弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(古代)

2019年12月 1日

戸籍が語る古代の家族


(霧山昴)
著者 今津 勝紀 、 出版  吉川弘文館

1872年(明治5年)、日本の人口は3480万人。1920年に5600万人、1940年は7314万人。戦前の日本の人口は1億人いなかったのですよね・・・。
18世紀初めは3128万人、1840年は3230万人。近世初頭は1200万人から1800万人のあいだ。
奈良時代は平城京の人口が10万人、全国(律令国家の支配人口)が450万人。
9世紀初頭は540万人から590万人。
奈良時代の平均余命は30歳前後。
日本古代、オジ・オバについて、父方・母方の区別がないのが特徴。
律令制では、男性は15歳以上、女性は13歳以上で婚姻が許される。
古代の戸籍を調べると、かなり高い再婚率が、男女ともに認められる。妻と死別し、富裕な男性は、貧しく孤独な若い女性と再婚していることが古代の戸籍から判明する。
古代の婚姻は通うことから始まった。男性が女性の許(もと)を訪れる通いを経たあとに同居へ移行していったと考えられる。
古代社会では二世帯で居住することは、ほとんどなかった(はず)。親の世代は早くに亡くなっているのが一般的だった。
古代の女性は、財産を所有するとともに経営の主体でもあった。
中世後期の慢性的飢餓状態は、基本的に古代社会にもあてはまった。疾病は3月から5月に多く発生し、死亡は5月から7月に多い。これは、飢餓状態になると、栄養状態が悪化して抵抗力が弱まるからだった。
古代の戸籍が残っていたおかげで、昔の日本人の結婚生活の実情がかなり分かるのです。
とはいっても、古代の戸籍がよくも残っていましたね・・・、驚嘆しました。
(2019年10月刊。1700円+税)

2019年10月14日

埋葬からみた古墳時代


(霧山昴)
著者 清家 章 、 出版  吉川弘文館

またまた認識を改めました。古墳時代、被葬者の半分は女性だったというのです。これには驚きました。後期になると、戦争があって軍事面から男性の比率が高まったのですが、前期から中期まで男性家長と女性家長が同じ比率で存在していました。すなわち、家族集団の長は性別を選ばず、男女ともに継承していた。これは、いわゆる父系社会ではありえないこと。
熊本県宇土市にある向野田古墳の被葬者も女性だ。女性首長は、古墳時代の前期には一般的に存在していた。非首長層でも、女性のリーダーが活躍していた。
鏃(ぞく)、甲冑(かっちゅう)、鍬形(くわがた)石があると、被葬者は男性。車輪(しゃりん)石や石釧(いしくしろ)を腕に置く副葬品を配置しているときには、女性が被葬者。
人骨が女性であると、妊娠痕が見つかることがある。妊娠中期をすぎると、胎児の胎動に負けないように骨盤の耳状面下部に靭帯(じんたい)が深く骨に食い込み、圧痕が付着する。これがあると、出産したか否かはともかく、妊娠したことは判明する。すると、妊娠痕のある女性首長には子どもを産む機会があったことが分かる。いやあ、こんなことまで判明するのですね、すごいですね。
もう一つ驚いたのは、古墳には、複数の人間が葬られるのが一般的だったということです。むしろ、単体埋葬の古墳のほうがかえって少ないのです。いちばん多いのは長野県にある森将軍古墳で、ここには81基もの埋葬が確認されているそうです。
平安時代の墓は、夫婦別墓が原則。嫁になっても、死んだら実家の墓に入り、夫婦は別の墓。
父系化が進行したのは、韓半島をめぐる軍事的緊張と戦争に巻き込まれ、あるいは積極的に関与していったことから、戦力とならない女性首長が姿を消していったと考えられる。
なるほど、なるほど、昔から日本人の女性は強かったのですね・・・。それにしても、やっぱり平和が一番ですよね。
(2018年5月刊。1800円+税)

