弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

中国

2014年5月 8日

憎しみに未来はない

著者  馬 立誠 、 出版  岩波書店

 最近の週刊誌に、日本と中国が、もし戦争したら、どちらが勝つかという特集が組まれています。そこでは、戦争は、まるで他人事(ひとごと)、パソコンの画面上だけのように論じられているのに驚き、かつ、呆れます。
 しかし、局地的な戦争が全面戦争にならないという保障なんて、まったくありませんよね。身近な家族が殺され、殺人マシーンに仕立てあげられるなんて、ちょっと考えただけでも身震いするほど、恐ろしいことではないでしょうか・・・。売れるんだったら何でも書いていいなんて、ちょっとひどすぎると思います。
 安倍首相の言う「積極的平和主義」なるものは、武力で「敵」をおさえつけるということです。そして、「集団的自衛権」の行使というのは、アメリカ軍と一緒になって、世界のどこへでも、日本が戦争をしに出かけるということを意味します。戦争が身近に迫ってくるのです。そこには「限定」など出来るものではありません。
 つい先日、安倍首相は武器輸出三原則を緩和してしまいました。兵器をどんどんつくってもうけよう。そのためには、世界各地に「紛争」がおきてほしいということです。子どものいない安倍首相はちっとも悩まないのかもしれません。でも、我が子が殺され、また外国へ殺しに出かけるなんて、その恐ろしさに、私は身が震えてしまいます。決して、戦争をもて遊んではいけません。それこそ、平和を生命がけで守りたいと思います。安倍首相には、一刻も早く「病気」で退陣してほしいものです。
 著者は、中日関係には新思考が必要だとメディアで提起した。すると、中国のネット上で、民族の裏切り者とか、走狗という言葉があふれた。
 中国のナショナリズムも警戒を要すると思います。でも、中国を責める前に、日本の異常さが突出していることを、もっと日本人は自覚すべきだと思います。
 ナショナリズムの熱狂は、一部のメディアが無責任にあおりたてることと大きな関係がある。一部のメディアは、商業的な利益のために、感情的で低俗な市場のニーズに迎合し、良識や善悪の最低ラインにまで墜落した。一斉に騒ぎたて、センセーショナルに過熱報道し、人々の目を惹きつける。そして、のぼせや高熱をひきおこし、世論の環境を悪化させた。
 アジアに身を置く世界の次男坊と三男坊とが武力対決すれば、まさにアジアの悲劇だ。そして、両国の争いは長男坊が世界の覇者としての地位をいよいよ堅固なものにするのを手助けするようなもの。
 釣魚島の問題は、中日関係の大局でもなければ、中心的な問題でもない。
 中日関係は、相互に影響しあうプロセスである。片方の手だけでは拍手ができないように、日本にも同じように対中関係の新思考が必要だ。
 中国とアメリカが敵対しないという状況で、日本がアメリカに追随することは、中国にとって対立面とはならず、日本とアメリカの同盟は中日間における共通利益の追求を妨げるものではない。中米関係の発展と中日関係の発展は、同時に行っても、互いに矛盾はしない。
 憎しみは毒薬だ。人々の智力を害する毒薬であり、国家の智力を害する毒薬でもある。寛容は、傷跡と人間性を癒す良薬だ。国家と個人を問わず、良薬なのである。
 中日韓は、すでに協力して経済発展をすすめつつあり、世界最強の経済体となる可能性がある。これは、アメリカにとってあまりにも大きな脅威であり、アメリカが隅に追いやられるかもしれず、アメリカにとって決して目にしたくない事態だ。だからこそ、この二つの国が戦うことは、アメリカにとって非常に有利なのだ。
 日本では、何世代にもわたって、「日本が強く、中国が弱い」ことに慣れていたので、中国人を見下げている。第二次大戦での敗戦も、それはアメリカ人に負けたのであって、中国人に負けたのではないと考えている。ところが、このごろ中国の経済力は日本を追い越し、その差はますます大きくなっている。これは日本にとってきわめて強烈な刺激である。
日本と中国の関係を再考させられる、中国人ジャーナリストの鋭い指摘にみちた本です。
(2014年1月刊。2800円+税)

