弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(古代)

2022年5月17日

九州装飾古墳のすべて


(霧山昴)
著者 池内 克史 、 出版 東京書籍

日本列島にある装飾古墳は600基ほど。古墳総数10万基のなかではごくわずか。
半数以上が九州の北部ないし中部に集中している。次いで、北関東から南東北にかけての地域と鳥取県を中心とする山陰東部。
福岡の石人山古墳は石棺系の装飾古墳。福岡の竹原古墳は石室の奥壁に被葬者の事続を表したと思われる物語風テーマが描かれている、壁画系。ほかに、石障系と横穴系もある。
奈良県の高松塚古墳で壁画が発見されたのは1972(昭和47)年のこと。このとき、極彩色の飛鳥美人が突然、世の中にあらわれ、世間の耳目を大いに集めました。私も本当にびっくりしました。まるで源氏物語絵巻が古墳時代にもあったと思いました。写実性と革新的な描画技法が注目され、また使われた顔料も、それまでの装飾古墳とは異なっていたのです。
装飾古墳は、古墳文化の中心である近畿地方中央部になぜか存在していない。著者は、ここに注目しています。さらに著者は、「磐井(いわい)の乱」と一般に呼ばれている筑紫君・磐井の墓とみられている福岡・八女の岩戸山古墳が、継体大王の墓である大阪の今城塚古墳と類縁関係が認められることを強調しています。両者は対立ばかりしていたのではないというのです。
福岡の筑後川流域にある装飾古墳では、同心円文が好んで描かれ、また、船が主要な画題になっている。その船は、天鳥船(あまのとりふね)、つまり葬送船。これは海上他界観が存在したことを裏づけるもの。
装飾古墳は、いったい誰のため、誰が見るものなのか...。著者は会葬者に見せるためのものと考えています。なるほど、と思いました。
装飾古墳は、実物は日々劣化しているので、それをどうやって保存するか、著者たちは、最新のコンピューター技術を駆使して、その保存に挑戦しています。CG技術を駆使することで、実際には古墳の中に立ち入らなくても、あたかも古墳の中にいるかのような体験を味わってもらう技術です。すごいことですね...。
少しばかり高価な本ですが、実は、DVDが付録としてついていて、それによって3Dを見て楽しめます。本もカラー写真がたくさんあって、装飾古墳を居ながらにして見て楽しめる貴重な本となっています。ぜひ、あなたも手にとってみてください。
(2015年6月刊。税込3080円)

2022年4月 9日

倭国の古代学


(霧山昴)
著者 坂 靖 、 出版 新泉社

この本は、うれしいことに邪馬台国は九州にあったとしています。ただし、3世紀半ばの日本列島において、広く西日本一帯を統治するような強大な権力を保持した女王の存在を認める余地はないと断言するのです。つまり、女王卑弥呼や壱与の統治の範囲は北部九州に限られていたのです。
奈良の纏向(まきむく)遺跡の規模が小さく、また中国官人の流入を示す楽浪系土器の出土がまったくないことが理由としてあげられています。
これに対して、4世紀になってヤマト王権は奈良盆地に成立したと断言します。先ほどの纏向遺跡を支配の拠点としていて、ヤマト王権の初代王墓は箸墓(はしはか)古墳だとしています。
朝鮮半島にかつて「任那日本府」があったと教科書にありましたが、今は削除されています。そのころ「日本」という国号は使われてもいなかったのです。そして、朝鮮半島では6世紀まで、ここには小地域を支配していた部族国家群しか存在していなかった。ただし、倭国の各地の王や倭人が朝鮮半島南部で積極的な活動をしていたこと自体は事実。
5世紀ころのヤマト王権は、奈良盆地東南部、中央部と北部そして大阪平野南部という3ヶ所に王の支配拠点を設け、それらの王が鼎立(ていりつ)していた。地域支配を実現した王どうしが、相互に激しい権力闘争をくり広げ、しのぎを削っていて、政権の安定にはほど遠い状況にあった。したがって、日本列島各地は、まだヤマト王権の支配下にはなかった。
稲荷山鉄剣銘文の「ワカタケル大王」は、「大王」を初めて称したのが、この「ワカタケル」であった。そして、このワカタケル大王は中国の順帝に倭王武として朝貢した。「かづらぎ」の王やキビ王権と対立し、その反乱を抑えて大王に即位したのがワカタケルだった。「キ」の王の力をどうやって抑えるかが課題だった。
倭国において、継体(オオド)大王の晩年から鉄明大王の時代にかけてのころ、朝鮮半島西南部、南部の小国はすべて滅亡した。
朝鮮半島西南部を出自とする渡来系集団が飛鳥(アスカ)の開発を主導し、氏族へ成長する。それが蘇我氏である。
鉄明大王の時代に、飛鳥に拠点を構えたのが蘇我稲目である。稲目の女(むすめ)の堅塩(きたし)女臣が、鉄明大王の妃であり、用明大王と推古大王の母である。
倭国王となって中国と交渉を開始してからも国土を統一するまでには、5世紀のあいだ、ほぼ100年という期間を要した。日本列島に統一国家が成立したのは、飛鳥時代以降である。
写真や図もたくさんあって、古代史についての総復習にもなる本として強く推薦します。
(2021年11月刊。税込2970円)