2019年10月 3日

闘争の場としての古代史


(霧山昴)
著者 李 成市 、 出版  岩波書店

「任那」(みまな)とか「任那日本府」というのが実在していたかのような錯覚が私たち日本人にはあります。つまり、古代日本の大和朝廷が朝鮮半島の一部を支配していかのような錯覚です。日本国内だってきちんと統一していないのに、そんなことがあるはずもありません。
「任那」とは、加耶(かや)諸国に対して古代日本においてのみ特殊に用いられる呼称であって、もともと一盟主国の別名にすぎない。
「神功皇后の三韓征伐」なるものは、史実とは無縁であり、その大部分は7世紀以降に形成されたもの。そもそも神功皇后は、その実在性すら否定されている。
「古事記」や「日本書紀」で完成した「三韓征伐」説話は、8世紀には日本の支配層に広く受容されていた。明治維新政府にとって、神功皇后は、国権拡張のシンボルだった。
広開大王碑が日本軍部によって改ざんされたという説は現在は否定されている。ただ、倭の百済や新羅に対する軍事行動を記したことに間違いはないとされている。
広開大王碑は、今も高句麗の王都であった吉林省集安市に吃立している。高さ6メートル、30トンをこえる碑石である。
南北朝鮮では、この碑石に記された広開大王の偉業を今日の朝鮮民族の誇りとみなしている。広開大王とその子・長寿王は391年から491年にかけての父子2代の100年間、高句麗の最盛期であった。
この碑文中の「倭」について、日本人研究者は「倭」を過大に評価し、南北朝鮮そして中国人研究者は過小に評価しようとする傾向がある。
広開大王碑は、形状や形式などから、少なくとも中国の墓碑や墓誌の制度から大きく逸脱した碑石である。ではなぜ、広開大王碑が、何のために刻され、立碑されたのか・・・、そこをよく考える必要がある。
広開大王碑は、高句麗に伝統的に継承されていた、国家的な徒民策による守墓役体制にもとづきつつ、あらためて制度を強化するという思惑と目的をもって刻まれ建てられた。
碑文中の武勲記事は、330戸の人々を守墓人とする根拠と必然性を周知させ、その来歴を説明する前提的な内容になっている。
この碑文は、王家の由来と広開大王に至る系譜を掲げ、次いで広開大王一代の武勲を語ることによって、高句麗王家を祖王・先王とともに称え、現在の権力者である長寿王に至る支配の正当性を訴えている。
「倭」とは、高句麗にとって、朝貢を強要する対象ではない。高句麗の属民である百済や新羅を「臣民」としたり、加耶の諸国とともに百済の背後から支援して高句麗と戦ったりする難敵である。つまり。「倭」とは高句麗を中心とする政治秩序を脅かし、破壊する「敵」なのだ。
碑文の書き手としては、「倭」について弱い敵とするよりは、むしろ強い敵だとしたほうが、効果を一層強く発揮できる。「倭」という外部の敵の前で、内部から強烈なかたちで喚起され、内なる団結が促される。
広開大王碑をめぐる論争の最新の到達点を深く知ることができました。
(2018年8月刊。3600円+税)

