弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2013年9月10日

目撃者

ドイツ

著者  エルンスト・ヴァイス 、 出版  草思社

麻生元首相が、ナチスがワイマール憲法を静かにナチス憲法に変えていった教訓に日本も学べと講話したことが大きく報道されました。
 ヨーロッパをはじめ世界からはなんて非常識な発言だと糾弾されましたが、安倍内閣は本人がすぐ撤回したので問題なしとし、日本のマスコミもあまり騒ぐことはありませんでした。こうやって改憲への足慣らしがされていくのか思うと、寒気すら炎暑のなかで覚えてしまいます。この本は、まさしくヒトラーが政権を握るまでに起きたことがテーマとなっています。
 この小説のすごいところは、ヒトラーが第一次世界大戦で負傷し、失明した兵士となり、精神科医による治療によって再び目が見えるようになったという実話をもとにしているところです。
 1918年10月、ベルギー戦線でイギリス軍のガス攻撃を受けて負傷したヒトラー上等兵は、北ドイツの野戦病院に運び込まれた。患者をみたフォルスター医師は「ヒステリー症状を伴う精神病質者(いわゆる性格異常者)」と診断した。フォルスターは、ヒトラーに睡眠治療を施して、眼が見えるようにしたばかりか、「君は救世主キリストだ。ドイツを救うのは君しかない」と強烈な暗示かけて娑婆に戻した。そのあと、ヒトラーは、それまでとはまったく別人のようになって強烈なカリスマ性を発揮し、誰もが知るような独裁者への階段を駆け上がっていく。そして、ヒトラーの過去の秘密を知るフォルスターは1933年にナチスが政権をにぎると、ゲシュタポに狙われ、同年9月、追いつめられて自殺した。ところが、フォルスターは、自殺する前、パリに逃れ、そこでユダヤ系亡命作家サークルにヒトラーの診断書を託した。
 この小説は、このときのヒトラー・カルテをもとにしているのです。
彼にとって、この戦争は大歓迎だった。彼自身を救うばかりか、世界を救うことでもあった。彼は、ウィーンで貧しい画家志望の学生だった。食い詰めたときには、建築現場でペンキ屋の仕事をした。彼は、路上生活者となり、ときどき「気のいいヤクザのあんちゃん」や、住む家のないさすらい人から、わずかばかりの小銭やパイのかけらを恵んでもらっていた。
 ヒステリー性の失明に見舞われた人間の運命は、常に過酷きわまるものである。ひとに認められたいと望む、この男の自己顕示欲、自分は上だと思い込む自己陶酔、そして過激なエネルギー、こうした要素とこの男がかかえる苦しみをつなぎ合わせて、一筋の道を見つけ出し、それによってこの男を病気から救い出してやろう。運命をあやつり、神を演じ、そうして一人の眠れない失明者に再び視力と眠りを取り戻してやった。
 悲しいかな、このころワイマール政府の頼みの綱は将校団しかなかった。というのも、本来、共和制を支えるべき労働者たちが、かたや保守・自由・ブルジョア派に、かたや革命・プロレタリアアート・インターナショナル派に分裂してしまい、一致団結して政府を支えようとしなかった。
 この将校団のうながしにより、軍隊に所属する者たちには選挙権が与えられず、共和制党および革命政党の党員になることも禁じられた。あの偉大なる11月の無血革命は、将校団のあいだでは、ただの屈辱、敵前逃亡、敗れざるドイツの背筋に突き刺された亡者でしかなかった。
 ひとは、容易にだまされてしまうものだ。
 1923年11月の一揆が勃発した。国防軍は、Hの組織するこの反乱は、自分たちに有利に展開するだろうと信じていた。また、保守的なブルジョア層やフォン・カールのような高級官吏たちは、Hに資金援助してこれを影で支えていたが、彼らは能天気にも、この反乱が反革命を呼びおこし、古きなつかしき王家が復活するだろうくらいに思っていた。だが、Hの思惑は、まったく自分本位のものだった。だれもHは、そこまでやるとは思っていなかったし、恐らくH本人もそこまでやれるとは思っていなかっただろう。二度までも軌跡を起こすことになろうとは・・・。
ヒトラーの権力掌握の愚を日本でくり返しては絶対にいけません。その意味で、麻生元首相の講話は反面教師とすべきものと考えます。
(2013年5月刊。2800円+税)

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2013年9月 9日

アムールトラを追う

生き物

著者  福田 俊司 、 出版  東洋書店

驚きました。ロシア・シベリアの大平原に生きるアムールトラを日本人、それも私と同じ団塊世代の写真家が追い続ける話なのです。なにしろ、冬の寒さは零下40度のシベリアです。そんな極寒のなかをアムールトラをひたすら追い求め、写真を撮ろうというのです。執念です。根性です。やわな気持ちではとてもできません。
 いくら望遠レンズがあっても、それなりに接近しなければ、いい写真をとれません。でも相手は野生のトラです。接近しすぎて生命を失ってしまって何にもなりません。
 ホッキョクグマにテントを襲われて亡くなった星野さんという写真家もいました。用心しなければいけません。
 今は、自動撮影装置を使って至近距離から撮影することも可能です。この本にも、それによる素晴らしいアムールトラの写真が何枚もあります。
手のひらに乗せて、手に止まった野鳥にエサを与えている写真があります。不思議です。野鳥って、そんなに人間に慣れるものなのでしょうか・・・。
 シベリア取材で注意しなければならないのは、防寒だ。マイナス20度で、ロシア帽の耳当てをおろさないと、耳が凍傷やられる。マイナス30度では、息を浅く吸わないと肺が痛くなる。マイナス40度では、毛細血管が凍ったように頬が強張ってくる。気温がマイナス40度以下になると、もう正常な感覚を失うから、ただただ寒いとしか言いようがない。恐ろしいのは、絶対温度と体感温度にひらきがあることだ。
防寒にダウンのジャケットやパンツは大変便利だ。しかし、長時間、ワイルドライフを持ち続けるなら、ダウン服には弱点がある。座ってダウンをつぶしてしまうと、空気の層がなくなり、いくら着込んでも、深々と冷えてくる。しかも、強風が吹き荒れれば、ナイロンの薄地からダウンにためこんだ温もりを容赦なく奪ってしまう。
 極寒の地では毛皮にかなわない。なかでも、イヌイットたち先住民の衣服、トナカイの毛皮がすばらしい。トナカイには皮下脂肪がなく、皮を剥げば、すぐに赤身の肉だ。これで北極圏のきびしい冬を生き抜くのだから、その毛皮の保温力は抜群だ。トナカイ服はマイナス40度のブリサンドにも耐えられる。すこし重いけれどトナカイ服にまさる防寒を知らない。
 帽子は、少し値段が張るけれど、クロテンのロシア帽が最高だ。クロテンは軽量で温かく、ミンクのようにヒンヤリせずに手触りがよい。ところが、北極圏では、グズリが最高とされている。クロテンの帽子だと、吐く息が耳当てに凍りついて頬が凍傷になるから。次にオオカミ、三番目にイヌが重宝される。下着はウールにかぎる。シルクは温かくて肌触りがよいけれども、汗をかくと、なかなか湿り気が抜けずに身体を冷やしてしまう。靴は、マイナス40度対応のライン製のバニー・ブーツが頼もしい。
 ロシア人から見て、過剰と思えるくらいに念入りに準備すること。ここでは、人間の「根性」など、なんの役にも立たない。それよりも事前の情報収集と分析、日頃からの人脈づくり、十分な装備をととのえるなど、地道な努力が大切だ。そして、いざとなったら、いさぎよく撤退する。
自分が殺されることは相手の生き物を殺すことになるから、ネイチャー・フォトグラファーは臆病でなければならない。
 アムールトラの襲撃事件は、いつも人間側が引きおこしている。惨事は、人間がトラを捕まえるときに発生する。
 人間に撃たれて負傷したトラは逃亡する。トラは傷ついても人間を襲わない。人間がさらに追撃するか、不用意に近づいたとき、トラは反撃する。
 トラが唸り声をあげて、人間に向かって前進しても、その威嚇行為は、人間を殺すためではなく、自分がここの主であることを誇示するためのもの。威嚇行動を攻撃と受けとってはならない。音と光で追い払うのが効果的だ。金属や木を叩く、銃を空に向けて撃つ。信号弾を足元に撃つ。あるいは発煙筒を焚くのが良い。ヒステリックな絶叫は、トラに自信を与えてしまう。
 人間は落ち着いた行動で、トラに「下品な行動」を穏やかにたしなめながら、急激な動きをせず、前を向いたまま後退する。いかなるときでも、背中を見せて逃げない。逃げるとき、リュックサック、帽子、ジャケット、あるいは他のものを置いてくると、トラの興奮をそらすことができる。
 興奮したトラが近づいてから立ち去って、再び引き返してきたら、本当に危ない。
 しかし、人食いトラでなければ、程度の差はあっても、外傷ですむ場合が多い。そのまま横たわってじっと動かないことが大切だ。無駄な抵抗はケガを大きくするだけ。
 ええーっ、そ、そんなことなんか出来っこありませんよね・・・。
 トラを撃つときには、10メートル以内に引きつけて、初発弾で仕留める。第二弾を撃つ余裕などない。
メストラの初出産は4歳、15歳で繁殖能力は終わる。これに対して、オストラは15歳になっても繁殖能力をもつ。
 メストラは子どもたちを暮らして、2年後に再び、赤ちゃんを生む。子どもを失ったら、1週間後に発情して、3ヶ月半後に出産する。年間を通じて、トラはいつでも繁殖できる。
海岸近くに撮影小屋をつくる。長さ2.3メートル、幅1.5メートル、高さ1.4メートルという狭さだ。この周囲に9千ボルトの静電気の流れる電気柵を張りめぐらす。高さは1.5メートル。まさかのときには発煙筒で対処する。
 こんな狭い小屋に12月から翌年3月まで籠もっていたのです。すごいです。こんな好奇心と忍耐力の塊のような日本人のおかげで、アムールトラの素晴らしい写真を見ることができるのです。感謝、感謝です。
(2013年5月刊。2600円+税)

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2013年9月 8日

法服の王国(下)

司法

著者  黒木 亮 、 出版  産経新聞出版

読みすすめているうちに、思わず背筋を伸ばしてしまいました。それほど緊張感にあふれる裁判所の内外の動きがつぶさに再現されています。最大の魅力は弓削晃太郎として登場する矢口洪一にあります。
 青法協を目の敵にして血も涙もない司法反動の権化と思われていた(私も、もちろん、そう思っていました)矢口洪一が、実は最晩年に、青法協裁判官部会の後身にあたる裁判官懇話会に出席して講話したのでした。この内容は判例時報で紹介されました。
 この本の末尾にある参考文献は、司法反動の実態、そして司法改革とは何だったのかを知るためには欠かせない本ばかりです。司法界と無縁だった(と思われる)著者がこれだけの本を読み込んで、小説に仕立て上げた筆力には驚嘆します。
裁判官の内情をさらけ出す小説として『お眠りの私の魂』(朔立木、光文社文庫)はショッキングでした。
 もちろん日本裁判官ネットワークの本も紹介されています。
 じん肺訴訟については、福岡の小宮学弁護士の『筑豊じん肺訴訟』(海鳥舎)が紹介されています。
 しかし、なんといってもすごいのは、原発訴訟を一貫して取りあげているところです。この点については海渡雄一弁護士は実名で登場していますし、最新作である『原発と裁判官』(朝日新聞出版)も踏まえているところが、すごいと思いました。
 つまり、裁判官も人の子。行政にタテつく判決を書くのは、とても勇気のいることなのです。これから出世できないのではないか・・・。夜も眠れないほど悩むのです。
 実名と仮名で多くの裁判官が登場する、とても刺激的な本です。司法反動そして司法改革を知りたいあなたに、必読の本です。
(2013年7月刊。1800円+税)

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2013年9月 7日

幕末江戸下町絵日記

日本史(江戸)

著者  福原 敏男 、 出版  渡辺出版

江戸は幕末。そして、下町に生活する町絵師による絵日記です。
 幕末の京都のような殺伐とした雰囲気はまったく感じられません。のどかな下級武士の日常生活を絵日記で知ることができます。
 主人公は福田永斎という絵師。その師は佐竹永海。さらに永海の師は高名な谷文晁。
 慶応元年のころ永斎は30歳前後。明治26年ころには満60歳だった。
 明治19年まで、永斎は駒場農学校の仕事をしていた。そこで、博覧会の向けの出品害虫図を描いて博物標本画で生計を立てていた。東大の総合研究博物館が所蔵している東京大学害虫学研究室にある『昆虫飼養日誌』は永斎の作品と思われる。
 永斎は、幕末に秋葉原に住み(独身)、神田・浅草・大野・下谷・深川を行動範囲とした。絵によって日常生活が記録されている。
 ほのぼのとしたタッチで、当時の下級武士ないし町民の日常生活が描かれています。
 食事の風景、二日酔いで寝ている姿など・・・。同輩とともに、火鉢で燗をつけて楽しく飲みかわしている光景もあります。
 神田明神での相撲を見物しにも行っています。
 藤沢周平など、江戸時代に舞台とする小説を読むうえでもイメージのわいてくる貴重な絵日記です。
(2013年3月刊。2400円+税)

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2013年9月 6日

日本の最高裁を解剖する

司法

著者  ディヴィッド・S・ロー 、 出版  現代人文社

日本の最高裁判所について、多くの裁判官は「サイコー」と呼びます。若いときの私は、それを聞くと、いつも心の中で「サイテーじゃないか」と、あざけっていました。
 ところが、今では、高裁のほうがむしろ「サイテー」で、かえって最高裁のほうが積極判断を示すことがあるようになりました。司法反動のとき、裁判官統制がききすぎるようになって、「ヒラメ裁判官」(上ばかり見て、保身か立身出世しか考えない裁判官のこと)ばかりになってしまって、むしろ上に立つ裁判官のほうがやきもきして焦っているという構図が成立していると言われるようになりました。今や、その傾向はますます強くなっている気がします。たまに覇気のある元気な裁判官にあたると、ほっとします。
 アメリカの学者が、日本の最高裁をインタビューもふくめて分析した本です。
 日本は積極的に実現するに値する憲法に恵まれている。日本国民は世界で最古の部類に属するが、にもかかわらず、最先端の憲法を有している。
 日本国憲法は、制定して66年になるが、ほとんど陳腐化していない。日本国憲法はそれが施行された当時、かなり先進的なものだったが、今でも世界に立憲主義の主流にしっかりとどまっている。
 改憲を意図する保守派は、外国からの押しつけ憲法と特徴づけることで、その正当性を掘り崩そうとしてきた。しかし、反動的な政治家に憲法を押しつけることと、日本国民に憲法を押しつけることには重要な相違点がある。
 アメリカ人の学者である著者は、このように日本国憲法を高く評価し、改憲派を厳しく批判しています。最高裁判所が1947年に発足してから、違憲無効として法令は、わずか8件のみ。ドイツの連邦憲法裁判所は600件以上の法律を違憲無効としている。
 司法部は一群のエリートの幹部裁判官に牛耳られている。彼らは最高裁長官を含む重要な司法行政ポストに就き、強大な権限を行使して、自分たちの好む見解を司法部の隅々まで常に押し通すころができる。
 彼らが統一性と継続性を達成するために用いる官僚機構は、保守的な政治のルールを保守的な司法部の行動へ常に忠実に翻訳してきた。
裁判官の再任審査を外部に対して透明化するために設置された下級裁判所裁判官指名諮問委員会は、任命過程をとりまく透明性を向上させることにはつながらなかった。委員会の議事要旨をみても、委員会の議論の中味はわからない。委員は政府のために働いている。
 日弁連から選ばれた委員は、委員会にとっての厄介者だった。弁護士からの任官が目立って拒否されている。弁護士が司法部左派であるのは広く知られているので、弁護士任官に司法部が難色を示すのは、法廷のイデオロギー的バランスからみても当然のことかもしれない。
 青法協から脱会した裁判官のなかには、その後、順調なキャリアを重ねた者も多くいる。そのなかの一人の町田顕は最高裁長官にまでのぼりつめた。
 もっとも有力な司法官僚は最高裁人事局長である。事務総局は、より人気のある任地を特定の裁判官に割りあてている。人事局長ポストは、現役局長がたいてい自分の後継者を指名する。
 日本の最高裁について、かなり踏み込んでインタビューし、分析している面白い本です。
(2013年6月刊。1900円+税)
 炎暑の夏がようやく終わったようです。お盆過ぎから大雨が続いていたせいか蝉の鳴き声もぱったり止んでいましたが、ツクツクボースが鳴きはじめました。一気に秋の気配となりました。芙蓉のピンクの花が咲き、彼岸花も見かけます。車中にある温度計も19度を表示したり、8月の36度の表示が表示が嘘のようです。
 季節の変わり目です。みなさん、風邪などひかないようにしましょう。

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2013年9月 5日

「暁」の謎を解く

日本史(江戸)

著者  小林 賢章 、 出版  角川選書

とっても新鮮な衝撃を受けました。思い込み、というのは、こんなに恐ろしいものなんですね。
 真夜中の12時で一日が替わるのが当然だと私たちは思っています。でも、平安時代には12時ではなくて、午前3時が日付変更時だったというのです。ええーっ、そんな・・・、と思うのですが、この本はその例証を次から次に挙げていきます。いくらなんでも、いやはや降参と叫ぶしかありません。
平安時代の日付がいつ変わったのか・・・。それは、午前3時、丑の刻と寅の刻の間だった。その時間は人々が活動を始める時間だった。
 当時の30分は、時間認識の最小単位だった。「暁」は、現在は「夜明け前後」を意味するが、平安時代には午前3時から午前5時の時間帯を指して使われていた。
 暁の始まる時間、つまり一日の始まる時間は、寅の刻、現在の午前3時だった。
 日付変更時点は、平安時代に午前3時、江戸時代は1時間遅れの午前4時、そして、明治以降は今と同じ夜中の12時になった。
 「お江戸日本橋七つだち」という童謡は、午前4時に日付が変わり、旅に出発していたことを示している。
 暁は、平安時代、重要な役割を果たす時間帯だ。当時の結婚や恋愛は、男性が女性の家へ出かけ、一晩を過ごし、早朝に自宅に戻る形式だった。
 女性は、いつも待つ恋だった。平安時代、暁は大切な時間だった。
 アカツキは、奈良時代には、アカトキと言われていた。
 アカとトキの複合語だ。アカは、「明く」の活用形。アカツキは、暁と書かれることが多いが、平安時代には「あか月」と書かれていることも多かった。
 当時は、午前3時は女性のもとに出かけた男性の帰宅する時間だった。平安時代の暁は、寅の刻(午前3時~午前5時)だった。それに続いて卯の刻(午前5時~午前7時)から巳の刻(午前9時~午前11時)までが、「つとめて」だった。「暁」と「つとめて」の境は、午前5時とするのが妥当だ。
平安時代、暁という時間帯は、一日の始まりだった。恋人たちが別れる時間だったし、旅に出発する時間でもあった。とても重要な時間だった。
 有明も、午前3時から午前5時を意味する暁と同じ時間帯を意味して使用されていたはずである。
 有明は、午前3時以降の月を意味するものであった。有り明けの月が旅の出発の意味で用いられるとき、空に浮かんでいる月は三日月なのだ。動詞「明く」は、日付が変わる、午前3時になると訳したらよい。
 夜もすがらは、夜通し、一晩中という意味。夜一夜(よひとよ)も、夜もすがらと同じ意味。平安時代の今宵(こよい)には、昨晩と今晩の二つの用法があった。最初に、それを指摘したのは本居宣長だった。
 平安時代の文献、そして『今昔物語集』でも、今宵は昨晩の意味で用いられている。
 中国では、宵は昔も今も、夜の意味。その宵の字が、日本では、いつのまにか夜のはじめの部分の意味に変わってしまっていた。
午前3時までを、昔の人は夜と理解していた。夜もすがら、今宵(今夜、こよい)、夜の明くという使い方は、そのことを示している。
 「さ夜更けて」というのは、午前3時に向かって時が奥深く進んでいくことを意味している。
 ええーっ、そ、そうなんだ・・・。驚きの本でした。学問の進歩って、すごいですよね。同じ日本人でも、昔と今とで、時間の感覚がまるで違うことに改めて自覚させられました。
(2013年3月刊。1700円+税)

