弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2016年12月 1日

黒い巨塔、最高裁判所

司法


(霧山昴)
著者 瀬木 比呂志 、 出版  講談社

最高裁判所の内部を小説として描いた話題の本です。
さすがに最高裁で働いたこともある元裁判官だけに、その描写は精密をきわめます。私も弁護士会の役員をしているときに最高裁の判事室や民事局長室などに立ち入ったことがありますので、なんとなく部屋の雰囲気が分かります。
事件の関係でも最高裁調査官と面談したことが昔ありました。今では調査官すら面談に応じてくれないようです・・・。
当然のことながら、この本の冒頭には、「この作品は架空の事柄を描いた純然たるフィクションであり、実在の人物、団体、事件、出来事等には一切関係がありません」という但書があります。しかし、それにしては、あまりに迫真的な描写です。最高裁による青法協つぶしについても「東法協」攻撃として登場してきますし、裁判官会同を開いて最高裁が全国の裁判をリードしていること、裁判官と政治家との結びつきなど、フィクションどころではありません。
砂川事件の最高裁判決のとき、ときの最高裁長官・田中耕太郎(裁判官の名に値しない、軽蔑するしかない人物ですので、呼び捨てにします)が司法の独立どころか、アメリカの下僕として言いなりに動いていたことが最近明らかにされましたが、最高裁上層部の自民党言いなりは昔も今も変わりません。本当に情けない話です。
出世主義者の裁判官がいるのは現実です。出世主義者の裁判官は、お世辞(せじ)、お追従(ついしょう)には、きわめて弱い。上の人の履き物を背広の中に入れて温めんばかりの忠誠を尽くす。
東法協(青法協)パージは、1970年代に急速に薄れていった。その会員のなかで成績や能力において秀でていた人々のほとんどが転向し、一定の節を守り続けた人は少なかった。そして、日本における左派の転向の常として、自由主義のレベルにとどまることなく、極端な体制派、狭量な保守派となって、出世の階段をひた走った。同時に、人事による締め付け、裁判官支配、統制工作に一役も二役も買った。
東(青)法協の後身である日本裁判官懇談会(懇話会)も、政治的な色彩を薄めたが、最初のうちこそ新任判事補の加入者も多かったが、7、8年のうちには、ほとんどが脱会してしまっていた。
転向者が極端な極右になったりするのは、日本だけではありません。アメリカのネオコンもそうです。そして、裁判官懇話会は会員制ではなかったし、8年で消滅したどころではなく、平成18年まで20年以上も続いていました。ここらは、著者の思いこみと認識不足だと私は思います。
最高裁長官による人事は、昔から、基準がよく分からず、恣意的で有名だった。一度でも意に逆らったり、許しがたいと思われる行動をとった人物に対して意識返しをするのは明らかだった。こうした恣意的な、あるいは報復であることが明らかな人事は、長官の思惑をはるかに超えた強烈な効果を裁判官たちに及ぼした。判決の内容や論文執筆のみならず日常のさまざまな言動にまで細かく気を遣い、長官や事務総局の意向をうかがう人々がどんどん増えていった。
これは今も生きている現象ではないかと思わざるをえません。
最高裁長官は、持ち前の冷徹な勘を最大限に発揮し、緻密な戦略の下に、確実に敵をつぶし、若手の優秀な裁判官たちを一人また一人と転向させていった。
『法服の王国』にも似たような状況が描かれています。
裁判官のなかに、大学時代に地域密着の学生セツルメント活動をしたという経歴の人が登場します。実際、私の知っている元セツラーが何人も裁判官になり、真面目に仕事をしています。
この本は、学生時代に民青シンパだった裁判官について、次のように揶揄した表現をしていますが、これは著者の本には過去何度も登場してくるもので、鼻をつくとしか言いようがありません。
「そんな学生によくあるように、彼の思想は深いところまで突き詰められたものではなく、系統的な読書にもとづいたものでもなく、ただ単純かつムード的な正義感に根差していた」
著者のこのような表現は、私からすると、著者こそ根の浅い表層的なモノの見方しか出来ない思考を反映しているものに思えてなりません。
良識派の裁判官たちを苦しめているのは、出世欲ではなく、閉じられた横並び社会における、理由のよく分からない線引きや選別にさらされることの辛さ、そうしたことの不安ではないか。自分の能力が正当に評価されない可能性についての不安だ。
ヒラメ裁判官ばかりになってしまったという反省が少し前には多く聞かれましたが、最近は、それがあたりまえになったためか、反省の声が内部からあまり聞こえてきません。
本人たちは自由に発想しているつもりでも、客観的には、がっしりした枠のなかの小さな「自由」でしかない。それが残念ながら現実ではないかと私は考えています。まだ読んでいませんが、先日『希望の裁判所』という本が発刊されました。「絶望」しているだけではダメですので、なんとか少しでもより良い裁判所につくり変えていきたいものです。
そのような問題提起の本として、一読をおすすめします。
(2016年10月刊。1600円+税)

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2016年12月 2日

元老

日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 伊藤 之雄 、 出版  中公新書

元老というコトバは、現代日本では死後同然ですが、なんとなく意味するものが今の私たちにも想像できます。
元老とは、紀元前9世紀から前7世紀の中国の古典にみられる年齢・名望・官位の高い長老といった一般的用語が、近代に入って特別な制度をあらわすのに使われるようになったコトバ。その由来や制度形成の過程は曖昧である。
桂太郎を元老とするのは誤りである。元老は元勲とは異なる。
1989年(明治31年)の1年間で、元老は名実ともに確立し、一般にも認識されるようになった。
明治天皇は、21歳になった1874年でも、表の政治に影響力を及ぼすことはできなかった。明治天皇は30歳代前半になっても表の政治に影響力を振るうことを許されなかった。
西南戦争は、大久保体制の下で戦われた。その大久保は、1878年(明治11年)5月14日、47歳で暗殺されてしまった。そのあとを継いだのが伊藤博文で、36歳だった。
伊藤博文は、人に好かれる気さくで飾らない人柄だった。藩閥にこだわらず、長期的なヴィジョンをもって日本の立憲国家の形成を目指して、現実的に問題を処理する能力があると他のリーダーたちに認められた。
伊藤は足軽出身だったが右大臣になった。破格の待遇だった。藩閥中枢8人のなかで、伊藤が飛び抜けて地位が高く、山県、黒田と続き、かなり離れて井上、そして松方という序列だった。これは、明治天皇がこの5人の屋敷に行奉した順番や時期から分かる。
1887年(明治20年)に、伊藤に対する批判が強まっても、天皇は信頼する伊藤の辞任を許さなかった。天皇と皇后は、新しくできる憲法のなかでの自分の役割を理解し、かつ伊藤への揺るぎない信頼をもつようになった。憲法のなかでの自分の役割を確信した明治天皇は、大久保利通のあとを継いで伊藤が国政の根幹をつくり、さらに帝国主義や皇室典範を制定したことを高く評価した。そこで、臣下に与える勲章そして、それまでの旭日大綬章という勲章を制定して伊藤のみに与えた。
伊藤のバランスのとれた知識と判断力を信頼し、明治天皇は日清戦争の終了までの間、文官の伊藤に対し、非軍事・軍事にかかわらず、重要問題の下問をしばしば行った。
大津事件が起きたとき、大国ロシアと戦争になるのではないかという恐怖が日本国中に走った。この大津事件に際して、明治天皇への助言者としての主導権は、松方首相以下の閣僚にはなく、断然、伊藤にあった。
初期の議会において、政党にどのように対応するかをめぐり、藩閥内が大きく亀裂したため、元老が形成された。
1903年(明治36年)ころまでには、元老は、後継首相の推薦に関わる慣例的なポストという意味と、特定の分野の最高権力者・実力者の意味で使われるようになった。
日清戦争後、伊藤が政党に接近するのに反発した藩閥官僚たちは、反政党の姿勢を明確にし、陸軍への影響力を保持していた山県に接近していき、山県が台頭していった。
伊藤が政友会を創設したことは、山県らには許しがたいことだった。
元老の一人である西郷従道は、度胸があって決断力のある人柄で、海外体験と外国語能力に裏打ちされた幅広い視野をもった人物である。ところが、兄隆盛と対決して死なせてしまったことを負い目とし、海相以上の晴れがましい地位には、決して就こうとしなかった。
日露戦争後に元老は権力を衰退させていったが、伊藤はそのなかで明治天皇の信任を背景として、もっとも高い地位にあり続けた。天皇は、伊藤を山県より上であると公然と位置づけた。天皇は、伊藤が韓国統監を引退した日に勅語を与え、10万円(今の14億円)を下賜した。伊藤が暗殺されたときの国葬も天皇の意思で決められた。
桂太郎は、元老たちから元老として扱われず、まもなく政治的に失脚して死去した。桂は元老になることができなかった。
大正天皇の時代、山県ら元老たちの行動に公共性がなく、権力の正当性がないと国民がみるようになったことで、元老の高齢化に伴い、政治的実力は低下し、政党が台頭するなかで、法的根拠のない元老の正当性が問われるようになった。
日本の元老制度の実態がよく分かる本です。
(2016年6月刊。880円+税)

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2016年12月 3日

世界をたべよう!旅ごはん

社会

(霧山昴)
著者 杉浦 さやか 、 出版 祥伝社

眺めているだけでも楽しい、旅ごはんの本です。なにしろ世界24ヶ国、そして日本国内も21軒のレストランやら屋台を素敵なカラー・イラストで紹介していますから、ついついよだれがこぼれそうになってしまいます。
著者はいったい何を職業としているんだろうかと、やっかみ半分で頁をめくっていきます。最後の著者紹介にイラストレーターとあります。なるほど絵がうまいはずです。それにしても、旅行して美味しいものを食べて、それを絵に描いて本にして、本が売れたら収入となるなんて、なんてうらやましいことでしょう。まさしく趣味と実益が一致しています。
ベトナムでは若い女性二人だけで、100%男性客しかいないビアホイに入った。ビアホイとは、工場直送のポリ容器入りの生ビールのこと。そして、そのビアホイを飲める店のこと。ビアホイは、東南アジア特有のかなりの薄味。冷え方はあまく、ジョッキに氷を入れて飲む。薄いビールがさらに薄まるけれど、これがクセになる美味しさ。この薄々ビールと絶妙なおふくろの味、そして、ベトナムおやじたちの優しいまなざしに迎えられて、最高の旅の思い出となった。
インドネシアのバリでは、昼食にバイキング方式みたいに好きなものをたくさん食べ、ついに夕食は抜かしてしまった。これも若さからの失敗ですね。今の私は、なんでも腹六分目をモットーとして、少しずついただくようにしています。
ハンガリーではグヤーシュを食べたとのこと。昔、私の行きつけのプチ・レストランにハンガリアン・グラッシュという名前の料理があり、大好物でした。たっぷりの野菜と牛肉を粉末のパプリカで煮込んだシチューです。その店は今はもうありませんが、ぜひまた食べたいです。
フランスでは、ノルマンディのカキを食べて、なんとあたってしまったとのこと。お気の毒です。10年以上も前にパリのカルチェラタンで泊まったプチ・ホテルの近くに生カキを食べさせてくれる店があり、一家5人で美味しく食べたことを思い出しました。このプチ・ホテルで食べたフランスパン(バゲット)の塩加減の素晴らしさは、今でも家族全員のいい思い出です。
著者はラム(羊肉)がダメだとのこと。可哀想ですね。でも、ノルウェーのラム肉は臭くなくて、柔らかくて、初めて完食したそうです。おめでとうございます。
いかにも若い女性の手になる可愛いらしいイラストが満載です。ぜひ手にとって眺めて楽しんでください。
(2016年11月刊。1400円+税)

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2016年12月 4日

驚くべき日本語

社会

(霧山昴)
著者 ロジャー・パルバース 、 出版  集英社

日本語って、ガイジンさんには難しいと思っていますが、実は話し言葉としては、世界でも易しいほうなのだそうです。難しいのは漢字のまじっている読み書きなのです。
日本人は、日本語があいまいな言語だと信じ込んでいる。しかし、日本語は明らかにあいまいではない。日本語には秘密もなければ、不可解さも、暗号のようなところもない。
話し言葉としての日本語は、学ぶにはもっとも平易な言語の一つである。
言語は、結局、戦いの基本的な道具である。
言語は「同じ人種でくくられた集団」という意識をつくり上げる武器である。「他者」をたしかな方法で識別して自分たちの集団から疎外することに加担する。自分がどの民族に属するかを決定するのは、言語なのである。
第一言語を話す能力と外国語のそれとは、それぞれ脳の違う部分に刷り込まれる。
第一言語の音の響きだけが、ものごとのイメージと結びつく。
言語は私たちに民族的なアイデンティティを与えるもの。国家にとって、言語はきわめて大切な道具であり、一方で目に見えない武器なのである。民族を一つにまとめるのに、まさに言葉ほど力をもつものはない。言語はまた、悪しき目的のために強制的に使われることもある。
多くの人は、自分の頭を白紙状態にできないでいる。これは、それ以上、他の言語を学ぶことができない状態でいるということ。他言語を学びたいと思うなら、その独自の秩序を学ぶためには、すでに頭のなかにセットされている第一言語の統語の体系をまず消し去る必要がある。自分の第一言語の論理を消し去れば、だれでも日本語の修得は可能である。
日本語のきわだって特徴的で重要なポイントは、日本語の表現力は異なる言葉によって生み出されるのではなく、同じコトバの語尾変化によって生まれるということにある。
動詞と連結させて縦横無尽に表現をつむぎ出せる擬態語という道具があれば、もともとの語彙の数が多くなくても、さまざまな行動や感情を表現することが可能になる。
日本の国際化は、英語で始まるのではない。日本語で始まる。
日本語の音の響きの美しさは、書き言葉とのすばらしい連携から生まれる。
1944年にアメリカで生まれ、日本には1967年以来、50年も生活していますので、もちろん日本語はぺらぺらです。いえ、ロシア語も、ポーランド語もできます。すごい人ですね。
私も、フランス語をもっと気楽に自由に話せるようになりたいです。
それにしても、世界のなかの日本語の位置づけを考え直しました。
(2014年8月刊。1000円+税)

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2016年12月 5日

ライオンは、とてつもなく不味い

生物

(霧山昴)
著者 山形 豪 、 出版  集英社新書ヴィジュアル版

アフリカで育った日本人がいるのですね。そんな野生児は、現代日本社会では住みにくいと感じるのも当然です。その野生児は、大人になってフリーのカメラマンとして、主としてアフリカやインドで野生動物の撮影をしています。
被写体となった野生動物の表情が、みな生き生きとしています。カメラマンに向かって突進寸前のものまでいて、ド迫力満点です。
タイトルは、まさかと思いました。ライオンの肉を食べるなんて、そんなことはありえない。何かのたとえだろうと思っていると、なんと、本当にライオンの干し肉を食べたというのです。
家畜を襲ったライオンは害獣として駆除してよいという法律があり、駆除されたライオンは殺された牛の持ち主に所有権がある。毛皮は売って、肉は干して食用にする。味付けをしていないただの干し肉だったせいもあるかもしれないが、今まで食べたどの肉よりもマズかった。とにかく生臭いうえに、猛烈に筋っぽかった。
人間にとっては牛のような草食動物のほうが美味しいのですよね。肉食動物の肉は一般に人間の口にはあわないようです。
ライオンから人間が襲われる事故は決して多くはない。それは、そもそもライオンは総数4万頭以下と個体数が決して多くはないから。人と接触し、事故が起きる確率が低い。
これに対して、カバによる事故は多い。カバの気性が荒いというだけでなく、水辺を好むカバと人間とは接触する機会が多いからだ。
現実世界の「草食系」動物は、決して優しくもないし、おっとりもしていない猛獣たちなのである。
テントの周囲にライオンやハイエナがうろついていても、テントの中にいて寝込みを襲われたという話は聞いたことがない。テントを破って中身を食おうという気にはならないのだ。
しかし、テントのフラップを開け放して寝ていた人間がハイエナに食べられたというケースはある。
アフリカで食べられないように注意しなくてはいけないのは、ナイルワニ。カバの次に多くの人の命を奪う動物は、ワニである。
しかし、もっとも恐ろしいのは、なんといっても、人間である。他の動物にはない、悪意や物欲というものを持っている。しかも、刃物や銃をもっているので、危険きわまりない。
写真と文章で、しっかりアフリカの野生動物たちの生態を堪能できる新書です。東アフリカの野生動物の写真といえば、小倉寛太郎氏を思い出しました。『沈まぬ太陽』のモデルとなった人物です。小倉氏は大阪の石川元也弁護士の親友でしたので、その関係で一度だけ挨拶しました。大人の風格を感じました。
(2016年8月刊。1300円+税)

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2016年12月 6日

希望の裁判所

司法

(霧山昴)
著者 日本裁判官ネットワーク 、 出版  LABO

このタイトルは、ジョークでも皮肉でもない。日本の現元裁判官が大まじめでつけたもの。
希望が今後も大きくなるように、さらなる司法改革を心から訴えている本である。
日本裁判官ネットワークは、1999年(平成11年)9月に、現職裁判官をメンバーとする日本で唯一の裁判官団体(裁判官OBがサポーターとなっている)。
この本の冒頭にあるのは、なんと「判決どどいつ」です。弁護士から裁判官になった竹内浩史判事です。それがなるほど、よく出来た「どどいつ」なのです。たとえば、次のようなものがあります。
セブン・イレブン、反省気分、多分報告、不十分
これは、最高裁判決がセブン・イレブンの本部に仕入の詳細に関する情報開示を命じたものに関するものです。
福岡高裁を最後に定年退官した森野俊彦弁護士は非嫡出子の相続分差別規定を憲法違反とした最高裁判決を積極的に評価しながらも、その理由づけに不満を述べています。立法理由の合理性の判断から逃げているという点です。そして、夫婦同姓規定について合憲とした最高裁判決については大いなる疑問を投げかけています。
ただ、鎌倉時代の北条政子について、官位を付与するときの便宜的なもので、記録上だけとしているのは、本当なのでしょうか。同じように、夫婦別姓だったとして有名なのは日野富子もいますし、江戸時代は夫婦別墓で、妻は実家の墓に入っていたということですし、単に便宜とか記録上というのではないように私は考えています(私も、さらに調べてみます)。
人生の半分以上を費やした場所である裁判所になお、希望を見出そうとする思いがにじみ出ている論稿でした。
浅見宣義判事は、激動する日本社会の中で、裁判官という職務のやりがいが特に大きくなり、その魅力が高まっていると力説しています。
私も、そう考えている裁判官がもっと増えてほしいと思います。現実には、やる気のない裁判官、記録をじっくり検討しているのか疑わしい裁判官、枝葉を妙にこじくりまわす裁判官、いかにも勇気のない裁判官があまりに目立つからです。
裁判員裁判を経験した刑事裁判官が、体験して本当に良かったと述懐していたとのこと。私も、こういう話を聞くと、うれしくなります。私は残念ながら、裁判員裁判を1件も経験していません。殺人事件を担当したら、いわゆる認定落ちになってしまったのです。
体験した弁護士の、必ずしも全員が裁判員裁判を積極評価しているわけではありません。先日、これまで8件ほど体験した福岡の弁護士に意見を求めると、昔の職業裁判官による裁判に比べたら断然いいと思うし、やり甲斐があると語っていました。パワーポイントなど使わず、裁判員の顔を見ながら弁論するので、反応がすぐ分かり、手ごたえがあるのが良い、とのことでした。
これまでの調書偏重裁判を打破したという点で、裁判員裁判は画期的なものだと私も考えています。そして、被告人の保釈が認められやすくなったのも事実です。「人質司法」が少しだけ改善されたのです。
もちろん、裁判所は、もっともっと改革されるべきです。たとえば、裁判官の再任審査にあたって外部意見を取り入れる建前になっていますが、それは「外部」といっても、せいぜい弁護士しか想定していません。広く裁判を利用した国民の声を反映させるものではまったくありません。実は、弁護士会のなかにも、その点について消極的な声があるので、驚くばかりです。大学でも学生が教授を評価するのがあたりまえになっている世の中です。裁判を担当した裁判官について、利用した国民がプラス・マイナスの評価をつけることが「裁判の独立」をおかすものとは私には思えません。
最後に『法服の王国』の著者である黒木亮氏がイギリスの裁判では、みんなが活発議論していることを紹介しています。私は日本でも、もっと本当の口頭弁論をしなければいけないと考えていますので、日本はイギリスを見習うべきだと思いました。
ともあれ、日本の司法について希望を捨ててしまったら、いいことは何もありません。
日本国憲法の輝ける人権保護規定を深く根づかせるためにも、私たち弁護士も、裁判官も、もっと努力する必要がある。そのことを確信させる貴重な問題提起の本です。
私の同期の元裁判官(仲戸川隆人弁護士)より贈呈を受けました。ありがとうございました。日本裁判官ネットワークのさらなる健闘を心から期待しています。
(2016年12月刊。2500円+税)

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2016年12月 7日

ブラックアース(下)

ドイツ

(霧山昴)
著者 ティモシー・スナイダー 、 出版  慶應義塾大学出版会

 ユダヤ人へのホロコーストの実情が刻明に掘り起こされています。
 ユダヤ人の大量殺戮は、何万ものドイツ軍が3年にわたって何百という死の穴のうえで何百万というユダヤ人を射殺していた東方では、ほとんどの者は何が起きているのかを知っていた。何十万ものドイツ人が殺戮を実際に目のあたりにしたし、東部戦線の何百万ものドイツ人将兵は、それを知っていた。
 戦時中、妻や子どもたちまでが殺戮現場を訪れていたし、兵士や警察官はもとより、ドイツはときに写真付きで家族に詳細を書いた手紙を送った。
 ドイツの家庭は、殺害されたユダヤ人からの略奪品で豊かになった。それは何百万というケースではなかった。略奪品は郵便で送られたり、休暇で帰省する兵士や警察官によって持ち帰られた。
 1940年6月にソ連に占領されたエストニアでは、1941年7月にドイツ軍がやってきたときに居住していたユダヤ人の実に99%が殺害された。これに対してデンマークでは、市民権をもつユダヤ人の99%が生きのびた。エストニアでは国家が破壊されたが、デンマーク国家は一度も破壊されなかった。ドイツの占領は、明らかにデンマークの主権をもとにして進められていた。デンマーク当局は、ユダヤ人市民をドイツに引き渡すのは、デンマークの主権を損なうことになると理解していた。
デンマーク人は、自国のユダヤ人をドイツではなく、スウェーデンに送り届けるために小型船隊を組んだ。ドイツ警察は、この企てを知ったが、留はしなかったし、ドイツ海軍も、眺めるだけだった。デンマーク市民は、同胞の市民を自分たちの国で救うのは犯罪ではないので、ほとんど身に危険を感じず、やってのけた。ドイツ警察が10月2日に急襲したときにも、デンマーク市民権をもった5000人のユダヤ人のうち481人だけしか捕まらなかった。
ドイツ当局は、収容所におけるユダヤ人の外見上は良好な状態を見せるプロパガンダ映画を製作するのに、デンマークからのユダヤ人を利用した。
なるほど、国家体制が残るっていうのは、こんな効果もあるのですね・・・。
国家が破壊された場所では、誰も市民ではなかったし、予想できるいかなる形の国家の保護も享受していなかった。ドイツの官僚制度はドイツのユダヤ人を殺害することはできなかった。ドイツのユダヤ人は、戦前からのドイツの地においては、ごくごく少数の例外を除いては、殺害されることはなかった。
 市民権、官僚制度、外交政策が、ヨーロッパのユダヤ人全員を殺害せよというナチスの衝動を妨げた。
伝統的にルーマニアは、フランスの従属国であり、ルーマニアのエリート層はフランス文化に自己を重ねあわせていたし、フランス語が広く話されていた。
ヒトラーは、ルーマニア陸軍を重要視していた。ポーランドの崩壊後、赤軍に対抗するのに使える東ヨーロッパにおける唯一のまとまった数の軍隊だった。
 ルーマニアは、1944年、ドイツに抗しながら終戦を迎えた。ルーマニアのユダヤ人の3分の2が生きのびていた。
 ハンガリーでは、1944年になっても、80万人がハンガリー領内で生きのびていた。ブルガリアの支配の及んだ地域に住んでいたユダヤ人の4分の3が生きのびた。
 イタリアは、反ユダヤなどの人種立法を通過させたが、ムッソリーニは、イタリアのユダヤ人を死の施設に移送することに何の関心も示さなかった。イタリアにいたユダヤ人の5分の4は生きのびた。
これに対して、領有者がかわった地域のユダヤ人は、たいてい殺されてしまった。
 フランスのユダヤ人は4分の3が生き残り、オランダとギリシャのユダヤ人は4分の3が殺害された。オランダは、国家のない状態に近かった。国の元首はいなくなったし、政府は亡命してしまった。
生きのびたユダヤ人は、ほぼ全員が非ユダヤ人から、何らかの援助を受けていた。ドイツ人は、ある状況では救助者となり、別の状況では殺人者となった。
 ホロコーストの実際が、とても詳細に分析されていて、大変勉強になりました。
 この本を読みながら、つくづく歴史を学ぶ意義は大きいと痛感しました。
 
(2016年7月刊。3000円+税)

