政治力が重要だった。
 晩年の光源氏は、女三宮(さんのみや)を恋敵の柏木に寝取られ、不義の子である薫を我が子として育てるなかで、最愛の紫の上に先立たれるという、苦悩に満ちた日々を過ごす。自分は人一倍の栄華を極めたけれど、一方で苦しみが深いことも比類なかった。まるで、仏に与えられた苦行であるかのような生涯だったと、光源氏は自らの生涯を振り返った。
 そして、光源氏の死んだあとを語る「宇治十帖」の世界は、光源氏の光り輝く世界の負の側面を照らし出す薫(不義の子)と八宮(光源氏の弟)によって始まる。
 光源氏の息子とされつつ実の子ではない薫と、光源氏の孫にあたる匂京は恋のライバルとなり、互いを観察し模倣する。そういう構造の本だったのですね。
 男たちの欲望に翻弄(ほんろう)され続けた女性たちは、やがて自分の意思で自立していく。美しい男皇子(みこ)、光源氏の物語として始まった「源氏物語」は、次第に女の物語に変容し深まっていく。
 なるほど、そういうことだったのですか...。単にプレイボーイが浮気を繰り返し、女性遍歴をするなんていうストーリーではなかったというのです。ここに1000年もの生命を保ち続ける秘密があるのですね...。
 220頁ほどの新書ですが、大変勉強になりました。さすがは「源氏物語」の研究者です。
(2023年11月刊。960円+税)

2023年12月 8日

紫式部と藤原道長


(霧山昴)
著者 倉本 一宏 、 出版 講談社現代新書

 この本は紫式部の『源氏物語』がなかったら藤原道長の栄華もなかったとしています。ええっ、そ、そこまで言えるものなのでしょうか...。
清少納言は当時の一次資料には、まったく名前が登場してこない。それに比して、紫式部のほうは「藤原為時(ためとき)の女(むすめ)」として登場してくるので、実在の人物だと言える。
 藤原道長の命令と支援があったからこそ、紫式部は『源氏物語』や『紫式部日記』を執筆できた。藤原道長は紫式部より7歳だけ年上。
 この当時、文人としての名声を得たとしても、それは現実社会における地位や、ましてや収入に結びつくものではなかった。
 紫式部は26歳前後で、20歳も年長の藤原宣孝と結婚した。そして、二人の間に賢子(けんし)が誕生した。この賢子は道長の娘・彰子に出仕し、親仁(ちかひと)親王の乳母(めのと)となって、「大弐(だいに)三位(さんみ)」と呼ばれ、80歳をこえて長生きした。紫式部の娘らしく、家集まで出しているそうです。
 紫式部が29歳のとき、その夫・宣孝は結婚して、わずか2年半で亡くなった。
 『源氏物語』は全編54巻で、617枚の料紙を必要とする。そのために必要なのは2355枚。当時、紙は非常に貴重なもので、誰でも手に入るものではなかった。そこに、道長に執筆を依頼され、料紙の提供を受けて起筆したという説の根拠がある。
 紫式部はこの要請を受けとめて、基本的骨格についての見通しをつけたうえで『源氏物語』を起筆したと著者は推定する。紫式部が『物語』を書きはじめて、好評だったことから藤原道長が応援するようになったという説もあるようです。
 紫式部は34歳のとき、彰子に出仕した。このとき、すでに『源氏物語』の執筆を始めていた。
 紫式部は、出仕した直後は宮中になじめなかったようだ。「まるで夢の中をさまよい歩いているような心持ちであった」と日記に書いている。紫式部は、引っ込み思案で、内省的な性格だった。
 彰子の主導で、『源氏物語』の書写と冊子づくりが大々的にすすめられた。紫式部が彰子に出仕した時点では、すでに清少納言が仕えていた定子(ていし)は死去していた。だから二人が宮中で直接に顔を合わせる機会はなかった。
 彰子に仕える紫式部は、『枕草子』で謳歌(おうか)されている定子のサロンを否定し、清少納言を非難した。
 道長は紫式部の『源氏物語』がなければ、一条天皇を中宮彰子のもとに引き留められなかった。道長家の栄華は紫式部と『源氏物語』のたまものであった。
 紫式部はNHK大河ドラマのテーマになるようで、今、ブームが再燃しています。

(2023年9月刊。1200円+税)

2023年12月 6日

藤原道長


(霧山昴)
著者 山中 裕 、 出版 法蔵館文庫

 「此世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしとおもへば」
 この有名な和歌を詠(よ)んだのは道長53歳のときです。それから10年たたぬうち、62歳で道長は亡くなっています。道長は眼病に悩み、肺結核にかかり、心臓病もあったようです。
 道長の政治は太政官政治であり、いわゆる政所(まんどころ)政治ではない。道長の政所ですべてが決まり、天皇は相談役にもなっていないという説は妥当ではない。
 道長は、公に関しては、公卿会議を行い、御前定と陣定によって、すべてを処理した。朝廷に関する問題の処理は、すべて太政官で行われ、摂関家の政所では行われていない。
 摂関政治は、律令政治の延長線上にある。
 道長が『御堂関日記』を書き続けたということは、学問への情熱の深さ、漢学の知識、仮名に関しても深い造詣(ぞうけい)をもっていて、教養の深さがにじみ出ている。
 紫式部の『源氏物語』の光源氏の全盛期のモデルは道長であり、六条院は土御門亭(つちみかどてい)である。
 道長は、紫式部をはじめとする多くの女流作家たちを、娘の中宮彰子のもとに集め、そこが一大文芸サロンとなっていた。紫式部の『源氏物語』も、このころ(實永年間)書かれていたと推定される。
 道長は書籍を多く収集している。学問への関心と同時に仏事方面にも道長は大変に関心を深めた。晩年の道長は、その心に浄土をあこがれる気持ちが強くなっていた。
 一条天皇時代は25年間も続いた。このとき道長は天皇と、安泰に過ごし、次の實弘年間には、紫式部をはじめ、女流文学の華が開いた。それには道長の娘(彰子)が天皇の中宮として聡明であったことによる功績が大きかっただろう。
 1016(長和5)年に、道長は待望の、外孫である天皇の即位が、初めて実現した。まだ9歳の幼帝であることから、道長は当然に摂政となった。
 道長の一生を丹念にたどった労作です。道長と紫式部との関係をさらに深く知りたくなりました。
(2023年7月刊。1200円+税)

2023年11月30日

平安貴族の仕事と昇進


(霧山昴)
著者 井上 幸治 、 出版 吉川弘文館

 平安時代の貴族って、仕事もせずに遊び暮らすという優雅な生活を送っているというのが一般的なイメージです。でも、実は、そんなことはなく、それなりに忙しかったようです。
平安時代の京都(平安京)の人口は、12~13万人が暮らしていた(1000年ころ)。これを同じ区域、つまり、現在の上京・中京・下京の3区に住む人口27万6千人と比べ、平安京はこの3区の半分の広さなので、昔も今も変わらない(?)。
 貴族のうち公卿は三位以上の人。諸大夫(しょだいゆう。しょだいぶ)は四位と五位の人。六位以下は「侍」で、その下の「無位」(むい)は庶民のこと。「侍」は武士だけを指してはいない。
 公卿や諸大夫は、現実には、遊び暮らすようなイメージとはほど遠い生活を毎日送っていた。彼らは定められた年中行事を滞りなく、実施していく必要があり、それが政治そのもので、重要だと考えていた。
 従三位(じゅさんみ)以上の位階(いかい)を授けられた人を公卿というが、いきなり従三位に叙(じょ)されることはなく、四位・五位・六位からスタートするのが普通。初めから高い位階を授けられる制度を「蔭位(おんい)」という。
 叙爵されて五位になったものの、官途に就けない人(無官)を「散位(さんに)」と呼ぶ。
 「侍」身分は正六位以下の位階を有する人々のこと。史生(ししょう)、官掌(かじょう)が代表的。無官から登用され、その後もほぼ昇進しない。身分をこえた抜擢(ばってき)は、ほぼない。
 公卿の生活は、一年中、ひたすら勉強(予習)漬け、とても大変だった。経験者である父兄の存在はとても大切で、父兄を早くに失ってしまえば、公事(くじ)の習得や理解を遅らせてしまうことになる。
 公卿の生活は、先人の記録をひたすら読むことにある。平安貴族たちにとって、先人貴族の書いた日記や部類記、編さん物は、貴重な財産だった。
 平安朝で、人事異動を行う儀式を「除目(じもく)」と言う。この除目では「申文(もうしぶみ)」という書類が重要。申文を整理していたのが「蔵人(くろうど)」。
 除目は、清少納言の『枕草子』では、女官たちにとって笑いぐさでしかなかったが、男性官人にとっては、正月の除目は非常に重要なものだった。
 「源氏物語」に平安時代の政務の様子が描かれていないのは、女性は政治に関与できなかったから...。
 貴族たちは、まず第一に先例を学ばなければならなかった。貴族社会では、現実に起きている事実と、記録された公式見解としての事実との間に、さまざまな「差」が存在していた。平安貴族たちは、こうした「差」を巧妙に使いこなし、自らに都合の良いストーリーをつくり出していた。
 公卿・諸大夫・侍といった身分の壁は、とても厚くて頑丈であり、その差はいろいろなところであらわれる。つまり、平安時代には公卿・諸大夫・侍という身分の壁はとても厚くて頑丈であった。
 平安貴族たちは、政務や年中行事の遂行を重要な仕事としていた。決してヒマではなかったのです。この本を読むと、貴族についてのイメージが変わりますよ...。
(2023年9月刊。1700円+税)