2022年3月26日

日本の土偶


(霧山昴)
著者 江坂 輝彌 、 出版 講談社学術文庫

縄文時代の土偶について写真とともに学ぶことができました。
日本の土偶は縄文時代の早期に始まり、日本列島全土でつくられていた。ただし、早・前期の土偶は、中国・四国・九州地方などの西南日本では一点も発見されていない。関東地方でも、前期の発見例はきわめて少ない。
前期の土偶に共通するのは、顔面部の眼・鼻・口・耳などの表現をまったく欠いていること。
縄文時代中期前半に、東京・八王子から神奈川・山梨・長野にかけて、自由調達・雄大豪壮な文様を施した、原始芸術の極致と言える土器がつくり出された。そして、土偶のほうも、母が乳児を横抱きにする土偶が発見されている。
『魏志』東夷伝の倭人のところに、壱岐・対馬・松浦などの西北九州に居住している人々が入墨して、それによって鮫(さめ)などの大魚を威圧しながら、潜水して魚介類を捕採していると書かれている。
縄文時代の貝塚は、単なるごみ捨て場ではなかった。あらゆる生霊に対する再生を願い、食糧の豊産を祈る場所であった...。
ところで、土偶って、その多くは意図的に破砕されていたことを、この本を読んで初めて知りました。
土偶は、遺跡一帯の場所を選ばず、どこからでも、無造作になげ棄てられるような状況で小破片となって発見される。まだ、この謎は解明されていないようです。精魂こめて製作したはずの土偶を、なぜこまかく打ち砕いて、投棄してしまうのか...。これには、女神を殺し、その身体から作物を生み出させようとしたという解釈が紹介されています。ええっ、これって本当でしょうか...。
この文庫本は、元は1990年に出版されたものです。その後の進展は反映されていないようですが、たくさんの写真とともに土偶について何となくイメージをつかむことができました。
(2018年2月刊。税込1155円)

2022年1月15日

土偶を読む


(霧山昴)
著者 竹倉 史人 、 出版 晶文社

日本全国に何万点と出土している土偶について、著者は食用植物と貝類をかたどっているものという仮説を提唱し、本書でそれを裏付けています。なるほどね、そうだろうなと思いました。
縄文時代は1万4000年間も続いている。これは実に長い期間ですよね。
そして、縄文中期に土偶はデザインが多様化するだけでなく、大型化、立体化した。さらには出土点数が爆発的に増加した。そして、縄文時代晩期にピークを迎えると、弥生時代に入って、突如として衰退・消滅してしまった。
縄文時代中期に人口が増加した最大の要因は、食料となったトチノミのアク抜き技術が成立して炭水化物がとれるようになったことにある。
著者は、土偶は当時の縄文人が食べていた食物をかたどったフィギアであるという仮説に思い至った。
ハート形土偶が集中的に出土している会津地方は、日本有数のオニグルミの里だった。
合掌土偶と中空土偶を使用していた人は日常的にクリを資源として利用していた。
椎塚土偶はハマグリをかたどった土偶。
みみずく土偶は、イタボガキ(貝)をかたどったフィギア。
星形土偶の頭頂部はオオツタノハ(貝)の形状に近似している。そして星形土偶が出土した貝塚から、実際にオオツタノハ製貝輪が発見されている。
カモメライン土偶の顔はマムシの顔だった。ヘビのなかで、猫の目のように瞳孔が縦に細くなるのはマムシだけの特徴。
結髪(けっぱつ)土偶はイネをかたどった土偶。
刺突文土偶はヒエをかたどったフィギア。
遮光器土偶は、サトイモの精霊像であり、その紡錘形に膨らんだ四肢はサトイモをかたどっている。
著者は考古学者ではなく、あくまで人類学者です。なので、学会でどのように評価されているのか知りませんが、面白い提起で、説得力はあると思いました。その後、この本について、トンデモ本に近いもので、科学的な裏付けに乏しいと酷評されているのを知りました。
(2021年5月刊。税込1780円)

2021年12月25日

うん古典


(霧山昴)
著者 大塚 ひかり 、 出版 新潮社

子どもたちの大好きな『うんこ漢字ドリル』が大ヒットするなかで、実は日本人は昔から大人も「うんこ」の話が大好きだったという、うんちくをこれでもかと傾けた本です。まさしく「うんこ」ワールドの世界が大爆発します。
王朝文学は、神話に劣らぬほどの「うんこ話」の宝庫。もっとも汚れた者こそが、もっとも神聖な境地に達するという物語のパターンがあった。
侍(さむらい)にとってトイレの付き添いや介添え、これが風呂の用意や掃除とともに、主な仕事になっていた。
鎌倉前期、禅宗の一つ、曹洞宗をおこした道元は、トイレのマナーを具体的かつ詳細な論述していた。
トイレは仏の説法の場でもあったので、そこでのマナーは、仏教的にも非常に大切なものだった。
『正法眼蔵』のトイレマナーは、身を清浄に保ち、トイレを正しく使うことで、心が安定、自分も他者も幸せになる。
これってコンマリ「近藤真理恵」本で、おすすめのことですよね...。
排泄の場であるトイレは、古代は乙女を犯そうと神が現れたり、江戸時代には人の尿をなめたり、尻子玉を抜こうとする河童が出てくるので、鬼神と出会いやすいというパラドックスがあった。つまり、トイレは、この世ならぬ異界への出入口だ。
現代では、便は健康状態をはかるバロメーターだ。健康第一を唱える人なら誰だって、その日の便の状態はよくよく視認しているのです。
いやあ、勉強になりました。
(2021年4月刊。税込1705円)

2021年11月21日

アクセサリーの考古学


(霧山昴)
著者 高田 貫太 、 出版 吉川弘文館

新羅(しらぎ)は、ほかと比べて貴金属のアクセサリーがひろく流行した社会だ。膨大な数の金製の耳飾りが出土している。百済(くだら)の耳飾りは、新羅に比べると、資料数が少ない。
新羅の冠には、帯冠、冠帽、冠飾りが確認でき、その材質は、金、銀、金銅。百済では、帯冠の資料は、ごくわずか。
新羅と百済の王や王族などの墳墓には、飾り履(くつ)が副葬されることがある。冠といっしょに出土することが多く、着装などは有力な人びとに限定されていた。
新羅では、王陵や有力者の墳墓から指輪が出土することが多い。しかし、指輪は百済や大加耶では、あまり知られていない。古代の「質」(むかわり)は、単に「人質」ということだけではなく、交渉相手の社会に派遣され、そこで自らが属する社会の交渉目的を代弁するようなこと。
古代朝鮮において、もっとも基本となるアクセサリ―は、耳飾り。倭も同じ。
洛東江の下流域の東側に位置する釜山は、その対岸の金官加耶の中心、金海とはちがって、新羅によって早い段階に統合された。
5世紀ころには、釜山地域は、新羅王権とのつながりを深めた。
5世紀の後半になると、長鎖の耳飾りが、倭各地の有力者のあいだでトレンドとなった。
5世紀の後半、倭の外交の一翼を担うなか、百済や加耶系のアクセサリーを取りそろえた地域有力者がいる。それが熊本県の江田船山古墳に伝わったと考えられる。6世紀前半、江田船山古墳から出土した百済の飾り履がある。江田船山古墳の耳飾りは、新羅系とみるのが自然。
磐井(いわい)の乱が起きたのは、1527年のこと。これは、新羅の加耶進攻を契機とし、そこに北部九州と新羅のつながり、倭王権による外交権の一元化の動きがからみあって、勃発(ぼっぱつ)した。これに勝利することで、倭王権は北部九州の主体的な対朝鮮半島交渉を大きく制限することに成功した。
出土したアクセサリーの日韓出土の相違点をことこまかく調べあげ、博物館のデータと根気よく比較していくという地道な作業が学者には求められています。大変な苦労ですね。ただ、そのとき、あれ、これはどこかで見たことがあるぞ、という記憶力も必要のようです。
アクセサリーを通じて、古代日本と朝鮮の王朝との結びつき、対立抗争を想定していくという面白い本でした。写真でアクセサリーを眺めるだけでも昔をしのんで楽しくなります。
(2021年5月刊。税込1980円)

