弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2021年2月25日

傷魂


(霧山昴)
著者 宮澤 縦一 、 出版 富山房インターナショナル

ヴァイオリニストとして有名な黒沼ユリ子の師匠でもあった音楽評論家の著者が第二次大戦中にフィリピンで九死に一生を得た過酷な体験を、帰国した翌年1946年に忘れないうちに書きつづったものが復刻された本です。
著者は、生還者の義務として、思い出してもゾッとする、あの過ぎしころの悪夢のような出来事と、現地の実相を、ただありのままに世に広く発表したいと思い筆をとったのでした。
著者が召集の赤紙を受けとったのは1944年(昭和19年)5月5日。3日後の5月8日には目黒の部隊に入隊した。そして、輸送船に詰め込まれて台湾へ、そしてフィリピンに運ばれた。この輸送船は、「ああ堂々の輸送船」と歌われていたのは真逆の奴隷船、あるいは地獄船だった。船底に近い最低の場所に詰めこまれ、熱いのに水は飲めない上古湯で、着たきりスズメ。そこをシラミがはいまわった。そして、潜水艦に狙われる。
「将軍商売、下士官道楽、兵隊ばかりが御奉公」
そして、フィリピンに上陸。ミンダナオ島に着く。やがてアメリカ軍が空から飛行機で襲撃し、海から砲撃されるようになり、食糧に苦しんだ。中指ほどの芋1本か2本が兵隊たちの一食分。それで、カエル、ヘビ、ネズミを食べたが、それはまだ上の部類の料理。銀トカゲを食べて嘔吐した者、死んだ水牛を掘り出して下痢した者、オタマジャクシやカタツムリが試食された。
敗残兵となって山奥へ逃げていく。裸足(はだし)にわらなわを二重三重に巻きつけて、ぬかるみの坂道をのぼっていった。軍紀も軍律も敗残兵たちを拘束する力をもたなくなり、上官の命令が下級者に徹底しなくなった。かえって上官が下級者のきげんをとるようになった。上官をバカにしだした兵隊たちは、頼りない上官を相手にせず、気のあった仲間と連れだって勝手に行動しはじめた。
ついにアメリカ軍の砲撃で足をケガした。何の手当もできない。すると、3日目は、小さく細いウジ虫が傷口いっぱいにウジャウジャと固まり、1週間もすると、大きな白いウジ虫までもはいまわり始めた。そのうえシラミが身体中をはいまわり、やたらとむずがゆい。10日ものあいだ、はんごうにたまった雨水をのむだけ...。
手榴弾を石に叩きつけて自決しようとするが、なんと不発弾。そして、身動きできないところにアメリカ兵がやってきて、取り囲まれた。アメリカ兵はタンカを持ってきて、ジャングルから基地へ運んでいく。「いつ殺されるのか」と訊くと、「心配するな、病院に行くのだ」という答えが返ってくる。半信半疑の状態だった。
京都帝大法学部出身の著者は英語で、「起きられない、歩けない」と言ったのでした。
そして、赤十字の車をみて平和の生活をとり戻せたのでした。奴隷から自由人に戻ることができたのです。著者は、日本に帰国してから南方の戦地の実情をたずねられたそうです。
ネズミの塩焼きは、焼き鳥の味に似て、うまいうまいと言って喜んで食べていたと答えたとのこと。
フィリピンで死んでいった日本兵の戦死者たちは、戦闘どころか、一発の弾丸も撃つことなく、戦争を呪(のろ)い、軍閥を恨んで死んでいった者が絶対多数だった。このように著者は自らの体験を見聞した状況から断言しています。そして、それが日本国内にきちんと伝わっていないことに、もどかしくこの体験記を書いたのです。絶対に忘れてはいけない戦争体験記だと思って最後まで読み通しました。
(2020年11月刊。1300円+税)

