弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ドイツ

2021年3月17日

白い骨片


(霧山昴)
著者 クリストフ・コニェ 、 出版 白水社

ナチスの強制(絶滅)収容所内の様子を撮った写真をこれほどたくさん見たのは初めてです。収容所内部でも抵抗運動している人たち(グループ)がいて、外の世界へ収容所の実情を知らせるため、カメラで写真をとっていたのです、まさに生命がけの取り組みでした。
カメラをどうやって収容所内に持ち込んだのか、とったフィルムをどうやって外へ持ち出していたのか、カメラは収容所内のどんなところに隠していたのか...、次々に疑問が湧いてきます。この本のなかで、そのすべてが解明されているわけではありません。
たとえば、カメラは外部から協力者によって持ち込まれたという説と、収容所に連れてこられたユダヤ人の所持品のなかから見つかったものが、こっそり抵抗グループに渡されたという説があり、どちらか決着はついていないようです。カメラは、ピント合わせの必要のない簡単な素人向けカメラだったという説もあります。
そして、カメラを向けて死体焼却の現場を取るというのは、まさしく生命かけでした。
女性たちが丸裸になってガス室へ追いたてられている写真もあります。シャワー室だと騙されていたのです。
収容所に写真部があり、そこには13人の囚人が配置されていたというのにも驚きました。でも、収容所には到着早々にガス室に送られた囚人だけではなく、政治犯やジプシーなど、いろんな人がいましたし、収容所では写真つきで囚人を管理していたのですから、写真部があるのも考えてみれば当然のことです。
写真部は、フランス人のジョルジュのほか、12人の囚人は全員ドイツ人で、共産主義者、エホバの証人、組合活動家、反ファシズム主義者だった、とのこと。
5つの強制収容所で、1943年春から1944年秋までに、隠し取りに成功していた。ダッハウ収容所で50枚以上(チェコの囚人であるルドルフ・ツィサルと、ベルギーの囚人ジャン・ブリショ)、ブーヘンヴァルト収容所で7枚(チェコの囚人3人)と、11枚(フランス人ジョルジュ・アンジェリ)、ラーヴェンスブリュックで収容所で5枚(ポーランド人のヨアンナ・シトゥオフスカ)、ビルケナウ収容所で4枚(ギリシアのアルベルト・エレラ)。
このほかソビブル絶滅収容所の写真が361枚もある。このなかには、SS将校の子孫が49枚の写真を提供したものが含まれている。
収容所内には、映画館があり、売春宿もあったとのこと。これも初耳でした。
ホールでは、見世物やコンサートもあって、ロシア人は音楽を演奏し、囚人がかの有名なコサック・ダンスを披露したのでした。
そして、収容所内に秘密のラジオがあった。受信機と送信機を設置・導入した人もいたのです。チェコの抵抗家ヤン・ハルプカといいます。逮捕され拷問を受けても仲間を明かさず、処刑された。
収容所内で20人ほどの男性がカメラに向かってポーズをとっている写真まであるのには驚かされます。カメラがあるのを問題にしている様子はありません。これは、いったいどういうことでしょうか...。
肖像写真は、この人の家族やレジスタンス組織網に提供して、ダッハウ収容所に存在していることを知らせるためのものだった。つまり、外部と連絡がとれていたというわけです。
レジスタンスに参加して捕まった若いポーランド人女性たちがウサギ(病気感染実験のモルモット)にされていました。彼女らの太腿(ふともも)の筋肉に切り込みを入れて病原菌を埋め込む実験の材料とされたのです。写真は、そんな彼女らの太ももを写したものまであります。よくぞ収容所内でこんな写真がとれたものです。そして、ウサギとされた女性の多くはあとで殺害されてしまいましたが、生きのびた人もいました。そのなかには、こんなひどい実験に対して刑務所当局へ抗議しに行った人たちもいるというのですから、まさしくびっくりです。黙って殺された人たちだけではなかったのですね...。
もっともっと、たくさんの写真を紹介してほしいと思いました。そして、その写真を撮った人、写っている人、どうやって写真がナチスの手と目を逃れて外の世界へ伝えられたのか、知りたいです。ともかく、まさしくおどろきの本です。収容所内にも「日常生活」があったことを写真によってイメージがつかめました。タイトルの「白い骨片」とは、もちろん収容所で殺されたユダヤ人など無数の遺体の骨片のことです。焼いたあと、ゾンダーコマンド(特別班の囚人)が骨を粉々にしたのですが、それでも骨片としては残ります。いま、沖縄で辺野古の埋立に骨片の入った山砂を使うなという運動が起きていますが、同じようなものです。大量殺害の事実を風化させては、忘れ去ってはいけません。少し高価な本ですので、ぜひ図書館に注文して読んでみてください。
(2020年12月刊。7000円+税)

