弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

中国

2022年9月23日

洪流


(霧山昴)
著者 程 極明 、 出版 KKブロス

 日中戦争のころ南京に生まれ育ち、国共内戦下の上海の復旦大学で学生運動の幹部として活動した学生群像を生き生きと描いた小説です。
 1937年夏の南京から物語は始まります。日本が日中戦争を始め、中国に対して無法にも侵略戦争を仕掛けてきました。蒋介石の中国軍は戦わずして撤退し、日本軍によって人々の住む町は無残にも焼き払われ、虐殺が始まります。日本軍に対する抵抗はまだまだ弱いものでした。中国共産党は南京に地下党を建設し、8回も市委員会を設けたが、すべて失敗した。みな殺されるか逮捕された。勇敢なだけでは革命に勝利できない。過去の路線は、あまりにも「左」寄りで、大衆から離反していた。地下党の規律は、もっと厳格でないと、すぐに破壊されてしまう。
 党中央は、密かに素早く、長期に埋伏し、力を蓄え、時期を待つ方針を打ち出した。せっかちにならず、「左」の過ちを犯さず、一時的な衝動に走らない。豪放的なものを利用し、大衆を団結させる。これを少しずつ実践していったのです。まさしく、苦難にみちた粘り強い取り組みがすすめられました。
 大学生たちは、南京のアヘン撲滅運動に立ち上がり、実力行動を起こしました。これには多くの民衆が賛同しましたし、南京政府も日本憲兵隊も手が出せませんでした。
 1945年夏、日本敗戦のあと、蒋介石の国民党政府が南京を支配した。南京の大学に対して、国民党の特務組織(公安当局の手先。スパイ・弾圧機関)が目をつけ、すきあらば弾圧しようと目を光らせた。国民党政府は、3ヶ月で共産党を負かすことができると豪語した。
 アメリカのトルーマン大統領はマーシャル将軍を中国に特使として派遣し、国共両党の軍事衝突を防ぐため、調停を試み、1946年1月10日、双十協定が成立し、停戦が実現した。
 1946年4月、国共内戦が中国の東北地方で始まった。
 1947年2月、毛沢東は「中国の政局は新たな段階に発展しようとしている。全国的に反帝・反封建闘争が発展し、今は新たな人民革命の前夜である」と指示した。 
 学生たちが南京でも北京、上海でも立ち上がった。蒋介石は、学生運動の鎮圧にふみ切った。これに対して、共産党の側は戦略を弾力的で運用することで抵抗した。
中間分子の意識の高まりも見なくてはいけないが、彼らの進歩が高いとみるべきではない。民衆には、休養し、考える時間がいる、進歩分子のレベルだけで大多数の学生を推し量ってはいけない。学生運動は波状的に前進するもので、直線的には発展しない。
 なかなか考えられた指示ですね。革命に勇敢さは必要だが、勇ましいだけで無謀なら、革命大衆の情熱と生命をムダにしてしまう。そのとおりなんでしょうね。よく分かります。
 1948年5月の上海解放の日までが描かれた、手に汗を握るストーリー展開でした。
 地下党活動の様子が、その困難さと知恵・工夫のあり方をふくめて具体的に紹介されています。訳者の井出叔子氏に注文して入手した本です。読みごたえ十分の本でした。
(2022年6月刊。税込1300円)

2022年9月11日

「大地の子」(上)


(霧山昴)
著者 山崎 豊子 、 出版 文芸春秋

 いま、戦前、応召して中国東北部(満洲)で工兵として働いていた叔父(父の弟)が、戦後、八路軍(パーロ。中国共産党の軍隊)の要請に応じて技術員として紡績工場に働くようになり、結局、1953年5月に日本に帰国するまで、9年ほど中国にいたときのことを調べています。
 この本の主人公・陸一心は、日本が満州に送り込んだ開拓団の孤児として、大変な苦労をします。満州開拓団はまさに侵略者の一員でしたが、その生活は惨(みじ)めなものでした。終戦直前に「根こそぎ動員」によって働ける男たちは兵隊にとられ、開拓団に残ったのは老人と女性と子どもばかり。そこへソ連軍が突如として襲いかかってきて、また、恨みを買っていた現地の人々からも襲われました。
 7歳だった主人公は両親と死別し、妹ともはぐれて中国人にさらわれ、こき使われ、さらには売りに出されました。そのとき、ひょんなことから中国人の良心的な小学校教師に救われ、そこで養われます。地域でも学校でも「日本鬼子」としていじめられますが、心やさしい中国人少年もいて助けられます。
 養親の期待にこたえて必死に勉強して工業大学に入り、鉄工所に就職。
 ところが、文化大革命の嵐のなかで「反革命分子」として吊るしあげられ、冤罪でモンゴルの労働改造所に送られてしまうのでした。ここでの生活もひどいものですが、心優しき看護婦と出会い、また、幼なじみが主人公を労働改造所から助け出そうと努力します。
 いえ、なにより養父のがんばりがすごいのです。教師の職をなげうってまで、主人公を救出しようと北京にのぼって陳情活動を続けるのでした。
 30年ぶりに読みましたが、迫害のひどさに胸を痛め、また、心優しき人々が主人公の救出に執念を燃やす姿に接し、目頭が熱くなりました。著者の筆力に、今さらながら感服します。私もぜひこんな小説を書いてみたいと思いました。
(1992年1月刊。税込1400円)

2022年8月18日

続・新中国に貢献した日本人たち


(霧山昴)
著者 中国日中関係史学会 、 出版 日本僑報社

1945年8月15日、日本敗戦後、ソ連軍の次に満州に入ってきた八路軍(中国共産党の軍隊)は、日本人に次のように言った。
「日本に帰るまで八路軍に入りませんか。腹いっぱいご飯が食べられるし、時期が来たら必ず帰国させます」
翌日、数十人の日本人が八路軍に加わることにした。それは脅しに屈したというより、腹ペコの毎日だったので、食べさせてくれるのなら、それでいい。あとは帰国の日を待つだけだと考えたことによる。八路軍の共産思想に共鳴したからでは決してない。だいいち八路軍とはどういう軍隊か知らないし、共産思想については怖いというイメージしかなかったから。
ところが、八路軍とともに行動するなかで、多くの日本人が民衆を尊重し、共に戦うという点を文字どおり実践している八路軍に共鳴し、本心から八路軍を支えるように変わっていった。そして、それは多方面にわたった。多くの医師・看護婦が中国に残った。あたかも日本人経営の病院であるかのように...。工場の技術者として、また鉄道技師として...。新聞を発行し、映画製作にもあたった。
それだけでなく、中国人とともに最前線で八路軍の兵士として戦う日本人も多数いた。中国空軍のパイロット養成にも大きな力を発揮した。器材が乏しいなかで飛行機を飛べるようにしたうえで、中国人飛行士を養成していったというのです。すごいですね。
少なくない日本人が勤勉であり、創意・工夫に長(た)けているという特色を生かして毎日のように奮闘していたとのこと。
八路軍では階級の上下の差を少なくし、集団討議を重んじ、教育・学習の優先順位が上位にあった。ある日本人医師は連隊長級の待遇を受けて、毎月230万元をもらっていたとのこと。これは当時の日本のお金で3万円に相当し、日本人にとってもかなりの高収入を意味した。
日本敗戦後、中国の戦後復興は、国共内戦もあって本当に大変だったと思いますが、そのなかで少なくない日本人が新中国の建設に寄与していた事実を知るのはうれしい限りです。私の叔父(父の弟)も八路軍の要請に応じて紡績工場の技術員として戦後8年間、中国にいて、1953年5月に日本に帰国しました。
(2005年11月刊。税込2900円)
 お盆休みは遠出することなく、天神へ出かけて韓国映画「キングメーカー」を見ただけでした。庭にブルーベリーの青い実がぎっしりなっているのを摘み、夕食のデザートとしました。玄関脇の朝顔がとてもきれいで、自然に「お早よう。がんばってるね」と声をかけたくなります。雨も多いので、あっというまに雑草だらけになってしまいますので、雑草とりもしました。
 子どもたちがいなくなった子ども部屋を書庫としていますが、どうしても捨てられない愛着のある本、資料として残しておきたい本を選んで、この基準にあわないものは捨てるようにしています。そして、ジャンル別にまとめつつありますが、これが楽しい作業です。もう少ししたら、「私の本棚」シリーズとして私の個人ブログにジャンル別で紹介していくつもりです。
 お盆前まで、孫たちが来ていました。来てうれしい、帰ってうれしい。孫たちが来るたびにそう思います。「柱のキズ」を測ったら、この2月から半年間で3センチも身長が伸びていました。私のほうは身長が縮んでいくばかりです。
 室内でフワフワボールのキャッチボールをして遊んでもらったり、絵本を読んでやったりしました。今回は、「ダンプ園長やっつけた」が大人気でした。