2021年2月17日

難民たちの日中戦争


(霧山昴)
著者 芳井 研一 、 出版 吉川弘文館

日本の無謀な大作戦が日本政府トップの無理な指示によるものだというのを改めて認識しました。1944年4月から1945年2月にかけて中国大陸で展開された大陸打通作戦のことです。この作戦は、日本の陸軍史上最大の50万人もの兵力を動員した。それは、日本国民の戦意喪失を防ぐために、アメリカ軍の対日空爆基地をつぶすという大義名分の大作戦。
ところが、実際の参加兵力は41万人、作戦距離2000キロという大作戦は、制空権がないなか、補給もほとんどないという無謀な行軍と戦闘を余儀なくされた。
したがって、現地の日本軍は食糧は現地調達、つまり現地で掠奪するしかなかった。ところが、中国の民衆はほとんど逃亡し去っていて、掠奪すべき食糧は残っていなかった。
また、41万人の日本兵のうち、10万人ほどはほとんど未教育の補充兵だった。食糧が現地調達できない日本兵は下痢、栄養失調、コレラで次々に死んでいった。第58師団は、出発時1万3849人だったのが、敗戦時には7388人と生存者は半分だった。
そして、この無謀な大作戦のきっかけは1942年4月の日本本土初空襲のドゥリットル空襲だった。日本本土がアメリカ軍による空爆の射程内に入ったことは、一般国民に突然、戦争の前面に立たされたという感覚をもたらし、士気に影響するところが大きいと政府当局は判断した。なので、日本への空襲のためのB52の離着陸可能地にある中国の飛行場を破壊することが最優先される作戦が考えられ、実施された。これをリードしたのが東条英機首相だった。
1938年に広東爆撃から重慶爆撃へと中国の都市爆撃を拡大していった日本軍指導者は、1942年の首都東京の電撃空襲を受けて、冷静な作戦の見通しと判断を見失った。
総力戦をうたっていた東条首相以下の日本政府と軍部のトップにとって、国民の継戦意志を確保するため、つまり国民動員のために必要な不可欠と判断した。そこで、現地作戦軍の意向を無視して押し付けた。
しかし、この大陸打通作戦の終末期には、アメリカ軍は中国大陸にある航空基地を利用することなく、日本本土を空襲するようになっていた。すなわち、アメリカ軍は、1944年の6月、マリアナ沖海戦で日本海軍の空母や航空機に壊滅的打撃を与え、7月にはサイパン島、グアム島そしてテニアン島に上陸して占領した。7月からは、日本本土爆撃基地は中国本土からマリアナ諸島に移された。11月には、マリアナ基地から飛びたったB29爆撃機70機が東京を本格空襲した。
日本軍の中国大陸での戦面拡大によって厖大な難民が生まれた。難民が一番多かった河南省では、1942年から43年にかけて200万人もの人々が餓死等で死亡し、300万人が難民として他省に流出した。これには、1938年の国民党軍による黄河の決潰も大きく影響している。しかし、それも日本軍の侵攻への対抗策としてなされたもの。
中国大陸への日本軍の侵攻作戦について、日本の指導部と現地作戦群の思惑が見事にずれていて、現地軍の独断専行がひどかったことは他の本でも再三指摘されています。
日本軍は、現地の中国人をなんとか手なづけようと、満鉄社員のなかから52人を指名し、その経験を生かした宣撫(せんぶ)班を7つも組織した。まあ、しかし、日本軍が近づくと中国の民衆のほとんどはまたたくまに逃げ出してしまったのでした。
日本軍は、1938年6月から国民政府の首都になっていた武漢を目ざした武漢作戦を開始した。30万人以上の兵力が動員され、戦死者6558人、戦傷者1万7040人、病者10万5945人という大消耗戦となった。このとき、日本軍は占領地の多くで治安体制を整えることができなかった。このころ、陸海軍は、軍事費のさらなる拡大を追求していて、30億円以上もかけて武漢作戦に着手したかった。いわば、自分たちの権益を守るために大勢の若い日本人を死地に追いやったわけです。もちろん、その「敵」は中国人民でした...。
1938年5月、日本軍は広東市内を突然に空襲した。これは、日中戦争の帰趨を左右するほど大きな国際的影響があった。要するに、フツーの市民を爆撃した日本はけしからんという全世界の世論の声を招いてしまった。このとき、「軍事施設に限って」日本軍が空襲した事実はなく、むしろ日本軍は、意識的に民家を狙って空爆していた。これと同じことをアメリカ軍も日本を空襲したときにやったわけです。カーチス・ルメイ将軍は、日本を石器時代に戻すと豪語したのです。そのカーチス・ルメイに対して、日本政府は戦後、大勲章を授与したのです。いったい日本国民の生命、財産を政府はなんと考えているのでしょうか...(プンプン)。
日本史も切り口によって新しい視点を身につけることができることを実感させられた素晴らしい本です。ぜひ、あなたもご一読ください。
(2020年10月刊。1800円+税)

