弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2022年4月19日

731部隊全史


(霧山昴)
著者 常石 敬一 、 出版 高文研

南京大虐殺なんてなかったという嘘を信じたい人は、戦前の日本軍が虐殺なんかするはずがないと思い込んでもいます。でも、七三一部隊が満州(中国の東北部)で大勢の罪なき人々を人体実験の材料としつつ、殺害していったのは歴史的事実です。そして、この本を読むと、この七三一部隊の所業が戦後日本の現在に至るまで受け継がれていることがよく分かります。
その一つが、結核ワクチンである乾燥BCG。陸軍の石井機関が乾燥BCGを研究・開発したことを隠し、BCGを結核予防法の中心にすえ、日本は結核対策に取り組んだ。しかし、それは失敗だった。
現在、日本は結核の中まん延国になっている。2019年、日本の結核患者数は10万人あたり11.5人。これはフランスが8.7人、イギリスが8.0人に比べて、明らかに高い。にもかかわらず日本の結核対策は成功したという誤解・幻想が今なおはびこっている。うむむ、これは知りませんでした。
その二は、医学界です。東大そして京大教授が石井機関の嘱託となって、石井の求めに応じて弟子たちを七三一部隊に送りこんだ。そして、そのことを戦後は口をつぐみ、反省していない。嘱託をつとめた研究者は自分の手を汚すことなく、七三一部隊での研究は弟子たちの責任だとした。そして、戦後に発足した予防衛生研究所の初代、次いで二代目所長に就任した。この二人、慶大教授の小林六造と東大教授の小島三郎の名前を冠した医学賞が今に続いている。
七三一部隊がやったことの主要な問題点は、人体実験を実施したこと、そして細菌戦の試行。日本の敗戦直前の8月9日にソ連が攻め込んできたとき、日本陸軍は七三一部隊の即時全面撤退を決め、本部にいた4千人の部隊員のほぼ全員が8月末までに家族ともども日本に帰り着いた。そして、帰国する前、4日間かけて建物を爆破し、収容していた数百人を殺害した。
石井機関の予算は、7年間で1262万円。1931年の5.2万円、1935年の108.8万円。そして1937年の911万円と、ずば抜けて高額だった。
軍医にとって、七三一部隊は名誉、それに死なずにすむというメリットがあった。軍医にとって、戦場に出る危険性が少ない部隊で研究ができ、論文が書け、学位を得るのは大変好都合なことだった。
七三一部隊では人体実験の対象となった人々を「マルタ」と呼んだ。人と見ていない、まさに使い捨ての材料としか考えていなかった。被験者を生きた状態で解剖し、臓器を取り出していた(もちろん、その人は死に至る)。人体実験をふまえた論文のなかでは、被験者を「サル」としているが、それが虚偽であることは、サルが「頭痛を訴えた」とも書いていることから明らかだ。たしかに、「サルが頭痛を訴える」なんて、考えられません。
石井部隊が細菌戦を中国現地で敢行したとき(1942年の淅贛(ズイガン)作戦)、日本軍は七三一部隊の細菌爆弾によって、1万人がコレラにかかり、1700人もの死者を出した。このことは、七三一部隊による細菌戦は決してうまくいかないことを実地で疑う余地なく証明した。
戦前の七三一部隊の亡霊が現代日本でものさぼっていることを知ると、背中に冷や水が流れます。
(2022年4月刊。税込3850円)

 日曜日の午後、フジバカマ4株を植えつけました。前に1株すでに植えていますので、これで5株です。秋に花が咲いてアサギマダラがやってくることを願っています。
 いま、庭にはまだチューリップが咲いています。3月半ばからですから1ヶ月間はチューリップに癒されました。最後は純白の花でしめてくれます。オレンジ色の小さな花を咲かせるヒオウギ、紫色の矢車菊、うす紫色のシラー、そしてアイリスです。ジャーマンアイリスも、つぼみがふくらんできました。5月に入る前に花が咲きそうです。
 春は三寒四温といいますが、春の気配から、ときに初夏を思わせることもあります。
 ロシアの無法な戦争が2ヶ月近くも続いています。長期化しそうな気配もあり、本当に心配です。一日も早くロシアによる戦争をやめさせなければいけません。核兵器なんて、とんでもないことです。

2022年4月16日

「経済戦士」の父との対話


(霧山昴)
著者 大川 真郎 、 出版 浪速社

1942(昭和17)年5月、広島の宇品港を出航して3日後、大洋丸は鹿児島の男女群島沖でアメリカの潜水艦の魚雷により撃沈された。犠牲者は著者の父をふくむ800人余。亡父の遺体は遠く韓国の済州島に打ち上げられた。亡父は、今の武田薬品の社員15人の1人として、インドネシアへマラリヤの予防薬キニーネの原料であるキナ皮の確保に行こうとしていた。
大洋丸には、陸軍が選んだ百社のエリート社員・技術者千人が乗船していた。彼らは戦場でたたかう戦士と区別して、経済戦士、企業戦士あるいは産業戦士と呼ばれていた。
大洋丸は敵潜水艦に対する十分な備えのない、まるはだかの状態で進んでいた。
陸軍本部は想定外の被害に仰天し、国民の戦意喪失をおそれて事件を隠蔽した。真相が広く明らかになったのは戦後のこと。
亡父死亡のとき、著者は1歳2ヶ月。当然のことながら、亡父の記憶は何もない。母は当時27歳で、その死は86歳のとき。亡父は、1年間の志願兵をつとめたあと武田製薬に入社した。亡父は武田製薬に会社員として勤めながら、俳人として活動するようになった。いわば二つの顔をもっていた。
亡父が俳句をはじめたのは18歳のとき、新宮中学校に在学中のころ。
亡父は大阪薬専に入ると、松瀬青々の主宰する俳句誌『倦島』に出稿しはじめた。
松瀬青々は、俳句にリアリズムを求め、俳句を「自然界の妙に触れるとともに、人間生活の浄化をはかるにある」という「自然讃仰」の立場をとっていて、亡父はこれに共鳴した。青々の門下である西村白雲郷が句誌『鳥雲』を創刊すると、22歳の亡父は、その同人となった。
亡父は軍務として、1941(昭和16)年5月、中国大陸の上海や南京に行っています。南京大虐殺のことは知らされていなかったようですが、紫金山麓の野中に日本と中国の戦没者の墓標が並んでいるのを見て一句を読んでいます。
墓標二つ 怨讐とほく 風薫る 
怨讐とは、恨んで仇とすることです。
亡父の会社員のときの写真が紹介されています。著者に似ているというより、はるかに精悍な印象です。会社員として、かなり出来る人だったのではないでしょうか...。
亡父の日記を紹介し、著者は次のように亡父を評価しています。
「父は、自分を客観的にみつめ、きちんと自己評価しようと心がけた人だったようだ。自己を過大評価したり、自信過剰に陥ることを恐れていたようにも思われる」
さらに、亡父について、著者はこう評しています。
「父が為政者、マスコミにいささかも疑問をもたなかったのは残念であり、その意味で父は普通の人だったと思う」
反戦、反権力の弁護士として活躍し、大阪で生きてきた著者は、亡父の俳句や日記を整理するなかで、自分とよく似た性格、感性、心情などを見出し、喜び、親子の絆を強く感じたとのこと。同時に、この作業は、父の思想に疑問を投げかける無言の「対話」でもあったという。
そして、最後に、著者は亡父をしのびつつ、感性豊かで詩情にあふれ、文才のある人が、早々に生を終えざるをえなかったことを無念に思い、あらためて許しがたい戦争であり、為政者だったと結んでいる。
著者から贈呈していただきました。貴重な労作です。ありがとうございました。
(2022年4月刊。税込1650円)

