弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
中国(台湾)
2021年10月 1日
台湾海峡1949
(霧山昴)
著者 龍 應台、 出版 白水社
中国に進攻していた日本軍が敗戦したあと、蒋介石の国民党軍と中共の解放軍とのあいだで国共内戦が始まり、ついに腐敗した指導部をかかえた国民党軍は敗退して、中国本土から台湾へ渡ります。でも、台湾にも中国人はいたわけですから、そんな国府軍をみんなが喜んで迎え入れたわけではありません。
そこを武力で抑えつけて、矛盾・衝突が起きました。台湾にとって、1949年というのは、そんな大変な時代の始まりでもあったのです。
この本は、小説のような、ノンフィクションのようなもので、歴史が行きつ戻りつしながら、中国と台湾の歴史が語られます。
国共内戦のもとで、教師が高校生の集団を引率して戦火を逃れてさまよう状況も紹介されます。タイトルは忘れてしまいましたが、そんな本を読み、このコーナーでも紹介したと思います。
そのころ、高校教師は生徒との人間的結びつきが強く、父母も教師と一緒ならいいだろうと考えていたのでした。なにしろ、逃亡先でも、信じられないことに、ずっと授業していたというのですから、驚嘆します。
国府軍も中共軍も兵士を補充するため、村の若者たちを軍にむりやりでも組み込んだ。そのなかには、6歳の少年までいた。彼らは写真を撮られるときだって、決して笑顔を示さなかった。
「軍隊では、笑ってはいけないんだ...」
日本軍が「敵」軍の捕虜を大量殺害していたころの証拠文書が残されている。
捕虜は、一人のこらず、殲(せん)滅してしまい、その痕跡が残らないようにせよという帝国陸軍の指針をふまえていた。
いやあ、ひどい証拠ですね。捕虜を残すことがなかったのです。そして、日本軍の蛮行は、内地に無事に帰ってきてから、ほとんどの人が沈黙を守り、日本社会には広く知られることはありませんでした。教科書の書き換えが横行しているのは、ここに根拠があります。
(2021年7月刊。税込3300円)
2017年4月 2日
星空
(霧山昴)
著者 ジミー・リャオ 、 出版 ツー・ヴァージン
大人向けの不思議な絵本です。
夜の星空をボートに乗った少年と少女が眺めています。
少女の隣家に少年がひっこしてきた。そして、少女と同じ学校、同じクラスに入ってきた。
少年は路地裏でいじめられた。少女はそれを見て許せないと思って割って入り、二人ともケガをした。
少年はクラスでは無口だった。
ある日、二人は、そろって家出をした。目ざすは山の中の家。そこには、少女のおじいさんが住んでいた。でも、おじいさんは亡くなり、誰もいない。
二人は湖に浮かぶボートに乗って、夜の星空をあおぎ見た。
家に帰ると少女は病気になった。病気が治って家に戻ると、少年はひっこしていた。
少年の住んでいた部屋に入ると、たくさんの壁に魚の絵があり、そのなかに少女の絵もあった。
メルヘンの世界そのもの。ついつい引きずり込まれてしまう、そんな絵本です。
(2017年2月刊。2000円+税)
2017年2月24日
汝、ふたつの故国に殉ず
(霧山昴)
著者 門田 隆将 、 出版 角川書店
戦後、日本の敗戦によって日本軍が引き揚げたあと、中国本土から蒋介石の国民党軍が台湾に渡ってきて統治するようになります。
その初期に台湾人が弾圧された事件が、1947年2月28日に起きた「二二八事件」。2万人から3万人に及ぶ台湾人が虐殺された。しかも、狙われたのは台湾人の指導階級、知識人たちだった。
1947年から1987年まで戒厳令は継続した。なんと38年間。世界最長だ。
この本は、二二八事件で虐殺された一人の日本人、坂井徳章の生涯を紹介しています。
坂井徳章の父・坂井徳蔵は熊本県宇土市の出身。宇土の資産家の御曹司だった坂井徳蔵は20歳のとき、台湾へ渡り、警察官となった。
1915年8月、徳蔵の勤務していた派出所が新興宗教の信者を中心とする暴徒に襲われた。西米庵事件と呼ばれ、警察官と家族22人が亡くなった。その中に40歳の徳蔵もふくまれていた。その報復として、日本軍は台湾人を徹底して弾圧した。台湾人の死者は1254人に及んでいる。
父親を失った坂井家は窮乏生活を余儀なくされたが、徳章は成績抜群の子どもだった。そこで、徳章は師範学校に入学した。ところが、台湾では学校のトップは必ず内地人(日本人)で、本島人(台湾人)は、日本人の上には立てなかった。徳章は、そこに疑問を抱いた。その結果、徳章は3年に進級した直後に退学した。そして、やがて、巡査試験を受けた。19歳、20歳になる直前のこと。なんとか巡査になり、派出所勤務につく。そして、そこでも日本人の横暴に目をつぶることは出来なかった。警察をやめ、東京に出て高等文官試験に挑戦することにした。1939年(昭和14年)4月、32歳の春のこと。徳章は中央大学に聴講生として通学した。
昭和16年秋、徳章は高等文官司法科試験を受験し、合格した。そして、さらに昭和18年夏、徳章は高文の行政科試験にも合格した。
これはすごいですね。よほど出来たのですね。もちろん、大変な努力もしたことでしょうが・・・。
昭和18年9月、坂井徳章は台湾に戻り、台南市で弁護士業務を開始した。
日本の敗戦時、台湾には34万人の日本人が住んでいた。本島人(台湾人)は、600万人をこえる。
1947年2月。いつ何が起きても不思議でないほど、台湾人の我慢は限界に達していた。徳章たちは、騒乱の側に台南工学院の学生を向かわせるのではなく、逆に治安維持をまかせた。これによって学生たちの命も救われた。
徳章は憲兵隊に逮捕され、拷問を加えられた。「両手が使えんよ。指も使えん」、徳章は知人にこう言った。軍事法廷に徳章が引き出されたのは、3月13日の午前10時。死刑が宣告された。
「私を縛りつける必要はない」
「目隠しも必要ない」
「私には大和魂の血が流れている」
そして、最後に日本語で叫んだ。
「台湾人、バンザーイ!」
二二八事件には、台湾人が当時の中国国民党の腐敗した台湾統治に反抗したことが無差別虐殺を引き起こしたという面だけでなく、国民党の統治者がこの機会に乗じて計画的に台湾各地のエリートを捕えて殺害した面の二つがあった。あの当時、一切の措置は蒋介石の指示によっておこなわれていた。大虐殺を実行した張本人たちは、蒋介石から、その後も重用されて昇進していった。
父親が日本人、母親は台湾人という坂井徳章は、弁護士として、台湾人のプライドを守って身を挺してたたかったのでした。
今までまったく知らなかった話ですが、心ある人は昔もいたんだなと驚嘆しました。
(2016年12月刊。1800円+税)