弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年7月23日

兼好さんの遺言

日本史(鎌倉時代)

著者  清川 妙    、 出版  小学館

 いま90歳、現役の講師として活躍中の著者による、読んで元気の出る本です。
 たったひとり、灯火の下に書物をひろげて、自分が見たこともない、遠い昔の人を心の友とすることは、このうえもなく楽しくて、心が慰められることだよ。
 人、死を憎まば、生を愛すべし。
 存命の喜び、日々に楽しまざらんや。
 人の命は、雨の晴れ間をも待つものかは。
 明日をも予測できない生命。死は背後からそっとしのび寄り、無警戒の人をつき落とす。雨がやむまでも待っておれない。いま、この瞬間、一刹那が大事。
 以上、いずれも兼好の言葉です。いいですね。
 著者は40歳のときに物書きとなりました。
 緊張と集中と、強い意思を求められる日々。だけど、原稿を書き終えたあとの達成感と充実感は、何ものにも換えがたい。生きているという実感が心身にみなぎる。
 そうなんですよね。私も目下自分の体験をもとにした小説に挑戦中なんですが、これを書いて考えているときには、生きている、60数年を生きてきたという実感があります。
 カルチャーセンターで講義を受けるとき、講師とは一対一だと思うべし。他の人は意識から消し去ること。自分ひとりが講師と向きあう、個人レッスンだと思わないといけない。そして、頭に浮かんだことを、素直に言葉にして講師と対話すること。
 なーるほど、ですね。そうなんですか。今度、私も、フランス人の講師とそんなつもりで話してみましょう。
 生きている、そのこと自体が、魔法のように不思議なこと。
 死という、目には見えない、しかも動かぬ定めを、創造力という心の目でしかと見定め、覚悟をもとう。そして、この世にある間は、いのちを大切にして、ひたすら生をいとしみ、この世の日々を充実させて生きようではないか。
 花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは・・・・。
 年を重ねてくると、その智恵は若いときよりまさる。それは、若いときには、その容貌が老人にくらべてまさっているのと同じことなのだ。
 むむむ、なるほど、まったくそのとおりです。これも私が年を取ったから同感できる言葉です。
 物事には、確かに潮時がある。しかし、本当にやりたいことがあるのなら、潮時なんて考えるな。やりたいと思ったときこそ、潮時なのだ。人生はたった一度しかないのだから・・・。
 「徒然草」の原文を読み返してみたくなりました。本当にいい本でした。90歳になっても、こんな本を書けるなんて、実に素晴らしいことです。心から拍手を送ります。

(2011年6月刊。1300円+税)

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2011年7月22日

世界史をつくった海賊

ヨーロッパ

著者  竹田 いさみ    、 出版   ちくま新書

 イギリス、昔の大英帝国は海賊と深いつながりがあったどころか、そのおかげで世界を支配してきたことがよく分かる本です。
世界経済を長く牛耳ってきたイギリスの金融街ザ・シティは、そもそも海賊出身者が金融を動かしてきたもので、海賊ビジネスの元祖である。
 フランシス・ドレークはイギリスを代表する超大物の海賊であり、スペインやポルトガルを相手に略奪の限りを尽くした略奪王にほかならない。このドレークは女王エリザベスⅠ世からないとの称号を与えられたが、それは略奪した財宝によってイギリスに多大の富をもたらしたことによる。
 スペイン支配下のカリブ海へ大量のアフリカ系黒人を密輸したのもイギリスの貿易商人だった。そのとき、エリザベス女王が権力者、黒幕、投資家として常に登場してくる。これらの出来事に深く関与し、先兵として働いていたのが海賊である。現在、保険会社として世界に君臨するロイズ、高級紅茶として知られるトワイニングも、かつては海賊と切っても切れない関係にあった。
 海賊はエリザベス女王時代の経済的基盤を支えただけでなく、いざ戦争となると特殊部隊として参加し、イギリスを戦争の勝利者へと導いた。海賊は国家権力と一体化していて、海賊の存在なくしてイギリスが世界史に残る偉業を遂げることはなかった。
 エリザベス女王にとって、海賊は利用価値の高い集金マシーンと認識されていた。エリザベス女王がドレークをひいきにした最大の理由は、ドレークが巨額の利益をもたらしたからである。少なくともイギリスに60万ポンドをもたらし、エリザベス女王は半分の30万ポンドを懐に入れた。当時の国家予算は20万ポンドだったから、実に3年分の国家予算に匹敵する海賊マネーをイギリスに持ち帰ったことになる。
ドレークは単なる探検家ではなく、海賊としての能力と実績がある。献上品の大半は盗品、主として、スペイン船から略奪した金と銀である。
 ドレーク海賊船団の生還率は高く、乗組員164人のうち100人が生還している。ドレークの略奪対象は、金と銀のコインや延べ棒が中心で、これに加えて大量の砂糖やワインを含んでいた。
 イギリスの海賊船団といえども、スペイン護送船団を襲うだけの力量はなく、護送船団の枠外で航行しているスペイン船を待ち伏せしてゲリラ的に襲撃していた。ドレークたちは、そのため綿密な情報収集を行っていた。イギリス側は、スペインのスパイが常駐していることを十分知り尽くしたうえで、策を講じていた。
 エリザベス女王が海賊に関与している証拠を残さないよう最新の注意が払われていた。ドレーク船団のなかでも、ドレークのみが航海の目的とルートを知っていて、情報管理に心がけていた。たとえ海賊シンジケートが失敗に終わっても、女王に責任が及ぶことのないよう、闇に葬られた。
 ドレーク海賊船団には、女王を筆頭に側近グループがこぞって出資しており、まさに国家を総動員した一大プロジェクトであった。
イギリスがスペインの無敵艦隊に勝利したのも、ゲリラ戦、スパイ戦、そして海賊作戦という三つの戦術をたくみに組み合わせることが出来たからである。ドレークたち海賊とイギリス王室海軍は一体化していた。
 西アフリカで調達した黒人奴隷をカリブ海のスペイン植民地にこっそりと、しかも組織的に密輸するルートを開発した主人公には大物海賊のジョン・ホーキンズだった。そして、ホーキンズの奴隷貿易計画を主導していたのは、ほかならぬエリザベス女王だった。イギリスが奴隷貿易に関与したのは1560年代であり、イギリス議会が奴隷貿易を廃止したのは1807年。奴隷の密輸は、そのあともしばらく続き、最終的に廃止したのは1833年だった。つまり、イギリスは16~19世紀、270年間にわたって奴隷労働を延々と行ってきた。この間、1000万人以上の黒人奴隷がカリブ海や南北アメリカ大陸に売却され、イギリス、ポルトガル、フランスなどは奴隷労働で潤った。貧しい二流国家であったイギリスが豊かな一流国家へと変貌する過程で奴隷貿易による利益が大きな役割を演じたことは疑いのないところだ。
 うひょう、イギリスって紳士の国というイメージがありましたが、実は海賊の国であり、奴隷商人の国だったのですね・・・・。
(2011年3月刊。760円+税)

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2011年7月21日

アメリカの公共宗教

アメリカ

著者    藤本 龍児  、 出版   NTT出版

 宗教の熱は、自由と知識の増大とともに否応なく消え去る。これは、19世紀フランスの社会哲学者トクヴィルが当時のアメリカを観察して導いた命題です。私は真理ではないかと思うのですが、現実は必ずしもそうとは言えません。
このトクヴィルの理論は、現在における事実に合致していない。アメリカでは、宗教右派が全人口の15~18%を占め、大統領選挙の帰趨を左右する勢力となっている。福音派は全人口の30~40%を占め、高学歴・高収入の人々の4分の1が自分は福音派だと答えている。
 オバマ大統領は就任演説において、神を信仰する人々だけではなく、信仰をもたない人々をもアメリカ国民としてかぞえあげた。就任演説という公共性のきわめて高い場で、アメリカ大統領が信仰をもたない人々にまで言及したのは異例のことである。
 現代のナルシズムは、屈折したかたちではあれ、他者を必要とする。ナルシストは、喝采を送ってくれる聞き手がなくては生きてゆけない。
 原理主義は、もともとはイスラムではなく、アメリカのプロテスタント神学の一潮流として生まれた。原理主義という思想や世界観は、1910年代から1920年代にかけてアメリカで生じてきた。世界中で原理主義がテロをあおり立てていて、とても危険な状況をつくり出しています。宗教者って、宗派を問わず、もっと他人に寛容であってほしいものです。
 イギリスにおける宗教改革は、ヘンリー8世の離婚問題という、主に世俗的な理由から始まった。分離派の一部の人々は、1608年弾圧を逃れてオランダへ渡り、次いで1620年にアメリカへ巡り来た。ピルグリム・ファーザーズである。しかし、その乗船者の半数以上はピューリタンではなかった。メイフラワー号には、経済的な余裕がなかったので、聖徒だけではなく、よそ者が乗船していた。
 分離派のピューリタンは貧しい農民や労働者だったのに対して、非分離派のピューリタンは富も地位も持っていた。この非分離派のピューリタンは、あくまで自分たちの信仰の自由を認めたのであって、信仰を異にする人々の信仰の自由までは認めず、それどころか迫害までした。
 ワシントンやジェファーソンなど、独立革命の指導者が持っていた思想は、ピューリタニズムではなく啓蒙主義だった。建国の父たちをはじめ、現在のオバマ大統領に至るまで、神に言及していない大統領は皆無であるが、同時にキリストの名に言及した大統領も皆無である。そうすることで、多様な人々が、多様な神のイメージをそこに読み込むことができるようにしている。
 アメリカで政教分離とは、あくまで国家と教会との分離のこと。アメリカにおける政教分離とは、政治と宗教の分離でもないし、国民と宗教の分離でもない。その理念は、あくまで国家が特定の宗教と深くかかわってはならないことを意味するだけで、政治的領域に宗教的次元があることを否定してはいない。
 リンカーンは、アメリカ史上もっとも宗教的な大統領であるとされるが、実際は、一生を通じて洗礼を受けたことはなかったし、どの宗派にも属していなかった。人民の、人民による、人民のための政治というリンカーンの言葉は、アメリカにおいては、神の後ろ盾なしには成り立たないものである。
こうなると、アメリカって日本人の私たちからすると、まるで変てこりんな国としか言いようがない気がします。こんなことを言うと怒られるのでしょうか?
(2009年11月刊。2800円+税)

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2011年7月20日

TPPで暮らしと地域経済はどうなる

社会

著者    にいがた自治体研究所  、 出版   自治体研究社

 3月11日までは日本政府はTPPに今にも参加する勢いでしたが、この点は幸いなことにも頓挫してしまいました。もちろん、いまでも日本の農業自給率の維持・向上なんて必要ない、食料はお金出して買えばいいという意見もマスコミの世界では大手を振ってまかり通っています。でも、本当にそうなんでしょうか・・・。この本はその点について十分に考える材料を提供してくれています。
 TPPは農業の問題と狭くとらえられがちだが、農業だけにとどまらず、最終的には消費者、国民あるいは地域経済をまるごと切り捨てていく、多国籍企業主導のグローバル資本主義の問題としてとらえることが大切だ。日本では、農産物以外の関税はほぼゼロなので、農産物以外の分野は、関税以外の、非関税障壁といわれる部分をいかに開放するかが論点になる。衣料品や工学製品、知的財産権そして通信、投資、労働なども対象に入ってくる。
 現在のコメ市場においては、家庭向けの主食用のコメは全体の半分を切っており、残りは加工用や業務用などなので、そこは完全な価格競争の世界だ。
給料を減らされると、その分だけ消費支出の減少につながる。消費が減ると、産業の産出額も減ってしまう。日本の輸出依存度は世界的にも低いほうで、GDPに占める輸出額は17%前後である。むしろ日本は83%の内需に支えられている。しっかりした内需のあることが日本の強みなのである。
 大資本系列の大型店は、本店がほとんど東京や大阪などの大都市にあり、利益は本店でカウントされるため、地域の自治体に納められる税金はほとんどない。
 いま、世界的には餓死人口が10億人にものぼる。その中で世界一の食料輸入大国である日本の責任は重大だ。本来自給の可能なコメにおいても、飼料用をふくめると穀物自給率は27%にすぎない。
 日本は「鎖国状態」にあるどころか、実は開かれすぎていて、瀕死の状況に追い詰められているのが現実である。むしろ、食料については、ヨーロッパのように食料主権を確立すべきである。持続可能な国民経済をつくる方向こそが、現代日本にとって重要な戦略的課題となっている。農山村の荒廃から国土を救い、農林業を振興することで食料とエネルギーの自給率を高め、食料安全保障やエネルギー主権を確立するだけでなく、国土保全効果を高め、世界最大の資源輸入国の汚名を返上して地球環境問題に貢献することにもつながる。
 全国各地にシャッター通りが見られ、休耕田ばかりが目立ち農業が疲弊している現状を、国民みんなの力で変えたいものです。ショッピングモールに行けば何でも「安く」買えるというのは、まったくの「幻想」なんですよね。足下の日本農業をもっと大切にしたいものです。わずか160頁足らずの薄いブックレットなので、ぜひ、ご一読ください。
(2011年3月刊。1429円+税)

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2011年7月19日

エベレスト登頂請負い業

アジア

著者    村口 徳行  、 出版   山と渓谷社

 高さ8848メートル、世界最高峰エベレスト。チベットの人々は昔からチョモランマと呼ぶ。母なる女神の意味だ。
 今やエベレストは大衆化に向かい、多くの人々が登頂できる時代になった。世界一という分かりやすい標高が多くの人々を惹きつけ、人生に目的を与え、なんとか努力することで叶う最高の目標としてエベレストがとらえられるようになった。そうなんですか、エベレストって大衆化してるんですか・・・。
 はるか遠い昔、エベレストは海の底だった。インド亜大陸とユーラシア大陸が北緯10度近くで衝突をはじめたのは始新世のことで、それ以降5000万年にわたって続いた衝突の結果、両大陸の地殻は水平距離で2500キロ以上も短縮し、対流圏上部に達するヒマラヤ山脈を誕生させた。かつて浅い海で大繁殖していたウミユリ、三葉虫の化石も発見された。つまり、チョモランマの頂上付近は、海の深い場所ではなく、波打ち際の浅い海、4億8000万年前の渚だった。
人間は5000メートルをこえては定住できない。子孫を残していけるぎりぎりの高さだ。チョモランマの麓、サロンプ村、もはや農作物もとれない4800メートルの高地に43世帯、
292人が暮らしている。ヤクからバターをもらい、その糞を燃料にして暖をとる。トイレすらない。
 悪い環境で長期間にわたって他人と生活をともにするときには、できる限りプライベートを守ってあげることに気をつける。なるべくストレスを翌日に抱えないためには、個人用のプライベート・テントが有効だ。自分だけの空間は、どんなに小さくても最高に居心地のよい住処となる。
 登頂を終えたら、さっさと下りるのがヒマラヤ登頂の鉄則だ。長い時間、滞在する場所ではない。体が冷えてくる。冷たい風が気になる。
 酸素がいかに重要かという問題を抜きにして、高所の登山は成りたたない。ベースキャンプは5300メートル。順応のできた体なら、そこで数日のんびり過ごすことで休養はとれるし、疲れた体を回復させることは可能だ。もう一歩ふみ込んで、さらに高度を下げることで回復力がもっと早まっていく。
高所での歩行速度は、その人の状態を簡単に見分けることのできるバロメーターとなる。
 風は体温を奪い、著しく、消耗させる。体の機能がもっとも大きなダメージを受けはじめる4000メートルへの順応が大切だ。健康な人間は、3000メートルから低酸素の影響を受け、個人差にもよるが、頭痛、微熱、食欲不振、嘔吐、下痢などの症状があらわれてくる。それを通過しないことには先へ進めない。それが高所登山の厄介なところだ。だから、なるべくうまく高山病にかかってあげることが大切だ。4000メートル前後から、2ヵ月にわたり高山病とのたたかいが始まる。6450メートルの高度では睡眠不足に陥る。この高度は横になっていればそれでいいと考えるべき。人間の体はよく出来ている。眠れないというのは、体が眠らせないように反応しているのだ。眠ることによって呼吸数が減り、酸素の取り入れ能力が落ちてくる。それを避けるために、眠らせないという形で信号を送り、まだ環境に慣れていないということを伝える役目を果たしている。要するに、高所に順応できているかどうかを示すわかりやすいバロメーターなのだ。
 高所登山には有酸素運動が必要だ。上半身の筋肉を必要以上につけず、下半身の強化を意識するのが基本トレーニング。2ヵ月間がエベレストを登るためのおおよその目安だ。エベレストは、もっとも酸素の少ないところにそびえる山なのだ。酸素がないことが普通で、意識は常に見えもしない透明のなかに向かっている。順応すると赤血球が増え、酸素の運搬能力が高まるが、同時に血管が詰まりやすくなるという悩ましい問題が発生する。私には8千メートルの高度を目ざす登山家の心理はよく理解できません。
(2011年4月刊。1600円+税)

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2011年7月18日

大切な人のためにできること

人間

著者    清宮 礼子  、 出版   文芸社

 父親が突然、末期の肺がんと宣告されたとき、本人とそして家族がどう対応したのか、娘による心打つ記録集になっています。
 父親は、私とほとんど同じ世代です。大病したこともないし、なんだか調子が悪いと思いながら放っておいて、あるとき思い切って病院に行ったら、医師から即入院を命じられたのでした。どんなにかショックだったことでしょう・・・。
コホンコホンと変な咳をして、最近ひどく疲れるんだよなー、若いころに空気で鍛えたことで気力と体力には自信を持っていた・・・。
 がんは、早期発見したら打つ手はあるし、10年も20年も立派に生存できるが、末期のがんだと診断されたときの治療法は何にもない。
抗がん剤による治療の大変さも描かれています。
 61歳の若さで、まだまだこれからというとき、もしがんが告知されたら、無念さのなかで想像もでないほどとてつもなく酷なたたかいを強いられる。自分のために、家族のために、残された期のなかで、すべきことに命をかけて勇敢に立ち向かってくれる覚悟と精神力のある人だった。
 がん治療の選択は情報が命である。もっとも重要なのは、信頼できる主治医に担当になってもらえるかどうかである。ただし、これは、めぐりあわせが大きい。
 現在のがん治療は早期発見だと比較的完治しやすい。ステージが上がるにつれ、治療による奏効率は低くなり、これをすれば治るという正解がない。がんと共存しながら、少しでも長く、少しでも豊かに生きていく、という目的に向かった選択肢しか現実には残されない場合も多い。
 がん治療の選択は、患者と家族の生き方の選択である。がん患者のとって一番の大敵は、悲しい気持ち、不安な気持ちなど、マイナスの気持ちから発生する精神的ストレスである。だから、娘である著者は太陽のような笑顔で父親に接していた。
 なかなか出来ることではありませんね・・・。映画『おくりびと』のプロモーター(宣伝担当者)である著者による痛ましいけれど、心あたたまる本です。がんになったときの予習と思って読みました。
(2011年6月刊。1200円+税)

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2011年7月17日

チルドレン・オブ・ザ・レインボー

アメリカ

著者  高砂 淳二    、 出版  小学館 

 ハワイをめぐる素敵な写真集です。ともかく色がいいのです。みるみる眼と心が惹きつけられます。豊かな色彩のなか、動物も植物も、そして空と海までが生き生きと表現されています。
 残念ながらハワイ島には行ったことがありません。でもこんな豊かな大自然の真っ只中に自らの身を置いてみたいと思わせる躍動感あふれる写真集なのです。
 カラフルなヤモリの写真があります。ヤモリなら、我が家にも夜になると、台所の窓にいつもへばりついています。ハワイのヤモリは舌を出して、おどけてみせています。その愛らしさはたとえようもありません。
 小鳥たちもいます。ペットの小鳥たちが野生化したようです。仲むつまじいブンチョウのカップルは枝で身を寄せあっています。ほのぼのと心温まる情景です。
 海に行くと、巨大なマンタが悠然と海中を泳いで通り過ぎていきます。大きなクジラが海面に頭を出して、思い切り息を吐き出します。遊び好きのイルカは、ヤシの実をつかまえてキャッチボールをします。若いザトウクジラが寄ってきて、あんた、だーれと問いかけます。
日頃つい忘れかけていますが、私たちだって大自然の中にいきていることを実感させられる写真集です。
(2011年5月刊。2500円+税)

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2011年7月16日

までいの力

社会

著者  までい・特別編成チーム    、 出版  シーズ出版 

 福島県飯舘村の豊かな日常生活が紹介されている写真集です。あの3.11東日本大震災がなければ私などが目にすることもなかったでしょう。
 3.11のあと、この飯舘村は福島第一原発事故の放射能によって全村退避となっています。そのため、この写真にある村民の日常生活はあくまでも過去のものでしかありません。将来、再開できるのか、それはいつなのか、何年後か、いや何十年後なのか、まったくありえないのか・・・・、放射能被害とは、かくも恐ろしいものだと改めて実感させられます。そんな事態をまったく予測させない、平和で、のどかな、どこにでもあるような日本の農村風景が写真とともに紹介されています。
 私は飯舘村に行ったことはありませんが、福島の山のなかには弁護士になりたてのころに行ったことがあります。東京に出稼ぎに行った人が労災事故にあって、その企業の責任を追及する裁判を担当した縁でした。
 飯舘村に行くには、新幹線で福島駅に降りて、そこから車で1時間。ひと山、ふた山・・・いくつか越えて、激しいワインディングロードを上がりきると、高原にたどり着く。そこが高言の美しい村、飯舘村だ!
 飯舘村には、忘れられた日本の美しい風景が村のそこここに残っている。しかし、何よりの美しさは風景そのものではなく、そこに住む一人ひとりの村人の心の中にある。
 飯舘村の人口6000人。そのうち3人に1人はお年寄り。飯舘村は周辺の町村と合併しないで、「自主自立のむらづくり」を選択した。
「までい」とは、真手(まて)という古語が語源で、左右そろった手、両手の意味。それが転じて、手間ひま惜しまず、丁寧に心をこめてつつましくという方言になった。今風にいうと、エコ、もったいない、節約、思いやりの心、人へのやさしさである。そんな飯舘流スローライフを、までいライフとよんでいる。なーるほど、ですね。
 村には、1軒も書店がなく、図書館もなかった。そこで、全国的にも珍しい、村営の村屋が誕生。店のレジカウンターには、ご自由にと、いろんなアメ玉が置いてある。店内は立ち読みならぬ座り読みも大歓迎ということで、テーブルとイスが置かれている。読まなくなった絵本を飯舘村の子どもたちへ寄贈してくださいと呼びかけたら、なんと、10日間で1万冊の絵本が村に届いた。これって、すごいですよね。
 2010年夏、村では初めて村内産食材100%給食にチャレンジした。牛乳からみそ汁の味噌に至るまでのすべてを村内で生産されたものでまかなった。村産物の直送所は、村内に7ヶ所ある。
 こんなに工夫と苦労していた村が一瞬のうちに無住村になり、いつ戻れるかわからないという状況です。原発の恐ろしさを違った角度から、写真を眺めつつひしひしと実感させられました。飯舘村の皆さん、それにしてもお元気にお過ごしくださいね。
(2011年6月刊。2381円+税)

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2011年7月15日

フィデル・カストロ(下)

アメリカ

フィデル・カストロ(下)
著者    イグナシオ・ラモネ  、 出版   岩波新書

 キューバから27万人がアメリカに向けて脱出していった。1959年から62年にかけてのこと。これには医師、技術者などの知識人が数多くふくまれていた。その結果、キューバは専門職の欠乏に直面し、それに耐えた。彼らは、20倍も多い給料や物質的価値を求めてアメリカへ行った。キューバ政府は、教育面で甚大な努力を払うことによって専門職の欠乏に耐え、しのぐことが出来た。
 アメリカは、キューバからの不法移民を促進する法律をつくった。船や飛行機を乗っ取ってアメリカへ脱出しようとする者に、アメリカはあらゆる権利を認めている。これは犯罪を奨励しているようなものだ。逆に、アメリカ人がキューバを許可なく訪問したりすると、最高25万ドルの罰金が科せられる。それに企業がからむと、罰金は最高100万ドルにもなる。
 キューバ高官が汚職・腐敗で逮捕され、死刑に処せられた事件がありました(1989年)。そのことについて、カストロは次のように語っています。
 権力は権力だ。権力をもつものにとって、もっとも重要なたたかいはたぶん己とのたたかい、自分自身を統御するたたかいだろう。それは、恐らく、たたかいのもっとも難しい部類に属す。その高官たちは麻薬密輸業者と取引していた。コロンビアのエスコバルから海上で6トンもの麻薬を受けとってアメリカに運ぶという話だった。そして、彼らは、それがキューバに役立つと信じていた。
 この事件では高官たち4人が反逆罪で有罪となり、銃殺刑に処せられたのでした。
カーターは、カストロの知るもっとも良いアメリカ大統領だったと高く評価されています。そして、エドワード・ケネディについても、文句なしに才能のある人物だとされています。
 キューバには政党が一つしかなく、反体制派がいて、政治囚がいるという批判に対して、カストロは次のように弁明しています。
 我々は唯一の政党ではなく、世界で一党制を維持している唯一の国でもない。
チリのアジェンデとベネズエラのチャベスについて、クーデターに対する対処法のアドバイスが違っていたとカストロは語ります。
アジェンデには兵士が一人もいなかった。チャベスは陸軍の兵士と士官の大部分、とりわけ若い兵士をあてにすることが出来た。だから、カストロは、辞任するな、辞めてはならないと伝えた。
これに対して、アジェンデに対しては抵抗するよう伝えた。アジェンデは誓ったとおり、英雄的に死んでいった。
キューバには、現在、1959年当時に残っていた医師の15倍もの医師がいる。このほか、何万人もの医師が世界40ヶ国で無料で働いている。キューバ人医師は7万人いて、医学生は2万5000人いる。医学関係の学生総数は9万人にもなる。今、キューバは世界一の医療資本を築こうとしている。
 幼稚園から、9学年までの通学率は99%。生徒一人あたり教師の多さと一学級平均の生徒数の少なさは世界一だ。国が報酬を与えながら教育する制度が17歳から30歳まである。博士課程まで、誰でも一銭も払わずに教育を受けられる。革命前の30倍もの大学卒業者、知識人、職業芸術家がいる。芸術学校で2万人の若者が学んでいる。
キューバ人民の85%は住宅の所有者で、住宅に関連する税金はタダ。残り15%は、月給の10%の格安賃料を支払うだけでよい。
 キューバに行ったことはありませんが、アメリカのマイケル・ムーア監督の映画『シッコ』にも出てきましたが、キューバの医療水準は高くて無料だというのですから、日本人からすると夢のような話です。国家経済は大変ですし、決して豊かな生活を人々を過ごしているということでもないようですが、安定した生活が続いていることは間違いないところでしょう。
 キューバのカストロの話を一度聞いてみるのもいいことだと思い、紹介しました。
(2011年2月刊。3200円+税)

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2011年7月14日

戦後日本の防衛と政治

社会

著者    佐道 明広  、 出版   吉川弘文館

 戦後の日本には、自主防衛論対日米安保中心論の対立があった。それは中曽根内閣の成立したあと、安保中心主義で定着した。日本の場合は、政軍関係というより、むしろ政官軍関係と呼ぶべきである。政治家と官僚と制服である。
 航空自衛隊は、過去とのつながりはほとんどなく、防衛政策への影響も少ない。文官優位システムは日本独自のものであり、それが固定化していった。それは、同時に、日米安保中心主義が日本の防衛政策の基本方針となり、制服組の意見も封印されていく過程だった。
岸信介は、他国の軍隊を国内に駐屯せしめて、その力によって独立を維持するというのは真の独立国の姿ではないと言った(1954年)。改進党は、在日米軍を撤退させるためにも自主防衛を主張した。自由党も、在日米軍の撤退を視野に入れた防衛構想をつくらざるをえなかった。
海上保安庁が発足するとき、旧海軍の士官1000人、下士官・兵2000人の計3000人が採用された。海上保安活動には高度の専門知識と技術が必要なため、GHQも旧軍人の採用を許可せざるをえなかった。このときの旧海軍軍人グループが海上自衛隊の創設にあたっても大きな役割をはたした。
 戦後の旧陸軍軍人の動向と比較して、旧海軍軍人グループの顕著な特徴は、野村や保科を中心に非常にまとまりが良かったことにある。彼らは対米関係を非常に重視していた。旧海軍グループは、国会議員となって、自民党組織の内部に勢力を築きあげていった。戦前との連続性の点では、海軍のそれは陸軍に比べて圧倒的に大きい。
陸上自衛隊のなかで、服部グループの影響力はなきに等しかった。警察庁予備隊の創設以来、新組織の中核に座ったのは、旧内務省の警察官僚だった。内局の人事権は、長官官房が握っていて、制服組から内局幹部職員が任用されることはなかった。
 防衛庁長官や国務大臣といえども、専門性の高い防衛問題については内局官僚に全面的に依拠せざるをえない。防衛政策の作成における内局文官の優位性が一層高まった。
 60年安保騒動における自衛隊出動には、3つの重要な問題があった。第一は、政治家の方に出動論が強かった。第二に、これ以降、陸上自衛隊の中心課題に治安維持対処が置かれるようになった。第三に、その一方で、治安対策の中心は警察となった。
 1960年7月、「防衛庁の広報活動に関する訓令」が定められ、これを契機に防衛庁の広報活動が活発に行われるようになっていく。防衛庁の広報活動は、自衛隊に対する管理と並んで重要な仕事になった。このような活動によって、1960年代に自衛隊は国民の間に定着していった。
 1960年代に防衛問題で中心的な存在であった保科善四郎と船田中は、いずれも防衛産業と密接な関係をもっていた。長い議員歴をもち、防衛庁長官にもなった経歴の船田と、元海軍中将という軍事専門家であり国防部会の中心的存在である保科の組み合わせを基軸に、自民党国防族は防衛産業と防衛関係省庁のパイプの役割を果たしていく。自主防衛の内容は、実は防衛装備の国産化を意味していた。防衛装備国産化の推進は、防衛産業の強い要請であり、自民党国防族もこれを熱心に主張していた。
 防衛庁は、二次防策定後、自衛隊に対する管理官庁としての性格を強めていた。それに対して、本来なら財政の面から防衛予算の策定に携わる大蔵省が防衛政策の基本問題を議論するという、防衛庁と大蔵省の逆転現象が起きていた。
 二次防との最大の相違点は、三次防が海上防衛力について大幅な増強を認めているという点であった。日本の防衛力整備は、三次防において、治安・本土防衛中心部隊から日米共同作戦実施の可能性をもつものに変化した。このような防衛力整備方針の変質を象徴する出来事が「海原天皇」とまで言われていた防衛庁きっての実力者であった海原治の失脚だった。海原の国防会議への転出は、防衛庁内局の中心が、旧内務省出身で旧軍勢力の復活を危惧して制服組の権限をなるべく抑制しようとし、結果として防衛庁の管理官庁化をもたらした防衛官僚第一世代というべき存在から、自衛隊の役割を広い視野から考えるとともに主体的に防衛政策を立案しようとする次の世代に移行しつつあることを象徴する出来事であった。
 1960年代は、一貫して陸上自衛隊の基本的方針は間接侵略対処であった。海上防衛論を唱えた者も間接侵略への対処を基本に置いていた。冷戦下で核による恐怖の均衡が成立しており、全面戦争の緊張は緩和されているとみた。この傾向は70年代に入っても変わらなかった。
 中曽根は自衛力整備による在日米軍の撤退を主張した代表的な論者の一人であった。ナショナリズムのシンボルとしての基地問題は、中曽根にとって一貫して重要な問題であった。しかし、結果として中曽根構想は挫折した。
日本全体(ただし、沖縄は除く)で大幅な基地の整理縮小が1970年代末までに実現した。これによって、それまで反米ナショナリズムの象徴となった基地問題は(本土では)ほとんど解消した。このこと意味は大きい。
四次防再検討の主導権を海原治が掌握したことで、「国防の基本方針」にのっとって日米安保制を基軸にしたものとなり、中曽根構想にあった自主性追求の部分は、ほとんど姿を消した。実質的に三次防の延長としての整備計画となった。自主か安保かといった日本の防衛政策の基本方針をめぐる議論は、ここで再度封印されてしまった。
 「防衛計画の大網」(旧大網)の策定にあたって、もっとも大きな役割を果たしたのは久保卓也だった。久保理論においては、基盤的防衛力構想は、きわめて重要な位置を占めている。我が国に対して差し迫った脅威があるとは考えられないが、潜在的な脅威に備える必要があるというものである。基盤的防衛力構想は、「抑制力あるいは規制力」という概念とともに語られる。日本自身の防衛力の前提となる防衛の対象が限定局地戦であった。この限定局地戦に対応した防衛力整備の基本方針が基盤的防衛力構想であった。基盤的防衛力の構想は日米安保体制による抑止が継続するという発想に立っている。田中角栄は防衛力の増強は、四次防で打ち止めにしたいという意向を示した。
 1970年代半ばから、自衛隊OBの対照的発言がさかんになっている。これは坂田防衛庁長官が自衛隊員が積極的に発言することを奨励した結果である。
 ガイドラインの中身を決める作業に制服組が参画した。政治家による防衛論議が極度に減少したのをはじめ、防衛庁のなかでも制服組の立場が上昇した。もはや、1950年代や60年代のように、文官が制服を押さえ込んで文官だけですべてを決めることはできなくなった。
 日本の戦後の防衛政策の変遷を正面から分析した貴重な本だと思い、十分に理解は出来ませんでしたが、ここに紹介します。
(2003年11月刊。9000円+税)

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2011年7月13日

岐路に立つ中国

中国

著者    津上 俊哉  、 出版   日本経済新聞出版社

 いつのまにか中国は面目を一新するような発展を遂げ、2010年には、とうとうGDPで日本を抜き、世界第2位の経済大国に躍り出た。中国台頭は、いまや異論を差しはさむ余地のない現実となった。いま起きていることは、国有企業レネッサンスであり、いまや中国企業は、「官の官による官のための経済」の様相を呈している。
中国の学校で排外主義を教えるのは決して中国共産党が最近になって始めたことではなく、戦前から一貫している。むしろ、共産党の都合で「愛国・排外教育」をやっているのではなく、共産党もまた歴史のトラウマとタブーの呪縛の下に置かれているということだ。 中国人は、過去何百年にわたって、妥協は投降であり、売国だという歴史観のなかで育ってきた。
言論統制の根底にあるのは、社会の混乱への恐れだ。歴史のトラウマのせいで、国家利益に関わる問題で弱腰な姿勢・発言をすれば、漢奸(売国奴)として糾弾されるという不安感が今も中国人に根強く残っている。
 統一口径とは、中国という国が分裂し、外部から干渉を受けてしまった民族の痛恨の記憶から生まれた教訓、そうしないと国が不利益をこうむるという「弱い中国」の時代の自衛的心理を反映している。
 農民は、新中国に大きな貢献をしたのに、一貫して都市住民とは差別された二等公民と扱われてきた。中国の多くの都市では、農民の都市戸籍への移動に道を開いているものの、「持ち家が条件」と高い経済ハードルを課している。その根拠の大きなものは、財政負担だ。農民を都市住民に組み込むことには、巨額の財政負担をともなう。
上海の都心にたつ100平方メートルの内装済みマンションは、5000万円から1億円もする。東京と変わらない。
 いまの中国にカネがないわけではない。高度経済成長は中国の国富を飛躍的に増やした。いま、それが政府や国有企業など、広い意味での「官」にたまっている。この国富をもっと「民」に移すことが課題となっている。この数年の中国経済をみると、最大の勝ち組が政府であることは疑いない。この10年あまり、中国の国有企業は、ほとんど国庫に配当を納めてこなかった。
共産党や政府が昔ほど国民を抑圧しなくなり、国民も昔ほど党や政府を恐れなくなった。
 中国にとってより切迫した問題とは、共産党に権力が集中し、これに対する監督(チェック)のメカニズムがまったく不十分なこと。
文革世代(50歳後半から65歳まで)が、この10年間で、各分野でほぼ引退し終えた。そして、人の質が格段に上がった。
 田舎では、司法が行政に盲従してしまう弊害が著しい。司法の独立をどこまで許容するかという問題が立ちはだかる。
中国人の置かれている状況の分析として、よく理解できるものが多々ありました。出色の中国論として、一読をおすすめします。
(2011年2月刊。1900円+税)
 6月中旬に受けたフランス語検定試験(一級)の結果通知書が届きました。55点で不合格でした。自己採点で61点でしたので、5点も下まわっています。これは書き取りと仏作文の自己評価が高すぎたのだと思います。合格基準点は92点(150点満点)ですから、まだまだ日暮れて道遠しというところです。でも、あきらめず今後とも精進します。ともかく毎朝NHKを聴いて、書き取りはしているのです。
 夜、寝る前にベランダに出て天体望遠鏡で月を眺めます。別世界の素顔をのぞいていると、心が癒されるのです。

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2011年7月12日

韓国戦争(第6巻)

日本史(明治)

著者    韓国国防軍史研究所  、 出版   かや書房

 ついに韓国戦争シリーズも第6巻、最終巻となりました。休戦の成立です。貴重な人命が惜しげもなくうち捨てられて、犠牲となっていく情景描写は、戦争のむごさを痛感させ、胸を痛めながら最後まで読み通しました。
 1952年夏、戦線が膠着した状況で、共産軍側の軍事力は日ごとに増強されていった。7月、中共軍63万人、北朝鮮軍28万人の計91万人だったが、9月には合計100万人をこえた。兵力だけではなく、砲兵火力も大幅に増強させた。共産軍の装備補充のなかでもっとも不足していたのは、通信装備の部門だった。
 国連軍司令官クラーク大将は、最小限の犠牲を持って最大限の軍事的圧迫を駆使できるのは空軍力だけだと強調した。航空圧迫作戦の主要な特徴は、第一に制空権の獲得、第二に、敵に最大限の犠牲を強いるものであること、第三に、地上軍の脅威を減少させること。
 そこで、国連軍は北朝鮮の発電施設に対する大々的な攻撃を実施した。韓国内の500機以上の航空機を総動員して編成された大規模作戦だった。7月には、米第五空軍と米海軍の航空機822機が三派に分かれて平壌大空襲を実施した。11時間のうちに
1400トンの爆弾と2万3000ガロンのナパーム弾が平壌に投下された。これってすさまじい量ですよね。
 1953年3月5日、ソ連のスターリン首相が脳出血のため突然死亡した。このスターリンの死は、国際情勢と朝鮮戦争に大きな変革を意味した。スターリンの死後、ソ連政府は朝鮮戦争を終結させるとの結論を出した。金日成もそれに従った。
 5月、国連軍は北朝鮮軍捕虜5194人、中共軍1030人、民間人拘留者446人を共産軍側に引き渡した。このとき、共産軍側は、684人の捕虜を引き渡しただけだった。
 1953年5月から最後の攻勢と呼ばれる軍事作戦が展開された。アイゼンハワー大統領は、板門店での膠着状態を打開するため、核兵器の使用を考慮していることを中国側に暗示した。この核兵器戦略は、作戦交渉に決定的な影響力をもっていた。アメリカ軍は、40キロトン核爆弾で平壌を攻撃する計画を立てていた。うひゃあ、これってとても怖いことです。つかわれなくて幸いでした。
 1953年4月、共産軍の総兵力は180万人。そのうち中共軍が19コ軍135万人、北朝鮮軍が6コ軍国45万人だった。
 中共軍は午前2時ころ、砲撃に続き、笛を吹き鉦(かね、ドラ)を打ち鳴らしながら、気勢をあげつつ、闇をついて攻撃してきた。
 アメリカ軍が待ちかまえる近代戦の最前線でこのような非情な捨て身作戦が敢行されていたという事実に戦慄を覚えます。
 韓国戦争は、その実情に照らして内戦とは規定できない。韓国軍63万人、国連軍55万人をふくむ119万人の戦死傷者を出した。それに対して、北朝鮮軍80万人、中共軍
123万人、計204万人の死傷者を出した。このほか民間人の死傷者は249万人に達し、323万人の避難民が発生した。
 統一は、平和的な手段によって成し遂げなければならないという貴重な教訓を得た。
この最後の言葉は重いですよね。これで何とか6巻を読み通すことができました。お疲れさまです。朝鮮半島で再び戦争が起きることのないことを心から願います。いずれ近いうちに平和に統一が達成されることを願うばかりです。
(2010年12月刊。2500円+税)

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2011年7月11日

ツキノワグマ

生き物

著者    大井 徹  、 出版   東海大学出版会

 残念ながら、九州にはクマは絶滅したようです。といっても、山で野生のクマと出会いたくはありませんよね。
 もし、山でいきなりクマと出会ったらどうしたらよいのかまで書かれています。死んだふりはダメです。逃げてもいけませんし、木にのぼってもダメなのです。では、どうすべきか?
 逃げない。走って逃げると、追いかけてくる可能性がある。クマに注意しながら、静かにゆっくり後退する。クマとは目をあわせず、クマとの間に木や岩をはさむようにする。クマと目を合わせると、威嚇していると思われる。クマは木登りも水泳も上手だということを忘れない。クマの逃げ道をつくっておく。
 死んだ真似はせず、地面のくぼ地にしずまり、腹や首筋、顔を守る。防御的な攻撃だとクマは後退する。クマが耳を立てて静かにどんどん近づいてきたら、捕食的な攻撃だ。そんなときは、大声をあげながら、ナイフなどで攻撃する。目や鼻への攻撃が有効だ。動き続けてクマに咬まれないようにする。ひやひや、とてもこんなことって、出来ませんよね。
ツキノワグマは飼育下で30歳、野生で28歳というのがいる。
 九州のツキノワグマは、戦前1941年に絶滅した。今から20万年前から2万年前の本州には、ヒグマとツキノワグマが同居していた。ツキノワグマのように体が大きいと、天敵が少ない、エネルギーの利用効率が小型動物よりもいい。クマは、植物を食物とすることによって体を大型化することができた。クマは雑食性で、動物質よりも栄養価の低い植物質を食物として利用している。ツキノワグマは雑食性であり、消化の良い栄養価の高い食物を好み、それを選択的に採食している。
クマが立ち上がるのは、一般には攻撃のためではない。クマは、嗅覚と視覚に強く依存している。
 メスグマは、冬眠中に出産と育児という大事業をおこなう。ツキノワグマのメスは、2~3年に1回しか繁殖しない。オスとメスの関係は一時的なもので、交尾期が終わると、それぞれ単独生活に戻る。メスグマは、子別れのあとも、子がメスのときには、母グマの近くに行動圏をもつ。
大人のオスは40平方キロ、メスは20平方キロの行動圏をもっている。
 ツキノワグマが冬眠するのは、食物が不足する冬だから。冬の間はじっと動かず、エネルギー消費をできるだけ抑えながら、蓄積脂肪でしのぐ。冬眠中のクマの心拍数や体温は、他の哺乳類ほど顕著に低くはない。冬眠中のクマは、排尿も排便もしない。しかし、血液組成は正常に保たれている。
 クマの冬眠は、摂取も飲みもしないという特徴がある。冬眠中、クマは飲まず食わずの状態にある。冬眠中のエネルギーの素は、ほとんど脂肪である。冬眠中のクマは、特別な方法でタンパク質の代謝が行われ、筋肉が維持されている。
 クマの冬眠って、不思議ですよね。冬眠していて、じっとしていて筋肉が維持できるなんて・・・。そして、尿も便も排出しないのに健全な身体を維持できるなんて・・・。
決して出会いたくはありませんが、森の住人の一人であることは間違いありません。日本から絶滅したと言われないようにしましょうね。
(2009年11月刊。3200円+税)

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2011年7月10日

化石から生命の謎を解く

生き物

著者    化石研究会  、 出版   朝日新聞出版

 原発で発生する使用済み核燃料をどう始末するか、今なお確定していません。地中深くに埋めるというのですが、10万年間は放射能が出てくるというのです。そのとき、人類がいま私たちが話している英語や日本語が分かるとは限らないので、危険性や扱い方を図解する必要があって、その工夫がすすめられているというのです。10万年というのはそれほど気の遠くなるような将来です。
 ところが、モンゴルのコビ砂漠に残された恐竜の足跡の化石は10万年どころか7000万年も前のものなのです。うひゃーっ、なんというタイムスパンでしょうか。同じく、8000万年前の恐竜の化石も写真で紹介されています。
北海道にはマンモスが4万年前までは暮らしていました。そして、本州にはナウマンゾウがいたのです。12万年前、地球規模で非常に温暖な時期にあたり、北海道にも落葉広葉樹の森が広がっていた。そこにはナウマンゾウたちがいた。
 7万年前に寒冷な気候が始まり、ナウマンゾウたちは南下していった。北海道には針葉樹林になりマンモスたちがサハリンから南下してきた。そして、3万5000年前ころ、温暖化して再びナウマンゾウが海を渡って北海道にあらわれた。しかし、またもや寒冷化してきたため、マンモスたちが南下してきた。この状況が2万年前までに終わった。なるほど、それで、北海道にもマンモスもナウマンゾウも、どちらの化石も見つかるわけです。
 恐竜の絶滅は、隕石の衝突による水蒸気や火山活動によるじん灰がもたらす地表到達電磁波エネルギーの減少によってビタミンD2の生成ができなくなったことによるのではないか・・・。
 化石によって、いろんなことを分かるって、すごいですよね。
(2011年4月刊。1500円+税)

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2011年7月 9日

ヒロシマ・ナガサキ 宮崎からの証言

社会

著者    被曝の思いをつなぐ会  、 出版   鉱脈社

 宮崎県内にいるヒロシマとナガサキの被爆者145人の65年間にわたる証言集です。
700頁近い分厚い本となっていますが、内容もとても重たくて、読みすすめるのが大変辛くなります。
 それでも福島第一原発事故という世界最大級の大災害が発生し、今なお放射能が拡散しつつあるなかで、原爆の恐ろしさから目をそらすわけにはいきません。私の住む市議会で、原発を停めて自然再生エネルギーへ転換しようという提案が否決されてしまいました。まだ原発に頼って生きていこう、なんとかなるはずだという甘い幻想に浸ったままの市民がそれだけ多いということを意味しています。でも、本当に原発って大丈夫なんですか?
 メルトダウンした核燃料の後始末はどうするというんですか?
誰かが何とかしてくれるだろうというのでは困るのです。使用済み核燃料を最終的に始末する技術は確立していませんし、地球上のどこにも置ける場所はありません。
トイレのない高層マンションを建てて、安いよ、安いよ、安全だから住んでごらんよと呼び込んでいるようなものです。マンションの外に汚物を捨てればいいでしょと言ったって、どうやって運んでどう始末するんですか。それが分からないのに、このマンションは安いから買おうなんて、気が狂っているとしか言いようがありませんよね。
 ヒロシマもナガサキも被曝によって即死した人たちは不満の声も上げることなく、この地上からいわば抹殺されてしまいました。そして、生き残った人の多くが病気に苦しめられ、子孫への遺伝的悪影響を心配しながら生きてきたのです。
 放射能被害の恐ろしさを実感させられる体験記です。5冊の証言集が集成されていますが、とても読みやすくなっています。現代に必ず伝えたい貴重な記録です。編集委員の一人である内山妙子さんより贈呈を受けました。ありがとうございました。引き続きのご健勝を心より祈念します。
(2010年8月刊。4000円+税)

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2011年7月 8日

いま、憲法は「時代遅れ」か

社会

著者  樋口 陽一    、 出版  平凡社

 大日本帝国憲法を制定するための会議のなかで、伊藤博文は次のように言った。
そもそも憲法を設ける趣旨は、第一に君権を制限し、第二に臣民の権利を保全することにある。
驚きましたね。伊藤博文の言うとおりなのです。
 憲法を中心にして世の中を組み立てていく立法主義の考え方の根本は、国民の意思によって権力を縛ることにある。
そうなんです。憲法は一般の法律とは、まったく違うものなのです。自民党も民主党も、発表した改憲案のなかで、憲法とは国民の行動の規範だとしていますが、根本的に間違っています。
アメリカでは、連邦最高裁の9人の裁判官の宗教的分布が絶えず問題になる。かつてはプロテスタントばっかりだったようですが、今ではカトリック6人、ユダヤ教3人になっているとのことです。国民の宗教分布とは明らかに異なっています。
 日本で、15人の最高裁判事がどの宗教を信じているのか、誰も知ろうとも思わない。そこは、日米の大きな違いだ。そうですよね。15人の判事のなかにキリスト教の信者もいるかもしれませんが、おそらく大半はあまり熱心ではない仏教徒ということになるのでしょう。
 いま、アメリカの大統領の候補者が何人も取り沙汰されていますが、有力候補二人がモルモン教徒だというのが話題になっています。日本にも布教のために若者を送り込んでくる、かつては一夫多妻を公認していた宗教です。アメリカも変わりつつあるのでしょうか。
 アメリカのイラク攻撃にいち早く賛同した小泉首相(当時)すら、自衛隊を送るとき、イギリスやイタリア、スペインの首相とは違って、「戦争をしに行く」とは言えなかった。それだけの規制力を憲法9条は今でも持っている。9条の旗はボロボロになってはいるが、日本国民はまだ握って放さない。品川正治氏の指摘するとおりだと思います。
 アメリカの憲法には、今でも日本国憲法の25条とか28条のような社会権を保障する規定がない。アメリカでは国民皆保険を主張する人はアカだと思われるといいます。とんでもない偏見にみちた国です。
リベラルという言葉は、アメリカとヨーロッパでは、意味がまったく違う。アメリカでリベラルというのは通常、進歩的なこと、左派を意味している。ところが、ヨーロッパでは、経済活動領域における自由放任主義を指している。したがって、リベラルとは右派を指す。ええっ、そうなんですか・・・・。  
近ごろ日本の学校では、民主主義とは、他人に迷惑をかけないことと教えているという。これでは世の中の雰囲気に順応する無定見な生き方が結果として奨励されてしまう。そうですよね、民主主義って、そんなものじゃないでしょ。
55年体制にも功があった。自民党による長期政権にもかかわらず、ある種のコンセンサス政治が行われ、特定の政治勢力の一方的な切り捨て、排除という意味の独裁政治ではなかった。というのも、自民党の実態は、複数の中小の政党の連立政権だった。そして、議会外の要素として、労働運動、学生運動、マスメディア、論壇という場面で、野党の勢力と共通の主張がむしろ一貫して影響力を維持し続けてきた。そして、憲法9条をめぐる「偽善の効用」が、歯止めのない軍事化を抑止した。
「霞ヶ関退治」の掛け声が意味しているのは、プロフェッショナル攻撃である。かわりに登場するのが素人支配。経済界のリーダーたちをはじめとする素人が、さまざまの公的あるいは私的の審議会をつくり、そこで決めたことが経済政策以外でも、いわば排他的に政策として貫徹していく。
「官から民へ」という掛け声とともに登場してくるのは、弱者を犠牲にして恥じない大企業なのですよね。
久しぶりにスカッとする思いでした。憲法をめぐる状況を改めて考えさせてくれる本として、一読をおすすめします。
(2011年2月刊。1500円+税)

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2011年7月 7日

セカンド・チャンス

司法

著者  セカンドチャンス 編    、 出版  新科学出版社 

 いい本です。読んでいて、心がじわんと温まってきました。だって、少年院を出て立派に自信を持って人生を歩いている人たちが、こんなにいるって。うれしいじゃありませんか。
 立ち直った元犯罪者と、まだ現役の犯罪者の話すことの違いは、3点にある。
第1. 本物の私は磨けば光るダイヤモンドの原石であるという発見をしていること。
第2. 自らの運命を支配できるという楽観主義に立っていること。
第3. 社会、とりわけ次の世代にお返しをしたい、貢献したいという気持ちをもっていること。
これって、大切なことですよね。どうせ自分はダメな存在なんだと、つくづく自らを卑下して、足を一歩前へ踏み出すことのできない若者がなんと多いことでしょう・・・。
 少年院を出て通信制の高校を卒業。そして社会人推薦で大学の夜間部に入学した人がいます。そして、大学では犯罪社会学の授業を受けたのです。少年院を出て、今は牧師になっている人がいる。少年院を出て、ブラジルに行って新聞記者になった人がいる。少年院を出て、ダルクの職員をしている人がいる。
少年院で働いていた人が代表をしているのがセカンドチャンスなんだ。すごいことですね。こんなネットワークが日本全国に広がるといいですね。
 元レディース総長だった女性の体験談も壮絶です。12歳でセックスした。タバコを吸った。13歳で万引した。シンナーを吸った。15歳の総長。雑誌に取り上げられて、絶好調だった。少年院を出てもとの仲間に会ったとき、リンチされた。
 「みんな、お前のことをねたんでいたんだよ」
「てめーだけ雑誌に取りあげられて、さぞかし、いい気分だっただろう」
 そして今、34歳。4人の子の母親。同じく13歳でセックスし、風俗嬢になり、少年院を出たあと大検をとって2年間のアメリカ生活。そして今は大学生という女性も登場します。
 周りに認められたいという思いをセックスでなんとか埋めようとした。身体を求められているということは自分が必要とされているということだって思い、「13歳」というブランドを武器に、どんどん自分の身体を大人に委ねていった。
 お金を手にするたびに、自分にはこれだけの価値があるって、どこか満たされた気持ちになっていた。これって錯覚なんですよね。それに気がつくまでに時間がかかることとは思いますが・・・・。
 少年院を出た16~17%が少年院に再入し、10年以内に2割弱が刑務所に入っている。このことは少年院で身につけたことが良好な社会生活を保障するわけではないことを意味している。非行少年が社会でやり直すことの難しさを示している。しかし、逆に8割は、それなりに社会で生活していることも見落としてはならない。これは、すごいこと。
立ち直った人のストーリーには共通点が3つある。
 一つは、生育過程で家庭あるいは学校から十分な保護や支援を受けていないことが非行の遠因となっている。ある意味で過酷な運命の被害者だったのが、ある時点で自分の人生の主人公となっている。
 二つ目に、人との関係性、あるいは運命といった大きな流れに自分が生かされていることの気付きと感謝がある。
 三つ目に、自分にできることで社会に役立ちたい。非行から立ち直った経験を生かして、立ち直り途上にある後輩を助けることが自分の努めであり、もっとも自信を持って自分にできることだと考えていること。
 このようなセカンドチャンスです。これからも元気でがんばってくださいね。応援しています。

(2011年1月刊。1500円+税)

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2011年7月 6日

リンカン(上)

アメリカ

著者    ドリス・カーンズ・グッドウィン  、 出版   中央公論新社

 人民の、人民による、人民のための政治。
 忘れることの出来ない、きわめて簡潔な民主主義政治を言いあらわした言葉(フレーズ)です。アメリカを二分して何十万人もの戦死者を出した南北戦争。それを引っぱっていったアメリカの大統領として、リンカン大統領ほど有名なアメリカの大統領はいません。そのリンカンは、実は貧乏な家に生まれ無名の弁護士としてスタートしたのでした。そして、意外にも大統領選挙に勝ち抜くや、それまでの政敵たちを自らの内閣の有力メンバーに取り込み、しかも相互に深い信頼関係を築き上げたというのです。オバマ大統領がヒラリー・クリントンを国務長官にしたのと似ていますね。ただ、リンカンも、軍隊の指導部の人選には苦労したようです。さまざまな派閥均衡人事が軍事作戦にプラスするとは限らないのでした。ただ、リンカンには時の運がありました。
 リンカンの容貌は、とても美男子に属するものではなかった。漆黒のもじゃもじゃ頭、しわの深く刻まれた褐色の顔、深く窪んだ両眼は、実際の年齢よりも老けこませていた。しかし、リンカンがいったん口を切ると、悲哀にみちた表情はたちまち霧散した。愛嬌のある笑顔を輝かせ、一瞬前まで悲しみで凍てついていたところに、鋭敏な知性を、心底からの本物の優しさを、そして真の友情の絆を認めることができた。なーるほど、すごいですよね。
リンカンは、人生を肯定するのに十分なユーモアのセンスと失敗からはいあがる絶大な回復力を有していた。若いリンカンに強い自信をもたせたのは立派な体格と腕力だった。明るく冴えた、好奇心の強い、そして極端に辛抱強い心根は、リンカンの持つ生来の資質だった。
 子どものころ、父親のにっちもさっちもいかない田畑で長時間はたらかされた経験のあるリンカンは、土を耕すことがロマンチックだとも気晴らしになるとも一向に思えなかった。
 当時のアメリカは、若者たちの国だった。28歳のリンカンも文化講演会で熱っぽく語った。リンカンの父親は、読み書きを一度も学んだことがなく、文字を書くといっても、自分の名前をへたくそに署名するだけだった。
 リンカンの育つ過程で最初の自信を植えつけたのが実母の愛情と支援のなせる業であったとしたら、それを後々支払えたのは、リンカンを実子のように愛した継母だった。
 1850年ころのアメリカは、人口2300万人。その大部分は田園地帯の広がる国で、人々の最大の関心事は政治と公共の問題だった。政治の闘士の第一の武器は弁舌力だ。雄弁の才能は政治の世界で成功を手にするカギだった。リンカンも幼いころから、その切り株の上に立って遊び仲間に演説しては腕を磨いていた。
 1852年に発刊された『アンクル・トムの小屋』は、1年のうちに30万部を売り上げた。リンカンは奴隷所有者を手酷く叱りつけるよりは、むしろ彼らの立場に立って共感することで理解しようと努めた。
リンカンは、努力、技量、幸運の組み合わせによって着実に地歩を固めていった。リンカンは確実に知っていること以外はみだりに口にしなかった。言葉に対する生来の細心な感受性と精確さ。また、さまざまな聴衆を前にして滅多に迎合しなかった。
奴隷制度問題だけに争点をしぼって選挙を戦っていたら、リンカンは敗北していたかもしれない。
 南北戦争が始まったとき、北部の熱狂的な連帯意識は、南部の勢力と覚悟を見くびっていた。戦争を60日以内に終結するものと予測していた。しかし、ブルラン戦での目をむくばかりのどんでん返しと壊滅的な敗走を経て、北部人たちの抱いていた勝利への容易な錯覚は霧散した。
 上巻はリンカンが大統領になるまでの苦労、そして南北戦争がついに勃発したところで終わっています。リンカンを知るって、アメリカを理解するためには不可欠なんだと改めて思いました。上巻だけで630頁をこす大作であり、読みごたえ十分です。
(2011年2月刊。3800円+税)

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2011年7月 5日

証拠改竄

司法

著者    朝日新聞取材班  、 出版   朝日新聞出版

 検察官が被告人に有利な重要証拠を隠すというのは古くからありました。松川事件の諏訪メモが有名です。しかし、被告人を不利にするため、証拠をいじって不利なものにする(改ざんする)というのは、初めて聞いたとき、まさかそこまで・・・と信じられませんでした。弁護士生活38年になる私自身もいつのまにか法曹一家意識に毒されてしまっていたのですね。大いに反省させられました。警察も検察も我が身の保身のためなら平気で証拠をつくりかえてしまう。これは古今東西、どこにでもある、ありふれた話なのです。そんな権力の不正とたたかうために私たち弁護士が憲法上の存在として位置づけられているわけなのです。申し訳ありませんが、久しぶりに弁護士の責務の原点にまで思いを至らせました。
 それにしても大阪地検の特捜部の対応はお粗末でしたね。前田検事の証拠改ざんを容認したかどうかはともかくとして(起訴された特捜部長は刑事責任を争っています)、それを聞知した時点で公表し、被告人に対して謝罪すべきは当然でしょう。その時点までに、特捜部内で大激論になったとされていますので、そのとき臭いものに蓋をしてしまった上層部の責任は重大ではないでしょうか。
 本件の発覚する端著はご多聞にもれず、内部告発でした。やっぱり、これだけひどいことが起きると、闇から闇に始末するのは許せないと思う人が出てくるものなのですよね。それにしてもフロッピーディスクで改ざんの立証が出来てよかったですね。客観的な裏付けがないと、問題があいまいにされてしまう危険が大いにありますからね・・・。
 検察用語でフタをするというのは、対多者に都合の悪い調書をつくっておいて、裏切ったら暴露するぞ、別件で逮捕するぞと脅しの道具に使うこと。なーるほど、それも駆け引きの道具なのですね。
 大阪地検特捜部の主任検事は、検事や検察事務官からの捜査報告書や供述調書など、担当する事件すべての証拠に目を通す。特捜部長よりも事件の構図を詳しく把握し、権限はなくても捜査を実質的に指摘していると言える。
 フォレンジック調査。コンピュータに関する犯罪があったとき、電子的記録を分析し、データ上で起きたことの証拠を集める調査技術のこと。不正アクセスの痕跡を探ったり、破壊・消去されたデータを復元したりすることから、電子記録に対する鑑識作業とも言われる。費用は1件あたり数十万円から100万円ほど。本件では20万円かかった。
 事件の容疑者や参考人から重要な供述を引き出すことを「割る」と検察では呼ぶ。それに長けた検事は「割り屋」と呼ばれる。
 関西検察。大阪高検が管轄する近畿2府4県を中心に、大阪高検と各地検を軸に、異動をくり返してキャリアを積んでいく検事たちが築く人的ネットワークのことをさす。関西検察に対して、関東検察という言い方はしない。関西検察の幹部たちは、大阪地検特捜部に配属された経験をもつ検事が多い。特捜部は関西検察にとって、いわば母胎のような組織だ。
 検察の底知れぬ腐敗が暴かれた事件を追った迫真の本です。
(2011年3月刊。1400円+税)

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2011年7月 4日

どうすれば「人」を創れるか

人間

著者  石黒 浩    、 出版   新潮社

 自分にそっくりのロボットがいて、それを操作できるとしたら・・・・。これって、便利なようで、実は怖い話のような気がします。
 アンドロイドとは、人間酷似型ロボットのこと。アンドロイドがいると、何が見えてくるのか、そのアンドロイドは自分に何を教えてくれるのかを、この本は考えています。
 ロボット大国日本と威張っていたように思いますが、福島原発事故では、残念ながら日本のロボットは活躍できませんでした。これも「絶対安全」の神話のもとではロボットの必要性がなかったということなのでしょうか。何億円もかけていたようですが・・・・。
ロボットには不気味の谷というものがある。見かけは人間そっくりなのに、動きがぎこちないと、非常に不気味なアンドロイドになる。まるでゾンビのような不気味さが出る。見かけが人間らしいものであればあるほど、動きも人間らしくないと、人は非常に不気味な感じをもつ。
 ロボットらしい見かけから、人間の生々しい声が聞こえてきたら、見かけと声のバランスが崩れ、奇妙に思ってしまう。だから、ロボットのしゃべる声は、あらかじめ録音された合成音にしている。
アンドロイドを遠隔操作が出来るようにした。長く遠隔操作していると、だんだんそのロボットの体が自分の体のように思えてくるようになる。
 私たちは、他人が見ることのない左右逆転した鏡の中の自分の顔を自分だと重い、他人が見ている写真の顔を本当の自分とは少し違う自分と思ってみている。つまり、私たちは常に自分に対して、少し誤解しながらに日々を過ごしている。左右を入れ替えた画像は一方が男っぽい顔となり、もう一方が女っぽい顔になる。なーるほど、いつも鏡に映った顔を自分の顔とばかり思ってみていましたが、それは他人の見ているものと微妙に異なるのですね・・・・。
 時間さえかければ、人間はたいていのものに人間らしさを感じるようになる。人とは、それほどまでに適応性が高い。
電車の中でケータイで話しているのを聞くと迷惑に感じるが、客同士の会話は、それほどではない。そうでしょうか・・・・。そこで、遠隔操作のアンドロイドと話しているとどうなるか。ケータイと同じ仕組みになのに、人はやがて迷惑と感じなくなる・・・・。
 アンドロイドをつくっていくのは人間とは一体いかなる存在なのかを考えさせるものでもあることがよく分かる本でした。でも、自分そっくりロボットがいて、いつまでも若々しかったら、ちょっとどうでしょうか・・・・。やっぱり、お互い困りますよね。面白い本でした。
(2011年4月刊。1400円+税)

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2011年7月 3日

歴史のなかの江戸時代

日本史(江戸)

著者  速水 融    、 出版  藤原書店 

 江戸時代のイメージは、ひと昔前まで暗かった。搾取と貧困。鎮国、義理人情。これらが江戸時代をあらわす常套句だった。
 ところが、江戸ブームが起こって、一転して賛美する風潮になった。今度は、江戸時代は決してバラ色ではなく、少なからず暗黒面を有する社会であったと述べざるをえない状況になった。
天保の大飢饉といっても、じつは飢饉以上に感染症による被害が大きかった。都市における公衆衛生の欠如から、平均寿命も実は農村より都市のほうが短かった。
庶民を対象とする寺子屋の存在は大きく、基本的な読み書きソロバンの教育により、地域差はあっても一般庶民の識字率はかなり高かった。そこで、出版物の市場が開け、多数の書籍が世に出た。貸本屋によって村々をまわり、書籍が買えない人にも余沢が与えられた。民衆全員が知的好奇心にあふれる社会が出現した。
日本人って、本当に昔から好奇心のかたまりだったようですね。
 江戸時代に農産物の生産量はかなり増大していった。武士層は剰余部分を自分のものにするのに失敗し、商人と農民が手にした。農民の生活水準は向上していった。
 中下層の商人もビジネスチャンスを求めて走り回った。ひとり乗り遅れた武士層は、本来、政治支配層であるのに貧窮化する。藩全体としても貧窮化がすすみ、武士層の富商からの献金・借財は増え続け、中下級の武士のなかには「御仕法替え」と呼ばれた一種の破産宣告を受け、年貢の収取権を失い、決められた額でのつつましい生活を余儀なくされた者までいた。実は、江戸時代が本当に封建社会だったのか、大いに疑問なのである。
 江戸時代の人々は、都会でも田舎でも、非常に穏やかに生活していた。殺しのようなものは、ほとんどなかった。
朝鮮貿易は、ある時期、長崎での中国・オランダ貿易よりも多く取引されていたこともあった。これは、対馬藩が貿易の実態を江戸の幕府に極力隠していたために、最近まで判明しなかった。釜山の倭館には、500人から1000人もの日本人の住む町があった。朝鮮貿易は、銀のほか朝鮮人参、白糸が入ってきていた。
幕府としても、中国大陸で何が起きているかを正確にキャッチしたい。その情報網が必要だった。
 徳川幕府は、日本の銀を朝鮮から結局、中国へ輸出していた。そして、代わりに日本は金を輸入していた。日本は金の島ではなく、銀の島だった。
 江戸時代、年貢は高いとしても、相続税はないし、消費税などの財産税もなかった。
江戸では、武士も町人も一緒になって生活していて、士農工商と、はっきり分けられてはいなかった。
日本人が裁判を重視する習慣は鎌倉時代にまでさかのぼる。
 ザビエルが日本に来て、日本人が次々にとんでもなく難しい質問するので、朝も夜も眠れない、これは法難であると嘆いた。好奇心のかたまりの日本人から質問責めにあって困ったという話です。うそのような本当の話です。
 江戸時代についてのステロタイプな常識を見事にひっくり返してくれる本です。
(2011年3月刊。3000円+税)

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2011年7月 2日

世界終末戦争

アメリカ

著者    マリオ・バルガス・リョサ  、 出版   新潮社

 ノーベル文学賞を受賞した作家の本です。1981年に書かれていて、2段組で700頁もある大長編です。登場人物も多いし、いくつもの異なった場面が断章として次々に登場してくるので、とてもわかりにくい本です。そして、その並べ方が物語の時間とは必ずしも一致しいていないため、読者は頭のなかで行ったり来たりさせられ、まごついてしまいます。私にとっては、とてもわかりにくい本でしたが、最後に訳者は、「とても分かりやすい小説」だとしています。本当でしょうか・・・。
 それはともかく、19世紀のブラジルで実際に起きた事件を顕在とした小説なのです。
 ブラジルには人類ないし肌の色をさし示す単語が300もある。1822年にポルトガルから独立して、ブラジル帝国となり、1888年の奴隷解放をへて、ブラジル共和国となった。
 ブラジルは植民地時代から一貫して海岸部だけで成り立つ国家だった。取り残された内陸部がセルタンウ(閑地)だった。そこに、原住民と白人そしてインディオとの混血者が大多数を占め、カプクロと呼ばれる。セルタンゥ人は、最近でも1958年そして1970年に異動を起こしている。この本は、それよりもずっと以前、1897年に起きたカヌードス反乱を取りあげている。
 民衆の代弁者としてたてまつられるコンセリェイロは1876年ころにはブラジルでよく知られる存在になっていた。ブラジルは、共和制になった1893年に迫害されるようになった。
 コンセリェイロとその信者は、ジャグンソ(反徒・盗人)と呼ばれるようになった。カヌードスという町に集まり、やがて住民は3万人にもなった。そこへ、新生ブラジル共和国が軍隊を派遣して鎮圧しようとした。1896年11月、鎮圧に向かった軍隊が、信者たちに敗北して逃げた。翌年2月のモレイラ・セザル隊は勇猛の名をほしいままにした精鋭の軍隊だったが、一日で壊滅してしまった。
 このようにして一年も続いた鎮圧戦によって信者たちは敗北した。しかし、この1年間にブラジル共和国政府は、7500人もの兵員を送り込んで、そのうち2600人もの死傷者を出した。これは近代軍としては敗北に近い結果だ。
 信者軍は、現地に無能な共和国の正規軍を、あらゆる手段を駆使して徹底的に悩ませ、やっつけた。つまり、ゲリラ戦に勝った。結論はともかくとしてまるで、アメリカによるベトナム戦争を想起させる展開です。
 決して読みやすい本ではありませんが、ブラジル史に興味のある人には必読だと思いました。
(2010年12月刊。3800円+税)

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2011年7月 1日

武士の評判記

日本史(江戸)

著者    山本 博文  、 出版   新人物ブックス

 寛政の改革で有名な松平定信がつくらせた『よしの冊子』をもとに、当時の江戸城内や江戸市中に起きている出来事を分かりやすく紹介した面白い本です。
 松平定信は、八代将軍の孫。定信は田沼意次を恨み、敵視していた。刺し殺そうと決意したこともあるほど。そして田沼を厳しく批判する長文の意見書を将軍家治に提出した。将軍家治が没し、11代将軍家斉が跡を継いだ。
 このとき、田沼時代の老中たちは定信が老中になることを嫌って妨害した。しかし、天明の打ちこわしが起きたりして、ついに定信は老中になった。このとき、幕臣や江戸の庶民から喝采をもって迎えた。ところが、やがて厳しい倹約政策によって不景気となって期待がしぼんでいったのですよね。
 『よしの冊子』は、定信が部下に命じて江戸の実情を探らせたレポート集のようなもの。
定信は田沼とちがってワイロをもらわなかった。そうすると、老中になって、わずか2ヵ月で2332両(4億6千万円ほど)の経費がかかった。当時、老中が進物や賄賂を受けとっていたのは必要悪という側面があった。
定信が大奥の御年寄(大崎)を辞めさせたという話がある。しかし、大奥の人事は、それこそ将軍の専決事項であり、定信といえども即座に辞めさせられなかったはず・・・。
田沼意次の評判の多くは事実無根のことで、単なる噂にすぎない。意次が失脚したあと、悪いことは何でも田沼のせいにされてしまった。実際、田沼意次は相応の賄賂を受けとっていたが、当時は、他の老中を初めとして、役人たちはみな賄賂を受けとっていた。田沼意次は破格の出世を遂げただけに周囲の嫉妬は強く、権力の座から落ちた時の世間の風は冷たかった。
 老中人事は、老中が将軍に提出する複数の候補者のなかから、将軍自身が選ぶという形でおこなわれる。老中に任じられたのは、おおむね早くから評判のよい譜代大名だった。大名の役職は持高勤めで、役職手当はつかないので、基本的に持ち出しになる。
 旗本がつとめる幕府の役職では、第一の大役は町奉行で次が勘定奉行だった。裁判をする人は公事宿(くじやど)という訴訟に出てきた百姓向けの旅館に滞留する。公事宿の主人は、幕府の裁判に精通しており、現在の弁護士のような役割を果たしていた。
 定信が推進した政策はデフレ時代を現出させた。バブルに浮かれた田沼時代と比較され、予期せぬ不満も受けることになった。定信が御役御免になったという情報が伝えられると、幕臣たちはみな驚愕し、江戸城内は大混乱になった。町奉行池田は、城中、人目をはばからず大声で泣いた。というのも、このころの幕閣中枢部は、ほとんど定信の人事による。そのため、誰もが驚き、悲しんだ。表の役人は誰もが定信の辞職を嘆いた。だから、定信を追い落とした黒幕は中奥役人以外には考えられない。
定信の老中辞任は、まず将軍家斉が思いつき、その相談を受けた奥兼帯の老中格大名がそれに賛意を示したことで突然の仰せ出されになったものではないか。家斉は定信がいると、自分の思いどおりにならないことから定信の退任願いを許可したのだろう・・・。
 寛政の改革の裏話のひとつとして面白く読みました。
(2011年2月刊。1400円+税)

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パレスチナ・イスラエル紛争史

世界

著者    ダン・コンシャボク、ダウド・フラミー  、 出版   岩波新書

 エルサレム生まれのパレスチナ研究者とアメリカ生まれのユダヤ人がアラブ・イスラエル紛争史をお互いの視点から語った本です。容易に意見は一致しません。それでも、いま現地で両者が憎しみ、殺しあっているわけですから、このような「平和共存」の本が出版されるのには大きな意義があると思います。
 パレスチナは、大シリアの一部として400年ものあいだ、オスマン朝カリフの支配下にあった。そのパレスチナには小さなユダヤ教徒コミュニティが存在しており、その一部はエルサレムやヘブロンなどの宗教的重要性をもつ主要都市に常住していた。これらのコミュニティはずっと昔からあり、アラブの隣人とともに平和に暮らしていた。
 19世紀末、パレスチナの人口は60万人。10%がキリスト教徒、4%がユダヤ教徒であり、大多数がスンニー派のムスリムだった。さまざまなコミュニティ間の関係は概して平穏で、それぞれが独自の生活を営んでいた。
第一次世界大戦の終わる前に出されたバルフォア宣言は、シオニストとイギリス政府による交渉の結果であり、イギリス政府はユダヤ人が郷土を獲得するための支援を真剣におこなうこと、その郷土はパレスチナに存在することを明言していた。
 嘆きの壁は、ユダヤ教徒とムスリムの双方にとって重大な意義をもつ場所である。
 ユダヤ人の運動には、国際レベルでの財政的・組織的な支援があった。パレスチナへの移民は先進的な社会からやって来た人々であり、最底辺の人々でさえ、アラブ人よりは高い洗練された一般教養をもっていた。多くの人々が高度な教育を受けているか、高度な技術をもっており、しかも、明確な動機につき動かされていた。
 他方、パレスチナの大半は、無気力状態に沈み込んでいた。
 イギリス軍が最終撤退した翌日の1948年5月14日、イスラエルの建国が宣言された。この新国家を最初に承認したのはアメリカで、ソ連がそれに続いた。
1967年6月、イスラエルとエジプトは6日間戦争をたたかった。この日、エジプトにある全飛行場への奇襲空爆によって、エジプト空軍機の大半が離陸する前に破壊された。
 この戦争の結果、イスラエルが中東地域において圧倒的な軍事力を有する国家となったことが明らかとなった。
 1972年の10月戦争は、イスラエルの不意を突いた。10月6日、開戦から90分でエジプト軍はスエズ運河に橋頭壁を築き、翌日には運河の東5キロ地点まで進軍し、運河東岸のイスラエル軍の複数の要寒を完全に掌握した。
 1980年代半ば、イスラエル古領地には煮えたぎる不満が広がっていた。そこにインティファーダが勃発する。物質的および精神的に従属してきたパレスチナ文化は、もはや何も失うものがないことを悟った。石をもった幼い少年たちが、まるでゴリアテの面前に立ちはだかったダヴィデのように、自動小銃で武装したイスラエルの兵士に立ち向かった。
 インティファーダは、現実を生きるパレスチナ人、占領下で暮らす民衆の怒りの爆発であった。ユダヤ人は隣人との平和を模索してきたが、アラブ人は戦争を仕掛けた。
 イスラエルは、その歴史を通じてユダヤ人をその土地から追い出そうとするアラブ民族によって包囲されてきた。最近では、インティファーダによってアラブ住民がイスラエルの支配下を覆そうとしてきた。
 パレスチナ人がイギリスによる統治を選択したのではなく、むしろイギリスの支配が押しつけられた。ユダヤ人は、イギリス政府によって代弁されていた。その一方で、パレスチナ人はイギリスとフランスの利害で分割された中東の従属的民族にすぎなかった。
 パレスチナにおいては、いったい誰が侵略者で、誰が被害者なのか。パレスチナ人は、自分の祖国を防衛する自由の戦士なのだ。
 ヨーロッパのユダヤ人へのホローストはアラブ人ではなく、ヨーロッパ人が犯した罪である。しかし、その代償を払っているのはアラブ人である。今、陵辱された者が陵辱する者になっている。
 以上、よく分からないままに不十分な紹介をしてしまいました。
 アラブ(パレスチナ)人とユダヤ人との和解はきわめて難しいこと、しかし、その手がかりはまだあることを思い知らされる本です。
(2011年3月刊。3400円+税)

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2011年7月31日

津波と原発

社会

著者    佐野 眞一  、 出版   講談社

 この本を読んで、福島第一原発がなぜ、あの地に立地したのかが分かりました。要するに貧しい地域だったからです。そして、共産党が強くなく、反対運動は強くならないだろうという読みもありました。
大地主の一人である堤康次郎は3万円で買い、原発の敷地を3億円で売った。東電の木川田一隆社長、地元選出の木村守江代議士(後に福島県知事になる)、そして、この堤康次郎の3人で原発誘致は決まった。ボロもうけしたのですね・・・。
 作業員の被曝の許容量は国際基準の20ミリシーベルト。その許容すれすれの人がほとんどだ。だからといって素人では作業がうまくいかないので、全国から経験者を集めている。柏崎や東海の人が多い。最近は、九州からもかなり来ている。
 原発労働は、今は危険手当は1日5万円。ある会社は、日当5万円、危険手当10万円の計15万円という。ある元請会社は20ミリシーベルト浴びると、5年間、作業現場の仕事を補償するという覚書を作業員と交わしている。ここは、人間の労働を被曝量測定単位のシーベルトだけで評価する世界だ。一定以上の被曝量に達した原発労働者は、使いものにならないとみなされて、この世界から即お払い箱となる。炭鉱労働者の炭鉱節と違って、原発労働からは唄も物語も生まれなかった。
 津波は恐ろしい。しかし、それ以上に恐ろしいのが原子力発電所です。日本経団連のトップたちは一斉に、それでも日本は原発が必要だと声をそろえて強調しています。そんな人は、子や孫を飯舘村に住まわせることが出来るのでしょうか。自分と家族だけはぬくぬくと安全なところにいながら、よく言うよと私は思います。
 いったいメルトダウンした燃料棒の始末は誰が、いつ、どうやってするというのですか・・・。住友化学(日本経団連会長の出身の会社)の敷地に引き取るとでもいうのでしょうか。とても、そんなはずはありません。日本の最高の経営トップの無責任さに、泣きたくなります。
原発が安全だなんて、そんな神話にしがみつくのは、この際キッパリ止めましょうよ。
(2011年7月刊。1500円+税)

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2011年7月30日

天平の阿修羅  再び

日本史

著者  関橋 眞理    、 出版  日刊工業新聞社  

 阿修羅像は、彫刻作品として見ても、空間構成の美しさ、三角のお顔に六臂の腕が、合掌から手が解き放たれて、天空に挙がっていく。そういった時空間が表現されている。バランスの美しい傑作である。鎌倉彫刻のような筋肉隆々の肉体美を見せるものでもないし、ヨーロッパのビーナスのようなものでもない。何もないところに時空間を作り出して行くという表現の素晴らしさがある。
 阿修羅像は、まさしく神々しい仏像の最高傑作ですよね。久しくおがんでいませんが、ぜひまた見てみたいものです。
 模造の阿修羅像は、肉身も裳の部分も朱色の鮮やかな姿で、興福寺にある実物とは印象がまったく違う。しかし、造られた当初はまさしくこの色だった。この色は日本画のエキスパートが一日中ルーペをのぞいて、布と布の間に隠れている色の粒子を見つけ出した。それは執念だ。その人が心の眼で見ている。ぼんやりしている人には見えてこない。
模造とは、単に形を真似るのではなく、使われている材料、構造、制作技術に至るまで、すべてを復元するということ。模造制作の目的は、材料、構造、製作技法を解明し、それを学ぶことによる修理技術者の養成と修理技術の向上である。模造は、現状維持修理を支えるという面をもつ。
 模造のためにつかう道具も、最終的には自分でこしらえる。大工道具は、播州とか新潟東京で主に作っている。彫刻の道具は東京に注文する。計測する道具が必要だが、金属だと図るものを傷めるので、木や竹にして、使い勝手がいいように自分で工夫する。
 像の部品を接着するだけなら誰にでも出来る。肝心なことは、いかに美しく処理できるかということ。プロの仕事はそういうもの。
粘土で原型をつくるとき、師匠が「腕は丸いんじゃない。四角いんだ。丸い腕も本来は四角なんだ。丸い腕でも正面があって、側面があって、背面がある。つまり、球だって四角い。必ず正面があって、側面があって、底面があって・・・・」なるほどですね。
美術院の修理技術者は有機溶剤取扱免許、危険物取扱免許、クレーンの運転免許、レントゲン技師など、各種の免許を取得している。
 奈良の興福寺の阿修羅立像はとても素敵なものですが、実は制作当時は朱色の像で、頭髪も金泥で、まさに茶髪なのでした。まあ、しかし、それはそれでいいものです。
いい本でした。奈良時代の技術が、しっかりしていること、それが現代に再現できるのを知ってうれしくなります。

(2011年2月刊。1000円+税)

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2011年7月29日

リンカン(下)

アメリカ

著者    ドリス・カーンズ・グッドウィン  、 出版   中央公論新社

 南北戦争が進行していきますが、北部軍の将軍には問題行動が目立ったりして、なかなか南部軍に勝てません。
 それでも、リンカンは、政府と広く全国の両方で派閥の均衡を巧みに操縦するという無類の手腕を発揮した。半島での大敗退で、連邦を救うには並々ならない政策を必要とすることが明白になった事態は、リンカンに、より直截に奴隷制度に取り組む突破口を与えた。
戦場から日々届く戦報は、南部連合がいろいろの方法で奴隷を使役している様子を歴然とさせた。奴隷たちは、軍のために塹壕を掘り、防御施設を建造した。奴隷たちは駐屯地に連行され、御者、料理人、病院の付き添いとして働いたので、兵士たちは雑務から解放されて戦闘行為に専念できた。
 1862年、奴隷解放宣言は、奴隷の身分にあった350万人の黒人に自由を約束した。この宣言書には軍事上の価値があった。北部軍は兵站の問題に直面していた。奴隷の提供する膨大な労働力が南部連合から連邦側に移るなら、とてつもない利益が得られることになる。奴隷解放宣言は、その適用範囲が叛乱軍の戦列の背後にいる奴隷身分の黒人に限られるという点で即効性には乏しかったが、それは、中央政府と奴隷制度の関係を永遠に変革した。それまで中央政府が奴隷制度を保護していた地域で、今やそれは禁止されたのだ。
 黒人連隊を結成しようとする、やる気満々の動きに、リンカンは大々的に賛意を示した。当初は黒人を武装させる提案に抵抗を示したものの、今では、その計画の実施に全面的に打ち込んでいた。
 南部連合議会は、捕虜になった「武装ニグロ」と「ニグロ隊」を指揮する白人士官は死刑か奴隷刑に処すという条例を議決した。したがって、下手すると自由身分あるいは生命まで失う危険があった。
 1863年11月19日、リンカンがケティスバーグの戦場跡で演説したときの状況も紹介されています。このとき、9000人もの聴衆が演台を囲むように半円をなして広がっていた。リンカンの前の演者は、2時間かけて劇的な3日間にわたる戦闘の一部始終を見事に再現した。そのあと、リンカンが演説しはじめた。わずか2分間の演説だった。
 我々がここで語る内容に世界はまず注意を向けないでありましょうし、記憶に留めもしないでしょうが、ここで彼らの成し遂げたことを世界が忘れ去ることは絶対にありえないのです。・・・この国家に、神の道に適った新たな自由の誕生を実現せしめることなのであり、かつまた、人民による、人民のための、人民の政体をこの地上から死滅させないためなのであります。
 聴衆は微動だにせず、言葉なく立ち尽くした。聴衆は、演説のあまりの簡潔さとその唐突な幕切れに息を呑み、その場に釘付けされた。
 リンカンは祖国の物語と戦争の意味を、すべてのアメリカ国民に通じる言葉と現実に置き換えて話した。父親から聞いた作り話を、少年なら誰でも理解できる物語に夜を徹して手を加えた子どもが、今や祖国のために、過去、現在そして未来を編み込んだ理想の物語を完成させたのであった。そして、それは学生たちによって永遠に朗読され、暗誦されることになる。
 常日頃から緊張をほぐすために物語を人前で話すことを習い性にしていた人間(リンカン)にとって、芝居見物は清涼剤であった。リンカンは、定期的に劇場に通い詰めていた。
 リンカンを生涯支え続けたのは、その内面的な底力であった。そして、大統領としての4年間は、彼の自信を計り知れなく増進させた。就任の初日から直面させられた耐え難いほどの重圧にもかかわらず、リンカンが自信を喪失することはなかった。リンカンは周囲にいる者たちの意気を折にふれて鼓舞し、快活さ、やる気、一貫した目的意識をもって同僚たちを心優しく引っぱった。リンカンは最初の過ちに自ら学び、そのおかげでライバルたちの嫉妬を超越し、また年が改まるごとに人間と事象を貫徹する洞察力を深めていった。
リンカンは内閣のなかの内輪もめに気づいていたが、各自がそれぞれの職務を十分にこなしている限り、陣容の改造はまったく不要だと固く心に決めていた。内輪ゲンカを繰り返す内閣たちも、最終的にはほとんど全員が、自分たちのライバル意識と短気に仁慈をもって対応し、ユーモアに訴えで緊張感をやわらげるリンカン大統領に忠節を尽くし続けた。
暗殺犯が3人いて、リンカンだけでなく、副大統領と国務長官の三人を同時に謀殺する企てだったことを知りました。副大統領を暗殺するはずだった男は直前に気が変わった。国務長官は事故にあって寝ていたところを襲われたが、なんとか助かった。
 そして・・・。きちんとしたいでたちの男があらわれて、ホワイトハウス付きの従僕に名刺を渡し、ボックス席に案内された。ひとたびなかへ入ると、拳銃を構え、リンカンの後頭部に狙いを定めて引き金を引いた。
 南北戦争の実情、奴隷解放宣言が出されるまで、そしてゲティスバーグ演説、さらに大統領暗殺・・・。どれもアメリカという国をよく知るうえで不可欠の出来事だと思いながら興味深く、上下2巻の大作に読みふけってしまいました。
 オバマ大統領の愛読書だそうです。本当かもしれないなと思いました。
(2011年3月刊。3800円+税)

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2011年7月28日

プラハ侵略1968

ヨーロッパ

著者    ジョセフ・クーデルカ  、 出版   平凡社

 ずっしり重たい大判の写真集です。300頁近くの歴史的場面が3800円で手にとって眺め、当時の状況を画像でしのぶことが出来るのですから、安いものです。
 1968年8月は、私が大学2年生のときです。親しくしていた下級生が、私に向かって先輩はソ連のチェコ侵入を認めるのですかと非難めいた口調で糾しました。私がそのころ左翼的言辞を弄していたことから、それでもやっぱりソ連を擁護するのかと問いかけたわけです。一世代前の左翼とは違って、私の周囲にソ連を絶対視するような学生はまったくいませんでした。私は、ソ連の行動を支持するわけではないと答えました。ただ、チェコ国内で一体、何が起きているのか、それこそアメリカCIAの策動でクーデター的に何か起きているのかもしれないという一抹の不安は感じていました。あとになって、そうではなく、あくまでチェコ国民の民主化に願う動きだと知りましたが、当時は何も分かりませんでしたので、ソ連のやることはひどいけれど、チェコの方もどうなってんだ・・・、という心配があったのです。
 この写真集は、1968年8月21日からの1週間、主としてプラハ市内の様子をとらえた写真からなっています。本当に緊迫した街の様子がひしひしと伝わってきます。日本で言えば首都・東京にアメリカ軍が戦車をともなった兵隊が進駐してきて支配するという事態が続いたわけです。チェコの人々はじっと我慢して、ソ連をはじめとする各国軍40万の兵士が退去するのを静かに待ったのです。偉いですね。
 死者100人、重軽傷者900人で済んだのは、今からいうと不幸中の幸いでした。いかにチェコの国民がじっと冷静に対応したかが分かります。なにしろ、ソ連軍の進駐に呼応する予定のチェコ人幹部がきちんと名乗り出ることができず、ずっと裏切り者扱いされたままで権力を握れなかったのです。
暴力回避がずっとアピールされました。そして人々は、路上にいる武装兵士を無視し、言葉を交わさずに広場を清掃しました。さらには、街路名、施設や役所の看板や標識をペンキで塗りつぶしました。よそから来た人間がプラハのどこにいるか分からないようにしたのです。すごい知恵ですね。その写真もあります。
 大きな広場で戦車が立ち往生し、市民がぎっしり取り囲んでいます。これじゃあ、とても武力制圧したとは言えないでしょう。人の波にロシア兵が埋もれてしまっているのですから・・・。そして、ときに戦車が火に包まれてしまいます。それでも、市民は誰も武器を持っていないのです。武器を手にしているのはソ連軍兵士だけ。
素手のまま、ソ連軍戦車の前に立ちふさがるチェコ青年の写真があります。ジャンパーを広げて胸を出し、銃をかまえる兵士に、射てるものなら射ってみろと抗議の声をあげて叫ぶ青年もいます。
 人々は広場から消え、また現れて座り込みを始めます。大群衆が座り込みをしたら、進駐軍の兵士は手も足も出ません。
 『プラハの春』(春江一也。集英社)を読んだときの震える感動を思い出しました。
(2011年4月刊。3800円+税)

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2011年7月27日

地方議会再生

社会

著者    加茂利男・白藤博行ほか  、 出版   自治体研究者

 身近な存在であるはずの地方自治を黒い雲が覆っています。河村名古屋市長、橋下大阪府知事そして阿久根の竹原前市長が震源地です。この三人は、議会を徹底的に批判し、議員定数の削減、議員報酬の半減などを主張し、これに応じない議会と真っ向から対抗し、住民を扇動する。
 いま、大阪府下の市町村長や議員のなかには橋下知事と対立するのは得策ではないという雰囲気がある。橋下流の政治手法が一種の威嚇効果を発揮している。
 議会は、ほんらい社会のなかにある違った意見や利益を代表する議員や政党が出てきて、意見を調整して合意をつくる会議体であり、社会の多様性を議員の多様性が反映している。言いかえると、議会には、もともと異なる意見がぶつかって、調整や妥協を経て決定に至るという、まだるっこい性質がある。議会民主主義を否定してしまうのは、危険だ。
 議会の意見と知事や市町村長の意見が異なることは当然十分に考えられるし、その対立の出現は、むしろ望ましい事態である。異なる意見と対立は、討論とお互いの譲歩によって解消されていく。
 議会を軽視し、無視するというのは、歴史的にみると独裁者のやってきたことである。
 阿久根の竹原前市長の政治手法には4つの特徴があった。その1つは、敵を明確に設定し、敵を攻撃することによって自らの支持を獲得・拡大する。レッテル張りの政治と表裏一体である。その2は、ジェラシーの政治である。公務員給与が高すぎるという主張が人々のジェラシーを刺激する。その3は、巧みなメディア対応である。取材拒否をしつつ、マスコミを操作した。その4は、散発的ではあるが、わかりやすく具体的な施策を行うことによって支持を獲得する。
 マスコミは、議会論戦を丁寧にフォローするのではなく、絵になる部分、議会の欠席や議場内の混乱などをフォローアップする。そのため、「顔の見える」首長とそれを妨害する「顔の見えない」議会という構図が成立しやすい。
 橋下大阪知事のマスコミ露出度は高い。前任の大田氏が145件、その前任の横山ノック氏が204件であるのに対して701件とダントツの回数である。
 橋下流の交渉術は、合法的な脅し、利益を与える、ひたすらお願いするという三つの法則からなる。橋下知事にとって、言葉は議論を通じて合意を得る「熟議」のための道具ではなく、手練主管、時にはウソも肯定される交渉術の要素なのであって、政治も交渉を通じて自らの構想を実現するための手段なのである。
 先日の条例制定もひどいものでした。条例によって教員の自主性をまったく踏みにじっても平然と得意がる橋下知事のえげつなさには呆れ、かつ怒りを覚えます。同じ弁護士であることに恥ずかしさすら感じてしまいます。大阪府民の皆さん、なんとかしてくださいな。
(2011年4月刊。1800円+税)

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2011年7月26日

ユダヤ人大虐殺の証人 ヤン・カルスキ

ヨーロッパ

著者    ヤニック・エネル  、 出版   河出書房新社

 重たい本です。いえ、220頁ほどの軽い本なのですが、読み終えると、ずっしり心に重くのしかかったものを感じます。強制収容所に忍び込んでユダヤ人大虐殺の現場をみて、ワルシャワ・ゲットーにまで立ち入っています。そして、自分の見た事実をイギリスで、アメリカで、つぶさに報告したのに、誰も動いてくれないのです。アメリカの大統領にいたっては報告の最中、何度もあくびをかみ殺していたのでした。ええーっ、嘘でしょと叫びたくなります。でも、アウシュビッツなどの強制収容所を、少なくともその周辺を爆撃すれば良かったのに、連合軍は近くの工場を攻撃目標としても、収容所やそれに至る線路などを爆撃することはありませんでした。その理由は、ユダヤ人が逃げ出してきて、自分の国にやってこられたら困るということだったようです。そして、ソ連のスターリンへの配慮でもありました。なんということでしょうか。そこで、著者は絶望感に陥り、長く口を閉ざすことになります。大学の教員として、学生たちには少し話していたようですが・・・。
 著者はポーランド人です。カトリックを信じるユダヤ人だとも自称していたようです。なぜ何百万人ものユダヤ人が殺されてしまったのか、その問いかけに対する答えは、実に重いものがあります。
 レジスタンス運動の捕まったメンバーに対して、次の言葉とともに青酸カリの錠剤が2つ送られてきた。
 「きみは勇敢勲章を授けられた。青酸カリを添える。また会おう。同胞」
それでも著者はナチス・ドイツの魔の手から脱出することができたのでした。もちろん、多くの人の援助がそこにありました。
 ユダヤ人の組織(ブンド)のリーダーは言った。連合軍に理解させなくてはいけないことは、ユダヤ人には防御手段がないという点だ。ポーランドでは誰にも、この絶滅政策を妨げることができない。レジスタンス運動だけでは、少数のユダヤ人しか救えない。連合国の列強が彼らを救いに来なくてはならない。外からの援助が必要だ。ナチスは、ポーランド人のように、ユダヤ人を奴隷にしようとしているのではない。彼らは、ユダヤ人を絶滅させたいのだ。この両者はまったく違う。世界は、まさにこのことを理解できない。説明しようとしても、このことが説明できない。
 ヤン・カルスキは正確な事実を確かめようと、ブンドのリーダーに質問した。ゲットーのユダヤ人のうち、既に何人死んだか。収容所に移送された人数分が死者だというのが答えだった。ヤン・カルスキは驚く。強制移送されたもの全員が殺されたのか?そうだ、全員だ。リーダーは断言した。心が寒くなる回答です。
 連合国は恐らく、1年か2年あとには戦争に勝つだろう。しかし、ユダヤ人にとっては遅すぎる。そのときには存在していないのだから。西洋の民主主義国家は、いったいどうして、ユダヤ人がこのように死んでいくのを見殺しにできるのか・・・?
ヤン・カルスキは、1942年11月、イギリスに到着し、ポーランド亡命政府に報告することができた。ロンドンからみると、ポーランドの存在など、たいした問題ではなかった。この戦争の機構と、その経済規模があまりに大きいため、ポーランドの状況などあと回しにされてしまう。
 ヤン・カルスキはニューヨークに行き、ユダヤ人のフランクファーター最高裁判事にも訴えた。
 「そんなこと、信じられません」
 「私が嘘を言っているとお考えですか?」
 「あなたが嘘をついたといったのではありません。私にはそんなことは信じられないと言ったのです」
 1943年にはヨーロッパのユダヤ人が絶滅させられつつある事実を信じるのが不可能だったことから、「世界の良心」は揺り動かされなかった。同じくルーズヴェルト大統領にも直接話して訴えた。しかし、誰もヤン・カルスキの話を信じなかった。信じたくなかったからだ。何百万人もの人間を抹殺するなんて、不可能だと言い返した。ルーズヴェルトは驚いてみせたが、その驚きは偽りにすぎなかった。彼らは全員知っていたのに、知らないふりをしていた。無知を装った。知らないほうが、自分たちに有利だったから。そして、知らないと思い込ませることが利益になった。
 しかし、諜報機関はちゃんと働き、だから彼らは知っていた。イギリスは情報を得ていたし、アメリカも情報を得ていた。事実を十分に知りながら、ヨーロッパはユダヤ人絶滅政策を止めさせようとはしなかった。イギリスとアメリカの消極的加担を得て、ヨーロッパのユダヤ人はナチスに絶滅させられつつあり、続々と死んでいった。
 ポーランド人とは、レジスタンス運動を意味する。ポーランド人であるとは、すべての圧制に反対することなのだ。ポーランド人は、ヒトラーに対してだけでなく、スターリンとも闘った人だ。ポーランド人は、いつの世でもロシア人に対してたたかった人だ。ポーランド人とは、何よりもまず、共産主義の嘘にだまされなかった人のこと。そしてもう一つの嘘、アメリカによる支配の嘘、民主主義を自称する国に特有の罪深い無関心にもだまされない人のことだ。うむむ、こんな言い方が出来るのですね。重たい指摘です。
 ヨーロッパのユダヤ人を救済することが誰の利益にもならなかったら、行動しなかった。イギリス人もアメリカ人も、ヨーロッパのユダヤ人を救えば、自分たちの国に受け入れなくてはいけなくなるのを怖れた。パレスチナをユダヤ人に開放しなければならなくなるのを、イギリスは嫌がった。
 アメリカによって巧みに組織されたニュルンベルク裁判は、ヨーロッパのユダヤ人絶滅政策に対する連合国の加担を言及しないための隠れ蓑でしかなかった。もちろん、罪を犯したのは、ナチスである。ガス室を設置したのはナチスであり、ヨーロッパのユダヤ人数百万人を強制移住し、飢えさせ、辱め、拷問し、ガスで殺し、焼いたのもナチスだ。だが、ナチスに罪があることは、ヨーロッパとアメリカを無罪にするものではない。
 初めは、なんだか読みにくいなと思っていましたが、途中からは一気呵成に読了しました。
(2011年3月刊。2200円+税)

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2011年7月25日

チョウはなぜ飛ぶか

生き物

著者    日高 敏隆・海野 和男  、 出版   朝日出版社

 チョウの楽しい写真が満載の素敵な本です。
 チョウは、はね(翅)の根元ではなく、どうたいに背中と腹をつなぐ筋肉があり、この筋肉が伸びたり縮んだりすると、背中と腹が動く。それにくっついてはねも動くから飛べる。
 チョウとガは、ともに鱗翅類という、羽に鱗粉がついた昆虫の仲間である。昼間に飛ぶのがチョウ、夜に活動することにした仲間がガと呼ばれる。
チョウは紫外線を光として感じる。モンシロチョウは、紫外線をふくめた色の違いでオスとメスを見分けている。
 人間には紫外線は見えない。というのも、紫外線の作用はとても強く、もし目の奥まで入ってくると、目の奥が日焼けしたようになって、見えなくなってしまう。それでは困るので、紫外線を吸収するレンズのようなものが入っていて、紫外線がそこでとまり、奥まで入ってこないようになっている。モンシロチョウは紫外線が見えるけれど、赤色は見えない。
チョウの飛ぶ道(チョウ道)は一定だが、それは地形によるのではなく、光と温度による。だから、春と夏ではチョウは道は異なる。季節によって、天候によって、一日のうちの時間によって、そして気温によってさまざまに変わる。しかし、個々のチョウによって変わるのではないチョウ道が存在する。だから、チョウ道は確実に予言できる。しかし、チョウ道があるのは、アゲハチョウの仲間だけでモンシロチョウにはチョウ道はない。
 チョウは花を見るとき、姿、形、大きさによって判断していない。モンシロチョウは、赤、黒、緑には寄ってこない。チョウは、すぐ近くからしか見えないから、いつも一生懸命はねをヒラヒラさせて、自分の近くを探している。
 こんな見事なチョウの写真集が1900円で手に入るなんて、申し訳ない気がするほどでした。
(2011年6月刊。1900円+税)

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2011年7月24日

フェルメールの光とラ・トゥールの焔

ヨーロッパ

著者    宮下  規久朗   、 出版   小学館ビジュアル新書

 フェルメールの光の粒も、ラ・トゥールの静謐な焔も、レンブラントの輝く黄金も、ダ・ヴィンチの天上の光も、美しい光は美しい闇がなければ描けない。
 これは、この本のオビにあるセリフです。まことにもってそのとおりです。この本を読むと、けだし至言である、とつい言いたくなってしまいます。
 レオナルド・ダ・ヴィンチの絵は、光はどこから差しているのかわからないが、人物たちは影の中から浮かび上がってくる。レオナルドは、背景を漆黒の闇に塗りつぶすこともあった。
16世紀のイタリアに来たギリシャ人、エル・グレコの「ロウソクの火を吹く少年」は、燃えさしの火種と、それが照らし出した少年の顔や手の明暗を、実際に観察したようにとらえている。宗教的テーマではなく、光と影の迫真的な描写がそこに認められている。
カラヴァッジョは、光と影による空間の描出、そしてドラマの演出に重点を移し、その技術を高めた。その絵「聖マタイの召命」は、見事です。
 17世紀はじめのヴェネツィアで活躍したドイツのエルスハイマーは夜景表現を得意とした。彼の「エジプト逃避」には、満天の星、天の川、そして星座が正確に描かれている。これって、すごいことですよね。天体望遠鏡の精度はそれほどのものではない時代に・・・。
 17世紀はオランダが美術史上類を見ないほど濃密で高度な美術の黄金時代を迎え、科学や哲学も発展したため、オランダの世紀と呼ぶこともある。
 オランダ絵画の黄金時代を代表する三代巨匠ハルス、レンブラント、フェルメールは、いずれもイタリアには行っていないが、みな深くカラヴァッジョ様式の影響を受けている。
 レンブラントの絵「夜警」っていいですよね。ぜひ、一度現地に行って現物を拝みたいと思います。
 ゴッホの「聖月夜」も最後のところで紹介されています。夜の闇のなかに、くっきり光かがやくように描くのって、希望があっていいですね・・・。素敵な新書でした。
(2011年4月刊。1100円+税)

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