弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2023年8月15日

少女たちの戦争


(霧山昴)
著者 瀬戸内 寂聴 ほか27人 、 出版 中央公論新社

 瀬戸内寂聴は1940年(皇紀2600年祭の年)に女学校を卒業し、東京女子大に入学した。本人に言わせると、文学サークルもなく、退屈した。恋愛の相手もなく、およそ色気に乏しい青春だった。軍国色一色の青春だった。
 太宰治の『女生徒』を読み、こんなのが小説なら、私にも書ける、小説家になろうかなどと思ったりしたが、一作も書かなかった。
さすがに、たいした自信ですね。
ドイツでユダヤ人が排撃されたおかげで、ユダヤ人の音楽家が数多く日本に渡ってきた。そのおかげで、日本の音楽界は発展した。
 女子専門学校で若い英文科の教員が教室で生徒にこう言った。
 「皆さんは、じきに死ぬかもしれませんね。爆弾が落ちてくれば、そうなりそうですよね」
 「いつ死んでもいいように勉強するという気持でいてください。勉強しておくといっても、あまり時間がないかもしれません。なので、一つずつの詩とか、ほんのわずかなことで、少しでも豊かな心を養うようにしてください」
 「でも、授業中に眠ければ、眠ってもいいのですよ。そして、目が覚めたら、また聴いてください」
 なんと心の優しい教師でしょうか...。これって現代日本の教員のセリフではないのです。戦争中の話ですよ。すごいことだと思います。
 石牟礼道子は、代用教員になって、教室にのぞんだ。父親が戦死する子どもたちが、どんどん増えていく。必ず子どもたちの目つきが変わり、荒(すさ)んでくる。子どもたちの弁当などありはしない。服も靴も、学校に配給が来るのだが、90人ほどのクラスで、3ヶ月に1足来るくらいの割合だ。子どもたちは、やがて裸足(はだし)で学校に来て、暴れるようになった。
 いやはや、とんだ敗戦前の状況です。「戦争前夜」とも言われる現代日本の状況ですから、戦争にだけは絶対にならないよう、反戦、平和の声を市民に強く強く訴えかけていく必要があると、改めて思ったことでした。
(2021年11月刊。1300円+税)

2023年8月13日

軍人像と戦争


(霧山昴)
著者 安島 太佳由 、 出版 安島写真事務所

 愛知県知多半島の南端にある中之院に、人知れず、ひっそりと佇(たたず)む軍人像の群れがある。軍人像は全部で92体。台座つきの全身像のものが22体、台座のない胸像70体。一体一体は、とても精巧に造られていて、体格や表情まで兵士一人ひとりの生き写しであるかのよう。
 たしかに写真で見る軍人像は青年らしい若々しさまで感じられ、今にも歩き出しそう、いえ、少なくとも、何か言わずにはおれないという内に秘めたものを強く感じさせます。
 長い年月、野ざらし状態にあった、これらの像は、風化が激しく、苔(こけ)むしてもいます。これほど大量の軍人像を、いったい、誰が、何のためにつくったのか...。
 1937(昭和12)年8月、日本軍は上海上陸作戦を強行した。対する中国軍を軟弱とみて、敵前上陸を敢行したのだ。これには、満州建国の実態を探るために派遣された国際連盟のリットン調査団の動向から国際世論のホコ先をそらす目的があったと解されています。
 しかし、日本軍が敵とした中国軍は蒋介石の誇る精鋭部隊であり、ドイツ軍将校たちによって督励・強化されていた。日本軍は敵である中国軍の実力をあまりに過小評価していた。
  ドイツ軍の支援を受けた中国軍は、強力なトーチカを構築し、要塞化した強固な防御陣地を築いて日本軍を待ち構えていた。名古屋第3師団歩兵第6連隊の兵士たちは上陸作戦を始めて、半月足らずで全滅してしまった。
 中国軍の戦力を軽く見ていた日本軍の戦法は、銃剣突撃、そして手榴弾のみの肉戦戦。中国軍の陣地にたどり着く前に、中国軍の機関銃攻撃によって、1万人もの将兵が無惨にも死んでいった。
遺族たちが、「戦没者一時金」をもとにして、亡くなった兵士の写真をもとにして像をつくらせ、像を建立したのです。
当初は名古屋市千種区月ヶ丘の大日時境内にあった軍人像は、日本敗戦後も、アメリカ軍の取り壊し命令に抗した僧侶のおかげで守られて残り、平成7年に現在地へ移設された。
青年兵士たちの顔は、あくまで凛凛(りり)しいのです。思わず手をあわせたくなります。若くて無為に死んでいった無念さを今の私たちに必死で訴えているとしか思えません。
靖国神社へ行ったとき、亡くなった兵士たちの無念さを私は感じることができませんでした。そこではお国のためによくぞ命を投げ出して戦ったと忠勇を最大限に鼓舞するような感じで、いささか違和感がありました。
 無念の思いで死んでいったであろう若き兵士たちを偲びながらも、戦争とは、なんと理不尽なものなのか、その無念さがひしひしと伝わってくる見事な写真集です。あなたもどうぞ手にとってご覧ください。全国の図書館に常備してほしい写真集です。
(2023年7月刊。1200円)