2019年9月30日

昆虫考古学


(霧山昴)
著者 小畑 弘己 、 出版  角川選書

縄文時代の遺跡として有名な三内丸山遺跡(青森)からは、コクゾウムシ、材木を食べるオオナガシンクウ、糞を食べるマグソコガネ、ドングリやクリを食べるクリシギゾウムシやコナラシギゾウムシの幼虫、キクイムシ類を捕食したりするエンマムシ科の一種などが発見されている。家屋に棲みついた害虫と思われる。
宮崎県の本野原(もとのはる)遺跡で縄文時代のクロゴキブリの卵の圧痕を検出した。クロゴキブリは、中国南部を原産地とする外来種。それ以外の日本の屋内に普遍的なゴキブリの原産地はアフリカだ。
福岡の鴻臚館のトイレからはベニバナの花粉が多量に検出されている。それは、花を直接食べたような出方だ。ベニバナは現代でも漢方薬として使われているが、腹痛の薬として食べられていたと想定されている。
鴻臚館のトイレは、誰がみてもトイレと分かる遺構である、トイレ遺構から発見されるコクゾウムシやマメゾウムシの類は、トイレに捨てられた加害穀物に混じっていたものではなく、ムシに加害された穀物やマメをいれたお粥(かゆ)やスープ、パンなどを人が食べた結果だと考えられている。
土器という大地に種実を埋め込むのは、種子や実が再び生まれてくること、再生や豊穣を願った行為と思われる。
クリやドングリも縄文人たちにとって重要な食料だった。縄文人たちは、コクゾウムシをクリなどの堅果類の生まれ変わりと考えていたのではないのか・・・。
縄文時代、コクゾウムシはイネではなく、ドングリやクリを食べ、縄文人たちの家に棲みついていた。これが判明してから、まだ10年もたっていない。縄文人たちが、ダイズやアズキ、そしてクリを栽培していたことが分かったのも、この10年ほどのあいだのこと。これは、土器圧痕と呼ばれる、人の作った土器粘土中やタネやムシの化石によって判明したのだった・・・。
古代の遺跡を調べると、男性トイレと女性トイレは土壌分析で判明するとのこと。土壌の成分が男女で異なるというのです。これまた不思議な話ですよね。誰がいったいそんな区別があると考えて調べたのでしょうか・・・。
同じものを食べていても人間の便の成分が男女で違うって、いったい人間の身体はどうなっているのでしょうか・・・。誰か教えてください。
(2018年12月刊。1700円+税)

2019年8月 9日

渡来人と帰化人

(霧山昴)
著者 田中 史生 、 出版  角川選書

古代日本に朝鮮半島からやって来た中国・朝鮮の人々をかつては「帰化人」と呼んでいましたが、「帰化」とは国家があることを前提としているけれども、果たして当時の日本列島に国家と呼べるものが存在したのか、そんな根本的疑問から、やがて「渡来人」と言い換えられるようになりました。
ところが、日本に定住せず、中国・朝鮮へ戻っていく人々も少なくなかったようですので、果たして「渡来人」と呼んでいいのだろうかという疑問が次に生まれたのです。
本書は、帰化人とは何か、渡来人とは何かを深く考察しています。
日本の倭王権は、渡来の技能者の受け入れを大いに重視した。特殊な技能をもっていて有用な存在だったからである。
5世紀後半の倭国では、姓をもっていたのは、王族のほかは中国系の人々ぐらいだった。
磐井(いわい)の乱(527年)と継体王権の瓦解(がかい)の背後には、首長層そして渡来系の人々の越境的社会関係の錯綜があった。
このころ、仏教は国際関係を考えるとき、重要な要素となっていた。中国が仏教を中心とした国際社会の秩序化を目指していたからである。
倭国が送った600年の遣隋使は、随の皇帝に「はなはだ義理なし」と一蹴されてしまった。そこで、次の607年の遣隋使は、小野妹子を大使として、中国の髄の皇帝を「海西の菩薩天子」ともちあげた。
7世紀の後半、朝鮮半島では百済が滅亡し、高句麗も滅んだ。そこで、朝鮮半島からの亡命者が数千人規模で日本にやって来た。
このころ、太宰府の北に朝鮮式の風格をもつ大野城や基肄(きい)城が設置された。
そして、7世紀の後半、倭が日本へ、大王が天皇へ切り替わり、律令国家が成立した。
そして、帰化人は、戸籍に登録され、支配される身分となった。
唐も日本も、帰化人を、明王の徳化を慕い、自らその民となることを願う者と位置づけながら、その裏では、出身国とのつながりを警戒していた。
日本では、帰化人は東国に配置され、西国には配置されなかった。
8世紀も半ばになると、今後は新羅からの「帰化」が急増した。飢饉や疾病のため生活に苦しむ人々が国外へ非難していった。
渡来人にしても帰化人にしても、中国大陸や朝鮮半島から「日本」へ移住・定住した人と限定的にとらえると、古代の実態と大きくかけ離れたものとなる。
このことが分かっただけでも、本書を読んだ甲斐がありました。
(2019年2月刊。1700円+税)

