弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

アジア

2007年12月20日

私は逃げない

著者:シリン・エバディ、出版社:ランダムハウス講談社
 ある女性弁護士のイスラム革命というのが、この本のサブ・タイトルです。シリン・エバディ弁護士は2003年にノーベル平和賞を受賞したイランの人権派弁護士です。「イランの鉄の女」とも「イランの良心」とも呼ばれます。
 多くの知識人がイランを脱出するなか、エバディ弁護士はイランにずっと踏みとどまり、暗殺リストにのる生命の危険をも顧みず、人権問題とりわけ女性と子どもの権利を守り、そして知識人が迫害される政治的事件を手がけてきた。もともとはイラン初の女性裁判官だったが、ホメイニ革命のあと女性が判事から追放され、しばらくして弁護士として復活した。
 シリン・エバディは1947年6月21日生まれですから、私より1歳年長です。1970年3月、23歳で裁判官になりました。私がまだ大学生のころです。私が弁護士になったのは1974年、25歳のときでした。法律のことがまるで分からないまま、恐る恐る実社会に足をふみ出しました。そのときの不安な気持ちを今もはっきり覚えています。2年間の司法修習生としての見習い期間も、法律の勉強より青法協(青年法律家協会)などの活動に忙しく、地道な法律解釈は私の性にまったくあっていませんでした。
 1982年、シリン・エバディ弁護士は自宅にあった。マルクス、レーニンの本を庭に積み上げて燃やした。ホメイニ師に反対する勢力が次々に銃殺されていったからです。
 私は幸いにして、今も、学生時代に買い求めたマルクス・レーニンの本を燃やすことなく後生大事にもち続けています。もちろんホコリをかぶっていますが・・・。いえ、実はいま学生時代のことを書いていますので、ときどき引用しようとして取り出しています。
 そんなイランの状況を見限ってイランの知識人が次々に国外へ脱出していった。およそ400〜500万人のイラン人が20年間にイランを出国していった。
 「ここにいては子どもたちの未来はない。子どもたちの未来がもてるようなところに連れていってやる必要がある」
 「じゃあ、イランに残った子どもたちの未来はどうなるのよ。残るということは、未来がないっていうこと?」
 「キミの子どもがもっと大きかったら、キミだって出ていくよ」
 「ちがうわ。私は絶対にイランを見捨てたりしない。私たちの子どもは若いから、新しい世界の文化を吸収するでしょう。そうしたら、やがては、子どもたちも失うことになるわ」
 これはこれは、とてもシビアな会話です。こうやってシリン・エバディは家族ともどもイランに残ったのです。私だったら、きっと逃げ出したでしょう・・・。
 シリン・エバディはイランから出て行った人に手紙を書くことはやめた。誰かがイランを去ると、その人は亡くなったのも同然だった。
 ホメイニ革命後、イスラム刑法典は男性の命は女性の命の2倍の値打ちがあると定めた。そこで、9歳の少女の強姦殺人事件で、2人の犯人の男性を処刑する費用を被害者の少女の遺族に対しても数千ドルを支払うよう命じた。
 ええーっ、なんでー・・・。信じられません。野蛮としか言いようのない判決ですよ、これって。信じがたいことです。
 シリン・エバディは、平等と民主主義の精神に調和したイスラムの解釈こそ真の信仰の表明あることを確信している。女性をしばっているのは宗教ではなく、女性を引きこもらせておきたいと望む人々の恣意的な意思なのだ。
 ノーベル平和賞の受賞が決まってテヘラン空港に戻ったとき、シリン・エバディが叫んだ言葉は、「アッラー、アクバルー(神は偉大なり)」だった。何十万という多くの女性が深夜にもかかわらずテヘラン空港まで歩いてかけつけました。すごいことです。
 この本を読んで、やはり女性は偉大だと、つくづく思いました。
(2007年9月刊。1900円+税)

2007年12月 7日

聞き書きフィリピン占領

著者:上田敏明、出版社:勁草書房
 11月にフィリピンに行きましたので、17年前に初めてフィリピンに行ったときに読もうと思って読んでいなかった本を引っぱり出して読みました。
 この本は、今から20年も前にルソン島で日本軍が何をしたのか、聞き出した内容をまとめたものです。
 今回、私たちがフィリピンに行ったとき、マニラでバタンガス出身の人に会い、日本軍の蛮行を糾弾されるのではないかとヒヤヒヤしたと語ったガイド氏がいました。この本を読むと、バタンガスに限らず、日本軍がフィリピンの至るところでひどいことをしたことがよく分かります。いえ、ひどいことをしたという表現は上品すぎます。フィリピンの人々に対して残虐このうえない、強姦や大虐殺をしたという事実があるのです。私たちは、同じ日本人として、その事実に目をそむけるわけにはいきません。それは自虐史観というものではありません。事実は事実として受けとめるしかないのです。
 バタンガスでの日本軍による大虐殺は日本の敗戦間近の1945年2月のことです。ところが、日本軍が、フィリピンの占領を始める1941年12月からフィリピン人の虐殺をはじめていたのです。
 日本軍は支配してすぐに「軍律に関する件」を布告した。これは、要するに、日本軍への反抗を少しでもしたら処刑か重罪に処せられるというもの。それを企図しただけでも処罰されるというわけなので、あってないような要件でした。
 マニラに今も残るサンチャゴ要塞を私たちも見学しましたが、ここは日本軍の恐怖政治を象徴する場所でした。憲兵隊の本部が置かれ、スペイン時代につくられた水牢が囚人を溺死させるものとして活用されていました。
 日本軍による戦争犯罪のフィリピン人被害者は、東京裁判のとき9万人をこえるとされた。戦後、フィリピンが抗日戦の損害賠償を求めた文書には人員損害として111万人とされている。
 フィリピンにスペインがもたらしたのは宗教(キリスト教)、アメリカ人は聖書をもたらした(スペイン人はスペイン語をフィリピン人には教えなかった。フィリピン人は英語によって聖書が読めるようになった)、日本人は鞭打ち(残虐行為)。このように言われるのは悲しいことです。
 二度目のフィリピン訪問でした。有名だったスモーキーマウンテンというゴミの山に住む人々はいなくなりましたが、川の上にバラックで住む人々、線路脇のバラックに住む人々、まさしくスラム街以下の人々の存在をマニラ首都圏のあちこちに見かけました。市内の至るところに大きく近代的なショッピングモールがあって、そこも人々であふれているのですが、スラム街に住む人々もきわめて多く、フィリピンの社会構造が安定しているとは、とても思えませんでした。
(1990年3月刊。2200円+税)

2007年4月19日

ITとカースト

著者:伊藤洋一、出版社:日本経済新聞出版社
 インド・成長の秘密と苦悩。こんなサブ・タイトルがついています。
 インドの離婚率は1%。えーっ、ウソでしょ・・・。インドの結婚は、お見合いの比率が高く、80%に近い。インドでは結婚が神聖視されていて、未婚の男女に対する管理はとても厳しく、結婚前の男女関係は非常に保守的。結婚相手は基本的に親が決める。だから、ラブ・レターという言葉はインド社会では否定されている。
 えーっ、そうなんですかー・・・。インド映画を見て、なんだか恋愛至上主義のような気がしていたのですが、まったくの誤解だったようです。
 インドでは結婚後の浮気も、事実上不可能だという。たとえば、インド人の男女がホテルに泊まるときには、身分証明書を呈示して夫婦であることを立証しなければならない。
 ヒンズー教では、生きている間はカーストで身分も職業も変えられない。しかし、現在のカーストでの人生の結果によっては、次の生など、来世で高いカーストに上がることができる。つまり現世の身分の低さは、最初からあきらめ、死後に希望がもてる仕組み。現在のカーストは過去の生の結果であるから、今の置かれている環境を受け入れて、人生を生きるべきだ。こうなる。
 選挙のとき、現世で大地主に奉仕すれば、来世では良いカーストに生まれ変わると、今でも多くの人が信じている。これって、支配者にはものすごく都合のいいものですよね。
 父親と母親とが違うカーストから出ている場合を含めて、誰がどの階級にいるのかと決めつけるのは実に難しい。
 カースト以下の人々は一般にアンタッチャブルと呼ばれる。その人々は自分ではダリットと呼ぶ。ダリットとは、壊された民という意味で、2億人いる。
 インドの最大の財閥はパルシーと呼ばれる。タダ・グループはパルシーのなかのグループ。パルシーとは、ヒンズー語で、プルシャという意味。
 シーク教徒は、全人口の2%しか占めないが、インドでは、その存在感は大きい。
 ヒンズー教徒は頭にターバンなど巻かないが、シーク教徒は頭髪やヒゲをそらない掟をもつため、ターバンを頭に巻く。シーク教はイスラム教の影響を受けてヒンズー教を改宗した宗教であり、カースト制を否定し、人間の平等を強く訴える教えをもつ。軍人や政界にシーク教徒は多いが、ビジネス・交通運輸の分野でも存在感は大きい。
 インドはあれだけの人口(11億人)をかかえていながらオリンピックでほとんどメダルをとっていない。インドは個人競技に弱い。
 たとえインド最下層の階級出身であっても、今までカースト制度では分類のなかった ITの分野には挑戦できる仕組みができあがっている。
 アメリカにはインド系の人々が240万人いる。25歳以上のインド系の67%が大学卒以上の学歴を有し、世帯収入の平均は6万7000ドル。
 インドでIT事業がすすんでいるのは、アメリカとの時差が12時間ほどあることもプラスしている。アメリカ人が寝ている間にコンピューターへのデータ入力や処理ができたら、朝までにアメリカに情報をふまえたアドバイスができるだろう。
 インドのIT系新卒者は、日本人技術者の3分の1の給料で働いている。
 インドって、ホント不思議な大国です。

2007年4月 4日

ネパール王制解体

著者:小倉清子、出版社:NHKブックス
 本場の中国では、今や毛沢東を崇拝している人なんていません。昔は日本にもいましたが、今では聞きませんよね。ところが、ネパールでは、今も毛沢東主義を信奉し、武装革命を目ざす人々がいて、全土の8割以上を実効支配しているのです。なぜ、でしょうか。
 最新のニュースによると、毛沢東派も内閣に入って大臣を送り出したとのことです。内戦状態が終結すればいいですね。
 国王とマオイスト。世界のほとんどの国で既に過去の産物とみなされている二つの勢力が、ネパールでは21世紀に入って国家の土台を揺るがす存在にまで力をもっている。
 マオイストは、2006年3月の時点で、1万5000人をこす兵力をもつ人民解放軍と、さらに、ほぼ同じ規模の人民義勇軍をかかえ、国家の土台を揺るがすほどの勢力に成長している。
 ネパールには、右から左まで、さまざまな共産主義が存在する。国王の側近となり、王室評議会の会長にまでなった王室コミュニストさえいる。
 1949年にインドのカルカッタ(コルカタ)で創設されたネパール共産党は、何度も分裂・合併をくり返し、大小の政党を生み出した。1990年の民主化後に制定された新憲法でもヒンドゥー教を国教とし、国民の8割がヒンドゥー教徒だと言われながらも、宗教を認めない共産党がネパール政治に重要な役割を果たしてきたのは興味深いこと。
 ネパール共産党・毛沢東主義派ことマオイストが1996年2月に人民戦争を開始した当時、この小さな政党が8年足らずのうちに国土の8割を支配するほどの勢力になろうとは、誰も予測していなかった。
 2001年6月1日。ネパールの歴史を変えたナラヤンヒティ王宮事件が起きた。ネパールの第10代国王ビレンドラ一家五人全員をふくむ王族10人が殺害された。「犯人」の皇太子も2日後に死亡した。
 与党のネパール会議派も最大野党のネパール統一共産党も、真実を公にしない王室に抗議せず、逆に真相を求めて街頭行動する市民を抑えようとした。そんななかで、陰謀説を主張して国民の真情をひきつけたのがマオイストだった。
 王室ネパール軍がマオイスト掃討をはじめた結果、二つの勢力の全面対決が決定的となった。その結果、犠牲者が急増し、2006年はじめまでに1万3000人をこえる死者を出し、何十万人にも及ぶ人が村に住めず、国内難民となり、またインドへ脱出していった。
 マオイスト武装勢力のメンバーでは、女性が3割を占め、最低位カーストのダリットやマガル族などの割合が高い。マオイストは、国のため、あるいは党のための犠牲を最上のこととして教えられる。そのため、しっかりした思想があれば、死ぬのも怖くはない、と考えている。
 ネパールの山岳地帯に住む人々の多くは、モンゴル系民族だ。そのひとつマガル族は、全人口の7%を占める。民族の問題はマオイストが自分の体内にかかえる爆弾でもある。マオイストの党首プラチャンダもトップ・イデオローグのバッタライも、インド・アーリア系の最高位カーストであるバフンの出身。党幹部の構成をみると、今も高位カーストのバフンやチエトリの男性が大半を占めている。その点では、他の政党と変わりがない。
 ネパールの王室は陰謀を包みこんだ風呂敷。ネパールが統一されてから、1846年にラナ家による独裁政治が始まるまで、首相として国王に仕えた人物で自然死した人は一人もいない。
 1962年に始まったパンチャーヤト制度では、王室がコミュニストの増殖を促した。それは何としてもネパール会議派をつぶしたい王室の意図が背後にあった。
 日本はネパールの主要な援助国になっています。そのネパールの実情の一端を知ることのできる貴重な本だと思いました。
 著者は今年50歳になる東大農学部出身のジャーナリストです。日本女性はネパールでもがんばっているのですね。

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