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2013年9月 4日

ビッグデータの衝撃

社会

著者  城田 真琴 、 出版  東洋経済新報社

インターネットの世界は、いつのまにか、こんなことも出来るようになったのですね。要するに、すべてはビジネス・チャンスに変えられるというわけです。
 実はもう一つ、すべての個人を監視できる体制がつくられたというわけでもあります。
 グーグルは、月に900億回というウェブ検索のために、毎月、600ペタバイトのデータ量を処理している。この分析対象は、グーグルの多種サービスを利用するユーザーのありとあらゆるデータだ。
 データ分析を軸にしたサービス分析を軸にしたサービス設計が功を奏し、アマゾンは年間売上480億ドル(3兆8000億円)を稼ぎ出す(2011年度)までの巨大企業に成長した。
 テラは10の12乗、ベタは10の15乗、エクサは10の18乗。エクサバイトのレベルがビッグデータと呼ぶにふさわしいデータ量だ。
 監視カメラを利用して、買い物客の店内での行動をモニタリングして分析する試みがある。モンブランは、これまで経験を直感で商品の陳列場所を決めてきたが、監視カメラのデータを分析し、顧客の目にもっともとまりやすい場所に一番の売れ筋商品を稼働させたところ、売上が20%も増加した。
ハドゥープとは、オープンソースとして公開されている大規模データの分散処理技術である。
 ハドゥープの大きなメリットは、これまでコスト面、処理時間の面で、あきらめざるをえなかった膨大な量の非構造化データの処理を可能にした点にある。これまではサンプルデータに頼っていたデータ分析から、関連する全データを対象として分析ができるようになった。
 インターネット・オークション会社のイーベイは、世界最大のネットオークション会社である。全世界で2奥7000万人もの登録会員がいる。1日に売買されるMP3プレイヤーは3600台以上、ダイヤモンドリングは2分に1個、自動車も1分に1台が売買されている。
 フェイスブック上で展開されるソーシャルゲームで人気ランキングの上位を独占するゲーム開発会社がジンガ。ゲームで遊ぶ95%のプレイヤーは、たった5セントのお金も使わない。しかし、残る5%の熱心なファンがジンガの年間11億ドルという売上を支える。
 ユーザー2億人の5%、1000万人が5ドルのバーチャルグッズを購入すれば、5000万ドル(40億円)の売上になる。ジンガの副会長は、「我々は、ゲーム会社の皮をかぶった分析会社だ」という。
 スーパーでは、顧客の購買履歴データがあると、一定期間の累計買い物金額に応じて顧客のランク分析をして、ランクに応じた得点を付与する。たとえば、ある週の累計買い物額が1万円以上の顧客には、2日間限定の5%割引クーポン、2万円以上の顧客には5日間限定の5%割引クーポンといった具合だ。これによって、顧客の購買意欲を刺激し、購買金額のアップを狙うことができる。
 日本のマクドナルドは、会員制モバイルサイト「トクするケータイサイト」などで、顧客一人ひとりの購買履歴を詳細に分析し、購買パターンに応じて、一人ひとり内容の異なる割引クーポンをケータイ電話に配信している。
 日本マクドナルドは、300億円を投じて、2600万人の顧客情報を蓄積し分析するシステムを構築した。
 たとえば、一定期間、来店していない顧客に対しては、従来よく購入していたハンバーガーなどを割り引くクーポン。来店頻度は高いが、新発売のハンバーガーを購入していない顧客に対しては、新発売のハンバーガーを大幅に割り引くクーポンなど・・・。
 ビッグデータを分析すると、スキー場やゴルフ場の従業員なのか、客なのか判明する。
 ケータイ電話会社にとって、優良顧客が離反しそうなことが事前に予測できたら、「割引キャンペーン」「ポイント2倍付与」など、解約を防止する手を打てる。
 とっても便利なスマホ(ケータイ)の利用は、このようにして管理されていくのですね。だから私は、今でもなんでも手書き派なのです。
(2013年6月刊。1800円+税)

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2013年9月 3日

憲法の創造力

司法

著者  木村 草太 、 出版  NHK出版新書

憲法学会の若き俊英が世に問う、ラディカルで実践的な憲法入門書。これは本のオビにあるキャッチ・フレーズです。そうならば、手にとって読まざるをえません。
 実りある憲法論のためには、何より想像力が重要である。
 そうなんです。条文(案)に何と書いてあるか、それがどういう意味なのかを知るためには、想像力が重要なのです。
 卒業式で、君が代を斉唱させ、日の丸掲揚を義務づけ、それに反する教員を処分する。これは、まさしく憲法問題である。
 著者は、次のように指摘します。そもそも、校長が式典での所作について命令を出すというのは、いかにも強権的である。冷めた目で見てみれば、「歌をうたえ」という職務命令が出ること自体が滑稽ですらあろう。たとえば、教員に対し、「入学式では、ちゃんと『ビューティフル・サンデー』をうたえ」という職務命令を出したり、歌わない教員に戒告処分や減給処分を科したりする学校があったら、多くの人は「変な学校だなあ」と思うのではないか。「ビューティフル・サンデーを歌わなかったこと」を理由とした懲戒免職など、もはやコントの域である。
 まったくもって、そのとおりです。学校を世界の常識が通用しない場にしてはいけません。それでは、何より子どもたちが可哀想です。
 生存権の保障というのは「フツー」の人の支持を「自然に」集められる政策ではない。貧困とは縁のない(と思っている)人々は、国家財政は、救貧施策ではなく、もっと文化的なものや、景気を刺激する政策に使ってほしい、と考えるかもしれない。また、勤労の才能に恵まれた「フツー」の人から見れば、生活保護受給の中には、「怠けている」ように見える人もいるだろう。
 しかし、個人の尊重という規範を貫くためには、生存権保障という「不自然」きわまる制度の意義を「フツー」の人々に十分に理解できるように説明できなくてはならない。
 憲法25条1項は、制度の現状を調査し、そこで何が行われているかに想像力を働かせ、改善のための想像力を発揮することを求めている。
 「最低限度」の生活に何が必要かを真剣に検討し、社会住宅の提供やコミュニティー形成への援助の重要性を憲法教育の現場で教えられていたら、政治や行政の現場も今とは違う状況になっていたかもしれない。
 ちょっと冷静に考えてほしい。休日に政治的行為をする人は、仕事でも政治的に偏ったことをするはずだという信念は、不合理な偏見にすぎない。私も、全く同感です。
憲法9条は、日本国の非武装を要求しているのではなく、日本国が非武装を選択できる世界の創造を要求しているということである。
 日本が非武装を選択できる世界の創造は、終わりがないと思えるほど途方もない仕事かもしれない。しかし、これは世代をこえて受け継がれなければならない仕事である。
 まだ30代前半の若きケンポー学者の指摘には本当に鋭いものがありました。
 多くの人に、とりわけ若い人に読んでほしい憲法の本です。
(2013年7月刊。780円+税)

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2013年9月 2日

クモはなぜ糸をつくるのか?

生き物

著者  キャサリン・クレイグ、レスリー・ブルネッタ 、 出版  丸善出版

クモは、その始祖から4億年の星霜を経て今日にいたった生き物である。
クモは4万種以上いる動物のなかで、一番多いのは昆虫、次がダニ、そして3番目はクモ。
クモの歴史は海から始まる。クモは、節足動物門の仲間だ。三葉虫も仲間になる。出糸突起は、水生節足動物の特徴を受け継いだもの。
クモは必ず糸をつくる。クモの一番の特徴は、なんといっても糸で円網をつくること。糸を作らなくては、クモとは言えない。クモが何万種に分かれていても、糸こそがクモをクモらしくするもの。
 クモが、さまざまな環境で生きられるのは、糸があったからこそ。クモは、進化するにつれて、糸の使い道を広げてきた。進化したクモは、いろいろに使える6種類以上の糸をつくる。
 クモの糸は、最強の化学繊維ケプラーよりも丈夫だ。糸はタンパク質だ。
 クモの糸のうち、しおり糸は、クモが懸垂下降するときに使う糸。地球上で、もっとも強靱な物質で、大きな力に耐え、莫大なエネルギーを吸収して壊れない。
 大瓶状腺糸の構成は、素晴らしい引っ張り応力に耐える能力を生む。引っ張り強さが大きいことから、クモが突然に下降したり、糸をすばやく上って戻ってくるのに耐えられる。
 すべてのクモの糸のタンパク質は、初めは液体だが、腺から導管を通って出糸突起に移動するあいだに導管のうち側の細胞が水を抜き取る。クモの体から出して空気に触れると、さらに水を失う。
 わが家の室内にも、自然が近いせいか、大小たくさんのクモが生息しています。毒蜘蛛はいないと思いますが、大きなクモを発見すると、大騒ぎして、外へ放り出します。殺したくはありません。これは芥川龍之介の『クモの糸』を読んで以来のことです。
 たくさんのクモの面白い生態を知ることのできる本でした。
(2013年6月刊。2300円+税)

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2013年9月 1日

私の従軍・中国戦線

日本史(現代史)

著者  村瀬 守保 、 出版  日本機関紙出版センター

1937年(昭和12年)7月に招集されてから1940年12月に日本に帰国するまで、2年半のあいだ中国大陸を兵站自動車中隊の一員として転戦した兵士のとった写真です。
カメラ2台を持っていたので、中隊の非公式の写真班員として認められていた。召集兵ばかりの中隊だったので、古参兵によるいじめはなかった。
 天津市内に入ると、すっかりさびれていた。日本軍の爆撃で目ぼしい建物はほとんど崩壊していた。
 続いて上海へ。上海戦線は、日中両軍が2ヶ月間も死闘を尽くした激戦だった。
逃げ遅れた中国人の老人と子どもをとった写真があります。いかにも脅えた表情のあどけない子どもは痛々しいばかりです。キャプションには80にもなる老婆がつかまって、2人の日本兵に犯され、ケガをしたとあります。
南京大虐殺の現場をうつした写真も何枚かあります。今でも、「幻の大虐殺」などという日本人がいるのは信じられないことです。
 そのあと、有名な徐州作戦に参加しました。ところが、中国軍の主力は逃げたあと。待ちうけていたのは、待ち伏せ攻撃だった。
 狭い路地を通過しているときに、真ん中の車両が攻撃され、分断される。怪しい中国人は、日本刀の試し切りとして惨殺される。そんな写真が何枚もあります。
 漢口に行き、山西省へ八路軍の討伐に向かう。そして、従軍慰安婦に出会います。日本軍の公設の慰安所が各地にありました。河野談話を否定するなんて、歴史のねじ曲げでしかありません。
 ノモンハン戦線に向かって、もうダメかと思っていると、休戦協定が成立。これで、無事に日本へ生還できたのでした。
くっきり鮮明な戦場写真は、それだけ余計に戦争の悲惨さ、残酷さを浮きぼりしています。
(2005年3月刊。2400円+税)

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2013年9月30日

千曲川ワインバレー

人間

著者  玉村 豊男 、 出版  集英社新書

日本でも、おいしいワインはとれるし、うまくいけば採算もとれるんだよという、うれしくなる本です。
 私は赤ワインが大好きです。今でも、気のおけない新しい友人と食事をしながら、大いに語らいながらなら、一人でワイン1本あけることは出来ると思います。(そんなことは、ほとんどしていませんが・・・)。たいていは、高価なワインをグラスで2杯、少しずつ味わって飲むようにしています。だって、酔っ払いたくはありません。本を読める頭は保っていたいのです。
 フランスに何回も行きましたので、ボルドー(サンテミリオン)、スルゴーニュ(ロマネ・コンティやボーヌなど)、そしてカオールにも行って、ワインを堪能しました。現地で飲むワインはテーブル・ワインをふくめて本当に美味しくいただけます。
 この本は、日本ワインのすばらしさを語っています。日本ワインは、ほとんど味わっていませんので、これから挑戦することにしてみましょう。
 著者が標高850メートルの信州の里山にワイン用ブドウの菌木を植えたのは、今から20年も前のこと。専門家から、この標高ではブドウは栽培は無理と言われた、素人の無謀な挑戦だった。
 ところが、醸造開始の2年後には、国産ワインコンクールで銀賞、5年後には最高金賞を受賞した。今では、毎年4万人以上の客が来る。
著者のヴィラデストは、上田盆地と千曲川の流れを眼下にし、はるか彼方に北アルプスの稜線をのぞむ丘の上にある。
 ヴィラデストとは、ここだ、ここにあるという意味のラテン語である。
 標高850メートルでは、寒過ぎて、積算温度が足りず、霜害や凍害にあう可能性が高い。そして、畑の土質はきわめて強い粘土質だった。千曲川の流域は、日本でも有数の少雨地帯。雨はブドウにとって大敵だ。
甘くておいしい食用のブドウは、ワインにすると、おいしいワインにはならない。ワインにしておいしいのは、粒が小さく、甘みも強いが、同じくらい酸味もある、複雑な味のするブドウ。ワインの場合、一本の樹につける房の数は、できるだけ少ないほうがよい。根が大地から吸った栄養を少ない数の房に集中させるのが、おいしいワインを生み出す秘訣だ。たくさんの房をつけた樹のブドウからつくるワインは味が薄くなってしまう。
 ワインづくりに人間が介在するのは3割。ワインの出来を左右する、あとの7割はブドウの質による。ワインブドウは、農地を借りてから収穫ができるまでに、5年間くらいは収入を見込めない。
 ワインぶどうの生産者価格は巨峰の半分ほど。しかし、巨峰と較べると、はるかに栽培の手間がかからない。ひとりで管理できる畑は倍以上の面積になる。単価が半分でも面積が倍になれば、収入は同じという計算になる。
 ワインぶどうは、きわめて環境適応能力の高い食物で、多様な気候に対応することができる。日本には日本でしかつくれないワインがある。
 コルクによって、少しずつ熟成していくというのは実は誤解。スクリューキャップのほうが、品質管理上も安心だし、衛生的。
 サンテミリオン(ボルドー)のワイン畑のなかにあるロッジのようなところに泊まったことがあります。時間がゆったり流れていくなかで、明るいうちから美味しい料理と赤ワインに舌鼓をうちました。いい思い出になりました。
 今度は信州の千曲川ワインバレーに行ってみましょう。
(2013年3月刊。760円+税)

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2013年9月29日

日本人警察官の家族たち

日本史

著者  鄧 相揚 、 出版  日本機関紙出版

1930年10月に発生した霧社事件シリーズの第2弾です。
日本人は相対的に優勢な文化で山地を統治し、タイヤルの人々は野蛮ですべてに劣っているとして、タイヤルの風俗習慣を短期間のうちにやめさせようとした。ところが、この深く根づいた風俗習慣は、タイヤルの人々が長期にわたって形成してきたものである。日本人がこれらの習慣を強制的に、力づくで排除しようとしたことが、対立と恨みの感情を生み出した。
 タイヤルの人々に対する過酷な使役がたびかさなり、そのうえ日本人警察官がタイヤルの人々を牛馬のようにみなして、殴る蹴る、鞭打つといったことをしたために、タイヤルの人々の民族としての恨みがつもりかさなって、霧社事件の原因となっていった。
 霧社事件で殺害された日本側の最高責任者は佐塚愛祐警部だった。現場にいたものの助かった、その娘・佐塚佐和子は、コロンビアレコード専属のスター歌手になり、歌謡曲「蕃社の娘」や「南の花嫁さん」で、よく知られた。
佐塚佐和子のブロマイドが紹介されていますが、ふくよかな美人です。
 霧社事件のあと、日本に住むようになった佐和子は、第二次世界大戦のあとは歌の世界から身をひいて、横浜で音楽教室を開き、日本人と結婚した。
 そして、佐和子の母、佐塚愛祐の妻ヤワイ・タイモはタイヤルの人々が日本人をののしるとき、彼女は日本人の妻だった。日本人がタイヤルの人々をののしるとき、彼女はタイヤル人だった。ヤワイ・タイモは何も言わずにこの事実を受け入れた。
 佐塚愛祐は45歳で祖国のために身を捧げたが、遠く台湾霧社に住むタイヤルの親族は、50年たった今でも、佐塚愛祐がタイヤル人をほんとうに文明と開化へと導いたのかどうか、確信をもてないでいる。というのは、タイヤルの人々は、佐塚愛祐を、日本が台湾を統治していたころの強権の化身であり、歴史の在任であるとみているからである。
 この本は、日本当局が強権的な植民地政策をとったとき、それを現地で担った人々の悲劇を、その後の家族の生きざまを通じて明らかにしています。
 たくさんの写真によって、誇り高きタイヤル族の人々と、その生活をしのぶことができます。
(2000年8月刊。2095円+税)

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2013年9月28日

有松の庄九郎

日本史(江戸)

著者  中川なをみ・こしだミカ 、 出版  新日本出版社

夏休みの課題図書の本です。小学校高学年の部です。青少年読書感想文全国コンクールの課題図書なのです。
 読んで世界を広げる。書いて世界をつくる。いいキャッチ・フレーズですね。
出だしは、現代日本の情景です。浴衣(ゆかた)の地は、色が藍色(あいいろ)。少しぼやけているものの、白い花はくっきりと大きく浮きあがっている。色もデザインもシンプルだが、模様が絞りでできているからか、決して地味ではない。有松(ありまつ)絞りだ。
このあと、話は一転して江戸時代初め、尾張の国(愛知県西部)にある阿久比(あぐい)の庄に飛びます。
徳川家康が関ヶ原の戦で勝ち、徳川の時代になって7年目のことである。東海道を整備するために新しい村をつくるという。それに貧しい村民が応じて出かけることになった。しかし、森を切り拓いても粘土質の土壌が悪いのか、農作物は育たない。
 そんな苦境のなかで、四国の阿波の国の藍染めにならって、有松絞りが苦労の末に誕生した。それに至る経過があざやかに描かれています。
有松絞りは江戸後期に最盛期を迎え、役者絵や美人画の衣装として浮世絵に描かれている。
 一度、実物の有松絞りを手にとってみてみたいものだと思いました。
(2013年6月刊。1500円+税)

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2013年9月27日

消えた子ども社会の再生を

社会

著者  藤田 弘毅 、 出版  海鳥社

今の子どもたちは本当に可哀想です。子どもは子ども同士で群れをなして遊ぶのが一番です。私は団塊世代ですから、子どものころどこもかくこも子どもだらけでした。陰湿ないじめを受けたことはありません。なにしろ1クラス50人ですから、いくつものグループがあって、併立(共存)できていたと思います。
 この本に出てくるコマまわし遊び、メンコ(私のとこはパチと呼んでいました)も、芸術的な極みに達する遊びになっていました。異年齢集団で行動するのがあたりまえでした。ガキ大将というほどのことはありませんが、なんとなく、いつもリーダーがいました。
 この本は、子どもたちが大人に頼ることなく、子どもだけの集団遊びをつくり出していく苦労が明らかにされています。そして、そのことに案外、親が無理解だという点もしっかり指摘されています。
 この本の出だしは、あまりにもあたりまえのことばかりで、面白くないなという気分になりました。ところが、具体的な実践面になると、そうだよね、そうだろね、という記述が登場してきて、およばすながら私も応援したくなってきました。舞台は太宰府の公園です。
 いま、ボランティアを募集しても、集まらない。
 うーん、そうなんだー・・・。今の子どもたちは、遊ばせてくれるのを待っている。異年齢のつながりは、自分たちでつくれない。子どものリーダーがいないので、大人にかまってもらいたがる。ガキ大将がいらないのが原因になっている。子どもたちは二分化している。一方に、いろんなことに意欲をわいていて、学校の成績もよく、さまざまなことに参加する、目立つ子。もう一方は、新しことに意欲がもてず、ゲームばかりしていて、親が提示することをいやいやながらしている子。大学生のボランティアは、大人が遊んでくれただけで、子ども社会をつくるためには役に立たない。
 うへーっ、私は40年前の大学生のころセツルメント活動をしていましたが、そんな指摘は受けたことがありません・・・。時代が変わったのでしょうか?子どもたちが真剣になるのは、競いあうとき。そして、その場の一番強い人に、承認を求める。とくに男の子は承認してもらいたいという本性がある。
 この承認を与えるのが、ガキ大将の役割の一つである。昔の子ども社会では、大きい子が教えることもあったが、ほとんどは小さい子が大きい子のやるのを見て真似ていた。
 子ども社会で認められることが大切なことだと分かると、いちいち大人に報告に来ることはなくなる。そして、自立心、社会性が身につく。大人って仕事ができる人は、自立心、創造性、社会性など、人間としての基礎的な能力を備えた人。
 子どもたちの集団遊びの大切さを改めて分からせてくれる本です。
(2013年4月刊。1500円+税)
 周囲の田んぼの稲穂が重く垂れています。週末の稲刈りがあるところも多いようです。紅い彼岸花は盛りを過ぎました。アキアカネが飛びかい、モズの甲高い鳴き声が聞かれます。
 わが家の庭は、いまピンクと朱にいろどられています。ピンクは芙蓉の花、朱は酔芙蓉です。朝のうち純白だった花が午後には朱に染まります。まさしく酔った感じになるのにいつも心を打たれます。
 チューリップの球根がホームセンターで売られています。これからチューリップを植えつける準備をします。

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2013年9月26日

刑事弁護プラクティス

司法

著者  櫻井 光政 、 出版  現代人文社

新人弁護士養成日誌というサブタイトルのついた本です。著者の長年にわたる活動実績と熱意には本当に頭が下がります。
 「季刊・刑事弁護」で連載されていましたので、このうちいくつかは読んでいましたが、こうやって本になって改めて読んでみますと、その指導のすごさが実感できます。そして、厳しい指導を受けて大きく成長していった新人弁護士は幸せです。
弁護人は被告人の良き友人になろうとする必要はない。被告人も友だちがほしくて弁護人を依頼しているのではない。だから、人間的に立派な人だと思ってもらう必要もない。被告人の弁解を十分に聞いて、法律的にきちんと主張すること、捜査官、裁判所に手続を守らせること、そのための努力を払えば、被告人は弁護人を弁護人として信頼するはずである。弁護人としては、それで十分である。
生まれ育った境遇も現在置かれている立場もまったく異なる被告人と弁護人との間の信頼関係は、所詮そこまでのことと心得るべきである。弁護人も報酬の多寡はあるけれど、仕事でのつきあいなのだから。
「先生のおかげで生まれ変わりました」などと言っていた被告人が数ヶ月後に同種事犯で逮捕され、「また先生にお願いしたい」などと連絡してくるのは驚くほどのことではない。そんなことで「自分の努力は何だったのか」などと嘆く弁護人がいたら、その思い上がりこそ戒められるべきである。弁護士が「お仕事」で数ヶ月つきあっただけで、人は生まれ変わったりはしない。一般的に言えば、接見回数が多すぎることによる弊害は、少なすぎることに比べて、はるかに少ない。
私自身は、1回の面会時間は少なくして、なるべく回数を重ねるように心がけています。この本にも、接見時間が4時間とか、とても長い新人弁護士の話が出てきますが、1回にあまりに長時間かけるのは他人(はた)迷惑(別の弁護人が接見できなくなることになります)でもありますし、仕事として効率的でもありません。
たとえ新人だろうが、バッジをつけたら一人前の弁護士だ。自分の責任で事件に対応しなければならない。困難な問題に突きあたったときに、先輩弁護士に意見を聞くのはよい。しかし、最初に何をしたらよいのか分からないようなときは、明らかに自分の手にあまるのだから、そのような事件を受任すべきではない。一つひとつが生の事件であることを忘れて、あたかも単なる学習教材のように接する姿勢があるとしたら、たいへんな間違いである。
情状弁護においては、被告人が再び罪を犯さないようにすることを大きな柱のひとつに据えている。目先の刑の長短よりも、その後の被告人の立ち直りのほうが、被告人のためにも、ひいては社会のためにも重要だと考えている。そのための努力を惜しまないことが、弁護士の矜持だと心得ている。
この点は、私もまったく同感です。被告人に対して、なるべく温かく接して、社会は決してあなたを見捨てていませんよ、というメッセージを送るのが私の役目だと考えています。
裁判所により仕事をしてもらおうと思ったら、弁護士は手を抜いてはならない。
この指摘は私にも大変耳の痛いものがあります。大いに反省させられます。弁護士生活40年になる私がこうやって新人弁護士養成日誌を読んでいるのも、初心を忘れないようにするためなのです。ありがとうございました。
(2013年9月刊。1900円+税)

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2013年9月25日

憲法問題-なぜいま改憲なのか

司法

著者  伊藤 真 、 出版  PHP新書

著者は、自分のことを護憲派だと思ったことはないと言います。
 ええーっ、だって・・・と思うと、次の言葉で救われます。なるほど、なるほど、です。
 自分のことを改憲派でもなく、「立憲派」だと思っている。
 著者が現憲法にも変えたほうがいいという点も示唆に富んでいます。たとえば、こうです。
 現憲法は人間中心であるがゆえに、動物や植物に、さらにいうと地球と共生していくという視点がない。地球環境に言及する条項もあっていい。なーるほど、ですね。
 しかし、憲法の基本から逸脱すると、憲法で社会を良くするつもりで改正したのに、逆に悪くなってしまったという自体を招きかねない。
 604年に聖徳太子が制定したといわれる十七条の憲法にも、立憲主義の考え方が隠れている。「官吏は賄賂をとるな」(5条)、「任務をこえて権限を濫用するな」(7条)、「国司や国造は人民から勝手に税をとるな」(12条)という条項には、国民を守るために国家権力を縛ろうという意図が込められている。
 このように、マグナ・カルタより600年も早く、日本には国家権力を縛る考え方が存在していたわけである。
ちなみに十七条憲法でよく紹介されている「和をもって貴しとなし」というのは、このころあまりに争いごとが多くて裁判が増えすぎたので、いい加減にしろ、もっと仲よくなりなさいというものであって、日本人が仲良くしていたというのではありません。誤解しないようにしたいものです。
安倍首相と自民党の96条改正先行論は、改憲の「裏口入学」であって、真の目的は戦争放棄を誓った9条の改正にある。
 自民党改憲草案の前文には、日本は「天皇をいただく国家であって」としている。これは、国民の上に天皇がいて、権威のある天皇に国民が従属しているという構図を想起させる。そして、改憲草案の前文第二段には、日本が戦争加害者になったことに触れていない。
 夫婦同姓が日本の伝統的な家族のあり方だというのは誤解。夫婦同姓がスタンダードになったのは、明治以降のこと。それまでは夫婦といえども別姓があたりまえだった。有名な北条政子は源頼朝と結婚しても名前は変わっていない。
 個人の尊重は、立憲主義にもとづく憲法の根底にある大事な考え方である。人間を身分や制度から解放して、かけがえのない個人として尊重しようとするもの。一人ひとりが多様に生きていることこそがすばらしい。それが個人の尊重の意味。ところが、自民党の改憲案は「個人」から「個」をとって、「人」とした。「個」をとったということは、人を自立した個人ではなく、「人」という集団としてとらえているということに他ならない。
 人を個人として扱われなくなれば、個人としての責任も曖昧になる。
人々が苦労して発展させてきた立憲主義の歴史をふまえたとき、時代の針を巻き返すような自民党の改憲案を認めることが、はたして正しいことなのかどうか、ぜひ考えてほしい。
 わずか250頁の新書ですが、最新の知見と論点を盛り込んで改憲論の問題点をじっくり考えさせてくれる本になっています。一読をおすすめします。
(2013年7月刊。760円+税)

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2013年9月24日

リンパの科学

人間

著者  加藤 征治 、 出版  講談社ブルーバックス新書

リンパとは、血管から周囲の組織に漏れ出た成分である「組織液」を吸収したもので細胞成分(主にリンパ球)と液体成分(リンパ漿)が生まれる。
 リンパ官系の源流は、組織液を吸収する毛細リンパ官である。
 心臓という「ポンプ」をもたないリンパ管では、からだの位置(重力)や姿勢によって、リンパ管周囲の筋肉などの組織が動くことにともなって受動的な管壁の収縮が生じ、くねるような蠕動(ぜんどう)運動をしたり、弁の開閉によってリンパが行ったり来たりする振り子運動などによって運ばれる。
 リンパは、リンパ節内でいろいろの生体反応を起こしながらも、やがて静脈に合流するまで流れ続けていく。リンパは、いくつもの細いリンパ管が合流した集合リンパ管に集められ最終的には血管に入って血液に戻る。
 リンパは血清に比べて、総タンパク量が少ない。リンパは分子量の低いアルブミンのほうが、グロブリンより60%多い。リンパのほうが、血液より粘土製が低く、さらさらで流れやすいため、ゆっくり流れていても循環できる。
 リンパ管を流れるリンパの中の血球をリンパ球と呼ぶ。
 リンパは、その大部分が液体成分であり、赤血球をほとんど含まないため、薄い黄色である。リンパの中にある血球は白血球であり、その大多数がリンパ球である。リンパが身体中を一周して元に戻るまでには、12時間かかる。リンパの流れを手助けするためには足首をぐるぐる回したり、ふくらはぎをもんだりするのが効果的。
 胸管やリンパ節の輸出リンパ管内のリンパは、免疫担当細胞である多数のリンパ球を含んでおり、全身をめぐって、局所の臓器における免疫反応に働いている。
 リンパ節から胸管に流れるリンパは、免疫反応を起こすための免疫担当細胞の供給という観点から欠くべからざる存在である。
 リンパ組織は、体内における警備室のようなところで、細胞や異物などの抗原が入ってくると、まず警備員として最前線で働くマクロファージ(大食細胞)がそれらを取り込み、その情報がリンパ球に伝えられる。細胞にとりこまれた抗原は、リンパ管内のリンパに乗って、近くのリンパ節に運ばれる。リンパ節内では、「免疫戦争」(抗原-抗体反応)が起こり、特異的な抗体(タンパク質)が産生される。そのときリンパ節の肥大(ぐりぐり)が確認できる。
 大切な人体内のリンパのことを知ることのできる本です。
(2013年6月刊。900円+税)

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2013年9月23日

ぼくらの文章教室

社会

著者  高橋 源一郎 、 出版  朝日新聞出版

文章というのは、それを書いた人の「顔」ではないか、と思えてくる。
あえて、ここには紹介しませんが、この本の冒頭にある短い文章は、まさしく、その典型的な例証だと思います。
 アップルのスティーブ・ジョブズの話も紹介されています。私は『驚異のプレゼン』という本を読んで知っていましたが、なるほど、すごい文章です。ともかく、思わず身体がぐらぐらと揺さぶられるほど、心がうたれます。
 毎日毎日、何の変哲もない単調な作業の続く労働現場にも、見方をちょっと変えると、モノカキの大いなる題材がころがっている。要は、それをとらえる視点があるかないかの違いだ。なるほど、そうなんでしょうね・・・。
 人間は、苦痛のあまり、考えることをやめてしまうことがある。しかし、人間は考えることによって初めて人間になる。
 その場所、与えられた場所、そこで生きねばならぬ場所、いまいる場所、そこに住む自らの姿を見つめること、それが「素人」の考える、なのだ。そのために「素人」は「文章」を書く。遠くまで出かける必要はない。「文章」が書かれている場所はどこでもいい。
 いつか必ず文章がうまく書けるようになる方法はある。それは、文章を読むこと。それも、「ただ」読むのではない。優れた文章、誰もかけないような文章、一見ふつうだけれど、読めば読むほど、それがもっている強い力に引きずりこまれてしまうような文章、そのときには分からなくても、ずっとあとになって「あっ」と小さな叫び声をあげ、自分が一つステップを上がった気になってしまう文章などなど。それらを、自分の中に「しみ通らせる」ように読む。
できるだけ細かく、どのように書かれているのか分析し、解釈して読む。そして、それを限りなく繰り返す。
 私が10年以上も、こうやって他人の文章を書き写す作業をしているのも、文章作法の一つなんですよね・・・。モノカキ思考の私には、とても学べる、実践的な内容の文章教室でした。
(2013年4月刊。1600円+税)

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2013年9月22日

ブルゴーニュ公国の大公たち

ヨーロッパ

著者  ジョセフ・カルメット 、 出版  国書刊行会

ボルトーと並んで有名なワインの名産地、ブルゴーニュ地方には中世に大きな公国があったのでした。その首都デイジヨンには大きな館があり、今では市庁舎と立派な美術館になっています。昔の栄華をしのばせる偉容には圧倒されます。
そして、デイジョンもボーヌも、まさしく美食の町です。星があろうとなかろうと、心ゆくまで美味しい食事を堪能することができます。ボーヌには2度行きましたが、ぜひまた行きたいところです。
初代ブルゴーニュ公のフィリップ・ル・アルディは、1342年生まれ。背が高く、頑健で、よい体付きをし、丸々と太っていて。色の黒い醜男だった。明敏な洞察力こそは、機を見るのに敏な感覚、決心とあいまって、公の主な長所とも言えた。
 二代目ブルゴーニュ公のジャン・サン・プールは、勇敢で大胆で、ひねくれ者で、際限のない野心家だった。1407年11月、ルイ・ドルレアンがジャンによって暗殺された。ジャン・サン・プールは、野望をみたすためには、目的のためには手段を選ばず、緊迫した情勢を解決できるなら、犯罪であってもやってのける政治家だった。逆にオルレアン公の方がブルゴーニュ公の暗殺を図っていた。だから、正当防衛しただけのことだと喧伝された。
 英国軍がヘンリー5世の下にアザンクールでフランス軍を大敗させた。ジャン・サン・プールはヘンリー5世と結んだ。そして、1419年9月、ルイ・ドルレアン公殺しの張本人が、モントロー橋の上で暗殺された。
 三代目のブルゴーニュ公は、フィリップ・ル・ボンである。背は高く、風采は立派、人並みすぐれ、見栄えする容姿の持主だった。その私生活は庶外れの自由奔放さで、30人の愛人がいて、公認の私生子は17人いた。
 このフィリップ・ル・ボンの時代に、あのオルレアンの少女、ジャンヌ・ダルクが登場する。ジャンヌ・ダルクは、金貨1万エキュという巨額でもって英国人に売られた。裁判長のピエール・コションは、残忍な対英協力派、何でもやってのける聖職者だった。フィリップ・ル・ボンはジャンヌ・ダルクの裁判をちゃんと知らされていた。
 四代目で最後のブルゴーニュ大公は、シャルル・ル・テメレール(突進公)である。
 自分にも、他人にもきびしく我慢を知らず、粗暴で執念深く、すぐに逆上した。
 ブルゴーニュ公国では、民衆的な劇が非常に好まれ、数多くの俳優がいた。まばゆいばかりのロマネスク芸術の一派が花を咲かせた。
ブルゴーニュ宮廷は、15世紀に、稀にみる輝きを発した。祝宴は、公家のお得意芸の一つだった。パントマイム、人体を組みあげてくるお城、軽業の見世物などが宴会にはつきものだった。たえず工夫をこらしていることが決まりだった。
 ブルゴーニュ公国には、制度上の一体性はまったくなかった。
ブルゴーニュ公国は、現在のフランス、ベルギー、オランダ(の一部)、ルクセンブルクなどにまたがった広大な版土を有していた。
そんな中世のフランス公国を知ることのできる本格的な歴史書です。
(2000年5月刊。6500円+税)

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2013年9月21日

月神

社会

著者  葉室 麟 、 出版  角川春樹事務所

8月初めに網走刑務所(旧)を見学してきました。2度目の訪問ですが、20年ぶりに行ってみると、すっかり見学者向けの近代的施設ができていました。
 それでも、放射線状に並ぶ、天井の高い監獄の部屋は当然のことながら昔のままです。こんな高い天井から脱獄した囚人がいたなんて信じられません。今も、まさしく脱獄しようという男が天井のはりから外へ出ようとしています。その人形が不気味です。そして五寸釘寅吉という脱獄を繰り返し、最後は模範囚となった人物の人形が門のそばで待ち構えてくれます。
 夏でも20度あまり、寒になると、零下20度の世界。そんな厳しい寒さのなかで働かされていた囚人たちは哀れです。
 この本の主人公は、福岡藩の藩士だった月形潔が、幕末の嵐を生きのびて北海道に新設された集治監(監獄)の初代典道(所長)になったのでした。網走ではなく、樺戸のほうです。
 ですから、まずは幕末期の福岡藩で何が起きていたのかが語られます。福岡藩主の黒田長溥(ながひろ)は尊王攘夷(そんのうじょうい)派に対して厳しい態度でのぞんだ。彼らが藩主の威光を恐れず、それどころかたてつく存在であるのを嫌い、警戒した。
 江戸で桜田門外の変、そして坂下門外の変が起きた。
 長洲藩は禁門の変をおこして、敗北した。福岡藩内の情勢は複雑だった。尊王攘夷派も幕の中枢にのぼっていった。そして、彼らは薩摩と長洲が連合するよう働きかけていた。
 そして、藩主は筑前尊攘派を弾圧した。リーダーである月形洗蔵は斬首された。
 明治となり、石狩地方に樺戸(かばと)集治監が設置されることになり、その初代典獄に月形潔が就任した。
 囚人たちは道路建設工事に施設された。囚人1150人のうち、900人が発病し、死者は211人にのぼった。
 月形潔は初代典獄を3年つとめて福岡に戻り、明治27年に48歳のとき病死した。
 囚人のなかには政治犯もいたと思うのですが、ひたすら典獄として秩序維持にいそしむ潔の心情が哀れです。
 幕末から明治の雰囲気を知ることのできる本です。
(2013年7月刊。1600円+税)

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2013年9月20日

憲法は政府に対する命令である

司法

著者  C・ダグラス・ラミス 、 出版  平凡社ライブラリー

初版は2006年8月、小泉内閣の前の第一次安倍内閣のときに刊行されています。
第一次の安倍内閣は憲法改正を始める力はなかった。しかし、第二次安倍内閣には憲法改正のための政治力があるかもしれない・・・。
 そして、自民党は2012年4月、憲法改正草案を発表した。この草案の正確は、国民に対する命令である。草案102条にある「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」という条項は、主権者にいう言葉ではない。
 安倍首相のいう「日本を取り戻す」とは、大日本国帝国政府のよさを取り戻すという意味だ。しかし、明治憲法が現憲法に変わったとき、日本がどれほど変わったのかを思い出す必要がある。
憲法とは国の政治を形づくるものである。
 近現代の憲法の多くは、国家権力の制限を基本としている。
 明治憲法のもとでは「臣民」が存在していた。明治維新より前には「国民」という言葉は存在もしなかった。政府は、社会契約の相手であり、その契約を守るかぎりにおいて市民も、それを守る。つまり、市民は、「政府」として認めて、法律に従う義務がある。日本国憲法に命令として従う義務があるのは国民ではなく、政府である。厳密にいうと、政府を構成する人間である。
 問題は押しつけ憲法がどうか、なのではない。誰が誰に、何を押しつけたのか、ということである。日本の民衆は、総司令部(GHQ)の大日本帝国政府への新憲法の押しつけに参加した。
 施行されてしばらくして、アメリカ政府は、とくに9条に関して、後悔した。しかし、それは後の祭りだった。
 交戦権とは、兵士が人を殺す権利である。
 交戦権とは、侵略戦争をする権利ではなく、戦争自体をする根本的な権利である。
 交戦権とは、兵士が戦場で人を殺しても殺人犯にはならないという特権だ。それは兵士個人の権利ではなく、国家の権利である。
 侵略戦争を起こしたときには、それが禁止されているものである以上に、交戦権は成り立たない。自衛戦をする場合のみ、立派な交戦権が成り立つ。
日本国憲法において重要なのは、その国家の正当暴力の権利を、すべてではないが、その一部の交戦権を放棄しているということ。
 自衛隊は軍隊の組織をもち、軍服を着、軍事訓練を受け、そして戦争のための武器をもつ。しかし、軍事行動はできない。このように、かなり訳のわからない組織である。
 不思議な自衛隊である。このように矛盾した状況だが、結局、憲法ができてから今までの60年あまり、日本の交戦権の下では一人の人間も殺されたことはないという現実がある。
 自民党の改憲草案は、戦争で日本は害を受けたが、害を与えたことはないという歴史観に立っている。
 いやはや、なんという間違った、狭い考えでしょうか・・・。情ないです。いまは沖縄に住むアメリカ人の著者による歯切れのいい憲法を論するの文庫本です。一読をおすすめします。
(2013年8月刊。1000円+税)

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2013年9月19日

抗日・霧社事件の歴史

日本史(現代史)

著者  鄧 相揚 、 出版  日本機関紙出版

1930年(昭和5年)10月27日、台湾の山岳に住む原住民は反乱を起こし、運動会に参集していた日本人を皆殺しにしたのが霧社事件です。
 3冊シリーズの第1冊目を紹介します。霧社という地名は、このあたりは霧が深いために名付けられた。海抜1148メートルある。
 1930年当時、霧社の町には、日本人が36戸157人、漢人が23戸111人住んでいた。
 樟脳(しょうのう)製造に従事する従業員と家族は700人にのぼった。
 日本の植民地政府は、日清戦争後に台湾を支配し、武力討伐で原住民を包囲し、それぞれの部族に「和解」や「武装解除帰順」を迫った。日本人は、原住民族を野蛮民族とみなして、大日本帝国の民族主義の優位のもとに、彼らの人間性を尊重することはなかった。
 タイヤル族は、代々、狩猟と粟、陸稲の栽培で暮らしをたててきた。日本人は、それに対して焼畑工作をやめさせ、水稲の定地工作を強制した。タイヤルの人々にとって、水稲農耕への転換はつらい道のりだった。
 タイヤル族の銃器も押収され、伝統的な狩猟は制限された。出草して敵の首を狩ることは、本来タイヤル族の大切な祖霊崇拝の習俗だった。
 首狩りは、部落の行事に加わる手段であり、男性の武功と栄誉の象徴でもある。敵の首を狩ったことのないものは、顔に刺青を入れることができないし、顔に刺青がないものは結婚することができない。刺青は、成人のしるしでもあった。
 タイヤル族の風習では酒をすすめるのは、その人への尊敬の気持ちをあらわす。ところが、逆にタダオ・モーナは酒をすすめた相手の日本人警官から殴打され、侮辱されてしまった。
 10月27日に霧社事件が始まり、全部で134人の日本人が殺され、26人が負傷し、日本の服を着ていた漢人2人が殺された。
 10月31日、日本軍が総攻撃を始めると、抗日6部落の人々は山深く潜入して、長期抗戦に入った。
 日本陣営への参加を迫られたタイヤル族には「戦地勅令」が適用され、命令にそむいたり、警察の指摘に従わず、戦地から逃亡したものは、即刻銃殺あるいは拘留して厳罰に処した。その一方、勇猛果敢に戦功をあげた原住民には褒賞を与えた。
日本人によって育てられた花岡一郎と二郎は、民族の感情と恩義の葛藤のなかで矛盾におちいり、一族21人を連れて小富士山に行き、そこで首を吊ったり、切腹自殺をして、部族の人々と日本人の両方への忠誠心を表明した。
 タイヤル族は、祖先は巨木(ボソコフニ)のなかから生まれたと信じ、死の苦しみに直面すると、巨木のしたて首を吊って死ぬことをえらび、霊魂を自ら祖霊のもとにかえす。そのため、タイヤル族が日本軍の討伐や包囲懺滅に対抗するとき、徹底的に闘うか、さもなくば自ら首を吊って殉死する。
 事件が発生したとき、抗日6部落の住民は1236人。戦死者85人、飛行機による爆死者137人、砲弾による死者34人、「味方蕃」による死者87人、自ら首を吊って死んだ者290人(45%)。いずれにしても日本人とタイヤル族の双方に大惨事となった事態です。
(2000年6月刊。2095円+税)

