弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

アジア

2023年5月 6日

まんぷくモンゴル!


(霧山昴)
著者 鈴木 裕子 、 出版 産業編集センター

 モンゴルで公邸料理人として勤めた日本人女性のモンゴル体験記です。とても面白くて、一気読みしました。
 モンゴル人は、仔羊や仔牛など幼畜たちの肉は食べない。ええっ、ウッソー、でした。
 日本の4倍の国土に世界一人口密度は低く、家畜は人間の20倍以上もいる。国土の8割が草原で、雨がほとんど降らず、寒い。氷点下20度の寒さがあたり前。
 家畜の命を奪うのは男性の仕事で、女性はしてはいけないし、本当は屠殺の瞬間も見てはいけない。
草原の草は、小さく硬く、苦い。モンゴル人は、緑の葉は人間が食べるようなものではないと言う。なぜ野菜を食べなくてはいかんのか。肉の中に入っているじゃないか...。
モンゴルで豚と鶏の肉を手に入れるのは易しいことではない。
ラクダは2年に1頭の仔を育てる。ラクダの肉は脂が真っ白、そしてまったく美味しくない。
羊の尾は、モンゴル人が好んで食べる最上の脂。さらりとして滑(なめ)らかで、よく溶け、癖がない。
モンゴルの牛乳は美味しい。日本とはまるで違った味。モンゴルではホルスタインなどの乳牛は飼わない。そのミルクを煮立てて飲む。草だけで育った自然の生ミルク。お鍋の底のお焦(こ)げは子どものおやつ。上に張る皮は食べる厚さがある。
有名な馬乳酒は、仔馬がちゃんと育ってきたのを見届けてから、お乳を必要としなくなるまでの短い間に、人が馬から横取りする生乳を発酵させて作る。馬は年に1度しか発情期をもたない。なので、お乳も年に1度の季節限定。馬乳酒は、夏の3ヶ月ほどの短い間にしかつくられない。
モンゴル人に言わせると、からだを冷やす肉があり、それは山羊とラクダ。だから夏に食べ     るとよい。
モンゴル人は、あたたかいものがご馳走で、冷たいものは苦手。ゲルの壁となる家畜の毛のフェルトは、空気を通しながら、熱をまったく逃がさない。
台所にまな板はなく、すぐに乾くので、洗わなくても問題はない。モンゴル人は、火を通さないものは食べない。
モンゴルにはラクダが30万頭もいる。フタコブラクダは強くて安全。
 ラクダは乾燥に強く、40%を失っても生きのびる。汗はかかない。寿命は30年。
 モンゴル人は酔ったら家に帰らない。酔ったうえでの帰路は怖い。
 いつもは遊べない。だから、遊べるときは遊び倒す。
 子だくさんの女性は、国から表彰される。
 モンゴル人は肉ばかり食べるからなのか、日本人より十数年も寿命が短い。モンゴル人には、心筋梗塞、血栓、動脈硬化など、血液ドロドロが主な原因の病気、そして食道がんや糖尿病が多い。
 だから、著者はモンゴル人に野菜をたくさん食べてもらおうと野菜の本をつくった。
50歳台の日本人女性の発揮するバイタリティーには圧倒されてしまいました。
 日本ではちょっと食べられないような肉料理のオンパレードでしたが、やはり野菜はたいせつなのですよね...。ご一読をおすすめします。元気の湧いてくる本でした。
(2023年3月刊。1200円+税)

2022年1月 1日

コンビニからアジアを覗(のぞ)く


(霧山昴)
著者 佐藤 寛 ・ アジアコンビニ研究会 、 出版 日本評論社

日本には5万店をこえるコンビニがある。これは郵便局(2万5000局)の倍。
たしかに、町の至るところにコンビニがあります。不意にトイレに行きたくなったときにも、コンビニを見つけたらホッとします。でも、コンビニが閉店した跡を見ることも多いですよね。もちろん看板も何もかも残っていないので、どのコンビニチェーンかまでは分かりませんが、コンビニの栄枯盛衰も激しいと実感しています。ちなみにマクドナルドなどのファスト・フード店も全国に7000店近くあるそうです。
今、日本のコンビニはアジア各国に進出している。
日系コンビニには共通点がある。チェーンが異なっていても、レジカウンターの配置、商品の店内での位置が極度に標準化されていて、どの店でも似たような商品は似たような場所に並べられている。コンビニでは、チェーンをこえて「標準化」が徹底している。これは、消費者にとって、予測可能性の高さ、それは慣れ親しんだ空間という安心感を与える。
日系コンビニは、売り場面積100平方メートルほどの標準的な店舗で2800~3000品目を扱う。
日本型コンビニはSQC、良質な店員の接客態度(S)、商品の品質の高さ(Q)、店舗の清潔さ(C)を密接不可分のものとしている。
また、POS(販売時点情報管理)は、いつ、どのような商品が、どのような価格で、どれだけ売れたかを経営者が把握するためのシステム。このシステムを最大限に活用して、販売と発注を連携させ、フランチャイズの本部が個々の店舗を経営指導するのに役立てている。
日本では、たとえばセブンは、98%がFC(フランチャイズ)加盟店であり、直営店は2%のみ。そして、商品の製造・物流は既存のメーカーや卸売業者を利用した。また、米飯・調理パン・惣菜といった、日持ちのしない調理ずみ食品を「戦略的商品群」として重視している。これらは高い粗利益率をもたらしている。
インドネシアではセブンは2017年に116店舗を閉鎖したように苦戦している。インドネシアで日系コンビニがうまくいかなかった理由の一つが、ジャカルタの交通渋滞が激しすぎるから。
最近、力を入れているのはベトナム市場。
日系コンビニは、カンボジア、ラオス、ミャンマーには進出していない。
ベトナムにファミリーマートとミニストップが先行している。
ローソンは中国で2000年代に苦戦した。
ファミリーマートは2014年に韓国から撤退した。
タイでは、買い物に行くことを「パイ・セブン」と言うほどになっている。タイのセブンイレブンは1万店をこえている。タイのセブンイレブンは全店舗のうちの14%以上の1574店舗がガソリンスタンド併設型。タイのセブンイレブンは、屋台文化と共存している。
ちなみにセブンイレブンは全世界に6万8千店舗近い(2019年2月末)が、そのうち81%はアジアにある。
台湾では、身近な存在であるコンビニをいかして、「幸せを守るステーション」という社会政策がとられている(新北市)。これは、食事をとれない18歳以下の子どもを発見したら、コンビニで無料の食事が提供されるというシステム。新北市は、食事をとれない子どもを発見したら、必要なサポートを行う。コンビニが食事を提供するときの費用は新北市の負担ではなく、寄付によってまかなわれている。
これは、日本の「子ども食堂」のようなものです。いいですね...。
中国市場について、ファミリーマートは台湾企業のもつノウハウに依拠している。
中国のコンビニでは、中国人の口にある日本料理というのではなく、「ホンモノ」の日本の味を楽しみたいというニーズが強い。中国風にアレンジされた「ニセモノ」は敬遠されるようになった。
アジア各国における日系コンビニの実際と課題とが写真つきで紹介されている面白い本です。
(2021年6月刊。税込2640円)

2019年6月24日

凛としたアジア

(霧山昴)
著者 伊藤 千尋 、 出版  新日本出版社

今の日本が失ってしまった圧倒的な人間のエネルギーや社会のパワーがアジアの国々にある。韓国では、2016年に100万人規模の「民衆総決起」が政権を倒した。権力者が身近な人物に便宜を図ったことに対して国民的な想いが渦巻き、街頭に出てきた。
日本だって、アベ首相夫妻が身近な人間に対する便宜供与が次々と発覚したのに、「民衆総決起」は起きませんでした。いったい、なぜ・・・。どこに違いがあるのか・・・。
韓国人は、ひどい軍政時代に市民が血を流して闘い、自らの力で民主主義を獲得した。だから、韓国人は自信をもっている。日本の歴史で、市民が自らの力で政権を獲得したことが一度でもありますか・・・。
うむむ、そんな根源的な問いかけを受けて、私は胸をはって「日本だって、あります」と答えることができません。残念です・・・。
韓国映画『タクシー運転手』、『1987、ある闘いの真実』は、私も福岡でみました。すごいです。生命かけての闘いに接し、頭が自然に下がります。
アメリカのベトナム侵略戦争反対は、私の学生時代にずっと叫んでいたスローガンです。
私が弁護士になった翌年のメーデーの日にアメリカ軍はみじめに撤退していきました。
南ベトナムの警察の事務局長は「北」の諜報員。政府顧問の補佐官も同じ。ベトナム空軍にも「北」の兵士がいた。
そりゃあ、そうですよね。アメリカ軍の支配に屈したくない人々は南にもたくさんいました。
そして、フィリピン。私も2度だけマニラに行きましたが、アメリカ軍の基地が撤去されて、今では広大なショッピングセンターや商工業施設に変貌して、地域経済を大きく支えています。軍事施設なんて不要という見本なのです。
基地をなくしたら、基地のときの2.5倍の10万人の人々が平和産業で誇り高く生きている。クラーク空軍基地跡には、500社の企業が進出し、日本企業も40社が操業している。
沖縄だって同じです。基地跡(おもろまち)が一大ショッピングセンターなどとして繁栄しています。
著者は私と同じ団塊世代です。大学生のときにキューバに行ってサトウキビ刈り国際ボランティアに参加したというのですから、大変な勇気があります。私の書庫には著者の本がいくつもあり、この本が6冊目です。いま、「九条の会」の世話人の一人として活躍しています。
ぜひ、手にとってお読みください。元気が湧いてくる本ですよ。
(2019年2月刊。1600円+税)

2017年1月13日

アレクサンドロスの征服と神話

(霧山昴)
著者 森谷 公俊 、 出版  講談社学術文庫

紀元前334年、アレクサンダー大王(本書ではアレクサンドロス)はマケドニアを出て東方遠征に出発し、わずか10年でギリシャから小アジア、フェニキア、エジプトさらには広大なペルシア帝国まで征服し、インダス川に至るまでの空前の大帝国を築いた。
なぜ、30代と若いアレクサンダー大王にそれが可能だったのか、そして、大王の死後たちまち大帝国が四分五裂してしまったのか・・・。
その謎を本書は解き明かしています。
アレクサンダー大王は、征服された側からみたら、まぎれもない侵略者だ。いったい何のための遠征だったのか・・・。反面、アレクサンダー大王は、諸民族・諸文明との平和共存を目ざしてもいた。
ところで、アレクサンダー大王の墓は発見されていない。各地に建設した都市アレクサンドリアもエジプトを除いて消滅してしまっている。
アレクサンダー大王の帝国は、変幻自在で、その中心は遠征軍とともに絶えず移動していて、留まることがない。そして、首都は、アレクサンダー大王のいる何ヶ月間かのことでしかなかった。
支配体制に一貫した原則は認められない。統治方法も、征服した都市や地域の多種多様な条件と伝統に適応して、多様だった。これを寛容政策と呼んでもいいが、放任とも言える。
アレクサンダー大王は、カメレオンのように姿を変えていった。まずマケドニアの王、エジプトのファラオ、バビロニアの王、そして、ゼウスの子であり、アモン神の子を自称した。
アレクサンダー大王は、すべてを星雲状態のままにして、この世を去った。
アレクサンダー大王を、マケドニア人将兵は絶対的に信頼していた。これが東方遠征の基礎だった。マケドニア軍の中核をなす騎兵部隊は、8隊1800人から成り、仲間とか朋友を意味するヘタイロイという美称をつけて、騎兵ヘタイロイと呼ばれた。
マケドニア歩兵には、ベゼタイロイという重装歩兵部隊があった。1500人の部隊が6隊、900人から成る。長さ5.5メートルにおよび長槍をもつ密集戦列を組んで戦う。前2世紀にローマ軍に敗れるまで、不敗だった。
そして、攻城塔をもち、石弾を打ち出す射出機をもって都市の城壁を攻め落とした。
ギリシア人はマケドニア人に制服された民族でありながら、アレクサンダー大王の帝国では支配者側の一員だった。しかし、両民族の間の壁は深いままだった。
アレクサンダー大王がペルシア帝国を倒して、そこを支配するときペルシア人を登用していったことに、マケドニア人たちの不満が高まった。
アレクサンダー大王は、旧ペルシア領を治めるには、ペルシア人貴族の協力が不可欠であることを認識していながら、肝心の彼らとの間に安定的な統治システムを構築することができなかった。
アレクサンダー大王は、将兵に対して機会あるごとに功績に応じた褒美を与え、部下たちを名誉のための競争へと駆り立てた。すべてのマケドニア人が追求したのは名誉だった。
すべての将兵の出世が王一人の決断に依頼している以上、宴会では側近同士が王の溺愛を求めて争い、激しいつばぜりあいを演じた。
古代マケドニアの社会は、ギリシアと同じく、男性同士の同性愛によって成り立っていた。アレクサンダー大王は、発病してわずか10日目で亡くなった。33歳になる直前だった。
アレクサンダー大王は、父の7回の結婚による騒動を経験しているため、王族の結婚は、王権にとって利益よりむしろ混乱をもたらすと考えたのではないか。自分が結婚すれば、妻の一族と、妹たちが結婚したら、その夫の一族との利害関係が王権にからんでくる。それによる王国の不安定化は避けなければいけないというのが父の結婚から学んだ教訓だった。そして、アレクサンダー大王自身が世継ぎをもうけて王朝を継続させようという観念をもっていなかった。22歳の大王は、まだ自分ひとりの名誉を追求することしか頭になかった。その代償は重かった。
結局、大王が死んだとき、まともな後継者がいなかった。それによって王家は滅亡するしかなかった。
とてもよく分かる分析がなされている文庫本でした。
(2016年2月刊。1230円+税)