2021年10月29日

酸素同位体比年輪年代法


(霧山昴)
著者 中塚 武 、 出版 同成社

酸素同位体比年輪年代法とは、年輪編の代わりに年輪の主成分であるセルロースにふくまれる酸素同位体比という科学的指標を測定して、その酸素同位体比の変動パターンを年代が既知の資料と未知の資料のあいだで比較するという手の込んだ方法。この方法は、パターン照合で年代を決定する作業において成功する確率が高く、あらゆる種類の年輪に等しく応用できる。そして、夏の気候の年々の変動にも精度よく復元できるというメリットがある。
この方法は2011年から日本では、弥生時代以降の、3000年間の遺跡や建築物の年代決定に応用され、急速に発展してきて、日本は、この分野で一人勝ちの状況になった。
今では、日本には過去3000年分のスギとヒノキの年輪幅のマスタークロノロジー(標準年輪曲線)ができあがっている。これは、世界でも抜きんでた研究の成果だ。
この方法は低コストで誤差なく年代が決定できる。この方法によると、年単位での年代決定が可能。
なぜ酸素なのか...。酸素の同位体比は、過去の気候変動を記録しやすい。水は気候変動の主役であること、酸素は必ずふくまれていることによる。
セルロースは、いったんなくなったら、二度と周囲の物質と交換しない。
ヒノキやスギ、マツなどは針葉樹。紀元前にさかのぼると、日本でも広葉樹が繁茂していた。シイ、カシ、クスノキ、クヌギ、クリ、ケヤキ、サクラなど...。針葉樹は、深い山の奥にはえていて、古代の人々には、切り倒して低地まで運び出すのが困難だった。広葉樹のほうは、低地の集落の周辺に生えていたので、利用するのに都合がよかった。
この方法による年代判定の結果が、文献史学や考古学的な推定と整合的であったことから、大きなスポットライトがあたった。分析コストも、非常に安いというメリットがある。
年輪によって建造年を安定しているというのは前から知っていましたが、今はもっと進んでいることを知ることができました。軍事方面でない、こちらの人類の発展史における学問の技術・向上には刮目(かつもく)されます。
(2021年6月刊。税込2970円)