2021年2月 4日

「非国民な女たち」


(霧山昴)
著者 飯田 未希 、 出版 中央公論新社

女性の美に対するあこがれの強さに改めて驚嘆させられました。なにしろ空襲下でもパーマネントを離さなかったというのです。
「ぜいたくは敵」
「パーマネントはやめませう」
という世の中でも、戦前の日本女性は上から下まで(上流階級だけでなく)、パーマネントをかけようと、徹夜してでも、早朝からパーマネントをかけるべく行列をつくっていたり、木炭パーマネントにつかう木炭なら、食事づくりの木炭をまわしてでも、ともかくパーマネントを優先させていたというのです。
「石を投げられてもパーマをかけたい」
「非国民」とののしるほうがおかしいと、日本の女性は開き直っていたのでした。
いやはや、「常識」ほどあてにならないものはありません。戦前の日本女性はパーマをかけず、黙ってモンペをはいて、防災訓練と称するバケツリレーをしていただなんてイメージがありますが、とんでもありません。
戦前、洋裁に憧れて地方から上京してきた女子学生たちは、まずパーマネントをかけるのが「慣例」だった。それは学校側が止めてもきかなかった。
戦火が激しくなった1940年を過ぎても、パーマネントをかける女性が減るどころか増えていた。
それは工場でも同じこと。女工たちはパーマネントをかけ、スカートの美しさに気を使っていた。モンペの着用は広がらなかった。
1943年の大日本婦人大会で「パーマネント絶対禁止」が決議されているが、それだけパーマネントは流行していたということ。実際、パーマネント機を10台以上も設置した大規模美容院があり、店の前には順番待ちの女性の行列があった。
パーマネント機を設置する美容店は、1939年に800店で1300台のパーマネント機があったが、1943年には1500店で3000台になった。
パーマネント機が国産機として普及するようになって、35円だった代金が10円から15円になった。それでも、高額ではあった。国産パーマネント機は製造しても、すぐに売り切れるほど需要があった。
日本一の美容院チェーンだった丸善美容院は、1937年ころ、全国に35店舗、6百数十人の従業員を擁していた。大阪の本店には、1940年に1日の総売上高1万円をこえるのも珍しくなかった。1人7円なので、1日1400人以上が来店していたことになる。
上流層の女性はパーマネントをかけるのは「当然」のことだった。陸軍省で働く女性たちにもパーマネントが流行っていた。
パーマネントは日本製がトレードマークの芸者たちのあいだにも広がっていた。
木炭パーマ。戦争が激しくなってきて、電気を使えなくなり、パーマは炭火ですることになった。客がもってくる木炭がなければ木炭パーマはかけられない。そして、主婦が配給の炭を節約してでも自分のためにパーマネント用の木炭を店にもってきた。
いやあ、さすが日本の女性だと、すっかり見直しました。大和撫子は、政府の言うとおりに踊らされてばかりではなかったのです...。
ついつい目を見開いてしまう驚きに満ちあふれた本でした。
(2020年11月刊。1700円+税)