2015年9月21日

イースター島を行く

(霧山昴)
著者  野村 哲也 、 出版  中公新書

 モアイのいるイースター島を隅々まで紹介している、楽しい本です。
 小さな島に1000体も石像があるそうです。洞窟もたくさんあり、夏至の日にだけ壁画を照らし出すサイトもあります。
 著者はイースター島に住んでみて、しかも、現地の人と親しくならなければたどり着けないような秘境にまで出かけています。幻想的な写真とともに紹介されています。
 モアイを宇宙人がつくったという説は信じられません。ポリネシアとかハワイの諸島から移住してきた人たちが墓や墓標として作りあげたものというのが有力です。
 日本で関ヶ原の戦いが起きた1600年ころ、イースター島内部では深刻な食料不足から島民が12の部族に分かれてモアイ倒し戦争を繰り広げた。そんな悲しい歴史があったのですね、、、。
 モアイには眼がはまっていた。その眼は黒曜石などでできていた。
 私はマチュピチュに行っていませんが、行きたい気持ちはあります。同じように、イースター島にも行ってみたいものです。宮崎の都井岬でしたか、和製のモアイ像があるのは・・・。仕方ありません。それでガマンすることにしましょう。
 イースター島の現地に行く人には欠かせない、絶好の手引書です。
(2015年6月刊。1000円+税)