2023年8月 9日

硫黄島に眠る戦没者


(霧山昴)
著者 栗原 俊雄 、 出版 岩波書店

 クリント・イーストウッドの映画二部作で改めてスポットライトがあたった硫黄島の戦いで、日本軍兵士2万1千人のうち、2万人が亡くなり、生き残ったのは1千人あまり。そして、今なお1万人もの遺骨が回収されないまま硫黄島に眠っている。国は、本格的な回収事業をしてこなかったし、今もしようとしていない。
驚くべきことに、遺骨回収作業を細々としているのは遺族であり、ボランティアの人々であって、国の事業ではないというのです。そして、回収された遺骨のDNA鑑定にも、国はまったく乗り気ではありません。
 「戦争国家」アメリカは、そこが決定的に違います。アメリカは朝鮮戦争で亡くなった兵士の遺骨の回収のためには、「冷戦」状態の北朝鮮であっても粘り強く回収作業をすすめてきました。この点は、アメリカのすごいところだと認めなければいけません。
 硫黄島の戦闘が始まったのは1945年2月、そして1ヶ月あまりの日本軍の死闘も、ついに3月には終結した。まったく補給がなく、水もないなかで、地下にたてこもって戦った日本軍将兵の苦しみは想像を絶するものがあります。二部作の映画をみましたので、その苦闘をいくらか想像できますが、もちろん、ごくごく断片的なものでしかありません。
 この本には、柳川市昭代の近藤龍雄という硫黄島で亡くなった兵士の家族(遺族)が登場します。私の知人の甲斐悟さん(元大川市議)も父親を硫黄島で亡くしています。
 近藤さんは、1944年6月に久留米で編成された陸軍混成第二旅団中迫撃砲第二大隊に所属し、7月10日に横浜港を出港して7月14日に硫黄島に到着しています。
 硫黄島は戦後、アメリカ軍が戦術核基地として核兵器を常備していた。ソ連が日本に侵攻したとき、この戦術核をアメリカ軍は使用するつもりだった。原潜に核ミサイルが搭載できるようになったので、1966年までに硫黄島の戦術核は撤去された。現在、硫黄島には自衛隊の基地がある。
日本の右翼的な人々は靖国神社については熱心ですが、1万人もの遺体(遺骨)が硫黄島に今なお眠っていて、日本政府がまったく遺体の回収に熱心でないことを何ら問題としていないようですが、不思議でなりません。神社に祭るより前に、可能なかぎり遺骨を回収することは当然だと私も思います。地下の坑道に今なおたくさんの遺骨が放置されているというのを、あなたは当然だと思いますか...。「戦前」が近づいていると言われている今、1万体もの遺骨が硫黄島に放置されているのを許していいとはまったく思えません。
(2023年3月刊。2200円+税)

2023年7月21日

八路軍(パーロ)とともに


(霧山昴)
著者 永尾 広久 、 出版 花伝社

 叔父の久は大川市(当時は三又村)で百姓をしていたが、1944年8月、25歳のとき召集された。丙種合格だったので安心していたのに、日本軍の敗色が濃くなるなかで丙種まで徴兵された。出征兵士だからといって、旗を立てて万歳三唱で送り出す状況ではなかった。結婚が決まっていた女性と慌てて結婚式をあげ、翌朝には出征した。
 船で釜山に渡るときも夜中に恐る恐るだった。アメリカの潜水艦に狙われたら魚雷一発で、あの世行き。久は、関東軍の一員となり、満州で工兵として山中の地下陣地構築にあたらされた。だから戦闘行為はしていない。
 1945年8月9日、ソ連軍が満州に突如として大挙して進攻してきた。満州中央部にいた久たちの部隊は戦わずしてソ連軍から武装解除され、兵舎にとどめ置かれ、ソ連軍が満州内にある工場の機械や設備などを一切合財、ソ連へ運び出す作業に使われた。幸い、久はシベリア送りにはならなかった。
 久のいた満州中央部には満州各地の開拓団にいた日本人婦女子が命からがら逃げて集まってきた。次々に弱者は死んでいった。そのなかで多くの残留孤児が生まれた。
 モグラ兵舎に閉じ込められ、明日の希望のない生活を強いられていた久たちの前に中国共産党の軍隊である八路軍(パーロと呼ばれ、恐れられていた)があらわれ、6人の工兵の出頭を求めた。久はそれに応じた。
 それから、久たちは八路軍とともに満州各地を転々流浪することになった。というのも、八路軍と蔣介石の国民党軍との戦争(国共内戦)が激しくなったからだ。貧弱な武器しか持たない八路軍に対して、アメリカ仕込みの近代的装備をもつ国民党軍は一見すると優勢だった。しかし、八路軍は、土地改革をし、「三大規律、八項注意」を厳守する規律正しい人民の軍隊なので、民衆から圧倒的に支持され、腐敗・墜落した国民党軍は次第に敗色濃くなっていった。
 ようやく国共内戦が決着すると、久は紡績工場で技師として働くようになった。そのなかで、同僚となった日本人女性と交際をはじめて、結婚し、日本敗戦後の1953年6月、ついに日本に帰国することができた。日本に戻った久は百姓を再開し、大川でイチゴ栽培の先駆者となって大川市誌にも紹介されている。そして、2016年12月、98歳で亡くなった。
 気がついたことを3つだけ紹介したい。
 その一は、シベリアに57万人もの元日本兵が送られて強制労働させられたのは、北海道の半分を占領することをスターリンが求めたのをトルーマンが拒否したから急に決まったことという説がある。しかし、ソ連はその前に元ドイツ兵300万人を強制労働させているので、スターリンが急に思いついたこととは考えられないということ。
 その二は、毛沢東は実は日本軍と手を組んでいて、日本軍は蒋介石の軍隊を攻撃させていたという説をもっともらしく言いたてる本がある。これは蒋介石がデマ宣伝したのを、現代日本の陰謀論者がデマを拡散しているだけのこと。
 その三は、日本敗戦後、アメリカは婦女子より元日本兵を優先して日本へ帰国させた。元日本兵が中国に大量に居すわって、中国軍と手を組むのを恐れたということ。日本人婦女子の送還はアメリカにとって優先課題ではなかった。
久が80歳になってから書き始めた手記をもとにして、当時の満州で日本軍が何をしていたのか、その悪業の数々も明らかにし、国共内戦のなかの八路軍(パーロ)の様子なども紹介している。
 再び戦争前夜とまで言われるようになった現代日本において、「国策」に黙って乗せられたらどんな目に国民はあうのか、まざまざと再現している貴重な記録となっている。ぜひ、多くの若い人に読んでほしい。
(2023年7月刊。1650円)

 

2023年4月27日

満蒙開拓団


(霧山昴)
著者 加藤 聖文 、 出版 岩波現代文庫

 満州開拓の動機が純粋であっても、その結末はあまりにも悲劇的だった。動機と結果のあまりにもひどい落差が満蒙開拓団の評価を難しくし、政策に関与した者たちの口を重くしている。
 でも、私には、「動機が純粋」と言えるのか、きわめて疑問です。満州に渡った日本人の大半は、いわば錯誤(錯覚)の状態だったと思います。誰の所有でもない未懇で未開発の原野を耕地に変えて、そこに移住するという動機をもっていたとしても、それは客観的な事実に反していました。「誰の所有でもない」のではなく、大土地所有者がいて、耕作者がいて、あいだに管理人もいたのです。未懇の原野もたしかにありましたが、開拓団の多くはすでに畑となっていたところに入植したのです。もちろん、前の耕作者を追い出し、今度は、労働力(苦力。クーリー)として雇傭したのでした。そして、耕作地(畑)は、安く買い叩いて、関東軍の武力を背景に追い出したのです。
 そのうえ、多くの開拓団は現地の中国人に対して優越感をもち、徹底して差別扱いしたのです。恨みを買うのも当然でした。それが日本敗戦後に、開拓団への襲撃として現実化し、多くの団員(主として女性、子ども、そして年寄り)が犠牲になったのです。
 中国人が今も忘れることのない9.18を現代日本人はすっかり忘れ去っています。1931(昭和6)年9月18日に、日本(関東軍)が満州事変を起こし、またたく間に満州領域を占領したのでした。翌1932年3月1日に、満州国という自他ともに認めるカイライ国家を「建国」しました。
 満州事変の前の日本は、世界恐慌の影響を受けて、不況のドン底にあった。なので庶民は明るいニュースを求めていた。満州事変のあと、大きな被害もなく、またたく間に日本が満州領域を占領するというめざましい戦果をあげたことは、庶民を熱狂させるものだった。
 1933年4月、関東軍は「日本人移民実施要網案」を正式に決定した。
 同年7月、試験移民団が満州に入ったが、500人の団員のうち退団者がたちまち1割以上の60人にものぼった。それは、満州の厳しい気候に耐えられず、匪族から襲撃を受けたからだった。
 1934年2月には、現地住民が集団で蜂起した(土竜山事件)。
 1936年の二・二六事件のあと、広田弘毅内閣は8月に七大国策を定めたが、その六番目に、満州移民政筆をかかげた。満州移民は正式に日本の国策となった。
 1945年8月9日、ソ連軍が満州に進攻してきた。対する関東軍は、その精鋭が南方へ転出していて、まさに「張り子の虎」状態。圧倒的な火力をもつソ連軍の攻勢そして現地民の襲撃も加わって被害甚大の結果をもたらした。開拓団27万人のうち、7万人以上が亡くなった。そして、大量の残留婦人と残留孤児が発生した。
 国策に盲目的に従うと、ろくな目にあわないという典型が示されています。現代日本にも生きる教訓だと思いました。
(2023年2月刊。1500円+税)

2023年4月20日

日の丸は紅い泪に


(霧山昴)
著者 越 定男 、 出版 教育資料出版会

 戦前の満州(中国の東北部)にあった七三一部隊で技術員(石井部隊長の専属運転手など)として働いていた人の体験・告白記です。本当におぞましい内容です。
著者の話を聞いた女子高校生が言い放ちました。
 「あなた方は、そんなひどいことをして...。中国へ行って謝ってください」
 いやあ、ズバリ正論ですね。女子高校生の言うとおりです。でも、何回謝っても、すむものではないことも真実です。ところが、いまや、七三一部隊の蛮行が日本社会で忘れられつつあるというのが、悲しい現実です。
 七三一部隊で犠牲になった人は3千人と言われています。どこの誰が犠牲になったのか、すべて資料が焼却されていてもはや判明しません。「マルタ」と呼ばれ、番号で管理され、医学文献上は「猿」と表現されました。
 施設に入ると、足錠をつけられ、リベット(ピン)の頭が丸くつぶされ、絶対に外されないようにされました。施設からの逃亡は絶対に不可能でしたが、野外の実験場から集団で逃走しようとした事件は起きたようです。そのときは自動車で全員(40人)がひき殺されました。
 細菌を扱うので、七三一部隊の隊員が感染して死ぬこともあったようです。著者は年に20人ほど隊員が死んだといいます。著者の子ども(幼児)も感染死しました。隊員は死んだら解剖されます。入所時に一札書かされているのです。
 七三一部隊には皇族が何人も視察に来ていますし、関東軍の要職にあった東條英機も何回か訪問したようです。また、ハルビンの日本領事館の地下に「マルタ」を収容する施設もありました。
つまり、七三一部隊は関東軍の暴走によるものではなく、日本の政府、軍の直轄事業だったのです。
 ところが、日本攻戦後、石井部隊長たちはアメリカと取引し、実験材料を高く買い上げてもらったうえ、身分保障され、戦犯となることもなく、戦後日本の医学界・医療業界で重きをなし、君臨していたのです。ひどい、ひどすぎます。
 1983年に出版された本をネットで購入しました。
(1983年9月刊。1200円+税)

2023年3月16日

甘粕大尉


(霧山昴)
著者 角田 房子 、 出版 ちくま文庫

 関東大震災のドサクサに無政府主義者(大杉栄)とその愛人、そして幼い子ども三人を虐殺した憲兵大尉が、有罪になったとはいうものの形ばかりの服役をして、パリに渡ったあと、まもなく帰国し、満州で我が物顔にのさぼった。それが甘粕正彦。その一生をたどった文庫本です。
 大震災がおきたのは、大正12(1923)年9月1日の昼前。朝鮮人が暴動を起こしたとのデマが治安当局も加担して広がっていった。
 9月4日、亀戸警察では南葛労組の川合義虎など9人が日本軍の将校に虐殺された。
 甘粕ら憲兵が大杉栄を虐殺したのは9月16日のこと。伊藤野枝、そしてその甥の宗一も殺された。
 甘粕は軍法会議にかけられた。軍隊の中だけでなく、一般大衆にも甘粕支持者は多く、減軽嘆願書は65万人の署名が集まった(法廷に提出されたのは5万)。
 判決はもちろん有罪で懲役10年。ところが、2年もしないうちに出所し、フランスに渡る。
 甘粕が本当に大杉栄たちを殺したのか、今なお真相は明らかにされていませんが、軍当局の全体の意向として大杉栄のような無政府主義者を「邪魔者は消せ」とばかりに虐殺したこと、甘粕がその一味であったことは間違いありません。そうでなければ、甘粕のフランス行き(滞在費用も)を軍部が負担するはずはありません。
 そして、1年5ヶ月ほどフランスにいたあと甘粕は日本に戻り、今度は満州に渡るのです。
 満州では、ハルビンにおいて関東軍による爆弾事件の中心人物に甘粕はなった。
 そして、すぐあとに満州国皇帝になった溥儀が満州に連れてこられたとき、派遣されて出迎えたのも甘粕だった。
 甘粕は満州国が建国されると民政部刑務司長となった。日本の内務省警得局長にあたる高官だ。その後、1937年、甘粕は協和会総務部長に就任した。
 甘粕は陸軍士官学校時代、教練班長の東條英機から教育された。そして、甘粕は東條の「一番のお気に入り」だった。満州時代の東條に対して甘粕は機密費など多額の政治資金を渡していた。
 1939年11月1日、甘粕(48歳)は満映理事長に就任した。酒席の甘粕は、しばしばハメをはずして荒れた。しかし、本業の映画製作には力を入れた。
 日本敗戦の1945年8月20日、甘粕はもっていた青酸カリを飲んで、予告どおり自殺した。3通の遺書のほか、「大ばくち、もとも子もなく、すってんてん」と理事長の黒板に書いていた。
 昭和史の黒い謎の一つですよね。
(2011年10月刊。税込1045円)

2023年3月 3日

満州、少国民の戦記


(霧山昴)
著者 藤原 作弥 、 出版 新潮社

 著者の父親は満州国陸軍興安軍官学校で国語(日本語)の教授をつとめていた。
 興安街は前に王爺廟といい、今はウランホトという。コルチン高原をふくむホロンバイル大草原に位置するモンゴル人の多い街。
 この軍官学校は蒙古人の陸軍幹部候補生の養成を目的とする士官学校。
 オンドルの燃料は牛糞(アラガル)とアンズ(杏)の根。
 遊牧の蒙古人は魚をとらないし、食べもしない。なので蒙古の魚は人間の怖さを知らないので、よく釣れる。もちろん中国人(漢人)は魚を釣って食べる。
 蒙古人は、骨相も容貌も、皮膚や髪の色も日本人によく似ているので、人種上の親近感がある。
 満州の1月1日は、日本人はおせち料理を食べるが、中国人は旧暦で正月を祝うので、街がにぎあうのは、2月になってから。
 蒙古人は羊を守るために犬を飼っている。夜の間、パオの周囲で寝る羊を守るため、3匹の犬が起きて周囲を徘徊する。それで、昼間は犬たちはパオの中で寝ることが許されている。
 著者の通った興安街在満国民学校の270人の生徒のうち200人の生徒が避難するため白城子へ徒歩行軍している途上の葛根廟(かっこんびょう)付近でソ連軍戦車隊に虐殺された。8月14日のこと。生きのびて日本に帰国できた生徒はわずか十数人。このほか、蒙古人に育てられた残留孤児が数人いる。
 8月9日にソ連軍が侵攻してきたとき、関東軍は一足先に南方へ撤退していた。
 新京に到着すると、関東軍司令部庁舎はもぬけの殻だった。軍関係の役所もすべて退避していて、ガラ空き。
 避難民150人を引率する渡辺中佐は、こう言った。
 「関東軍があてにならないことが分かったからには、独自の判断で行動するしかありません。一致団結すれば、この難民は切り抜けられます」
 見事な呼びかけですね。150人の家族集団をまとめ、満鉄と交渉して2輌連結の列車に乗り込むことができたのでした。
 「日本人の子ども買います」という貼り紙が電柱にあった。相場は300円から500円だった。日本人の子どもは、頭が良くて、大きくなってからも良く働き、親孝行するので、一族の家運が栄えるという迷信が現地の中国人にあった。
 そして、なんとか8月13日、日本に近い安車にたどり着いたのです。3泊4日の避難行、1人のケガ人も落伍者もなく、150人が全員無事だった。奇跡的なことです。よほど引率していたリーダーが良かったのですね...。
 安東は、今の丹東。8月9日のソ連軍の進攻も、まだここには来ていませんでした。
 ところが、もちろん、8月15日を過ぎると、安東市内の建物には青天白の旗がへんぽんとひるがえっているのです。
 著者たち一家も街頭でタバコ売りをしたりして、食いつないでいく生活を始めます。
 マッチは生活必需品のなかでは一番効果で、小箱1個が5円した。米1斤、味噌1斤に相当する。
 中国人の窃盗団には少年が多く、ショートル(小盗児)と呼ばれていた。
 安東の関東軍第79旅団の部隊は9月に入っても、まだ武装解除されていなかった。
 安東市内には、地元民3万人、難民4万人、計7万人の日本人が生活していた。しかし、治安維持委員会がよく機能したおかげで、他の大都市に起きた大暴動は発生しなかった。
 それでも9月10日、ついにソ連軍が安東市内に進駐してきた。日本人会は、ソ連兵接待用のキャバレーをつくって、兵士たちの欲望を吸収した。おかげで、婦女暴行事件は著しく少なかった。このキャバレーを差配していた日本人女性(お町さん)は、あとで、国民党スパイとして八路軍によって処刑された。
 著者は、八路軍による国民党軍の兵士を銃殺する光景を目撃したとのこと。ここでは、日本人も八路軍から何十人も銃殺されたようです。
 それは、日本人元兵士たちが暴動を企画し、実行しようとしていたからでもあります。
 敗戦当時8歳の少年の目から見た満洲の状況が活写されている本です。
(1984年8月刊。税込1200円)

2023年2月24日

満蒙開拓、夢はるかなり(上)


(霧山昴)
著者 牧 久 、 出版 ウエッジ

 茨城県水戸市に「日本農業実践学園」があるそうです。全寮制で、学生数は全体で100人ほど。戦前の満州に満蒙開拓青少年義勇軍を送り出すのに大きく貢献した加藤完治の孫が学園長(六代目)をつとめている。
 戦前、加藤完治は「満州開拓の父」と崇(あが)められていたのが、戦後になると一転して、「中国侵略のお先棒を担(かつ)ぎ、侵略の先兵を育てて満州に送り込んだ」と厳しく糾弾された。しかし、本当に侵略軍だったのかと、反論したいようです。
 でも、青少年義勇軍の実態についてのレポートを読むと、そこに参加した青少年たちが、いろんな意味で虐待されたこと、内部ではリンチがひどく、外部に向かっては乱暴・狼藉がひどく、あげくの果てにソ連軍進攻のなかで多くの犠牲者を出しているという現実から目をそらすわけにはいきません。「侵略の先兵」となった青少年は哀れな犠牲者でもあったというのは事実でしょう。すると、それをあおって推進した加藤完治の責任はきわめて重要であることは明らかでしょう。決して美化できるはずはありません。
 この本を読んで、昭和14(1939)年6月7日、明治神宮外苑競技場で2万人を集めて満蒙開拓青少年義勇軍の壮行会が盛大に開かれたことを知りました。主催したのは、なんと朝日新聞社です。朝日新聞社は戦前、戦争賛美のキャンペーンを張っていました(他の新聞もみな同じですが...)。この点も朝日新聞社は戦後、反省しているのでしょうか...。これは、学徒出陣式よりも前のことです。
 満蒙開拓青少年義勇軍を加藤完治とともに強力に推進していた東宮(とうみや)鉄男(かねお)は、張作霖爆殺事件の実行犯のリーダーでもあった。そして、1937年11月に第二次上海事変後の杭州上陸作戦のなかで戦死した(中佐から死後、大佐に昇進)。
 この本は、青少年義勇軍に参加した青少年たちが、貧農出身なので、大きな夢と希望を抱いて満州に渡ったことから、「彼らの思いや志まで、すべて一括(くく)りにして日本帝国主義の侵略行為として非難できるのだろうか」と問いかけています。
 そこには、明らかに論理のすりかえがあります。貧しい青少年の「思いや志」をうまく利用して過酷きわまりない農場へ送り込み、何らフォローすることもなく、ソ連軍進攻の矢面(やおもて)に立たせてしまった軍部や当局を免罪することが許されるはずはありません。
 満蒙開拓移民がもてはやされたのは、1930(昭和5)年ころ、日本には失業者が150万人もいて、悲惨な状況にあったからです。
 日本全国の都市や農場に失業者があふれ、その日の食事にも事欠く国民の不安や不満が頂点に達しようとしている中で、満州事変は勃発した。多くの国民が、そんな状況で、戦争を待ち望んでいた。
 満州国が建国された1932(昭和7)年は、日本経済が悪化の一途をたどり、貧困問題が拡大し、地方や農村の荒廃はひどく、出口の見えないくらい雰囲気が社会全体を覆っていた。
 下巻では、加藤完治らの責任が明らかにされることを願います。
(2015年7月刊。税込1760円)

2023年2月17日

満州難民、祖国はありや


(霧山昴)
著者 坂本 龍彦 、 出版 岩波書店

 いま、中国脅威論がしきりに叫び立てられています。それに備えて、石垣島などの諸島に自衛隊が大増強され、莫大な軍事費が投下されつつあります。
 しかし、少し頭を冷やして考えてみてください。石垣島そして沖縄に住んでいる人々は、中国軍と自衛隊が戦闘状態になったとき、どうしたらよいのでしょうか。全員が逃げられるはずは、それこそ絶対にありえません。民間人を乗せた飛行機は飛ぶはずがなく、船だって海上をいくら速く走っていてもミサイル攻撃されたら撃沈してしまいます。いえいえ、飛行機にも船にも、ほとんどの住民は乗れるはずがないのです。ミサイル避難訓練のとき、机の下に潜っている光景がありました。戦前の消火バケツリレーと同じで、気休めにもなりません。戦場になったら、ほとんど全員が座して死を待つしかないのです。ミサイルは一本だけ飛んで来るなんてことはありません。戦争になるのです。
 政治は、私たちが支払う税金は、そうならないために使われるべきです。戦争が始まってからでは遅いのです。シェルターを買おう、売りつけようという人たちがいます。どこに地下室をつくるのですか...。水や食料はどうするのですか...。日本の自給率はとっくに半分以下です。海上封鎖されたら、日本人は食べるものがなくなり、飢餓が待っているだけです。タワーマンションの人々はどうなりますか...。電気も水もあるのがあたりまえ。でも、日本のどこかで戦争が始まったとき、すぐに電気も水も止まってしまうでしょう。タワーマンションで生活しながら自民・公明政権を支持し、維新を支持して軍備拡張策に賛成するということは、明日の生活と生命の保障を喪うことを意味しているということに一刻も早く気がついてほしいと私は切に願います。
 その典型的な見本が、戦前の満州に開拓団として移住した日本人のたどった運命です。満州の開拓団に渡った日本人は三度も日本(国)に捨てられた。一度目は、ソ連軍が8月9日に進攻してきたとき、関東軍は張り子の虎になっていて守ってくれないどころか、真っ先に逃げ出していた。二度目は、引き揚げのとき、対策は不十分だったし、中断したりして捨てられた。多くの日本人が帰国できずに残留孤児となった。三度目は、なんとか日本に帰国しても、生活の保障がなく総合的な対策も援護措置もなく見捨てらえた。
 開拓団の応募者が減って確保できなくなると、世間知らずの純真な青少年をおだてあげて満蒙開拓青少年義勇軍という勇ましい名前をつけてソ連との国境地帯に送り込みました。あまりに過酷な生活環境のなかで、軍隊式の上命下服そして指導者の無能と腐敗のもとで、虫ケラ同然に扱われ、それに反発した青少年の反抗、抗争そして暴走が頻発したのでした。見るに耐えない惨状です。あげくに一部は徴兵され、また、残りはソ連軍の進攻下での辛い逃亡生活を余儀なくされたのです。悲惨すぎます。
 軍隊は「国」を守るものであって、国民を守るものではない。しかし、ほとんどの国民は最後の最後までそのことに無知のまま幻想を抱いている。終戦時に起きた満州難民は決して昔の話ではなく、下手すると、今、これから起きることなのです。クワバラ、クワバラ...です。
(1995年74月刊。税込1000円)

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