2021年1月22日

戦争と弾圧


(霧山昴)
著者  纐纈 厚 、 出版  新日本出版社

 戦前に特高警察として共産党弾圧を指揮し、戦後は公職追放のあと国会議員として「建国記念の日」の旗振り役となった纐纈弥三の一生をたどった本です。著者は同じ纐纈姓なので、ひょっとして身内なのかと思いましたが、同じ岐阜県の出身ではあるけど、親族ではないとのこと。ただ、纐纈弥三が衆議院議員のとき、著者の家にも選挙の挨拶に来たのだそうです。
この纐纈(こうけつ)という名前は岐阜県の美濃地方では珍しい名前ではない。纐纈の読み方にはこうけつのほか、くくり、あやめ、はなぶさ、こうげつ、きくとじ、こうしぼり、こうけんなど、いくつもあるというのにも驚かされます。
 纐纈というのは、絞り染めからきていて、江戸中期までは上級武士の晴れ着として珍重されていたとのことです。あの『蟹工船』の作者である小林多喜二を無惨にもまたたくまに虐殺した特高警察を許してはならないと私は心底から思いますが、その虐殺の状況、下手人たちは今なお明らかになっていません。纐纈弥三とか毛利基とか課長連中がどれほど関与していたのか、本人たちは戦後になっても白々しく何も語りませんでした。その意味では、嘘を国会で118回も繰り返して恥じないアベ前首相とウリふたつです。
纐纈弥三は、一高から京都帝大に行き、内務省に入りました。あとは特高警察や県知事などの要職を歴任しています。この本は、纐纈弥三の日記(全部ではありません)によって、その私生活にも触れつつ、戦前の日本の民主主義が崩壊されていくなかで特高警察がいかに危険な役割を果たしたのかを明らかにしています。要するに、日本が帝国主義侵略戦争を仕掛けていくとき、その障害物を除去するため、特高警察は共産党を真っ先に弾圧し、そして、戦争遂行を妨げる民主主義を圧殺してしまったのでした。
 ところが、そんなひどいことをした特高警察が戦後の日本で見事に復活し、大手を振るって国政の表舞台に登場してきたのです。それが今の自民党にそっくりつながっています。これがおぞましい日本の現実です。いま選挙のときに投票に行かないということは、そんな現実を下支えしているということにほかなりません。
戦後、戦前の軍国主義に加担した政治家や官僚たちに対してGHQは公職追放したのは10万人。ところが、ドイツでは110万人が公職追放された。日本はドイツの1割でしかない。しかも、特高警察に属する下級警察官は職を失って路頭に迷ったが、上級官僚たちは、みるみるうちに要職に返り咲いた。警察の特高課長経験者が自民党の国会議員になった人物が紹介されていますが、なんと総勢で54人(特高課長と同種の肩書をふくみます)にのぼります。えぇっ、自民党って特高課長の党だったんだね...と驚き。呆れてしまいます。ここにも日本人特有の忘れっぽさがあらわれているようで嫌になります。
特高課長として無惨な拷問を指揮命令して纐纈弥三ですが、日記によると、子煩悩のようであり、子どもや妻を亡くしたときの悲しみは、人間らしいものが十分にうかがえます。つまり、新しい身内には人間らしい情愛を尽くす一方で、「敵」と思い込んだ共産主義者などに対しては人を人と思わぬ残酷さを発揮するのです。これは、ヒトラー・ナチスの幹部たちとまったく同じです。
戦前の「3.15事件」という1928年(昭和3年)におきた日本共産党弾圧事件。日本の侵略戦争のもう一つの表現であった。戦争と弾圧が表裏一体の関係で強行された典型的な歴史事例である。日本の戦争は、弾圧なくして強行できなかった質を内在したもの。つまり戦争と弾圧は一体のものであった。
 著者によるこの指摘は、まさしくズバリ本質を突いている。私はそう思いました。
 纐纈弥三と同じころ共産党弾圧に関与していた人物は「共産党の取り締まりをやっているときが一番楽しかった。このころ田中義一内閣は山東出兵を強く出兵する方針で、そのために戦争反対を叫ぶ共産党の存在がたんこぶだった」と戦後に語ったとのこと。寒気を覚えるほど、おぞましい告白です。そして、纐纈弥三は、戦後、自民党(今の自民党の前身をふくみます)の国会議員として「建国記念の日」を定めるのに執着しますが、その頭のなかには神武天皇が実在していたという。まるで非科学的なイデオロギーにみちていました。
 これまた、おぞましい事実です。これは日本会議の源流の一つなのでしょうね...。
(2020年10月刊。2200円+税)

2020年11月 4日

分隊長殿、チンドウィン河が見えます


(霧山昴)
著者 柳田 文男 、 出版 日本機関誌出版センター

下級兵士たちのインパール戦というサブタイトルのついた本です。
私と同じ団塊世代(1947年生まれ)の著者がインパール戦の現地ビルマからインドを訪問し、その体験で知りえたこと、戦史や体験記も参考資料として書きあげた物語(フィクション)なので、まさしく迫真の描写で迫ってきます。実際には、もっと悲惨な戦場の現実があったのでしょうが、それでも、インパール戦に従事させられ、無残にも戦病死させられた末端の兵士たちの無念さが惻惻(そくそく)と伝わってきます。
インパール戦には、1万5千人の将兵が従事し、1万2千人の損耗率、戦死より戦病死のほうが多かった。インパール作戦は、1944年(昭和19年)1月7日、大本営から正式許可された。すでに劣勢にあった日本軍がインドにあるイギリス軍の要衝地インパールを占領して、戦況不利を挽回しようとするものだった。インパールはインド領内にあり、日本軍は、そこにたどり着くまえに火力で断然優勢な英印軍の前に敗退した。
インパールに至るには峻険な山地を踏破するしかなく、重砲などの武器と弾薬そして食糧補給は不可能だった。ところが、反対論を押し切って第15軍司令官の牟田口廉也(れんや)中将と、その上官にあたるビルマ方面軍司令官の河辺正三(まさかず)のコンビが推進した。大本営でも作戦部長(真田穣一郎)は反対したが、押し切られてしまった。
主人公の分隊長である佐藤文蔵は、京都の貧しい農家の二男。師範学校を退学させられ、応召した。そして24歳のときに軍曹に昇進して一分隊の指揮官に任命された。
英印軍は、山域に機械化部隊をふくむ精強な第20師団を配置し、強力な重火器類による砲列弾に日本軍は遭遇した。日本軍は小火器類しかなく、食料が絶対的に不足していた。そして、ビルマの激しいスコールは日本軍将兵の体力を消耗させていった。
第一大隊は、チンドウィン河を渡河した時点で1000人いた将兵が、これまでの戦闘によって、現時点では、1個中隊に相当する200人足らずの兵力に激減していた。そして、この将兵は、食料不足、マラリア、赤痢などの熱帯病におかされ、激しい雨によって体力を奪われてやせ衰え、その戦闘能力は極度に低下していた。
インパール作戦が大本営によって正式に中止されたのは、7月3日のこと。第15軍司令部が正式に知らされたのは1週間後の7月10日だった。あまりに遅い作戦中止決定だった。7月18日には東条内閣が総辞職した。
「戦線整理」という名ばかりの指揮系統のなかで、戦場に遺棄された将兵たちは、密林地帯から自力で脱出することを課せられた。激しいスコールに見舞われる雨季に入っていた。「白骨街道」が誕生することになった。
佐藤軍曹は2人の一等兵を鼓舞しながら、山中をさまよい歩きチンドウィン河を目ざしていくのでした。涙なしには読めない苦労の連続です。でも、ついに目指すチンドウィン河に到達し、やがて日本に戻ることができたのでした。もちろん、これはめったにない幸運な人々の話です。こんな無謀な戦争にひきずり込んだ軍部の独走、それを支えていた「世論」の怖さを、しみじみ実感しました。
あたかも生きて帰還した人の手記を読んでいるかのように錯覚してしまう物語(フィクション)でした。
(2020年1月刊。1600円+税)