2015年3月25日

新興大国インドネシアの宗教市場と政治


著者  見市 建 、 出版  NTT出版

 インドネシアの大統領はジョコ・ウィドドという初めての庶民出身です。これまでのような軍人政治家ではありません。どうして、そんなことが可能になったのかを考えさせてくれる本です。ちなみに、著者の名前は、「みいち けん」と読みます。まだ40代と若い学者です。
 インドネシアは、インド、アメリカに続く世界3番目の人口規模の民主主義国家であり、世界最大のムスリム(イスラム教徒)民主主義国である。
インドネシアの経済成長も著しく、その巨大な市場は、「ポスト中国」と期待されている。
 2014年7月の大統領選挙でユドヨノのあとを継いだジョコ・ウィドドは、ジャワ島中部の地方都市ソロの市長から、2012年のジャカルタ州知事となり、今回は、大統領となった。庶民の出であり、2005年までは家具輸出業を経営していた。
 ジョコウィのスタイルは、「抜き打ち視察」で庶民の声に直接耳を傾け、現場の状況を把握し、迅速な決定で現実的な解決策を示すことである。ジョコウィは、ほとんど宗教に縁がなく、ソロ市長のときも、ジャカルタ州知事のときにも、ペアで立候補した副市長、副知事はキリスト教徒だった。
 インドネシアの2億5000万人の人口の9割がムスリムである。しかし、インドネシアは「イスラム国家」ではなく、他宗教の共存が国民国家成立の前提条件となっている。
 現行の1945年憲法の前文にある建国五原則パンチャシラには、それぞれの宗教にもとづいて神を信仰するとされている。
 さらに、ムスリムのなかでも、イスラム系政党を支持する勢力と世俗ナショナリスト政党を支持する努力に二分される。
 敬虔なムスリムは、全体の4割程度で、彼らはイスラム系政党を支持する東南アジアにおいて、シーア派は非常に少なく、おそらくムスリム人口の1%にもみたない。イラン革命は、一般のムスリム知識人や学生のあいだに、シーア派への関心を高めるきっかけとなった。
 民主化以降のインドネシアは、欧米諸国をふくめても、世界でも異例な出版の自由があり、きわめて急進的なイスラム主義者によって執筆・制作された本や映像が流通している。
 イスラム武装闘争派の大半は「読む」活動家であり、その出版物の消費者は、「中間層」である。貧困と教育程度の低さが過激派を生むという俗説は、インドネシアでは的外れである。
近年の宗教行為の「商品化」として注目に値するのは、ズィクルである。ズィクルとは、もともと「記憶」を意味し、神のことを常に覚えているように、数珠を携えて神の名やコーランの章句を繰り返す業を典型とする。しばしば音楽や踊りを伴い、神への愛とともに、精神的な高揚や参加者の一体感が生み出される。
 政治家にとって、宗教的なイメージは大切であるが、イスラムを強調すれば勝てるというわけではない。急速に拡大する大都市圏を中心とした消費市場において、宗教的「標準」を気にしたり、「癒し」を求める消費者ニーズに応えるような商品が宗教行為の商品化や既存のメディア・コンテンツの宗教家によって生まれている。
ジョコウィ大統領は、1961年に大工の長男として生まれた。学校に通うための自転車も買えないほどだったが、叔父の援助を受けて国立大学の森林学部に入った。在学中は学生運動に参加していない。卒業後、小さな家具商を営んでいた。
 2010年には、9割以上の圧倒的な支持を得てソロ市長に再選された。
 ジョコウィは、既存のエリートの連合を前提としながら、注目を集める政策を打ち出し、それを実行することによって、大衆の支持を獲得し、権力を維持し強化してきた。
 ジョコウィは、ジャカルタ州知事選の際には、大集会ではなく、丹念に庶民の市場を回り、屋台で食事をした。
 ジョコウィは、「大衆との連立」を唱え、SNSを積極的に利用し、マスコミの話題をさらった。
 インドネシアでは、政党も宗教団体も、大半は組織より権力者の個人戦位で動いている。それぞれの動員力、政治家をもつメディアを両陣営が奪い合った。あるいは、見返りの資金や新政権における大臣ポストを期待して、政治家や政党のほうから両陣営に近づいた。
 最後に勝負を分けたのは、これまで政治と関わりが薄い人々だった。世論調査で相手方陣営に追い上げられているという危機感をもったジョコウィ陣営は戦略を見直した。SNSで芸能人に発言を呼びかけ、有権者の多少を問わず、ボランティアで集中的な戸別訪問をした。最後には、流動的な政治と宗教の市場、とくに中間層の浮動票がジョコウィを選んだ。
 今日のインドネシアが深く知ることのできる本です。
(2014年12月刊。2300円+税)

2014年11月29日

バニヤンの木陰で


著者  ヴァディ・ラトナー 、 出版  河出書房新社

 久留米にある靴メーカーに勤めている人と話していたら、カンボジアに提携している工場があるので、プノンペンにも行ったことがあるとのこと、驚きました。私は残念ながら、カンボジアに行ったことはなく、したがってアンコールワットにも行っていません。
 この本は、例の残忍なポル・ポト派がカンボジアを支配していたときの体験をもとにした小説です。自分が体験したことをベースにしているだけに迫真的です。
 文明を敵視したクメール・ルージュ(赤いクメール)の犯罪行為が惻々と伝わってきます。よくも王族の一員であることを隠し通して生きのびることができたものだと驚嘆します。といっても、王子である父親は家族を守るために自ら出頭して、殺されてしまいました。
 ただ、どうやって殺され、その遺体がどうなったのか、まったく不明のようです。それだけ、ポル・ポト派の圧政下では原始的で、野蛮な殺害が横行していたわけです。
 はじめ、プノンペン市民はクメール・ルージュ軍がやってきたときには歓迎する気分もあったようです。ところが、すぐにそれは間違いだと思い知らされます。
 「荷物をまとめて、すぐに出て行け」
 「2、3日のあいだ必要なものだけ持っていけ」
 「どこでもいい、とにかく出て行け」
 「時間はない。すぐに出るんだ。アメリカの爆撃がある」
 「出ていかないと撃つぞ。全員だ。わかったな」
 「革命万歳」
 いきなり都市から農村部へ追いやられ、そこで重労働させられるのです。
 1日仕事は夜明けの1時間後に始まり、日没の1時間前に終わる。すべての家畜は町の共有財産である。生活必需品は、すべて配給される。大人も子どもも、同じ量の米が配給される。
 こうやって1975年から4年近くも、人々はポル・ポト派の支配下におかれ、200万人近い人々が死亡したと推測されている。
 1979年1月、ポル・ポト派はベトナム軍によって打倒された。
 本当に苛酷な生活を強いられたものです。読んでいて胸がつぶれそうになります。でも、これも知るべき現実だと思って、最後まで読み通しました。
 カンボジアの豊かな自然描写がよく描かれているのが救いです。
 ポル・ポト派を直接的に支援していたのは中国でした。そして、アメリカは何もしなかったのです。恐らく介入するメリットになるような利権(天然資源など)がなかったからでしょう。
(2014年4月刊。2600円+税)

2014年3月11日

民主化のパラドックス


著者  本名 純 、 出版  岩波書店

 とても興味深い話が満載の本で、インドネシアの実情をよく理解することができました。
 日本にとって、インドネシアは古くからの友好国であり、同時に重要なエネルギー・天然資源供給国でもある。
 1970年代から1990年代後半まで、日本のODA(政府開発援助)の最大受け入れ国はインドネシアだった。
 2億人をこえる人口は、インドネシアを中国、インド、アメリカに続く、世界第4位の巨大国家たらしめている。
 インドネシアで「政治の自由」というスローガンが公に議論できるようになったきっかけは、1989年5月、駐インドネシアで米大使の発言だった。これにまっ先に飛びついたのは、スハルト体制の柱である国軍と、政府の翼賛政党「ゴルカル」だった。国軍は、国会の中に一定の議席を占めていた。軍部は、スハルト大統領との確執を強めていた。
インドネシアの民主化要求の盛り上がりは、体制内部の権力闘争、すなわちスハルト大統領と国軍との勢力争いによって生まれた政治空間だった。
 1965年9月30日に勃発した「9.30事件」は、インドネシア現代史のもっともダークな過去である。この「9.30事件」によって、多くのインドネシア国民は、政治がいとも簡単に死に直結することを記憶に植えつけられ、政治に恐怖を抱いた。その一方で、為政者たちは、自らの意志で大衆が操作され、そのうねりで国が動くことに陶酔する。
 スハルトは「9.30事件」の前に情報を得ていたが、あえて事件の発生を止めなかった。この機会を利用して、軍内のリーダーシップをとり、共産党を壊滅に追い込み、スカルノ体制を国軍主導の下で再建しようと考えた。
泥沼化していたベトナム戦争をかかえるアメリカにとって、陸軍の反共作戦は、好ましい事態だった。アメリカは、インドネシア各地の共産党幹部のリストをスハルト側に渡し、その排除を手伝った。「9.30事件」による死者は少なくとも50万人、多くて300万人と言われている。
 魔女狩りは、地主や宗教指導者などの地方有力者にとって、日頃、敵対する人たちを排除する格好の機会にもなった。
スハルト体制は、国民的なトラウマの上に建設された。スハルトの嫁婿であるプラボウオが「陰の司令官」として軍内で横暴な権限を発揮することに対する静かな不満が、軍内にたまっていった。プラボウオは、陸軍特殊部隊を中心として、不満分子の弾圧工作を展開していった。
 大規模な暴動を扇動してスカルノ体制を崩した経験のあるスハルトには、プラボウオのやっていることに脅威を感じた。プラボウオが治安維持回復作戦司令部の復活という時代錯誤の策に走り、暴動を政治利用したことで、社会混乱は深まり、収拾がつかなくなった。
 軍内の権力闘争は、スハルト辞任劇の核にあたる部分を演出した。
プリブミとは、インドネシア語で、「土地の子」という意味。華人系インドネシア人は、生まれながらに「非プリブミ」のレッテルを貼られ、構造的な差別を受けた。
 自然発生の暴動など、インドネシアではありえない。これは、差別とか怒りではなく、政治の力学である。暴動というのは、イベント企画であり、火付け役から扇動役、暴動役まで準備され、それ相応の報酬が支払われることが前提だ。なかでも、反華人の暴動は、人気のプロジェクトだった。なぜなら、スポンサーは国軍だから、報酬も他と一桁ちがうし、プリブミのためという大義名分があるから、リクルートも楽だった。
ハビビ大統領の後ろ盾を得たウィラント国軍指令は、軍内「改革」のキャンペーンをあげて、プラボウオの勢力の一掃に動いた。この浄化は、陸軍特殊部隊に対してのみ行われた。処罰するかどうかは、ウィラントの意志次策だった。これを読みとった多くの将校が、ウィラントへの忠誠を高め、結果としてウィラントの軍内掌握がすすんだ。その意味で「国軍改革」は、ウィラントにとって政敵排除の道具であり、権力闘争のカモフラージュでもあった。
 東ティモールを切り離して損をするのは、コーヒー農園や砂糖農園の利権を牛耳っているスハルト家と国軍であった。
5年の任期をまっとうすることなく、ワヒド大統領が政権の座を追われた(2001年7月)ことで、民主化時代における政治エリートの権力闘争にある種のコンセンサスが形成された。それは、いくら自由な選挙を経て選ばれた大統領であれ、与党連合の力学を無視して好き勝手はできず、連立を組む他党にきちっと利権を分配し、そのパイプを切るようなことはしないという暗黙のコンセンサスである。与党連合に加わって、大臣職や国営企業へのパイプを獲得し、あらゆる公共事業で与党政治家が一枚かむ仕組みをつくり、そこで吸い上げた金を政党運営にあてる。つまり、主要政党エリートで権力と利権のパイを分けあうことで、政治の談合体制をつくる。これが政権安定のカギであることを、メガワティはワヒドの経験から学んだ。
 国民はメガワティに抱いていた「期待」が幻想であったことを徐々に認識していった。独立の父スカルノの娘として強いカリスマ性、そしてスハルト時代の抑圧のシンボルとして社会がメガワティに抱いてきた「人民の母」「弱者の味方」というイメージが急速に崩れていった。
 スハルト時代、メガワティ支持者のNGOや学生運動は、片っ端からコパススの弾圧を受けた。コパススは、旧体制の抑圧と裏政治工作のシンボルとして、スハルト後、急速に存在力を失った。そのコパススの地位回復をメガワティが助けたのは、なんとも皮肉な話だった。
 2003年5月の戒厳令は、一方で軍の失態を外に漏れにくくし、他方で特定エリートの利益拡大に大いに貢献した。メガワティ政権は、このような国軍のフリーハンドを容認した。
 ほとんど国民に対して語りかけないメガワティに対する不満もユドヨノ評価につながった。ユドヨノにはマシーンがなく、あるのは人気だけだった。
 マシーン政治が勝つのか、イメージ政治が勝つのか。
ユドヨノは得票率60%を確保し、圧勝した。しかし、実行派のイメージとは裏腹に、決断力がないことでユドヨノは有名だった。みんなにいい顔をしたがる。ユドヨノは、ストレートに本音を言うのを嫌うジャワ人の典型だった。2009年のユドヨノ再選は、国民が政権の継続を望んだ結果である。
 スハルト体制下、公然の秘密として国軍はさまざまな「治安サービス」を提供し、ナイトクラブやディスコ、賭博場、売春宿などのビジネスの警備を通じて、多額の自己資金を調達した。これは巨大な利権ビジネスであり、国家の軍事予算の2~3倍にのぼっていた。そこに警察が参入した。国軍のライバルとして台頭してきたのだ。
 違法ビジネスをめぐる軍人と警官の対立が生まれた。
 国軍は新地開拓を求め、人身売買や密輸を手がける犯罪集団との関係を深めていった。
 反対に警察は、国軍から縄張りを奪うと同時に、世間に対して治安維持能力があることを示すためにも、国軍と近い犯罪組織の摘発に力を入れた。
 スハルト時代に強行された開発ビジネスや国軍の利権活動が地方経済をひどく歪ませ、その不平等で不正義が蔓延する経済状況こそが住民紛争の根本原因である。
 アンボンの陸軍兵士は積極的にイスラム教グループを支援し、キリスト教集団への攻撃に加担した。地元警察はキリスト教民兵集団をテコ入れしていた。アンボン市警の警官の7割はキリスト教徒だった。
 国軍は、全国各地で地方政治を弱体化し、国軍改革を骨抜きし、ビジネス利権を確保している。
 インドネシア政治のダイナミックな推移がよくも分析されていると驚嘆しながら、一気に読了しました。
(2013年10月刊。2700円+税)

