弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(古代)

2019年2月17日

古墳の被葬者を推理する

(霧山昴)
著者 白石 太一郎 、 出版  中公叢書

天皇陵の発掘が許されていないのは、現代日本で生きる私たちにとって日本史の真実が分からない点で、大変困ることだと思います。天皇制をタブーにしてはいけません。
大王はいつから天皇と呼ばれるようになったのか、継体大王はどこから来たのか、万世一系というのは本当なのか、朝鮮半島からの渡来人と日本古来の人々との混住、混血はどのようにすすんでいったのか・・・。知りたいことはたくさんあります。天皇陵の学術的発掘がすすめば、これらの謎の解明も一歩すすむことになると思うのです。「倭の五王」とは誰を指すのか、その墓はどこにあるのか・・・、ぜひ知りたいですよね。
著者は、箸墓(はしはか)古墳は、奈良盆地東南部に営まれる初期の歴代倭国王墓の最初のものであり、その造営年代が3世紀中葉ないし中葉過ぎであることから、『魏志』倭人伝に記された倭国女王の卑弥呼が被葬者の有力候補であるとします。断定できないけれど、その蓋然性はきわめて大きいというのです。
ヤマタイ国九州説の私にとっては残念な結論です。
継体大王の墓が、高槻市にある今城古墳であることは、ほとんどの研究者の意見が一致している。継体が王位継承を主張しても、これを認めない勢力が畿内にも多くいて、即位の20年後にようやくヤマトの宮殿に入ることができた。
継体大王は、入婿の形でヤマト王権の王統につながることができた。
蘇我稲目の墓は明日香村平田の梅山古墳、蘇我馬子の墓は明日香村島庄の石舞台古墳と考えてよい。
私は残念なことに、明日香のこれらの古墳にまだ行っていません。ぜひ、現地に立って古墳現物をじっくり見てみたいと考えています。
(2018年11月刊。2000円+税)

2018年11月 1日

縄文美術館

(霧山昴)
著者 小川 忠博、小野 正文、堤 隆 、 出版  平凡社

縄文文化をしっかり見届けることのできる見事な写真集です。いま東京で縄文美術が展示されているようですが、なかなか行けません。仕方なく、この本を手にとって眺めることにしました。写真とあわせて解説も行き届いていて、とても分かりやすい本です。
フリーカメラマンの小川忠博氏は、35年ほども縄文時代の遺物を撮り続けてきたといいます。その圧倒的蓄積が、この写真集に見事に結実しています。
縄文時代とは、1万6千年前から3千年前までの1万3千年間をさす。
縄文人は、男性が身長160センチ弱、女性は150センチ弱。顔は短く、鼻は高く、目は大きく、唇は厚く、そして、耳垢は湿っていた。
平均寿命は40歳くらい。夫婦と子どもたちから成る家族が4件くらい集まって集落をつくっていた。
狩猟では弓矢を使い、犬を一緒にシカとイノシシを狩っていた。
縄文時代が1万3千年のあいだ続いたとして、はじめは数万人だった人口が、中頃には20万人以上にふくれあがったとみられている。
縄文人は、子宝、安産、豊穣、鎮魂など、日常の祈りをこめて土偶をつくっていた。土偶のなかには仮面をつけていたと思われるものもあります。土偶のなかには、有名な遮光器土偶、つまりまるで宇宙服を着ているとしか思えない顔のものもあります。小さな乳房、子を宿したお腹、豊艶を超越した大いなるお尻をもつビーナスには、ただただ圧倒されます。見事な身体曲線差です。
さすがに縄文人の着ていたものは、そのままでは残っていません。でも、編みカゴが現物そのままに残っています。なかにクルミが入っていたカゴです。ヒノキ科の針葉樹の樹皮を見事に編んでつくられています。
小さな石に丸い穴を開ける工法が紹介されています。もちろん鉄はありません。そして硬い石器を使うのでもなく、細い竹や鳥骨にヤスリの役割をする硬砂をつけながら回転させて揉み切りして貫通させるのです。大変な忍耐のいる作業だったことでしょう。 そんなペンダントの原材料になる原石が土器に入って見つかっています。
青森にある三内丸山(さんないまるやま)遺跡に行ってきました。縄文文化に触れて日本の文化を考えてみました。
手にとって一見する価値が多いにある写真集です。
(2018年7月刊。3000円+税)

2018年10月14日

漢倭奴国王から日本国天皇へ

(霧山昴)
著者 冨谷 至 、 出版  臨川書店

いやあ、学者って、さすがです。すごいです。
「漢の倭(わ)の奴(な)の国王の印」と読むと教えられてきましたが、「国王」と読むのはおかしいと指摘します。なるほど、そうだろうなと私は思いました。それに代わって「漢の倭奴国(わどこく)の王の印」と読むと主張します。ええっ、倭奴(わど)なんですか・・・。
中国皇帝が印綬とともに民族の首長に与える称号は「王」であって、「国王」ではない。このころ、「国王」などという称号は存在していない。ふむふむ、そうなんですね。
著者は、「倭奴国」と「倭国」は同じ国を指していると考えています。
『後漢書』に「倭奴国」という表記がある。
朝貢といっても、その実態は自由な海外交易だった。しかし、それを中国側は内外に「朝貢」と呼んでいた。威信を誇示するためである。対する異民族も、文明の中華と関係をもっていることを誇示できたら、内外に優越性を示すメリットがあった。
6世紀の日本、仏教が日本列島に伝来してきたころ、倭人は漢文を自由自在に使いこなすまでには至っていなかった。まだ初歩の学習段階にあった。
ところが、倭王武が中国の皇帝に送った上奏文は典拠を縦横に駆使した正統漢文だった。なので、これを書いたのは朝鮮半島からの渡来人たちだと考えるほかない。
「日出処」は東方、「日没処」は西方を意味する成句。東と西に上下の差などはない。したがって、この句を中国の皇帝がことさら問題にしたとは思えない。
そもそも「日没処」には西方浄土として、負のイメージはない。
「天皇」という語は、中国の古典のなかに確認できる。たとえば、『史記』にある。
天皇の前は、大王などと呼んでいたが、これは、「オオキミ」と呼んだ。
日本は、かつては中国の皇帝から「王」と呼ばれて喜んでいたが、次第に「王」というのは中国皇帝に従属しているイメージが強かったので、「王」ではなく、「天皇」を用いるようになった。
7世紀はじめの推古朝、さらに中期の天智朝においては「天皇」は存在しなかった。7世紀後半の天武朝になって初めて天皇が誕生した。
日本人の中国学者による大変刺激的な問題提起が各所にあり、おおいに知的刺激をうけることができました。薄い割には高価ですので、図書館でお読みください。
(2018年7月刊。3000円+税)

1

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー