弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦後)

2023年1月 9日

抑留記

(霧山昴)
著者 竹原 潔 、 出版 すいれん舎

 著者は1906年生まれなので、日本敗戦(1945年)時は39歳。陸軍士官学校を卒業した職業軍人で、陸軍中佐。情報関係の将校として、アガバ機関という特務機関長も務めている。日本に帰国したのは1956年12月なので、11年もシベリアに抑留されていた。山崎豊子の『不毛地帯』のモデルの一人とのこと。
 シベリアのラーゲリ(収容所)でも日本軍の中佐としての誇りを捨てず、ロシア人を「ロスケ」(露助。ロシア人に対する蔑称。日本人に対するジャップのようなもの)と呼んで恥じるところがない。
 著者はなぜ日本が侵略戦争をしたのか、満州を支配した日本軍が何をしたのか、驚くほどまったく反省していません。日本軍は強かったと「ロスケ」に言われて、得意然としています。そんな致命的弱点がある体験記なのですが、人間としての誇りは失わないという点は、最近の映画「ラーゲリより愛を込めて」の主人公・山本幡男に共通するところがあり、共感できるところも少なくないのです。つまり、戦争というものの非人間性をこの本も明らかにしています。
 日本の敗戦直後、師団参謀として金策するのにアヘンを確保し、それを蒙古人に売っています。そこでもアヘンの害悪という点は、まったく念頭にありません。日本人将兵1万人を救うのが先決だという発想であり、論理なのです。
 著者のアガバ機関というのは、蒙古系のブリカート人を保護・育成して、ソ連軍に対抗する勢力として利用しようという仕事をしたようです(もちろん失敗しています)。
 ノモンハン事件でソ連軍の捕虜となり、日本軍に戻れず、やむなくブリカート人になってしまった日本人も登場します。これも、日本軍の限界というか、弱点なのですが、著者は、何ら問題としていません。
 シベリア抑留では、たくさんの日本人がソ連側のスパイになるよう勧誘されたようです。著者は情報将校として、スパイの接し方、利用したり裏切らせたりしています。さすが・・・です。
 著者は50歳のとき帰国し、1982年に76歳で亡くなっています。
ソ連のラーゲリで12年も生き抜いた囚人が生き抜く心得を三つあげた。その一つは、できるだけ働かないこと。殺人的なノルマをこなそうとしたら、その代償は死。その二は、犬(スパイ)に気をつけること。犬はどこでもいる。地位の維持、保身のため、つくり話を当局にたれこむ。その三は、人とはケンカをしないこと。人を殺すのなんか、なんとも思わない囚人が少なくない。
 ラーゲリの食事は、1日300グラムの黒パンと、わずかばかりの豌豆(えんどう)スープだけ。ソ連は、日本軍元兵士だけでなく、満州国の官吏、満鉄の職員、そしてフツーの市民までスパイ容疑でシベリアへ連行し、強制労働に従事させた。
 シベリアのラーゲリに収容されると、虚脱状態になって、元兵士たちを指導するなんて、とてもできない師団長や参謀たちがいた。それに対して、著者は敗戦の虚脱状態から抜け出させて、軍記厳正、志気旺盛の兵隊に戻そうとしたのです。
なかなか迫力満点の体験記でした。ご一読ください。
(2022年8月刊。税込4400円)

