弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2019年4月 6日

遠き旅路

(霧山昴)
著者 能島 龍三 、 出版  新日本出版社

日本軍が戦中、中国大陸で何をしていたのか、その実相に迫った迫真の小説です。思わず息を詰めて読みふけってしまいました。
私の亡父も徐州作戦のころ応召して中国大陸にいて、一兵士として最前線に立っていました。「戦争ちゃ、えすかもんばい」と生前、私に語ったことがあります。不幸中の幸い、亡父は赤痢などにかかって傷病兵として台湾に後送され、日本に生きて戻ることが出来ました。おかげで私がこの世に生まれたわけです。
この本の主人公は、最前線で罪なき中国の少年兵を斬殺させられます。その経験が、しばらくすると夜中に思い出されて眠れなくなるのです。
誠三郎(主人公です)が斬殺した少年の目が夢にあらわれるようになった。夢の世界の暗闇で、その目はただじっと誠三郎を見つめ続ける。声を上げて目覚めると、首から胸にかけて凍るような恐怖が流れ落ちた。
その夢には、やがて、目とともに斬首の直前の映像があらわれるようになった。右手と左手を指一本開けて引きしぼる、そして刀を振りおろす。その時の手の感覚が鮮やかによみがえった。誠三郎は声を上げて飛び起きた。胸は激しく鼓動し、冷たい汗をかき、口には生唾があふれた。
そして、主人公は、中国でのアヘン密売でうごめく日本軍幹部の運転手兼ボディガードとして働くようになります。
日本軍が中国大陸でアヘン売買でボロもうけして、その利益で日本軍の経費をまかない、さらには軍と政府の裏金としてつかわれていたことは歴史的事実ですが、それが小説のなかで展開していきます。
中国大陸において、日本軍と日本人は、まぎれもない加害者でした。と同時に、末端の日本人兵士たちは被害者でもあったわけです。
小説を通して、その両面をきちんと受けとめる必要があることを痛感させてくれました。濃密な1時間半をたっぷり過ごせたことに感謝するほかありません。
(2019年1月刊。2300円+税)

2019年4月 2日

日本の戦争Ⅱ.暴走の本質


(霧山昴)
著者 山田 朗 、 出版  新日本出版社

安倍首相のいかにも軽薄な言葉に接するたびに、こんな無能なリーダーの下で我が子や孫たちが戦場に駆り出されて死んでしまったら、哀れというか無惨というか、悔み切れないだろうと、つくづく思います。
この本は、戦前の帝国軍の実情をさらけ出し、戦争というものがいかに無駄死をもたらすものなのか、じっくり考える素材を豊富に提供してくれます。いま読まれるべき本として、一読をおすすめします。
戦争は、決してある日突然に起こるものではなく、必ず国家の政策の延長、外交的対立の帰結として起こる。戦争とは、国家戦略・政策の延長線上にある武力行使であり、軍事力による他者(国家・民族)への意思の強要である。
日露戦争の前の日本は、まだ主力艦クラスの艦艇を国内では建造できなかった。国産の主力艦は一隻もなく、すべてイギリス製の戦艦であり巡洋艦であった。
日露戦争のあと、欧米の陸軍は、火力主義の強化、砲兵の重視を学んだ。ところが、日本陸軍は逆に火力主義から白兵主義へと基本理念を転換した。
日本海軍の飛行機搭乗員の養成方針は、完全な少数精鋭の「名人」をつくることに主眼を置いていた。そこで、航空戦で日本軍精兵が「消耗」してしまうと、戦力は急激に低下し、連鎖的に全体的崩壊をもたらした。
日露戦争において、実は、日本軍はホチキス式機関銃を268丁(これに対してロシア軍は56丁)を使用していて、戦線によっては日本軍がロシア軍よりも多数の機関銃を投入していた。
戦死した軍人を軍神に祭り上げることが多かったが、それは軍指導部の失敗・過程を隠蔽するためだった。旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬武夫海軍少佐の戦死もそれだった。久留米の肉弾三勇士の戦死も同じこと。
日本には、日本陸軍と日本海軍は存在したが、一元化された日本軍は存在しなかった。
日清戦争のあと、戦時における最高司令部としての大本営が設置されたが、今度は、政府と大本営とがそれぞれ天皇に並立・直属し、国家戦略の統一的な決定機関が存在しないことになった。
弾薬を大量に消費することを嫌った陸軍は、機関銃の研究・開発を遅らせた。戦車は、おくまで歩兵の突撃を支援する物として研究・開発された。したがって、本格的な戦車戦で日本軍は完敗した。日本軍兵士にとって、日中戦争とは、つらい徒歩行軍の連続だった。
自動車化が遅れた(積極的に進めようともしなかった)ため、輸送手段は馬に大きく依存した。人員61万人に対して馬14万3千頭、つまり人員4.3人に馬1頭の割合だった。
日本軍は、広大な中国大陸において小人数の将兵を分散配置するしかなく、中国軍が小隊単位以上の組織的な攻撃を仕掛けてきたら、必ず包囲され、つねに「全滅寸前」の危機に陥ることになった。
航空特攻作戦は、それによる戦死者のことを忘れてはいけないが、さりとてそれをただ顕彰し、美化するだけでは、彼らの死を意味あるものに変えることはできない。特攻という、あってはならない行為を顕彰・美化することは、死者を使って戦争への批判的な言動を封じようとするものであり、かえって死者を冒涜する行為なのだ。
日本軍の真実から目をそむけ、ひたすら美化しようとする動きが強まっている社会風潮がありますが、それを克服するには、やはり私たち自身が戦場の現実をきちんと認識する必要があると思ったことでした。
(2018年12月刊。1600円+税)

2019年3月23日

責任とって自決した陸軍将官26人列伝

(霧山昴)
著者 伊藤 禎 、 出版  展望社

第二次世界大戦(太平洋戦争)で戦没した将官は陸軍188人、海軍82人。なんだか少ない気がしますが、将官の定義によります。要するに少将以上の高級幹部です。
陸軍で自決したのは26人、海軍は5人です。本書は、この陸軍26人について詳細を紹介しています。
大将6人(うち1人が元帥)、中将17人(軍医1人、法務1人)、少将3人(法務1人)。自決者は進級していません。
元帥であり大将だった杉山元は、ボケ元、グズ元、昼行灯(あんどん)、果ては「便所の扉」とまで評されたほど酷評されています。日露戦争にも従軍した軍人です。陸軍大臣、参謀総長、教育総監のすべてを歴任した大将だというのに、これほど評価が低いというのですから、「精強なる帝国軍人」の実体が知れます。こんな人の下で無数の前途ある青年たちが人命をあたら失ったかと思うと、涙がとまりません。
 富永恭次中将(自決はしていません)は、特攻隊員を見送るとき、「諸官だけを死なせはしない。最後の一機で、この富永も突入する。あとのことは心配なく、従容として神の座についていただきたい」と言って、軍刀を振りかざした。 ところが、自分は特攻することもなく、フィリピンから台湾へ出張名目で逃亡した。いやはや、無責任きわまりないです。
敗戦後自決した軍人のなかには、責任をとるべき立場になかった者が多数いた。その反面、当然、周囲が責任をとって自決するだろうとみていた者で、自決しなかった者も多い。
これが世の中の現実なんですよね・・・。
この本を読んだのは、中村次喜蔵中将が掲載されていることからです。満州の112師団長をしていて、敗戦直後の8月18日に自決しました。56歳でした。
この本では、自決の理由や状況は不明とされていますが、私は偕行社に照会して教えてもらいました。というのも、私の母の異母姉の夫だったからです。
「大東亜戦争はついに終わった。諸君はぜひ内地に帰還し、新しい日本の建設につとめられたい。ここの戦闘の責任はひとり指揮官たる小官にあり、諸君らに責任はない」
このように師団長として最後に訓示した。
副官たちを天幕の外に出して拳銃で自決した。
この師団の300人ほどの司令部要員はシベリア送りとなった。
いま、久留米市藤山町には「中村次喜蔵生家」と書いた石碑が建っています。そして、その孫(中村薫氏)は、偶然にも私と同じ年に東大に入学したのでした。同じように法学部を出て、司法試験に受かった(中村氏は公務員上級職試験もパスしています)というのに、まったく面識がなかったのです。
(2018年8月刊。1800円+税)

2019年3月12日

多喜二・百合子・プロレタリア文学


(霧山昴)
著者 多喜二・百合子研究会 、 出版  龍書房

小林多喜二の『蟹工船』が突如ブームとなったのは何年前のことでしょうか。日比谷公園での「年越し派遣村」と同じころだったでしょうか・・・。そのころは、連帯だとか友愛というのが言葉だけでなく実体があると実感していました。ところが、今ではヘイトスピーチのほうが、ひょっとしたら実体があるのかも・・・と心配になってくる雰囲気があります。残念です。
『蟹工船』って、わざとあいまいにしているのがあるんですね。初めて知りました。まず、労働時間です。船内では何時から何時まで働いたのか、明示されていません。朝3時から夜10時までの可能性もありますが、はっきりとは書かれていません。
漁夫と雑夫の違いも明確ではありません。そもそも、この船に何人乗っているのかも、あいまいです。「200人」とか、「3,400人」とか「400人に近い」というだけです。
『蟹工船』は、書かれていない空白部分があることによって、時代と国境を越えた普遍的なアピールを獲得した。
ふうん、そういう見方もできるんだねと思ったことでした。
監督の浅川については、血も涙もない残虐な監督というイメージが強い。しかし、浅川が直接的に肉体的暴力を振るった場面はほとんどない。むしろ、「人命よりはお金」という合理的な行動が認められる。
多喜二は「ノート稿」をつくっていました。まず大学ノートに書いて推敲したのです。そして、最後に原稿用紙に清書しました。かなりの「ノート稿」が残っているそうです。一度、現物を見てみたいものです。小樽の多喜二資料館に行けば見れるでしょうか・・・。
多喜二は、とても明るく、茶目っけがあって、楽しい人だったとのこと。
「中央公論」に『不在地主』が掲載されたことから、多喜二は拓殖銀行を解雇された。
多喜二は、1930年に『蟹工船』で不敬罪に問われ、治安維持法違反で起訴され、豊多摩刑務所に入れられた。1931年1月に保釈されたあと、7月にプロレタリア作家同盟の書記長となり、10月に日本共産党への入党が認められた。同年9月には中国で柳条湖事件が起きて、中国への侵略戦争が始まっている。
1932年春、文化団体への大弾圧が始まり、活動家は地下に潜った。
1933年(昭和8年)1月、多喜二は最後の小説『地区の人々』を書きあげた。同年2月20日正午過ぎ、スパイの手引で築地署の特高に逮捕され、その日のうちに拷問で虐殺された。ちょうど今から86年前の出来事です。
多喜二に関する論評のあと百合子の小説が論じられ、さらにプロレタリア文学の批評があります。黒島伝治というプロレタリア作家がいるとのことですが、その小説を私のセツラー仲間だった三浦光則氏がコメントしています。
戦前の日本が、あっというまに戦争に突き進んでいったプロセスを失敗の教訓として学ぶことには大きな意義があると、この本を読んで、つくづく思いました。ベース(三浦氏のセツラーネームです)、ありがとう。さらなる健筆を期待しています。
(2019年2月刊。1500円+税)

2019年1月10日

骨が語る兵士の最期

(霧山昴)
著者 橧崎 修一郎 、 出版  筑摩書房

第二次大戦(太平洋戦争)による日本人戦没者は310万人。このうち海外での戦没者は240万人。収骨開始以来、127万人分の兵士の遺骨が収骨された。したがって、まだ海外には113万人分の遺骨が未収骨のまま眠っている。このうち、飛行機や船で海没したため収骨が困難な数は30万人。中国など相手国の事情から収骨が困難な数が23万人。結局、現在の遺骨収集の対象は60万人。
アメリカは、国家の責任で、国防総省が最後の一兵まで発見することに全力を注いでいる。日本では遺骨収集の主体は防衛省ではなく、厚労省となっている。
日本人と鑑定された遺骨は、検疫法により、基本的に現地で火葬して焼骨(しょうこつ)として持ち帰る。ただし、DNA鑑定にかける歯や完全な四肢骨については、検体として焼かずに持ち帰る。そうしないと、歯や骨にふくまれるDNAが破壊されてしまうから。
著者は太平洋の島々で、旧日本軍兵と民間人のあわせて500体を鑑定してきました。
人骨は、生まれたばかりの新生児では350個ある。ところが、成人は206個に減る。このほか、歯は乳歯が20本、永久歯が32本。
遺骨の状況をふまえて、著者は次のような状況を想定した。並んで立たされた日本人兵士3人は、うしろから銃殺された。このとき、「天皇陛下万歳!」と叫び、両手をあげた。うちの一人は、まだ虫の息があり、伸ばした両手を前の方に引き寄せているところを、うしろから拳銃で後頭部にとどめの一発を撃たれて絶命した。
いやはや、遺体の状況を見て、そこまで推測できるのですね、さすがはプロです。まいりました。
民間人が多く出土するのは、サイパン島とテニアン島のみ。
遺骨収集に関わっていると、現地で不思議なことを経験する。チョウチョがたくさん飛んでいる。袖をひっぱられる感触がした。焼骨のとき、ピーッとなる。
遺骨は決して土に還ってはいない。遺骨が70年で土に還るということはない。
本当にご苦労さまとしか言いようのない地道な作業です。頭が下がります。
2015年4月9日に、天皇夫妻がペリュリュー島を訪問しました。それまで私をふくめて一般の日本人にはなじみのなかった太平洋の孤島に大勢の日本人が兵士として送られ、そこで戦病死・餓死していったのでした。まったく知りませんでした。
日本国の象徴の訪問は、戦前の日本が何をしていたのか、その結果がどうだったのかを問い返すきっかけをつくったのです。私は、そのことを高く評価したいと思います。
ところで遺骨収集に熱心なのはアメリカと日本だけで、ドイツはやっていないとのこと、これまた驚きました。世の中、まさしく知らないことだらけです。
(2018年7月刊。1500円+税)

2018年12月13日

本土空襲全記録

(霧山昴)
著者 NHKスペシャル取材班 、 出版  角川書店

日本の敗戦前に、日本全国がB29爆撃機による大空襲の被害にあいました。
その空襲の状況をアメリカ側の資料によって丹念に掘り起こしています。その典型が専用機に取り付けられていた「ガンカメラ」と呼ばれる特殊なムービーカメラです。ガンカメラが記録した映像は、被害にあった日本の都市や逃げまどう人々を生々しく描いているのです。
大分県宇佐市を拠点として活動する市民団体「豊(とよ)の国、宇佐市塾」が映像の収集・分析をしている。
九州はアメリカ軍による空襲被害が大きい。なぜか・・・。アメリカ軍のオリンピック作戦は九州南方の3地点から強襲上陸作戦を考えていたから。
アメリカ軍による本土空襲の被害者は46万人。
アメリカ軍は、軍関連施設と生産関連施設の両方を狙った「精密爆撃」を早くから緻密に計画していた。しかし、現実には「精密爆撃」というより「地域爆撃」、「無差別爆撃」が実施された。それは、都市労働者の能力に打撃を与えること、住民の戦意・抗戦意思を破壊するためのテロ(恐怖)効果を狙った。
しかし、実際にはドイツへの大空襲もロンドン大空襲も、狙われた住民の戦意喪失どころか、戦意の高揚を大々的にあおるものでしかなかった。都市への無差別攻撃を始めたのは、実は日本とドイツだった。日本軍は、中国の重慶を狙って壊滅させた。
アメリカ軍のF-13写真偵察機は、B-29を改造したもので、1回の飛行で7000枚ものネガを持ち帰った。17回の偵察旅行を繰り返し、写真撮影と気象観察を徹底して行った。
アメリカ軍の飛行機は、日本軍の迎撃を避けるため1万メートルの高度から爆撃を仕掛けていた。ところが、日本の上空は天候が不安定で、いつも嵐が吹き荒れていた。
東京大空襲を指揮したのはカーチス・ルメイ将軍。
「もしジャップが戦争を続ける気なら、奴らにはすべての都市が完全に破壊される未来しかない」
一連の爆撃で投下された焼夷弾は192万発。1944年11月からの4ヶ月間でアメリカ軍が失ったB-29は105機。兵員の死者・行方不明者は864人にのぼった。
実は、それまでアメリカ空軍は存在しておらず、アメリカ陸軍航空軍でしかなかった。陸軍の地上軍17万人、海軍14万人に対して、航空軍は2万人しかいなかった。航空軍にとって、太平洋戦争は、組織の独立戦争でもあった。
当時、前線での指揮権をもたない航空軍が手柄を立てるには、B-29をつかった日本への直接攻撃しかなかった。ルメイ将軍は、日本式の家には低空用の対空砲火がなかったことを知り、焼夷弾を有効活用することにした。
アメリカ航空軍は、1939年は最新型爆撃機を14機もっていた。ところが1944年には10万機、戦前の20倍も持つに至った。
カーチス・ルメイが当時38歳だったとは知りませんでした。道理でベトナム戦争でも悪役になれたわけです。それなのに、日本は戦後何十年もたってからルメイへ勲章を授与しているのです。呆れてしまいます。市民を大量無差別虐待していただいたことに敗戦国政府として感謝します、そんな意思表示したと同じです。私は許すことが出来ません。
いずれにしても、この本を読んでいろいろ貴重な情報を得ることができました。
(2018年8月刊。1500円+税)

2018年10月30日

戦地巡歴、わが祖父の声を聴く

(霧山昴)
著者 井上 佳子 、 出版  弦書房

熊本放送の記者をしている著者が、中国大陸で戦死した著者の祖父が遺した日記をたどり、ついに30分のテレビ番組にしたものを本にまとめたのです。
祖父は中国に出征して、わずか47日で戦死しています。第六師団歩兵13連隊です。
1937年7月に盧溝橋事件から日中戦争が始まると、第六師団は中国に渡り、上海の杭州湾から上陸し、12月の南京攻略戦に参戦し、翌1938年2月には徐州会戦、そして武漢作戦の前哨戦である漢口攻略を目ざした。
祖父の井上富廣は明治44年(1911年)生まれですので、明治42年生まれの私の亡父・茂より2歳も年下だったわけです。亡父・茂も会社員だったところを兵隊にとられ、陸軍二等兵として中国大陸に渡りましたが、幸か不幸か(幸に決まっています)病気にかかって台湾へ送還されて命拾いしました。
祖父・富廣は、1938年(昭和13年)6月に門司港を出港して中国は上海に上陸した。補充兵として第六師団を追って、南京、蕪湖、安慶、潜山、太湖と転戦していった。そして、中国に出征してわずか47日で戦死した。戦死する5日前まで日記を書いている。このほか、戦地から家族に書いて送った手紙も4通残っている。
「(昭和13年)6月26日。潜山発。四時半起床。要所を撃破せし戦跡には支那人死体横たわり、当当と進軍する愉快さ。・・・」
「2,3日前、20名ほどとらえてきて尋問したら、矢張り、支那軍から命令されているようです。全部、河原へ連れ出し銃殺しました。泣きながら殺してくれるなという顔を見れば、ちょっと気の毒な様でもあります。人間の死体や牛豚の残がいで、くさくて仕様ないです」
これは祖父富廣が日本にいる妻へあてた手紙です。敗残兵の20人を銃殺したことを、しごく当たり前のように、あっけらかんと書いている。
そのような兵士の心理について、次のように解説されています。
「戦場の兵士は、普通の精神状態ではない」
「死ぬか生きるか、殺すか殺されるかの極限状態なんです」
そして、著者は取材のため祖父・富廣の戦跡をたどりました。
中国大陸で日本軍が罪なき人々を殺し、女性を強姦し、物資を略奪していったことを、その体験者から聞き出していったのです。
まことに戦争とは、むごいものです。大勢の人々を殺し、また理不尽に殺されていきます。絶対にあってはならないのが戦争です。
日本のネトウヨなど一部の人々が反中国をあおりたてていますが、両国は経済的にも文化的にもしっかり結びついているのです。戦争なんて、とんでもありません。平和的に共存共栄するしかないのです。
この本は、その原点の大切さを考えさせてくれました。
(2018年8月刊。2200円+税)

2018年10月10日

戦慄の記録・インパール


(霧山昴)
著者 NHKスペシャル取材班 、 出版  岩波書店

インパール作戦に参加した日本軍将兵は9万人、その3分の1の3万人が亡くなりました。悪名高い、日本軍による無謀な戦役をNHKが特集したものが本になりました。
1944年3月に始まり、本格的な雨期の到来する前にインパールを攻略するとしていた。川幅600メートル、2000メートル級の山と深い谷の連なる密林地帯で、貧弱な道しかない。
悪路のため、武器・弾薬も背負って運ぶため、携行できる食糧は、わずか3週間分。
第15軍司令官の牟田口廉也(れんや)中将は、少し前は「実行困難」として反対していたのに、いつのまにか積極策に転じていた。
東條英機首相は、ガダルカナルでの敗退をインド侵攻で逆転させようとしていた。
ビルマでのインパール作戦は、インド侵攻作戦の一環だった。
東條英機は、インドの独立運動家のチャンドラ・ボースを支援していた。
この作戦は補給等の点から無謀だと参謀の多くが反対したが、彼らはことごとく他へ転出させられていった。
インパール作戦が中止になったのは、発動から4ヶ月後のこと。そして、撤退中に多くの日本軍将兵が命を落とした。インパールに向けて進撃中に戦死した人よりも、撤退するさなかに亡くなった人のほうが多かった。NHK取材班は地図の上でそれを明らかにしています。戦没者名簿にのっている1万3千人余の死者のうち、6割の人々が作戦が中止された7月以降に亡くなっている。そのほとんどは「病死」だが、実は餓死が多数ふくまれている。
日本軍が攻略目標としていたインパールには、イギリス軍20万人が駐留していた。たっぷりの武器・弾薬が備蓄されていて、飛行機も戦車もあった。イギリス軍はビルマを日本から取り戻すつもりでのぞんでいた。にもかかわらず日本軍はイギリス軍を甘く見くびっていた。インパール作戦中止後の撤退中に、イギリス軍の飛行機から日本軍は散々な目にあった。
牟田口中将は早々にビルマから日本に舞い戻り、陸軍予科士官学校長に任命されている。日本軍の無責任体制も、ここまでするか・・・というほどのひどさです。ノモンハン事件でもそうでしたが、責任ある軍トップは誰も責任追及されず、かえって栄転・出世していくのです。こんな日本軍の実体を知ると、「昔は良かった」なんて言って欲しくないと、つくづく思います。
NHKも、いい番組をつくりますね。がんばってください。
(2018年9月刊。2000円+税)

2018年10月 4日

日本憲兵史

(霧山昴)
著者  荻野 富士夫 、 出版  日本経済評論社

 トッコーとケンペーが戦前の日本で支配階級の尖兵(せんぺい)でした。その憲兵が何をしたのか、詳細に暴いた大作です。本文370頁、6500円ですから容易には読めません。でも、全国の図書館に備え付けて多くの人にぜひ読んでもらいたい本です。歴史の事実を知るのは大切です。
憲兵に関する資料が乏しいのは、日本の敗戦と同時に憲兵自身によって徹底的に資料が焼却されてしまったからです。これは、特高警察についても同じことが言えます。それでも焼け残った資料が中国軍に押収されて残ったものがあります。著者はそんな資料まで丹念に拾い集めているのです。敬服します。
日本の憲兵は、海軍内ではほとんど活動していない。なぜ、何でしょうか...。
憲兵の重要な任務の一つに徴兵忌避の取締りがあった。1913年6月の大阪憲兵隊の報告文書には、兵庫県城山稲荷へ徴兵忌避の目的で祈祷を依頼した参詣者が970人もいた。
1915年の本に「憲兵は嫌兵か」という項目があった。そこには、今日の憲兵は帝国陸軍の憲兵というよりも、むしろ軍闘の爪牙(そうが)、懲罰の走狗(そうく)であると指摘されている。
憲兵隊は特高警察と絶えずはりあっていた。
1930年代に入って憲兵は政党政治のなかの「反軍的」言動を抑え込むことに成功した。その次のターゲットは、文化だった。たとえば、志賀直哉、そして菊池寛を狙った。さらにキリスト教も圧迫した。
日本国内にいる憲兵は、1920年代から30年代末まで1500人ほどの規模で推移していた。ところが1945年8月の敗戦時には、1万人をこえる憲兵がいた。東条英機首相を強力に支えたのが憲兵だった。東条は、憲兵の威力と情報を最大限に活用して反東条勢力を抑え込む「憲兵政治」を推し進めた。ただし、暗黒の憲兵政治は、東条政権の下のみであったというのではない。
一般兵士から憲兵は敬遠されていた。捕虜となったイギリス人兵士に対して、こう言った。「憲兵なんてケダモノです。我々みんなが憲兵みたいな人間だと思われてはたまりません」
関東憲兵隊の一員になるためには、難関の試験を突破する必要があった。1933年(昭和8年)の倍率は5倍強だった。憲兵なら最前線は出ないので、戦死の危険は小さい。そして高給取り。補助憲兵で50円に近く、正規の憲兵だったら120円。これは一般兵科の上等兵が10円だったのに比べて格段の違い。そのうえ、給料以外にもいろいろの実入りがあって、羽振りのいい暮らしができた。
ノモンハン事件でソ連軍の捕虜となり交換で戻ってきた将兵350人について、関東憲兵隊は、軍の特設軍法会議で将校30人に対して死刑判決を下して、直ちに処刑した。
欧米の将兵は、すすんで捕虜となり、また本国で元気に復帰するよう勧められていましたが、日本軍は捕虜となったら生きて帰ってきても銃殺されたのでした。これは、スターリンのソ連軍でも同じでした。
チチハル(満州)の憲兵隊は中国人の抵抗組織を摘発し、拷問に明け暮れた。そして、「特移扱」(とくいあつかい)とした中国人は七三一部隊に送られ、細菌兵器研究の実験材料にされたうえで全員が殺害された。「マルタ」と称され、3000人以上が殺されている。
また、憲兵隊は「軍慰安所」を直接管理していた。1940年6月末、南寧・鉄州方面に「軍慰安所」は43戸あり、「従業婦」は361人いた。
このように日本軍の最悪の部隊ともいうべき憲兵たちが、戦後再び公安調査庁に勤務するようになったという事実は驚きというより、呆れてしまいます。
日本憲兵の実体が詳細に掘り起こされている画期的な労作です。
(2018年3月刊。650円+税)

2018年9月23日

陸軍中野学校


(霧山昴)
著者 山本 武利 、 出版  筑摩選書

陸軍中野学校が発足したのは1940年。その前身は1938年に開校した防諜研究所であり、その後、後方勤務要員養成所と改称し、さらに陸軍中野学校となった。だから、1945年の終戦まで、わずか7年ないし5年という短命だった。
開所のときは19人しか入学しなかったが、最大7年間で2300人余の学生を世に送り出した。
独立勤務者としての秘密工作員、特務機関員そしてゲリラ工作員へと中野学校での教育内容は激変した。
終戦から29年もたってフィリピンのルパング島から帰還した小野田寛郎は、1944年春に静岡県二俣に設立された二俣分校の第1期生である。
小野田寛郎によれば、「どんな生き恥をさらしてもいいから、できる限り生きのびて、ゲリラ戦を続けろ。・・・・。捕虜になってもかまわないと教えられた」という。
中野学校は語学を重視した。英語250時間、ロシア語220時間、中国語190時間となっている。
授業を受けるとき、ノートをとるのは、いささか軽蔑されていた。話を聞く、質問をする。その一刻一刻が勝負なのだ。
一般人の取り調べには、常套手段として暴力・脅迫が横行していたが、中野学校では、その使用は仲間うちなので、ご法度(はっと)、禁止されていて、この規則はよく守られていた。
中野学校の卒業生はハルピンの情報部に多くつとめた。
中野学校の実体、とくにその教育システムについて、深く知ることができました。
(2017年11月刊。1700円+税)

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