弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
インド
2017年9月16日
25年目の「ただいま」
(霧山昴)
著者 サルー・ブライアリー 、 出版 静山社
映画「ライオン」の原作本です。私は涙を流しながら読みすすめめした。なにしろ、5歳の男の子が言葉もよく通じない喧騒の大都会カルカッタ(今はコルカタ)で、一人ぼっちで数週間、路上生活して生き延びたのです。そして警察に行き、施設に入れられてオーストラリアへ養子としてもらわれていったのでした。
この本を読むと、世の中には危険がたくさんあり、悪い人間(子どもを金もうけのために騙す奴)も多いけれど、善意の固まりのような人だって少なくないということを実感させられます。
25年たって、大人になってグーグルアースで記憶をたどってインドの生まれ故郷を探しあてたというのも驚異的ですが、なにより故郷に実母がそのままいて、息子の帰りを待ち続けていたというのには胸を打たれます。なにしろ25年間も息子が生きて帰ってくるというのを信じて動かなかったというのです。信じられませんよね。母の愛は偉大です。
5歳の男の子がカルカッタの路上で数週間も生きのびられたというのには、もともとこの男の子が貧乏な家庭で生まれ育っていたので、食うや食わずの生活に慣れていたということもあるようです。みるからに賢い顔をしています。とはいっても、インドでは学校に通っていません(5歳だからではなく、貧乏だから、です・・・)。
家に食べるものがないため、ときには母親に鍋をもたされて、近所の人たちの家をまわって、残り物を下さいとお願いして歩かなければいけなかった。夕方になれば家に戻って、手に入れたものをテーブルの上に出し、みんなで分けあった。いつも腹ペコだったが、それほど辛いとは感じていなかった。
やさしい母親がいて、二人の兄たちそして面倒をみるべき妹がいて、楽しい家庭だったのです。
家にはテレビもラジオもなく、本も新聞もなかった。単純で質素な生活だった。そんな5歳の男の子が突然1000キロも離れたカルカッタへ列車で運び込まれ、ひとり放り出されたのです。
カルカッタは、無秩序に広がる巨大都市。人口過密と公害、圧倒的な貧困で悪名高い。世界でもっとも恐ろしくて危険な都市の一つ。そこへ裸足、お金も何も持たない5歳の男の子が駅の大群衆にまぎれ込むのです。
警察官に見つかったら牢屋に入れられると思ったので、警察官や制服を着た人々は見つけられないようにした。地面に落ちた食べもののかけらを拾って生き延びた。
危険はあまりに多く、見抜くのは難しい。他人に対する猜疑心が強くなっていた。
世の中の人たちのほとんどは無関心であるか、悪者であるかのどちらかだ。同時に、たとえ滅多にいないとしても、純粋な気持ちで助けてくれる人がいる。
何に対しても注意深くあらねばならない。警戒すること、チャンスを逃さずつかむこと、その両方が必要だ。
インドでは、多くの子どもたちが性産業や奴隷労働、あるいは臓器摘出のために売り飛ばされている。その実数は誰にも分からない。
映画をみなかった人にも、ぜひ読んでほしい本です。5歳の男の子がどうやって危険な大都会のなかで生き延びていったのか、その心理状態を知ることは、日本の子どもたちに生きる力を教えてくれると確信します。
(2015年9月刊。1600円+税)
2017年5月 6日
テクノロジーは貧困を救わない
(霧山昴)
著者 外山 健太郎 、 出版 みすず書房
アメリカで育った日本人が英語で書いた本です。著者は12年間、マイクロソフトで働いていました。
アメリカ政府は、テクノロジーは教育の分野に大変革をもたらし、万人の学業成績を向上させ、子どもにとっての公平性を増してくれるだろうと語っていた。ところが現実には、そうはならなかった。アメリカのテクノロジーの爆発的進歩は目ざましいものがある。しかし、アメリカの貧困率は12~13%という高水準のままであり、貧困層や中流家庭の実質所得は停滞したまま、上流家庭との格差はさらに増大している。
子どもを伸ばすには大人の指導が必要だ。指導にもとづく動機づけが必要なのだ。
子どもがやり通すためには、学校にいるあいだに、1年のうち少なくとも9ヶ月間は指導と励ましが常に必要であり、これを12年間続けなければならない。
子どもの教育の質における本質は、昔も今も、思いやりと知識に裏づけられた大人の注目だ。
テクノロジーだけでは、決して成果は得られない。新しい機器の開発と普及は、必ずしも社会的進歩を引き起こしはしなかった。
アメリカには、常に500万人もの子どもたちが安定した食事を得られずに苦しんでいる。テクノロジーの豊かさは、すべての人々にとっての豊かさにはなっていない。
インドで始まったマイクロクレジットは、ある程度の恩恵をもたらすが、貧困にとっての万能薬ではない。
アメリカが世界最強の軍事力を駆使してイラクのフセインのような暴君を追放し、選挙を支援しても、その結果は腐敗と暴力に終わることが多い。
マイクロクレジットも、学校におけるパソコンも、それだけでは効果を生まない。インターネットがいくら普及しても、裕福国アメリカでさえ、貧困や不平等を撲滅できていない。
ネルソン・マンデラは、あるとき、こう言った。
「教育は、世界を変えるために我々が用いることのできる最強の武器である。」
教育の恩恵は、経済的生産性の向上だけにとどまらない。
女の子が学校で1年間、教育を受けると、乳児の死亡率が5~10%削減できる。
5年間の初等教育を受けた母親のもとに生まれた子どもが5歳以上まで生きられる確率は40%高くなる。中等教育を受けた女性の比率が今の倍になれば、出産率は、女性ひとりあたり5.3人から3.9人に減少する。
女の子にもう1年余分に教育を受けさせれば、彼女たちの賃金は10~20%増加する。
ブラジルでは、子どもの健康に対して、より影響を及ぼすのは男性の教育より女性の教育のほうが20倍も高い。
若いウガンダ人が中等教育を受けると、HIV陽性になる可能性が3分の1になる。
インドでは、女性が公教育を受けると、暴力に抵抗するようになる可能性が高まる。
バングラデシュでは、教育を受けた女性は政治集会に参加する可能性が3倍高まる。
こうみてくると、女性に教育はいらないどころか、女性のほうにこそもっと教育の機会を保障すべきなんだということがよく分かります。
すぐれた教育とは、子どもたちが強い願望にみちた未来への展望をもてるようにすること。
自分自身に対する信念、学能力、さまざまな好奇心に対する内面的なやる気、そして自分をこえた大義に貢献したいという思い・・・、これらを育むことが教育の狙いなのだ。
効果的な教育では、「私にはできる」ということを学べる機会が繰り返し訪れる。日本の丸暗記教育は、この限りですぐれている。楽観的な意図、注意深い判断力、そして強い自制心をはぐくんでいる。
なるほどと思わせることの多い本でした。著者のインドで子どもたちに教えたときの実体験をふまえているだけに説得力があります。
(2016年11月刊。3500円+税)
2016年7月 2日
原始仏典を読む
(霧山昴)
著者 中村 元 、 出版 岩波現代文庫
仏教の経典は本当は難しいものではない。日本で仏教が難しいものだと思われているのは、日本のことばに直さないで、今から数百年前の中国のことばで書かれたものを、そのまま後生大事にたもっているから。
パーリ語で書かれた原始仏典を「三蔵」という。サンスクリット語は、インドの雅語で、バラモンが多く用いていた。パーリ語は、南方仏教の聖典用語。パーリ語は聖典語ともいう。
老いというのは嫌なもの。なんじ、いやしき「老い」よ!いまいましい奴だな。おまえは、人を醜くするのだ! 麗しい姿も、老いによって粉砕されてしまう。
死は、あらゆる人に襲いかかる。朝(あした)には多くの人々を見かけるが、夕べにはある人々の姿が見られない。夕べには多くの人々を見かけるが、朝にはある人々の姿が見られない。
他人が罵(ののし)ったからといって、罵り返すことをしてはいけない。善いことばを口に出せ。悪いことばを口に出すと、悩みをもたらす。
仏教の開祖であるゴータマ・ブッダの死は、信徒にとって永久に忘れられない出来事だった。
ゴータマ・ブッダが神的存在として描かれている文章は後代の加筆である。そうではなく、人間らしい姿が描かれているのは、多分に歴史的人物としての真相に近い。
ゴータマ・ブッダの実在は疑いなく、紀元前463年に生まれ、前383年に亡くなった。
ゴータマ・ブッダは王宮の王子として育ったが、王宮の歓楽の世界にあきたらず、出家して修行者となった。
ゴータマ・ブッダはネパール生まれの人であった。
ゴータマ・ブッダは「戦争なんかしてはいけない」と頭から言わず、諄々と説いた。
ブッダは共和の精神を強調した。共同体の構成員が一致協力して仲よく暮らすというのを大切にした。この精神をもっていると、たやすく外敵に滅ぼされることもないと強調した。
「おれは世を救う者である。おれに従えば助かるけれども、そうでなかったら、地獄におちるぞ」そんな説き方をブッダはしなかった。
日本の天台宗は、草木も国土もすべて救われるという教えを説いた。
「南無」は「ナム」で「屈する」という意味。屈する、頭をたれる、つまり敬礼し、敬礼し奉るという意味。
インドの挨拶言葉、「ナマステー」の「テー」は「あなたに」という意味。だから、「ナマステー」とは、「あなたに敬礼いたします」という意味。
「法」という字の「サンズイ」は水で、水は水平、公平意味する。「法」は一種の神獣を意味し、直ちに罪を知る。
「マヌ法典」は、この法律によって弱者も、その生活を擁護され、強者もむやみに弱者を迫害しえない。弱いものでも法の力を借りるならば強者を支配することをインド人は早くから自覚していた。
仏教では、人間は人間である限り平等であるという立場を表明した。生まれによって賤しい人となるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。
自己を愛するということが、まず自分を確立して行動を起こす出発点なのである。同様に他の人々もそれぞれ自己はいとしい。ゆえに自己を愛するものは他人を害してはいけない。
人は、なぜ嘘をつくのか。それは何ものかをむさぼろうという執着があるから。人間が嘘をつくのは、とくに利益に迷わされたときが多い。
著は1912年に生まれたインド哲学を研究する仏教学者です。さすがに、仏教とブッダについて深い学識を感じさせられます。原始仏教について少し勉強してみました。
(2014年9月刊。1360円+税)
2016年4月21日
ブッダが説いたこと
(霧山昴)
著者 ワールポラ・ラーフラ 、 出版 岩波文庫
スリランカ出身の学僧による仏教の基本的な教えを解説した本です。
薄くて手頃な仏教の本なので読んでみました。60年前に書かれた本のようですが、内容に古臭いところはありません。というか、内容は紀元前6世紀の話なので、超古い話なのですが、まさしく現代世界に通用する教えです。
ブッダとは、目覚めた人。姓はゴータマ、名はシッダッダ(サンスクリット語ではシッダールタ)。紀元前6世紀に北インドに生きた。父は、シャーキナ王国(今はネパール領内)の支配者だった。
ブッダは16歳で結婚し、29歳で王国をあとにして、解決策を求めて苦行者となった。
ブッダは、一人の人間であったばかりでなく、神あるいは人間以外の力からの啓示を受けたとは主張しなかった。ブッダは、自らが理解し、到達し、達成したものはすべて、人間の努力と知性によるものだと主張した。人間は、そして人間だけがブッダ(目覚めた人)になれる。人間は誰でも、決意と努力次第でブッダになる可能性を秘めている。ブッダとは、「卓越した人間」と呼ぶことが出来る。
紀元前3世紀にインドを支配した偉大な仏教王アショーカは、次のように語った。
「人は、自らの宗教のみを信奉して、他の宗教を誹謗することがあってはならない。そうではなくて、他の宗教も敬わねばならない。そうすることにより、自らの宗教を成長させることになるだけではなく、他の宗教にも奉仕することになる。そうしなければ、自らの宗教の墓穴を掘り、他の宗教を害することになる」
この寛容と相互理解の精神は、仏教の最初期から、そのもっとも大切な思想の一つである。2500年という長い歴史を通じて、人々を仏教に改宗させ、多くの信者を得て伝播していく過程で、一度たりとも弾圧がなく、一滴の血も流されなかったのは、まさに、この思想のおかげである。仏教は平和裡にアジア大陸のいたるところに広がり、現在5億人以上の信者を擁している。
いかなるかたちのいかなる口実の下の暴力もブッダの教えに背くものである。
宇宙が有限であるか無限であるかという問題にかかわらず、人生には病、老い、死、悲しみ、愁い、痛み、失望といった苦しみがある。ブッダが教えているのは、この先における苦しみの「消滅」である。仏教は悲観主義でも楽観主義でもなく、しいて言えば、生命を、そして生命をあるがままに捉える現実主義である。仏教は、ものごとを客観的に眺め、分析し、理解する。仏教は、人間と世界のあるがままを正確に、客観的に説き、完全な自由、平安、静逸、幸福への道を示す。
仏教徒にとって人生は決して憂鬱なものでも、悲痛なものでもない。本当の仏教徒ほど幸せな存在はない。仏教徒には恐れも不安もない。仏教徒は、ものごとをあるがままに見るがゆえに、どんなときでも穏やかで、安らかで、変化や災害によって動揺し、うろたえることがない。
仏教的観点からして、人生における主要な悪の一つは、嫌悪あるいは、憎しみである。この今の生においても、各瞬間ごとに私たちは生まれて死んでいるが、それでも私たちは継続する。貧困は、不道徳、盗み、虚言、暴力、憎しみ、残虐行為といった犯罪の原因である。ブッダは、犯罪を根絶するためには、人々の経済状況が改善されるべきだと提案している。十分な収入が得られる機会が民衆に提供されたら、人々は満足し、恐れや不安から解放され、その結果として、国は平和で、犯罪はなくなる。武器の製造と販売は誤った生計である。帝国の支配者であるアショーカ王は公に戦争を放棄し、平和と非暴力のメッセージを受け入れた。
力の均衡による、あるいは核兵器の脅威による平和維持は愚かである。武力が生むのは恐怖でしかなく、けっして平和は生まれない。恐怖によって、真正な永続的平和が維持されることはありえない。恐怖から生まれるのは憎しみ、悪意、敵意だけであり、それらは一時的には相手を抑え込めるかもしれないが、いつなんどき暴力として噴出するかもしれない。真実で真正な平和は、恐怖、猜疑、危険から解き放たれたメッター、すなわち友愛の雰囲気の中にしか出現しない。
さすがに心の洗われる珠玉の言葉が満載の本でした。
(2016年2月刊。680円+税)
今回の地震はまだおさまっていません(20日現在)。
夜、布団に入って横になっているときに大きな揺れを背中に何度も感じました。まさしく地球は生きているということを実感させられます。大自然の脅威です。
今回の地震は14日(金)夜9時半ころに強い揺れがあり(熊本で震度7、大牟田は震度4)、あとは余震が少しあるだけだろうと、みんなが油断していたところに、16日(土)真夜中の1時半ころに本震がありました。大牟田も震度5でした。このときは一晩中、強い揺れが続き、これで大災害となったのです。ただ、私の身近に何も気づかずに朝までぐっすり眠っていたという女性が二人もいて、それまた驚かされました。私は、眠れない夜を過ごし、いかにも寝不足、フラフラしながら朝おきました。
それにしても川内原発が稼働停止しないことに呆れ、かつ私は恐れおののいています。川内原発に何か起きたときの避難方法の一つが九州新幹線の利用ということでした。地震に強いはずの新幹線ですが、復旧の見通しもないまま停まっています。
原発内で作業している人も怖い思いをしていると思います。地震学者や原発関連の学者に「心配ない」と言う人がいて、政府がそれを口実にして稼働停止を命じないなんて、人命軽視もいいところです。何か起きたときには責任もとれないくせに許せません。
2015年5月31日
インドでバスに乗って考えた
(霧山昴)
著者 ボブ・ミグラン 、 出版 カドカワ
私が行っていない外国はたくさんありますが、そのなかでもインドは大国です。
インドで思いがけなく、愉しくて興味深い経験をした。そのため、秩序正しくコントロールしなければならないという考え方が打ち砕かれた、それは幸いだった。
混沌を征服することは決して出来ない。できるのは受け入れることだけなのだ。混沌を受け入れると、次にはそれを愉しむことができるようになる。
コントロールを諦めることは、今までにない新鮮な可能性に通じる、素晴らしく自由な経験となる。人生における決断は、どれだけ多くの情報をもっているかではなく、前に進んでいくうちに状況に適応し、ぶっつけ本番でやっていけると信じる力しだいなのだ。
完全なものを持っていれば、どこにもたどり着けず、ただ心配や悩みやストレスを生み出すだけである。なぜなら、それは存在しないものを待っているからだ。この世には、完全な仕事も、完全なパートナーも、完全なキャリアも、完全な瞬間も存在しない。あるのは、人間と、仕事と、瞬間だけ。
物事は、こうあるべきだという考え方から解放され、あるがままの状況を受け入れる。
物事は、あるがままにまかせ、他人が何をするなど気にせず、自分のしていることに集中すること。自分を成長させることに力をふり向けることだ。
ライバルのことで頭を悩ませても何の意味もない。他人(ひと)を理解しようとするよりも、自分と自分の考えに集中することのほうが大切。他人が何と言うか、どう考えるか、どう行動するかを考えていたら、自分を見失ってしまう。
多くの人は、人生の問いに対する答えが自分たちの外側のどこにあると思って、人生の疑問にこたえてもらうことを期待する。しかし、実際のところ、神は、その人たちが自分自身で答えを得られるよう、そのための静寂や時間を与えようとしている。なぜなら、あなたのあらゆる疑問に対する問いに対する答えは、常にあなた自身のなかにあるのだから・・・。
インドには行ったことがありませんが、まさしく混沌そのものの国というイメージですよね。
発想の転換が必要なんだと思わせてくれる本でした。
(2015年2月刊。1500円+税)
2014年3月21日
はじめてのヒマラヤ登山
著者 目指せネパール登山チーム 、 出版 誠文堂新光社
日本の女性はたくましい。ましてや、おばちゃんときたら天下無敵。失礼しました。おばちゃんというには早すぎる、女性陣5名が、目指せネパールを合い言葉に集まり、果敢にヒマラヤにアタックし、無事に成功したというツアーが写真とともに紹介されています。
昨年(2013年)4月、ついに5520メートルのヒマラヤのピークに立ったのです。すごーい・・・。
私は高山病も恐ろしいし、胃腸にもそれほど自信がないので、こんな体験記を読んで、体験したつもりになってガマンしています。
いろいろ知らないことがありました。女子チーム5人は、高山病予防のため、入浴をずっと控えていたので、結局、11日間もシャワーを浴びることなく過ごしていた。
それは辛いですね。やっぱり、湯舟に浸かって、足を伸ばしたいですよね・・・。
ネパールに行ったら、10人中10人が下痢をする。慣れない環境でお腹をこわすし、ミルクティーの粉ミルクにあたったり、ぬるいコーラにあたったり・・・。
ヒマラヤではロバに荷物を運ばせる。その重量は40~50キログラム。それより思い、と馬に運ばせる。
夜のホテルで、いきなり停電。そんなときには、携帯用のソーラー充電器が活躍する。
高山病の予防のためには、ともかく水を飲み、こまめに深呼吸すること。なにより呼吸することを意識する。吸うことより、吐くことを意識する。
1日に3リットルから4リットルの水を飲む。そして、トイレに行く回数をチェックする。トイレに行く回数が少ないと要注意。飲んで、出す。これが大切。
ヒマラヤのアタック当日は、午前2時半に起床。パンケーキとおかゆの朝食をとる。午前3時半に出発。夜空に満点の星がまたたいているはず。でも、見上げる余裕はない。そして、ついにヒマラヤ山頂に立つ。
午前2時半に起きて、寝るまでに3回しかトイレに行っていない。うそーっ、うそでしょと叫びたくなりますよね。これが高山病なんですね・・・。
ヒマラヤ・トレッキングの経験豊富な富士国際旅行社にツアーを組んでもらったとのことです。費用は50万円ほど。決して安くはありませんが、それほど高くもないということでしょうね。
写真と図解ありの、楽しいヒマラヤ登山の解説本です。
(2013年10月刊。1800円+税)
2013年5月 9日
ラスキンの『この最後の者にも』、その真髄
著者 M.K.ガンジー 、 出版 加島・田中法律事務所
私の尊敬する大阪の加島宏弁護士が翻訳して送ってくれたガンジーの本です。わずか40頁ほどの薄っぺらな本ですが、まさしく現代に通用する鋭い指摘に驚嘆させられます。
それにしても、ガンジーが暗殺されたのは1948年、私が生まれた年だったのですね。
加島弁護士は、昨年8月に古希を迎えたのを期に、ガンジー全集の日本語版出版を決意したということです。といっても、マハトマ・ガンジー全集って、100巻あるそうですから、大変なことです。かげながら応援したいと思います。ここで紹介するのも、その応援策の一つのつもりです。
経済学は科学の名に値しない。労働者がストライキに打って出た場面では経済学は何の役にもたたないからだ。
何の経済的利益も期待しないで使用人に親切を施す者は、すべての経済的利益を手にするだろう。まさに、命を守ろうとする者はそれを失い、命を捨てる者は、それを得る。
兵士の務めは、実のところ人を殺すことではなく、人を守るために自分の命を投げ出すことにある。世間の人々が兵士を尊敬するのは、国を守るために兵士が命をかけているからである。
法律家、医師、聖職者が尊敬されるのも、自己犠牲の精神で働いてくれるからだ。法律家は、ひとたび裁判官席に座ると、どんな結果になろうとも、ひたすら正義にかなった判決を目ざす。医師は、どんな困難な状況の下でも、患者のために腕を奮う。聖職者も、同じように信徒たちを正しい道に導くことに努める。
文明国には、5つの偉大な知的職業がある。
兵士の仕事は、国を守ること。
司祭の仕事は、国を導くこと。
医師の仕事は、国民の健康を保つこと。
法律家の仕事は、国に正義を行き渡らせること。
商人の仕事は、国中に生活物資を供給すること。
工場の支配人は、常に、その息子を遇するように他の工員全てを遇さなければならない。これこそが、経済学における、唯一の、効果的で、まっとうで、かつ実際的な法則なのである。
富の本質は、人を動かす力にある。外見上はっきりした富であっても、もしこの力を失ったなら、それはもはや富とは言えない。
富を極めることは、新鮮な空気をいっぱい吸い、目を輝かせた、幸せいっぱいの人をできるだけたくさんつくり出すこと。
富を増やそうとして貧者から搾りとる者は、富を失う。乏しいからといって、貧者から奪ってはいけない。相手の弱みにつけ込む商売をしてもいけない。弱者を虐げた者の魂は、神によって壊されるだろう。
競争は国家の為になるという経済学者の説は間違っている。競争の結果、労働者はより安い賃金で働かされ、金持ちはますます豊になり、貧しい者はますます貧しくなる。長い目で見れば、国家はそうして滅んでいく。働く者は、その能力に応じた適正な賃金を支払われるべきである。