2022年8月 5日

新中国に貢献した日本人たち


(霧山昴)
著者 中国中日関係史学会 、 出版 日本僑報社

ただいま、叔父(父の弟)が応召して満州に渡り、戦後も8年のあいだ八路軍(パーロ。
 中国共産党の軍隊)の要請にこたえて紡績工場の技術者として働いていたという手記の 裏付けをとろうとしています。その関係で大阪の石川元也弁護士の推薦で読み始めた本です。
 中国の周恩来首相は1954年に「多くの日本軍人が、日本終戦後武器を捨てたのち日本へ帰国することなく、中国人民解放軍に参加した。病院の医師と看護婦、工場の技師、学校の教官。・・・立派に働いて我々を助けてくれた。我々は深く感謝している。これが友情であり、これこそが真の友情である」との感謝の意を表明した。
 叔父は紡績工場の技師として、新工場の立ち上げに関わり、その運営が軌道に乗るように8年ものあいだ頑張ったわけです。そのころ叔父が日本の実家に送った手紙が残っていますが、千人の工場に日本人は叔父ただ一人だったそうです。いやぁ、よくぞがんばりました。 それでも、悪いことばかりではありません。同じように静岡から満州に夢をもってやってきた若き日本人女性と知り合い、結婚することになりました。同じ紡績工場で働いていたのです。
 この本を読むと、そんな日本人の青年男女が大変多かったことを知ることができます。
 私がもっとも驚いたのは、日本軍航空部隊の隊長だった人が中国空軍のパイロット養成の重責を担い、見事やり遂げていたという事実です。なにしろ、まともに飛べる飛行機もないなかで、残っていた部品を寄せ集めて、なんとか飛べる飛行機にして、それでパイロットを実地養成していたというのです。飛行中に故障が起きても脱出する落下傘もないのに空を飛んでいたというのですから、その勇気には呆れ、かつ圧倒されます。なんと、空では無事故だったというから、信じられません。
 医療分野でも、日本人は医師として、看護師として、大いに貢献したようです。負傷した中国人患者のためには、同じ血液型だと分かれば、すすんで献血もしていたというのです。本当に頭が下がります。
 北部の炭鉱でも大勢の日本人が労働者として働き、石炭増産の先頭に立っていたといいます。いやぁ、すごいですよね・・・。
 このような新生中国の誕生を助けた日本人の歩みはもっともっと広く今の私たちも知っていていいことだと思いました。三光作戦とか、帝国主義日本は中国大陸でさんざん悪業の限りをつくしたわけですが、もう一方では、こんなに良いことをした日本人もいたことを、両方とも、しっかり認識しておきたいものです。
(2006年10月刊。税込3080円)

2022年7月28日

沙飛(さひ)


(霧山昴)
著者 加藤 千洋 、 出版 平凡社

「中国のキャパ」と呼ばれた戦場写真の先駆者、沙飛の生涯を明らかにした本です。もっとも有名な写真は、八路軍の聶(じょう)栄臻(えいしん)司令官が4歳の日本人少女と手をつないでいるものです。
この女の子は、八路軍の百団大戦によって襲撃された炭鉱につとめていた両親とともに生活していたのですが、父とは生き別れ、このとき母は殺されて一人になったところを八路軍兵士に救われ、聶司令官の所へ運ばれたのでした。聶司令官は撤退するときに手紙を添えて日本軍に送り届けるよう手配し、少女は無事に救われたのです。そして、戦後40年もたって日本のマスコミが少女の現在を探しあてました。宮崎で生活していた女性は、そんな幼いころの記憶は何もなかったのです。
さて、問題は、この写真をとったカメラマンです。「沙飛」という名前のカメラマン。どんな経歴なのか、よく知られていませんでした。
沙飛は魯迅(ろじん)の生活最後の写真をとり、また毛沢東が高く評価したことで有名なベチューン医師の手術中の写真もとっています。
沙飛の本名は司徒傳。司徒は、中国では数少ない二文字の姓。1912年5月5日に生まれ、1950年3月に38歳で亡くなった。しかも、それは日本人主治医を射殺し、銃殺刑になったのだった。精神錯乱状態に陥って、八路軍に協力していた日本人医師を妄想にかられてピストルで射殺した。
1937年7月7日の盧溝橋事件のあと、8月に国共合作のなかで八路軍が誕生した。
総指揮は朱徳、副総指揮に彭徳懐。第115師団(林彪・師団長)、第120師団(賀竜・師団長)、第129師団(劉伯承・師団長)の3師団態勢で、総兵力は3~4万人。
第115師団で政治委員をつとめる聶栄臻はフランスに留学し、ベルギーの大学に学び、カメラの趣味もあった。なので、カメラマンの沙飛を部下として認めたと思われる。
「4歳の女の子」は、1980年7月に訪中し、北京の人民大会堂で、聶栄臻元帥と対面した。そして、「4歳の女の子」を助け出した元八路軍の兵士まで本人が名乗り出たことによって判明したというのです。生きのびていたのですね。百団大戦のときは17歳の兵士だったとのこと。そして、写真をとったのが沙飛という中国の戦場カメラマンだということも判明しました。
「4歳の女の子」を手紙とともに受けとった日本軍指揮官は聶司令官あてに返信を送ったというのです。ええっ、本当でしょうか...。
「子どもは確かに受けとった。貴部隊の人道主義精神に感謝する。将来、平和時に面会した際、謝意を伝えたい」
いやあ、立派な内容ですね。この日本軍指揮官の氏名は判明していないのでしょうか...。
百団大戦のあったのは1940(昭和15)年8月から11月にかけてのこと。炭鉱を守備していた日本軍は全滅したようです。「4歳の女の子」はトーチカで震えているところを八路軍兵士に救出されたのでした。名前を訊かれたとき「母ちゃんは死んだ」、「死んだ」と答えたので、「死んだ」を「しん」と聞いた八路軍の兵士が女の子を「興子」(しんこ)と名づけたというのです。なんとも泣けてくる名前です。
沙飛に殺された日本人医師は、津村勝という内科主任の医師(41歳)。河北省の石家荘の和平病院には、100人の医療スタッフをふくめて200人ほどの日本人がつとめていたのでした。これが、「留用者」と呼ばれる、日本敗戦後しばらく八路軍の求めに応じて中国にいた人たちです。医療関係者が断然多かったようです。
私の叔父(父の弟)は紡績工場のたちあげと技術指導する技術員として8年ほど中国にいて、1953年5月に日本に帰国しました。八路軍の三大規律・八項注意の素晴らしさを聞かされたものです。今、その叔父の中国における歩みを文章化しています。
(2022年4月刊。税込3080円)

2022年6月24日

中国の現代化を担った日本


(霧山昴)
著者 西原 哲也 、 出版 社会評論社

私の叔父(父の弟)は日本の敗色濃いなか、丙種合格だったのに徴集され、25歳の2等兵として中国・満州に送られました。トンネル掘りなどをさせられているうちに日本敗戦となり、やがてやってきた八路軍(パーロ。中国共産党の軍隊)に招かれて、紡績工場で技術員として働くようになりました。満州に進軍してきたソ連赤軍は引き揚げるとき、大量の日本人元兵士とともに工場内の機械・設備類を根こそぎソ連に運び去ったのでした。なので、満州の工場を再建するのに、中国は日本人技術員の力を借りなければいけなかったのです。といっても、叔父は日本では百姓をしていましたので、根っからの技術屋ではありません。ところが、八路軍の将兵に文盲が多く、叔父は貴重な存在だったのです。高給優遇されました。といっても、生活に困らなかったというレベルで、貯金して、それを日本に持って帰ったというのでもありません。戦後8年たった1953年6月に帰国し、それからは農業一筋に生き、98歳過ぎてもすこぶる元気でした。
現代中国では、現在の経済的繁栄を支えている産業そして技術は中国が独自に開発し、発展させたものということになっていて、その開発・発展に日本が大きく寄与したことがまったく没却・無視されている。ここを調査・発掘した貴重な成果が本書で紹介されています。
中国側で、日本企業を受け入れたときに活躍したのが、戦後の日本に留学し、日本語ペラペラという中国人が実は中国に多数存在していたのです。一番の大物は、早稲田大学に留学していた廖承志。そして、それを周恩来が背後からリードしていた。
はじめは、中国特産三品目しか日本は中国から輸入できなかった。漢方薬、生漆そして甘栗。
日本の大手商社はダミー商社をつくって、中国との取引をすすめた。それは、台湾との取引を続けるためにも必要だった。
中国は、日本企業の一貫生産プラントをそのまま発注せず、基本設計を導入して自前でつくろうとした。しかし、それはどれも失敗した。ボーイング七〇七を分解して、見よう見まねで同じような旅客機をつくってみたものの、それが空を飛ぶことはなかった。そんなエピソードが紹介されています。ありえることですが、これって本当なのでしょうか...。
そして1966年ころから文化大革命の厳しい大波に中国はさらされ、日本企業もさんざんな目にあうことになります。日系商社マンも次々に逮捕されました。
やがて文革がおさまり改革開放がすすむなかで、新日鉄を中心とした宝山製鉄所の建設が始まった。
ガマン強く、誠実に対応した日系企業はついに生き残り、中国経済の復興に大きく寄与した。これは本当のことだと私も思います。
売った商品に欠陥があれば、無償できちんと直すという態度を多くの日本の商社・メーカーがとった。このことが日系企業への中国側の信用を積み重ねていった。
なるほど、そういうこともあったんだよね、そう思いながら、誠実そのものだった叔父を偲びつつ読みすすめました。
(2022年1月刊。税込1980円)

2022年6月 8日

中国法


(霧山昴)
著者 小口 彦太 、 出版 集英社新書

中国って、法治国家って言えるのかしらん。裏で共産党が裁判所そして判決を操作しているんでしょ...。こんな疑問にこたえてくれる新書です。
まず、何より驚かされるのは、中国の民事訴訟事件数が非常に多いという事実です。そのなかでも、契約関係の訴訟が断トツに多いのです。
著者は1700件もの訴訟の判決文に目を通していますが、判決文の形式は日本の民事訴訟とほとんど変わらず、当事者双方の主張、そして裁判所の事実認定が正確かつ詳細に記され、それをふまえて法解釈論が展開され、判決となっている。
中国の人々は、契約が守られなかったとき、決して泣き寝入りしないという人々が数多く存在する。なので、訴訟は多く、でたらめな判決文では本人がとうてい承服しない。
とはいっても、日本と中国とでは、法観念が相当に異なっている。たとえば、中国では、特別のことがないかぎり、当事者間の約定を何より重視する。約定こそ原則であるという法観念が強烈にはたらいている。むむ、これはなんだか日本とは違いそうですね。
中国の不法行為法には無過失責任の規定が多い。たとえば、中国の道路交通安全法では、運転者に過失がなくても、必ず損害額の1割の範囲内で賠償責任を負わなければならない。これは無過失責任。これも日本とは違いそうです。
中国の死刑判決は2種類ある。必ず執行される死刑と、もう一つは2年の執行延期がついていて、その2年の間に故意犯罪を行わない限り、無期あるいは有期懲役刑に減刑されるもの。知りませんでした。
中国の学者は、中国の裁判所と裁判官には、必要な独立性が欠けていると批判している。現代中国の刑事手続では、「疑わしきは被告人に有利に」という原則ははたらかない。それにかわって、「疑わしきは、軽きに従う」、つまり拷問があったかもしれないが、どうも確信がもてない。決めがたいので軽きに従う。これが現代中国での慣行をなしている。うむむ、これはいかがなものでしょうか...。
中国では、合議・独任廷での審理によって審判は完結せず、重大な事件であれば、常に上位の人間・機関の指示を仰ぐことが期待されている。こんな仕組みは、まぎれもなく行政に属すると判断される。
中国の法院の審判には確定力がない。
中国は、成立以来、30年間も法律の空白期間が続いたが、1979年の刑法典と刑事訴訟法の制定から、2020年の民法典の制定で、法体系の構築は基本的に完了した。
憲法解釈の権利は、中国では、全人代常務委員会がもっていて、法院(裁判所)ごときが憲法解釈権を行使するなど、もってのほか。これが党中央の指導部の考え方だった。
党が国家を指導する体制を前提をする限り、表の法としての「国法」に、裏の法としての「党規」が常に優先する。したがって、多様な形式から成る裏の法が姿を消すはずがない。これが中国法の常態である。やっぱりそうなんですね。
著者は、「法院」は本当に裁判所なのかと疑問を呈しつつも、私法の領域では、法は着実に機能していると認めています。この矛盾こそが、現代中国法をめぐる特色なのでしょうね...。福岡には中国語の話せる弁護士が何人もいますよね。たしたものです。ますますの活躍を心から期待しています。
(2021年11月刊。税込860円)

2022年5月22日

鄭和、世界航海史上の先駆者


(霧山昴)
著者 寺田 隆信 、 出版 清水書院

15世紀のはじめ、明の鄭和は、当時の世界最大の船隊を率いて、東南アジアからアフリカ東海岸にまで航海した。その航海は、1405年から1433年までの29年間に7回、訪問国は30数ヶ国。バスコ・ダ・ガマがインドに達したのは1498年なので60年も早い。
鄭和の航海は軍事行動というのではなく、主目的は通商にあった。明帝国の政治使節であり、通商代表だった。政府ないし宮廷直営の貿易を行うための活動だった。鄭和が来たことで、明帝国に国王みずからやってきた国が4ヶ国、使節を派遣した国は34ヶ国にのぼる。
ただし、鄭和を送り出した明の永楽帝そして宣宗が亡くなると、明帝国は対外進出が消極的になり、国力も衰えてしまった。そのため諸外国からの朝貢も自然に消滅していった。
シルクロードといっても、実は陸上よりも海路の方が、はるかに輸送力がいい。商船1隻はラクダ2000頭に匹敵した。朝貢貿易は、朝貢国に莫大な利益をもたらした。一度、入貢すると、元本の5倍か6倍ほどの利益が得られた。
成祖永楽帝は内政よりも対外政策に非常な積極性を発揮した。鄭和は宦官(かんがん)だった。宦官は、本来、皇帝個人の家庭生活に奉仕すべき存在。鄭和の大船団は、2万7千人以上の乗員を乗せた62隻から成っていた。船は大きいものでは船長150メートル、船幅62メートル。これは、発掘された船の装備から、決して誇大な数字ではないとされている。
鄭和はイスラム教徒だった。明の中国では、イスラム教徒が弾圧されたり、迫害されたことはなかった。なので、多くのイスラム教徒が鄭和の大船団に参加していた。
鄭和の船団は、中国に珍しい動物を連れて帰国した。キリン、ラクダ、ダチョウ、シマウマ、アラビア鳥など。そのなかでとくに注目を集めたのは、キリンだった。日本にキリンが来たのは明治40(1907)年なので、中国のほうが500年も早かった。
鄭和の後に続く航海者がいなかったこと、明帝国が対外進出に国力をさけなくなったことなどから、この偉大な先駆者は、今も、あまり評価されていないのが残念。
実は、この鄭和の大船団について、どんな構成だったのか、船団に女性が本当に乗っていたのか(女性も乗っていたようなのです)、もっと詳しく知りたかったのですが、そこは残念ながら書かれていませんでした。
(2017年8月刊。税込1980円)

2022年5月12日

ウィグル大虐殺からの生還


(霧山昴)
著者 グルバハール・ハイティワジ 、 出版 河出書房新社

中国の西方に新疆ウィグル自治区があります。ウルムチ、そしてトルファンには、私も一度だけ行ったことがあります。シルクロードの旅でした。トルファンは、まさしく炎熱砂漠地帯です。羊を目の前で殺してくれ、その羊肉をみなで美味しくいただきました。ウィグル族の抵抗運動が激化する前のことです。
ウィグル人は、スンニ派のイスラム教徒で、その文化は中国ではなく、トルコに起源がある。ウィグルの分離独立を目ざす運動があって、中国政府は厳しく弾圧している。街のいたるところに顔認証カメラと警官が配置されている。そして、2017年に再教育収容所が開設された。ここにのべ100万人ものウィグル人が入れられた。
新疆には、1200ヶ所もの再教育収容所があり、1ヶ所あたり250人から880人が入っている。収容所では、授業で暗記を強制され、グロテスクな軍隊風の行進をし、木製かセメント製の寝床で眠る前に、まず人格を奪われる。汚れたつなぎと布製の黒い上靴を身につけると、女性収容者はみな似かよった存在となる。そして、その瞬間から、名前ではなく、通し番号で呼ばれる。心が弱っていく。服従することによって、自分の好みや感情を押し殺す。
収容所のシステムは、生活に結びついていたものを次々に奪うことで、収容者の個性を消し去る。共産党をたたえる同じ言葉を何度もくり返す。プロパガンダづけになりながら、同じ熱心さで自分の再教育に励み、しだいに自分のアイデンティティを失っていく。みんなが一様に壊れていき、しまいには、肉体的にも精神的にも似たり寄ったりになる。無気力で、何も感じない。中身がからっぽの亡霊だ。人間ではなく、死者同然。
収容所では、まぶしい蛍光灯に照らされ、似たような授業、食事、行進の練習を続けさせられるうちに、時間の感覚がなくなっていく。
著者は、警官の暴力の前に屈してしまいました。心にもない「自白」をするほどまでに屈したのです。罪を認めるのが早ければ早いほど、ここから早く出られる、と聞かされていた。疲れ果てた末、その言葉を信じた。
その役割を受け入れたのは、無意味な再教育にしたがう境遇のなかで、ほかの出口は何もなかった。警察はきわめて巧みに人をあやつる。精神をしなわせて、無敵の盾のように使うことで、真実を決して忘れずにすんだ。
1949年に中華人民共和国が建国された。人民解放軍が新疆に進駐した。同時に漢民族の入植が本格化した。1949年にウィグル人は76%だったが、今や、ウィグル人と漢人は、40%台と拮抗している。
新疆では、「三、六、九の規則」したがって行動(申告)しなければならない。他人の訪問があったら住民は30時間以内に、地区委員会に知らせ、地区委員会は6時間以内に地元の警察署に知らせ、警察署は9時間以内にその訪問者の連絡先をファイルに保存するという決まりのこと。いやあ、すごいですね。こうやって人々の生活は隅々まで厳しく監視されているのです。
フランスからウソの名目で呼び戻され、収容所に閉じ込められたウィグル人女性が、自らの体験を実名で語った貴重なレポートです。
(2021年10月刊。税込2550円)