2014年3月28日

中国抗日映画・ドラマの世界


著者  劉 文兵 、 出版  祥伝社新書

 中国では反日教育が日頃から徹してやられているとよく言われますが、この本は映画やテレビにおける「抗日」をテーマにした作品、ドラマがつくられている舞台裏を明らかにしています。なーるほど、だったら、日本と変わりないじゃん、と思ってしまいました。
戦前の中国(1941年)では、日本軍の恐ろしさをあまりに強調しすぎると、国民が恐怖にかられ、かえって戦意を喪失するのではないかという批判があり、日本軍の残虐な真実をストレートに表現しなかった。
 なーるほど、映画は真実を伝えすぎても、逆効果になることがあるのですね・・・。
 農民をふくめた一般の観客に対して、いかに分かりやすく抗日のメッセージを伝えるのか、当時の映画人たちは腐心していた。
中国の反戦映画には、日本兵が二通りの姿で登場する。一つは残虐な「敵」であり、もう一つは、中国の民衆に共感して抗日運動に参加する「同志」である。
 1945年8月から中華人民共和国が成立する1949年までの4年間に150本の劇映画が造られたが、抗日戦争にまつわるものは30本ほどでしかなかった。そして、日中の大規模な戦闘を題材にしたものは、まったく見当たらない。これは8年にわたる抗日戦争によって国民党政府が財政上の困窮状態にあったため、スペクタクルを盛り込んだ本格的な戦争映画をつくるだけの環境になかったことによる。
 蒋介石は、みずからの政権の正当性を主張すべく、抗日戦争を勝利に導いたのが国民党の力であったことを、映画をはじめとするメディアを通じて国民へ広めようとした。
 しかし、表面的には国民党が優位だったが、実際には、多くの映画人の心は明らかに共産党に傾いており、国民党のプロパガンダ映画の制作に手を貸そうとはしなかった。左翼的映画の急速な台頭を危惧した国民党政府は、映画検閲の基準をより厳しくした。
 中国共産党が政権を握ってから、政府は戦争映画を重視した。映画撮影所は軍部の直轄下におかれ、映画人は現役の軍人として丁寧に扱われた。
 抗日映画に出てくる日本人は、強力な敵として描かれているのは、注目すべき点である。
 しかし、1950年代半ばから、中国映画における日本兵の描き方には大きな変化が起こった。
 戦争映画では、中共軍の高級将校が登場してはならないとされた。それは、誰をモデルにしているか、すぐに分かってしまうこと、すると映画に取りあげてもらえなかった将校たちの不満を招くという理由からであった。
 加えて、その後の中国共産党内部の権力闘争において、1959年に彭徳懐が、1971年に林彪が失脚し二人が関わった「百団大戦」や「平型関戦役」など、共産党軍と日本軍との大規模な戦闘を取りあげることも完全なタブーとなった。そこで生まれたのが、抗日ゲリラ戦ものである。そこでは、時と場所を特定することなく、抗日戦が描かれている。
 1966年の映画『地下道戦』は、結局、18億人がみることになった(2005年までに)。爆発的にヒットした。もともと民兵に戦術を身につけるために制作された映画だが、娯楽作品として中国の国民に受容された。
 1960年代の中国映画に登場する日本軍人は、かつての残虐さと恐ろしさの代わりに、その愚かさと滑稽さが強調された。日本兵をあえて嘲笑の対象として描くことによって、残忍な日本人という従来のイメージを書きかえ、中国の国民のなかに鬱積していた日本人に対する深い憎悪を、笑いのなかで発散させようとする政治的な意図が働いていた。
 文化大革命の10年間に、中国でつくられた映画は、わずか数十本のプロパガンダ映画のみだった。そこで登場する日本兵は、文革以前より、さらに滑稽でかつ無害な存在だった。
 1985年になると、中国政府は国民党が率いた日本軍との正面戦の意義を客観的に評価するようになった。
 中国の映画については、中国人の一般観客がみたい物語と、政府が見せたい物語、国際映画祭で賞をとるための物語が分離していった。
 コメディタッチの抗日アクション映画は、ほとんど中国国内市場に限定して流通しているが、一つのジャンルとして確立し、現在なお人気は衰えていない。
 中国のテレビドラマ市場は、中国の産業において、もっとも市場メカニズムが支配する世界となっている。視聴者の教育レベルは決して高くはない。だから芸術性を追求するどころではない。
 抗日ドラマがブームになった要因は、主としてブームになった要因は、主として市場の側にあり、政府はむしろドラマに対する指導や規制に追われている。
 抗日ドラマの主な視聴者は、毛沢東時代を経験し、かつ、その時代に強いノスタルジーを抱く中高年層であり、彼らの支持により、一定の視聴率が保証される。
 国共内戦を描くときには、適役が同じ中国人であるために一定の配慮が必要だし、リアリティも求められるが、敵役を日本軍にしたら、格別の配慮はいらないし、ドラマティックな設定や暴力的な表現がいくらでも可能になる。そして、大物スター俳優でなくても、一定の視聴率は確保できるので、制作予算も少なくてすむ。つまり、エンターテイメント性をともないながら、歴史に向きあうというパターンの抗日ドラマが実際に多くの視聴者に受け入れられている。それは、日本の「水戸黄門」のような世界なのである。
 この解説は、本当によく分かりました。なるほど、なるほど、です。
(2013年10月刊。800円+税)

2014年3月 6日

文化大革命の真実・天津大動乱


著者  王 輝 、 出版  ミネルヴァ書房

 これは文化大革命について書かれた本の中でも、とても珍しいものだと思いました。
 なにしろ、著者は、文化大革命の始まりから終わりまで、つねに天津市の共産党委員会の責任ある地位にいて、その全課程を語っているのです。ちょっと、これはありえないことですよ・・・。
党内闘争の一つの突出した特徴は、「惟上是従」(上の者の命令に下の者が唯々承諾々と従う)という普遍的な政治理念である。
 党内闘争のもう一つの特徴は、「左」であればあるほど、より革命的であるという情緒だ。
 党内闘争には、さらにもう一つの特徴がある。それは、ほとんどすべての人が自己防衛のために行動するということ。闘争が始まると、人間関係に異常な緊張がもたらされ、自己を防衛し、他人を公然と批判することが人々の行動規範となる。
 「文革」という大きな災禍は、それまでの中国共産党の政治運動の流れの単なる必然であり、それまでの政治運動における「左」の集大成だった。中国において長期にわたって存在してきた封建主義専制と「極左」が一時に発露したものであり、中華民族にとって貴重な反面教師的教材となった。
 「文革」中のもっと奇異な現象の一つは、造反と保守、攻撃するものと攻撃されるものが互いに自らを革命的だとし、自分こそが毛主席の教えに従って行動していると考えていたこと。「一つの共通の革命目標のために共に進む」無数の人々が、同じ目標の実現のために行動していたにもかかわらず、生きるか死ぬかと行った状況で対峙することになってしまい、武器まで持ち出す事態となり、多くの人の血が流れることになった。
「文革」が始まったとき、広範な労働者、農民、基層幹部は、長年にわたる中国共産党への指示と厚い信頼によって、当時の、一切を打倒するというやり方にはなかなか賛成できず、いわゆる「保皇派」「保守勢力」の力が強かった。そこで、人生経験の浅い中学生を組織して闘争へ動員することは、こうした局面を打開し、政治闘争を展開するために必要なことだった。
 天津市の機関内部では造反組織の主流は「温和」派であり、幹部グループは全体として相対的に言って危険ではなかった。
 1967年1月、中共天津市委員会は完全に崩壊した。同日、人民解放軍が天津に進駐し、ラジオ放送局など58の重要拠点を軍事管制下においた。
 周恩来も「文革」の重要な執行者だった。周恩来が「文革」において多くの幹部を守った事実は無視できないが、これは物事の一面を表しているだけ。周恩来は、一貫して毛沢東の顔色をうかがいながら行動し、毛沢東の意図に背くことはあえてせず、また出来なかった。
 1949年、中国共産党は銃によって天津を攻め落とし、その政権を築いた。しかし、「文革」において共産党は、中央の支持、民衆の発動、軍隊のうしろ盾によって、自らが築いた政権を打ち倒した、各部門の主要な権力を握ったのは軍隊幹部だった。軍隊幹部の権威は地方幹部と比べて非常に高いものだった。
 もし周恩来が毛沢東を支持しなかったら、二つの可能性が考えられる。一つは、動乱がさらに大規模なものになり、被害もより深刻なものとなったこと、もう一つは、「文革」の終息を早め、損失も若干小さなものになったという可能性だ。
 江青たち「四人組」は「文革」において、したい放題のことをしたが、唯一の思いのままにできなかったのが軍権であった。
 1967年11月から中共天津市委員会の第一書記を務めた解学恭は、上部の指示にとにかく従い、言うとおりにしすぎたという問題があった。上に言われるたびに、そのとおり実行し、風向き次第で言動を変えた。対人関係でも杓子定規で融通がきかなかった。だから、複雑な状況下で、政治闘争の犠牲になったのも当然だった。解学恭には、上層に後ろ盾になる者がいなかった。
 「文革」は大動乱であり、大災害だった。
 「文革」は限りなく高い地位にある領袖・毛沢東が自ら発動し、自ら指導したものである。毛沢東は至高最上の領袖となり、どんな監督や制約も受けず、個人の欲するところをなし、「文革」という大動乱を引きおこした。
 中国にも、もちろん秘密警察(公安)は存在する。しかし、政治闘争の主役ではない。文化大革命でも重要な役割は演じていない。むしろ、文化大革命で決定的な役割を演じたのは軍だった。毛沢東は文化大革命が軍の内部に波及するのを禁止した。ゆえに、軍幹部は大部分が批判も打倒もされなかった。
 毛沢東が行わせた大事なことの一つは、紅衛兵に「親を批判」させたこと。毛沢東こそが「本当の親」なら、自分の親を批判できる。毛沢東は「親」になることで、中国人のエートスの変更を迫った。
文化大革命がどのように進行していったのか、天津市を舞台として、じっくり、その推移を追うことのできる本です。
(2013年5月刊。4800円+税)