2020年12月25日

ナチの妻たち


(霧山昴)
著者 ジェイムズ・ワイリー 、 出版 中央公論新社

ヒトラー・ナチスのトップの妻たちの生々しい実像が明らかにされた衝撃的な本です。
ナチスのトップに君臨していた人々の家庭がどういうものであったかを知ると、ナチス・ドイツをさらに深く識ることができると実感しました。マルチン、ボルマン、ゲッベルス、ケンリング、ヘス、ハイドリヒ、ヒトラーの妻が登場します。そして、ヒトラーの愛人たちも...。妻たちも激しく対立・抗争していたようです。
この女性たちの経歴は驚くほど似ている。立派な教育を受け、みな保守的な中産階級、つまり専門的職業、実業家、軍人、下級貴族の出身。これらの階級では、男女の性別による役割は厳格に規定されていた。どんな功績があろうと、女性が何より望むのは、よき夫を見つけることだった。これらの女性の若いころは、家庭でも学校でも戦争一色に染められていた。彼女らは、実に不安かつ不安定な環境で大人になった。昔は確実だったことが、そうではなくなった。できそうもないことを約束してくれる自称救済者に惹きつけられていた。
すべてのナチ高官のなかで、ヘスはもっとも謎めいた人物だ。たしかに、ヘスは、単身イギリスへ飛行機で乗りつけ、長い勾留生活を戦前も戦後も余儀なくされましたが、そのイギリスの飛行目的は分かっていません。が、この本を読むと、精神的に突拍子もないことをしでかす人間だったことが分かります。妻のイルゼも似たりよったりだったようです。占星術に興味をもち、食事にも妙なこだわりをもっていました。ヘスはヒトラーがミュンヘン一揆の失敗で刑務所に入っていたとき、一緒に刑務所生活をともにし、ヒトラーが『わが闘争』を書きあげるのを手伝ったのでした。それで、ヘスはヒトラーの後継者として、副総統だったのです。
ヘスが妻イルゼと結婚したのは、ヒトラーのすすめを断りきれなかったから。
ヘスと妻イルゼは、つつましい中産階級の生活を送っていた。ヘスは正直者で、物質的な富を蓄積することは無関心だった。
ヒトラーは、イルゼが政治的意見をもち、ヒトラーに批判的だったので、いらついていた。
ヒトラーがヘスの自宅を訪問したとき、ヒトラーの嫌うモダニストの絵が飾られているのを見て、ヘスを後継者から外すことにした。ヘスは、ヒトラーが用意した菜食主義の食事も拒絶した。ヘスはナチス・ドイツのなかで権力を失った。
ナチでは女性が公的な役割を担うことは許されてなかった。
ナチ・エリートの多くは、ボルマンを社会的地位の低い人間で、文化的素養に欠ける粗暴なちんぴらと考えていた。しかし、ボルマンは中産階級の出身ではあった。
ボルマンは、ヒトラーの求めに何でも直ちに従い、実現した。短気で厳しいボルマンは部下から人気がなく、また家庭でも妻子に厳しかった。ところが、ボルマンの妻ゲルダは、ひたすら夫に服従した。
ゲッベルスは、ヒトラーを除けば、ナチでもっとも有能な演説家だった。ゲッベルスは、ハイデルベルグ大学で文学の博士号を取得するほど、知的で高い教育を受けていた。しかし、小柄な体型、内反足、明白な跛足のせいで、幼いときからあざけられることが運命づけられていた。
ゲッベルスの屋敷で出される食事はけちくさいことで名高いものだった。
ゲッベルスは、首相官邸での昼食会の常連だった。宮廷道化師の役割を演じていた。
ゲッベルスは不貞を繰り返していたが、妻のマクダは見て見ぬふりをしながら、自らもその場限りの情事にふけっていた。
ハイドリヒと妻になったリーナは、二人とも負けん気が強く、非常に野心家だった。二人とも冷静で打算的な性質をもっていた。どちらも、うぬぼれが強く、大多数の人間は、自分より劣っていると考えていた。ハイドリヒは、ヴァイオリンを上手にひくなど音楽のすばらしい才能をもっていた。しかし、ハイドリヒの高飛車で横柄な人柄から仲間の人気はなかった。
ヒトラーの初めての女性・ゲーリはヒトラーから一人ぼっちにされ、欲求不満と惨めさから自殺を図った。次の愛人となったエーファ(エヴァ・ブラウン)は、写真スタジオの助手をしていた17歳のとき、ヒトラーに見そめられた。本物のブロンド、強健でスポーツ好き(体操と水泳)、政治や国の状況にまったく関心がなく、気取ったところもしとやかさもなく、自由奔放で精神年齢は幼かった。このエーファも自殺未遂を2度もしている。
ヒトラーは菜食主義者。乳製品は食べず、卵も食べなくなった。毒を盛られるという妄想に取りつかれていた。
ナチの体制の下、女性に求められたのは子どもの出産。しかし、経済生活が苦しくなると、たくさんの子どもを産む余裕はなくなっていた。
ナチのトップたちが相互に反目しあっていたこと、その妻たちも渦中にあったこと、すべてはヒトラーとの近さで決まっていたことなど、独裁者の国の内情が手にとるように分かりました。ナチス・ドイツの内情を知るうえでは欠かせない本です。
(2020年11月刊。2700円+税)

2020年8月23日

シャルロッテ


(霧山昴)
著者 ダヴィド・フェンキノス 、 出版 白水社

頁をめくると、そこには普通の文章ではなく、詩のような文章が並んでいました。あれ、あれ、これは何なんだ...。
訳者あとがきによると、著者は、一文、一行書くたびに息をつく必要があったからで、これ以上の書き方はできなかったという。
詩と映画のシナリオを織り交ぜたような一行一文という形式でストーリーが展開していく。
内容は、もちろん重たい。ナチに若い命を奪われたユダヤ系ドイツ人の画家シャルロッテ・ザ・ロモンの生涯が描かれている。
シャルロッテの家族には、何人もの自殺した人々がいる。
そして、シャルロッテは、自殺しようとする祖母に対して、こう言った。
輝く太陽、咲き誇る花々の美しさ、人生の喜びを謳う。自殺しようとする力があるのなら、その力を自分の人生を表現するために使ってはどうか...。
そうなんですよね。いま私は、46年間の弁護士生活を振り返って『弁護士のしごと』シリーズを2巻まで刊行し、近く3巻を世に送り出します。続いて、4巻目の原稿もかなり書きすすめていて、年内には出せるものと思います。この作業があるかぎり、まだまだくたばるわけにはいきません。
シャルロッテは、悲劇的と呼べる人生を送ったにもかかわらず、深く人を愛し、芸術を愛し、人生を愛した。シャルロッテの生に対する情熱に訳者は強く胸を打たれたという。
よく分かります...。
シャルロッテはドイツのユダヤ人画家で、妊娠中に、26歳の若さでナチスによって殺された。そして、1961年にシャルロッテの絵が公開され、その独創性によって人々を魅了した。型にはまらない、まったくのオリジナリティー。それと視線を惹きつける暖かい色づかい。
どんな絵なのか、見てみたいです。
(2020年5月刊。2900円+税)

2020年8月22日

グラフィック版・アンネの日記


(霧山昴)
著者 アリ・フォルマン、デイビッド・ポロンスキー 、 出版 あすなろ書房

アンネ・フランクは私より20歳だけ年長です。なので、いま生きていたら92歳。まだまだ日本には同じ年齢で元気なおばあさんがいますよね。
アンネは1942年、13歳の誕生日にプレゼントとしてもらった日記帳を「キティ―」と呼んで、そこに自分の気持ちを率直につづり始めたのでした。
マンガ版というと叱られるのかもしれませんが、人物と情景の描写がとてもよく出来ていて、実写フィルムを見ている錯覚にとらわれます。
1944年6月、連合軍のノルマンディー上陸作戦が始まり、米英軍がドイツをめざして進攻作戦をすすめ、アンナたちは大いなる希望をかきたてられます。そして、7月21日にはヒトラー暗殺計画(ワルキューレ計画)も実行されるのです。残念ながら失敗してしまいますが...。
1944年8月4日の午前10時すぎ、ナチス親衛隊がやってきた。誰かが密告したのだ。アンネをふくむユダヤ人8人が連行された。そして彼らの潜伏生活を助けた2人も連行された。助けた2人は2人とも戦後まで生きのびたが、ユダヤ人のほうはアンネの父親一人だけが助かった。
アンネと姉マルゴーの2人は1945年2月末から3月初めにチフスで亡くなった。その1ヶ月後にイギリス軍が強制収容所を解放した。本当にもう少しだったのですね。残念なことです。アンネの「恋人」のペーターは、1945年5月5日、収容所がアメリカ軍に解放される3日前に死亡している。これもまた残年無念なことです。
アンネは、良くできる姉と比較されるのがとても嫌だったようです。
3年近くになるアンネたちの潜伏生活が、このように視覚的にとらえられるというのは実にすばらしいことだと思いました。マンガ、恐るべし、です。
(2020年5月刊。2000円+税)

2020年6月23日

ベルリン1933(下)


(霧山昴)
著者 クラウス・コルドン 、 出版 岩波少年文庫

ヒトラーが首相に指名される前のベルリン、ヒトラーが政権をとったあと、一気に暴力支配がすすんでいく様子が少年とその家族の生活を通して生々しく語られます。暴力が横行する日々の生活光景に胸が痛みます。
ヒトラーが政権を握る直前の選挙で、実はナチ党は一気に票を減らしたのでした。
ナチ党は200万票を失い、共産党は100万の票を伸ばした。ベルリンのなかのヴェディング地区では10万人が共産党に投票した。2人に1人が共産党を選んだことになる。
チューリンゲン州ではナチ党は40%も票を落とし、逆に共産党が伸びた。ザクセン州、ブレーメン市でもナチ党は大敗を喫した。しかし、選挙で票を失ったとはいえ、33%を獲得したナチ党はいぜんとして第一党だ。
ナチの党撃隊が共産党本部の前を行進して挑発すると、数日後、共産党は10万人をこえる人数でデモ行進した。
ところが、ヒンデンブルグ大統領がそれまでの言葉に反して、ヒトラーを首相に指名した。ナチ党が権力を握ったのだ。
ヒトラーが政権を握ったら、共産党はゼネストで対抗すると言ってきた。しかし、600万人もの失業者がいるのに、どうやってゼネストができるだろう。飢えと寒さに苦しむ人々が、スト破りをしないでいられるわけがない。勝算のないストのために、人は自分の仕事を失う危険をおかすだろうか...。
ヒトラーが首相になっても、共産党と社会民主党は互いに相手を非難し、攻撃しあっていた。どちらも、相手の党が政権を握るくらいなら、ナチ党のほうがまだましだと考えていた。
社会民主党は共産主義を敵視していた。共産党はスターリン絶対の下で、自分の頭で物事を考えることができなくなっていた。
やがて国会議事堂が炎上し、それは共産党が放火したとして共産党員が大量に検挙され、虐殺された。それは、社会民主党の活動家も同じだった。
ヒトラーが「くたばれ、ユダヤ人」と叫んだとき、それがまさか本当にユダヤ人の大量殺戮を意味していると思った人はほとんどいなかった。
1933年3月5日は、戦前最後の国会選挙。投票率88%のなかでナチ党は44%の得票率だった。絶対多数はとれなかった。いろんな妨害をされながらも社会民主党は18.2%、共産党は12,2%を得た。
ベルリンのヴェディング地区では共産党が9万3千人、社会民主党が5万4千人としてナチ党は6万2千人の支持を集めた。
むき出しの暴力が横行するようになると、それを喰いとめるのは大変なことだと、この本を読みながらつくづく思いました。ファシズムは芽のうちに摘むしかないのです。
少年文庫の本とは、とても思えない、ずっしり重たい本です。正直言って、読み通すのが辛い本でした。
(2020年4月刊。1200円+税)

2020年6月18日

戦車将軍グデーリアン


(霧山昴)
著者 大木 毅 、 出版 角川新書

ドイツ国防軍のグデーリアン上級大将は、1940年5月の頂点から、1941年の対ソ戦におけるモスクワ前面での敗北、そしてヒトラーから解任へと転がり落ちた。
ドイツ敗戦の後は、戦犯裁判の被告となることは免れたものの、栄誉も財産も失い、悲境のうちに死んでいった。
グデーリアンは、ドイツ装甲部隊を育て、指揮し、勝利をもたらした最大の功労者だという見解が定着していた。しかし、それは主としてグデーリアン本人の書いた回想録『電撃戦』によるもので、実は、不正確なものだった。
そして、グデーリアンは語っていないし、認めてもいないが、ナチス・ドイツ軍によるユダヤ人をふくむ住民の大量虐殺に加担もしくは目をつぶっていたという事実があった。
グデーリアンはヒトラーを信奉し、反共・反ユダヤ主義の信念で一貫していた。
グデーリアンとマンシュタインは陸軍大学校の同期生だったが、この二人は決して仲がいい関係ではなかった。
グデーリアンはベック陸軍参謀総長とは違憲があわず、むしろベックを装甲部隊にとっての障害をみなしていた。このベックは、戦争を避けるためクーデターを起こしてヒトラーを排除することまで考えついて、結局、ヒトラー暗殺に失敗して命を失った。
1940年5月10日に発動された「黄号」作戦で、グデーリアンはアルデンヌ突破を成功させた。ところがクライス装甲集団司令官は、グデーリアンを命令違反と単独行動として激しく叱責した。このクライスの背後にはヒトラーもいたので、さすがのグデーリアンも従わざるをえなかった。
そして、それは、ダンケルク停止命令となった。この停止命令は、ヒトラーが自己の権力を保全・強調するためのものだったというのが、今の私には一番もっともらしく思えます。いずれにしても、ドイツ国防軍のなかでも決して一枚岩ではなかったのですね...。
そして、そこに「軍事の天才」と自称するヒトラーの独断と思い込みによる作戦指導があって混迷をきわめたのでした。
ソ連攻略を目ざしたドイツ軍のバルバロッサ作戦については、その目的が明らかでなかったと著者は評価しています。ソ連軍は頑強に抵抗しましたし、ソ連の国土はぬかるみのためドイツ軍の戦車は立ち往生してしまったのです。
グデーリアンは、ヒトラー暗殺計画の一味から参加するよう誘われたのですが、結局、日和見を決め込んだのでした。日和見ということは、ヒトラー側へも通報していないということです。肝心な決行の日には自宅にいたようです。暗殺がうまくいくか失敗するか、いずれにしても自宅にいたらアリバイがあると考えたということです。
ドイツ軍の「電撃戦」なるものは、当の本人がそのように主張しているだけで、実は落氷の綱渡りだったという。真相なのですね...。
『独ソ戦』を補完するものとして、コロナのせいで客がまばらになった福岡・六本松のコーヒーショップで一心に読みふけりました。
(2020年4月刊。900円+税)

日曜日の夜、寝る前に楽しみの「ダーウィンが来た」を見ようとしていると、テレビのある和室から「キャーッ」という家人の悲鳴が聞こえてきました。何事か...。それはそれは見事なムカデがいました。地元ではゲジゲジと呼んでいます。15センチほどもある、テカテカとした光沢のムカデが泥壁にへばりついていました。慌ててハエ叩きで叩いてみましたが、へっぴり腰で叩いたせいで、手応えもなくポロリと床に落ちてしまいました。決してくたばったとは思えませんが、動作は鈍くなりました。電線コードが近くにあって叩きにくいので、掃除機の吸い取り口をムカデにあてました。すると、ムカデはするっとテレビ台の下に逃げ込んだようです。仕方なく、重たいテレビ台を2人がかりで上げてテレビ台の下を懐中電燈で照らしてみましたが、見つかりません。いやあ困りました。こんな部屋でムカデなんかと一緒には寝れない、そう言って家人はさっさと逃げ出してしまいました。
翌朝、掃除機のゴミ吸収袋を取り出そうとすると、ガサっと動くのです。逃げ切ったと思ったムカデは掃除機に吸い込まれていたのでした。いやあ、最近の掃除機の吸引力って、すごいパワーをもっているんですね...。
自然に近いところに住んでいると、家の中の床に太いナメクジがいたり、庭にモグラや土ガエルだけでなくヘビまでいたり、あまりうれしくない隣人とも近所づきあいをしなくてはいけません。歩いて5分の小川にホタルが乱舞するのを見れるというのは、こんな環境であることを意味します。
夏に草取りをしていてヒマワリを見上げると、ヘビがからまって昼寝しているのを見て、あれえ...と腰を抜かしてしまう出来事が起きたりもするわけです。

2020年5月26日

ベルリン1993(上)


(霧山昴)
著者 クラウス・コルドン 、 出版 岩波少年文庫

ヒトラーが政権を握るまでのベルリンの労働者街の日々が描かれた小説です。主人公は、もうすぐ15歳になる14歳の少年。姉と屋根裏部屋で生活しています。
父親は元共産党員として活動していたが党と意見が合わなくなって脱党。兄は共産党員として活動している。一緒に生活している姉は、なんとナチ党の突撃隊員と婚約し、それを合理化する。怒った父と兄は、もう姉とは絶好だと宣言する。
では、なぜ姉はヒトラーのナチスに惹かれるのか...。
「社会民主党は口先ばかりだし、共産党は世界革命だとか、全人類の幸福だとか、できっこないご託(たく)を並べているばかり。私の望んでいるのは、そんな大きな幸福じゃなくて、個人のささやかな幸福なの...」
「きのう、共産党を選んだ600万人のほうが、ナチ党を選んだ1400万人より賢いって、どうして言えるのよ」
「あたしたちは、馬車に便乗して、すいすい行くことにしたの。乗らなければ、置いてけぼりをくうわ」
ドイツ共産党の党員の多くは知識階級を好まない。労働運動に真剣に取り組むのは労働者だけ、知識階級は偏向しやすいと考えている。
共産党だって世の中の不正に反対している。ただ、やり方を間違えている。ドイツの良心を忘れ、モスクワの言いなりになっている。
姉の婚約者は次のように言う。
「ヒトラーは、経済を立て直す方法を知っているんだ。国会議員は、おしゃべりばかりだ。しゃべるだけでしゃべって、なんの行動もとらない。民主主義なんて、役に立つものが今は強い男が必要なんだ。
おれたちは世の中を変えたいんだ。平和とパンが望み。そして、みんなが仕事をもてること。これを、ヒトラーは約束している。突撃隊のホームに行けば、毎日、スープが飲めるんだ。ここは、ちゃんと話しかけてくれるし、話も聞いてくれる。ヒトラーが政権につきさえすれば、みんな仕事がもらえるんだ...」
主人公はヒトラーの『我が闘争』を読んだ。退屈な本だった。ヒトラーの言葉は、ふやけていて、おおげさだ。読み通すのに苦労した。
ヒトラーは、いざとなればフランスと戦争するつもりだ。そして、ユダヤ人を排斥しようとしている。どちらも信じられないことで、あまりにリスクを伴う...。
この本ではナチ党の脅威を前にして、なぜ共産党と社民党が統一行動をとらなかった、とれなかったかの事情を明らかにしています。
要するに、共産党は社民党について、真っ先に打倒すべきものとしている。社民党は、今の国家体制を維持したがっている。共産党は転覆させたがっている。この両党には、長い歴史がある。政治的対立というのは、ウサギをオオカミに変えてしまうもの。
ナチ党の突撃隊員は主人公の職場にもいて、「ハイル・ヒトラー」の敬礼を唱えないと、ボコボコにされてしまいます。工場内では孤立無援になるかと心配していると、助っ人も登場します。
街頭でも職場でも、むき出しの暴力が横行しています。ナチス突撃隊の集団的暴力に対抗して、共産党の側も暴力で立ち向かうのですが、警察はナチスの側につきますし、共産党の側は不利になるばかりです。
むき出しの暴力に暴力で対抗しても、本質的な解決にはならないことを、私は東大闘争の過程で全共闘の「敵は殺せ」の暴力を目のあたりにして、身をもって考え、体験させられました。
そして、当時のドイツ共産党については、スターリンの狡猾なヒトラー接近策のなかで踊らされてしまったという側面は大きかったと思います。
「少年文庫」ではなく、大人向けレベルの本です。
(2020年4月刊。1200円+税)

2020年4月21日

東ドイツ史、1945-1990


(霧山昴)
著者 ウルリヒ・メーラート 、 出版 白水社

メルケル首相は東ドイツの出身です。コロナ・ウィルスについてのドイツ政府の取り組みをテレビで語っているのをみました。もちろん、私は日本語訳です。
いやあ、日本のアベ首相とは比べものになりませんでした。コロナの脅威を自分がどう受けとめているか、首相として国民に何を訴えたいのか、よく伝わってきました。アベ首相は危機にある国のリーダーとして、まったく失格です。だって、自分の言葉で国民に訴えようという姿勢がありません。そして、メルケル首相は専門家の意見をよく聴いています。アベ首相は専門家に相談することなく、政治的に決断したと言うばかりです。これでは困ります。
その東ドイツが1945年から1990年まで、どんな国だったのか素描が提供されている本です。
東ドイツの書記長ウルブリヒトが政治的に生き残ることができたのは、ひとえにソ連の政治警察の責任者で、スターリン死後のモスクワの政治局内における有力者であったベリヤが解任され、東ドイツで蜂起が起きたから。
1954年に逃亡者は18万4000人だった。ところが翌1955年には25万2000人が東ドイツを脱出した。ただし、1953年には33万1000人ではあった。
1958年2月、ウルブリヒトは、党指導部内のライバルたちの解任に成功した。
1958年から59年にかけて、東ドイツ市民が実感できる経済の安定化が進んだ。
1961年8月、ベルリンの壁がつくられた。このころ、5万人の東ベルリン市民が西側で、1万2000人の東ベルリン市民が東側で働いていた。壁が出来たあと、700人の東ドイツ市民がここで命を落とした。
1965年、ウルブリヒトの「皇太子」と呼ばれていたホーネッカーの周囲には、若者文化にまるで理解のない党員ばかりだった。このころ、テレビや冷蔵庫、洗濯機は、もはや手に届かない家財ではなくなっていた。車(トラバント)も、手に入れて休暇を過ごせるようになっていた。
1971年6月、ホーネッカー時代が始まった。ドイツ社会主義統一党(SED)の大会で、人民の経済的水準と文化的生活水準をさらに向上させることが主たる使命だと宣言された。
ホーネッカーの時代、広範囲に張りめぐらされたシュタージの網が、SEDの指導要求に対する、いかなる異議申立の芽も摘みとった。シュタージの専従職員は9万1000人。それまでの2倍となった。そのうえ、非公式な協力者は、10万人から18万人にまで増えた。教会の職員も、その5%はシュタージの非公式協力者として登録されていた。
1975年には、350万人が東ベルリンと東ドイツに旅行に訪れた。4万人もの東ドイツ市民が「家族面会」の口実で西に行っている。
東ドイツでは、内政でも外交でも、あらゆることが現状維持だった。
東ドイツにある、いろんな組織に属していることは、多くの人々にとって、わずらわしい人生を送らなくてすむための年貢のようなものだった。ピオニール団があり、労働組合があり、独ソ友好協会がそうだった。
1986年、SEDの党員数は230万人、最高の水準だった。しかし、1988年、SEDはソ連の情報誌「スプートニク」を発禁処分とした。
1989年、東ドイツ内の非公式グループが今や公共の場にあらわれるようになった。
1989年、「私たちを出せ」というスローガンが、突如として、「私たちは、ここに留まる」に変わった。このころには、東ドイツは東側陣営のなかで、すっかり孤立していた。
1989年10月、SEDの政治局会議が開かれ、突然ホーネッカー書記長の解任が議題となった。参加者はわが身だけでも助かりたいという期待をもって、ホーネッカーを激しく攻撃した。翌11月、国境が解放された。これはSEDの権力が瓦解したことの表れだった。
1990年8月、東ドイツの人民会議は、圧倒的多数で、連邦共和国に加盟することを決議した。
東ドイツという国は、何が支えていたのか、どうやって、崩壊していったのかが分かる本です。
(2019年10月刊。1600円+税)

2020年1月12日

ドイツ軍事史、その虚像と実像


(霧山昴)
著者 大木 毅 、 出版  作品社

『独ソ戦』の著者によるドイツ軍事史ですから、面白くないはずがありません。
従来の定説が次から次に覆されていく様子は小気味よく、痛快でもあります。
たとえば、日本軍による真珠湾攻撃について、ルーズベルト大統領はあらかじめ承知しておきながら、世界戦略に展開上、あえてこれをやらせたという陰謀論がある。同じように、スターリンもドイツ侵略を準備していたので、ヒトラーはそれに一歩先んじただけのこと・・・という古くて新しい主張がなされている。しかし、いずれも歴史的事実としては成り立たない。
1943年7月のプロホロフカの大戦車戦なるものの実体は・・・。
ドイツ側の装甲勢力は戦車、突撃砲、自走砲をあわせて204両だった。これに対してソ連側は850両の戦車と自走砲を保有していて、プロホロフカ戦区だけでも500両の戦車を投入してきた。しかし、結局のところ、ソ連軍の大戦車隊は大敗を喫した。
ソ連軍は、350両もの戦車と自走砲を破壊された。つまり、ソ連軍はプロホロフカで大敗北し、ドイツ軍は大勝利をおさめていた。
1944年冬、ドイツ本国にあった兵站部隊と後方勤務部隊は、保持していた小銃と拳銃の半分を前線部隊に引き渡していた。残りの半分は、1944年春、同じく手放すことになった。
ドイツの生産能力は、前線と後方の需要を同時にみたすことができる状態ではなかった。
1944年3月、ドイツの国内予備軍はなお1100両の戦車と突撃砲を有していたが、実にその半分が旧式化したⅢ号戦車、あるいは、その改造型だった。
1945年5月、アメリカ軍の捕虜となったドイツ軍10万人の将兵のうち、40%は何の武器ももっていなかった。
1944年以降、ドイツ軍は指揮官の未熟さによる失敗が目立った。というのもベテランの指揮官たちが倒れ、捕虜になっていくなかで、十分な訓練を受けていない経験不足の士官たちが占めた。
ヒトラーは、ベルリンでは虚勢を張り続けていた。そして、ヒトラーに自分の忠誠と勇猛ぶりを誇示する演技だった。
ドイツの敗戦後、アメリカ軍の捕虜となったドイツ兵たちの会話は、すべて録音されていた・・・。
1944年10月、宣伝大臣ゲッペルスは国民突撃隊創設に関するヒトラーの指令を公表した。このころ、600万人もの国民突撃隊を十分に武装させるのは不可能だった。ドイツ国防軍は既存部隊の維持で精一杯だったので、国民突撃隊は、猟銃やスポーツ用の鋭い旧式の小銃で武装するしかなかった。弾薬も不足していて、1人あたり5~10発の弾丸しか与えられない部隊すらあった。また、軍服も用意できなく、腕章をつけて軍服に代えた。
こうやって戦場に投入された国民突撃隊の末路は悲惨で、17万5000人が行方不明となった。
ドイツでは占領地で、パルチザン活動をすべく「人狼」部隊を創設しようとした。しかし、戦争に疲れ、犠牲につぐ犠牲を強いられたドイツ国民は、フランスやロシアとちがい、「侵略者」に抵抗する気運はなかった。抵抗運動としての「人狼」は、活動の基盤を失い、それを支えるはずだった親衛隊の「人狼」部隊は、消え去った。
現実には、ドイツ軍の大多数は、勝利の見込みなどかけらもないまま、奇跡なき戦場に投入され、非情な戦死のままに消滅していった。
ナチス・ドイツ支配下のドイツ国防軍の実態がよく分かる本です。よく調べてあるのには驚嘆するほかありません。
(2017年4月刊。2800円+税)

2019年11月29日

ボンヘッファー


(霧山昴)
著者 宮田 光雄 、 出版  岩波現代文庫

ヒトラー・ナチスと果敢にたたかい、アメリカに亡命して、助かるはずだったのに、ドイツに戻って殉教した神学者の生涯と思想を刻明にたどった本です。私は、その存在をまったく知りませんでした。
神学者のディートリヒ・ボンヘッファーは反ナチ抵抗運動に参加して逮捕・投獄され、39歳の若さで処刑された。ただ、その処刑は遅く、ナチ・ドイツの降伏が間近に迫っていた1945年4月9日の早朝のことだった。
マルチン・ニーメラーはヒトラー・ナチスに抵抗した神学者として有名ですが、ニーメラーは、ヒトラーの賛美者だった時期があったのですね。これまた、私は知りませんでした。
ニーメラーは、ヒトラー政権の成立を歓迎し、ドイツが国際連盟を脱退したとき、ヒトラー激励の電報を打った。ヒトラー政権の本質をニーメラーも見抜けていなかった。
ヒトラー政権が成立した1933年ころは、ナショナリズムに根ざす伝統、ワイマール共和国に対する失望などは、かえってドイツの教会をナチズムの運動に傾斜させがちだった。多くの人々が、教会指導者や神学者まで、ナチ政権に滅狂的・献身的に同調していった。
ところが、ボンヘッファーは、1933年春の時点で、ナチのユダヤ人政策に反対した論評を張っていた。このころ、ドイツの多くの教会では、ナチの国家権力が教会生活や信仰箇条の中身に干渉しさえしなければ、何とかヒトラーと妥協してもよいと考える大勢の人たちがいた。
ボンヘッファーは集団的な兵役拒否を呼びかけた。キリスト教信者として許容されるのは、衛生兵勤務のみだとした。
ボンヘッファーは1933年6月に船でニューヨークに渡った。ところが、それは間違いだったとして、7月7日、アメリカからドイツ人を乗せてドイツに向かう最後の船に乗ってドイツに戻った。その後、ボンヘッファーは、カナーリス提督の率いるドイツ国防軍諜報部のヒトラー政権に対する抵抗運動に参加していた。
そして、1942年には、スウェーデンに行ったり、ヒトラー政権を転覆させようとする活動を連合国に知らせる活動にも従事した。ところが、このようなドイツ国内の抵抗運動は、連合国側からは信用されることなく、見捨てられた。
ボンヘッファーは、音楽を愛し、美術を愛し、食物についても健啖家(けんたんか)だった。その周囲を書物でとり囲まれ、死に直面していても詩をつくり、戯曲や小説の断片さえ書き残した。また、社交好きで、祝祭や遊びにも喜んで参加する人好きのいい人間だった。
1953年以来、ナチ政権は、党員であることと教会に所属することとが両立しえないことを公然化させた。
1995年に刊行された本を20年以上たって文庫本としてよみがえった本です。400頁をこえる文庫ですが、大変読みごたえがありました。
(2019年7月刊。1620円+税)

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