2022年4月 1日

奄美・喜界島の沖縄戦


(霧山昴)
著者 大倉 忠夫 、 出版 高文研

著者は横須賀で活動してきた弁護士ですが、父親が喜界島からの出稼ぎ労働者で、戦前(1939年7月)、父とともに喜界島に渡り、8歳から戦後(1949年3月)17歳まで喜界島で生活していました。
沖縄戦がたたかわれたときには、喜界島にいて危ない目にもあっています。その自分の体験をふまえて喜界島と沖縄におけるアメリカ軍との戦闘を刻明に調査し、再現しています。580頁もある大作ですが、著者の執念深い調査によって本当に詳しく沖縄戦の実情を追体験することができます。
喜界島ではアメリカ軍の飛行機が墜落し、逮捕・連行された2人のアメリカ兵を日本軍が斬首してしまうという事件も起きています。戦後、そのことが明るみに出て、2人の日本兵がアメリカの軍事法廷で死刑判決を受け、1人は処刑されています。もう1人はなぜか減軽されて、やがて釈放されました。
戦前の喜界島の人口は1万5千人。小学校(国民学校)は6校あった。
喜界島に日本兵が3千人もいて、島民は軍の対空砲火は集落を守るためにも使われると信じていた。しかし、日本軍が島民を守ってくれるというのは、アメリカ軍の空爆が始まるとたちまち幻想でしかなかったことが明らかになった。
アメリカ軍による空爆が激しくなって、著者たちはムヤ(喪屋)に潜り込んだ。これは先祖が掘った古い横穴式の風葬跡である。
宇垣まとい将軍は敗戦が決まったあと、部下22人(11機)を自らの自殺につきあわせた。これは本当にひどい話です。うち3機は途中で不時着していますので、結局16人が無理心中のようにして亡くなったのでした。
喜界島の全戸数4千戸のうち半分近くが空爆のため焼失してしまった。
8月15日のあとも沖縄の兵士は戦闘を続けたようです。9月5日に日本軍は降伏式にのぞみ、ようやく戦争が終わりました。
喜界島のアメリカ兵捕虜斬殺事件では、一番の責任者である伊藤三郎大尉が戦後いち早く行方をくらましてしまい、アメリカ軍は裁判にかけることができなかった。そこで、裁判のストーリーには、伊藤大尉は出てこないように検察官は苦労した。
この横浜で開かれた軍事法廷は、ともかく十分な弁護権が行使できなかったようです。
91歳にもなる著者が長年の調査・研究の成果を1冊の本にまとめたことに心より敬意を表します。私が45年前に横浜弁護士会(現・神奈川県弁護士会)に所属していたとき、著者と面識がありました。お元気であること、かつ、大著をまとめあげられたことに驚いてもいます。喜界島から見た沖縄戦、とくに日本軍の特攻作戦の実際がよく分かる本です。
(2021年11月刊。税込3300円)

2022年3月15日

第32軍司令部壕


(霧山昴)
著者 牛島 貞満 、 出版 高文研

沖縄戦司令官・牛島満中将(死後、大将)の孫である著者が沖縄戦の実相に迫っている本です。
なにより私が驚いたのは、先日、焼失してしまった首里城の近くに長さ1キロメートルに及ぶ第32軍首里司令部壕があったということです。何回か調査され、米軍も沖縄占領直後に調査したようですが、現在は途中で崩落したりして、立入できない状態です。坑道は1050メートルの長さで、1000人がいたとのこと。司令官室があり、浴場もありました。
沖縄の第32軍は1944年に創設されたが、大本営から下達された命令は、「沖縄の土地や沖縄県民の防衛」ではなく、本土決戦準備のための時間稼ぎ、すなわち持久戦だった。この目的を知っていたのは、第32軍の将校たちだけで、沖縄県民は知らされなかった。
そして、アメリカ軍が沖縄に上陸して、すぐに2つの飛行場を占領したことを知った大本営は、持久戦の方針を撤回し、飛行場奪回と、敵の出血強要を命じた。
持久戦から攻勢へと変更されたが、この大本営の攻勢命令はその後、撤回されることはなかった。その結果、日本軍は6万4千人が戦死し、兵力の3分の2を喪った。アメリカ軍の戦死者は5千人だった。
アメリカの軍事専門家は、この多大な犠牲者を出した沖縄戦の推移について疑問を投げかけています。つまり、沖縄に籠って抵抗する日本軍を放っておいて、先に九州か房総など、本土を叩いたほうがよほど犠牲者が少なく、目的を達成できたはずだ、というのです。なるほど、そうかもしれないと思いました。
そして、第32軍が南部へ移動(撤退)せずに、首里にそのままとどまっていたら、住民の犠牲がもっと少なくてすんだはずだと、著者は批判しています。というのも、南部への撤退が始まった6月に、70%の人が亡くなっているからです。
6月22日に、牛島司令官が自死したあと、終戦の8月15日を過ぎてからも9月5日にまで日本兵の戦死者が出ている。降伏調印式は9月7日のこと。
ところで、牛島司令官が自死したのは、6月20日、22日、23日のどれが正しいのか議論があるようです。著者は6月22日説です。戸籍は6月22日死亡になっているのです。6月22日の日付で、牛島司令官を陸軍大将に任命して大本営は沖縄の兵士たちの士気をあげようとした。しかし、実際には士気は上からなかった。大将への昇進は牛島司令官は生前に知ることはできなかったし、ありえなかった。
1キロメートルもある司令部壕の中央辺に司令官室が位置していたようですが、酸素欠乏で苦しかったとのことです。攻めたアメリカ軍は、首里城の地下に日本軍が洞窟陣地を築いていることを知っていました。
壕の写真もたくさんあり、よく調べてあると驚嘆しています。
(2021年12月刊。税込1650円)

2022年3月 2日

戦略爆撃の思想


(霧山昴)
著者 前田 哲男 、 出版 朝日新聞社

日本の敗戦後、アメリカ軍は日本全土に対して焼土作戦を敢行しました。軍需工場を狙うのではなく、都市を狙い、大人も子どもも、女性も老人も戦闘員がどうか関係なく無差別に爆撃の対象としたのです。これって戦争に関する国際法に違反していると思います。ところが勝者のアメリカ軍の蛮行は何ら問題とされませんでした。原爆投下と同じです。
しかしながら、都市を狙って無差別爆弾を世界で最初に始めたのは、なんと日本軍でした。中国の重慶を狙ったのです。もちろん、その目的は都市住民の戦意を喪失させることでした。しかし、結果は逆でした。重慶の市民は戦意喪失どころか、ますます抗日意欲に燃えて立ち上がったのでした。
そして、アメリカ軍から派遣されて日本軍による爆撃を観察していたカーチス・ルメイは、あとで、日本の本土空襲の先頭に立ったのです。なんという歴史の皮肉でしょうか。
1939年5月。日本軍の重慶爆撃は、「戦政略爆撃」なる名称を公式に掲げて実施された。それは、組織的・継続的な軍事作戦だった。ドイツ空軍のゲルニカ(スペイン)攻撃より1年あとだったが、1日限りではなく、3年間、218次の攻撃回数を記録した。
空襲による直接の死者だけで中国側集計によると1万2千人近い。
重慶は、世界どこの首都より早く、また長く、かつ最も回数多く戦略爆撃の標的となった都市である。重慶爆撃は、東京空襲に先立つ無差別都市爆発の先例だった。
重慶爆撃では、加害者の人影は地上にはなかった。一方的な機械化された殺戮の世界だった。1万人以上の人々が、侵略者がどんな顔つきをしているのか、知る機会もなく死んでいった。日本軍は、重慶において、「工業期戦争の虐殺」と形容すべき、機械化された殺戮の戦術に先鞭をつけた。やがて、その悪夢の世界は、東京、大阪、名古屋をはじめ、日本全土主要都市の住民に追体験されることになる。
空からの殺戮につきまとう「目撃の不在」と「感触の消滅」という要素は、同時に、行為者の回心の機会をも閉ざしてしまう作用をもつ。
日本軍は、南京占領のあと武漢を攻略したが、これ以上の地上進攻はありえないという点で、政府も軍中央も現地の派遣軍も、三者の認識は一致していた。
敵の継戦意思を挫折させるという空からの爆撃作戦はヨーロッパ渡りではなく、日本独自のものだった。日本軍は協力を誓わない中国人をすべて潜在的な敵とみなした。
重慶の爆撃目標地点は、市内中心部の中央公園と定められた。
都市に対する爆撃でもっと威力を発揮するのが焼夷爆弾であることは既に証明ずみであったから、3000発の製造命令を出していた。
蒋介石の航空顧問として重慶に滞在していたアメリカ人のシエンノートは、日本軍による重慶爆撃を観察した体験をふまえて、アメリカ政府に対して、対日戦用として焼夷弾の開発をすすめるよう提言した。
日本軍は、5月3日に45機、5月4日に27機、計72機(1機7人、のべ504人)で、わずか2日間のうちに重慶市民5千人を上回る大殺戮を遂行した。
このとき重慶にいた、アメリカ人のエドカー・スノーは、重慶市民が精神的な破壊から免れていて大衆の抗戦意欲はますます強化されていることを理解した。むしろ、病労し、崩壊したのは、侵略者(日本軍)のほうだった。
ところが、日本軍首脳は、重慶の上空を制圧していれば、中国は屈服すると信じきっていた。1939年に海軍が失った機数は26機にのぼった。年間生産機数が38機だったかたら、損害許容率をはるかに超えてきた。
日本軍は1940年に「百一号作戦」を遂行した。井上成美少将が計画立案したもので、112日間、32回の無差別爆撃を遂行した。ところが、爆撃に必要な石油は、その大半がアメリカからの輸入に頼っていた。
ゼロ戦(零戦)が8月19日に護衛任務で同行した。ゼロ戦の航続力は3500キロで、重慶まで往復で960キロだった。9月13日、ゼロ戦と中国機が交戦したが、中国機27機が文字どおり「殲滅」されてしまった。1941年に日本軍は「102号作戦」を発動した。
1988年に発行された古い本ですが、歴史書でもあるので、記述されている内容な古臭くなってはいません。「敵基地攻撃論」に惑わされている人も少なくないようですが、戦略爆撃は罪なき人々を空から大量虐殺しただけで、日本軍にとって何のプラス面もありませんでした。そして、これを注意深く観察していたアメリカ軍将校によって日本は手ひどくしっぺ返しされたのです。大変勉強になりました。
(1988年8刊。税込2750円)