2013年7月24日

毛沢東が神棚から下りる日

著者  堀江 義人 、 出版  平凡社

土地が「揺銭樹」になった。揺銭樹とは、金のなる木のこと。「土地財政」という言葉がある。地方政府が農地や土地住民の土地を安価で買いたたき、企業や開発業者に高く売りつける。その差額の土地譲渡金を財政収入に繰り入れること。土地譲渡金の地方財政に占める割合は、2001年の16.6%から2010年に76.6%にまで増えた。
ある県には、玉山幇(組)、青龍幇、菜刀幇など、多くのヤクザ組織があり、誰もが、その実力と役割を熟知している。
 中国は事実上の準分裂国家である。北京人の優越感、上海人の排除主義の一方で、貧しい河南人や安徽人は差別の対象となる。戸籍は準国籍のようなもの。
 新市民と呼ばれる北京の外来者は700万人以上いるが、彼等は北京に10年住んでも20年住んでも、北京戸籍を手を入れることは、ほとんど期待できない。
 新市民には市民待遇がほとんどない。福祉はゼロ、公的住宅も買えない。
 農村と都市部の福利厚生面の生涯格差は50万元、北京だと100万元以上にもなる。
本物の北京戸籍を警察関係者から裏取引で買おうとしたら、20万元から30万元は必要という。
 農村の子弟が重点大学に入る比率は1990年代から減り続けている。北京大学では3割から1割にダウンした。
北京には閉鎖式住宅区が2種類ある。一つは金持ちの高級住宅、もう一つは、農民工の封村だ。
 中国には執行猶予つき死刑という、日本にはない制度がある。猶予期間は通常2年間、服役態度がよければ、懲役刑に減刑される。
 中国の憲法では、法院(裁判所)が独立した審判権をもつとしているが、現実には、党の政法委の束縛を受けている。上級法院は下級法院を始動する形になっている。個別案件に事前に介入し、具体的な案件の対応や判決を指示する。下級法院のほうから、おうかがいを立て、報告することもある。二審制といっても、実質的には一審制のようなもの。
 法院内にも主従関係がある。裁判官は法廷に、廷長は院長に、合議廷は審判委員会に従わなければならない。
中国は、世界でもっとも拝金主義にまみれた国である。庶民は民主主義より豚肉だ。
 中国は巨大なタンカーのようなもので、どの方向に向かって航行しているのか、分かりにくい。恐らく乗務員も誰一人として目的地が分からず、漂流しているのでしょう。
毛沢東に批判された人物には、共通の特徴がある。勇気を出して本当のことを話したのだ。
 毛沢東にとって個人崇拝、つまり神格化は政敵を倒すためのもの。そのターゲットは蒋介石と劉少奇の二人だと明言した。
文革の主な責任は毛沢東にあるが、毛を否定すると中国共産党の統治の正当性を失うから、鄧小平の政治的判断で、林彪と四人組に押しつけた。ソ連にはスターリンを否定してもレーニンがいて、正当性を得ていた。しかし、中国には毛沢東しかいないので、毛を全面否定するわけにはいかない。だから、毛沢東の早期と晩年を分けて評価することにした。
「偉大な」毛沢東のおかげで、中国は発展がひどく遅れてしまったわけです。それでも、現物の毛沢東を知らない世代が増えていますので、単純に高く毛沢東を再評価する動きさえあります。
 目の離せない中国を知ることのできる本です。
(2013年1月刊。1800円+税)
 真夏の夜の楽しみは、ベランダから満月を眺めることです。ひんやりした夜風に身体の火照りをさましながら、望遠鏡で月の素顔を見つめます。どうして、こんなに大きいものが空に浮かんでいるのか、不思議です。しかも宇宙の本を読むと、実は月も地球も自転しているだけではなく猛烈なスピードで動いているというのです。じっとしているようにしか思えない月のあばたを眺めていると、俗世間のホコリが洗い流されます。

2013年7月19日

北京烈日

著者  丹羽 宇一郎 、 出版  文芸春秋

最近まで駐中国日本大使だった著者の話ですから、とても説得力があります。
日本人が北京に赴任すると、必ず1年目の冬に風をひく。北京は、他の地域に比べて4割ほども肺がんの発症率が高い。
 これは、中国がエネルギー源が7割近くを今も石炭でまかなっているから。なにしろ、タダ同然の露天堀り石炭がある。
 著者の中国における大使生活は、尖閣に始まり、尖閣で終わった。
 2012年4月、石原慎太郎都知事(当時)が、尖閣諸島を東京都が購入するという計画を発表した。これは、中国にとって想定外の出来事だった。
 そして、9月9日、ウラジオストックでのAPECの合い間に野田首相(当時)は胡錦涛国家主席(当時)と「立ち話」をした。その翌日、日本政府は国有化を宣言し、11日に閣議決定までした。このような日本政府の動きは、中国の最高指導者の顔に泥を塗っただけでなく、中国の国民感情と面子をとてつもなく傷つけた。
このところを、日本のマスコミはきちんと日本国民に伝えていませんよね・・・。
 尖閣諸島をめぐって、「外交上の争いがある」ことを日本も中国も双方とも認めるべきだ。著者の主張は明快です。まったく同感です。そして、「待つ」という判断が必要なのだと強調しています。この点についても、私は同調します。この問題で対立感情をエスカレートしても、得るところは双方にないのです。
 北京から日本を眺めていてつくづく思うのは、日本には本当に国際感覚がないということ。
そうなんです。橋下徹、安倍晋三には国際感覚なるものがまったくありませんよね。日本民族こそ偉大だなんてウソぶくばかりではありませんか。それでは北東アジアの人々と共存共栄できませんよね。だいいち、侵略戦争による加害責任の自覚が欠如しています。そんなのは親の世代のことで、自分は手を下していないなんて弁明が通用するはずもありません。
農業を大切にしている国ほど農業地帯の風景が実に美しい。
 とは言いつつ、日本の農業を破壊するTPPに加盟せよというのですから、著者の主張には矛盾があります。
 中国は、かつて大豆について世界最大の輸出国だったが、今や世界最大の輸入国となっている。いやはや、中国も矛盾の大きい国です。
 日本でもブルーカラーをもっと大切にすべきだと著者は強調しています。この点も同感です。
 ブルーカラーを馬鹿にしていては、絶対にドイツに勝てない。超大国のなかで、目に見えない労働者教育が一番できていないのが中国である。
 日本の企業が生きのびるためには、ブルーカラーの教育訓練を充実させることが必要。日本の経営者は、ホワイトカラーの正規社員を減らして、ブルーカラーの正規社員を増やすことだ。
 ブルーカラーを大切にしないと、10年後、20年後の日本の労働の効率性を非常に悪くしてしまう。中国の教育環境は、日本とは比べものにならないほど劣悪だったから、工場労働者は製品の品質など気にしない。
 安い賃金で奴隷みたいな使い方をしていると、平然と危ないこと、法令違反をする。正規社員にもなれず、あちこち職場を転々とされると、日本でも必ず今に中国と同じようなことが起きてしまう。企業が教育投資をして、ブルーカラーを育てないと、信頼性のある製品は生まれない。この点は、本当にそうだと思います。
 中国経済は壊れない。いや、壊そうにも壊せない。
 2001年にWTOに加盟した中国は、国際経済体制にがっちりと組み込まれている。もし、中国経済が破壊ないし衰退したら、世界じゅうの国が大きなダメージを受けてしまう。中国がコケたら、日本もコケてしまう。
中国の教育費は、国防費の3倍になっている。中国の労働者の賃金は年に1~2割も上がっていて、2006年と2011年を比べると2倍にもはね上がっている。そして、労働争議の件数は12倍に増えた。
日本と中国の関係について、大所高所から冷静に分析し、提言した本です。一読をおすすめします
(2013年5月刊。1300円+税)

2013年7月11日

毛沢東と中国(下)

著者  銭 理群 、 出版  青土社

いよいよ例の文化大革命の始まりです。
 毛沢東は劉少奇から指導権を奪うには、党官僚の系統が劉少奇によって既にコントロールされているから、非常手段をとらざるをえなかった。つまり、下から上へと直接的に大衆を動員することだった。
 毛沢東の文革発動の呼びかけにこたえたのは、青年学生、しかも未成年の学生だった。とりわけ、高級幹部の子弟だった。これは、人類史上において前代未聞のことだった。これは、まさしく毛沢東が考え抜いた結果でもある。毛沢東は若い学生に目をつけ、彼らの無知と情熱を利用しようとした。毛沢東は、労働者・農民には生産現場を守らせた。
 政治家である毛沢東は、子どもたちの無知と情熱を利用し、自分の政治目的を達成しようとした。高級幹部の子弟は政治上では優位だけれど、文化と知識の上では優位を得ておらず、教師にも重視されていなかった。
 このような政治上の優位と文化上の劣等感によって、高級幹部と労働者農民の子弟の心理はアンバランスだった。プライドと劣等感と嫉妬は、非高級幹部出身、とくに知識分子出身や旧階級出身の子弟に対する、いわゆる「階級増悪」に転化し、ここに造反への衝動が生み出されることになった。
文化大革命が始まった当初、劉少奇を長とする幹部と彼等の子弟の協力の下、毛沢東の設定していた革命対象とは完全に反対の方向に誘導され、新たなる反右派運動となってしまった。造反派であろうと、保守派であろうと、彼らは毛沢東を自らの後盾としており、毛沢東は自分を支持していると思っていた。それは、毛沢東の二重性そのものの反映でもあった。
 毛沢東は、ロマン的、空想的な人間ではあったが、結局のところ党と国家の指導者であり、実際に国家の事務を担っていた。
文化大革命は、スローガンとしては激烈だったが、事実上は「革命なき革命」だった。
 革命委員会は、改良主義の産物であり、実行されたのはプロレタリア専政と計画経済とイデオロギー統制の三つだった。
 文化大革命の中後期になると、多くの人々は意識的か無意識的かはともかく、文化大革命から退出し、文革初期の全民族参加の局面は既に収束していた。文化大革命は、ますます権力闘争の中にはまり込んでいった。つまり、一般大衆は劇場から降りてしまったのである。
 1968年夏、毛沢東は局面をコントロールできない危険に直面した。できるだけすぐに武闘を止めさせ、全国的内乱を収束させるため、毛沢東は武力弾圧に踏み切った。
 1966年の夏に、毛沢東は「ブルジョア反動路線」の罪名で劉と鄧のブルジョア司令部を打倒しながら、毛沢東自身が劉・鄧の大衆を鎮圧する路線を承継した。
 1968年夏、毛沢東は青年学生、紅衛兵のリーダーを排除した。紅衛兵を放り出した後、毛沢東が拠って立つ勢力は労働者階級となった。
 1968年、毛沢東が青年学生を農村に追いやり、大衆造反を基本的に収束させてから、中国の上層は権力闘争に突入する。林彪グループと江青グループとの矛盾、そして林彪グループと毛沢東との矛盾があらわになっていった。毛沢東と林彪の対立の結果、1971年9月、林彪は逃亡して死亡した。
 1971年11月、毛沢東は、ついに「私は聖人ではない」と認めた。これは自分の失敗を認めたことを意味している。
毛沢東は鄧小平に対して不満を抱きつつも、終始期待をかけ、保護し続けた。
鄧小平は権力を掌握したあと、自らの意志にもとづいて文化大革命を否定する一方で、毛沢東の歴史的な地位と指導的な地位はしっかり守った。
 「我々は、フルシチョフがスターリンにしたようなことを毛主席にするつもりはない」
毛沢東は、戒めを拒絶し、おべっかを好み、多くを疑い、動乱を好み、言葉は表面だけで、裏に鋭い牙をたたえている。
文化大革命とは、中国の人々にとって、とんだ災難だったわけですが、その有力な起源が毛沢東個人の強烈な中国支配幻想によるものだということを悟らせてくれる本です。
(2012年12月刊。3900円+税)

2013年6月19日

『霧社事件』

著者  中川 浩一・和歌森 民男 、 出版  三省堂

32年前に読んだ本です。映画をみましたので、書棚の奥に潜んでいたのを掘り出しました。霧社事件の原因と展開について写真つきで詳しく紹介されています。
 この霧社事件は、清朝による「蕃族」封じこめを継承したのに加えて、分割統治を基幹とする「以毒制毒」政策を工作し、そのうえ搾取をあえてした日本植民地主義にたいして、民族の誇りを守り、生存権をかけて起ちあがったのが霧社事件の本質であった。
 映画をみた人は、ぜひ、この本も読んでほしいと思います。
 休日に天神で台湾映画『セデック・バレ』をみました。人間の気高さを実感させる感動長編映画です。1930年(昭和5年)10月に日本統治下の台湾で起きた事件が描かれています。山間部の学校で運動会が開かれているところを現地セデック族が襲撃し、日本人200人あまりが女性や子どもをふくめて全員が殺害されました。その場にいた現地の人や中国人は助かっています。あくまで日本人が狙われたのです。それほど日本人は憎まれていたわけでした。
その事件に至るまで、統治者の日本人が誇り高き狩猟民族であるセデック族を野蛮人として弾圧していたうらみが一度に噴き出したのです。
 もちろん、日本当局は反撃に出ます。奥深い山中で300人のセデック族の戦士に3000人の日本軍・警部隊は近代兵器をもちながらも翻弄され、深手を負っていきます。しかし、結局は、飛行機、大砲、毒ガスによる日本警察の包囲攻撃にセデック族の戦士たちは次々に戦死し、自決していくのでした。「セデック・バレ」とは、「真の人」を意味するセデック語です。死を覚悟しながら、信じる者のために戦った者たちの尊厳が示されています。
映画は圧倒的な迫力があり、2時間あまり息をひそめ、画面にひきこまれました。実は、上映時間があわず、2部構成の後半だけみたのです。
いま、KBCシネマで上映中です。日本が戦前、何をしていたのか知ることのできる貴重な映画でもあります。加害者は忘れても、被害者は忘れないことを証明する映画でもあります。台湾で多くの賞をとったのも当然の傑作です。ベネチア国際映画祭でもワールドプレミア賞をとっています。
(1980年12月刊。2500円+税)

2013年5月26日

チベットの秘密

著者  ツェリン・オーセル、王力雄 、 出版  集広舎

中国の中のチベット独立運動が中国政府によって力で抑えこまれていることを告発している本です。
 もし、我々がチベット語の重要性を強調すれば、「狭隘な民族主義者」というレッテルを貼られる。人目に触れない中国政府の公文書では、チベット語のレベルが高ければ高いほど、宗教意識が強くて、思想が反動的で敵対的だとされている。
 チベット語を学ぶために、チベット語で授業を行う教育システムを整備することは、近代化に求められる人材を育成するために必要なだけでなく、チベット民族の最低限の人権でもあり、また民族的な平等を実現するための根本的な条件でもある。
 1959年以来、ダライ・ラマは世界の人々がもっとも尊敬する亡命者になっている。尊者ダライ・ラマへの信仰心はますます堅くなり、命を惜しまず自分の信仰を守ろうとする者が増えている。
 亡命を余儀なくされているダライ・ラマは雪国の文化の魂であり、弱小民族が大漢民族の強権に抵抗するための最高のシンボルである。敬虔な仏教徒であるチベット民族にとって40年ものあいだ、自分たちの神に謁見できないことは、チベット人の中核的な価値を剥奪したに等しい。ダライ・ラマを非難し、誹謗中傷することは、チベット人の心を刃物でえぐり出すに等しい。
 2008年3月のチベット事件のあと、チベット全域で自殺が急増した。仏教の信仰心の篤いチベット人が自殺にまで追い込まれるということは、生きることの苦しさが輪廻の幾層倍の苦しさよりも大きくて、耐えきれないからだ。
 チベットの統制支配が強まる一方なので、だからこそ抗議の焼身自殺が続いている。それは代えることのできない信仰の自由を守るためなのだ。
 チベット担当の官僚集団はチベット事件の原因を「ダライラマ集団」に押しつけ責任を回避した。文化大革命で大損した官僚集団は、独裁指導者が官僚集団を破砕するような状況を再現させまいと決心した。
 今日、中国共産党内部には既に牽制しあうメカニズムが形成されており、官僚集団もかなり多くの権力を有し、酷吏を用いる方式で党内を粛清することの再現など許されず、文化大革命のような大衆運動の再現も許されず、さらには党内を分裂させる可能性のある路線闘争も許されない。
 今や、中共党内のトップの権力闘争は、歴史上どの時期よりも弱く、権力の交代もある程度はプログラム化されている。その要員としては、深層において、「官僚集団の民主性」が作用している。
 官僚集団は、政治権力装置を熟知し、運営にたけており、ひとたび権力者のトップを牽制するメカニズムを構築すると、それを最大限に活用する。官僚たちは形を現さずに政権トップの浮沈、人事異動、政策方向を決定する。このような能力を手に入れたら、党内粛清や文革の発生を防止するだけでなく、それを延長して、自分たちの利益に不利になることすべてを未然に防止し、できるだけ多くの利益を得ようと謀る。したがって、いわゆる「党内民主」を中国民主化の歩みと見なすのは、まったくの誤りなのである。
 チベット独立運動の状況を知り、そして、中国の支配的官僚層の分析について学ぶことができました。
(2012年11月刊。2800円+税)

2013年5月24日

毛沢東と中国(上)

著者  銭 理群 、 出版  青土社

戦後の中国、そして現代中国を語るときに欠かせないのが毛沢東です。私が大学生になったとき(1967年)には、とっくに文化大革命が始まっていましたが、その実情は日本にほとんど伝えられていませんでした。断片的に伝わってくる情報は、あくまでも文化面での大きな改革がすすんでいるというもので、かなり中国を美化したものでした。権力闘争、しかも厳しい奪権闘争であると思わせるものではありませんでした。ただし、そのうちに馬脚をあらわしてきました。中国がすべてで、日本人もそれに従うべきだという押しつけが始まったのです。それは、私も、いくらなんでもとんでもないことだと思いました。赤い小型の毛沢東語録(日本語版)は、私も入手しましたが、こんな語録を振りまわして世の中が変わるだなんて思いませんでした。それでも日本人のなかにも毛沢東を神のように盲従した人たちが少なくなかったのです。今となっては信じられないところでしょうが・・・。
 この本は、自らも若いときに毛沢東主義者だった学者が自己分析をふくめて中国の戦後史をふり返っています。中国史そして毛沢東についてはかなりの本を読んだと自負する私ですが、この本の掘り下げには、まさしく脱帽です。なるほど、なるほどと、何度も深くうなずきながら、必死に700頁近くの本を読みすすめていきました。
中国人が、現在のように好戦的、熱狂的、興奮症になったのは、まさしく毛沢東文化の改造の成果である。
 毛沢東は、自らを豪傑であり、聖人でもあるとした。毛沢東が望んだのは、人の精神をコントロールし、人心を征服し、人の思想に影響を与え、改造し、専政を人の脳まで浸透させ、脳内で現実化することであった。しかも、そのための系統的な制度と方法までつくりあげた。
 毛沢東は、文化大革命の初期に、すべてを疑えと提唱したが、その裏には、越えてはならない一線があった。つまり毛沢東本人への懐疑は絶対に許されなかったのだ。ところが、すべてを疑った人は、ついに毛沢東まで疑ってしまった。そのとき、毛沢東はためらいなく弾圧した。
農民出身であり、農民運動で名を成した毛沢東にとって、自分こそが農民の利益を代表していると考えるのは当然であった。個人的な感情としても、毛沢東が自分を完全に農民の子どもとみなしていた。
 毛沢東は、1953年ころ、高崗を自分の後継者として指名するつもりたっだ。そして、「高饒事件」は毛沢東が発動したものだった。「高饒反党集団」というのは、実際には冤罪事件であり、党内闘争の産物にすぎなかった。毛沢東は高崗に手のひらを返し、高崗を「資産階級の党内における代理人」として追い出した。そして、毛沢東は高崗をつかって劉少奇の譲歩を引き出し、党内の知識人、農民革命家の両者を骨抜きにして勢力図を再編させた。
 中国の政治は瞬時に全てが一変する。1957年の整風闘争のときにもそうだった。
 ハンガリー動乱を知り、毛沢東は中国にも同じことが起きるのではないかと心配した。北京大学に大字報が貼り出されたのを知り、毛沢東は不安にさいなまれ、夜も眠れないほどだった。毛沢東と共産党の幹部がもっとも恐れていたのは、学生が労働者や農民と連帯することだった。そして、毛沢東は、軍隊で学生を鎮圧することだけは絶対に避けようと考えていた。それをしてしまえば、全体の統治が危機に陥るからである。
毛沢東は、旧知識人を消滅させることを求めていた。毛沢東は次のように語った(1957年、反右派闘争のとき)。
 「ブルジョア教授の学問などは、とるに足らないもので、まったくムダで、さげすみ、過小評価し、蔑視すべきものである」
 1958年に、モスクワで全世界共産党会議が開かれ、毛沢東も出席した。毛沢東は会議の中心人物となった。スターリン亡きあとの共産主義運動のリーダーとなった。毛沢東は、1958年に人生のもっとも輝かしいときを迎えた。
 1958年に毛沢東は、奔放に宇宙やら時空やら生死やら有限無限やらを語り、矛盾論や認識論を大いに語った。国産的問題を処理するときですら、毛沢東はまずは哲学を語った。毛沢東は、終生、孫悟空に特別な感情を抱き続けた。
 1958年8月の会議で、毛沢東は公開の場で、法制によって多数の人を治めてはいけないと語った。民法や刑法によって秩序を維持しないという。毛沢東は、恥じることもなく、個人の意思を法律、とくに憲法の上においた。
 毛沢東が戦争上手であることについて、党内で異議を唱える人はいなかった。しかし、毛沢東が経済を指導できるかどうかは、別の問題だった。毛沢東は、戦争をやるように、工業そして農業をやろうとしていた。毛沢東は詩人の想像力で国を治めようとした。毛沢東の空想的社会主義は、実際には小農原始社会主義であり、それに中国農民の近代化の想像がまざっていた。
 毛沢東が人民公社を発動したとき、食事がただ、病院がタダ、住宅がタダの三代要求は確かに中国の貧窮農民の基本的な願望を反映していた。しかし、食事と住民について解決していた富裕農民、そして、これから個人の自由労働によって富裕になろうとしていた中農民の抵抗にあった。
 毛沢東の構想では、家庭も最終的には削減するものだった。
 1958年、またたくまに大躍進は大飢饉に転じた。1959年4月。食事はタダから、わずか半年足らずだった。大飢饉と大死亡は1960年に頂点に達し、1961年まで続き、1962年にようやく好転した。3年間で餓死者が3600万人も出た。毛沢東は、1958年、完全に自己の意思によって理想の国づくりを試みたが、それはまたたくまに失敗し、災難となり、天国から地獄となった。これは毛沢東にとって、初めての挫折だった。それ以後、毛沢東の人生は、自己の権力と理想をかたくなに守りながら、総体として下降していった。
工業化、国防建設、都市の安定を保証するため、つまり富国強兵のためには農民を犠牲にする。たとえ農民が餓死しても、いとわない。それが、中国の農民が大量に死亡したことの本質だった。
中国共産党指導下の中国政権には二つの面があった。一つは強いイデオロギー性であり、もう一つは、強烈な民族性だ。毛沢東を代表とする中国共産党はマルクズレーニン主義者であると同時に民族主義者だった。現実には、最終的に本当に根をおろし、本当に民衆の支持を得られたのは、民族主義だった。民族主義の凝集力は長く続き、しかも力強かった。
 1964年、アメリカのCIA報告は興味深い。CIAの分析によると、毛沢東の後継者になりうる人間は3人。周恩来、劉少奇、林彪である。劉少奇は毛沢東と同じ世代であり、個性に欠け、ユーモアがないという欠点がある。もっとも可能性が高いのは鄧小平である。うひゃひゃ、CIAもよく見ていますね・・・。毛沢東は劉少奇を基本的に信頼していた。劉少奇は軍隊への影響力が毛沢東に遠く及ばず、軍を掌握していなかった。これが劉少奇の致命的な弱点だった。
 1964年末ごろ、毛沢東は、劉少奇を主要な打撃目標にしようという決心を固めた。
 いよいよ文化大革命がはじまります。続きは下巻で・・・。
(2012年12月刊。3900円+税)

2013年5月 3日

「中夏文明の誕生」

著者  NHK取材班 、 出版  講談社

中国の最古の王朝を追求した面白い本です。
 司馬遷が編さんした最古の正史『史記』には、中国王朝は「夏」に始まり、「殷(商)」「周」と続くと記されている。「中華」という言葉の根源にある「夏」王朝なのである。ところが、この「夏」については、考古学の裏づけがなかった。それが、近年ぞくぞくと発掘されている。「殷」についても実在が疑われていたところ、遺跡から文字が出てきて、存在が確実視されるようになった。
 「夏」王朝は紀元前2000年頃に成立し、紀元前、1000年頃に滅亡し、次の王朝「殷」が誕生した。
 「殷」王朝は「商」とも呼ばれる。次の「周」は「殷」と呼んでいたが、「商」と自称していたと考えられる。
 「殷」は強大な軍事力を有していた。青銅器の強さと鋭利は、石器しかもたない勢力を圧倒した。さらに、「殷」は「戦車」という最新兵器をもっていた。エジプトの戦車はスポークが4本なのに、「殷」の戦車は最大で26本もあった。そして、車輪を大きくしたことから、車体も大きく作ることができ、御者に加えて戦士2人が乗り、戦闘力を飛躍的に高めた。
 今から3000年前、「牧野の戦い」で、最強の「殷」軍70万は、「周」の軍4万5000人によって壊滅させられた。「周」軍には8つの異民族が従っていた。
 「周」は異民族に青銅器を贈り、文字で「契約」を保証して、連帯関係を結んだ。
中国史のなかで「中夏」「中華」という世界観はたとえ夷狄の王朝であっても、すべての王朝で引き継がれたことは驚きだ。そして、それぞれの王朝が、それぞれの事情に応じて融通無碍に意味あいを変えていった。
 「夏」の王朝の実在すること、その実情について知ることができました。それにしても中国の広大な土地は掘れば掘るほど、文明の起源を知ることができるのですね。
(2012年5月刊。1800円+税)

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