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2016年12月 8日

プライベートバンカー

社会

(霧山昴)
著者 清武 英利 、 出版  講談社

日本人の大金持ちが税金逃れ(脱税ではありません)でシンガポールに大挙して渡っているそうです。でも、何もやることがなくて、ヒマを持て余して嘆いているというのを聞くと、なんと心の貧しい人たちかと、気の毒さを通りこしてしまいます。
やはり、自分と家族のためだけではなくて、少しは世のため、人のために何かをし続けたいものです。
プライベートバンカーは1億円以上の金融資産をもつ金持ちしか相手にしない。富裕層とは、1億円から5億円未満を保有する人、超富裕層は5億円以上の資産をもつ人。これは不動産を含まない、金融資産のみの金額。
それ以下の5千万円から1億円未満は準富裕層、3千万円から5千万円未満はアッパーマス層。持たざるマス層、つまり庶民はプライベートバンクに口座を開設することもできない。
シンガポールには日本人が2万4500人も住んでいる。治安が良くて、時差は1時間、日本人会があり、日本語だけでも生活できる。
シンガポールには相続税がない。だから、日本の大金持ちがシンガポールに資産を持ち込めば、相続税を払わなくてよくなる。そのために「5年ルール」がある。親と子が、ともに5年をこえて日本の非居住者であるときには、日本国内の財産にしか課税されない。
「日本の非居住者」とは、1年の半分以上を海外で暮らしているということ。それを5年続ければいいのだ。
プライベートバンクは、もともとヨーロッパの階級社会の中で生まれた。王侯貴族などの超富裕層の資産を管理し、運用する個人営業の銀行である。資産家のために働くバンカーだから、カネの傭兵とか、マネーの執事とも呼ばれる。
プライベートバンカーの仕事は三つ。一つはビリオネアの口座を銀行に開設させること、二つ目はその口座に彼らのお金を入金させること。三つ目が、そのお金を運用して守ること。
シンガポールを舞台とするヤクザの資産洗浄(マネーローンダリング)や脱税事件がしばしば発覚している。問題なのは、その多くが真相不明のまま、タブー視されていること。その一つが、超高額を集めたヤミ金である五菱会事件。このとき、スイスの銀行の51億円については、犯罪収益として凍結され、没収して、相当額が日本に戻ってきた。ところが、シンガポールの銀行への43億円は、うやむやにされて終わっている。なんということでしょうか・・・。今でも下手に話すと、生命にかかわるということで、金融業界でタブー視されているのです。
シンガポールに移住してきて「5年ルール」を達成しようという「あがり」の富裕層には、家庭円満というケースがほとんどないと言われている。
そりゃあ、そうでしょうね。何もやることなく無為徒食で5年間をすごせと言われたら、少しでもまともな人には耐えられるはずがありません。人間、カネだけで生きてはいけませんからね。
「お金を残すのは、おまえたち家族のためなんだぞ」
そんなセリフを父親から聞かされて、「はいそうですか」と従う子どもがいたら、哀れですね・・・。
「いくらお金を持っていても、人間やることがないのは非常に辛いです」
まったく、そのとおりだと私も思います。
ところが、3.11東日本大震災のあと、日本からシンガポールへの移住者や資産移動が急増している。
シンガポールで100万米ドル以上の投資可能な資産を保有している富裕層は、2011年に9万1千人だったのが、2012年に10万人をこえ、2013年には10万5千人、2014年には10万7千人となった。この増加したなかに日本人資産家も相当ふくまれているはず。
そして、大金持ちの日本人が犯罪のターゲットとして狙われることになる。自分の身は自分で守らなければいけない。ところが、真の友人を見知らぬ海外に見つけるのは、たやすいことではない。プライベートバンカーが隠していた牙(キバ)をむき出しにしたら、いちころです。スッテンテンになる危険だってあるでしょう・・・。
シンガポールの日本人社会の一端から現代日本の病相を知った思いがしました。
(2016年8月刊。1600円+税)

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2016年12月 9日

自由民権運動

日本史(明治)

(霧山昴)
著者 松沢裕作 、 出版  岩波新書

 自由民権運動とは何だったのか、改めて考えさせられました。それは、幕末そして明治維新の原動力となった動きに当然のことながら連動していたのです。
 そして、「板垣死すとも自由は死なず」と叫んだという伝説のある板垣退助の実像が浮き彫りにされています。なるほど、そういうことだったのか・・・・、と思わず膝を叩きました。
 1874年(明治7年)1月17日、板垣退助ら8人が、国会の開設を要求する建白書を政府に提出した。これが自由民権運動の始まりとされている。板垣は土佐(高知県)出身の士族であり、かつての政府首脳の一人である。板垣は、民権運動が西日本の士族たちを主たる担い手として始まったことを象徴する人物である。
 戊辰戦争後の高知藩で実権を握ったのは、大政奉還の立役者である後藤象二郎と、戊辰戦争の英雄である板垣退助の連合政権だった。この二人は、いずれも上士出身である。これに対して、国許の高知で実権を握ったのは、下士・郷士をふくむ凱旋した軍人たち。谷干城、片岡健吉らで、藩の軍務局を拠点としていた。東京の板垣・後藤と高知の谷らは対立していた。高知藩において士族・率族の等級制の廃止に抵抗したのが、のちの自由民権運動の指導者になる板垣退助その人だった。
 このころ、板垣は、藩内の人物を家格によって差別する人物であると認識されていた。板垣らの新政府軍と戦った江戸幕府の歩兵隊は、日雇いの肉体労働で生計を立てているように日用層、つまり都市下層民(「破落戸」(ごろつき))の軍隊だった。
 近衛兵として勤務する薩摩や土佐の軍人たちは、戊辰戦争の、また廃藩置県クーデターの勝利者であるにもかかわらず、自分たちの存在意義の危機に直面していた。
 藩を失い、徴兵制によって、その存在意義も失われつつあった士族たちの不安とは、身分制社会の解体によって所属すべき「袋」を失った士族たちの不安であった。
板垣らは「建自書」を提出した自分たちの行動を「反体制」の活動だとは考えていなかった。民選議院の設立というポスト身分制社会の新たな構想を実現するためには、その主体として、知識と意欲をもつ士族集団が生きのび、そして理想の実現のためには、権力の座につかなくてはならない。彼らは、そう考えた。
指導者としての板垣の権威は、戊辰戦争の功績によって支えられていた。その指導下にある立志社は、潜在的な軍隊であるからこそ、存在感をもっていた。
 西南戦争における西郷の敗北と、立志社の蜂起の未発は、政府から見た潜在的な軍隊としての立志社の存在感を失わせることになった。
自由党の指導部は、実力行使に否定的だった。しかし、板垣以下の自由党指導部は「武」の要素を全面的に否定するわけにはいかなかった。なぜなら、暴力に訴えてでも新しい秩序を自分たちの手で創出するというのは、自由党の存在意義そのものであり、自由党の思想の中核をなしていた。そして、実際に暴力で旧秩序を打ち倒した戊辰戦争の経験があり、その戦争の英雄だった板垣が党首として権威をもち続けたのである。だから、自由党は暴力による新秩序の創設を全面的に否定する論理はもたなかった。だから、自由党の指導部は、急進化した党員を抑えることが出来なかった。
オッペケペーの自由民権運動を改めて多面的に掘り下げるべきだと痛感しました。

(2016年6月刊。820円+税)

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2016年12月10日

最後の秘境・東京藝大

人間

(霧山昴)
著者 二宮 敦人 、 出版  新潮社

天才ぞろいの大学です。奇人・変人ばかりと言っては失礼にあたります。安易な常識では理解できるはずもありません。こんな人たちがいるおかげで、世の中は楽しく心豊かに生きていられるのかなと思いました。やっぱり、世の中は、カネ、カネ、カネではないのです。
ここは、芸術界の東大とも言われていますが、実は、東大なんて目じゃないのです。なにしろ競争率が違います。絵画科80人の枠に1500人が志願する。18倍。昔は60倍をこえていた。だから、三浪して入るなんてあたりまえ、珍しくはない。専門の予備校がある。
音楽系だと、ある程度の資金力があって、親が本気じゃないとダメ。ピアノとかバイオリンだと、2歳とか3歳から始めるのが当たり前。
美校の現役合格率が2割なのに対して、音校は浪人は少ない。演奏家は体力勝負だから、早く大学に入って、早くプロとして活動しはじめたほうがいい。
センター試験は重視されていない。三割でも、場合によっては一割でも、実技さえよければ合格する。
絵画科の実技試験は、たとえば2日間で人間を描くこと。
そして卒業すると、その半分くらいは行方不明になる。
活躍している出身者はたくさんいる。しかし、それは、ほんの一握り。何人もの人間がそこを目ざし、何年かに一人の作家を生み出す。残りはフリーターになってしまう。それが当たり前の世界だ。
この大学は、全部で2千人。学科ごとに分けてみてみると、たとえば、指揮科の定員は2人。作曲家は15人。器楽科の定員98人は、楽器ごとの専攻なので21種類に分けたら、たとえばファゴット専攻は4人しかいない。少人数教育なのですね。
国際口笛大会でグランドチャンピオンの学生もいる。
音楽は一過性の芸術だ。その場限りの一発勝負。そして、音楽は競争。音校では順位を競うのが当たりまえ。それが前提となっている世界。
工芸科の陶芸専攻では、一緒に泊まって、一緒にご飯を食べて、一緒に寝る。窯(かま)番があるから。
人間の社会が実は奥深いものだということを少しだけ実感させてくれる本でもあります。音楽系と美術系が、これほどまでに異なるものだというのを初めて識りました。面白いです。読んで損をしたと思うことは絶対にありません。東大法学部はロースクール不振から定員割れしているとのことですが、こちらはそんなことは考えられませんね。万一、そうなったときは、日本社会が壊滅してしまったということでしょうね。
ベストセラーになっていますが、社会の視野を広げる本として、ご一読をおすすめします。
(2016年11月刊。1400円+税)

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2016年12月11日

山谷ヤマの男

社会

(霧山昴)
著者 多田 裕美子 、 出版  筑摩書房

かつてドヤ街として有名だった山谷(さんや)と釜ケ崎。私は、そのいずれにも行ったことがありません。名前を聞いていただけです。
今、その山谷は若くて勇ましかった「労働者の街」から老いと病で苦しむ「福祉の街」に変わってしまった。かつては高給とりだった鳶(トビ)でさえ、今では仕事がなくなってしまった。ドヤにも住めず、路上生活が長くなれば、心身ともに疲弊していく。やっと生活保護を受給できたとしても、若いときの勢いはなく、高齢で慢性疾患者とのつきあい。ドヤの利用者の9割が生活保護の受給者。
ドヤとは簡易宿泊所のこと。ドヤ暮らしは、住民票や保証人がなくても、その日のドヤ代さえ払えば、過去を問われることもなかった。
ドヤに泊まれなければ、アオカン(外で寝ること。青空簡易宿泊)するしかない。
著者は、山谷にある丸善食堂の娘として育ち、山谷にある玉姫公園で、1999年から2年間、山谷の男たちの肖像写真を撮った。
この本には、その男たちの肖像写真の一部が紹介されています。皆さん、なかなか魅力的な、味わい深い顔つき、表情です。
丸善食堂の客は、だいたい一人で吞みにきていて、愚痴をこぼすことはなかった。
ここでは、誰もが過去を語らないし、聞きたがらない。いや訊いてはいけないのが、ここの暗黙のルールだ。
カウンターはコの字型。ひとりで吞んでいても淋しくなく、向かいあっていても、ほどよい距離感があって、実によくできているカウンターだ。
許せないことがあれば、ささいなことでも暴力手になり、暴動がおこる。何も守るものがなく、身一つの人生なので、火がついたら激しい。いまの山谷に必要とされているのは、食事や健康面のケア、寝る場所などのきめ細かい支援。
山谷の絶頂期は昭和40年代。私が大学生のころです。この当時、日雇い仕事は、いくらでもあった。立ちん坊という呼び名がありました。早朝から手配師が人を求め、トラックに乗せて日雇いの人々を工事現場に連れていくのです。
現代に生きる日本人をうつし撮った貴重な写真集だと思いました。
(2016年8月刊。1900円+税)

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2016年12月12日

テレジン収容所の小さな画家・詩人たち

ドイツ

(霧山昴)
著者 野村 路子 、 出版  ルック

アウシュヴィッツに消えた1万5000人の小さな生命(いのち)というサブタイトルのついた絵本です。
アウシュヴィッツをはじめとする絶滅収容所で殺された子どもは1万5000人どころか、150万人といわれている。そんな子どもたちの怒り、悲しみ、夢、祈り、そして、生きたいという叫び・・・。生命のメッセージが伝わってくる。
ユダヤ人の子どもたちは、学校へ行くことを禁じられ、遊園地やプールからも締め出された。もちろん、これはヒトラーが叫び、権力を握って推進した政策ですが、それを支援したドイツ人大衆がいたわけです。いまの日本で、ヘイトスピーチをし、それに沈黙して、実は手を貸しているという人たちが少なくないことを考えると、おかしいことを権力者がしていると思ったら、すぐに抗議の声を上げないと大変なことになるということです。
いまの日本のアベ首相の手口はあまりにも恐ろしいと私は思うのですが、不思議なことに、年金を切り下げられている年寄りに支持する人がいて、非正規でしか働けず、明日への希望を失っている人が解雇の自由を促進しているアベ政権を支持しています。まさしく矛盾です。
収容所の食事。朝はコーヒーと呼ばれる茶色い水が1杯だけ。昼はピンポン球くらいの大きさの小麦粉の団子の入った、うすい塩味のスープ。夜は、同じスープと小さな腐りかけのジャガイモが一つか、かたいパンが1かけ。それが子どもたちの食事だった。
テレジン収容所の「子どもの家」にいた10歳から15歳までの子どもたち1万5000人のうち、戦後まで生き残っていたのは、わずか100人だけだった。
12歳の男の子の描いた絵があります。首を吊られた男性が描かれています。その男性の胸にはユダヤ人の印であるダビデの星が色濃く描かれています。
どうしてなのか、幼い彼にはその理由は理解できなかった。でも、胸にこの黄色い星のマークをつけさせられた日から、辛いこと、悲しいことが多くなったことだけは分かっていた。
この絵は、少年の大好きな父親が処刑される場面だったのかもしれない・・・。
テレジン収容所が1945年5月8日に解放されたとき、ドイツ軍が自分たちの蛮行を証明する書類を焼却していった焼け残りの書類の下に、子どもたちの絵があった。それを見つけた人が、トランク2つに詰めてプラハへ持ち帰った。子どもたちの絵が4000枚、詩が数十編・・・。それは、子どもたちがこの世に生きていた証だ。
今も、プラハの博物館に残されているそうです。ぜひ、現物をじっくり見てみたいと思いました。年齢(とし)とって涙もろくなった私は、涙なしには絵を見ることも、詩を読むことも出来ませんでした。私たちみんな、この事実を忘れてはいけないと何度も思ったのです。ヘイトスピーチなんて、許せません。
(1997年6月刊。2200円+税)
 土曜日は午前中のフランス語教室を終えて、午後から天神の映画館でフランス映画『アルジェの戦い』をみました。「アタンシオン、アタンシオン」(注意して下さい、注意)という有名なフランス語のセリフが流れてきます。アルジェリアが戦後、フランスから独立するまでにおきたテロや暴動、そしてフランス軍による拷問、弾圧を生々しく再現した映画です。
 実は、私は1967年(昭和42年)4月、渋谷の大きな映画館でこの映画をみたのです。大学に入ってすぐのことです。それまで九州の片田舎に住んでいて大東京に出て、何もかも目新しい生活を始めたとき、世界ではこんなことが起きているのかと、目を大きく見開かされました。
 この映画は前年(1966年)にベネチア国際映画祭でグランプリを受賞したのですが、「反仏映画」だという批判も受けました。フランス軍による活動家への拷問シーンはたしかに凄惨です。
 そして、昨年のパリ同時多発テロを思い出させる映画でもあります。相次ぐ爆弾テロ、車から連射して路上の罪なき市民を倒していくシーンなど、50年前の出来事が今よみがえってきます。
 暴力に暴力で対処してはダメなんだと独立運動の指導者の一人が語ります。革命を始めるより、続けることが難しいし、成功したあとが、さらに難しいともいます。アルジェリアは独立後、実際にそのような経過をたどります。 
 一見に値する貴重な映画です。ぜひ、時間の都合がつけば、ご覧ください。

