弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(平安時代)

2020年6月19日

平将門の乱を読み解く


(霧山昴)
著者 木村 茂光 、 出版 吉川弘文館

平将門(たいらのまさかど)の乱は平安時代に起きた、武士の最初の反乱と言われる、935年から940年にかけての内乱だ。
平将門は、上野国府で「新皇」(新しい天皇)を宣言して、坂東8ヶ国の国司を任命し、新たな「王城」建設まで宣言した。
日本史のなかで、新しい天皇(新皇)を名乗り、朝廷の人事権(除目。じもく)を奪って国司を任命し、新しい宮都の建設まで計画したのは、ほかには南北朝内乱時の後醍醐天皇くらいしかいない。将門の乱は、まさに日本史上まれにみる大事件だった。
平将門が新皇宣言するにあたっては、菅原道真の霊魂と八幡大菩薩がその根拠となっていた。これらのことから、平将門の乱は単に東国で起きた武士の反乱という側面をこえた国家的な問題をはらんだ反乱だったと言える。
この当時、領地・所領は、まだ財産的価値をもっていなかった。
平安時代というのは、そのような時代なのですね...。
平将門は東北地方を強く意識していた。すなわち、鎮守府将軍のもたらす富には、奥羽さらにエゾ地から持ち込まれた、胡禄(ころく)、鷲羽(わしのはね)、砂金、絹、綿、布があった。
平安末期、源頼朝の挙兵について支配者層は平将門の乱に匹敵する大事件であると認識していた。
平将門は、平安京に似せて「王域」を建設しようとした。
「左右大臣、納言、参議、文武百官、六弁八史」の任命、「内印、外印(天皇の印と太政官の印)」の寸法・文字などを確定した。このように宮都の建設・官僚の任命が矢継ぎ早に実施された。ただし、専門性の高い技術と能力を必要とする暦をつくる暦日博士は人材を確保できずに任命されなかった。
平将門の「新皇」即位は、「みじめな構想」などではなく、思想的・精神史的には京都の天皇・天皇制を相対化するような大きな「画期性」をはらんでいた。
平将門は、自分の国家領域を支配するための政策をしっかりもっていたと認められるべきだ。
平将門は、律令国家・王朝国家が支配の根幹としていた国府を襲い、さらに中国由来の天命思想を掲げ、新興の八幡神・道真の霊を根拠として「新皇」を名乗って王城を建設しようとした。
平将門の乱は、関東という、京・畿内から遠く離れた領域を舞台として起きた反乱だったが、この反乱から読みとれる諸特徴は、まさに全国的な政治的・社会的・思想的な変化を体現するものばかりだった。
京から遠く離れた坂東の田舎武士どもが、ちょっと盾ついたというレベルのものでなかったことを初めて知りました。
(2019年11月刊。1800円+税)

2020年1月 1日

菅原道真


(霧山昴)
著者 滝川 幸司 、 出版  中公新書

太宰府天満宮と言えば菅原道真ですよね。近くに国立博物館がありますので、たまに行きます。その菅原道真とは、いったいいかなる人物だったのか、この本を読んで、ようやく少し素顔(実像)をつかむことができました。
菅原氏は、もとは土師(はじ)氏。土師氏は、葬送で天皇家に仕えた氏族。ところが、勢いを失いつつあったので、改氏姓を願い出た。
道真は33歳で文章博士(もんじょうはかせ)に任じられた。文章博士は、大学寮紀伝道で中国の文学・歴史を教授する官職。33歳は若い任官だった。
道真は式部少輔と文章博士を兼任し、儒家を領導する立場となったが、それは誹謗中傷嫉妬を招いた。
42歳のとき、道真は文章博士、式部少輔、加賀権守(ごんのかみ)を解かれ、讃岐守(さぬきのかみ)に任じられた。道真にとっては不本意な任官だった。しかし、紀伝道出身者は地方官として治績をあげることが期待されていた。
そして、4年たって、念願の都へ戻った。890年(寛平2年)のこと。
891年、道真は蔵人頭(くろうどのとう)に任じられた。蔵人頭は天皇の側近ともいうべき存在だ。宇多天皇は道真に期待していた。さらに、式部少輔に再任され、次いで佐中弁(さちゅうべん)を兼任した。佐中弁は、太政官行政の事務部局で、きわめて重要であり多忙な職である。
道真は蔵人頭について辞表を出したが、受理されなかった。
892年(寛平4年)、道真は従四位下に叙された。翌年、道真は参議に任じられた。道真、49歳。蔵人頭・左京大夫からは離れ、参議に任じられ、公卿の地位に至り、太政官の議政に参加する地位に就いた。
さらに、道真は、佐中弁から左大弁に昇った。そして、勘解由(かげゆ)長官も兼ねた。勘解由使は官人らの交替を監査する役所。このようにして道真は、参議兼左大弁、式部大輔・勘解由長官を帯びた。
道真、50歳のとき、遣唐大使に任命された。しかし、結果として、派遣はされなかった。
894年(寛平6年)、道真は侍従を兼ねた。この年、道真は、従四位下参議兼左大弁・式部大輔・春宮亮・勘解由長官・遣唐大使・侍従ということにある。このような兼官の多さは類例をみない。
さらに、道真は、参議から中納言に昇った。菅原氏としては初めての任官だった。
道真は宇多天皇を補佐する政治家として、藤原時平とともに政権トップとして政治を担当するようになった。
道真の長男、菅原高視は大学頭(だいがくのかみ)に任じられた。
899年(昌泰2年)、道真は権大納言であり、右大臣に任じられた。これに対して、道真は2度も辞表を出して抵抗した。門地が低いこと、儒者の家系であること、上皇の抜擢によって地位を得たとした。
道真は、誹謗・中傷を受けながらも、大臣の職をつとめた。
道真は、儒家としては異例の出世によって妬まれ、誹謗され、また宇多法皇の側近として醍醐天皇制と対立する存在としてとらえられていたようだ。
宇多法皇の道真に対する過度の厚遇、信頼が左遷のもとになった。
901年(昌泰4年)、道真、57歳。右大臣から大宰権師(ごんのそち)に落とすという醍醐天皇の宣命(せんみょう)が下された。このとき、分を知らず、専権の心があった。醍醐天皇の廃位を計画して、兄弟の間を裂こうとしたという罪状が記されていた。
道真の子息のうち、官途についていた者はすべて左遷された。道真は大宰府、高視は大佐、景行は駿河、兼茂は飛騨で、残った淳茂のみ京に残って学問に励むことができた。
前の天皇に重宝され、トップの地位を占めるところまで行ったものの、次の天皇からは排斥されてしまったということなのでしょうね。出世は反発も招くというのが世のならいです・・・。
(2019年9月刊。860円+税)

2019年2月22日

公卿会議

(霧山昴)
著者 美川 圭 、 出版  中公新書

貴族政治って、意外にも会議体をもって議論して決めていたのですね。驚きでした。
公卿(くぎょう)とは、貴族の上層の人たちのこと。
律令制のもとには、太政官(だじょうかん)の議政官会議というものが存在した。議政官とは、左右内大臣、大納言(だいなごん)、中納言、参議らのこと。
太政官がいかなる提案をしたとしても、天皇はそれに制約されずに決定できるというのが律令制の原則。天皇と太政官は対立的に存在しているのではなく、天皇を輔弼(ほひつ)する太政官議政官の会議は、天皇の君主権の一部を構成していた。
藤原道長は摂政にはなったが、関白にはなってはいない。一条天皇は外戚(母の父)である道長の言いなりの人物ではなかったので、道長の立場は盤石ではなかった。
一条天皇が亡くなり、皇位を継承した三条天皇は、道長に関白就任を要請するが、それを道長は受けなかった。道長は関白ではなく、内覧左大臣の地位を自ら選択した。
三条天皇は眼病のため失明に近い状態となった。その三条天皇に道長はたびたび譲位を迫った。そして、後一条天皇が即位すると、外祖父の道長は摂政となった。
幼帝のもとで、奏上なしに決裁できるのが摂政。天皇が成人となったとき、奏上や招勅発給などに拒否権を行使できるのが関白。
摂政にも、関白にも、内覧の職務が包含されるから、制度上は摂関になったほうがよい。
天皇の外戚という非制度的な関係をもたないときには、権力が弱体化する恐れが常にあった。摂関政治といいながら、外戚、つまり天皇のミウチであることが、とても重要だった。
このころ、実務能力をもった貴族たちが、蔵人頭(くろうどのとう)を終えたあと、公卿として陣定に出席するようになった。
道長は関白として公卿会議に超然として臨むよりも、会議の中に身を置いて、彼らの信頼を得ることが重要だと考えた。そのため、あえて一上(いちのかみ)、つまり筆頭大臣として会議の中にとどまり、現場で発言しながら会議の進行をリードしようとした。
三条天皇のころは、もはや道長に対立する貴族はほとんどいなかった。それでも道長は関白にならなかった。道長は、内覧で一上左大臣という立場の有効性を確信していた。
そして、外孫である後一条天皇になると、初めて一上左大臣の地位を離れて、摂政に就任する。以後、道長は陣定に出席していない。
170年間、藤原氏は天皇の外戚を独占した。
御前での公卿会議が、天皇と関白の対決の場になった。
13世紀の日本では、神社の荘園が押収されたため訴訟が次々に起こされ、朝廷にもち込まれた。院政期には、所領相論(そうろん)、つまり不動産紛争の問題が、陣定(じんのさだめ)の議題として多くあがった。
日本人は昔から紛争が起きるとすぐに「裁判」に訴えていたのです。日本人が昔から裁判が嫌いだなんて、とんでもない嘘っぱち、私は、そう確信しています。
13世紀、雑訴評定においては、訴人(原告)と論人(ろんじん。被告)の双方を院文殿(いんのふみどの)に召し出して、その意見を聴取することになった。これが文殿庭中(ふどのていちゅう)である。
鎌倉時代の後期には訴訟が増大した。鎌倉後期には、幕府が訴訟の増大に対処することに追われた。貴族の分家が対立し、貴族内部の争いが家産、官位の争奪というかたちをとって深刻化したため、朝廷での裁判の重要性はいっそう高まった。
圧倒的な軍事力をもつ鎌倉幕府が成立してから200年、承久の乱で敗北してから150年、ほとんど幕府に対抗できる武力をもたない朝廷が、合意形成をしながら政治権力として一定の統治能力を維持したことは再評価してよい。宮廷貴族たちは、院や天皇のもとに結集して、公卿会議で論戦しつつ、朝廷を自立的に運営していった。
朝廷と貴族(公卿)の関係について、難しいながらも面白い本でした。宮廷貴族たちは、意外なほど会議での合意を目ざし、それなりの努力を続けていたのでした。
(2018年10月刊。840円+税)

2018年12月23日

藤原 彰子

(霧山昴)
著者 朧谷 寿 、 出版  ミネルヴァ書房

藤原道長の長女で、後一条・後朱雀(すざく)天皇の母として、藤原氏の摂関政治を可能にし、藤原摂関家の繁栄に大きく貢献した。
「この世をば死が世とぞ思う 望月の欠けたることのなしと思へば」
道長が歌いあげたのは1000年前の1018年(寛仁2年)のこと。
道長は三后を自分の娘で独占し、史上例を見ない快挙を成し遂げた。三后とは、右皇太后、皇太后、皇后のこと。
道長の幸運は、兄二人が相次いで病死したことによる。その結果、30歳の病弱な道長は右大臣に就任することができた。そして、道長の姉の詮子が一条天皇の母であったことから、道長は摂政・関白に準ずる内覧に就くことができた。
道長は事を行うに先立って長女・彰子の指示を仰いでいた。それほど彰子は政界へ大きな影響力を有していた。
彰子の87年間の生涯のうち、後半の半世紀は、子と孫の天皇の時代であり、幼帝の行幸のときには同じ輿(こし)に乗っていた。
父の道長の亡きあと、彰子は関白頼通から何かと相談を受けることが多かった。
一条天皇の中宮彰子は、一条天皇が亡くなった翌年、妹の研子が三条天皇の中宮となったことで皇太后となり、31歳で右皇太后となった。そして39歳で出家して上東門院と称した。その翌年、父の道長が62歳で亡くなった。
彰子は出家してから13年後、法成寺で再度、剃髪した。最初は肩のあたりで髪を切りそろえる一般の出家であり、二度目は髪をみんな剃り落とす、完全な剃髪だった。完全剃髪することで初めて、男性と同等の「僧」となった。
紫式部は彰子に出仕していた。
彰子は87歳と破格の長寿を保ったことから、夫の一条天皇、子と孫の4人の天皇、同母の3人の妹と1人の弟の死と向きあうことになった。
父の道長が亡くなったあと、政治は関白を中心に動いていたが、女院(彰子)の存在は関白をしのぐものがあった。
彰子は弟である頼通の死を悲しみ、次に彰子が亡くなると関白教通は大打撃を受け、翌年、関白在任のまま80歳で死亡した。
彰子は長命を保ったことによって、一条から白河まで七代の天皇にまみえた。
つまり、自分の娘が天皇の子、それも男子を産んだかどうかで、大きく変わったのですね・・・・。なんだか偶然の恐ろしさを感じます。王侯、貴族の世界も楽ではありませんね。
(2018年5月刊。3000円+税)

2017年9月10日

紫式部日記を読み解く


(霧山昴)
著者 池田 節子 、 出版  臨川書店

「源氏物語」の紫式部より、「枕草子」の清少納言のほうが10歳ほど年長と推測される。「蜻蛉(かげろう)日記」の道綱母は、紫式部より40歳ほど年長である。
「源氏物語」の作者である紫式部とは、いったいどんな女性だったのか・・・。
「紫式部日記」は、紫式部による宮仕え生活の記録。しかし、これは、通説の言うような公的な記録ではなく、第三者的な見聞録にすぎない。
紫式部の娘(大弐三位)は後冷泉天皇の乳母になった。天皇の乳母になることは、中流貴族女性にとって最高の出世である。つまり、紫式部は、女手ひとつで娘を心確かな女性が選ばれる天皇の乳母に育てあげた。
紫式部は、「おっとりした人」のふりをしていたのではないか・・・。
紫式部は21歳で結婚しているが、当時の女性としては結婚が遅かった。
ええーっ、21歳の女性で晩婚とは、信じられません・・・。
紫式部と藤原道長とのあいだに男女関係があったとしても、それは召人の関係にすぎなかった。紫式部は道長の訪問を受けて、うれしかった。悪い気がしなかった。それは、女としてうれしいというだけでなく、道長からサービスされる自分、女房として大切に思われていることへの喜びもあった。
「源氏物語」をもう一度じっくり読み返してみたいと思わせる本でした。
(2017年1月刊。3000円+税)

2017年6月 3日

水壁

(霧山昴)
著者 高橋 克彦 、 出版 PHP研究所

著者の小説は面白いです。血湧き肉踊る、ワクワクしてくる冒険小説の趣きがあります。
新聞で連載されていたとき、毎週日曜日が楽しみでした。次はどんな展開になるのか・・・。
平安時代、東北にはアテルイという英雄がいたことを著者の先の本で知りました。京の都から派遣されてきた大軍を相手に真向勝負で戦い、戦略的勝利を得たというのですから、たいしたものです。それをまた、見てきたように再現してみせる筆力には恐れいるばかりでした。
今回は、そのアテルイの血を引く若者を中心として、京の都にたてついて、秋田の米代川以北はエミシの自治領とする合意を勝ちとったのです。信じられません。
この本のサブタイトルは「アテルイを継ぐ男」となっています。戦いを有利に導くための戦略、そして戦術が具体的に描かれていて、なるほど、さもありなんと思えます。
戦いを率いるのは、若い力だ。年寄りは、人の死を幾度も間近に見て気弱になっているばかりか、世の中の変わらぬことをつくづくと思い知らされ、あきらめが奥底にある。だが、若い者は先を信じられる。そのためなら死をも恐れない。暗い道に明かりを灯すのは、いつだって若い者だ。
これを読んで、私の若いころのスローガン、未来は青年のもの、を思い出しました。そして、世の中はいつか変わる。明けない夜はないという呼びかけも思い起こしたのでした。
次のようなセリフがあります。
「そなたには人の言葉に白紙で耳を傾ける素直な心と、状況を見きわめる明瞭な判断力が備わっている。さらに、人を動かす気にさせる熱がある。私欲もなければ、こたびのようにいざとなれば皆の先に立って野盗とやりあう度胸まで。それこそが将に求められるすべてだ」
「知恵と威張ったところで、それはただ頭の中に描いた絵でしかない。命を懸けて戦うのは兵たち。きっと勝てると思わせ、自分らとともに戦ってくれる将がいてこそ、兵は何倍もの力を発揮する。そなたがまとめであるなら、存分に策を練ることができ、楽しみだ」
この本が、どこまで歴史を反映しているのか知りませんが、東北の人々の偉大な戦いをまざまざとよみがえらせた功績は、きわめて大きいと思いました。ちょっと疲れたな、という気分のとき、読めば気を奮いたたせてくれること、間違いありません。
(2017年3月刊。1700円+税)

2017年3月 5日

平安京はいらなかった


(霧山昴)
著者 桃崎 有一郎 、 出版  古川弘文館

泣くよウグイス、平安京。
794年、桓武天皇がつくった平安京。それは、今の京都の前身。さぞかし当初から華やかな都だったかと思うと、実は、そうでもなかったようなのです。
平安京は、はじめから無用の長物であり、その欠点は時がたつにつれ目立つばかりだった。ええっ、ま、まさか・・・。それが、本当なんです。
官人の位階が高いほど、邸宅の面積が広く、邸宅の面する街路規模は大きく(広く)、北(大内裏)に近く、中心線(朱雀大路)に近いという傾向がある。
つまり、天皇との身分的な距離(位階)と京中における天皇との物理的な距離は比例しており、大内裏を中心とする身分的な同心円が京に描かれていた。
正式な届出手続をして許可されない限り、五位以上の人が京外に出ることは犯罪だった。つまり、京に住むのは貴族にとって義務だった。
当時の平安京の人口は、10万人から12万人ほど。
平安京にとって、美観こそ生活に優先する存在意義だった。
朱雀大路は、牧場として使えるほど、広大な空閑地だった。朱雀大路には、荒廃を取り締まる警備員がいなかった。そこには、牛馬や盗賊が自由に出入りできていた。土でつくられた垣(築地)は容易に破壊できたから。
朱雀大路の街路の幅は82メートルもあった。なぜ、そんなに広い大路だったのか・・・。
朱雀大路は、普段は人が立ち入らないし、生活道路でもない。しかし、特別なときに、特別の人が入る、生活以外の目的でつかわれる道路だった。
朱雀大路の使途は、主に外交の場だった。通常時に住居者が出入りできない朱雀大路は、そもそも「舞台」としてつくられていた。国威を背負って仰々しく仕立てられた外国使節の行列が、その何倍も立派な(と朝廷が信じる)朱雀大路を北上し、天皇に掲見する。
そんな外交の「舞台」だった。また、外国使節だけでなく、神への捧げ物が通る重要な通路としても、朱雀大路は機能した。山車は、異国風を好み、それを重視する。それが日本の伝統文化なのだ。
うへーっ、そうなんですか・・・。
古代末期以降、洛中・洛外の「洛」は京都を意味した。そして、洛中には、実は平安京の半分しか含まれていない。白河法皇は、左京と白河しか自分の治める都市とは考えておらず、右京には関心がなかった。そのため、右京は衰退し、軽視・無視された。左京とは、まったく対照的だった。
平安京と京都の由来を考え直させてくれる、鋭い問題提起がなされている本です。
(2016年12月刊。1800円+税)

2016年6月12日

百人一首の謎を解く

(霧山昴)
著者 草野 隆 、 出版 新潮新書 

 お正月のころに登場してくるカルタと同じ、みなさんもよくご存知の百人一首には実はたくさんの謎があるのだそうです。
 「百人一首」は、その歌を選んだ選者が誰なのか、その作成目的は何だったのか、よく分かっていない。
 「百人一首」には、神様仏様や、菩薩と呼ばれるような徳の高い僧の歌は選ばれていない。経文や仏法を歌う釈教の歌もない。
 選ばれた歌人には、幸福な一生を過ごした人は少ない。また、「読み人知らず」の歌は全然ない。
「百人一首」が歴史に浮上するのは、室町時代のころ。定家が没してから190年もたっている。
 この本では、「百人一首」を定家が選んだとか、その名前にかかわったという説が否定されています。
 「百人一首」には、中納言や権中納言、または前中納言という身分の歌人が妙に多い(10人いる)。そして、内裏や政治的中枢から追われたことがある、ないし非業の死をとげた悲劇の歌人が目立つ(17人)。隠者や僧侶の歌人も多い(14人)。
 「百人一首」の歌の多くが、めでたいものではなく、悲しみに満ちたものである。
 全国を旅してまわっていた連歌師は、和歌の師匠として、「百人一首」に注釈を付して流布につとめた。地方の名士や和歌初学の人に示す教科書として、「百人一首」は格好のものだった。「百人一首」は、初学者向けの学習テキストとして重宝された。
「百人一首」に謎があることを知り、また、その謎の本質を知ることができました。引き続き、お教えください。
(2016年2月刊。740円+税)

2016年3月13日

女子大で「源氏物語」を読む

(霧山昴)
著者  木村 朗子 、 出版  青土社

 恥ずかしながら、私は「源氏物語」を部分的にしか読んだことがありません。現代語訳でも全文を読んでいません。なんとか読みたいとは思っているのですが、手が出ません。この本には、原文と訳があり、解説もありますので、ほとんど原文を飛ばして読みすすめました。
 この本のユニークなところは、女子大(津田塾大学)の学生たちの反応が感想文として折々に紹介されているところです。なるほど、今どきの女子大生は、こんな反応をするのかと興味を惹きました。
 いまから1000年も前に、若き女性が小説を書いていたということ自体が世界的には珍しいことのようです。その点、日本人として偉大な先祖を誇りに思ってよいように思います。
 「源氏物語」を読みにくくしているのは、古文であることはともかくとして、文章の主体が目まぐるしく入れ替わっていること、そして、登場人物の呼び方が、同じ人物なのに、そのときどきに就いている役職名や中将、大将などと変わっていくことによる。『源氏物語』は、語り手が複層的に入り組んでいて、統一視点で語られていない。
平安時代の人々も、実は男女を問わず名前をもっていた。しかし、基本的に名前を呼ぶことはない。
 日本語は、文法上、主語がなくても成立する。
平安貴族の葬儀は、土葬ではなく、火葬だった。火葬を野辺送り(のべおくり)と言う。
平安時代の貴公子は、色が白くて、女性的な方が美しいとされた。
 元服する前の男子は御簾(みす)のなかに入れてもらっていた。元服後は、女性とは御簾越しに対面する。
「雨夜の品定め」というのは有名です。若い貴族たちが自分たちが過去に知り合った女性の話をはじめる。光源氏はそれを狸寝入りをして聞いていて、実践していく。
「中の品」(なかのしな)の女性は、その身分が非常に不安定だけど、だからこそ、いきいきしている。
方違え(かたたがえ)は、浮気するときの格好の言い訳になっていた。うひゃぁ、そんな効用もあったのですか・・・。
 「源氏物語を」レイプ小説だとする説があるそうです。単なるモテ男の浮気話かと思っていたら、レイプだと決めつける説があるというのには驚きました。著者は、それは違うだろうと批判しています。私も、そう思います。
 平安時代、結婚というのは、基本的に当人同士が自由に選ぶことは許されないシステムだった。しかし、性の自由はあった。当時、顔を見て容姿で相手を選ぶことはほとんどない。身分、手紙の文字、紙選びのセンス、和歌の才能などから妄想していた。そして、女性の髪は、たっぷり、ふさふさしていることが、女性の美しさの一つになっていた。
 従者と男主人が連れだってある邸に行ったとき、男主人が女主人と関係しているあいだに、従者は自分の恋人と楽しくやっている。従者がその邸の人と男女関係を取り結ぶことで、はじめて男主人を手引きできた。
 「現代でも、モテる女性はかけひきが上手だというイメージは大きいが、それは平安時代からのことだった・・・」
 戦争中、「源氏物語」は、天皇への尊崇をそこなうものとして、部分的に削除され、禁書になっていた。うへーっ、そ、そうだったんですか・・・。そんな世の中には戻りたくありませんね。アベ政権の大臣が言論統制を強めようとしていますが、とんでもありません。
 昔も今も、女性の不倫話はまったく珍しいものではありません。ですから、平安時代と現在とで貞操観念は変わっていないのです。
 平安時代も、今もと同じく、離婚、再婚はあたり前でした。
 読めば読むほど、現在(いま)の恋愛事情そっくりの話が展開しているのが『源氏物語』なのである。なるほどなるほど、まったく同感です。今の私の法律事務所の経営を支えているのは、男女を問わない不倫による事件なのです。
 これで『源氏物語』を読んだ気になってはいけないのでしょうね。早いとこ全文(とりあえず現代文)にチャレンジしたいと思います。
(2016年2月刊。2200円+税)

2015年11月29日

平泉の光芒

(霧山昴)
著者  柳原 敏昭 、 出版  吉川弘文館

 
私は、平泉の金色堂に二回は行きました。金色堂の荘厳さ、華麗さには思わず息を呑むほど圧倒されてしまいました。
金色堂の内陣、巻柱、梁、壇の高欄には、螺鈿(らでん)細工が施されているが、その原材料は奄美諸島以面でしかとれない夜光貝。その数3万個。また赤木柄短刀の赤木は、南西諸島、東南アジアの樹木である。
 陸奥・出羽の特産品は、金と馬。天皇は金を、院は馬を、それぞれ蔵人所小舎人、廐舎人を平泉に派遣して受けとった。このように平泉と京都の天皇家とは直接、結びついていた。
 平泉の仏教は、天台法華思想を根幹とする。それは「法華経の平和」を追及していた。
 天皇家王権護持に動いていた真言密教を平泉は排除した。天皇家王権の秩序と、平泉藤原氏は一線を画する、独自性・自立性があった。
 治承4年(1174年)8月、源頼朝が伊豆で挙兵した。義経は10月に加わったが、平泉の秀衡は義経が平泉を出発するにあたって、佐藤兄弟を義経に付けた。これは、親切心だけではなく、義経の行動を監視、制御する意思もあったのではないか。 
 そして、秀衡は官職を得ても、これを与えた相手に全面的に協力することはせず、国司の権限を利用して自己の勢力拡大につとめた。
 秀衡の死後、平泉の藤原氏は、頼朝を相手として1年半ものあいだ戦い続けた。
 中尊寺には、金銀字一切経とは、一切の経典の意味。5300巻あり、寺院において完備すべき第一のものだった。清衡のときに作成されたものは、金字と銀字で一行ごとに書き分けたもので、日本には類例をみない破格な一切経だ。
 平泉の無量光院の背後にはパノラマ的な山稜景観があり、金鶏山と一体化している。
 この本のはじめにカラー写真があります。CGによる復元写真なのですが、金鶏山に沈む夕日と無量光院が再現されています。とても神々しい光景です。
 礼拝する者の誰もが、極楽往生を疑似的に体験できる現世の浄土空間だった。
  夕刻になると、日輪(太陽)が山上に没して、見事なパノラマ景観を展開する。このような落日する山の端こそが阿弥陀如来の西方極楽浄土と観念されていた。
  平泉に栄えた奥州藤原氏を多角的に分析した本です。

                     (2012年9月刊。2400円+税)

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