2020年10月28日

日ソ戦争 1945年8月


(霧山昴)
著者 富田 武 、 出版 みすず書房

1945年8月9日、ソ連軍が突如として満州に攻め入ってきました。たちまち日本軍は総崩れで、開拓団をはじめとする多くの在満日本人が殺害されるなど多大の犠牲者を出しました。このときのソ連軍の蛮行を非難する人が多いのですが、では日本の軍部(関東軍)は、そのとき、いったい何をしていたのか、それを本書は明らかにしています。
まず関東軍はソ連軍の侵入経路の最前線基地をその前に撤収していました。そして、関東軍の精鋭を南方戦線に抽出して転戦させ、その穴埋めとして開拓団の男子を8割、10割ひっぱってきて員数あわせをしました。しかも、武器・弾薬も十分でない状態でした。さらに、ソ連軍の侵攻直前に関東軍の上層部は自分たちの家族を内地にいち早く帰国させておきながら、在満日本人に対しては関東軍がいるから安心せよとなどという大嘘をついていたのでした。
なので、在満日本人の多くが犠牲にあったのは関東軍の意図したところ、見捨てた結果でもあったのです。現地の開拓団はいざとなれば日本軍(関東軍)が守ってくれると固く信じ込んでいたため、脱出が遅れてしまったのです。それは、関東軍が住民に本当のことを知らせたらパニックになるから言えない(言わない)という論理の帰結でもありました。むごいものです。
敗戦を予期した関東軍高級将校たちは、8月4日ころから家財一切を軍団列車に乗せ、家族を連れて満州を逃げ出した。政府関係者も同じ。指導者を失った関東軍はまったく混乱し、兵隊は銃を捨ててひたすら南に走った。
8月2日、関東軍報道部長はラジオで、「関東軍は盤石。日本人、とくに国境開拓団は安心して仕事を続けて」と安心させた。そのうえで、関東軍の前線部隊は開拓団員や居留民を「玉砕」の道連れにした。
さらに、要塞建設にあたらせた中国人捕虜を、「機密の保護」の名目で殺害した。
満州の前線数百キロにあった堅固な陣地は、昭和20年の春から夏にかけて、日本軍の手によって見るも無残に破壊され、無防備地帯と化していった。
満蒙開拓団員や居留民を根こそぎ動員して関東軍は人員不足を埋めたものの、それでも定員の7割には達していなかった。そのうえ、新兵には三八式歩兵銃(明治38年の日露戦争時の銃)を支給したものの、その弾丸は十分ではなかった。新兵は訓練もろくに受けず、第二線陣地構築の労務を従事させられた。
ソ連軍は大きなT34戦車が何十台も一隊をなしてやって来るが、日本軍には戦車が1台もなかった。ソ連軍は各種の大砲を何十門も砲口を備えて打ち出すのに、日本軍は、加農砲3門、迫撃砲5門ほどしかない。ソ連軍は飛行機で絶えず偵察し、爆撃してくるが、日本軍には1機もなかった。日本軍の戦車は構造が時代遅れで、出力は弱く、ソ連軍の軽戦車とも比較にならないほどの弱さだった。
満州に来たソ連軍は独ソ戦に従事していたので、疲労困憊していた囚人部隊だというのは誤った俗説。独ソ戦のあとリフレッシュもできていて、新兵も補充されていた。そして政治教育は徹底していた。さらに、囚人だけの部隊はなく、囚人といっても経済犯が主であり、イレズミの囚人兵たちがソ連軍の主力というのは間違い。
いやあ、いろんな真実が語られています。さすがは学者です。1945年8月に日ソ戦争の状況を正しく知ることのできる貴重な本です。
(2020年7月刊。2700円+税)

2020年9月22日

赤星鉄馬、消えた富豪


(霧山昴)
著者 与那原 恵 、 出版 中央公論新社

全然知らない人でした。その名前を聞いたこともありません。
若くして大変な大金持ちだったというのですが、どうしてそんなことが可能だったのか、それも不思議でした。この本を読むと、要するに、権力者との太いコネ、そして戦争です。
まるで、アベ友の話と同じです。アベノマスクやGOTOキャンペーンは、アベの親しい仲間たちが大変な金もうけをできたことは間違いありません。それは決して下々(しもじも)の苦難を救うためではありませんでした。
そして、つい先日、自民党の女性議員たちが先制攻撃ができるようにしろとアベ政府にハッパをかけました。国民の生活はどうなってもよいけれど、「国家」は守らなければいけないという信じられない発想です。そこでは国民あっての「国」というのではありません。「国家」を守るために先制攻撃できるだけの強力な武器を備えるべきだという要請です。恐ろしい発想です。
赤星鉄馬の父は薩摩藩出身の赤星弥之助。樺山資紀(かばやますけのり)、五代友厚といった薩摩人脈を背景。父の弥之助は、もとは磯永弥之助だったが、赤星家再興のために養子となった。
赤星とは、さそり座の一等星、アンタレスの和名、夏の南の低空に見える赤い星のこと。
弥之助は、西郷隆盛のはじめた西南戦争を無益だと批判して、薩軍に加わらず、妻子ともども桜島に避難していたという。そして、薩英戦争で活躍したアームストロング砲を扱う武器商人のアームストロング社の代理人となった。
本書の主人公の赤星鉄馬はアメリカに留学した。アメリカの日本人は、このころ急増した。明治13年に148人、明治23年に2039人、鉄馬がアメリカに渡った明治33年に3万4326人、10年後の明治43年には2倍超の7万2157人となった。このころ永井荷風もアメリカに渡り、4年間の滞米生活を『あめりか物語』に描いている。これも私は知りませんでした...。
ところが、父の赤星弥之助は、明治37年12月に50歳で亡くなった(癌)。鉄馬が22歳、アメリカにいるときのこと。それで300万円の資産を相続した。「大日本百万長者一覧表」で三井や浅野などの財閥の総帥と肩を並べている。今の300万円とは、まるで違うのですね。
アメリカから日本に戻り、1年の兵役もすませると、結婚し、新婚旅行として、世界一周旅行に出かけた。さすがに超大金持ちは発想が違いますね。28歳の鉄馬が美人の妻(21歳)を連れて、トマス・クックの手引きで世界一周旅行に出かけたのでした。そのころ、トマス・クック社は3ヶ月間で2340円の世界一周旅行を上流階級の人々に売り込んでいたとのこと。
大正3年(1914年)に起きたジーメンス事件で、鉄馬は何の関係もしていないが、マスコミは鉄馬の名前をあげて軍部と経済人の癒着を問題とし、世間が沸騰した。
鉄馬は父から受け継いでいた資産を売りに出した。それは、510万円(今の110億4千万円)にのぼった。このお金の一部で、「財団法人敬明会」を設立し、皇族などを表に立てた。
鉄馬はゴルフや釣りを楽しんだ。鉄馬は釣りが好きなことから、ブラックバス(魚)の日本への投入に積極的だった。今では、ブラックバスは肉食魚として嫌われものでしかありません。
この本によると、吉田茂は戦前、大勢のスパイに監視されていたとのことです。知りませんでした。男女3人が女中や書生に化けていました。陸軍中野学校出身者である東輝次軍曹は、吉田の動静を逐一、報告していた。吉田宛ての手紙も開封して持参のカメラで写しとっていた。
鉄馬は、1951年(昭和26年)11月に69歳で亡くなった。
この本を読むまで、まったく知らなかった人の人生の一端を知ることのできた本です。
戦争で人を殺すのが金もうけにつながるというのは信じられないことですが、実際に、そうやってぜいたくな暮らしを過ごしているのですね...。許せませんが、今もそんな人たちが大勢いるのでしょう。
(2019年11月刊。2500円+税)