2022年2月 1日

五・一五事件


(霧山昴)
著者 小山 俊樹 、 出版 中公新書

久しぶりに五・一五事件について書かれたものを読んで、いくつも新鮮な驚きがありました。五・一五事件が起きたのは1932(昭和7)年。「イクサになるか、五・一五」として年号を暗記しました。二・二六事件は1936(昭和11)年。「ひどく寒い日の二・二六」です。
五・一五事件には海軍将校グループと陸軍士官候補生だけで、陸軍の青年将校は一人も参加していないのですね。
五・一五事件のとき、チャーリー・チャップリンが来日中であり、首相官邸にチャップリンが訪問する予定だったのに、チャップリンが急に気が変わって遭難を免れたというのは知っていました。この本によると、首相官邸を襲撃するのを5月15日に設定したのは、チャップリンがこの日、首相官邸での歓迎会に出席するとの新聞記事を読んだからとのこと。15日は日曜日なので、休日に海軍将校が外出しても怪しまれないからだったのです。
なぜ犬養(いぬかい)毅首相が狙われたのか。それは、犬養首相個人の言動から来る個人的な怨恨ではなく、あくまで権力の象徴として打倒された。この計画は犬養首相が誕生する前からあったことから明らか。
首相官邸にいた犬養首相は銃を向ける海軍将校たちに向かって、「そう騒がんでも、静かに話せばわかるじゃないか」と言った。そして「話せばわかる。話せばわかる」と繰り返した。そして座って「まあ、話を聞こう」と言った。これに対して、「問答無益、撃て」と叫んで、黒岩と三上の二人が犬養首相の頭を狙って銃弾を撃ち込んだ。犬養首相は即死したのではなく、夜、容態が急変して死亡した。
五・一五事件の犯人たちの裁判は日本中から注目され、減軽嘆願書が殺到した。
被告人となった海軍将校たちは、海軍服を新調してもらって法廷にのぞんだ。逆に襲撃を受けた被害者であるはずの犬養家が、かえって世間から糾弾された。
被告人たちは「英雄」となり、事件は「義挙」となり、人々は被告人の供述に「涙」した。
報道はそのようにエスカレートしていった。犯人の海軍中尉たちは死刑を求刑されたのに、判決では禁固15年。そして、実際には、6年で仮出所している。
軍法会議における被告たちの主張は、「私心なき青年の純真」というイメージとして流された。「政党による軍部の圧迫」、「政党・財閥ら支配層の腐敗」、「農村の窮乏」。いわば軍を圧迫する腐敗した支配層、政党・財閥などの既得権益層に向けた「欠席裁判」として、軍法会議が利用されたのでした。
今の自衛隊の上層部と同じで、昔の陸海軍の上層部は、まさしく腐敗した支配層・既得権益層を構成していたのですが、そこには、もちろんメスが入りませんでした。
他にも、なぜ五・一五事件のあと政党政治がほろびたのか、など大切な視点があり、とても勉強になりました。
(2020年4月刊。税込990円)

2022年1月25日

「太平洋の巨鷲」山本五十六


(霧山昴)
著者 大木 毅 、 出版 角川新書

父親が56歳のときにさずかった子なので、五十六(いそろく)と名付けた。
なーんだ、そういうことだったのか...。
「五十六少年は、おとなしくて、本当に黙りっ子だった」
言葉を尽くすのを億劫(おっくう)がる人物だった。話が通じないと思った相手には、言わなければならないことまでも言わないと評された。そして、本人は、この「沈黙」をある種の知恵と考えていたようだ。でも、これって、部下は困りますよね。
1919(大正8)年4月、山本はアメリカ駐在を命じられた。アメリカ駐在中に、山本は航空機の威力に注目した。そして、アメリカの巨大な石油施設を眼にしてアメリカの力を実感しただろう。山本は、大艦巨砲主義から航空主兵論に乗りかえた。そして、山本は、自ら飛行機の操縦を習得した。山本は航空本部長となり、航空機産業の調整に努力し、大量生産体制を整えるのに奮闘した。ただ、山本は先見的な航空主兵論を力説しながらも、それは不徹底だった。
北支事変、日華事変、支那事変と日本が呼んだのは、アメリカとの関係で「戦争」と呼べなかったということ。アメリカは1935年に中立法を制定していて、戦争していると大統領が認定した国に対しては、兵器や軍需物資の輸出を禁じていた。なので、もし、日本が中国に宣戦布告し、国際法上の戦争をはじめてしまえば、日本はアメリカから石油や鉄を輸入できなくなってしまう。
南京への無差別爆撃は日本軍が世界史上初めてなした蛮行だとされているが、これは山本の発案によるものという有力説がある。山本は、このとき海軍次官の中将だった。大都市への無差別爆撃は、そこに住む住民を恐怖のドン底に陥れて戦意を喪失させることを狙ったもの。しかし、現実は、身内を殺された人々は、戦意喪失どころか、ますます戦意を高揚させた。
これはヨーロッパでも同じ。ドイツのロケット攻撃を受けたロンドン市民、イギリス軍による無差別攻撃にさらされたドイツの都市住民はますます戦意を高揚させた。日本の本土大空襲を指揮したアメリカ軍のカーチス・ルメイ将軍も同じように間違った執念の持ち主でした。
山本は、日独同盟に強く反対していた。それは、アメリカとの戦争につながりかねないとの判断からだった。
1940年9月の時点で、山本は対アメリカ戦で勝算がない、自信のもてる軍備ができるはずがないと考えていた。真珠湾攻撃において第二撃を断念するのもやむなしと山本たちは判断していた。燃料も爆撃も欠如していた。
山本は1943年4月18日、搭乗していた一式陸攻機が、日本の暗号を解読していたアメリカ軍の戦闘機によって撃墜されて死亡した。要は、アメリカ軍は日本軍の暗号を全部解読していて、日本軍の行動をすべて認識し、予想していたということです。これは科学・技術の発達をアメリカ軍は取り入れていたこと、日本軍は相変わらず古臭い精神主義にとらわれていたことを意味しています。皇軍の優位性を今なお誇大妄想的に言いつのる一部の日本人は、この客観的事実に目をつぶって、自己満足しているにすぎません。
(2021年8月刊。税込1012円)

2021年12月27日

幻の村


(霧山昴)
著者 手塚 孝典 、 出版 早稲田新書

満蒙開拓団の悲惨な歴史をたどった新書です。
満蒙開拓団は、1931年の満州事変、翌年の満州建国のあと、1936年に閣議決定されて日本の国策となった、現在の中国東北部へ日本人500万人を移住させる計画によるもの。
「満州に行けば地主になれる」
こんな政府のコトバをうかつにも信じて、農業の担い手としての成人男性とその家族が海を渡った。その真実は、日本の公設企業が現地の農民から安く買いたたいた農作地と家屋を与えられ、中国人をよそへ追いやる入植だった。そして、それはソ連国境の防衛と、植民地支配が目的だった。また、日本の軍事を担う、陸軍の関東軍への食糧供給など兵站(へいたん)の役割も担っていた。
この本は、長野県にすむ胡桃澤盛(さわもり)を主人公としている。彼は36歳のとき、旧・河野村の村長に就き、総勢95人の河野村開拓団を満州に送り出した。ところが戦後の日本に無事に戻ってきたのは22人のみ。73人が死亡した。翌年、この村長は42歳の若さで自死した。
河野村開拓団には敗戦時の8月15日に76人がいて、男性は4人のみ。7割が子ども。中国人の村人から取り囲まれた。そして、団長は暴力を受けて虫の息となり、日本人の手で殺された。そのあと、開拓団は集団自決をはじめた。まず、自分の子どもを首を絞めて殺した。そして、生き残った人々が長野県に戻ってきたときには、村をあげて送り出したはずなのに、厄介者扱いされた。
「好き勝手に満州に行って死んだ奴ら...」と、さげすまれた。戦死者とは違う扱いだった。
中国人が耕作していた土地を、日本人がタダ同然で追い出したところに開拓団は入植した。開拓団のほうは、先輩たちが開拓した土地だと信じていた。開拓団の生活は軍隊式で、日課には軍事訓練もあった。
日本敗戦後、関東軍は逃げるときに時間かせぎのため、橋を落としていった。そのため開拓団は逃げるのに苦労させられた。
満蒙開拓団青少年義勇軍は全国で8万5千人。そのうち3万人が命を落とした。
国策として満州へ送り出したにもかかわらず、日本政府は残留孤児の帰国について、「家族の問題」として、介入しない方針をとった。そして、公的な支援策はとらず、家族まかせにした。
満蒙開拓団がたどった苦難の歴史が教えるものは、政府(国)や当局(村)の言っていることをうかつに信用してしまう(うのみにする)と、生命も財産も失うことがあるし、自己責任として、信じたほうが悪いとされることがあるということです。
それにしても、今の自民党(自民・公明)政権のひどさ(無責任さ)は、あまりにもひどすぎますよね。アベノマスクにしても8千万枚が配られずに倉庫に眠っていて、倉庫代がかさんでいる。1千万枚が不良品であり、その検品代に21億円もかけたうえ、廃棄処分する。これから子どもに配られる10万円の半分をクーポン券にして、その配布のための事務手数料に1千億円近くかけようとする...。信じられないムダづかいです。私は絶対に許せません。プンプンプン...。投票率が5割ほどでしかない状況がすべてを許しているのです。
(2021年7月刊。税込990円)

 12月25日、天神でアメリカ映画『ダーク・ウォーターズ』をみました。デュポン社(化学製品のメーカー)がテフロンには生物への重大な健康被害を与えることを実験して知悉していながら消費者に対しては安全・便利だとウソを言って莫大な利益をあげていたのを企業側の弁護士がデュポン社とたたかうことになり、大変な苦労の末に勝訴したという実話にもとづく映画です。
 日本でも水俣病やイタイイタイ病裁判があるわけですが、わずかな弁護士が大企業と裁判して勝てた背景には情報開示制度が生きていることがよく分かりました。
 また、クラスアクション(集団訴訟)を活用し、大々的な疫学調査を国にさせたところも注目すべきところがあり、大変勉強になりました。
 残念なことに観客はわずか5人だったようです。

2021年12月15日

第七師団と戦争の時代


(霧山昴)
著者 渡辺 浩平 、 出版 白水社

北海道にあった第七師団の生い立ちから敗戦のときに解放するまでを追跡した労作です。
北鎮という言葉を初めて知り(聞き)ました。北方の脅威から自らを護るという意味だそうです。北とはロシア(ソ連)を指します。
第七師団は屯田兵を前身とし、中国・満州に渡ってノモンハンで戦い、また沖縄でも戦っています。師団というのは1万人あまりの兵力をもち、聯隊(れんたい)は2千人ほどの将兵がいる。師団長は中将があたる。
第七師団の歩兵第二十五聯隊は屯田兵を母体とし、1896(明治29)年に札幌の東の月寒(つきさむ)の地で誕生した。そして、この第二十五聯隊は、1945年8月17日に樺太の逢坂で聯隊旗が焼かれて消滅した。
第七師団の本来的任務は一貫して北方の護り。
屯田兵は、正式名称は屯田憲兵。ええっ、これまた初めて知りました。憲兵だったのですか...。屯田兵は、シベリアのコサック兵を模して、黒田清隆が進言してできた制度。
第七師団の用地は540万坪。そこに3個の歩兵聯隊(26、27、28)と騎兵、工兵、野戦砲兵、輜重(しちょう)兵がそれぞれ1個聯隊、師団司令部、病院、監獄、憲兵隊、兵器廠や官舎、それに火力発電所もあった。もちろん、練兵場や演習場も。
日露戦争のときの旅順港を見おろす203高地の攻略戦にも第二十五聯隊は出動しています。このとき、63人のアイヌ兵がいて、うち51人が戦功により勲章を授与された。この戦闘で、第七師団は、3割強、6206人の死傷者を出した。
ロシア(ソ連)の二コラエフスク市(尼港)における日本人虐殺事件にも第七師団は関わっている。1917年にロシアで革命が起こり、ソビエト政府が誕生した。そこへ、英仏、米日がシベリアに出兵して内政干渉を試みた。その名目は、チェコ軍団の救出ということだった。1918年8月に第七師団がシベリアに派兵された。
尼港事件は、1920(大正9)年5月24日に発生した。
尼港の日本軍守備隊はわずか300人。包囲するパルチザンは2000人。日本軍の救援は遅れ、日本の将兵と市民はパルチザンに処刑された。このころの日本人居留民は500人。うち、天草・島原出身者を主体とする娼妓が90人いた。また、パルチザンのリーダーは、直後の7月に赤軍によって処刑されている。
シベリア出兵したのは、当時21個師団のうちの10個師団。24万の兵力を送り出し、死者5千人、負傷者2600人、戦費は9億円にのぼった。日本はシベリアの資源を開拓して得ようとしていた。
ノモンハン事件のときにも、1939(昭和14)年5月から9月にかけて、満州(チチハル)にいた第七師団が出動した。
その第26聯隊長だった須見新一郎は、火焔瓶によってソ連軍の戦車と戦った考案者として名高いが、ノモンハン戦記のなかで、「御粗末なる作戦屋」として日本軍高官たちを痛烈に批判している。関東軍の植田謙吉司令官、辻政信らの参謀、そして小松原道太郎・第23師団長らを激しく非難した。
ノモンハン事件では、ソ連軍も莫大な被害を出したことが今では判明していますが、ジューコフ将軍が最大限の物量を集中させて日本軍を圧倒したこと自体は事実です。この戦果によってジューコフ将軍はスターリンに認められて、ソ連赤軍のトップにのぼりつめました。
そして、第七師団は沖縄に渡ってアメリカ軍と戦い、また樺太ではソ連軍と8月15日のあとまで戦ったのでした。
第七師団の歩みは、日本軍の歩みでもあることがよく分かる貴重な労作だと思いました。
(2021年11月刊。税込2750円)

2021年12月 7日

靖国神社と聖戦史観


(霧山昴)
著者 内田 雅敏 、 出版 藤田印刷エクセレントブックス

第二次大戦中に、非業・無念の死を強いられた死者たちに対しては、ひたすら追悼あるのみで、決して、彼らに感謝したり、彼らを称(たた)えたりしてはならない。称えた瞬間に死者の政治利用が始まり、死者を産み出した者の責任があいまいにされる。
これが著者の主張の根幹にあり、私もなるほどそうですねと共感します。
第二次大戦中に亡くなった日本人兵士の多くは餓死であり、戦病死でした。誰がそんな状況に前途有為な青年たちを追いやったのか...。もちろん、日本軍のトップであり、天皇と支配層です。
A級戦犯こそ靖國神社にふさわしい。靖國神社がA級戦犯を分祀することは絶対にありえない。なぜなら、分祀した瞬間に、「聖戦」思想を根幹とする靖國神社の歴史観が崩壊し、「靖國神社」でなくなってしまうから...。
中国や韓国からいくら抗議されても靖国神社は平気で無視しますが、アメリカから批判されると直ちに訂正するという、日本政府と同じ卑屈な対応をします。これまた、嫌ですよね...。信念があるようで、ないことがよく分かります。
私も靖国神社には一度行きました。悪名高い遊就館も見学しました。まさしく、「聖戦」のオンパレードで、日本はアジアの人々の解放のために戦ったと言わんばかりの展示ばかりでした。
1978年に靖國神社がA級戦犯を合祀したあと、昭和天皇は靖國神社への参拝はしていないし、明仁平成天皇にいたっては在任中、一度も靖國神社に参拝しなかった。
平成天皇は2015年に南太平洋のペリュリュー島にまで行って戦死した日本平兵士たちを慰霊しました(これで、私もペリュリュー島に関心をもち、マンガ本も読みました)。靖國神社は、ペリュリュー島よりも遠いのか...と、呪詛した人たちがいるそうです。本当に残念です。
この本を読んで、軍人恩給(遺族年金)が、「天皇の軍隊」の階級をそのまま生かしていることを知り、怒りを覚えました。大勢の兵士を戦場で餓死させた「戦犯」である「大将」の年金は年間761万円。それに対して、一般の兵士は、104万円にすぎず、7倍もの差があるというのです。ひどいものです。
著者は前に『靖国参拝の何が問題か』(平凡社新書)も刊行していて、この分野のエキスパートの弁護士です。改めて、大変勉強になりました。今後ますますのご活躍、ご健筆を祈念します。
(2021年10月刊。税込990円)

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