弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

インドネシア

2022年1月 4日

女が学者になるとき


(霧山昴)
著者 倉沢 愛子 、 出版 岩波現代文庫

スカルノ大統領の第三夫人となったデヴィ夫人は、日本がインドネシアに対する戦争被害賠償金の関係で誕生した。つまり賠償資金でインドネシアですすめられているプロジェクトの利権をめぐって日本企業が激しい受注競争を展開した。そのひとつ、東日貿易という小さな商社がスカルノに取り入ろうとして紹介した日本女性がデヴィ夫人だった。彼女は東日貿易のタイピストという身分でインドネシアに渡った。そして、日陰の愛人生活を経て、ついに正式な第三夫人の座をモノにしたのだ。なるほど、そういうことだったんですか...。
著者は東大闘争のとき全共闘シンパとして行動したとのこと。今なお、東大闘争の主役を「もちろん全共闘派だ」と言ってはばからないところは本当に残念です。民青派に対しては「不毛な争いを全共闘派に対して挑んでいた」と非難していて、全共闘の暴力賛美について反省するところがまったくありません。そして、全共闘が暴力行使とともに唱えていた「東大(大学)解体」にもかかわらず、自らが大学教授になったのです。私のクラスにも東大解体を叫んでいたのに東大教授になった人がいます。「転向した」などという決めつけは決してしませんが、せめて全共闘の本質だった暴力賛美だけは反省してほしいものだと願います。
というわけで、この本の冒頭の記述は、ほとんど同世代の私には強烈な違和感がありましたが、それを乗り越えると、あとは、ひたすら著者の行動力に驚嘆するばかりでした。
著者は学生結婚したあと、1972年春に夫はサイゴン(ベトナム)へ、本人はジャカルタ(インドネシア)へ渡ったのでした。私が司法修習生になったのと同じ時期です。そして、1975年4月にサイゴン陥落、ベトナム戦争終結までの3年間をベトナムとインドネシアを行ったり来たりして暮らしていたのでした。いやあ、まさしく激動の時代に、その現場にいたわけですね。私が弁護士になって2年目の春、メーデーの会場でサイゴン陥落のニュースを聞いて、みんなで喜びました。
著者はジャカルタでは寮に入って生活した。お昼ご飯はインドネシア人にとって一日でいちばんのご馳走。夕食ではないのですね...。夜の食事は、昼の残りを食べるだけ。
350年間にわたるオランダの植民地支配は欧米の食文化を庶民にしみ込ませてはいなかった。いやあ、これも驚きですね。
この寮には、テレビも洗濯機も冷蔵庫も、もちろんクーラーもなかった。いやはや、なんということでしょう...。
1623年に、バタヴィアには159人の日本人が居住していた。日本人が鎖国とキリスト教禁止で日本に戻れなかったのです。
第二次世界大戦中、日本軍は2個師団5万人の兵力をインドネシアに投入したが、太平洋方面の戦場へどんどん放出させていって、1943年には1万人となった。それで、ジャワ郷土防衛義勇軍が日本軍の命令によってジャワ全土で編成された。「ジャワのためのジャワ人の軍隊」というもの。義勇軍は最終的にジャワ全土で66個大団(大隊)、3万3千人を擁する兵団となった。
著者は、この義勇軍に参加していた元将兵に会って話を聞いていったのです。もちろんインドネシア語で...。のちに大統領になったスハルトも、青年のとき義勇団に入り、小団長になり、中団長にまで昇格したのでした。
1969年代には、国軍のリーダーの大多数は義勇軍の出身者で占められていた。しかも、軍人だけでなく、政界や財界の実力者にもなっていた。
日本占領時の「ロームシャ(労務者)」という言葉が残っていた。海外に派遣されたジャワ人労働者のこと。「ハンチョ」は班長のこと。
1943年から1944年にかけて、郡長や村長などの要職にあるものが次々にケンペイタイ(憲兵隊)に逮捕された。県下4郡のすべての郡長、4ヶ村中3ヶ村の村長、そして区長など合計37人が逮捕され、ついには県長自身に及んだ。日本軍が大量虐殺したのだ。
日本側の歴史書には、もちろんそんな事実は書かれていない。著者が現地でつかんだことだった。
著者は風呂もトイレもない民家に泊まりこんで調査していったのですから、本当に頭が下がります。たいした根性です。私には、とてもできません。さらに、東京に住む前、インドネシアで日本人と再婚して2人の子どもを育てたというのですから、頭が下がるどころではありません。その勇気というか、ガンバリにはひたすら拍手するしかありません。
1998年の本の増補版です。いやあ、女性が学者になったら、こんなに大変だし、活躍できるんだということを改めて思い知りました。
(2021年8月刊。税込1694円)

2020年10月14日

楽園の島と忘れられたジェノサイド


(霧山昴)
著者 倉沢 愛子 、 出版 千倉書房

インドネシアのバリ島は、かつて血塗られた大虐殺の島であり、今も観光道近くに無数の遺体が埋もれたままになっているのに、平和な楽園の島というイメージを損なわないよう、現地の人々が沈黙しているというのです。
有名な観光スポットに行くために観光客が必ず通る道筋にも、海岸の椰子の林の合間にも、数えきれないほどの集団墓地があり、多くの人の魂が今もって成仏できないままに眠っていることを地元の人々はみな知っている。しかし、誰もが観光客に対して無言を保っている。島民の大部分が大なり小なり観光に依存するバリで、かつて大虐殺があったという秘密が明るみに出て、イメージが破壊されるのは致命的だから...。いやあ、私は、知った以上、とてもそんなバリ島に行きたくはありません...。
しかも、虐殺した人々は、今でも良いことをした英雄としてまかり通っていて、むしろ虐殺された被害者の遺族・関係者のほうが肩身が狭い思いを今もしているというのです。まるでアベコベの世界です。
罪なき人々を虐殺したときに使った長刀を手に笑っている男性の写真があります。背筋がゾクゾクしてきます。まったく反省していません。もちろん、殺害して気がおかしくなった人もいました。それはそうでしょうね。昨日までの隣人を問答無用で大量殺戮(りく)していったのですから、フツーの人が平常心を保てるはずがありません。
インドネシアでは、9.30事件後の殺戮を実行した人たちを「アルゴジョ」と呼ぶ。死刑執行人のこと。そして、それは、公的な後押しを得て殺害を請け負う「闇の仕置き人」というニュアンスで、自称としても、ためらいなく使われている。アルゴジョは、「人殺し」ではなく、むしろ国家を共産主義の脅威から救った「英雄」だとみなされている。なので、アルゴジョの多くは、自分たちのやった殺害行為を隠そうとしない。
私は加害者たちを撮った映画(そのタイトルは忘れました...)を数年前にみたように思います。そして、これらの虐殺の実行犯はフツーの市民だったが、それを背後からあおりたてていたのはインドネシア国軍だったと著者は推察しています。
殺害ターゲットの明確で完全な名簿をタイプ打ちする能力をもっていたのは軍だけだった。国軍は、名簿を用意することで、自らの手を汚すことなく、政敵を排除していった。つまり、名簿を渡せば、あとは彼らが殺害を実行してくれた。
インドネシア国軍は、PKI(インドネシア共産党)の側が攻撃を企画しているので、それを防がないと自分たちが危ないという、いわば正当防衛の理論がもち出され、PKIへの恐怖が煽られた。実際には、殺害場所まで連行される途中で抵抗する者はほとんどいなかった。連行される人々は両手をうしろに回し、左右の親指を細い綱で縛られた。
被害者は、何の警告もなく、田んぼや自宅から、ときに深夜に連れ出され、処刑場まで運ばれ、儀式なしに撃たれ、刺し殺され、斬首され、ときには遺体をバラバラにされ、井戸や海に投げ捨てられた。
バリ島では人口160万人のうちの5%、8万人が1965年12月から数ヶ月のうちに虐殺され、今も島内各所に埋められたままになっている。最近になって少しずつ遺骨が掘りあげられ、死者としての儀礼がとりおこなわれている。
先の中公新書『インドネシア大虐殺』は大変よく分かる本でしたが、この本はバリ島に焦点をあてて書かれた大変貴重な労作です。
私は、虐殺された人々の魂の安からんこと、遺族の心に平安を願い、虐殺の実行犯のうしろにいた黒幕たちには相応の法的制裁が今からでも加えられることを願ってやみません。ここには目を背けられない重たい現実があります。
(2020年7月刊。3200円+税)

2020年10月 2日

インドネシア大虐殺


(霧山昴)
著者 倉沢 愛子 、 出版 中公新書

私にとって、インドネシアという国は、なんだか不気味なイメージの国です。だって、私が高校生のころ(1965年から1967年ころまで)に、少なくとも50万人、ひょっとしたら200万人以上もの罪のない人々が裁判にもよらず虐殺され、今に至るまで何ら真相解明されていないというのです。
これに匹敵するルワンダの大虐殺は、今日では、かなり明らかにされていますし、虐殺した犯人たちは裁判にかけられ、社会復帰もすすんでいるようですよね。
カンボジアの大虐殺だって刑事裁判になって、それなりに真相が解明されたわけでしょ。ところが、インドネシアのこれほどの大虐殺が今日に至るまでまったく不問に付されているなんて、信じられません。
このインドネシアの大虐殺と大きく関わっている中国の文化大革命も大変な犠牲者を出していますが、少なくとも文化大革命の悲惨な実情は、今日ではかなり明らかになっています。しかし、インドネシアでは、今なお、この大量虐殺はタブーに等しいようです。
しかも、日本人の好む観光地のバリ島は、その大量虐殺の一大現場のようなのです。
インドネシアでは、このとき、100万人ほどの人々が裁判も終えないまま残酷な手口で命を落とした。その犠牲者の多くは、軍の巧みな宣伝や心理作戦に扇動された民間の反共主義者によって一方的に虐殺された。
この一方的な虐殺をした犯人たちの現在を撮ったルポタージュ映画を私もみましたが、彼らは、処罰されることもなく、フツーの市民生活を送っているのに身も凍る思いがしました。
罪なきユダヤ人を次々に殺していったナチスと同じです。
なぜ、インドネシアの大量虐殺が問題にならなかったし、今もならないのかというと、アメリカそしてイギリスがそれに積極的に加担していたこと、ソ連も中国も、それぞれの思惑から抗議の声をあげえなかったことがありました。いわば大国のエゴが人々の生命を奪ったようなものです。
インドネシア共産党は、この直前まで世界的にみても強大なものでした。アイディット議長は、若かったのですね。そして、毛沢東に軍事蜂起路線をけしかけられていたようです。毛沢東が文化大革命を起こす直前ですので、このころは落ち目で、なんとか挽回しようと秘策を練っていたようです。それにしても毛沢東は無責任ですし、それに乗せられてしまったインドネシア共産党は哀れでした。
スカルノ大統領は欧米諸国ときわめて険悪な関係にあり、また国内では経済が発展せず、人々は食うに困る状況だったようです。
スカルノ大統領の妻の一人であるデビ夫人(根本奈保子)が有名ですが、日本はインドネシアの経済には深く食い込んでいたようです(今も)。でも、自力更生を唱えるスカルノ大統領の下で、庶民は飢餓状態にあったというのです。やはり、衣・食・住がきちんと保障されていない社会では大虐殺の歯止めがきかないのでしょうか...、残念です。100万人もの人々がほとんど抵抗もせず、逮捕・連行されて殺されていったというのですが、それにはこのような社会が飢餓状態で麻痺していたということも大きかったのではないかと推察します。
インドネシア共産党(PKI)は1955年の国政選挙で、16.4%の得票率で39議席を獲得し第4党となった。そして、1963年末には250万人の党員を擁すると自称した。9.30事件の直前の1965年8月には、PKI関係者は1500万人から2000万人、つまり人口の6分の1だった。それほどの勢力をもっていたのに、たちまち圧殺され、その1割もの人々が虐殺されたなんて、まったく信じられない出来事です。
このときの大量虐殺について、ときの検事総長は、「殺害された者が共産党主義者であったという証拠が提示できれば十分で、それがあれば殺害行為の責任は追及しない」と明言したとのこと。信じがたい暴言です。
インドネシアでは、庶民の住む地域では宿泊した人は24時間以内に隣組長に届出が必要だというのです。いやはや・・・。それでも少なくない人々が、偽名をつかって生きのびたとのことで、ほんの少しだけ救われました。
私は、インドネシアが本当に民主主義の国になるためには、この大虐殺の事実と責任を明らかにすることが不可欠だと改めて思いました。なにしろ、起きたことがひどすぎます...。この本を読みながら、泣けてきました...。
(2020年6月刊。820円+税)

2020年9月 6日

ラマレラ、最後のクジラの民


(霧山昴)
著者 ダグ・ボック・クラーク 、 出版 NHK出版

インドネシアの小さな島(レンバダ島)で伝統的なクジラ漁に生きるラマレラの人々の生活に密着・取材したアメリカ人のフォト・ジャーナリストによる迫真のレポートです。
ラマレラの人々が狙うのは60トンもある巨大なマッコウクジラ。小さな船が寄り集まって、勢いよくモリを突き刺し、弱らせて殺し、浜辺で待つ家族にもち帰るのです。
まったくの手作業ですから、ラマレラの人々に殺されるマッコウクジラの数なんて、たかが知れています。それなのに、ヨーロッパのWWFなどは敵視して、無理にでも止めさせようとするのです。大いな矛盾です。ちょっと、目ざす方向が間違っているのではないかという気がしてなりません。
アメリカ人の著者は、2014年から2018年にかけて、合計して1年間、ラマレラに住みついて過ごしたとのこと。ラマレラ語も話せるようになり、漁にも何十回となく参加したのです。
アメリカ人の著者が通った4年のうちに、ラマレラの人々の生活はずい分と変化した。
今では、インターネットが入りこみ、スマホとSNSが使われている。物々交換がほとんどだったのが、現金取引することが多くなった。
沖合を回遊するマッコウクジラを1頭でもとれたら、1500人いるラマレラの人々は、数週間は食べていける。数十人の男たちが連携して巨大なクジラを倒し、とれた獲物は、公正に分配する。ラマレラは猟師300人。年に30頭をとる。捕鯨で生きている唯一の村。海の荒れる雨期には、クジラの干し肉で生きのびる。
野生のマッコウクジラは、今でも数十万頭は生きているので、ラマレラの人々が年に20頭も殺したとして、世界的生息数に何の影響も及ぼさない。
ラマレラの人々はキリスト教の信者だが、同時に、先祖から受け継いだ呪術的な宗教儀式を今も実践している。
ラマレラのクジラ狩りは、できるだけ多くの銛(モリ)をクジラに打ち込み、ほかの銛を足していく。銛につながった網で船数隻の重量をひっぱることになったクジラが次第に疲れ、弱ったところを前後左右から漁師たちが攻撃する。一隻ではとてもクジラと太刀打ちできないが、チームでならどんな巨大なクジラも倒すことができる。
しかし、クジラ狩りは、いつも危険と隣りあわせ。けがもするし、ときには生命を落としてしまう。
クジラの干し肉は、細長くスライスして、竹の物干し竿にぶら下げ、南国の太陽と乾燥した空気で干物にする。そして、漁業をしない山の民が育てた野菜と交換する。クジラの干し肉1枚でバナナ12本、あるいは未脱穀のコメ1キロ。
ラマレラには21の氏族があり、大きく37のグループに分かれる。嫁をとるグループは決まっていて、Aグループの男にはBグループの女から、BグループにはCグループから、そしてCグループにはAグループから女が嫁ぐ。
クジラ狩りの季節は、毎年5月に始まる。
インドネシアの男性の平均寿命は67歳で、アメリカ男性より10年も短い。
クジラに打ち勝つ方法はただ一つ。祖先がそうしていたように、ラマレラの人々みなが力を合わせること。一つの家族、一つの心、一つの行動、一つの目的だ。
クジラ狩りで生きてきたラマレラの人々がこれからも、それで生きていけるのか、「文明化」の波に押し流され、すっかり変わってしまうのが、ぜひ注目したいところです。
450頁もある部厚い本ですが、そこで伝えられるクジラ狩り漁の勇ましさ、その苦労に圧倒されてしまいました。
(2020年5月刊。3000円+税)

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