弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年6月12日
検証・治安維持法
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 荻野 富士夫 、 出版 平凡社新書
私の父は、1927(昭和2)年から7年間、東京で苦学生として暮らしていました。戦争へ突き進んでいく日本の暗く厳しい社会のなかで、庶民は映画やカフェーを楽しんでもいました。そして、流れに抗して立ち上がった人も少なくなかったのです。労働者や小作人は果敢にストライキをし、デモ行進をしていました。そして、大学でも学生と教授たちが、さらに兵士や華族のなかにも「赤い」人々がひそかにではあれ声を上げ、横の結びつきをつないでいこうとしていました。そんな人々の動きに恐れおののいた権力が持ち出してきたのがこの治安維持法です。
1925年の発足から今年は100年になります。日本国内の判決では治安維持法違反を理由とする判決で死刑判決はない。いや、ちょっと待って、小林多喜二は警察で虐殺されたではないか...。いやいや、死刑を命じる判決がないということなんです。もっとも、朝鮮・台湾という日本が植民地支配していたところでは、死刑判決は出ていますし、満州国でも、たくさんの死刑判決が出ています。
治安維持法は1925年4月22日に公布され、5月12日に施行された。そして、1929年に、「死刑」が導入され、「目的遂行罪」が加えられた。この改正に反対した山本宣治が暗殺されたのは1929年3月5日のこと。
この「目的遂行罪」はもっとも有効に活用された。ほとんど限界がないほど、広範に適用することが可能だった。3.15事件で治安維持法違反とされた知人のうち、実に27人が目的遂行罪だった。
検束の蒸し返しが横行した。検束は一応、期間の定めがあったが、その期間が来ても再び検束するから、期間など、あってないようなものだった。「ケンムシ」と呼ばれ、よく起きていた。
1941年に治安維持法は改正された。しかし、刑罰規定が厳重化されただけでなく、刑事手続と予防拘禁の規定が導入され、条文も65条に増えたので、信治安維持法と呼ぶべきもの。この新治安維持法は士気の上がった思想検事たちを、さらに抑圧取締に駆り立てた。
1941年に検挙者は1000人台となり、1942年以降も毎年500人以上が検挙された。民族独立と宗教の比率が高くなり、起訴割合も37%となって、処罰が厳重化した。1942年以降は、転向を表明しても仮釈放されなくなった。
特高警察官は拷問の事実を公認と認めていた。拷問こそ事件の全貌を把握するためのもっとも効率的な手段とされていた。
裁判所は検察の意向を尊重、実は追随する関係にあった。むしろ、検事の意見に従うことが評価されていた。
治安維持法の運用された20年間の受刑者は約3千人超。
思想犯保護観察法は、1936年11月から1945年10月までの9年間のあいだ運用され、5千人超(5353人)が保護観察法の審査対象とされた。
新書版で500頁もある大作です。しっかり読みごたえがありました。勉強になりました。
(2024年12月刊。1980円)