2023年1月 6日

「収容所から来た遺書」

(霧山昴)
著者 辺見 じゅん 、 出版 文春文庫

 映画「ラーゲリより愛を込めて」を見ましたので、その原作を読みました。映画と原作とでは大筋は同じですが、細部は少し違っています。ここでは映画をみていない人には申し訳ありませんが、ネタバレになることをお許しください。
 タイトルにある「遺書」とは、シベリアに抑留された元日本兵が収容所(ラーゲリ)で病死する前に家族あてに書いたものです。映画でも、その内容の一部が紹介されています。というか、その遺書の内容と、それがどうやって日本にもたらされたのかが、この映画のメインストーリーです。本当に心を打たれました。
 遺書の1通目が遺族宅に届けられたのは、本人が亡くなってから3年目のことでした。そして、最後の7通目は、なんと本人が亡くなって33年たってのことです。
 初めの6通は、届けた人が記憶して再現したもの、7通目は、糸巻にカムフラージュしてソ連の収容所から持ち帰った現物です。シベリア抑留が違法なことであると自覚していたソ連は、収容所から一切の文字の持ち出しを厳禁していました。それで、収容所仲間は、分担してみな必死で本人の遺書を頭に暗記したのです。遺書のなかでも出色なのは、なんといっても妻に宛てたものです。泣けてきます。
「妻よ!よくやった。実によくやった。殊勲甲だ。その君を幸福にしてやるために生まれ代わったような立派な夫になるために、帰国の日をどれだけ私は待ち焦がれてきたことか。一目でいい、君に会って胸いっぱいの感謝の言葉をかけてやりたかった。ああ、しかし、とうとう君と死に別れてゆくべき日が来た。君は不幸つづきだったが、これからは幸福な日も来るだろう。君と子どもらの将来の幸福を思えば、私は満足して死ねる。雄々しく生きて、生き抜いて、私の素志を生かしてくれ。私は君の愛情と刻苦奮闘と意思のたくましさ、旺盛なる生活力に感激し、感謝し、信頼し、実に良き妻をもったという喜びにあふれている。さよなら」
 心の震える、いい映画でした。そして、原作もいいものです。両方とも強くおすすめします。
(2022年7月刊。税込715円)

2022年10月22日

満州崩壊


(霧山昴)
著者 楳本 捨三、 出版 光人社NF文庫

 1945年8月9日未明、ソ連軍は日ソ不可侵(中立)条約を無視して、満州に侵攻してきた。対する日本軍(関東軍)は「無敵」として自称していたが、精鋭部隊を南方の戦線に転出していたので、「根こそぎ動員」によって人員こそ75万人の兵隊がいたものの、軍備が伴っていなかった。充分な兵器なしで兵士が戦えるわけがない。
この本には、なので、ソ連軍は「わずかな抵抗を受けたにすぎなかった」としています。それでも、朝鮮との国境地帯では地下要塞にたてこもって18日間も耐え抜いたとか、西側のモンゴルとの国境近くのハイラルでも関東軍は必死で抵抗したようです。なので、「わずかな抵抗」というのは全体としてみたら、ということなのでしょう。
 ソ連軍は侵入に際して、関東軍の猛抵抗を予測して、シベリアの凶悪な無期徒刑囚からなる囚人部隊を2ヶ国、最前線部隊として編成したという風説が紹介されていますが、歴史的事実としては間違いだとされています。たしかに囚人部隊はいましたが、それは経済犯の囚人が主体だったとのことです。
 ソ連軍による満州支配は略奪・強姦が頻発して悲惨な状況にあった。それでも、個人としてのソ連兵は、素朴で親しみのもてる者が少なくなく、例外なく子どもが好きだった。
 ところが、公人としてのソ連軍将兵の言うことは嘘が多く、約束は多く守られなかった。
 満州に中国共産党(中共)軍が進入してきたとき、満州(戦後は東北地域)の人々は、中共軍を恐怖的存在とみた。しかし、次第にそれは薄れていった。
 戦後中国では、さまざまなグループは張りあっていて、お互い諜報活動が活発だったようです。満州国がソ連軍の侵攻によって崩壊していく過程がリアルに解説されていて、よく分かりました。
(2022年9月刊。税込924円)