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2016年12月13日

君たちが知っておくべきこと

社会


(霧山昴)
著者 佐藤 優 、 出版  新潮社

かの有名な佐藤優が灘高校の生徒たちと3年にわたって(それぞれ別人)対話した記録集です。生徒会の主催する先輩訪問行事の一環だったそうです。とてもいい企画だと私は思いました。
同じような本として、『それでも日本人は戦争を選んだ』(加藤陽子)というのがあります。東大教授が高校生を相手に講義したもので、大変刺激的な本でした。このコーナーでも前に取り上げました。
著者は受験勉強は非常に役立つものだと再三強調しています。実は、私も同感なのです。何のために勉強しているのか、受験勉強なんて何の役にも立たないんじゃないか・・・、そう考えたこともありましたが、それから40年以上たつと、いやいやそんなことはないと痛感します。
ただし、そのためには、大学に入ったあと、受験勉強で頭に詰め込んで記憶した物事をきちんと見つめ直して、なぜ、どんなカラクリでその答えにたどり着くのかというプロセスを丁寧に理解しておく必要がある。
受験勉強に意味がない、嫌いだと思っていると、人間は長期間記憶することが出来ない。
東大医学部(理Ⅲ)、慶応の医学部は、特別な記憶力と反射神経の良さにおいて才能が必要とされる。また、東京芸術大学と日本体育大学は、特殊な才能が必要とされる。それ以外の入試は、いかに合理的に勉強して知識を正確に定着させ、それをもとにちょっとした運用をできるようにすること、これが基本。これを守って勉強すれば、司法試験にだって合格できる。
この点についても、私は著者と同意見です。
現在、安倍首相のブレーンになっている兼原信克という人物の本の誤りが厳しく指弾されていますが、本当に呆れる内容です。信じられないレベルの低さなのですが、外務省の超出世頭だというので、まさにびっくりポンです。
良い小説を読んで、さまざまな状況を疑似体験し、代理経験を重ねることで自分を客観視できるし、いろんなタイプの人間を知ることができる。他人の気持ちになって考える訓練が必要だ。
これも、まったく同感です。小説を読んで涙を流すのは心を豊かにしてくれます。
著者は日本の弁護士って、つまらないと切り捨てています。
弁護士は基本的に金持ちの味方だ。怪しげな会社の顧問をやって、脱税をいかにして適法にするかを仕事にしている。
これには大いに異論があります。著者の交際している弁護士は、そのような人ばかりかもしれませんが、金持ちの味方という弁護士ばかりではありません。地道に弱者の権利を守ってがんばっている弁護士は多いし、私をふくめて、そのことにやり甲斐を感じているものです。
弁護士の仕事の面白さが若者によく伝わっていない気はしています・・・。反省です。
著者の読書範囲の広さと深さには脱帽です。大変な知的刺激を受けました。
(2016年11月刊。1300円+税)

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2016年12月14日

イスラーム国の黒旗のもとに

シリア


(霧山昴)
著者 サーミー・ムバイヤド 、 出版  青土社

2014年夏、ISISがシリアとイラクの広大な領土を制圧したとき、大半の人はこれが短期的な現象で、そのうち消え去ると考えた。しかし、このテロリスト集団は支配を強化し、2014年9月以来のアメリカ主導の大規模な空爆作戦下で生きのびている。
ISISは、裁判制度や機能的な警察部隊、強い軍隊、洗練された諜報機関、国歌そしてアルカイダの黒い幕を基にした国旗といった、国家としての象徴をもうけることで政府を完成させた。石油収入により国庫を満たし、一国家にふさわしい機能を完成させている。
ワッハーブ主義の存在なしにサウジアラビアは誕生しなかったし、ISISが今日、シリアの町ラッカを支配することもなかった。
「サウジアラビアは、依然として、アルカイダや他のテロリスト集団にとって決定的な財政援助の拠点である」(2009年12月、アメリカのヒラリー・クリントン国務長官)
2014年半ばにアブー・バクル・バグダーディーが一躍有名になった背景には、そもそもアラブ世界のスンニー派共同体に傑出した指導者がいないことによる。スンニー派の世界には、自分たちが弱体化し、リーダーもおらず、犠牲となり、見放されたのだという雰囲気がある。
今日、シリアで活動しているジハード主義のグループは、決して新興の勢力などではない。彼らの思想的なルーツは、1940年代半ばに設立されたムスリム同胞国シリア支部にさかのぼることができる。
2011年に戦争が始まったとき、反体制運動を起こした若者の多くは、1982年に犠牲となった人々の子どもや孫たちである。
シリア政府としては、アメリカ軍を標的とする限りにおいて、ジハード主義者がイラクに渡航することにやぶさかではなく、むしろこれを奨励した。このとき、シリア政府は、フセイン政権の崩壊10年後に、ジハード戦士たちが自国を戦場にして戻ってくるとは想像していなかった。
ヌスラ戦線が兵士に支払っていた給料は最大で月400米ドル。これに対してISISは800ドルを支給した。2013年半ばまでに、ヌスラ戦線の兵士の7割がISISに移った。
ISISは、2015年半ば、シリアとイラクに3万5千人から5万人の兵士をかかえ、9万平方キロの領土と600万人を支配している。これはイギリスと同等の領土の所有、フィンランドやデンマークの人口よりも多い。
2010年5月、バグダーディーは、39歳にしてイスラーム国の新しい元首となった。
2011年初めまでに、旧バース党出身者は、バグダーディーの勢力の上位25人の司令官のうち3分の1を占めた。旧バース党の将校は、戦争、コミュニケーション、規律の点で経験を積んだ兵士であった。
ISISが支配する領土では、ヌスラ戦線以上に苛酷だった。
ISISの戦略は、テロリストの戦略と正規軍の歩兵作戦とを結合させた、高度に多角化したものだった。
キリスト教の文化と違って、ISISにとって黒は死や喪服ではない。黒は日常の色である。
ISISの警察の重要な職務は、パン屋が十分に営業し、日々の小麦を供給されているか、ということを確かめることにある。そして、DVDはISISにより厳しく禁止されている。公共の場での刑罰と斬首はISISの領土では一般的である。
ISISの旗の下に、シリアの戦場へ来た外国人は2万5千人前後。外国人戦闘員の平均年齢は25歳。60%が到着時には独身だった。生活基盤ができてから、地元社会の者と結婚する。ヨーロッパ人戦闘員は、シリアのジハードに多数参加している。1万6千人と見積もられている。ISISに参加する若者が週平均5人はいる。
ISISには女性もやって来る。全員がジハードを経験するために、戦うために来たのではない。その多くは、だまされて、やって来ている。多くは、結婚して子どもをうむために来た。
これらの人々がISISに参加した理由は、単にお金のためや、アブー・バクル・バグダーディーの長い剣の脅しのためではなかった。以前の社会がバラバラになって、彼らを振るい落し、腐敗した貧困と無知になかに放置しておいたために参加した。
ISIS(イスラーム国)の実態に迫った本です。とても参考になりました。著者はシリア人です。
(2016年10月刊。2600円+税)

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2016年12月15日

黒い司法

アメリカ

(霧山昴)
著者 ブライアン・スティーヴンソン 、 出版  亜紀書房

この本を読むと、アメリカのような国になってはいけないと、つくづく思います。
アメリカは収監率が世界一高い。総受刑者数は1970年代の初めに30万人だったのに、今は230万人までふくれあがっている。執行猶予中や仮釈放中の人は600万人。
2001年にアメリカで生まれた子どもの15人に1人は、やがて刑務所に行き、今世紀中に生まれた黒人男性の3人に1人が将来投獄される計算だ。
いま死刑囚監房で刑の執行を待つ死刑囚は数千人。
25万人もの子どもたちが成人用の刑務所に送られて長期刑に服している。そのなかには12歳以下の子どもさえいる。3000人近い子どもたちが終身刑を言い渡された。
アメリカは、少年に対して仮釈放なしの終身刑を科すことのできた世界の唯一の国家だ。
薬物犯罪で刑務所に収監されている人は、1980年に4万1000人だったのが、いまでは50万人以上になっている。
アメリカの刑務所にかかるコストは、1980年に69億ドルだったのが、現在は800億ドル。そこで、民間の刑務所建設会社や施設サービス会社は、州政府や地元自治体に何百万ドルと献金して、新たな犯罪を創出し、より厳しい判決を言い渡し、塀のなかにもっと人を閉じ込めろと彼らを説得して、さらにもうけようとしている。
民間企業の利潤追求のせいで、治安を良くし、大量投獄のコストを減らし、そして何より受刑者の更生を促進するという方向に向かうべきサイクルが絶ち切られている。おかげで州政府は公共サービスや教育、医療福祉の予算を刑務所事業に割り振っている。その結果、かつてないほどの財政危機にある。
黒人の死刑囚は、そのほとんどが、全員白人かほぼ白人ばかりの陪審による評決を受けていた。黒人は陪審から排除されてきた。
アラバマ州は、すべての判事をきわめて競争の激しい党派選挙で選んでいる。このような州は、アメリカ全体で6州のみ。
海外の戦争からの帰還兵は戦争のトラウマをかかえて地元となり、刑務所行きになることが多い。1980年代半ばまで、刑務所人口の20%が戦争経験者だった。ひところは、この割合は低下していたが、イラク・アフガニスタン戦争の結果、再び上昇している。
子どもの死刑を認めている国は、アメリカのほか、いくつかしかない。
アラバマ州は、ほかのどの州よりも、世界中のどの国よりも人口あたりの少年死刑囚の割合が高い。アラバマ州では、殺人の被害者の65%が黒人であるのに対して、死刑囚の80%が白人が被害者となっている。
フロリダ州では、2010年までに、殺人ではない暴行罪で起訴された100人以上の子どもが仮釈放なしの終身刑を言い渡された。そのなかには13歳もいた。
13歳とか14歳で終身刑を受けているのは、全員が黒人かヒスパニック系。
アメリカでは、1994年から2000年にかけて子どもの人口が増加したにもかかわらず、少年の犯罪率は下がった。「スーパープレデター」(超凶暴な野獣)が到来するという予言はまったくの間違いだった。
アメリカの刑務所は、いまや精神障害者の「人間倉庫」と化している。大量投獄の主たる要因は誤った薬物政策と過重な量刑にあるが、貧困者や精神障害者をむやみに強制収容したことも、受刑者の記録的増加を招いた原因になっている。
2002年、連邦最高裁は知的障害者に対する死刑を禁止した。知的障害をもつ死刑囚は全国で100人。
2005年、連邦最高裁は子どもの死刑を禁じたが、そのとき死刑囚監房にいた子どもの既決囚は75人ほど。
アメリカでは、女性囚人が1980年から2010年まで646%も増えた。これは男性の増加率の1.5倍。全国で20万人もの女性が収容されており、100万人以上の女性が監視・管理下に置かれている。これらの女性受刑者の3分の2は、ドラッグや窃盗などの軽罪で入っている。女性受刑者の80%近くに未成年の子どもがいる。母親が収監されると、子どもたちは暮らしにくくなる。
いやはや、大変な国ですよね、アメリカという国は・・・。過度の重罰化は、こういう状況を生み出すわけです。寒々とした光景ですが、この本は、そのなかでも果敢にたたかっている弁護士によって書かれていますので、そこに救いがあります。
(2016年10月刊。2600円+税)

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2016年12月16日

トヨトミの野望

社会

(霧山昴)
著者 梶山 三郎 、 出版  講談社

小説となっていますが、トヨタ自動車の近年の動きを刻明に追いかけ、その醜い内部抗争の実情を暴露した実録ものとしか思えません。かといって、門外漢の私には、どこからフィクションなのか、まったく分かりません。
それにしても、日本を代表するトヨタのなかで、今なお創業者の一族が会社をほとんど私物化しているとしか言いようがない状況は、異常ですね。
その政治力は、財政界に強い電力会社の幹部をして、「うちの百倍はある」と悔しがらせるほど凄い。監督官庁の運輸・経産をはじめ、役所関連は東大卒の幹部候補社員を貼りつかせ、大学時代の先輩、同期、後輩から内部情報を収集する。大手銀行のMOF(財務省折衝担当)と同じく、抜群の政治力を発揮している。
プリウス開発に社運を賭け、また、アメリカそしてヨーロッパにトヨタは果敢に進出していくのでした。ところが、内部の人事では、実力派社長であっても、創業者の意向には逆らえないのです。
こんな本を読むと、サラリーマン稼業も楽ではないと、つくづく思います。社内でも群れをなして生きていくしかないのですが、自分の加わった群れのトップが冷め飯を食わされると、下のほうにまで災いは波及してくるのです。
日本航空を舞台にした小説『沈まぬ太陽』をつい思い出してしまいましたが、トヨタには、社会的な活動に目覚めた人がいるわけではありませんので、まったく抗争の質が異なると思いました。
恐らくトヨタ労連というのは、ニッサン労連と同じく連合の主力単産なのでしょうが、連合の最近の言動を見ていると、とても労働者の味方とは思えないものばかりで、残念きわまりありません。
えっ、何が、ですか・・・。だって、連合は原発再稼働に反対していないんでしょ。電力労連に気がねしているんですよね。そして、自民・公明の悪政をやめさせるのには、野党の団結が絶対に必要なのに、相変わらず共産党とは一緒にやれないんなどとダダをこねるばかりで、野党共闘を成立させないようにしているのですから・・・。
トヨタが日本社会を支える最有力の企業だというのは承知していますが、もっと日本社会全体のためになるようなことも考えてほしいものです。
(2016年11月刊。1700円+税)

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2016年12月17日

使用人たちが見たホワイトハウス

アメリカ

(霧山昴)
著者 ケイト・アンダーセン・ブラウワー 、 出版  光文社

アメリカの大統領宮殿はフランスにある古城とそっくりなのだそうです。
この本では、ホワイトハウスの建築デザインのもとになったのは、ダブリンに建つ18世紀のジョージアン様式の邸宅であり、現在はアイルランド議会議事堂として使われているレンスター・ハウスだとされています。どちらが本当なのでしょうか・・・。
そのホワイトハウスの仕組みと、そこに住んでいた大統領ファミリーの実情の一端が明かされています。
ホワイトハウスには132の部屋、147の窓、28の暖炉、4つの階段に3基のエレベーターがある。外からは3階建てに見えるけれど、実はふたつの中三階があり、6つのフロアーから成る。三階と四階がレジデンスと呼ばれ、大統領とその家族の居住スペースになっている。そこに総勢100人ものスタッフが働いている。
アッシャーは、案内係とか門衛と訳されるが、招待客や訪問客を案内する。チーフアッシャーの下で各部門の監督にあたる。メイドや執事(食事の給仕や銀食器の管理などを行う)がいる。ホワイトハウスには、96人の正規スタッフと250人の臨時スタッフが働いている。
スタッフ用のキッチンや貯蔵庫は地階に位置する。
大統領ファミリーのための食材は、身分を隠したレジデンスのスタッフが直接、食材を購入して安全を期す。何よりも匿名性が重要だ。ファーストファミリーのための食材だと誰も知らなければ、食材に毒を盛ろう考える者はいない。
レジデンス内で毒味役はいない。スタッフ自身が毒味役を兼ねる。そして、外で大統領が食事をするときには陸軍の担当者が厨房で監視し、準備や調理に目を光らせ、必ず毒味する。
クリントン大統領夫妻ほど感情的なカップルはいなかった。スタッフは、その激しい感情の起伏をたびたび目撃した。ホワイトハウスに働くことはローラースケートに乗っているようなものだった。
ジョンソン大統領はめったに満足せず、常に怒鳴り声を響かせていた。その気の荒さとあからさまな弱い者いじめのため、ジョンソン大統領と顔を合わせるのを避けるスタッフが多かった。
クリントン大統領が不倫騒動を起こしていたころ、クリントン大統領は、頭を数針も縫うケガをした。ヒラリーが、大統領を本で殴ったのは間違いない。
これって、有名な話ですよね・・・。ヒラリーは、よくカンシャクを起こした。この本にも、そう書かれています。
レーガン大統領は、任期中の75歳ころからアルツハイマー病の兆候が認められていた。そして、大勢のスタッフに囲まれて育っていく子どもたちがいました。思春期の難しい年頃をホワイトハウスで過ごすのは本人にとっても大変なことが多かったようです。
現在のキャロライン・ケネディ駐日大使もその一人です。いろいろ不祥事もあったようですが、すべては闇のなかです。口の固い人のみの職場なのです。
トランプ大統領が、子どもの学校の関係で、しばらくホワイトハウスでは単身赴任生活というニュースが流れていますが、当然なのでしょうね。
(2016年10月刊。2000円+税)

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2016年12月18日

池田屋事件の研究

江戸時代

(霧山昴)
著者 中村 武生 、 出版  講談社現代新書

 幕末の京都に起きた有名な池田屋事件の顛末とその背景について、豊富な資料をもとにぐっと掘り下げた本格的な研究書です。400頁をこす新書ですから、ずっしりとした手応えがありますが、内容も重さに負けていません。
 池田屋事件は元治元年(1864年)6月5日に起きた。そのころ、各地で攘夷浪士による挙兵が相次いでいた。大和の天誅組の乱、但馬生野の変、水戸の天狗党の乱、長州毛利家の率兵状況(禁門の変、蛤御門の変)。
 池田屋事件のきっかけとなったのは、京都・四条小橋西詰真町の桝屋喜右衛門こと古高(ふるたか)俊太郎の逮捕だった。その6月5日の朝、古高(当時36歳)は自宅で新撰組に捕えられた。それを知った長州毛利屋敷は激しく動揺し、新選組の壬生屋敷を襲って、暴力に訴えてでも古高を奪還しようとなった。池田屋に新長州浪士たちが集まったのは、その具体化のためだった。
 なぜ町の一介の商人を毛利家中が見殺しにせず、救出しようとしたのか・・・。それほど、古高は重要人物だった。
新撰組は文久3年(1863年)3月に創立された、京都守護職会津松平容保所属の浪士集団。畿内で暗躍する新長州の浪士集団に対抗するため、会津松平家は同じく浪士集団の必要性を感じていた。
 古高は、皇族・堂上・長州毛利家をはじめとして広く交流しており、情報が集中し、面談場所として解放されていた。したがって、その存在を新撰組を気づくのは必然でもあった。
新撰組が古高を拷問にかけたとしても、その具体的供述によって初めて池田屋襲撃がなされていたというものではない。新撰組は古高の逮捕前から、浪士の潜伏場所として、20カ所あまりを確認していた。そこで、新撰組は、会津藩、一橋家、桑名藩に応援を頼んだから、応援組が遅れたので、待ちきれずに新撰組は行動を開始した。
 桂小五郎も新撰組が池田屋を襲撃した当時、その場にいて、すぐさま脱出して屋根伝いに逃げて対馬屋敷へ入った。
新撰組に襲われて池田屋内で戦死した者が7人か8人いるのは確実だが、それが誰なのか、今なお確定していない。
池田屋事件の直前、近藤勇は新撰組の解放を請願していた。近藤勇は、自分たちを攘夷を行う「尽忠報国」の士と位置づけていた。攘夷が実行されず、京都の市中見回りに配属されるのをよしとしなかった。しかし、禁門の変のあと、変化した。禁門の変のあと、近藤勇は攘夷よりまず長州征討を行うべきだと主張するようになった。そして、一・会・桑(いっかいそう)が近藤勇と新撰組を手離さなかった。薩長にとって政局打開の最前線の敵は、一・会・桑だった。その一・会・桑の最重要軍事力こそ新撰組だった。ここで、たかが150名程度の兵士と考えてはいけない。150名というのは決して少なくないし、軍事的精鋭によって構成されている。
 池田屋事件からまもなく起きた禁門の変で、長州は惨敗する。ところが禁門の変で反長州の立場をとった薩摩が、こんどは一・会・桑とことなり長州の社会復帰を助けた。あくまで毛利家の羽体化を望む一・会・桑との決戦を覚悟したのが、薩長同盟。それが長州征討の失敗につながる、会津が長州と全面戦争を行う覚悟を決めた事件として池田屋事件は位置づけられる。
 5年前に刊行された本です。絶版になっていたので、ネットで古本を入手しました。その後、研究はさらに進んでいるのでしょうか・・・。

(2011年10月刊。1200円+税)

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2016年12月19日

がん(上)(下)

人間

(霧山昴)
著者 シッダールタ・ムカジー 、 出版  ハヤカワ・ノンフィクション文庫

癌についての分厚い上下2冊の文庫本です。
今では多くの癌が死に直結するものではなくなりました。人類の英知の結晶です。この本は、現在に至るまでの医学の進歩をたどっています。
私は、この本を読みながら、人間の身体の神秘性をつくづく実感しました。なにしろ、人間の身体では、いろんな化学的成分がつくられているのです。それを現代科学が少しずつ解明しているわけですが、その対象は、なんと私たち人間の身体の奥深いところでつくられている各種成分なのです。
がんは単一の疾患ではなく、多くの疾患の集まりである。それをひとまとめにして「がん」と呼ぶのは、そこに細胞の異常増殖という共通の特徴があるから。
白血病は、がんのなかでも特別だ。その増殖の激しさと、息を吞むほど容赦のない急速な進行を示す。白血病は、ほかのすべてのタイプのがんと異なっている。白血病にとって、6ヶ月生存したというのは、6ヶ月はまさに永遠とも言うべき長い期間だ。1934年7月、マリーキューリーは白血病で亡くなった。
がん細胞は、正常細胞の驚異的な異形であり、がんは目を見張るほど巧みな侵略者かつ移住者だ。がんでは、無制御の増殖が次々と新しい世代の細胞を生み出していく。
がんは、今日、クローン性の疾患だということが判明している。しかし、がんは単なるクローン性疾患ではない。クローン性に進化する疾患なのだ。変異から淘汰、そして異常増殖という、この冷酷で気の滅入るようなサイクルが、より生存能力の高い、より増殖能力の高い細胞を生み出していく。
平均寿命ののびは、たしかに20世紀初頭にがんの罹患率が増加したもっとも大きな要因だった。
近代的な冷蔵庫が普及し、衛生状態が改善して集団的な感染が減少したため、胃がんの流行は見られなくなった。
がんの全身治療は、あらゆる肉眼所見が消えたあとも、長期間にわたって続けなければならないのが原則だ。
乳がんについて、根治的乳房切除術を受けた患者グループは、重い身体的代償を支払ったにもかかわらず、予後に関してなんの利益も得られていないことが1981年に判明した。今日、根治的乳房切除術の施行は、ほとんどない。
前立腺は、恐ろしいまでのがんの好発部位だ。前立腺がんは、男性のがんの3分の1を占める。これは白血病とリンパ腺の6倍だ。60歳以上の男性の剖検では、3人に1人の割合でなんらかの前立腺の悪性所見が発見される。進行はとても遅く、高齢男性は、前立腺がんで亡くなるのではなく、前立腺がんとともに亡くなることがほとんどである。
たばこと肺がん発症は30年近くも開くことがある。たばこメーカーは、新たな市場として発展途上国を標的にしており、今では、インドと中国における主要な死因はたばこである。
ヘリコバクター・ピロリの除菌は、若い男女で胃がんの罹患率を減少させたが、慢性胃炎が数十年も続いている高齢患者では、除菌療法の効果はほとんどなかった。
エジプト古代王国の時代から、まさしく4000年の歴史をもつ癌治療進化する状況の到達点が実に刻明に紹介されています。
(2016年7月刊。920円+税)

韓国映画『弁護人』をみました。盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領が釜山(プサン)で弁護士として活躍していたときを描いた映画です。韓国では1000万人がみたとのことですが、大変な迫力があり、あっというまに2時間がたっていました。
 主人公のソン・ガンホは、まさしく法廷で不条理を許さないと吠えまくります。見習いたいド迫力でした。
 アイドル・グループのメンバーが拷問を受ける大学生役として登場してきます。彼がやったのは、女子工員を集めた、ささやかな読書会です。私も大学生のころセツルメント活動のなかで、「グラフわかもの」という雑誌の読者会をしていたことがあります。職場の話がどんどん出てきて、大学生の私のほうが聞き役でした。そんな活動をしていると、アカだとして拷問され、国家保安法違反だというのです。
 法廷の内外で裁判官と検察官は仲間として親しく交流しています。憲法も刑事訴訟法もそっちのけで、権力の忠実な番犬としての役割を競って果たしているのです。これって、日本でも同じようなものですよね。
 権力に真向から対決できる弁護人の存在が欠かせないことを明らかにした映画です。ぜひご覧ください。

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2016年12月20日

モンゴル帝国と長いその後

中国

(霧山昴)
著者 杉山 正明 、 出版  講談社学術文庫

チンギス汗の建てたモンゴル帝国は短い帝国だったようで、実は、その影響は実に息の長いものだったことを示している文庫本です。
中国の元朝、大清国は、その後の大発展をふくめて、一貫して名実ともに満蒙連合政権であり続けた。
チムール帝国のあとに第二次チムール朝たるムガル帝国が誕生した。このムガルとはモンゴルのこと。タージ・マハルは第5代ムガル皇帝が17世紀に造営した宮殿。
チンギス・カンの風姿を伝える記録は、なぜか、まことに少ない。孫のフビライの肖像画を下敷きにして今あるチンギス・カンの肖像画が描かれたのではないか。
小柄な人が多かったモンゴル遊牧民のなかで、チンギス・カンは並みはずれた巨軀だった。そして猫のような目をしていて、ただものでは全くなかった。
モンゴル騎馬軍団は、耐久力はあるがスピードの出ない小型のモンゴル馬に乗る。よく飛ぶ短弓で短矢を射る。長弓も大小の弩(ど)も使い、馬上で槍を操る部隊もあった。馬と弓矢の軍団にすぎなかった。
モンゴル遊牧民たちは、きわめて淳朴にして、勇敢で、命令・規律によく従った。モンゴルの第一の強みは、その組織力・結束力にあった。次に、周到すぎるほど周到な計画性がある。外征に先立ち、チンギス・カンこと周辺は、自軍に対しては徹底した準備と意思統一、敵方については、これまた徹底した調査と調略工作をおこなった。たいてい、2年をかけた。できれば、戦う前に敵が崩れるか、自然のうちになびいてくれるように仕向けた。逆に、敵方への下工作や現地での根回しが不十分なまま敵軍と向かいあったときには、しばしば敗れた。
チンギス・カンは猪突猛進のアレクサンドロスのような戦場の勇者ではなかった。見切りの良さと、ころんでも動じない冷静さをもっていた。沈着・平静な組織者であり、戦略眼のたしかな老練の指導者だった。質朴・従順で、騎射の技倆にすぐれた機動軍団を率いていた。
モンゴルは、チンギス・カンの高原統一のころから、既に、どちらかというと戦わない軍隊だった。情報戦と組織戦を重視して、なるべく実戦しない。世にいう大量虐殺や恐怖の無敵軍団のイメージは、モンゴル自身が演出し、あおりたてていた戦略だった。誰であれ、自分たちと同じ「仲間」になれば、それでもう敵も味方もない。
モンゴル軍は、実は、それほど強くもなく、自分たちでも、そのことをよく知っていた。モンゴル西征軍は、ほとんど自損も消耗もせずに西征を続けた。
モンゴルは、モンゴルたる人の命を徹底して大切にした。モンゴル軍における自軍の戦死者をできるだけ回避しようとする態度の徹底ぶりには、驚くものがある。
モンゴル帝国には、あからさまな人種差別はほとんどなかった。能力、実力、パワー、識見、人脈、文才など人にまさる何かがあれば、どんどん用いられた。まことに風通しのよい時代だった。モンゴルは、さまざまな人々が共生する「開かれた帝国」だった。
「モンゴル」なるかたまりが多重構造であっただけでなく、システムとしての帝国も、大カアンの中央ウルスとその他の一族ウルスからなる多元の複合体だった。
イラクのバグダードとは、ペルシア語のバグ(神)がダード(与えた)地だった。アラビア語では「平安の都」と呼んだ。モンゴルのバグダード・イラク統治は、基本的に間接支配をつらぬいた。
チンギス・カンのモンゴル帝国の内実と、ヨーロッパに向けた西征の実態を再認識させられ、大変勉強になりました。
(2016年4月刊。1150円+税)

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2016年12月21日

オリンピックの身代金

社会

(霧山昴)
著者 奥田 英明 、 出版  講談社文庫

舞台は昭和39年(1964年)8月の東京に始まります。東京オリンピックの開幕が目前に迫っている東京です。
私は、この年の4月に高校に入りました。秋の文化祭でゲゲゲの鬼太郎のはりボテをつくった記憶があります。田舎の県立高校ですが、一学年で東大に4人入るという、それなりの進学校でした。
この本は、当時の日本と東京の雰囲気をよく再現しています。
東京オリンピックまであと二ヶ月。道端にいた物乞いたちは、疎開を余儀なくされた。そして、銀座から赤坂にかけて遊んでいるチンピラ連中も街から追い出された。テキ屋団体の東声会の町井会長がオリンピック開催期間中は、東京から出て、海か山で肉体と精神の鍛練をするように命令した。
全国のマイカーが百万台に達し、有楽町あたりでは朝夕に渋滞が起きるようになっている。この夏、東京は未曾有の水不足に見舞われた。給水制限、7時間断水などから、「東京砂漠」と呼ばれた。
そして、そのオリンピックの開催を妨害するという予告の手紙が警察に届いた。警察学校で爆破事件が起き、予告が単なる冗談ではないことが証明された。
犯人は誰か。このころ草加次郎を名乗る男が騒ぎを起こしていた。同一人物か・・・。
これ以上、アラスジを書くのはネタバレになりますし、読む楽しさを奪いますので、止めておきます。昭和39年10月の東京オリンピックに向けて、東京が大改造されていったこと、それを実際に担っていた工事現場では何層もの下請がいて、末端で働く人々は、まるで人間らしい扱いを受けていなかったこと、そこには暴力団が暗躍していたことが上手に織り込まれていて、とても読ませます。
上下2冊、460頁、400頁という長編ですが、飽きさせることなく読みすすめることができました。
2020年の東京オリンピックって本当にできるのでしょうか。海外には、東京の放射能汚染を心配している声も上がっています。実際、これだけ地震が多発していますから、オリンピック期間中に大地震が起きないという保証は誰もできないのです。
一部の人はオリンピックでボロもうけすることになるのでしょうが、もっと他に、オリンピックよりも先に国としてやるべきことがある気がしてなりません。
(2014年11月刊。1400円+税)
 仏検(準一級)の結果を知らせるハガキが届きました。合格です。基準点73点に対して78点でした(120点満点)。つまり6割で合格です。今回は5点だけ上回っていました。ちなみに自己採点は76点でした。
 1月末に口頭試問を受けます。これが鬼門なのです。読んで分かるというのではなく、フランス語で3分間まとまったことを話さなくてはいけません。それも3分前にテーマを与えられて、それについて語るのです。
 ですから、時事ネタについて起承転結をつけて話す訓練をする必要があります。でも、これが難しいのです。
 毎朝、NHKのフランス語講座(応用編)を書き取りして、なるべく暗記するように努めています。
 これが目下の最大のボケ防止対策になっています。

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2016年12月22日

弁護士の経験学

司法

(霧山昴)
著者 髙中正彦・山下善久・太田秀哉ほか 、 出版  ぎょうせい

困難な時代をどう生き抜くか、失敗続きの人生、それでも何とかなる!
オビのフレーズです。本のサブタイトルは、「事件処理・事務所運営・人生設計の実践知」となっています。現役として活動している弁護士全般にとって大変役に立つ内容となっています。
私は、この本に書かれていることの大半について、まったく同感だと思いながら、福岡までの帰りの飛行機のなかで一気に読みあげました。
福岡県弁護士会では、このところ懲戒処分を受ける弁護士が相次いでいます。先日は、福岡県弁護士会自体が監査責任を問われた裁判の判決が出ました。幸いにも弁護士会の監督責任は認められませんでしたが、これをギリギリ詰めていくと、あまりに統制が強すぎて息苦しくなってきます。すると、戦前のように行政の監督下においたらいいとか、強制加入をやめてアメリカのように自由化せよということになりかねません。それは、いずれも権力をもつ人が大喜びする方向です。
自由業としての弁護士と、権力を抑制・監視する存在としての弁護士と、弁護士は独立した存在であり続ける必要と意義があると私は確信しています。そして、強制加入団体としての弁護士会は、その制度的保障なのだと思います。
それはともかくとして、懲戒処分を受けた弁護士には共通するところがあると本書は指摘しています。
虚栄心が強い人、見栄っ張りの人。性格的に弱いため、自制が利かない人が多い。
弁護士の仲間内でも孤立していると危険。IQの高さは関係ない。
弁護士の依頼層は、その弁護士の人格の投影である。
弁護士の誰もが転落するリスクを負っている。それは、弁護士業務が楽しいことばかりではないからだ。苦しいときに独りぼっち。そんなとき、果たしてとどまることが出来るのか。自分は絶対に大丈夫だといっている人はリスクが大きい。
ハッピーな終末を迎えるためには投資も必要。もっとも大切な投資は、自己への投資、とりわけ健康に対する投資である。 
収入を増やし、支出を減らすこと。まとまった大きな収入があったとき、ダメな人は豪遊してしまう。そうではなくて、半分は定期預金にしておく工夫がいる。
弁護士がうつ病にならないためには、依頼者とともに泣かないこと。
依頼者と一歩でも距離を置いていてこそ、冷静な判断が出来ると私は考えています。岡目八目です。
弁護士に対する苦情のなかには、うつ病だとか脳出血の後遺症があるということが少なくない。これは悲しい現実です。
法律事務所をわたり歩く弁護士には、能力のない人、協調性のない人が多い。
この本の前半は、弁護士業務を適正かつ円滑にすすめていくうえで大変参考になることが盛り沢山です。
反対尋問は、弁護士の仕事の花だ。反対尋問は意地悪であることが求められる。わざと順番を逆転させ、予想の裏をかくという工夫もする。
証人尋問のリハーサルのとき、答えまで覚え込ませるのはよくない。それでは学芸会の台本のようになって、緊張感が希薄になってしまう。答えを覚えておこうという意識が先行すると、ちょっとした反対尋問でもボロボロになる危険がある。
クレーマーには、毅然とした対応することが原則。できる限り話は聞く。しかし、それで満足することはない。だから、きちんと当方の見解を述べて対応を打ち切ること。長く話を聞けばよいというものではない。話を聞くのは、喫茶店など、外部の開けた場所が望ましい。密室の面談室で1対1で会うの危険だ。
嘘を言う人。自分が絶対に正しいと言い張る人。ずるい人。自分に都合のいいことしか話さない人。時間にルーズな人。頼んだ書類をもってこない人。話し方がぞんざいな人。自慢話を長々とする人。みな要注意だ。
とても実践的な本です。ご一読をおすすめします。
(2016年12月刊。3000円+税)

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2016年12月23日

腸のふしぎ

人間

(霧山昴)
著者 上野川 修一 、 出版  講談社ブルーバックス新書

腸の時代が到来した。世界中の生命科学者たちが、いま腸に注目している。「サイエンス」誌は、過去10年間の化学上の十大成果の一つに腸内細菌の研究をあげた。
たしかに、いまや「腸内フローラ」という言葉は、どこでもよく目にするものとなっていますよね。
腸は消化管の主役であり、もっとも重要な存在である。
生命体が一つの受精卵からつくられるとき、最初につくられるのが腸である。そして、腸は、からだのなかにある外界である。外部の空間を最大限に内部につくり出している。
ヒトは超雑食性の動物であるが、この超雑食性の獲得には、高度な腸の動きが必須とされる。
腸には、立派な神経系がある。腸の神経系は、消化管の運動をコントロールしている。
腸の免疫系の強大な力には、がん細胞の増殖を強力に抑える働きもある。小腸には、ほとんどがんが見られないが、それは腸管免疫系のおかげだとみられている。
人体の腸内には、100兆個をこえる細菌が星のようにきらめいている。その重さは1キロに達し、1000種以上に及ぶ腸内細菌のほとんどは酸素のない大腸にすんでいる。大腸には、酸素なしでも生きていける生物が充ち満ちている。腸内細菌たちだ。
小腸は長さ5~6メートル、大腸は1.5メートル。小腸の直径は平均して3センチ。
小腸で食物が分解するのに要する時間は2~3時間。
人間が1年間に食べる食物は、1トン近い。これを体内に取り入れて分解し、からだを構成している60兆個の細胞をつくり、あるいは入れ替え、そしてエネルギー源に変えている。
腸神経系は、主として食物をゆっくり適正な速度で、消化管の下方に送るぜん動をコントロールしている。
小腸は、胃の次に位置する消化管の中心的存在である。胃や大腸、その他の消化管がない動物は存在するが、小腸のない動物はいない。
小腸のなかに吸収細胞が1600億個いるが、その寿命は実に短く、誕生して死ぬまで平均1.5日でしかない。
腸は、脳の力を借りることなく、入ってきた食物の情報をもとに自らがなすべき働きを選択している。
大腸には、小腸にある「ひだ」や突起は存在しない。食成分中で大腸が吸収するのは、一部の水分とミネラルだけ。そして、100兆個に及ぶ「腸内細菌」をすまわせて、「共生」関係を築き上げている。腸内細菌がつくる酪酸は、大腸のぜん動運動を刺激し、便秘を解消するという効果をもたらす。
腸は、独自にぜん動運動をし、また消化液を分泌する。これは、腸が「自ら考えている」ことを示すものである。腸と脳は、あるときには連絡をとりあい、また、あるときは無関心を装うという、不即不離の関係にある。
ぜん動運動は、食物の分解、吸収が効率的に行われるよう、腸が独自の判断で行っている物理的な作業である。この運動は、腸独自の判断によってセロトニンなどの神経伝達物質が脳神経系とは独立して放出されることで、日々営まれている。腸が「第二の脳」と呼ばれるのは、複雑なプロセスを経るぜん動運動を脳から独立してコントロールしているためである。
人間のからだのなかで最大の免疫系が腸管に存在する。全身の50%以上が腸管免疫系中に集中している。免疫細胞は、すべて骨髄でつくられた造血幹細胞が変化して出来上がったもの。唾液にふくまれる免疫細胞は、すべて腸管にある免疫部隊の総司令部から派遣されたものである。
腸内フローラを構成する腸内細菌は、平均して4~5日間、体内に滞在したあと、体外に排出される。腸内の有害菌といっても、常時からだに悪い作用をしているわけではない。腸内の状態が悪化して有益菌が減少し、有害菌が異常に増加した場合に、病気の原因となる。
腸内フローラは、「お花畑」の名前に恥じず、整然とした区画割りがなされている。
腸内フローラのバランスを良くするには、規則正しく、栄養バランスのとれた食生活を心がけ、ストレスを解消できる生活スタイルを確立すること。
腸の大切さをよく理解することが出来る本です。
(2015年12月刊。860円+税)

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2016年12月24日

江戸看板図聚

江戸時代

(霧山昴)
著者 三谷 一馬 、 出版  金曜日

 ヨーロッパの街並みと日本の街路との最大の違いは看板にあると思います。色と形、ネオンサイン、電光掲示など、それこそありとあらゆる工夫を凝らした看板が商店の前だけでなく、ビルの壁一面を飾っています。
 夜のイルミネーションの派手派手しさにも独特のものがあります。
 フランスの店も、もちろん看板は出しています。ただ、街並みは厳しい景観規制が働いているようで、あくまで調和優先で、控え目なのです。ですから、落ち着いた気分で街並みを散策することができます。
この本は現代日本の街路にあふれる看板が、実は江戸時代の伝統をきちんと受け継いでいることを如実に証明しています。
 看板の重要性が増すのは江戸が開かれて以降のこと。商業が発展し、京阪の商人は江戸に商品とともに看板を送り、「下り看板」と称して商品に権威づけをした。
 商家が繁盛すると、看板の権威は一層まし、大金をかけて大看板をつくったり、漆や金銀を使った豪華な看板が目につくようになった。
江戸時代の看板は、看板屋のほか、武士、僧侶、学者、書家、作家、画家など、さまざまな人が手がけた。
有名な良寛が書いたものと伝わっている飴屋の看板もある。
看板書きの書体は、唐様(からよう)でもなく、御家流でもなく、さりとて提灯(ちょうちん)屋のものとも違っていた。
「一膳めし」屋の看板もありました。「二八そば」だけでなく、「二六そば」の看板も紹介されています。「貸本屋」もあります。もちろん新刊本を売る店もあります。
よくぞこれだけの看板の図を文献から集めてきたものだと驚きます。
 眺めているだけでも楽しい図聚です。また、江戸時代を知るためには欠かせないものだとも思いました。

 
(2016年9月刊。1250円+税)

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2016年12月25日

南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち

日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 小野賢二・藤原彰・本多勝一 、 出版  大月書店

 1937年(昭和12年)12月、日本軍は激しい南京攻略戦のあと、投降してきた中国軍兵1万5000人を捕虜として国際法に定められた処遇をすることなく、揚子江岸で12月16、17の二日間で殺害した。それは、2ヶ所で3分割して行われたとみられる。
 抵抗できない捕虜集団を機関銃で一斉掃射を操り返して皆ごろしにしたあと、遺体を石油をかけて焼却し、揚子江に流した。
このとき関わった日本軍の将兵の陣中日記が掘り起こされ、活字になったのが本書です。いかにもむごい内容が、小さな手帳などに刻明に、また淡々と書き込まれています。
 この日誌をつけていたのは、南京占領直後に捕虜の大量殺害を行った第十三師団の山田支隊に属していた下級将校と兵士たち。第十三師団は日中全面戦争に拡大した1937年9月に動員が下冷され、新しく編成された特設師団。
特設師団とは、平時から常備兵力として設置されている常設師団にたいするもの。
山田支隊は、歩兵第百三旅団長・山田少将の率いる歩兵三大隊、山砲兵一大隊を基幹とする部隊。歩兵は、会津若松で編成された歩兵六十五連隊、山砲兵は越後高田で編成された山砲兵第十九連隊の三大隊だった。兵士の大部分は現役満期後5年から15年も過ぎた30代の後備兵が主体だった。
特設師団が中国へ動員されたのは、上海戦における中国軍の抵抗が激しく、日本軍が思いもかけない苦戦を強いられたから。上海付近の中国軍は、堅固な陣地に拠り、抗戦の意識に燃えて果敢に戦った。
 たしか、このとき、中国軍はドイツ軍の兵器を供給され、ドイツの軍事顧問国による指導を受けていたと思います。
そのため、日本軍には死傷者が続出し、砲弾まで不足してしまった。そこで、日本軍は急遽、兵力増派に踏み切った。
後備兵が30代ということは、すでに結婚して3人とか4人の子どもがいて、一家の中心となっている人たちだった。師団の将校も幹部候補生出身の予備将校であった。
 上海戦での日本軍の損害は甚大であったから、各部隊とも多数の補充を必要とした。このため、次々に補充兵が各部隊ごとに送られていった。
江南の広い地域に、部隊を追いかける補充兵の集団がなだれのように進んでいった。寄せ集めの補充兵たちを先任の引率者が引き連れていく。さらに、南京への進撃が急なため、後方補給の準備はほとんどなく、兵站(へいたん)線がきちんと確保されてはいなかった。そのため、補充兵の集団は、それぞれ食料の現地微発をくり返しながら進んでいった。これも、掠奪、暴行、強姦などの蛮行を起こしやすい原因となった。
家族を愛し平凡な日常生活を送っていた農民や市民が侵略戦争の最前線に立たされ、微発と捕虜殺害を繰り返していく中で、いつのまにか残虐行為に手を下すことに何のためらいも感じなくなっていた。
 下級将校や兵士の日記のほうが高級指揮官や参謀の日誌よりも、よほど信用できる。というのは、高級指揮官や参謀の書いたものには自己顕示欲にあふれているものが多い。それに対して、他人の目を気にせずに書かれた将兵の日誌の方が、よほど信用できる。
 日本人は、昔から活字が大好きで(文盲は、戦前もごくわずか)、日記をつけるのも大好きです。私も、小学4年生のころの絵日記帳を今も「宝」のように大事にして残しています。
 「12月16日、捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し、これを射殺する。
 12月17日、2万以上のこととて、ついに大失態にあい、友軍にも多数死傷者を出してしまった」
 「12月17日、夜は第二小隊が捕虜を殺すために行く。兵を半円形にして機関銃や軽機で射ったと。そのことについては、あまり書けない。
 一団7千余人、揚子江に露と消ゆるようなことを語っていた」
 「12月18日、 昨夜までに殺した捕虜は約2万。揚子江岸に二ヶ所に山のように重なっているそうだ。
 12月19日、揚子江岸の現場に行き、折重なる幾百の死骸に驚く。石油をかけて焼い たため、悪臭はなはだし」
 「12月16日、捕虜総数1万7025名。夕刻より軍命令により捕虜の3分の1を江岸に引出し射殺する」
 「12月16日 捕虜、三大隊で三千名を揚子江岸にて銃殺する」
 捕虜となった中国軍の代表から、書面が届けられたこと、それを転記した少将がいました。投降軍の臨時代表は、4日以上も我々はひもじいい思いをしている。故郷に返してほしいと願っています。
日本軍は、捕虜に与える食糧を持っていませんでした。この日記を読めば、南京大虐殺が幻とか嘘だったなど、絶対に言えません。
 日本軍の将兵は日本に帰ってきたとき、自分の書いた日記もちゃんと持ち帰っていたのですね。大変貴重な記録集です。
私たち現代の日本人も、自分がやったことではないとウソぶいて戦前(戦中)の日本軍のした蛮行から目をそらすわけにはいきません、負の遺産もきちんと受け継ぐことが、明日の平和を確保することにつながるのです。
 
(1996年3月刊。582円+税)

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2016年12月26日

あきない世傳・金と銀(一)(二)

江戸時代

(霧山昴)
著者 髙田 郁 、 出版  角川春樹事務所

 うまいです。読ませます。しびれます。いえ。身も心も温まります。小説って、こうじゃないといけませんね。私は、感嘆のあまり、一人でなんども頭を上下させました。
 大阪の商人の世界にけなげな少女が入っていき、商人として成長していく過程が刻明に描かれていきます。主人公は幸(さち)という女の子です。学者だった父が早く死んだため、大阪の呉服商「五十鈴(いすず)屋」に女衆として奉公することになります。その女衆とは、要するに女中です。店の商売にはタッチせず、あくまで裏方として働くのです。ところが、主人である三代目徳兵衛が早くに病気でなくなったことから、呉服商は経済危機に陥ります。そこに幸が活躍する道が開けてくるのです。
 幸の父親は、商売なんかに関わるなと言っていました。
「自らは何も生み出さず、汗をかくこともせず、誰かの汗のにじんだものを右から左へ動かすだけで金銀を得るのが商人だ。商とは、即ちいつわり(詐)だ」
 これに対して「五鈴屋」の番頭は幸に次のように諭します。
 「真っ当な商人は、正直と信用とを道具に、穏やかな川の流れをつくってお客に品物を届ける。問屋も小売も、それを正業に生きるから、誰の汗も無駄にしないように心を砕く。それでこそ、ほんものの商人なのだ」
 そして、幸がついに「五鈴屋」の商売再建へ乗り出していくのです。このころ呉服商は店売りではなく、なじみの客を訪問して注文をとってきて売る方式のみ。ところが、近江商人が現銀掛値なしの店売りを始めたのでした。
 「五鈴屋」も一度やって、在庫を一掃することができました。では、すぐにこちらに乗りかえるかと思うと、そんな簡単に商売の方法を変えることにはなりません。
幸は、呉服屋仲間に認められるのに成功したのですが、それは「商売従来」を暗唱できたからです。
「挨拶、あしらい、もてなし、柔和たるべし」
見事なストーリー展開です。簡単に読み飛ばすのがもったいないほど、江戸の呉服商の世界にぐいぐいと引きずりこまれていきました。まことに、いい小説とはありがたいものです。読み終えると、気分がはつらつとしてきます。続編が楽しみです。

 
(2016年3月、8月刊。580円+税)
東京銀座の映画館でデンマーク映画『ヒトラーの忘れもの』をみました。
第二次大戦中、デンマークを占領していたナチス・ドイツ軍は連合軍の上陸作戦を防ぐためにデンマーク海岸だけでも200万個という大量の地雷を敷設しました。
終戦後、その大量の地雷の処理を捕虜になったドイツ兵にやらせたのです。
2000人のドイツ兵が地雷処理にあたらされたのですが、その大半が15歳から18歳までの少年兵でした。そして、地雷処理はとても危険な作業であるため、慣れない少年兵の半数近くが死亡ないし重傷を負ったのでした。
この映画は、デンマーク国民すらあまり知らない歴史的事実を忠実に再現しています。ははじめはナチス・ドイツ軍が餓死しようが爆死しようが当然だと考えていたデンマーク軍の軍曹が、大ケガしたドイツ兵が「ママ、ママ」と泣き叫ぶのを見て、ああ、やっぱり、まだ子どもなんだと思い考えを変えていくのです。
とても見ごたえのある映画でした。
福岡県大牟田市にあった連合軍捕虜収容所の所長だった日本軍中尉が戦犯として処刑された事実がありますが、それを映画にしたようなものでしょうか。この国では、そんなことはタブー視され、「自虐史観」だとか野次を飛ばされて、まともな議論すら許されません。
おかしな日本になってしまいました・・・。

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2016年12月27日

なぜ弁護士は訴えられるのか

司法

(霧山昴)
著者 升田 純 、 出版  民事法研究会

 弁護士が元依頼者から訴えられることが珍しくはないという時代になりました。アメリカでは弁護士過誤を専門とする弁護士までいると聞いたことがあります。
 医療問題を専門に扱う弁護士団体(研究会)が日本でも活動していますが、アメリカと同じような状況になるのでしょうか・・・。
 実は、私も元依頼者から訴えられた経験があります。代理人として誠心誠意やったつもりでも、結果が悪ければ、依頼した弁護士に八つ当たりしたくなるのでしょう。ちゃんと期日前に準備書面を作成して裁判所に提出し、証人尋問の打合もきちんとし、期日の報告を欠かさなくても、結果が出ないと責任を取れ、払った着手金を返せと迫られるのです。もちろん私は弁護士過誤保険に加入していますから、過誤があったとなれば、保険の適用を受けて保険会社に賠償金を代わりに支払ってもらいます。でも、結果が悪かったから着手金を戻せと言われたら、たまりません。
 その事件の反省点は、そもそも受任すべきではなかったし、相性が悪いと思った時点で、途中でさっさと辞任しておくべきだったということです、なんとなくズルズルと判決までいったのが失敗でした。
 この本は、弁護士が訴えられた218の裁判例を分類し、判決の意義と指針を短くコメントしています。といっても680頁もの大作です。
 驚くべきことに、裁判官が事件担当の弁護士の主張について名誉棄損の不法行為が成立するとされた判決があるのです(控訴審は否定しました)。
 「本件訴訟は裁判所の適法な訴訟活動に対して因縁をつけて金をせびる趣旨であり、荒れる法廷と称する現象が頻発した時代にもあまり例がないような新手の法廷戦術である」その裁判官は、このように書いたのでした。目を覆いたくなるほどのひどさです。
 この本には、「中には社会常識を逸脱した言動、根拠を欠く言動、粗暴とも思われる言動をする裁判官も見られるのも現実である」としています。
 たしかに、私も30年ほど前には、よく見聞しました。私がこの10年来、困るのは、枝葉にとられ、形式ばかり細かくて、大局観に乏しい裁判官、強いものや権力に歯向かう勇気のない裁判官、やる気の感じられない投げやり姿勢の裁判官が目立つことです。
弁護士は、どのような場合に法的責任があるとされるのか、多くの判例を集めて分析している貴重な労作です。


(2016年11月刊。6900円+税)

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2016年12月28日

武器輸出と日本企業

社会

(霧山昴)
著者 望月衣塑子 、 出版  角川新書

 いま、安倍政権は自衛隊をアフリカに派遣して、ついに武器の本格的行使を認めましたが、同時に、国内で製造した武器の海外への輸出まで認めてしまいました。
 2015年10月、防衛省の外局として防衛装備庁が発足した。武器の研究開発から設計、量産、調達、武器輸出までを一元的に担う組織である。
 「平成のゼロ戦」とも呼ばれるXZは、防衛省と三菱重工が349億円かけて研究開発した。
フランスの武器見本市に日本の企業13社が初めて参加した。
2012年度の装備品の調達実績で、三菱重工についで2位となったのは1632億円を受注したNEC。2013年度、富士通は、第6位となる400億円を防衛省と契約した。武器製造や輸出でもうけたい企業は、海外の企業を買収して子会社とすれば規制をはずれ、やりたい放題になる。
防衛産業はボロもうけかと思うと、案外、そうでもないというのです。本当でしょうか・・・。受注は少量で、品種は多岐にわたる。
防衛産業が積極的に武器製造につき進めない三つの理由。
一つは技術が海外に流出してしまうことの心配。
 二つは、武器を売ることによるリスク。
 三つ目は、人殺しのための武器を売ることへの心理的な抵抗。
 軍需産業に従事する人間はテロの対象として狙われることになる。欧米の軍事企業のトップは、アルカイダの暗殺者リストに常にのっている。海外出張のときは、いつも警護要員をつけている。
 日本企業が製造する武器価格は、国際価格の3~8倍。それは、限られた数の企業が、防衛省という顧客だけを相手として武器を開発し、納入してきたため、量産体制がとれず、開発費がふくれあがってきたためだ。
いま、欧米の軍事企業が何で一番儲かっているかというと、ミサイルと弾薬。中東全域で戦争になっているため、精密な誘導弾は大増産されている。
日本はオーストラリアへの潜水艦輸出に失敗した。潜水艦は、実は最先端の技術が盛り込まれた武器であり、国家機密の集約体と言える。ハンドルも弁も、全部が機密になっているという世界だ。潜水艦用のリチウム電池も秘密の魂だ。音の出ないポンプがあるが、特許もとっていない。それほどの秘密だ。
 10式戦車は10億円に近い。哨戒機P1は一機169億円。救難機US2は一機112億円。F2戦闘機は一機131億円。ひゅうが型護衛艦は一隻973億円、89式小銃は一挺28万円。12.7ミリ重機関銃は一挺537万円。
日本の武器は、戦車は欧米の3倍、機関銃は同じく8~10倍。そのうえ、海外での実戦経験に乏しく、値段が高くても、性能は実証されていない。
 日本の防衛市場は、2兆円。日本の全工業生産額250兆円の0.8%にしかすぎない。大手防衛企業の軍需依存率は、最大手の三菱重工で11.4%、川崎重工が14.0%。10%を超えるのは、この二社だけ。日立造船9.6%、日本電子計算機8.5%、コマツ8.4%、IHI6.7%、三菱重機4.1%、東芝1.1%、NEC1.1%。
アメリカ軍は、2000年以降、日本国内の26の大学の研究者へ合計して1億8000万円も提供している。
 軍事共同なんて、おぞましい限りです。日本でも無人偵察機グリーバルホークをアメリカから導入するといいます。総額1000億円もの高い買い物です。ところが、この無人攻撃機のオペレーターの兵士は極度の精神的ストレスに悩まされているといいます。連日、画面を見ながら人殺しをしているのですから、当然ですよね・・・。
 日本の軍事産業の実態と問題点がコンパクトな新書によくまとめられています。

(2016年7月刊。800円+税)

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2016年12月29日

炭坑美人

日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 田嶋 雅己 、 出版  築地書館

 1987年から1991年にかけて、筑豊中を著者が駆けめぐって、元女坑夫だった150人ものお婆ちゃんたちを取材した本です。そのほとんどが顔写真を撮らせてくれたので、坑夫生活の様子が顔写真とともに紹介されています。炭坑美人と銘うった本になっている所以です。
 筑豊に炭坑が栄えるようになったのは、明治20年代から30年代にかけてのこと。もちろん戦後まで続いた。この100年間に掘り出された石炭は8億7000万ドルに達する。
赤い煙突目あてにゆけば、米のまんまがあばれ食い
当時の採炭はツルハシを使って石炭を掘る、男の「先ヤマ」と、その「先ヤマ」によって掘り出された石炭をスラと呼ばれるソリ状の箱やテボ・セナといった、竹でできた籠を使って運びだす「後ろ向き(あとむき)」を、もっとも小さな単位として成り立っていた。
闇夜よりもまだ暗い、真っ暗闇に下がった女坑夫の多くは、この「後向き」と呼ばれる労働に従事した。
女坑夫たちは、早ければ9歳から、15歳になれば公然と坑内に下がって働いていた。
 戦争が終わって、アメリカの時代になって女ごは坑内に下がることがでけんごとなった。ワシは喜んだばい。もう、これで明日から坑内に下がらんでいいと思うてね。そいき、日本は戦争に負けて本当に良かった。女ごは坑内なん下がっちゃあならん。
私も一度だけ、たった一度だけですが、炭坑の坑内に下がったことがあります。海底深くの切羽(きりは)までたどり着くのに1時間以上もかかりました。坑内電車に乗り、マンベルト(ベルトコンベアーに人間が座れるようになっています)に乗って、徒歩で真っ暗闇のなかを歩いていくのです。漆黒の闇です。もちろん、頭上にはキャップランプがついているので、行く先だけはなんとか見えるのですが、深い闇の中に入っていくのは本当に怖いものです。一度で私はこりごりしました。
 それでも、坑内は夏は涼しいし、冬は温(ぬく)い。慣れてしまえば、坑内ほど、いやすいところはないとたい。三日間、坑内にずっといたこともある。
一度は天井がバレて、2日ぐらい閉じ込められたこともあった。坑内では函がどまぐれてペチャンコになって死んだ人もおりなすった。そんなのは、よう見るくさ。恐ろしかったら坑内には下がられん。人が死んだ現場の横で明けの朝には炭を掘らんとやからね。
 ボロクソに怒られながら、地の底で虫ゲラのごとく働いていて、本当に情けない。坑内は暗い。いくら泣いても涙も分からない。涙と汗と炭塵で体中が真っ暗になる。上半身は裸なので、もうとても女の姿なんかじゃない。
 朝鮮人は何の訓練もなしに働かされていた。入坑するのも風呂に入るにも見張りがついていた。耐えかねて逃げ出しても、たいていは捕まる。すると、全員が見ている前で、ビシビシ叩いて水をザブザブかける。見せしめにするため。
 坑内では、男はもうヘコも何もせん。みんなフリ出しばい。娘たちはズロースだけは履いちょったばってん、オバサンたちなん、なんもはいちょらん。下から見れば、まるっきり見えるとやき。そげなふうで、昔は、みーんな裸。スッポンポン。そいで、シモの話ばっかりしよるきなぁ。坑内下がっとるときは面白かったよ。笑うげなことばっかしたい。
生理のときも休まず働いていた。
戦前の筑豊の炭鉱の驚くほど生々しい実態がよくぞ紹介されている、貴重な聴き取り集です。


(2000年10月刊。2500円+税)

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2016年12月30日

チェロと宮沢賢治

日本史(大正)

(霧山昴)
著者 横田 庄一郎 、 出版  岩波現代文庫

花巻にある宮沢賢治記念館には何度か行きました。『注文の多い料理店』とか『銀河鉄道の夜』とか、味わい深いものが多いですよね。『セロ弾きのゴーシュ』もよく出来ていると思います。
この「セロ」というのは、チェロのことです。昔はチェロのことをセロと言っていたのが、いまの日本ではチェロのことをセロというのは、この『セロ弾きのゴーシュ』のみ。そうなんですね・・・、改めて知りました。
宮沢賢治にとって、チェロは身近な楽器だった。賢治のもっていたチェロの胴の中には、「1926、K、M」という署名が入っている。
賢治は、自分用にチェロを買った。そして、一生けん命チェロを弾いて練習した。
賢治は労農等のシンパだった。労農党の活動家から賢治はレーニンの『国家と革命』を教わった。勉強に疲れると、レコードを聞いたり、セロをかなでた。賢治は羅須地人協会時代において、まぎれもなく労農派のシンパであり、協会はその運動を実践するためのものだった。
宮沢賢治がレーニンの『国家と革命』を学んでいたとは初耳です。私も大学生のころ、一生けん命にレーニンの本を読み、深い感銘を受けました。
宮沢賢治が亡くなったのは1933年(昭和8年)9月21日、37歳だった。その葬儀には2000人の会葬者があった。二・二六事件(1936年)の3年前のことですね・・・。
賢治の弾くチェロを聞いた人は、下手だったと評します。
「ベーベー、ブーブーって、馬の屁みたいな音を出して・・・」「彼の演奏は、ぎいん、ぎいんの域から脱け出るけしきはなかった」
賢治は、なにしろ運動神経が鈍かった。しかし、賢治はチェロを弾きたかったのだ。
生涯独身だった賢治は、チェロを「俺のカガ(妻)」とも言っていた。
『セロ弾きのゴーシュ』のゴーシュとはフランス語。下器用な、下手な、ぎごちないという言葉だ。
賢治とチェロの関わり、そして、社会との関わりについて、いろいろ知ることが出来ました。花巻の賢治館は必見の場所です。まだ行ってない人は、ぜひ足を運んでみて下さい。
(2016年3月刊。1180円+税)

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2016年12月31日

シェイクスピア

イギリス

(霧山昴)
著者 河合 祥一郎 、 出版  中公新書

ヒトゴロシの芝居をイロイロ書いた。シェイクスピアが生まれたのは、1564年4月23日ころ、亡くなったのは1616年4月23日。52歳で死んだことになる。1616年は、徳川家康が死んだ年でもある。
シェイクスピアは、生涯にわたって王族のカリスマ性に圧倒され、それを舞台でも表現しようとした。
シェイクスピアは、20歳の若さで三児の父親だった。当時のイギリスでは、劇の作者が誰なのかは、あまり問題にされなかった。それは江戸時代初期の歌舞伎の狂言作者と同じだった。そして、当時の台本は、何人かの書き手が共同で一冊の台本を書き上げることが日常茶飯事だった。
世の中の大きな流れにくみせず、少数派の見方も否定しないのがシェイクスピアの書き方。『ヴェニスの商人』には、当時蔑視されていたユダヤ人の視点も取り入れ、キリスト教徒たちの偽善性が暴かれている。
シェイクスピアは1604年、薬屋を35シリング10ペンスの不払いと10シリングの賠償金を求めて裁判に訴えた。シェイクスピアは、金銭に細かい人物だった。そして、当時のイギリスは、こんなことでも裁判沙汰にするほど訴訟が日常茶飯事だった。
シェイクスピアは1616年4月23日に亡くなったが、死の3ヶ月前に遺書を書いている。したがって、病死したと考えるのが自然だ。
シェイクスピアの演劇に幕は必要なかった。大掛かりな舞台装置は使われず、いわゆる場面転換もなかったからである。
張り出し舞台で、平土間には客席がない。つまり、客は立って観劇していた。
シェイクスピアの舞台は狂言と同じで、幕のない張り出し舞台で、女優も登場しない。女役は少年俳優が演じた。
シェイクスピアの劇をはじめ、エリザベス朝の演劇では、変装が頻繁に用いられた。76%もの劇で変装が用いられている。ただし、変装は基本的に喜劇的な手法であるため、悲劇では、あまり用いられない。
日常生活ではロゴス(理性)に支配されることが多いが、演劇は理性と対立する感性の世界においてその力を発揮する、そして、そこでもっとも重要となるのは想像力だろう。それは、ときに新たな現実そのものをも生み出す力さえ持っている。
さまざまな人々の生きざまを描いてきたシェイクスピアが最後に到達したのは、「信じる力」の大切さだった。いかに生きるか、それが問題だ。
久しぶりにシェイクスピアを読んでみたくなりました。
(2016年6月刊。820円+税)

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