2019年7月15日

地域に生きる人びと、甲斐国と古代国家

(霧山昴)
著者 平川 南 、 出版  吉川弘文館

山梨県立博物館の館長もつとめた著者によって古代史探究の成果が紹介されています。たくさんの写真で、よくイメージがつかめます。
日本は古来からハンコの国と言われますが、この本によると、8世紀、律令制にもとづく本格的な文書行政の整備にともなった、公文書には押印するシステムが確立されました。
公印の規格も決められていて、私印は4.5センチ以下で、公印をこえないこととされていた。この公印は青銅製で、銅、鍚、鉛のほか、ヒ素も含まれていた。
古代印には、わざと空洞が含まれていた。均質な空洞とつくることによって柔軟かつ軽量に仕上げた。これは、現代技術でも出来ない高度な技術だった。
甲斐国の北部に、高句麗からの渡来人を核とした巨摩(こま)郡が設置された。等力(とどろき)郷は、馬の飼育に関わる地名で、これにも渡来人がかかわっている。
買地券(ばいちけん。墓地を買った証文)は、古代中国や朝鮮には、それぞれ神が宿っているという思想にもとづいて、墓地に対し、神の保護を祈る葬祭儀礼として、石、鉛板などに書きつけて墓に納めた。墓の造営に際して、その神より土地を買うという意味で、代価などが記され、墓地を買ったこととともに、墓に対する保護や子孫の繁栄祈願が記されている。
戸籍は、古代国家が民衆支配を行うためのもっとも基本となる公文書。戸籍には一人一人が登録され、人美との氏姓(うじかばね)や身分を確定して、各種の税や兵役を課したり、班田収授を実行するための基本台帳となった。
戸籍は3セットつくられ、国府に1セット、残る2セットは、中央の民部(みんぶ)省と中務(なかつかさ)省に各1セットずつ保存していた。
豊富なカラー写真によって、古代史がぐーんと身近に感じられました。
(2019年5月刊。2500円+税)

2019年5月26日

日本のヤバい女の子

(霧山昴)
著者 はらだ 有彩 、 出版  柏書房

私は、この本を読むまで著者を知りませんでした。「ありさ」と読むんですね。イラストが素敵です。マンガを描き、エッセイも書く女性です。
そして、「ヤバい女の子」というから、てっきり現代日本の若きギャルたちが登場してくるとばかり思って、その習俗を知りたいというオジサンの願望で読みはじめたのです。ところが、たちまちその期待は見事に裏切られてしまいます。なんと、第一話は鎌倉時代のベテラン大工の妻の話です。第3話は「今昔物語」。女盗人はSM嗜好だったりという話です。ええっ、本当ですか・・・。
そして第4話には、かの有名な「虫愛(め)づる姫君」が登場します。「堤中納言物語」です。お歯黒をつけず、眉を整えず、毛虫がお気に入りで、手のひらに乗せて可愛がるお姫様です。ところが、若き男性にこっそり姿を見られたことを知ると、家の中に逃げ込んで姿を隠します。どうして変人の娘が、身を隠さなければいけないのか、理解しがたいところです。
それにしても、毛虫が蝶に変身するのを知って、それを観察するのを楽しみにしているって、フツーの女の子なんじゃないかしらん・・・。著者もそう言ってます。
鬼として登場してきたり、蛇になったり、人(男性)殺しをしたり、怖い女性が次々に登場してきます。いやあ、日本の女性は昔から怖かったのです。今も、ご承知のとおり、怖いですけど、なよなよと泣くばかりなんてことは決してないのです。
それにしても、「番町皿屋敷」(落語)のお菊さんが、ある晩、なんと18枚まで皿を数えてしまったという話には笑ってしまいました。本当は9枚まで数えて1枚が足りないことに気がついて、恐ろしい死の場面に至るはずだからです。なんと、お菊さんが18枚まで数えたのは、「私、明日休むから、2日分かぞえたのさ」ということでした。ええっ、そんな・・・、一杯喰わされました。
「あとがきマンガ」のなかで、「芸大にて、女とか男という概念のない空間で4年間を過ごし」たとあるのが印象に残りました。そのあとブラック企業(広告会社。かのデンツーか・・・?)に3年間つとめたあと、テキストレーターになったとのこと。さすが芸大出身者らしく、発想が枠にはまっておらず、自由奔放で、みる眼を惹きつけます。
(2018年9月刊。1400円+税)

