弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

中国

2021年12月24日

始皇帝の地下宮殿


(霧山昴)
著者 鶴間 和幸 、 出版 山川出版社

私は幸いなことに兵馬俑(へいばよう)を2回も現地で見学しています。ともかくすごいのです。等身大の兵士と将軍の彫像が何千体も発掘され、展示してあるのです。実に壮観です。そして、当時の壮麗な馬車もあります。よくぞこんな壮大なものを構想し、実現したものです。実物の前では息を呑むばかりで、言葉になりません。
始皇帝(前259~前210)は、中国最初の皇帝。はじめは秦王(しんおう)として即位し26年間、東方の六国を併合してからは皇帝として12年のあいだ君臨した。陵墓の建設は、秦王に即位した翌年から。実に37年におよぶ治世のあいだ罪人(刑徒)72万人を動員して建設工事を続けた。始皇帝は50歳のとき、病気のため急死した。始皇帝の肖像は残されていない。今あるのは、17世紀の明の時代の肖像なので、完全に想像図。
兵馬俑坑が発見されたのは1974年のこと。始皇帝陵のすぐ近くにあります。
秦が滅びたあと、三国時代に楚王の項羽が30万人を動員して30日間かけて始皇帝陵から物を運びだした。また、失火から始皇帝の地下宮殿が90日間も燃え続けたという。
私も、それは知っていましたので、始皇帝陵はもはやカラッポになった状態だとばかり思っていました。ところが、本書は、地下5メートルほどの兵馬俑坑なら火災にあうかもしれないが、地下30メートルの地下宮殿が焼失したはずはないとしています。
始皇帝の墓室は、深さ30メートル、東西80メートル、南北50メートル。そして、地下宮殿は、東西170メートル、南北145メートル、高さ15メートル。
墓道は埋められているので、地下世界に入るのは不可能。
始皇帝は地下宮殿で金縷(きんる)玉衣をまとっている可能性が高い。
科学技術の発達によって、今では、実際に地下を掘らなくても、地下宮殿をイメージすることができるのです。驚きますね...。
そして、地下宮殿には、大量の行政文書や書籍が搬入されているはず。いやあ、すごいことですよね。これらの文書が発掘されたら、古代中国の実態が今よりはるかに鮮明になることでしょう。それは私の生きているうちには恐らく無理でしょうが、私は、あの世から戻ってきても、ぜひぜひ知りたいです。
兵馬俑も1回目と2回目とでは、ずいぶんと展示の仕方が異なっていました。コロナ禍の心配をしなくてすむようになったら、もう一度ぜひ行ってみたいです。万里の長城は行ってしまえば2度も行かなくていいところですが、兵馬俑はそんなものでは決してありません。
久しぶりに中国古代文明のすごさを少しばかり実感し、ゾクゾク興奮してしまいました。
(2021年9月刊。税込1760円)

2021年12月 5日

網内人


(霧山昴)
著者 陳 浩基 、 出版 文芸春秋

インターネットの中にひそむ悪魔をあぶり出せ、というキャッチ・コピーがオビについています。
スマホも持たず、とんとネット社会に無縁の私には縁のなさそうではありますが...。私の名前、霧山昴の本名をネットで調べた人がいて、簡単に分かったそうです。いやはや...。でも、この本は、そんなレベルではありません。ネットで攻撃した人をつきとめるのは朝飯前(あさめしまえ)。なりすましをふくめて、ネット上で考えられる犯罪のすべてが手にとるように解説されていきます。
いやあ、これでは、本人以上に第三者が本人のことを知ることができるというわけです。
この本は今ホットなホンコンを舞台としています。もちろん、目下の激しい自由をめぐる闘争はまったく出てきません。「チョンキン・マンション」の世界とも無縁です。
地下鉄の痴漢犯罪のぬれぎぬ、学校での深刻ないじめ、...、まさしく、現代社会のかかえる問題点を、名探偵の明智小五郎よろしく解決していきます。それは、ネットを駆使する女性(『ドラゴン・タトゥーの女』のリスベット・サランデル)を連想させる展開です。
年に2度の、人間ドッグのとき、就寝時間を気にしながらも、結末を知りたくて、もどかしい思いでページをめくりました。それほど面白かった本だということです。
(2020年9月刊。税込2530円)

2021年8月14日

「セレモニー」


(霧山昴)
著者 王 力雄 、 出版 藤原書店

店のレジでお金を支払うとき、必ず、「○○カードは持っていませんか?」とたずねられる。そして、多くの人は訊かれる前にカードかスマホを差し出している。私はスマホも○○カードも持っていない。
○○カードを使うと、70代の男性が、○○日の○○時(雨あるいは晴れ、湿度23度)に○○を○○で買ったということが永久に消えない記録として残る。それを1週間、1ヶ月そして1年間も分析の対象とすると、その人のいろんな傾向が判明する。何を好んでいるのか、何にお金を使うのか、どんなものを好んでいるのか、友人はいるのか、どんな人なのか...、ビッグデータも駆使して、すべてを究明し尽くす。そんなことにならないように、尾っぽをつかまれたくないので、スマホをもたず、○○カードも持たない私です。もちろんマイナンバーカードなんて申請する気はありません。
中国では、「維穏費」として1兆4千億元が国家予算の5.9%を占めている。国防予算のほうは、それより少ない1兆2千億元だった。維穏費とは、警察等をつかって社会の安定を維持する費用のこと。この維穏費は、2013年の7700億元に比べて、5年間に倍増した。
この本では、人々を個別に監視する方法として靴にネットのタグが取り付けられているという想定になっています。個人の行動がそれで識別され、実のところ性生活の微細な行動まで当局は手にとるように分かる仕掛けだというのです。
最近の国産の靴も外国産の靴にも、すべてにSID(セキュリティ識別子)が取り付けられている。すべての靴が、移動中通信ネットワークに紛れている高周波によって、認識と追跡が可能になっている。いやあ、たまりませんね。国家が個々の人々の生活行動のすべてを把握できるというのです。
いま日本政府が鳴物入りでマイナンバーカードを人々にもたせようと笛を必死に吹いていますが、そんなのに乗せられたら、丸裸同然です。私は嫌です。ご免こうむりたいです。
何も悪いことしていないんだったら、いいじゃないか...、とは思いません。政府とは、たとえば今のスガ政権です。まともな日本語の会話も国会で出来ないような首相の下で、私の私生活が握られているなんて気色悪すぎます。
著者はあとがきで、テクノロジーによる独裁が外部から崩壊させることが不可能なことを描いたと語っています。テクノロジー、インターネットの発達が必ずしも人々の個人としての生活を豊かにするものでは決してないことをほんの少しだけですが、実感した気分に浸りました。近未来の怖い話を予測する小説ではありますが...。
(2019年5月刊。税込3080円)

2021年8月11日

「中国」の形成


(霧山昴)
著者 岡本 隆司 、 出版 岩波新書

中国の清朝といえば、強大な王権を内外ともに誇示していた存在だと思っていましたが、この本を読むと、その内実はまるで違うようです。
清朝は、明末の政体・体制をそっくり受け継いだ。権力を握った満州人は、数のうえでも組織のうえでも、そして経験のうえでも、漢人の歴史ある制度を根底からつくりかえるには、あまりに非力だった。その立場からすると、当面の苦境を克服し、眼前の混乱を収拾して生きのびるだけで精一杯の実力だった。非力な分、清朝はモンゴルに対しても、チベットに対しても、彼我の力関係に対する鋭敏で冷徹な認識をそなえていた。
ジェシェン(女真)人は、かつて12世紀に金王朝を建てた種族の末裔(まつえい)。ジュシェンのヌルハチがマンジュ(満州)として自立した。豊臣秀吉の朝鮮出兵のころのこと。
ヌルハチは、1619年のサルフの戦いで、明朝と朝鮮の連合軍を破って大勝した。
ところが、1626年、ポルトガル製の大宝(紅夷砲)に屈して、まもなく亡くなった。
後を継いだのは8男のホンタイジ。ホンタイジは、チンギス裔の血縁で権威の高いチャハル家をとりこんで皇帝に即位した。そして、大清国を自称するようになった。ホンタイジ亡きあと、ドルゴンが摂政として国を治めたが、明から清への交代は、漢人が裏面で動いてなされたものだった。ドルゴンは39歳で亡くなり、順治帝も10年おさめて、24歳で死亡した。後をついだ康熙帝はまだ9歳。8年間、辛抱したあと、権臣を排除して康熙帝はようやく実権を握った。
満州人・清朝がカオスのなかを勝ち抜き、勝ち残ることができたのは、多分に偶然であり、もっというと奇跡だった。彼らは、同時代の集団としては、必ずしも強大な勢力ではない。人口だけでみても大陸の明朝はおろか、半島の朝鮮にも及ばなかったし、モンゴルと比べてもそうだった。
相次いで押し寄せる目前の難しい局面に、生きのびるべく懸命の対処をくりかえした蓄積が、自立と興隆につながった。清朝は、それだけ自らの非力な力量・立場をよくわきまえていた。虚心な自他分析と、臨機応変の感覚に富んでいた。それが偶然・僥倖(きょうこう)を必然化させ、多元化した東アジア全域に君臨しうる資質を生み出したばかりか、清朝そのものに300年もの長命を与えることになった。
清朝はリアリズムに徹し、現状をあるがまま容認し、不都合のないかぎり、そこになるべく統制も干渉も加えようとはしなかった。漢人に対する清朝の君臨統治は、かつて「入り婿」政治と言われたこともある。
外形的に清朝の建設を完成に導いた康熙帝の当世は、内実を見たら、派閥の横行・暗闇が絶えない時代でもあった。次の雍正帝の当世は13年間。父の康熙・息子の乾隆の60年に比べると、決して長くない。だが、その治績は、父・子をはるかに上回って重要だ。
清朝が漢人を支配して大過なかったのは、漢人とのあいだにズレがあることを自覚し、緊張感をもち続けたからだ。
祖父の康熙帝は、大局的なケチ、節倹の鬼だった。これに対して孫の乾隆帝は、贅沢の権化。乾隆帝が即位したとき、清朝の在立は、なお、盤石ではなかった。最大の敵対者、ジュンガルが健在だった。
漢人社会が巨大化していき、バランスが崩れていった。清朝・満州人の複眼能力は、相対的・絶対的に衰えた。白蓮教の反乱が起きたとき、常備軍の八籏・経営が軍事的に役に立たなかった。
清朝の内実を詳しく知ることができる、面白い本でした。
(2020年9月刊。税込902円)

2021年7月10日

「敦煌」と日本人


(霧山昴)
著者 榎本 泰子 、 出版 中央公論新社

私は幸いにも敦煌に行ったことがあります。莫高窟(ばっこうくつ)にも中に入って見学しました。すごいところです。井上靖の『敦煌』は読みました。残念なことに映画『敦煌』は見ていません。そのうちDVDを借りてみてみたいものです。
井上靖は戦前の1932年に京都帝大に入学し、哲学科で美学を専攻していた。そして30歳のとき日中戦争にも駆り出されている(病気のため、すぐに帰国)。知りませんでした。戦争の愚かさも身をもって体験していたのですね...。
敦煌は、中国の西端にあるオアシス都市で、漢代より漢民族が西方に進出する際の拠点として栄えた。遠くローマに至るシルクロードにはいくつかのパートがあるが、それらが交差する交通の要衝(ようしょう)が敦煌。中国の絹はここを通って西方へ運ばれ、西方からは、玉や宝石やガラス製品がもたらされた。敦煌は東西の文化の行きかう場所だった。
敦煌の南東20キロの砂漠の中に4世紀の僧によって開闢(かいびゃく)された莫高窟がある。鳴沙(めいさ)山の断崖に穿(うが)たれた500あまりの石窟には、千年以上の長きにわたって各時代の人々によって製作された仏教壁画や仏像が遺されている。
1900年、ここで暮らしていた道士(道教の僧侶)が、偶然、大量の古文書を発見した。その後、日本からは西本願寺の大谷光瑞の主宰する探検隊が活躍した。
砂漠のなか、大谷探検隊のラクダ隊が収集品を運んでいる写真があります。私も鳴沙山でラクダに乗りましたが、意外に高くて、怖さのあまり顔がひきつってしまいました。
井上靖の『敦煌』は、行ったこともないのに、同世代の学者だった藤枝晃から資料をもらい、教わりながら、5年かけて執筆されたもの。歴史学と文学の幸福な出会いのなかに生まれた小説だ。すごい想像力ですね。戦後、井上靖は、亡くなるまで26回も中国を訪問した。これまた、とてもすごいことですよね...。
NHKテレビが1980年4月から「シルクロード」を月1回、12回にわたって放送したのが大反響を呼びました。毎回20%もの視聴率を記録するという大ヒット作品でした。石坂浩二のナレーション、喜多郎のシンセサイザーの前奏も印象に残ります。井上靖も案内人として登場します。さらに平山郁夫の絵がまたすばらしい。
この本では、日本人のあいだにシルクロードのイメージを広め、ブームを定着させた最大の功労者は平山郁夫としています。なるほど、そうかもしれないと思います。やはり、絵の訴求力は偉大です。
西安の兵馬俑と敦煌は、コロナ禍が収束したら、ぜひ再訪してみたいところです。もし、あなたが行っていなかったとしたら、ぜひ行ってみてください。現地に行って実物を見たときの感動は何とも言えないものが、きっとあります。
(2021年3月刊。税込2090円)

2021年6月 6日

清華大生が見た中国のリアル


(霧山昴)
著者 夏目 英男 、 出版 クロスメディア

清華大学といったら、中国の超エリート大学です。中国のトップ大学は、精華大学と北京大学。現在の国家主席の習近平、その前の胡錦涛も精華大学の卒業生です。工業系大学としては、マサチューセッツ工科大学(MIT)を抑え世界1位と評されています。
著者は、そんな精華大学の日本人学生なのです。すごいですね...。
清華大学に入ると、学生は全員が大学寮に入る。全寮制。門限はないが、消灯時間は夜の11時。4人1部屋。
清華大学のキャンパスは東京ドーム84個分の広さで、そこに5万人の学生と4千人の教職員が住んでいる。そこは何でもそろっている学園都市。
「海亀」(ハイグイ)は、開学のトップ大学に留学し、卒業したあと、中国に帰国した学生のこと。2018年の中国人海外留学生は66万人強。チャイナ・イノベーションは、海亀が牽引している。
習近平の中国共産党は「天下の人材を一堂に集めて活用する」という戦略をとっている。なるほど、ですね。
ところが、日本人学生の海外留学は減少傾向にあります。パスポートをもっている日本人は、人口の23%のみ。G7では最下位。若者が海外の治安の悪さに恐れをなして、海外へ出ていこうとしない...。
日本の大学生は、アルバイトするのがあたりまえ。ところが、中国や韓国では、学生はアルバイトをほとんどしていない。中国では学費が安く、寮費がタダで、食事も安く食べられるから...。
清華大学では、朝8時からの第1時限の講義を聞くため、自転車が集中して渋滞まで起きる。ええっ、大学内で自転車の渋滞だなんて...、信じられません。
アリババの創始者であるジャック・マーとテンセントの創始者であるポニー・マーの2人についても詳しく紹介されています。
変化の速い中国の実情の一端が日本人大学生の目で紹介されている、面白い本でした。
(2020年10月刊。税込1628円)

2021年6月 3日

この生あるは


(霧山昴)
著者 中島 幼八 、 出版 幼学堂

中国残留孤児だった著者が3歳のとき中国と実母と生き別れ、16歳のときに日本に帰国するまでの苦難の日々をことこまやかに描きだしています。
それは決して苦しく辛い日にばかりだったというのではありません。人格的にすぐれ、生活力もある養母から愛情たっぷりに育てられ(いろんな事情から養父は次々に変わりますが...)、近所の子どもたちとも仲良く遊び、また教師にも恵まれ、ある意味では幸せな幼・少年期を過ごしたと言える描写です。読んでいて、気持ちがふっと明るくなります。
この本には底意地の悪い人間はまったく登場してきません。「日本鬼子」と言って幼・少年期の著者をひどくいじめるような子どももいなかったようです。
著者の育ったところが、そこそこの都会ではなく、へき地ともいえる環境(地域社会)なので、お互いの素性を知り尽くしていたからかもしれません。
子どものころの自然環境の描写もこまやかで、見事です。車に乗って出かけるというと、それは自動車ではなく、牛車です。
靴は布を何枚も重ねた布靴で、養母の手づくり。友人のなかには、布靴がすり切れたらもったいないので、裸足で学校に来る子もいます。
3歳の日本人の男の子を引きとった養母は「私が育てます」と宣言し、消化不良でお腹だけが大きくふくらんでいたので、夜と朝、お腹を優しく揉んでやった。食べ物も消化のいいものにして、主食の粟(あわ)をお粥(かゆ)にして、それを口移して食べさせた。
実母は日本に帰る前に著者を引き取ろうと養母の家にやってきた。村の役人は、3歳の著者に実母か養母か選択させることにした。3歳の子は、まっしぐらに養母のもとに駆け込んだ。そのころの子どもって、やっぱりそうなんですよね。毎日、面倒みてもらっていたら、そちらになつくのが自然です...。
なので、著者は3歳のときに実母と生き別れ、16歳で来日するまで実母とは会えませんでした。それでも、その後の中国での日々は養母に愛情たっぷりに育てられたことがよくよく分かる話が続きます。
小学生のとき「小日本」と蔑称でいじめられた。そのことを教師に告げると、言った生徒は教師から補導された。しかも、行政当局から小学校に連絡がきて、日本の留置民に対して侮辱的な言葉をつかう生徒がいる。その傾向を是正するよう教育を強化せよというものだった。それは全校で徹底された。当時の中国は理想に燃えていたのですね。
あとの文化大革命のときには、日本人はスパイとか外国に内通しているとか、無謀な罪名をつけられましたが、幸いにして著者はその前に日本に帰国しています。
著者は小学校ではクラスメイトにも教師にも恵まれて楽しく過ごしたようです。章のタイトルも「愉快な学校生活」となっていて、養母に愛情たっぷりに育てられていたため、変にいじけることもなく、教師からもきちんと評価されて少しずつ自信をつけ、のびのびと楽しく過ごしたのでした。ここらあたりは、読んでるうちに楽しさがじんわり伝わってきます。
河でザリガニを捕まえて自宅にもち帰る、穀物の精製に使うローラー状の石臼で圧搾する。その絞り汁をスープに入れると、蟹(カニ)豆腐のようになる。なんとも言えない美味の感覚が今も舌先に残っている。うむむ、ザリガニをスープに入れて味わうなんて...。
著者は1955年、日本に帰国するが尋ねられたとき、次のように返事した。当時13歳なので、今の日本の中学1年生に当たるだろう。
「ぼくを無理矢理に汽車に乗せても、汽車から飛び降ります。絶対に日本へ行きません」
これは著者の本心で、誰からも強制されたものではなかった。養母の顔をうかがって言ったというものでもなかった。これは、中国で育つなかで、日本は他国を平気で侵略する恐ろしい国だという強いイメージをもっていたことにもよる。
ところが、さらに年齢(とし)をとると、外の世界への憧れ、親しい物事への好奇心が強まり、背中を押してくれた教師の言葉から日本へ帰国することになった。
このあたりの心理描写はよくできていて、なるほどと説得力があります。そして、ついに16歳のとき慌しく日本に帰国したというわけです。
400頁をこす大著ですが、なんだか自分自身も子ども時代に戻って、そのころの幸せな気分を味わうことができました。いい本です。一読をおすすめします。
(2015年7月刊。税込1650円)

2021年5月25日

チョンキンマンション


(霧山昴)
著者 ゴードン・マシューズ 、 出版 青土社

中国は香港にある17階建ての雑居ビル。重慶大厦(チョンキンマンション)には、毎日、100ヶ国以上の人々が行きかう。そこには世界中から商人が集まり、バックパッカーが来訪するところでもある。『チョンキンマンションのボスは知っている』(小川さやか、春秋社)を読んで、その存在は知っていましたので、その過去と現在を知りたいと思って読みすすめました。
チョンキンマンションも、今では、かなり変わっているようです。多くのアフリカ人貿易業者にとって、夢あふれる器としてのチョンキンマンションは、中国大陸にとって代わられた。そして、中国大陸を拠点にしているアフリカ人貿易業者の一部にとって、チョンキンマンションは、発展途上世界版の紳士クラブになった。
チョンキンマンションは、数年前より、さらにこぎれいになった。チョンキンマンションは、もはや怖いところではなく、家族を食事に連れて行くのに適した場所である。
チョンキンマンションは、酒を飲んだり、セックスワーカーを買ったり、他のさまざまな悪法行為に従事するムスリムも多くいる。すべてがイスラム教の道法的秩序にしたがってなされているわけではない。
チョンキンマンションでは、とても狭い範囲内に、非常に多くの国籍と宗教が存在しているので、不寛容でいることは不可能も同然だ。チョンキンマンションが平和なのは、新自由主義のイデオロギーだけではなく、チョンキンマンションにいるほとんど誰もが、彼がその建物の中にいるというその事実によって、人生における比較的な成功者であるということからもきている。彼らはセックスワーカーや麻薬中毒者であってさえ、多かれ少なかれ人生の勝ち組だ。
チョンキンマンションは、香港の残りの部分とは民族的に異質であり、ほとんどの香港系中国人に軽蔑され、あるいは恐れられていることによって、ゲットーであり続けている。このことに、チョンキンマンションのほとんどの人々は痛いほど気がついている。しかし、それは明らかに中産階級のゲットーであり、さらには国際的なゲットーなのだ。
そこでは、誰もが、いつの日か成功して金持ちになることを望み、信じている。客観的には疑わしいが、これが彼らの信念だ。
チョンキンマンションは、すでに17階建てであり、取りこわしても売却できる空間の大きな増加にはつながらない。この建物は、いくぶんぼろぼろの状態でありながら、驚くほどの収益を生んできた。この建物は所有者にとっては「金山」なのだ。
チョンキンマンションでは、かつてケータイ電話が主要な取扱商品だった。サハラ砂漠以南のアフリカで使われているケータイ電話の2割はチョンキンマンション経由だと推測できた。しかし、今では1%未満に低下しているだろう。
いまチョンキンマンション内にいるアフリカ人貿易業者はケータイではなく、宝石か中古自動車の部品を扱っている。宝石は密輸が簡単だし、香港の人々が比較的短期間で新車に乗り換えるため、貴重な中古部品が多く入手できるから。
今日、チョンキンマンションでコピーのケータイ電話を買うのは簡単ではない。
チョンキンマンションは、九龍半島の先端、香港の主な観光地区(ツィムシャツィ)にある。
チョンキンマンションでは驚くほど物価が安い。食事も宿も、ほんのわずかな費用しかかからない。かつて、チョンキンマンションの1階には120軒のうちケータイ電話を売る店が15軒、洋服を売る店が30軒あった。
宿泊所は90軒あり、合計すると1000をこえるベッドが用意されている。
アフリカ人が美味しいと感じる食事を出すチョンキンマンション内のほとんどのレストランが無免許で、したがって非合法だった。
チョンキンマンション内には暴力団組織が、かつては存在していたが、今はいない。
チョンキンマンションには、現に単独の所有者が存在しない。チョンキンマンションの所有権をもっている人は920人いて、その7割は中国人で、残る3割は南アジア人。つまり、アフリカ人所有者はいない。
チョンキンマンションは、一般的には、礼儀正しく、平和で、道徳的な場所だ。ここでの争いごとの多くで警察は蚊帳(かや)の外に置かれ、役に立たない。チョンキンマンションは、独自の警備隊をもっている。警備員は武器をもっていない。その主たる役目はエレベータ―付近の秩序維持にある。
チョンキンマンションを通りすぎる1万人のうち、2000人は亡命希望者、4000人は違法に働いている人々、残る4000人は貿易業者や合法的な労働者。
香港の警察に賄賂は通じない。ええっ、本当なんですか...。
興味深い学術研究書でした。2冊あわせて読むと面白いですよ。
(2021年3月刊。税込3080円)

2021年2月12日

孔丘


(霧山昴)
著者 宮城谷 昌光 、 出版 文芸春秋

人間、孔子の生きざまを丹念にたどった小説です。
孔子は妻との折りあいが悪く、また長男とも疎遠だったようです。まさしく決して聖人ではなかったのですね。そして、弟子たちと何度も流浪の旅に出かけざるをえませんでした。
群雄割拠の中国の各地を、時の権力者とまじわりながらも、ときにはねたみを買って追い出されてしまうのです。
孔丘が、自分の子に教えたのは、二つだけ。
「詩を学んだか。詩を学ばなければ、ものが言えない」
「礼を学んだか。礼を学ばなければ、人として立つことができない」
詩と礼は、精神の自立と正しい秩序との調和を目ざす孔丘の思想の根幹をなす。
中都の長官となった孔丘は善政を目ざした。善政の基本は、司法が公平であること、課税が過酷でないこと。この二つ。
政治とは率先すること。ねぎらうこと。孔丘もそれを実践した。
60歳は耳順。天命をより強く意識するようになったことから来るもの。どんないやなことでも、天が命ずることであれば順(したが)っておこなうこと。
孔丘は弟子に公こう言った。
「努力しなければ成就しない。苦労しなければ功はない。衷心がなければ親交はない。信用がなければ履行されない。恭(つつし)まなければ礼を失う。この五つを心がけること」
弟子の顔回が師の孔丘について、次のように語った。
「先生は、仰げば仰ぐほど、いよいよ高い。鑚(き)ろうとすればするほど、いよいよ堅い。まえにいたとみえたのに、忽然とうしろにいる。先生は順序よく、うまく人を導く。文学でわたしを博(ひろ)くし、礼でわたしをひきしめる。もうやめようとおもっても、それができない。すでにわたしの才能は竭(つ)きていて、高い所に立っている先生に従ってゆきたくても、手段がない」
これが孔丘の実像である。
15歳で学に志(こころざ)した孔丘は、休んだことがない。73歳で亡くなって、生涯で初めて休息した。
孔丘は妻との離別のとき、人から、次のようになじられた。
「自分よがりの礼をかかげて、教師面(づら)をしている。あきれた人だ。家庭内を治められなかったあなたに、人を導く資格があるのか」
孔丘はこれに対しては、ひとことも抗弁しなかった。夫婦間の機微に理屈をもちこんだところで、他人を納得させる説明ができるはずもない。
孔子も、やはり人の子だったわけなんですよね...。この本は、たくさん勉強になりました。
(2020年10月刊。2000円+税)

2020年12月29日

日本語を学ぶ中国八路軍


(霧山昴)
著者 酒井 順一郎 、 出版 ひつじ書房

八路(はちろ)軍といっても、今どれだけの日本人が知っているのでしょうか...。実は、私の叔父(父の弟)は、応召して中国戦線へ引っぱられ、敗戦後、八路軍の求めに応じて技術者として残留し、国共内戦下の満州で八路軍と行動を共にしていたのです。1953年6月に帰国しましたが、たちまち郷土の保守的風土に溶け込み、長生きしました。八路軍は偉かった、「三大規律、八項注意」を守る人民の軍隊だったと胸を張って私に教えてくれました。
中国共産党(中共)の対日工作は、日本語と日本文化を積極的に学び分析している。中共は、積極的にプロパガンダの一つである抗日工作を行った。中国人将校に対して日本語教育を行い、学んだ日本語で対日宣伝や捕虜投降の呼びかけ工作をすすめた。
そして、獲得した日本兵を優遇しながら、反戦教育を施した。
中共は日本人捕虜から日本軍の情報収集だけでなく、日本語教師としても活用した。日本軍兵士のなかで中国語教室を開いただなんて聞いたこともありません。
同じように、アメリカでもアメリカ兵に日本語教室を開いていました。「菊と刀」などをテキストにして、日本文化の研究もしていたのですが、それは早くも戦後の日本占領政策のすすめ方を考えていたということです。
中共の八路軍内に、敵軍工作訓練隊が設置され、そのとき活用されたのが日本留学組の中国人、そして日本人捕虜、軍内で育成された高度な日本語人材だった。
中国では、1930年代に空前の日本語ブームが到来した。日本語ができるのは、新しい出世の近道だった。上海に会った有名な内山書店における日本語本の売り上げの6割は中国人だった。1926年から30年にかけて、中国から日本へ留学する学生が1.7倍に増えた。その一人が有名な魯迅(ろじん)です。ただし、職業キャリア・アップの日本語学習熱は、日中戦争がはじまると、たちまちしぼんでしまいました。
八路軍は中国軍(八路軍)との戦闘に勝利して千人以上の日本兵を獲得する自信があったけれど、できなかった。日本兵は死んでも捕虜にならないと戦い続けようとしたからだ。
しかし、日本兵の残した日記等を解説すると、日本兵も死を恐れるフツーの人間だということを知り、そこに働きかけることにした。毛沢東も、戦略的に日本語が重要であることを理解していた。
1938年11月、八路軍は延安に敵軍工作の中心を担う日本語人材育成のため、敵軍工作訓練隊を設立した。1040年、敵軍工作幹部学校に改編された。そして、日本留学組が活躍した。そして、日本人捕虜も助教として採用された。
訓練隊では、日本語の発音が重視された。教える側の日本人の放言が問題になったこともある。多くの日本人捕虜は庶民であり、共産主義の知識もなかった。八路軍で初めて小林多喜二の「カニ工船」に接した。
日本軍は、八路軍の働きかけによる捕虜と投降の増加を問題視し、八路軍の抗日工作を警戒した。日本人捕虜たちは、八路軍の将兵が酒をくみ交わし、日本語の歌を一緒にうたう日中歌合戦をしていた。うひゃあ、そうだったんですか...。
それに対して、日本陸軍内では中国班は出世コースに乗ることすらできなかった。
こりゃあ、ダメですよね、まったく...。国としての総合力でまるで劣りますね、日本っていう国は...。こんなことでは、偉そうなことを言えるはずもありません。
(2020年3月刊。2600円+税)

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