人間の強欲に起因して地球上のあちこちで繰り広げられている不正義の戦争は、現代の資本家たちの責任である。
お金というものは、使い方によって悲劇を生んだり、幸福をもたらしたりする道具なのである。
お金、富、貧困そして仕事をじっくり考え直すことのできる珠玉の言葉がここにあります。お互い、ゆっくりかみしめたいものです。
(2013年3月刊。非売品)
5月の連休、どこにも出かけず、仕事をしていました。ただ、例年どおり子どもの日には近くの小山にのぼりました。急勾配の山道をのぼるときはなんでこんな苦労するのかと思うのですが、見晴らしのよい頂上に立つと、気宇壮大な気分になって、先ほどの苦労が吹っとんでしまいます。
ウグイスの鳴き声を聞きながら、下界を見おろしつつ、おにぎり弁当をほおばるのは至福のひとときです。さすがに子どもの日なので、親子づれで頂上はにぎわっていました。
2012年6月 9日
インド・ウェイ、飛躍の経営
著者 ジテンドラ・シンほか 、 出版 英治出版
インドの企業はすごい。
2010年に、インドはアメリカ、中国、日本に次ぐ世界第4の経済大国となった。日本のGDPは4兆3100億ドルに対して、インドは4兆100億だ。インド経済は、年7~8%の成長を続けている。
日本とインド企業との連携の好例は、スズキだ。インドの自動車市場の45%のシェアである。
インド・ウェイとは、よその国とは異なるインド企業独特の組織能力、マネジメント慣行、そして企業文化の複合体だ。それは、作業員とのホリスティック・エンゲージメント、ジュガンドの精神、創造的な価値提案、高度な使命と目的の4つの原則から成っている。
アメリカのMBAプログラムに入学するために必要なGMATの受験者は、10年間にアジアで74%増加したが、中国は161%、インドは341%も増えた。
インドでの販売の最大の課題の一つは、従来のマスメディアが人口の半分にしか届かず、5億人をこえる人が企業の製品やブランドについてほとんど知らない。およそ60万の村落の分散している農村部の住民は、新聞、電子メディア、鉄道につながっておらず、また半分以上は道路でさえ都市と接続していない。
インド企業の驚くべき成功にもかかわらず、多くのインド人が貧困に窮しており、3億人以上の人々が1日1ドル以下で過ごしている。幼児期の死亡率は依然として高く、1000人の出生について57人が死亡する(アメリカでは7人)。
インドの中間層は急激に増えており、田舎の生活から離れ、新しい格差を生み出している。政府における汚職だけでなく、ビジネスにおける汚職も、インドでは日常的となっている。
ごく低収入の人々に、ごく安い価格でアプローチするビジネスが生まれました。
きわめて多数の顧客人口に対して、非常に低コストの通信サービスを提供した。世界でもっとも安いケータイ料金が1分10セントのとき、インドでは1分1セントというものだった。
なーるほど、数は力なりですね。どんなに安くても、数が多ければ商売として成りたつというものです。
世界に冠たるインド企業の内実を少しだけ知った気にさせる本でした。
(2011年12月刊。2200円+税)
2012年5月 3日
シャンタラム(上)
著者 グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツ 、 出版 新潮文庫
インド(ボンベイ)のスラム街の生活が描かれています。
長大な小説の第1巻ですが、自身の体験をもとにしていますので、その迫力は絶大なものがあります。
インドとインド人についての単純な、それでいて驚くべき真実は、インドに行ってインド人と付きあうときには頭より心に従った方が賢明だということだ。その真実がこんなにもあてはまる国は、世界中どこを探してもほかにない。
不誠実な賄賂はどの国でも同じだが、誠実な賄賂が存在するのはインドだけだ。
ええーっ、本当でしょうか。信じられませんね。そう言えば、最近もインドで、賄賂をなくせという集会とデモがあったと報道されていました・・・。