2023年8月29日

『小右記』と王朝時代


(霧山昴)
著者 倉本 一宏 ・ 加藤 友康 ・ 小倉 慈司 、 出版 吉川弘文館

 『小右(しょうゆう)記』は、平安時代、藤原道長と同じころに生きた貴族・藤原実資(さねすけ)の書いた日記。実資は90歳で亡くなったが、右大臣にまで上りつめていて、21歳から84歳までの63年間、日記を書き続けた。
 この日記には、当時の政務や儀式運営の様子が詳細かつ精確に記録されている。
 『小右記』は、実資個人の日記というだけでなく、小野宮(おののみや)家にとっての共有財産だった。つまり、小野宮家をあげて情報を持ち寄り、それを総合して記事としたもの。
 鎌倉時代の貴族である藤原定家は、夢のなかで実資と会ったことを『明月記』に記載している。それほど、定家は『小右記』を熱心に読み込んでいた。実資は、藤原道綱を罵倒していることで有名だ。
 「先輩の自分が先に大納言(だいなごん)になるべきだろう。ましてや貴族の中でも博識で能力ある自分を差し置いて、名前がやっと書ける程度で、漢籍などの知識のないあいつが何で昇進するのか...」と怒っている。
 道綱について、功労や才能がないのに、いたずらに禄を受けるもの、職責を果たさないのに高位高官にいるものと厳しく批判した。実資は、一条天皇のキサキ藤原彰子を評価していた。この彰子の伝言を実資や小野宮一家に取り次ぐ女房が紫式部だった。
 実資は健康に気を配り、輸入品から作られる貴重な薬をことあるごとに摂取していた。
平安時代の1人の貴族の書いた63年間もの日記の意義をかなり分かりやすく(「かなり」というより、実のところ難しいところが多々ありました)。解説してくれている本です。平安時代の雰囲気を少しばかり味わうことができました。
(2023年5月刊。3800円+税)

2023年6月28日

王朝貴族と外交


(霧山昴)
著者 渡辺 誠 、 出版 吉川弘文館

 平安時代の貴族たちって、短歌を読むほかは政争に明け暮れていたというイメージがありますが、そんな貴族たちも国際的な外交のことはちゃんと考えていたという歴史書です。うひゃあ、そ、そうだったんですか...、知りませんでした。
 たとえば菅原道真は、宇多天皇のとき、遣唐大使に命じられ、遣唐使として唐に行くはずでした。しかし、唐の国内状況が怪しいので、止めたらどうかという親書を出し、現実にも行っていません。なので、日本史の教科書では、遣唐使が廃止されたと書かれていました(今は違います)。
菅原道真は唐に行きませんでしたが、その後も天皇によって遣唐使を送ろうという動きはあったのです。ですから、菅原道真の提案で遣唐使の制度が廃止されたというのは歴史的事実に反することになるというわけです。
 11世紀に「刀伊(とい)の入寇」という事件が起きました(1019年)。壱岐、対馬が襲われ、博多や糸島にも上陸してきたのです。
「刀伊」とは、ツングース系の「女真族」のこと。このころ、まだ菅原道長が存命で、子の頼通(28歳)が摂政でした。この当時の平安貴族たちは「刀伊」(女真族)のことを知らず、高麗を恐れていたそうです。
 平安時代の日本は、国家的な軍隊をもたない国だった。防人(さきもり)は全国的な制度としては廃止されていたのです。
 対外的常備軍をもっていないわけですから、外敵の脅威に直面するたびに、心理的不安は大きく、日本は「神国」として神々に加護を祈るだけ、神国しそうとなってあらわれていた。
 平安時代の武士は少数精鋭で、国内の治安維持だけなら、それで良かった。しかし、外敵が大挙して襲来してきたときには多勢に無勢となってしまう。
 997年10月に「高麗国人」が対馬、壱岐を襲い、大変な被害をもたらした。しかし現実には賊徒の正体は奄美島人だった。
 高麗から国王の病気(中国)を治療するために役に立つ医師を派遣してほしいという書面が届き、その対応に苦労したというのです。このとき、派遣した医師が効果を上げられなかったときは一体どうするのか、を心配する貴族もいた。
 天皇は貴族たちに衆議を尽くさせた。
陣定とは、天皇が必要なときに招集して開催される諮問会議のこと。陣定では意見統一はなされず、多数決で決めることもない。決定権をもつのは天皇と関白。議定での決定が天皇を束縛することはない。そもそも、この当時、多数決というルールはない。ええっ、そうなんですか...。
 平安時代の貴族が担っていた政務について、その遂行過程を知ることができました。
(2023年3月刊。800円+税)

2023年3月18日

古典モノ語り


(霧山昴)
著者 山本 淳子 、 出版 笠間書院

 たまには平安時代の貴族社会の雰囲気を味わってみようと思って読んでみました。
 京都の平安京跡地の発掘調査において、盃(さかずき)の皿(さら)部分に墨(すみ)で文字を書きつけたものが大量に発見されているそうです。文字は和歌なのです。
 絵やマンガ(絵)もあって、大変読みやすい本です。
 牛車に乗るのは平安京だけの風景。牛車に乗ることのできる人間は限られていて、庶民は乗れなかった。天皇もまた牛車には乗れなかった。天皇の乗り物は輿(こし)と定められていたから。なので、天皇を退位すると、牛車に乗ることができた。
 貴族の乗った牛車が石つぶての攻撃を受けることはあった。
 文化勲章は、文化の発展に大きく寄与したものが資格がある。この勲章のデザインは橘(たちばな)。皇族の一員だった葛城王らが天皇に願い出て、「橘」なる姓をもらった。葛城王は橘諸兄(もろえ)と改名した。
 庶民は排泄するとき、高下駄をはいていた。この高下駄は恐らく共同使用していた。
 平安京に犬は多く生息していた。ペットや猟犬としてではなく、汚物処理係だった。猫のほうは舶来の貴重な動物であった。なので、高貴な邸宅の中で、文字どおり「猫可愛がり」されていた。猫は貴重なので、幼少時に、「犬」の名で呼ばれた人は決して少なくなかった。「犬宮」は男性にも姫君にもいた。「犬」のつく幼名は、「長い歳月を重ねての成長」を意味するようだ。
 泔(ゆ)するとは、米のとぎ汁のこと。中国では、米のとぎ汁は、料理に使うものだった。
 髪の長い貴族女性にとって、洗髪は大変だった。
 清少納言や紫式部も登場する貴族社会の内実は、とても大変な競争社会だったようです。平安貴族の十二単衣からくるイ華やかな、そして気楽なイメージに騙されてはいけませんね...。
(2021年1月刊。税込2090円)

2023年2月23日

平安貴族サバイバル


(霧山昴)
著者 木村 朗子 、 出版 笠間書院

 摂関政治とは、藤原氏が権力の中枢を牛耳る体制のこと。この体制は2百数十年も続いた。
 『枕草子』や『源氏物語』が書かれたころは、藤原摂関家が政界を席巻し、同母腹の兄弟間での権力争いがくりひろげられていた。
 平安宮廷社会は、権力奪取をめぐる熾烈(しれつ)な闘争の場だった。ただし、権力者は天皇の位をめぐって争っていたのではない。天皇は権力者ではなかった。天皇の後ろ盾となる摂政・関白の座をめぐって争っていた。
 天皇の後見である摂政・関白は、天皇の外祖父であることを根拠とした。
 天皇の寵愛(ちょうあい)を受け、妊娠し、しかも男子を産むというのは、賭博に等しい。
 天皇の愛情を勝ちとるためにサロンには、教養才気あふれる女房たちを集めた。
 大学寮は男だけのものだったので、女たちの才芸は家庭の教育によって形成される。
 「女にて見たてまつらまほし」
 これは、あまりに素敵な男性に対する褒(ほ)め言葉。女にしてみてみたいほど美しいということ。『源氏物語』のなかに何度も出てくるとのこと。知りませんでした...。
 髭(ひげ)づら、日焼け肌は醜男(ぶおとこ)。
 上流貴族は、昼日中に出かけることはめったにないから、日焼けしようもない。日焼けしているというのは、身分の低さを示している。
 美の基準は女性性にあった。風流人たる帝の遊びに機知をもって応えられる必要があった。宮廷サロンの女房たちは、少なくとも漢詩と漢文で書かれた歴史を学んでいた。
 紫式部は漢学者の娘。清少納言も紫式部も、学問の力で自立する女性だった。貴族の女性は、結婚していても、子が生まれても働いていた。天皇家に入内(じゅだい)するというのは、実際には宮中で働く一員になること。
 天皇の母は女院と呼ばれた。この地位の創出は、藤原摂関家を確立するための、とんでもない戦略だった。
 藤原氏は、一介の臣下の階級にありながら、天皇の妻の座、母の座を獲得したことで、いわば天皇そのものになってしまう方法だった。そして、この位は、もっぱら藤原氏の娘によって支配されていた。
 平安時代、女たちは、夫以外の別の男と会うことができた。一夫多妻は一妻多夫でもあった。
 貴族の女性たちの実態に改めて目が大きく開かされる本でした。
(2022年9月刊。税込1650円)

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