2020年8月28日

告白


(霧山昴)
著者 川 恵実 、 出版 かもがわ出版

岐阜・黒川の満蒙開拓団73年の記録というサブ・タイトルのついた本です。2017年8月に、NHKのEテレ特集が本になったものです。衝撃的な内容です。
岐阜県の黒川開拓団650人は日本敗戦に孤立し、中国人から襲撃されていた。そこで、開拓団が生きのびるため18歳以上20歳前後の未婚女性15人をソ連兵に差し出し、「性の接待」をし、そのおかげでソ連兵から護衛され、食糧などをもらって1年間生きのび、650人の団員のうち450人が日本に帰国することができた。
このとき「接待」した当時20歳の女性が顔と名前を出して、証言したのです。
黒川開拓団が入植した場所は、ハルピンと新京の中間あたり。開拓団に行った人は、日本でも生活に困窮していた人々。国策に応じて村をあげて満州に渡った。黒川開拓団の隣の開拓団は敗戦直後に270人が全員自決したところもあった。
黒川開拓団でも自決しようという声は強かったが、生きて日本に帰ろうと呼びかける人がいて、まとまった。そして、中国の匪賊を追い払ってもらおうとソ連兵に助けを求めに行った。
お母さん、お母さんって泣くだけ...。医務室に行くのも恥ずかしいよ。洗浄してもらうじゃない。子どもが出来たら困るのと、病気が移っちゃ困るのと...。
15人の女性のうち4人が性病や発疹チフスで命を落とした。
この本を読んで救われるのは、日本に帰国してから、開拓団仲間などと結婚し、子どもをもうけて、苦労しながらも幸せに暮らしたことが写真とともに紹介されていることです(もちろん、映像でも紹介されたことでしょう)。
ただ、日本の子どもたちに戦争の苦労の話をするときに、さすがに「性の接待」の話はしなかったとのこと。それはそうでしょうね、ちょっと難しすぎますよね...。
貴重な歴史記録を映像と写真で生々しく伝えてくれる本でした。目をそらしたいけれど、目をそむいてはいけない重たい歴史です。一読をおすすめします。
(2020年3月刊。2500円+税)

2020年6月30日

河口慧海


(霧山昴)
著者 高山 龍三 、 出版 ミルネルヴァ書房

河口慧海(えかい)の『チベット旅行記』(講談社学術文庫)を読んだときには、その圧倒的な迫力に、ついたじたじとなってしまいました。禁断の地、チベットに苦労して入り、修行し、仏教問答をする求道士の姿に接し、ただただ呆れ、驚嘆したものです。
この本は河口慧海に関する総合文典のようなものです。驚くのは、1929年生まれの著者自身が1958年ころ1ヶ月も現地を歩き、チベット人村に滞在したことがあるということです。したがって、土地勘があるわけです。これは、やはり違いますよね...。
「探検記」としてもてはやされた『チベット旅行記』によって、多くの読者はこの本を探検談としても評価したが、本当は仏教の書として読んでほしいと著者は願っています。
河口慧海のチベット探究の目的は、真の仏教を求めたものだった。
河口慧海は、明治になる2年前の1866年、堺に生まれた。長男であり、小学6年生のとき、父の意向で退学し、家業である桶樽づくりの仕事を手伝った。それでも、勉学を志し、夜学校や晩晴書院などで勉強した。
そして、15歳のとき、慧海は、釈迦の伝記を読んで発心した。酒、たばこ、肉食をしない、女性に近づかないという三つの誓願を生涯にわたって実行した。
27歳からは、午後は食べない、非時食戒(ひじじきかい)という戒律を守り、それを守った。昼までにお茶を沸かし、麦こがし粉をバターや植物油とともにこねて食べた。一日一食主義だ。
1897年6月、友人有志からもらった530円をふところにしてチベットに向かった。この530円というのは、今のお金だといくらになるのでしょうか...。
インドに着くと、ヒマラヤ山麓の地で、チベット語とくに俗語の習得につとめた。
慧海がチベットのラサに到着したのは、日本を発って4年後、チベットに入って8ヶ月後だった。慧海はインドからまずネパールに密入国した。1899年1月のこと。ネパールの山村に1年半滞在し、モンゴル人のラマ僧からチベット仏教と文法を学び、チベット人のあいだで生活して、習慣を身につけ、風土順化した。すごいですね...。ずっと1日1食なのですよ。もちろんネパール語も勉強しています。
ネパールでは、外国人を部屋に入れたり、一緒に食事するのが禁じられていたので、家の外、岩の下、森の中で夜を明かさなければならなかった。
厳しい戒律を守る慧海は、村人から尊敬され、何人もの村人に授戒を受けさせた。村に居着いてもらおうと、慧海に娘を嫁にしてもらおうとした村長もいたようです。
慧海は、チベット人の風俗習慣を身につけるだけでなく、石を背負って山登りのトレーニングまでしたのでした。いやはや、なんとすごいこと。35歳のことです。
国境の峠で昼食をとる。背負っている荷をおろし、袋から麦こがしの粉を出して椀に入れ、それに雪とバターを加えてこね、トウガラシと塩をつけて食べる。これがチベット人のもっとも普通の食べ物だ。慧海は、これを「極楽世界の百味の飲食(おんじき)」と表現した。このあと、午後は、一切食べないのです。ああ、なんということでしょう。空腹に耐えるのも修行のうちなのです。
慧海はチベットのラサに滞在しているとき、二の腕の骨の外れた小僧を直してやったことから、それが評判となって「にわか医者」(セライ・アムチ)と呼ばれるようになった。地元の医者たちが、仕事を奪われて報復してこないか心配されたというのですから、並の評判ではありません。
1903年5月に慧海は無事に日本に帰国したのですが、それからは一躍、「時の人」として注目を集めたようです。それでも、日本国内よりも、ヨーロッパで高く評価されていたのでした。
南方(みなみかた)熊楠という明治の人物も突出した偉人ですが、私には河口慧海も同じようにケタはずれの人物だと思えます。このような先人がいるのを知ると、日本人も満更ではないと思え、少しばかり安心もします。なにしろ、無知・無能のくせに威張りちらすことにかけては天下一品のアベ首相とその取り巻き、そして50%前後の支持率を「誇る」という状況にガッカリさせられる毎日なのですから...。
(2020年1月刊。3800円+税)

2020年6月17日

民衆の教育経験


(霧山昴)
著者 大門 正克 、 出版 岩波現代文庫

戦前の日本の子どもたちと学校との関わりが明らかにされています。
「生活極めて困難故に本人を要す」
これは戦前の小学校の内部書類にくり返し出てくる文章だというのですが、私はとっさに何のことやら分かりませんでした。要するに、生活が大変なので、子どもを学校にやれない、不就業を認めてほしいという申請書にある文章なのです。
その理由は、さまざまです。小さい弟妹がいる、病人がいる、一家多人数、年寄りがいる...。ところが、「戸主54歳」とか「戸主人力車夫」というのもあり、いったいこれは何なのか...。
ともかく、生活するに子どもが必要なので、学校にはやれないという申請書を出して、それが認められていたのです。これは、東京都下の田無(たなし)町の小学校のことで、ときは日清(1894年)、日露(1904年)戦争のころのことです。
長野県の五加村では、日清・日露戦争のころ、女子の未就学が減少し、男子だけでなく、女子も6歳になると小学校に通うようになった。ところが、日露戦争のころには、家計補助や子守を理由とした女子の中途退学者が膨大に出現し、女子の多くは卒業を待たずに尋常小学校をやめていた。
初等教育の定着は、むしろ農村で先行して、大都市では遅れた。
明治期の小学校では、日ごろ、教室で、「国家有為の人物」になる必要性をくり返し説かれていた。
山形県豊田村では、1931年ころ、白米を食べる農家が一般的であり、副食物は自家栽培の野菜で、肉類や魚が食卓にのぼることはまれだった。食事は銘々膳を用いる農家が多く、飯台(ちゃぶ台)を使うのは非農家の俸給生活者くらいだった。
日光や灯火が少なく、暗い室内で作業したり本を読み、家の中には煙が立ちこめているため、子どもをふくめて一家全員がトラホームにかかっている例が少なくなかった。
東京市内の農家の女性は農家に嫁ぐことを嫌い、農家の青年が結婚しようとすれば、遠方の農村から相手を探さなければならなかった。農家の親のなかにも、娘を農家に嫁入りさせたくないというのもいた。
下層農家の女子まで、農家に嫁ぐことを好まず、女中や女工として都市にはたらきに出ることが増えた。
東京の中野駅近くにあった桃園第二尋常小学校では、1931年9月の柳条湖事件に始まる満州事変のあと、子どもたちは、「らんぼうな支那」、「我が(日本軍)兵士は、実に正義のために今、寒い満州で意地の悪い支那人と戦っている」と書いた。「らんぼうな中国」に対する、「正義の日本」という対比です。学校は満州事変のころの民衆動員の有力な場となっていた。
戦前、戦中の子どもたちの実像を知ることのできる貴重な文庫本です。
(2019年9月刊。1420円+税)

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー