弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

中国

2015年4月 8日

中国国境・熱戦の跡を歩く


著者  石井 明 、 出版  岩波書店

 中国が周辺諸国と戦闘した、その現場を足で歩いて調べた貴重な本です。
 1949年、国共内戦の最終段階、中国共産党は台湾解放の準備を急いだ。劉少奇は台湾解放を楽観視していたが、毛沢東のほうは、それほど楽観視してはいなかった。
 実際には、1949年10月に始まった国共内戦では、金門島に向かった人民解放軍9000は全滅した。4000名が戦死し、5000名が捕虜となった。
 この金門島の戦闘については、日本軍の元将校が国民党軍を指導していたようです。
今や、台湾と中国大陸は平和的な共存関係の確立を模索している。
 朝鮮戦争が始まったのは1950年6月25日。中国軍が人民志願軍として参戦したのは、同年10月25日から。そして、1951年4月、中国人民志願軍は、第五次戦役を発動した。ところが、中国軍60軍180師団は壊滅状態になった。全師団1万人のうち7000人を失い、5000人が捕虜となった。60軍をふくむ第三兵団は失踪者1万5000人を出し、あとの停戦交渉で中国軍捕虜の帰還問題が大きな問題となった。
このとき、アメリカ軍は、中国人民志願軍は1週間分の食糧を背負って攻勢をかけてくると読んでいた。そこで、志願軍に付きまとって離れず、志願軍得意の不意打ちなどの運動戦にもち込むのを防ぐ戦術をとって中国軍を圧倒した。
 1969年3月、中国は珍宝島地区でソ連に向けて戦いを起こした。人民解放軍は緻密な事前の準備のうえで、「自衛反撃戦」に出た。
 毛沢東が対外的な危機をつくり出して、中国人民の気持ちを外敵に向けさせて一つに団結させ、そのエネルギーを対内的な政治目標の達成に向けて、方向づける政治手法が認められる。
毛沢東は「反ソ」をつかって、文化大革命による混乱を収拾し、国内の支持を取りつけようとした。中国全土でのデモと抗議集会への参加者は4億人をこえた。これは中国史上、例のない大規模なものだった。「反ソ」の高まりのなかで、「団結の大会」、「勝利の大会」を演出する必要があった。
 長らくアメリカの主要敵とみなしてきた中国には、新たな脅威であるソ連と二正面作戦を戦う力はない。そのため、その後、中国はソ連に対抗するため、アメリカに接近していった。
アメリカのベトナム侵略戦争のとき、中国はベトナムに支援部隊を送っていた。のべ32万人。最多時には17万人を送っていた。高射砲部隊、鉄道建設、通信線の敷設等の任務を担った。中国兵の死者も1100人ほどいた。
 そして、中国は1979年2月、22万5000の戦闘部隊でベトナムに攻め込んだ。10年戦争の始まりだった。中国軍は、1万人以上が戦死した。中国軍に作戦指導の誤りがあった。
 1990年9月、江沢民総書記とグエン・バン・リン書記長が密かに会談し、関係の正常化が図られた。
中国での国共内戦と朝鮮半島での朝鮮戦争の二つは、今なお、最終的に終結していない。
そこで、著者は、この二つの戦争を終結させるために平和を回復したことを確認する二つの平和協定を結ぶことが必要だと提言しています。なるほど、と思いました。
中国という国がどのような国であるか、歴史的にかつ地理的に解明した貴重な基本的文献だと思います。
(2014年8月刊。2400円+税)

2015年3月26日

人民解放軍と中国政治


著者  林 載桓 、 出版  名古屋大学出版会

 中国の文化大革命と中国軍(人民解放軍)との関わりについて、大変興味深い分析がなされていて感嘆しながら読みすすめていきました。
毛沢東の最大の目的は、通常の独裁者と同じく権力の維持、つまり政治的存続だった。死ぬまで「挑戦不可能な権威」として毛沢東は君臨し続けたが、かといって国内外に競争相手のいない安泰な状況が保証されていたわけでもない。毛沢東は意思決定過程への支配力を保持することに格別の注意を払っていた。
 毛沢東は、権力の維持とともに、あるいは、それを通じて中国社会の全面的変革を図ろうとした。
 毛沢東は過度な抑圧によって大衆を政治から遊離させることを決して望ましく思わなかった。単なる服従ではなく、社会の積極的な協力にもとづいた統治を好んでいた。スターリン流のテロと人殺しは、毛沢東にとって、あくまで最後の手段だった。
 1969年に発生した中国とソ連の武力衝突、珍宝島事件は、中国側の周到な「仕掛け」の結果だった。対外的に「適切な」危機をつくり出し、国内動員の挺子にしようとする毛沢東の政治的意図が色濃く反映されていた。
 戦備体制の構築の大前提として、各地で派閥闘争の即刻の解消、とりわけ「武闘」の無条件停止が求められ、同時に軍内部の団結、軍政団結、軍民団結の強化が強く訴えられていた。なかでも、駐留部隊に対する大衆団体の攻撃・批判の厳禁、違反行為に対する厳しい処分が強調された。
 文化大革命による社会の混乱を収拾するため、中国とソ連の「武力衝突」が利用されたというのです・・・。
 林彪勢力の組織基盤の強化には、毛沢東が直接に関与していた。そして、林彪勢力が政権を簒奪する「陰謀」を企図していたとか、その影響力が「膨脹」していたという実態は疑わしい。では、なぜ、林彪は排除されなければならなかったのか・・・?
 毛沢東の林彪勢力への攻勢は、現に実在する脅威を対象としたというよりは、将来の情勢変化に対する一種の予防策としての性格を帯びていた。林彪事件は、独裁者による後継者の否定に、その本質がある。
林彪の突然の死は、毛沢東にしてもほとんど予期できなかった出来事だった。毛沢東は、林彪を「消滅」させようとまでは思っていなかった。
 この林彪事件のもたらした衝撃により、毛沢東は、国政全般で一定の妥協を迫られた。毛沢東は林彪を「極左」ではなく「極右」批判とした。「極左」批判の高まりが文革の全面否定につながることを恐れたのだろう。
毛沢東は、人民解放軍を自らのイデオロギーの宣伝と実践に忠実な組織にすべく、直接の軍統制を妨げる制度的、人格的爽雑物を取り除くことに細心の注意を払ってきた。それは、制度的には、軍を党の党勢から切り離すことを意味し、その過程で党と軍にまたがる、あるいは国家と軍をつなぐ制度的立場にあった多くの軍幹部が犠牲になった。前者の典型は羅瑞卿であり、後者は楊成武である。
 1973年12月の八大軍区司令員の相互移動は、政治における解放軍の影響力の縮小を最大の課題としていた。同時に、毛沢東は鄧小平の政治局と中央軍委入りの、総参謀長への任命を公表した。
 1975年に、省指導部における軍人の割合は一気に20%台へ減少した。
1979年2月から3月までの中国のベトナム侵攻作戦は中国軍の惨敗で終了した。
 中越戦争は、大規模な軍事動員とは対照的に、国内ではほとんど宣伝されず、およそ秘密裏に行われた戦争だった。人民解放軍(中国軍)は、適切な戦術を通じて、大規模な兵力を運用できなかった。
 ランソンをめぐる戦闘では、ベトナムの一個連隊が中国側の2個軍を相手に1週間も抗戦に成功している。中国軍は、とても効率的な作戦が行える状態ではなかった。その原因は、解放軍による統治活動の長期化にあった。
 鄧小平は、それにもかかわらず、権力の維持と強化に成功した。それは、対ベトナム戦争の遂行を軍改革の「プロセス」のなかに明確に位置づけることに成功したからである。
 中国軍を毛沢東は思うように操っていたこと、しかし同時に必ずしも思うようには中国軍が動かなかったことが明らかにされています。複雑・怪奇な中国政治の断面を鋭く分析している本として、中国軍と文化大革命との関わりに関心のある人には強く一読をおすすめします。
(2014年11月刊。5500円+税)

2015年2月19日

日本人の値段


著者  谷崎 光 、 出版  小学館

 日本人の技術者が中国へ数千人ほど渡って、中国企業で技術指導している実情をレポートしている本です。
 韓国では年俸5000万円というように高給だけど、スキルと情報だけを取り出したら日本人技術者は、使い捨てされる。これに対して、中国は、もう少し長いスパンで見る。
 中国企業で働く日本人の車のエンジニアで年俸3600万円(200万元)という人は少なくない。多いのは2700万円(150万元)ほど。ただし、これに加えて、高級マンションが用意され、通訳と送迎がつく。年に数回の日本への帰国費用も会社が負担する。
 設計図や断面図を見て、ここで問題が発生すると分かるようになるまでには何十年もかかる。成功体験は意味がなく、不具合をどれだけ経験しているかが、エンジニアのレベルを決める。こういう技術者を中国企業は求めているのです。
 日本人は、みんなで力をあわせて開発することにはバツグンに強い。
日本のエンジニアは、信頼性に命をかけている。中国人の安全意識は極端に低い。車の品質由来による日常の事故は、圧倒的に中国産の車が多い。
 中国の金持ちは、中国の純国産車には乗らない。国家のリーダーの乗る国産高級車(紅旗)も、エンジンとトランスミッションは日本製である。外観は中国製だが、中身は日本製というのは、北京の地下鉄や高速鉄道のように、けっこう多い。ちなみに、日本車では、日産のほうがトヨタより人気があり、売上げも多い。
 中国で高級車に乗っているのは、一党独裁を最大限に利用して、大バクチを打って巨額のお金をつかんだ人々である。中国の金持ちは、日本車の客に合わせたような従順な感じを嫌う。だから日本車は選ばない。
 中国の会社は、どこでも全部門に不正のチームがはりめぐらされている。
 中国のあらゆる組織、あらゆるお金とモノとサービスが動くところ、不正のないところはない。低価格の部品へのすり替え、製品の横流し、処分品の横領、仕入れ先からのバックマージンなど以外に、サービスセンターなら修理費のごまかし、製品の消耗品の転売、おまけの販売など、さまざまな手口がある。
 日本の企業には、必ず基礎研究と開発研究の両方がある。これに対して、中国の研究所は、買ってきたものをバラして単に設計する場所でしかない。
 ところが、家電のような身近なものでも、分解して研究し、そのまま再現できるかというと、そうではない。同じものを安定した品質で何万個もつくるのは難しい。開発は、技術のない中国には、不可能なのである。そこで、技術者の引き抜きに走る。一番安上がりである。
 技術とは、設計図や一つの工程の特殊な作業だけではなく、総合力が必要であり、それが生産技術なのだ。日本は、これが強い。
 中国へ進出している日本企業は、2012年時点で1万4000社以上。
 中国の企業にいる日本人技術者は3000人以上。そして、中国からの日本人技術者への求人は増える一方なのである。
 中国で暮らしていると、モノの品質の良し悪しを決めるのは、最後は素材だということが、良く分かる。優秀な部品をつくる素材の基礎技術は買えない。
 日本人技術者は、相手に合わせて、うまく調節できるから、中国企業から非常に評判がいい。柔軟な日本人は、実はタフなのかもしれない。
 日本の中小企業は、たしかに中国から撤退している。しかし、大企業は引くに引けない。日系の企業数は減っているが、一社あたりの社員数は増えている。
 中国において日本人技術者がひっぱりだこだという実情を知ると同時に、その理由も分かりました。いろいろ勉強になる本です。
(2014年12月刊。1300円+税)
 東京は有楽町の映画館で「ミルカ」をみてきました。2時間半の長大作ですが、映像にひきずり込まれ、あっという間でした。
 インド映画につきものの歌と踊りはほとんどありません。どうやら監督が嫌いのようです。
 1960年のローマオリンピック。陸上競技400メートル。インド代表のミルカはトップを走っていたのに、ゴール寸前で後ろを振り返ったため、4位になってしまった。なぜ、うしろを振り返ったのか。その謎が映画の進行とともに解明されていきます。
 ミルカは、ミーク教徒です。頭の上で、長く伸びる髪を丸くまとめているのが、ちょんまげのようでユーモラスです。日本にもミーク教徒が2000人ほどいて、寺院も東京と神戸にあるとのこと。
 インドからパキスタンが分離・独立したときの悲劇がかかわっています。
 ミルカの子ども時代の少年も可愛いらしいのですが、大人のミルカ役はなんと本職は高名な映画監督だというのです。その鍛え抜かれた肉体美には圧倒されます。
 人生を考えるうえで参考になる映画でもあり、大いに一見に値しますので、機会があればぜひご覧ください。

2015年2月12日

台湾現代史


著者  何 義麟  、 出版  平凡社

 事件は1947年2月末から3月中旬にかけて起こりました。日本の敗戦により日本の台湾統治が終了した後に、中国本土から国民党の蒋介石軍がわたってきたことによります。国民党が中国本土で共産党軍に敗退して大挙渡来し、台湾を支配しはじめたのです。
 ヤミ煙草の取り締まり中に起きた発砲事件をきっかけとする反国民党政府勢力による政治暴動が台湾全島に広がった。
 政府側は、はじめこそ交渉をすすめる姿勢だったが、大陸からの増援部隊が到着すると、台湾人に対する無差別虐殺をふくむ過酷な弾圧を行い、抵抗を完全に鎮圧した。
 2.28事件の犠牲者は1万8000人から2万8000人の間にのぼるとみられるが、10万人という説もある。しかし、問題の核心は犠牲者の多くが台湾人の有能な知的エリートであったこと。この事件によって台湾会社のエリート層が壊滅的な打撃を受けたばかりではなく、一般の台湾人の精神も、政治に対する恐怖心を深く刻みこまれた。
 そして、戦前からの台湾出身者である「本省人」と、戦後に中国本土から渡ってきた「外省人」との深刻な対立が生まれた。この2.28事件をめぐる台湾社会の対立は、いまもなお解消されていない。
 1945年の日本敗戦当時、台湾には40万人ほどの日本人がいた。日本統治の50年間で、台湾の人口は300万人が600万人へと倍増した。1949年ごろ、国民党が国共内戦に敗れたため、150万人の大陸住民が台湾に移住してきた。
 1946年末の台湾全体の失業者は30万人から40万人いた。戦後になって台湾に来た中国の軍隊は法律を守らず、さまざまな治安問題を引き起こし、台湾社会に大きな脅威を与えた。外省人が台湾の法治社会を破壊したというイメージがった。台湾人の外省人に対する反感の基本的な理由は、外省人の法治観念の欠如にあった。
 3月8日、基隆(ルーキン)で国府軍による武力掃討が始まった。戦艦が大砲で沿岸に撃ち込み、機関銃で町中の市民を掃射した。一週間続いた武力掃討の過程では、無差別の虐殺や誤殺が繰り広げられた。そして、より深刻な問題は、指名手配の有無を問わず、多くの医師や弁護士、参議会議員などの著名人が失踪したことである。彼らは秘密裏に処刑されたとみられる。
 国民党政府は、厳しい住民監視体制の下で、共産党スパイの取り締まりを行い、1949年から1960年までの10年間に100件の反乱グループを摘発し、2000人を処刑、8000人に無期から10年までの懲役刑を課した。このうち、本当に共産党員だったのは1割以下の900人以下で、残り9000人は冤罪だった。すなわち、「赤狩り」に名をかりた白色テロであった。 
共産党員と目された人々の氏名が銃殺刑の実施前に新聞に掲載され、駅前の掲示板などでも発表された。これは、国民党政府による「見せしめ」という手段を使った政治教育であった。
 1950年6月、元台湾省行政長官の陳儀までも、反逆罪で銃殺された。弾圧の元凶と目された陳儀の銃殺によって、台湾住民を懐柔しようという意図が見えていた。
 2.28事件については、今なお共産党の陰謀によるものであり、再検証する必要などないという当局の意向が働いている。
台湾社会の複雑な内情を知ることができる本です。
(2014年9月刊。2800円+税)

2015年1月23日

文革


著者  董 国強  、 出版  築地書館

南京大学14人の証言、こういうサブタイトルのついた、かつての中国で吹き荒れた文化大革命の体験談を集めた本です。
私も南京に行ったことがあります。とても大きな都市です。南京大学には行っていませんが、南京の城壁にはのぼってみました。とても大きな城壁です。
日本軍は1937年12月、南京事件(南京大虐殺)を起こしています。30万人かどうかはともかくとして、日本軍が中国軍の敗残兵を大量に殺害し、罪なき多数の市民を無残に殺したうえ、無数の女性を強姦した事実は絶対に消せるものではありません。加害者は忘れても、被害者はずっと後の世代まで忘れることができません。
南京は日本軍の支配下から脱したあと、重慶から移ってきた蒋介石政権が首都としたこともある重要な都市です。そこにある南京大学は、北京大学と並ぶ中国でも有数の大学です。その南京大学における文化大革命の顛末が、当時、教授や学生だった14人から語られていて、大変興味深い内容になっています。
南京大学での文革の開始は、わずかに北京大学での動きに遅れるだけだった。
文化大革命における大衆運動が想像外にエスカレートした背景は・・・。
まず、毛沢東の政治的威光。当時、毛の権威は絶大だった。毛思想教育が徹底しており、毛の呼びかけには何らかの形で応える政治的必要があった。
次に、共産党政権への不満である。階級区分による差別、私生活の管理に対する不満、非正規雇用が増加し、社会には不満が渦巻いていた。したがって、文革に名をかりて、自らの不満解消を図る人々も少なくなかった。
1971年9月の林彪事件は、紅衛兵も海外の文革礼賛派も幻滅させ、文革への疑念を生じさせた。
1974年の批林批孔運動のときには、過去の熱狂は失われていた。
文革の運動に積極的に参加していた人々の多くは、個人的な目的を心に抱いていた。家庭条件が悪く、自分の資質が良くない人は、文化大革命の期間を通じて「造反」「経験交流」などに出かけ、多くの利益を得た。
農村に追いやられた学生たちは、そこで農民の大変な生活を目にした。農民の生きていく唯一の目的が、いかに腹を満たすことであるかを知った。この現実を見て、学生たちの考え方が大きく変わった。
当時の農民には、ほとんど娯楽と呼べるものはなかった。彼らの精神生活は、きわめて貧困だった。しかし、農民もばかではなかった。彼らには彼らの考え方があり、知恵があった。
重大な言い間違いをしたとき、苦労して育ててきた豚を殺し、村人や幹部を招いて宴会をするのだ。そうすると、何事もなかったことになる。
農民は懐中電灯すら買えなかった。しかし、人間性は失っていなかった。何も持ってなかったが、善良だった。
南京大学では文革期に20人以上も自殺した。しかし、人間性のまったく失われてしまった時代にあっては、自殺した者も屈辱に耐えて生き抜いた者も、どちらも弱者とは言えない。自殺は自尊心と人格を守るため、本人の生命を犠牲にし、家族の長期にわたる苦しみにもかかわらず選択されたもの。一方、生き抜いた者も、自尊心を売り渡すことを余儀なくされ、屈辱と肉体の苦しみを我慢しながら、最後に誰が笑うのかを歯軋りをこらえて見ようとしたのだ。
批判闘争が行われるときには、頭を下げて、ひたすら主催者が『毛主席語録』の一節を読むのを聞き、今日の批判がどの程度のものかを判断する。もし、『毛首席語録』のなかの「革命は、客を招いて食事をすることではない・・・」が読まれたら、その日の批判は厳しく、心して対応しなければならなかった。
毛沢東の犯した誤りは、極めて重大であって、「誤り」という言葉では軽すぎる。文化大革命が中国の民族と国家に与えた損害は空前絶後のものだ。
文革という運動は、個人の精神にまで及んで、ふだんであれば現れにくい部分が曝露される結果になった。彼らは「革命の継続」というお題目の下で、私怨を晴らした。
上のやることを、下も真似して、どこでも同じことが起きた。分配された仕事に不満をもっていた人たちが動いたのだ。こういう人たちの自己顕示欲と野心の心強さは、学生時代からみられた。
育ちの良い青年学生たちは、若くて単純だったので、簡単に巻き込まれ、素朴な階級感情が刺激された。保身に走った人たちもいる。場合によっては、あえて過激な言動をすることで攻撃から自分を守っていた。
南京大学では、造反派に攻撃された死んだ人はいない。しかし中学校では、教師や校長の多くが学生に殺された。南京大学で殺された人がいないのは、南京大学の造反派は、南京大学そのものではなく、省委員会に関心をもっていたことによる。南京大学には何のうまみもなかった。
しかし、中学校の事情は違っていた。彼らにとって権力など、どうでもよかった。そんなものには興味がなく、暴れ回ることで単純に気持ちを発散させていた。ふだん生徒に対して厳しい先生は徹底にやられた。それに対して、南京大学の造反派は、はじめから教師に興味をもっていなかった。
南京大学の死者は、造反派が造反派にやられるという形の内紛によるものだった。
文化大革命は、始まったときから、完全な権力闘争だった。
毛主席の「経験大交流」の呼びかけがあったので、学生たちは、この機会に乗じて遊びに行った。みな見識を広げたいと思った。これを機会に各地の風景を観光して回った。
「経験交流」では、一ヶ所に最低3泊4日いることができ、出発のときには列車で食べるように、弁当箱一杯にご飯を詰めてもらえた。マントウも、蒸しパンも無料で食べられた。
1976年の第一次天安門事件は、名義上は四人組への反対だったが、実際には毛沢東と文革への反対だった。これは、毛沢東自身もはっきり自覚していたはずだ。
「批林批孔」運動のときには、人民大衆の消極的な拒絶にあった。
南京大学の紅衛兵は北京へ行き、北京大学で文革を引き起こした黒幕と出会った。それは、康生の妻だった。そして、上海の張春橋を紹介されて会っている。
文化大革命は、さまざまなものが上級機関と密接にからみあっていた。大衆組織間の是非も、実際には上級機関の一言によって左右された。中央の指示がなければ、造反派は一日だって存在できなかった。「お前たちは反革命組織だ」と言われたら、たちまち反革命組織になってしまう。
文化大革命では、末端の人々はみな操り人形で、上級機関に操作されていただけ。当時の熱狂的な状況のなかで、中央に従属して大騒ぎしていただけのこと。しかし、不幸なことに、誰も逃げることは出来なかった。
国家、共産党、人民解放軍には共通する特徴がある。それは派閥が存在すること。誰がどの派閥か、みな知っていた。文革で、この矛盾が表面化した。中国人は、「内輪の闘争」の能力がある。これは共産党ではなく、封建主義だ。
文革の後遺症は克服されていない。文革の動乱を経て、誰もが人間関係で傷ついた。文革中に他人を攻撃した人は、攻撃された人に謝罪した。しかし、内心の腫物が完全に取り除かれたとは言えない。
派閥問題の影響も残っている。過去に同じ派閥に属していた人とは戦友と同じつながりをもち、一種の個人資源となった。同じ派閥に属さなかった者は、学術問題ですらもめて、徒党を組んで意見の異なる人を攻撃した。
文革は社会の気風を破壊した。詐欺や日和見主義などで道義を論ぜず、良識と人格を売り払い、文革に利益を求めた人もいた。これらが批判・清算されないまま、人々の道徳観や価値観が悪くなった。また、共産党の名声も傷ついた。これによってブルジョワ的自由化思潮が発展し、蔓延する条件となった。
誤りの多くは清算できないままで、はっきりしていないことも多い。そのため、現在でも、毛沢東と文革に対する深層での見方は簡単に統一できない。
実際のところ、文革のなかには抜本的に、どのような民主も存在しなかった。いわゆる「大民主」とは、毛沢東の「左」の専制路線のもとの暴虐政治だった。
運動の初期、誰もが文革は現体制を転覆する革命だと誤解していた。まさか、実際の結果が、それまでの専制体制をさらに強化することになろうとは思いもしなかった。
中国の統治は、基本的に暴力と恐怖による。畏怖の気持ちと、服従しなければ、すべてを失ってしまうという社会心理がつくり出されている。
文化大革命を体験者が振り返った貴重な本です。正月やすみ、人間ドッグのときにホテルで熟読しました。

(2009年12月刊。2800円+税)

2014年12月18日

チャイナ・セブン


著者  遠藤 誉 、 出版  朝日新聞出版

 赤い皇帝・習近平というサブタイトルのついた、中国を分析した本です。
中国共産党の政治局常務委員(チャイナ・ナイン)の一人だった周永康が逮捕された。本来、このチャイナ・ナインは逮捕されないという不文律があった。それを習近平は破った。
 捕まった周永康は江沢民派なので、習近平と江沢民との権力闘争だとみられている。しかし、著者は権力闘争ではないとみています。なぜなら、習近平自身が江沢民派だから。
 少なくとも腐敗問題に斬り込まなければ、中国共産党による一党支配体制は必ず崩壊してしまうから。
 最近、中国で腐敗により摘発・処分を受けた人数は18万人をこえ、チャイナ・ナインの一人だった周永康、さらに中央軍事委員会副主席だった除才厚まで捕まった。前代未聞の事態である。
 習近平は、利益集団の解体を狙っている。利益集団解体の先には、利益を独占している国有企業の改革が待っている。国家の60%の富を0.4%の者が独占しているような現状を打破することだ。富の極端な一極集中化をもたらしている利益集団を解体してからでないと、抵抗勢力が巨大化しすぎていて、前に進めない。
 チャイナ・セブンは「共青団」「紅二代」あるいは「江沢民派」というように、きれいに分けることができない。7人のうち紅二代が3人もおり、かつ「江沢民派」に偏っているのが特徴だ。
 もっとも重要なことは、チャイナ・セブンの圧倒的多数が習近平、またはその父母と接点があること。
 チャイナ・ナインがチャイナ・セブンになっても、中共中央政治局常務委員会では多数決による議決を鉄則とする集団指導体制を実行していることに変わりはない。
 もし今、国家主席が習近平でなかったとしたら、中国は、この10年間の政権のなかで、あるいは崩壊したかもしれない。
 社会主義が生き残るのか、資本主義が生き残るのか。あるいは、一党支配体制が生き残るのか、という壮大な実験に習近平は挑もうとしている。
習近平は、毛沢東に次ぐ力を持った指導者としての地位を気づきつつあると言ってよい。
 2012年1月、胡錦濤は、「腐敗を撲滅させなければ、党が滅び、国が滅ぶ」と、中共中央総書記として最後の言葉を述べた。しかし、この腐敗を招いたのは、共産党の一党支配体制だ。その支配体制を崩すことなく、腐敗を撲滅することなど、できるはずがない。
 腐敗撲滅へ向かって進めば進むほど、共産党統治は政治体制改革を余儀なくされ、政治体制改革を断行すれば、共産党の一党支配は必ず崩れる。進んでも留まっても、崩壊はまぬがれない。
 習近平は、1953年6月15日、北京で生まれた。父親は習仲勛。父親は16年間の囚われの生活を送った。
 習近平は、文化大革命のとき、延安地区へ追放されて苦労している。そして、文革末期になって清華大学に入学することができた。
 中国の四大利益集団は、鉄道閥、石油閥、電力閥、電信閥である。そこは腐敗の巣窟でもある。
 チャイナ・セブンのうち、習近平と李克強以外の5人は、みな2017年の党大会で定年退職してしまう。
 中国の前途を考えるうえで読んでおくべき書物の一つだと思いました。
(2014年11月刊。1600円+税)

2014年10月 1日

法制度からみる現代中国の統治機構


著者  熊 達雲 、 出版  明石書店

 中国共産党の党員は8513万人(2012年末)。1949年の建国時の19倍であり、全人口の6.3%を占める。労働者出身は8.5%で、農業・林業・漁業出身者が3割弱を占めている。そして、知識人党員が32%と、もっとも比率が高い。
 共産党員になるのは容易ではなく、煩雑な手続が必要であり、要件も厳しい。
共産党は、中央指導部に設置されている「中央政法委員会」を通じて司法とつながっている。中国は裁判権を独立した権力とみなさず、それを検察権、捜査権、行刑権等の権力に入れて政法権としてまとめて一括して指導している。最高人民法院は、この中で他の機関と並列する一機関にすぎず、特別な地位を与えていない。裁判所の地位は低い。行政機関の国務院、軍事機関の中央軍事委員会と比べ、裁判機関の最高人民法院、検察機関の最高人民検察院は、地位が何段階も低い存在である。裁判機関、検察機関の長は、いずれも共産党中央委員会の委員にすぎない。
 法律解釈権は、最高人民法院のみしか行使できない。人民法院の院長、副院長、各裁判廷の院長から構成される裁判委員会は中国の裁判所内のユニークな裁判組織だ。裁判委員会は、二つの業務を担当する。一つは、重大・難事件を討議し、判決を決定する。二つは、裁判の経験を総括する。合議廷は裁判委員会の結論に従って判決文を作成する。 人民法院で言い渡された判決は、人員法委員長及び裁判委員会によって容易に改正できる。裁判機関の独立は確立されていない。中国には20万人近い裁判官がいる。
裁判官は腐敗の多発する職業である。1995年から2013年にかけて、84人の裁判所所長と副所長が汚職腐敗で摘発された。2008年から2011年にかけて、712人、795人、783人、519人の裁判官が検挙された。集団腐敗事件が増加する傾向がある。2002年には、武漠市中級法院の13人裁判官と44人の弁護士が関与していた。中級法院は、腐敗がもっとも深刻である。
 中国の弁護士は23万人をこえる(2012年)、法律事務所も2万に近い。弁護士は弁護事務の独占権が認められていない。
 司法試験の受験者は年々増加し、2013年には40万人に達している。
 中国の司法の実情を知ることのできる本です。
(2014年6月刊。2800円+税)

2014年9月13日

「この命、義に捧ぐ」


著者  門田 隆将 、 出版  角川文庫

 日本陸軍北支那方面軍の司令官だった根本博中将の戦後の業績を紹介した本です。
 その一は、戦後といっても、昭和20年8月20日からのことです。日本の敗北が決まり、武装解除が命令されたのに、在留邦人を内地に無事に帰国させるため、あえて侵攻してきたソ連軍と戦ったというのです。
 8月15日、根本司令官はラジオで次のように宣言した。
 「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ連軍を断乎撃滅すべし。これに対する責任は、指令官たるこの根本が一切を負う」
 6日前の8月9日から始まったソ連との戦争で、関東軍は総崩れとなり、満州全域でソ連の蛮行が横行していた。
 張家口に2万人の日本人が終結していた。それを北京・天津方面に後送するため、駐蒙軍司令官の根本中将は支那派遣軍総司令官の命令を拒否したのだった。根本元中将が日本に帰国したのは、翌昭和21年(1946年)8月のことだった。それまでに支那派遣軍の日本への復員は105万人をこえた。
 そして、戦後、1947年7月、蒋介石の国民党軍が中共軍との戦いで敗色濃いなかで、根本博は招かれて台湾に渡った。ところが、根本は密航者として逮捕され、投獄された。運良く、それが台湾警備司令の耳に入って、救出され、ついには蒋介石と面会することが出来た。
 その後、根本は、中国国民党軍の軍事顧問となった。そして、廈門(アモイ)に渡った。しかし、ここは、守備に適していない。根本は軍事顧問として、共産軍を迎え討つのは、金門島をおいてほかにないと進言した。廈門を放棄せよというアドバイスだ。
 根本は、林保源という中国名で呼ばれた。林保源将軍として、汽車に乗って作戦指導をした。根本は、金門島の陣地構築と塹壕戦を指導した。
 共産軍は勝ちに乗じて、敗走を重ねる国府軍をなめている。そこで、共産軍を中国本土から運んできた船を焼き払い、増援部隊がないようにして、そのうえで、戦車で叩く。ジャンク船で運んでくる火力は銃くらいしかない。
 上陸させた敵を海岸線から引き入れて包み込めば、一気に殲滅できる。根本の指摘したとおりに国府軍は動き、共産軍を完全に殲滅してしまった。
 上陸した共産軍は2万人。うち死者が1万4千人。捕虜は6千人だった。
 59歳の根本元中将の面目躍如だった。蒋介石は根本の手をとって感謝した。
 しかし、世間の評判は、そうはならなかった。あくまで国府軍の勝利であり、しかも、国府軍の内部抗争により、根本とともに戦った湯将軍は忘れ去られてしまった。当然、根本も忘却の彼方となった。
 同じころ、日本から国府軍の立て直しのために台湾に渡った旧日本軍将校たちは「白団」と呼ばれ、高額の給与が支給されていた。これに対して、根本のほうは身を捨て、家族を捨て、恩返しに言ったのだから、そのような保障は何もなかった。
 そもそも、蒋介石が日本人の手を借りて金門島を守ったことが分かれば、それは蒋介石にとって大きな恥となる。そのため、台湾側の史料の中には、日本人は一切登場してこない。なーるほど、それは、そうでしょうね・・・。
 それでも、その後、台湾国防部は、根本の遺族に対して最大限の敬意を表したのです。知られざる歴史の一コマです。よくぞ掘り起こしてくれました。
(2013年10月刊。680円+税)
東京の有楽町でインド映画をみてきました。『バルフィ!人生に唄えば』です。インド映画らしい歌と踊りも少しだけありますが、それよりも私は良質のフランス映画をみている感じでした。
 もちろん、映画ですから美男・美女が主人公です。美男の俳優(ランビール・カプール)は、顔の表情が実に豊かです。というのも、彼は、耳が聞こえず、話もできない役柄なのです。その主人公バルフィが恋する美女はイリヤーナー・デクルーズ。絶世の美女でほれぼれしてしまいました。ところが、ここに、もう一人の美女が登場します。しかし、彼女は、自閉症の女の子という役柄です。プリヤンカー・チョープラ-という有名な女優なのですが、映画をみているあいだは、ひょっとして本物の病気もちかしらんと思ったほどでした。話の出来ないバルフィが縦横無尽にかけめぐり、甘く切ない恋心を表現します。そして、大切なのは、100の言葉より、愛にみちたひとつの心。3時間近い大作ですが、終わったとき、胸いっぱいの熱い思いで、しばらく立ちあがれませんでした。みなさん、ぜひ時間をつくって、みてください。おすすめします。

2014年9月 9日

中国のメディアの現場は何を伝えようとしているのか


著者  柴 静 、 出版  平凡社

 中国のテレビって、すべて国家統制のきいた官製報道ばかりかと思っていました。
 この本を読むと、中国でも一生懸命に現場から問題点を報道しようとしている人がいることを知って、うれしくなりました。
 日本のNHKも、籾井会長になってから、とりわけニュースは安倍首相の広報番組オンリーという感じですから、中国を批判することなんて出来ないと思っています。
 2003年4月、北京で大流行したサーズ、死亡率の高いウイルス性肺炎について、著者は病院まで突撃取材したのでした。
 著者は全身防護服を着て、戦々恐々として病室に入り、救急センターに戻ってから40分間消毒し、周囲の人まで緊張して汗をかいたとき、人民医院の医師と看護師は、もっとも基本的な防護服すらない状況下で、中庭で20数人の患者と向きあっていた。
 中国にも、もちろんDV(ドメスティック・バイオレンス)があります。そのあげくに女性(妻)が男性(夫)を殺してしまいます。女性犯罪には、夫殺しが多く、ある地方では70%になる。男は死に、生き残った女は執行猶予付きで死刑、無期懲役などに処せられている。
 十数人の少年の窃盗グループ。リーダーは15歳、最年少は10歳、全員が中途退学だった。彼らは、敵討ちのために、お金のために、ときには単なる楽しみからケンカした。ナイフはもちろん、チェーンや有刺鉄線を付けた自作の棍棒まで使った。ケンカが一番強い子どもに尋ねた。
 「怖くない?」
 「いいや」
 彼は昻然と胸をはった。怖くないのではなく、生死の概念さえなく、憐憫の情がないのである。自分が大切にされていないと、大切にされた実感のないまま大きくなると、生死までが、どうでもよくなる。というわけだ。
 愛と教育を得られなかった人が社会に対して責任感をもつはずがない。
 最近の鶏肉事件は、日本の毒入り冷凍食品事件と共通しているところがあるように思います。どちらも、働く人が大切にされていないということです。日本も、安倍首相のような間違った教育と労働者切り捨て政策がすすめば、今の中国と同じ事態になりかねません。
ネットで猫を虐待する映像を流した女性は、次のように語った。
 「憎しみ、それと未来に対する絶望ね」
 「離婚した女の憂鬱や生活の悩みを誰が理解してくれるというの。この重苦しい気持ちや悩みのせいで、生活していく自信を失い、無辜の小動物の身に向かって鬱憤を晴らすという情けないことをする羽目になった」
 「内心の圧迫感や抑鬱を発散させなかったら、崩壊していただろう」
 「心の奥底にいびつなものがある・・・」
 この本が中国でベストセラーになったことに、私は救いを感じました。
世の中の現実をなるべくありのままに伝えたい。しかし、そこには単純にシロかクロかに割り切れないことがたくさんあるし、いろんな人々の利害損失が微妙にからんでいる。
 そこを、映像メディアとしての制約のなかで、がんばって報道しているのはすごいです。
 それにしても、最近のNHKにはひどいですよね。集団的自衛権について、その問題点を国民に分かりやすく伝えようとしていません。あくまで安倍首相の側に「理解」を示して、それを前提として、反対する人もいくらかいるというニュアンスでの報道です。本当にデタラメです。安倍首相の妄念から一刻も早く脱却しないと、本当に日本は戦争に巻き込まれてしまいます・・・。心配です。マスコミ人の良識に大いに期待しています。
(2014年4月刊。1800円+税)

2014年7月 2日

中国とモンゴルのはざまで


著者  楊 海英 、 出版  岩波書店

 モンゴル出身で、中国共産党の指導者の一人だったウラーンフーの伝記です。
 ウラーンフーは、モンゴル出身で、内モンゴル自治区委員会書記、内モンゴル軍区司令官、国務院副総理などを歴任した。
そのウラーンフーが、文化大革命のとき、打倒されてしまったのです。モンゴル人として、どんな人物なのか、以前から気にかかってしまいました・・・。
 1966年に中国で文化大革命で勃発したとき、内モンゴル自治区には150万人弱のモンゴル人が住んでいた。少数民族のモンゴル人は全員が粛清の対象とされ、34万6000人が逮捕され、3万人近くが殺され、2万人に身体障害が残った。モンゴル人の犠牲者は30万人に達する。
清朝が用いた内モンゴルと外モンゴルは、モンゴルを分断するための政治的な概念で、モンゴル人自身はそうした悪意にみちた名称を好まなかった。
 南モンゴルが中国の領土にされてしまった原因の一つに、日本の大陸進出があげられる。モンゴル人民族主義者たちは、帝国日本の力を借りて中国の独立を実現させようとして、蒙古連合自治政府や蒙古自治邦を樹立した。
ウラーンフーは、20世紀のアジアが産んだ重要な政治家の一人である。彼ほどレーニンとスターリンの民族自決の理論を東アジアで実践した革命家は、ほかにいない。
ウラーンフーは、内モンゴルを「中国と日本の二重の植民地」だと認識し、抑圧された少数民族のモンゴルを国際共産主義の理論で解放し、中華民主自由連邦を創成しようとした。
 1947年5月、内モンゴル自治政府が成立した。この日まで草原のモンゴル人のほとんどが雲澤という男を知らなかった。雲澤は無名の革命家だった。この時期、雲澤という名を赤い息子を意味するウラーンフーに変えた。
 「親愛なる中国人共産主義者の友人」たちは、側面からの援護を惜しまないが、決して軍権をモンゴル人に渡すようなことはしなかった。
 内モンゴル近代史上最大の謎は、なぜ何十万人もの独立志向のモンゴル軍が中国人に帰順したのかということ。
 モンゴル人といえば、世界各地に分布している人々をさす。モンゴル民族は、ただ中国55の少数民族の一つにすぎない。矮小化された存在となる。
 モンゴル人民共和国の首都であるウラーンバートルは赤い英雄を意味する。内モンゴル自治政府の首都であるウラーンホトは赤い都だ。もう一つのモンゴル人の自治共和国の首都であるウラーンウードは赤い扉の意。
 モンゴル人はユーラシア大陸の各地に分布しているが、チンギス・ハーンの子孫だという理念は、民族ぜんたいに共通している。
 毛沢東と周恩来は身近にモンゴル人のウラーンフーを立たせることで、多民族国家・中国における少数民族の地位向上を演出しようとした。
 モンゴル内に中国人がモンゴル人の7倍にも膨れあがるという前代未聞の現実を前に、モンゴル人は途方に暮れた。
もっとも親中国的で、かつ中国化したモンゴル人であるゆえに、中国政府と中国人は、ウラーンフーをまず失脚させてから、一連のモンゴル人粛清運動と大虐殺の口火を切った。
 ウラーンフーは、全国の省・自治区の指導者のなかで、もっとも早く打倒された人物で、また少数民族の指導者のなかでも、最初に狙い撃ちされた人物である。
 モンゴル人の苦難の歩みを体現した人物だったことがよく分かる本でした。
(2013年11月刊。2400円+税)

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