2019年2月17日

古墳の被葬者を推理する

(霧山昴)
著者 白石 太一郎 、 出版  中公叢書

天皇陵の発掘が許されていないのは、現代日本で生きる私たちにとって日本史の真実が分からない点で、大変困ることだと思います。天皇制をタブーにしてはいけません。
大王はいつから天皇と呼ばれるようになったのか、継体大王はどこから来たのか、万世一系というのは本当なのか、朝鮮半島からの渡来人と日本古来の人々との混住、混血はどのようにすすんでいったのか・・・。知りたいことはたくさんあります。天皇陵の学術的発掘がすすめば、これらの謎の解明も一歩すすむことになると思うのです。「倭の五王」とは誰を指すのか、その墓はどこにあるのか・・・、ぜひ知りたいですよね。
著者は、箸墓(はしはか)古墳は、奈良盆地東南部に営まれる初期の歴代倭国王墓の最初のものであり、その造営年代が3世紀中葉ないし中葉過ぎであることから、『魏志』倭人伝に記された倭国女王の卑弥呼が被葬者の有力候補であるとします。断定できないけれど、その蓋然性はきわめて大きいというのです。
ヤマタイ国九州説の私にとっては残念な結論です。
継体大王の墓が、高槻市にある今城古墳であることは、ほとんどの研究者の意見が一致している。継体が王位継承を主張しても、これを認めない勢力が畿内にも多くいて、即位の20年後にようやくヤマトの宮殿に入ることができた。
継体大王は、入婿の形でヤマト王権の王統につながることができた。
蘇我稲目の墓は明日香村平田の梅山古墳、蘇我馬子の墓は明日香村島庄の石舞台古墳と考えてよい。
私は残念なことに、明日香のこれらの古墳にまだ行っていません。ぜひ、現地に立って古墳現物をじっくり見てみたいと考えています。
(2018年11月刊。2000円+税)