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2013年9月18日

日本国憲法の初心

司法

著者  鈴木 琢磨 、 出版  七つ森書館

『路傍の石』の山本有三が日本国憲法の成立に深く関わっていたことを初めて知りました。直接的には、口語化ですけれど、広い意味では日本国民の意思を体現して現憲法の成立を推進したと言えると思いました。
 山本有三は1887年7月、栃木県で生まれた。一高から東京帝大独文科に入って学ぶ。一高時代、同級の近衛文磨と生涯と友となる。
 山本有三は強度の近眼のため、微兵検査で不合格となり、兵役は免れた。
 1920年に文壇にデビューしたが、1933年、共産党との関係を疑われて検挙された。
 戦後、日本国憲法をつくるというとき、山本有三は口語体にすることを強く主張し、口語体の文案をつくった。政府は山本有三の口語体文案をおおいに参考にしながら、現在の憲法をつくりあげた。
 山本有三は、戦後、1947年の参議院選挙に全国区から出馬し、9位で当選した。そして、無所属議員による緑風会に所属する。そして、文壇の大先輩である幸田露伴の死去にさいし、参議院本会議で追悼の演説をした。
 1956年の参院選挙のとき、自民党が憲法改正を叫んだのに対して、山本有三は次のように主張した。
 押しつけられた典に不満もないわけではない。いつかは改正しなければならないと思う。しかし、憲法改正は非常に重大なことであるから、軽々しく取り扱うべきものではない。
 本当にそのとおりですよね・・・。次に、山本有三の戦後の反省のコトバを紹介します。
 軍部や右翼がのさばったのは、たしかに不都合には相違ない。しかし、それをのさばらせたのは、国民の中にも何かがあったからではないのか。官僚や議員や報道陣が、常にときの権力に屈従しているのは、必ずしも彼らだけが悪いのではなく、そうさせるものが国民の中にもあるからではないか・・・。
 いのちを投げ出すことを最高の美徳と考えたり、それをほめたたえる思想は、封建主義的な思想だ。ヤクザ仁義の思想であり、軍国主義的な思想だ。こういう考え方、気風というものは、ぜひとも根だやしなければならない。
 日本は領土を広めようとして海外に乗り出したときは、必ず失敗している。
 「もし他国から攻撃を受けたとしたらどうするか」「武力をもたない日本は、ひとたまりもないではないか」
 この質問に対しては、逆に問い返したい。
 それなら、どれだけの兵力をもっていたら侵略をくいとめることができるのか?
 デンマークとナチスの例を考えたら、国防軍を備えていたところで、なんになったろうか・・・。問題は、どれだけ武力をもつかということではない。そんなものは、きれいさっぱりと投げ出してしまって、裸になることである。そのほうが、どんなさばさばするかもしれない。裸より強いものはない。なまじ武力なぞ持っておれば、痛くもない腹をさじられる。それよりは、役にも立たない武器なぞは捨ててしまって、まる腰になるほうが、ずっと自由ではないか。そこにこそ、本当に日本の生きる道があるのだと信ずる。
 戦前の厳しく辛い経験をふまえた山本有三の指摘は、今も生きているものだと思いました。
(2013年8月刊。1600円+税)
 稲穂が垂れて、畔に紅い彼岸花の咲く秋になりました。久しぶりに庭に出て、花を整理しました。
 夏のカンナを刈り、夜に芳香を漂わせる夜光木をカットしました。その隣には、エンゼルトランペットが黄色い花を咲かせています。
 娘が庭に植えていた芋を掘りあげました。なんとか食べられそうな芋を収穫することができ、さっそく秋の味覚として美味しく、みんなでいただきました。

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2013年9月17日

アリの巣の生きもの図鑑

生き物

著者  丸山宗利・小松貴ほか 、 出版  東海大学出版会

私は、てっきりアリの生態を知らせる図鑑だと思って手にとって眺めはじめました。すると、すぐにはアリが登場しないのです。おかしいなと思いつつ、頁をめくります。あれれ、これはどうやらアリをめぐる図鑑らしいと思いました。改めて表紙に目をこらすと、なるほど、アリの巣の生きもの図鑑となっています。アリもやがて登場しますが、アリと一緒に、いやアリを食べたり、利用したりして生きている生きものがこんなにいるのかと驚きます。
しかも、その一つひとつに名前がついて、詳しい生態の解説があるのです。いやはや学問の世界というのは、たいしたものです。
 アリは、一般に熱帯の温潤な地域にいて、多様性が高い。日本に300種ほどいるが、マレーシアの熱帯雨林には、わずか数百メートル四方で、それを優に上回る種を確認できる。
 生物量も多く、熱帯雨林のアリをかき集めると、その重さは、その森の全脊椎動物を集めた重さの数倍に達する。
 アリの種の多様性と生物量は、それぞれ好蟻性動物にとっての生息環境の多様性と資源量の豊かさを意味する。
 実は、日本では沖縄より北海道のほうが明らかに好蟻性動物の種数は多い。
 アリの巣内は漆黒の暗闇である。そこで、アリは、基本的に視覚に頼らず、触角に加え、科学物質を放出し、傍受することによって、巣仲間と交信している。巣仲間であることを区別する体表ろう物質(体表炭化水素)、警報を発するため警戒フェロモン、通り道を仲間に残すための道しるべフェロモンなどが知られる。ある体表には、多数の科学物質分泌があり、そこから出るさまざまな科学物質を人間が言語を探るように使用すると考えられている。体表炭化水素の組成、組成比はここのアリ種、コロニー、果ては階級ごとの微妙に異なる。アリにとって、「体の匂い」こと体表炭化水素の組成(比)が異なる相手は、巣仲間ではないと認識されるべき対象、つまり敵である。
 しかし、これにも大きな欠陥がある。「匂い」が同じなら、それがいかに自分たちとかけ離れた異形の生物であっても、仲間として受け入れざるをえなくなる。そこで、この盲点を巧みに突くようにして、さまざまな好蟻性動物がアリを個体から社会まで、さまざまな段階で搾取している。
 好蟻性とは、生活史のなかで、多少とも、アリの社会に依存すること。対敵共生者は、アリから敵意を持って接されるため、アリに気づかれないよう、あるいはアリの攻撃をかわしつつ、アリの巣に暮らすもの。クサアリハネカワシなど。
 相受共生者は、アリに感知され、巣の一員として受けいれられるもの。コブエンマムシ、シジミチョウの幼虫。外部・内部寄生者。生活史の一部をアリの体表や体内で過ごすもの。ムクゲキノコムシやダニなど。
 栄養共生者は、アリに甘露などのエサを与える代わりにアリの保護を受けるもの。ツノゼミやアブラムシなど。たとえば、アリダマシヤドリバエは、1匹の女王有りの体内に1匹のハエが寄生する。アリの生存にかかわれる部位を除いて内臓を食い尽くす。寄生された女王は、通常通り巣を創設するが産卵をはじめることなく、やがて成熟したハエの幼虫を肛門から産み落とす。ハエの幼虫はその場ですぐに蛹化し、アリの女王はなぜかこれを自分の幼虫かのように巣内で守る。やがてハエが羽化してアリの巣から脱出すると、アリの女王は死ぬ。ええーっ、なんでこんなことになるのでしょうか・・・。
とても素晴らしい写真ばかりです。大変な苦労があったことと思います。
 結局、昆虫の撮影で最後にモノをいうのは、虫に関する知識と経験、さらに各人が生来もつ「虫と通じる能力」(これをフォースと呼ぶ)の質だ。肝心の被写体発見能力なくして良い撮影はありえない。
 野外でアリの巣を暴いたら、しばらくじっと見守る。そして、アリでない姿形の虫がいないか、すばやく吟味する。もしかしたら、寄生蟻や寄生ハエがどこからか飛来するのか見えるかもしれない。また、アリの巣は昼だけでなく、夜も見る。夜のあいだに巣穴からはい出てアリ行列の中を歩く虫もいる。ただし、夜間の観察は安全に注意する。山間部なら、カ、ヘビ、クマが脅威。しかし、なんといっても一番怖いのはヒトである。
 圧巻です。まさしく圧倒される図鑑でした。
(2013年2月刊。4500円+税)

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2013年9月16日

岩合光昭と動物園・水族館を歩く

生き物

著者  岩合 光昭 、 出版  朝日新聞出版

思わず笑ってしまったりする、楽しい写真集です。さすが、プロのカメラマンによるものですから動物の表情がとても豊かです。
 トップにあるのは、ご存知の旭山動物園です。私も行ったことがあります。豪快なホッキョクグマの泳ぎに圧倒され、地上17メートルの高さの綱渡りをするオランウータンも見ました。そして、例のペンギンです。残念ながら、冬ではなかったのでペンギンたちの行進をみることはできませんでした。
 パンダは上野動物園で昔みたことがあります。和歌山の動物園にはぜひ行ってみたいものです。
沖縄の美ら(ちゅら)海(うみ)水族館は、スケールの大きさに息を呑みます。ジンベエザメの泳ぐ姿をみていると、海中で遭遇したときの恐怖感を想像してしまいます。
 まだ行ったことのない動物園や水族館が全国に、こんなにあるのかと思うと、まだまだ時間を見つけて行かなくてはと、ひそかに決意したのでした。
 人の印象って、画像が流れていくビデオよりも瞬間を止めた「写真」のほうが記憶に長く残るもの。
 そうなんです。だから、私は「写真」派なのです。一覧性がありますしね・・・。
(2013年4月刊。1400円+税)

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2013年9月15日

レンズが撮らえた幕末明治・日本紀行

日本史(明治)

著者  岩下哲典・小沢健志 、 出版  山川出版社

幕末から明治にかけての日本各地の写真が集められています。京都の太奉映画村に江戸時代の町並みが再現されていますが、まるで同じ風景が写真で残されています。
 しかも、初めの写真はカラー写真になっていますので、とても生々しく再現されています。横浜弁天通り(横浜市中区)には、大八車が路上にありますが、なぜか人物がいません。
 東海道杉並木という写真には、カゴがきとともに人物がうっています。
 金沢八景の平湯湾の料亭から小舟が出ようとする、のどかな光景もあります。古き良き時代の雰囲気が、たしかにここにはあります。
 しかし、なんといっても圧巻は厚木宿(神奈川厚木市)の写真です。大通りの真ん中に水路が走り、手ぬぐいで頬がむりした男が縁にすわり込んでいます。
 道の両側には木造の店や家が建ち並んでいて、店先には男たちが立って話しています。中央には、火の見の木ばし子ご立ち、火事のときの半鐘を鳴らす仕掛けが見えます。浪人かヤクザの連中が向こうから一陣の風のなかにやって来そうな気配です。まるで時代劇の舞台です。
明治初めの浅草の芝居小屋の風景写真もあります。
白黒写真で興味深いのは熊本城の写真です。西南戦争の前の熊本城です。堂々たる天守閣が見えます。そして、城の石垣の高さには圧倒されてしまいます。
 明治初めにタイムスリップしてしまう貴重な写真集です。
(2011年12月刊。1600円+税)

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2013年9月14日

ある奴隷少女に起こった出来事

アメリカ

著者  ハリエット・アン・ジェイコブズ 、 出版  大和書房

アメリカで黒人奴隷制度が続いていたときの実話です。
 セクハラする白人の主人の手から逃れるため、別の白人男性の愛人となり、2人の子をもうけ、さらには奴隷主の家からひそかに脱出したあと、実はすぐ近くの知人の家の屋根裏部屋に7年間も潜伏していたのでした。7年後、ようやく北部へ逃れました。しかし、そこにも南部から追っ手が来て、気が安まることはありません。19世紀前半の話です。
 7年間の潜伏といっても22歳から29歳という、青春まっただなかを暗くて狭いところに閉じこもって生活していたわけです。周囲の支援体制があったからこそなしえたことでしょうが、それにしてもやっぱり本人の意思の強さには脱帽ですよね。
晴れて自由の身になったあと、南部に戻って、解放奴隷のための学校を設立したり活発な黒人活動家として過ごし、84歳に亡くなりました。
 ところで、この本は自費出版で世に出たものの、120年間も忘れられていたのが、1987年に再発見され、しかも事実に非常に忠実な自伝であることが証明されて、アメリカでベストセラーになったのでした。
2人の幼い子どもと、すぐ身近にいながら別々に生活する日々を7年間も続けたなんて、いやはや奴隷制度というのは、本当に非人間的なものですね。
 ただ、奴隷制度を利用する白人ばかりではなかったことが、少しは救いです。でも、結局、映画『リンカーン』にあったように南北戦争に突入してしまうわけです。
理性が暴力を打ち負かすには、多大なる犠牲が必要なのですね。人間社会の不条理を痛感します。読みやすい訳本になっています。
(2013年7月刊。1700円+税)

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2013年9月13日

少年口伝隊1945

日本史(現代史)

著者  井上 ひさし 、 出版  講談社

8月末に広島に出張してきました。昼食は、原爆ドームから遠くないところにある広島ガキ専門店でかきフライ定食(1000円)を食べました。真夏なのに、丸々肥えたカキを美味しくいただきました。夕食には広島名物のお好み焼きを買って、我が家で電子レンジで温めて食べました。期待以上の美味しさでした。
 この本は、そんな広島出張の車中で読んだのでした。平和公園、そして原爆ドームを訪れました。豪雨のあとでしたから、猛暑も少しやわらいでいて、助かりました。
 青空が裂けて、
 天地が砕けた。
 爆発から1秒あとの火の玉の温度は1万2000度だった。
太陽の表面温度は6000度だから、街の上に太陽が二つ並んだことになる。
 その熱で、地上のものは人間も鳥も虫も建物も、一瞬のうちに溶けてしまった。
 火泡を吹いて溶けてしまった。
火の玉からは爆風が吹き出した。音の2倍の速さで、畳一畳あたり10トンの圧力をかけて、地上のものを一気に吹き飛ばした。
 火の玉は殺人光線も出していた。内臓や血管や骨髄などの人体の身体のやわらかなところに、殺人光線がこっそり潜り込んでいた。
 このようにして・・・・数十秒のうちに広島市の半分が消え失せ、その日のうちに12万人が亡くなって、20万人の人々が傷ついた。このときから、漢字の広島は、カタカナのヒロシマになった。
 原爆病にかかって死ぬ人は・・・。
 まず、熱が出る。次に、だるくなる。それから、ものを食べなくなる。髪の毛がごそっと抜けて、からだじゅうが痒くなる。おしまいに足首に紫の斑点が出る。さもなければ、唇や歯茎から血が流れ出る。そうなると、人は死ぬ。
 私のもっとも尊敬する作家である井上ひさしの本です。それなりに井上ひさしの本は読んでいると自負していましたが、この本はまったく知りませんでした。小学高学年向きの本ということですが、大人が読んでいい本です。
(2013年6月刊。1300円+税)

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2013年9月12日

TPP、アメリカ発、第3の構造改革

社会

著者  萩原 伸次郎 、 出版  かもがわ出版

あれだけ大騒ぎした(している)TPPなのに、そして政府はすでに交渉をはじめているというのに、その交渉状況はまったく報道されません。もちろん、「秘密」にされているからなわけですから、それにしても、その「秘密」をかいくぐってでも状況と問題点を国民に知らせるのがマスコミの責務ではないでしょうか。ここは、マスコミの奮起を大いに期待したいところです。
 TPPでは、協定案ができるまで、交渉は秘密裡におこなわれるというのが、その特徴である。日本がTPP交渉参加国として協議にのぞんだとしても、日本が重要品目を守るのは難しい。安倍首相のいう「聖域」を設けるのは、不可能に近い。
 日本農業への壊滅的打撃が予想される。農水省の試算によると、農業生産の減少は
4.1兆円という規模になり、日本の食糧自給率は40%から14%に激減してしまう。
 とりわけ農業生産量の盛んな北海道のTPPによる影響はすさまじい。関税を撤廃したとき、12品目(米、小麦、乳製品、牛肉など)の影響は、産出高で4931億円の減少。地域経済の尊出額は7383億円、全農家戸数4万戸のうち2万3000戸が減少する。そして11万2000人の雇用が失われる。これでは、たまりませんね。
 アメリカは「ゆうちょ」「かんぽ」の完全民営化を主張してきた。今度、全国の郵便局がアフラックと提携するとのことですが、まさしくアメリカ資本が日本の郵便局を支配しようとしています。
 アメリカは、ことあるごとに医療分野での市場開放を要求している。
 TPPへの参加は、医薬品の関税撤廃だけでなく、医薬品市場の規制を取り払うことによる市場の自由化をもたらす。
 アメリカは、日本の薬価が諸外国に比較して安すぎると主張し、その要因が公的薬価制度にあると言い続けている。薬の自由市場が実現したら、日本の薬価は確実に値上がりする。そして、薬価制度の自由化は、公的保険制度を崩壊に導くことになる。
 薬価制度の自由化を通じて混合診療の全面解禁がおこなわれているのではないか。
 もし混合診療が解禁されたら、自由診療が保険診療を押しのけて大きく幅を利かせていくことになる。
 効能のある新しい薬は、高額所得者だけに使われるという医療格差が生み出される。医療法人に株式会社が導入され、薬価も自由市場によって決定され、製薬資本の思いのままに価格設定がなされる仕組みが幅を利かせていくようになる。そうなれば、日本の公的医療システムは崩壊してしまう。
 マイケル・ムーア監督の映画『シッコ』はアメリカの医療のすさまじさ(ひどさ)を思い知らせてくれました。アメリカは、金持ちは保険でもなんでも使えるけれど、中産階級以下は保険会社から切り捨てられてしまう冷酷な社会なのです。
 TPP推進は、多くの日本人にとって不幸を招くことがよく分かる本です。でも、残る大金持ちの日本人にだって、次はあなたに不幸がまわってくることを忘れてはいけません。いつまでも他人事(ひとごと)ではすまされるはずはありませんよ。TPP賛成の人は、この本を読んでぜひ考え直してほしいと思います。
(2013年5月刊。900円+税)

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2013年9月11日

原発を止めた裁判官

司法

著者   神坂さんの任官拒否を考える会、 出版  現代人文社

3.11の前、画期的な原発運転差止め判決を書いた井戸謙一・元裁判官が講演した内容を本(ブックレット)にしたものです。
 著者は私より5歳ほど若いのですが、大学時代には私と同じようにセツルメント活動をしていました。著者はいま彦根で弁護士です。65歳の定年退官前に弁護士生活をスタートするという人生計画を立てていたというのですから、司法当局ににらまれて裁判官を辞めたということではありません。32年間、ひたすら現場で裁判官をしてきた。出身が大阪(堺)なので、常に大阪地裁での仕事を希望してきたが、ついに勤務できなかった。神戸や京都、金沢そして大阪高裁で仕事することは出来たけれど・・・。ただし、金沢と京都では部総括(いわゆる部長)もしているので、決して冷遇されたわけでもない。
裁判官の世界が一番自由闊達だったのは1960年代の半ばくらい。
 青法協(青年法律家協会)の裁判官部会には360人の裁判官が加入していた。これはすごい比率であり、人数です。そして、司法反動の嵐のなかで百数十人の裁判官が脱退していく。それでも200人の裁判官が青法協に残った。
 全国裁判官懇話会というのが1971年に始まり、議論していた。それも、当初は210人あまりの参加があって、毎年のように開かれていたが、次第に参加者も減り、ついに2007年に解散した。
 著者は修習31期。同期の裁判官の結束は固く、配偶者も「奥様同期会」をつくり、「風の便り」という同期会誌を発行していた。
これには驚きましたね。そんなに仲が良くて、交流できていた時代があったとは・・・。だからこそ裁判官懇話会への参加の呼びかけ人になったのが30人をこえたのでしょう・・・。それにしても、すごい人数です。感嘆するほかありません。
 勾留請求について、1日1件は却下するくらいの心構えでのぞむべきだと高言していた大阪高裁の裁判官がいた。いやはや、驚くばかりです。
 志賀原発2号機の差し止め判決を書いた著者は、福島第一原発事故を受けて、自分の考えが甘かったことを痛感させられた。
 第一に、原発の集中立地の恐怖に思い至らなかった。
 第二に、使用済み核燃料がこれほど怖いものがという点で、認識を新たにした。
 第三に、国家というものは、こんなに国民を守らないのかということ。
 裁判所は、これまで、原発裁判について、専門家の判断に異議を唱える決断ができなかった。
 この点は、私のもよく分かります。国の判断にタテついたときの反動が、裁判官だって怖いのです。表面上はともかく、内心はヒヤヒヤしているのです。だから、そんな裁判官を励まし、安心させてやる必要がどうしてもあります。それが大衆的裁判闘争の狙うところです。
 今では、裁判所内での露骨な人事差別はほとんどなくなった。しかし、それは差別的な人事をする必要がなくなっているということでもある。裁判官の自主的な集まりというものが、ほとんどなくなっている。
 個性豊かな裁判官が裁判所のなかにいないし、いづらくなっている。
 上司におべっかを使うような裁判官は実は出世しない。物腰が穏やかで、人当たりがよくて、発想はリベラル。若いころには裁判官懇話会にも参加したような人こそ出世していく。問題が生じたときに柔軟に対応できるだけの人柄の良さ、そして枠を踏み外さない。そんな人が出世していく。
 たしかに、私の知る限りでも、そう言えると思います。
 著者から贈呈していただきました。ありがとうございます。今後とものご活躍を祈念します。
(2013年8月刊。900円+税)

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