2013年11月24日

湖上の命


著者  高橋 智史 、 出版  窓社

カンボジア・トンレサップの人々。こんなサブ・タイトルのついた写真集です。私はベトナムには一度だけ行ったことがありますが、カンボジアには行ったことがありません。アンコール・ワットとかアンコール・トムにはぜひ行ってみたいと思っているのですが・・・。
 カンボジアというと、私にとっては平和な国というより、キリング・フィールド。つまり、ポル・ポト政権(クメール・ルージュ)による大虐殺の国というイメージです。
 そして、カンボジアは、ベトナムと昔からあまり仲が良くないと聞いています。
 そんなカンボジアの中央部にある広大なトンレサップ湖に、そこでの水上生活者としてベトナム人がたくさん住んでいるというのです。驚きました。
 日本人の若きフォト・ジャーナリストが、そんな水上部落に住み込んでとった迫真の写真集です。水上生活者の小船で朝食を売ってまわるおばさん。そして、散髪屋もあります。
 仏教徒だけでなく、キリスト教信者もいます。
 水上生活者に赤ん坊が生まれ、また、年寄りが亡くなっていきます。
子ども、そして若者たちは、ここでも元気一杯です。
 生活の糧は湖の魚たち。
くっきり鮮明な写真で、ベトナム人水上生活の日常生活を知ることができます。貴重な写真記録だと思いました。
(2013年4月刊。2200円+税)

2013年5月 2日

東アジア共同体

著者  山本 吉宣・羽場 久美子ほか 、 出版  ミネルヴァ書房

国際政治から考える東アジア共同体。というのが正式なタイトルです。「東アジア共同体と朝鮮半島」(李鍾元論文)を中心に紹介します。
朴正熙政権は、経済の立て直しのため、日韓国交正常化を強行し、ベトナムへ派兵したが、その実績を足場としてアジアの反共諸国を束ねるASPACの創設を主導した(1966年)。ASPACは韓国の主導で実現した初めての地域機構だった。しかし、短命に終わり、冷戦的な反共主義の色彩が強かったため、日本ではそれほど注目されなかった。
 盧泰愚政権は、一方ではAPECの創設に積極的に加わりつつ、中ソおよび北朝鮮との関係改善を視野に入れた「北方外交」を展開した。
 金大中政権から「東アジア共同体」構想を本格的に打ち出しはじめた。
 金大中大統領が東アジア地域外交に力を入れたのは、通貨危機に直撃され、国際通貨基金(IMF)の管理下に入った韓国経済にとって、日中を中心とした域内協力体制の構築が重要であるという経済的要因に加えて、国際舞台での活躍を通して、南北関係の改善に弾みをつけたいという思惑があった。
 「東アジア共同体」構想を牽引した金大中外交のつまずきは、韓国にとって、北朝鮮問題を中心とした「北東アジア」の地域協力が同時に推進すべき重要な課題であることを改めて突きつけるものであった。
 2011年11月、インドネシア(バリ)で開かれた第6回東アジア首脳会議にアメリカとロシアが初めて正式メンバーとして参加した。
 当初、ASEAN+3の12ヶ国で始まった「東アジア」がアメリカからインドにいたる18ヶ国体制に拡大した。直接的には、増大する一方の中国の影響力を牽制するため、ASEANとオーストラリアが勧めたバランス外交だった。
 世界的な冷戦が終結した1990年代以来、韓国は「アジア太平洋」と「東アジア」「北東アジア」の間を揺れつつ、経済的な地位統合と朝鮮半島の脱冷戦という二つの課題を視野に入れ、さまざまな地域戦略を模索してきた。
 民主党・鳩山政権の「東アジア共同体」とその後の著しい鳩山たたきは、アメリカをアジア外交戦略から外せば、日本のどの政権であれ生き残ることはできないことを白日の下にさらした。鳩山民主党政権は、国民やメディアの支持基盤を固めることもないまま、米国外交から離反しようとして、アメリカと日本国内の双方から総攻撃を受けて沈没することを余儀なくされた。
 アメリカはアジアの国ではない。しかし、アメリカはアジアと中途を支配することによって世界大国となったといってよい。
 アメリカの戦略は、アメリカが政策に関与し続けることが第一目標であり、中国を排除するのではなく、むしろ連携しようとしている。ただし、それはアメリカの圧倒的な優先性の下にである。
 EUのように東アジア共同体をつくる試みがあること、それは平和の確保のための努力でもあることを学ぶことができました。
(2012年4月刊。3200円+税)

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