主人公はオーストラリア人。刑務所を脱獄したから、もはや本国には戻れません。
刑務所で暮らすということは、何年ものあいだ、午後の早い時刻から翌日の午前の遅い時間まで、毎日16時間も監房に閉じ込められ、日の出も日没も夜空も眼にすることがないことを意味する。つまり、刑務所で暮らすということは、太陽と月と星を奪われることを意味する。
刑務所は地獄ではなかったが、もちろん天国も見あたらなかった。それはそれで地獄にいると同じくらい悲惨なことだ。
人市場で子どもたちが売りに出されている。しかし、この子どもたちは人市場にたどり着かなかったら死んでいただろう。餓えに苦しめられ、すでに自分の子どもの一人かそれ以上が病気になって死んでいくのを見てきた親たちは、「人材発掘人」が来てくれたことに感謝し、ひざまずいて彼らの足に触れ、息子や娘を買ってくれと懇願する。せめて、その子の生命だけでも助けたいという思いからだ。
これって、本当なのでしょうか・・・。哀れすぎです。
主人公はボンベイのスラムで医師まがいのことをして、住民の生命を救い、頼りにされるのでした。インドは行ってみたい国ではありますが、とても行く勇気はありません。
そんなインドに住みついた白人脱獄囚の冒頭にスリルにみちた話が展開していき、次はどうなるのかと恐る恐る頁をめくっていきました。
(2011年12月刊。990円+税)
2011年1月 5日
必生・闘う仏教
著者 佐々井秀嶺、 集英社新書 出版
すごい本です。日本人の僧がインドに渡り、今やインド国籍も得てインドで仏教復興運動のリーダーになっているというのですから・・・・。
著者は3回も自殺を試みています。もちろん、みな未遂に終わったので、今日があるわけです・・・・。1回目は、1953年ですからまだ18歳です。太宰治を愛読し、女性問題で悩んだあげく、青函連絡線に乗って海に飛び込もうとしたのです。そして、大菩薩峠でも自殺を試みました。さらに、乗鞍岳に登って、自殺を図ったのですが、寒さのなかで助けてくれーと叫んだのでした。いやはや、この本は、今や大変な高僧となった著者の人間像がかなり赤裸々に描かれています。
不惜身命(ふしゃくしんみょう)とは、他者の幸福のため、みずからの命を惜しまず、力を尽くすこと。
柔和忍辱(にゅうわにんにく)とは、他者の笑顔を守るため、みずから笑顔を絶やさず、屈辱にも耐えること。
著者は、アンベートカル博士を心から慕っています。
アンベートカル博士こそ、13世紀にムガール帝国による大虐殺によってインド史の表舞台から姿を消したインドの仏教を現代に復活させた正法弘宣の大導師である。
このアンベートカル博士は、1891年に不可触民階級のマハール(雑役)カーストに生まれた。ガンディーは、不可触民は神の子であると主張したが、アンベートカル博士は、これに強く反対した。人間は皆ひとしく平等であるというのなら分かるが、不可触民だけを神の子と呼ぶのはおかしい。ましてや、その神がカースト差別をするヒンズー教の神の子、総称「ハリ」というのは支離滅裂もはなはだしい。このように主張して、1956年10月、アンベートカル博士は、30万人の不可触民と共にヒンズー教から仏教への集団大改宗を挙行した。
仏教は不殺生が基本なので、その闘いは非暴主義に立つ。しかし、不当な暴力を前にして、それをただ受け入れるだけでは、相手の殺生罪を容認したことになる。そうならないためには、あらゆる手段、たとえば言論活動をはじめ、署名運動、抗議デモ、座り込みなど非暴力の闘争を展開する。それが不殺生(ふせっしょう)の闘いなのだ。非暴力を貫くためには、自己犠牲をふくむ必要最小限の力の行使をみずから選択しなければいけないこともある。
それにしても、日本人がまさしく生命をかけてインドの広大な大地を仏教再興を願って日夜かけずりまわっているのです。たいした仏教家です。驚嘆しました。
(2010年11月刊。700円+税)