2018年11月 1日

縄文美術館

(霧山昴)
著者 小川 忠博、小野 正文、堤 隆 、 出版  平凡社

縄文文化をしっかり見届けることのできる見事な写真集です。いま東京で縄文美術が展示されているようですが、なかなか行けません。仕方なく、この本を手にとって眺めることにしました。写真とあわせて解説も行き届いていて、とても分かりやすい本です。
フリーカメラマンの小川忠博氏は、35年ほども縄文時代の遺物を撮り続けてきたといいます。その圧倒的蓄積が、この写真集に見事に結実しています。
縄文時代とは、1万6千年前から3千年前までの1万3千年間をさす。
縄文人は、男性が身長160センチ弱、女性は150センチ弱。顔は短く、鼻は高く、目は大きく、唇は厚く、そして、耳垢は湿っていた。
平均寿命は40歳くらい。夫婦と子どもたちから成る家族が4件くらい集まって集落をつくっていた。
狩猟では弓矢を使い、犬を一緒にシカとイノシシを狩っていた。
縄文時代が1万3千年のあいだ続いたとして、はじめは数万人だった人口が、中頃には20万人以上にふくれあがったとみられている。
縄文人は、子宝、安産、豊穣、鎮魂など、日常の祈りをこめて土偶をつくっていた。土偶のなかには仮面をつけていたと思われるものもあります。土偶のなかには、有名な遮光器土偶、つまりまるで宇宙服を着ているとしか思えない顔のものもあります。小さな乳房、子を宿したお腹、豊艶を超越した大いなるお尻をもつビーナスには、ただただ圧倒されます。見事な身体曲線差です。
さすがに縄文人の着ていたものは、そのままでは残っていません。でも、編みカゴが現物そのままに残っています。なかにクルミが入っていたカゴです。ヒノキ科の針葉樹の樹皮を見事に編んでつくられています。
小さな石に丸い穴を開ける工法が紹介されています。もちろん鉄はありません。そして硬い石器を使うのでもなく、細い竹や鳥骨にヤスリの役割をする硬砂をつけながら回転させて揉み切りして貫通させるのです。大変な忍耐のいる作業だったことでしょう。 そんなペンダントの原材料になる原石が土器に入って見つかっています。
青森にある三内丸山(さんないまるやま)遺跡に行ってきました。縄文文化に触れて日本の文化を考えてみました。
手にとって一見する価値が多いにある写真集です。
(2018年7月刊。3000円+税)

2018年10月14日

漢倭奴国王から日本国天皇へ

(霧山昴)
著者 冨谷 至 、 出版  臨川書店

いやあ、学者って、さすがです。すごいです。
「漢の倭(わ)の奴(な)の国王の印」と読むと教えられてきましたが、「国王」と読むのはおかしいと指摘します。なるほど、そうだろうなと私は思いました。それに代わって「漢の倭奴国(わどこく)の王の印」と読むと主張します。ええっ、倭奴(わど)なんですか・・・。
中国皇帝が印綬とともに民族の首長に与える称号は「王」であって、「国王」ではない。このころ、「国王」などという称号は存在していない。ふむふむ、そうなんですね。
著者は、「倭奴国」と「倭国」は同じ国を指していると考えています。
『後漢書』に「倭奴国」という表記がある。
朝貢といっても、その実態は自由な海外交易だった。しかし、それを中国側は内外に「朝貢」と呼んでいた。威信を誇示するためである。対する異民族も、文明の中華と関係をもっていることを誇示できたら、内外に優越性を示すメリットがあった。
6世紀の日本、仏教が日本列島に伝来してきたころ、倭人は漢文を自由自在に使いこなすまでには至っていなかった。まだ初歩の学習段階にあった。
ところが、倭王武が中国の皇帝に送った上奏文は典拠を縦横に駆使した正統漢文だった。なので、これを書いたのは朝鮮半島からの渡来人たちだと考えるほかない。
「日出処」は東方、「日没処」は西方を意味する成句。東と西に上下の差などはない。したがって、この句を中国の皇帝がことさら問題にしたとは思えない。
そもそも「日没処」には西方浄土として、負のイメージはない。
「天皇」という語は、中国の古典のなかに確認できる。たとえば、『史記』にある。
天皇の前は、大王などと呼んでいたが、これは、「オオキミ」と呼んだ。
日本は、かつては中国の皇帝から「王」と呼ばれて喜んでいたが、次第に「王」というのは中国皇帝に従属しているイメージが強かったので、「王」ではなく、「天皇」を用いるようになった。
7世紀はじめの推古朝、さらに中期の天智朝においては「天皇」は存在しなかった。7世紀後半の天武朝になって初めて天皇が誕生した。
日本人の中国学者による大変刺激的な問題提起が各所にあり、おおいに知的刺激をうけることができました。薄い割には高価ですので、図書館でお読みください。
(2018年7月刊。3000円+税)

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