弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2025年7月 1日

沖縄戦


(霧山昴)
著者 林 博史 、 出版 集英社新書

 第二次世界大戦(太平洋戦争)のとき、沖縄で多くの人が亡くなりました。もちろん上陸してきたアメリカ軍の砲撃によって殺された人もいますが、日本軍によって殺された人も少なくなかったこと、また、日本軍から自決死を強いられた人々も多かったことを明らかにした本です。
 当時の沖縄県の人口は60万人で、うち8万人は県外に疎開していたので、50万人が戦争に巻き込まれた。その結果、沖縄県民は軍人軍属、民間人あわせて12万人から15万人が亡くなった。つまり沖縄に残っていた人の3分の1が亡くなったということ。しかも、民間人のほうが軍人の死者を上回っている。なお、本土出身の軍人やアメリカ軍人をあわせると、死者は20万人をこえる。
 沖縄戦において重要な事実は、日本軍が多くの沖縄県民を殺害したこと。スパイと疑われて多くの沖縄県民が日本軍から殺されている。この事実を文部省(今の文科省)が歴史の教科書から削除しようとしたのを知って、沖縄県民総ぐるみの抗議によって削除を止めさせた。ところが、日本軍が住民に「集団自決」を強制させた事実については今日なお教科書から削除されたまま。
 集団自決については、中国本土で残虐な行為をしてきた沖縄出身の兵士たちが自分たちが中国でしたことを語り、敵(アメリカ軍)に捕まったら自分たちも同じことをされる、「鬼畜」の米兵なら、もっとひどいことをするだろうと恐怖心を煽(あお)ったことも背景にあった。
 アメリカ軍が上陸したあと、多くの住民がアメリカ軍によって保護されていることを知っていた日本軍(第32軍)や県(県知事)は、彼らをスパイだと警戒するように、南部に避難していた日本軍の将兵や民間人に繰り返して宣伝した。その結果、壕に隠れていた年寄りを日本軍(第24師団)が引きずり出して斬り殺してしまった。軍と警察が一体となった活動によって、住民・避難民は食料がなくなってもアメリカ軍に投降することもできず、飢えとマラリアで苦しみ、犠牲者を増やした。
 アメリカ軍に保護された女性や子どもたち十数人が日本兵によって浜辺に集められ、手榴弾を投げ込んで殺したという事件も起きている(5月12日、大宜味村渡野喜屋)。また、日本兵は住民を銃剣で脅してイモなどの食糧を奪った。
日本軍は捕虜になることを許さなかった。そのため、沖縄戦でも多くの戦死者が出た。
 沖縄戦では、アメリカ軍にも多数の死傷者を出したが、それだけでなく、兵士の精神にも深刻な打撃を与えている。アメリカ第10軍の戦死者は7374人、戦傷3万1807人、行方不明239人。しかし、このほか非戦闘死者2万6211人を出している。このなかに戦闘神経症による者も含まれる。たとえば、第一海兵師団第5連隊第3大隊K中隊の場合485人いたうち、作戦終了時に残っていたのは1割の50人だった。しかも、上陸時から最後まで残ったのは26人のみ。残りは戦死傷などで戦列を離れている。
海兵隊には戦闘経験のない補充兵がたくさん投入されていて、多くの死傷者を出した。
今はおもろまちは近代的な街並みになっていますが、そこにあった「シュガーローフ・ヒル」では、まさしく凄惨きわまりない死闘が日本軍とアメリカ軍によって延々と繰り返されたのでした。
 1945年5月末の時点で、天皇も大本営も沖縄への関心を失って本土決戦の準備に移っていた。しかも、6月下旬には天皇は本土決戦を断念した(そんな準備は日本軍にないことを知ったから)ので、5月末の時点で沖縄の日本軍が降伏していれば、兵士たちを含めて10万人以上が死ななくてすんだはずなのです。
 また、アメリカの学者によっても、沖縄で正面からの戦闘などする必要はなかった。沖縄を残したまま日本本土(九州)に攻め込んだほうが早く決着できたという説を読んだことがあります。つまり、シュガーローフ・ヒルのような正面からの決戦をすることにどれだけの意味があったのか、実はなかったのではないかという指摘です。なるほど、と思いました。
 今また、「台湾有事」ということで沖縄や南西諸島がすぐにも戦場になるかのような雰囲気がつくられ、大軍拡がすすんでいます。でも、戦争にならないようにするのが政治の本来の役目ではありませんか。それを忘れてもらっては困ります。
(2025年6月刊。1243円) 

2025年6月17日

力道山


(霧山昴)
著者 斎藤 文彦 、 出版 岩波新書

 力道山(りきどうざん)というプロレスラーがいました。ともかく強いのです。狭いリングのなかで、いかにも悪役という外人レスラーが反則技ばかりするため、それこそ一時はタジタジとなりつつも、ついに堪忍袋の緒をふり切って得意技の空手チョップを繰り出し、とうとう悪漢レスラーをやっつけてしまうのです。胸のすく思いとは、このことでした。もちろん、生のリングを見ているのではありません。まだ全部の家庭にはなかった時代、わが家のテレビを見ていたのです。
 力道山は、日本におけるプロレスの父である。
 力道山のプロレスは、戦後そのものであり、昭和そのものであり、テレビそのものであった。力道山はプロレスラーであると同時に、「力道山」という、ひとつの社会現象であった。
 力道山が現役のプロレスラーのまま殺害されて亡くなったのは1963(昭和38年)12月のこと。私は15歳、中学2年生でした。
小売酒屋の主(あるじ)だった父がプロレスの大ファンで、私も一緒にみていましたが、父は力道山になりきったようにして、画面をくい入るように見て、肩をいからせ、かけ声を茶の間で上げていたのを思い出します。
 まさしく、力道山はヒーローでした。
 力道山が生まれたのは、今の北朝鮮であり、両親ともに朝鮮人。当時の朝鮮は、日本の植民地支配下にあった。美空ひばりも同じく朝鮮人でしたが、二人そろって戦後日本の輝けるヒーロー、ヒロインでした。
 若き力道山にとって、相撲とりになることが貧困からの脱出を意味していた。本名は、金信洛。三男で末っ子。戸籍上は百田光浩。ところが、生年月日のほうは、大正11年、12年、13年。7月4日、7月14日、11月14日と、確定していない。
 力道山がプロレスラーとしてデビューしたのは、1951年10月28日。1ヶ月にもならないトレーニング期間だった。
 プロレスでは、殴る、蹴る、地獄突きといった反則をする悪役、憎まれ役をするプロレスラーがいたけれど、力道山は、一度もこんな憎まれ役を演じることなく、ベビーフェイスで正統派のポジションを維持した。
日本テレビの正力松太郎オーナーはテレビを通じたプロレスの父でもあった。
1954(昭和29)年2月、蔵前国技館を借り切ってプロレスの国際大試合が3日間連続で開催された。この初日、新橋駅前の西口広場に特設された街頭テレビに2万人をこす見物客が押し寄せた。その写真が紹介されていますが、まさしく、黒山(くろやま)の人だかりです。大変な熱狂ぶりでした。まさしくスター誕生の瞬間だった。このあとも全国を巡行して、興行総収入は8千万円をこした。これって、大変な巨額ですよね。
力道山を主役としたプロレスブームは社会現象となり、プロレス中断を独占していた日本テレビは1953年8月の開局から、1年足らずの1954年上半期に黒字経営に転じた。
子どものころ熱中して見ていた私は、プロレスは毎回、真剣勝負だと信じ切っていました。それがショーだったというのは、東京で学生生活を始めたあと、それを知らされて驚いたのでした。純朴そのものでした。
著者はプロレス・ライターだそうです。そんな職業があるとは知りませんでした。
ともかく、力道山が戦後の社会現象であることは間違いありません。でも、いったいなぜ殺されたのでしょうか...。
(2024年12月刊。960円+税)

2025年6月12日

検証・治安維持法


(霧山昴)
著者 荻野 富士夫 、 出版 平凡社新書

 私の父は、1927(昭和2)年から7年間、東京で苦学生として暮らしていました。戦争へ突き進んでいく日本の暗く厳しい社会のなかで、庶民は映画やカフェーを楽しんでもいました。そして、流れに抗して立ち上がった人も少なくなかったのです。労働者や小作人は果敢にストライキをし、デモ行進をしていました。そして、大学でも学生と教授たちが、さらに兵士や華族のなかにも「赤い」人々がひそかにではあれ声を上げ、横の結びつきをつないでいこうとしていました。そんな人々の動きに恐れおののいた権力が持ち出してきたのがこの治安維持法です。
1925年の発足から今年は100年になります。日本国内の判決では治安維持法違反を理由とする判決で死刑判決はない。いや、ちょっと待って、小林多喜二は警察で虐殺されたではないか...。いやいや、死刑を命じる判決がないということなんです。もっとも、朝鮮・台湾という日本が植民地支配していたところでは、死刑判決は出ていますし、満州国でも、たくさんの死刑判決が出ています。
 治安維持法は1925年4月22日に公布され、5月12日に施行された。そして、1929年に、「死刑」が導入され、「目的遂行罪」が加えられた。この改正に反対した山本宣治が暗殺されたのは1929年3月5日のこと。
 この「目的遂行罪」はもっとも有効に活用された。ほとんど限界がないほど、広範に適用することが可能だった。3.15事件で治安維持法違反とされた知人のうち、実に27人が目的遂行罪だった。
検束の蒸し返しが横行した。検束は一応、期間の定めがあったが、その期間が来ても再び検束するから、期間など、あってないようなものだった。「ケンムシ」と呼ばれ、よく起きていた。
 1941年に治安維持法は改正された。しかし、刑罰規定が厳重化されただけでなく、刑事手続と予防拘禁の規定が導入され、条文も65条に増えたので、信治安維持法と呼ぶべきもの。この新治安維持法は士気の上がった思想検事たちを、さらに抑圧取締に駆り立てた。
 1941年に検挙者は1000人台となり、1942年以降も毎年500人以上が検挙された。民族独立と宗教の比率が高くなり、起訴割合も37%となって、処罰が厳重化した。1942年以降は、転向を表明しても仮釈放されなくなった。
 特高警察官は拷問の事実を公認と認めていた。拷問こそ事件の全貌を把握するためのもっとも効率的な手段とされていた。
裁判所は検察の意向を尊重、実は追随する関係にあった。むしろ、検事の意見に従うことが評価されていた。
 治安維持法の運用された20年間の受刑者は約3千人超。
 思想犯保護観察法は、1936年11月から1945年10月までの9年間のあいだ運用され、5千人超(5353人)が保護観察法の審査対象とされた。
新書版で500頁もある大作です。しっかり読みごたえがありました。勉強になりました。
(2024年12月刊。1980円)

2025年5月29日

陸軍作戦部長 田中新一


(霧山昴)
著者 川田 稔 、 出版 文春新書

 石原莞爾を失脚させ、武藤章と激突、佐藤賢了を殴り、東条英機を罵倒した男。このようにオビで紹介されている人物です。
 田中新一作戦部長と部下の服部卓四郎作戦課長、辻政信作戦課戦力班長の3人が日米開戦の強力な主唱者だった。そして、有力な対抗者だった武藤章軍務局長は日米開戦に慎重な姿勢をとっていた。ところが、日本敗戦後、慎重論の武藤章はA級戦犯として死刑になったのに対し、開戦論の田中新一のほうは戦犯指定も受けず、1976年(昭和51年)に83歳で亡くなった。東京裁判では証人として出廷して証言しただけ。ええっ、なんて不公平なことでしょう...。
 韓国映画(たとえば「ソウルの春」)をみてると、軍部内に「ハナ会」という秘密結社があって陸軍を牛耳っていたという情況が出てきます。戦前の陸軍にも、皇道派と統制派というわけでなく、「一夕(いっせき)会」という非公然組織があって、陸軍の人事で暗躍していたようです。メンバーには、永田鉄山(陸軍省内で斬殺されました)、石原莞爾、東条英機そして田中新一がいました。
 武藤章と田中新一は陸士(陸軍士官学校)同期で、作戦課長と軍事課長をそれぞれつとめた。
 田中新一は軍事課長として、石原莞爾の不拡大方針に反対した。日本の中国大陸における権益を保持するには、不拡大方針は棄てるべきだと主張した。田中新一は、全面戦争は望まないが、協力かつ短切なる武力の行使が必要だと主張した。
 1937(昭和12)年8月、武藤作戦課長と田中軍事課長は今や田中全面戦争は避けられないと一致した。そして、上海で日中両軍は交戦状態に入った(第二次上海事変)。
 ところが、日本軍は優勢な中国軍によって苦戦した。中国軍は、ドイツ軍事顧問団の指導と援助のもとで張り巡らされたトーチカ陣地によって果敢かつ強力に抗戦してきた。日本軍は3ヶ月あまりのうちに4万人の死傷者(戦死者1万人)を出した。
 このころ、田中新一は、次のように述べた。まさしく侵略戦争だと宣言、自白したのです。日中戦争は、中国の征服に乗り出すものであり、元や清の中国支配に比肩するものだ。
なんという思い上がりでしょうか、信じられません。
 石原莞爾は日中戦争が長期戦になることを恐れていた。ところが、早期解決の可能性はまったくなくなった。1938年、陸軍中央から石原系の軍人は一掃された。
1940年10月、田中新一は、作戦部長に就任した。47歳だった。これは東条英機陸相の意向によるものだった。
 田中作戦部長は、タイ・仏印の勢力圏下を考えていた。
1941年6月22日、ドイツはソ連領内に侵攻した。田中作戦部長は独ソ戦がドイツの電撃的勝利に終わり、北方で好機が到来するとみた。しかし、その後、陸軍内でもっとも強硬な親独派の田中でさえ、ドイツとの連携を脱する「対米英親善」を再検討した。
 1941年8月、田中作戦部長は、即時対米開戦決意のもとに作戦準備を進めるべきとした。その理由としては、日本軍のジリ貧、アメリカ軍の大増強によって、比率がどんどん悪化していくということ。やるなら今のうちしかないというのは、初めから勝てるはずがないということですよね。無責任な大ボラ吹きもいいところです。でも、当時は、勇ましい決意表明だということで、批判を圧殺していったのでしょう。
海軍は、開戦して2年間は自信があるが、アメリカを軍事的に屈服させる手段はないとしていた。これは開戦前のことなんです。いかにも無責任きわまりありません。よってたかって、どいつもこいつも、軍のトップ連中はみんなそろって無責任なんですが、口先だけはいつだって勇ましいのです。
 今でも同じことですね。「日本を守る」といったって、国民のことは眼中になく、ミサイルなどの軍事産業育成だけなんです。自分がもうかったらいい。国民保護なんて、ハナから眼中にありません。嫌になってしまいます。
(2025年1月刊。1210円)

2025年5月18日

脱露


(霧山昴)
著者 石村 博子 、 出版 角川書店

 日本敗戦後、シベリアに送られた日本人は軍人だけではなかったのですね。
 敗戦後はソ連領になった南樺太(カラフト。サハリン)で民間人として生活していた日本人。鉄道員、炭鉱夫、大工、運転手...などさまざまな職業の人たちがソ連軍によって逮捕され、一方的な裁判で囚人としてシベリアのラーゲリ(収容所)に連行される。
 ラーゲリで苛酷な労働を強いられたあと、刑期が明けてもどこかに強制移住させられ、ソ連本土に残留させられた。その後も、いろいろな理由で日本へ帰れないまま、数十年にわたって生死不明の状態が続いた(このとき「戦時死亡宣告」とされた人もいる)あと、ソ連の崩壊によって「発見」された。この人たちを「シベリア民間人抑留者」と呼ぶ。
 元日本兵がシベリアに抑留されたのは57万5000人、うち5万5000人が死亡した。民間人については、200人ほどしか判明していない。
シベリア民間人抑留者は3つのグループに分けられる。その一は、一般人として暮らす元軍人。その二は、軍隊経験のない正真正銘の民間人。その三は密航者。サハリンから密航して北海道に上陸した人は少なくとも2万5000人いる。
 民間人抑留者の集団帰国が実現したのは、日ソ両国赤十字社代表による共同コミュニケが1953年11月に調印されてからのこと。1956年12月まで11回の引き揚げがあった。
しかし、日本に帰らず残留を選択した日本人も少なくなかった。現地の女性と結婚し、子どもをもうけた人たち。285人が判明している。
 現地の女性と結婚したといってもロシア人とは限らない。朝鮮人だったり、ドイツ人だったり、いろいろだ。ロシア人は、夫を戦争で亡くした女性がたくさんいた。
この本に登場する日本人は著者が話を聞いたりしていますので、その所在が日本側に判明した人であり、また80歳になっても元気でいる人に限られる。
 亡くなった人のお墓には、生前の顔写真が大きくはめこまれているのが、ほとんどです。日本にはない風習ですが、ソ連そしてロシアではよく見かけます。
 貴重な記録が掘り起こされています。
(2024年7月刊。2250円+税)

2025年5月 1日

「治安維持法100年」


(霧山昴)
著者 萩野 富士夫・歴教協 、 出版 大月書店

 治安維持法が制定されたのは、今からちょうど100年前の1925年。その後、2度の改正を経て、猛威をふるった。そして、日本国内だけでなく、植民地として支配していた朝鮮と台湾にも運用された。
 日本では1945年に廃止されたが、朝鮮と台湾では戦後も長く戒厳令が敷かれたりして、人権を蹂躙する治安体制が続いた。
 1925年に制定された治安維持法は1945年に廃止されるまでの20年間、社会変革の運動や思想をおさえこみ、戦争遂行の障害とみなしたものをほぼ完璧に封殺した。
治安維持法の成立は、普通選挙法の成立と同じ時期。このことは私も知っていましたが、同時に日ソ国交の成立とも関連しているのこと、これは全く知りませんでした。ロシア革命が1917年に成功して、それからまだ8年しかたっていませんでしたから、日本の支配層が非常なる危機感をもっていたのでしょうね...。
弾圧のなかで思想転向者が多数うまれた。その方向で転向を促進するため、思想犯保護観察法が1936年に成立・施行された。
1925年に制定されたときの治安維持法はわずか7条だったのが、1941年3月、2度目の改正によって65条にまで増えた。それまで拡張解釈していたのを条文にした、つまり運用の実態を条文化した。これって、いかにも本末転倒ですよね。
1945年8月の日本敗戦後も日本政府は治安維持法を廃止など念頭になく、運用の継続を図った。驚くべきことです。そこで、GHQ(占領軍)が10月15日に「人権指令」を発して、ようやく治安維持法は廃止された。
1945年8月15日をもって直ちに収容されていた政治犯全員が釈放されたというわけではないのです。そのため、三木清などが敗戦後なのに、刑務所のなかで病死しています。本当に残念なことです。
特高警察の解体も、GHQの指令によってようやくなされたのでした。ところが、特高警察官たちは、しばらく野に伏せていただけで、やがて大手を振って表に出てきて、国政トップにまで出世していきました。ひどいものです。
朝鮮半島での治安維持法の運用は、日本以上に苛烈でした。
拷問もひどいもので、それによって得た「自白」により、死刑が科されていった。
日本では判決として死刑はなかったが、朝鮮では48人が死刑判決を受け、最終的に18人が死刑となった。
中国の「満州国」でも治安維持法と同旨の法令があった。七三一部隊の殺戮工場へ「マルタ」として送られた人々も少なくないようです。
この本には、治安維持法に抗した人々の運動が紹介されています。この人たちは、治安維持法に反対するためというより、自分たちの目ざすものを一生けん命に追い求めていたところ、官憲のほうが、それを許さず、治安維持法違反として次々に検挙していったのだと思います。京都学連事件。長野県の教員赤化事件、兵庫県の新興教育運動、唯物論研究会、北海道綴方教育連盟...。
そして、治安維持法が、今、再び生き返り、日本を戦争へもっていこうとする動きがあるという警鐘が乱打されています。この12月、長崎の人権擁護大会で、日弁連(日本弁護士連合会)は「戦争をしない、させない、長崎宣言」を採択しようとしています。
再び千雄の惨禍を受けないよう、過去の歴史に学ぶことの大切さを改めて認識させてくれる本です。ぜひ、あなたもご一読ください。ついては、昔学生の眼から見た昭和初めの時代を描く「まだ見たきものあり」(花伝社)もおすすめします。
(2025年3月刊。2200円+税)

2025年4月28日

口笛のはなし


(霧山昴)
著者 武田 裕熙 ・ 最相 葉月 、 出版 ミシマ社

 口笛の世界チャンピオンに「絶対音感」の著者がいろいろ質問している面白い本です。
 口笛も指笛も周波数が高い。指笛だと数キロ先まで音が届く。女性が口笛を吹いてはいけないというのは文化を超えて世界共通。霊や悪運を呼ぶという。
口笛のコミュニティは狭いので、口笛を吹けると、世界大会やオンラインでつながって、世界中の人とつながる。
口笛は楽器で、口笛音楽は器楽。
ビートルズのポール・マッカートニーは、楽譜の読み書きが苦手だから、作曲するときは、ジョンと口笛を吹きあったと話している。
 アメリカには職業口笛奏者を養成する学校があった。1909年に設立され、1990年代まで続いた。
ディズニー映画に口笛は欠かせない。「夕陽のガンマン」で楽曲を担当したエンニオ・モリコーネは口笛をテーマ曲に使った。
 口笛は、今も科学的には完全に解明されていない。口の中で何が起きているか見えないので、説明できない。誰もが学べる教育システムが確立していない。
声道全体が楽器と考えられている。その中を空気が通ったときに、出口のところで小さな空気の渦ができて音が出る。さまざまな周波数の音の一部が口の中の空間と共鳴して、音程をつくる。
口笛はヘルムホルツ共鳴だとされてきたが、今では間違いだとされている。口笛は非常に独特な原理で鳴っている。口笛に一番近いのはフルート。気柱共鳴の一種で音が鳴っている。
 声にはいろんな波が混ざっているが、口笛は単純、純粋な音と言える。
男性も女性も口笛に違いがない。そこは歌と違う。口笛は声帯の振動を使っていない。だから、男と女で違いがない。下とあごで音程が決まっている。
口笛は自分で音をつくる作音楽器。口笛はバイオリンやトロンボーンと同じで、機械的に音程が決まっていない。
 口笛で和音が吹ける。一人でハモれる。
 ハーモニカと同じで、吸っても音が出る。息継ぎをしないでずっと演奏が出来る、夢のような楽器。日本には全国各地に口笛教室がある。これは世界的には珍しい。
「上を向いて歩こう」の坂本九は、自分で口笛を吹いている。
 いやあ、口笛のことを初めて知りました。口笛が上手に吹ける人が、歌のほうは音痴だということもあるそうです。
 この本にはQRコードがのっていますから、聞いてみました。すごいです。読んで聞いて楽しい本でした。
(2025年2月刊。2200円)

2025年3月19日

わたしの人生


(霧山昴)
著者 ダーチャ・マライーニ 、 出版 新潮クレスト・ブックス

 第二次大戦中、イタリア人が日本で収容所に入れられているということを初めて知りました。
 著者は2歳のとき日本に来ました。父親は北海道帝国大学でアイヌ文化を研究していました。なので、札幌で幸せな生活を過ごしました。その後、京都に移っていたところ、1943年にイタリアが連合国軍に降伏したため、日本政府は在留イタリア人に踏み絵を迫ったのです。あくまでファシスト政権に忠誠を誓うかどうか、です。
 両親そろって拒否したため、名古屋郊外の天白村にあった民間人抑留所に入れられました。両親は孤児院に入れるか問われたとき、それも拒否し、一家4人(娘2人)で収容所で厳しい・苦しい生活を過ごすことになりました。
 7歳から9歳まで、育ち盛りの少女なのに、すさまじい飢えを体験することになったのです。
 監視する警察官たちは、日本政府の支給する食料を横取りしたため、収容されていた人たちは栄養不足から病気になっていきました。警官たちの残飯まであさり、野菜をとって食べ、ヘビやカエルを捕まえて子どもたちに食べさせたのです。
 たまに親切な日本人もいましたが、たいていは敵性外国人だとして、またイタリア人は裏切り者だと罵倒する日本の軍人たちがほとんどでした。日本の風習を知っている著者の父親は彼らの前面で包丁で指を切断して抗議までしています。
 野菜不足から脚気になり、すると頻尿になった。
 収容所では、子どもがいても子どもは配給の対象にはなっていなかった。なんということでしょう...。子どもだった著者は空腹のあり、地面をはっているアリまで食べたとのこと。指でつぶして口に入れ、かみもしないで呑み込んだ。しばらくして中毒にかかって、もう食べられなくなった。いやはや、アリを子どもが食べただなんて...。
 毎晩、死ぬ準備をした。輪廻(りんね)観を信じていたから、死んだらすぐに、生前のふるまいによって、別の姿に生まれ変わると思っていた。
 収容されたイタリア人は16人。ユダヤ人教授、宣教師、商人、元外交官など...。
 日本人の警官たちは、毛布を1枚ふやしてとか、ノミやシラミ退治のための殺虫剤がほしいと頼むと、「おまえらは裏切り者だから死んであたりまえなんだ。寛大だから生かしてやってるんだ」と答えた。
 日本の敗戦が色濃くなっていくと、配給が減っていった。1日の配給はひとり生米一ゴウ(130グラム)のみ。
 日本の敗戦によって解放された。自由の味は、かけがえのないものだった。そして生命と太陽に恋する肉体を回復させるエネルギーが戻った。
 著者は、過去の記憶を未来に生かすべきだと考え、自分の収容所での体験を語り、また書いたのです。
(2024年11月刊。2145円)

2025年3月14日

大本営発表


(霧山昴)
著者 辻田 真佐憲 、 出版 幻冬舎新書

 「大本営発表」というコトバは、今でもデタラメなことを公然と言って恥じないという意味で使われることがあります。この本では、「あてにならない当局の発表」とされています。
3.11福島第一原発事故は、危く東日本全滅という超重大事故になるところでしたが、政府(原子力安全・保安院)と東京電力はあたかも重大事故ではないかのような発表を繰り返しましたので、これこそまさしく現代の「大本営発表」だと批判されたのは当然のことです。
 大本営発表とは、1937年11月から、1945年8月まで、大本営による戦況の発表のこと。大本営とは、日本軍の最高司令部。
 ところが、当初の大本営発表は事実にかなり忠実だった。なぜなら、緒戦で日本軍は次々に勝利していたからです。嘘をつく必要なんてありませんでした。
 問題は、日本軍が次々に重大な敗退をきたすようになってからです。本当は敗北したのに、それを隠そうとして、「大戦果」を華々しく報道しはじめました。
 大本営発表によれば、日本は連合軍(その内実はアメリカ軍)の戦艦を43隻も沈め、空母に至っては戦艦の2倍、84隻も沈めたとする。ところが、実際に喪失したのは、戦艦4隻、空母は11隻でしかなかった。ひとケタ違います。これに対して、日本軍の喪失は戦艦8隻か3隻、空母19隻が4隻に圧縮された。そして、撤退は「転進」、全滅は「玉砕」。本土空襲はいつだって「軽微」なものだった。
 大本営のなかで、作戦部はエリート中のエリートが集まる中枢部署で、傲岸(ごうがん)不遜であり、発言力がきわめて強かった。報道部は、作戦部に逆らうのが難しかった。
 新聞は、部数拡大をめぐってし烈な競争をしていた。そこで新聞は前線に従軍記者を送り込み、「従軍記」を連載し、世間の耳目を集めることによって販売部数を伸ばしていった。
 新聞は結局、便乗ビジネスに乗ったわけで、それは毒まんじゅうだった。事態を批判し検証するというメディアの使命を忘れ、死に至る病にむしばまれてしまった。
 しかも、大本営は新聞用紙の配分権を握っていたので、報道機関をコントロールできた。こうして、日本の新聞は、完全に大本営報道部の拡声器になってしまった。
 戦果の誇張は、現地部隊の報告をうのみにすることに始まった。ミッドウェー海戦で、日本の海軍は徹底的に敗北した。アメリカ軍は日本軍の暗号を解読していた。日本軍には情報の軽視があった。日本軍は、そもそも情報収集と分析力が不足していたので、戦果を誤認しがちだった。
 「転進」発表が相次ぐなかで、国民のなかに大本営発表を疑う人々が出てきた。決して大本営発表のいいなりばかりではなかった。
 山本五十六・連合艦隊司令長官が戦死したことを知り、海軍報道部の平出課長はショックで卒倒した。さらに、山本の次の古賀峯一司令長官も殉職してしまった。
海軍は敗北の事実を国民に伝えなかっただけでなく、陸軍にも真実を告げなかった。その結果、陸軍はフィリピンで悲惨な戦いを余儀なくされた。
 特攻隊に関する華々しい大本営発表によって、地上戦の餓死や戦病死という現実は、国民の視界から巧みに消し去られた。
 アメリカ海軍の空母は1942年10月以来、1隻も沈んでいない。それほどまでに頑丈だった。逆にいうと、日本海軍はアメリカ海軍にほどんど太刀打ちできなかった。
 大本営発表は、確たる方針もなく、その時々の状況に流されやすい性質をもっていた。とりわけ損害の隠蔽は、これに大きく影響を受けた。
 今のマスコミが、かつての大本営発表のように、当局の意のままに流されないことを切に願います。と同時に、SNSにおけるフェイクニュースの横行を同じく大変心配しています。
(2016年8月刊。860円+税)

2025年3月 9日

一身にして二生、一人にして両身


(霧山昴)
著者 石田 雄 、 出版 岩波書店

 東大の社会科学研究所(社研)の教授であり、政治研究者として高名な著者が父親のこと、戦後日本のことを語った本です。
父親は戦前、内務官僚として警視総監もつとめました。熊本の五高時代からの親友である大内兵衛(東京帝大経済学部教授)が治安維持法違反で特高警察に逮捕された。
 人民戦線事件。前年まで警視総監をして管内各署を巡視していて、すべてを知り尽くしていたと思っていたところ、大内兵衛が留置されていた淀橋警察署に出かけて想像もしない状況を見聞した。自分の親友が狭い雑居房でスリや強盗と一緒に劣悪な条件でスシ詰めにされていたのを知った。それを知った父親はすぐに警視庁に行き、そのときの警視総監である安倍源基(特高の警察の元締として悪名高い)に会い待遇改善を要請した。大内兵衛は「憎むべき」思想犯なので、安倍警視総監が快く改善に乗り出したとは考えられない。ただ、先輩の頼みなので、無下には扱えず、淀橋署より混み方の少ない早稲田警察署に大内兵衛は移された。そういうことがあったのですね。留置場のひどさは想像できます。 
日本の敗戦後、父親は、「たくさんの人を縛った罪滅ぼし」をするため、刑事被告人の国選弁護人をしはじめた。そして、国選弁護人として何回も小菅刑務所(東京拘置所)で被告人に面会し、話しているうちに、犯罪者に対する観方が180度変わった。
 権力の側から見ていたときは、被疑者・被告人は悪い人間で、それを捕えて罰するのは必要だし、当然のことだと思っていた。ところが、被告人の眼で見ると、彼らは、まさしく社会的矛盾の被害者だと考えられる。また、死刑囚の弁護をしているうちに、死刑制度は廃止すべきだと考えるようになった。
 そうなんですね。昔も今も、目の前の現実をしっかり受けとめると、考え方が180度変わってしまうことがあるのですね...。
 著者は、「政治改革」をマスコミと多くの学者が礼賛するなかで、結局、小選挙区制が導入されたことを苦々しく振り返っています。今の日本の政治をおかしくしている原因の一つが、この小選挙区制です。元の中選挙区制に戻すか、全国完全比例代表制に変えて、民意が国政に正確に反映されるようにすべきだと思います。
 日本人が第二次世界大戦の被害者であることは間違いありません。しかし、同時に加害者側でもあったことを忘れてはいけないと、著者は再三強調しています。まことにそのとおりです。朝鮮半島そして中国大陸への侵攻だけでなく、東南アジアへ広く進出していって、多くの罪なき民衆を殺し、資源を奪い、市民生活を破壊していったのです。
 それは、戦後の朝鮮戦争そしてベトナム戦争についても言えます。日本は明らかに加害者であり、戦争による利益を受けたのです。
考えさせられる事実、そして指摘がありました。
(2006年6月刊。2400円+税)

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