2022年4月27日

中国共産党、その百年


(霧山昴)
著者 石川 禎浩 、 出版 筑摩書房

2021年に結党100年を迎えた中国共産党は、今9200万人の党員を擁する超巨大政権党である。結党からわずか30年足らずで中国(中華人民共和国)を建国し、70年以上にわたって中国を統治してきて現在に至っている。
中国共産党については、先日もこのコーナーで紹介しましたが、本書も一般向けの通史とは思えないほど良質であり、また大変読みやすいものです。
1945年8月の時点で、中国戦線は膠着(こうちゃく)状態にあり、日本軍が敗北するとは思えなかった。毛沢東も、この8月上旬の時点で、日本の降伏まであと1年ほどかかるだろうと見ていた。つまり、8月15日の日本降伏の知らせは突然やってきたのだった。そして、毛沢東は国民党軍との内戦を決意して、指令を出していた。ところが、スターリンがそれに待ったをかけた。
スターリンは、ソ連の在東北権益を保証してくれる蒋介石の国民党を選択した。その代わり、中国共産党に対しては、東北部への転進を認め、旧日本軍の武器弾薬を共産党側に引き渡した。このことによって、共産党は東北に広大な地域政権を樹立することができた。これによって、ようやくスターリンのソ連は中国共産党を認めることになった。
人民共和国建国当時の共産党員は450万人。内戦開始期から4倍に急増していた。そして、党員の4分の1は25歳以下という若い世代だった。ちなみに、当時の平均寿命は35歳でしかなかった。戦火のすさまじさですよね、きっと...。
指導者のほうも若い。毛沢東55歳、劉少奇50歳、周恩来51歳、鄧小平45歳だった。
中国(人民共和国)の建国のとき、共産党は旧来の六法全書を廃止し、体系ある法典をもっていなかった。刑事法の分野であるのは「反革命処罰条例」と「汚職処罰条例」の二つのみ。
中国建国(1949年)からまもなく、12月に毛沢東(56歳)は列車でモスクワに向かった。北京に戻ったのは翌年(1950)3月。新しい国家が誕生し、まだ国民党軍との内戦も続いているなかで、国家の最高指導者である毛沢東が3ヶ月も中国を離れたというのは、異例のこと。まったく同感です。
中国は国家運営について、経験豊富なソ連の専門家の派遣を要請しています。
ところが、帰国して3ヶ月後の1950年6月に朝鮮戦争が勃発した。毛沢東の知らないところでスターリンがGoサインを金日成に送って始まった。周恩来らは、このとき参戦に反対したようです。
毛沢東は朝鮮戦争に、中国軍が義勇兵として参戦し、それなりの成果をあげたとして権威をより一層高めた。
毛沢東は、自ら暴君になったというより、暴君となることを支持された。
鄧小平は胡耀邦と趙紫陽の二人を天まで高く持ち上げていたが、あとになって、この二人を権力の舞台から引きずりおろした。
今や、2010年には、中国のGDPは日本を抜いて、「世界2位」になっている。
大変興味深い分析がオンパレードとなっている本です。ご一読ください。
(2022年2月刊。税込1980円)

 日曜日の午後、チューリップが終わりましたので、最後に咲いている1本のみ残して、全部堀りあげました。今はフェンスに色とりどりのクレマチスが咲き誇っています。赤紫色、白色、赤い筋の入った花、いろいろです。
 チューリップを掘りあげたあとには、いつもヒマワリを植えています。今度、昨年のヒマワリのタネをとっていますので、まくつもりです。
 ジャガイモの地上部分が元気よく茂っています。問題は地中なんですが...。
 庭に出ると、もう風薫る季節になったことを実感させてくれます。

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