2021年6月24日

朝鮮戦争を戦った日本人


(霧山昴)
著者 藤原 和樹 、 出版 NHK出版

朝鮮戦争が始まったのは1950(昭和25)年6月。当初は進攻してきた北朝鮮軍に米韓軍は一方的に敗退していた。それは、アメリカ軍(マッカーサー)が、北朝鮮軍の実力を過小評価し、自国軍を過大評価していた過信によるもの。
中国人民義勇軍は90万人、北朝鮮軍は52万人が死傷した。国連軍として死傷した40万人のうち3分の2は韓国軍と警察。市民の死傷者は300万人以上。
この本は、アメリカの国立公文書館にある極秘文書(1033頁)が開示されたものを丹念に掘り起こしている。アメリカ軍が、朝鮮戦争に従軍していた日本人を日本本土に送り返して尋問した記録(調書)を紹介している。
70人以上の日本人が朝鮮戦争にアメリカ軍と一緒に従軍していた。彼らは在米日本人でも日系人でもなく、生粋の日本人。日本国内でアメリカ軍基地でボーイとして働いていたような人たち。たとえば、両親を失った孤児。アメリカ軍から見捨てられたら、たちまち失業して、生活の目途が立たなくなる20歳前後の青年たちだった。
アメリカ軍の下で働く日本人の給料は良かった。日当450円、月に1万3500円になった。このころ(1951年)の公務員の初任給は6500円なので、倍以上。
アメリカ軍と一緒に朝鮮半島に渡り、朝鮮戦争の最前線に投げ込まれた。そこでは、前線も後方兵站もなく、周囲の全部が敵(北朝鮮軍だったり中国軍)だった。なので、銃をとって戦ったが、あえなく敗退して、アメリカ兵と一緒に捕虜になった日本人もいた。
朝鮮戦争の初期の激戦地がいくつか登場します。日本人たちもその戦場にいたのです。
たとえば大田の戦い。1950年7月14日から21日にかけた戦闘。国連軍(アメリカ軍)の劣勢を象徴するもの。この大田の戦いで第19歩兵連隊(3401人)は650人の死者を出した。そして、ディーン少将まで捕虜となった。あとで捕虜交換でアメリカに戻ったディーン少将には、戦場でがんばったとして名誉勲章が授与された。ここが、旧日本帝国軍との圧倒的な違いです。
多富洞(タプドン)の戦いは、1950年8月1日から9月24日まで55日間にわたって続いた激戦。9月15日の仁川上陸作戦によって、一気に形勢が逆転した。『多富洞の戦い』(田中恒夫、かや書房)という430頁の本に戦闘の推移の詳細が紹介されています。その過程での「架山(カサン)の戦い」においても日本人が戦死したのでした。
日本人を朝鮮戦争に参加させることは、日本人の出国を原則として禁じていたGHQの占領政策に違反している。それで、日本に送還した。兵士だった日本人を尋問したのは、アメリカ軍に従軍した理由を記録して、日本人の口を封じることで、従軍を許可したアメリカ軍の部隊司令官を守るためだった。
公文書館の尋問記録とあわせて、アメリカまで生存している元米兵にインタビューしています。朝鮮戦争の地上戦に日本人の青年が70人ほども参加していたこと、強制ではなく、いわば食べるために志願していったことなどの事実を知ることができました。世の中は、本当に知らないことだらけです...。
(2022年12月刊。税込2090円)

2020年12月 5日

神々は真っ先に逃げ帰った


(霧山昴)
著者 アンドリュー・バーシェイ 、 出版 人文書院

日本の敗戦時、満州にいた日本軍のうちソ連軍の捕虜となったのは61万人、文民で捕縛された抑留者は7千人だった。
敗戦直後、朝鮮にあった挑戦神宮の宮司たちは、御神体を直ちに東京へ空輸した。
8月16日(もちろん1945年)、朝香宮(鳩彦王)、閑院宮(春仁王)、竹田宮(恒徳王)の3人は東久邇宮(稔彦王)とともに皇居内に呼び出された。そして、閑院宮は南太平洋に、朝香宮は中国に、竹田宮は満州に出向き、天皇の「聖旨」を伝え、武装解除に応じるよう説得に行くことになった。
竹田宮は家族を新京に残していたので、8月10日、家族を東京に呼び戻していた。竹田宮はシベリア抑留を紙一重の差で免れた。
ソ連が参戦したとき、関東軍の大半は通信遮断によって戦闘に入らないか、入っても遅すぎた。ソ連軍は、155万人の地上軍、戦車5千両、航空機5千機で侵入してきた。ソ連軍が攻撃を開始して1週間のうちに日本軍5千人が死に、終了までに4万8千人が亡くなった。
関東軍は、「根こそぎ動員」によって、「中抜け」であり、大多数は古兵としての10代、30代そして40代から成る25万人だった。人員の穴埋めでしかなかった。
戦争終結時、ソ連は400万人の捕虜をとった。ドイツ兵200万人、日本兵60万人、ハンガリー兵60万人...。すなわち、ソ連の人口の7分の1にあたる2300万人が戦争で亡くなっていた。それを穴埋めした。
元日本兵の日本送還は1946年5千人、1947年2万人、1948年17万人、1949年8万人、1950年7500人だった。
著者はアメリカの大学教授であり、画家の香月泰男、評論家の高杉一郎、詩人の石原吉郎という3人のシベリア抑留体験者を論じながら、シベリア抑留とは何だったのかを論じています。
(2020年5月刊。3800円+税)

2020年11月26日

従軍看護婦


(霧山昴)
著者 平松 伴子 、 出版 コールサック社

従軍看護婦は、戦後、兵士とちがって「軍人恩給」は支給されなかった。なぜか...。
問題が表面化して、1978年から支給されるようになったが、それは恩給ではなく、慰労給付金。これは国庫補助による日本赤十字社から支給された。そして、支給対象者は、従軍した日本赤十字社の看護婦の5%にもみたなかった。うひゃあ、それはひどい、ひどすぎますよね。
恩給を出せない理由を厚生省(当時)は、次のように説明した。
従軍看護婦の勤務実態がよく分からない。何人がどこに従軍したのか、どこで何人死んだのか、それは本当に戦死だったのか...。厚生省には詳しい記録がないから...。
いやはや、なんということでしょう。しかも、厚生省は、従軍看護婦には招集令状ではなく、招集状が出ていただけ、つまり天皇の命令ではなかった、断ることもできた、つまり、自分の意思で戦場に行った、自ら進んで、戦地に赴いたのだ...。それは、なるほど、一面の真理だった。
男は兵士に、女は従軍看護婦に行って、お国のために戦う。若い人の多くがそう考えていた。なので、親が止めるのを振りきって女性たちは戦場へ出ていった。しかし、それでも兵士とちがうと、差別するだなんて...。
戦場に行くのは男も女も当然だし、それはまた大きな「名誉」でもあるという心情がつくりあげられていたのだ...。もし従軍看護婦がいなかったら、傷病兵の治療や世話は誰がしたのか。従軍看護婦の名簿がつくられず、その勤務状況を把握しなかったというのは国の怠慢ではないのか。日本赤十字社は、国の命令で看護婦を戦場に送り出したはず。だったら国が責任をとらないのは、おかしい...。
そして、敗戦後、中国大陸に残っていた従軍看護婦のなかからソ連兵の慰安婦として供出されていった。それは病院長(陸軍中尉)と事務長(陸軍少尉)が、自分たちの命を守るための命令だった。そして、慰安婦とされた女性の多くは病死し、自死した。ところが、陸軍中尉と少尉は無事に日本に帰国し、やがて警察予備隊に入り、そして自衛隊の幹部に出世していた。
戦後、従軍看護婦のなかに慰安婦になることを拒否して集団自決した人たちがいたなんて、初めて知りました。小説という形をとって、その状況が詳しく再現されています。真実をもっともっと知るべき、知らされるべきだと痛感しました。
(2020年8月刊。1500円+税)

2020年5月19日

女たちのシベリヤ抑留


(霧山昴)
著者 小柳 ちひろ 、 出版 文芸春秋

戦前の満州にいた日本兵がソ連軍によってシベリヤに連行され、極寒の地で過酷な労働を強いられたことはよく知られていますが、この本は、シベリヤに連行・抑留された日本人看護婦など日本人女性も多数いたことを発掘しています。
1945年8月、満州にいた日本軍兵士60万人がソ連の収容所に連行され、強制労働に従事された。これが、いわゆるシベリヤ抑留だ。そして、実は、そのなかには数百人もの日本人女性がいた。たとえば、チャムス(佳木斯)第一陸用病院の看護婦150人。
看護婦は二つの系統があった。陸軍看護婦と日赤看護婦。日赤看護婦になるのは非常に難しく、合格倍率は、ときに100倍をこえた。当時の軍国少女たちにとって、憧れの存在だった。
この本には「独ソ戦の直後に満州に攻め込んだソ連のしたたかさ」という間違った歴史記述があり、また、シベリア抑留された元日本兵のなかの「民主化」グループについても偏見にみちた記述としか言いようのない決めつけがあったりして、歴史認識に欠けるところが気になるのが残念でした。しかし、それでもシベリヤに抑留されていた日本人女性の存在、その生活状況を掘り起こした点は高く評価したいと思います。
シベリヤで日本人女性はたくましく生きのびたことを紹介しているのには目を開かされました。やはり、女は強しです。
男性が栄養失調になってフラフラしているときにも、同じものを食べているのに女性はやせなかった。同じものを食べて、男性は下痢したり病気したりしたが、女性は病気しなかった。食べる量が少なくてもガマンできた。女性は、体力も気力も男性に比べて強かった。男性は、気持ちでも体力でも、ポキッと折れてしまった。ただし、男性は、「あの食事で、あの重労働じゃ、耐えられない」のもあたりまえだった。
班単位でまとまってシベリヤに抑留されたのはチャムス第一陸軍病院467班だけだったが、少なくとも450人以上の看護婦が満州でソ連軍の捕虜とされた。
引揚第一便は1946年11月に日本に帰国したが、そのなかにはチャムス第一陸軍病院の看護婦20人もふくまれていた。ソ連は国際社会からの非難をかわすために、人道的姿勢をアピールすべく女性を第1号帰還者リストに加えたのだった。
NHKのBS番組を本にしたものです。シベリヤ抑留に関心のある人には欠かせない本だと思いました。
(2020年3月刊。1700円+税)

 雨上がりの日曜日、午後から庭に出て畑仕事をしました。朝のうちにアスパラガスを4本収穫していましたが、その隣に大きなアマリリスが見事に咲いていて、つい、「ややっ、キミもいたんだね」と叫びそうになりました。去年も咲いていましたが、今年ははるかに大きいのです。
 ジャガイモ畑の雑草を孫と一緒に取り除きました。隣の畑のジャガイモは地上部分が盛大に葉を大きく伸ばしていますが、私の畑は、それに比べると、いかにも貧相です。でも、それは去年もそうでした。それでも、地中のジャガイモは、ちゃんと大きくなってくれましたので、今年も、きっと地中では大きな実をつけてくれることと固く信じています。
 畑仕事を終えようとすると、梅の実がいくつか落ちていました。来週は梅の実ちぎりをしなくてはいけません。梅酒用です。
 夕食のとき、2歳の孫がアスパラガスをむしゃむしゃ食べてくれました。
 夜7時半、ようやく暗くなりましたので、毎年恒例のホタル探索に出かけました。歩いて5分足らずのところの小川にホタルが出るのです。いるかな...、あっ、いた、いた。いました。ほのかに明滅するホタルが、フワリフワリと飛びかっています。今年は、コロナのせいか、「ホタルの里」の手入れがされていないため、そこより、むしろ近辺の小川あたりにホタルをたくさん見かけることができました。
 歩いて5分もかからないところにホタルを見て楽しめるのは、田舎暮らしの良さのひとつです。

2019年11月 1日

朝鮮戦争に「参戦」した日本


(霧山昴)
著者 西村 秀樹 、 出版  三一書房

日本の戦後復興に朝鮮戦争が大きく寄与したことは歴史的な事実です。
その朝鮮戦争に、実は、日本人が兵士として、また後方支援(掃海活動)などに参加していた事実が詳しく紹介されています。
そして、アメリカ軍の朝鮮での軍事行動を妨害すべく、日本国内で若者たちが起ちあがったのでした。それが吹田事件であり、枚方(ひらかた)事件でした。
1905年、セオドア・ルーズベルト大統領と桂太郎首相は秘密協定を結んだ。これは、日本はアメリカがフィリピンを統治することに同意し、アメリカは日本が韓国に対して保護監督権をもつことを承認するというもの。まさしく、帝国主義の時代だった。
韓国併合条約は、形式としては韓国の皇帝が日本の天皇に併合を申し出て、日本の天皇がこれを受け入れたという「任意」を装っている。しかし、その実態は、日本が軍隊や警察をつかって徹底的に弾圧した結果であった。
1895年、日本は明成皇后(閔妃・ミンピ)暗殺事件を起こした。一方的に宮廷に押し入り、皇后を殺害したうえ、その遺体を焼却したのですから、日本人の行為は残虐そのものです。立場を逆にして、もし明治天皇の皇后が隣国人に暗殺されたら日本人はどう思うだろうか・・・。本当に、そのとおりです。加害者の子孫は忘れても、被害者の遺族は忘れることができるはずはありません。
日本政府は、日本人が朝鮮戦争にどのように関わったのか正式に質問されたとき、「正確に事実関係を示すことは困難」だとして、きちんと回答しなかった。
たとえば、朝鮮戦争のときに日本人がかかわった海上輸送は、その指揮官はアメリカ人であって、その実情を明確にされていない。乗組員の日本人には、作戦の全容は教えられなかった。少なくとも8000人もの日本人が朝鮮戦争時に、海上輸送に従事していた。
朝鮮戦争に参加していたイギリスは1万4000人、タイとカナダがそれぞれ6000人。そうすると、日本人が8000人いたのは、比較すると、とても多いことになる。
在日韓国人のなかでは、自願軍644人が結成された。それに対抗するようにして、6月29日、北九州では若者70人が日本兵を望んだ。
日本の特別掃海隊は、2か月間で作戦を終了した。任務である機雷処理は27個を遂行した。
そして、2隻の掃海艇を失い、死者1人、重軽傷者という大惨事があった。
日韓関係がきわめて悪化している今日の状況を考えても、大変時宜にかなった本だと思います。ぜひ、ご一読ください。
(2019年6月刊。2500円+税)

2019年9月10日

日本占領史、写真でわかる事典


(霧山昴)
著者 平塚 柾緒 、 出版  PHPエディターズ・グループ

1945年8月、敗戦直後の日本の様子が写真でとらえられています。
降伏した日本へアメリカ軍が乗り込んでくるとき、マッカーサーは実は日本軍の反撃をまだ心配していたようです。なので、日本軍のもっていた飛行機はみなプロペラを外すよう命令していました。
首都東京は一面、焼け野が原です。ところが、敗戦と同時に人々は復興に走り出しました。
東京に進駐してきたアメリカ軍は、10日後には丸腰で都内をうろつくようになりました。日本軍の反撃など、何の心配もいらなかったのです。考えてみれば不思議です。「鬼畜米英」を一夜にして解放軍として受け入れるとは・・・。
この写真集には、東京裁判の被告となったA級戦犯全員の被告の顔写真が2回紹介されています。1回目は肩書とともに、2回目は判決の結果です。
別の本の書評で紹介しましたが、アメリカ軍はナチス・ドイツを裁いたニュルンベルグ裁判のときとちがって、日本軍が中国大陸で南京事件をはじめとする残虐行為をしたことを日本人に大々的に広報し周知させようとはしませんでした。その結果、日本軍が中国や東南アジアで行った残虐行為を知らないまま、多くの日本人は戦争被害者という認識だけをもって今日に至ったのです。このことが今日の「なんでも反日」プロパガンダにつながっています。
アメリカ軍は、関東・東北へは相模湾と館山海岸から上陸し、関西へは和歌山湾岸から上陸したことを初めて知りました。上陸用舟艇をつかってまさしく海岸から上陸している写真があります。港に軍艦を横づけしなかったのは、なぜなんでしょうか・・・。
敗戦時、連合国の捕虜が日本全国3万2418人収容されていて、うち1割の3500人が死亡したとのことです。
マッカーサー一家は、アメリカ大使館に生活していて、第一生命ビルを接収してGHQの本部とした。マッカーサーは、朝8時に起床し、午前10時に皇居に面したGHQに出勤。午後2時にGHQを出て大使館の自宅に戻って昼食をとり、昼寝。午後4時にGHQへ行き、午後8時まで仕事をして、大使館に帰る、夕食のあとは、夫人たちと西部劇などの映画をみる。就寝は夜12時ころ。日本の国内旅行は一切しなかった。
昭和天皇は1945年9月27日、アメリカ大使館にマッカーサー元帥を訪ねた。昭和天皇は当時46歳か・・・。
1948年11月3日、皇居前広場で中央カーニバルが催された。日本全国のお祭りを一堂に集めたのだ。100万人もの見物客が押し寄せた。なるほど、写真で大群衆がいることを実感できます。そして、デモ隊が行進する様子も写真にとらえられています。
写真で敗戦直後の日本の様子を確認することのできる貴重な事典です。480頁、5000円もする大作ですので、せめて全国の図書館にもれなく置かれてほしいものだと思いました。
(2019年5月刊。5000円+税)

石舞台古墳をみてきました。永年の念願でした。飛鳥駅前でレンタサイクルを借りました。1400円。フツーの900円より500円高い電動自転車です。奈良駅の観光案内所の女性からは、平坦地で15分なのでフツーでいいと言われましたが、念のため、電動にしたのです。これが大正解でした。
駅前から軽快に走り出します。快晴です。日差しがギラギラ照りつけるので途中のコンビニで麦わら(まがい)帽子を買いました。1000円。実は、その手前、途中でキトラ古墳へ間違って走って、おかしいと思い引き返し、中学生を引率している教師に尋ねて石舞台を目ざしました。「上り坂もあって大変ですよ」と声をかけられたのですが、まさにそのとおりでした。電動自転車でなければとてもとても走れません。平坦地ばかりなんて、とんでもありません。といっても、30代までなら、何の苦もないことでしょうが・・・。途中のコンビニで買った麦わら(まがい)帽子をかぶり、狭い道をのぼって、ようやく石舞台古墳にたどり着きました。
田園のなかというより、森の入口に近いところに平坦な空地があり、まさしく巨石が積み上げられています。もとは土に埋もれていたのか、長年の風雨にさらされていつのまにかむき出しになったようなのです。
周囲をめぐってみると、巨石の下に羨道(せんどう)室があり、なるほど墓室だと実感できます。蘇我馬子の墓というのが定説です。曽我氏族はこの飛鳥あたりを勢力圏にしたらしいのですが、今はただ平野と森の一帯で、ところどころに民家がある程度です。こんな辺ぴなところを拠点としていたというのですか・・・。

2019年5月 8日

近江絹糸人権争議

(霧山昴)
著者 本田 一成 、 出版  新評論

まだ、日本に労働運動が名実ともにあった時代の湯名な争議が豊富な写真とともに紹介されています。
やはり写真の訴求力はすごいものです。いま私は大学生時代に体験した東大闘争について冊子をつくっていますが、とんでもないことを言う人が少なくないのに対するもっとも有効な反論は写真だと痛感したばかりです。「わずか100人ほどのゲバ部隊に守られた代議員大会」と言っても、写真だと何百人どころか千人単位の人がいることが分かるのですから、デマ宣伝を打破するのは容易です。ただ、それを広く伝えるには、出版部数の差を克服する必要があります。これが実は大変なのです・・・。
三島由紀夫が『絹と明察』という本を、この近江絹糸人権争議を取材して書いているというのを初めて知りました。三島由紀夫は、例の防衛庁での割腹自殺などから、私にとってはまったく否定すべき人物なので、ふり向きたくもない小説家なのです・・・。
労働争議の実際の現場は大変だったようですが、写真でみると、みんな若いし、笑顔もあって、元気はつらつとしていて、頼もしい限りです。
未公開写真を200点以上も集めて、本書で一挙公開したというのは画期的なことです。おかげで、具体的にこの争議をイメージすることができました。そして、若い労働組合員のたちあがりを大勢の市民が支えたことを知り、他人事(ひとごと)ながら、心あたたまる思いでした。
今ならどうでしょうか・・・。あたたかい声援や差し入れどころか、せいぜい自己責任だと冷たく無視されてしまうのではないでしょうか・・・、残念ながら・・・。
この会社では、食事代が給料から天引きされていた。それにもかかわらず食事がないという状態は、飢えを通して大問題となった。この食事を奪う会社側の行為は、人権問題だと受けとられて、世論から徹底的な非難が集まった。
争議が始まって3ヶ月たった1954年9月16日、中央労働委員会による「あっせん案」を労使双方が受諾し、争議は労組側の勝利に終わった。すごいですよね、労働組合のあり方についても大変勉強になる本でした。
(2019年2月刊。2400円+税)

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