2021年9月10日

「陵墓」と世界遺産


(霧山昴)
著者 陵墓公開記念シンポジウム委員会 、 出版 新泉社

上石津ミサンザイ古墳(履中陵古墳)や大山古墳(仁徳陵古墳)の海側からみた鳥瞰図(ちょうかんず)があります。地形を巧みに利用して段丘の縁辺部にできるだけ寄せ、海のほうからよく見えるようにつくっていることが分かる。なるほど古代の昔は、海が真近だったのですね。
前方後円墳、大型古墳群の移動、陵墓のあり方から考えると、『日本書紀』などの記載をもとに、日本の天皇制が古代から確固たる男系継承がおこなわれてきたというのは、学術的にはとても無理な話であって、そんなことがまかりとおっていることに、考古学者はもっと怒るべきだ。ここ10年、いや20年来の考古学の学界は、なにか非常に危険だ。ひどすぎる。
これは、陵墓をもっと大々的に公開し、学術的な研究をすすめるべきだということだと思います。まったく賛成です。それこそ30年計画をたてて、順次、陵墓を学術的に発掘し、その成果を公開していくべきではないでしょうか。そうすれば日本の考古学はさらに活性化するし、天皇制についての国民の議論も発展すると思います。
継体大王が登場するのは6世紀(527年)ですが、その前の5世紀にも、天皇(大王)の系列が違っていたようです。
允恭(いんぎょう)天皇は、即位すると履中(りちゅう)系と関係の深かった葛城(かつらぎ)玉田宿禰(たまだすくね)を倒した。また、允恭の子の雄略天皇は、葛城円大臣(かぶらのおおおみ)を焼き殺し、履中の子である市辺押磐(おしほ)皇子を惨殺して即位する。
つまり、履中、反正という履中系に対して、允恭以降の系統とは対立関係にあったと考えられる。
『宋書』倭国伝に現れる倭の五王は、2系統に分かれるという見方がある。つまり、倭の五王のうち、「言賛・珍」は兄弟、「済・興・武」は済が父親で、興と武はその子だが、珍と済の続柄が記載されていない。なので、この両者は異系ではないか、ということ。すなわち、この二つは王族としては異系で、履中そして反正と続いた王統に対し、異系の允恭が即位することで主導権が交替した、ということ。
このように古代日本の天皇(大王)の交替劇をとらえると、日本は古来より男系による万世一系なんていうのは、まったく事実に反する夢物語だということです。一刻も早く、陵墓の学術的発掘調査に踏みきってほしいと私は思います。
(2021年5月刊。税込2750円)

2021年8月 3日

女帝の古代王権史


(霧山昴)
著者 義江 明子 、 出版 ちくま新書

古代の大王(天皇)の即位年齢の高さには驚かされます。
継体58歳、用明46歳、天智43歳と、ほぼ40歳以上。女帝のほうも推古39歳、皇極49歳、持統46歳。
7世紀の末に、祖母である持統の強力な後見のもとで、文武(もんむ)天皇が15歳で即位するまで、6~7世紀の日本では、熟年男女による統治が続いた。というのも、このころ、日本は、中国・朝鮮諸国との対立・緊張関係のもとで、倭国が古代国家としての体制を確立していく激動期だったから、支配機構が未熟ななかで、大王には群臣を心服させるだけの統率力・個人的資質が必要だった。なので「幼年」の王はありえなかった。
欽明が31歳で大王に即位しようとしたとき、31歳では「幼年」なので、国政を担うには未熟とみられたと『日本書紀』に書かれている。斉明は即位したとき62歳、皇子の中大兄は30歳。
群臣が統率力のある大王を選ぶとき、男女がという性差は問題にならなかった。
卑弥呼が「共立」された3世紀から、連合政権の盟主が倭王となる4~5世紀を通じて、血統による王位継承は原則となっていなかった。王は、連合を構成する首長(有力豪族)たち(群臣)が選ぶものだった。
平城京の発掘がすすむなかで、内裏(だいり)のなかにキサキたちの居住空間、後宮殿舎に相当する建物は存在しないことが明らかになった。奈良時代の皇后・キサキたちは、内裏の外に独自の宮(宅・ヤケ)を営んでいた。そして、キサキたちは、それぞれ自分の宮で、自分の生んだ御子(みこ)を育てていた。
古代は、男女の合意による性関係が、すなわち婚姻だった。女性の合意がなければ、姧とされた。
古代の婚姻の基本は、妻問婚(つまどいこん)といわれる別居訪問婚。
8世紀ころまで、男女の結びつきはゆるやかで、簡単に離合を繰り返した。男が複数の女のもとに通う一方で、女も複数の男を通わせることのできる社会だった。
奈良時代の貴族男女は夫婦別墓を原則とした。それは、男女別々の公的「家」の維持をはかる国家の方針でもあった。
7世紀半ばまでの王宮は、新しい大王が即位するごとに新たな宮にうつった。これを歴代遷宮といった。大王ごとに政治基盤となる勢力が変動し、その本拠地が異なっていたからだ。
7世紀から8世紀初めにかけて、倭で推古、皇極(斉明)、持統、新羅で善徳、真徳、唐では則天武后と、女性の統治者が輩出した。しかし、その後は途絶えた。
7世紀と同じく、8世紀も男帝と女帝が、ほぼ交互に即位した。このとき、女はこれまでどおり熟年で即位し、男は年少でも即位した。熟年で即位し、経験を積んだ「女帝」が退位後も未熟で年少の「男帝」を補佐し共治するという形態は、持統が創始した。
女帝は決して、中継ぎの臨時的なものではなく、したがって名目的な大王ではなかったということが明快に解説されています。古代日本を知りたい人、「万世一系」の天皇制に疑問をもつ人には必読の新書だと思います。
(2021年3月刊。税込924円)

2021年7月27日

古代日本の官僚


(霧山昴)
著者 虎尾 達哉 、 出版 中公新書

こういう本を読まないと歴史の真相というか実態は分からないものだと、痛感しました。
古代日本の朝廷は、厳粛な規律が守られ、よく統制のとれたものとばかり思い込んでいましたが、実際には、平気で遅刻し、無断欠勤が横行していて、しかもそれを上は黙認というか、放任していたというのです。ええーっ、そ、そんなバカな...、という驚きの事実がオンパレードなのです。
古代日本の官僚機構では、実は官人たち、とくに下級官人たちによる怠業、無断欠勤、無断欠席が横行していた。古代の日本では、律令官人は、規律正しくもなく、勤勉でもなかった。
下級の律令官人は、官僚編成に手こずった、かつての伴造(とものみやつこ)たち、つまり中下級豪族層の末裔(まつえい)だ。冠位十二階は、施行して40年以上たってもなお、中央の上級豪族層と一部の中下級豪族の冠位にとどまった。
聖徳太子の憲法17条は、法ではなく、「官僚の心構え」を説く訓令。
大化の改新のころ、中下級豪族層の官僚化は、はかばかしくすすんではいなかった。
壬申(じんしん)の乱(672年)というクーデターによって誕生した天武天皇(本当は大王。まだ天皇とは呼んでいなかった)のとき、律令官人が大量に生まれた。
天武天皇は、クーデターで挙兵したとき周囲にいた20人ほどの手勢を大舎人(とねり)を天皇の身近に仕えさせ、忠良なる官人に育て、能力に応じた官職につけた。そのころ、下級官人は、冠位(位階)を、あまりありがたがらない、そういう人々だった。
それでも、下級官人は、一般庶民とは違い特権があった。調、庸、雑徭(ぞうよう)が免除された。犯罪でも、救済措置があった。
上級官人は150人前後で、位階が昇進していくと、物理的にも天皇に近づいていく。これに対して、六位以下は儀式に参加することもなく、天皇を見ることもない。そして、下級官人は、儀式に無断欠席するものが多かった。ところが、欠席しても「代返」(だいへん)によって出席したと扱われた。この状況に対して、政府の対応は寛容だった。
8、9世紀の律令時代を返して、六位以下の官人たちは、不断に無断欠席を繰り返していた。そもそも、六位以下は、儀式に出席することを期待されず、また強制されない人々だった。なので、彼らは、したたかに、堂々とサボタージュした。
儀式があるときには、遅刻して参列し、天皇からの下賜品だけはちゃっかりもらうという厚かましさがあった。
「不仕料」(ふしりょう)。これは、各官庁で員数分を請求して得た人件費を精勤者に手当として支出したあと、残った不支給分のこと。官人たちが、怠業・怠慢によって欠勤すると、その分の人件費が浮き、官庁の運営経費が多少とも潤うという仕組みになっていた。
このように古代日本の律令国家は、官人の怠業・怠慢をある程度は織り込みながら、無駄なく効率的なランニングコストで官僚機構を動かしていこうという、合理性を重んじる現実的で、したたかな、専制君主国家だった。
いやはや、なんということでしょう。古代の官僚の世界の実態に大きく目を開かされました。
(2021年3月刊。税込924円)

1  2  3

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー