弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2008年6月27日

腸内環境学のすすめ

人間

著者:辨野義己、出版社:岩波科学ライブラリー
 著者の名前は読みにくいですよね。ところが、その自己紹介の言葉を聞くと、すぐに分かります。
 便(べん)の研究をしている辨野(べんの)です。
 うひゃあ、本当なんです。人間のウンチ(便)の研究を長いあいだしてきた学者による画期的な本です。なにがすごいといっても、自分の便(ウンチ)を毎年とって大事に保存しているというのです。その数、なんと5000検体。うち200サンプルを容器に入れて凍結保存している。
 こうやってヒトの腸内常在菌の研究をうまずたゆまずしてくれている学者のおかげで、特別のヨーグルトが商品として売れ、企業として成り立っているのです。いやあ、お疲れさま、としか言いようがありません。私と同世代の学者の苦労話でもあります。
 これまでに種類が解明された腸内常在菌は、腸の中にいる菌全体のわずか2割ほど。残りの8割は、その種類も機能も分かっていない。
 人間の身体のなかで病気の種類が一番多いのは、大腸である。大腸は、人間に病気の発生を知らせる発信源である。
 小腸は6〜7メートル、大腸は1〜1.5メートル。ウンチ(便)をつくるのに重要なはたらきをするのは、大腸にすみつく腸内常在菌だ。腸内常在菌は、全部で1000種類以上いて、糞便1グラムにつき1兆個ほどもいる。重量にして1キログラムにもなる。
 腸内常在菌のうち、善玉菌が2、悪玉菌が1、残りの7割が、どっちでもない日和見菌。日和見菌は、その名のとおり、善玉か悪玉のどちらかが優位になると、すぐに強いほうになびく。そして、この日和見菌が善か悪のどちらになびくかによって、大腸の働きが変わる。したがって、健康を考えるうえで大切なことは、腸内環境の中で、いかに善玉菌の優位を保つか、ということ。
 花粉症に悩まされているヒトも、BB536入りのヨーグルトを毎日食べていると、すっかり症状が軽くなるという実例がある。そうなんですか、本当なんでしょうね。
 実は、私も3年前から花粉症に悩まされているのですが(5年初めから、すっかり良くなりました・・・)、幸いにも自然に感じなくなりました。
 今や、健康の秘訣は、腸内常在菌にあり、とさえ言われる。
 私は、ともかく便秘にならないように気をつけています。弁護士になって2年目でしたが、緊張のあまりに神経症から、下痢と便秘をくり返すようになりました。下痢症状もつらいのですが、便秘もまた、それに劣らずお腹がはって苦しいものです。
 牛乳やヨーグルトが見直されている今日、大いに注目していい研究分野ではないでしょうか。ありがとうございます。
 日曜日に仏検(一級)を受験しました。今回は最悪で、我ながら厭になるほど全然できませんでした。ひどいものです。3割もとれたでしょうか。私の得意とする書き取りまで、みるも無惨でした。聞きとれないし、書けないのです。まあ、それでも8月のフランス旅行を楽しみに、毎朝、ラジオ講座は聴いているのですけれど・・・。
(2008年4月刊。1200円+税)

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2008年6月26日

筑豊じん肺訴訟

司法

著者:小宮 学、出版社:海鳥社
 実にいい本です。久しぶりに、じわーんと心が温まる心地よさを堪能しました。著者の人柄の良さがにじみ出ていて、世の中には、こんな人がいるから、捨てたもんじゃないんだよな。そう思わされました。だって、法廷で弁論しながら、依頼者の置かれた苛酷な状況を思い出して、思わず泣き、勝つべき裁判で思いがけない敗訴判決をもらって一晩中、泣き通したというのです。残念なことに、弁護士生活35年になる私にはそのような経験はありません。いえ、勝つべき裁判で負けて悔しい思いをしたことは何回もあります。でも、負けて悔し泣きを一晩中したというほど肩入れした裁判はありません。なんで裁判官はこんなことが分からないのか、とんでもない、と憤りを覚えたことは、それほど数限りなくあるのですが・・・。
 大変よみやすい本でもあります。とにかく気どりがありません。著者は福岡県南部に生まれ育ちました。著者は仔豚を育てる農家の長男として生まれ育ったのでした。そして、仔豚が高く売れた時代でした。そのおかげで、関西の私立大学(関西学院大学)に進むことができました。まさに豚のおかげです。
 大学では法律研究部に入り、末川杯争奪法律討論会に出た。6人中5位の成績だった。
 久留米で弁護士となり、やがて筑豊へ移った。1985年、筑豊じん肺訴訟を起こすことになった。弁護団長は北九州の松本洋一弁護士。山野鉱ガス爆発訴訟を3年で解決した。この裁判は国を被告としているから少し大変なので、4年で解決する。松本弁護士は、こうぶちあげた。松本弁護士は豪放磊落を絵に描いたような弁護士でした。そのたくまざるユーモアに私は何度も魅きこまれてしまいました。
 著者が担当したじん肺患者の角崎さんは入院中だった。酸素マスクをとりはずし、喉にあいた穴を指でふさいで、小さくこう言った。
 「地獄です。助けてください」
 一審での弁論のとき、角崎さんのその悲痛なうめきを話しながら、著者は泣いてしまった。弁護士の仕事は説得である。相手方を説得し、裁判所を説得し、依頼者を説得し、紛争の解決を目ざす。弁論の最中に泣いたため、説得力のある弁論ができなかった。弁護士として恥ずかしい限り。
 うむむ、こう言われると、泣いたことのない私のほうが、かえって恥ずかしい思いにかられてしまいます。
 松本弁護士は次のように言って弁護団にハッパをかけた。
 被告代理人が理不尽なことを言ったら、腹を立てて大声で怒れ、法廷が混乱してもかまわない。法廷が混乱したときには、オレが引きとってまとめるから、心配するな。
 松本弁護士は、弁護団に議論をたたかわせるが、事態の転換を図る術を知っていた。実際、2回目の裁判のとき、江上、岩城、稲村の3弁護士が激しく被告企業を論難して、法廷は大混乱した。しかし、弁護団の剣幕に圧倒されて、次の3回目から、医師の証人尋問に入ることができた。
 まことにあっぱれです。そうでなくてはいけません。
 被告企業側が裁判のひきのばしを図ると、松本団長以下、そろって地裁所長と高裁事務局長(裁判官)と面会して、国民の裁判を受ける権利が侵害されているので直ちに改善するよう申し入れた。
 す、すごーい。こうするべきなんですね。
 その結果、2ヶ月に1回、午前10時30分から午後4時30分まで証拠調べがされるようになった。昼休みには、裁判所の会議室で原告団と弁護団そして支援する会が一緒に弁当を食べ、裁判の報告をした。すごく交流が深まったことでしょうね。
 一審判決の前日、弁護団は8本の垂れ幕を用意した。「国・企業に勝訴」「時効なし」「全員救済」「画期的判決」「国に敗訴」「企業に勝訴」「時効不当」「不当判決」
 そして1995年7月20日、よもやの「国に敗訴」、「時効敗訴」判決だった。
 7月21日の夜、著者は一睡もできなかった。一晩中、「ちきしょう、ちきしょう」と声を出して泣いた。それから3ヶ月、まったくやる気がわかず、下ばかり向いて歩いていた。秋となり、予定の仕事をすべてキャンセルし、上高地にのぼった。2泊3日の山のぼりで、ようやく敗訴判決を受け入れることができた。
 そのあとは、敗訴判決の原因をきちんと直視して、まき直しを図るのです。すごいものです。人間、やればできるという気にさせます。
 そして、筑豊じん肺訴訟の完全勝利まで18年4ヶ月かかりました。原告患者169人のうち、144人が亡くなっていたのです。
 2007年、筑豊じん肺訴訟記念碑の除幕式が行われました。
 著者は弁護士として、人間として、実に豊かな人生を送っておられるとつくづく思いました。多くの人、とりわけ若手弁護士に一読を強くすすめます。小宮先生、いい本、ありがとうございました。これからも、ますます元気にがんばってください。
(2008年4月刊。1500円+税)

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2008年6月25日

憲兵政治

社会

著者:纐纈 厚、出版社:新日本出版社
 陸上自衛隊情報保全隊は、2003年3月に調査隊を強化して設置された900人の隊員をもつ組織である。中央調査隊が1967年に発足したときは60人だった。
 この情報保全部隊は、本来は、自衛官が秘密裡に外部に漏洩することを取り締まることを任務とする組織である。そんな部隊が、なぜ一般の国民を対象とする監視業務についていたのか。やはり、戦前と同じく、国民を敵視する軍隊の本質が露呈されたとみるべきである。
 いやあ、そうなんですよね。軍隊って、国家すなわち支配層を守るものであって、国民を守る存在ではないのです。この点が、善良な国民は錯覚させられています。
 日本における憲兵創設の直接の背景は、西南戦争の翌年に起きた近衛兵叛乱の竹島事件(1878年8月)だった。この竹島事件については、いくつも面白い本が出ています。残念ながら最近は、話題になっていませんが・・・。
 1881年1月に、陸軍部内に憲兵が設置された。憲兵は、陸軍大臣の管轄下に置かれた。憲兵司令官は、当初は大佐クラスが充てられていたが、その後、中将クラスが就いた。
 憲兵の役割は、軍事警察として平時と戦時とを問わず、総力戦に対応する国民意識の形成を阻害する問題に関心を抱き、捜査警務を主任務とすることが強調された。
 つまり、治安と監視の両面が憲兵の課題とされたのである。憲兵にとって、「左翼狩り」が最大の関心対象だった、憲兵は、警察に代わり、「国軍を破壊するような言論」には弾圧をもってのぞむことを明確にしていた。そして、社会主義や共産主義の思想と運動がソ連の共産主義運動の指導下に日本社会に広まりつつある状況に対して過剰なまでの危機感と警戒感を露わにしていた。それは、天皇制国家支配体制と相容れない思想を基底にすえていたからだ。
 警察との均衡を図る理由から、憲兵上等兵は判任官待遇とされ、一般兵士に比べて給与は格段に高く設定された。1937年ころ、一般兵士の給与が8円80銭だったのに対して、憲兵上等兵は100円だった。うへー、すっごい差がありますね、これって・・・。
 一般兵士と異なる地位と権限、そのうえ高給が保証されていたので、尊大な態度と強圧的な言動に走る憲兵が多かった。なるほど、なーるほど。
 大正9年から昭和はじめにかけて、軍隊内で反軍運動が発生した。大正9年に118件、大正14年241件、昭和3年194件だった。反軍運動の担い手に現役の軍人が含まれるケースが相次いだ。そこで軍は日本共産党への警戒を一段と強めた。1928年の3.15事件のときに検挙された在官軍人は31人に達した。
 戦前の日本軍隊のなかで日本共産党員が反戦・反軍活動をくり広げていたことは、『そびゆるトマト』など、いくつかの本でも紹介されています。すごいものです。彼らは、みんな20代の青年たちです。
 関東大震災のとき、無政府主義者(アナーキスト)として有名な大杉栄を虐殺したのは甘粕正彦憲兵大尉でした。大杉栄はフランスに出かけてパリで検束されるなどの行状もありますが、その書いたものを読むと大変な教養人であったことは間違いありません。その大杉栄を政府に反抗する「主義者」として問答無用と虐殺した憲兵隊の野蛮さは、目を覆わんばかりのものがあります。
 甘粕は軍法会議で有罪となったが、出獄したあと、陸軍の庇護の下でフランスに出かけたりしたあと、満州国で実力者となった。すなわち、大杉栄を虐殺したのは甘粕個人ではなく、日本陸軍なのだ。
 先ほどの陸自保全隊の国民を不当に監視するスパイ活動のなかで、この部隊がマークしていたなかに、秋田市内で開催された「小林多喜二展」まで対象となっていました。本質的には、戦前も戦後も軍隊(自衛隊)はまったく変わらないのですね。
 東條英機は、統制派のリーダーであった永田鉄山少将(狂信的軍人に斬殺された)の片腕的存在だった。東條は関東軍司令官時代に憲兵将校の一団と強いつながりを持った。そして、満州帝国が事実上支配するなかで軍事警察権力を一手に掌握した。
 東條憲兵は、総理大臣たる東條大将に私兵的に奉仕し、東條の権力政治・暗黒政治に加担した。東條は首相になったとき、自らへの一切の批判を許さず、権力の濫用をあえて犯し、政敵や批判勢力を封殺した。
 反東條派の中野正剛代議士を検束せよという要請に、法的根拠が希薄だとこたえて東條の怒りを買った東京地検の中村登音夫思想部長は、急に軍隊に召集された。同じように松阪検事総長も抵抗した。
 東條政権の時代にあっても、法の遵守に体をはった司法官僚が存在したことは注目すべきである。それだけ、東條は独裁的だった。
 昭和天皇は、こんな東條が大好きだったのです。
 長年の軍国主義体制と、これに拍車をかけた東條独裁政治のなかで、動きを封じられていた一般民衆のなかに、深く、かつ暗く沈みこんでしまった憲兵政治という名の恐怖政治のなかで、多くの人は自由闊達に語る術も勇気も、喪失していた。
 自民党の新憲法草案は、今の憲法9条2項を削除して、自衛軍を創設するとしています。自衛軍は当然に軍法会議をともないます。軍人が軍人を裁くというのが建前です。でも、そのことは一般社会の民主主義を大きく破壊してしまいます。その尖兵が憲兵なのです。
 日本に再び憲兵政治を復活させないためにも、憲法9条2項を絶対に削除してはいけません。
(2008年2月刊。1900円+税)

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2008年6月24日

団塊の世代とは何か

社会

著者:佐伯啓思、出版社:講談社
 一億総評論家という言葉は、団塊の世代を論じるのにぴったりだ。かつて「怒れる青年」であった団塊の世代が「物言わぬ中年」となって久しい。団塊の世代が、いま一度、覚醒して「怒れる老年」となるのか否か、注目を集めている。
 団塊の世代とは、昔はともかく、いまは元気がないという印象が強い。
 団塊の世代はリーダーを出していない。政治家にしろ、経済人にしろ、文学者やジャーナリストにせよ、何人かの例外はいても、全体的に元気がなく、しょぼくれている。
 いやあ、こう言われると、実際そのとおりなんですよね、と、頭をかいて下を向くしかありません。団塊世代に引退気分がみちみちているからです。
 そして、団塊の世代の子どもたちが暴れ出した。学級崩壊や校内暴力が生じ、ファミコン・ゲームやケータイが登場するなかで、団塊ジュニアが想定外の犯罪を頻発させ、団塊の世代は深い失望感、思いどおりにいかないという気持ちを募らせ、やる気をなくし、虚脱感に陥った。うむむ、な、なるほど。しばし、声も出ません。でも、しかし・・・。
 団塊の世代は非常に中途半端である。団塊の世代には親の権威主義的な考えが残った。しかし、自分たちが擁護できるような強い価値観をつくり出すのには失敗した。団塊の世代の記憶のなかには、戦後まもなくの貧しさと、貧困の中での人々の絆(きずな)や友情といった価値感覚がある。しかし、それを大きな社会的・世代的価値として打ち出せなかった。そこに戸惑いが生じている。
 団塊の世代の父親世代は、戦争のため、出生人口の半分しか40歳を迎えることができなかった。ところが、団塊の世代はそれ以前の世代と比べて、出生数が多いだけでなく、その後の生存率も高い。
 団塊の世代は人数の割には国会議員が少ない、とは言えない。しかし、人数の割には、とくに自民党で質が乏しい。いやあ、これって革新政党についても言えることですよね。
 団塊の世代が、年金という既得権をもちつつ、自分たちの世代の人数の多さを政治的動員によって政治力に変換し、あらゆる改革に抵抗する一大勢力が生まれたら、日本の将来は暗いものになる。
 いえいえ、これは悪意ある見方ですよ。小泉流のエセ「改革」を手放しで礼賛する立場による、ためにする非難だと思います。
 教養主義が生きていた時代に青年期をおくった団塊の世代は、本を読みたがる。本に価値があると信じている文化の最後に近いグループとして過ごしたからだ。団塊の世代には、書き物への愛着が残っている。何でもいいから読んでいたほうが気が休まるという癖がついている。
 団塊の世代の自画像として、次のように言える。
智に働いた末に無用の人。時代に棹(さお)差して流された。通す意地など、もとよりない。なのに、本人は無用とも流されたとも思わず、通すべき意思を通した結果だと信じたがる。
 これって、夏目漱石の『草枕』の言葉のもじりですね。
 団塊の世代の家族の特徴を一言でいうと、前の世代に比べて、豊かでない家族の中で育ち、豊かな家族生活にあこがれ、それをつくり出したが、子どもへのバトンタッチには失敗した世代。
 団塊の世代は、もう少し自らの存在を顕在化して世の中の数字を動かさないと、やはりただの年寄りとして、あるいは社会的な粗大ごみとして、朽ち果てていくのを待たれるだけになりかねない。
 私は、この残間里江子の指摘にまったく同感です。今こそ団塊の世代は声をあげ、行動に移すべきときです。後期高齢者医療制度が団塊世代をターゲットにしていて、おまえら早く世の中から退場しろなどという策動を絶対に許してはいけません。ソバ打ち、陶芸、オヤジバンドもいいけれど、ひっそり小さくなっていてはダメなのです。
 統計によると、団塊の世代に自殺と殺人と失踪が多いのです。3人の男性が東京で一斉に自殺したという事件がありました。女性だったら、そんなことはしなかっただろうと指摘されています。
 でも黙って死んでいったら、それを高笑いする人間を喜ばせるだけです。なにくそ生き抜いてやるぞ。それこそ、憎まれっ子、世にはばかる。お互い、これでいきたいものです。
 団塊世代の大学生時代の息吹を感じるには、何回も紹介していますが『清冽の炎』(花伝社。第1〜4巻)をおすすめします。これを読んで熱き青春の血を思い出しましょう。
(2008年4月刊。1600円+税)

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2008年6月23日

テレビ番組事始め

社会

著者:志賀信夫、出版社:NHK出版
 今や、まったくテレビを見ない私ですが、もちろん高校生のときまではテレビをよく見ていました。そのころのなつかしいテレビ番組が登場する本です。まさしく労作です。2段組で560頁もある大作です。それでも語り尽くしたというわけではありません。
 私にとって印象に残るテレビ番組のナンバーワンといえば、なんといっても『おはなはん』です。樫山文枝です。テーマソングも良かったですね。大学受験勉強にいそしんでいましたが、ほんわか元気の出てくるテレビ番組でした。ただし、残念なことにこの本には紹介されていません。
 『紅白歌合戦』については、たしか私の高校2年生のときだったと思います。これって、日本を総白痴化する番組だと指摘するエッセーを読み、なるほどそのとおりだと思い、それ以降はプッツリみるのを止めました。それまでは楽しみにみていましたけど・・・。
 ですから、時代が下がりますけど、『8時だヨ!全員集合』とか、私は横目で眺めたことはありますが、一度もみたことはありません。なんで、大のおとなまで、こんなバカバカしい番組をみて無為に時間を費やすのかなあと不思議に思ってきました(今も、おバカ・キャラが受けているというのを聞いて、信じられません)。
 私の小学生のころに始まったのが『バス通り裏』です。十朱幸代が高校1年生のときから20歳まで出演していたそうです。本番でセリフを忘れて、「なんだっけ」と言ったという話は、私も聞いたことがあります。岩下志麻がその1歳年下だったというのを初めて知りました。高校生だった2人は、番組収録のあと、アイススケートに行ったり、遊園地で遊んでいたのだそうです。
 いかにもほんわかとしたホームドラマでした。庶民の日常生活がよく描けていました。
 そして、『お笑い三人組』です。江戸屋猫八、一竜斎貞鳳、三遊亭小金馬のトリオが出て、楠トシエ、音羽美子、桜京美のチャキチャキ三人娘が輝いていました。武智豊子のおばちゃん役も印象に残っています。登場人物のセリフは、いかにも自然で、即興のアドリブが盛りだくさんでした。と思っていたら、すべてのセリフが台本にあったというのです。それくらい、脚本家が楽屋で登場人物をよく観察していたということなのです。
 そして、『事件記者』です。これは、中学・高校とみていたように思います。8年ほど続いたそうです。永井智雄の相沢キャップ。なんて、今もしびれます。イナちゃん(滝田祐介)、ベーさん(原保美)など、鮮明に印象づけられています。小料理屋のママさん(坪内美詠子)にも、高校生の私は、ひそかに色気を感じていました。
 火曜日の夜は、『ジェスチャー』『お笑い三人組』『事件記者』と続いて、35〜40%という高視聴率を保持していた。そうでしょう、そうでしょう。私もずっとみていました。
 『チロリン村とくるみの木』もみていました。黒柳徹子のピーナツのピー子、タマネギのトンペイ(横山道代)、などを覚えています。そして、そのあとが『ひょっこりひょうたん島』です。いやあ、これはすごかったですね。作者の井上ひさしは29歳だったそうです。ひゃあ、若かったんですね。でも、これって、ホント、社会的なストーリーですよ。いろんな肌あいや癖をもった人間たちが一緒に仲良く漂流する。お互いの違いを認めあいながら、異質なものを排除せずに団結していく。それがテーマなのです。
 大人からすると、子どもにはあまり見せたくないと思うほど、きわめてリアルに世の中の状況が描写されていた。うむむ、そうだったんですか。さすがは、『九条の会』の呼びかけ人でもある井上ひさしです。私の、もっとも尊敬する作家です。
(2008年2月刊。3000円+税)

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2008年6月20日

とげ

社会

著者:山本甲士、出版社:小学館
 市民相談室の倉永晴之は、マジで怒っています。なんでオレばかりに!!地方公務員だって、飛ぶときゃ飛ぶよ。
 これは、本のオビに書かれているセリフです。この本を読むと、なるほど、なーるほどと思います。
 私も、月に1回は市役所の市民相談室へ出かけて、そこで2時間半のうちに10人から相談を受けます。1人あたり15分というわけです。相談ですので、簡単なアドバイスですむものが多いのですが、なかには回答できないような高度の質問もあります。ただし、それは、なんとかなります。真面目な人の真剣な相談であれば、こちらも勉強のためにも、あとで調べてでも回答しようという気になるからです。
 問題は、人格障害のような相談者にあたったときです。弁護士だったら、それはとても裁判にはなりませんよ、などといって逃げることができますし、許されます。だって、実際にそうなのですから。ところが、市役所の市民相談室の職員には、そのような逃げ道は許されていません。大変つらい状況に置かれてしまいます。この本は、そんな辛い立場に置かれた市職員を主人公としています。私にとっても身近な存在なので、思わず没入して読みすすめてしまいました。
 大いにありうる状況設定のもとで、次々に話は思わぬ展開をしていきます。といっても、市職員が、ここまで現場で切れてしまうものだろうか、という疑問をもちました。反市長派に取りこまれたりもしながら、結局、陰謀の渦に巻き込まれたりして退職し、市議会議員になるというお話です。
 悪質クレーマーなどをかかえて、その対応に日々、市民相談室の担当者は苦労しているのではないかと推察します。
 でも、でも、市民は、日頃、自分が大切にされていないと感じると、そのうっぷん晴らしをしようとして、手近な市役所にあたり散らすということなのでしょう。だから、やはり、政治の貧困に根本的な問題があるような気がします。いかがでしょうか。
(2005年3月。1700円+税)

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銀座のプロは世界一

社会

著者:佐藤靖貴、出版社:日本経済新聞出版
 弁護士会の役員をしたとき、東京・銀座の周辺に少しだけ出没しました。私にはちょっと縁遠い世界だと実感したものです。なにしろ、どこもびっくりするほどの値段です。最近、日比谷公園近くの一等地にオープンした超高級ホテルは一泊30万円が中クラスの部屋だというのです。世の中には、お金のありあまっている人が厭になるほど多いのですね。
 レストラン(パーラー)のウェイターの心得。壁を背にして待機するときには、両手の指2本を後ろの壁に付けておく。お呼びがかかったら、指で身体を押し出すようにして前に出る。こうすると、颯爽と見える。
 ふむふむ、なるほど、ですね。ウェイターにはキビキビした動作が求められますよね。
 文明堂に『天下文明バームクーヘン』というお菓子があるそうです。700グラム一本で定価5000円もします。1日に18本のみ。週に36本。7等分するので、252個できる。基本的に受注オーダー制。入手しうる最高級の原材料を吟味し、バターは発酵バターをつかって極上のコクを醸し出す。それを職人の舌と勘とでタネを練りあげる。完全な手作業である。
 洋食屋のシェフの話も含蓄があります。
 料理人修業は初めが肝腎だ。初めに本物の味を覚えないと、一流のシェフにはなれない。「本物でない味」を先に身をつけてしまうと、後になって本物の味をつくることはできない。洋食屋の味は、コンソメとデミグラスソースの2つ。デミグラスソースは、牛スジ肉と野菜をとろけるまで煮込んで、それを漉す。そこに、また野菜を炒めて入れて煮込んで漉す。野菜をたっぷり入れると、味がさっぱりする。野菜が少ないと、コラーゲンの煮込みのようになって、くどくなる。9リットルのデミグラソースをつくるのに、牛スジ肉 20キロ、玉ネギ12.5キロをつかう。最終的には、新しくつくったデミグラスソースを前からあるソースにブレンドして、味を均一にする。
 厨房では、いつでも神経を研ぎ澄ませておかなくてはいけない。味は集中して一回でぱっと覚えるもの。漫然と何回も味見をしていても分からない。一発勝負。毎日が、その繰り返し。いやあ、そうなんですか。だから、私なんか味音痴のままなんですね。残念です。
 銀座のレストランに野菜を供給している農家の主も登場します。そこで出来る野菜は造作が大きい。時間をかけ、化学肥料をつかわないで育てるから。農薬はなるべくつかわない。よもぎを大鍋で煮たエキスをつかったりする。これは虫が嫌いな匂いなのである。トマトには、ウイスキーを1000倍に薄めたものをかけてみた。
 銀座の美容室には、顔剃り名人までいます。世界一の剃刀でうぶ毛まで優しく剃ってくれるのです。
 毎日、欠かさず研ぐ剃り刀は20年はつかえる。剃刀の上に髪の毛を載せて軽く息を引きかけたら髪は真っ二つに切れて落ちた。この剃刀の材質は、鋼と地金。
 ほかにも、ものづくり、接客・サービス業など、たくさんの名人が登場します。さすがに日本は職人芸を大切にする国です。これって、いいことですよね。
(2008年3月刊。1700円+税)

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ゴールデンスランバー

社会

著者:伊坂幸太郎、出版社:新潮社
 いま、アメリカの大統領選挙が激しくたたかわれていますが、史上初のアフリカ系アメリカ人(黒人)大統領が誕生する可能性も強まっています。しかし、そのとき、古くはリンカーン、そして私の中学時代に起きたケネディ大統領の暗殺事件のようなことが再び起きるのではないかという不気味な観測記事が、ときどき掲載されています。まことにアメリカっていう国は底知れぬ恐ろしさを秘めた国です。キュー・クラックス・クラウンという陰謀団体、白人至上主義、キリスト教原理主義が、今もはびこる野蛮な国だとつくづく思います。民主主義の仮面をかぶった、世界支配の野望を隠さない、まさに帝国主義国家としか言いようのない実態がありますよね、まったく・・・。
 この本は、ケネディ大統領を暗殺した「犯人」オズワルドがその逮捕直後に消されたことをヒントとして、日本の首相がラジコン・ヘリで爆殺されたと仮定し、その背景を想像をふくらませて描かれた推理小説(?)です。
 したがって、その筋を紹介することはできません。ただ、オズワルドが本当に犯人なのかどうかは、私の知る限りアメリカ国内でも疑われているし、その疑いには一定の合理的根拠があるということです。
 キューバの反革命輸出の失敗などから、アメリカ軍部やマフィアなどが邪魔者となったケネディの抹殺を企図したということでもあります。
 そこで、ケネディ暗殺犯とされ、その「犯行」直後にジャック・ルビーなる怪し気な男に消されてしまったオズワルドのような立場に立たされたとしたら、一体どうなるだろうか、逃げ場はあるか、逃げ切る可能性は果たしてあるのか。それを小説に仮構して描いた本です。少々無理じゃないのかな、と思える状況設定もありますが、最後まで魅きつけるものがありました。
 私は大阪での弁護士会総会に出席した帰りの新幹線のなかで一気に読み上げました。
 国家権力が、その総力をあげて一市民を「犯人」に仕立てあげようとしたとき、マスコミをふくめて全社会を敵にまわすことになります。ほとんど逃げる勝算はありません。ところが、生理的に警察や権力を嫌う人々もいますので、その人々の力をかりることができたら、いくらかの可能性は得られます。
 でも、Nシステムのようなものがさらに発達したときには、どうでしょうか。とりわけ、自分の名前で登録した携帯電話をもっているだけで、自分の居所を捕捉されるという、Nシステム以上の個人探知システムが完成したときには、どうにも逃げ切れるはずがありません。まことに恐ろしい世の中になってしまったものです。
 雨のなか、アガパンサスの花が開きはじめました。ご存知ですか。雨の中に大輪の花火が空に打ちあがった趣きのある花です。私の大好きな花の一つです。グラジオラスや大きな百合の花も咲いています。ヒマワリはぐんぐん伸びていますが、花はまだです。田植えの準備もすすんでいます。
(2007年11月刊。1600円+税)

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2008年6月19日

アメリカを売ったFBI捜査官

アメリカ

著者:デイヴィッド・A・ヴァイス、出版社:早川書房
 最近、映画『アメリカを売った男』をみましたので、その原作本として読みました。ところが、書店にはなく(絶版のようです)、古本屋にもありませんでした。それで、やむなく近くの図書館で取り寄せてもらった本です。さすがに、映画より詳しい事情が分かりました。まさに、事実は小説より奇なり、です。
 2001年2月18日、FBI特別捜査官のボブ・ハンセンは公園を出たところで武装したFBI捜査官の一団に取り囲まれて逮捕された。スパイ容疑である。
 そのとき、ハンセンが発した言葉は、「なんで、こんなに時間がかかったんだ?」
 ボブ・ハンセンは、警察官の息子として育った。父親は息子のボブを精神的に虐待した。父親は、息子に対して大学にすすみ、高級学位をとって医師になってほしいと願っていた。ところが、息子をほめて育てるのではなく、あらを捜し、くりかえし息子を叱った。男になれと諭(さと)しつつ、息子が自信をもてないようにいじめ続けた。だから、息子は父親を内心、大いに憎みながら大きくなった。
 息子が結婚するとき、父親は、妻となろうとする女性に対して、「なにがよくて、こんな男と結婚するんだ?」と問いかけた。ええーっ、うそでしょ。信じられないほどのバカげた父親の言動です。
 ボブ・ハンセンは1970年代はじめにシカゴ警察に入った。そこでは、警察官の非行を摘発する仕事についた。そして、1976年、FBIに移った。
 やる気にみちたボブ・ハンセンだったが、周囲のFBI捜査官にやる気のなさを感じ、幻滅した。しょせんFBIはソ連との戦いには勝てないというあきらめを感じた。そして、自分より劣る捜査官からのけものにされていると感じて、父親を恨みに思ったのと同じようにFBIを恨みはじめた。その恨みはだんだん強くなっていった。だから、FBIには本当に親密な友人はできなかった。
 ボブ・ハンセンはカトリック教徒として洗礼を受け、オプス・デイというカトリック団体に入った。
 ボブ・ハンセンはFBIでソ連の情報関連の仕事をしていたため、KGBに秘密情報を売る行為は、大きな危険を冒すときの高揚感に飢えていたハンセンを満足させた。
 ワシントンのKGBのナンバーツーのチェルカシンにボブ・ハンセンは秘密の手紙を送った。ひゃあ、すごいですね。自らスパイに志願したというのです。それも、個人的な動機から・・・。
 ハンセンは、いつもと何かが違うと疑われないように、家族の面倒やFBIの毎日の仕事に手抜かりがないように気をつけた。
 ハンセンに満足感と活力を与えたのはスパイ行為だった。FBIを翻弄し、ソ連が自分の正体を何も知らないと考えるのは楽しかった。秘密を愛し、自分の担当者との関係で感じられる優位性や支配力がとても気に入っていた。
 KGBのスパイを演じるとき、ハンセンは影響力をもち、自分が支配する立場にたった。ようやく主導権を握る男となったのだ。
 子どものときに父親から受けた虐待の傷は消えなかった。思考を細分化し、隠匿する方法を学んでいた。
 ハンセンは、FBIがいかにして二重スパイをつきとめるかを正確に知っていたので、いくら用心してもしすぎることはないと分かっていた。
 ハンセンは、史上最大のスパイになりたいという冷酷で非情な欲望に駆り立てられていたのだと考えられている。
 FBI捜査官、子ども6人をかかえる一家の長、そしてKGBのスパイという三役をこなすハンセンは忙しかったが、スパイ活動においても日々の生活においても自重して発覚しないようにした。人目につく散財などはしなかった。
 しかし、ハンセンの妻の兄(FBI捜査官をしていた)が、ハンセンが自宅に隠していた数千ドルの現金を家族に見られたとき、スパイ行為をしているのではないかと疑い、FBIの上司に報告した。それは1990年のこと。ところが、FBIは、この報告を取り上げなかった。
 では、ハンセンはスパイ活動で得たお金を何につかったのか。
 1回に2万ドルとか、多いときには5万ドルをハンセンはソ連(KGB)から現金で受けとった。また、モスクワの銀行に80万ドルもの預金があった(ただし、ハンセンが逮捕されて刑務所に入ったため、結局、引き出さないままに終わった)。
 ハンセンは親友と2人で、ワシントン市内のストリップ店でショーを見ながら昼食をとるのが楽しみだった。そして、そこのストリッパーに貢いだ。彼女が歯の治療費が2000ドルいるといえば、すぐに差し出した。そして宝石も贈った。香港旅行に行ったり、ベンツを贈ったり。ところが、彼女がクレジット・カードを勝手につかったことから、ハンセンは直ちに切り捨てた。
 やっぱり、妻以外の女性につかったわけなんですね。そして、ハンセンにはもう一つの趣味がありました。映画にも出てきますが、何も知らない妻をポルノ・スターに仕立てあげたのです。自分たち夫婦の性交渉をビデオで隠しどりして親友に見せたり、のぞき穴を提供していたというのです。インターネットの掲示板に、妻とのセックスを空想して投稿するのを楽しんでいました。敬けんなカトリック教徒でありながら、一方ではハードポルノを楽しむという二面性があったわけです。
 1991年にソ連が崩壊したあと、スパイとして摘発される危険がハンセンに迫った。
 ハンセンをスパイと疑ったFBIは特別な捜査本部を極秘のうちにたちあげて、ハンセンを24時間体制で追跡した。映画にもその様子が出てきます。ハンセンの自宅のすぐ近くの家も借りて監視したというのです。
 ハンセンは、アメリカのスパイとして働いたソ連の将軍やKGB士官の正体を明かした。彼らは直ちに処刑された。このようにハンセンのソ連に対する貢献度は画期的に大きいものがあった。ハンセンは、スパイとして逮捕されたが、終身刑の囚人として、今もアメリカの刑務所に暮らしている。
 この本を読むと、父親の息子への「しつけ」の度が過ぎると、とんでもないことが起きることがよく分かります。でも、本当にそれだけだったのだろうか・・・、という気もするのです。いずれにしろ、実話ですので、興味は尽きません。
(2003年4月刊。2200円+税)

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2008年6月18日

ステータス症候群

社会

著者:マイケル・マーモット、出版社:日本評論社
 見なれない言葉です。いったい何だろう。何の病気かな・・・。そう思って読みました。読み終わったとき、オビの言葉がやっと分かりました。
 日本は、いま大切なものを失おうとしていないか。
 そうなんです。今度の後期高齢者医療制度が、その典型ですね。社会の連帯をズタズタに切って捨て、人々を政府はバラバラにしようとしています。すると、どんな社会になるか。暗黒のアメリカ社会の到来です。富めるヒトはますます富み栄え、貧しい人々はますます貧しく追いやられ、絶望と腐臭にみちた生活を余儀なくされていく。
 著者は2006年に富山で日本公衆衛生学会総会で記念講演したイギリスの教授です。健康は、連続的な勾配をもった社会格差に従うもの。これをステータス症候群と呼ぶ。自律性をもつこと、つまり自分の人生に対してどれだけのコントロールをもてるのかということ、そしてフルに社会と接点をもち、社会的活動に参加できる機会をもつこと。この二つが、健康や厚生、そして長寿に欠かせないものである。自律性(コントロール)や社会参加の機会に不平等が生じていることが、健康格差を生み出している大きな要因である。自律と参加の度合いこそ、ステータス症候群の根底に潜む問題である。
 ワシントンDCの地下鉄に乗って、メリーランド州のモンゴメリー郡まで乗車してみると、それが分かる。1マイル(1.6キロ)すすむごとに、その地区の平均寿命は1.5年ずつ長くなっていく。乗った地区に住む貧乏な黒人と下車した地区に住む裕福な白人では、なんと平均寿命は20年も違う。ロンドンでも、東へ行く地下鉄に乗ると、6駅すすむと、駅ごとに平均余命は1年短くなっていく。いやあ、これって驚きますよね。そこまで違うのですね。
 キューバの平均寿命は男性73.7歳、女性77.5歳。ところが、ロシアでは男性57歳、女性72歳。ひゃあ、すごいですね。男性は長生きできないのですか・・・。
 コスタリカやキューバ、インドのケララ州のように、貧しくても健康状態のよいところもある。逆に、アフリカのシエラレオネでは、子どもの4分の1が5歳になる前に死ぬ。男37歳、女39歳。これが平均寿命だ。平均寿命が短い最大の原因は子どもの死亡率が高いこと。
 アメリカに住む黒人の所得は1人あたり2万6000ドル。世界の標準からすると裕福ということになる。しかし、アメリカの黒人の平均寿命は71.4歳。これに対して、コスタリカは77.9歳、キューバは76.5歳。貧しい国々よりも、かなり短い。
 アメリカでは、所得の不平等と死亡率との関係は、はっきり認められる。つまり、不平等の程度が高いほど、死亡率も高い。アメリカの白人と黒人との平均寿命の差は、女性同士の差よりも、男性同士の差のほうが大きい。
 2002年、アメリカでは国民10万人あたり700人が刑務所にいた。イギリスは 132人、カナダは102人、フランスは85人。そして日本は48人だ。
 日本にはアメリカの大都市にあるような「足を踏み入れてはいけない地区」というものはない。日本社会は、人々の高い信頼によって特徴づけられる。
 アメリカでは、上位20%が全収入の46%を稼いでいる。日本では35%である。
 日本は、犯罪率が低く、教育水準が高く、所得の不平等が小さく、労使関係と経営形態では社会的結束の高さを示す国である。
 
 日本では、男児が5歳前に死ぬ確率は1000人に対して5人、女児は4人。シエラレオネでは、これが男児292人、女児265人。ロシアでは男児23人、女児17人。
 一般に貧困の程度が大きければ大きいほど、攻撃的行動の頻度も多くなる。しかし、すべての子どもがそうなるわけではなく、大半の子どもは健全である。
 ワシントンDCの若い男性の30%は18〜24歳のあいだに薬剤売買で逮捕されているが、残りの大半は決して凶悪犯罪に関わらない。
 社会的に恵まれない環境の子どもたちは、学校に入学して、さらに状況が悪化する。だから、子どもたちが人生においてよいスタートを切るためには、子どもたちの親を、支援することが大切である。
 そうなんです。少子化だからといって子どもを生めよふやせよ、それが義務だと言うだけでは意味がありません。子どもを生み育てることに国が援助を惜しまないことこそ必要なのです。そこを舛添大臣はまったく分かっていません。とてもいい本でした。
(2007年10月刊。3600円+税)

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2008年6月17日

西淀川公害を語る

社会

著者:西淀川公害患者と家族の会、出版社:本の泉社
 大気汚染公害は今も深刻です。私は弁護士になる前から取り組んできました。この本を読みながら、私の青年弁護士時代をふり返ったことでした。そして、写真を見て、みんな若かったなあと思ったのですが、それだけ私も年齢(とし)をとったということなんですよね、残念ながら・・・。
 日本最大、最強を誇る西淀川公害患者の会が設立されたのは1972年(昭和47年)のこと。私が司法修習生になった年です。最高時の会員数2800人(うち15歳以下の子どもが半数)。今は400人。年配者の半分以上が亡くなった。
 西淀川公害裁判は勝利的に解決するまで20年かかった。しかし、その結果えられた和解金40億円のうち25億円が患者への補償金となり、残る15億円がまちづくりなどの資金として活用された。その一つが通所介護施設「あおぞら苑」。5000万円で用地を取得し、開設するのに5000万円をかけた。公害患者用の介護施設である。
 すごいですね。裁判の成果が地域再生の場として活用されているなんて、素晴らしいと思います。たいしたものです。生きるお金のつかい方ですね。
 西淀川区は、1975年(昭和50年)ころ、スモッグが出ると、車は昼間でもライトを照らした。それでも30メートル先しか見えなかった。小学校はスモッグがひどいため、運動会を途中で中止し、別の日に再開することもあった。そのころの子どもの作文を紹介する。
 大阪の空は、灰色だ。
 スモッグで いっぱいだ。
 今日も、また、スモッグで汚れた町の空
 また、あすも、あさっても、くり返されるのだろう
 これでいいのか、西淀川は、
 公害のために、人間がつくった工場に、
 人間が苦しんでいる
 スモッグの年間発生日数は、1956年に88日、1960年には160日、その後は100〜120日前後で推移した。団地のテレビ・アンテナが1年でポロリと折れ、バラバラになってしまったほど。
 1973年10月に公害健康被害補償法が制定された。西淀川区の公害認定患者は1976年に4910人。区民の20人に1人が認定された。
 患者会は国、道路公団そして企業10社を被告として公害裁判に踏み切った。その提訴前に原告となった患者にかいてもらった契約書には、「仮に勝っても、賠償金は完全解決するまでは受けとらない」とあった。な、なーるほど、ですね。
 1978年の第1次提訴の原告は112人。1984年の第2次提訴の原告は470人。被告となった企業からの切り崩しのため、500世帯が辞めていった。
 企業側は、ぜんそくはアレルギーが原因だ、たばこが原因だと主張して、裁判の引き延ばしを図った。いやあ、ひどいものです。なりふりかまわない主張を出しました。
 公害健康被害補償法の改悪が企業、財界側から始まった。臨調会議がその司令塔となった。そこで、患者会は、会議の開かれている東京の庁舎前に600人が集まった。やがて、全員が片手に直訴状をかざして庁舎に太鼓の音とともに乱入し、土光敏夫会長に迫った。瀬島龍三を見つけました。そのときのセリフがすごい。
 「関東軍参謀に用はない。引っ込め。土光に会わせろ」
 患者の会に、関東軍の高級将校を載せる車の運転手をしていた人がいて、瀬島龍三の顔を見知っていたからできた芸です。さすがの瀬島龍三も、びっくりして引き下がったというから、いかにも痛快です。軍人あがりが、反省もなく戦後の日本政治を牛耳るなんて、とんでもないことですよ。
 裁判では、被告側が700人をこす原告全員の尋問を求め、裁判所がこれを受け入れた。月1回のテンポでやったら10年以上かかることになる。そこで、西淀川簡裁の1階法廷と2階会議室の両方をつかって、1回で上下7人ずつ、計14人ずつ尋問することになった。そして、第2次訴訟からは原告4人に1人の代表尋問になった。
 しかし、この原告尋問は、結果としては大変な効果があった。どれだけ患者・遺族が苦しんでいるかを、裁判所と弁護団が深く認識することになったからだ。
 いよいよ、1991年3月、大阪地裁で判決。私と同期の津留崎直美弁護士(久留米出身)は、10通りの声明文を用意した。そして、患者会は・・・?
 なんと、敗訴したときには、患者2000人が法廷に入って座りこみをする計画だったというのです。そ、そんな無茶な・・・。これには、さすがの私もア然としまして、開いた口がふさがりませんでした。
 国と公団を除いて、勝訴判決でしたので、そういう事態にならなくて、本当に幸いです。
 判決直後の関西電力との交渉。なかなか交渉に応じようとしない。さあ、どうする。夕方5時30分、1000人分の弁当が運ばれてきた。「みんな、メシにしよう」と呼びかける。そして、次に貸し布団が運ばれてきて、関電ビルの出入り口にうず高く積み上げられる。「帰らないぞ」という患者会の不退転の決意をしめした。うひゃあ、す、すごーい。そこまでやるのか。まいった、まいりました。いえ、関電がそういって、交渉に応じたのです。
 被告企業10社から40億円近くを出させたときの裏話も紹介されています。企業側の担当者と、実に人間的な接触があったようです。これまた、すごいことです。
 今だから書ける、という内容がたくさんあり、とても面白く、勉強になりました。
 患者会の森脇君雄会長のますますのご活躍を祈念します。
(2008年3月刊。1800円+税)

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2008年6月16日

平安貴族の夢分析

日本史(平安時代)

著者:倉本一宏、出版社:吉川弘文館
 私は毎晩のように夢を見ます。楽しい夢もあれば、変な、いかがわしい夢もあります。夢の世界では、もてもて人間になったりもするのです。これって夢だろうなと夢の中でも思っているのですから、不思議なものです。
 平安時代の貴族がどんな夢を見ていたのか、興味津々で読みました。なあんだ、現代の私たちと同じだったのかー・・・、とがっかりしてしまいました。現代人とはよほど変わった夢を見ているものと考えていたからです。宗教がらみの夢は多かったようですが。
 この本はまず、人間がなぜ夢を毎晩みているのかを解明しています。
 レム睡眠は、日中に収集した不要な情報のデータを消して、翌日、新たに情報を収集できるようにする働きを持っている。脳がたくさんのものを覚えれば覚えるほど、神経回路網が混乱し、間違った情報が混じりこむので、夢をみることによって、人間は余計な情報を消して脳を調律し、脳の可塑性(記憶)を可能にする土壌づくりを行っている。つまり、夢の主要な機能は忘れることにある。な、なーるほど、そういうこと、だったんですね。よく忘れないと、新しい知識を脳は吸収できないというわけです。
 平安時代、夢は寝目つまり、いめと読んだ。
 平安時代の貴族は、朝おきて食事をしたり身繕いをしたりする前に、昨日の儀式や政務を日記に記録していた。具注暦という暦の余白に日記を記した。つまり、平安貴族が朝起きて最初に手にする物体は、鏡の次に日記を記す具注暦だった。
 たとえば、摂政となり関白となった藤原忠平(ふじわらのただひら)の記した『貞信公記』によると、位階を早く上げてほしいという個人的な希望を夢に見たこと、それを日記に記している。
 藤原道長の『御堂関白記』も紹介されています。『御堂関白記』における道長の夢というのは、そのほとんどがどこかに外出あるいは参列することを回避するための根拠としての「夢」である。具体的に「夢」の内容は語られておらず、本当にみたのかどうか怪しい。
 道長には、行きたくない所には夢想を口実にして行かず、やりたいことだけはそれにもかかわらずやるといった行動様式がみてとれる。これは、夢についての平安貴族全般にみられる行動様式だったようだ。そして、陰陽師は依頼者の意思どおりの占いをすることが多かった。な、なーるほど、そういうものなんですよね。昔も今も、変わりませんね。
 平安貴族には、家の存続のためには政治的地位を継ぐ男子と、入内(じゅだい)を予定する女子とが必要であった。ところが、右大臣を26年も在任した藤原実資(ふじわらのさねすけ)は、男子にも女子にも恵まれなかった。
 実資の夢について、夢解き僧がいいことを言って近寄ってきたが、実資はいたって冷静な対応をした。つまり、夢解き僧の言うことを真に受けなかったということです。
 67歳の実資の頬がはれてきたとき、実資は夢の中に出てきた2つの治療法をやってみました。それでも、決して、夢をうのみにしたのではなく、当時考えられる様々な手だてを講じたうえで対処していました。つまり、現実的な対応をしていたというのです。決して夢のご託宣のとおりに動いたわけではありません。
 この実資の『小右記』に登場する夢は、一見すると夢想によって宗教的な怖れを抱いていたかのような観がある。しかし、逆にいうと、金鼓を打たせたり、諷誦(ふじゅ)を修させたりといった措置を講じることによって、日常的な生活に戻っていったのである。必ずしも実資が宗教的な怖れに包まれていたわけではないと考えるべきである。つまり、実資もまた、道長と同じように、夢想を冷静に自分の都合のよいように利用していたのだ。
 なーるほど、そういうことだったのですか。これでは、まるで、現代日本人と同じですよね。
(2008年3月刊。2800円+税)

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2008年6月13日

デザインの力

社会

著者:喜多俊之、出版社:日本経済新聞出版社
 な、なーるほど、デザインの力って、すごーく大きいんだな。そのことを文章と写真で実感させてくれる本です。写真だけ眺めていても楽しくなります。
 デザインは、いま世界でもっとも注目されているキーワードのひとつ。
 中国は、デザインを新資源としてとらえ、首相自ら、工業デザインを重視するというスローガンを掲げて動き始めている。韓国では、大手メーカーを中心として、デザイン開発をテクノロジー開発かそれ以上に重要なこととしてとらえ、ケータイやデジタル家電の分野で大成功をおさめている。
 著者は薄型の液晶テレビ、シャープのAQUOS(アクオス)のデザインをうみ出した人物です。
 それ以降、アクオスにはすべて著者のサインが入っている。イタリアでは、それがあたり前のこと。
 アクオスのデザインを外注化したメリットは、社内では得られないオリジナリティへの期待だ。
 日本企業においては、一般にデザインの価値は相対的に低い。テクノロジーとデザインとは、両輪が補いあって相乗効果をもたらし、ハイテクノロジーとハイセンスとして、一体化して昇華させることこそ、ブランドを目ざすこれからの日本製品にとって大切なのだ。品格ある一流をつくらないと、世界のマーケットにメイド・イン・ジャパンの席はない。
 腕時計なのですが、2つの文字盤がある時計があります。大は今の現地時間。小は故国時間なのでしょうか(もちろん、逆ということもありえます)。飛行機に乗って世界を飛びまわるビジネスマンにとっては大変便利な時計でしょう。私にはまったく必要ありませんが・・・。
 日本は50年ものあいだ、グッド・デザイン賞を授与してきた。これは、世界ではまれなこと。ところが、中国の産業界では、デザインの韓国、技術の日本と言われている。しかし、デザインも大切なのです・・・。
 面白い色と形をした大型イスとか、シンプルで存在感のあるナイフやフォークそしてスプーンまでデザインしています。さすがに、なーるほどと思う作品ばかりです。
(2007年12月刊。1700円+税)

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評伝・菊田一夫

社会

著者:小幡欣治、出版社:岩波書店
 私は「君の名は」の時代の人間ではありませんし、「放浪記」も「がしんたれ」も「がめつい奴」も劇場で見たことはありません。でも、菊田一夫という劇作家がいたということは鮮明な記憶として残っています。なぜなのか、自分でもよく分かりませんが・・・。
 この本は、その菊田一夫の生い立ちから成功して、亡くなるまでをたどっています。菊田一夫という人物の複雑な表も裏も見る思いがしました。
 菊田一夫にすれば、戯曲などというものは、師事して会得するものではなく、自分ひとりで苦労して切り拓いていくものだとする体験的劇作論が根底にあった。しょせん、この世はおのれひとりであって、他人をあてにすべからずという人生哲学に根ざしていた。
 幼時から少年期にかけて辛酸をなめ尽くした菊田一夫は、晩年まで、依怙地なほど、おのれ独りにこだわった。徒党を組むことを嫌った。
 菊田一夫は少年のころ、素直でかしこい子だった。6年生のときの通信簿は、修身、国語、歴史、読み方、唱歌、算術は、全部、甲だった。とくに算術は、どんなときでも  100点だった。ただし、体操と手工と図画はダメで、丙だった。運動神経が鈍くて、手先は不器用だった。
 丁稚奉公をしていた少年時代、仕事がのろくて要領が悪いことから、「この、がしんたれ」と言われて、よく殴られた。「がしんたれ」というのは大阪弁で、能なしの、役に立たない人間だという蔑称だ。
 菊田少年は、ふだんは色が黒くておとなしいので、インドのお地蔵様と言われ、たいがいのことはニコニコ笑って我慢しているが、その限界をこえると狂ったように怒り出す。
 菊田一夫青年は、徳永直の名作『太陽のない街』(これは東京・文京区を舞台としています。私の学生時代には氷川下セツルメントが活動していた町でもあります)に描かれた博文館印刷(のちの共同印刷)の大争議に巻きこまれました。大正15年1月、組合はストライキに突入し、2ヶ月の争議でしたが、官憲の介入によって、組合側の敗北で終わりました。菊田青年は、このとき、間違えられて一晩ブタ箱に入れられました。
 笑いの脚本を書くためには、全力投球で必死になって書かなければ、客を笑わすことはできない。しかし、その背後で、常に笑いを書いている自分を冷徹に見つめている、もう一人の自分がいなければ面白いものはできない。喜劇も悲劇も、作者がおぼれてはならない。ふむふむ、なるほど、ですね。
 菊田一夫は、戦争中に、戦意高揚劇をたくさん書いた。滅私奉公を主軸とした巧みな菊田ドラマに、戦時下の観客が感銘した。だから、終戦後、菊田一夫は戦犯作家と呼ばれ、占領軍の影に脅えながらの日々を過ごした。
 戦後、菊田一夫は、ラジオ放送で、GHQの求めにより『鐘の鳴る丘』で注目を集め、さらに『君の名は』で一大ブームをまき起こした。
 興行師と作家とは、立場が常に相反した存在であって、相反しているが故に緊張感が生み出され、良質な演劇がつくられる可能性がある。かりに、興行師におもねって迎合芝居をかいたとしたら、そのときには下にも置かない扱いを受けたとしても、いつかは捨てられる。魂まで売った作家に対しては、魂を売らずに融通のきかない不器用な作家に対するより、興行師は冷酷である。その意味で菊田一夫の晩年は残念でならない。
 モノカキのはしくれを自称している私としても、大いに示唆に富む評伝でした。
(2008年1月刊。2000円+税)

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実践・法律相談

司法

著者:菅原郁夫・下山晴彦、出版社:東京大学出版会
 相談者中心主義とは、リーガル・カウンセリングの基本的な視点である。相談者が自分で解決方法を発見してもらうほうが好ましいという考え方でもある。法律相談とは、相談者がかかえる問題事案を理解し、その事実に法規をあてはめて権利義務に関する判断をするとともに、問題解決のための法的手続を教示し、必要に応じて代理人として受任するものである。
 そこでは、相談者である市民が主体的に問題を解決する過程において相談を受け、その問題解決の援助を行う。そして、関連する事実に法規をあてはめて権利義務に関する判断を示すことが中心作業となる。カウンセリングとは、援助を求めている人々(相談者)に対する、コミュニケーションを通して援助する人間の営みである。
 私は、これからの弁護士に求められる分野の一つが、このカウンセリングではないかと考えています。私自身、それほど自信があるわけでもありませんが、依頼者(とりわけ多重債務をかかえている人)と話しているとき、これってカウンセラーの仕事だよな、と思うことがしばしばあります。
 弁護士の側が、相談者の話を「聞く」(聴く+訊く)技法を学ぶことは、ますます必要となる。すなわち、相談面接の技法の観点からいえば、話を聞かなければならないのは、相談者ではなく、弁護士の方なのである。
 相談者のニーズを弁護士が把握できないと、会話のくり返しが生じたり、堂々めぐりが起きたりする。また、ニーズを把握しておかないと、必要とされる論点と、その解決策を提示できないまま、法律相談を終了させてしまうことにもなりかねない。相談者のニーズが、法律相談の背後に隠された法律問題以外の問題であることも多い。また、相談者がニーズを複数かかえていることは普通である。そして、相談者が自分のニーズを自覚していないこともある。
 うむむ、なるほど、なーるほど、そういうことって、現実によくあります。
 弁護士に「聴く」姿勢がみられないときには、次の3点の兆候がある。
? 弁護士の話が長すぎる。
? 相談者が自由に話していない。
? 弁護士が話を中断する。会話をさえぎっている。
 つまり、弁護士にとっては、聴くことと焦点をしぼるために尋ねることという、相反する2つをいかに按配して実践していくかは、重要なポイントである。
 相談を受けて分からないときには、分からないので追って調査して答えます、と勇気をもって言うこと。これも専門家としての誠実な態度である。
 そうなんです。ところが、意外に、これって難しいんです。ついつい、相手は素人だと思って適当にごまかしてやり過ごそうという発想になりがちなのです。
 新人弁護士にとって読むべき、必要な本だと思いました。もちろん、ベテラン弁護士も読んだら、初心にかえって弁護士は何をするべきかを、もう一度考えるうえでの素材となると思います。
(2007年7月刊。2600円+税)

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2008年6月12日

宝の海を取り戻せ

社会

著者:松橋隆司、出版社:新日本出版社
 有明海には特産物がたくさんあります。もっとも有名なのは海苔でしょうか。いえ、ムツゴロウかもしれません。魚でいうと、クツゾコと呼ばれるシタビラメ。そうです。あのフランス料理でムニエルとして出てくるものです。そして貝。タイラギの太い貝柱は、ホタテの貝柱に匹敵します。珍しいものでいうと、シャミセンガイです。細い緑色の透きとおった貝です。あっ、そうそう。珍味というと、忘れていけないのに、ワケがあります。イソギンチャクを食べるのです。ミソ漬けにします。コリコリした食感は美味しいですよ。味噌汁にも入れます。このように、まことに有明海は豊かな自然の恵みの宝庫です。
 有明海は、干満差が最大で6メートルにもなる。海面が1日2回上下することになる。これによって海がかき混ぜられ、酸素が隅々まで供給する。
 有明海の漁業生産高が日本一だったのは1980年前後のこと。アサリなどの二枚貝が多いことも理由の一つだった。タイラギ漁師は、年間2000万円も稼いでいた。
 国と長崎県が諫早湾の干拓を始めた。その事業目的は、収益性の高い優良農地を実現することにあるとされた。しかし、干拓地の営農は、秋田県の八郎潟でも岡山県の児島湾でも、どこも困難になっているのが現実である。
 私も、秋田県の八郎潟を見てきたことがあります。タクシーで半日近く見てまわったのですが、ともかく広大な農地ができていました。干拓地ですから、平坦です。大型機械を入れたら、理論上は、大変な高収益の農業ができそうです。でも、そこがうまくいっていないのです。ですから、今さら諫早で干拓地をつくっても、うまくいくはずがありません。
 「しめこき」という言葉が出てきます。初めて聞く言葉です。砂と泥の割合がうまく混じりあってアサリなどがよく育つ状態を言うそうです。
 有明海沿岸4県の覆砂事業費は、1997年から2002年までの6年間で118億円にものぼる。そして、受注した企業が自民党へ政治献金したのが1億7600万円。
 1985年から2000年の16年間で企業が自民党へ献金した総額は10億円にもなる。いやあ、これでは政治家は干拓事業なんて絶対にやめられませんよね。
 1995年からの7年間で、自民党の古賀誠、山崎拓両氏など国会議員9人と自民党熊本県連に10億2000万円が献金された。1人で1億3700万円をもらった議員すらいる。干拓って、一部の人間には金のなる木なのですね。
 国(正確には文科省の外郭団体である科学技術振興機構)がまとめた「失敗百選」に、国営諫早湾干拓事業が選ばれている。そ、そうなんですか。国も失敗を認めているのですね。それにもかかわらず、国の事業は相変わらず続いています。
 長崎県は、県が全額出資する長崎県農業振興公社に干拓農地全部を51億円で買いとらせ、入植希望者にリース配分した。2500億円もの巨費をかけて、入植できるのは、たった45軒の農家と企業のみ。そして、公社が負担する51億円の財源は、県からの貸付金で98年かけて償還するという。
 ひゃあ、100年近くもかけて返していくんですって・・・。そんなこと本当に可能なんでしょうか・・・。干拓地をつくって農地をつくり出す前に、むやみな減反押し付けを日本政府はすぐにもやめるべきです。
 これは、日本の食糧自給率が3割以下という厳しい現実を直視したら、今すぐ直ちに実施すべきことと思います。いかがでしょうか?
 福田さんも舛添さんもあてにならない政治家だと私は思います。
 ところが、全世界的な食糧危機に日本も直面しているのに、自民党の現幹事長が減反政策の見直しを提起すると、元幹事長がすぐにかみつきました。それほどアメリカが怖いんでしょうか。自民党って、骨のずいまでアメリカべったり。アメリカにたてついてまで食糧自給率を上げようなんて発想は、まったくないのですね。あまりにも情けない日本の政権党です。まったく・・・。
(2008年4月刊。1600円+税)

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2008年6月11日

活憲の時代

社会

著者:伊藤千尋、出版社:シネ・フロント社
 私とほとんど同世代の朝日新聞記者です。いやあ、よくがんばっていますね。『反米大陸』(集英社新書)、『太陽の汗、月の涙』(すずさわ書店)など、たくさんの著書があります。私も何冊か読みましたが、著者の鋭い感性と言葉の豊かさには、いつも感嘆し、魅きつけられます。
 この本は、著者の講演を活字にしたものですので、とても読みやすい内容となっています。著者は今なお現役の新聞記者です。記者生活30年のうち、20年間を国際報道に従事していました。ですから、世界の事情をよく知っています。なにしろ世界65ヶ国を取材したというのです。すごいですね。うらやましい限りです。
 アフリカ沖にあるカナリア諸島に日本国憲法9条の碑があるなんて、信じられない事実を知りました。1996年にあった除幕式のとき、みんなでベートーベンの第九「歓喜の歌」を合唱したというのです。9条の素晴らしさを実感できます。
 南米チリでは9.11というと、1973年のこと。当時のアジェンデ大統領に対して軍部がクーデターを起こした日のことをさす。そして、夜9時になって外出禁止時刻になると、主婦の「ナベたたき」が始まる。デモや集会に行くだけが反政府行動ではない。逮捕されるのが怖いなら、自分にできる方法でやればいい。大切なことは、心の中だけで思っているのではなく、一人一人が行動で示すこと。うむむ、なーるほど、そうなんですよね。
 著者はベネズエラで女性から「憲法を知らずに、どうやって生きていくのか」と教え、さとされたそうです。うひゃあ、そ、そうなんですか、まいりました。憲法って、私たちの生活を底辺から支えるものなんですね。
 アメリカでは、9.11のあと、反テロ愛国法なるものが制定されました。テロリスト探しの名目で、警察(FBI)が勝手気ままに電話やインターネットの盗聴を始めました。そのとき、それを拒否した警察署長もいたというのです。カリフォルニア州のパロアルトという町のことです。
 今、アメリカ社会は変わった。9.11のあと、ブッシュに団結しようというスローガンに乗った。しかし、あれはおかしかった。もう、あんなのはイヤだとアメリカ国民の多くが思っている。そうなんですね。だからこそ、オバマが有力なアメリカ大統領候補になっているのだと思います。
 中米のコスタリカでは、小学校に入って最初に習う言葉は、人はだれも愛される権利をがある、ということ。いやあ、これってすごいことですよ。うんうん、実にいい言葉です。ホント、そうなんです。誰だって、自分がされたのと同じことを他人にもしたくなるのです。ということは、自分にされたイヤなことはしたくもなるっていうことです。やっぱり、子どものときから他人(ヒト)を大切にするのが大切なんです。
 コスタリカでは、軍事費をそっくりそのまま教育費にまわした。兵士の数だけ教師をつくった。トラクターは戦車より役に立つ。兵舎はすべて博物館に変える。大賛成です。コスタリカの識字率は今や100%に近い。国民の10人に1人が教員の免状をもっている。す、すごーい。子どもたちが政治に関わるような仕組みになっているのもいいことですよ。
 コスタリカのアリアス大統領は1987年度のノーベル平和賞をもらった。日本の佐藤栄作とちがって、本当に世界平和に貢献したからだ。平和憲法をもっている国の義務は、周囲の国も平和にすること。コスタリカは平和の輸出を始めた。パチパチパチ。心から、拍手を送ります。
 南アメリカでは、1998年以来、10回の大統領選挙があった。反米左派が9勝、親米右派が1勝。反米左派が圧勝した。もうアメリカには追随したくないということ。
 1998年のベネズエラが皮切りとなった。2002年のブラジル、2003年のアルゼンチン、2005年のウルグアイ、2006年のチリ、ペルー、ボリビア、エクアドルと、反米左派政権になった。コロンビアだけがアメリカべったりの大統領だ。ただ、この国ではソ連派ゲリラがいて、アメリカ派だけで選挙したから、そうなっただけだ。
 読んでいると、なんだか思わず元気の出てくる本です。団塊世代も捨てたもんじゃありませんよ、まったく。
(2008年5月刊。999円+税)

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2008年6月10日

肩書きだけの管理職

社会

著者:安田浩一、出版社:旬報社
 企業側に立って労働事件を手がけることの多い、私の親しい弁護士が、先日、今のサラ金・過払金バブルのあとには、無償残業の不払い賃金請求事件が激増するだろうという予測を語っていました。なるほど、そうかもしれません。
 この本は「名ばかり管理職」の非情な労働実態を鋭く告発しています。ひゃあ、そんなにひどいのかと私も少なからず驚きました。本当に衝撃を受けるほどでした。これでは、まるで現代にも奴隷労働があるじゃないかと思ったほどです。一家団らんなんて、夢のまた夢。それどころか、過労死が迫っているのです。今や、カローシ、としてカラオケ並に世界的に有名になってしまった、日本を代表する嫌な言葉です。
 高野氏は1987年にマック社に入社した。マック社は、今、日本全国に3800もの店舗を展開している。マックは、基本的につくり置きせず、しかも1分以内に商品を出す。そこにあるのは、安かろう悪かろうだ。
 私は、この30年間、一度もマックを食べたことのないのを誇りに思っています。化学薬品みたいなものを食べられるものか、という気持ちです。マックにはどれだけの食品添加物が入っているのでしょうか。そして、牛肉。どこで生産されている牛なのでしょうか。アマゾンの原生林を焼き払って牧場に変え、牛を生産しているという事態は変わったのでしょうか。人工飼料による安上がりの牛肉生産方式は、今も続いているのではありませんか・・・。
 マック社は1994年から、アメリカ本社主導で経営改革をすすめた。すべての商品を値下げした。殺伐とした社内の雰囲気。そして、異常な長時間労働。
 日本マックの創業者(藤田田)が2004年に死んでも、マック社は何もしなかった。マック社にはアメリカ流のドライな経営手法が導入された。成果主義は店長の給与ダウンをもたらした。厳しい売上目標とノルマを社員に課した。高野店長は、時間外労働が月100時間をこえ、1ヶ月に3日休めるかどうか。
 管理職と管理監督者とは、まったく異なる存在である。管理職とは、
 ? 職務内容や職務遂行上、経営者と一体的な地位にあるほどの権限を有し、これにともなう責任を負担している。
 ? 本人の裁量で、勤務時間を自由に調整できる権利を有している。出退勤は自由。
 ? その地位にふさわしい処遇を受けている。
 というもの。ところが、高野店長は、このどれにもあてはまらない。まさに、「名ばかり管理職」だ。マック社は、全世界で労働組合への敵視政策をとっている。
 中島氏がすかいらーくに入社したのは1979年。すかいらーくは、「小僧寿し」「ジョナサン」「バーミヤン」「ガスト」などを経営している。
 店長の中島氏は、毎日の拘束時間が最長17時間40分、最短12時間30分。休日は1日のみ。毎月の平均残業時間が150時間。す、すごーいですね。いえ、ひどいです。非人間的な長時間労働です。
 「セブン・イレブン」は日本全国に1万5000店舗をかまえている。労組はなかった。店長の年収は平均400万円。実際、店長の裁量が及ぶ余地などない。防犯用の監視カメラで、休憩時間中に漫画雑誌を読んでいるのを「発見」されて、店長からヒラ社員に降格された。「店長としてふさわしくない」というのが表向きの理由だ。これまた、ひどいです。
 紳士服の『コナカ』では全社員1000人のうち、店長は400人もいる。店長こそ一番早く出勤しなければいけない。開店時間の1時間半前、午前8時30分、店長は店舗のカギを開ける。ノルマを達成するため、社員が自腹で購入する。それは年に30万円ほどになる。これも、ひどいですね。
 店長は税込み月収35万円。ボーナスは年2回、50〜70万円。最低でも1日に13時間は拘束される。労基署が立ち入り調査した。その結果、一般社員720人に対して、未払い残業代として9億円が支給された。店長など管理職400人に対して、特別賞与として4億7000万円が支給された。
 あまりにもひどい労働実態が描かれています。まさに搾取です。これでは現代日本で『蟹工船』が飛ぶように売れ、マルクスが見直され、日本共産党が脚光を浴びるのも当然です。
 庭にグラジオラスの花が咲いています。淡いピンクの花はほのかな色気を感じさせます。ヒマワリに囲まれて、ひっそりと黒紫色に近い濃紺のグラジオラスもあります。
 カンナの花が咲きはじめました。黄色い花に赤の斑(ふ)が入っています。私のお気に入りの色です。本格的な夏到来を示す情熱の花です。
 夏の庭は大変な勢いで雑草がはびこるので、日曜日にあちこち整理して、少しスッキリ感を出しました。
 夜、ホタルを見に歩いて出かけました。2週間前とちがって、チラホラ飛んでいるだけでした。九州北部は、まだ梅雨入りしていないようです。
(2007年12月刊。1300円+税)

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2008年6月 9日

暴力はどこからきたか

サル

著者:山極寿一、出版社:NHKブックス
 ゴリラは弱いもの、小さいものを決していじめない。けんかがあれば第三者が割って入り、先に攻撃したほうをいさめ、攻撃されたほうをかばう。そして、相手を攻撃しても、徹底的に追い詰めたりはしない。ましてや、相手を抹殺しようとするほど激しい敵意を見せることはない。敵意を示すのは自分が不当に扱われたときであり、自己主張をした結果、それが相手に伝われば、それですむ。ここには明らかに人間とは違う敵意の表現がある。
 うひゃあ、これでは、ゴリラのほうが人間よりずっとずっと賢いということですね。
 古代の狩猟民は攻撃的だったという考えが間違いだということは証拠によって明らかとなっている。アウストラロピテクスは、仲間によって殺されたのではなく、ヒョウに捕食されていた。狩猟民たちは、戦いを好まない平和な暮らしを営んでいた。
 ゴリラのオスが立ち上がって胸を勇壮に叩くのは、自己主張のための行動であって、戦いの宣言というよりは、むしろ戦いをせずに引き分けることを意図したものだった。
 霊長類は食虫類から分化した。最初の霊長類は樹上で昆虫を食していたと思われる。つまり、霊長類は、被子植物に群がってくる昆虫を主食としていた。人間の体がサルたちより大きいのは、もともと弱い消化能力を補うという、類人猿と同じ理由による。
 樹上での生活は立体的に世界をながめる視覚を発達させた。三次元空間で食物、仲間、外敵の位置を正確につかむためには立体視が欠かせない。この能力を高めるため、目の位置が顔の側面から前方へと移動し、鼻づらが後退して両目の視野が大幅に重複するようになった。すなわち、樹上生活は人間の視覚のもっとも基本的な能力を築き上げた。
 ニホンザルもゴリラも、メスには単独で暮らす時期はない。ニホンザルのメスは生まれ育った群れを離れることはないし、ゴリラのメスは元の群れを離脱すると、すぐに他の群れに移籍する。他の真猿類の社会でも、メスは単独では暮らさない。それは、メスが他の個体と群がろうという強い傾向をもつためだ。真猿類は昼行性であり、果実などの植物の部位を食物としたことに関係がある。メスは、長い妊娠と授乳の期間中、自分だけでなく、子どもの栄養条件も上げる実用があるから。
 ニホンザルでは、年齢の若い妹のほうが姉よりも順位が高いなる。それは、年の若い娘を母親が庇護するから。ところが、チンパンジーやゴリラでは、メスが生まれ育った群れを出て、他の群れに移ってしまうので、メス間に血縁にもとづく強い結束は生まれない。
 ヒトの男の睾丸はゴリラより大きく、チンパンジーより小さい。精子の密度もちょうど中間である。
 ヒヒもチンパンジーも、メスは毎周期に2週間ほど性皮を腫脹させる。これは、メスが一頭のオスと独占的な交尾関係を結ばず、多くのオスと交尾することによって子どもの父性をあいまいにしようという戦略だと考えられる。オス同士がはりあってメスと交尾する権利を独占しようとするのに対し、メスは性皮を腫脹させて多くのオスを誘い、長期間にわたって交尾することで、どのオスにも繁殖成功の可能性を示している。
 ゴリラのメス同士の関係は実にあっさりしていて、互いにあまり深く関わらないようにしているようだ。メスたちが血縁関係にこだわらずに付きあっているからこそ、ゴリラのメスは親元を離れて見知らぬ仲間のもとへ移籍してもうまくやっていくことができる。
 ゴリラの若いメスの移籍は、恋人選びの旅の始まりである。ゴリラのオスは離乳期から思春期に至るまで熱心に子育てする。
 ゴリラのメスは、発情を迎えたとき、父親以外に成熟したオスがいなければ、群れの外に交尾の相手を求めて群れを離れていく。つまり、オスの子育てによる娘との交尾回避は、娘の分散を促進する効果をもっている。
 ニホンザルのオスにとって、群れとは生涯、身を預けるほど魅力のあるものではない。居心地が悪くなれば群れを出ればよいし、群れ生活が苦手なら、単独で暮らせばよい。
 チンパンジーは、仲直りにとても積極的である。攻撃を仕掛けたほうも、攻撃されたほうも、どちらからともなく近寄ってキスをし、手を握り、抱きあい、毛づくろいする。生涯にわたって自分の生まれた群れで暮らすオスたちは、他のオスの協力をいかに得て、自分の地位をつくるかが最優先の課題となる。
 ゴリラの仲直りは、対面して、じっと顔をつき合わせる行動である。ゴリラは体の接触が起こらない。ただじっと顔を寄せてのぞき込むだけ。接して触れあわずというのがゴリラの付きあい方なのだ。また、ゴリラに特徴的なのは、けんかを第三者が仲裁すること。
 ヒトもチンパンジーもゴリラも、和解するとき、相手とじっと見つめあう。まるで相手の意図を推し量るように相手の顔を見つめ、それから親和的な行動を示す。ボノボも同じような見つめあいをする。
 ゴリラたちは、顔を向けあい、視線を交わしながら、食事する。
 ヒトもサルもチンパンジーもゴリラも、みんな同じで、少しずつ違っているということがよく分かります。ヒトって、やっぱりサルの一種なんですね。
(2007年12月刊。970円+税)

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2008年6月 6日

戦争

アメリカ

著者:Q.サカマキ、出版社:小学館
 パレスチナ、ハイチ、スリランカ、コソボ、アフガニスタン、リベリア、イラクの戦場を生々しく伝える写真集です。よくぞ、こんな写真がとれたものだと感心します。目をそむけてしまいたい写真ばかりです。でも、現実から目をそらすわけにはいきません。そして、その大多数にアメリカが関わっています。まさに「世界の憲兵」としてのアメリカです。いえ、むしろ、アメリカ帝国主義の世界制覇の野望の実証的写真と言ったほうがいいのでしょう。アメリカは、イラクのように、自国に有利な利権があると思えばいち早く石油省だけはなんとしても確保します。自国にとって当面の利権がなければ、現地でどんな虐殺が起きようとも、「そんなのカンケーねえ」と無視してしまいます。
 パレスチナのガザでは、ユダヤ人入植者の子どもたちは、イスラエル政府が提供した装甲車で通勤通学していた。ひゃあ、毎日の生活の始まりが、装甲車だなんて、とんでもないことですよね。
 ハイチでは、クーデターが33回もあったというのです。すごいことです。これでは、国民は、ずっと政争の犠牲になってきた、というのは、まさにそのとおりですよね。
 2004年2月29日、アリスティード大統領が2度目の亡命を余儀なくされた。どうして、こんなに小さく、貧しい国で、何度も何度も凄惨な殺しあいが起きるのでしょうか。アメリカは、イラクとは違って、小国ハイチに利権が乏しいことからでしょうか、まったく無策のままです。
 スリランカもコソボも、アメリカの注目をひかないためか、戦争が続いたままです。
 アフリカのリベリアでは、ドラッグとアルコールでハイとなった少年兵が、耳元を弾丸がつんざいているにもかかわらず、激しい戦闘を楽しんでいるかのようにゆっくり闊歩し、マシンガンを撃ち続ける。「今まで何人殺したかなんて覚えていないし、気にもかけていない」とうそぶく。こんな狂気が、14年間に25万人の生命を奪い、わずか300万人のリベリアの人口の3分の2を難民にしてしまった。
 リベリアには、アメリカを招き入れるほどの利益がないから、アメリカは介入しない。
 最後はイラク。2003年4月のバグダッドの病院の写真があります。フセイン政変崩壊による混乱のなかで、我が身と患者を守るために医師たちが銃をもつ状況です。
 戦争が日常生活のレベルにきたときの悲惨さがよくとらえられている写真集です。こんな写真を見て今夜はよく眠れるかどうか、つい心配してしまいました。といっても、お互い現実から逃げ出すわけにはいきません。
 われらは、全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 いい言葉です。日本国憲法の前文にあります。自民党は、これを削除しようとしています。先日の名古屋高裁判決は平和的生存権は具体的権利として、その侵害をやめさせることができるものだ。このように高らかにうたいあげました。世界に戦火の絶えない今こそ、憲法9条2項を世界中に広げたいものです。
(2007年10月刊。3000円+税)

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アゲハ蝶の白地図

生き物

著者:五十嵐 邁、出版社:世界文化社
 前に同じ著者の『蝶と鉄骨と』(東海大学出版会)を読みました。著者は私より20年も年長の虫屋(正確には、蝶屋)です。世界中、どこまでも蝶を追い求めていく勇気と元気には、ほとほと感心します。なにしろ、乗っていた飛行機が墜落しても、多くの乗客が亡くなるなかで無事だったり、砂漠の中やトラのすむ密林の中をさまよったりするのです。うひゃー、そこまでやるか、という感じです。
 蝶の生態を明らかにするには、オスとメスの違いを一目で見分け、食草を求め、卵を産ませて育てなければいけません。根気づよい作業が求められます。虫屋って、そこまでするんですね。感動すら覚えます。
 日本の蝶愛好家はプロ・アマふくめて2万人。間違いなく世界一。たしか、今をときめく高名な保守政治家もそうでしたよね。
 日本の土着の蝶は233種。ところが、中国の蝶は1300種もいる。日本の土着種すべてを採集した人はわずか1人だけ。中国となると、1300種を採集するのは、容易なことではない。
 日本に産する蝶のほとんどが中国に産する。というより、日本に産する蝶は、中国の蝶のほんの一部に過ぎず、日本は中国の出店でしかない。
 蝶は、見たら欲しくなる。コレクションとは所有欲の究極のもの。けっして癒えることのできない煩悩である。なーるほど、そういうことなんですね。実は、私もよその家にある見事な花や木を見ると、すぐに欲しくなります。かといって、ドロボーするつもりはありませんので、何とかして買い求めたいと思うのです。ところが、これが案に相違して、なかなか容易なことではありません。近くの花屋で売っているとは限りませんし、通販でも容易に手に入りません。
 著者は、1969年7月、イラクへ出張を命じられます。その2年間の出張中、ひまを見つけて蝶の採集にいそしむのですから、並の神経の持ち主ではありません。砂漠の国イラクにも蝶はいるのですね。もちろん、砂漠に蝶がすんでいるわけではありません。
 アゲハチョウは、特有のしっかりした方向性のある飛び方をする。モンシロチョウのような、チラチラと左右にゆれる飛び方はしない。
 蝶を探すときには、食草となるウマノスズクサ科の草を探せばいい。
 一般に、蝶は雌が羽化するころには雄が待っていて、すぐに交尾するもの。だから、自然の中を飛んでいる雌に未交尾雌はいない。ところが、現実には飛んできた雌が未交尾のことがあった。ふむふむ、そうなんですか・・・。
 普通のアゲハチョウは、飼育していると、1週間に1度くらいの割合で脱皮し、孵化後30〜40日で蛹になる。いやはや、じっくり飼育までして観察するのですね。
 すごい本です。世界のアゲハ蝶のいくつかがカラー写真つきで紹介されています。なるほど、なるほど、大のおとなを虜にしてしまう魅力があることがよく分かります。
(2008年2月刊。2800円+税)

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朝令暮改の発想

社会

著者:鈴木敏文、出版社:新潮社
 私はコンビニをなるべく利用しないようにしています。従来型のパパ・ママ・ストアーをつぶしたくないからです。でも、出張したときなどには、コンビニを利用せざるをえません。だって、他に店がなければ選択の余地がないからです。
 この本によると、今や「セブン・イレブン」は日本全国に1万店舗をこえます。一国内の店舗数では世界最大規模。ところが、四国、北陸、山陰など、13の県には1店舗もありません。これをドミナント戦略と言います。ドミナントとは、高密度多店舗出店と言われます。ドミナント戦略は、経営面では物流やシステム、広告、店舗指導等の各面での効率向上などの効果が期待できる。出店地域の消費者に対しては心理的な面で及ぼす影響が大きく、爆発点をもたらす一つの仕掛けになっている。
 うへーん、「セブン・イレブン」って、日本全国どこにでもある店かと思っていましたが、違うのですね。それはともかく、1万店舗を統率するリーダーの言葉には重みがあります。
 過去の経験をなぞる時代は今や完全に終わった。環境が激変し、マーケット全体が縮小(シュリンク)し、アゲンストの風が吹くなかで、仕事の仕方はかつてなく難しくなった。今は、一度言ったことでも、環境が変化して通用しなければ、すぐに訂正して新しい方針を示さなければ変化に取り残されてしまう。朝令暮改をちゅうちょなくできることが優れたリーダーの条件の一つとなっている。
 必要なことは、もう一人の自分を置いて、自分を客観的に見つめ直すこと。自分は過去の経験にとらわれていないか、前回と同じやり方を繰り返すので挑戦にならないのではないかと、「もう一人の自分」から自分をとらえ直す。そして、過去の経験をいったん否定し、一歩ふみ込んで考えてみること。
 顧客がその商品を買うか買わないかは、心理によって大きく左右される。単に需要があれば売れるわけではなく、顧客に買うだけの価値ある商品であることを心理的に認知してもらえなければ、買ってもらえない。まさに心理学の時代である。
 日本の消費者は世界でもっとも対応が難しい。そして、日本ほど「画一化」が進んだ国はない。そうなんですよね。日本人って、ホント、横並び心理が強いですよね。あの人が持っているのなら、私も持っていなければ、と思ってしまうんです。
 日本ではソフトドリンクだけでも毎年1000種類もの新製品が生まれ、そのほとんどが半年、早いものは2週間で店頭から消えてしまう。セブン・イレブンで扱う商品も、年間7割が入れ替わる。これほど商品のライフサイクルが短い国は日本以外にない。
 セブン・イレブンでは、毎週20〜30アイテムの新商品が登場している。
 会議は90分まで。生産性の低い仕事の典型は、多すぎる会議と、そのための膨大な資料づくり。
 人間は、妥協するより、本当はこうありたい、ああありたいと思っているときの方が精神的に安定するものだ。守ろうとする自分があることも認めながら、新しいことに挑戦しようと意欲を持ち続ける。それが人間本来の生き方ではないか。要は自分から逃げないこと。
 コンビニ必要悪論者である私も、大いに学ばされる本でした。
(2008年1月刊。1400円+税)

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2008年6月 5日

ポル・ポト

東南アジア

著者:フィリップ・ショート、出版社:白水社
 不気味な響きのする人名です。あの忌まわしいカンボジア大虐殺を起こした張本人です。
 ポル・ポトは、いろんな名前を持っていました。サロト・サルは本名です。「サルの有名な微笑み」という言葉があります。この本の表紙にもなっていますが、会った人を自然に信用させるにこやかな笑顔です。これで多くの人が結果的に騙されたわけです。
 フランスから戻ってきたサロト・サルは私立学校(高校なのか大学なのか分かりません)で歴史とフランス文学を教えていました。生徒たちは親しみやすい、この教師(サロト・サル)のとりこになったというのです。
 人口700万人のうち150万人がサロト・サルの発想を実現しようとして犠牲になった。処刑されたのはごく少数で、大半は病死、過労死または餓死だった。自国民のこれほどの割合を、自らの指導者による単一の政治的理由による虐殺で失った国は他にない。お金、法廷、新聞、郵便、外国との通信、そして都市という概念さえ、あっさり廃止されてしまった。個人の人権は、集団のために制限されるどころか、全廃されてしまった。個人の創造性、発意、オリジナリティは、それ自体が糾弾された。個人意識は系統的に破壊された。
 サロト・サルは、フランスにいて、最後までフランス語を完全には身につけられなかった。サロト・サルがパリに到着した1949年10月1日は、毛沢東が北京の天安門に立ち、中華人民共和国の設立を宣言した日でもあった。
 サロト・サルは、フランス共産党に加入した。そこでは、元大工見習いで、学歴の低いことが、むしろ評価の対象となった。
 1953年1月に、サロト・サルは帰国した。サロト・サルたちは、みな共産党員のつもりだったが、どの共産党かは分からなかった。インドシナ共産党はベトナム人が支配していた。クメール人民革命党にかわるカンボジア共産党の再結成をめざした。そこで、自称として党ではなく革命組織(アンカ・パデット)と叫んだり、ただアンカ(オンカーとも訳されます)と叫んだりしていた。
 クメール語で「統治」とは、「王国を食いつぶす」という訳になる。シアヌークは、大臣、役人、廷臣、昔なじみ、彼らの汚職をやめさせることも、まして解雇することもできなかった。
 マルクス主義の書物をクメール語に翻訳するという真剣な取り組みがなかったのも、クメール文化が口承に重きを置いていたため。
 シアヌークが失脚してからの2年間、地方におけるクメール・ルージュの政策が人目をひいたのは、主として、その穏健さのため。
 革命への反対は死を意味していた。革命に反対を示した人は、地域の司令部に召喚されたきり、帰ってこないことがほとんどだった。
 革命からそれた人間は、みな害虫だから、それにふさわしい扱いをすれば足りる。これは中世キリスト教の教義に通じるものがあった。
 カンボジア人は、もともと極端なことに魅力を感じる。フランス革命を途中でやめるべきではなかったというクロポトキンの言葉は、パリで学生生活を送っていたポル・ポトに強い影響を与えた。毛沢東さえもクメール・ルージュの水準にまでは至らず、賃金と知識と家庭生活の必要性を認めていた。カンボジアの共産主義者たちは、だれも到達したことのない領域へ進もうとしていた。
 あの人もゼロ、あなたもゼロ。それが共産主義だ。キュー・サムファンは述べていた。財産が有害であるという思想は仏教の天地創造神話に由来している。
 うひゃあ、そんなー・・・。これって、人間の幸福って何かということをまったく考えていない思想ですよね。信じられません。
 1975年の時点で、カンプチア共産党の存在はまだ秘密にされていた。謎に包まれた「アンカ」が、実は共産主義組織かもしれないと公式に匂わされるまでには、さらに1年を要した。国内の党員数は1万人以下だった。
 生かしておいても利益にならない。殺したところで損にならない。
 むひょう、こんな言葉がポル・ポト時代のカンボジアで通用していたのですか・・・。
 人は耕した土の面積で、その価値が測られた。人々は見習うべき雄牛と同じく、エサと水を与えられ、飼われて働かされる消耗品だった。
 人々は、「わたし」ではなく、「わたしたち」と言わなくてはならなかった。子どもは親をおじとおばと呼び、それ以外の大人を父か母と呼んだ。すべての人間関係が集団化された。個体を区別する言葉は抑圧の対象となった。
 1976年以降、ポル・ポト1人が決断を下していた。集団指導体制ではなかった。ポル・ポトは一挙両得をねらっていた。疑いのある分子をすべて抹消した。不純物のない純粋で完璧な党を手に入れると同時に、来るべきベトナムとの闘いに備えて全人口を団結させたいと考えていた。
 1979年1月に民主カンプチアを崩壊させたのはポル・ポトが秘密主義にこだわったから。どうしてもカンボジア国民に事態を告げることができなかった。
 ポル・ポトは、9月からベトナムの侵攻が時間の問題だと知っていた。しかし、非常事態計画を策定しなかった。不信が慣行となったポル・ポト政権が人民を、軍隊でさえ、信用することはありえなかった。ポル・ポトの中枢以外は、誰も十分な情報を与えられなかった。
 日曜の朝までにポル・ポトら民主カンプチアの統治者たちはひそかに首都プノンペンを去り、放棄した。4万人の労働者と兵士たち、そして周辺に駐留していた軍の部隊は指導者もなしに取り残され見捨てられた。メンバーを失っても、指導部を維持すれば、引き続き勝利をおさめることができる。一般人は使い捨てにできるという定理はクメール・ルージュの慣行だった。
 1979年1月の時点では、圧倒的多数のカンボジア人にとって、ベトナム人は救済者に見えた。代々の敵であろうとなかろうと、クメール・ルージュの支配があまりにもひどかったために、それ以外なら何でもましだった。しかし、人々の感謝は長続きしないものだった。数ヶ月のうちに、ベトナム人は感謝されない存在になってしまった。
 ポル・ポトが死んだのは1998年。心不全のために就寝中に死んだ。現在のカンボジア政府の最高権力者のフン・センとチェア・シムは、いずれも元クメール・ルージュだ。
 まったく無慈悲で冷酷で人間的な感情をもちあわせていないと評される人物である。
 ポル・ポトはカンボジアの招いた究極の設計者だ。しかし、単独行動したわけではない。カンボジアの最高にしてもっとも聡明な知的エリートの多くが、ポル・ポトの示した抗争を受け入れたのだ。
 読んでいるうちに大変気分が重たくなる本です。700頁もの大部な厚さがあります。
(2008年1月刊。6800円+税)

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2008年6月 4日

日本国憲法の論点

司法

著者:伊藤 真、出版社:トランスビュー
 著者の講演をつい先日ききました。いやあ、さすがですね。さすがに司法試験界のカリスマ講師と讃えられるだけのことはあります。実に歯切れがよく、明快なのです。なるほど、なるほどと、本当は分かっていなくても、ついつい分かった気になってしまいます。
 憲法の根本的な意義・役割とは何か。それは、権力に歯止めをかけるということ。これは憲法学のもっとも基本的な常識。しかし、そのことが学校で教えられていない。教科書にも出てこない。
 法律は国民をしばり、憲法は権力をしばるもの。だから、日本国民に憲法を守る義務はない。そして、ときに憲法は民主主義を制限することもある。
 憲法は国家の基本法であるからこそ、「気分刷新」といった目的のための、たんなる手段として使うべきではない。憲法には、人権保障と国家権力への歯止め、という憲法本来の目的がある。景気回復や財政改革のために憲法が存在するのではない。
 国民がつくった憲法によって、国民の多数意見の暴走に歯止めをかける。つまり、憲法とは、ときどきの多数意見によって奪ってはいけない価値を明文化したもの。
 多数意見に歯止めをかけるということは、近代憲法は「民主主義」に歯止めをかける存在でもあるということ。したがって、日頃、強い者の側にいる人間にとっては、弱者を守る憲法の必要性を感じない。
 著者の講演を聞いて、もっとも感銘を受け、印象に残ったのがこの部分でした。そうなんです。憲法は強い者にとってはなくてもいい、むしろ、どうでもいいものなんです。しかし、弱い者にとっては拠りどころとなるものなのです。
 憲法99条は、憲法を尊重し擁護する義務を負う者を明記しているが、そこに国民は含まれていない。憲法を守らないといけないのは、国の象徴である天皇、それから公務員、つまり国家権力を行使できる強い立場にいる人間なのである。
 100年前に制定された明治憲法ですら、国民の権利を守る道具であることを明確に自覚して制定されている。いやあ、そうなんですよね。
 理想を掲げることも憲法の重要な役割である。ふむふむ、そうなんですね。
 法と現実とのあいだには必ずズレがある。それを現実にあわないというので法を変えることを繰り返すのでは、法が何のために存在するのか分からなくなる。現実と規範の適度の緊張関係のなかで、現実を少しでも理想に近づける努力をすること、それが憲法に対する誠実な対応である。
 日本は、ポツダム宣言を受諾した時点で、現行憲法が示す価値観を自ら選びとったことになる。それは、決して「押しつけられた」というものではない。
 草案をマッカーサー司令部がつくったからといって「押しつけ」というのは、あたらない。それは、日本の法律のほとんどは官僚が案をつくり、国会で審議して成立させている。このとき、官僚が「押しつけ」たなどという人は誰もいない。審議と議決こそが、法の制定における核心なのである。また、ある意味で、憲法とは、常に「押しつけられるもの」である。少なくとも、近代憲法は、国民から権力者に向かって「押しつけられるもの」なのである。国家権力に歯止めをかけることが目的なのだから、権力側の人間が「押しつけ憲法」と感じるのも、ごくあたりまえのことなのである。
 「高校生からわかる」というキャッチフレーズの本ですが、なるほどそうでしょう。とても分かりやすい憲法読本です。
(2005年7月刊。1800円+税)

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2008年6月 3日

ボローニャ紀行

著者:井上ひさし、出版社:文藝春秋
 私はイタリアには一度も行ったことがありません。ローマというより、ポンペイには、一度は行ってみたいと思うのですが、著者が空港に着いたとたんに虎の子のカバンを盗られてしまったという話に恐れをなしてしまいます。なんと、そのカバンには300万円もの現金を入れていたのです。イタリアに長く住んでいた奥さんは、それを告げられて、何と言ったと思いますか?
 イタリアを甘くみたわね。イタリアは職人の国なのよ。だから、泥棒だって、職人なんです。
 いやあ、まいりました・・・。いやいや、なるほど、ですね。でも、そんな職人とはお近づきになりたくないものです。
 1945年4月、ボローニャの人たちは、当時、街を支配し占領していたナチス・ドイツ軍とイタリア・ファシスト軍に対して何度もデモを行い、ストライキを打ち、戦って自力で街を開放した。パルチザンとしてレジスタンスに参加した市民は1万7000人をこえ、そのうち2064人が戦死か銃殺された。ドイツ軍はドイツ兵が1人殺されるたびに無差別に選び出した市民を10人、報復として銃殺した。それで、2351人の市民が殺された。
 世界最古の大学であるボローニャ大学には1563年まで、校舎がなかった。学生は、街の広場や教会や教授の家で勉強していた。大学での単位取得試験は、すべて筆記と口述の併用。しかも、口述の単位取得試験は公開。同級生や下級生が押しかけ、市民も見学にやってくる。見学者に見守られなかで、教授から繰り出される質問にこたえなければならない。
 ボローニャのフィルム・ライブラリーには5万本の映画がある。人間であれば誰でも無料で利用できる。子どもが50人以上集まれば、いつでも映画が始まる。このシステムは、好きなことに夢中になっている人たちに資金を提供することでなりたっている。奇跡は、そこから始まる。
 いやあ、映画大好きの私にとって、こたえられないサービスですよね、これって。私は、ときどき自宅で古い映画のDVDをみています。でも、やっぱり、映画は映画館の大画面でみたいですよね。
 イタリアの憲法は、イタリアは労働に基礎を置く民主的共和国であり(第1条)、手工業の保護および発展を図る(第45条)と定めているくらいの職人国家である。だから、職人産業省もあれば、職人業保護法や職人金融金庫もある。ボローニャは世界の包装機械の中心地になっている。
 母会社の技術を持ち出すことは許されるが、母会社と同じものをつくってはいけない。ここのシステムが世界中から歓迎されているのは、機械と一緒に熟練した職人がついていくから。買い手側に機械を納品したらそれでおしまいではなく、しばらく職人が機械と一緒に暮らす。買い手の要望を聞きながら、機械の微調整をする。買い手側の技術者がその機械を完全に使いこなせるまで、職人がその地に留まる。
 うむむ、なーるほど、ですね。
 世界中から日本に観光客を集めるためにはどうしたらよいか? それは日本の町並みを100年間そっくりそのまま保存したらいい。そうすると、100年前の日本の姿をみようと世界中から人が集まってくる。
 そうなんですよね。100年前と言わなくても、もし、筑豊や三池の炭住街がそっくりそのまま保存されていたら、炭鉱労働者の生活を見学しようと人々が集まってくると思います。しかし、残念なことに、今ではまったく残っていません。東京・上野に下町風俗博物館がありますが、あれをもっと大きくして保存していたら良かったのです・・・。日本全国で、いや全世界で商店街の空洞化がすすんでいます。郊外型の大型店舗のせいです。
 商店街を専門店の有機的な集合体にするため、改装費用を援助する。商工会議所に店員専門学校を設立してプロの店員を育てる。商店街の内部を改造して学生や老夫婦の住居にする。都心に映画館や劇場をふやす。
 大賛成です。ぜひ日本でも実行してほしい施策です。
 今度、3たびイタリアの首相になるベルルスコーニは、会計帳簿の不実記載を軽微な犯罪とした。刑事罰の対象から、単なる反則金で処理されることになった。これで、脱税や資金洗浄などのマフィアがらみの違法ビジネスが一層促進された。まさに盗賊支配の象徴である。
 ベルルスコーニ政府はマフィアから誘拐されて巨額の身代金を要求されたとき、身代金を公的に貸与する機関をつくろうとも言いだしました。とんでもない提案です。
 いま、ボローニャ大学には120人の日本人学生がいる。うむむ、多いと言いたいのですが、フランス留学生の人数に比べたら(実は、知りません)、きっと少ないと思います。
 私はカルパッチョが大好物です。このカルパッチョというのが、ルネッサンス期のイタリアの画家の名前だというのを初めて知りました。薄切りの牛フィレ肉の赤身が、画家カルパッチョのよくつかった赤色に似ていたということなのです。
 私の尊敬する著者による、軽妙タッチでありながら、大変勉強になった本でした。
 庭に淡いピンクのグラジオラスの花が咲いています。その近くに、ヒマワリが1本すっくと立ち、東向きに大輪の花を咲かせています。ヤマボウシの木の白い花も見事です。有馬温泉に行ったとき、大木になったヤマボウシが白い花をたくさん咲かせていました。そのそばに朱色の百合の花が咲いています。
 夜、ホタルを見に出かけました。まさに乱舞していました。夢幻の世界です。子どもたちが大勢はしゃいでいました。私も童心にかえりました。
(2008年3月刊。1190円+税)

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2008年6月 2日

不倫の惑星

アメリカ

著者:パメラ・ドラッカーマン、出版社:早川書房
 社会人経験のない私が弁護士になって早々に経験したのが夫婦間の離婚事件でした。いやはや大変でした。つくづく司法修習生のときに結婚していて良かったと思いました。離婚事件の多くは一方の不倫が原因となっています。そして、そのかなりのケースで、不倫を無理に否定する配偶者がいます。私は、今も、そんなケースをかかえて苦労します。だいたい、男のほうが攻め落としやすいものです。女性の多くは開き直って、したたかな対応をしてきます。
 この本を読むと、世界各国、どこでも不倫はありふれています。ところが、ビル・クリントンの国(アメリカ)では、不倫が罪悪視されているというのです。私にとって、これほどイメージとかけ離れていることはありませんでした。キリスト教の原理主義者が多いため、今でもダーウィン流の進化論を学校で教えることができないという国だからの変な現象です。
 現在、ほとんどのアメリカ人は17歳までに初体験をするが、26歳にならないと結婚しない。活発な性生活を送りながらも、独身のままでいる時期が、9年間つづく。
 アメリカ人は、2006年の調査でも、道徳的な観点からみて、不倫は、一夫多妻制やヒトクローン以上に許しがたいと答えている。
 不倫が大目に見られたり、勧めたりする特殊な環境もアメリカにはある。シーズン中のスポーツチームや法律事務所である。スポーツ選手のほうは例示があって私も分かりましたが、その一つが法律事務所とは、私にとって理解しがたい驚きです。
 クリントン大統領への弾劾をアメリカ下院が可決した直後にCNNとギャラップが行った世論調査によると、クリントンの支持率が10ポイント上昇して過去最高の73%となった。一方、共和党の支持率は12ポイント下がって31%だった。ほとんどのアメリカ人は、情事は私的な罪でしかないと考えていた。
 アメリカでは、浮気をした人が信頼を回復するには、浮気相手の名前、密会や性交渉の詳細など、伴侶が知りたがることは、どんな細かいことでも隠しだてせずに洗いざらい話す必要があるとすすめられていた。クリントンは、このアドバイスどおりの行動をとった。まず否認するのをやめ、情事を認めた。
 著者(女性)が、アルゼンチンに出張したとき、夫ある身と知りながら男性が口説いたセリフに私はじびれてしまいました。
 「ぼくの妻が、どうして出てくるのか分からない。これは、ぼくときみだけの問題だろう。君に、すばらしい喜びを味あわせてあげようと思っているんだ」
 いやあ、私も一度は、こんなセリフで女性を口説いてみたいと思いました。アルゼンチンの男性には負けてしまいます。
 配偶者の浮気について、ポーランドでは、伴侶のいないところで風船をふくらますと言い、中国では、妻に裏切られた男性は緑色の帽子をかぶると言う。
 ゲイが集まるバーやナイトクラブでは、行きずりのセックス相手を見つけるのに格好の場所だ。一方、ストレートの男性が女性と知り合う場所は学校や職場だから、交際は長く続く。ゲイの男性の43%が、これまで60人以上と関係をもったと答えた。同じ地域に住むストレートの男性では、4%にすぎない。
 ウソをつくのが問題になっているので、真実を話すことがアメリカ人にとっての不倫の解決法になっている。しかし、それを聞いた外国人は、口をそろえて信じられないと言う。裏切られた側としては、不倫の詳細を知ったら心の傷が広がるばかりだろうと考えるわけだ。私も、この考えに同調します。夫婦といえども、やはりお互いに知らないことはあってもいいし、その方がかえって夫婦仲は円満にいくと考えています。
 アメリカ人の夫が嫌うタイプの妻は1950年代の「不感症の女性」から、1990年代には「退屈な女性」に変わった。夫はセクシーな若い秘書と不倫せず、妻より年上で容姿は劣るが一緒にいて楽しい女性を浮気相手に選んでいた。
 ふむふむ、なるほど、ですね。やはり話のあう女性がいいですよね。
 フランス人の不倫は、秘め事はあくまでも秘め事としておく姿勢で貫かれている。嘘をつかないで不倫をすることはできない。
 1991年にソビエト連邦が崩壊すると、セックスが勢いよく表舞台に登場した。ロシアは国民がめったにセックスの話をしない国から、セックスが商品となる国へと変貌した。
 ロシアに不倫が多い理由の一つに、男性が極端に少ないことがあげられる。1980年以降、ロシア人男性の平均寿命は、65歳から58歳に下がった。死因はアルコール、タバコ、業務中のけが、交通事故など。65歳のロシア人は、女性100人に対して男性はわずか46人。ちなみに、アメリカでは女性100人に対して男性は72人。
 ロシアの人口比での男女のアンバランスが、男女のロマンスに影響を与えている。
 40代の独身女性にとって、既婚男性とつきあわなかったら、デートの相手がほぼ皆無。30代、40代そしてそれ以上のロシア人女性にとって、未婚の男性やアル中でない男性は、ロマノフ王朝の豪華な宝石と同じくらい、めったに手に入らない存在となっている。
 ロシア人はアメリカ人に負けずおとらずロマンチストである。そして、ロシア人男性のほとんどは、熟年期を迎える前に死亡してしまう。
 ひゃあ、そうだったのですか。辛いロシアの現実があるのですね・・・。
 イスラム教徒とユダヤ教には、アメリカの税法が簡単に思えてしまうくらいに複雑な戒律があるが、ともに婚外セックスを正当化する抜け穴もある。
 世界は同じようでもあり、違うようでもあるのですね。
(2008年1月刊。1600円+税)

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2008年6月30日

棟梁

社会

著者:小川三夫、出版社:文藝春秋
 私とほとんど同世代(正確には、私のほうが一歳下)なのに、なんと、早くも隠退してしまいました。
 鵤(いかるが)工舎の小川棟梁が、引退を機に後世に語り伝える、技と心のすべて。
 これはオビに書かれている文章です。小川棟梁は法隆寺最後の宮大工だった西岡棟梁の後を継ぎ、徒弟制度で多くの弟子を育て上げました。すごいことです。そんな実績のある棟梁の語る言葉には、一言一句に重みがあります。ついつい耳を傾けてしまいます。
 師匠の西岡常一棟梁は、何にも言葉では教えてくれなかった。一緒に暮らして、一緒に仕事をした。それが教えだった。学ぶ側が何をくみ取るかの問題であって、言葉はない。だいたい、大工や職人には言葉はいらない。カンナ使いの手加減、体づかい、刃のつくり方、削ろうとする木の癖、柔らかさ、どれも体が覚えて判断すること。言葉では言いあらわせない。
 言葉で教えられないから弟子に入る。本や言葉ですむなら、10年もかかって修業する必要はない。やる前に考えて、できないと思うようなら職人として使えない。それでは、小さな体験からはみ出せない。
 弟子に入ったとき、師匠から1年間はラジオも聞かなくていい。テレビもいらない。新聞も読まなくていい。大工の本も何も読む必要はない。ただひたすら刃物を研げ。こう言われた。修業は、そうやってただただ浸りきることが大事なのだ。
 ものを教わり、覚えるのに一番必要なのは素直なこと。そのため、12、3歳までには弟子になる必要がある。遅くても14、5歳まで。うむむ、そうなんですか・・・。
 職人は徒党を組んではいけない。まして修業のときはそうだ。人は人。それぞれ生まれも育ちも性格も才能も違う。最初から違うものと思って扱うし、本人たちもそう思わないと共同生活は成りたたない。仕事のできない人間、遅い者が群れを組みたがる。
 うーむ、なかなか厳しい指摘ですね、これって・・・。
 現場で棟梁をするのが大工。その下が引頭(いんどう)。現場で大工を助ける。仕事の段取りをして、人を実際につかう。その次が長(ちょう)。道具づかいが一人前で、下の者に道具づくりが教えられるようになった人間のこと。一番下が連(れん)。
 アパートから通いたいという人間は、弟子にとるのを断った。体から体に技や考え、感覚を移すのが職人の修業なのだ。
 弟子入りして共同生活した新人に食事や掃除をさせるのには理由がある。掃除をさせたら、その人の仕事に向かう姿勢・性格が分かる。飯をつくらせたら、その人の段取りの良さ、思いやりが分かる。間は技だけ秀でてもダメ。バランスのいい人間である必要がある。そのためにも、一緒に暮らして学ぶことが大切だ。
 ふむふむ、なるほど、なるほどですね。すっかり納得しました。
 大工仕事は段取りが8割。段取りさえうまくいけば、仕事はできたも同然。 棟梁は、みんなより先を見なくてはいけない。全体を見渡せて、棟梁だ。個室に戻って、仕事のことを考えるのから解放されたいというのではダメ。共に耐え、忍ぶ心がなければ、一緒に暮らすのは無理。
 器用は損だ。器用な人は器用におぼれやすい。不器用の一心にまさる名人はいない。
 叱られるのが修業。叱られて身につけていく。叱られるのが大事。しかし、いつまでも叱ってはもらえない。親方に怒られて10年。この10年で基礎を学ぶ。
 檜(ひのき)は強い。法隆寺も薬師寺も、日本の1000年以上の建物は檜があったおかげ。檜は、鉄やコンクリートよりも強い。
 ところが、今の日本は肝心の木がない。
 未熟なうちに仕事を任せるのが肝心。任されるほうもできるとは思っていないけれど、親方がやれと言ったから、オレもできるかもしれないと思う。このタイミングが必要だ。
 頭の中をいつも整理整頓させておくこと。整理されていない頭では次のことが考えられない。これって、まったくそのとおりだと整理整頓の大好きな私は思います。
 健全な組織であるためには、組織を腐らせないこと。
 弁護士にとっても大変役に立つ指摘にみちみちていました。ところで、著者は引退したあと、何をするのでしょうか・・・?
(2008年4月刊。1524円+税)

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2008年6月27日

暗闇のヒミコと

司法

著者:朔 立木、出版社:光文社
 サク・タツキと読みます。刑事事件を主に扱ってきた現役の著名弁護士だということです。実名を知れば、私も名前くらいは知っている人なのでしょう。著者の『お眠り、私の魂』には度肝を抜かれました。東京地裁につとめる裁判官の赤裸々な私生活が描かれていましたので、私は、てっきり現役裁判官の覆面作家が登場してきたものと思いました。それほど裁判所内の描写は真に迫っていました。次の『死亡推定時刻』も読ませました。ぐいぐい引きこまれてしまいました。ただ、このときは田舎(山梨県だったと思います)の弁護士が能力のない弁護士と描かれている印象も受け、同じ田舎の弁護士として少々ひがんだことでした。著者は他にも本を書いているようですが、私は本書が3冊目です。前2冊よりは少々物足りないところがありました。それは推理小説のような真犯人探しと、明快な絵解きを期待したからです。現実の裁判では、明快な論証というのはきわめて困難なものです。双方の言い分が真っ向から反しているとき、どちらにも疑問を感じて、灰色の決着をみるということが現実には多々あります。その点が、この本にも反映されています。
 東京の奥多摩にある高級養護老人施設の老人(男女)2人が水死体となって発見された。当初、事故死とみられていたが、遺族の訴えから殺人事件として捜査が始まり、施設につとめていた看護師が容疑者として浮上する。
 警察官は、自分のしゃべったことがマスコミを通じて「事実」に変わっていくことを知り、マスコミを利用することを学習した。
 そうなんですよね。世間に人は、マスコミの報道は、すなわち真実だと思いこむ(思いこまされる)ものなんです。だから、マスコミって怖いし、下手なことはしゃべれません。
 ところが、この事件の容疑者は、マスコミに派手に登場して、自分の無罪を吹聴していました。それが余計に捜査官を刺激し、執念をかきたててしまったのです。
 日本は自白に頼って捜査し、裁判する国だ。裁判官は、自白があれば他に証拠が弱くても安心して有罪にする。反対に、自白がなければ有罪にするのをためらう。
 日本の、古来(ここでは戦前以来、という意味です)からの自白偏重主義は、やってもいない人が「自白」するはずがないという単純明快な「思い込み」を根拠とします。ところが、実際には、人はやってもいないのに、あたかもやったかのような「自白」をするものなのです。恐ろしい真実です。
 死刑になるのは遠い先のこと。今の、この苦しみから抜け出せれば何と言うこともないという心理のもとで、やってもいないことをやったかのような「自白」をするわけです。
 警察と対決するようなシビアな事件では、家族の面会や差し入れすら警察官による妨害を受けることがある。そういうときには、弁護士が自ら差し入れる。身柄をとられている依頼人の身体的・心理的負担を少しでも軽くして、そういう不自由さのために、心ならずも自白に追いこまれるような事態を避けるのも、日本では重要な弁護活動である。
 日本の裁判官は、『合理的な疑いを越える証明』なんて、考えてはいない。だから、裁判官の考え方ひとつで、同じ証拠で有罪になったり無罪になったりする。それを決めるのは、その裁判官が有罪判決を書きたいか、無罪判決を書きたいか、だけのこと。
 したがって、毎日のように言い渡されている有罪判決の中には、本当は無実の者もふくまれている。ところが、無罪判決を受けた被告人の中にも、ごくまれに、本当はやっているのに無罪判決をとる者が含まれている。
 高裁の審理では、審理が簡単だと被告人に不利な結果になることが多い。逆転有罪って、本当はたくさん証拠調べを追加してはじめて原判決を破棄し、有罪を自判できるはず。ところが、それをせずに逆転有罪となった。ひどいものです。
 推理小説仕立てですから、ここで筋を明らかにするわけにはいきません。悪しからず、ご了承ください。
(2007年12月刊。1600円)

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ジバク

社会

著者:山田宗樹、出版社:幻冬舎
 いまの勝ち組は、いつ何時、負け組に転落するかもしれない、そんな危うさをもっていることを立証するかのような寒々とした小説です。
 主人公は、初めは年収2000万円のファンド・マネージャーとして、格好よく登場します。年に1千億円を動かしている。住まいはJR恵比寿駅近くのマンション。賃料35万円。
 高校の同窓会でも勝ち組として誇らしげだった。ところが、昔あこがれの女性と不倫におちいり、いつのまにか禁じられたインサイダー情報に手を汚し、それが発覚してクビになる。
 ここから暗転が始まります。強いセレブ志向の妻に離婚を申し渡され、せっかくの預金はガッポリもっていかれてしまいました。そのときの妻のセリフは紹介するに値します。
 「あんな大学、行かなきゃ良かった。周りの友だちが、みんなお金持ちで、お父さんが大企業の社長だとか、外交官だとか、医者だとか、そんなのばっかり。学生なのにBMWやポルシェを乗り回して、ファッション誌でモデルが着てる服を当然のように着てきて、たまに家に遊びに行ったら、びっくりするような豪邸で、話をしてもわたしとは縁のない世界のことばかりで。わたしは必死に仲間のような顔をして愛想笑いするしかなかった。貧乏人なのを見抜かれやしないかってビクビクしながら・・・。そのときのわたしの気持ち、わかる?父親が普通のサラリーマンで、ずっと借家住まいの家庭に育ったわたしが、どんな思いで(大学生活の)4年間を過ごしたか、あんたに想像できるの!わたしは、もう、あんな惨めな思いをしたくなかったの!」
 この気持ち、私には理解できませんが、少しだけ想像することができます。私の身近にいた先輩の女性があこがれの学習院大学に入りました。きっと、こんな気持ちになったんじゃないかな、そう思いました。私は、大学生のとき、比較的に「貧乏人」のいる寮(今はない東大駒場寮です。6人部屋でした)に入りましたから、コンプレックスを感じることもなく、ぬくぬくと生活できました。『清冽の炎』第1巻(花伝社)に描かれているとおりの生活でした。
 主人公は次に未公開株を売りつけるインチキ会社に入って、電話でのアポ取り仕事に従事します。でも、なかなか営業成績は上がりません。そんなときに言われて、目を開かされたのが次のセリフです。
 「電話の向こうにいるのは、カモ。それ以外はゴミ。買ってくれるお客様はカモ。買わない奴はゴミ。短時間でゴミを見分けること。あいまいなことを言ってグズグズするだけのタイプはまず買わないので、ゴミ。声がいかにも不機嫌なのもダメ。こういうのは、さっさと切り捨てて、次に行く。ゴミに余計な時間は使わない。ゴミがいくら腹を立てようが、何を言おうが、我々の知ったこっちゃない。勝手にさせておけばいい。しょせんゴミだから、気にするだけバカバカしい」
 「日本には、300万円くらいなら、電話1本でぽんと差し出す金持ちがいくらでもいる。そういう客にあたるまで、ひたすら電話をかけまくる。50万円で臆病風を吹かすような貧乏人なんか、関わるだけエネルギーのムダ。そんなのは、さっさと捨てる。ゴミと分かったら、1秒でも早く捨てて次に行く。まずは数をこなす。1日250本を目ざす。大切にしなくてはいけないのは、おいしい肉をたっぷりと食べさせてくれるカモだけ。お金に余裕のある人なら、必ずもうけ話に興味をもつはず。そういう客にあたったら、ここぞと勝負をかける」
 「ほとんどの人間は、誰かに操られたがっている。人の心を手玉にとったときの快楽は、ほんとうにしびれるほど。その快楽を味わうためにこの仕事をしている」
 「相手が受話器をとっても、すぐにしゃべってはいけない。一呼吸おいて、様子をうかがう。相手の声のトーンに神経を集中し、想像力をフル回転させ、相手の状態を把握する。忙しいのか、ヒマなのか、元気なのか、疲れているのか。
 第一声では、決して早口になってはいけない。言葉を区切って、ゆっくりと相手を確認する。これで、ただの営業ではないかもしれないという印象を与えられる。
 いやあ、ホントなんです。この手の被害にあった人の相談をよく受けます。ところが、被害回復はなかなか難しいので、弁護士としてももどかしく思うことの多いのが現実です。
 仏検が終わって、みじめな思いをかかえて上京するため福岡の空港でチェックインしようとしたら、「予約ありません」という表示が出てきてびっくり。なんと、1日あとの便を予約していたのです。きちんと確認をしなかった私の完全なミスです。まったく厭になってしまいました。でも、なんとかキャンセル待ちで目ざす便に乗ることができました。
(2008年2月刊。1600円+税)

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